ないしょ ないしょ :池波正太郎

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この作品は1988年に発表されたもののようだ。
越後で、はやく両親を亡くし、新発田の剣客の道場の下女として働きはじめたお福という
少女が主人公だ。しかし、お福は、主人の神谷弥十郎から何度も凌辱されてしまう。お福
は、そんな主人の神谷弥十郎を恨んだ。
しかし、同じ道場で働いている下男の五平は、「旦那は、ああ見えても、ほんとうは心の
温かいお人だ」という。「男というものは、いくつになっても、ひょんなことから、気が
狂うこともある」というのだ。
ある日、その神谷弥十郎が暗殺されてしまう。主人を失ったお福と五平は、江戸に出る。
お福は、江戸では、心優しい老人たちにめぐりあい、支えられて、幸せな生活を送りはじ
めた。
その一方、あれほど憎んでいた元主人の神谷弥十郎が夢に出てきて、夢の中でお福を犯す
のだが、しだいに、お福の心と躰は、それを期待するように変わっていく。そして最後に
は、神谷弥十郎の敵討ちをしたいと思うようになっていくのだ。
それにしても、どうして下男の五平は、「旦那は、ああ見えても、ほんとうは心の温かい
お人だ」と思っただろうか。単に、お金を遺してくれただけではないと思うのだが、私に
は最後までわからなかった。
ところで、この作品に出てくる老人たちはみな、ほんとにいい人ばかりだ。そんな心優し
い老人たちも若いころは、やばいこともやってきたようであるが、年寄りになって、もう
気張る必要がなくなり、心を入れ替えたということなのだろう。自分も、この作品で登場
するような心優しい年寄りになりたいものだと思った。
この作者には基本的な認識として、「人は死ぬために生きる」ということと「人は悪いこ
とをしながら善いこともする」という二つがあるといわれている。
人間は生きている限り、飯を食い、眠り、異性と交わることを繰り返すが、「死ぬために
生きる」という認識を持つことによって、その人の生は充実し、物の見方が深くなり、他
者に対して温かい気づかいができるようになるのだという。そのことを、理屈やお説教と
してではなく、作品の中で、登場人物のさまざまな生き様を通して具体的に教えてくれる
のだ。
現代社会は、物質的な繁栄の極みにあって、従来の価値観がみごとに崩壊し、社会は混迷
の度を深めている。そんな社会に生きて、拠り所を失ったひとたちが、もっとも欲しいの
は、心の平安だろう。この作品を読むと、ほのぼのとした気持ちになり、「世の中、まん
ざら捨てたものでもないな」という気持ちにさせてもらえる。



・その年の夏は、日照りつづきの厚さがつづきにつづいていた。越後(新潟県)新発田
 城下町では、「こんなに暑い夏は、わしが生まれて、はじめてのことだ。夏が、こんな
 に暑いときは、きっと天変地異が起こるものだ」と古老たちが、声をひそめてささやき
 合っていたのを、お福は覚えている。
・天変地異は起こらなかったけれども、お福の身に、突然、おもいもかけなかった人為の
 異変が襲ったのは、この夏のある夜のことであった。気がついたときには、台所に接し
 た自分の寝部屋へ引きずり込まれ、手足の自由を奪われていた。
・男の・・・いや、主人の神谷弥十郎は六尺ゆたかの大男であった。その体は剣術の修行
 で鍛えぬかれている。弥十郎のたくましい躰に押さえ込まれて、十六歳の小娘にすぎな
 かったお福は、抵抗の仕様がなかった。
・十六にしても小柄な、痩せこけたお福の躰から衣類を毟り取って、神谷弥十郎は嬲りつ
 くしたのである。躰をつらぬく激痛と、弥十郎の顔から滴り落ちる汗が気味悪く、男と
 女がするあのことが、このように苦痛をともなうものだとは知らなかった。(こんなこ
 とで、子供が生まれるなんて、ほんとうなのか・・・)とても信じられなかった。
・当時、十六で母親になるのも、めずらしいことではなく、お福も、村の友だちが、両親
 の夜の生態を聞かせてくれたりして、およそのことはわきまえていたが、男というのが、
 あれほどに凄まじい生きものだとは、おもいおよばなかった。
・(このまま、殺されてしまうのではないか・・・)と、感じたが、「ううむ・・・」唸
 り声を発して、神谷弥十郎の躰がはなれたときには、(生きていた、生きていた・・・)
 そのよろこびのほうが、凌辱の苦痛より強かった。
・「畜生、畜生・・・」主人の弥十郎へ、呪いの言葉を吐きつづけながら、お福な何杯も
 水をかぶった。 
・(こんな家、出て行ってしまいたい)と思ったが、行先もない身の上だし、そもそも、
 お福は、金で買われての下女奉公なのだ。嫌でも何でも、これから五年間はここで働か
 ねばならない。
・お福は、新発田城下の南、半里ほどのところにある簔口村の百姓・市蔵の子に生まれた。
 母のなおは、お福が十歳の夏に、労咳(いまの肺結核)を病んで死んだ。以後、父の市
 蔵が独り身で、お福を育てて来たわけだが、そのうち妙な咳が出るようになり、躰がや
 せ細って来た。おそらく、亡妻なおの病気が感染していたものであろう。市蔵は三年も
 病気と闘ってから死んだ。
・市蔵が死ぬと、小さな家も、わずかな田畑も人手にわたってしまった。
・幽鬼のように痩せ衰えた市蔵が、お福の顔をじっと見て、「ああ、かわいそうに・・・
 お福よ。これから先の、お前の苦労が眼に見えるような気がしてならねえ。かわいそう
 に、かわいそうに・・・」両眼に泪をため、呻くがごとくに、そういった声が、いまだ
 に、お福の耳元へこびりついている。それが今年の春であった。
・お福の両親も、不幸な境遇に生まれ育ったらしく、実家は双方とも出羽の国(山形県)
 の羽黒山の麓にあったそうだが、父親が生前、お福に、「いまはもう、みんな散り散り
 になってしまい、その行方すらもわからねえ」というほどだから、どうしようもない。
・お福は、村の人の世話で、神谷弥十郎の許へ奉公に出た。独身の神谷弥十郎は、家事が
 できる女中をもとめていた。弥十郎は去年の秋に、妻を病気で失なっていた。
・神谷弥十郎は、一刀流の剣客である。越後・新発田は、かの赤穂浪士のひとりでもあり、
 高田の馬場の決闘で一躍、有名になった堀部安兵衛の出生地だ。安兵衛が有名になって
 からは武芸がさかんとなり、藩の武芸指南役のほかにも、三人の剣客が道場をかまえて
 いて、神谷弥十郎もそのうちにひとりであった。
・弥十郎は、出羽の鶴岡の出身だという。年齢はこの年、三十五歳になる。
・弥十郎の稽古は激しく、情容赦なく、門人を木太刀で打ち据える。だから、評判はよく
 ない。下男の五平が、いつだったか、お福にこんなことをいった。「うちの旦那は、手
 かげんということを知らねえ。侍がたの様子も変わって来ているというのに、あんな稽
 古をしていたんでは、門人衆が減るばかりだわい」
・その翌々日、夕餉がすむと、下男の五平が弥十郎から命じられて、何処かへ使いに出て
 行った。お福は息をころしながら、台所の後始末をした。「早く・・・早く、五平さん、
 帰って来ておくれよう」そればかりをたのみに、灯りを消した自分の部屋にうずくまり、
 お福はふるえていた。 
・「おい・・・おい」弥十郎の声であった。お福は息をひそめ、こたえなかった。弥十郎
 は、いきなり、外から戸を蹴破った。戸口に立ちはだかった神谷弥十郎は、下帯一つの
 裸体だった。お福の五体は、冷たい汗に濡れていた。弥十郎が近寄って来て、その躰を
 包んでいる寝巻着を毟り取り、お福の薄い乳房をつかんだ。
・野獣のように、弥十郎が襲いかかって来た。お福は、まったく無力であった。防ぐ術を
 知らない。この夜も、前々夜と同じ苦痛があっただけだ。この前のときよりも出血がひ
 どく、お福は弥十郎が去った後で、泣きながら寝部屋にこぼれた血の始末をした。それ
 から、井戸水を何杯も浴びた。
・蒲団へもぐり込み、お福は泣けるだけ泣いた。「これから先の、お前の苦労が眼に見え
 るような気がする」と、死んだ父親がいってから、まだ半年も経たぬうちに、こんな苦
 痛を忍ばなくてはならないのかと思うと、くやし泪がとまらなかった。下女奉公はして
 も、こんなことまでさせられるおぼえはない。
・翌日になって、下男の五平がお福を見る眼つきに、同情とあわれみがただよっていた。
・三、四日ほどは事なく過ぎた。その日の夕餉がすむと、五平が台所へ来て、こういった。
 「お福、これから旦那の使いに行って来る。辛いことは、いつまでも、つづくものでは
 ねえ。いまのところは、辛抱しろ」
・辛抱しろといわれても、これから先、あのようなことがつづいて、もしも、身ごもった
 ら、どうしようと思った。弥十郎が自分にしている行為によって、その危険は充分ある
 ことを、お福はわきまえている。もし、そうなったら、心身の苦痛は層倍のものとなる。
 弥十郎は、いや、男というものは、そんなことを少しも考えずに、あのようなまねをす
 るのだろうか。それとも、弥十郎だけが異常なのであろうか。
・五平が出て行くと、間もなく、神谷弥十郎はがあらわれた。この夜の弥十郎は、狂暴だ
 った。か細い、お福の躰の上で荒れ狂った。弥十郎が立ち去った後、しばらく起き上が
 れないほどで、躰がどうかなってしまったのではないかという不安に、お福は怯えた。
 そうして水を浴びることも忘れ、泣いて泣いて、泣き寝入りに眠ってしまった。
・この夜も更けてから、弥十郎は五平を使いにも出さず、台所へあらわれた。五平に命じ
 る、使いの種もつきたのであろう。この夜のお福は、細い手足を突張り、弥十郎に反抗
 したので、またも、なぐりつけられ、例のごとく凌辱された。
・数日後の夜、またしても、五平を使いに出さぬままで、神谷弥十郎が台所へあらわれた。
 お福は必死に抵抗した。その抵抗したぶんだけ、弥十郎の暴力が増大した。それにして
 も、この夜の弥十郎は、胸にたまった鬱憤を吐き出すようなところがあり、お福の躰に
 あたえる凌辱も、いつになく執拗であった。弥十郎は、唸り声を発し、いつまでも離
 れようとはせぬ。歯を喰いしばり、お福は、台所の窓から見える赤い月をながめた。後
 から後から、くやし泪があふれてくる。弥十郎が躰を叩きつけるたびに、二人の汗が飛
 び散った。
・その翌日の、八ツ(午後二時)ごろに、五平が台所へ来て、「旦那が急に、お出かけな
 さる。晩の仕度はいらないそうだ」と、喉に痰が絡んだような声でいった。
 七ツ(午後四時)ごろに、神谷弥十郎は夏羽織と袴をつけて、道場を出て行った。お福
 が戸口から頸を伸ばして見ると、台所の向うの桐の木葉越しに、五平に送られて出て行
 く神谷弥十郎の姿がちらりと見えた。これが、お福にとっては、生きている弥十郎を見
 た最後であった。五平が、門のところに立って、袁去かって行く弥十郎を、いつまでも
 見送っている。こんなことは、めったにないことだ。


・「おい、お福。起きてくれ。起きてくれ」五平の声がして、お福は揺り起された。台所
 に、五平と、侍屋敷の中間らしい男がいた。
・「大変だ、お福。旦那が、大変なことになった。斬られなすった」
・中間は、「胸の下のところに矢が突き立っていた」と、告げた。「そればかりではねえ。
 背中から肩のあたりを、何カ所も、深く斬られていなさる」
・「お福。しっかり留守をしていろよ」そういって、五平は中間と共に出て行った。あた
 ふたしている様子ではなく、主人の危難をある程度、予期していたかのような五平であ
 った。
・お福は驚愕のあまり、紙のように血の気の引いた顔で、五平と弥十郎の死体を迎えた。
・「お福、釜に湯を沸かせ」五平が、甲高い声で命じた。肩から背中にかけての傷は七カ
 所で、血汐はながれ出つくしてしまったので、五平が丹念に死体を洗い清めるのに、さ
 ほどの時間はかからなかった。
・五平が、泣いている。すすり泣きつつ、弥十郎の死体を洗い、お福が出した灰色の帷子
 を着せた。
・「お福。旦那の、この死に顔をよく見るがいい。旦那は、ああ見えても、ほんとうは心
 の温かいお人だったにちがいない。お前には、ひどい乱暴もしたろうけれど、男という
 ものは、いくつになっても、ひょんなことから、気が狂うこともある」
・この日の夕刻、羽織・袴をつけて道場を出る前に、神谷弥十郎は、着換えを手伝ってい
 た五平にいった。
 「五平。おれはな、これからある場所へ行って、ある男に会わねばならぬ。それで、な。
 もしやすると、二度と再び、ここへ戻れぬやも知れぬ。生きて、戻れぬということよ」
 こういって、弥十郎が微かに笑った。
・神谷弥十郎は、あらかじめ、用意しておいたらしい袱紗包みを出して、
 「五平は、縁類の者が江戸にいると申していたな。お福は、縁類が一人もないらしい」
 「おれに、もしものことがあれば、この家は、奉行所の手によって隈なく探り調べられ
 よう。そうなると、・・・」と、袱紗包みを見せて、「この金も奉行所に取り上げられ
 てしまう。これは亡き女房が、万一のときにと、蓄えておいた金だ。おれが死んだら、
 お前とお福で分けてくれい」
 あとは何もいわず、すぐさま弥十郎は家を出て行ってしまったのである。
・門まで送って出た五平に、「何事があっても、お前は何も知らぬ。よいな、何も知らぬ
 のだぞ」念を入れて、ゆっくりとした足どりで歩み去った。
・「お福、これからどうするつもりだ?」「周円寺の和尚さんが、奉公口を見つけておく
 んなさるって、通夜のとき、そういってた」「それもいいが、お福。江戸へ行ってみる
 気はねえか?」「江戸には、おらの甥っ子がいる。おらの死水を取ってくれると前から
 いってよこしているし、おらも、まだ、もう少しは働けるだろう。どうだ、一緒に江戸
 へ出てみねえか。お前もその年で、ずいぶんと辛い思いをして来たのだから、おおいき
 って、江戸へ出てみれば、運が開けるかも知れねえ」
・お福は、即座にこたえた。「五平さんと一緒なら、江戸へ行く」その声には、一点の迷
 いもなかった。
・五平は台所を出て行き、自分の部屋から袱紗包みを持って来て、「お福。これはな、前
 に旦那が、 おいらとお前とで分けろといって、くだすったものだよ」包みを、開いて
 見せた。一両小判が十五枚あった。
・お福は、眼をまるくした。小判などという金を見たことがなかったからだ。「なあ、お
 福。亡くなった旦那・・・神谷弥十郎というお人は、お前が考えているようなお人とで
 はねえよ」と、五平がいった。
 
江戸の空
・「お福よ。昨日の朝・・・いや、一昨日の夜更けらしいが、尾上町の外れに道場をかま
 えていなさる松永市九郎さまが、夜逃げをしたそうだ」と奉行所から帰ってきた五平が
 いった。
・「そのことと、うちの旦那が殺されたことが、何か関わり合いがあるらしい」という五
 平自身が何も知らないのだから、お福にわかろうはずがない。
・松永市九郎は、神谷弥十郎と前後して、新発田にやって来て、一刀流の道場をかまえた。
 教え方がうまいというので、門人も多かった。年齢も弥十郎より五つ六つは若く、独り
 身であった。総髪を肩のあたりまでたらして、いかにも武芸者といった姿で、颯爽を城
 下を歩む永松市九郎を、お福も一度、見かけたことがあった。
・「よくは知らねえが、うちの旦那と、松永市九郎は、この春に、殿様の御前で、剣術の
 試合をしたらしい。そのとき、うちの旦那は、松永をこっぴどく叩きのめしたというこ
 とだ」と五平はいった。
・神谷弥十郎の、数少ない旧門人も、道場へは姿を見せなかった。「さむらいっていうの
 は、不人情なものだねえ」お福が、そういうと、五平は、「たとえ、線香をあげに来た
 くとも、来られない事情があるにちがいない。御家来衆の間では、むずかしいことが、
 いろいろあるような気がする」と五平はいった。
・お福は、五平と共に、毎日、周円寺に行き、和尚が立ててくれた墓標に、線香をあげ、
 つみ取って来た草花をそなえた。そうしているうちに、神谷弥十郎への憎悪が、しだい
 に消えて行くのを感じている。あの穏やかな弥十郎の死顔は、お福の胸の中に、いよい
 よ鮮明になってきた。同時に、自分を犯している弥十郎の呻き声や、切迫した呼吸が、
 なまなましくよみがえってくるのだった。
・(畜生!)と、憎しみは、弥十郎を殺害したらしい松永市九郎へ向けられた。(弓矢な
 んぞで、旦那を殺すとは、なんて、卑怯なやつなんだろう)
・出発に先立って、お福は、道場の裏の野原へ行った。芒が朝風に揺れている。撫子や桔
 梗も咲いていた。そのほか、お福が名も知らぬ秋草をつみ取り、周円寺の弥十郎の墓へ
 そなえた。 
・お福は、胸の内で墓に語りかけた。(旦那は、こんな土の下に埋められて、もう、おら
 に、乱暴することもできなくなってしまったのだねえ)そのとき突然、わけもなく熱い
 ものが眼からふきこぼれてきた。自分の泪に、お福は、びっくりした。そして、身寄り
 のない剣客・神谷弥十郎を、(旦那は、おらと同じだねえ)そう思った。
「おや・・・お福、泣いていたのか、旦那の墓の前で・・・」「泣いてなんかいないよう、
 五平さん」「人が人のために泣いてやることは、悪いことじゃあねえのだよ」と五平は
 優しい声でいった。
・間もなく、五平とお福は、新発田城下をはなれた。お福は、生家の近くの親しかった友
 だちに、それとなく、別れを告げ、亡き両親の墓にも詣で、五平にあずけておいた金の
 うちから、寺へ寄進をした。
・城下を出外れると、五平は別人のように勢いよく、「若いときにな、十年も江戸にいた
 ことがある」五平の声は、弾んでいた。
・泊りを重ねて、江戸が近くなると、街道(中仙道)の旅人の往来も激しくなった。これ
 が初旅のお福にとって、見るもの聞くものすべてがめずらしく、その両眼は好奇心にか
 がやき、足の運びの速さに、「おい、おい、もっと、ゆっくり歩かねえか」と五平が音
 をあげるほどであった。
・前夜、武蔵の浦和へ泊った二人は翌日の午後も遅くなって、荒川の渡し舟(戸田の渡し
 でわたり、板橋へ入った。お福は先ず、板橋の宿駅の雑沓に度肝を抜かれた。
 土埃をあげて行き交う人馬の数にもおどろいたが、道行く人びとの、物に憑かれたよう
 に忙しくうごきまわるありさまや、宿場の男も女も高声をあげて、しゃべり合う言葉な
 ど、早口で、さっぱりわからぬ。
・旅をしている間、泊り泊りの旅籠で出す夕餉の膳は、お福が口にしたこともない料理が
 並び、それはどんなに安い旅籠のものでも、お福にとっては大変な御馳走であった。
・五平の甥は、江戸の本所というところに住んでいるそうな。五平の姉の子で、五平がま
 だ江戸にいたとき、奉公口を世話したことがあり、以来、ずっと交際が絶えずにいた。
 「おらが甥っ子は、久助といって四十二になる。二人の子持ちだが、二人とも女で、一
 人は、去年、嫁に行ったそうだ」
・「この五平が、お店を失敗り、江戸にもいられなくなったのは、女のことなのだ。遠い
 むかしのことだ」 
・「いいか、お前はお前の道を行き、五平は五平の先行き短い道を行くのだ」
・「五平ばか りか、物事、何につけても人をたよってはいけねえ。この世の中には、た
 よりになるものなんかないとおもえ」 
・「お前の先行きは、長い長い道のりだが、この世の中は、すべてが男のためにできてい
 るようなもので、身寄りのねえ女は、苦労をしなくてはならねえ。覚悟をしておけよ」
・江戸へ入ってからの五平は、別人のように変わってきている。言葉づかいも、新発田に
 いたときとはちがって、何事にもてきぱきと、道を歩む足取りでも変わった。五平は、
 若い時に江戸で暮らしたといったが、これまでに何度も江戸へ来ていて、江戸の水には
 馴染んでいるらしい。
・五平が歩きながら、いろいろと説明をしてくれるのだが、ほとんど、お福の耳へは入ら
 ない。得体の知れぬ活気が、町にも道行く人びとにもあふれていて、お福を圧倒した。
 ただ、江戸の空気よりは新発田の空が、きれいだと思った。
・久助は、本所の二ツ目・緑町にある、乾物問屋「伊勢屋清兵衛」の通い番頭をつとめて
 いて、自宅は、同じ本所の横綱町にある。
・久助の女房おとくは、愛想のよい女で、年齢は三十九歳だという。
・お米というのは、久助夫婦の次女で十七歳になる。お福は家にいたお米と顔を見合わせ、
 どちらともなく、微笑を交わした、この二人は初対面で、早くも気が合ったものとみえ
 る。
・「お福ちゃんのちょうどいい奉公口がありましたよ」「独り者の御隠居なんだがね。隠
 居して息子さんに家をゆずりわたし、小梅の方に住んでいらっしゃる、お侍で、名前を
 三浦平四郎さまとおっしゃいます」
・お福の顔色が、わずかながら変わった。
・独り者の侍の家に、下女として住み込むのであるから、お福の脳裡に、神谷弥十郎のこ
 とが浮んだのは当然であろう。お福は不安になった。五平もそれを察したらしく、
 「その三浦さまというのは、おいくつになっていらっしゃるのだ?」「七十に近いと聞
 いています」
・七十に近い老人が、まさか神谷弥十郎のようなまねはすまい。いや、できまい。
・お福が下女となってはたらく先の、三浦平四郎という老人は、七十俵二人扶持という、
 幕臣のうちでもごく身分の低い御家人だそうな。「年寄りは、邪魔になるばかりだ」と
 いって、息子夫婦にゆずりわたし、自分は、小梅村の小さな農家を買い、手を入れて隠
 居所にした。それからは「閑斎」と号しているそうだ。
・閑斎・三浦平四郎は、六十八歳になる。つい先ごろまで、身のまわりを世話する下女が
 いたのだが、病歿してしまった。そこで、嫁が来た世話をしたり、下男が弁当を届けた
 りしていたのである。
・「新しい奉公口を見つけて、はじめて行くのは嫌なものだ。これは男も女も、同じこと
 だよ」とお福に五平はいった。「おれも、もう六十だ。その年になって、出直さなくて
 はならねえのだもの」
・「病気をしたことはないかえ?」尋ねたときの眼つきの鋭い光に、お福は、(あっ、お
 っかねえ)くびをすくめた。三浦老人の視線は、着物の下の、丸裸の自分を見透かすか
 のように感じられた。
・日が暮れると、石原町から弁当が届いた。眼つきのよくない中年の下男らしい男が、お
 福の部屋にも弁当を届けに来た。お福を見る眼つきは、あきらかに軽蔑の色をふくんで
 いた。
・夜が更けて、押入れの蒲団を出し、身を横たえたが、すぐに眠れるものではない。どの
 くらいの時がたったろう。廊下のどこかで、人の足音がした。その足音は、お福の部屋
 へ近づいて来る。(まさか、あの、お年寄りが・・・)お福は、はね起きた。
・三浦平四郎の寝所に置いてある有明行灯のあかりが、二つの欄間から廊下に淡く洩れて
 いた。だから、廊下は真暗闇ではない。(ちがう。じいさまじゃあない)
・お福の部屋のところまで近づいて来ていた男の影は、三浦老人とは似ても似つかぬもの
 である。大きな男であった。
・「どろぼう!」張りさけんばかりの声で、お福は叫んでいた。顔を布で覆っていた大男
 は、愕然となって飛びあがり、廊下を玄関の方へ向って走り出したが、つまずいて転ん
 だとみえ、大きな物音をたてた。
・「どろぼう、どろぼう!」連呼しながら、お福は夢中で、心張棒を板戸へ叩きつけた。
 そのとき、廊下へ走り出て来た人影が、「お福、そこにいるか?」声をかけてよこした。
 三浦平四郎であった。
・「もう、大丈夫とおもうが・・・こちらへ来て眠るがよい」「わしが、となりにいるゆ
 え、怖くはないぞ」
・いわれるままに、お福は自分の蒲団を長四畳の部屋へ移した。いまになって、お福は恐
 ろしくなり、躰が烈しくふるえている。
・「おれとお前となら、仲よく、やって行けるような気がする。そうおもわないか?」
・仲よくやって行けるというのは、どういうことなのだろう。この老人も、神谷弥十郎の
 ようなまねをするつもりなのだろうか。そうはおもえない。そのつもりなら、いまこの
 とき、お福の蒲団へ入って来るはずだ。細い小柄な老人は、弥十郎ほどの腕力はあるま
 い。すばしこいお福なら、きっと逃げられるし、いまのお福には逃げる場所もあるのだ。
 お福は落ちついてきて、間もなく、ぐっすり寝入ってしまった。
・何か物音がする。(何だろう?)起き上がり、お福は、おそる、おそる、廊下を縁側の
 ほうへ辿って行った。(あれまあ・・・)三浦平四郎が、何かをやっている。
・老人が投げ打っているのは手裏剣であった。三浦平四郎が投げる手裏剣は、一度もねら
 いが狂わず、墨のしるしへ命中した。か細い、この老人の何処に、こうしたちからが潜
 んでいたのであろうか。
・お福は、新発田にいたとき、幼少のころから男の子の友だちが多かった。家事に忙殺さ
 れながらも、男の子にまじって走り、飛びまわり、棒切れを振りまわして遊んだもので
 ある。
・三浦平四郎が「此処へおいで」と、手招きして、前庭へ下りてきたお福に、「どうだ。
 お前もやって見るか?」「はい」お福は眼を輝かせた。こうしたことなら、大好きなお
 福なのである。

二年後
・二年後の夏が来た。お福は、十八になっている。この二年の歳月は、少なからぬ変化を、
 お福にもたらした。あんなにか細かった躰へ肉がついて、いかにも健康そうな娘に見え
 たが、その肉置きは、必要の限度を越えなかった。骨身を惜しまずにはたらく所為であ
 ろう。
・いまも、お福は、三浦平四郎の許で下女をつとめていた。三浦老人は、七十歳になった。
 「お福は、拾いものだった。おれが面倒を見て、よいところへ嫁がせてあろう」三浦老
 人は、久助にそう洩らしたそうな。
・老人の世話は、神谷弥十郎を世話するよりは、骨が折れた。老人の好物をわきまえ、そ
 れを一通り、おぼえるまでに一年もかかった。亡き弥十郎のように、味噌汁と香の物さ
 えあれば文句をいわないと、大分にちがう。老人が好む物は、息子の嫁のさとや、石原
 町の本宅にいる下女が教えてくれたが、ときには、老人自身が庖丁を取って、魚のさば
 き方などを教えてくれたし、お福を共に、行きつけの軍鶏なべ屋「五鉄」へ連れて行っ
 たりする。
・給金もくれるし、ときには着物も買ってくれる。お福は生気にあふれ、見ちがえるばか
 りとなって、五平をおどろかせた。六十二歳になった五平は、我が事のようによろこん
 でくれた。
・五平の様子は変わりはないようだが、六十をすぎての帰り新参で、しかも下男だという
 のだから、いろいろと苦労があるらしい。今年に入ってからの五平には、窶れの色が濃
 くなるばかりであった。「ああ、新発田を出るのじゃあなかったかもしれない。躰がき
 かなくなってしまったので、何処へも行けない」たまりかねたように、お福へいうこと
 もある。
・三浦老人は、おもうままに酒食をしたり、遊びに出かけたりする。将軍さまの家来のう
 ちでも、身分が低い侍だと聞いていたが、老人の生活を見ていると、かなり裕福であっ
 た。そのくせ、本宅のほうは倹しく暮らしているらしく、息子の平太郎が、ときどき金
 を借りに来た。
・三浦平太郎は四十四歳で、二十歳になる息子・彦蔵がひとりいて、彦蔵の妻・お千代は、
 でっぷり肥えた女で、町育ちだけに、お福にも親切である。
・それにしても、三浦平四郎の暮らしには、余裕がある。どこから金が入ってくるのか知
 らないが、近辺の人びとにも惜しみなく金品を与えるし、何か食べに行ったりすると、
 心づけの金を惜しまない。
・この年の夏も過ぎようとする或る日のことであったが、お福はおもいもかけぬ、めずら
 しい人の顔を見た。場所は両国橋の上だ。お福が、橋の中ほどまで来たとき、「ちょい
 と、お福さあん」声が、かかった。見ると、久助の娘のお米が歩いて来て、立ちどまっ
 た。二人の娘は、橋の両側から中央へ駆け寄った・・・そのときである。一人の侍が、
 ぬっと通り過ぎて行った。おもわず、その侍の横顔を仰ぎ見て、お福は、はっと足をと
 めた。(あいつだ・・・)侍は、お福に気づかなかった。
・その侍は、松永市九郎であった。五平の話によると、神谷弥十郎を殺したのは、松永市
 九郎ということになる。二年前の春に、殿さまの御前で、剣術の試合をして、神谷弥十
 郎は、松永市九郎に勝った。それを恨みに思った松永が、弥十郎を殺害した。剣では勝
 てないので、弓矢まで使って殺した、ということになる。
・お福が、すべてを語るのを聞いた五平が、「侍の世界のことは何もわからなえし、おれ
 たちには、少しも関わりのないことだ。新発田のことは忘れろ」諭すようにいったが、
 「そうか。松永が江戸に来ていたのか・・・」空間の一点に眼を据え、押し黙ってしま
 った。その様子が、お福の眼には、異様に映った。
・(旦那さん、あんなに、強かったのに、弓矢なんかで殺されてしまって、可哀想に・・)
 新発田の家の台所で、自分を押し倒し、獣のように犯したときの、弥十郎の激しい息づ
 かいが、お福の耳によみがえってきた。躰が粉々になってしまうかのような痛み、そし
 て血の色・・・以前は、思い出すことすら忌まわしかったのに、いまは、そうではない。
 何故だろう。
・「旦那さん・・・」小声で、お福は弥十郎に呼びかけてみた。お福の躰の奥深いところ
 に、強烈な感覚が起こったのは、その瞬間であった。
・「あ・・・」おもわず、お福は呻いた。これは、何であろう。疼くような、激しい感覚
 であった。お福は、蒲団を両腕に抱え、「旦那さん・・・旦那さん」つづけて、呼びか
 けた。お福の両眼から、われ知らず、熱いものがふきこぼれてきた。
・起床したお福は、いま、前庭の一隅に立っている。お福は両眼を閉じ、呼吸をととのえ
 た。その左手には、数本の手裏剣がつかまれていて、そのうちの一本を、お福は、しず
 かに右手へ移した。お福の両眼が、ぱっと開いた。「えっ・・・」低い気合声と共に、
 お福の右手があがり、手裏剣が朝の大気を切り裂いて疾った。手裏剣は、墨で描いた的
 へ見事に突き立った。早くも左手の手裏剣を右手へ移し取ったお福が腰を沈め、沈めた
 腰がすっくと伸びたかと思うと、第二の手裏剣が手を離れている。これも、的へ命中し
 た。
・「お前には、手裏剣の天分があるわえ」「お前のような天分を持つ者は、百人にひとり、
 いや、千人にひとりか・・・」なんだかわからぬが、老人は、ほめてくれているようで
 あった。
・「手裏剣のみならず、たとえば刀にせよ、どんな刃物にせよ、間違って使えば、人を傷
 つける。また、殺しかねない。同時に、我が身にも危難がおよぶことになる。なればこ
 そ、わしも侍の端くれだが、刀というものは、この家に一つもない。昨夜、泥棒が入っ
 たときも、わしは刀を抜かなかった。いや、刀がないから抜けないのも当り前だ」
 この言葉は、お福にも、よくわかるような気がした。
・「ならば、何故、わしが手裏剣の稽古をするかというと、先ず、躰が丈夫になる。躰の
 ためによいことが一つ。さらに、何もかも忘れて稽古をしていると、つまらぬことや悩
 み事をすべて忘れることができる。人間という生きものにとって、これは、とても大
 切なことなのだ」
・「女だてらに手裏剣をやっていることなど、世間に知れたら、嫁の話しもなくなる。よ
 いか、このことはないしょ、ないしょだぞ」と、三浦平四郎は厳しい顔つきになった。
・そもそも、三浦老人が、根岸流・手裏剣の名手であることを、このあたりのだれも知ら
 ない。だから稽古は、早朝にかぎられている。
 
秋山小兵衛
無外流の剣客・秋山小兵衛は、この年、五十三歳で、後年の小兵衛とは風貌が少々ちが
 う。背は低いが肉づきもよくて、小肥りの体格をしていた。しかし、お福が一目で好感
 を抱いたように、態度物腰がやさしげで、上品な顔だちをしていた。
・その翌日の午後、三浦平四郎は、お福をさそって、共に外へ出た。「昨日、秋山先生か
 ら聞いた、花駒屋という蕎麦屋を、ちょいとのぞいてみよう」
・品書きを見て、お福は「つけとろそば」というのを選んだ。お福は、こういうときに遠
 慮をせず、何でも好きなものを注文する。遠慮をすると主人の三浦老人のきげんが悪く
 なるからだ。
・花駒屋を出たときであった。三ツ目橋をわたって来た男を見て、お福の顔色が変わった。
 男は、松永市九郎であった。
・松永市九郎は、自分の見知らぬと、わかっていても、お福は何となく怖れを感じて、足
 足袋問屋の軒下へ身を移して見もった。すると市九郎は、ゆったりとした足どりで、お
 福がいま、出て来たばかりの花駒屋へ入って行った。お福は、何となく、嫌な予感をお
 ぼえた。
・このときの、お福には、当然ながら市九郎の後をつけて、その住居をたしかもようとい
 う気はない。いまの主人の三浦平四郎老人が、松永市九郎と関わり合いをもつ、などと
 は、夢にも想ってみなかった。
・この夜、寝床に入ってから、お福はまた、神谷弥十郎の夢を見た。その夜、夢にあらわ
 れた神谷弥十郎は、この前と同様、哀しげにうなだれたまま、一度も、お福を見ようと
 はしなかった。猛々しい暴力をふるって、お福を犯したときの弥十郎とは別人のようで
 あった。
 「旦那さん、なぜ、あのときのように、してくれないのですよう」
 お福が、そういってもこたえない。
・この夜、またしても亡き神谷弥十郎が夢に出て来た。弥十郎は、むかしのように、荒々
 しく、お福を抱きしめ、「お福、お福・・・」連呼しながら犯した・・・と、いうより
 も狂おしく愛撫をした。なんとなれば、お福のほうも喜悦して、双腕に弥十郎の躰を抱
 き締めたのだから、犯されたということにはならない。翌朝、目覚めたとき、お福はび
 っしょりと全身に汗をかいていた。
・伊勢屋の当主・清兵衛は、むかし、女の不始末から店の金を使い込み、姿をくらました
 五平をこころよく思っていない。使い込んだ金はそれほど大金ではなく、二十五両ほど
 だそうな。久助の話によれば、使い込んだ二十五両は、五平が何処からか送ってきて、
 それを久助の手で返してあるという。
・「五平は、うちへ奉公に来たときから律儀に働いて、見どころのある男だった。五平も
 年をとって帰って来たのだから、一生、面倒をみてやろうと私は思っている」病気がち
 の大旦那がそう言っても、店の者は、現当主の清兵衛の言うことに従う。大旦那は、や
 がて死ぬだろうし、清兵衛の機嫌を損ねては、自分たちの出世に影響する。世代が替わ
 るときには、どこの店でも同じであった。久助とても、あまり五平の味方をすると、不
 利な立場になることは、いうまでもない。
・老人は、お福の胸の内を推し量るように見まもって、「お前も、さぞ心配だろう」すべ
 てを見とおしているかのような老人の言葉に、「はい」とこたえた途端に、われにもな
 く、お福の両眼から熱いものがふきこぼれてきた。
・五人いる番頭の中で、久助は最下位にいるだけに、こまかい用事に追われて息をつく間
 もなかった。夜が更けて、台所を見ると、五平の姿がなかった。久助が不安をおぼえた
 のは、やはり、叔父甥の間柄であったからだろう。
・「大旦那が亡くなったら、おれはもう仕方のねえ人間になっちまう。でも、そのときの
 覚悟はできているよ」そんなつぶやきを、いつか洩らしたのを耳にしているだけに、通
 夜の混雑が一段落をしたところで、久助は近くの自宅へ駆けて行った。久助の家にも、
 五平は来ていなかった。
・「旦那が先刻から呼んでいなさいますよ」と手代がいうのをきいて、あわてて、久助が
 遺体の傍らにいる清兵衛のところへ寄って行ったとき、「お父つぁんも、こうなってし
 まったことだし、五平には出て行ってもらうことにして、先刻、そういっておいた」
 「金をやったが、どうしても受け取らなかったよ」 
・久助は、おもわず、むっとなった。このような旦那の清兵衛が自分に対する態度には、
 慣れているつもりであったが、ときがときだけに、(なにも今日という日に、叔父さん
 の首を斬らなくても・・・)引き下がって来てからも、怒りがこみあげてくるのをどう
 しようもなかった。 
・久助を番頭に抜擢してくれたのは、死んだ大旦那の伊兵衛である。そのときも、清兵衛
 は大反対をしたそうだ。ともかく清兵衛は、好き嫌いの念が極端で、激しい。これは飼
 猫に対してもそうなのである。
・(これから先、お店も大変なことになるだろう)五平ばかりではない。自分の近いうち
 に、一方的な解雇の通告を受けることになるやも知れぬ。伊勢屋清兵衛が、気に入りの
 手代・文吉を久助の後に据えたがっていたことは、伊勢屋の奉公人が、みな知っている。
・「それにしても隠居の通夜がおこなわれているというのに、五平を追い出すとは、伊勢
 屋の主人も主人だ」 
 「ひどい男だが、当人はひどいと思っていない。あんなのは、この世の中に掃いて捨て
 るほどいるのじゃ。お前も、よくおぼえておくがよい」
・このとき五平は、まさに、身を投げて死ぬつもりでいた。独り身の、身寄りのもない老
 爺が、どんなことをしたって先は知れている。
・ふらふらと、五平が堤の道にあがって、大川辺りのほうへ生きかけたとき、「親爺、待
 て」声がかかった。「おやじ。いのちをくれい」「刀の切れ味を試したい」
・辻斬りだ。そういえば、この近辺に辻斬りが出るらしいということを、世間のうわさに
 聞いていた。 
・五平は、恐怖で立ち竦んだ。侍は、無言で、じりじりと接近して来る。五平は声も出な
 かった。  
・太刀を抜きはらったとき、侍の大きな体躯から凄まじい殺気がふき出して、その殺気が
 五平の躰を金縛りにしてしまったようだ。
・侍は、ひゅっと大刀に素振りをくれてから、刀を上段に振りかぶった。(あ、殺られる
 ・・・斬られる・・・)崩れるように、五平は両膝をついてしまった。
・このときであった。「待て」闇の中から、また、声がきこえた。振り向いた侍が「あっ
 ・・・」叫んで、よろめいた。闇の中から何か飛んできて、侍の顔を打ったのだ。
・「おのれに、おれが斬れるか?」  
・侍の躰が鳥のように、闇の空へ舞い上がった。そして、飛び下りざまに、侍が辻斬りの
 頭を強烈に蹴りつけた。辻斬りがよろめいたとき、地に下り立った侍が、声もなく大刀
 をふるった。辻斬りの悲鳴が起こった。辻斬りの侍が声もなく倒れ伏した。息絶えたの
 である。
・五平を助けた侍は、先夜、三浦平四郎方を訪れた秋山小兵衛という剣客だ。
・秋山小兵衛は、五平を三浦老人の家へ送りとどけると、間もなく帰って行った。
・お福は、このことを久助に知らせるため、家を走り出て行った。
・三浦平四郎が、「これ、五平、よく聞け。人には天寿というものがある。天から授かっ
 た寿命のことじゃ。これに逆らって、じぶんのいのちを自分で絶つことは、もってのほ
 かだ。死ぬなら、人の役に立って死ね」五平は、ただもう畏れ入って、うつむいたまま
 であった。
 
碁盤の糸
・五平は、秋山小兵衛の口ききで、本所・亀沢町に住む町医者小川宗哲の下男として、奉
 公をすることになった。
・宗哲は、名利を度外視して患者を診るし、いしゃとしての腕もたつそうな。六十をこえ
 ていて、恰幅もよい、青々とした坊主頭の老人であった。
・宗哲は、頭を下げた五平の顔を、のぞき込むようにして見て、「おお、この人なら、わ
 しが気が合いそうじゃ」と、いったそうな。折しも、長らく、働いていた老僕が孫のと
 ころへ引き取られたとかで、宗哲も困っていたところへ、かねて事情をわきまえていた
 秋山小兵衛から、五平の話が持ち込まれたらしい。
・五平とお福が「原治」という蕎麦屋で紫蘇切蕎麦を食べて立ちあがったとき、入って来
 た客が、「こいつは、夢じゃあねえのか!」大声をあげて、近寄って来た。「五平さん、
 しばらくだったねえ」 
・その客は、五平と同じ年輩だったが、細身の躰にしゃれた着物をまとい、血色もよく、
 元気そうな老人であった。だが、五平に声をかけながらも、ちらりと、お福を見た眼つ
 きが、お福を不快にさせた。老人の視線は、お福の着物の下の、裸体をながめまわして
 いるかのようであったからだ。
・「五平さん、知っている人なの?」「うむ、倉田屋半七といってね、むかしむかしの友
 だちさ」
・しかし、このときお福は、当然のことながら、その倉田屋半七という老人によって、自
 分の運命が大きく変わることを、全く予期していなかった。
・「不幸な日は長く続かねえけれど、仕合せな日も長く続かねえものだからさ」と五平は
 いった。「新発田で神谷の旦那のところへ奉公にあがってから、このまま、しずかに、
 おだやかに死ねると思ったものだがなあ・・・」お福は、黙っていた。「おれは、剣術
 つかいなんて、あまり好きじゃあなかったのだが、神谷の旦那は別だ。亡くなった御新
 造(妻)さんもいいお人だったよ」
・「神谷の旦那も、お前には、ひどいことをしたらしいが、あれでもお前、おれの死水を
 取ってやると、いっていなすったんだぜ」「まあ・・・」お福には、到底、信じられな
 いことであった。 
・「神谷の旦那が、お前にひどいまねをしたのは、わけがあるのだ」「どんな?」「御新
 造さんが亡くなってしまって・・・それに・・」「お前、神谷のご新造さんが、どうし
 て亡くなったか、何か耳にはさんだことがあるかえ?」「いいえ」
・「御新造さんは、自害をなすったのだ」重苦しげに洩らしたので、お福はびっくりした。
・二ツ目橋を過ぎると、右手に「伊勢屋」の店先が見えてくる。見たところ、別に変わっ
 た様子にはおもえないし、奉公人も五平がいなくなったほかには減っていないのだが、
 何となく、店先に商家に活気がない。人の出入りもないし、火が消えたような・・・暗
 い感じがした。五平がいうところによると、大旦那が死に、今度の清兵衛が名実ともに
 実権をにぎるようになってから、同業者の間でも伊勢屋の評判がよくないらしい。
 「大きな声ではいえないが、このままでは伊勢屋さんは、五年と保つまいよ」などとい
 ううわさが、五平の耳へも入ってくるそうな。
・ところで、二十年ほど前から、江戸には、「算勘指南」と称し、看板まで掲げる職業が
 増えてきた。天下泰平の世がつづいて、商人のちからが強くなり、反対に武家方の財政
 は苦しくなるばかりという世の中になってしまった。「算勘指南」という職業も、こう
 した時代が生んだのであろうか。これは、現代の「経営コンサルタント」のようなもの
 であったらしい。
・三浦平四郎老人は、看板こそ揚げていないが、つまり、この算勘指南をしている。その
 所為で、名前の知れた商家に知己が多いし、交際もひろく、三浦老人のふところも暖か
 いということになる。 
・身分は低くとも、幕臣でありながら、三浦老人が商家の相談相手になれるほどの才能が
 あったのは、年少のころから商家とのつきあいがひろく、自然と、世の中の仕組み、う
 ごきが身にそなわっていたからでもあろう。
・はじめのうちは、よい碁敵だと思っていた三浦老人も、近ごろは、松永市九郎に嫌気を
 おぼえるようになった。何故というに、親しくなるにつれて、松永市九郎が勝負にこだ
 わるようになったからだ。 
・見たところ、かなり武芸の修業をしたとみえて、たくましい筋骨をしている松永市九郎
 だが、碁に負けてくると、白く光る眼で凝と見つけてくる。それも三浦老人にとっては
 不快であった。
・はじめは、朴訥な田舎剣客だと思っていたし、松永市九郎のほうも、初めて江戸へ出て
 来たばかりで、何かにつけ、控え目であったのだ。それが、しだいに、地金をあらわし
 てきたということになろうか。
・いまの松永市九郎は、菊川町に一刀流の道場をかまえている白井惣市の許にころがり込
 んでいたが、もとより、三浦老人はそれを知らぬ。
・「お前には、またいわねえことだが・・・松永市九郎は、神谷の旦那の御新造さんを、
 手ごめにしやがったのだ」と五平はいった。おもわず、足を停めて、お福は五平を見や
 った。 
・「使いから帰って、見てしまった」「御新造は、松永にどうかされたとみえ、気を失っ
 ていたよ。それを、あの野郎が・・・」五平を見ると、松永市九郎が凄まじい目つきに
 なって、「じゃべるなよ。じゃべったら、殺す」と、いったそうな。
・神谷弥十郎が用事をすませ、道場へ帰って来たのは、夜に入ってからであった。
・「じゃあ、神谷の旦那は、そのことを知らなかったのだね?」「うすうす、勘づいたの
 ではねえか。何といっても夫婦のことだもの。ともかくも、それから、旦那と御新造さ
 んの間が、どうも妙なぐあいになってきてなあ。神谷の旦那の御新造さんは、病気で亡
 くなったのじゃあねえ。自害なすったのだよ」
・松永市九郎は、「うおっ!」喚きざま、玄関の戸をちからまかせに引き開け、ぱっと土
 間へ踏み込んで来た。三浦平四郎も、同時に玄関の板敷へ身を引いて、「おのれ、気が
 狂うたか」と、いった。 
・(こやつ、いよいよ、狂ってきた・・・)世故にたけた三浦平四郎も、事態が、(この
 ようになろうとは・・・)考えても見ぬことで、(わしは、こやつが、このような男だ
 とは・・・)老人は、剣術の修業をしたことはないが、手裏剣を稽古して、相当の域に
 達している。それだけに、松永へひたと眼をつけて、少しずつ身を移し、廊下へ出た。
・丸腰の三浦老人は、身をひるがえして奥へ逃げた。同時に松永市九郎が大刀を抜きはら
 い、土間から板敷の上へ躍りあがった。
・台所から入って、お福が、「旦那さま、帰りました」声をかけたが返事はなかった。居
 間へ入って行ったお福が、悲鳴をあげた。
・三浦老人の居間は、大形にいうなら、血の海であった。老人は、居間の障子のところに
 倒れていた。そのくびすじのあたりから、おびただしい血汐がふき出している。背中の
 あたりも斬られたらしく、畳が血まみれになっていた。 
・虚脱して、立ち竦んだお福へ、五平が、「こいつは、きっと松永市九郎の仕業にちがい
 ねえ」五平の声は、呻きに近かった。
・松永市九郎は、三浦老人を斬殺し、庭へ飛び降り、となりの畑へ姿を消したらしい。そ
 の足跡が残っていた。
・五平とお福は、湯を沸かし、老人の遺体を清めにかかった。それから五平は、このこと
 を小川宗哲に知らせに駈け出して行った。
・松永市九郎は、三浦老人を斬殺して姿を消すときに、花駒屋から借りた番傘を、玄関の
 土間へ忘れて逃げた。花駒屋へ問い合わせると、まぎれもなく、松永市九郎が傘を借り
 に来たことがわかった。 

倉田屋半七
・三浦家は、がらんどうになってしまった。石原町の息子夫婦が、道具類をすべて持ち運
 んでしまったからだ。息子の妻のさとは、一時、お福を引き取ることも考えたらしいが、
 すでに下女もいることだし、何しろ貧乏御家人のことだから、余計な人を抱え込むこと
 はできないらしい。亡くなった三浦平四郎は、息子夫婦にあたえる金も遺しておかなか
 ったらしい。いや、それほどの金は遺っていなかった、といったほうがよい。手に入っ
 た金は、気前よく散らしてしまったからだろう。
・「お前のことを、ある人に話したら、そういう娘なら、ぜひとも面倒をみたいというの
 だ。おれの古い友だちさ。いつか原治で、お前も見ている倉田屋半七という人だよ」
・お福は、(原治)で倉田屋半七を見たとき、自分を見返した半七の眼が、まるで着物の
 下の自分の裸身を見とおすかのように光ったのを、いまも忘れてはいない。その夜、お
 福はまんじりともせずに考えた。いくら考えてみても心が決まらなかった。(五平さん
 にまかせよう)と、決心がついたのは、朝になってからである。
・上野山下には、人が群れていた。その人込みの中から、五平を見て、はっと身を引いた
 老人者がいる。松永市九郎であった。五平は、まったく、松永に気づかなかった。
・お福は、三浦家へもどると、すぐさま、身のまわりの品々を行李に入れはじめた。三浦
 老人がくれた十本の手裏剣と「蹄」も、行李の底に仕舞い込むのを忘れなかった。

殺刀
・お福が、横網町の久助の家へ行くと、戸締りがしてある。「ごめん下さいまし」何度呼
 んでも、こたえがない。久助がいないのはわかるが、女房のおとくや、お米までもいな
 いのが不可解であった。
 「久助は、旦那に疎まれて、やけを起し、何でも近ごろは、酒びたりになっているらし
 い」五平が洩らした言葉を、お福は思い出した。
・(おれが江戸へ来ていることは、五平も知らぬはずだ。知らぬとしても、五平が江戸に
 いるかぎり、生かしてはおけぬ)いつどこで、新発田での松永の犯行が、五平の口から
 洩れないともかぎらぬ。
・松永市九郎は、越後・村松の浪人の子に生まれた。父の彦蔵も剣客であった。松永は江
 戸で生まれ、少年のことは、小石川に道場をかまえた鳥飼惣三郎の門人となり、剣の道
 に入った。
・少年のころ、松永市九郎の剣の筋は、天才的なものだった。やがて、鳥飼道場では松永
 に適う者がいなくなった。師の鳥飼も松永との稽古を避けるようになってきた。ともす
 れば、松永に打ち込まれるやも知れないからである。松永市九郎の鼻は高くなる一方で
 あった。他流試合にも、ほとんど負けたことがなかった。
・そのうち、父と師が前後して病歿してしまった。師を失った鳥飼道場は、高弟の田村政
 之助が受け継ぐことになった。松永は、これがおもしろくなかった。
・松永市九郎は田村政之助に真剣の勝負を挑んだのである。これに対し、田村は取り合わ
 なかった。他の門人たちは、「いまどき、真剣勝負などをするばかが何処にいる」など
 と松永をばかにしている。
・その声が耳に入って、短気な松永市九郎は、もうどうにも我慢ができなくなった。その
 年も暮れようとするある夜、松永は道場から帰る田村を待ちぶせ、白山権現社の境内へ
 さそい込み、斬殺してしまったのである。
・人を斬殺したのは、これが、はじめての松永であった。飛びちがいざまに、田村のくび
 すじ(頸動脈)を斬り割った松永が、飛び退いた目の前で田村政之助が大刀を落とし、
 倒れ伏すのを見た瞬間、松永市九郎は、得もいわれる快感につらぬかれた。松永は、激
 しく身ぶるいをした。(真剣の勝負とは、こうしたものなのか。いま、わかった)
・それから何人もの人を殺めてきた松永だが、神谷弥十郎だけは、尋常の立会いでは勝て
 ぬとみて、弓矢を使ったのだ。かねてから松永は、弓矢の稽古をしていた、弓矢は眼の
 力を養い、集中力を増す。それが剣術のためになると考えたからだ。
・五平が浄念寺橋へかかって、わたりはじめた。長い橋ではないから、たちまち西詰へわ
 たりきった。その瞬間であった。五平が背後から橋をわたって来た人影が一陣の突風に
 ように、五平を追い越して行き、橋をわたって、向い側の旗本屋敷の傍の細道へ走り込
 んだ。「う・・・」呻いた五平の躰が、ぐらりと揺れた。五平の手から提灯が落ち、め
 らめらと燃え上がった。五平のくびすじのあたりから、おびただしい血がふき出してい
 る。二歩、三歩と足を運んだが、それが限度で、五平の躰が戸板でも倒すように、倒れ
 伏した。 
・そのとき、松永市九郎は、武家屋敷が建ちならぶ細道から細道を駆け抜けつつ、完全に
 姿を消してしまっている。走りつつ、松永は脇差にぬぐいをかけ、鞘におさめた。
・五平を尾行しつつ、考えたとおりに、松永は暗殺をやってのけた。太刀を使わずに、差
 し添えの脇差を使ったのは追い越しざまに斬る、または、すれちがいざまに斬るのに長
 い大刀よりも脇差のほうが、(やりやすい)と、考えたからである。
・旦那の目を盗んで、伊勢屋では、古い女中や小僧などが線香をあげに来てくれた。そう
 いう人たちは、五平に同情していたらしい。五平の通夜も葬式も、小川宗哲がいとなん
 でくれた。 
・五平に葬式には、倉田屋半七も駆けつけて来た。
・五平の葬式が終わった後で、宗哲がお福に、「お前、どうしても倉田屋へ行くつもりか
 え?」「此処にいてもいいのだよ。五平の代わりをしてくれればよい」「あの倉田屋半
 七という人は、間もなく、五平の後を追うことになるかもしれない」
・倉田屋半七は、「私も、これで、いろいろなところに手をひろげているのでね。本所の
 三ツ目の親分が出しなすった、松永の人相書も手に入れてあるんだよ」「松永は、新発
 田で、神谷弥十郎という剣術の先生の御新造さんを気絶させ、怪しからぬまねをした。
 それを、五平どんに見られた。だから殺したのだ。お福は、それを知らないのだね?」
 「まだ私は、神谷さまへ奉公にあがっていませんでした」「それならいい。それで安心
 をした」 
・お福の新しい生活がはじまった。お福のすることといえば、住居のほうの掃除、半七の
 衣類の世話、食事の仕度などで、ほとんど、三浦老人宅にいたときと変わらない。
・店は水茶屋ということだが、出合茶屋でもあるらしい。さまざまな男女が密会をする出
 合茶屋は、近年、増えるばかりで、不忍池の畔から池ノ端仲町にかけ、出合茶屋の数は
 多い。  

二十の春
・お福は、この年、安永二年で二十の春を迎えた。新発田から江戸へ出て来てから、四年
 も経っている。この四年間に、お福はたよりにする人を二人も失ってしまった。それも
 狂犬のような男の魔剣によってである。
・半七と五平とは、若いころに、それこそ「切ってもきれぬ」ほどの関わり合いがあった
 らしい。だが、お福が深く立ち入って聞こうとするや、「私もそうだが・・・いまは亡
 くなった五平どんに、恥をかかせることもないだろう」半七は、ぷっつりと口を閉ざし
 てしまうのである。 
・久助は、あれから「伊勢屋」を追い出されるかたちとなり、妻子を連れて行方不明にな
 ってしまった。
・伊勢屋の評判もよくない。商売はしているけれども、「今度の旦那では、あの店も先行
 きが見えている」「一年は保つまい」といううわさだそうな。
・半七は、絶対に、お福を店のほうに行かせなかった。「あっちは、お前の眼に入れるも
 のではないよ」 
・倉田屋半七は、お福などには窺い知れぬ、いくつもの面をもっていて、(私が知ってい
 る旦那さんは、その一つにすぎない)ことが、二年も経つと、お福にも納得できた。
・ある夜、半七が入浴をすませて、「ああ、今日は面倒なことばかりで、疲れた疲れた」
 というので、お福が、「肩を、もみましょうか?」と肩をもむ、お福の手を半七が擦り
 はじめた。はっと、お福が身を引きかけると、「何もしやしない。できやしないよ」と、
 半七が、「せめて、十年も前に、お前に出合っていたらなあ・・・」深いためいきを吐
 いた。
・「女の仕合せは、男にはわからない。わかったつもりでも、真から男にはわからないの
 だ。だから・・・」いいさして、半七が急に黙り込んでしまったので、お福が背後から
 覗き込むようにして見ると、半七の頬へ泪が一筋、尾を引いているのが、はっきりとわ
 かった。 
・それを見たとき、わけもわからず半七が(可哀想に・・・)思えてきて、お福は衝動的
 に、半七の細い躰を背後から抱きしめ、背中へ顔を押しつけていた。それから、二人は
 長い間、うごかなくなってしまった。やがて、どちらともなく、躰をはなして、お福は
 台所へ去った。
・お福は顔に血がのぼっている。躰にもうす汗がにじんていた。ただ黙って、半七の痩せ
 た躰を背後から抱きしめ、背中へ顔をつけていただけだが、自分の想いも半七へつたわ
 り、半七の想いもわかったような充実感に、お福が浸っていた。
・この夜、お福は久しぶりに、神谷弥十郎の夢を見た。いつものように、弥十郎はお福の
 裸体を抱いたが、妙に、ものしずかで凝としている。お福のほうが上から弥十郎を抱き
 しめるかたちとなって、烈しく弥十郎を愛撫しているのだが、弥十郎は死人のように動
 かなかった。
・秋山小兵衛は、三浦老人が死んだとき、弔問に来てくれた。その返礼の挨拶には、まだ
 生きていた五平が、四谷の秋山宅へおもむいたはずであった。そのとき、秋山小兵衛は
 五十三歳だったのだから、いまは五十五歳ということになる。むしろ、小兵衛はいまの
 ほうが若く見えた。
・「世の大人たちは、女が嫁に行けば仕合せになると決め込んでいるところがあるが、そ
 うしたものでもない。人それぞれじゃ」と小兵衛がいうと、お福が「私もそう思います」
 といった。秋山小兵衛が、びっくりしたように目をみはって、「その倉田屋という、い
 まの主人と、お前はよく気が合っているとみえる。そうであろう」 
・お福が倉田屋へ帰り着いたのは八ツ(午後二時)ごろであったが、門の前の道へ倉田屋
 半七が出てきて、「遅いじゃないか、遅いじゃないか」泣くような声をあげて、走り寄
 って来た。お福を叱りつけるようにいった半七の眼が、異様に光っているではないか。
 「あいつが、江戸へ帰って来やがった」「松永市九郎が?」「お福。家の出入りを気を
 つけなくてはいけないよ」
・お福を見やった半七が、思わず息を呑んだ。お福の顔色は蒼ざめていたが、両眼が爛々
 と光っている。その眼の光りは、これまでに何人もの男を殺めてきた倉田半七をぞっと
 させたほどの不気味なものであった。

黒い蝶
・松永市九郎が、江戸から消えたらしいと聞いたとき、お福は自分の初一念を放棄せざる
 を得なかった。しかし、いま、松永が江戸へ再びあらわれたと知り、お福は初一念を忘
 れていないことに、あらためて気づいたのである。
・その初一念とは、(ぜひとも、私の手で、三人の仇討ちをしたい)ことであった。三人
 とは、五平に三浦老人、それに神谷弥十郎である。
・松永が町奉行所に捕らえられるとすると、処刑はまぬがれない。そのかわり、お福の手
 によって、三人の怨みをはらすことはできない。お福のような女が、侍同様の敵討ちを
 するなどとは、狂気の沙汰といってよい。 
・だが、それを決行しなくては、(私の胸の内がおさまらない)のである。理屈も何もな
 い。この四年間の間に、お福は、そうした女になっていたのだ。ひとつには、亡き三浦
 平四郎によって、根岸流の手裏剣術をつたえられたことが、お福をこうした女にしたと、
 いえないでもない。(私が投げた手裏剣は、必ず、松永にあたる)と、信じてうたがわ
 ない。
・お福は、手裏剣を押しいただき、両眼を閉じ、何かぶつぶつと声にならないことをつぶ
 やいてから革で包み、葛籠の中に入れた。それから、また葛籠をさぐり、鬱金の布で包
 んだ物を出し、包みをひらいた。中には、短刀が一振り。これは平常、大小の刀を腰に
 したことがない三浦老人が所有していた短刀で、お福はこれだけを密かに自分の葛籠へ
 隠してきたのである。
・松永市九郎は、神谷弥十郎と三浦老人を殺害した男である。五平は別として、剣術の腕
 前は相当なものにちがいない。だが、神谷には弓矢を使い、三浦老人は素手であった。
 (何という、卑怯なやつだろう)お福は、松永を少しも怖いとおもわぬ。恐怖よりも、
 松永に対しての憎悪のほうが層倍に強烈であった。
・物音は、半七の居間のほうから聞こえた。微かに唸り声というか、呻き声のようなもの
 が、お福の耳に入った。お福は、蒲団をはねのけ、部屋を飛び出した。「旦那さん・・」
 居間の襖を開けて、お福は立ち竦んだ。倉田半七が、寝床から身を乗り出すようにして、
 俯せに倒れていた。 
・がっくりと、半七の顔が、お福の胸の中へ埋まった。息が絶えたのである。心ノ臓の発
 作が起こったのだ。こうした急変が、「いつかは、来るやもしれぬ」小川宗哲は、そう
 いっていた。
・倉田半七の葬式は、ひそやかに執りおこなわれた。町医者・小川宗哲は、お福が知らせ
 たので、来てくれた。
・神谷弥十郎は別としても、三浦老人、五平、倉田半七と、お福が関わり合った人たちが、
 つぎつぎに死亡して行くのは、どうしたわけなのだろう。
・(もう、何処かへ奉公するのは、やめにしよう)お福は、そう思った。ことに、倉田半
 七とは、あの夜、心と心が通い合ったように思う。半七の痩せた背中を抱きしめたてい
 たとき、もしも半七の腕が差しのべられたら、お福は肌身をゆるしていたろう。もはや、
 半七には男のちからが失われているのだろうが、そんなことは、お福にとってどうでも
 いいことであった。ただ、五十も年上の半七に対して、これまでとはちがう愛情が育っ
 たやもしれない、と、いまにして、お福はそう思う。
・お福は、通夜のとき、富五郎から受け取った五十両の金と、小川宗哲から受け取った百
 両の金包みを出し、富五郎の前へ置いた。「富五郎さん、この百五十両は、お前さんに
 あずけておきます。お店のやりくりに使ってください」「この金は、おかみさんのとこ
 ろへ置いておいてください。そのかわりに、困ったときには遠慮なしに、相談いたしま
 すよ」
・富五郎の口から、自然に「おかみさん」の言葉が出た。そうよばれて、お福も平然とし
 ているのである。自分で意識せぬままに、お福のどこかが変わった。変わりつつあった。
・その日、お福は初めて、店の帳場に坐った。不安げにあつまった奉公人に、富五郎が、
 「旦那さんが亡くなったので、お前さん方も、さぞ心配をしていたろうが、お福さんが
 店を引き継いでおくんなさる。また、私も、いままで通り、おかみさんを助けて働くつ
 もりだから、どうか安心してもらいたい」と、いった。
・何ともいえぬどよめきが奉公人たちから起こった。みんな、生き返ったような顔つきに
 なっている。 
・この日、お福は富五郎から帳簿の説明を受けた。倉田屋は、水茶屋出合茶屋が一つに
 なっているようだが、店へ出てみると、出入口もちがうし、客筋もちがっており、店の
 帳場から水茶屋の様子は、まったく見えないようになっている。水茶屋のほうは、立派
 な釜を中心に、緋毛氈をかけた縁台がならび、畳を敷いた八畳の間があり、正面には不
 忍池がひろがり、上品な造りだ。ここには、美しく若い女たちが詰めていて、客の相手
 をし、客がさそえば外出もできる。しかし、ついでに同じ店の出合茶屋を利用すること
 は、させないというのが、旦那のやり方だった。店には、お巾とお沢という二人の中年
 女がいて、奉公人を取りしきっている。
・松永をねらうとき、お福は先ず、松永市九郎の眼に手裏剣を投げ打つつもりであった。
 これが失敗したら、松永に斬られてしまう。もしも、松永の眼にどちらかに手裏剣が突
 き刺さったときには、できることなら、三浦老人の短刀でとどめを刺したい。しかし、
 それは、(むりだろう)と、お福は思った。眼をやられても、あの松永なら屈せずに飛
 びかかって来るにちがいない。(でもいい。たとえ一本でも、あいつに当たれば、殺さ
 れたってかまわない)  

谷中・蛍沢
・「うらみを、私の手で、はらしたいのでございます」押し殺した声で、お福は一気にい
 った。その顔に、秋山小兵衛がまじまじと見入った。
・秋山小兵衛は亡き三浦老人の親友であり、五平の命を辻斬りの凶刃から救ってくれた人
 だ。 
・「お前さんは、三浦先生ゆずりの手裏剣をもって立ち向かうつもりだろうが、こうなる
 とお前さんひとりではむずかしい。それに手裏剣では、到底・・・」と秋山小兵衛はお
 福にいった。
・「この秋山小兵衛に助太刀をさせてくれぬか。亡き三浦平四郎先生は、小兵衛が兄とも
 思うていたお人ゆえ、わしも松永には怨みをかけている」
・お福は、帯の間に、手裏剣を三本、差し込み、あとの手裏剣は持たぬことにした。とて
 も、汁本の手裏剣は投げ打てぬ。十本を投げるようなことになれば、(その間に、私は、
 松永に殺されてしまう)そう思ったからだ。秋山小兵衛は、そうしたお福を見ても、何
 もいわなかった。 
・いま、雑木林の中で、松永たちを密かに見ているのは、秋山小兵衛ひとりであった。御
 用聞きの弥七は何処かへ消えてしまい、お福の姿も見えない。
・宗林寺の横道から、忽然と、お福があらわれた。お福は出て来るとき、むかし、着てい
 た洗いざらしの上田縞の着物を身につけて、髪も、引きつめ髪にしてきている。だれが
 見ても、このあたりの農家の女としか見えない。お福は、落ち着いた足取りで、松永が
 いる百姓家の前の道へさしかかろうとしている。松永は、ちらりとこれを見た。見たが、
 まさかに、お福だとは気がつかなかった。 
・松永が、顔を洗う水を汲みかけたとき、雑木林の中の秋山小兵衛がすっくと立ちあがっ
 た。
・このとき、お福は垣根をへだてて、松永市九郎の目の前を通りすぎようとしていた。
 お福は、これまで、一度も松永を見ようとはしていない。
・雑木林の中で、立ちあがった秋山小兵衛が、「それっ」するどい声をあげた。松永が、
 ぎょっとなって、声がした方を見やると、道を歩んでいたお福が足を停め、松永へ振り
 向くのとが同時であった。
・松永とお福は、約三間へだてている。振り向きざまに、お福は右手に隠し持っていた手
 裏剣を、「鋭!」気合声を発して、松永へ投げ打った。
・松永は、小兵衛の声におどろいた途端、垣根の外を通りすぎようとした女が振り向いた
 ので、その気配にはっとなり、お福を見た。その顔へ、もろに、お福の手裏剣が命中し
 た。しかも、松永市九郎の左眼へ、ぐさりと突き刺さったのである。
・「あっ・・・」よろめいた松永は、脇差を引き抜きざま、「出合え!」叫んで、身をひ
 るがえし、家の中へ逃れようとした。その背中へ、お福が、帯の間に差し込んでいた手
 裏剣を抜き取り、「むっ!」投げ打った。この手裏剣は、松永市九郎の背中の上部へ突
 き立った。松永は、縁側から家の中へ転げ込むように逃れた。
・すかさず、秋山小兵衛が雑木林から駆けあらわれ、「お福、お前は、これまででよい」
 といった。
・小兵衛が垣根を飛び越えた。駆け寄って来た加藤浪人が打ち込む大刀を、ふわりと躱し
 た小兵衛の腰間から、電光のおごとく疾り出た一刀が、ほとんど無造作に打ちはらった。
 屈せず、加藤は構えを立て直し、猛烈な突きを入れてきた。これを打ちはらい、飛び退
 いた瞬間、小兵衛が加藤の右手首を切り裂いている。
・家の中で、激しい物音が起こった。裏手より家の中へ飛び込んだ弥七と、松永が闘って
 いるのだ。松永は左眼を手裏剣に刺されているから、間合いもはかれず、棍棒を持った
 弥七に圧倒されかかっている。 
・家の中から弥七が松永市九郎へ細引縄をかけて、縁側へ出て来た。
・お福は、激しい身ぶるいをしている。ふるえがとまらないのだ。
・「お福、これでよい。女のお前は、人を殺めぬほうがよいのじゃ。人を殺めた女は、不
 幸になる。あとは、この男たちを、お上にかませようではないか」
・お福は、秋山小兵衛の指図どおりにうごいた。いわれたとおりに、寸分の狂いもなくし
 てのけた。「それっ」と、小兵衛が合図の声をかけるのと同時に、振り向くと、松永市
 九郎の顔が絶好の間合いをへだてて、お福の眼に飛び込んできた。投げ打った瞬間、お
 福は、手裏剣が松永の左眼へ突き立つことを確信した。小兵衛は、弥七と徳次郎をつか
 い、細心のはからいをしてくれたのである。

青い眉
・お福が富五郎を連れ、新発田へ旅立ったのは、この年の九月であった。この長い旅で、
 二人は結ばれたわけではなかったが、たがいに、心が通い合ったとみてよい。
・新発田へ着くと、お福は簔口村の大円寺にあずけてあった両親の骨を、四ノ町の周円寺
 へ移し、墓を建てることにした。そして、木の墓標だけだった神谷弥十郎にも墓を建て
 た。 
・お福が、秋山小兵衛の隠宅を訪れ、富五郎と夫婦になることを告げたのは、年が明けた
 安永三年の春であった。お福は二十一歳、富五郎は四十三歳である。そして秋山小兵衛
 は、五十六歳になっていた。
・松永市九郎と二名の浪人は、去年の秋に処刑され、いまはもう、この世の人ではない。
・これは、後になって、小川宗哲が、お福に洩らした言葉だが、「自分を殺して、酔えな
 い酒を飲むことが、どれだけ、自分の躰によくないかを知ったとみえる。知ったときに
 は遅かった。せっかく、お前さんのような良い女房をもらって、これからというときに、
 残念だったのう」
・富五郎が急死したのは、安永八年の春で、享年四十八歳であった。
・富五郎の死は、まことに呆気なかった。「私が死んだら、だれにも知らせないでくれ。
 また知らせるところもない。私は、お前が傍についていてくれるだけで、いいのだから
 ね」富五郎は凝と、お福を見つめた。子供のように無邪気な眼の色であった。その眼を、
 お福は生涯、忘れなかった。
・通夜も葬式も店の者だけでやったが、小川宗哲から聞いたとみえ、秋山小兵衛が悔やみ
 にあらわれた。 
・「私は、もう二度と、男には関わりたくありません」とお福は秋山小兵衛にいった。
・それから、九年がすぎた。富五郎が死んで九年目の天明八年の夏の、或る日に、突然、
 お福が秋山小兵衛の隠宅を訪れて、「秋山先生。まことにもって、面目もないことなが
 ら・・・」
・「男ができたな」ずばりと小兵衛にいわれ、見る見る、お福の襟元から顔にかけて、血
 がのぼってきた。
・「どうしてもといわれまして・・・白木屋という呉服屋の、御主人の後妻に・・・」
・白木屋は、お福がひいきにしている呉服屋だが、亡父の跡をついで主人になる前には、
 番頭として、お福とのつきあいもあり、お副の人柄は、よくよくわきまえていた。その
 ころから新兵衛には妻があり、一男一女をもうけていたのだが、その妻お松が、去年の
 夏に病死をしてしまった。 
・お福は、しだいに、以前の決意がゆるみかけてきた。そこで小兵衛へ相談に来たのであ
 る。秋山小兵衛は七十歳になっていて、小川宗哲も八十一歳の長寿をたもち、二人とも
 矍鑠としている。 
・お福は、この年の秋に、白木屋の後妻に入った。倉田屋は、お巾とお沢が、お福の代わ
 りをつとめ、当分は商売をつづけて行くことに決まった。
・新しい年が明けて、寛政元年となった。この年の十一月に、健康そのものだった三十六
 歳のお福が、風邪をこじらせてしまったのである。
・白木屋新兵衛は、お福の様子が徒事でないので、お福を寝かせておき、自分が駕籠を飛
 ばし、小川宗哲宅へ駆けつけた。老いた小川宗哲は、このごろ、往診をやめていたが、
 お福のことになれば別だ。その駕籠へ乗って白木屋へ来てくれた。
・この間に、不お福は高熱のため、意識不明となっていた。宗哲は、早速、手当てにかか
 った。だが病状は、坂道を転げ落ちるように悪化した。
・両眼を、しずかに閉じたお福の口から、「みなさん、お先に・・・」と、つぶやきが洩
 れた。