桃の木の下で :藤沢周平

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この作品は、いまから43年前の1979年に出版された「神隠し」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
この作品は、既に結婚して人妻の身の上でありながら、秘かに幼い頃に嫁に行く,相手と見
ていた男性に淡い恋心を持ち続ける、ゆれ動く女性を描いている。
不思議なのは、女性がどうしてその幼馴染みのその相手と結婚しなかったのかということ
だ。この作品では「少女の時代が終わり、多少世の中が見えてきた頃に、その気持ちはな
んとなく曖昧なものに変わった」とある。
おそらく、当時の武家のしきたりで、結婚相手は自分の意志とは関係なく、親が決めるも
のなのだということが、わかってきたからなのだろうと思った。
しかし、親が決めた相手とは、二年の結婚生活を経ても、ほんとうに心が通い合うことは
なかったようだ。
この作品を、「不倫の恋の切なさ」を描いた作品だ、と見る人もいるようだ。確かに、厳
密に言えば、不倫と言えるのかもしれない。しかし、そう見てしまっては、なんだか淋し
い気もする。「不倫とはなんだろう」と改めて考えさせられたような気がした。



・五ツ(午後八時)の鐘を聞いた。家に戻るのが意外に遅くなったようである。志穂は気
 がせいた。夫の鹿間麻之助は、このところ連日帰宅が遅い。帰りは大がい五ツか、五ツ
 半(九時)で、ときには酒気を帯びて四ツ(午後十時)過ぎに帰る夜もある。
・予想外に遅くなったのは、帰ろうとしたとき、亥八郎が城を下がってきて、その部屋で
 またひとしきり話し込んだせいであった。 
・亥八郎は志穂より三ツ年上の二十一で、まだ妻はいない。
・志穂は小さいときから亥八郎と気が合った。亥八郎と二人だけで遊ぶのが好きだった。
 寺の植え込みの陰で、二人だけで地面に図を描いたりして遊んでいると、志穂は二人が
 大人の眼から遁れて、遠い秘密な場所にきてしまったような気がした。その気分には微
 かな恐怖と罪悪感が混じっていて、志穂はそのことに満足し、ことさら声をひそめて亥
 八郎に話かけたりした。
・ある時期、自分は亥八郎の嫁になるのだ、と信じて疑わなかったことがある。だが、少
 女時代も終り、多少世の中が見えてきた頃に、その気持ちはなんとなく曖昧なものに変
 わり、曖昧なままに、志穂は十六になった時、家中の鹿間麻之助に嫁入った。子供はい
 ないが、もう二年経っている。亥八郎に会うことも、稀になってきた。
・亥八郎をみると、志穂はふと眩しいような気分に襲われる。もう妻の座におさまってし
 まった自分にひきくらべ、亥八郎は、これから輝くような人生が始まるのだという気が
 する。
・「縁談が、沢山おありなんでしょう?」そう訊いたとき、志穂はなんとなく妬ましいよ
 うな気分を味わっていたのである。
・「沼田の妹など、俺があの家に行くと妙な眼で俺をみる。扱いも極上でな」亥八郎は澄
 まして言った。
・志穂はかっとなった。思わず??りつけるような口調で言った。「沼田の早苗さまなど、
 おやめあそばせ」「あの方は、茶の湯がありましたとき、お行儀が一段と悪うございま
 した」「殿方などというものは、存外女子のことを見抜けないものです。お気をつけあ
 そばせ」
・そう言ったとき、三つも年下なのに、志穂はなんとなく、世間馴れない弟を説教してい
 る姉のような気分になっていたのである。
・暗い道を歩きながら、志穂はあのときはどうしてあんなにいきり立ったのだろうと思っ
 た。するとひとりで顔が赤らんでくるようだった。いまも、亥八郎が好きなのかもしれ
 ないと思ったのである。
・志穂が、不意にその足を止めた。前方の闇で刀の打ち合う音がし、入り乱れて人が争う
 気配がした。志穂な半ば本能的に行動していた。道脇に生垣が続いているが、樹並びが
 雑だった。初め垣根の下に蹲ったが、そこにくぐれるほどの隙間を見つけると、小柄な
 志穂は機敏に潜り抜けて庭に入りこんだ。
・入り乱れる足音はまだ続いて、刀が触れ合う硬い金属の音が耳に刺さってくる。そして
 やがて人が斬られた気配がした。人が発するとは思えない恐ろしい唸り声がし、その声
 は不意に断ち切られるようにやんだ。とどめを刺した。
・志穂はぞっとした。武家の娘に生まれ、小太刀の遣い方も多少は心得はある。万一の場
 合の武家の女の作法はひと通り心得ているつもりだったが、実際に斬り合いに遭遇した
 のは初めてだった。身の毛のよだつような恐怖が、志穂を包んでいる。
・足音がした。同時に背後の家の小窓が明るくなった。路上の物音を怪しんで、その家の
 者が外に出てくる気配だった。 
・闇から姿を現したのは、二人の男だった。二人の男のうち、背の高い男が、突然の明か
 りに驚いたように、一瞬窓の方を振り向いたのが見えた。男はすぐに顔をそむけ、足早
 に光を横切って闇に消えた。もう一人の男は、俯いたままで、長身の男の陰について、
 姿かたちがはっきりとは知れなかった。
・背後で戸の開く音がしたとき、志穂は垣根を潜り抜けて路に出ていた。 
・大急ぎでその場から遠ざかったのは、かかわり合いになるのを恐れたのであるが、それ
 だけではなかった。志穂の胸には、大きな驚きが隠されている。
・もし人が死んだのであれば、志穂は下手人を見たことになる。しかも、不用意に窓明か
 りを振り向いた男の顔を、志穂は見ている。志穂が驚いたのは、その男が知っている人
 間だったからである。男は、夫の同僚、溝口藤太に紛れもなかった。
・夫はまだ帰っていなかった。着換えて茶の間に坐ると、改めてさっき出遭った異様な出
 来事が胸を騒がせてきた。早く夫が帰ってくればいいと志穂は思った。いまにも玄関に
 溝口藤太の声がしそうで落ち着かなかった。
・麻之助が帰ってきたのは、四ツ(午後十時)過ぎである。よほど忙しい仕事が重なって
 いるらしく、麻之助は疲れた顔色をしている。
・「帰り道で、恐ろしい目に遭いました」「人が斬られたらしゅうございますよ」「武家
 の斬り合いでございますよ。わたしくし、斬った人を見ました。一人は溝口さまでござ
 いました」
・「まあ待て。明日になればわかることだ。だが、お前が言うようなことが、よしんばあ
 ったとしても、見たなどと人には申すな」
 

・夫にあのことを話してから、十日ほど経っている。そしてその間に、志穂が見たのは、
 間違いなく家中の者の斬り合いだったことが判明している。斬られたのは、郡代配下の
 穂刈徳之丞という武士だった。斬った相手は、斬り口からみて武士らしいという噂が伝
 えられるだけで、それが誰かは、調べにあたった大目付の方では、まるで見当がついて
 いないようだった。
・夫の麻之助は、「ただの喧嘩とは思えん節がある。裏に面倒な事情があるようだから、
 あの晩のことは他言してはならん」と改めて釘をさしたのだった。
・志穂の口を封じたまま、麻之助はそれきりそのことについては何も言っていない。志穂
 はその後の経過を、おして聞くようなことはしなかったが、何となく物足りない気分で
 日を過ごした。
・そして二日前、奇妙なことが起こった。その日、志穂は墓参に行った。赤児で死んだ弟
 の命日だったのである。
・足もとが滑らないように、俯いて歩いてきた志穂は、明るい日射しが溢れている墓地か
 ら、暗い杉林に入ったとき、不意に眼が眩んだようになった。同時に異様なざわめきを
 頭上に聞いた。志穂が、頭上から襲ってきたものから逃げられたのは、少女の頃に仕込
 まれた小太刀の修練が、まだ身体の中に生きていたためであったろう。身体を投げ出す
 ように、斜め前方に転がったとき、地響きを立てて杉の大木が道を叩いていた。
・志穂は道を塞いでいる杉の木を見て、改めてぞっとした。逃げるのが一瞬遅れていれば、
 その下で潰れ死んだに違いないと思われたのである。
・だが志穂が血の凍る思いをしたのは、杉林に踏み込んで、倒れた杉の根元に回ってみた
 ときだった。木は枯れて倒れたのではなく、ほとんど皮一枚を残す程度に切り込まれて
 いたのである。
・だが、その恐怖を夫は理解しなかった。志穂の訴えを聞き終わると、「それはお前の思
 い過ごしだ。誰も前の命など狙いはせん」と言った。麻之助は苦笑していた。
・夫の態度には、志穂の言い分を信用していない素振りが混じる。夫の温和な性格の中に
 は、意外なほどしたたかな、人を信じない性癖がひそんでいるのかもしれなかった。
・亥八郎に話そうと思ったのは、亥八郎なら信じてくれると思ったわけではない。恐怖か
 らだった。誰かに話さなければいられない恐怖が、志穂の胸に巣喰っている。そして話
 すとすれば、亥八郎しかいなかった。
・「そうかと言って茶屋の奥に引っぱり込むのは、まずいか」亥八郎は、冗談を言った。
・八幡神社の前には、茶屋が三軒ある。そこには芸や身体を売る女たちがいて遊客の相手
 をしたが、奥座敷は、また男女の密会にも使われる。だが志穂はそういう事情は知らな
 い。
・志穂は「わたくしはどちらでも」と言った。すると亥八郎はあわてて手を振って、ここ
 でいいと言った。
・「仮に命を狙っている者がいるとしても、今日明日また襲ってくるということはあるま
 い」亥八郎は、いつもののんびりした口調に戻って言った。
・志穂は、何となく亥八郎に見離されたような気がして、気が滅入った。話せば気が楽に
 なるだろうと思っていたが、そういうことはなく、恐怖は澱のように気持ちの底に沈ん
 だままだった。
・そして亥八郎が言った予想ははずれて、志穂は帰り道で刺客に襲われたのである。


・亥八郎との話が意外に長びいて、あたりはいつの間にか薄暗くなっていた。左右に、薄
 闇に溶けようとしている、長い海鼠塀を見たとき、志穂はふといやな予感が身体を包む
 のを感じた。人通りは全くない。
・遠回りでも、にぎやかな町家の方から帰ればよかった。ちらと後悔が頭をかすめたとき、
 背後から風が襲ってきた。反射的に塀に貼りついて風をやりすごした。向き直ったとき、
 目の前に刀を構えた敵がいた。羽織、袴で小柄な男だったが、顔は黒い布で包んでいる。
・あの男だ。下駄を脱ぎ捨て、帯から抜き取った懐剣を構えながら、志穂は思った。 
・男が斬り込んできた。辛うじて志穂が逃げ、勢いあまった男の切先が塀にあたってかち
 と鳴った。逃げたが、志穂は塀から離れなかった。ぴったりと塀を背負っているのが、
 男の斬り込む勢いを殺いでいる。
・男もそのことを覚ったようだった。晴眼の構えから、不意に真直胸を突いてきた。志穂
 は短い気合をかけ、僅かに身体をひねりながら、懐剣で相手の切っ先を弾ね上げた。だ
 がその瞬間、手首に鋭い痛みが走った。構えを立て直しながら、志穂はふと心に滑り込
 んでくる絶望をみた気がした。
・「おい」不意に声がした。覆面をした男はすばやい足どりで二、三歩さがった。声がし
 た方をちらとみたが、ふと身をひるがえして走り去った。
・「大丈夫か、志穂どの」声は亥八郎だった。志穂は一度に全身から力が抜けるのを感じ
 ながら、地面に座り込んだ。
・「どうも心配でならんから、後を追ってきたらこの始末だ」見上げるような長身が近づ
 いてきて、ぐいと志穂を抱き上げた。抱かれるままに、志穂は亥八郎の胸に寄りかかっ
 た。
・「どこで、誰かに見られたか、この臀が・・・」亥八郎は無遠慮に志穂の臀を撫でた。
・「怪我したな」亥八郎は、眼を近づけて傷を吟味したが、不意に傷口に舌を当てた。痛
 みと一緒に、鋭い快感が身体を走り抜けるのを、志穂は感じた。志穂は思わず熱い息を
 吐いて、亥八郎の胸に顔を伏せた。
・「うむ、大した傷ではない」やがて亥八郎は手を離してそう言ったが、不意に深々と志
 穂の身体を抱き直した。罪悪感のなかで喜びがあった。小さい頃、寺のつつじの花の陰
 で、人の眼を遁れて亥八郎と遊んだときのことを思い出していたが、いま志穂を襲って
 いる罪の意識と恍惚感は、もっと鋭く眼がくらむような光をともなっている。
 

・亥八郎から手紙が来たのは、五日後だった。文面は簡単で、火急の用がある。手紙がつ
 き次第、先日会った八幡裏の桃の木の場所まできてもらいたい、と書いてあった。使い
 は顔も知らない町人だった。
・薄闇は怖くはなかった。むしろ甘美な匂いがした。志穂は池に沿って、少し下りになっ
 ている道を桃の木の方に進んだ。木の下に男が立っていた。
・「亥八郎さま?」志穂は声をかけた。男の顔はおぼろな輪郭しか見えない。ただ手招き
 したのが見えた。志穂は小走りに駆け寄った。
・「あいにくだったな、わしだ」迎えた男が言った。笑いながら立っているのは、夫の麻
 之助だった。 
・志穂は茫然と立ちすくんだ。混乱が志穂の身体を金縛りにしていた。
・「手紙はわしが届させた。だがお前がくるかどうかは半信半疑だったのだが、お前はや
 ってきた。覚悟は出来ているだろうな、志穂」
・「お待ち下さい」弾かれたように、志穂は言った。
・「未練な真似はよせ。お前はどうせ生きてはおられん女だ」麻之助が冷酷な声で言い、
 志穂を振り放そうとしたとき、薄闇の中に笑い声がひびいた。
・「何者だ」麻之助がきっとなって声の方を振り向いた。暗がりから、ぬっと近づいてき
 たのは、亥八郎の長身だった。  
・「本音を吐いたようだな鹿間」と亥八郎は言った。
・「亥八郎さま」志穂は亥八郎に駆け寄った。
・「それにしても、うまくお膳立てしたものだ。そうでもしなければ、自分の女房はなか
 なか斬りにくいだろうな。姦夫姦婦か。どうする?四つに重ねて斬るか」
・「無駄だ。刀など抜かん方がいい。貴公らの企みはすべて露われてしまったぞ。溝口、
 堀井は、さっき大目付の手で捕らえられた」
 ・「見ろ。あれは貴公を捕らえにきた人数だ」提灯が三つ、飛ぶように池の向こうから
 近づいてくる。 
・「くそ!」不意に麻之助の身体が跳躍した。抜き打ちに亥八郎に斬りかかったのである。
 亥八郎は躱しもしないで、すばやく抜き合わせていた。
・志穂は桃の木の下に逃げて、茫然と見つめた。
・探索方の者らしい男たちが十人ほど、提灯を高くかかげて斬り合いを見守っている。
・激しい気合いが聞え、志穂ははっと眼を挙げた。麻之助はまだ闘っていた。粘っこい剣
 の使い方で、ほとんど亥八郎と互角に闘っているように見える。志穂は眼を瞠る思いだ
 った。夫が剣の巧者だなどということを、聞いたことはなかった。
・あの人がどういう人なのか。わたしは何も知っていない。そん気がした。亥八郎の方が、
 志穂にはむしろよく見える。二年近く夫婦の暮らしというものを、志穂は夢のようにお
 ぼつかないものに思った。
・亥八郎の鋭い気合いがひびき、続いてどっと人々がざわめいた。そのざわめきの中で、
 夫の手から飛んだ刀が、地面に落ちて鳴ったのを志穂は聞いた。 
・「手強かったぞ、おたくの旦那」と亥八郎は言った。
・昨年の暮れ赤山通北郷組の百姓から、一通の訴状が提出された。訴状は代官、郡奉行を
 経ないで、直接郡代の安田善右衛門に届けられた。訴えの中味は、秋の作毛の検見に不
 正があり、これをもとに年貢を定められては、民百姓の困窮は眼に見えているので、お
 調べ願いたい。またこの検見によって、一部の百姓が逆に肥えふとっている。明らかに
 不正が行なわれたと見られるので、この点もお調べ願いたいというのであった。
・郡代の安田は、月番家老の葦沢内記に相談すると、直ちに調査に手をつけた。配下の穂
 刈徳之丞をひそかに北郷組に潜入させて、実情を探ると同時に、葦沢家老から大目付の
 本田佐久魔に対し、郡奉行多賀勝へえ、代官江尻門蔵の身辺を調査するよう命じてもら
 ったのである。
・北郷に潜入した穂刈は、冬の間に組内の百姓約三百人に会い、事情を聞くとともに、収
 穫された籾の出来ぐあい、田圃の地味などを詳細に調べ上げ、三月初めに城下に戻った。
・しかし膨大な報告の文書をまとめ上げ、郡代に提出する寸前に、穂刈は殺され、報告文
 書は穂刈の家から持ち去られたのであった。 
・一方多賀と江尻の身辺の調べは遅々として進まなかった。
・「進まないのは、あたりまえの話でな。本田の命令を受けた溝口と鹿間が、多賀に抱え
 込まれていたのだ」と亥八郎は言った。
・「穂刈を斬ったのは、あんたが見たとおり、溝口と、奴の配下で堀井という男だった。
 寺町であんたを襲ってきたのが堀井だ」
・「志穂どのが狙われたのは、あの夜溝口たちを見たからだ。このことを誰かに喋ったか
 といえば、旦那意外にない」
・「夫は初めからわたくしを斬ることに同意したのでしょうか」
・「さあ、それは解らんが、結局やむを得んという心境だったのではないか。放っておけ
 ば、自分だけでなく、代官、郡奉行にまで累を及ぼしかねないからな」
・志穂は、不意にむなしい気分につかまれるのを感じた。夫が落ちて行った穴は、志穂に
 は想像もつかないほど、暗くて深いものだった。それを知りもしないで、夫婦だったと
 いえるのだろうか。
・「どうする?」と亥八郎は言った。「処分がどう決まるか知らんが、鹿間の家はまず改
 易はまぬがれんぞ」
・「もっとも鹿間の家がどうなろうと、もう志穂どのにはかかわりがないか。命を奪おう
 とした旦那に操を立てる義理もあるまい」
・「家へくるか。そうしてまた嫁に行くもよし・・・」亥八郎は志穂の手を探ってきた。
 暖かく大きな掌だった。
・「俺の嫁になるもよし、だ。どうもあまり目ぼしいのがおらんでな」
・どうする?と志穂は自分に問いかけた。闇の中に、桃の花が匂っている。