木綿触れ :藤沢周平

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この作品は、いまから45年前の1977年に出版された「闇の穴」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
内容は、下級武士が子供を失って悲嘆にくれている妻を励まそうと、苦しい生活の中から
かなり無理をして絹の着物を作らせたが、その妻に対する優しさが仇となり、代官所勤め
の当時の上役に妻をもてあそばれ、それが原因で妻は自殺を遂げるという、無念と悲劇を
描いたものだ。
妻は村の裕福な家の出であったが、武士と言っても貧しく窮屈なだけの家に嫁入りした。
やっと、小さな幸せな生活がはじまったのも束の間、生まれた赤ん坊に死なれて悲嘆にく
れた。その心の傷がようやく癒えようとしていた矢先に、腹黒い上役につけ込まれ、
自殺に追い込まれてしまったのである。
理不尽な支配に、ささやかな人生さえも翻弄される下級武士の哀しみと、武士の世の理不
尽さを感じさせる物語だ。いや、武士の世だけではない。現代の薄給で働く組織の末端の
雇われ人にも通じるものがあると思えた。
ところで、この作品を読んで私の心に刺さったのは、子供を亡くしたときに心に受ける衝
撃の父親と母親の違いである。この作品のように、父親より母親のほうが、はるかに大き
な衝撃を心に受けるものだということを、改めて認識させられた気がした。そして、自分
を含めた多くの男たちは、そのこと理解していないのかもしれないと思った。



・結城友助が城をさがって長屋に帰ってきたのは、いつもと同じ時刻だったが、妻のはな
 えは、まだ夜食の支度にかかっていなかった。珍しいことだった。
・いつもなら、土間に踏み込むと、釜を吹きこぼれる炊飯の香とか、味噌汁の匂いなどが
 家の中にただよっている。そして手をふきながら上がりがまちまで出迎えたはなえが、
 茶の間に入って刀を受け取り、少し早目だが行燈に灯を入れる。
・だがその日は順序が逆になった。はなえは行燈に灯を入れ、窓の下にひろげていた縫物
 を片よせると、あわただしく台所に立って行った。はなえは、それまで縫物に夢中にな
 っていて、帰ってきた友助の声に、はじめて手もとがうす暗くなっているのに気づいた
 というふうだった。
・「あわてんでもいいぞ」友助が着換えながら声をかけると、台所からはなえが、申しわ
 けありません、いそいで支度をしますから、と詫びた。
・「気にするな。べつに子供のように腹をすかして帰ってきたわけではない」
・子供と言った自分の言葉に、友助ははっとしたが、はなえは気づかなかったようである。
 軽い笑い声を残して、台所にかくれた。はなえの笑い声には、喉の奥で転がる軽いひび
 きがある。その快活な笑い声をしばらくぶりで聞いたような気がした。二人は二年前に、
 赤子を病気で失っている。はなえは、もともと明るい性質だったのだが、そのことがよ
 ほどこたえたらしく、めったに笑うことのない女になっていた。
・着物で、女は気が紛れるものか。それなら、やはり買ってやってよかったのだ、と友助
 は思った。 
・はなえが縫っているのは、自分の着物だった。生地は羽二重だった。かなり無理をして、
 友助が買いあたえたものである。十日ほどあとに、はなえの実家に法事があり、そのと
 きに着ていくつもりで、はなえは自分で仕立てているのであった。
・薄給の足軽の家で、女房に絹物を着せるなどということはぜいたくだ、という考えが友
 助にはある。
・先年藩では倹約令を出し、その中で百姓、町人が絹、紬を着ることを禁止した。だがそ
 のときも、武家身分の者まで、絹物を着ることを禁じたわけではない。足軽より一段身
 分の上の家中の武士たちは、紬、羽二重を常用してぜいたくだった。家中の中にも、木
 綿を着て登城する者がないないわけではないが、そういう人間はむしろ奇異な目で見ら
 れたりする。
・友助が絹物はぜいたくだと考えているのは、以前郷方に勤めて、百姓の暮らしを見てい
 るせいかも知れなかった。
・百姓も、内証のいい自前百姓や、長人、組頭、肝煎といった村役人になると暮らしも裕
 福だが、小作、水呑といった大半の百姓は、木綿を着るのがやっとで、絹など見たこと
 がないという連中が多かった。
・百姓たちは朝早く起き、夜は手もとが暗くなっても、なお働きやめない。そしてその働
 きは、自分たちの暮らしのためというよりは、年貢をおさめるためのようにみえた。
・友助は、代官役所の下役人の一人として、何度か検見に立ち会ったが、検見を受ける百
 姓たちの表情が、正視に耐えない不安と緊張のいろを浮かべていたことをおぼえている。
 年貢は、期日まで全部おさめきれないときは、残った分は五割の利子をかぶせられる。
 彼らは、藩にしぼり取られるために働いてるように見えた。自分に残るものは、ごく僅
 かだった。
・そして百姓からしぼり取ることに、心も痛まず、その手段に長けた人間がいた。友助が
 代官役所にいたとき上司だった、代官手代中台八十郎がそういう一人だった。
・中台は三沢郷の村々を自分の掌を読むように知っていた。日ごろ村々を回ってもてなし
 と賄賂をうけ、その多寡で、村の検見を平気で加減する。中台は城下に大きな屋敷を構
 え、市中と代官役所のある大島村に妾を置いていた。
・汚吏で酷吏だったが、誰も手出しが出来ないのは、中台のやり方が狡猾で、容易に収賄
 のしっぽをつかませないことと、中台が郡代の中台求馬の血縁に繋がっているためだっ
 た。中台求馬は、十数年藩の農政を仕切っている藩政の実力者で、郡奉行、代官も中台
 八十郎を腫物のように扱った。
・友助が百姓に同情したのは、その暮らしぶりを見たことのほかに、中台八十郎に対する
 反感があったからである。 
・中台のような男がしぼり上げたもので、武家がぜいたくをしているという気がした。そ
 う思う気持ちはいいものではなかった。友助は自分も絹物は着なかったし、妻子にも着
 せるつもりはなかった。ことにはなえは百姓の娘で絹を着せないからといって不服を言
 うはずはなかった。そしてもともと、はなえはつつましい女である。
・それが実家の法事に帰るはなえに、着て行く絹を買いあたえたのは、やはり二年前に赤
 子を亡くしたことに原因があったかもしれない。
 

・早く病死した友助の親たちの墓のそばに、去年の一周忌に建った赤子の卒塔婆があった。
 赤子は男で作太郎と名付けた。だが三月ほどで病死した。父親らしい感情が、やっと本
 物になりかけたところで、子供を失ったあっけなさがあった。
・だが、はなえにとっては子供の死はそういうものではなかったようである。深手を受け
 た獣のように、無口になり、友助にかくれてひっそりと泣いているような日が続いた。
 半年ほどたって、はなえはどうにか立ち直ったように見えた。だが、以前にはなかった
 かげのようなものがつきまとい、時どきぼんやりしていることがあった。そういうとき
 は、死んだ赤子のことを考えているようだった。
・彼岸に墓参りに来たはなえが激しく泣いたのは、一年以上過ぎてからである。そのとき
 は墓地に、ほかにも人がいて、友助は思わず強い口調で叱ったが、赤子の死が、まだは
 なえの心の中に、なまなましく葛口を開いているのを感じて気持ちが重くふさぐのを感
 じたのであった。
・ひと回りして戻ってくると、はなえはまだ墓お前にうずくまっていた。白い首筋と臀の
 まる味が眼についた。しばらく抱いていないな、とふと思った。それは立ちならぶ墓石
 の中で抱く感想としては、不謹慎なようであったが、早春の日射しの中にうずくまって
 いるはなえの姿に、不安で脆い感じがつきまとっているのをみて、自然に浮かんできた
 感想だった。
・赤子が死んだあと、はなえはしばらく夜の同衾を拒んだ。そういうときこそ、肌であた
 ためあうのが夫婦というものだろう、と友助は割り切れない気持ちを持ったが、はなえ
 の考えは違うようだった。友助が手をのばすと、いやがったりあからさまな恐怖を示し
 たりした。はなえの気持ちは、たしかに平衡を失っていると思えた。
・だが友助は無理に強いたりはしなかった。妻をいたわる気持ちよりも、そういう妻の態
 度に、一歩踏みはずせば狂気の領域に踏みこみかねない脆いものを感じ、そのことを恐
 れる気持ちが強かった。
・半年ほど経ったころ、はなえが自分から友助を誘った。だがはなえが回復していないこ
 とはすぐにわかった。自分から誘っていながら、はなえは石のように無感動で、おしま
 いにはまるで罪をおかしているようなそぶりまで見せたのである。
・二人は墓地を出、寺には寄らないで、そのまま門の方にむかった。門まで行ったとき、
 ちょうど外から入ってきた二人連れの女とすれ違った。
・歩き出してから、友助ははなえが動く気配がないのに気づいた。振り向くと、はなえは
 まだ親娘を眺めていた。はなえの顔には、どこか放心したような感じがあり、そのくせ
 眼だけ光っている。どこかあさましい感じがする露骨な視線で、はなえは二人を見送っ
 ていた。 
・「きれいなお召物でしたこと」「お母さまの方が塩瀬の羽織、娘さんの方が羽二重のお
 召物でした」
・「ああいう物を着たいのか」「実家の法事に、なにを着て言ったらいいかと思ってます。
 あまりみずぼらしい恰好もして行きたくないと考えたりして」
・実家というが、大島村で長人を勤めるはなえの家は、伯父の家だった。子供のときに両
 親を失ったはなえは、伯父の家で養われて育った。十八のとき、はなえは友助に嫁入っ
 たが、伯父の家では、この縁談に気乗りしなかったという事情がある。村の長人を勤め
 るはなえの家は、扶持米取りの足軽などよりずっと裕福である。友助が、はなえを嫁に
 望んだとき、伯父は、貧しいだけで、そのくせしきたりだけは士分並みに窮屈な下士の
 家との縁組など、何の益にもならないという態度を露骨に示したのであった。二人はそ
 れを押しきって一緒になっている。
・「買ってやってもいいぞ」「愚痴を言っただけですよ。そんな高いものを、いいですよ」
 「遠慮しなくともいい。たまにはいい着物を着て里帰りするのも、気晴らしになるだろ
 う」「お前さま」
 

・今日の昼過ぎ、友助たち足軽組の者は、城中の庭先に集められて、そこでの藩公の名で
 出された新しい触れを聞かされた。触れは、先に郷中に出された倹約令に続く、士分の
 者に対する倹約令で、祝儀、不祝儀の簡素化、家屋の造作の遠慮、正月五節句の行事の
 簡素化などを命じ、衣類についても「足軽中間は、布木綿のほか一切着すべからず。襟、
 帯、袖へりなどにも絹物使うまじく。妻子同前のこと」と言っていた。
・友助は木綿触れのことを考えていた。はなえは、明日大島村の実家に行く。しかしせっ
 せと仕立てた絹を着ることは出来なくなったわけだった。
・着物を仕立てあげた夜の、はなえの喜びようを思い出していた。その夜、はなえは友助
 に先に休んでくれと言い、遅くまで針を運んだ。出来上がると、うとうとしていた友助
 を起こして着てみせ、脱ぎ捨てるとそのまま友助の床の中に入ってきたのだった。はな
 えの振舞いに引き込まれながら、友助ははなえがただ着物のことを喜んで上ずっている
 のではないのを感じとった。すべてが正常だった。着物のことをきっかけに、妻が立ち
 直ったことを友助は信じた。その証拠に、腕の中のはなえに「また、子を生め」と囁い
 たときも、はなえは嫌悪をしめざす、なまめいたしぐさで応えただけだったのである。
・また、逆戻りしないかそう思うと、友助は着物のことを妻に言うのがひどく気重く感じ
 られた。だが言わずに済むことではなかった。 
・はなえは眼を伏せて、はいと言った。少し表情が曇ったが、それだけではなえの顔には
 すぐ諦めのいろが浮かんだ。
・作っただけで、一度も着ないでしまうことになるかもしれない、と友助は思った。する
 と一枚の着物に、嬉々として心を開いたはなえの、ここひと月ばかりの振舞いが思い出
 された。そう思うと、はなえを欺いたような後味の悪さを友助は感じた。
・「里へ、持っていってはどうだ?これを着てくるはずだったが、突然のお触れで出来な
 くなったと里の者に見せればよい」 
・児戯に類したことをすすめている、という気がした。だが、はなえの望みは、もともと
 子供じみたものだったのだ。友助に嫁入ることに賛成しなかった里の者に、絹を着る身
 分を誇りたい気持ちだけである。そのささやかな誇りが、暮らしも貧しく、子供まで失
 ったはなえを支えるはずだった。
・「ただし、着てはならんぞ。見せるだけにしておけ」


・はなえが、五間川の下流に身を投げて死んだのは、大島村の実家から戻って来て、三日
 目のことだった。
・葬式がすむと、友助はすぐに大島村のはなえの実家に行った。はなえの自殺の原因を調
 べなければならないと思っていた。はなえは誤って川に落ちたのではなかった。紐で足
 首を縛り、覚悟の上の入水であることはわかっている。
・「なにか、心あたりはありませんか」
・「はなえは、五つのときにみなし児になりまして、わたくしの連れ合いが育てました。
 じつの倅や娘もおりましたが、はなえはじつの子よりも可愛がられたものです」
・「法事のために作ったという羽二重の着物を、寺に着て行きましたが、立派でした」
・「はなえは、寺にあの着物を着て行ったのですな?」
・「絹物を着たのははなえ一人、いや・・・もうひと方おられました。代官役所の中台さ
 まですな」  
・そうか、あの男かと思った。ぼんやりと何かが見えてきたようだった。あの男なら、は
 なえが絹物を着ているのを見のがすはずがない。そして何かがあったのだ。
・友助は、ほとんど忘れかけていた、ある記憶を思い起こしていた。それは五年も前のこ
 とだったが、そのときのささいな出来事が、友助とはなえが知り合うきっかけになって
 いる。
・五年前の、ある秋の日、友助は中台八十郎の供をして大島村の清左衛門の家にきていた。
 供は友助一人ではなく、牧三左衛門という中年の足軽が一緒だった。二人は清左衛門の
 家の広い台所の隅で、いろりの火にあたっていた。
・奥座敷で酒宴が開かれていて、その席ににぎやかなざわめきが台所まで聞えてくる。清
 左衛門は二人にも座敷にくるようにすすめたのだが、二人は遠慮した。
・酒好きの牧三左衛門は、遠慮なく酒肴に手をつけたが、友助は酒を飲まなかった。 
・たった一年だったが、上役の中台八十郎がやっていることは、おおよそ呑みこめて不快
 な気持ちが胸の中に募っていた。友助は二十一だった。
・中台は郷村の作毛を見回ると称して、ひんぱんに村々を回る。だが、田畑を見ることは
 ほとんどなく、行った先の村役人の家で酒肴のもてなしを受けて帰るだけだった。そう
 いう上役の供をして村に行くことに、友助は次第に耐えがたい気持ちになっていた。
・好人物の牧には好意を持っていたが、恥じるいろもなく、いわば中台のおこぼれとでも
 いうべき酒に舌つづみを打っている牧をみると、腹だたしくもあり、あさましい気持ち
 もするのだった。
・茶の間の方から女の悲鳴が聞えた。続いて乱れた足音がして台所に若い娘が走りこんで
 いた。十六、七に見える娘は、血の気を失った顔であわただしく台所を見回したが、二
 人をみると走り寄って友助の陰に身体をすくめて隠れた。すると、どたどたと思い足音
 がして、中台の大きな半身が台所をのぞいた。
・「こんなところに隠れておる」中台は娘をみつけると、酔いにそまった顔を仰むけて、
 嬉しそうに笑った。
・中台がゆらゆらと台所に入ってきた。娘がまた小さい悲鳴をあげて、友助の袖をうしろ
 からつかんだ。その手を静かにもぎ放すと、友助は立ち上げって中台とむきあっていた。
・「娘はいやがっているようです。おやめになってはいかがですか」
・「そうはいかんぞ、結城」
・「よせ、よせ結城、失礼ではないか」
・牧の声にあおられたように、中台の顔色が不意に変わった。険悪な眼で睨むと、いきな
 り友助の顔を平手で打った。大きな音がしたが、友助は平然と立っていた。中台は続け
 ざまに友助の顔を張った。友助は顔色を変えずに平手打ちを受けたが、中台が残忍な表
 情になって一、二歩さがり、刀のつかに手をのばしたとき、いややかに声をかけた。
・「血迷われましたかな」
・中台がつかに手をかける一瞬前に、友助の左親指が刀のつばを押しあげていた。中台の
 動きがそのままとまった。友助は城下の八代町にある足軽の武術道場で小太刀の免許を
 とり、柔術にもすぐれている。中台はそのことを知っていて、郷村見回りに供をさせて
 いた。そのことを中台は思い出したらしかった。しばらく友助を睨んだが、ふと顔をゆ
 がめると背をむけて台所を出て行った。
・「ありがとうございました」娘が言って、牧に酒を注ぎ、友助にも徳利をむけた。
・「いや、私はいらん。そちらに注いでくれ」
・友助は手を振って言ったが、そのときになってはじめて娘の顔を見た。娘も友助を見つ
 めた。恐怖からときはなされて、娘は上気した顔いろになっていた。品のいい瓜ざね顔
 で、眼がいきいきと光り、小さな唇が、桃いろの花びらのように見えた。美しい女子だ、
 と友助は思った。中台のしつこさと、娘のおびえようからみて、友助は中台が酒の酌を
 無理強いする以上のいたずらを、娘に仕かけたのではないかと思ったが、娘を見てその
 勘があたっていたように思った。中台は好色な男で、美しい女を見のがさないのだ。
・この女をかばったために、俺は勤めを変えさせられるかも知れんな、と友助は思った。
 だが不思議に、中台はそのときのことについては何も言わなかった。友助はそれからさ
 らに一年、代官役所に勤め、その間に中台の手から助けたその娘と恋におちて娶った。
 それがはなえだった。仲人をしたのは牧三左衛門である。
・そのときも、中台は何も言わなかったので、友助は中台ははなえの一件を忘れたと思っ
 たのだ。だがその男が、五年がってはなえが禁制の絹を着ているのを見たとき、なにを
 考えたか、知れたものではない。
・「じつは今度藩中にもお触れが出て、われわれ下士も絹物を着ることをとめられました」
・「それはいつからですか?」
・「はなえがこちらにくる前日のことです。だからはなえは、あの着物を着てはならなか
 ったのです」 
・清左衛門の顔に驚愕の表情が浮かんだ。
・「そういえば、法事が終わってから、寺の本堂脇の縁側で、中台さまがはなえをつかま
 えて何か話かけているのを見た気もしますが」
・「そのあと、はなえの様子が変わったようには見えませんでしたか」
・「それには気づきませんでした。その日の七ツ(午後四時)ごろ、帰ると言って挨拶に
 来ましたが、べつに変わったところは・・・」
・「はなえは、その晩はことらに泊ったのではありませんか」
・「いえいえ、泊まらずに帰りました。泊ったのは前の夜だけです」
・清左衛門は言ったが、すぐに友助の質問の意味をさとったようだった。暗い眼で友助を
 見て、何度もうなずいた。
・「そうですか。あの晩は、はなえは帰っていませんか。結城さま、はなえはそのために
 死にましたか」 
 

・牧は役所の建物から、友助を外に誘った。
・「わしの口からは言いたくない。しかし貴公がたずねてきたら、言わんわけには行くま
 いと思っていた」
・「その日、はなえがここに来たのですな」
・「来た。中台に呼ばれていると申してな。奥に通った。中台は駕籠を言いつけてはなえ
 どのを乗せ、自分は馬でここを出て行った。城下へ行くと申しておった」
・「牧どのに、はなえは何か言いましたか」
・「なんのために会うかと、わしが聞いた。はなえどのは言いたくない様子だったが、し
 まいに悪いことが見つかってここに来るようにと言われたと申した。悪いこととは何か
 の?」
・「はなえどのが死んだのは、間違いなくきゃつのせいじゃな」
・「結城、しかし軽はずみなことをするでないぞ。相手は人間の屑じゃ。軽挙妄動して身
 をほろぼすなどはつまらん話じゃ」
・三沢郷から帰ると、数日友助は家に閉じこもり、一歩も外に出なかった。友助は大目付
 に提出する訴状を書いた。三沢郷代官役所に勤めた二年の間に見聞きした、手代中台八
 十郎の非業を数え、丁寧に綴った。
・はなえが、中台にはずかしめられて死んだことはあきらかと思われた。友助は代官役所
 のすぐ前にある駕籠屋をたずね、はなえを乗せた駕籠が、その夕方ははなえを城下狐町
 の一軒の家に送りとどけたことを確かめている。その夜、はなえは多分中台の妾宅と思
 われるその家に監禁され、暴行を受けたのだ。
・あるいは、はなえははずかしめを受けることを承知で、中台の妾宅に行ったかもしれな
 いという気もした。はなえは、自分の軽率さから、結城の家に罪科がおよぶ羽目になっ
 たことをさとったに違いなかった。だから中台に言われると、さからうこともせず代官
 役所に中台をたずね、さらに命ぜられるままに狐町まで行ったのだ。そのときから、は
 なえは死んだ気だったかもしれない。
・帰ってきてから、死体になって発見されるまで、二日の間の異常にやさしかったはなえ
 のことを、友助は思い出していた。
・ひょっとしたら、はなえを殺したのは俺かもしれない。はなえはただ一度羽二重を着、
 そのために中台にはずかしめられて死んだ。その事実だけが残っていた。
・中台を斬ることはたやすいことだった。だが、それだけでは腹がおさまらなかった。あ
 の男の醜さを天下に示し、はずかしめてやりたいと友助は思っていた。
・眼の鋭い五十前後の武士が部屋に入ってきた。 
・「訴えがあると申すのは、その方か」「どれ、拝見しよう」
・友助が懐から出した訴状を、武士は受け取ってすぐに開いて読みくだした。長い沈黙が
 続いた。 
・「聞きにまさるものじゃな」武士は少し柔かい口調で言った。
・「なにか、私の怨みでもあるか」
・「いえ、そのようなものはございません」
・友助は隠した。はなえのことは、誰にも言うべきことではなかった。
・武士は、清村内匠だと自分の姓名を名乗り、追って呼び出しがあるまで、家で待てと言
 った。
・だが十日たち、半月がたったが、何の音沙汰もなかった。そして五月のある日、友助は
 組頭に呼ばれて一カ月の謹慎を命ぜられた。理由は、もとの上役に対して、いわれのな
 い誹謗を言い立てたというものだった。同じころ友助は、訴状を受理した徒目付清村内
 匠が、役目を解かれたことを聞いた。
・箪笥の奥から取り出したのは、父親が着た絹物の綿入れだった。友助はためらわずにそ
 れを着た。男物の絹の衣服はそれしかなかった。その上から麻の羽織を着た。心残りな
 ものは、なにもなかった。さむざむとした部屋のたたずまいが、眼に映っただけである。
・狐町の中台の妾宅に着いたとき、まだあたりは明るかった。中台の妾と思われる女が出
 てきた。細面のきれいな女だった。女は着ぶくれた友助の恰好に、奇異な眼をみはりな
 がら言った。
・「いまは留守でございますが」
・「承知しております。こちらで待つようにという中台さまの仰せで参りました」
・女はまだとまどうふうで顔を伏せたが、ではどうぞ、と言った。
・女中がお茶を出して引きさがったあと、家の中はしんと静まりかえってしまった。
・玄関に人声がし、やがて中台の荒々しい怒声がひびいた。友助はその声に無表情に耳を
 傾けた。
・「何の用だ、結城。貴様など呼びはせんぞ」
・「用があるなら早く申せ。わしはいそがしい」
・「着ておるのは絹物ではないか。どういうつもりだ。そんなことをして、ただではすま
 ぬぞ」
・「そう言って、はなえを脅しましたかな」
・「はなえ?ああ、貴様の女房か」「貴様の女房のことなど知らん」
・「あなたは代官役所から、家内を駕籠でこの家まで運ばせた。そしてその夜、ここに住
 む女子を外に泊まらせましたな。この家の権蔵という小間使いの親爺に、そのことは確
 かめてある」
・「言うことをきかなければ、お上に訴える。そうなれば自分だけでなく、亭主も結城の
 家名も危いとでも言いましたか。それでは、あの臆病な家内が、どう手むかえるもので
 はない。死んだ者も同然に、言うことをきいたはずです」
・「それでいいではないか、結城」
・「しかしそのために、家内は死にましたぞ」
・「そんなことは、わしは知らん。女が勝手に死んだのだ」
・「あなたは、人間の屑だ」 
・「貴様、なにをするつもりだ」
・中台が怒号して刀を掴みあげた。その一瞬前、友助は片膝を立てた姿勢のまま、抜き打
 ちに中台の肩を斬った。中台は悲鳴をあげて立ち上げると、横の縁側に逃れようとした。
 その背後から、友助は据えものを斬るように肩から背にかけて斬り下げた。
・これだけ大きな物音がしたのに、家の中はしんとしている。友助は座敷の中央にもどる
 と正座して腹をくつろげた。家の中はなお静まりかえって、腹を切るのをさまたげる者
 は、誰もいないようだった。