狂気 :藤沢周平

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この作品は、いまから45年前の1977年に出版された「闇の穴」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
内容は、木場で裕福な材木問屋の老主人が、橋の上から母と小さな娘の諍いを見たことか
ら始まる。老主人は、置き去られた小さな娘を親切心から保護してやろうとして声をかけ
たのだが、女の子を見ているうちに、久しく眠っていた男の欲望が甦ってきて、その感触
のとりこになってしまい、川べりの草むらの中で女の子を姦したうえ殺してしまうという
内容のものである。
現代の社会でも、男の欲望のために女児を殺してしまうという事件がときどき起こるが、
この作品と似たような状況の中で起こるのかもしれないと思える内容だった。



・男ははじめ、その子を哀れとみて、足をとめて見ていたのである。
・六つか七つぐらいに見える女の子だった。男が立っている新高橋の上から、その子と連
 れの母親が諍っているのが見えた。声は切れぎれにしか聞えないが、言うことを聞かな
 い子供に、母親が手を焼いている様子はわかった。そして母親に投げつけている悪態の
 声が調子をはずれていることから、その子の知恵が遅れていることもわかった。
・日が落ちるころで、その光の中を、怒り狂って遠ざかる母親の背に哀しみがあった。そ
 うして置き去りにすれば、子供が後を追ってくるだろうと、母親は思ったかも知れなか
 った。
・だが子供には、子供の世界があるようだった。女の子は立ち上げると、ひとしきり母親
 の後姿に悪態をついたが、姿が見えなくなるとけろりとして歌を唱いはじめた。
・男は危なくて見ていられなかった。川に落ちたらそれきりである。男の背後を、時おり
 人が通り過ぎるが、誰も遊んでいる女の子に眼をむける者はなかった。足音はいそがし
 く通り過ぎる。始終を見ていたのは、男だけだった。
・男は橋を降りると、女の子のそばに行った。橋の上から見たときより大柄な子供だった。 
・「おっかさんが心配しているよ。帰らないとだめじゃないか」
・女の子は黙って男を見つめたが、不意にはげしくかぶりを振った。
・「あんたにいいものをあげよう。だからおとなしく家に帰りな」
・男は腰から煙草入れを抜き取って、膝の上で根付けをほどいた。女の子が、男の手もと
 をのぞき込んでいる。飴色に使いこんだ根付けはおかめの面が彫ってあった。
・わかったな。早く帰りなと言って、男は子供の手に根付けを握らせると、小さな背を押
 した。根付けをのぞき込んでいる子供を残して、男はそこを離れた。
・木場の方にむかっていた男が、川向うが石島町と末広町の境目になるあたりまできたと
 き、背後に小さな足音を聞いた。振りむくと、女の子がついて来ていた。
・男は困惑した表情で女の子を眺めおろした。女の子は口を開けて男をみている。
・「帰らんと、親が心配するぞ」だが女の子は、不意に身をひるがえして男の脇をすり抜
 けると、前に走った。そして立ち止まって男が歩いてくるのを待っている。
・困った。あんなものをやったのが、かえって悪かったかもしれないと男は思った。
・男の二、三間先を、女の子は歩いている。男が近づくと、ぱっと走って距離をあける。
 そして時どき男を振り返って見る。そういうところが、二つ、三つ知恵が遅れている感
 じがした。あの母親が心配しているだろうと男は思った。
・不意に女の子が川べりにじゃがんだ。男が近づいてみると、女の子は尻をまくって勢い 
 よく小便をしているのだった。真っ白な尻が丸出しで、男は思わず声を立てて笑った。
・「おや、そこ、どうしたね?」男は女の子の内腿に、黒いものがこびりついているのを
 見て言った。女の子が裾をおろして立ち上がってきたので、黒いものは隠れたが、それ
 は血のように見えた。
・「どれ、いまのところを見せてごらん」
・男はしゃがんで、女の子の前を広げた。白い下腹とひろがった二本の脚があらわれた。
 ぽってりと肉づきのいい脚だった。のぞいてみると、内腿に流れているのはやはり血だ
 った。さっき母親に地面をひきずられたとき、切ったらしい傷口があり、血はそこか流
 れて内腿を染め、半ば乾いていた。
・「痛くはないのか」男は裾を閉じて言った。女の子がかぶりを振った。
・そのとき男の身体の中に、久しく死んでいたある感触が甦るのを感じた。男は女の子を
 じっと眺めた。それからその感触をもたらしたものを確かめるように、無言でもう一度
 女の子の裾を開いた。女の子は黙って、されるままになっている。
・白い下腹とぽってりとした脚の間に、小さな貝を伏せたような秘部がのぞいていた。そ
 の間に、感触ははっきりとした形になった。そのものは、男の股間に位置を占め、そこ
 で息苦しいほど大きく膨らみ固くなろうとしていた。世界がくらりとひっくり返るのを
 感じ、男は喜びに貫かれていた。
・男の耳に女の声が聞えている。やっぱり無理なんでしょ?無理なさらないで、休みまし
 ょ、ね?女の声はいたわりをこめてそう言っていた。そう言っているのは、男の連れ合
 いだった。男より十歳年下の連れ合いの身体は、女の成熟をとどめて横たわっている。
 そう言われたとき、男が無言だったのは、連れ合いのまだ滑らかな肌が持つ火照りを、
 消してやれない不甲斐なさを恥じていたのではない。男はそのとき、闇の中に蹲ってい
 る老いと、凝然と顔を突き合わせていたのだった。そうなってから、一年経つ。
・股間にある力強い感触が消え失せるのを恐れるように、男はそっと立ち上がった。そし
 て道の前後を窺った。
・「さ、行こうか」男は女の子の手を引いて乾いた声で言った。男は大栄橋まで行くと、
 十万坪の草地の方に足を向けた。暗い川を、二人は渡った。
 

・二人の町役人につき添われて、急ぎ足に原っぱに入ってきた女は、枯草の上に横たわっ
 ている粗筵の小さな盛り上がりをみると、そこに棒立ちになった。
・「ここへ来て、ちょっと覗いてくれねえか」 
・女はおずおずと近づいてきた。青ざめて、腫れぼったい眼をしているのは、昨夜寝てい
 ないためだろう。
・塚原は蓆をめくった。一瞬女は顔をそむけるようなしぐさをしたが、すぐに眼を小さな
 死体に戻した。崩れるように、女は死体の脇に膝をついた。
・「おつる、かわいそうに、誰がこんなことを・・・」
・おんなはきれぎれに、呻くように言葉をつないだ。
・「これを見てくれ」塚原は掌の上に乗せた。おかめの面の根付けを、女に見せた。
・「この子は、手にこれを握っていたんだがね。見覚えのある品かい?」 
・女は一瞥しただけで首を振った。
・塚原は、男に弄られた痕跡を残していた、小さな死体を思い出していた。
・塚原は、もう一度掌をひろげて根付けを見せた。塚原は面をひっくりかえした。
・「これはなかなかの細工物だ。朝からひっくり返しひっくり返し眺めているんだが、や
 ったお見つけた」「ここに彫ってあるのは、秀とは読めねえかな」
・「それが、こいつを作った根付師の名前ですかい」

 
・五日目に、伊勢次は根付師と、根付師の口から聞いたおかめの面の根付けの持主の名を
 突きとめてきた。根付師は深川豊川町にいた。萬蔵という名の年寄りだったが、秀一と
 いうのが屋号で、看板にもそう書いていた。
・おかめの面の根付けは、木場の山本町にある材木問屋の主人大倉屋新兵衛の注文で作っ
 たと言った。 
・「どうもおかしなぐあいになって来ましたがね」「新兵衛という旦那は五十半ばといっ
 た年配ですぜ。あんな子供にいたずらしたとは考えられませんがね」
・「まわりの評判はどうだね?」
・「新兵衛という人もおかみさんもよく出来た人で、夫婦仲のよさは人もうらやむほどだ
 そうです」 
・新兵衛が、伊勢次にともなわれて仲町の自身番に来たのは、その日の夕刻だった。
・塚原は懐からおかめの面の根付けを出すと、無造作に畳の上に置いた。
・「これだ。あんたに見覚えがねえかと思ってな」
・「これは私の根付けです」「この品は私が先日、道で落としたものです」
・「十万坪のところで、女の子が殺されたことを聞いているかな」と塚原が言った。突然
 な言い方がった。
・「はい、聞いております。恐ろしいことでございます」
・「あんたが、こいつを落としたというのは、その日のことじゃねえのかい」
・「思い出しました。確かにあの日のことでございます」
・「子供が、この根付けを持っていたんだがね」
・「その子供が、これを拾ったものでございますかな?」
・新兵衛を帰すと、それまで黙っていた伊勢次がにじり寄ってきた。「いかがですか、旦
 那」「べつに怪しげなところは、ござんせんでしょう」
・「とうとも言えんな。あの男は、子供が殺されたのが、見つかった日でなくて前の日だ
 と知っていたぜ」 
・「普通の人間はな。死体が見つかった日を殺された日と考えているものだろうが。しか
 し殺した人間なら、そこを間違えるようなことはないわけだ」
 

・三十三間堂の東仲町に、目立たない待合茶屋がある。最初に若い男がそこから出、しば
 らくして四十過ぎの女が出てきた。人通りは少なく、誰もこの二人を注意して見る者は
 いないようだった。女の姿はみるみる北に遠ざかった。
・新兵衛はその後ろ姿をじっと見つめ、姿が見えなくなると、ゆっくりと歩き出した。女
 は連れ合いのお房で、先に出た若い男は、養子の栄三郎だった。
・二人がいつからそんなふうな間柄になったのか、新兵衛には見当がつかない。
・新兵衛の耳に、お房の声が甦る。無理しなくともいいのよ。仕方ないことだものね。
・不思議なことに、新兵衛の心の中にあるのは、嫉妬ではなかった。それどころか、心の
 片隅に、どこかほっとした気分さえある。栄三郎とあんなふうになっているのは困りも
 のだが、お房のなかにまだ残っているはなやぎを、いたわってやりたい気持ちがあった。
・ところどころに大きな構えの家があった。大方は大倉屋と同じ材木屋で、まだ灯をとも
 していない家が、薄闇の中に獣のように蹲っている。
・「おや、どうしたね、お嬢ちゃん」
・吉永町に渡る要橋の手前で、新兵衛は声をかけた。女の子が一人、橋の欄干に顔を伏せ
 て泣いている。五つぐらいの子供だった。
・女の子は小さくて、走り去る子供たちについて行けず、取り残されたらしかった。女の
 子は新兵衛の声に、ふり仰ぐといそいで両手で顔の涙をぬぐった。
・「家はどこだね。おじいちゃんが送ってあげよう」
・「あっち」
・笑いかけながら、新兵衛は娘の肩に手を置いた。小さな肉の手応えと温かみが伝わって
 きた。そのとき、新兵衛の身体の中で、なにかが動いた。なにかはそのままゆっくりと
 動き続けている。それは新兵衛の中で、とうに死に絶えた筈の感触だった。そうじゃな
 い、と新兵衛は思った。
・いつだったか、同じようなことがあった。それも、この間のことだ。
・ごくりと、新兵衛は喉を鳴らした。それから乾いた声で言った。
・「心配することはない。わしが連れて行ってやる」
・新兵衛は、女の子を抱き上げた。いい匂いと柔かく、小さい感触が、新兵衛を包み込む
 ようだった。世界が、くらりとひっくり返った。新兵衛の身体を喜びが貫き走った。
・「あっち」と女の子が叫んだ。よし、よしと行って新兵衛は少しずつ橋を離れると、扇
 町の草地の方に引き返した。女の子が暴れて、新兵衛の顔をこぶしで打った。その痛み
 が新兵衛には快かった。喜びで身体中の血が若わかしくざわめいた。
・「おい」
・不意に薄闇の中から、声がした。新兵衛が顔を上げると、男が二人立っていた。岡っ引
 きの伊勢次と もう一人は塚原という奉行所の同心だった。
・「邪魔するな」
・新兵衛は怒号した。戻ってきた懐かしいものが、二人の男の出現で、消え去ろうとする
 感触に苛立っていた。 
・二人の男が、交互に何か言った。鋭い声音だったが、新兵衛はその声を聞かなかった。
 いきなり子供を抱いたまま走り出した。泣きわめく子供の声がしている。そしてどこま
 で走っても、後ろからぴったり足音がついてくる。それでも新兵衛は走りやめなかった。
 まださっき戻ってきたものの影を追っていた。走りやめれば、それが二度と戻って来な
 いことを感じていた。