草笛  :松本清張

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この小説は、周吉という十七歳の少年が、若い人妻に淡い恋心を抱いた、初恋の物語であ
る。恐らく、周吉というのは作者自身であり、作者自身の若い時の実体験ではないだろう
かと想像する。
この小説を読んで、自分の初恋を思い出した。甘酸っぱい初恋は、その時はとても胸が苦
しいが、後になるといい思い出でもある。
年を重ねてから、「初恋の人ともう一度会ってみたい」と言う人もいるが、それはやめて
おいたほうがよさそうだ。清く美しい初恋の思い出は、美しいままに保存しておいた方が
よい。下手に年を重ねてからから初恋の人や昔の恋人に会うことは、その美しい思い出を
汚してしまう可能性が大である。そんな思いをさせられた小説である。

・周吉が十七歳の時だった。周吉の両親は、その市でささやかな飲食店をしていたが、そ
 れが少し繁昌しはじめ、二階に客を上げるように改造したので、祖母と周吉は近所の雑
 貨屋の二階に間借りをさせられた。この二階は、真ん中に廊下を通じて表と裏の二部屋
 があり、裏の部屋は当時空いていた。
・正月が過ぎたころ、借り手がついた。独り者の若い女だった。それが二十二歳の冴子だ
 った。冴子と周吉の間は、しばらくは何の交渉もなかった。
・周吉には、その周囲に若い女がいなかった。だから、同じ家に冴子のような女が来たこ
 とで、何となく愉しい気分になった。
・冴子は、ある会社の事務員をしていて、そこに勤めている友達のところで夕食をとって
 帰ってくるようだった。朝はパンで済ますのだが、電熱器に載せたパンの焦げる匂いが、
 よく周吉のいる部屋にも流れてきたものだった。パンを食べるということがいかにも文
 化的のようで、田舎の貧しい家に育った周吉にとっては、それも新鮮な気分の一つだっ
 た。   
・冴子と周吉とは、時折、廊下で逢うことはあったが、それは両方で軽くお辞儀をする程
 度だった。しかし、若い女とのつき合いを持っていない周吉には、そのことだけでも愉
 しかった。 
・冴子は、実際は独身ではなかった。彼女は、この市から三里ばかり離れているNという
 旧い城下町の石版印刷屋の妻だった。恋愛結婚だった言うが、姑との折り合いが悪く、
 離婚するつもりで家を出て、友達の勤めているこの市の会社に入ったのだということだ
 った。彼女が人妻だということは、周吉にはちょっと意外だった。
・その頃、周吉は文学が好きで、同人雑誌を友達とやっていた。同人雑誌の相談に、よく
 彼の部屋が使われるようになった。冴子と周吉とが口を利くようになったのは、この同
 人雑誌のことからである。あるとき彼女と廊下で遭うと、冴子のほうから周吉に微笑み
 ながら話しかけてきた。「何か、文学でもやっていいらっしゃるの?」周吉は恥ずかし
 くなった。文学などといわれると、テレくさかった。が、年上の彼女お口から出ると、
 恥ずかしい一面、それが妙に正当のようにも思われた。周吉が同人雑誌を出しているの
 だと答えると、冴子は、一度それを見せてくれと言った。彼女と朝晩の挨拶以外の口を
 利いたのはそのときが初めてだった。
・周吉は、はじめて彼女の部屋に入った。部屋はいかにも若い女の趣味の模様で、周吉は
 甘い空気に柔らかく包まれるのを憶えた。周吉は冴子に、持ってきた薄い同人雑誌を出
 して見せた。彼はそれを彼女に手渡すとき、恥ずかしさと得意さが交錯した。作品の批
 評でもしてくれるのかと思っていると、彼女は一言のもとにその編集方針を貶した。周
 吉はいっぺんに砂をかけられるような気持ちになった。
・冴子は、その頃まだ珍しかった洋装で会社に出勤した。これも周吉にひどく新鮮に映り、
 そういう若い女性と同じ屋根の下で暮らし、自由に話が出来ることを誇らしげに思った。
 会社から帰ると、彼女は着物に着替えたが、その着ている物も大柄な模様で、派手な色
 だった。その華やかな色彩にも心がときめいた。一緒にコーヒーを喫みに近所に行った
 ことが何度かあった。街を歩いていても、通りすがりの男たちが彼女の顔を盗み見るよ
 うにしてすれ違うのだが、そんなことも周吉にはうれしかった。これまでそういう女性
 との近づきがないだけに、彼は冴子と一緒にいると甘美な気持ちに絶えずさせられた。
・冴子にはそれまで訪問客は滅多になかったが、三月ごろになって、彼女の部屋に男客が
 来るようになった。夜遅くまで話し込んでいたが、その話の内容はひどく混み入ってい
 るように思われた。その男の訪問が婚家との話し合いの使いであることは、うすうす察
 しがついた。現在、別居しているのだが、夫のほうが彼女に還ってくるように言ってく
 るらしかった。
・ある遅い晩、突然、冴子はひとりで居た周吉に襖越しに声をかけてきた。周吉が廊下に
 出ると、彼女は部屋の中からこっちに入ってくれ、と言った。周吉は襖を開けた。冴子
 はスタンドを枕もとに点けたまま蒲団の中に入っていた。花模様の美しい色が、最初に
 周吉の眼を奪った。冴子は、周吉が入って来ても寝たまま、枕元に坐ってくれ、と言っ
 た。少しも彼を警戒していない表情だった。「わたしね、この家に居るのがもう長くな
 いかもわからないわ」彼女は仰向いて天井を見ながら言った。
・スタンドの光が冴子の額から鼻筋に当たり、額の半分から口もと、顎のほうは影になっ
 ていた。眼のまわりも影が溜まったように暗くなっていた。その淡い明暗が女の顔を薄
 彫りにしていた。甘酸っぱいような匂いは、さっきから漂っている。周吉は長くそこに
 居ることが出来ず、自分の部屋に急いで帰った。 
・ある日、冴子は、ちょっとN市に帰ってくるといって帰った。廊下を一つ隔てた座敷は、
 まるで倉庫のように周吉には思えた。
・周吉は、N市という土地をまだ知らなかった。冴子が生まれたというその土地も見たか
 ったし、そこへ不意に訪ねて行った自分を彼女に見せて、びっくりさせたい気持ちもあ
 った。周吉は、最初から彼女の実家に行くつもりはなかった。彼女がその近所に出たと
 き、道端で都合よく出遭うつもりだった。周吉は道路の上で待った。何時間でもこうし
 ているつもりだった。しかし、かなり時間が経っても彼女の姿はみえなかった。
・周吉は最初の決心を翻して、冴子の実家の格子戸を思い切って開けた。出て来たのは、
 彼女の父親だった。周吉ははずかしそうに彼女を訪ねてK市から来たことを言うと、冴
 子は今、皮の土堤のほうに行っている、と父親は教えた。周吉は土堤の上に立ち、広い
 展望の中で彼女を探した。すると、ずっと向うのほうに子供が十人ばかり群れていた。
 その中に背の高い女がいた。周吉は、一目でそれが冴子だと知った。
・冴子は、周吉が声をかけたことで驚いてこっちを見た。そして、それが周吉だと分かり
 と、もっとびっくりした顔をした。「何をしに来たの?」その声の中には、明らかに驚
 愕と周吉への非難とが籠っていた。それでも周吉が折角遠いところから来たことを思い
 やったのか、冴子は周吉としばらく道の上を歩いた。が、周吉は、もう弾んでいた気持
 ちが完全に崩されて、しょげていた。ふと見ると、牛を繋いでいる草の間を、背の高い
 青年が草笛を鳴らしながら歩いていた。
・冴子が帰ってきて、ふたたび同じ家での生活がはじまった。しかし、もう周吉と一緒に
 散歩することはなかった。それだけでなく、以前ほどに彼とは親しそうな口を利かなか
 った。周吉は、自分がN市に彼女を訪ねたことが彼女を怒らせたと思った。実際、その
 時を境にして、彼女の周吉に見せる態度が冷淡に変わってしまった。 
・ある日、彼女は久しぶりに周吉の部屋に来た。「やっぱりN市に帰るわ。会社も明日っ
 きりで辞めるの」それが彼女の別れの予告だった。周吉は思わず、それまで彼女を顔を
 思い浮かべながら描いた、彼女の似顔絵を彼女の眼の前に差し出した。冴子は、ちょっ
 と見ていたが、急に憤ったような顔をして、「どうしてこんなつまんないことするの?」
 と言うなり、その絵をいきなり奪い取ると、力をこめてそれを裂いた。周吉は呆気にと
 られた。その破り方が酷く強烈だったし、表情もいつになく真剣だった。周吉は、彼女
 をこんなことでまた怒らせたのを後悔した。
・その後で、周吉が廊下で彼女と逢うと、彼女は周吉の顔をじっと見て低い声で言った。
 「周吉さん、堪忍してね」ただ、それだけだった。周吉は、その一言がどのような意味
 か分からなかった。周吉にその意味が初めて分かったのは、彼が十七歳という年齢から
 五、六年経った後だった。
・爾来、音沙汰もない数十年が経った。周吉は、東京に出ていた。ある日、郵便物の中か
 ら冴子の手紙を発見した。やはりN市の住所になっていた。手紙の内容は、二人の息子
 が成長して、今もやはり石版屋をやっていること。夫には他に女が出来て、数年前から
 家出していること、印刷業が不況でひどく困っていること。新しい機械を入れたが、そ
 の金がないので数万円貸してくれないかということだった。
・周吉はその無心の手紙に返事を出さなかった。もちろん、金も送らなかった。もし、返
 事を出したり金を送ったりすると、彼女との文通が頻りとなる、少年の頃、彼の胸の中
 居た冴子が、うす汚ない不幸な老婆になってしまうからだった。間借りの家を出てゆく
 前日、年下の周吉に、堪忍してね、と詫びた彼女の顔の美しさと若さを、周吉はいつま
 でも気持ちの中に保存しておきたかった。