黒地の絵 :松本清張

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この小説は、1950年代に起きた朝鮮戦争時に、日本で実際に起きた事件を題材にした
小説である。日本がサンフランシスコ講和条約を交わして主権を回復し、アメリカの占領
が終了したのが1952年であるから、まだ占領下において起きた、とても興味深い事件
である。
その事件は、小倉市にある米軍基地において起きた。朝鮮戦争に送り込まれるために一時
この基地に滞在した一群の黒人米兵の集団が、夜に基地の外に抜け出し、周囲の民家を襲
ったのだ。この本では、それは不幸な出来事だった。不運が重なったとしているが、はた
して、それだけですまされてよい事件だったのか。
あの終戦からまだ5年しか経っていないというのに、当時の日本はすでにあまりにも無防
備な状態になってしまっていたのではないのか。しかも、海を挟んだ隣の国では、また戦
争が始まっているというのにだ。昔から日本人は、国際情勢に疎いと言われているが、そ
れはこんなところにも現れていると言えるのではないのか。当時から日本は、平和ボケの
国となってしまっていたと言えるのではないのか。そして、それは、現代でもなお続いて
いる。日本という国は未だに自立していない。未だに実質的に米国の属国に甘んじている。
現在、ふたたび朝鮮半島での有事の可能性が高まっている。勇ましさを誇示したい人々が、
盛んに戦争へ戦争へと煽り立てている。しかし、その人たちは、戦争の本当の悲惨さを知
らないのだろう。自分は絶対に戦場には行くことがない人たちなのだろう。どんなに戦争
の正統性を主張したところで、戦争の悲惨さは変わらない。勇ましさを誇示したい人たち
に、そのことをしっかり認識してもらいたい。

・1950年6月28日 米国防省は韓国の首都ソウルが陥落したことを確認した。
・1950年6月30日 米国防省は4万の米軍が朝鮮に派遣すること、そしてそれは日
 本駐在する部隊が派遣されることを発表。
・1950年7月3日 米軍部隊は韓国前線ではじめて北朝鮮軍に対する戦闘行動に入っ
 た。 
・1950年7月11日 米軍地上部隊は、圧倒的に優勢な北朝鮮軍と激戦を交えたが、
 重大な損害を受けてふたたび後退した。
・1950年7月16日 北朝鮮軍は強力な掩護砲火のもとに大田に向かって猛進撃をし
 ており、米軍前線に阻止できぬほどの大部隊を投入している。米軍は大田飛行場を放棄
 した。
・1950年7月24日 北朝鮮軍は韓国西南端の海南を占領しさらに東部に進撃。
・1950年7月24日 トルーマン大統領は米兵力を約60万に増加し、新たにどんな
 戦闘が発生しても米国としてこれに対処しうるようにするため、追加支出案を議会に提
 出。  
・太鼓は祭の数日前から音を全市に隈なく鳴らしていた。祭礼はそれが伝統をもった囃子
 として付随していたから、祭の日の前より、各町内で一個ずつ備品として共有している
 太鼓を道路の端に据えて打ち鳴らすことは習慣だった。
・7月12日、13日が毎年の小倉の祇園祭の日に当たっていた。
・太鼓のたたき方には、乱れ打ちなどいくつかの曲芸めいたしぐさがあるが、音は単調な
 旋律の繰り返しであった。
・太鼓の音は、祭のくる何日間も前から小倉の街中に充満するのであった。音は街の中だ
 けでなく、二里ぐらい離れた田舎にも聞こえた。離れた所で遠く聞いた方が、喧騒な音
 を低くし、統一し、鈍い、妖気のこもった調和音となって伝わった。
・ジョウノ・キャンプは街から一里ばかり離れた所にあった。戦争中は陸軍の補給廠であ
 ったが、米軍が駐留してからも、そのまま補給所に使用した。
・そのキャンプは、周囲には有刺鉄線の堀が張りめぐらされ、探照灯をそなえた見張台が
 立った。この内には米兵が何百人かいて、おもに兵士の被服の修理や食糧の製造をして
 いるとのことであった。 
・7月のはじめから、このキャンプの内の兵士の数がふくれあがっていた。ふくれあがっ
 ては萎み、またすぎにふくれた。兵士はどこからか汽車で運ばれてはここにはいり、す
 ぐにどこかに出て行くが、また同じくらいな人数がよそから来て充足した。市民たちは、
 その行先が朝鮮であることを知っていた。が、どこから彼らが運ばれてくるのかは知ら
 なかった。 
・7月10日の朝、一群の部隊がキャンプに入った。彼らは56本の列車輸送を要したほ
 どの人数であったが、ことごとく真っ黒い皮膚を持っていた。不幸は、彼らが朝鮮戦線
 に送り込まれるために、ここをしばしの足だめにしたばかりではなかった。不運は、こ
 の部隊が黒い人間だったことであり、その寝泊りのはじまった日が、祭の太鼓が全市に
 鳴っている日に一致したことであった。  
・なぜ、それが不運か、あるいは、危険かは、日本人にはわからなかったが、さすがに小
 倉MP司令官はその危惧を解していた。彼は市当局にたいして、祭典に太鼓を鳴らすの
 はなるべく遠慮してほしいと申し入れた。
・市当局は押し返した。いま太鼓をやめては、祭典ははなはだ寂寥となり、ひいては市民
 は市民は現在の朝鮮の戦況に結びつけて不安を感じるだろう。人心を安定し、勇気をも
 たせるためにも、ぜひ祭典は例年どおりに実行させていただきたい、と言った。司令官
 は眉をひそめて黙した。彼はそのとき危惧の理由が言えなかった。このことは、後でわ
 かったのだ。 
・黒人部隊が到着した日は10日であった。彼らは岐阜から南下した部隊で、数日後には
 北朝鮮共産軍と対戦するため朝鮮に送られる運命にあった。彼らは暗い運命を予期して、
 絶望に戦慄していたということは多分に想像できるのだ。北朝鮮軍は米軍が阻止できぬ
 ほどの大部隊の海で南下をつづけつつあった。
・米軍は釜山の北方地区に鼠のように追い込まれていた。そこにこの黒人部隊が投入され
 る予定だったのだ。戦地に出動するまで5日と余裕はなかったに違いない。そのことは
 彼らが一番よく知っていた。彼らが共産軍の海の中に砂のように没入してゆく運命であ
 ることも。 
・到着した10日の日も、むろん、小倉の街に太鼓の音はまかれていた。黒人たちは、不
 安にふるえている胸で、その打楽器音に耳を傾けたに違いなかった。単調なパターンの
 繰り返しは、旋律に呪文的なものがこもっていた。彼らはむき出た目をぎろぎろと動か
 し、厚い唇を半開きにして聞き入ったであろう。音は、深い森の奥から打ち鳴らす未開
 人の祭典舞踊の太鼓に似かっていた。キャンプと街との間に横たわる帯のような闇が、
 そのまま暗い森林地帯を思わせた。
・黒人兵士たちの胸の深部に鬱積した絶望的な恐怖と、抑圧された衝動とが、太鼓の音に
 攪拌せられて奇妙な融合をとげ、醗酵をした。音はそれだけの効果と刺激とを黒人兵た
 ちに与えたのだった。遠くから聞こえてくるその音は、そのまま、儀式や、狩猟のとき
 に、円筒形や円錐形の太鼓を打ち鳴らしていた彼らの祖先の遠い血の陶酔であった。
・聞こえてくる旋律は、肉体のリズム的衝動にしたがっていた。肩を上下に動かし、自然
 と掌をひらひらさせる、あの黒人の陶酔的な舞踊本能をそそのかさずにおかないものだ
 った。  
・兵営の周囲は土堤が築かれ、その上にとがった棘の鉄線の柵が張りめぐらされてあった。
 見張台からは照射灯が地上に光を当てていた。しかし、これは普段から兵士の脱出をさ
 またげなかった。というのは、土堤のところどころには、排水口の土管がはめこんであ
 り、兵営の庭から道路脇の溝に通じていたのだ。土管は、大きな図体の人間が一人はっ
 て行くには十分な直径をもっていた。兵士たちは、夕方からこの土管を通って外出し、
 一夜を女のところで過ごし、早朝に土管から帰営するのであった。
・日本人の解さない、この打楽器音のもつ、皮膚をすべらずに直接に肉体の内部の血にう
 ったえる旋律は、黒人兵士たちの群れを動揺させ、しだいに浮足立たせつつあった。
・風が死に、蒸し暑い空気がよどんでいる9時ごろであった。兵士たちの影が通用口の入
 口にひっそりと集まった。彼らは高い背をかがめ、土堤の陰にうごめいていた。一人ず
 つが土管の筒の中をはって膝で歩いた。土管は物にふれあった金属製の音を立てた。音
 は靴の鋲ではなく、もっと重量のある音響をたてた。自動小銃の台尻や、腰の拳銃が土
 管をひっかく音だった。自動小銃と手榴弾がそれぞれの幅広い背にあった。武装は完全
 だった。  
・太鼓の鈍い音律が、彼らの狩猟の血を引き出した。この狩猟には、蒼ざめた絶望から噴
 き出したどず黒い歓喜があった。
・彼らは、知らされなくても、海の向こうの戦況に敏感であり、米軍の一歩一歩の敗退が、
 彼らの生命に直接かかっていることを知っていた。退却する味方と、追ってくる敵との
 隙間に、彼らは投入されるのだ。
・もともと、アフリカ奥地で鳴らす未開人の太鼓には、儀式の祈りがある。彼らの祖先が
 アメリカ植民地開拓の労働力として連れてこられたとき、白人から教えられた神の恵み
 に感激し、奴隷の拘束された生活のうちに光明を見出して創造した黒人霊歌にも、アフ
 リカ原始音楽のリズムが、神とは別な、呪術的な祈りのリズムが流れて潜んでいる。
・黒人たちは5,6人が一組だったり、15、16人が一組だったりした。統一はなかっ
 た。白人兵は一人もいずに、黒人兵の将校もまじっていた。彼らは兵営の西南部の広い
 地域にかけて、数々の村落に散った。自動小銃をにない、手榴弾を背負った兵士の群れ
 は、どのくらいの組に分かれていたのか見当がつかなかった。一組ずつの単位で行動し
 ていたが、組と組みとの間は連絡もなく、命令者もなく、ばらばらであった。言えそう
 なことは、彼らが戦争に向かう恐怖と、魔術的な祈りと、総勢250人の数が統率者で
 あったことだった。
・留吉は、家の中にいて、遠くで人の騒ぐ声を聞いた。蚊帳の内で読んでいた本から顔を
 あげて耳を傾けた。妻の芳子は、電灯の下で留吉の作業服のつくろいをしていた。家は
 6畳と4畳半の二間であった。家賃が安いのは、家が古いのと場所が辺鄙なためだった。
 近所は5,6軒あったが、互いに畑で離れていた。前は道路で、向かい側に田園がひろ
 がっていた。 
・芳子は、針をとめて声に聞き入るようにした。声はすぎに静かになった。彼女はシュミ
 ーズ一枚だけで、髪の生ぎわに汗をうかせていた。十時が過ぎていた。
・表の戸はを閉めると、暑いので、もう少し風をいれておこうかと、開けたままにしてお
 こうと、留吉は芳子に言った。このとき、遠い距離から炸裂音が二発起こった。ずいぶ
 ん遠方からで、音は小さくてみじかかった。留吉は、それを花火の上げる音と思った。
・留吉は、ざわざわした声をまた聞いた。こんどはもっと近くだったが、あいかわらず言
 葉の正体はさだかでなかった。隣の小屋の鶏が羽根をたたいて駆ける音がし、犬が吠え
 た。靴音が乱れて地上に響いた。口笛が低くした。
・留吉は蚊帳の中で起き上がり、四つんばいになって、表に来た、ただごとでない物音を
 判断しようとしていた。芳子は立ち上がっていた。表の声は、騒音をやめたが、一つの
 言葉がはっきりと飛び込んできた。「コンニチハ、ママサン」
・「あんた、進駐軍だわ」芳子は夫に向かって言った。まだ怖れはなかった。このあたり
 には、ときどき、米兵が女を連れて通りかかり、物を売りつけることがあった。「いま
 ごろ来て、しょうがないな」と留吉は蚊帳から這い出た。彼は、表の暗いところに大き
 な男が5,6人かたまって家の中を覗いているのを見た。
・「ビール」大男はいきなり注文した。「ビール、ナイ」留吉は手を振った。この返事を
 聞いて、はじめて彼らの静止した姿勢が動揺した。「サケ!」ひと言叫ぶと、大男は靴
 音を立てて、ぐっと留吉の前に顔を突き出した。留吉は手をあおぐように振った。はじ
 めて彼は、相手がいつもの調子と違っているのに気づき狼狽した。背中に銃を背負って
 いるのが目に入ると、不安が急激に湧いてきた。
・留吉は強い力で突き飛ばされた。大男たちは靴を畳に踏みつけて、障子を鳴らしてあが
 ってきた。芳子は蚊帳の陰に走りこみ、立ちすくんだ。一人の黒人兵は太い指で彼女を
 さし、げらげらと笑った。青い蚊帳の傍で、彼女の白いシュミーズがふるえていた。
・黒人兵たちは口笛を鳴らした。「カモン、ママサン」一人が黒い指で下からあおぐよう
 に手招きした。留吉は、黒人兵たちの前に立った。彼の背はすぐ前の男の胸までしかな
 かった。「サケ、ない。帰ってくれ」
・黒人兵たちは、目を留吉に移した。彼らは肩の自動小銃のベルトをに手おやり、それを
 ずりあげた。留吉は真青になった。
・黒人兵は、もう以前から酔っていた。留吉は目の前の男が緑色のシャツを脱ぐのを知っ
 た。留吉は恐怖におそわれ、逃げようとしたが、芳子が押し入れに隠れている理由で生
 唾をのんで踏みとどまった。
・シャツを脱いだ男は、上半身を裸体にした。真っ黒く盛り上がった肉が犀の胴体のよう
 にはれあがっていた。留吉の目には、正面の黒い中に桃色の一羽の鷲が翼を広げている
 のが見えた。黒人兵は、手をズボンのポケットに突っ込み、何かを取り出した。握った
 ものをぱちんと鳴らした。その金属性の音といっしょに、光った刃がはね出た。留吉は
 その場で棒立ちになった。血が足から頭に逆流した。膝から力が脱け、頭の中が助けを
 もとめてわめいた。体中から汗が噴いた。
・襖が倒れる音がし、芳子の叫ぶ声が聞こえたとき、黒人兵たちは歓声をあげた。彼らは
 野鳥のような声で啼き、口笛を鋭く吹いた。「あんた、あんたあ」と、芳子は叫んだ。
 「逃げろ、早く逃げろ」と留吉は叫んだ。しかし、芳子の体が黒人兵たちに捕獲されて
 いることは留吉にもわかっていた。
・芳子は悲鳴を上げ続けた。黒人兵たちは、上ずった声で笑い、きれぎれの言葉を投げあ
 っていた。留吉は、突然、「エム・ピー}と言った。MPに訴えるぞ、ととっさに口か
 らほとばしり出た言葉だった。この言葉は、予期しない効果を黒人兵たちに与えた。そ
 の中の一人が表に走り出た。靴音が暗い外で忙しく歩きまわった。家の中の黒人兵たち
 は、斥候の様子を息をつめたふうに見守った。斥候が外からもどってきた。外は暗い夜
 がよどんで一帯を閉じ込めているだけで、MPのジープなどどこにも走っていないこと
 を報告したに違いなかった。
・5人の黒人兵たちは次の間になだれこんだ。芳子の声がまた起こった。留吉は頭が朦朧
 となった。意識の喪失は何分間かわからなかったが、彼が体に縄が巻き付いたことで、
 また正気に返った。
・いつのまにか、黒人兵たちがズボンを脱ぎ、パンツだけになっていた。5人が黒い肉塊
 が電灯の光に輝かしていた。彼らは安心しきって、これからの供宴を陶酔しようとして
 いた。芳子は、息の切れそうな声をあげ、黒人兵の妙にもの優しげな、なだめる声がま
 つわりついていた。5人の黒人兵たちは、白い歯をあらわして留吉をわらった。
・隣の部屋では、一人の黒人兵が呻きをあげた。彼らはその方に向かってはやしたてた。
 一人の大男は、我慢できぬというように、踊りだした。彼の黒い胸には、赤い色で女の
 裸体の一部が彫こんであった。盛り上がった両の胸乳の凸部を利用して、赤い絵は立体
 的に見えた。彼は、身体をちぢめたり広げたりした。その皮膚の皺の伸縮のたびに、刺
 青の女陰の形は活動した。
・隣から黒人兵が名前を呼んだ。5人の中の1人が急いでそっちに行った。ほかの4人は
 彼の背中に声で送った。順番を得た男はそれに手を振った。4人は、また5人になった。
 それは番を終わった男が新しくはいったからだ。彼は、パンツをずり上げ、皆に、にや
 にやと笑ってみせた。  
・芳子の死ぬような声はやんでいた。黒人兵の声だけがあえいで叫んでいた。こちらの5
 人の喧騒の中に、それはきれぎれに聞こえた。留吉は、体中に火を感じていた。
・1時間近い暴風が過ぎた。そのあとは畳中が泥だらけになり、雑多な器物が洪水の退い
 たあとのように散っていた。障子も、襖も倒れていた。留吉はひとりで縄を脱けた。黒
 人兵たちがいなくなったので操作が大胆になったからだ。自由になると本能的に表に走
 って戸を閉めた。黒人兵がふたたび侵入してくる気づかいよりも、近所の誰かが忍び寄
 ってうかがいに来はしないかという懸念からだった。   
・留吉は這うように畳の上を歩き、隣の部屋に行った。芳子の声は長いことまったくして
 いなかった。覗きこむと、青い蚊帳の波の上に、白い物体が横たわっていた。芳子は、
 髪を炎のように立てて、首を投げ出し、ボロきれのように横わたっていた。顔が歪み、
 白い歯を出して口をあけていた。意識はなかった。下着はまくれ、頸のところに押しあ
 げられて輪のようにかたまっていた。乳も腹もむき出し、足を広げていた。下腹から腿
 にかけて血が流れていた。
・留吉の頭から正気が逃げた。周囲が傾き、ものの遠近感がなくなった。彼は妻の体の上
 にかがみこみ、両手に頬をはさんで揺すぶった。芳子の艶を失った蒼い顔は、そばかす
 が気味悪く浮き出ていた。「芳子、芳子」留吉は呼つづけた。声が思うとおりに出ずに、
 かれて自分のものとは思えなかった。やがて芳子は顔をしかめ、歯の奥からうめきをも
 らした。頸が動いた。彼女は自分の体の上に乗った重量を払うような格好で、背を反ら
 そうとした。  
・留吉はタオルを三枚ばかりバケツに漬け、水をしぼった。手には握力がなかった。しゃ
 がみこんで、ぼたぼた雫の落ちるタオルで芳子の腹と股の間をふいた。タオルは血で真
 赤にになった。芳子亜、歯の間から呻き声をもらしながら、両足を突っぱって、彼のな
 すままになっていた。嬰児が粗相をしたとき、母親がするような操作を彼はつづけた。
 あるいは、死人を棺に入れる前にする湯灌を連想された。妻の皮膚をふき清めながら、
 彼は現在のこの瞬間が現実とは思えなかった。少なくとも、現実の中に彼があるとは思
 えなかった。いったい。自分が何をしているのか、どうしてこの位置にいるのか、目的
 は何なのかわからなくなった。つまり、自己というものが、ふっと遠のき、妻との間隔
 すら、つながりがぼやけてきた。頭の中の狂燥が渦巻き、その遠心力が彼の思考をあら
 ぬ方に放擲して弛緩させたようにみえた。屈辱も、醜怪も、そのぎりぎりの極限におぼ
 れているときは、無音のようにそれを意識せぬもののようだった。留吉は、芳子の体の
 上にたくれた下着をひきさげた。その下着も裂けていた。彼は彼女の浴衣をとってその
 上をおおった。       
・留吉は、表に走り出ると、暗い夜はいつも見慣れたままで、森や畑を閉じ込めていた。
 遠くの空がぼうと明るいのは街の方角だった。その方向にむかって彼は駆けた。どこか
 で花火の音がした。花火が今ごろ鳴るわけはない。黒人兵たちが侵入してくる前に聞い
 た音と同じであった。どこの家も雨戸を閉ざして灯がなかった。
・突然に横から人間の影が2,3人飛び出してきた。彼は鉄兜をかぶり、拳銃を吊った警
 官だった。警官は黒人兵のことを知っているような口ぶりだった。「どういう被害があ
 ったのかね?」警官は、留吉の顔をのぞいて言った。その声音に好色的なものが露骨に
 出ていた。「酒を飲まれただけです」留吉は悲しそうに答えた精一杯、悲しく言ったの
 は、それだけを強調しほかのことを悟られまいという用心からだった。
・「今夜はもう帰んなさい。街は全部、交通を遮断している」留吉は、はじめて警官が鉄
 兜をかぶって、こんな場所に立っている理由を知った。被害は自分だけではなだそうだ
 という奇妙な安心が、彼のどこかに押しひろがった。「奴らは自動小銃も手榴弾も持っ
 ている。われわれでは手がつけられない」{MPがでているのですか?」留吉は体の中
 がずんとしびれた。「MPだけじゃおさまらん。兵営から二個中隊が出動しているのだ。
 数十台のジープに乗ってな。ジープの先には機関砲がとりつけてある」「MP司令官は、
 脱走兵が言うことをきかなければ、機銃で殲滅すると言っている。白人と黒人は仲が悪
 いからな」
・家に帰ると、芳子は、もとのままで蚊帳の中に横たわっていた。呻きも聞こえず、身動
 きもしなかった。何分間か黙ったままでいた。芳子は死んだようにしていたが、彼女が
 醒めていることは留吉にもわかっていた。やがて芳子が咽喉から嗚咽をもらしはじめた。
 すすり泣きはしだいに高まり、身もだえする男の声のような号泣にかわった。「芳子」
 留吉は妻の体に手をかけた。彼女の号泣がその手を誘ったのだ。うつ伏せになり、もが
 いている彼女の体は堅く、彼のさわった手ははじかれそうだった。
・留吉は、二度つづけて妻の名をよんだ。よぶというよりも、そうせずにはおかない強い
 られた力にひきずられた。それはあきらかに屈辱の本体が妻であり、自分は連累者であ
 るという気づかない違和感が、もっと妻の屈辱に密着せねばとつとめさせたのだ。ここ
 には夫と妻という因縁関係よりも、実体と縁との位置関係が感情の不平等をつくったの
 だ。芳子は、跳ねるように体を回転させると、両手で留吉の帯をつかんだ。ひどい力だ
 ったので彼は倒れそうになった。「死ぬ。死ぬ」芳子は顔中涙と汗だらけにして叫んだ。
 「死ぬことはない」と、留吉は叫び返した。「死ぬな。おまえが悪いのじゃない。おれ
 が男として意気地がなかったからだ。ゆるしておくれ」彼は妻の頸を引き寄せた。彼女
 は顎を反らせていたが、すぐに彼の顔に目をすえた。くらい影の中からその目は光って
 いた。彼を験すかのような目つきであった。
・彼のどこかに狼狽が起こった。しかし、次の瞬間、芳子は狂って彼にしがみつき、声を
 上げて泣き出した。留吉は、妻の体をおおった浴衣をはねのけた。彼女の脚が彼から逃
 れようとした。彼は自分の足でそれを押さえた。こんな行為で妻の屈辱に同化しよとい
 うのか、留吉は激しい昂ぶりの中でに、まだ妻に密着しようとする自分の努力を感じた。
 彼の胸板から汗が流れた。が、行為の同調はあっても、意識の不密着はとり残されてい
 た。
・昭和25年7月11日夜の、小倉キャンプで起こった黒人兵たちの集団脱走と暴行の正
 確な経緯を知ることは誰も困難である。記録はほとんど破棄された。しかし、彼らが
 25師団24連隊の黒人兵であったことは確かであった。250名はその概数である。
 彼れらは午後8時ごろ、兵営から闇の中に散って行った。手榴弾と自動小銃を持ち、完
 全武装をしていた。彼らは民家を襲った。夏の宵のことで、戸締りしていない家が多か
 ったから侵入は容易である。武装された集団の略奪と暴行が、抵抗を受けずにおこなわ
 れた。日本の警察が事態を知ったのは、9時ごろであった。しかし外国兵に対しては、
 無力だった。警察署長は全署員を召集し、市民に被害が拡大しないことにつとめた。市
 内から城野方面に向かう一線は全域にわたって交通を遮断した。新聞社のニューズカー
 で市民に危険を知らせ、戸締りを厳重にするよう警告した。これだけが、日本側の警察
 がとりうる最大限の処置だった。
・暗い夜の街をニュースカーがわめいて走った。それでさえ報知には制約がある。駐留軍
 の集団脱走とは言えない。表現には曖昧さがあった。が、その曖昧さが、市民にかえっ
 て緊迫感を現実に与えた。戸締りをしてください、外出しないでください、とニュース
 カーは連呼した。
・城野方面の民家からの被害の情報が次々に入り、正式に小倉署に届けられたものだけで
 も78件に達した。いずれも暴行、強盗、脅迫の申し立てだったが、表面には出さない
 婦女暴行の件数は不明である。届出の中には次のようなことがある。会社員某の家では、
 25歳の妻と夕食中、突然、表の戸が蹴破って4,5人の黒人兵が侵入、サケ、ビール
 と真っ黒な手を出したが、某が台所の一升瓶を差し出すと、彼らは銃を放り出して飲み
 はじめた。某はそのすきに妻を窓から裏の物置に隠した。部屋に妻のいないことに気づ
 いた一人の兵隊は、小銃の台尻で某をなぐり2週間の傷を負わせた。別の某の家では、
 妻が嬰児と二人で留守番をしているところに黒人兵に踏み込まれ、泥靴で部屋を荒らし
 たあと、妻の体を飢えた目つきで眺めていたが、一人がシュミーズの上から彼女の乳房
 を玩弄した。が、表にMPのジープの音が聞こえると、彼らはガラス戸を破って逃げ出
 した。  
・しかし、届出にはかくされた何かがある。MPのジープが来たというが、MPの活動は
 それほど早くはなかった。事実、婦女がそれ以上の屈辱を受けたという申立ては1件も
 なかった。黒人兵が下着の上から乳房を玩弄したという言葉には、もっと奥の隠蔽があ
 る。      
・MPの活動は緩慢であった。数十名が現場付近に来たが、なすことを知らない。完全武
 装の相手が250名もうろついていたのでは、手出しができないのは当然だった。脱走
 兵が発砲すると、MPも応射した。しかし、彼らはじぶんたちではどうにもならぬこと
 を知った。   
・二個中隊の鎮圧部隊が次に出動した。部隊の打ち上げる照明弾が夜空を照らし、両軍の
 射ち出す機関銃、自動小銃の弾曳は赤く尾をひき、銃声は森閉とした周囲6キロの地域
 に聞こえた。
・脱走部隊の25師団のM代将はが、この責任は自分にある。反乱兵の説得は自分がしよ
 う、と言い出して、ジープに乗ったのだ11時過ぎであった。城野の北一帯は田畑地で、
 その暗黒の中を黒人兵が彷徨していた。数十台のジープがそれを包囲し、ヘッドライト
 を照射した。強烈な光芒の縞の交差の中に、黒人兵たちが草の茂みや、稲田の中から立
 ち上がった。草は光線に白く輝いたが、脱走兵たちは泥にまみれた黒い姿を鼠のように
 さらした。M代将は拡声器で彼らを呼んだ。黒人兵たちは、両手を上げ、人数のほとん
 どがキャンプに追い込まれたのは数時間後であった。彼らの背にはジープの機関銃が銃
 先を向け、車は彼らの歩くのと同じ速さで営門までしたがった。
・彼らが、翌日、どのような処罰を受けたか誰も知らない。おそらく処罰は受けられなか
 ったであろう。必要がなかったのかもしれない。彼らの姿は2日とたたないうちに城野
 キャンプから消えていた。
・1950年9月15日 米海兵隊ならびに歩兵部隊は韓国西海岸に仁川に大挙上陸した。
・1950年9月26日 米軍はソウルを奪回した。
・1950年11月4日 北朝鮮西部戦線で少なくとも二個師団に相当する中共軍部隊が
 戦闘に参加していることを確認した。
・1950年11月30日 トルーマン政府は「米政府は朝鮮の新たな危機に対抗するた
 め、どうしても必要とあらば、中共軍に対して原子爆弾を使用することも考慮中である」
 と言明した。
・1950年12月1日 平壌駐在の国連軍部隊は南方への撤退を開始した。
・1951年元旦 マッカーサーの日本国民に与えるメッセージが発表された。彼はその
 中で朝鮮の目下の戦局に言及し、世界平和をおびやかすいかなる侵略者をも、米国は撃
 破する決意のあることを語った。しかし、それから4日後、米軍が、38度線を越えて
 きた中共軍のため、再びソウルを放棄して、水原、現州の線に後退した。おびただしい
 米軍兵士の戦死体が北九州に輸送されている噂がこの一帯に広がった。風聞は部分的だ
 が、卑近な具体性をもっていた。       
・事実、その死体処理所は城野キャンプの広い敷地の一部にある建物があてがわれていた。
 旧陸軍時代も補給廠だったが、2階建3棟と20棟の倉庫の古びたものが死体の処理の
 ために使用された。建物の周囲の空地には、死体を詰めて運んできた空棺がいくともの
 山に野積みされ、臭気は、風のある日は近くの民家まで流れてただよい、雨の日は地面
 を滓みたいに這った。
・死体はまだ軍服をまとっていたが、どれも完全ではなかった。外皮を取り去り、下着を
 脱がせるまでが、ここでの労務者たちの仕事であった。傷つき、破壊された戦死者たち
 に屈みこんで向かうのは米軍の医者たちだった。
・外景室には30人ばかりの日本人労務者が働いていた。彼らは、軍医の死体検査のすむ
 のを待って、次の解剖室に送らねばならない。検査は精密で時間がかかった。軍医が調
 べ、下士官が記録をとった。
・下士官は、死体がまだ生きて戦争に出発する前に控えられた台帳によって引き合わせた。
 台帳の数字が、当人が生きていた時の痕跡であり、台に横たわった物体が死の遺留品だ
 った。 
・内景室は、解剖室のように複雑だった。が、解剖ではない、組立てだった。死体はさま
 ざまな形をしていた。弾丸が一個の人間をひきちぎり、腐敗が荒廃を逞しくしていた。
 目も当てられぬこれらの胴体や四肢をつくろい、生きた人間のように仕立てるのが、こ
 の部屋の美しい作業だった。四肢を合せるのは困難で、熟練を要する作業だった。軍属
 の技術者が、部分品を収集し、考古学者が土器の破片で壺を復原するように人間を創っ
 た。  
・死者には安らかな眠りが必要だった。平和に神に召された表情で、本国の家族と対面さ
 せることは礼儀であった。それは死者の権利だった。臓器を取り除いた空洞には、これ
 以上の荒廃が来ないように防腐剤の粉末が詰められた。それから股をひろげ、胯動脈に
 ホルマリン溶液にまぜた昇汞水が注射された。
・それから彼らは、寝棺に身を横たえた。函の底にはベッドがあり、周囲の壁には銅版が
 貼られていた。死者は柔らかい毛布二枚にくるまり、ガーゼと脱脂綿とドライアイスが
 隙間を埋め、芳香を持った防腐剤の粉末がまかれ、顔の部分だけが知人とあいさつする
 ためにガラス窓からのぞいた。300ドルがこの豪奢な棺の値段であった。死者はこの
 贅沢に満足して、軍用機に乗り、本国に帰った。
・米軍は共産軍を押し返した時、前に敗退した際に地中に埋めて残した戦死者を掘り起こ
 して移送してきた。それらはたいていゴムズックの袋や天幕に包まれていたが、中身の
 物体は半ば白骨化していた。それから腹が樽のように膨満した巨人の死体も混じってい
 た。もちろんこれはずっと新しいものである。米軍が38度線を踏み切り、中共軍のた
 めにふたたび押し戻された最近の死体に違いなかった。
・死体は倉庫の整理棚に300ぐらいしか収容できなかった。一日の処理能力は、80体
 が限度だった。軍医たちは、終日、いらいらしなければならなかった。
・留吉は、勤めていた炭坑がつぶれて失業し、3カ月前から、この死体処理所で日本人労
 務者として働きだした。妻とは1カ月前に別れたとのことであった。
・留吉は、黒人死体の刺青を見ていた。刺青を見て探していた。
・あるとき、そこで知り合いになった歯科医が、留吉に「奥さんと別れたのは、間がうま
 くかなかったのかね?」と尋ねると、「僕も妻も、別れたくなかったのです。でもそう
 いう仕儀になったのです」と答えた。
・歯科医が「どうだい、君も気づいたろう?戦死体は黒人兵が白人兵よりずっと多いだろ
 う」と言うと、留吉は目をあげて返事の代わりにした。「おれの推定では、死体は黒人
 兵が全体の3分の2、白人兵が3分の1だ。黒人兵が圧倒的に多い、ということだな。
 黒人兵がいつも戦争では最前線に立たされているということなんだ」「朝鮮戦争の米軍
 は黒人よりも白人が圧倒的に多いにきまっている。それが戦死体では逆の比例になって
 いるのは、戦線の配置による」
・70、80人のアメリカ人と、ほぼ同数のやとわれ日本人とが、死者の大群と戦闘をつ
 づけていた。生きている人間は単数だが、死者は無数の複数だった。もがれた頭、胴体、
 手、足は、寸断された爬虫類のようにそれぞれの生命を主張してわけいていた。10個
 の頭部には10個の胴体を求めなければならず、さらに20本ずつの手と足との員数を
 揃えなければならなかった。指は100本を要する。
・その日にあつかった死体はかなり時日が経ったものだった。地の中に埋めたものが掘り
 出されたらしく、いたみははげしかった。あいかわらず黒人兵が多く、黒い皮膚は妙な
 具合に変色していた。頸のない胴体には刺青だけが完全な絵で残っていた。それは両乳
 にかけて翼をひろげている一羽の鷲であった。
・低い口笛が短く鳴り、小さなざわめきが起こった。一台の解剖台の周囲を下士官たちが
 とり巻いていた。解剖台には大男の黒人兵が、これはあまり破壊されぬ姿のままで仰臥
 していた。ここにも黒地に赤い絵が貼られていた。みぞおちから臍にかけて女の体の一
 部が拙劣に描写されていた。みなの視線はそれに集まっていた。どのような目的で、こ
 の黒人兵はおのれの体にこのような悪戯をほどこしたのか。この男は低能なのか。どこ
 か西部のさびしい農地で働き、ほとんど教養らしいものを持っていなかった百姓ではあ
 るまいか。でなければ、あんな、ひどいものを彫るわけがないと歯科医は思った。あれ
 では軍隊から解放されて帰郷したとき、人前に出せるものではない。刺青は、たぶん、
 彼が日本のどこかの基地にいるときに彫らせたに違いないから、無知な彼は、郷里に還
 ったときの後悔まで考えなかったのであろう。がこのとき歯科医の顔色が少し変わった。
 そうだ、あの黒人兵は生きて本国に還ることを計算しなかったのかもしれない。彼は死
 を予想し、大急ぎであの絵を腹に彫刻させたかもしれないのだ。だとすれば、彼は無知
 ではなかった。彼の絶望はそのとおりにここに腐って横たわっているから。
・一人の日本人労務者が、隅に屈みこんで何かしていた。下士官は背後から忍びよって、
 上から覗きこんだ。それから奇矯な叫びをあげた。人びとが声を聞きつけて寄ってきた。
 留吉がナイフを手に持って、しゃがんていた。腕のない、まるみのある黒人の胴体だけ
 が彼の前に転がっていた。皮膚の黒地のカンバスには彼赤い線が描かれている。彼の見
 つめた目には、翼をひろげた一羽の鷲が三つに切り離され、裸女の下部は斜めにさかれ
 て幻のようにうつっていた。が、彼の後ろに集まってきた人間には、彼のその尋常でな
 い目つきがすぐにわかるはずがなかった。