暗い渦 :藤沢周平

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この作品は、いまから43年前の1979年に出版された「神隠し」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
この作品のように、好きな女性からはあまり好かれず、好きでもなかった女性からは惚れ
られる。そしてある出来事から、思いもしなかった男女の組み合わせができていく。
美人だからしあわせになれるとは限らない。美人でないからしあわせになれないともかぎ
らない。女のしあわせは美人・不美人だけでは決まらない。男と女の組み合わせとは、な
んとも不思議なものだと改めて思った。
この作品の主人公の信蔵と似たような経験を持つ男性は、少なくないのではと私には思え
た。そして人生とはこのように、思いもしなかったとつぜんの運命受け入れ、辻つまを合
わせながら生きて行くほかないのかもしれないと思った。



・来年の春までに、店に仕事場を作る。職人を置く。そうして準備が出来たら、うちに来
 て、親方として筆作りの腕をふるってもらえないか。信蔵が、筆師の弥作に出した話は、
 そういうものだった。
・「これまでも、よそからこういう話があったんじゃないかね。山城屋さんなんかはどう
 でした?」
・弥作が承知したことで、信蔵はほっとした気持ちになってそう言った。山城屋は隣町の
 筆屋で、信蔵の店ととくい先を競り合っている。いわば商売敵だった。
・無口な弥作は、信蔵の言葉にただ首を振っただけだったが、乳のみ子を膝に抱いた弥作
 の女房が補った。「いいえ、こんないいお話ははじめてですよ」
・これでひと仕事終わったな。見送られて外に出ると、信蔵はもう一度そう思い、ほっと
 した気分になった。弥作は二十七でこの腕をもっているのだから、丸抱えして、暮らし
 の煩いをのぞいてやれば、もっといい仕事をするかもしれない。そう思う気持ちの中に、
 商人の張り合いがあった。
・不意に信蔵の足がとまった。おゆうさんじゃないか。
・別人かと思うほど顔が痩せていたが、女はこちらに顔をむけていたので、間違えようが
 なかった。
・おゆうは背に赤児をくくりつけ、路地を跳ね回っている子供たちの中から、五つぐらい
 の男の子を家に引き入れようとしていた。
・あのひとが、こんな裏店に。
・信蔵は茫然としたが、思いついて弥作の家にもどった。弥作の女房がびっくりした顔で
 出迎えた。 
・「つかぬことを聞くが、この並びで、木戸口の家は、どういうひとが住んでいるんです
 かな」「あそこなら大工さんですよ、仙太というひとですがね」「おかみさんの名は?」
 「おゆうさんで言うんですよ」
・女房の顔に、薄笑いが浮かんだ。「仙太っていうひとは、大酒のみでねえ。そのうえ酔
 うとあばれるんですよ」
・信蔵は弥作の家を出た。盗み見るように、おゆうの家を横目で見ながら木戸を出た。ほ
 かの家が、みな灯をともしている中で、その家だけがまだ暗いのが、いかにもしあわせ
 のない家のように見えた。
・あれから八年にもなる。と信蔵は思った。少し暗い気持ちになっていた。おゆうの痩せ
 た顔と、つぎあたった粗末な着物、そして男の子を殴ったときの粗暴な身ごなしを思い
 出していた。
・八年前に縁が切れたおゆうを、信蔵は近ごろめったに思い出すこともなかったが、心の
 底ではずっと、あのひともいまごろはいいところのかみさんに納まっているに違いない、
 と思いつづけてきたようだった。そのことを疑ったことはなかった。
・おゆうは美人で、小さいながら内証のいい小間物屋の娘だったのだ。どこかでしあわせ
 に暮らしているだろうと思う気持ちには、結ばれなかった女に対する、淡い悔恨のよう
 なものがつきまとったが、一方で信蔵は、そう思うことで安心していたと言ってもよい。
 多少でもわけがあった女が、不幸せでいるのをみるのは辛いことだが、おゆうにはその
 心配がなかったのだ。
・その安心感が、一度にくつがえされたようだった。
・しかし、おれのせいではあるまい。あのときおれは、あのひとにふられたのだから、と
 信蔵はむかしあった、ある出来ごとを思い出しながら考えた。それはおゆうと別れるき
 っかけになった、八年前の出来ごとだった。


・八年前の信蔵は二十にだった。
・死んだ父親の政吉は、同じ町内で育った小間物屋の幸右衛門と昵懇のつき合いをしてい
 て、幸右衛門の娘おゆうをいずれ信蔵の嫁にという話が、信蔵がまだ子供のころから決
 まっていた。しかし政吉が死に、亀屋という古手屋が店を仕舞ったことで、その関係に
 微妙な変化が生まれたようだった。
・そして皮肉なことに、信蔵の家が商売をやめたころから、おゆうの家の方は商売がにぎ
 やかになったようだった。
・父親たちが約束したと言っても、ただの口約束である。裕福になった小間物屋で、おゆ
 うを、これから筆屋をやるといっても、海のものとも山のものともわからない信蔵にで
 はなく、もっとしっかりした家に嫁にやりたいと考えても不思議はないし、また幸右衛
 門にそういう気持ちがあれば、こちらは引きさがるしかない。
・店が休みのときや、商いの都合で近くまで来たなどというとき、信蔵はよくおゆうに会
 っていた。おゆうは会うたびに美しくなるようだった。子供っぽいところが消え、まぶ
 しいほどの娘盛りを迎えようとしていた。
・おゆうは十八だった。信蔵は親たちの約束などというものを離れて、おゆうに惹かれて
 いた。嫁にもらうなら、おゆうしかないと思い、おゆうと一緒なら、どんな苦労にも堪
 えていけるという気がした。
・子供じゃないんだから。お手々つないで花見ばかりしたってつまらない。信蔵は、伯父
 の家からひまをもらって帰る途中で考えたことを、胸の中でおさらいをしてみた。ざっ
 と花見をすませたら、おゆうを誘ってどこかで酒を飲もう、と信蔵は考えていたのであ
 る。そのための金も用意していた。
・酒を飲むのは、おゆうさえいやがらなければ、出合茶屋のようなところがいい、と信蔵
 ははっきりそこまで考えていた。出合茶屋というところははじめてで、勝手もらからな
 かったが、信蔵は今日はおゆうをそこに連れ込むつもりだった。
・この春、まだいくらか寒さが残っていたころ、信蔵は風邪をひいたという母親を見舞い
 にきて、家にひと晩泊った。その夜、おゆうを外に誘い出し、近くの八幡神宮の境内ま
 で行った。そこでおゆうと口を吸い合ったことを思い出していた。一年ほど前から、お
 ゆうは信蔵に唇を許していたが、その夜は口を吸い合いながら、信蔵が乳房をさぐるの
 を許したのだった。
・むろん、はじめ信蔵の手は何度も押し返された。だが、くつろげた襟もとから、信蔵の
 手が強引に胸に滑り込んだ瞬間、おゆうはがくりと膝を折ったようになって、信蔵に身
 体の重味をあずけてきたのだった。
・着物の上からは想像も出来なかった、たっぷりと重い乳房だった。その柔かく重いもの
 を握りしめながら、信蔵は感動のために、頭の中がしんと虚ろになった気がしたのであ
 る。
・伯父の店の後とりである従兄の清太郎は、めったに店も手伝わない遊び人で、信蔵は去
 年あたりから二、三度遊所に連れ出された。だが、また女を抱いたことはなかった。従
 兄は、そういう信蔵を嘲笑ったが、信蔵は最初に抱く女はおゆうでなければとなぜかか
 たくななまで、その考えにこだわっていた。
・女を抱くということが、どういうことなのか、信蔵にはっきりわかっているわけではな
 かった。ましておゆうの身体などということになると、幾重にも神秘な布に覆われてい
 るようで皆目見当もつかなかった。
・だが、そういうこととはべつに、いつからか信蔵の心の中に、一匹の獣としか言いよう
 のない狂暴なものが棲みついたようだった。その生きものは、おゆうの身体を覆う布を
 爪で切り裂く。いくら裂いても裸が見えてこないのにいら立って、また布を切り裂く。
 人には言えない、強く暗い衝動だった。その獣めいた物思いのはげしさに、信蔵は堪え
 がたい気がする日もあった。そして、おゆうを抱かなければ、そいつはおさまりがつか
 ないのだと思っていた。
・「おぎんちゃんを連れていっちゃだめ?え、いいでしょ?」
・「何であんなやつを連れて行くんだい。せっかく二人だけで花見が出来ると思って楽し
 みにしていたのに」
・おぎんはおゆうの友だちだが、信蔵も小さいころは一緒に遊んだ仲で知らない人間とい
 うわけではない。だが肥って、気が強くがさつで、信蔵は好きではなかった。
 

・「それで、どうしたんだね、つまるところは・・・」
・「どうしたもこうしたもないよ。花見して、屋台の団子を喰って、帰りに広小路の水茶
 屋でお茶を飲んで帰ったよ」
・「こいつはほんとのバカだよな」
・「夫婦約束をしている女と寝たくて、うずうずしているんだが、不器用だから、いつま
 でたってもものに出来ねえんだ」
・いつもは伯父に気がねして黙殺してしまうその誘いに、自分から乗ってやって来たのは、
 清太郎にその話をしたかったからだが、いい酒の肴にされただけのようだった。信蔵は
 やけになって酒をあおった。
・「お前な、出かける前から、今日は酒をのうなんて言っちまうからいけないんだよ。女
 だってお前、心の仲じゃやりたい気持ちはあるんだぜ」
・二十六の清太郎は、まるで三十男が説教するような口調で言った。
・「そりゃ泣くかもしれないさ。だが、そんなものは、いま泣いた烏がもう笑うってやつ
 でな。なんのこともありはしないんだ。そのあとは、おゆうって言ったっけ?その女の
 方でお前を離さなくなるよ」
・「そういうもんかな」と信蔵は言った。
・だが、おれには出来そうもないな。と信蔵は思った。清太郎の言うことは、ぼんやりと
 わかる気がしたが、あのおゆうにそんな乱暴な真似は出来ない、と思った。
・その夜、信蔵ははじめてそういう場所に泊った。帰るのが億劫なほど酔ってもいた。
・「いつまでおっぱい眺めてんのさ。赤ん坊じゃあるまいし」
・信蔵が、浅黒く盛り上がっている乳房をなでていると、おきみがそう言い、たくみに身
 体をよじって信蔵の身体の下に入ってきた。そしておきみが開いた身体の中に、あっと
 いう間に吸い込まれた感触があったと思う間もなく、信蔵は終わっていた。
・さっさと始末して離れたと思うと、もう軽いいびきをかきはじめたおきみのそばで、信
 蔵は仰向けのままぼんやりと天井を眺めた。女がこれだけのものだとはおもえなかった。
 おゆうは違うだろうと思い、そのおゆうに内緒で、ほかの女と寝てしまったことを後悔
 していた。


・その年の八月の終わりのある夕方、信蔵は八幡宮の近くにある馬場の隅で、おゆうを待
 っていた。
・手ごろな空き店が見つかり、店を開くのは年の暮れ近くになりそうだったが、いよいよ
 一人立ちする時期が来たことは間違いなかった。
・店を持てば、次は嫁をもらう番である。むろん商売の成り行きを見ての話だが、信蔵は
 なるべく早くおゆうと一緒になりたいと思っていた。
・おゆうには、どこかで飯を喰いながら、そういう話をしようと言ったのである。おゆう
 は拒まなかった。笑顔でうなずいた。
・馬場のそばは、広場のように道が広くなっていて、人通りが少ない場所である。
・広場の端に、女の姿が現われた。信蔵は胸をおどらせたが、近づいてくる女を見て眉を
 ひそめた。女は待っているおゆうではなく、おぎんだった。
・「だめよ。待っていてもおうゆちゃんは来ないのよ」とおぎんは言った。色の白い丸顔
 に、憐れむような笑いをうかべている。信蔵はかっとなった。
・「なぜ来ないんだ」
・「つごうで行けなくなったんだって」
・「それだったら、自分で言いに来たらいいじゃないか」
・「言い辛いからでしょ?約束したのにことわるのって、ぐあい悪いものね」
・「おゆうちゃんに、なんかご馳走してやるつもりだったんだって?いいな」
・「あたしも一ぺんぐらい、信ちゃんにそんなふうに誘われてみたいよ」
・「じゃ、あんた一緒に行くかい?」
・信蔵はおゆうにつれなくされたことで引っ込みがつかなくなっていた。そうかと言って
 家にもどっては男がすたるという気持ちもあったが、信蔵は昼の間に浅草の西仲町にあ
 る小料理屋まで行って、部屋をとってもらっていたのだ。
・今日の話が、二人にとって大事な話だということはおゆうにもわかっていたはずだと信
 蔵は思った。それなのに、友だちを使ってあっさりことわりを言うとは許せないという
 腹立ちもあった。
・「ほんとにいい?」
・「あいつは、これが嫌いなんだよ」
・「そんなことないよ。おゆうちゃんは、会うとあんたの話をするもの。こっちはあてら
 れっぱなしさ」 
・「だったら、なぜおれを避けてばかりいるんだよ、こら」
・信蔵はおぎんを引き寄せ肩を抱いた。肥って、やわらかい身体だった。
・「そんなこと、あたしが知るもんか」
・おぎんは乱暴に言って、顔をあげると信蔵の頬をちゅっと吸った。信蔵は深くおぎんを
 抱き込んだ。若い娘の匂いが鼻腔にあふれた。おぎんはじっとして動かなかった。
・「あったけえ身体だ、おぎんちゃん。ここにてを入れていいか」「だめよ」
・一瞬、おぎんは正気を取り戻したように胸もとの手をはずして、信蔵の顔を見たが、信
 蔵が無言で荒々しく胸をさぐると、急に身体の力を抜いて信蔵の肩にすがった。
・信蔵は頭の隅をおゆうの乳房がかすめて通りすぎたのを感じた。だが、信蔵はての動き
 をとめようとはしなかった。荒々しくおぎんの着物の襟をくつろげ、乳房を引き出そう
 とした。
・白く、思ったより小ぶりで形のいい乳房が、襟の外にこぼれ出たとき、おぎんは微かに
 おびえ泣くような声をあげた。そしてひしと信蔵にしがみついて来た。
・あの襖をあけると、夜具が用意してあるな。一点さめた気持ちで、信蔵はそう思ってい
 た。いまはそればかり考えていた。渦が解けて、一方的な奔流となって自分を押し流そ
 うとしているのを感じた。
 

・あの夜が、運命の変わり目だったな。信蔵は八年前のその夜のことを思い出していた。
・やはり、おれのせいなのかね。あの夜、おぎんとの間にあったことを、信蔵は過ちだっ
 たと思おうとした。酔いがさめ、夜が明けてみると、それが間違いだったことは明らか
 だと思われた。
・朝、伯父の店に帰る前に、おぎんを呼び出して八幡宮の境内に行くと、そう言った。詫
 びを言い、忘れてくれと言った。
・おぎんはうつむいて聞いていたが、信蔵が言い終わると、真面目な顔になって言った。
 「気にしないでよ。信ちゃん。あたしも悪かったんだから。おゆうちゃんには悪いこと
 をしたと思うけど、昨夜のこと、あたしは悔んじゃいないよ」
・「もう、信ちゃんとは会わない方がいいわね」そう言うと、振る向かずに急ぎ足に境内
 を遠ざかって行った。信蔵がおぎんを哀れだと思ったのは、その背を見送ったときだっ
 た。だが一方で、おぎんが面倒なことも言わず、めそめそ泣いたりもしなかったことに
 ほっとしてもいたのである。
・そのあと、信蔵はおゆうにも会わず、むろんおぎんにも会わなかった。店を出す支度に
 追われたこともあったが、その忙しさに身を任せることで、犯した過失を忘れようとも
 していたのである。おゆうを嫁にする気持ちは変わっていなかった。
・だが、その虫のいい算段が、無残に打ち砕かれる日がやって来た。信蔵の店におぎんが
 やってきた。
・突然たずねてきたおぎんに、信蔵は顔色が変わるほど驚いたが、ともかく上がれよと言
 った。だがおぎんは家には入らなかった。
・仕方なく信蔵は、母親にことわって外に出た。足は自然に、人気のない神田川の岸の方
 にむかった。 
・もう会わないなどと立派なことを言いながら、突然たずねてきたりして、やっぱり女だ
 なと腹立たしく思い、またそうしてたずねて来たおぎんにおびえてもいた。
・「何か用だったのか」信蔵がそう言うと、おぎんはやっと足をとめた。だが信蔵を振り
 向かずに、顔をそむけたまま言った。
・「赤ちゃんが・・・」 
・「え?え?」と信蔵はどもった。
・するとおぎんがくるりと振り向いて信蔵を見た。おぎんの丸い顔には、あるかがやきの
 ようなものが現われていたが、信蔵と眼を見合わせると、そのかがやきはみるみる薄れ
 て、陰惨な暗い顔に変わった。
・「信ちゃんには、迷惑をかけないつもりなのよ。でも、一人でいると心細くなって」
 まっすぐ信蔵を見つめたまま言うと、おぎんは不意に顔をゆがめ、ぼろぼろと涙をこぼ
 した。醜い泣き顔だった。その顔を茫然と見つめながら、信蔵は自分がまがまがしく黒
 い運命の手に、がっしりと鷲づかみにつかまれてしまったことを感じたのだった。
・ふた月後に、信蔵は腹のふくれたおぎんと簡単な祝言をあげ、所帯を持った。その間お
 ゆうから、何のたよりもなかった。おゆうの両親も何も言って来なかった。
・見捨てられたのだ。と信蔵は思った。自分から顔を出せる立場ではないので、よけいに
 強くそう思った。
・もともと乗り気ではなかったのかもしれない。信蔵はそう思った。口約束とはいえ、父
 親同士で言いかわしたことがあるから、むげにことわることもできないでいたが、本心
 はもっとちゃんとした家に嫁がせたいと親は思い、おゆうにもそう言っていたのではな
 いかと、そこまで考えた。
・おゆうはもっといいところに嫁にいける女だし、小間物屋では今度のことをもっけの幸
 いにと考えたかもしれない。そう考えれば、今度の見事なほどの黙殺ぶりもよくわかる、
 と信蔵は思った。
・結局おれには、おぎんのような娘が、分相応ということなのかもしれないと、次第に信
 蔵は思うようになった。そう思うのは、一緒になってみて、おぎんを少し見直している
 せいもあった。 
・おぎんは案外に家事が巧みな女だった。掃除に洗濯、飯の支度と骨身を惜しまずくるく
 ると働き、信蔵の母親を大事にした。大きな腹を抱えて嫁に来たというひけ目があるに
 しろ、ついこの間までのがさつな物言いも影をひそめ、家の中のことをきちんと始末し
 ているおぎんが、信蔵には意外だった。
・信蔵は、だんだんはじめのころの不満を忘れた。最初の子は女だったが、三年目にまた
 一人、今度は男の子が生まれるとおゆうのことは次第に忘れた。
・庄助に会ってみようか。信蔵は不意にそう思った。庄助は町内の幼馴染みである。庄助
 の女房も、おゆうはおぎんより年下だが、やはり町内の人間だったはずである。そこへ
 行けば、おゆうが、なぜ裏店住いなどしているのかわかるだろうと思った。


・飯が済むと、おぎんはすぐに後を片づけてお茶を入れた。そしまた縫い物にもどった。
 一緒になった当座は、不器量な女だと思い、この女と一生暮らして行くのかと、自分の
 軽率さを呪ったりしたものだが、子供を生み、人にはおかみさんと呼ばれ、奉公人も置
 いている中で、女にもそれなりの貫禄のようなものが出てくるものだな、と信蔵は不思
 議なものをみるようにおぎんを眺めた。
・おぎんは、根が生えたようにどっしりと坐りこんで、すばやく針の手を運んでいた。そ
 の姿から信蔵は、汚いなりをした子供の頭を叱りつけ、引きずるように家の中に追いこ
 んでいたおゆうの姿を思い出していた。寒々として、胸がふさがるような光景だった。
・「今日、めずらしい人に会ったよ」「おゆうさんだ」おぎんが針の手をとめて、黙って
 信蔵を見た。
・偶然おゆうを見かけたことを、信蔵は話した。あまりしあわせそうには見えなかった印
 象も、正直に話した。おぎんは黙って聞いていた。
・「正直言って驚いたよ。あのひとはどっかいいところに嫁に行って、しあわせに暮らし
 ていると思ってたからな」 
・「おれはお前とああいうことになって、あのひととは縁が切れたわけだが、いましあわ
 せそうではいのは、おれのせいもあるのかと考えたりしたんだ」「「帰りに庄助のとこ
 ろに寄って、いろいろ聞いてみたのだ」
・信蔵とおぎんが一緒になった前後から、おゆうには降るように縁談があつまった。だが、
 不思議にまとまらなかったな、と庄助は言った。
・「二年ぐらい経ったかな。そのうちに、おゆうちゃん、変なやつにひっかかったんだよ
 な」  
・浅草寺のあたりで、地回りのようなことをやっている若い男とひっかかりが出来、おゆ
 うはしばらくその男と遊び暮らしていた。
・「それであの大工との話がまとまったときも、おゆうちゃんの家にその男が乗り込んで
 来たりして、ひと騒動あったんだ。おゆうちゃんの家ではだいぶ金出したらしいって噂
 があったぜ」「だから、おゆうちゃんが嫁に行ったのは、ずいぶんおそかったんだよ。
 二十すぎていたな」
・「そういうことだったらしいんだな」と、信蔵はおぎんに言った。
・おぎんは、ちょっと上眼づかいに信蔵の顔を見た。
・「おゆうちゃんね。あんたが嫌いじゃなかったでしょうが、惚れちゃいなかったと思い
 ますよ」
・信蔵はおぎんを見た。いきなり不意を打たれたような気がしていた。その信蔵の顔に、
 おぎんはうなずいてみせた。
・「おゆうちゃんが来ないんで、あんたあたしを誘ったでしょ?」「あのときあたしは、
 ついて行けばしまいにどうなるかわかっていた。そういうことはおゆうちゃんだってわ
 かっていたと思うよ。あのころはあんた、何かこう、ぎらぎらしていたもの」
・おぎんはまぶしそうに信蔵を見、少し赤くなって笑った。信蔵も苦笑した。
・「惚れていなくちゃついて行けなよ、こわくて」 
・あたしは前からあんたが好きだったし、どうなってもいいという気持ちでついて行った
 けど、とおぎんは小さい声になってそう言った。
・なんとなく憑きものが落ちたような気持ちがした。おゆうとの間に、急に白々とした距
 離が出来た感じがあった。おゆうは、身持ちが固かったというだけのことかもしれない
 じゃないか、とも思ったが、どこか興ざめしたようなその感じは変わらなかった。
・「でも赤ちゃんが出来たときは、罰があたったと思った。友だちのいいひとに惚れた罰」
 とおぎんは言った。
・「いまだから言えるけど、あのときは必死だった。親には叱られるし、あんたに迷惑は
 かけられないし、もう赤ちゃんと一緒に死ぬしかなかろうと思ってさ。あんたの顔を見
 に行ったんだものねえ。あんたがやさしくしてくれたから、死なずにすんだけど」
・「やさしくもなかったろうぜ」
・鬼のような顔をしたはずだ、と信蔵は思った。若いとはいえ、よくそんな危ない橋を渡
 れたものだと、苦い気持ちで思う一方で、しかし有難いことに、何とかボロも出さずに、
 辻つまを合わせて生きて行くもんだな人間というやつは、とも思った。
・「おゆうちゃんに、会うの?」
・「べつに、人の女房に会うことはないさ」
・「会ってもらわない方が、あたしはうれしいけど」
・「なに、あのひとはあのひとで、ちゃんとやって行くさ」と信蔵は言った。
・子供を殴りつけ、大酒飲みの亭主といさかいながら、おゆうはおゆうで、何とか辻つま
 をあわせて生きて行くだろう。
・信蔵はそう思い、若いころにあった、醜悪でそのくせ光かがやくようでもあった思い出
 が、少しずつ遠ざかるのを感じていた。