空白の意匠  :松本清張 

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この小説は、地方の弱小企業の悲哀を描いた小説である。企業の所在地が東京であるのか、
地方であるのか、企業の立地条件で大きな格差が生ずる。地方の新聞社が中央の小さな代
理店に大きな顔をされ翻弄される。社内においても、中央の大企業から天下りしてきた人
物が、過去の経歴を忘れられず、大企業にいたときの感覚のままに振舞い、周りが翻弄さ
れる。地方の企業であるがゆえに、中央から無理強いを押し付けられるこの光景は、この
小説が発表された1959年当時も、そして現代もさほど変わりはないのではないかと思
われる。地方企業であるがゆえの悲哀を感じさせる小説である。
それにしても、広告代理店が新聞社等に対して持つ権力は絶大だ。この小説に出てくるよ
うな小さな代理店でさえそうである。ましてや「電通」などのような大企業の広告代理店
が持つその権力は、想像を絶するものなのだろう。
それにしても、芸者を抱かせてまで接待したのに、結局は一番の苦労人に責任を取らせる
形とせざるを得なかった結末は、世の無情を感じさせられる。

・Q新聞広告部長の植木は、朝、目が覚めると床の中で新聞を読む。中央紙が2つと、地
 方紙が2つである。永い間の習慣で、新聞を下から見る癖がついてしまった。順序も決
 まっていた。地方紙が先で、中央紙があとなのは、中央紙は競争の対象にならないから
 である。普通の者なら、3,4分で済むところを、植木は20分くらいかかって読むの
 である。スペースの大きさ、広告主の良否、扱店はどこの店で、大体、どれくらいの値
 をとっているか、骨を折ってとった広告か、それとも先方の自主的な出稿かどうかなど、
 その辺りの見当を広告欄を睨ながらつけてゆくのである。その眼は、自分の新聞のそれ
 と絶えず比較検討している。
・戦争中、一県一紙に統合された地方紙は、戦後になると分解作用を起こし、さらに泡沫
 的な夕刊紙の乱立となった。Q新聞は、そのにわか夕刊紙の後身で消滅した群小紙の中
 で、よく残った方である。経営はひどく苦しい。もっと大きい地方ブロック紙に抑圧さ
 れているからである。
・大きな新聞もそうだが、Q新聞も、広告欄を埋めるためには、ほとんど東京、大阪の広
 告主に頼らなければいけない。経済力の貧弱な地方都市では、疲弊した中小企業が唯一
 の対象で、せいぜいこの地方のデパートの売り出し広告が気の利いたスペースをとるく
 らいなものであった。 
・植木は、ふと視点が「注射で急死。危ない新薬の中毒作用」という見出しにあたった。
 「ランキロン」というその新薬は某製薬会社から売り出された強壮剤だった。植木は次
 第に不安になってきた。薬に対する危惧ではなく、この記事が「ランキロン」の広告の
 真上に載っていることであった。読者の眼には奇怪な対照として映るに違いない。いや、
 それよりも、この広告掲載紙を郵送だれたその製薬会社と、代理店とがどのような感情
 をもつことだろうか。広告がなかったら、新聞を送る必要はないから、あるいは小地方
 新聞の記事などは、先方の眼にふれないで済むかもわからないが、幸億を掲載した以上、
 頬被りで済ませる訳にはいかない。
・植木は狼狽して、他の新聞をひろげた。注射で急死した記事は小さく出ていたが、某製
 薬会社が売り出した「新薬」という表現で、どこも「ランキロン」という名前はない。
 慎重な扱いであった。 
・植木は、編集部の無神経に腹が立った。広告部のことを全然意識においていないのが彼
 らの通念であった。編集は新聞の第一の生命で、記事の報道が広告部に掣肘されること
 は恥辱だと編集部は考えている。のみならず、広告部は商売をするところだと彼らはひ
 そかに軽蔑している。日ごろ、紙面に、商品名を一切出さない主義は、記事が宣伝に利
 用されないための配慮からだが、それなら今度に限って、なぜ「ランキロン」とはっき
 り薬名を書いたのであろうか。おそらく編集部の返辞はこうに決まっている。社会的に
 害毒のある薬だから、明瞭に名前を出したのだと。それは正論かもしれない。しかし、
 そのことによって窮地に追い込まれる広告部の立場をどう考えているのだろう。
・その製薬会社は一流会社で、いろいろな薬品を発売している。そのため出稿量が多い。
 もし、「ランキロン」の記事で、先方が憤って出稿を停止したら、大そうな打撃である。
 その製薬会社はQ新聞みたいな小さな地方紙は問題にしていないのだ。言わば、お情け
 と、代理店との外交で、ようやく広告紙型を回してもらっている状態であった。その実
 情がはっきりとしているだけに、植木には製薬会社の憤激がこわかった。
・植木は、製薬会社の憤懣も無論だが、それにつれて代理店から怒鳴り込まれることも怖
 ろしかった。代理店には頭が上らなかった。東京方面の大部分はその代理店の扱いにな
 っているので、ここから睨まれたら手も足も出なくなる。悪くすると、懲罰的な意味で、
 ほかの出稿まで減らさせるかわからない。植木はその悪い事態になったときを想像する
 と、目の前が昏くなった。
・記事は謝りではあるまい、しかし中毒作用を起こしたのが「ランキロン」ではなく、別
 の原因だったという考え方もある。記事の取材は警察から出たに違いないが、その警察
 の判断が誤謬だったら、どうなるだろう。編集部は発表通りを伝えたまでだと通せるが、
 広告部は広告主や代理店に対してそれでは済まないのである。信用を堕としたと攻撃す
 るに違いない。もしかすると、この記事の影響で「ランキロン」の売行きが落ち、減収
 だという理由の威嚇を持ち込まれるかもわからない。編集部の責任は広告部が全部負わ
 されるのである。製薬会社を最上の顧客とする代理店が、この上客の機嫌をとるために、
 あるいは自己の扱いだったという手落ちを謝罪する意味で、どのような膺懲的な方法と
 とってくるか、わかったものではなかった。
・植木は編集部局長に事の次第を説明したが、「君の方は商売かもしれないが、こっちは
 厳正な報道が第一だからね。名前を出したのが困ると言っているようだけれど、出した
 方が世間のためになるからだよ。薬屋さんの肩をもって、読者の利益を無視したら、 
 新聞の生命は、どこにある」と取り合わなかった。
・東京の代理店から抗議の電話がかかってきた。声は初めから怒声がまじり、受話器が震
 えるくらいであった。製薬会社でも大憤慨で、今後一切、Q新聞には出稿しないと言っ
 ている。われわれはその陳謝に汗をかいている次第だ、あんたの方は、それでいいかも
 しれないが、われわれは大切な得意と一つうしなうかもしらない窮地に陥っている。言
 葉を機関銃のように連射してきた。
・編集局長は、そんなことは一切関わりないといった態度で、二階に上がったり下りたり
 していた。人とはゴルフの話ばかりしている。あれ以来、植木には知らん顔をしていた。
 編集のことで文句を言いに来た広報部長の植木に、あきらかに腹を立てていた。植木は、
 このことを専務に話したものかどうか迷っていた。専務は営業局長も兼ねている。
・植木は、取りあえず、製薬会社の専務と、代理店の新聞課長に宛て丁重な詫び状を書い
 て出した。返事は来なかった。
・注射薬の中毒死の原因がわかった。この都市の市立病院で精密検査をした結果、それは
 注射した医師が、「ランキロン」に他の薬を混合したことが判明し、その他の薬の方が
 不良品だったことが突き止められた。編集部ではその報道を小さな記事にして出しただ
 けで、別に事前の植木のところに連絡してくるでもなかった。編集局長は、まだ植木の
 容喙を根にもっているらしかった。
・植木は、さすがに腹に据えかねて、編集局に駆けあがって行った。編集局長は机から離
 れて、棒を振るような手つきでゴルフの練習の真似をしていた。植木がランキロンの中
 毒は謝りだったことを問うと、局長は「新聞の誤報ではない。警察が間違っていたのだ。
 こちらは発表通り正確に記事にしている」と植木の無礼を咎めた。編集局長は以前の中
 央紙で社会部長をしていたこともあり、女で失敗して退社したが、その経歴が彼の装飾
 であった。
・編集局長の森野は、この吹けば飛ぶような小さな新聞社を大新聞社のように思っている。
 編集は編集、広告は広告と分割して、社の収入原のことなんか知ったことかという顔を
 している。今に、代理店は何かの宣告をしてくるだろう。この危険も社長も知っていな
 ければ、専務も編集局長も知っていない。社長は病気で臥ているし、専務は昨日から大
 阪に出張していた。
・植木は、大阪から戻った専務と相談した結果、専務の指示で東京に向かった。八重洲口
 に降りたのも一年ぶりであった。地方の小新聞には東京はあまり縁がない。紙面は、毎
 日、東京の広告が載り、広告主から料金が入っているが、直接のつながりはなかった。
 代理店が両方の間に介在して、その線を遮断していた。硝子の壁で仕切られているよう
 に、向うの姿は見えるが、手が触れられなかった。植木は食堂で百円の朝飯を食い、タ
 クシーで代理店に向った。代理店は広い道路から入った狭い通りにあった。二階建ての
 小さな建物である。あたりに大きなビルが建っているから、それは見すぼらしく見えた。
 こんな貧弱な社屋が、地方新聞の生命を抑えているのかと思うと、植木にもすこし信じ
 られなかった。対応に出た男は、植木の名刺を見ると、この間からの経緯を知っている
 らしく、小役人にみるような大柄な顔つきに変わっていった。
・植木は、製薬会社に行って挨拶をしようと思った。製薬会社の本社は五階建ての立派な
 ものであった。受付に行って名刺を出し宣伝部長に会いたいと申し込んだ。受付の女の
 子は電話で連絡をとったが「宣伝部長はお留守だそうです」と、まっすぐ植木を見上げ
 て硬い感じの顔で言った。居留守を使っていることは分かっていた。
・地方の小新聞が、直接に広告主に会うのは挨拶の時だけである。毎度、ありがとうござ
 います、と営業的な儀礼の場合だけが許されるのである。その本来の取引上の問題とな
 ると、代理店という厚いガラスの壁に仕切られて、接触ができない。広告主の意向は代
 理店を濾過して流れ、新聞社の意見は代理店を通じて先方へ伝えられる。しかし、代理
 店は両方の単純なパイプではない。弱い立場の新聞社に対しては、代理店自身の特別な
 意志が加わってくる。
・その夜、植木は、神田の旅館に泊まった。宿は、静かだが、寂しい場所だった。表の通
 りには街灯が疎らにあって、黒い影の方が多い。肩を寄せた男女が幾組ものろのろと歩
 いて通ってゆく。 
・代理店の課長がQ新聞社を訪れることになった。植木は専務と代理店課長を迎える準備
 のためたびたび打ち合わせをした。代理店の課長の性格や好は、大体研究され尽くした。
 彼は、ちょっと見ると茫洋としているが、頭脳は良く、広告主の評判も悪くない。代理
 店内では第一に腕ききの男で、将来は専務か社長になると噂されていた。酒は好きな方
 であった。39歳である。彼の妻は36歳で、十五の女の子と十一の男の子とがある。
 このようなことを知っておく必要があるのは、持って帰って貰う土産物の選択からであ
 った。料亭も、この市で最も大きな家を予約し、その日は一流の芸妓を数人確保した。
 二次会用として、近ごろ東京風を真似て立派にできたキャバレーとも特約した。旅館も
 最高の部屋を予約した。「まるで天皇の巡幸だね」と編集局長の森野が冷淡したという
 話を植木は聞いた。
・編集局長の森野が、代理店の課長が東京からやってくるのを天皇の巡幸と言ったのは、
 適評まもしれなかった。その代理店の課長は年に二回くらいは、打ち合わせと称して、
 各地の小新聞社を歴訪する。新聞社は、その広告部は勿論、重役連が出迎えて彼を款待
 するのである。小新聞社にとっては、その広告経営の死命を制せられている代理店の課
 長は、大切な賓客であった。どこでも、彼は大事にされ、機嫌をとられる。彼の機嫌を
 損ねて現在の広告高が減らさせることのないよう、気を配ることもなみ大ていではなか
 った。
・その晩の宴会でも、代理店の課長は相変わらず、茫洋とした顔に笑いを湛えていた。 
 芸者が、金屏風を背に、踊りはじめた。踊っている芸妓は三人で、真ん中のが一番うま
 く、顔を綺麗であった。代理店課長の眼はその方に注がれていた。植木は、専務の指示
 でこっそり別部屋に行き、どもりながら女将に向かって芸妓お明かしの交渉をした。
 芸妓が女中に耳打ちされて小さくうなずき、こっそり立って行った。
・翌朝、代理店の過料は、やはり満面の笑いを浮かべていた。その笑いには、芸者との昨
 夜のことで、多少のてれ臭さがないでもなかった。が、そのように思うのはこっちの思
 い誤りかもしれない。代理店の課長は、何か思いついたように「専務さん」と呼んで、
 植木たちかの立っているところから離れた。それは忘れものでもしたような呼び方であ
 った。気軽に専務は代理店課長の傍に近づいた。代理店課長は「専務さん、今度の厄介
 な問題については、製薬会社に何かオミヤゲを持って帰らねばなりませんでな。これは
 分かって頂けるでしょうね」と専務の耳に口を寄せて言った。専務の顔色が変わった。
 オミヤゲの意味を知ったのである。植木は、専務の懇願で、その日のうちに、辞表を出
 した。