小鶴 :藤沢周平

神隠し (新潮文庫 ふー11-6 新潮文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:693円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

闇の傀儡師(上)新装版 (文春文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

闇の傀儡師 下 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

ふるさとへ廻る六部は改版 (新潮文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

喜多川歌麿女絵草紙新装版 (文春文庫) [ 藤沢周平 ]
価格:616円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

海坂藩大全 上 [ 藤沢 周平 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

海坂藩大全 下 [ 藤沢 周平 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

麦屋町昼下がり (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

花のあと (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:682円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

秘太刀馬の骨 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

海鳴り 上 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

海鳴り 下 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

新装版 市塵(上) (講談社文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

新装版 市塵(下) (講談社文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

風の果て 上 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

風の果て 下 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:682円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

長門守の陰謀 (講談社文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:682円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

よろずや平四郎活人剣 下 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

橋ものがたり (新潮文庫 ふー11-5 新潮文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

漆の実のみのる国 上 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

漆の実のみのる国 下 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

闇の梯子 (講談社文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

たそがれ清兵衛 (新潮文庫 ふー11-21 新潮文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

逆軍の旗 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:693円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

三屋清左衛門残日録 (文春文庫) [ 藤沢 周平 ]
価格:825円(税込、送料無料) (2022/3/30時点)

この作品は、いまから43年前の1979年に出版された「神隠し」という本に収録され
ている短編小説の一つである。
ある事件が原因で一種の記憶喪失に陥った小鶴という娘が主人公だ。城中でも夫婦喧嘩で
有名な子供のいない二人暮らしの老夫婦の夫が、娘を拾ってくるところから物語は始まっ
ている。
この娘を家に預かることになって、それまで夫婦喧嘩が絶えなかった老夫婦の生活は、華
やいだものへと一変した。その娘を養女にし婿を迎えてと、老夫婦の夢は広がっていく。
しかし、ある日突然、娘の許嫁だと名乗る若い男が娘を迎えがやってきた。
娘には、両親が夫婦喧嘩の末、激昂した父親が母親を刺殺し、それに逆上した娘が父親を
斬りつけるという、悲しい出来事があった。
老夫婦の夫が「あの娘は、ここでは至極ほがらかに暮らしておった」と若者に言うと、
若者は「それは、この家では自分のしたことを忘れて暮らせたからでござりましょうな、
しかしそれは真実癒えたことにはならんのではござりますまいか。光穂は苦しんで、自ら
癒えるほかはないと存じます」と言った。
その若者のことばに、老夫婦の夫は感動し、娘を引き渡すことにした。
つまりは、苦しい現実から逃れようと深い闇に自らを閉じ込めてしまった娘を元に戻すに
は「気長な養生」と「自ら苦しんで癒える」力を信じる周囲の愛情だということなのだろ
う。これは、心の病に陥ることが多い現代においても、通じるものがあるのではないかと
思えた。
それにしても、娘を失ったその後の老夫婦の力ない夫婦喧嘩は、いっそうの侘しさをたた
えているように私には感じられた。



・神名吉左衛門の家の夫婦喧嘩は、かいわいの名物だった。かいわいだけでなく、そのこ
 とは城中にも聞えて、吉左衛門は上司から数度したたかに叱責されている。
・武家の家だから喧嘩が全くないなどというわけではない。それぞれやっていはいても、
 誰しもが、外には洩れないように気を遣うのだ。神名家の喧嘩には、この気遣いがない。
・誰と誰が喧嘩をしているかははっきりしている。神名家は吉左衛門と妻女の登米しかい
 ない。 
・吉左衛門の癇癪もちは昔からのもので、若いころは、庭の中を白刃を振りかざして妻を
 追いかけ回したなどという証言がある。しかし吉左衛門本人は五十の坂を越え、妻女の
 登米も五十近くなったいまは、もっぱら舌の争いで、その口争いではどうも吉左衛門に
 分がないようだ、という判定も出ている。
・それではこの夫婦、どこまでも仲が悪いかというと、そうでもなく、二人でむつまじげ
 に庭の草花の手入れをしていることもあるし、夫婦にこにこ顔で寺参りに出かけたりす
 る。
・二人の仲が険悪になるのは、家つきの娘で吉左衛門を婿にとった登米に、三十年近く経
 ったいまも、ちょいちょい吉左衛門を婿あつかいする言動があると言うことらしかった。
・近所では、眉をひそめながらも内心では面白がっているのだが、ひとごとならず吉左衛
 門夫婦のために心配していることがひとつあった。五十になりいわば老境を迎えた夫婦
 に、後つぎが決まっていないことだった。
・登米は子を生まなかった。普通なら当然養子を考えるところで、吉左衛門夫婦も、登米
 がいよいよ子を生めない年になったころから、真剣に養子探しをした形跡がある。だが
 思わしい縁がなく、ここまで来てしまったということのようだった。
・「しかし、あれでは養子の来手もあるまい」神名家の養子の話が出ると、最後に誰かが
 そう言う。それでみんなが仕方ないという顔になるのだった。
・理由はひとつしかない、と誰もが言うわけである。あの夫婦喧嘩には、こわいもの若い
 者も怖気をふるうのは無理ないと、人は吉左衛門夫婦に面と向かっては言わないが、心
 の中で思い、陰で噂するのである。
・だが吉左衛門夫婦にしてみると、老境に入って養子もいないということが、また喧嘩の
 タネになるのである。養子一人見つけて来られない甲斐性のなさを登米が責めれば、吉
 左衛門は子を生まなんだそなたが悪いと早速反撃し、とどのつまりは近所が耳をそばた
 てるいつもの大喧嘩になるのだ。
 

・「おや、どうなさいました」登米は、夫の背に隠れるようにして入ってきた娘を見て腰
 をのばした。旅姿をした、むろん見かけたことのない若い娘だったからである。吉左衛
 門は困惑したような表情をうかべて娘をふりむいた。
・「ま、立ち話もなんだ。とにかく家に入ろう」と吉左衛門は、なんとなくあたりをはば
 かるような口調で言うと、さっさと家の方にむかった。
・置き去りにされて、娘はうつむいたまま立っている。着ている物、髪かたちから武家の
 娘だということはひと眼でわかる。だが、自分を見ても挨拶ひとつしないのは奇妙だ、
 と登米は思った。 
・「さ、あなた。ともかく家に入りましょ」登米が声をかけると、娘は顔をあげた。美し
 い顔だちをした娘だった。眼がきれいで口もとも小さく締まっている。旅の疲れからか、
 ひどく青白い顔をして、表情にはどこかぼんやりしたものが見えた。十七、八だろうと
 登米は見当をつけた。
・「どこから来ました?」入口に入るとき、登米はそう聞いたが、娘は無言だった。表情
 も動かなかった。おかしな子だ、と登米はまた思った。
・登米は娘を座敷に案内し、布団をのべてやって茶の間にもどると、まだ部屋を出たり入
 ったりしている吉左衛門を着換えさせた。 
・「まさかお前さまの、隠し子を連れて来たというのではございませんでしょ?」「馬鹿
 を申せ」吉左衛門はうろたえたような顔をした。吉左衛門は、とても隠し子がいるとい
 う柄ではない。登米は一応念を押しただけなので、夫が人なみにうろたえた顔をしたの
 がおかしかった。
・「あれは小舞橋で拾ってきたのだ」と吉左衛門は言った。
・町の北半里ほどの場所にある小舞橋の上流で一カ所、下流で二カ所、今年の夏の増水で
 石垣が崩れた。石垣は普請組の手で修理したが、それからひと月ほど経ったので、組頭
 の命令で吉左衛門が見回りに行ったのである。
・小舞橋に着いたとき、娘はもう橋にいて、欄干にもたれて川を見ていた。旅の者がいっ
 とき休んでいるという様子に見えた。
・吉左衛門ははじめ上流の石垣を見に行った。次に下流の修理場所に行った。途中小舞橋
 を通るとき、橋の上にまださっきの娘がいることが気づいたが、そのときもまだそれほ
 ど気にしていたわけではない。
・だが、仕事を終わって岸に這い上がり、腰をのばしたときに、遠くに見える橋の上に、
 まださっきの娘がいるのに気づいたのである。
・何をしておるのだ、あの娘。くたびれてひと休みしているにしては長すぎると思った。
 はじめて娘のことが気になった。それで声をかけてみる気になったのである。
・吉左衛門が声をかけると、娘は遠くを眺めていた眼を吉左衛門に移した。うつろな顔だ
 った。きれいな顔立ちをしていたが、その顔には何の表情もあらわれていなかったのだ。
・「このまま打ち捨てておいて日が暮れては大事になろうという気がしたゆえ、連れて参
 った」 
・「それはよいことをなさいました。連れ戻るのが当然でございますよ、お前さま」
・「わしがみたところでは、あの娘狂っているようでもないな。いわば放心の体だ」
・「眠っとるかな。まさか部屋を抜け出したりはしてはいまいな」「見て来い。ちょっと
 のぞいて来い」
・「眠っていますよ、おとなしく。ちゃんと夜具に入って」
・二人は顔を見合わせた。そして何となく顔をほころばせた。いつも夫婦二人だけの家に、
 若い娘がいることがめずらしく、二人の気分をなんとなく浮き立たせていた。
 

・吉左衛門が遅く帰ると、娘は縁側に出て月を眺めていた。それにしても、この家の主で
 ある吉左衛門が帰っても、挨拶ひとつしないのはやはり異状だった。
・「いろいろ聞きましたら、今日はよく返事をしましたよ」
・「それで何かの。少しは様子がわかったか」
・「それがさっぱり、おぼえていないのですよ。どこから来たのか、どこへ行くつもりだ
 ったのか。親兄弟の名前さえ知らないんですからね」
・「ふーむ、それは困ったな」
・「たったひとつ、自分の名前をおぼえていましたよ。小鶴というそうですよ」
・「この子は病気ですよ。親の名も家も忘れてしまったのですから。お奉行所に連れて行
 って、いろいろただされても同じことでございましょ?」「いろいろ聞かれて、あげく
 に牢にでも入れられたらかわいそうでしょ」「ご自分で拾って来られた娘御でございま
 しょ。もう少し親身に考えてあげたらいかがですか」
・例によって例のごとき経過をたどって、二人の言い合いがだんだん険しくなってきたと
 き、不思議な声が部屋に流れた。
・夫婦は、言い合わせたように口をつぐんで縁側を見た。娘が、座布団をすべりおりて、
 板敷きにきちんと坐ったまま、こちらを向いて泣いている。声は娘のしのび泣きの音だ
 った。 
・「おやめなされませ。いさかいはおやめくださいませ」小鶴は懇願するように言った。
 その間も涙が頬をつたって流れた。 
・登米が、小鶴を座敷の方に連れ去ったあとで、吉左衛門は縁側に立って行くと、憮然と
 した顔で月を見上げた。
・何じゃ、十七、八にもなってめそめそ泣きおって。
・そう思ったが、何となく出鼻をくじかれたような気分が残っていた。


・吉左衛門は一応奉行所にもとどけ、組頭にも小鶴のことをとどけた。しかし奉行所は、
 一応本人を同行して言ったものの、組頭から手を回してもらったので、簡単に身柄をあ
 ずかることができた。
・それで、小鶴ははばかりなく外に連れ歩くことが出来るようになって、登米は上機嫌だ
 った。
・こんな娘が一人いてもよかったのだ。と思う。父母が死んでから二十年近く、気が合う
 わけでもない夫と過ごしてきた。味気ない歳月がかえりみられる思いだった。
・小鶴にも生色がもどってきていた。日常の暮らしの中では、だんだん神名家になじんて
 くるようだった。通いの婆さん女中が休みのときには、台所で食事の支度もし、それが
 上手だった。
・おんば日傘で育った高禄の家の娘ではない。台所も自分でやるような小禄の、しかし躾
 の行きとどいた家の娘には違いない。
・登米はそう思い、娘の行方を失って嘆き悲しんでいるに違いない父母を思って胸を痛め
 た。
・自分が何者であるかも思い出せないまま、小鶴は次第に顔色もよくなり、物言いにも元
 気が出てきた。時には声を出して笑うようにもなった。するといっそう、美しい娘なの
 だということがわかった。
・「もしもあの子が、いつまで経っても何も思い出さなかったら、どうなさいます?」
・吉左衛門は、腕を組んで眼をつむったが、不意に秘密を打ち明けるような小声になった。
・「そのときはこの家でもらい受ける。それよりほかに仕方もあるまい」
・「そうですとも、お前さま」登米は低い声に力をこめて言った。


・小鶴が神名家にきてから、半年以上たつ。吉左衛門夫婦には、もうこの娘を手離す気は
 なく、よしんば小鶴が自分の素性を思い出して親元が知れても、一人娘でないかぎりは、
 懇願しても家の子にもらおうという気になっていた。
・その間に、神名家にいる美貌の娘の噂は、いつの間にか家中に流れて、噂は、あれは神
 名家の養女だということになり、それまで見向きもしなかった婿志望の若者たちが、色
 めき立ってきた感じがあった。
・それは、いろいろな形で吉左衛門夫婦の前にあらわれてくる。これまであまりつき合い
 もなかった近所の家の妻女が、突然何かの用にかこつけて訪ねてきて、長々とお喋りし、
 その間に子細に小鶴を眺めて帰ったり、吉左衛門がいつも通る町道場のそばで、見も知
 らぬにきび面の若者が、唐突に会釈をしたりする。
・ここに婿になってもいい男が一人いますぞ、と言いたげで、にがにがしいことこの上な
 い。吉左衛門は眼もくれず通りすぎる。小鶴ほどの容姿を持つ娘を、養女に出来れば、
 あとは婿など選りどり見どり、あわてることは少しもないと吉左衛門は思っている。
・勝間には一年前に、辞を低くして橋本の次男坊を養子に、と頼み込んで、それこそにべ
 もなくことわられている。橋本彦助は、勝間の親戚だが、家は七十五石で、大家の坊ち
 ゃまを頂きたいと言ったわけではなかった。それなのにあっさりとことわられ、そのあ
 とその話がもとで登米と大喧嘩した記憶が残っている。
・勝間は頭を下げた。「橋本の家の者が、どこぞから貴公の家で、気だてもまことによろ
 しく、みめも美しい娘を養っていることを聞きこんで参っての。作之助がまた、えらく
 乗気でいるらしいのだ」
・作之助というのが、橋本の家の次男坊である。風采も立派で、人柄も悪くない若者だ。
 だから養子に申し込んだのだが、去年はけんもほろろにことわり、今度小鶴の噂を聞い
 て、手のひらを返すように養子になりたいというのは、軽薄な男だと吉左衛門は思った。
・「小鶴というのが娘でござるが、しかし少しわけがあって、まだ家の娘に出来るかどう
 かはわからんのですぞ」と吉左衛門は言った。
・「あるいは親元に帰すようになるかも知れんのです。その場合にも、作之助どのは養子
 に来て頂けますかな」 
・「そらすこし、話が違いな」勝間は急にそわそわした。娘抜きでは、さほど食指が動く
 話ではないのだという気配が露骨に見えた。
 

・小鶴からは養女になってもいいという承諾をとっている。曇りのない顔つきで、もうこ
 の家の娘のつもりです、などという小鶴をみると、実際にはどこかに実の親がいるに違
 いないのに、という一抹の不安は残る。
・二人が選んだのは、早田寛之助という若者だった。話を持ち込んできたのは、葺屋町の
 林という家の隠居で、早田寛之助はこの家の親戚の三男だった。剣術も出来、学問もひ
 ととおりは身についているが、人柄の穏やかの男だ。婿向きに出来ている、と林の隠居
 は寛之助を売り込んだ。
・吉左衛門夫婦は、小鶴にも話し、林の隠居に内諾の返事をした。祝言は秋。その前に小
 鶴の養女の届けも済ませ、寛之助を婿に迎えるという段取りが決まった。
・縁組みは決まったが、寛之助と会っているのは吉左衛門一人で、登米も小鶴もまだ婿と
 なるべき人物を見ていなかった。 
・林家は禄高は百五十石。屋敷も吉左衛門の家よりひと回り広い。その家の奥座敷で、神
 名家の三人は婿になるべき寛之助と一緒にお茶を頂いた。
・寛之助は落ち着いていた。橋本作之助のように美男というわけではなかったが、それが
 かえって好ましいと吉左衛門の眼には映る。
・小鶴の顔色がすぐれないのに気づいたのは、林の家を出て、家に近くまで帰ってきたこ
 ろだった。 
・「ぐあいでも悪いかえ、小鶴」門を入るとすぐに、登米が気づかわしげに小鶴の顔をの
 ぞいた。すると小鶴が立ち止まり、両手で顔を覆った。
・小鶴は、立ち竦んでいる二人に向って、しっかりした声音で言った。
・「申しわけございませんが、この縁組みはおことわりしてくださいませ」 
・「私には決まった方がいるのです」
・あっと叫んで、登米が小鶴の身体をささえた。小鶴が気を失ったのだった。
・小鶴を寝かせた後で、吉左衛門夫婦は茶の間にもどり、ひそひそと話し合った。
・「あれは昔を思い出したのだ、おそらく・・・・」
・登米はおびえたような眼で夫を見た。
・「昔のことを思い出して、小鶴が出て行くと言うときには、とめることはならんぞ。と
 もかくこの縁組みはことわるほかはない。林さまにも、寛之助の家にも申しわけないこ
 とに相成ったが、やむをえん」
・少し浮かれすぎたな、と吉左衛門は苦く反省していた。こういうことがあるかも知れな
 いという懸念は、はじめからあったのだ。


・だが、不思議なことに、小鶴は明るさを取り戻した。出て行くとも言わなかった。
・早田寛之助との縁組みは、破談にしてもらった。早田家でも、仲人に立った林家でも突
 然の破談にいきり立ったが、吉左衛門は汗だくで事情を話し、ようやく納得してもらっ
 た。
・そのことを夫婦は小鶴には話さなかった。縁組みの話は禁句だとさとったからである。
・「小鶴は、いわばこわれ物だ。そっとしておいて様子をみるしかない。この家に授かっ
 た娘かどうかは、長い眼でみないことにはわからん」
・「そうしましょ。娘が一人いると思うだけでしあわせじゃありませんか。あの子が行っ
 てしまって、またお前さまと二人だけになることを考えると、私はぞっといたしますよ」
・朝夕地面に霜がおりるようになった晩秋の日、吉左衛門が城をさがって家に戻ると、客
 がきていた。
・玄関に出迎えた登米は打ちしおれていて、言いかけたまま唇を噛んだ。
・「小鶴に迎えが来たのです」
・客は二人だった。長身の、男らしくひきしまった顔をもつ若者と、篤実そうな肥った中
 年男の二人連れだった。
・吉左衛門はすぐ小鶴を見た。そして胸を衝かれたように思った。小鶴は、二人の客から
 少し離れたところに坐っていたが、その顔には、吉左衛門がはじめて橋の上で会ったと
 きと寸分違わない、うつろないろがあらわれていたのである。吉左衛門を見ても、顔に
 は何の表情も浮かばなかった。
・男二人はそれぞれ身分と名前を名乗った。隣国の城下からきた男たちで、肥った中年男
 は、町奉行所に勤める小鶴の親戚の者だった。そして若い男は小鶴と縁組みを結んでい
 た相手だった。
・寺川藤三郎と名乗った若者は、吉左衛門にむかって深々と頭をさげた。
・「光穂に賜った手厚いご庇護は、国元に帰りましても、決して忘却つかまつりませぬ」
・「光穂?」吉左衛門は後ろに坐っている登米をふりむいて、誰のことじゃと言った。
・「小鶴の本当の名前だそうですよ」と登米は言った。
・光穂が城下から失踪したのは、去年の七月の末のことだと寺川は言った。光穂の父母が、
 相ついで世を去った直後のことだった。置手紙も何もなかったが、光穂には弟妹がいて、
 姉が江戸の叔母を訪ねて行くと言っていたことを告げた。
・江戸の深川一色町というところに、光穂の母の妹がいる。寺川は後を追って、百数十里
 の道を江戸まで行った。だがそこには光穂は来ていなかった。寺川は今度は帰途、しら
 みつぶしに宿場宿場を光穂の消息をもとめながら帰ってきたが、手がかりは得られなか
 った。
・思わぬ消息が知れたのは半月ほど前だった。ある盗難事件が起きて、この国の奉行所と
 隣藩の奉行所の者が行き来した際に、光穂らしい娘が神名吉左衛門の家に養われている
 ことを、今日同行してきている笹森という奉行所勤めの男が聞き込んだのであった。
・「こちらさまのご承諾が得られれば、すぐにでも連れ帰りたいと存じます。さきほど笹
 森ともども奉行所に寄りまして、そのことは届けて参り申した」
・「承諾も何もござらん。身元が判明すれば連れ戻って頂くのが当然。めでたいことじゃ」
 と吉左衛門は言った。
・吉左衛門は後について庭に出てきた寺川に向い合うと言った。「お気づきか。光穂とい
 うのかの、あの娘、じつは正気を失っておる」
・寺川の男くさい顔が、はじめて暗い表情に翳った。寺川はうなずいた。
・「むろん気づいております。われわれを見ても、あのとおりで、ひと言も口をきかんの
 です」 
・「狂っておるとは思えん。ただ昔のことを思い出せない様子だの」
・「それがしには心当たりがあります。光穂は、あのことを思い出したくないのでござい
 ましょう」 
・光穂の父母は、病死ではなかった、と寺川は言った。三人もの子を生みながら、稀にみ
 る険悪な夫婦仲で、家の中では夫婦の争いが絶えなかった。そしてついに破局が来た。
・ある日、言い争いのはてに、激昂した夫が刀を抜いて妻を刺殺してしまったのである。
 そして、自分のしたことに驚愕した夫はその場で腹を切った。
・寺川はしばらく重苦しく沈黙したが、やがてぽつりと言った。「母親を刺殺した父に、
 光穂が逆上して斬りつけたと推定されます。それが深傷でござった。父親はわが子に咎
 を及ぼすまいと、腹を切ったというのが、それがしがひそかに知った真相でございます」
・吉左衛門は沈黙した。吉左衛門夫婦が言い争いをはじめたときに見せた。光穂の異常が
 振舞いを思い出していた。 
・「そういう女子でも連れて戻られるか」
・「むろんです。それがしがもっとも恐れていたのは、光穂がどこか人知れぬ場所で、ひ
 そかに命を絶っているのではないかということでございました。生きているだけで十分、
 という気もいたします。連れ帰って、気長に養生させるなら、回復も望みないことでは
 ないと考えます」
・「あの娘は、ここでは至極ほがらかに暮らしておった」
・「それは、この家では自分がしたことを忘れて暮らせたからでございましょうな。しか
 しそれは真実癒えたことにはならんのではござりますまいか。光穂は苦しんで、自ら癒
 えるほかなないと存じます」
・「そのとおりだな」吉左衛門は大きな声で言った。思わず手を握りたくなるほど、目の
 前にいる若者に信頼の心が湧いた。
・「お連れくだされ。あの娘は必ず癒えて、貴公のいい伴侶となろう」
・「小鶴とは誰のことかな」
・「光穂の母の名でござる」
・「光穂どの、きをつけなされ」
・光穂は振り向かなかった。登米が涙ぐんだ声で呼んだ。
・「小鶴」
・その声を聞くと、光穂が足をとめて振り返った。微かな感情の動きが、顔に走ったよう
 だった。光穂は深々と頭をさげた。
・神名吉左衛門の家から、時おり夫婦喧嘩の声が外に洩れるようになった。だがその声が
 以前にくらべると、いちじるしく迫力を欠いているというのがもっぱらの噂だった。