来宮心中 :大岡昇平

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この作品は、終戦から6年後の1951年に発表されたものである。
静岡県熱海市に来宮神社というのがあるが、この作品はその来宮神社の周辺が舞台になっ
ている。
今風で言うなら、不倫の末に、行き詰ってしまった男女が、どうしても別れることができ
ずに、熱海の来宮神社の傍を上って行った山中で心中するという内容になっているのだが、
その男女の心情が、こと細やかに描かれていて、とても興味深い。
特に、死に際になっても、なかなか覚悟ができない男の身勝手さと不甲斐なさには、非情
にも、思わず笑ってしまいそうになる。
戦後、「女性と靴下が強くなった」と言われてきたが、ここに登場する女性はまさに「強
い女」を代表しているように思えた。いざとなると、男より女のほうが覚悟ができている
とはこのことだと思った。これは当時も今も変わっていないではないかと思える。
今現在、不倫に勤しんでいる男性諸氏には、「ちゃんと覚悟が出来ているだろうな」と、
つい問いたくなった。

ところで、この作品の中に、「戦時債券」という言葉が出てきている。調べてみると、こ
の「戦時債券」は、今で言うところの国債と同じようなもので、長期の戦争で財政が逼迫
した当時の政府が、直接の国債のみならず、政府系金融機関を通じて国民に半強制的に債
券購入を強いたらしい。個人向けの無記名債券が大量に発行されて自治体に割り当てられ、
労働者への給与も一部が債券で支払われたという。また、債券の償還に際しても、支払
いを現金の代わりに新たに発行された債券で行うような無茶苦茶な有様だったようだ。
これが終戦後にハイパーインフレを引き起こし、日本国内の物価は戦前の300〜400
倍にまで跳ね上がったという。
現在の日本政府も、国債発行額は天文学的数字にまでなっている。この終戦直後のような
ハイパーインフレがいつ来てもおかしくない状況だ。まさに時代は同じことを繰り返そう
としている。

・ある日抱擁の跡で「どうしても別れなきゃならないなら、死んじゃいましょうか」と房
 枝が口走って以来、賢吉は時々死を思うことがある。人妻である房枝との道ならぬ恋が
 行き詰まって、どうしても別れなければならない仕儀に立ち到った時、もし彼女が死の
 うというならば、自分が尻込みすることは許されない。
・それでなくても、このごろの賢吉はしんでもいい理由がある。彼の経営する農機具製造
 工場は、去年から農村不況による代金回収不能に加えて、金融難それと税金と重なって
 来て、今は二進も三進もいかなくなってしまった。
・新聞で一家十人心中の話なぞ読むと、房枝とのことのあるなしにかかわらず、自分は死
 にたいところだ、それを死なずにいるのは、ひとえに彼女への愛着のためだとさえ思う。
・賢吉は取って三十五、房枝は二十八である。彼が彼女を識ったのは、工場がまだ盛んで
 あったころ、顧客の饗応に連れて行った新宿の酒場であった。そこで房枝は夫の島田が
 シベリヤから帰ってくるのを待って働いていたのである。  
・房枝は元来身分違いの結婚をしている。島田の家はもと九州の相当大きな炭坑の代理店
 をしていて、田園調布に大きな邸を構えていた。房枝はその付近の煙草屋の一人娘であ
 る。
・次男坊の島田に縹緻望みで求婚されると、下級官吏の後家である母は将来のためを考え
 て最初は反対したが、結局無理に親たちを納得させてしまった島田の熱意に、まず房枝
 がほだされた。いざ結婚してみると、島田もブルジョア風の親類の誰彼との交際になん
 となく気がねするのが気に入らなかったうえに、その島田が出征してしまうと、島田の
 家とはほとんど縁が切れたも同然となった。
・島田の勤めていた会社から月々支払われる安い本給は戦争の終わりごろは生活になんの
 足しにもならないにもかかわらず、島田の家からは一文の援助も得られぬ。いくら房枝
 との間に子供がいないからといって、そういうものではありまい。母は死に、後生大事
 に持っていた戦時債券も反古同然となれば、房枝も毎日食べて行くために、何とか働く
 途を考えねばならぬ。  
・今の酒場で働くことを定めると、島田の家からははっきり義絶するといって来た。最初
 から構ってもくれぬ癖に今更義絶もないものだ、と思いながらも、毎日働いている酒場
 の自分の生業を考えて見ると、なるほどこれは島田なぞの家の属する社会とは、きっぱ
 り対立する商売であると思った。しかし房枝たちは男になるべく金をたくさん使わせて
 売り上げをあげねばならぬ。あげねばママさんという可愛い名前で呼ばれる女主人の眼
 が光って、いろいろ辛い思いをしなければならぬ。
・そういう淋しい房枝に気の好い賢吉の親切は悪くは思われぬ。それにだんだん打ち解け
 て身の上話なぞし合ううちに、養家に楯突いて激しい商売をしている彼の気持ちも頼も
 しく、自然と情も移って行くが、それでも恋の愛のということをいいだす隙を与えなか
 ったのは、やはり現在シベリヤで苦役に従っている夫のことを思えばこそであった。
・ようやく島田が帰って来た。しかし様子は何となく変であった。収容所でアクティブを
 やっていたとかで、初めは昔自分の属していた階級を厳しく批判するなぞといい、留守
 中の房枝に対する処置にも憤慨して、やがてなかなか職のまいままに、一旦店を引いた
 房枝が再び働きに出なければならなくなると、目立って気が弱く、愚痴っぽくなって来
 た。    
・彼女が昔から島田を好いていたのは、坊ちゃんらしくおっとりしたところであった。そ
 れが一旦家を離れると、こうもだらしなく変わってしまうのかと、とどのつまりは嘆か
 わしくなる。その心の隙から、相変わらず通って来ていた賢吉とうとできてしまった。
・しかしお互いに妻子のあり夫ある身の上であってみれば、これは道にはずれている。あ
 まり深くならないうちに別れた方がよい。どうしても別れねばならぬ、がかえって二人
 の気持ちを駆り立てて、これが最後という媾曳がどこまでも続く。
・そのうち島田はようやく人事院に職を得た。やはり田園調布の父の世話だとわかってい
 るが、これはいい機会だ、早速店をやめて、賢吉ともさっぱり別けれようと、涙の別れ
 を二度重ねて、三度目は房枝が行かなかった。    
・房枝は久しぶりに母の墓詣りを思い立つまでの心のゆとりもできたが、ただ違うのは賢
 吉の思い出がついて廻ることである。夫の留守に今は派手すぎる店の着物を染め替えに
 出そうとほどきながら、ああこの着物で会った時は、ああだった、こうだった、あの時、
 あたし手を握ったら小指が賢吉の眼に入って、二、三日眼を真赤にしていたことがあっ
 たっけ、などとつまらぬことまで思い返される。
・そこへ同じ思いか、健吉がぼーっとしたような顔で訪ねて来ると、誘われるままについ
 ふらふらと飯など食べに出てしまう。そのまま行きつけの家へ行ってしまうと次に会う
 日の約束もできてしまう。
・どうして二人はこう離れられないのであろう、どうしてこう愛し合うのであろうかと、
 二人で研究して見るが、理屈はどうとでも考えられる。
・参考に恋愛小説なぞ読んで見たが、どの小説にも恋人が好き合う理由については一行も
 書いていなかった。
・媾曳の帰りが夕飯時をすぎることが度重なり泊まってしまうこともある。島田はどうや
 ら目星はつけているように思われる。賢吉の養家でも事業不振で、最近賢吉が少しやけ
 になり、女ができていることを察しているらしい。そういうことは誰も口に出さぬなが
 ら、自然双方の家に逼迫した空気を作って、ある日三晩目に家を明けてしまった翌朝、
 房枝はもう島田の家へは帰れない、と思ってしまった。
・二人とも家を飛び出して一緒に暮らすことについては、前から何度か寝物語に出ている。
・恋に狂った賢吉にそういう家を棄てるのに別に良心を咎めるところはないような気がす
 る。養家を飛び出すのは、少年の時から彼が何度見たかわからぬ夢だ。
・可哀そうなのは病気の時子だが、優しい彼女は多分自分の気持ちに同情して許してくれ
 るであろうと虫のいいことまで考えた。
・農機具製作所は破産として始末し、京都へ行く。そして岡山の実父から自分の将来の相
 続分に当たるものを分けてもらい、それを元手に、京都の長兄の名義で何か事業を起こ
 す。そこでとにかく京都へ行こうと二人は汽車に乗ったが、いきなり長兄の前へ現われ
 るのは何となくこわい。四、五日のんびり体をやすめてと、熱海で下車してしまったの
 が間違いの始まりであった。
    
・二人が泊まったのは来宮のある鉄鋼会社の寮である。賢吉は以前資材購入の関係で、招
 待されて来たことがある。実際は社員はそんな暇も余裕もなく、大抵は空いているので、
 知り合いに限り、町の旅館よりは税金だけ易い値段で泊めるのである
・寮は五十がらみの女主人が女中二人を使って管理している。会社の元幹部の未亡人で、
 戦争でさらに一人息子に死なれた後をいわば拾われて、寮の切り回しを託されているの
 である。
・岬に抱かれた静かな伊豆の海には置物のように初島が浮かび、遠く地平には大島の輪郭
 が構えている。「いい眺めでございましょう」と女主人は自慢する。
・来宮神社は宿から線路際の道まで降り、その道がガードで線路をくぐり海の方へ向かっ
 ていく。太い楠の大木は境内にひしめくように立って、ひんやりとした静けさがあたり
 を領している。
・新婚旅行の夫婦のように楽しく安らかに眠った翌朝、二人はそれぞれ手紙を書いた。賢
 吉は京都にいる兄宛に、房枝は島田に書いた。二人はそれぞれ嘘で固めた手紙を過去と
 未来の方へ速達で出した。
  
・それから二人は閉じ籠ってひたすら愛し合った。室は茶室風の二間続きの離れで、夜、
 内から戸を閉めてしまえば、朝も外からは開けられない。二人はそうして毎日昼近くま
 でどこまで行っても愛し尽くせない体を並べていた。
・好き合ってから初めて自由に過ごす幾日かを経ても、ますます募って行くように思われ
 る愛情に、二人は未来永劫に離れないという確信を得た。
・二人は酒を飲んだ。賢吉はあまり行けるほうではないが、酒場へ勤めるようになってか
 ら、急に強くなった房枝に釣られて、したたか酔っ払った。
・宿の女主人は二人の様子を羨ましがって、よく遊びに来た。彼女もだんだん二人が夫婦
 ではないと察したらしい。   

・女主人はトランプ占いを知っていた。ある日すすめられて、まず賢吉の運勢から見ても
 らった。クラブのキングとスペイドのクイン、ハートの八と六が残った。キングとクイ
 ンの意味は占いを知らぬ二人にもよくわかった。賢吉が時子と別れられぬという意味で
 あろう。二人は顔を見合わせた。
・女主人は微笑みながらいった。「そうでございますね。ダイヤが出ておりませんから新
 しい仕事はお始めにならぬ方がよろしいでしょう。女運は中位、御夫婦仲はあまりお睦
 まじいとは申せませんが普通でございます。末長く死ぬまで御夫婦でございます」
・「じゃ、こんどあたしのを見て下さる」と房枝がいった。今度はダイヤの十とハートの
 十しか残らなかった。女主人はしばらく札を見つめていたが、「これはお二人には大変
 いい封でございます。でも何か助けがないといけません。さあ奥さん、この中から何か
 お引きなさいまし」  
・房枝は引いた。クラブの三だった。また引いた。ハートの三だった。また引いたスペイ
 ドの二だった。「お二人はこれからなかなかむずかしゅうございますよ。お二人だけの
 つもりで、何事もよほどしっかりなさらないと」
・「人の心も見られるのでしょうか」と房枝が訊いた。「ここのいらっしゃる方は駄目で
 すよ」と女主人は笑って「それは見なくとも御存知でいらっしゃいましょう」「いいえ、
 ここにいない人です」賢吉ははっとした。
・「それはできます。年齢と大体の体つきをいっていただければ」「齢は三十三、色の黒
 い丈の低い人です」「男ですか女ですか」「男です」
・賢吉は知っている。それは島田のことである。房枝は今さら島田の心をきいてどうしう
 ようというのであろう。  
・女主人は、同じ方法で札を並べた。クラブの一とスペイドの一と並び、ハートの十とダ
 イヤの四が残った。女主人は眉をひそめた。「こういうのを悪い卦というんです。クラ
 ブの一とスペイドの一が並ぶなんてことめったにありません。この方の心は暗いどん底
 でございますね。もし運勢でこれが出たら死ぬということです」賢吉は房枝の顔が見ら
 れなかった。「しかもその方の心は愛情に溢れていらっしゃいますね」と女主人はハー
 トの十を触りながら続けた。
 
・毎朝東京の新聞に挿まって来る四半折版の地方新聞を見て、健吉は熱海に自殺者が多い
 のに驚いた。大抵一日一件は欠かしたことがない。そしてそれが大抵男であり、経済的
 逼迫に失恋が重なっている。一体かれらはそのどっちで死ぬのであろうかと、彼は時々
 疑ってみる。 
・女主人とその話が出た時、彼は冗談に、「この室は心中するには持って来いですね。内
 から戸を閉めて薬を飲めば、誰にも邪魔される心配はない」というと、女主人が眉をひ
 そめたのを見て、彼ははっとした。自分たちの占いが悪かったため、女主人は案外真剣
 にそんなことも懸念しているのではないかと、彼はひがんだ。
・房枝は賢吉と一緒に東京の旅館へ泊ったまま家を出てしまっているので、身の回りに欠
 けるものが多い。彼女がそういうものを買いに町へ降りた留守、賢吉は女主人の室へ入
 っていった。   
・「また占いを一つ見てもらいたいんですがね」「おやおや、まだ心配な人があるんです
 か」「年は三十三、色が黒くて丈は低い人です」「なんです。そんなら奥さんが昨日お
 っしゃった方じゃありませんか」「いや、こんどは女です」「おやおや」女主人は笑っ
 てカードを出した。「運勢ですか、心ですか」時子の心はわかっている。「運勢です」
・賢吉は恐怖に囚われた。島田の心の占いにスペイドの一とクラブの一が並んだ時、女主
 人はもしこれが運勢だったら死ぬということだといった。もし今時子の運勢にその二つ
 の札が並んでしまったらどうしょう。
・瞬間賢吉は占いを止めてもらおうかとも思ったが、昨日出たばかりの珍しい卦である。
 よもや続けて出ることもあるまいと希望を繋ぎ、黙って馴れたてつきで札を操る女主人
 の手もとを見続けた。
・しかし、その卦はやはり出た。女主人もさすがにぎょっとしたらしく、ぼんやり札と賢
 吉の顔を見比べていたが、ついに、「どういう方ですか、この方」と訊いた。「それは
 申せません。ただ」といっただけで、賢吉は思わず涙ぐんだ。「自殺でしょうか。病死
 でしょうか」  
・自分が時子を捨てたら、あるいは時子は自ら命を縮めるのではないか、という懸念は、
 実は前から賢吉の心にあったのだ。
・女主人は真面目に札を二、三枚抜いて見た。そして静かに、「御安心なさい。病死です」
 といった。 
・彼は二通の速達を受け取った。一通は京都の兄からのものであり、一通は房枝宛で、封
 筒の裏に、あれほど彼の恐れていた島田の名を読んだ。
・賢吉はがんと頭をどやされたような気がした。目がくらんだ。しかし二度三度繰り返し
 読むうちに、今度は無性に腹が立ってきた。そんな女とは誰のことだ、つるんで離れな
 いとは何事か。いやしくも自分の愛する女に対して、兄といえどももっと尊敬をもって
 遇すべきではないか・・・。ただ島田が養家へ行ったという知らせは彼の胸にこたえた。
 そこまで身を落としてまで房枝を離したくないのであろうか、いや離したくないのはよ
 くわかる。それだけ値打ちのある女だ。よし、それなら誰にも頼まぬ。自分一人でなん
 とでもして房枝と生き抜いて見せると、すっかり当てのはずれた絶望からかえって力ん
 でいるところへ、房枝が帰ってきた。
・賢吉が兄からの手紙を隠し、島田から来た手紙だけを見せると、房枝はさすがに顔色を
 変えた。さらさらと読み下して、彼に渡した。
・島田が房枝を愛しているのはよくわかった。「四年の奴隷」という言葉はちょっと賢吉
 を打った。しかしそういえば、自分だって二十年養子として奴隷の生活をしている。忍
 耐でも負けるものか。「その人も帰るだろう」がむっと来た。多分島田は二宮の家で、
 京都の兄から行った手紙を見て、この宿を知ったのだろう。そういう風にあちこち歩き
 回っているのは、結局この男が世間を頼りにしているからである。房枝に対する愛情が
 どうであろうと、彼女を世間の力を借りて取り戻そうとしている以上、愛情を主張する
 資格はない。殺しに行くなぞと嘘をつけ。
・「島田が殺すなんていっているの、いやね。あたしちょっと島田に会って話して来よう
 かしら」絶望してただ房枝の心だけにすがっていた賢吉は、その心に任せるほかないと
 思い、「どうでも君のすむようにしたまえ」といった。これは実は房枝の要求していな
 い返事であった。心の中では賢吉がとめるのを求めていた。返事は彼女を落胆させた。
 これは東京を出て以来二人の間に入った最初の隙であり、それは最初二人の間に隙がな
 かっただけに、急に拡がった。
 
・着の身着のままで出て来た以上、房枝は全部を棄てているのである。そこへちょっと話
 をしに帰るということはあり得ない。帰ればすべてを許すという余裕を持たされている
 ことから、話はすぐ、帰るからにはちゃんと帰ります、となった。これは賢吉の予想し
 ないことだったので、彼は慌てたが、取り返しがつかない。
・ではそうしよう。どうせ帰るならすぐ帰ろうか。いや今から帰っては九時をすぎる。そ
 んな時間に帰っても仕方がない、もう一晩泊まって明日帰ってもいいではないか、では
 電報だけ打っておこうということになって、それぞれ家へ「アスアサカエル」と電報と
 打ち、その夜を一晩泊まってしまえば、二人はやはり離れがたいのである。
・あるいはこれが永久の別れになるかも知れぬ抱擁の後で、房枝が「どっか誰も知らない
 とこへ行って、乞食をしてもいいから、一緒に暮らしましょうか」といえば、賢吉は、
 「ああそうしようね。そうしようとも」と答えねばならぬ。
・京都の兄にすべて片付けてもらって出直すといっても、一度こういうことを仕出かした
 以上、二宮に対してこれまでの数倍気を使わねばならぬであろう。そういうことに堪え
 通せるとはとても思われぬ。
・では房枝を殺して自分も死ぬよりほかにはない。島田も自分と一緒になるならば彼女を
 殺すといっている。自分も負けてなるものか。先に殺した方が勝ちだ。

・今すぐここで殺してもいいが、それではこの家に迷惑がかかる。彼がこの室を心中しや
 すいと冗談をいってからは、女主人は何となく気にかかるらしく、今朝も早く窓の戸を
 かたこといわせに来たのに彼は気づいている。
・朝食をすませてすぐ発つことにきめていたが、どうせ島田は勤めに出たであろうから、
 夕方までに帰ればいいではないか、それまでちょっと散歩して来ないか、と誘うと、硬
 ばっていた房枝の顔も少し柔らいで、すぐ「うん」と答えたのは、やはりこの女には素
 直な気のいいところがあるのだと、またいとしさがまさる。
・宿の勘定は幾らかを先に渡してある。勘定残りと後始末の金は、春外套や靴でも売って
 もらおうと、少ない残り金を全部内かくしに入れた外套を残し、「ちょっと散歩して来
 ます」といいおいて、洋服姿で先に庭へ降り立った。
・来宮神社の境内はやはり森閑と静まり返っていた。三日前二人はここで行く末の幸せを
 祈ったばかりである。
・神社の傍を流れる一つの川に沿って賢吉は房枝を導いた。
・七、八人の人夫が斜面を切り開いて地均しをしていた。その営々たる働きぶりを見てい
 ると、やはり男である賢吉は、こうしてちゃんと働いている人もいる世の中で、どうし
 て自分ばかり無理心中なぞしなければならないのか、何かにすまぬと思うのである。し
 かしああもうこの世界とは永久に縁がない。
・働く人の傍を遠慮がちに摺り抜けて行く背後に、二人は卑猥な冗談を聞いた。
・嶮しい道に時々さまよっている段を上る時、裾があがって白いふくら脛が露われ、何か
 の引っ掻いたような傷痕が見えた。その隅々まで知っているはずの房枝の体に、こんな
 傷があるのを賢吉は知らなかった。ではこれは自分が彼女の体を自分の楽しみになると
 ころだけしか知ろうとしなかったからかも知れない。彼女の心にも自分の知らないとこ
 ろに、こんな傷があるかも知れぬ。彼女は彼女で男の知らぬ営みがあるのだ。
・そういう彼女をただ自分の気持ちの都合で殺そうとしている自分は、何という恐ろしい
 男であろう。房枝を殺して自分も死のうと思うのは、あながち彼女に対する愛着ばかり
 ではなく、これから先の自分の生活に望みがないからである。これは彼女の知ったこと
 ではない。堪えられなければ自分一人で死ねばよいのである。
・これから生きていれば、またどんな幸せにめぐり合わないとは限ったものではない。そ
 の命をただ自分の都合で絶つのは、いかにも無残なわざである。いい加減で宿に引き返
 し、房枝だけ先に帰して、自分はまた自分で始末をつけよう。
・この間に先に立って歩いている房枝は別のことを考えていた。「先においでなさい」と
 賢吉にいわれた時、その眼の色から、彼女は自分が殺されると信じた。しかしそれがそ
 う怖くはなかった。  
・賢吉が自分を殺せばどうせ後で死ぬつもりであろう。そんなら一緒に死のうといってや
 れば、どんなに喜ぶがわからない。
・房枝が一本道で不意に立ち止まり、くるりと振り向いたので、彼女の足許ばかり見つめ
 て附いて来た賢吉は、彼女とぶつかりそうになった。驚いてあげた彼の顔へ房枝は浴び
 せるように、「一緒に死にましょう」といった。ぎょっとしたような彼の顔を見て彼女
 はまたがっかりした。
・「うん、死のう」と返事すると、その場へうずくまってはらはらと涙を落した。
・「うん、死のう」なぞといっているが、いざとなったら、賢吉はきっとまた尻込みする
 に違いない。しかしその時は自分が殺すまでだと、彼女は女の腕力にはひどく不相応な
 決心をしてしまった。
・彼女は帯締めの下に両の親指を入れ、きゅうと左右にしごいた。それで賢吉をしめ殺す
 つもりである。この時彼女はまたにやりと笑ったが、下を向いてひたすら涙を流してい
 た賢吉は、今度は気がつかなかったし、彼女自身は自分が笑ったのを知らぬ。
・行く手の十国峠の山嶺から洪水が運んだらしい大きな転石が、青々と麦の延びた段々畑
 の中に、黒牛のようにうずくまっている。
・風景は二人を迎えるように思われる。ようやく冬の装いを脱しようとしている古代熱海
 火山の火口壁を形づくる山々が、二人の視野を蔽っている。これからあの自然の中にと
 け込んで行くだけだと思うと、賢吉も今は気が落ち着いて来た。房枝は彼の様子を見て、
 これは自分の手で殺さずにすむかも知れないと思った。
・道が一軒の農家の傍を通るところに、楠の大木があって、南の方海に向かって枝を差し
 延べていた。そこで二人は止まり、振り返った。
・随分高く上って来たものである。伊豆の海はやはり静かに浪の襞を畳んでそこにあった。
・楠の傍の農家の老主人、通称「鯛の畑」の伝兵衛は、下の派出所の巡査から心中者の監
 視を申しつかっている。それらしい男女が通ったら、何とかごまかして家に止め、急報
 するようにいわれている。普通の湯治客で、ここまで上って来る酔興な者はめったにな
 いからである。
・最初彼は通りすがりの男女をやたらに止めていたが、怪しいと思った二人連れが、ただ
 の散歩客だったりすることがあまりに多いので、彼は次第にまず鑑定することを覚えた。
 彼の結論によれば心中者はやたらしおれているか、やたらにはしゃいでいるか、その二
 種の極端に限られる。そしてこの日縁側で日向ぼっこをしながら、賢吉と房枝の上って
 来るのを、遠くからじっと見ていた彼は、二人が心中者ではないと鑑定した。それほど
 二人の様子は平凡に見えた。
・二人は庭に沿ってなおも上って行く道を伝って来た。伝兵衛を見ると軽く会釈し、それ
 から立ち止まって、しばらく庭で餌をあさっている鶏を笑いながら見ていたが、また手
 を繋いで上って行った。 
・それから二人の姿を見た者はいない。