気張る男  :城山三郎

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この作品は今から21年前の2000年に発表されたもので、丹後の寒村から志を持って
10歳で家出をし、銀行や鉄道、紡績、ビール会社などを次々と創業して”西の渋沢栄一”
と言われた「松本重太郎」という大実業家の生涯を小説化したものである。
最近、NHKの日曜日放送の大河ドラマでは”渋沢栄一”の生涯を描いた「青天を衝け」
の放送が始まったが、”東の渋沢栄一”に対して、西にもこのような人物がいたことを、こ
の本を読むまで、私はまったく知らなかった。
なお、松本重太郎氏は、関西実業界の帝王とまで言われるようになったが、晩年は、倒産
で私財をことごとく手放すこととなった。その潔さに心底敬服させられた。
また、この作品本では、”日本の金融王”と呼ばれた「安田善次郎」の生涯も並行して描か
れており、明治時代から昭和にかけての、日本の実業界の状況を知ることができる。
私は、この安田善次郎氏についても、この本を読むまであまり知らなかったのだが、この
本を読んで、安田氏が想像していた以上にやり手の人物だったことを改めて知った。
私が以前、東京で暮らしていた時、都内墨田区にある「旧安田庭園」を散策したことがあ
ったが、その時は、その庭園の元々の所有者がこの安田善次郎氏であったことなど、まっ
たく知らなかった。また、文京区の東京大学キャンパスを散策したことがあったが、その
時に見た「安田講堂」もこの安田善次郎氏の寄付のより建設されたものであったようだ。
さらには、台東区にある「旧岩崎邸庭園」は、この本に出てくる三菱財閥の創業者の岩崎
弥太郎
が所有していたものであったようだ。もっとしっかり調べて、見て廻るべきであっ
た。
また、この本の中に「藤田伝三郎」なる人物が登場しているが、この藤田氏は藤田財閥
創設者で、東北ともかかわりが深く、秋田県小坂町にあった小坂鉱山は、この藤田財閥の
所有であった。明治30年代には銀の生産高が日本一だったらしく、小坂は鉱山の町とし
てとても繁栄していたという。その当時建造された「旧小坂鉱山事務所」や芝居小屋の
「康楽館」
は、とても見事な建築物で、今も現存し国の重要文化財の指定を受けている。
また、藤田伝三郎氏の寄付により、明治43年に秋田市に設立された秋田鉱山専門学校は、
後に秋田大学旧鉱山学部の前身校であり、日本唯一の官立鉱山専門学校であったという。


十歳で何ができるか
・重太郎はふと母美代のことを考えたが、とたんに眩暈がしそうであった。その中で重太
 郎は思った。やはり早過ぎる家出であったのか。まさか、こんなことになろうとか。い
 ずれは村を出るにしても、十歳の身では早過ぎると、反対し続けた美代。表情は暗く、
 ついにはほとんど口もきかなくなっていた。このため、父亀右衛門まで美代に同調し、
 重太郎はこの時点では、両親に逆らって家を出た形になっていた。
・この日、重太郎が後にした丹後国間人村は、地三方を山に囲まれ、傾いたまま海に落ち
 込む地勢。まるで海の中に置き忘れられた形の村であった。このため、千戸ほどの所帯
 が あるのに、田んぼは僅かに二十町歩余。痩せ地なので、米の収穫は少なく、畑から
 畦道まで、隙間なく麦、粟、稗などつくらねばならない。海の幸があるので助かりはし
 たが、その救い主お海は荒神さまでもあって、ときどき命をとりにやってくる。
・家々の間を細い道が曲りくねって海に通じるばかりで、他に余地といったものがないた
 め、座棺用の墓地ひとつ用意するのも命がけとなる。生まれるのも死ぬのも易しいが、
 生きるのも葬られるのも、この上なく難儀な土地であった。このため、たとえ生まれて
 も、家を継ぐ者以外は、他所の土地へ出なくてはならない。そのことを重太郎は物心つ
 くころから、繰り返し父親にいい聞かされた。
・三度、道を訊ねたあげく、同郷の小商人が連れて行ってくれたはずの丹後屋宇兵衛の店
 にたどり着いたが、紹介者抜きでいきなり当の子供が一人で現われたせいもあってか、
 相手にもされなかった。急いでまっすぐに出てきてしまったことが仇になったわけだが、
 といって、子供一人がどこかに泊って、その小商人を待つということもできない。重太
 郎がその場から動かず、ひたすら同じ頼みをくり返していると、主人の宇兵衛が顔を見
 せた。
・宇兵衛としては、とくに人手を求めたおぼえはなかったし、十歳ではその店として使い
 づらかった。しかし、同じ丹後の出ということもあり、また重太郎の様子を見かねた。
 偶々、菱屋勘七という呉服屋が丁稚を欲しがっていたのを思い出し、そこへ奉公させて
 くれることになった。
・この同じ年、丹後より日本海沿いにさかのぼった越中から家出し、奉公しようと江戸に
 向かった若者が居た。名は、「安田善次郎」。後に、「日本の金融王」と称されるほど
 になり、重太郎とは微妙な関係になり、ついには重太郎の事業家としての生死を左右す
 る立場になる。
・もちろん、そのころには、重太郎はどこにも居る実業家の一人ではなく、「西の渋沢」
 と呼ばれるほどの大経営者になっていたが、この時点では、同じ年、同じように気張っ
 て家出し、歩きに歩いて奉公先に向かう少年と青年というだけのことであった。
・少年重太郎が菱屋に勤めて三年目。まじめによく働くので、主人や番頭に気に入られた。
 心の中は別として、明るく振る舞うようにつとめているので、小僧仲間の評判もわるく
 ない。それでも、重太郎は腰が落ち着かなくなった。せっかく家出してきたのに、この
 ままでは、岩に打ち上げられた稚貝同然に、また日干しになってしまいそうだ、と。
・一年経っても、二年経っても、下働きばかり。それに、いずれ商いをやらされるのにし
 ても、商うのは西陣織やつづれ錦に限られるし、客もほぼきまっている。二十何年かし
 て、ようやく番頭になっても、万事、旦那の言うままに、小僧や手代時代同様に従わね
 ばならない。
・もちろん、新しい商品を扱ったり、変わった仕事をやってみるという試みもなく、限ら
 れた単調な仕事をくり返して行くだけ。店はそれでも十分やって行けるのだが、こちら
 はどうなるのか。
・やる気をどんどん失って行き、その果ては、世の動きからとり残され、またもや稚貝の
 ように集団死することになるのではないか。そう思うと、気持ちは落ち込むばかりであ
 った。
・そうしたところへ、ある日、長男である兄が大坂から出した手紙が届いた。筆不精の兄、
 それも大坂からというのに、驚かされたが、内容も思いかげぬものであった。事情はよ
 くわからぬが、よくない話、暗い話のはずである。ところが重太郎は、別の受け取り方
 をした。大坂で兄が働いているとは、何よりの好便。これを機会に重太郎も迷わず大坂
 へ移れとの神仏のお告げではないか、と。
・兄の勤め先という綿利は、大坂でも指折りの大店の一つというだけに、探し当てるのは
 簡単だった。ところが、そこに当の兄が居なくなっていた。便りを寄越して間が無いと
 いうのに、急に店を辞めた。丹後に帰ったのではないか、という。兄には気まぐれなと
 ころがあったが、その兄が何とかしてくれると、重太郎はひとり合点してきた。
・便りを読んで小躍りし、ろくに確かめもせず、一気に大坂へ出て来てしまった。といっ
 て、跡継ぎの兄とは違い、丹後へは帰れないし、病気と偽ったので、菱屋へも戻れない。
 このため、綿利の番頭に、自分を使ってくれと哀願するばかり。
・顔も似ており、弟であることにちがいない。幼いし、事情を聞けば殊勝なところもある。
 大店なので、一人二人の増減はどうにでもなる。そこで「ひとまず」という条件で、小
 僧に採ってくれることになった。 
・一方、二年前、同じように家出をした安田善次郎は、この年、また江戸への旅路を辿っ
 ていた。というのも、重太郎より六歳年長の安田善次郎は、あの年、家を出たものの、
 通行手形を持たぬため、間道づたいの難行苦行お旅となり、山中で疲れ果ていたところ
 を、樵夫の父子に救われた。
・実は、安田の父は勤勉な農夫で、金を貯めて最下級の身分を手に入れており、善次郎は、
 その一人息子。このため、学問も武芸もいくらかは仕込まれて育っていた。つまり、重
 太郎とは逆に戻るべきというか、戻らねばならぬ家があったわけで、事情を聞いた樵夫
 父子にさんざん戒められ、そこから富山へと引き返してしまっていたのである。

男ざかりに何ができるか
・今回は店から一町ほど先に、小田奠陽という儒者の塾があるのが、まず眼に入った。小
 田奠陽がえらいのは、明けの七つ(午前四時)から塾を開いてくれることであった。と
 はいえ、少年の身でそんなに早起きするのは、つらいことであった。このため、足をつ
 ねったり、古い箸をひそかに持参して、足裏を突いたり。
・塾生の中で最年少。並外れて若いというか、幼い、置いてけぼりにされまいとして、目
 に力をこめて奠陽を見、耳を澄まして講義を聴いた。
・重太郎が大坂へ転職した年、二度目の家出で江戸に出た安田善次郎は、玩具問屋へ。次
 に海苔屋兼両替屋で働いていた。これまた、よく気がつくし、骨身惜しみもせず働く男
 で、特に重太郎と共通しているのは、早起き。そして勉強であった。
・世は騒然としていた。「安政の大獄」があり、ついで、「桜田門の変」。幕府は攘夷と
 開国の間をゆれ動き、薩摩も長州も、外国艦隊と砲火を交わす。幕府は二度にわたって
 長州征伐。将軍家茂の上洛と死があり、一方、凶作があり、打ち毀し一揆が各地で起こ
 る。商いの都である大坂もまた、こうした時代の波に揉まれはじめた。
・重太郎は二十歳になっていたが、番頭になるまでは、そのまま、まだまだ十五年、二十
 年と待たねばならない。また、たとえ番頭になってからも、その先、分家なり別家なり
 にさせてもらうのは、なかなか難しく、お礼奉公ということで、はっきりしない人生で
 終わってしまいそうであり、大店という岩の上に打ち上げられたまま稚貝同然の運命に
 なるのではないか。
・一回限りの人生。思いきり駆け回り、走り廻るように過ごしてみたいのに。考えれば考
 えるほど、気は滅入る。そのあげく、今度もやはり岩の上から飛び下りてみる他ない、
 と思うようになった。
・幸い、重太郎には相談に乗ってくれそうな人が居た。師の小田奠陽である。相談してよ
 かった。奠陽は本だけでなく、よく世の中を見つめ、よく弟子を見ており、きっぱりと
 答えてくれた。この先はどうなるかわからぬ。やる気のある者が自分を殺して、十年二
 十年と待つ世ではない、と。こうして重太郎は、十二年ほどつとめた綿利をやめた。
・もちろん、小さい店を構えて独立というわけにはいかない。あるのは、長年、細々と積
 み立ててきた貯えだけ。その僅かな金を持って、重太郎は堺へ走った。そして、その金
 を保証金代わりにして、割安の反物など渡してもらい、大坂へと返して、買手を探し回
 り、売りつける。
・自分の商品でない物を、自分の商品のようにして売り歩くというので、「とんび」など
 と馬鹿にされたりもしたが、仲立業であり、商人であることに変わりはない。その日暮
 らしの連続であったが、それでも毎日小走りに動き廻っているうち、得意先もでき、頼
 まれた品物を調達するようにもなった。ときには神戸まで出かけて、外国人から洋反物
 を手に入れるということもした。
・それに、励ましてくれる客にも出会った。大きな芸妓扱所の娘、阪口ウシ。やや細面だ
 が、眼の大きな女性であった。その家では、預かる芸妓たちの数も多く、またさまざま
 な買注文が出る。それをまとめて、まちがいなくかたづけるというので、重太郎の評判
 はよかった。ウシの父親もときに顔を見せるが、早いうちから仕事をおぼえさせるため
 か、娘にかなりの宰領を委ねている風であった。
・思いがけぬことになった。ウシの父親は、あれこれ質問をしたあげく、三百両を出世払
 いで用立ててくれるという。重太郎は口をまるくしたまま、すぐには声も出なかった。 
・三百両で店こそ買えたが、開業までには商品の仕入れや店の手直しなどで、実はあと三
 百両ほども必要とわかり、重太郎はまた頭を抱えこんだ。ところが、ウシの父親が客筋
 や知り合いの男たちに口をきき、これまた出世払いということで、それだけの金を集め
 てくれた。
・かなりの借金。しかし、気張って、同時、細やかな心づかいを重ねていったおかげで、
 重太郎は徐々に、大坂の一等地に、小さいながらも店を出すことができるようになる。
 丹後を代表する男になるとの意気ごみから、店の名を丹後屋重太郎、「丹重」と名づけ
 た。
・それまでの経験から、太物商いでは、老舗相手に太刀打ちが難しい、と見た。そこで、
 とりあえず羅紗など洋反物を中心に、舶来物を仕入れてきて売ることに。妙なきっかけ
 で西洋蝋燭にも手を出していたが、これがなかなか評判がいいので、安値で仕入れがで
 きそうなときは、抜け目なくまとめ買いをしておいた。
・ある日、神戸の波止場で、顔見知りの男に声をかけられた。その男は鶉色の洋服を着、
 その上、馬に乗っていた。新時代の男に馬上から見下される形だが、外国人を見馴れて
 きた重太郎から見れば、好みもよくないし、着方も下手。二年ほど長崎に居て鉄砲など
 商った男という割には、不細工な恰好であった。重太郎より十歳ほど年長のその男の名
 は、「岩崎弥太郎」。後に三菱財閥の創業者となるが、このときは大坂の「土佐商会主
 任」という肩書であった。
・そうした重太郎を見こむように、金主というか後援者の一人から、縁談を持ち込まれた。
 相手は武家の娘。それも、武蔵国忍藩の京都留守居約をつとめた牧勝の娘、浜と言う。
 生活に自信を失くした士族が、昇り調子の若い商人に娘の一人を託してみる気になった
 ようで、御維新前には考えられぬ話であった。それほど世相も急ぎ足で動いていた。浜
 は痩せすぎず長身の女であったが、元気というか、威勢がよかった。
・順調な話ばかりではなかった。それから二年後、台湾へ漂着した日本人漁民が殺される、
 という事件が起こった。重太郎は戦争が起こると踏み、神戸へ行って軍用になりそうな
 羅紗を買い集めた。そして横浜行きの船に積み、自分もその船に乗り込んで、横浜へ着
 き、さらに東京へ出た。
・陸軍省御用達の「先収会社」へ売り込みに行く。同社は大蔵省高官の「井上馨」が副業
 同然に経営しており、その井上もまた、大坂では同じ長州出身の「藤田伝三郎」などを
 贔屓にしていた。そのせいもあってか、重太郎は先収会社ではまったく相手にされなか
 った。それは、もはや、ふつうの商いではなかった。
・それならそれと、重太郎の決断は速かった。荷ごと、そのまま神戸へ帰る。人と荷の往
 復の船賃はまるまる損するが、構わない。東京での長居は無用と、意地になり、見切り
 も速かった。
・政府御用達は、ふつうの商いとは違い、法外な利益をもたらす。三、四年ほど前、重太
 郎に「西洋蝋燭を買うてくださらんか」と頼んだ岩崎弥太郎は、その後、旧土佐藩の船
 三隻を運用するなど「三菱商会」を設立していたが、この台湾出兵のとき、外国の船会
 社などが断ったのに対し、岩崎は、その三隻に加え、政府購入の十三隻の汽船を貸与さ
 れて、軍事輸送を請負った。そして、その終了後は十三隻をそっくり無償で下付された
 だけでなく、十五年間にわたる運行助成金まで貰うという信じられぬほど手厚い恩典を
 受け、財閥への礎を一挙に築いている。
・一方、この時期、安田善次郎は商人、とくに金融業者に徹しようとしていた。「両替商
 と呼ばれた時代に、それがいちばん儲かる仕事とされた。誰にでもできる商売ではなか
 ったからである。 
・通貨は東に金貨、西の銀貨と両建てであった上、藩札あり太政官札あり、さらに銀行紙
 幣にと種類が多い上、めまぐるしい移り変わり。加えて士族宛に大量の秩禄公債が出さ
 れ、さらに金禄公債ということがあって、それらを評価し、交換し、担保にして融通す
 るという仕事は、かなり厄介であるだけでなく、危険を伴った。財産だけでなく、命も
 落としかねないほどに。世は乱れており、両替商は盗賊や浪士に最も狙われる職種であ
 った。

大儲けのあとで
・三年前、鉄道が開通し、神戸から大阪へは一時間少々で着くことができ、汽車は一日八
 往復も出ている。
・数日後にわかったことは、京都での政府要人たちがひっそり祭事にかかわっているだけ
 でなく、度々会議を開き、またお互いの間を慌しく往来しているということであった。
 ドイツ人の地図といい、そうした要人たちの動きといい、九州での戦争が大規模なもの
 になることは、まちがいなかった。ということは、重太郎の商売でいえば、軍用の羅紗
 が、それまでの御用達の扱いでは間に合わぬほど、大量なものになるはずであるそこで
 重太郎は、今度は自ら先頭に立つとともに、番頭たちを手分けして神戸・大阪を走り廻
 らせ、外国人などから買える限りの羅紗を仕入れさせた。
・しかし、またしても当てがはずれた。一応、仮契約をして納めた羅紗が、品質不良とい
 うことで、次々に解約し、返品されてきて、その量がついに売り上げの三割に達した。
 前回とは違い、今回はいくつかの御用達商を通したのだが、同じ理由で戻された。調べ
 てみると、買い急ぎのため、かなり粗悪な物が、やはり混じっていた。それにしても、
 薄い口銭稼ぎの商売なので、返品が三割にも達したのでは、利益も怪しくなる。走って
 飛び出したはものの、結局、返品が三割にも達したのでは、店をあげての骨折り損に終
 わったかと、商売の難しさがあらためて身にしみた。
・といって、重太郎は返品されてきた羅紗を叩き売りはしなかった。叩き売りは自らの失
 敗を人目にさらすようなもの。それに、これまで集めた情報で見る限り、戦争が簡単に
 終わるとは思えない。「いずれ、そのときに」という祈りに近い期待を持ち続けた。そ
 して、期待は的中した。西郷軍が予想以上にねばり強く抵抗し、政府軍は大幅な増強が
 必要になった。ところが、すでに正規軍はほとんど出動しており、政府は巡査や士族か
 ら兵員を徴募して、九州へ送り出すことになった。
・もちろん、そのための補給など間に合うはずもなく、俄か兵士たちは軍服二着を支給さ
 れただけで、それ以外は各自調達ということになり、出発地である大阪や神戸では、必
 要な品を求めて兵士たちが店々に殺到した。毛布や外套にする羅紗などは、なによりも
 その対象であった。急いでいるのと、品不足のおそれから、男たちは品質など吟味する
 こともなく買って行き、「丹重」の在庫はあっという間に無くなった。
・今回は、というより、今回も本当に苦労して儲けたというより、運よく儲かったという
 形。それで浮かれていて、よいものなのか。それとも、商いの儲けとは、もともと、そ
 ういうものなのか。そうだとすると、世の動きをいち早くつかめるかどうかが勝機につ
 ながり、政府高官と親しい東京の岩崎弥太郎などとは、とても勝負にならなくなる。で
 は、いっそ東京に出るか。重太郎に、その気はなかった。
・士族たちに交付されていた秩禄公債が金禄公債に代わり、売買や担保に使うことが自由
 になった。このため、士族たちはその運用を考え、主として金禄公債を資本金とする国
 立銀行を、各地につくるようになった。「国立」と名乗ったのは、「国法による」とい
 う意味であり、すべて民間の銀行であり、東京で渋沢栄一が創立した第一国立銀行がそ
 の皮切り。以後、設立の順番に従って、数字をそれぞれの銀行名としてきたが、その数
 字が二桁に、いや三桁に迫ろうとしていた。
・その辺りまでは、重太郎も新聞などで承知していた。渋沢は旧幕臣だが、もともとは武
 蔵国深谷の農家の出であること。あるいはまた、富山の薬売りから聞いたのだが、第三
 国立銀行創立の安田も越中の農家出であるという話など、大いに重太郎を刺戟した。
・このころ、羽振りのよいだけでなく、大阪の実業界に睨みをきかせる二人の男が居た。
 一人は、「五代友厚」。重太郎より九つ年長。薩摩藩士の家に生れ、若いとき藩命で上
 海にも行き、長崎ではグラバー商会から武器、弾薬、紡績機械などを買い付け、その縁
 で早々と半年ほどヨーロッパへ出かけている。大久保利通や松方正義らにつながり、新
 政府では参与、そして外国方もつとめ、大阪にも駐在。明治二年、官を辞してからは、
 大阪に腰を据え、政府の払い下げを受けたりして、鉱山の開発を中心とする事業で、財
 を成していた。
・そして、いま一人は、「藤田伝三郎」。こちらは重太郎より三つ年長で、奇兵隊に居た
 こともあり、長州閥の井上馨の腹心で、軍御用達などをする先収会社の幹部。台湾出兵
 のとき、羅紗の売り込みに行った重太郎に苦汁をのませた同社の大阪支配人でもあった
 が、土木事業にも手を拡げ、西南戦争の際、軍服や糧食などの調達だけでなく、戦費の
 三分の一にも上る人夫請負でも荒稼ぎ、さらに、コレラが流行すると教えられて、消毒
 用の石炭酸を買い占め、これを十倍の値で売ったと噂された。
・つまり、五代といい、藤田といい、重太郎から見れば、伝手から伝手、政府高官とつる
 むことで富豪になった男たち。荒稼ぎと大儲けは、この男たちだけのものか。そう思う
 と、いまの重太郎には「儲ける」ということ自体、空しく、味気ないものに思えてくる。
・いまさら、高官にとり入る気はない。そのため気づかいなどするよりは、たとえ利は薄
 くても、ふつうのお客相手に実のあることで役立ちたいし、それでどこまで行けるか、
 やってみたい。
・重太郎は銀行づくりに動き出した。大阪には、すでに第五国立銀行はじめ幾つかの銀行
 ができており、伝手を頼ってそれらの役員や行員に会い、関係の役所なども訪ね廻って
 話を聞き、これはと思う人材があれば、引き抜いたりした。その上で、明治十一年七月
 に出願、九月に開業許可を得た。この第百三十国立銀行の資本金は、二十五万円。渋沢
 のつくった第一国立銀行の十分の一でしかない。大阪に最初にできた第五国立銀行の資
 本金五十万円の半分であり、他の先発各行に比べても、見劣りがした。
・すべてが無い無い尽くし。そこで、我が身に何があるかと訊ね、一つだけ思い当たった。
 簡単だが、確かなことに。それは、これまで重太郎が客として体でおぼえてきたことで
 ある。つまり、銀行に行く身として、何を望んだか、何を感じたか、何を味わったか。
 客としての望み、悩み、注文等々、それらに銀行は徹底して応えること、応え切ること
 だと。
・銀行の都合などより、客の都合最優先。徹底して客に奉仕しようというのであった。一
 方、貸出についてはどうか。基本は「対人本位」ちまり、人物本位。ということで、無
 担保でも思い切った額を融資する場合もある。そこが、担保をとって金を貸すだけの質
 屋と違うところ。あくまで人物本位。人物と事業の将来性こそ何よりの担保だと。
・もちろん、この方針に反対する役員も居た。貸し倒れになったらどうすると。重太郎は
 突っぱねた。貸し倒れが出るかもしれぬが、商いとは儲けたり損したりするもの。儲け
 て損し、損して儲ける。そのうち、だんだん大きくなって行く。相手も大きくして行く。
 それが、ほんまの商い、ほんまの銀行というものやと。
・この方針は評判になっただけでなく、それがまた実際に行われているとわかると、客が
 客を呼んだ。そして、他の銀行が閑散としているときでも、第百三十国立銀行だけはい
 つも客でにぎわうという日々が続いた。
・もともと他の銀行の多くは、政商につながる銀行でなければ、豪商の機関銀行であった
 り、両替商の延長であったりして、新規の客は親しみにくかった。このため、第百三十
 国立銀行の親しみやすさは、一段と光った。
・重太郎の頭取就任の年には、京都に西京支店、志賀の長浜に出張所を開く。こちらは後
 に、合併により明治銀行支店となり、巨大な蔵を思わせる二階建て黒壁造りになり、現
 存している。店内の造作りもみごとで、「黒壁銀行」とも呼ばれ、いまは長浜の観光名
 所として残っている。

光りの館
・頭取重太郎には、時間的にも心理的にも、底氏は余裕が出てきた。そこで重太郎が足を
 踏み込むことにしたのが、紡績業である。当時、大阪には二、三の紡績工場ができては
 いたが、町工場程度の小さなものであった。ところが、パリ万博への日本政府代表であ
 った松方正義が、ヨーロッパ滞在を終えての帰国後、政府資金で三ヶ所に新式の紡績工
 場をつくらせたことが刺戟になり、大阪でも近代的な紡績会社をつくろうという機運が
 生まれた。重太郎は当然のことのようにその中心人物となって動き出した。
・ところが、東京でもまた同じことが企てられていた。しかも、やはり銀行家の手で。男
 の名は渋沢栄一。第一国立銀行頭取。外国への支払いの中に、繊維関係の代金が余に多
 いのを嘆き、日本に本格的な紡績会社をとの考えを持った。そこへ偶々「山辺丈夫」と
 いう若者が訪ねてきた。旧津和野藩士の家に生まれ、「西周」の塾に入り、その西の推
 薦で旧藩士の子息を随行してヨーロッパへ留学。経済学と機械工学を学んで帰朝。イギ
 リスでの見聞に比べ、おくれのひどい日本の紡績業をぜひ何とかしたい、と訴えに来た
 のであった。その立地の候補として挙げられたのが大阪である。
・東西の二つの勢力が、同じ地域へ同じ事業。しかし、はげしく争うということにはなら
 なかった。それぞれのグループを率いる重太郎と渋沢の間で話がまとまり、計画は一本
 化した。「大阪は私にお任せを」と言い切った重太郎には、仕入れの競り合いを話し合
 いでやめさせた智恵があり、一方、渋沢には、「鯛の頭の先から尻尾まで食べようとし
 てはならぬ」との考えがあったからである。
・その結果、明治十五年春、資本金二十八万円で発足した大阪紡績では、頭取(社長)に
 は藤田伝三郎。二名の取締役の一人に松本重太郎。残る取締役の一人が東京勢で、渋沢
 は取締役にならず、相談役にとどまった。
・そうした重太郎に、さらに似合いの役が舞い込んだ。「日本銀行創立事務御用掛」と、
 いかめしい肩書。無縁のものとしていた政府御用でもあるが、新しくつくる中央銀行の
 ため、とくに関西を代表して意見を出せ、ということ。大阪の実業界からただ一人選ば
 れ、断ることはできなかった。もちろん、御用掛全員の打ち合わせのため東京に出るこ
 ともあり、そこでまた新しい世界をのぞき、新しい知識を得た。たとえば、「銀行とい
 えば、この人」と言われるようになっていた安田善次郎について。
・安田は第三国立銀行だけでなく、安田銀行も設立。加えて、共済五百社という日本にお
 ける保険会社の草分け的なものも、つくっていた。
・いずれにせよ、大阪よりさらに新しい世界、新しい暮らしが東京にはあったのだが、そ
 の新しさを、重太郎が何より我が身に感じたのは、鉄道であった。横浜・新橋間にはす
 でに鉄道が開通していたが、その区間が複線になった上、急行列車が走って、四十五分
 で新橋に着く。この便利さを関西にと、重太郎はまず思った。
・腹案はあった。とりあえずは、大阪・堺を結ぶ鉄道である。かつての港町堺と大阪の関
 係は、横浜と東京との間に似て、人間や荷物の往来が多い。その上、京浜間に比べ三分
 の一のその区間に、参拝客で賑わう住吉大社があり、眺めと料亭で有名な天下茶屋など
 もある。採算は十分とれると踏んだ。
・まず堺へ出かけた。鉄道の開通で何処よりも便利になるのが堺であったし、町人による
 自治の町であった土地柄だけに、そうした計画をお上ではなく、重太郎たち実業家が推
 し進めるというので、余計、乗り気になってくれた。
・阪堺鉄道として発足したこの会社の社長には、大阪紡績のときと同様、藤田伝三郎が就
 任。政府に顔がきく藤田のおかげで、まず工部省の「釜石鉄道」から蒸気機関車などを
 格段に安く払い下げてもらった。
・鉄道の敷設は藤田組などによる突貫工事で進められ、昭和十八年暮には、大和川までの
 七.六キロまで開通。堺まで二キロを残していたが、すかさず営業を始めた。日本最初
 の民間鉄道であったが、乗客が殺到して、営業成績は予想以上、株主配当が三割にもな
 るという有様であった。
・この成功のせいだけではなく、重太郎の鉄道への関心はさらに強まり、東京から国有鉄
 道の終点である神戸から西へ、民間の手で鉄道を延ばそうと、藤田伝三郎を社長とする
 山陽鉄道の創立を企て、発起人として動き回り、とりあえず姫路までの敷設許可を得た。
・汽車が走れば石炭を、というわけで、明治炭坑お創立にもかかわり、監査役に。
・こうした活動に加えて、明治十八年の暮れには、輸入されて大阪紡績に据えつけられた
 大型発電機が運転に入り、いっせいに電灯をつけた四階建ての工場の建物が、暗い葱畠
 にひろがりの中に、光りの館、光りの城となって浮かび上がった。それは、当の重太郎
 自身が師走の寒気を忘れて立ちすくみ、見とれてしまう光景であった。まぶしく、美し
 く、それこそ、新しい世界。この世は別のもう一つの世界がやってきた。いや、重太
 郎の力でやって来させた。
・そこで重太郎は夜間操業の開始を三日間おくらせ、進んで工場を公開することにした。
 この結果、見物人は五万人にも上り、大坂紡績の名を世間に知らせることになった。
・もちろん、会社の業績も好調で、開業一年目には一割八分の配当をし、増資によって資
 本金を倍増。さらに次の二年で、そのまた倍を超す資本金にと、倍々で増える勢いであ
 り、重太郎は藤田に代わって頭取(社長)になり、名実共に頂点に立った。
・一方、藤田の腹心と見られる男が、二年前の秋、自殺していた。藤田は、数年前、贋紙
 幣が大量に市中に出廻ったとき、藤田が海外でつくらせたとの嫌疑をかけられ、検挙拘
 引されるという騒ぎがあった。長州閥と薩摩閥の争いのせいともいわれたが、腹心が自
 殺したことで、またその話が蒸し返されたりして、藤田には心外な日々が始まっていた。
・また、大阪財界のいま一人の代表である五代友厚は、官有物払い下げ事件で評判を落と
 したあと、この明治十八年には世を去った。
・重太郎はせっかちなせいもあって、もともと自分を忙しさの中に追いこむ暮らし方をし
 ていた。早起きで、寝るまで一刻としてじっとして居られぬし、たいていのことは自分
 でやらぬと気が済まない。人がまごついたり、手間どったりしていると、つい手が出て
 しまう。酒はほとんど飲まぬため、夕餉をゆっくりとるということもない。時間が空け
 ば、帳簿や書類、新聞・雑誌に目を通し、人を訪ねたり、招いたりして話を聞く。耳学
 問は手っ取り早い勉強になるし、人と馴染みになることもできる。
・銀行も紡績も鉄道も、やり甲斐のある仕事。軌道に乗ったところへまた一つ新しい事業
 の相談を持ち込まれた。酒をほとんど飲まぬ重太郎にとっては、思ってもみなかった話、
 ビール醸造業である。紡績では輸入を食いとめたが、ビールの輸入が年々かなりの勢い
 で増えていると聞いて心配になり、またそれだけに事業として将来性があると思うと、
 重太郎は早速、外遊中の友人に連絡をとり、調査を頼んだ。さらにそれを追うように大
 阪紡績の社員を醸造研究のため、ドイツへ送り出した。
・堺の酒造家「鳥井駒吉」もビール進出への意欲があり、酒の味もわからぬ重太郎はこの
 鳥井と組む形で、明治二十年には大阪麦酒を設立、鳥井が社長になった。しかし、折か
 ら不況続きであったため、大阪吹田村の酒造所で「旭ビール」を出荷するのは、会社設
 立五年後のことになった。
・重太郎に、さらに新しい会社での新しい役割が加わった。毎日新聞が命に二十三年、株
 式会社へ改組されるに当たって、大阪財界を代表する形で監査役への就任を求められ、
 二つ返事で引き受けたからである。
・重太郎は、一つだけ、いつまでも放っておけぬことがあり、ある日、思い切って口にし
 た。「養子でも迎えたら、どうやろな」さまざまな反応を予想していたが、「えや、な
 いの」浜は以外にあっさりうなずいた。
・実はすでにひそかに候補を選んでおいた。旧幕時代からの大手の両替屋で、後にその姓
 に由来する「井上銀行」を率いる井上保次郎の弟である。名は枩蔵、すでに十七歳であ
 る上、「アメリカで納得の行くまで勉強したい」というのが、当人の出した唯一の条件
 なので、その通りにすれば、当分の間は養子と顔を合わせることもない。もちろん、重
 太郎は枩蔵の出した条件に賛成であった。
・重太郎とはいわば出郷同期生である安田善次郎は、その後どうしていたか。安田の第三
 国立銀行は、東京を足場にする強みから、司法省、陸軍省、それにいくつかの県の公金
 取り扱い御用もつとめた。年度初めに一年分の公金を無利子で預かり、年度末にすべて
 が支出されるまで、自由に運用できるといううまい話。同様な立場にある他行との違い
 は、御役所風になるのを避けて、店先にはわざわざ暖簾をさげ、「叮嚀、親切」で一般
 客をも大切にしたことで、他行から見習いが来るほど、行員の躾もよかった。ただし、
 重太郎の方針と違うのは、貸付には担保を、それも厳選して納めさせたことである。
・安田は一時、東京府会議員にもなったが、その議員職も東京商法会議所員も、まもなく
 辞めてしまった。「自家業務の発展に不便」という理由からで、そこまで本業である金
 融業に徹しようとしていた。ただし、その路線の延長線上で、松本重太郎と同様、日本
 銀行創立準備御用掛となり、さらに日銀理事になり、金融財政通である松方正義と親し
 み、私設顧問のようにもなって、招いたり、招かれたり。もともと妻房子が奉公してい
 た島津家へは御機嫌伺いに行っており、いよいよ薩摩閥と見る向きもあった。
・安田の家庭を見ると、妻房子は結婚後十年ほどして、ようやく一児を儲けたが、夭折。
 このため、血脈の相続人が居なくなっては困ると、夫婦で相談の末、「側室」を選び、
 三男二女を儲けることになる。
・幾度か旅しての安田の結論は、関西には富豪が多くて、進出の余地は少ないし、距離も
 遠い。それよりむしろ東北、さらには北海道は如何かというもので、明治十九年、釧路
 で硫黄鉱山の経営に乗り出した。これが安田の金融業以外へのはじめての進出であった。
・もっとも安田は五十歳を境に、事業のすべてから「引退」し、以後は「監督」にとどま
 る旨、表明した。そして「独り老を楽しまん」というので、毎朝五時に起きて馬に乗り、
 帰って朝餉という健康的な日課で暮らしはじめていた。

心配な鬼才
・重太郎の養嗣子となった松本枩蔵十七歳は、太平洋を渡り、大陸横断鉄道でニューヨー
 クへ。とりあえずニューヨークの北にあるプキプシー商業学校へ入学。簿記とタイプラ
 イターを学んだ。その程度なら、日本に居ても学習するこることであったが、アメリカ
 ならではの功徳は、日々の見聞に加え、さまざまな友人ができたことである。とりわけ、
 その後移った先のボストンではすぐれた若者たちとの出会いがあった。
・まず「池田成彬」。ハーバード大学に留学している秀才で、卒業後、三井銀行入りして、
 後に筆頭常務に。さらに日銀総裁となり、第一次近衛内閣では招かれて大蔵大臣兼商工
 大臣の要職に。日本経済を代表する顔になって行く人物である。
・同じボストンの別の名門校マサチューセッツ工科大学には、九鬼隆輝が学んでいた。水
 軍で名高い九鬼家の末裔で、三田藩主の家柄。その姉の好子は、松方幸次郎の夫人とな
 る。松本枩蔵とは縁戚として格別親しい間柄になっていく。
・枩蔵はまた、「米山梅吉」も識った。米山は帰国後は日本鉄道へ入り、さらに三井銀行
 へ入って、常務まで進み、またロータリークラブをはじめて導入。その東京ロータリー
 クラブ初代会長をつとめることにもなる。
・あるいは、「武藤山治」。武藤は帰国後、新聞広告取扱所を設立。ついで三井銀行に入
 り、神戸支店副支店長から「鐘ヶ淵紡績」の新設兵庫工場の副支配人へ。後に本社支配
 人など経て社長になる。
・枩蔵は、ナポレオンを崇拝し、英語やフランス語の文献を次々と取り寄せ、読みふける。
 歴史も歴史小説も好き。酒は飲まず、シガーをふかしながらの読書三昧。さらに暇さえ
 あれば、百科事典をひんもどく趣味もあり、このため、古今東西にわたって話題も豊富
 で、飽きさせない。生活力はつかないし、その意欲もないが、重太郎からの仕送りで、
 金に不自由しないので、つき合いはきれい。友人に何かを求めるということをせず、む
 しろ力を貸そうとするタイプなので、まじめな留学生や苦学生に頼りにされる面もあっ
 た。
・さまざまな事業の中で、とくに重太郎の心をとらえていたのは、相変わらず鉄道であっ
 た。そのことは周囲も心得ていて、たまたま山陽鉄道社長の「中上川彦次郎」が退くと、
 重太郎が当然のことのように社長に推された。結果的には、重太郎が社長を引き受けて
 おいて、よかった。山陽鉄道のためだけでなく、日本のためにも。
・折から二年ほど不況が続き、山陽鉄道は成績不振。株価は下がって増資など望めず、三
 原までは開通していたが、その先の延長工事の目途が立たない。そうしたところへ登板
 した重太郎は、断固として線路を西へ、下関まで延ばすべきだ、と主張した。
・明治二十七年八月、日清戦争が勃発。重太郎の号令で突貫工事を重ねていた山陽鉄道が
 広島まで線路を延ばしたのは、その直前のことであった。陸軍部隊は広島の宇品港から
 船団を組んで大挙して出動するし、呉からは連合艦隊が出撃する。このため、全国から
 広島めがけ兵員や物資の輸送を集中して行わねばならぬのだが、それは鉄道が通じてい
 ればこそできることであり、もし山陽鉄道が未開通のままであれば、日清戦争は予断を
 許さぬ結果になりかねなかった。
・ただし、線路は通じはしたものの、このときまだ鉄道省による検査も、正式の営業認可
 も下りていなかった。とはいえ、非常事態である。重太郎は自分が全責任をとり、無認
 可のまま、軍事輸送に限り、列車の運転を即刻、始めさせた。それも、無料または極め
 て低額運賃で。これまた正式の料金認可の下りるのを待って居られなかった。
・かつて軍事輸送では岩崎弥太郎が荒稼ぎしたが、その岩崎も十年近く前に亡くなり、三
 菱は甥の代となり、体質を改めてきていたが、戦争は儲かるもの儲けるものという見方
 は、なお世間に根強かった。その中で重太郎は、耳に残る父親の言葉そのまま、「世の
 ために尽くす」よう振る舞ったつもりであった。
・九月には、戦争指揮のための最高機関である大本営が広島に設けられ、天皇が広島へ移
 動された。このとき重太郎は、お召列車に御陪乗の栄を与えられ、天皇から慰労のお言
 葉を頂いた。
・さらに、重太郎には、いま一つ、ひそかな期待があった。養子の枩蔵をアメリカから呼
 び戻し、自分の自由になる会社で、後継者を育て上げようというのである。その目論見
 は、枩蔵が帰国することによって、一歩現実的なものとなった。ただし、枩蔵の帰国は
 自発的なものではなかった。
・もっとも、帰国した枩蔵は、意外にさばさばしたというか、明るい表情を、重太郎に見
 せ、「最近、無二の親友が神戸に引越してきていやはる」と。その親友の名を聞いて、
 重太郎は思わず叫んだ。「え、ほんまか、ほんまかいな」
・「武藤山治」、三井系である鐘ヶ淵紡績が、兵庫和田岬に、重太郎の大阪紡績を上廻る
 大工場をつくろうとしている。その指揮をとる支配人の名が、武藤山治であった。
・重太郎は物も言えず、あらためて養嗣子を見た。やや甘い顔つきだが、日本人離れして
 鼻筋は高く通り、恰幅もいい。すべて重太郎とは対照的で、体つきまでアメリカ人にな
 ってしまった、という感じであった。
・重太郎はまた、枩蔵を「秀才であり、鬼才」と言った川上の言葉を思い出した。当事者
 になろうというのに、この冷静さ。たしかに「秀才」風であったし、自分を巻き込もう
 とする修羅場の争いについて、「いろいろ手を使うもの」だとか、「いくらでもあるこ
 と」などと言いすてられるのは、鬼っ子だからかも知れない。重太郎の心配は深まった。
 枩蔵がようやく帰国し、これで一緒になって走ってくれると思っていた。しっかり組む
 かどうかは別として、少なくとも同じ方向目指して。だが、いまとなっては、そのこと
 さえ期待できぬかも知れない。

任侠の男
・そうした不安など忘れさせるような明るい話が、舞い込んできた。枩蔵への縁談である。
 それも、ある意味では願ってもない話がもたらされた。相手は、時の総理兼大蔵大臣松
 方正義の四女光子である。松方が総理兼大蔵大臣になったのは二度目であり、「松方財
 政」の名を後世に残すほどの最高の実力者であった。
・松方はまた庶子を含めて子沢山。明治天皇が、「何人の子持ちか」と訊ねられたとき、
 「しれ調べた上でお答え申し上げます」と奉答したという噂でも有名なほどであったが、
 それにしても、総理令嬢とは。
・二度目の総理兼大蔵大臣をつとめていた松方正義が、銀行家が実業経営へ手を出すこと
 への危懼を表明したのだ。血縁関係のこそ無いが、松方は重太郎にとって息子の嫁の父
 親に当たる。他ならぬその人が、名こそあげないが、重太郎などへの批判を口にしたの
 である。松方には長期にわたる外遊の経験があり、財政金融に明るいとされているだけ
 に、やはり一言言っておきたかっであろう。それに庶子を含めて子供が多すぎ、その縁
 戚のことなど、一々構っては居られぬ、というところがあった。
・しかし世間は超大物の親同士の対立ということで騒ぎ立てるし、重太郎も割り切れぬ気
 分。そこへ、実業家を兼ねる銀行家に対して、「会社屋」呼ばわりして、はげしく攻撃
 する新聞も出てきた。不況が続き、幾つもの関係する事業が苦しくなっているところへ、
 政府首脳や新聞からの批判や攻撃。「任侠の男」と言われるほど応援してきたつもりの
 重太郎にとっては、思ってもみなかった雲行きとなった。

「頭が割れる」
・夏が終わっても、「東京商人」側の重太郎攻撃は、強まりこそすれ、弱まってはいなか
 った。これに対し重太郎は、上京して日銀はじめ、政財界や官界、あるいは新聞社など
 に釈明する気はなかった。もともと上京が億劫であった重太郎は、ふたたびというか、
 いよいよ「大阪商人」そのものに戻ってしまった。何と言われようと、いまに仕事の上
 で見返してやると。
・ところで、仕事の上で見返すためには、やはり日銀など金融界に働きかけるだけでなく、
 広く経済界にさまざまな味方をつくっておいた方がよい。仮に高野山に居ても、檀家総
 代になっておくなどという手もあるのに、重太郎は何の働きかけもしなかった。
・こうした点では、いわば出郷同期生である安田善次郎とは対照的であった。松田が関西
 財界の顔として名を連ねたのに対し、安田は財界代表の枠を超え、銀行経営の先輩とし
 て、名実共に産婆役をつとめた。銀行経営に集中してきた安田の経験や智恵に、日銀と
 しては一目置かざるを得なかった。このため、日銀発足後も、安田は理事としてとどま
 っただけでなく、割引・株式・計算の三部局長を兼ね、一時期は安田あっての日本銀行
 という感じさえあった。
・重太郎が創立した大阪アルカリで、株価操作などの疑いがあると、一部の株主が騒ぎ出
 し、重太郎は責任をとって社長を退いたが、ほとぼりは簡単にはさめず、その種の騒ぎ
 が、他の関連会社にひろがる心配も出てきた。それに加えて、今度は三菱をバックにし
 た岩崎弥之助日銀総裁が川田前総裁と同じ批判を発表した。
・このため、重太郎は心外ではあったが黙り込み、何らかの対応をする他ないところへ追
 い込まれた。そこで、まずは「病気療養」ということで、堂島の屋敷に引きこもり、門
 を閉ざしてしまった。
・逆に、同じ実業家で仲間や友人が多いといえば、まず渋沢栄一であろう。渋沢は慶喜と
 新政府に仕え、大蔵省の高官にまで成り、井上馨につながるという背景もあるが、それ
 を利用してというより、渋沢自身の人柄で集めている。それは、大阪紡績を共同してつ
 くるときから、重太郎が何より強く感じていることであった。利根川中流沿いの平野で、
 豊かな農家の子として育った渋沢は、笑顔がよく、親しみやすい人柄であった。
・それは、波風の中で、どなり合うようにやりとりするだけで済ます間人の人間重太郎に
 はできないことであった。重太郎は長話にはいらいらし、つまらぬ話には、つい腰が浮
 く。時間をかけて仲間をつくり、一緒になって走るというより、すぐさま一人で走り出
 したい。
・安田善次郎はどうか。重太郎の知る限りでは、安田は渋沢とは違い、自分が決め、その
 決めた事に人が忠実に従うことを求める男であった。重太郎同様、日本海沿いの生まれ
 で、とくに話好きというのでもなく、また政商というほどでもない。では、重太郎とど
 こが違うのか。それは、安田が銀行業に徹し、銀行家として玄人中の玄人になっていた
 ことである。それこそ金融界に君臨し、他の事業へは最小限、手を貸しているだけのこ
 と。それだけに、他の業界に味方はできても、無用に敵をつくることはない。
・五十代半ばのこの年(明治三十一年)には、重太郎の所得は渋沢栄一を上廻り、関西で
 は住友に次ぐ第二位。工業はともかく、銀行と鉄道では負けない。足下が怪しくなって
 も、相変わらず「走れ走れ」であった。ところが、そうした重太郎の頭をいきなり撲る
 ような動きが、内輪から起こった。
・不況が続くのは民間が金繰りに困っているからであり、その解消のために、全国の主要
 な私鉄を国が買い上げ、民間へ金を廻せという鉄道国有化法の推進を東京商業会議所が
 中心になって決議し、京都商業会議所もこれに同調。大阪商業会議所にも仲間入りする
 よう求めてきたからである。
・東京商業会議所会頭は渋沢であり、民間の活力こそ立国の道と説いてきており、鉄道国
 有化論者が、利用者は全国で均一のサービスが受けられるなどを利点としてあげるのに
 対し、渋沢は、競争あってこそ、よいサービスがある。国鉄一本になればかえってサー
 ビスは低下し、巨大化した組織は官僚化が強まるだけ、とかねがね反対してきたはずで
 あった。
・その渋沢に裏切られたかと、重太郎はあわてて上京した。だが、上京してみて、重太郎
 はおどろき、また、ほっとしたのは、当の渋沢があわてていたことである。というの
 も、渋沢が欠席のとき、この決議がなされていたからで、渋沢は怒って巻き返しをはか
 り、ついに決議撤回に持って行った。

「二つの宴」
・東京へもろくに出なかった重太郎だが、明治三十二年五月、突然、半年の予定で欧米を
 旅することにした。渋沢はじめ経済界の大物たちの多くが、外国生活、あるいは外遊を
 経験している中で、それまで重太郎は、ついぞ、その気にならなかった。最後の腰を上
 げさせたのは、アンドリュー・カーネギーのことであった。
・カーネギーの人物や活動については、重太郎も雑誌や新聞で、いくらかは知っていた。
 貧しい移民から身を起こし、アメリカ最大の鉄鋼会社を持つ成功者といった程度のこと
 であったが、同じ敷地内に居ながら、会うことの少ない枩蔵から、ある日、珍しくゆっ
 くり時間をとって、カーネギーのいろいろな話を聞き、重太郎の心に火がついた。枩蔵
 が重太郎のことを思って話してくれたせいもあり、にわかにカーネギーが身近なものに
 なったからである。
・重太郎より九年早くカーネギーが生まれたスコットランドの町は、冷たい北海の入江に
 臨み、気候はきびしい。子供のころは、その海岸で貝を拾って遊んだりして育った、と
 いうことなども、重太郎に親しみを感じさせた。
・ドイツ汽船ハンブルク号に乗り、神戸を出帆。同行は、枩蔵の兄である銀行家井上保次
 郎など。技術にも明るい秘書役の速水太郎らも随行し、合わせて十人の一行であった。
 ナポリに上陸後、パリに寄り、ロンドン入り。イギリス、ドイツ、さらに、オーストリ
 アやスイスを含めたヨーロッパ各地で工場や築港、水力発電所まで見学して廻った。そ
 して、その旅の総仕上げというか、ゴールにしたのが北スコットランドに静養中のカー
 ネギーの訪問であった。
・斡旋し、「日本の鉄道王だから」とカーネギーを口説いてくれたのが、三井物産ロンド
 ン支店長の松本為之助。ただし、会見は重太郎と秘書役速水太郎の二人に限る、という
 条件をつけられ、同支店長が案内と通訳役を兼ねて、付き添った。
・途中の列車の中で、日本語で話しかけてくる男が居た。三井物産社員「山本条太郎」で、
 偶々、長期間の海外出張中にこの話を耳にし、カーネギー宛に数十字とか数百字とかの
 電報を送りつけ、ついに一行に合流しての会見を許されたという。後に山本は、中国の
 革命軍を支援するなどの異色の活躍をし、シーメンス事件で同社を去ったあと、電力や
 化学などの事業家として再起。さらに政界入りして、ついには政友会幹事長に。また満
 鉄総裁にもなり、日本の満州植民地化に大きな役割を果たすが、このときにはまだ三十
 代であった。
・会談というより、まずカーネギーが一方的に質問を浴びせかけてきた。日本の現政権の
 性格や、政策の焦点。景気が低迷しているというが、何が原因か。外国に援助を求めて
 いるか。次々と試問され、ただでさえ話下手の重太郎は答えあぐね、速水や山本に助け
 てもらうことになった。もっとも、営業中の鉄道の総マイル数、建設中として計画中の
 総マイル数とか、国民一人当たりの預金額の推移などは、誰も答えることができず、後
 日、報せることに。
・一方、カーネギーが説いたのは、狭い日本にとっては、隣の中国の広大な国土や無尽蔵
 ともいえる資源が救いであり、両国が協力して発展を計るべきだ、ということが一つ。
・カーネギー自身のことについては、大企業はそのままでは存続できず、進むか退くかす
 る他ないが、その采配を振る年齢ではなくなっており、近く実業界から引退を予定して
 いると。「その後、どうしますか」思わず重太郎が訊ねると、カーネギーはそれを待っ
 ていたかのようにしゃべり出した。
・アメリカでは、成功者はすぐ慈善事業を考えるが、慈善を貰う人々の怠惰や遊び癖を助
 長し、堕落させるだけ。そうではなくて、自分がまずやったのは、部下救出のために命
 を落としたある炭鉱の現場監督の遺族へ、生涯年金を出すことであった。つまり、まじ
 めで向学心に燃え、努力している人たちの役に立つように使うべきで、奨学金や図書館、
 美術館、美しい公園などの形で提供することだと。
・カーネギーの訪問の他にも、この年、重太郎には、よくことがあった。初孫が生まれた
 ことで、重太郎と明治から一字ずつとって、重治と名づけた。大きな赤ん坊であった。
 血こそ通っていないが、その赤ん坊が珍しく、また可愛くて、腕に抱いては、そのあた
 たかな重みを楽しんだ。
・それより浜が手放しでよろこんだのは、大きな青銅の観音像が、かねての念願どおりに、
 松島、宮島、天橋立の三ヶ所に経ったことである。ただ、浜はその一体もまだ拝んでい
 ない。重太郎には出かける暇がなく、その夫に代わって、大きな顔をして拝みに行く、
 という気にもなれなかったからである。

一飛千里
・危機は、重太郎だけでなく、日本経済全体、とくに関西にはげしく襲いかかろうとして
 いた。中国貿易の比重が大きいというのに、繊維製品では中国での国産化が進むなどし
 て、それまでの市場が失われ、先年来の不況の原因となっていた。このため、紡績連合
 会では、やむなく全国的な操業短縮を求め、これが八カ月続いていたりした。
・悪いことは、さらに重なった。ようやく操短を終わらせたところ、一年経つか経たぬう
 ちに、「義和団事件」。北京へまで義和団が攻め上り、その騒ぎの中で、日本などの外
 交官が殺されたりしたため、居留民保護を名目に、連合国が出兵。これで、日本経済は
 恐慌に近い状態。大手の紡績会社でも経営危機に陥るところがあり、財閥系銀行の支店
 が取り付け騒ぎに見舞われたりした。
・明治三十六年四月、重太郎は田中市兵衛ら二名とともに、「大阪実業界の功労者」とし
 て勲五等瑞宝章を授与された。官尊民卑、そして中央偏重の時代としては、まずまずの
 報われ方である。だが、重太郎の喜びの年も、ここまでであった。
・重太郎をゆさぶる何よりの原因は、やはり日本紡績の経営難であった。日本とロシアの
 間の雲行きがおかしくなり、中国市場への輸出が杜絶状態に近くなったため、余計、経
 営は悪化。岩崎などとは違い、戦争は重太郎にとって鬼門であった。西南戦争のときこ
 そ儲けはしたが、それは例外。日清戦争、そして、今度の日露断交は、紡績関係にとっ
 ては、最悪の材料でしかなかった。しかも、それを表面化させまいとして、架空利益を
 計上して、配当を出した。景気が回復するまでの一時的な非難措置のつもりであったが、
 資金は第百三十銀行からの簿外融資で賄う他なかったため、ついに銀行まで巻き込んで
 坂道をころがり始めることになった。
・十歳の少年は裸同然で飛び出してきたが、信頼され応援されて、今日に至った。その原
 点があまりにも強烈であったため、「走れ」と号令はしても、「守れ」とは言えず、
 「進め」はあっても「退け」のない空気が身につき、それが、組織の空気にまでなって
 いた。

悉皆出します
・「とにかく安田に会って、相談したらよかろう」と井上馨に言われ、重太郎は安田を訪
 ねた。挨拶もそこそこに、重太郎の頼みを聞いた安田は、まず重太郎個人のことについ
 て問いかけた。「資産はどれほどか。家屋もあるし、地所も道具もあるというがどうだ。
 それは、みな出しなさるか」重太郎も負けずに鸚鵡返し「悉皆出します」。
・だが、安田はうなずくだけでなく、なお詰め寄った。「口ばかりではわからぬから、書
 付にしてお出しなさい。それほどまで、お前さんが心の底から銀行を助けたい、自分の
 物は何も要らない、すべて出す、というのであれば、これはどうにかしなければならぬ
 と、皆が同情する」それは重太郎相手にだけでなく、似たような用向きで訪ねてくる客
 に対し、安田が容赦なく浴びせかける文句かも知れず、年季がこもっているだけに、斬
 りつけるような迫力があった。
・しかし、調査に入った安田に対して第百三十銀行側が、あれこれ理由をつけてなかなか
 調査に応じなかった。安田は大蔵大臣と日銀総裁に、「この銀行を整理する見込みが立
 ちませぬ。よってお断り申す」だが大臣たちは、「そこを何とか」とくり返し、さらに、
 今度は松本誠直が幹部二人を連れ、調査報告書なる物を届けにきた。煩わしくなった安
 田は、日光へ身を隠したが、留守宅へ井上馨らから、「ぜひ面会したい」と再三再四の
 催促。家人の困り果てた様子に、安田はついに山を下り、桂太郎首相、蔵相、井上の三
 人と会見。三人がかりで口説かれた。
・安田はすかさず具体的な要求を持ち出した。「これから大阪へ行って調査するというこ
 とでは、間に合いません。電報を打って、銀行各支店の支配人、主任全員、それに本店
 の支配人、その人たちについて調査いたしますから、それだけの手配をして頂きたい」
 前回の調査行の不首尾を教訓にして、今度は政府に命令させ、政府にその手配までさせ
 ようというのである。
・政府からの緊急命令とあって、有無を言えない。このため、該当する男たちが続々と上
 京し、安田の許へ出頭した。北九州など遠い支店からは、四日目にようやく到着という
 者もあった。
・さて、こうした債権、とくに不良債権を抱え込んだ銀行を、どうすれば倒産させないで
 済むか。安田は日銀から六百万の緊急融資を受け、それを年利二パーセント、五年据え
 置きの後、五年にわたって日銀へ返済するという案を立てた。
・安田は井上馨たち三首脳に会った。「六百万出すのは、なかなか容易ではないが、時局
 柄、やむを得ないと思うから出そう。ただし、その案は、ぜひ、お前にやってもらいた
 い」と、予想していたとおりの反応。安田は断った。「家の者が承知しない」という理
 由である。それは、口実ではなかった。その案に触れ、「自分がやらされる破目になる
 かも知れぬ」と言ったとき、妻の房子は、「とんでもないこと」と、顔色を変えた。
・断るつもりで来たものの、自分以上にこの案を実施できる男の居るわけはなく、最後は
 逃げ切れまいと、ひそかに覚悟してきており、三首脳にそこまで言われた以上はと、安
 田はついに観念した。
・重太郎の返済し切れぬ負債について、他の役員に弁償金を出すことを求めると、「弁償
 金」とは何事だとか、役員間でどう分担するかでもめた。これらを安田は「機略」に類
 する手段で一つ一つ潰して行くが、世間は安田が手を引くのではないかと見て、ふたた
 び預金引き出しが烈しくなり、預金残高はついに百五十万円台に縮んでしまった。
・幸い、日銀からの六百万円の特別融資契約が正式に結ばれ、さらに二百万円の追加融資
 も決まるということがあって、預金引き出しは止っただけでなく、増加に転じた。やは
 り、安田登板の効果はあったわけである。
・松本重太郎は広島まで山陽鉄道を開通させることで、兵站面で日清戦争の勝利を支えた
 が、今度、日露戦争では、その重太郎の銀行破綻による大きな経済危機を、安田が出る
 ことで切り抜け、国債を無事消化し、戦費の不安をなく戦えるようにしたからである。
・安田に向かって「悉皆出します」と約束した重太郎は、堂島の屋敷をはじめ、そこにあ
 るめぼしい家財類はもちろん、妻浜と養嗣子枩蔵の名義になっている物件すべてを、潔
 く引き渡し、とりあえず、城東に見つけた借家に移った。家賃は十円。広々とした庭の
 中に、和風の邸宅と枩蔵の洋館、蔵などが点在した堂島の屋敷に比べれば、というより、
 比べようもないほど見すぼらしい小さな家であった。
・もはや使用人も居ないので、訪ねる人があると、浜や重太郎がいきなり顔を出す。相手
 は予想はしていても、さすがに驚いたり、恐縮したり。その様子に、あらためで自分た
 ちの境遇を思い知らされる日々であった。汚れた畳に座り、腕組みをしながら、低く暗
 い天井や薙刀を見上げて、重太郎は思う。すっかり裸になってしまった。裸で出発し、
 いままた裸に戻ったこの五十年は、いったい何であろう。
・弁済のため家を差し出したのは、重太郎夫婦だけでなく、養子枩蔵一家も同様である。
 といって、枩蔵たちは、町中の小さな借家をあわただしく探して移るということのでき
 る夫婦ではない。また未練などない重太郎夫婦と違って、妻光子の着物類など、ある程
 度は整理しても、まだまだかなりの嵩になり、それまでの名残りの中で一家四人暮らす
 ためには、ある程度のスペースも必要であった。
・ところが、ここで枩蔵のアメリカ留学時代からの友達づき合いが活きた。旧三田藩主の
 家柄である九鬼が、須磨海岸にある別邸を提供してくれたのである。その姉が松方幸次
 郎に嫁いでおり、光子とは縁戚になるということも、幸いした。「気に入ったら、いつ
 まででも」と言われたが、さすがに枩蔵も、また枩蔵以上に光子にもプライドがあって、
 そこまで甘える気はなく、とりあえず別邸に移ったものの、一冬かけて、ゆっくりと神
 戸の賃貸物件を見て廻った。三月には諏訪山に、貸家を見つけ、引越した。家賃は二十
 五円。しかし、ここで光子が思わぬ顔を見せて、夫や子たちを驚かせた。高価な呉服物
 を何反も買うこともあったのに、今度は家賃が高過ぎると、ねばり強く交渉し、二十二
 円に値切ってしまったのである。
・それほど経済的に困っていたというわけでもない。収入の面でも、アメリカ時代の友達
 に助けられていた。通っていた料亭から倒産後は相手にされなくなり、枩蔵が腹を立て
 ていたとき、武藤山治に会った。鐘紡支配人である武藤は、そこで早速、枩蔵を秘書役
 として傭ってくれた。枩蔵は、アメリカの大学こそ出なかったが、簿記や英文タイプは
 身につけた。このため、武藤の口述を英文し、タイプで打ち出すなど、当時としては、
 珍しく有能な秘書ぶりであったし、日本紡績前社長という面子などはあっさり捨てるこ
 とのできる人柄であったからである。ただし、枩蔵の月給は規定により四十八円。家賃
 でその半分がふっ飛ぶわけだが、この夫婦、二人とも平然としていた。というのも、夫
 婦は武藤のポケット・マネーを月々二百円、それぞれさりげなく渡されていたからであ
 る。まもなく夫婦はそのことに気づくが、そのまま互いにしらぬ顔で過ごす。
・相場師「鈴木久五郎」は、「買占めに成功した段階で売りに廻る」「鐘紡株を安田銀行
 への担保にする」という二つの条件で、安田善治郎から全面的な資金援助を得て、つい
 に買占めに成功したが、そこでとどまらず、総支配人の武藤らを辞職に追いやり、経営
 に乗り出した。ところが、従業員たちが武藤らを支持して、大争議となり、このため株
 価は下がり始めた。そこで安田は、鈴久から担保にとっていた鐘紡株を売り出す。これ
 によって、さすがの鈴久も息の根をとめられて、鐘紡へ武藤が専務となって戻るなどし
 て、業績も回復し始めるといった話である。日露戦争後の株式ブーム。取引所のある北
 浜でも、買えば儲かると空気が熱くなっていた。
・「岩本栄之助」は枩蔵より四つ年少でほぼ同世代。それに、商業学校卒に加えて、清語
 学校と外国語学校で中国語、英語を学ぶなど、枩蔵とよく似た学歴。岩本の父親は、北
 浜の大阪株取引所にも出入りし、明治十九年には大阪商船株を底値で買い取り、大儲け
 もしているが、もともとは地味で几帳面な人柄。「株式界の聖人」などとも言われてい
 た。岩本自身は一年現役で少尉に。日露戦争では召集されて満州に出たが、軍法会議の
 判事にも任命されるなど、父親同様、人柄の堅実さを買われていた。復員後、父親の隠
 居で家督を継ぎ、前年は売り方として成功したところであった。
・そして、この年は大奔騰で明けたが、岩本は静観していたところ、野村徳七ら売り方は、
 大阪株式取引所株をめぐって苦境に落ち込んだ。このため、同所株の大株主でもある岩
 本に売りに廻ってくれと、懇請。さもないと、野村ら大阪の仲買人の半数以上が破綻確
 実と訴えた。このため、岩本は、彼らを救おうとして、奮発して大売物。その勢いに、
 東京でも呼応する動きが出て、同株は一時、千円にまで上がっていたのが、秋には九十
 二円にまで暴落。結果的に岩本は大儲けした。

借家と豪邸
・この夏休みの終わりころである。重太郎ははじめて枩蔵の新居を訪れたが、裏隣りが松
 方邸だというので、帰り道、孫の重治に案内されて廻ってみた。ところが、それは裏隣
 りなどというものではなかった。山ひとつ隔てており、しかも、その山全体が松方の邸
 内であった。長い坂道沿いに、その邸の深い森が続き、蝉がやかましく鳴き、蝉殻がい
 くつとなく転がっている。おどろきはしたが、おかげで重太郎は、孫と話すというめっ
 たにない時間を持つことができた。
・歩きながら重太郎は、さりげない風に訊いた。「重治も、やがてこんな邸の主になるん
 やろ」無言で、しかし、強くかぶりを振る孫に、「なら、何になる気や」孫の答は、意
 外であった。「何でもいいんです。勉強して、いろいろな外国の人と友達になりたいん
 です」重太郎は絶句した。やはり枩蔵の子だ。血は争えぬと思った。
・ただし、うなずくばかりでは居られると、「実業家になったら、どうや」「たとえば、
 渋沢栄一のような人や。それに、外国なら、カーネギーやロックフェラー・・・」
 「ああ、ぼく、知ってる。パパたちから聞いたし、何か本で読んだことがある」重太郎
 には嬉しい反応であった。そこですかさず、「そのカーネギーに、わし、会うたことあ
 るんや」「えっ、ほんと」重治は眼をみはった。「スコットランドのお城のような館に
 寄せてもろうてな」「凄いなあ。おじいさまは偉いんだ。ぼく、知れなかった。そんな
 おじいさまだって」重太郎の顔は、ほころんだ。
・少年重治の心は、外国に向けて駆けだそうとしている。そう思えば、祖父として喜んで
 よいことかも知れない。重治も早くから外国への夢を見ているし、小学三年生なのに、
 カーネギーのことも知っている。思わぬところに新しい芽が出て育っている。
 
桜咲く頃に
・折から、明治天皇の崩御、乃木大将の殉死などあって、重太郎についても、「彼は見事
 に落城せり、乃木大将のそれの如く潔く精神的に割腹を遂げたり」などと書く本まであ
 った。
・重太郎は活字によって慰められただけではない。関連した銀行や企業の業績回復や株価
 上昇があったのに加え、いくつかの鉄道会社が軍事上の要請などによって、国家に買収
 されるということもあり、あらためてそれら企業全体にわたる見直しや清算が行われ、
 その結果、重太郎の負債が帳消しになったばかりではく、老夫婦がまずまず暮らして行
 けるだけの金が、債権者側から提供されることになった。
・骨折ってきた市電問題が解決するのを待っていたように、重太郎の胃の調子がおかしく
 なり、急性胃カルタとの診断で一度は回復したものの、年を越して再発、大正二年六月、
 世を去った。享年六十八歳。
・岩本栄之助は、その後、京阪電軌や大阪電灯の取締役となり、後者ではタングステン電
 球を普及させ常務になるなど、実業家としての道へも踏み出したものの、「家業専念を」
 と渋沢からの忠告で、その常務のポストからは短期間で退き、相場一筋に。しかし、こ
 れが裏目に出て、大正五年秋には再び義侠心から売り方への救済に出たところ、今度は
 大損をした。「株式投機は自分一代限りとし、子孫はなすべからず」の遺言を残し、ピ
 ストル自殺をはかったが、発見され、近くの病院へ。窓から公会堂の鉄骨が見える病室
 で、五日後、絶命する。二歳の娘と妻、そのお腹に子を残して。皮肉なことだが、それ
 から四十九日目。ドイツの和平提案のニュースから、株価は大暴落。生きていれば、大
 儲けするところであった。
中之島中央公会堂は、それから一年後、竣工。日本で初の三千人収容のホールを持つ巨
 大な建物で、その鍵が幼い振袖姿の岩本の遺児から、大阪市長に渡された。
・安田善次郎が東大へ講堂の寄付を申し出たのは、このころであった。金融関係を中心に
 事業を手がたく展開し続けた安田は、三井、三菱に次ぐ大財閥の主に。ただ、これまで
 と違うのは、安田講堂だけでなく、学校や病院などへの寄付を進んで行い、社会事業の
 ための財団を設けたりしたことである。
・安田は社会事業だけではなく、二つの国家的大事業に思い切った金雄出そうとした。そ
 の一つは、雨宮啓次郎にもその案はあったというが、いまの東海道新幹線に当たるもの
 で、東京・大阪間に高速電車を走らせ、途中駅は松田・静岡・名古屋・亀山などに絞り、
 いまの新幹線のように岐阜羽島などを迂回することなく、まっすぐ鈴鹿を越え、東京・
 大阪間が 十一時間ほどかかっているのを、その半分の時間で結ぼうという計画であっ
 た。許可申請を出すのだが、歴代の鉄道院総裁は官業をかばって門前払い。「後藤新平
 が総裁になって、ようやく許可。その上、後藤までが後援者になった。
・そして、いま一つの国家的事業とは、この後藤新平が大正九年、東京市長になって打ち
 出した東京の大改造計画。国家予算の半分を超す資金を必要とするのだが、安田はこれ
 も全面的に支援することに。
・しかし、せっかくのこの二つの大事業を悲劇が吹き飛ばす。後藤との間で最後の詰めが
 行われた一週間後、安田は大磯の家で暴漢の襲われ、殺されてしまう。小さな両替商当
 時、無理を言う客とはげしくやり合い、まわりをはらはらさせたものだが、それに似た
 ことが、安田に死をもたらした。百歳を目指したというのに、享年八十二であった。
・六月に松本重太郎の銅像が立ち、秋には安田善次郎が思わぬ死を迎えたこの大正十年か
 ら二十四年後、かつて祖父の像を除幕した松本重治は、国の内外に名を知られた政治家
 の自殺の場に居た。次の日、巣鴨に収監される予定のその政治家に、自殺する決意があ
 り、諫止するため重治は駆つけたのだが、政治家は自殺の意志を変えず、重治らを隣室
 に残したまま、深夜、服毒して世を去ってしまい、衝撃的なニュースは世界を走った。
 この政治家とは、三度も首相をつとめた公爵近衛文麿。見送った重治は松方公爵の孫で
 もあるのだが、もちろん、そのことは、二人の出会いや深いつながりには何の関係もな
 い。
・近衛は追及されれば、天皇へ戦争責任が及ぶことをおそれ、それを避けるため、自殺し
 ようとしたのであり、その心中をよく知る重治としては、諫めながらも見送る他なかっ
 たのである。
・重太郎の孫重治が、なぜ近衛の死という重大な局面に立ち合ったのか。二人が知り合っ
 たのは、近々数年のことであった。当時、重治は同盟通信社上海支局長から編集局長。
 昭和十八年には、社全体の実質的なトップである常務理事に。
・同社は日本を代表する通信社であったが、戦後に通信部門が共同通信社、広告部門が電
 通になる。
・近衛は首相になって一ヶ月、盧溝橋事件が起り、日中問題とそれに絡む対米交渉を内閣
 の最重要課題としていたが、といって、重治を重用するようになったのは、その肩書や
 経歴だけからではない。重治のジャーナリストの枠を超える行動力や、国際的な幅広い
 人脈と識見を高く買ったからである。