勝手にしゃべる女  :赤川次郎

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この本は、26の短編を一冊にまとめたものである。短編サスペンス小説ではありながら、
書かれた時代の社会情勢を反映したものもあり、なかなか考えさせられる内容となってい
る。その中で、特に感銘を受けた短編を読書メモとして残すこととした。

会社勤めをしていて、一度も会社を辞めたいと思ったことがないサラリーマンはほとんど
いないのではないのかと思う。たいていのサラリーマンは、一度や二度は会社を辞めたい
と思ったことがあるのではないかと思う。
私も今までに、会社を辞めたいと思ったことが幾度となくあった。しかし、考か不孝か、
会社側が他社から経営統合されて消滅することはあったが、自分で会社に辞表を出すとい
うことはなかった。
「サラリーマンの夢の一つは、上役の前に辞表を叩きつけること」だそうだが、もし、そ
うならば、サラリーマンとはなんと物悲しい生き物ではなかろうか。短編「辞表」は、そ
んなサラリーマンの物悲しさを、思いっきり笑い飛ばさせてくれる。

誰にでも「取り柄」はあるものだというのは、よく言われることだが、はたしてそれがほ
んどうかどうかはわからない。自分のことを考えても、はたしてこの自分に「取り柄」な
どというものがあるのだろうか、と思い悩むことも一度や二度ではない。しかし、自分で
は「取り柄」がない。あるとすれば欠点だけだ、と思っている人でも、思いがけないどこ
ろで自分の欠点が「取り柄」となるチャンスもあるかもしれない。短編「命がけのアンコ
ール」は、そんな淡い希望を持たせてくれる。

短編「流れの下に」の内容には、自分の初恋の頃を思い出して、胸に迫る思いにさせられ
た。確かにこの物語は、妻の夫に対する深い愛情を表現したかったのだろうが、私はそれ
以上に、自殺した母娘のことが、ことさらに哀れで世の中の理不尽さを感じてしまった。
しかし、これは現実にあるそうな物語でもあるだろう。

短編「長い失恋」の内容に関しては、私は作者の意図がよく理解できなかった。長い人生
において、若い頃と立場が逆転するというのは理解できる。この作品は今から33年前の
昭和61年頃の作品である。当時はまだこのような途中で人生が逆転するかもしれないと
いう希望は、まだ持てる時代であったと思う。しかし、格差の固定化が進んできた今は、
その希望もあまり持てない時代となっている。それは別として、人生で成功した男が、か
つて振られた彼女に対して、探偵社を使って調査までして彼女が置かれた状況を知りなが
ら、彼女をホテルに誘って自分の昔の思いをとげ、そしてわざと隙を作って彼女にこそ泥
のようなことをさせる。これは彼の単なる復讐だったのではないのかとしか私には思えな
い。もし彼に、初恋の彼女に対する想いがあったのならば、もっと別のやり方があったの
ではないのかという、いやな思いだけが残った内容だった。

短編「研修」は、人間の身勝手さをよく書き表していると思った。会社勤めをしていると、
毎朝の通勤時には、「こんな会社への通勤がなくなったら、どんなに幸せだろうか」と思
うが、いざその通勤する必要がなくなってしまうと、途端に不安になり、なんとか通勤す
る先がないものかと探し惑ってしまう。これはなにも会社が倒産したときにかぎらない。
会社を定年退職しても、同じようなことがおこりがちだ。なかには、もうどこにも通勤す
る必要がないのに、会社勤めをしていたときのように朝毎日家を出て、公園などで時間を
つぶして帰ってくるという人もいるらしい。長年の間につくられたサラリーマンの悲しい
習性なのだろう。しかし考えてみれば、人間は会社勤めをするためだけに生まれてきたの
ではない。会社勤めは、たくさんある生き方のうちのひとつにすぎない。会社勤めをしな
い生き方だってある。それに会社勤めも人生のうちのある期間だけだ。残りの人生は、出
勤先のない人生なのだ。サラリーマンを「社畜」とひどい呼び方をする一部の人たちもい
るらしいが、いずれ会社を離れた生き方を自分で模索するしかない時期が、誰にも訪れる。
まだ、そういう模索する気力が残っているうちに、そういう時期を迎えたいものだ。気力
がなくなってからでは、「社畜」のまま一生を終えてしまうことになる。

短編「迷いの季節」は、会社を辞めてしまう若者たちを嘆いた内容のものだが、この小説
が書かれたのは今から33年も前、当時の時代から、若者は早く辞めてしまうということ
が、社会問題になっていたのだということがよくわかる。33年前の当時は、あのバブル
が始まりはじめた時代であり、若者にとっては売り手市場で、就職にあまり困らない時代
だったのだと思う。ところが今の時代はどうか。バブルがはじけ、長い氷河期時代が続き、
4割近くが非正規雇用という現代。正社員になりたくてもなれない若者が数多くいる。そ
んな時代でも、もちろんすぐに辞めて行く若者はいるだろうが、今の時代から見ると、
33年前の当時は、なんとも羨ましい時代だったような気がする。

短編「年末の新人」で描かれているような、大部分は肩書き付きに社員で、逆に平社員は
僅かというような会社って、実際にけっこうあるのではないかと思える。こういう会社の
平社員は、雑用がすべて回ってくるので、ほんとうに大変だと思う。それに男ばかりだと、
会社の雰囲気が殺伐としていて、やる気も出ない。そこに若い可愛い女性の新人が入社し
てきたら、もうたいへんだ。やはり、男ばかりの方が、殺伐としてはいるが、平和なのか
もしれない。

辞表
・駅の階段を上がりながら、彼は不自然なほど胸を張っている自分に気付いて苦笑した。
 そう固くなることはないんだ。もう、何度も頭の中で繰り返したことを、現実にやるだ
 けじゃないか。
・サラリーマンの夢の一つは、上役の前に辞表を叩きつけることだというが、彼もまた例
 外ではなかった。大体がエリートでもなく、機転がきくわけでもなく、優秀でもない人
 間にとって、やはり会社はあまり楽しい所ではない。怒鳴られ、いや味を言われては、
 彼は辞表を胸に、出社していた。つい出されることもなく、古くなってしわくちゃにな
 り、捨てられた辞表は十通を越えている。彼の同僚にも、同じように、いつも辞表をポ
 ケットに入れている男がいた。酔うとそれを見せて、「俺は、いつでも辞める覚悟はで
 きているんだ!」と大声をあげる。そう言い続けて、すでに五年、結婚して子供も生ま
 れ、今ではその男が辞めるなどとは誰も思っていない。
・彼は、そんな風になりたくはなかった。だから、辞表を他人に見せたことは一度もない
 し、そんな言葉を漏らしたこともない。じっと胸にしまって、ただ想像の中で、辞表を
 叩きつけ続けてきた。あの、高慢を絵に描いたような社長が、驚いて目をむく顔を想像
 しては、彼はひそかに楽しんでいたのだ。しかし、今はもう、それは想像ではない。今
 日こそ、現実になるのだ!
・彼を踏み切らせたのは、大学時代の友人が、会社を始めて、そこへ来ないかと誘われた
 ことだった。彼はためらった。安全ということから言えば、今の会社にいる方がずっと
 いい。何といっても友人の会社は、ほんの仲間内のもので、まだこの先どうなるか、全
 く分からないのだ。
・しかし、昨夜、友人は、これまでの業績と、業界の見通しが明るいことを、詳しく説明
 してくれた。実際のデータを示しての話は、確かに説得力があった。それでも、彼はす
 ぎに踏み切れたわけではない。友人は「それに君は三十代半ばだ。やるなら今しかない!
 この時機を逃せば、君は一生そのままで終わることになるぞ!」と少々脅かしもした。
・年齢、独身、この二つまで持ち出されて、彼はやっと決心したのだった。要するに言い
 方を変えれば、辞職の方へのはかりの傾きはごくわずかで、ほんの一握りの砂粒でも逆
 転しかねない状態だったのである。
・どうしても今日、辞表を出すのだと思い詰めているのは、明日になったら気が変わるの
 ではないかと心配だったせいなのだ。出してしまえば、それで終わりなのだ。会社の入
 口から見える奥の真正面のドアが社長室である。一気にそこへ入って行って、辞表を出
 そう。ぐずぐずためらっていては迷いが生じる。
・会社に入っているビルに着いた。彼の会社はこのビルの四階だけを使っている・エレベ
 ーターの前は、混み合っていた。彼は一気に階段を駆け上がって行った。いつも、どん
 なに始業ぎりぎりに来てもエレベーターを待つ彼としては、前代未聞のことだった。辞
 めさせていただきます!辞めさせていただきます!口の中で呟いて練習しながら階段を
 上がった。
・目「の前のドアを開けると、わき目も振らず、真直ぐに正面の社長室へ。ドアを開け、机
 の前へ進むと、<辞表>をビシッと置き、一礼して、「この会社を辞めさせていただきま
 す!」とはっきり言って、顔を上げた。 
・顔を上げた時、目の前にあったのは社長の顔ではなかった。どこかで見たことがあるそ
 の男は、ちょっと瞬きをして言った。「君の会社はもう一階上じゃなかったかね」
 
命がけのアンコール
・誰にでも取り柄というのはあるもんだ。仕事はろくにできなくても、宴会を盛り上げる
 のは得意だ、というサラリーマンもいる。これだって、「取り柄」の一つには違いない。
 しかし、大竹一郎の取り柄は、それほどにも役に立たない取り柄だった。それはむしろ、
 取り柄というより欠点だった。大竹は声が馬鹿でかかったのである。もっとも、大竹が
 三十近くになっても、独身なのは、そのせいではなかった。要するにパッとしない男だ
 ったのだ。
・大きな声を出て、しかも歌でもうまければ、まだ役に立つのだろうが、大竹は凄い音痴
 と来ていた。だから、大竹が自分の音痴を知っていて、決して人前で歌わなかったのは、
 彼自身にとっても周囲にとっても、社会にとってもはオーバーだが、幸い、と言うべき
 であろう。  
・課長から声をかけられたのは、お昼休みが終わるというときだった。「今日、大阪からう
 ちのお得意がみえている。おそらく今、うちでは一番大事なお客様だ」「問題は、そのお
 客が、大のカラオケ狂ということなんだ」「しかも、あの人は、アンコールがかからない
 とたちまち不機嫌になるんだ」「そこでお前だ。他の客が野次ったりすると大変だ。その
 人の歌が終わったら、間髪入れず、大声で「アンコール!」と叫んでくれ」
・課長が去った後、大竹は一人残ってコーヒーを飲み干すべく頑張っていると、目の前に
 ヒョイと若い女が座った。ちょっと丸顔の、チェーミングなその娘は、「今、お話のあ
 った「凄い音痴」の娘ですの」と言った。大竹はむせ返って、目を白黒させた。
・大竹は、その店に来たのは、もちろん初めてだった。かなりの広さで、ちょっとした劇
 場並みの立派なステージがある。大竹は、一番よく声の通りそうな、二階席の端に陣取
 っていた。ステージはよく見える。大竹は、まだ迷っていた。もちろん「アンコール!」
 と声をかけるのが、社員としての義務だろう。しかし、「これ以上、父に恥をかかせた
 くないの。みんなに陰で笑われているなんて、惨めじゃない?いつかは、目を覚まして
 もらいたいの」という、あの娘の気持ちも理解できる。しかし、下手をすればクビであ
 る。   
・あの娘は、少し離れたテーブルに座って、時々大竹の方を見ている。大竹は気が重かっ
 た。何人かが、入れ替わり立ち替り歌った。中にはプロ級の者もいる。大竹は、ステー
 ジに、でっぷり太った赤ら顔の男が出てくるのを見た。あの娘が頷いている。いよいよ
 らしい。歌い始めたなるほど、これは凄い。大竹ですら愕然とするほどの、ひどさであ
 る。
・大竹は、まだ決めかねて、悩んでいた。歌が終わる。あと少しだ。「どうにでもなれ!」
 大竹は、あらん限りの大声で、「「引っ込め!下手くそ!」と怒鳴った。ステージの上
 の男が、一瞬青くなるのが、二階からでもわかった。そして今度は真っ赤になると、バ
 タッと倒れてしまった。たちまち、店内は大混乱になった。大竹は、あの娘が、いつの
 間にか姿を消しているのにも、まるで気付かなかった。
・そして結局、総て丸くおさまったのだった。大竹はクビにもならず、課長からは、一杯
 おごってもらった。なぜかというと、大竹が野次った相手は、当の「お得意」ではなか
 ったのである。あの娘は、たまたま大竹と課長の話を聞いて、自分の父親が猛烈な音痴
 でカラオケ狂なのを幸いに、大竹をうまく騙したのだった。父娘といっても、ひどい父
 親だったらしく、娘は死んだ父親の遺産をたっぷり懐へいれた、というわけである。 
・そして例の「お得意」は、課長の話しのよると、「目の前で倒れて死んじまうのを見て、
 恐ろしくなったらしい。それで目が覚めた、もうカラオケはやらん、と言ってたぞ。助
 かったよ!」という次第。
・それから、ほどなく大竹にもガールフレンドができて、それがいやに金持ちの娘らしい、
 という噂が社内に広まったのだった。

流れの下に
・見せてはならない。夫に見られてはならなかった。綾子は、その包みを抱いて、橋の上
 に立っていた。真夜中である。目の下を、黒い流れが、音もなく動いていた。秘密は、
 あの流れが、呑み込んでくれるだろう。綾子は包みを持った両手を、橋から突き出し、
 ゆっくりと離した。包みは、ことさらにさり気ない速さで落ちて行った。水音もしない。
 流れは、何かが当たったことも、感じないかのようだった。そう、大したことじゃない
 んだわ、と綾子は思った。
・「どこに行っていたんだ!」「分かっているぞ、ますい物を見つけたんだな。それを川
 へ捨てて来たんだろう!」「隠してもだめだ。昼間、お前が屋根裏部屋を片付けている
 とき、こそこそと逃げるように、手洗いへ入って行ったのを、俺はちゃんと見ていたん
 だぞ」「何を捨てたんだ?」「教えてやろう・北山の手紙だ。どうだ、図星だろう」
 綾子は、目を大きく見開いた。それから、ゆっくりと、視線を足下に落とした。「あい
 つとできてたんだな!」夫の平手が飛んできた。綾子は打たれて、床に倒れ伏せた。目
 のくらむような痛みだった。顔を上げると、三つになる娘の有紀子が、怯えたような目
 を見開いて、じっと立ちすくんでいた。
・「私は誰の子なの?」と有紀子は訊いた。「お父さんの?それとも北山という人の?}
 「それを訊いて、どうするの?」綾子は、庭の、名もない雑草や、小さな花を見ながら、
 言った。「知りたいのよ」有紀子は、ためらいがちに言った。「お母さんにこんなこと訊
くの、残酷かもしれないけど、でも、この二十年間、ずっと引っかかっていたの。 
 どういう答えを聞こうと、お母さんを責める気、ないわ」。有紀子は首を振って「お父
 さんが死んだとき、私はまだ四歳だった。お母さん、ずっと苦労を一人で背負って、私
 を育てて来てくれたわ。だから、今さら、お母さんの過去をとやかく言うつもりはない
 の。ただ、私も、明日結婚するし、自分の血のつながりを、知っておきたいの。それだ
 けよ」。綾子は、しばらく庭から目を離さなかった。だいぶ白くなった髪を、足は黒く
 染めるつもりである。「私と結婚する前、お父さんには、愛している人がいたわ。いえ、
 少女、というべきかしら」。
・晶美は、決して目だった少女ではなかった。中学校で、彼の一年後輩だった。綾子は、
 そのころから、彼に心魅かれていたが、同時に晶美とも親友同士という間柄だった。晶
 美も綾子も、まだ恋心を口に出すには幼かったので、彼をめぐって、争うこともなかっ
 た。家柄や、家の豊かさでは、綾子のほうがずっとまさっていた。晶美の家は父を亡く
 して、母と二人暮らしで、貧しかった。
・しかし、晶美は美しかった。それも、美しさを誇るというのではなく、控え目に、目立
 ずに、慎ましげな美しさ、というべきだったろう。綾子ほどに、いい服も着られなかっ
 たし、遊びを知らなかったが、それでも、綾子は内心ひそかに、「晶美の方が美しい」
 と思っていた。
・その事件は、暑い夏休みの一日に起こった。綾子の家に、晶美が逃げ込んできたのだ。
 ちょうど、彼もそこに来合せていた。追ってきたのは、町でも名家といわれる家の使用
 人たちで、晶美の母親がその家で働いていたのである。「その娘を出せ!」と、男の一
 人が怒鳴った。男たちの話しでは、その家の令嬢の部屋から、宝石がなくなったという
 のだった。そして、たまたま晶美が、そのとき母をたずねて、その家に来ていたのだ。
 晶美がそれを盗んだに違いないというわけだった。彼は怒った。晶美を奥へやり、追っ
 てきた男たちを相手に、取っ組み合いの喧嘩でもせんばかりであった。その剣幕に恐れ
 をなしたのか、追ってきた男たちは、毒づきながら帰って行った。向こうも証拠があっ
 て言っているわけではなかったのだ。彼は、青ざめて震えている晶美の所へ行って、優
 しく肩を抱いてやった。
・事件は終わらなかった。夏休みの間に、晶美が宝石を盗んだという話は、町中に広まっ
 ていて、学校が始まっても、誰も晶美と口をきこうとしなかった。母親も仕事を失い、
 町では買物一つできない。いわゆる村八分にされたのだ。もともと貧しかった晶美と母
 親にとっては、深刻だった。
・彼は、はっきりと晶美を愛するようになっていた。それは同情ではなく、もっと力強い
 愛情で、綾子は、晶美に同情を寄せながら、同時に、自分も悲劇のヒロインになりたい、
 と思ったりした。しかし、一学生の愛情が、母と子を支えてくれるわけではない。悲劇
 は、晩秋のある日、晶美と母親が、川に身を投げるという形でしめくくられた。
・「私が、あの日屋根裏部屋で見つけたのは、布に包んだ宝石だったのよ」綾子の言葉に、
 有紀子は息をつめた。「晶美さんは、追われて、この家に逃げ込み、お父さんが、追っ
 てきた男たちとやり合っている間に、屋根裏部屋に上がって、包みを隠したのよ」「あ
 の日、片付けをしていて、タンスの裏側から見つけたの」
・「なぜ、そう言わなかったの?」 綾子は微笑んだ。「お父さんの病気が進んでいるこ
 とは、もう分かっていたの。そのお父さんにとって、晶美さんは、汚れのない、永遠の
 女だった。真実を教えて、何になったかしら?」 
・「お母さん」有紀子は声を詰まらせた。「お父さんを本当に愛していたのね」綾子は、
 ちょっと照れたように笑って、言った。「男はね、いつまでもロマンチストなのよ。少
 年みたいにね」

長い失恋
・二十年に近い歳月は、彼女を変えていないわけではなかったが、その点は私も同じだ。
 一流ホテルのラウンジで、祐子は、居心地悪そうだった。二十年前、私たちの立場は逆
 だった。祐子は、社長の令嬢、私は貧乏な、勤労学生だった。私たちの恋は、いや、私
 の恋と、彼女の気まぐれは、半年ほどで、あえなく終わったのである。彼女にしてみれ
 ば、面白い店も知らず、遊び場にも通じていない、しかもコーヒー一杯、おごる金にも
 欠く私など、付き合っていて、退屈な存在だったことは当然である。振られたことで、
 私は彼女を恨んだことはない。それなら、二度と会いたいとも思わなかったろう。
・顔所はちょっと小首をかしげて、「人生、いいときも悪いときもあるものね」と言った。
 私は、二十年前そのままに、胸の締めつけられる思いを味わった。
・「二人になれる所に、行かないか」。祐子が目をそらした。唇が、小刻みに震えている。
 肩に回した私の手を、彼女は払いのけなかった。私はベッドの中で、そっと薄目を開け
 ていた。眠ったふりをしていたのだ。祐子が、ベッドを抜け出して、服を着るのが、ぼ
 んやりと目に入った。時計を気にしながら、支度をしている。仕事に行く時間が近づい
 ているのだ。私の方を、ちょっと見て、それから、ドアの方へ行きかける。そして戻っ
 てきた。テーブルに投げ出した私の札入れ、その中の札束を、彼女はじっと見ていた。
 震える指先が、その札を抜き出そうとしていた。
・私は、探偵社の調査で、何もかも承知していた。父親の会社の倒産、そこの部長だった
 彼女の夫は、蒸発してしまった。父親も、心労がもとで世を去った。彼女は、残された
 二人の子供を、スナックやスーパーで働きながら、育てて来たのだ。だが、私に、そう
 は言えなかったのだろう。当然のことだ。
・彼女は抜きかけた札を、また戻した。持って行ってくれ。さあ、せめてもの、僕の初恋
 への礼金だ。彼女は迷っていた。拳をかんで、じっと札入れを見下ろしている。そして、
 思い切った様子で、札を抜き取ると、自分の財布へ押し込み、荷物を手に、逃げるよう
 に、部屋から出て行った。 
・私はホッとした。これでいい。いくらか、彼女の家計の足しになるだろう・・・。私は、
 改めて、ゆっくりと眠った。
・私はビルの一階のロビーで、タバコをふかしながら、表を見ていた。そして、祐子を見
 つけた。私は、彼女がじっと、こっちのビルを見ているのを感じながら、タバコを灰皿
 へ押し潰した。私は泣いていた。二十年の恋を、今、失ったという思いで・・・。
 
研修
・駅のホームには、相変わらず人が溢れている。いや、溢れている、といった当たり前の
 表現は追いつかないくらいの、人の群れである。毎朝、これを目にする度に、うんざり
 して、こんな光景を見ずに済むようになったら、どんなにかいいことだろう、と思った
 ものだ。 
・ところが、今はこの光景が懐かしくさえある。何しろ、こうやって、出て来る必要もな
 いのに、わざわざラッシュアワーのターミナルへ足を運んでいるくらいだ。だが、別に
 私は会社を定年退職したというわけではない。まだ、四十歳。これからが働き盛りだ。
 それなのに、なぜ、こうしてホームで人が押し合いへし合っているのを、ただ眺めてい
 るだけなのか。一月前、会社が倒産したのである。
・あのショックは、何とも表現しようがないものだ。朝、いつもの通り出勤して行くと、
 会社のシャッターがおりたままで、一枚の貼紙。大学を出てから、十数年間の精勤に対
 して、会社は、<倒産>という「ご挨拶」だけで報いたのだ。他の同僚たちも、同じだ
 った。ショックというより、何かの冗談じゃないかとの顔つき。しかし、社長は姿を消
 し、幹部クラスの社員たちはどこかのホテルへ集まっているだけしかわからないという
 陽が続いて、やったお実感が湧いてきた。 
・会社更生法などとは無縁の中小企業。退職金も、今月分の給料も、どうなるか分からな
 い。私は最悪の状態だった。中学と小学校に入学する二人の子供、家のローンはやっと
 半年支払っただけ、車は買い替えたばかり。
・早くも、私は追い詰められていた。明日までに、まとまった金を作らなければならない。
 しかし、あらゆる努力は無駄になった。そうなると、人間、急に無気力に襲われ、過去
 を懐かしむようになるものである。こうして私は、ラッシュアワーの駅のホームに立っ
 て、通勤地獄の図を眺めているのだ。しかし、通勤する所のない「地獄」に比べれば、
 この地獄など、まるで天国のようなものだ。
 
迷いの季節
・「三日、三週間、三か月、三年」これが、井上の頭を離れない。借金の返済ではない。
 新入社員が、会社を辞めたいと思うのが、この時期なのである。どういう統計と、どう
 いう根拠から、この言葉が生まれたのかは、定かでない。しかし、井上は、経験から、
 この言葉が、現実を言い当てていることを知っていた。もちろん、正確にその通りでは
 ない。三日が四日になったり、三か月が二か月だったり、三年が四年だったりすること
 はある。しかし、前後はあるにせよ、ほぼ、三日、三週間、三か月、三年が「基準」に
 なっているのは事実だった。そして井上の仕事は、その「悩み」の聞き役、早く言えば、
 「なだめ役」だった。
・井上は、元来、営業のベテランだった。人と話をし、心をつかむことが巧みである。社
 内でも、若い社員たちと親しく話しができる「中年」として、目立っていた。男だけで
 なく、女の子たちとも、なぜか井上には信頼を寄せていた。 
・この仕事を任されるようになったきっかけは、入って三年目の女の子が、どうしても上
 役とうまくゆかず、井上に泣きついて来たことだった。井上は、彼女の話をよく聞いて、
 うまくなだめ、その不満を、当の上司に直接ぶつけることなく、うまく人伝てに話をし
 て、解決してやったのである。この話は、もちろん表面には出なかったのだが、女の子
 たちの間では評判になり、時々、悩みをかかえた女の子が、井上の所へ相談に来るよう
 になった。 
・生来の人の好さで、あれこれ、忙しい中を駆け回ってやっている内、その話が幹部の耳
 に入った。「一つ、専門の部署を作ってみようじゃないか」と言い出したのは、新しい
 アイデアを出すのが大好きな社長だった。かくて、井上は、特別に作られた新しい課の
 課長ということになった。
・仕事の性質上、下院はいないのだが、それでも課長は課長だ。井上は大いに満足してい
 た。それに、祖ごともそう忙しくないし、外を歩き回ることもあまりない。これはいい
 仕事だ、と、井上はむしろ喜んでいたのだ。
・しかし、それを十年もやっていると、いい加減うんざりして来る。しかも、年を追って、
 その、訴えに来る「悩み」たるや、お話にならないものが多くなって来るのだ。かつて
 のように、「仕事だけが人生とは思えないんです」とか、「組合活動をやりたいんです
 が、家族のことを考えると、いつまでも平社員のままでは困るし」といった、井上にも
 なるほどと思える悩みが、ぐんと減ってきている。持ち込まれる苦情は、ほとんどが、
 子供の告げ口に類するもので、相手にしないで帰すと、さっさと辞めてしまう。
・辞めさせないために、井上の仕事があるのだから、あまり次々に辞められるのは困る。
 仕方なく、馬鹿らしいような悩みにも、真面目な顔で付き合わなくてはならないのであ
 る。井上がいい加減うんざりして来るのも当然だろう。
・「今日から、総務に配属になりました」と頭を下げたのは、いかにもがっちりした体格
 の若者で、少々のことにはびくともしない感じだった。近ごろ珍しく、逞しさを感じさ
 せる男だ。これなら、三日、三週間、三か月くらいの関門は、楽に通過するだろう。井
 上はホッとしていた。
・もうすぐ昼休み、というときになって席に戻り、一息ついていると、誰かが前に立った。
 頭を上げると、さっきの逞しい新入社員である。その新入社員は、青ざめた顔で、「僕、
 辞めさせていただきます!」と言った。井上は唖然とした。「倉庫へ行ったら、ゴキブ
 リがいたんです。ママに電話したら、そんな所にいたら、病気になるから帰っといで、
 と言われました」
・井上は、言葉もなく、その新入社員を見送った。十二時のチャイムが鳴る。九時に入っ
 て「三時間」しか続かなかったのだ!井上は、立ち上がる気力もなかった。
・ついにノイローゼ気味となった井上は、辞表を出した。部長が止めたが、井上はもうや
 る気を失っていた。かくて、井上は退職した。三十年目だった。
 
年度末の新人
・「おい、若いの!」と、声が飛んできた。またか。私は、よっぽど知らん顔をしていよ
 うかと思ったが、そこまでのふてぶてしさもない。せめてもの抵抗で、少し間を置いて
 から、「はい」と顔を上げた。
・実際、入社十年もたった男の社員が、コピー、荷造り、封筒の宛名書き、いや、時には
 来客へのお茶出しまでやらされる会社なんて、どこにあるだろう?もっとも、私も、ず
 っとこうだったわけではない。入社三年目には早くも係長になり、五人の部下をかかえ
 て、大いに張り切っていたものだ。そのころは、小さいとはいえ社員も七、八十人はい
 て、女子社員も三分の一。細々とした用事は、いくらでもはってくれた。
・事情が一変したのは、三年前である。突然倒産。再建。社員数は一気に二十五人に減ら
 された。そして、社内には女性の姿が見えなくなったのである。私が残れたのは、まず
 奇跡みたいなものだったが、その代わり、今度は二十五人中、最年少ということになっ
 てしまった。再建のために、どんな話合いが行われたのか、ともかく残ったのは、社長
 以下、専務、常務、部長、課長・・・。要するに上の方ばかり残ってしまったのである。
 課長以下の「平」は私一人。係長の肩書きは、消滅してしまった。結局、あらゆる雑用
 は私の所へやってくることになったのである。 
・コピーと取っている所に入ってきたのは、専務だった。温厚な人柄で、それだけに心労
 も多いのか、この三年で、めっきり老け込んだ。専務は「君も仕事にならんだろう」
 「うちも多少は上向いて来たし、ひとつ社長に頼んどくよ」という話になった。思いの
 ほか、返事は早かった。その翌週には、女性の新人を入れるということが決まったので
 あるいくら、いい年齢の男ばかりといっても、さすがに、殺伐とした社内にうんざりし
 ていたらしく、みんな多少興奮気味で、オッカナイおばさんにでも来られちゃ困る、募
 集広告には二十五歳まで、としよう、ということになった。ただ、問題は、時期が悪い
 ことだった。三月で、もう大方、就職先の決まっている子がほとんどだろう。 はたし
 ていい子がくるかどうか。 
・それでも、五人の子がやってきて、最終的に、大学を出て、二年目という、二十四歳の
 子が入ることになった。これがまた、どこをどう間違えたかと言う可愛い、明るい子だ
 ったのだ。
・その次の日出社して、私は目を見張った。社内のところどころに置かれたきれいな花、
 ヒカヒカに磨いてある机、スタンド、キャビネの表面。一瞬、別の会社へ間違えて入っ
 たのかと思うくらいだった。総て、彼女が朝早く出社してきて、やってくれたのだ。し
 かも、九時になると、ちゃんと全員にお茶を出してくれる。まさに天国だった!
・社内も、何だか倍は明るくなった感じで、単純な話だが、仕事の能率も上がるようにな
 った。 
・その平和は、しかし十日間しか続かなかった。ある朝、とんでもないことが起こった。
 あの真面目で温厚な専務が、珍しく遅刻して来た。珍しいな、と思っていると、専務は
 突然、部長の一人を、書類の束に穴をあける千枚通しで突き刺したのである。社内は大
 騒ぎになった。
・大したけがではなかったので、警察沙汰にはならずに済んだが、この事件の原因は礼の
 「可愛い彼女」にあることが分かったのだ。専務と部長が、二人して彼女に熱を上げて
 しまい、また彼女の方も、結構二人をじらしたりからかったりして遊んでいたらしいの
 である。かくて年甲斐もなく、専務は嫉妬に狂って、というわけだった。もちろん、こ
 の責任を取って、専務も部長も退社。彼女もアッサリと辞めて行った。またコピーは私
 の仕事になったのである。
・しかし、さすがに人が減って不便なのは社長もわかったとみえ、すぐにまた、人を募集
 することにした。社長は言った。「一切、条件はつけるな、選ぶときに考えればいい」
 私にしても、いくら可愛い女の子が来たって、その度に血を見るのはかなわない。
・広告を出して、面接の当日になった。社長が怖い顔でやって来た。「いくら条件をつけ
 るなと言ったからといって・・・会議室を見て来い!」私はあわてて会議室へと走って
 行った。そして中を覗いて、唖然としてしまった。もう二十人からの男たちがやってき
 てきたが、しかし、どう見ても、そのほとんどが六十歳過ぎか、中には、杖をついてい
 る者もいた。