顔の中の赤い月 :野間宏

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この作品は、終戦から6年後の1951年(昭和26年)に発表された短編小説だ。南方
の戦地から生き延びて帰った男が主人公となっている。実際、作者自身も、1941年に
応召し、中国やフィリピンの戦地に赴いたようだ。

この主人公の男は、心に二つの大きな傷を持っていた。一つの傷は、かつての恋人に対す
る後悔の念だ。主人公の男は、その恋人に出会う前に、別の愛する女性がいた。しかしそ
の女性は、彼の家族の反対や彼自身の生活能力の不安から、彼のもとを去って行った。主
人公は、別離を申し出たその女性を憎みながらも、いつまでもその女性が心の中に残って
いた。そしてその後に、新しい恋人が彼の前に現われたのである。
その新しい恋人は、以前の恋人とは反対に、彼にただちに自分のすべてを与え、彼を愛し
た。しかし彼は、どうしてもその新しい恋人を心の底から愛することができなかった。以
前の恋人が心に中に残っており、以前の恋人と新しい恋人を比較してしまうのである。主
人公は新しい恋人を、以前の恋人の代理として扱った。
しかし、その新しい恋人は、彼のその後の生涯のうちに二度と得ることが出来ぬほどの値
打ちのあるものだった。そのことを思い知らされたのは、劣悪な戦地での軍隊生活の中に
おいてであった。しかしその時は、すでにその恋人は、戦災で死亡していた。主人公は、
その女性に対する偽り愛の罪を深く悔いた。

もう一つの心の傷は、戦地おいて、戦友を見捨てたことであった。行軍途中で戦友の体力
が完全に力尽きて落伍していくとき、その戦友に対して励ましの言葉もかけてやれなかっ
た自分を深く悔いた。
戦地における軍隊生活は、暴戻非情だったことは、多くの戦争を題材にした作品などで語
られているが、この作品においても、その軍隊生活の理不尽さを垣間見ることができる。
日本の軍隊における戦地での苛酷さは、ほんとうの敵は自分達の前にいる外国兵ではなく、
同じ軍隊内の日本兵だったことだ。古年兵の初年兵に対する「しごき」は激烈だったよう
だ。初年兵は古年兵から馬以下の扱いを受けたようだ。これでは勝てるわけがない。
なお、このような「しごき」の伝統の一端は、現代社会においても、学校の運動部などを
はじめとするいろいろな組織や集団でいまだに顔出す。

この二つの心の傷を持った主人公は、戦後の生活においても、心を通わせられそうな女性
が目の前に現われても、もはやその女性に心を開くようなことはできない人間になってい
た。身体的な古傷ばかりでなく、精神的な深い古傷は、それを受けたその人の生涯に大き
な影響を及ぼすということを再認識させられた。

・未亡人堀川倉子の顔の中には、一種苦しげな表情があった。勿論彼女の顔は、日本の女
 がときどき持っている、あの幾らかの冷ややかな輪郭の線の中に柔かい肉感をとじこめ
 ているというような所謂近づき難い高雅な美を形づくっている種類のものではなかった
 が、それは、又、その眼や鼻や口のどれか一つが全体の諧調を破ることによって魅惑を
 作り出しているというような種類のものでもなかった。
・北山年夫は、彼女の顔を見る回数が次第に多くなるにつれて、その顔の表情がだんだん
 自分の心の深みに、入り込んで来るのを認めた。
・彼は一年ばかり前、南方から帰って、東京駅の近くのビルディングの五階にある、知人
 の会社に席を置いていたが、彼はよく廊下やエレベーターの内や便所の入口などで彼女
 と出会った。そしてその度に、彼は彼女の顔の中に、その一種不思議な苦しみの表情を
 見出した。
・彼は彼女の顔が、彼の心の内にある苦しみに、或る精神的な甘味と同時に痛みを伴う作
 用をするのを認めた。  
・彼は彼女の年齢を判定することができなかった。彼女の美しさが、最初から彼に彼女の
 年齢をかくした。勿論それは、彼がかなり長い間内地の女を見ることなしにすごしてき
 た故でもあったろうが、又、彼が過去に或る苦い経験を持っていて、常に女から遠ざか
 ろうと決心して暮らしてきたからでもあったであろう。そして、彼は彼女が一度結婚し
 たことがあるなどということには気づきもしなかったのである。  
・彼は彼女の年齢を実際よりもはるかに若く見つもっていた。それ故、彼には、日本の女
 には稀な、自分の内容をはっきりと保持し表現しているように思える彼女の顔が、どう
 してそのような若い年齢から生まれることができたのかと不思議に思えた。
・彼は最初はそのような彼女の顔ばかりに気を取られていたが、最近になって彼は彼女の
 顔の表情の中に或る一種苦しげなものが、彼女の顔に反してじみな黒っぽいスーツをつ
 けた余り大きくない体全体ににじみ出ているのを認めた。
・そしてその彼女の苦しみに濡れているような姿が、自分の過去の苦しい思い出を引き出
 し、甦らせてくるのを彼は感じた。確かにその顔は彼の内部の苦しみに適合するような
 美をもっていたが、彼には、何故に、彼女の顔がそのように自分の心にぴったり寄り添
 うのか不可解であった。 
・彼の心をしめつけるものの中心に彼女の顔があることを彼は感じた。そして彼は、自分
 の胸の中にある彼女の顔をじっとみつめた。すると彼の心は痛み、何か漠とした不安に
 把われ、彼は自分の足が、自分の体の下で、自分の意志を受けとることを肯じないとい
 うような感じに陥るのだった。そして彼の胸の中を突如として、正体の知れない不可解
 な暗い感情の稲妻がとおりすぎる。
・そして彼は自分自身で肯定することの出来ぬような人生否定、人間否定の言葉が自分の
 内部からぶち上がって来るのを認めた。
・「俺はもっと素直な人間なのだ。俺は単純な人間で、俺はもっともっと人間というもの
 を信じている。」と彼は自分に云い聞かせる。しかし彼が野戦の戦闘に於いて受け取っ
 たあの日常の人間とはまったく別個の人間の印象は、彼の中に甦り、彼は人間の中に歯
 をむきだして存在する動物が、自分の上に襲いかかってくるのを感じるのである。
・彼は戦場で自分の皮膚の中に、戦友達が刻印した冷酷は歯の跡が、いまもはっきり残っ
 ているのを認め、それを思うと彼自身が又戦友達の肌の中にそれと同じような歯形を残
 しているにちがいないことを解り、戦場で生命をおびやかされた人間達が演ずる利己的
 な姿にぞっとするのだった。
・堀川倉子の姿が、北山年夫にそのような人間否定の声を上げさせる過去の戦場の思い出
 を甦させるというのも、彼のその戦場の思い出の中には、堀川倉子の姿に照応するよう
 な一人の苦しげな女の姿があるからなのであった。そして彼女の姿をみていると、彼は
 一人の女の姿を胸に抱きながら戦場を歩きつづけた、みじめな自分の兵隊姿がはっきり
 と浮かんでくるのであった。
・北山年夫は以前彼が心の底からどうしても愛することの出来ない女を恋人にしていたこ
 とがあった。それはいわば彼が失った恋人の代理の恋人といったようなものであった。
 彼が愛していた女ははやく彼のもとを去ってしまっていた。
・彼が愛していた女は別にとりたてていう程のすぐれた特長のある女ではなかったが、情
 熱の激越な青年時代にそのような女に出会ったということが、彼の不運であったのであ
 った。彼の青年の恋愛に一般に見られる、あの一つの型に従って、自分の相手を理想化
 したのであった。      
・彼は家庭の反対を押し切ることさえできず、又彼の生活能力に不安を感じて、別離を申
 し出たその女を憎みながらも、いつまでもそれを心の中に残していた。そのとき彼の次
 の恋人が彼の前に現われたのである。 
・女事務員をしていたその女は彼を愛した。彼女は彼の以前の恋人とは反対に、彼にただ
 ちにすべてを渡した。
・彼は既に以前の恋愛の失敗の苦しみを自分自身で支えるだけの力を得ていたが、と云っ
 ても、やはりいつまでも孤独に堪えることの出来るような人間でもなく、自分を愛する
 女を身近に持っていることによって得るあの虚栄心の満足を打ちすてる意志力もなく、
 従って彼女の愛をしりぞけるだけの決断力というものもなかった。そして彼を信じきり、
 彼にすべてを与えた彼女の愛を、それが余りにたやすく彼にもたらされたが故に、かえ
 って彼がその後の生涯のうちに二度と得ることの出来ぬほどの値打ちのあるものだとは
 見分けることが出来なかったのである。
・彼は彼女を恋人の代理として取り扱い、そういう風に彼女を愛した。確かに彼女を見る
 彼の眼は冷酷であった。弱い弾力のたよりない彼女の胸の肌にふれながら、彼は自分の
 心が冷々とするのを感じるのだった。彼の眼は彼女の乳房を彼の以前の恋人の柔軟な肉
 を閉じ込めている乳房と比べていた。そして彼は何か不足した、満ち足りぬものを感じ、
 心がちぢこまるようにも思うのだった。
・彼は彼女が彼に向ける、脇目もふらぬ愛に重荷を感じた。彼女の心から流れ出てくるよ
 うに思える、一筋の熱い思いが、自分の体のまわりを取巻くのを感じ、彼は煩わしいと
 いう思いをするのだった。
・彼が軍隊に行きまだ内地にいる時分、彼はその女の死んだ知らせを受取った。そして彼
 は彼女の死によってはじめて自分のその女に対する偽りの愛の罪を認めたのであった。
 というのは、彼は初年兵の苦労に満ちた日々の生活の中で、ようやく愛の価値を大いさ
 を知らされたのである。
・「軍隊に入ってはじめて母親の有難味が解る」という言葉は応召兵の口から聞かれる言
 葉であるが、彼も兵営の寝台の中で、母を思い、愛を思うたのであった。人間が他の人
 間を愛することの高さを思うたのであった。
・三十を過ぎた男が、毛布の中でパン菓子をかじりながら涙に濡れて、訓練と私刑に固く
 結びつけられた兵隊の日々の生活から割り出して、人生に於いては、もはや何ものも必
 要ではない。ただ愛のみが価値のあるものであると考えたのだった。
・内地にいる間は同じ苦しみを受ける初年兵同志の間には、まだ互いの身の上に対する同
 情や憐れみや心の流通がある。初年兵達は、暗い便所の傍で、互いの身を慨く感のこも
 った短い言葉を交し合う。しかしたえず敵弾と食糧不足に見舞われる第一線生活に於い
 ては、上官、古年次兵に対しては勿論、初年兵の戦友の間に於いてさえ、そのような心
 の交換はうしなわれた。激烈な戦闘を前にして、人間はただ自分の力で自分の生命を守
 り、自分で自分の苦しみを癒やし、自分の手で自分の死を見とらなければならないとい
 うことを彼は知ったのだった。
・各人は、各人の水筒と同じように自分の生命を自分という革袋の中にたくわえなければ
 ならない。人間はその水筒の水を他のものに絶対に与えはしないし、その生命を他のも
 ののためには決して使用はしないのである。もし自分の体力が少しでも仲間に劣るとこ
 ろがあるならば、彼はただちに戦闘の落伍者であり、死が彼におそいかかるのであった。
・部隊全体が飢えているとき、自分の食糧を他人に与えることは自分の死を意味していた。
 そして戦友同志が一つの食物を間にはさんで、にらみ合うのだった。
・極度に神経の緊張を強いる白兵戦闘の合間彼はふと自分の半生を振り返ってみたとき、
 ほんとうに自分を愛してくれたものと云っては、彼の節してきた多くの人間、親友や同
 僚などのなかにはいず、彼の母親と彼の死んだ恋人以外にはないことを彼は感じた。
・彼は彼女のその品のない歩きぶりを、心の中で再現しながら、彼は暑さと疲労で弱り果
 てた自分の心臓を烈しくゆすぶられるように思うのだった。というのは、彼は彼女の生
 前彼女と一緒に歩きながら、彼女のその左足の歩みを、心の中で見下げののしり、その
 ために彼女につらく当たったのである。「すまない。すまない」と彼は敵を前にして心
 の中で云った。そして彼は彼にすべてを渡して悔いることのなかった自分の恋人の姿を
 胸にもちながら、戦闘の苦しみを堪えてきたのであった。
・彼は支那から南方の戦線に出て行った。それは初年兵の彼にとっては敵に対する闘いで
 はなかった。それは日本兵に対する闘いであった。 
・宿営時、初年兵は馬手入、弾薬点検、砲修理、食糧準備をし、そのために彼等の睡眠時
 間は一日に二時間にすぎなかった。疲労した初年兵の引く砲車は進まず、四年兵、五年
 兵の上等兵達は、馬をつとめる初年兵をしばき上げた。そして初年兵はようやくにして
 古年兵の攻撃から自分の身を守り、初年兵の敵は、自分達の前方にいる外国兵ではなく、
 自分達の傍にいる四年兵、五年兵、下士官、将校であった。
・味方の敵兵である四年兵、五年兵にしばかれながら、北山年夫は、砲車の引き綱を肩に
 かけ、心に恋人の姿を持ち、トッケー(ヤモリ)の鳴く繁みを砲を引いて歩いて行った。
・「何を考えてらっしゃるの?またあのことをかんがえてらっしゃるの?」と彼の死んだ
 恋人は、二人の情事が終わったあと、物も云わずじっとしている彼に、悲しげに問うの
 である。彼女は彼が彼女の満足していないことをはっきり知っていた。彼女は彼が以前
 の恋人のことをまたがんが得ているに違いないと思っていた。  
・「あたし、あなたを愛する以外に生きる道がないの。あなたにどう思われようと。」彼
 女はよく手紙に書いた。そして、「いつか、あなたにも、あたしの心がわかって頂ける
 日がくるわ。多分、そのときには、あたしは、死んでしまってるでしょうけど・・・」
 と彼女は云った。彼女のこの平凡な言葉の内にある彼女の心の存在が彼の胸を突き刺し
 彼は自分があらゆる苦しみを受けるに価すると考えるのだった。
・彼等の脚は十日間程取はずさずつけている巻脚絆の中で感覚を失っていた。
・「俺は、もう歩けん。」魚屋の中川二等兵の声が北山年夫の曳いている馬の胴の向こう
 でした。これは、既に何回となくそれまでに中川二等兵の繰返してきた言葉であった。
 そして、その声は、北山年夫の弱り果てた心に食い入った。体力を消耗しつくし、中川
 二等兵は既に骨の太い自分の図体を持ち運ぶエネルギーを失ってしまっていた。
・「俺はもう手を離す。もうはなす。」中川二等兵のこの声で、北山年夫は戦友の体力が
 完全につきたことを感じた。人生の最後に、彼の意識が彼の全人生をかけめぐっている
 ことを示すような哀れなその言葉は、北山年夫の心の底にとどいた。
・しかし北山年夫は戦友のために、励ましてやる力を持ち合わせていなかった。というよ
 りも、もし彼がそのような動作を開始したとすれば、今度は彼が自分の身を支える力を
 失って、死滅する以外にないであろう。彼は中川二等兵の声に自分の心が誘い込まれて
 行くに抵抗しながら黙って歩きつづけた。
・のろまで、記憶力が悪く古年次兵になぐられてばかりいた中川二等兵の生涯はサマット
 の坂道で終わった。そして北山年夫はただ自分の生命を救うために戦友を見殺しにした
 のであった。彼が復員したとき、彼の母親はこの世にはいなかった。
・湯上由子の語ったところによれば、堀川倉子は恋愛を通して結婚し、結婚後三年目に応
 召した夫を失ったのであった。二人は愛し合い、この上なく幸福であり、彼女はその幸
 福を戦争のために破壊されたのだった。そして最近彼女に再婚の話が起こっているが、
 なかなかその決心がつきかねているらしいとのことであった。
・彼は二人の未亡人のことを考えていた。戦争の打撃に打たれた人々の苦しみは、いまの
 彼には一番親しいものであった。彼は堀川倉子の顔を思い浮かべた。そしてきっとその
 夫は彼女を熱愛したにちがいないと考えた。それから彼女もその夫と同じ程の愛を以て
 夫に愛を返したにちがいないと思った。しかし、いま彼女は愛するものを失って、何を
 支えとして生きようというのだろうか。いまや対象をうしなった彼女の愛は何に向かっ
 て流れ出ようとするのであろうか。彼女の顔から時に放出されるように思えるあの何処
 かに狂いのあるような美しさは、この愛の孤独な燃焼から出てくるのであろう。
・彼は空襲で焼け死んだと云われる母のことを考え始めた。母親の愛は盲目的だと云われ
 る。しかし母親以外に誰が、人間が人間を愛し得よう。あの戦場で、もし自分の食糧を
 さいてひとに与えるものがあるとすれば、それは各人の母親以外にないではないか。い
 や、しかし、母親にしても、怪しいものだ。彼の眼に浮かんだ母親の姿は彼の心のうち
 で、彼を愛した恋人の姿に変わって行った。
・彼は死んだ恋人のことを思うた。彼は彼女の存在がもはやないことを思うた。そして彼
 はただ彼女の愛のみが必要なのであった。俺が彼女の愛の価値を知るためには、このよ
 うな何千万人の人々の生命を奪った戦争が必要であったのか。
・北山年夫は時々湯上由子と堀川倉子と三人で、仕事の帰途お茶を飲むことがあった。そ
 れから彼は堀川倉子と二人きりでそうした時間を持つことになった。勿論、彼は自分の
 彼女に対する感情を恋愛の感情であるなどとは思わなかった。確かに彼女の美しさに彼
 の心はひかれていた。しかしそれは心をひかれるというような種類のものではなかった。
 彼女の姿はむしろ彼に彼の過去を突きつけ、彼のみじめな半生をはっきり認めさせた。
 彼は彼女の会うのが苦しかったが、しかし彼にはその苦しみが必要であったのだった。
 それに彼には彼女の心が死んだ夫の上に厳然とあることがわかっていた。
・北山年夫は別に恋をしているとは思わなかった。しかし彼には、堀川倉子が必要であっ
 た。彼は彼女と向かい合っているとき、はじめて、自分の苦しみと同じ種類の苦しみが
 自分の前の人間の胸の中に動いているのを感じるのだった。彼女の顔を見ていると、自
 分があの戦場ですごしてきた苦しみを既に忘れ去って、かなり曖昧な生き方をしようと
 していることに気づくのだった。確かに彼は彼がはじめて内地に帰ったとき、変わりは
 てた内地のその姿に胸を打たれたが、いまや、その印象も薄れはじめて、彼はくすぶっ
 た焼ビルや道の両側に長く出された露店や、うようよ、うごめいている人々の姿を見て
 も別に不思議とも何とも思わなくなってしまっていた。そして彼は彼女の苦しげな顔が
 彼のその心のくもりをうき払うのを感じるのだった。
・「人間が一人の人間を幸福にするということは大変なことですよ。僕はまだ一人として
 そんな人間に会ったことはありませんからね。勿論、僕にはできなかった。あなたには
 それができたので、それがいまのあなたをささえているのでしょう」と北山年夫は堀川
 倉子に云った。  
・「あなたは此の間、何かをみつけると言ってらしたの。みつかりそうですの。」
・「さあ、そう簡単にはね。でも、僕はまた勉強をはじめました。働きながら、勉強する
 気持ちができてきたのです。いつか、僕のようなものでも、いい人間になれるでしょう。
 いい人間になって、死にたい、そう考えているのです。」「あの戦争を通って生きてき
 たんですから。そういう生き方ができなければ、死んでた方がよかったようなものです」
・「きっと、いい日がくると私は思いますわ。」「あたし、この間から北山さんに、だれ
 か、いい方をみつけてあげなくてはと考えていますよ」
・二人は互いの心を離れ離れに持ったまま、店の奥に、しゃべる言葉もなく座っていた。
・俺はいったい、どうしようというのだろうか。俺は一体何を求めようというのだろうか。
 俺は彼女に愛を求めようというのだろうか。戦争で愛する夫を失った女と戦争で死んだ
 恋人の愛の価値を知らされた男が結ばれる。一寸、小説だな。と北山年夫は思った。
・いや、俺が求めるのは彼女ではない。そして又彼女が求めるのもこの俺ではないのだ。
 このひとは俺の苦しみをどうしようもなくと云ったが、俺も又、この人の苦しみをどう
 することもできないのだ。  
・北山敏夫は堀川倉子が顔を上げて彼の方に眼を向けるのを見た。ほのぐらい空間をすか
 せて白い彼女の顔が彼の前に浮いている。彼は彼女のその顔に真直眼を据えていた。こ
 の顔の向こうには、確かの戦争のもたらした苦しみの一つがあると彼は思った。彼は如
 何にしても、彼女のその苦しみの中に入って行きたいと思うのだった。
・もしも彼のような人間の中にも、尚、いくらかでも真実と誠が残っているとすれば、そ
 れを彼女の苦しみにふれさせたいと思うのだった。そのように二つの人間の心と心とが
 面と向って互いの苦しみを渡し合うことがあるならば、そのように、二人の人間が互い
 の生存の秘密を交換し合うということがあるならば、そのように二人の男と女が、互い
 の真実を示し合うということができるならば、それこそ、人生は新しい意味をもつだろ
 う。しかし、彼にはそのようなことは不可能のことだと思えるのだった。
・ごーっという車輌の響きが、北山年夫の身体をゆすった。そして「俺はもう歩けん。」
 という魚屋の中川二等兵の声が、その響きの中から、きこえてきた。「俺はもう手を離
 す、手を離す。」ごーっと車輌の響きが、北山年夫の身体の底から起こってきた。沸騰
 したあついものが彼の身体の底から湧き上がってきた。「離すぞ、離すぞ。」彼は中川
 二等兵の身体が、自分のもとを離れて死の方へつき進んで行くのを感じた。中川二等兵
 の身体を死の方へつき離す自分を感じた。
・北山年夫は、自分の身体の底の方からわき上がってくる暗い思いをじっと堪えていた。
 「仕方がない、仕方がないじゃないか。俺は俺の生存を守るために中川を見殺しにした
 のだ。俺の生存のために。俺の生存のために。しかし、それ以外に人間の生き方はない
 ではないか。」彼は静かに自分の心をおさえて考え続けた。「どうしようもなかったん
 だ。そして俺は、いまもまだあのときの俺なんだ。あの時と同じ状態に置かれたならば、
 やはり俺はまた、同じように、他の人間の生存を見殺しにする人間なのだ。確かに俺は、
 いまもまだ、俺の生存のみを守っているにすぎないのだ。そして俺はこのひとの苦しみ
 をどうすることも出来はしない。」「俺はこのひとの生存の中には入ることはできはし
 ない。俺は俺の生存の中にしかないのだ。」「できはしない!他人の生存をどうするこ
 ともできはしない!自分の生存のみを守っている人間が、どうして他人の生存を守るこ
 とが出来よう。」と彼は考えていた。     
・電車が四ツ谷についた。電車はとまった。ドアが開いた。彼は堀川倉子の顔が彼を眺め
 るのを見た。彼女の小さな右肩が、彼の心を誘うのを見た。
・「さようなら。」と彼は云って顔をさげた。「ええ。」彼女は反射的に顔を後に引いた。
 そして苦しげな微笑が彼女の顔に浮かんだ。