哀しい予感  :吉本ばなな

吉本ばなな 奥平亜美衣 自分を愛すると夢は叶う [ 吉本ばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

忘れたふり (どくだみちゃんとふしばな) [ 吉本ばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

なるほどの対話 (新潮文庫) [ 吉本 ばなな ]
価格:594円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

体は全部知っている (文春文庫) [ 吉本 ばなな ]
価格:550円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

キッチン (角川文庫) [ 吉本 ばなな ]
価格:432円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

毎日っていいな [ 吉本ばなな ]
価格:1404円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

すべての始まり (どくだみちゃんとふしばな) [ 吉本ばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

ふなふな船橋 (朝日文庫) [ 吉本ばなな ]
価格:583円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

「違うこと」をしないこと [ 吉本 ばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

お別れの色 (どくだみちゃんとふしばな) [ 吉本ばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

下北沢について (幻冬舎文庫) [ 吉本ばなな ]
価格:540円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

イヤシノウタ (新潮文庫) [ 吉本 ばなな ]
価格:529円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

哀しい予感 (角川文庫) [ 吉本 ばなな ]
価格:561円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

切なくそして幸せな、タピオカの夢 [ 吉本ばなな ]
価格:1620円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる [ 吉本ばなな ]
価格:1296円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

人生の旅をゆく(3) [ 吉本ばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

吉本ばなな自選選集(2) ラブ [ よしもとばなな ]
価格:1944円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

吹上奇譚(第一話) ミミとこだち [ 吉本ばなな ]
価格:1620円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

吹上奇譚(第二話) どんぶり [ 吉本ばなな ]
価格:1620円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

キッチン (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:464円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

ハゴロモ (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:464円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

さきちゃんたちの夜 (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:529円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

アムリタ(上巻) (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:561円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

アムリタ(下巻) (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:561円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

とかげ改版 (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:464円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

なんくるない (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:529円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

みずうみ (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:561円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

イヤシノウタ [ よしもとばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

不倫と南米 (幻冬舎文庫) [ よしもとばなな ]
価格:575円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

N・P (角川文庫) [ よしもとばなな ]
価格:561円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

ひな菊の人生 (幻冬舎文庫) [ よしもとばなな ]
価格:493円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

虹 (幻冬舎文庫) [ よしもとばなな ]
価格:575円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

ふなふな船橋 [ よしもとばなな ]
価格:1404円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

うたかた/サンクチュアリ (新潮文庫) [ よしもとばなな ]
価格:432円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

下北沢について [ よしもとばなな ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/4/12時点)

この物語の中心人物は、大学生の弥生である。彼女には同い年の弟、哲生がいる。そして
ちょっと変わり者のおばがいる。弥生には、不思議なことに幼児期の記憶が全然なかった。
幼児期のアルバムもなかった。
弥生は、子供の頃からひどく敏感で、ちょっと変わった能力を持っていた。ときどき先の
ことが予知できたのである。そして、おばと思っていた人は、実は「姉」だった。幼い頃
に両親が突然自動車事故で死亡し、両親の知り合いだった人の善意で、哲生の両親に引き
取られたのだった。弥生の父親は学者でかなりの変人だった。その影響を受けておばもか
なりの変わり者だった。
おばと思っていた人が実は「姉」だった。そして弟と思っていた人が実は血がつながって
いなかった。いままで知らなかったことが突然明らかになったときの心の葛藤。明らかに
なった後の新しい世界へのかすかな期待。そして自分自身の不思議な能力。そんなとても
複雑な運命を背負いながらも、けなげに生きて行く弥生の生きかたに、その心の揺らぎと
ともに、生きる強さと清々しさを感じる物語であった。
それにしても、この物語に登場するおばのような変わり者に、妙にあこがれと郷愁を感じ
る自分に戸惑いを感じた。自分にも少し変人の素養が備わっているかもしれないと思った。

・彼女は私立高校の音楽教師をしていた。30になるが独身で、いつの頃からかひとり暮
 らしをしていた。「未婚で地味な音楽教師」を想像してみてほしい。朝、出勤する時の
 彼女はまさにそれそのものだった。
・顔だちは異様に美しいのに、どうしようもなく野暮ったい人。私はおばが「音楽教師に
 見えるでしょう。こんなもんで」という、世の中をなめたマニュアルを実行していると
 しか思えなかった。なぜなら家の中でねまき同然のラフなかっこうをしてのびのびして
 いる時、彼女は別人のように垢抜けて美しくなるからだ。
・おばは変人そのものだった。彼女は帰宅すると即座にねまきに着替え、なだしになって
 しまう。そして放っておくと、1日中、爪を切ったり、枝毛を切ったりしてごろごろし
 ている。窓の外をただずっと何時間もぼんやりと見つけていたり、廊下にごろりと寝こ
 ろんだまま眠ってしまったりする。読んだ本を開きっ放し、洗濯物は乾燥機に入れっ放
 しで、食べたい時に食べ、眠いときに寝る。自分の部屋と台所以外は何年も掃除すらし
 ていないらしく、私はついたとたん、自分が泊まる部屋の恐ろしく汚い様相を整えるの
 にやむを得ずひと晩中、真っ黒になって働いた。そんな時もおばは悪びれる事なく、
 「お客様が来たから。」と言って真夜中なのに何時間もかけてひとり、大きなケーキを
 焼いてくれた。万事がそのようにトンチンカンだった。掃除もすっかり終わり、2人で
 それを食べたのは夜明けで、空が明るかった。万事がそんなふうで、そこには生活に秩
 序というものが何ひとつ存在していななかった。
・私にとって美と映ったのは彼女の生活とか、動作とか、何かをするときのかすかな表情
 の反応にまでびっしりとはりめぐされたある「ムード」だった。それが頑固までに統一
 され、この世の終わりまで少しも乱されることがないように思えた。だからおばは、何
 をしていても不思議と美しく見えた。
・あの夜、外からいくら電話してもおばは出なかった。私は不安な気持ちのままおばの家
 を目指した。私とおばとはあまり親交がなく、親戚全体の大きな集まりでもない限り顔
 を合わせることも滅多になかった。でも私は変わり者のおばをなぜだかとても好きだっ
 たし、彼女と私だけが共有する、ある小さな思い出を持っていた。
・その時、私はまだ小学生だった。母方の祖父の葬式の朝、真冬の、今にも雪が降ってき
 そうな光る曇り空だった。その前夜、通夜の席で、私はおばに会っていた。おばの様子
 はやはり少し周囲とピントがずれているように思えた。大勢いる母の兄弟のうち、ひと
 りぽつんと若く、ひとり無口なおばは、終始立っているだけだった。そして、ひとり、
 息をのむほど美しく見えた。多分、彼女にとってそれは一張羅の喪服だったのだろう。
 そして私はおばがそういうきちんとした服装でいるところをはじめて見た。黒いワンピ
 ースのすそのところにクリーニンング札がついたままなのを母が取ってやっても彼女は
 照れもせず、にこりともしなかった。代わりに悲痛なゆっくりさでかすかに頭を下げた。
・きっと、泣くのを必死でこらえているんだわ、と私は思った。死んだ祖父の一番の気が
 かりはひとり暮らしのおばで、彼女は祖父にとても可愛がられていた。祖父母の家はお
 ばの家の近所で、多分よく行き来していたのだろう、幼い私はそのくらいのことしか知
 らなかったが、立ちつくし夜を見つめるおばの姿を見ていたら、私にまでその悲しみの
 深さが伝わってくるようだった。そう、私は特別、おばのことがよくわかった。やたら
 口数の少ないおばのちょっとしたしぐさや、目線や、顔の伏せ方ひとつで、私には何と
 なく、おばが喜んでいるのか、退屈しているのか、怒っているのかが伝わってきた。
・そして私がまさにそう思った瞬間、おばは突然涙を流した。はじめはぽろぽろとほほを
 落ちただけのその透明な水滴は、やがてすすり泣きに、そして号泣に変わって行った。
 私だけがその変化を見、理解していた。周囲の人々はびっくりして、おばを奥に連れて
 行ってしまった。しかし周囲の人々はおばを見続けていなかった。驚いただけだ。私だ
 けが、ずっと見ていた。そういう妙な自信を自分の中に感じた。 
・おばはその頃、音大に通っていた。本棚には膨大な数の楽譜が並び、譜面台には開いた
 ままの1冊が立っていた。
・「何か、弾こうか。」夜近い部屋の中は永遠のように静かだった。私がうん、とうなず
 くと、おばは譜面を見ずに静かな曲を弾き始めた。ピアノを弾く時ばかりはおばの背筋
 もぴんと伸び、横顔は健やかに指を追っていた。風とみぞれの音と、音色が混ざり合っ
 て、まるで知らない国にいるような不思議な世界が生まれた。夢の中にいるようなひと
 ときだった。私は祖父が死んだことも、おばの悲しみのこともしばらく忘れて、ただそ
 の空間に耳を澄ませていた。
・おばは不思議な目をしていた。何かを言い出しそうな、遠いところをみているような深
 い輝きをたたえて、私を見ていた。「弥生、嬉しかった」とおばは言い、少し微笑んで
 みたせた。私が来た意味が、ちゃんとわかっている。手を振って、家を後にした。闇の
 中を凍えて私は急いで帰った。母に遅い帰宅をさんざん叱られ、行先を聞かれたが、私
 は決して言わなかった。誰にも話してはいけない気がした。  

・おばがピアノを弾くのを本当に久々に耳にした。昔と全く変わらない。音というものが
 目に見えるときがあるのだと、私はその暮らしの中で初めて知った。いや、その時のそ
 れは何かもっと、なつかしい眺めだった。その美しい旋律は遠い昔、いつもそうして、
 音を見ていたような、そんな甘い気持ちをよびさました。私は目を閉じ、耳を傾け、み
 どりの海底にいるようだと思った。世界中があかるいみどりに光って見えた。水流はゆ
 るやかに透け、どんなにつらいことも、その中では肌をかすめてよく魚の群れくらいに
 思えた。行きくれてそのままひとり、遠くの潮流に迷い込んでしまいそうな、哀しい予
 感がした。19の私の、初夏の物語である。

・私にはなぜか、幼児期の記憶が全然なかった。私の心にも、アルバムにも、全然だ。そ
 れは確かに異常なことだった。 
・私には父と、母と、年子の弟の哲生がいる。父は企業内で医者をやっていて、看護婦だ
 った母にめぐり合い、結婚した。最近、父は散歩が大好きで、お伴にするための小犬を
 もうじきもらうことになっていた。何とかいう外国の、育つと巨大になる犬らしい。家
 中でそれを楽しみにしていた。
・私はこの弟が本当に大好きだった。もっとも、彼を嫌いになれる人はそんなにいない。
 哲生はそういう子だった。私たちはずっと、男女の姉弟としては信じられないくらい、
 仲良く育った。私は彼をかなりずさんに扱ってきたが、心の底ではその物事に対する無
 垢な熱心さを尊敬していた。彼は生まれつき、自分の内面の弱さを人にさらさないだけ
 の強さや明るさを持っていて、何にでも怖れを知らずにまっすぐにぶつかってゆくこと
 ができた。 
・彼には単純でバカな部分もあったが、特別な少年だった。親も親類も口をそろえて言う。
 もしも人に、もともとの魂が美しいということがあるなら、人として品格が高いという
 ことがあるなら、それは哲生だね、と。 
・「弥生、ちょっとききたいことがあるんだけど・・・。」と母が横顔のまま私の名をし
 っかり呼んだ。何だろう、と私は母を見た。母は少しとまどったような目をして私を見
 つめた。ひとり何か心配ごとを抱えている時の顔だった。哲生に初めて彼女ができた時
 も、私に初めて生理が来た時も、父が過労で倒れた時も、母はこういう表情で私の名前
 を呼んだ。その度に私はいつでも、何も隠しごとのできないような、妙に心細い気持ち
 になった。音もなく続いて来た家族の歴史に吸い込まれるような心地で、私は母の次の
 言葉を待った。「弥生、あっちの家にいた時、何か変わったことはなかった?」母は言
 った。「あっちの家って、この間までいた借家のこと?」私はどきっとして言った。
・家を改築している期間、私たちはとなりの町の駅に近い路地の、とりこわし寸前のぼろ
 ぼろの家に住んでいた。そこはすごい家だった。平屋で、3部屋と台所しかない。そし
 て、風呂場が家のど真ん中にあるのだ。多分、奥の部屋を後からつぎ足したのだろうが、
 おかしな造りだった。しかもその風呂場全体がすでにアンティークになっていて、何よ
 りも水がもるのだ。どんどんお湯が減ってゆくので、一家4人が連続して入らないと湯
 舟が空になってしまう。
・その日、私は件の「水もれ風呂」に入っていた。5月のひんやりした夜だった。じっと
 考えていた湯の中で、背中にとん、と何かがあたった。何か固いもの、水に受けんでい
 る何か大きなもの。「?」と思った私が振り向くと、そこには何もなく、ただ澄んだお
 湯がゆれているだけだった。そして耳をすませると変わらずに、ちょろちょろと流れの
 音が響いていた。何だったんだろう・・・と思ってまた前を向いた時、たまらなくいや
 な気分になっていた。今すぐここを去りたいと強く体中が反応して熱いのに鳥肌が立っ
 た。身動きができないほど無防備なむきだしの私の、頭のしんが低い音で恐怖をうった
 えていた。立ち上がろうとしたその時、私のこわばった背中にもういちど、とん、と何
 かがあたった。もう一度そっと振り向いたら、それは今度はそこにそのまま存在した。
 それはアヒルのおもちゃだった。
・私は自分の目を疑った。もともとなかったものがどうして突然あるのか。さっぱりわか
 らず、考えれば考えるほど底の方から気味悪さが込みあげてきて、私はがばっと立ち上
 がり、「きゃあ」と叫んで、あわてて湯舟から出た。すべてがちょうど金縛りからとけ
 たようなおかしな速度だった。台所にいた母が私の声を聞き、「どうしたの!」と戸を
 からっと開けた。息をついて私がもう一度湯舟の中を見ると、そこには何もなかった。
 ただ、熱いお湯が揺れて波立ち、水野もれるちょろちょろいう音が続いているだけだっ
 た・・・。
・やがて訪れた浅い眠りの中で、私は夢ではないような奇妙な感触の、異様な夢を見た。
 その夢の中で私は他人になって赤ん坊を殺していた。ああ、今もはっきりとあの、いや
 な感じを思い出すことができる。それはあくまで断片だったが、現実の匂いがした。
 私は首筋に冷たい汗をたくさんかかいていて、そして泣きわめく赤ん坊をこの両手で水
 風呂の浴槽に夢中で沈めていたのだ。その重み、弱い抵抗、こちらを見上げる目。私は
 一生忘れれれないだろう。口が乾き、目まいがした。陽がぎらぎらと射し、低い水音が
 響いていた。そして、気づいた。足元に置いてある小さな洗面器の中、陽にさらされて
 てかてか光る、アヒルのおもちゃがあった、そこで、目が覚めた。
・私は母に初めてその体験をすべて語った。「大家さんの所に行って話を聞きの。それか
 ら図書館に行って新聞のコピーを撮ったわ。確かにあったの、そういう事件があの家で。
 若いホステスが夫に逃げられて、少し頭が変になって赤ん坊を殺しちゃったんですって。」
 母は思案にくれた表情で黙った。
・母の瞳は胸が痛むほど曇っていた。「あなたはねぇ。ひどく敏感な子供だったのよ。当
 時私はよく、その手の本を読んだわ。ESPとか、予知とか、そういうことをね。お父
 さんはそういうことをあまり信じない人だからほとんど取り合わなかったけどね。うん
 と小さい頃、あなたはね、電話が鳴る度にかけてきた人の名前を言うの。知らない人の
 ことまで「山本さんっていう人みたい」とか「お父さんの会社の人」っていう具合にね。
 それがほとんど命中してねぇ。それから、昔その場所で起こったことをなぜか感じるの。
 あまりそういうことばかりなので、けっこうあちこちの病院で見てもらったり、いろい
 ろなえらい先生に会って意見を聞いたりしたんだけど、年と共に徐々になくなったと言
 うわけなのね。」「あの頃のあなたははた目で見ていてもひどく大変そうだったわ。そ
 れにしてもね、人よりも多くのものをいっぺんに知覚してしまうということも、まあ、
 子供の時分になら何となくできるものかもしれないわよね。子供っていうのは多かれ少
 なかれそういうものだからね。」「いくらそれもひとつの才能とはいえ、私もお父さん
 もあなたに、ごく普通な平和な人生を歩んで欲しかったの。それにね、子供の頃のよう
 に自由でない精神に、もしその能力が残っていたら、もし大人になってもそうした力が
 自分の意志に反してどこででも発揮されてしまうとしたら、その人は自己コントロール
 に大変な時間を費やすか、あらゆる意味で病院行きになるか、どっちしかないでしょう。
 私たちはそのことを心配してたくさん話し合ったわ。
・私は、自分であまりにも自分を把握していない部分が多いことにあらためてショックを
 受けていた。あまりにも覚えていなさすぎる。隠された領域が多すぎる。それでももう、
 その大きな流れは止められなかった。その時私は自分の頭の内側に突如、あるヴィジョ
 ンが横切ってゆくのをはっきり見てしまったのだ。それはまるで8ミリの古ぼけたフィ
 ルムがかたかた回るように遠く、しかしとてもかけがえのないものとして切なく胸にせ
 まりながら私の驚きなどおかまいなしに次々に流れていった。そのひとつは手だった。
 年をとった女の人の手がはさみを持ち、花を活けている。その手は母の手ではなかった。
 エメラルドの入った指輪をしている。細い女性の手だった。もうひとつは、ゆっくりと
 楽しそうに歩く夫婦の後ろ姿。女性の方は、前に見た手の持ち主に違いなかった。
・目の前の現実とはまったく別のところでそれらの光景ははっきりと流れ続けた。私は次
 々に消え去るそれらを少しでも心に留めようと息をつめた。それはまるでいちばん好き
 な景色を通り過ぎるときの車窓のように目にしみてあっという間で感じられた。そして
 その中でいちばん長く、印象的だったのは「姉」の場面だった。その女の子はまだ小さ
 く、妙に大人びた顔立ちで空を見上げていた。眉をひそめて私の名前を呼んだ。「弥生」。
 甘い声だった。「弥生、台風が来るんだって」と彼女は言った。そして私ははっきりと、
 誰だかわからない幼い彼女のことを「姉だ」とその時思っていたのだ。

・家出とは、帰るところのある人がするものなんだ・・・と、今回初めて、胸の底からし
 みじみと思った。今回は、何だか、違う気がした。何度もためらった。旅行用のボスト
 ンバッグに荷物を詰める手を何度も止めた。今度はもう、戻ってきてもすべてを取り戻
 すことができないだろう、この家出は何か大きなことにつながっている。それは確信だ
 った。  
・私にはよそに、血のつがかった肉親がいる。どう考えても、そんなことは信じられなか
 った。ありえないことだった。しかしありえないということなら、子供時代の記憶が曖
 昧なままだということだって同じくらいおかしいのだ。そうして何よりいつものように
 心の奥底がしっかりと光って「真実」を訴えていた。こういうカンははずれない。はず
 れてほしくたって、はずれないのだ。
・哲生に救って欲しかった。そのまっすぐな瞳や、確認に満ちた言い方で「そんなことは
 どうでもいいことだ、忘れてしまえ。」と言ってほしかった。そうして、ほんとうに忘
 れてしまってすっきりできたら最高なのにと思った。でも、そんなことは言わなかった。
・昔から、哲生はよく夜、呼び出された。それは女の子からである時もあったし、男友達
 からの時もあった。彼は友達が多いのだ。電話がかかってきて哲生が出て行ってしまう
 と、私は突然家の中を淋しく感じた。それは心のどこか一部だけが「待つ」淋しさだっ
 た。哲生の長い手足や、後姿、そういうちょっとした風景が家の中にないと、つまらな
 かった。 
・私は自分がどうしてこんなに淋しがり屋なのか、きちんと考えたことはなかったが、夜
 ひとりでいると、時折ものすごい、郷愁としかいいようのない淋しさにかられることが
 あった。そして、哲生だけがそれを埋めてくれる存在だった。哲生が近くにいる時は、
 とりあえずどんなに悲しくてなっても、危うくなることはなかった。しかし時折そうし
 て、何かを本当に思い出しそうになる度、私は危うくなりことがあった。まるで遠くか
 ら来る旅人のように、また今いる場所にずっといられるような安心を感じることができ
 なくなった。
・それまで私は哲生が外泊しようが、大ケガをしようが、通りいっぺんの心配しかできな
 かったが、その夜のあの、初夏の澄んだ闇の中で、私は初めて腹の底から彼を心配した。
 何よりも受話器を渡して、彼が私の瞳を見た時、2人の間に通じ合ったものが、かつて
 ないものだった。それはほんの一瞬のことだったのに、胸の妙になまなましい残像を残
 してしまったのだった。
・私は哲生の行く先を全然知らず、家に通じている帰り道が3本あった。気がつくと私は
 当然のことのように、着替えて玄関のドアを開けていたのだ。私はただ捜した。いくつ
 もの角を曲がり、だんだん息が切れてきて、頭の片隅に残っていた冷静な、「どうして
 私は弟のために、夜を走っているんだろう。」という気持ちが闇に消えてゆくのがさか
 った。後にはただ迷子になった幼児のように、会いたいものを求めてさまよう必死な想
 いが残った。まるで恋のようだ、とみなれた街角をくりかえし越えながら私は思った。
・子供の頃から何か大きなことが起こる度、例えば家族で植えた木が台風でみんな根こそ
 ぎやられた時とか、身内が死んだとか、そういう時に2人が分かち合ったものによく似
 ている何かをその時、私達は何となく共有していた。
・哲生が部屋を出てゆき、ドアがばたん、と閉まった瞬間、まるで化学反応みたいにきっ
 ちりと不安がこみあげてきた。ベランダから立ち上がり、追いかけていって哲生の部屋
 に行き、話を聞いてほしいと思った。  

・「あの子、弥生のこと好きなのね。」と言って、おばは少し微笑んだ。投げ出した足の、
 爪の形を見ていた。「あの子って、哲生?」私は言った。「そう、血のつながっていな
 い弟。」おばは平然と言った。もう、隠されているものは何も残っていなかった。その
 瞬間、ライトが照らす具合や、窓の外の夜の色や、一滴ずつ落ちる貴重な時のしずくと
 共にとても光って見えた。今だ、と思った。今しかない。私は静かにたずねた。「私達
 のお父さんとお母さんは、どんな人達だったの?」おはばすらりと口にした。今までも
 別に、隠してなんかいなかったみたいに。「優しい人達だったよ。私達はみんなで、庭
 に池のある家に住んでいた」「そう、私達は、幸せだったの?」「異様なくらいにね。」
 おばは言った。 
・おばはおばの顔をそっくり捨てて、姉の顔になっていた。「私の・・・変な能力こと覚
 えてる?」私は言った。「うん、そうね。言葉を話すようになる前から、おかしな子だ
 った。前にそこにあったことがわかっちゃうのね。それに両親があまり好きでない人達
 から電話がかかってきたりすると、火がついたように泣くの。お父さんやお母さんの
 気持ちがわかるのかしらってみんなで笑ったわ。」おはは微笑んだ。あんまりにもそれ
 がどうしたの?という感じだったので、私はその瞬間にここしばらく不安だった自分を
 ごく自然に忘れた。
・「あの人達も、もちろん死んだおじいちゃんも、私達と何の血のつながりもないのよ。
 私たちの本当の両親ととても仲がよかったというだけで引き取ってくれたの。あんな善
 良な人達、いない。あの、男の子も。」「どうして両親は死んじゃったの?」私は息を
 つめて耳を澄ませた。おばは語りはじめた。「青森に行ったのよ。新しい車をお父さん
 が運転していて、山道でカーブを切りそこねた。それで対向車に激突したの。私とあな
 たはバックシートにいて、全部見ていた。お父さんとお母さんが死ぬ場面。私があなた
 を抱え込んで、2人で血だらけになって車からはい出したの。」
・「今の両親が、おばさんをどうしてひとり暮らしさせているのか、わからないよ。」
 「私が、だだをこねたの。まだ高校生だったのよ。あなたを「姪」にしてほしいと言っ
 たのも、私。そしてこの家を譲ってくれたのはおじいちゃん。」「ひとりになりたかっ
 たの。面倒くさくて、すべて。あなたはまだ幼くて。やりなおしがきいたから良いのよ。
 でも私には、あの、風変わりな両親の生活の面影がしみついていた。」
・私は、自分が彼女に「捨てられた」と思わないように努力していた。しかし、この姉妹
 の間にできた距離がもう決して埋まれないことを私は知っていた。 
・おばは言った。「お父さんは学者で、奇人だったの。だから家の中には決まりきった日
 常というものがまるでなかった。」
・思えば、私達は単に男女としていつもきわどい線において、お互いに優しくする手段や
 口実として「姉弟」を利用していただけだったような気がする。両親が留守の時、2人
 は夕食後のテーブルから離れがたく、いつまでもデザートを食べたり、お茶を飲んだり
 していた。そうやって堂々と2人きりでいられる時間を、ひどく貴重に感じだ。そして
 そんな時はいつも、お互いがそう思っていた気がした。
・そういえば哲生は彼ひとりで山や川にでかけて、何日も帰って来なかったものだ。彼は
 人生の基本をスポーツから学んでいるから、どんな時でも現実に対して強くてしなやか
 だった。おばが彼のことを「自分で知っていると思っているよりもっと多くのことを知
 っている。」という言い方をしていたが、よくわかる。そして、それを思い出した時、
 昨日の夜までいっしょにいたはずのおばにたまらなく会いたくなった。

・彼の、予想外の若さに私は度肝を抜かれた。彼はどう見ても私と同じくらいか、もっと
 年下に見えた。おばさったら、教え子に手をつけたのね、と私は思った。あの人なら、
 そのくらい平気でやる。彼はちょっと口ごもった。「僕の子供をおろしたって言うんで
 すよ。」私もぎょっとした。言うような人ではないが、そんなことをおばは、ひと言も
 言わなかった。恋人の存在すら、ほんとうにひとかけらも匂わせなかった。 
 
・そうだ。私が今、こんな遠いところにやってきているのも、おばが私の姉だからだけで
 はなく、黙っていなくなってしまったからでもない。それはおばが背負っている、女と
 しての暗黙の魔力だ。あの髪や甘い響くような声や、ピアノを弾く細い指のその向こう
 に彼女は何かとほうもなく巨大ななつかしさを隠している。それが、失われた子供時代
 を持つ人にはきっと特別よくわかるのだ。夜よりも深く、永遠よりも長く、はるかな何
 か。
・いきなり哲生が私を抱きしめた。私はひざをついてしまったが、不思議と驚きはしなか
 った。ただ、彼が着ていた私のカーディガンの胸の貝のボタンを間近で見ていた。そし
 て、私の背中に触れている哲生の大きな手の、不思議な感触を味わっていた。そして哲
 生からは、あの懐かしい「うち」の匂いがした。私の育った家や柱や、じゅうたんや、
 衣類の匂いがした。私は瞳を閉じ、私達はキスをした。永遠のように長い口づけだった。
・やってしまった。ついにやってしまったと、私は多分同じ夜の中で哲生も思っているだ
 ろうことをそっと考え続けていた。

・はたからみれば微笑ましい程度のこの生活態度に違いが、おばにとって恐怖だったろう
 ことはよくわかった。彼女は単に教師としてのモラルや年齢差におびえたのではなく、
 彼の健全さを異星人のように嫌悪したにちがいない。ずっと守り続けてきた自分の小さ
 な、だらしない暮らしが変わることにおびえたのだ。私にはその気持ちが、とてもよく
 わかる気がした。若気の至りという言葉の通りに、恋の嵐が過ぎ去れば彼はまた元の日
 々へかえってゆくかもしれないことの、その率はあまりに高い。どう考えてもおばは、
 きちんと付き合う恋人にするには変わりすぎている。おばの人としての弱さをはじめて
 ちらりと見たような気がして、少しつらくなった。こわいものや、いやなものや、自分
 を傷つけそうなものから目をそらすのが、おばのやり方だった。私はかさ立のことを思
 い出した。
・そのかさ立はかなり古い単なるつぼで、他にかさが1本も入っていなかった。私はかさ
 立を見てぎょっとした。いちめんにびっしりかびが生えていたのだ。大さわぎして、私
 はおばの部屋に走っていった。私はさわいだ。おばはしばらく、うーんと口をへの字に
 して、やがて「わかった、なかったことにしましょう。」と言った。「そのつぼをかさ
 ごと、家の裏に持っていって、ぽいっと置いておけばいい。それで、雨なんだから、外
 に出なければいいの、今日1日くらいは。」そういっておばは布団にもぐり込んでしま
 った。 
・私はあきらめて、言われた通りにその重いつぼを持って家の裏に回った。ひざまで来
 る濡れた雑草をかきわけ、はじめてあの廃屋のような家の反対側をきちんと見た。ひど
 いものだった。おまけに裏にはおばが今まで「なかったことにした」ものがぞっとする
 ほどたくさん、積み上げられて雨に打たれていた。あらゆるものがあった。どれだけ昔
 からの粗大ゴミをそこに捨てたのか見当もつかなかった。どうやって運んだのか学習机
 や、古いぬいぐるみの類まであった。2度と目に入らないように、そしていろいろなこ
 とを考えてしまわないようにほとんどめくらめっぽうに投げられている。おはば人間と
 もきっとこのようにきっぱりと別れるだろうと思って、私は少し悲しくなった。雨に打
 たれて、しばらくそこに立ったままで私は”なかったこと”にされた物たちを見ていた。
・そう、彼女は都会の野生児として育ったのだ。台所に立ち、掃除や洗濯をこなし、縫い
 ものをしてくれる人の影が全くない寒いところで、たったひとり生きのびてきた。この
 ところ、そんなふうに思う度、胸がきりきり痛んだ。もしもその事故にあった時、私が
 もう少し年上で分別があったなら、そして2人で暮らしてこれたなら、という強い感情
 が押し寄せてくる。しかし、すでに運命は分かれ、私達はもう自分達のやり方でしっか
 り大人になってしまった。もう決して取り戻せない。これは単なる郷愁で、ゴミよりも
 くだらない。お互いの人生に失礼だから、と打ち消すようにした。
・人間って悲しいものだな、と私は思った。子供時代の呪縛から完全に逃げられるものは
 いないのだ。 
・このところこの人や、哲生や、おばといると私は子供の頃からずっと、漠然と感じてい
 た正体がわからなかったある後ろめたさから解放されるような気がした。新しい事実と
 共に、新しい自分がやっと普通に呼吸しているような気持ちのいい感じだった。だから
 私は彼がもう一度、上手なタイミングでおばにめぐり合って、きちんと話ができるとい
 いな、と思った。いつのまにかたってしまった時間が、ただでさえ彼には気を許してい
 るおばの心を溶かしたかもしれない。 それならば何もかも問題なしで、2人は幸せに
 なるかもしれない。 
・いつの日か彼はあの恐ろしい家に手を入れ、粗大ゴミのトラックにあのゴミの山を持っ
 て行かせ、窓や門は修理される。あの家は、新居として生まれ変わるのだ。そこでおば
 と彼は共に暮らす。お互いのやりいいように、好き勝手に楽しく生きる。庭木は整えら
 れ、陽が射すベランダに子供もごろごろしている。もしも、私と哲生が姉弟としてでは
 なくそこをたずねていけたなら、そこだけでは、私とおばは当然のように姉妹として話
 をすることができたなら・・・それは何だかあまりに遠すぎて、あまりにも障害が多す
 ぎて、まるで楽園のようにはるかに光ったイメージに思えた。その光景はあまりにもあ
 りえなさそうにまぶしすぎて、何だか祈りのようだった。一瞬、私はつよく思った。そ
 れは許されることだ。そういう日は来てもいいはずだと。

・私は、旅行が楽しみでないわけではなかった。それでも、あんなに悲しい夕方はなかっ
 た。今、思ってもぞっとするような深い悲しみだった。私はとにかく心もとなくて、淋
 しくて、髪をとかす母にまつわりついていた。なにもかもその小さな手の中に握ってい
 たかった。後から後から湧いてくる悲しい気持ちを食い止めようがなかった。確かその
 時、新しい車を買ったばかりだった・・・だから、車で出かけることになったのだろう。
・私はその「夢」の中で、完全に子供の頃の自分に同化していた。過去を全く同じように
 追体験したのだ。すべてが泣き出したいほどなつかしく、胸にせまってきた。すごく赤
 い夕暮れだった。 
・秋空を染めあげる朱色の雲が、はるか街並みに向かって続いていた。姉に手を引かれて、
 木の門を出て行った。年がうんと上の彼女といると、世界中が穏やかに映った。何もこ
 わくなかった。あとでピアノを弾いて、と私は頼んだ。姉の弾くピアノが大好きだった。
 夕空を背にして、風に吹かれてにっこりと微笑んだ姉の大人びた笑顔に、その手のぬく
 もりに悲しい気持ちをすっかりあずけた。 
・あの町はどこにあったのだろう。古い商店街があった。せまい路地にぎっしりと夕方の
 店々がにぎわっていた。魚屋も、八百屋も、乾物屋もあって、いろいろな声や匂いがご
 ちゃごちゃに混ざり合っていた。子供の視点から、まぶしいライトが並び光るその雑路
 を見上げていた。手をつないで歩く私達に、見なれた大人たちが声をかけた。ゆきのち
 ゃん、やよいちゃん。頭をなでる手や笑顔のぬくもり。わけもなく悲しく、みんな優し
 かった。ああ、あれほど美しい夕方の中、私の小さな心いっぱいにその予感は満ちてい
 たと思う。その日以来、家族はもう2度と、その幸福な生活を営んでいた町に戻ること
 はなかった。

・盛岡に向かう新幹線は、鋭い光の中に広がる見なれる光景をどんどん追い越していった。
 東北本線の野辺地に降り立ち、恐山に向かうタクシーに乗った時は、もう夜が近かった。
 運転手の鳴らした小さなクラクションの音に、ふと前を見ると、少し先の方の道ばたに
 水飲み場があるのが見えた。そしてやけにあっさりとそこにはおばが立っていた。
・すぐにおばは私に気づいた。道を登って近づいてゆく私を見ると、ひしゃくにもういっ
 ぱい澄んだ水を受けていた手を休め、ゆっくりこちらに向きなおって微笑んだ。ぞっと
 するほど鮮やかな笑顔だった。今まで見た中でいちばん美しい姿だった。
・おばは言った。「あの日も、おうして弥生が横にすわっていたわ。「現実にあったこと
 だなんて、何だかとても信じられないわ。」「家族で、恐山へ行くはずだったの」
・私にはもう、想像ができた。こうして走る車の中に、家族4人が確かにいた。前のシー
 トには父と母が、後ろには私達が、山道をぐんぐん登ってゆく振動の中で、最後の楽し
 い会話を寸前まで交わしていたに違いない。今ははっきりと浮かぶ。父、のおだやかな
 深い瞳も、母、の肩の線の柔らかだったことも。  
・「ほら、この辺が事故現場よ。何か、感じる?」おばは笑った。車は数秒でそこを通り
 過ぎ、「何も感じない」と言って私は笑った。湖のほとりにある赤い橋のところにタク
 シーを待たせて、私とおばは恐山の門に向かって歩いていった。
・どうしてこんな所を家族でおとずれようと思ったのだろう。すべてが不思議な光景だっ
 た。異世界へ迷い込んだようだ。果てしない立体にそびえる丘には、たくさんの地蔵が
 立ち、甘い青をした夕空にくっきりと浮かびあがっていた。無数の卒塔婆が揺れ、カラ
 スが舞い、荒涼とした白い溶岩の草もない地面に、イオウの匂いが強く漂っていた。
・ただ私達は歩き、無数の像に出会った。人はまばらで、遠くをゆく人影は岩にまぎれて
 おもちゃのように小さく見えた。いくつものお堂が、広大な荒れた大地に影を落として
 いた。道にかがみこむようにしてある地蔵には、たくさんの色とりどりのボロきれのよ
 うなものが巻いてあり、人間のように見えた。あちこちに不自然な形の小石が積まれて、
 すべてが妙にしんとしている。振り向くと背には緑の山々がそびえていた。あちこちに
 蒸気が吹き出す、灰色のごつごつとした岩の中を登っていった。 
・ずっと坂道を下っていゆくと、古びたお堂の暗がりの中に、大きな地蔵がひそみ、おも
 ちゃや、衣類や千羽鶴が山積みになっているのが見えた。
・運命、というものを私はこの目で見てしまった。でも何も減っていはいない。増えてゆ
 くばかりだ。私はおばと弟を失ったのではなくて、この手足で姉と恋人発掘した。