神の鉄槌 :アーサー・C・クラーク

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この作品は、いまから29年前の1993年に発表されたSF小説だ。
私はこの本を読んで「ディープインパクト」と「アルマゲドン」の二つのアメリカのSF
映画を思い出した。
どちらも1998年に公開されたものであり、「アルマゲドン」のほうが二カ月遅かった
だけで、内容も小惑星が地球に衝突するという人類の危機を描いたもので類似している。
もっとも、「アルマゲドン」のほうは、いかにも娯楽映画という感じで科学的な部分は二
の次にされている感じではあった。
私はこの本を読む前は「ディープインパクト」はこの「神の鉄槌」が原作となっているの
ではないかと思ったのだが、一部参考にしているようだが、全体的にはかなり違った内容
となっている。もっとも、どちらの映画が制作されたのも、この「神の鉄槌」に触発され
たのではないのかと私には思えた。
ところで、この小惑星が地球に衝突するという話は、単なる空想の話ではなく、実際に過
去に何度か起きており、恐竜が絶滅したのも小惑星が地球に衝突したのが原因だったとい
うのは、よく知られている話である。そして、いつまたそのような危機が訪れても、不思
議ではないようだ。
この作品の中に、「スペースガード」という地球に向ってきそうな小惑星や水星を調査し
ている組織が出てきているが、この組織は実際に存在する組織で、1996年に設立され
た国際的な組織ようだ。日本でも「日本スペースガード協会」というものが組織されてい
て小惑星や彗星等の観測を行なっているようだ。
ただ問題となるのは、もし地球に衝突する危険な小惑星を発見した場合に、どのような対
応が取れるかということだろう。「ディープインパクト」や「アルマゲドン」では、問題
となる小惑星まで有人宇宙船を飛ばして、小惑星を掘削して地中深くに核爆弾を設置して
爆発させ、小惑星を粉々に爆破するという方法が取られている。なぜこのような方法が取
られるかというと、小惑星の地表面で核爆弾を爆発させただけでは、小惑星を粉々に爆破
できないからだということらしい。
地球の大気圏内で核爆弾が爆発すれば、大気があるので爆発時の超高熱によって空気が急
膨張することによる爆風の衝撃波や熱波によってものすごい破壊力となるのだろうが、何
もない真空状態の宇宙空間で核爆弾が爆発しても、その衝撃波や熱波を伝えるものがない
ため破壊力は小さいということなのだろう。
このためか、この「神の鉄槌」では、小惑星にロケットエンジンを据え付けて、小惑星の
軌道を変えることにより、地球への衝突を回避するという方法が取られている。しかし、
この方法は、現在の人類が持つ宇宙技術では、まだ無理なのだろうと私には思えた。
それでは、現実に小惑星の地球衝突を回避する方法として、どのような方法が考えられて
いるのか。実は、NASAが2021年11月にDARTという 探査機を打ち上げて、小
惑星に衝突させ、小惑星の軌道を変える実験を行なうようだ。今年(2022年)10月
にDARTが目標の小惑星に到達する予定だという。その結果がどうなるか非常に興味深
いところだ。


第一部
・それは小さな家ほどの大きさで、重さ約9千トン、時速5万キロメートルで移動してい
 た。ひとりの抜け目ない旅行者が白熱の火の玉とその長い蒸気の尾を写真におさめた。
 2分とたたないうちにそれは地球の大気上層を薄く切り裂いて宇宙へもどっていった。
・数十億年にわたって太陽を周回していたあいだに、ほんのわずかでも軌道が変化してい
 たら、それは世界のどこかの大都市に落下していたかもしれない。広島を破壊した爆弾
 の5倍以上という強力な破壊力をもって。1972年8月10日のことだった。
・ロバート・シン・フリーダ・キャロル、その息子のトビーとその最愛のペットであるミ
 ニタイガー、それにさまざまな種類のロボットたちが住んでいる家は、前世紀からの訪
 問者が見たらびっくりするほど小さなものだった。住居というよりは小屋に近いくらい
 だ。しかしこの場合、外見はまったく当てにならない。なぜならほとんどの部屋が多機
 能にできていて、命令ひとつで形を変えられるからである。調度品は別のものに変身し、
 壁や天井はさっと消えて大地や空に置き代わる。あるいは宇宙飛行士以外なら誰もがだ
 まされるほどのみごとな宇宙の眺めにさえもだ。
・中央ドームに半円柱型の棟が四つ集まった姿は見た目もよくないし、このジャングルの
 中ではおよそ場違いに見える。それはシンも認めざるを得ないが、”住むための機械”
 という表現にはまさしくぴったりだった。
・シン船長はもはや二度と訪れることのできない世界にトビーとその母親を残したまま、
 宇宙船<ゴライアス>の船室へ立ち戻った。宇宙での歳月、それにゼロGでは必須の運
 動を怠けていたこと、のせいでひどく筋力が落ちた彼は、いまや月と火星の上しか歩け
 ない。重力が彼を生まれ故郷の惑星から追放してしまったのである。
・「ランデヴーまであと1時間です、船長」<ゴライアス>のセントラル・コンピュータ
 として必然的にそう名づけられたデイヴィッドの、おだやかだがきっぱりとした声が知
 らせた。
・デイヴィッドは驚くほどユーモアのセンスがある。(人間でないもの)として創造者の
 ほとんどあらゆる特性を具備、もしくは凌駕、した存在なのである。しかし知覚や感情
 の領域には、彼の踏み込めない部分もあった。臭覚や味覚を持たせるのは容易だが、そ
 れが必要だとは考えられなかった。それに、猥談をしようという試みがすべて悲惨な結
 果に終わったため、彼はその分野への挑戦もあきらめていた。
・船長はものうげに展望窓のほうを見やった。そこ、目の前の宇宙空間に浮かんでいるの
 は、カーリーだった。
・いかにも無害そうな姿だ。滑稽なほどピーナッツによく似た、ただの小さなアステロイ
 ド(小惑星)にすぎない。衝突でできた大きなクレーターがふたつ三つ、そして小さな
 ものは何百と、漆黒の表面を穿って無秩序に散らばっている。最大長1295メートル、
 最小幅65メートル。たいていの都市公園にすっぽりおさまってしまう大きさである。
 人類の大半がいまなおそれが破滅をもたらすことをしんじられずにいるのもうなずける。
 だがクリスラム教の原理主義者たちはそれを”神の鉄槌”と呼んでいた。
アインシュタインによって発見された速度の限界とり除く方法はなく、”宇宙の虫食い
 穴
”の存在は確認されたものの、原子核ほどの大きさの物体ですらそこを通り抜けるこ
 とはできなかった。だが、それにもかかわらず、恒星間の深淵お現実に征服するという
 夢は、まだ完全に消え失せていなかった。
・カーリーは展望スクリーンいっぱいに映し出されていた。拡大映像ではない。<ゴライ
 アス>が浮かんでいるのはその打ちすえられた太古の地表からわずか200メートル上
 空なのだ。そしていま、そこには誕生以来はじめての来訪者を迎えていた。
・ごく小さいアステロイドの上を歩くことは不可能だ。重力があまりに微弱なため、わず
 かな不注意のせいでたちまち脱出速度に達して自由軌道へ飛び出してしまいかねない。
 コンタクト・チームのひとりは、外部固定用アームのついた自動推進式の頑丈な宇宙服
 に身をかためていた。あとのふたりは、北極でよく使われるのとそっくりな小型の宇宙
 橇に乗っている。
・「アンテナ設置・・・ビーコン作動・・・」
・カーリーを見失う危険がわずかでもあってはならない。過去において貧弱な観測値しか
 なかったアステロイドにたびたび起きたように、これほど細心の注意をはらって計算さ
 れた軌道はかつてなかったが、それでもなおいくつかの不確定要素が残っている。神の
 鉄槌が鉄床に当たりそこねる可能性も皆無とは言えない。
・現在、地球や月の裏側にある巨大な電波望遠鏡が、10のマイナス15乗秒まで時間を
 合わせてこのビーコンからのパルス信号を受信すべく待機中だ。そのパルスがあと20
 分あまりで目的に到達し、それがカーリーの軌道を数センチメートル以内の誤差で規定
 する見えないものさしとなる。
・それから2,3秒後には「スペース・ガード」のコンピュータ群が生か死かの評決を出
 してくれるだろう。しかし、その言葉が<ゴライアス>に届くのは、1時間後のことだ。
・「スペース・ガード」は遠く二十世紀も終わりに近い頃、いまは伝説となったNASA 
 が立てた最後の計画のひとつである。当初の目的はごくささやかのものだった。地球軌
 道を横切るアステロイドや彗星の調査を可能なかぎり徹底的におこない、潜在的な脅威
 となるものがあるかどうかを判定することだ。
・予算の総額が年間1千万ドルを越えることはめったになく、それでも2000年までに
 は世界的規模の望遠鏡ネットワーク、その大半が熟練したアマチュアの手によるものだ
 った、が確立した。61年後、はなばなしいハレー彗星の回帰がより多くの資金をもた
 らし、また2079年の巨大な火球、運よく大西洋のまん中に落ちた、のおかげで「ス
 ペース・ガード」の知名度はさらに高まった。その世紀の終わりまでに百万個以上のア
 ステロイドの位置がつきとめられ、調査は90パーセント終了したものと考えられた。
 だがこの種の調査は無期限に継続されなければならない。手のとどかない太陽系外縁部
 から乱入者が突っ込んでくる可能性は常にあるのだから。
・2109年末に発見されたとき、カーリーは土星軌道を通過して太陽に向って落ちてく
 るところだった。 
・宇宙を漂うその氷山は太陽の方向からやってきたので、空が爆発するまで誰もその接近
 に気づかなかった。数秒後、衝撃波は2千平方キロメートルの松林をなぎ倒し、クラカ
 トアの噴火以来の轟音が世界をかけめぐった。この彗星の破片が長い旅の中でわずか2
 時間遅れていたら、10メガトン相当の爆発でモスクワは消滅し、歴史の流れは変わっ
 ていただろう。1908年6月30日のことだった。(ツングースカ大爆発
・隕石の重要さとその潜在的な価値が認められたのは、宇宙時代の夜明けが訪れてからの
 ことだった。何十年ものあいだ科学者たちは、隕石が地球の地形の形成に相当な寄与を
 してきたことを信じようよせず、否定すらしてきた。ほとんど信じられないことだが、
 二十世紀にはいってもなおしばらくのあいだ、地質学者の中には、アリゾナの有名な隕
 石孔
は命名の誤りであって実は火山活動の結果だと主張する者もいたのだ!宇宙探査機
 によって月や太陽系内の小天体が幾星霜にわたり大規模な爆撃にさらされてきたことが
 示されるまで、その論争は終結を見なかった。
・一億年以上にわたって地球上を支配していた巨大恐竜の突然の、少なくとも天文学的な
 タイムスケールではごく短期間の、消滅は、つねに大きな謎とされてきた。これまでに
 ももっともらしいのからいかにも眉唾なものまで数多くの仮設が提出されてきた。しか
 しその仮設が真に満足のいくものでなかったのは、それが答えよりも多くの疑問を投げ
 かけたからである。もし気候が変化したのなら、その変化の原因は何なのか?数多くの
 説が唱えられたが、どれも決め手がなく、科学者たちはそれ以外の説明に目を向け始め
 た。
・1980年、地質学的記録をさぐっていたルイスとウォルターのアルヴァレス父子は、
 長年にわたる謎が解明されたと発表した。ふたりは白亜紀と第三紀の境界を示す薄い岩
 石層の中に、地球規模の大災害の形跡を発見したのだった。恐竜は殺戮されたのであり、
 その凶器が見つかったのだ。
・それは、大気にさしわたし10キロメートルに及ぶ穴をうがって垂直に落下し、発生し
 た熱で大気そのものまでが燃え上がった。それが地表に達したとき岩盤は液状となって
 山のような波を外へひろげ、直径二百キロメートルのクレーターを形成したところでよ
 うやく固化した。
・それは災厄のはじまりにすぎなかった。真の悲劇はそれからはじまった。酸化窒素の雨
 が空から降りそそぎ、海洋を酸性に変えた。焼きはらわれた森林から出た煤煙の雲が何
 カ月ものあいだ太陽を覆い隠して空を暗くした。世界的に気温が急低下し、最初の大変
 動を生きのびた動植物の大半を滅ぼした。数千年をしぶとく生きぬいた種もあったが、
 巨大爬虫類の支配は結局終わりを告げた。いまから6500万年前のことである。(
 キシコ湾小惑星衝突

・カーリーの未来は数カ月さきまでわかればいいのだし、その誤差の許容範囲は地球の直
 径分だ。アステロイド上に設置されたビーコンによっていくらでも正確に軌道を算出す
 ることができるようになったいま、その不確定要素、当然ながら希望的観測も、はいり
 込む余地はない。
・ロバート・シンははじめからあまり希望を持っていなかった。月の中継ステーションか
 ら赤外線収束ビームのメッセージが届くとすぐ、デイヴィッドが報告してくれたが、そ
 の内容は予想していたとおりだった。
・「スペース・ガードのコンピュータからの報告によれば、カーリーは241日13時
 間5分プラスマイナス20分後に地球に衝突するとのことです。落下地点はまだ推測の
 域を出ませんが、おそらく太平洋エリアでしょう」(デイヴィッド)
・「スペース・ガード」司令部より<ゴライアス>へ。ただちに「アトラス」作戦を開始
 する権限を与える。 
・神話におけるアトラスの役目は、天が地上に崩れ落ちてこないよう支えることだった。
 <ゴライアス>が運んでいる「アトラス」推進モジュールの役目はそれよりずっと単純
 だ。空のほんの小さな一部を押しとどめるだけなのだから。
・火星の外側の衛星ダイモスで組み立てられた「アトラス」は、ひと組のロケットエンジ
 ンに20万トンの液体水素を入れた推進剤タンクを取り付けたものにすぎない。その核
 融合駆動の推力はユーリ・ガガーリンを宇宙に送り出した原始的なミサイルにも及ばな
 いが、わずか数分間ではなく数週間その噴射を継続することができる。それでもカーリ
 ーほどの大きさの天体に与える影響はわずかなもの、秒速数センチメートルの速度変化、
 でしかない。しかしすべてが順調にいけばそれで充分なのである。
・緑化のプロセスはまだはじまったばかりだったが、”赤い惑星”はもうそれほど赤くなか
 った。 
  
第二部
・25歳の俊英ロバート・シンがアリスタルコス宇宙工科大学、<アリ工大>の通称で知
 られている、の最終学期にはいったころ、もし誰かが、「きみはもうすぐオリンピック
 選手になるよ」と言ったら、彼はそれを笑いとばしただろう。むろん彼も地球へもどる
 選択の自由を確保しておきたいと願う多くの月居住者たちと同様、アリ工大の遠心機に
 よる高G訓練には熱心だった。ひどく退屈ではあったが、そのあいだにはほとんど学習
 プログラムに接続していたので、まるきり時間の無駄遣いというわけでもなかった。
・そうしたある日、彼は機械工学部の学部長のオフィスへ呼ばれた。
・「きみは気づいていないかもしれないが、健康診断の結果によれば、きみはめったにな
 いほど体重と運動能力のバランスがとれている。そこでだが、近く開催される予定のオ
 リンピックに向けて、トレーニングに参加してもらいたい」
・プタトーの東壁に近いクレーターの上にかぶせた幅3キロメートルの屋根が、月面では
 いちばん大きなひとつづきの与圧空間で、そこは人力飛行機競技の開催場として知られ
 ている。数年前からこれをオリンピックの競技種目にするための協議がつづけられてい
 たが、惑星間オリンピック委員会は、競技者が羽ばたきとプロペラのいずれを使用すべ
 きか決められずにいた。
・シンにとってはどちらでもよかった。だが、さらなる驚きが彼を待っていた。
・「飛ぶんじゃないよ。走るんだ。外の月面をね。おそらく<虹の入江>を横断すること
 になるだろう」
・フリーダ・キャロルは月にやってきてまだ二、三週間しかたっていないのに、早くも目
 新しさが薄れ、そろそろ地球に帰りたくなっていた。第一に彼女は六分の一の重力に慣
 れることができなかった。
・フリーダはまた、地質学の研究生としても月に失望していた。月の興味深い部分にはな
 かなか手がとどかない。地球でやるようにハンマーと小型の質量分析計を持って歩きま
 わることもできず、宇宙服を身につけたり、月面車の中にすわって遠隔装置を操ったり
 しなければならない。
・アリ工大のどこまでもつづくトンネルや地下施設が、月の上層百メートルの断層を見せ
 てくれるだろうと思っていたが、その考えは甘かった。掘削に用いられた高出力レーザ
 ーが岩石や表土、果てしなくつづく隕石の爆撃によって耕された表層部分、を融かして、
 なんの特徴もない鏡のようななめらかな壁面に仕上げていたからである。
・彼女は、中央地下施設の三階へ通じているはずのドアを押し開けて、慎重にそれをくぐ
 った。だが慎重さが足りなかった。通り抜けたとたん、高速で移動する大きな物体がぶ
 つかってきて、彼女はきりきり舞いしながら入ったばかりの広い通路の一方の壁のほう
 へふっとばされた。
・「どうもすみません。お怪我はありませんか?ここには誰もこないと思ったもので」
・フリーダはヘルメットの中を見ようとしたが、着用者の顔は完全に隠されていた。
 ミスターXはフリーダの身体に触れそうなほどまで近づき、彼女をじっと見つめている
 らしい。向うがどんな人間なのか想像もつかないのに、これではアンフェアというもの
 だろう。だがそのとき彼女は突然、自分が相手の正体を無性に知りたがっていることに
 気がついた。
・それから二、三時間後、アリ工大のカフェテリアで、その期待は果たされた。ボブ・シ
 ンはまださっきの件を気にしているようで、そわそわしていたが、どうやら原因はそれ
 だけではないらしい。
・フリーダの運動競技に対する興味はほとんどゼロに近かったが、その話題にはたちまち
 引き込まれてしまった。もしくは少なくともロバート・シンに対しては。
・生涯でまた二度目か三度目の経験だったが、彼女はそのとき自分が恋に落ちたことを知
 った。
・「虹の入江」の優雅な曲線は、月面にあるすべての地形の中でもっとも美しいもののひ
 とるである。直径三百キロメートルに及ぶそれは、典型的なクレーター平野の残存する
 半分で北側の壁は三十億年前に「雨の海」から押しよせてきた溶岩流によってきれいさ
 っぱり洗い流されたが、その流入をまぬがれて形をとどめている半円の西端は高さ一キ
 ロメートルのヘラクレイデス岬まで伸び、その丘陵の連なりが、決まった時刻になると
 短時間ではあるが美しい幻影をつくり出す。
・しかし、第一回月面マラソンの走者たちが岬のふもとに集まっているいま、太陽は出て
 いない。実際はいまは現地時間のほぼ真夜中なのだ。南の空の中ほどにかかる”満地球”
 が、地球を照らす満月の50倍の明るさの青くつめたい輝きを地上にそそいでる。
・この競技は、スタートラインで勝負が決まるたぐいのものではない。シンは慎重に飛び
 出す角度を見きわめ、「ゼロ」の声を聞き終えるまで待ってから地面を蹴った。この点
 には膨大な計算が注ぎこまれていた。アリ工大のコンピュータですら会頭を出すのに1
 ミリ秒近くかかったほどだ。月の重力が六分の一であることはもっとも重要な要素だが、
 問題はそれだけではない。服の剛性、最適な酸素摂取率、熱容量、疲労、そういったあ
 らゆるものを考慮に入れなければならない。
・着地する足もとに小さな塵の飛沫があがった。慣性で身体が前にのめっていくのを適正
 な角度になるまで待ってから、また跳びあがる。彼がいちはやく気づいた月面レースの
 秘訣は、急角度で降下して着地で慣性を殺すようなハイジャンプを避けるということだ
 った。
・月面でマラソンの伝統である42キロメートルを走るのにどれだけの時間がかかるもの
 か、実際に知っている者はまだいない。推測値にはなんとも楽観的な二時間から十時間
 までの幅があった。シンとしてはなんとか五時間以内にやりとげたいと思っていた。
・あと22キロメートルという地点について競争相手はただひとりになった。月面最初の
 マラソンに銅メダルはなくなった。月対地球の直接対決となったのだ。
・「おかしな話だが、足がどんどんつめたくなってくるんだ」
・「申しわけない。ブーツの底をもって分厚くしておくべきだった」
・「いまごろわかったのかい?まあなんとかいけると思うよ」
・二十分後にはそれもあやしくなってきた。不快感が痛みへとエスカレートした。足がか
 じかんできたのだ。いままで本物の寒さの中に身をおいたことのない彼にとって、これ
 ははじめての経験だった。それにどう対処しればいいのか、またその徴候がどのあたり
 で危険なものになるのか、どちらもよくわからない。
・あと3キロメートルの地点で、彼はいまにも棄権して救急車を呼ぶところだった。おそ
 らくもう足を救うには手遅れだったろう。そして、もはやこれが限界だと思ったとたん、
 彼はすぎ目の前の地面に全神経を集中しはじめる前の自分ならとっくに目にとめていた
 はずのものに気づいた。
・前方はるかに見える地平線は、すでに、ぎらぎら光る地表と漆黒の虚空をわける一本の
 直線ではなくなっていた。「虹の入江」の西端近く、ゆるやかに湾曲するラプラス岬の
 峰々が、月の曲線の上に姿を見せていたのである。その眺めと、そして自力でその山並
 の見えるところまでたどり着いたのだという思いが、シンに最後の力をふりしぼらせた。
・いまや全宇宙で目に映るのはそのゴールラインだけだった。だがそこまであとわずか数
 メートルとなったとき、執拗にうしろについてきていた競争相手が、一見なんの苦もな
 くダッシュをかけてするすると彼を追い抜いた。
・意識がもどったときロバート・シンは救急車の中に横たわっており、全身がうずいてい
 たが苦痛はもうおさまっていた。
・「これかで診た中じゃ最悪の凍傷だ。しかし局部麻酔はほどこしてあるし、新しい足を
 買う必要もないだろう」 
・それでいくらかはほっとしたものの、あれほどの努力のあげくあと一歩のところで勝ち
 を奪われた悔しさを埋め合わせる役には立たなかった。
・「きみが勝ったんだよ」「どうして?どうなってるんです?」「彼らは自分たちのロバ
 ートは実はロボット、汎用人間型マーク9だと白状したんだ」
・そんな名声も長続きはしなかったが、その金メダルはロバート・シンの残りの人生でも
 っとも価値のある所蔵物のひとつとなった。しかし8年後の第三回月オリンピックが開
 かれたとき、彼ははじめて自分が口火を切ったその催しの真の意味を知った。そのころ
 にはもう宇宙医学にも、酸素飽和溶液で肺を満たす深海ダイビングの”液体呼吸”技術が
 使われるようになっていたのだ。
・信じがたいほどの好成績でアリ工大を卒業した宇宙技師ロバート・シンにとって、地球
 =月間提起連絡シャトルの一隻に機関助手(推進担当)の地位を確保するのは造作もな
 いことだった。 
・この仕事は実におあつらえ向きだった。というのはフリーダが、遅ればせながら月への
 興味にとりつかれたからだ。彼女はかつて地球で起きたゴールド・ラッシュに当たるも
 のに研究の的をしぼって、月で二、三年暮らしてみることにした。もっとも採掘者たち
 が月で長いあいだ探し求めてきたのは、いまやありふれている金属などよりははるかに
 価値の高いものだった。
・それは水、いや、もっと厳密に言えば氷、だった。永劫の期間にわたる隕石の衝突やと
 きたま起こる火山の噴火が、月の表面から数百メートル下まで煮えたぎらせた結果、液
 体、固体、気体を問わずあらゆる水の痕跡は一掃されていたが、それでも温度がつねに
 氷点をはるかに下まわっていた極周辺の地下深くにはまだ、原初太陽系の岩くずが凝縮
 して月となった当時以来の化石水の層が残っているという望みがまったくないわけでは
 なかった。
・そしてフリーダは、南極で最初の氷鉱山を発見したチームの一員となる幸運に恵まれた
 のだった。それは月の経済を究極的に一変させただけでなく、シン=キャロル経済共同
 体にも直接の大きな利益をもたらした。かくてふたりは、フラーホームを借りて地球上
 のどこでも好きなところに住めるだけの資産を手にすることができた。
・むずかしい問題は、フラーホームの数多いモデルの中からどれを選ぶかということだっ
 た。二十世紀の偉大な建築技師バックミンスター・フラーにちなんで名づけられたもの
 だが、そこに使われている技術たるや、彼が夢想はしても決して体験できなかったもの
 だった。いずれも実質的には自給自足方式で、そこに住む人間の生活をほぼ永久に支え
 ることができたのだ。電力は密閉された百キロワット急の核融合ユニットによってまか
 なわれ、数年に一度濃縮水を補給してやればいい。きちんと設計された家屋にはその程
 度のエネルギー・レベルで充分だし、96ボルトの直流電源なら本気で自殺するつもり
 ででもないかぎり感電死することはない。
・いちばん論争を呼んだフラーホームの特徴、すなわち食物循環システム、が広く世間に
 受け入れられるには、ほぼ一世紀を要した。
・結局は世の常がなら経済がすべてを制圧することとなった。食費を気にかける必要が
 永久になくなり、しかも家庭用<ブレイン>のメモリーで事実上無限のメニューを選べ
 るという誘惑には誰もあらがうことができなかったのだ。
・フリーダとシンが借りたフラーホームはそれまでふた組の住人があっただけで、主要な
 部分には”平均耐用年数”15年の保証がついていた。
・トビー・キャロル・シンは両親が計画したとおりアリゾナで生まれた。ロバートは上級
 技師に昇格したが、火星航路に移るチャンスを蹴って月=地球間シャトルの勤務をつづ
 けた。一度に何カ月ものあいだ幼い息子と離れていたくなかったからである。
・トビーが三歳になったとき、両親はやさしいロボットの遊び相手では不十分だと考える
 ようになった。当然つぎは犬だろうということで、異変種のスコッチテリアを買おうと
 したやさき、最初のミニタイガーの仔が手にはいるようになった。まさしくひと目惚れ
 だった。
・最終的な破局は人間関係とは無縁なところで起こった。われわれはなぜ自分たちよりず
 っと寿命の短い相手にこれほど思いをよせるのだろうかと、ロバート・シンはしばしば
 思い悩んだものだった。
・”ちびとらここに眠る”その碑文を刻んだ金属プレートも、もうとっくにジャングルの盛
 衰にのみこまれてしまったに違いない。 
・いまとなっては別の人生での出来事のように思えるのだが、ちびとらの愛くるしい瞳か
 ら静かに輝きが失せていったとき、その身体を抱きしめていたトビーの少年時代も終わ
 りを告げたことを、ロバート・シンは決して忘れないだろう。それは別離のときだった。
・いずれはそこへ行こうと心に決めていたにもかかわらず、火星行きはロバート・シンの
 人生行路の中でもかなりあとのほうになった。いまふたたび偶然が時期と方法を定めた
 とき、彼はすでに55歳になっていた。
・火星から月へやってくる旅行者はめったにいないし、重力によって実に効果的に隔離さ
 れている母なる地球へとなると、事実上皆無に近い。
・シャーメイン・ヨーゲンにロバート・シンがはじめて出会ったとき、彼女はアリ工大の
 展望ラウンジで地球に憧憬のまなざしを向けているところだった。
・多忙だった学生時代にはここへ来ることなどほとんどなかったが、いまは船の仲間のひ
 とりにかつての母校を案内している途中で、ここは当然立ち寄るべき場所のひとつだっ
 た。
・三組の自動ドアをくぐりながら彼は説明した。「もしドームが破裂したら1秒後に外側
 のふた組のドアが閉じる。それから15秒後に三組目のドアが作動する。中にいる者が
 安全圏に待避できるように」 
・まだフリーダとはごく親しい関係がつづいていたが、彼女がアリゾナに帰り、トビーが
 モスクワ音楽学院の奨学金を獲得したいま、会う機会はますます減っていった。だから
 シャーメイン・ヨーゲンが火星に戻るとき、ロバート・シンが手配できるかぎり急いで
 その後を追ったのは、まったく自然のなりゆきだったと言えよう。
・火星人は、金星ではなく自分たちの世界こそ愛の惑星と呼ばれるべきだと主張している。
 地中の1Gの重力は危険とはいうほどではないにしろばかげている。月の6分の1Gの
 ほうがはりかにましだが、その道の通によると快適な接触にはいまひとつということだ
 った。そしておおきく喧伝された宇宙のゼロGは、ランデヴーとドッキングをこなすの
 に時間がかかりすぎるからだ。つまり火星の3分の1Gが、まさにぴったりというわけ
 である。
・火星に対するシンの最初の反応はかすかな失望感だった。この惑星のとくに有名な景観
 の問題点は、その途方もないサイズだった。あまりに巨大なためその全貌は宇宙からし
 か鑑賞できず、実際にその場に立ってのでは何もつかめないのである。オリュンポス山
 がその最たる例だ。火星人たちはそれが地球上のいかなる山よりも三倍は高いことを誇
 りとしているが、ヒマラヤやロッキーのほうがずっと急峻なため、印象ははるかに強い。
 オリュンポスは、山というより火星の表面にできた大きなふくらみに近い。
・またマリナー峡谷も、とくに狭い部分を別にすると、観光客の誘致には不向きだった。
 幅が広すぎるため、中央から見ると両側の岸壁が地平線下に沈んでしまうのだ。
・海がないため火星の陸地面積が地球とほとんど同じであることはよくわかっていた。そ
 して、そのスケールには驚かされっぱなしだった。直径が地球の半分しかないという事
 実など問題ではない。ここは大きな世界なのだ。
・まだこのさき元気で過ごせるはずの何十年かをフルに活用したい。新しい家族ともでき
 るだけいっしょにいたい、と彼は願っていた。
・それこそ火星にやってきたもうひとつの理由だった。まだ人口が希薄なここなら子供を
 ふたり持つことも許されるだろうと思ったのだ。最初の娘ミレルは、到着から一年もし
 ないうちに生まれた。そのあと三年でマーチンができた。
・ロバート・シン船長がなんとなく”息抜き”が必要だという、せめて深宇宙へ出てみたい
 という、気持ちになったのは、それから五年ほど経ってからのことだった。
・もちろんフォボスダイモスへはしょっちゅう出かけており、それもたいていは地球の
 ロイド社の宇宙船査察官という思い職務の関係でだった。
・一時期フォボスは宇宙における建設計画のための原材料のきわめて貴重な供給源と考え
 られていたが、火星の自然保護主義者たちは、おそらく自分たちの惑星の絶え間ない
 ラフォーミング
に対する罪悪感からだろう、それをなんとか阻止した。ちっぽけでまっ
 黒な衛星は夜空でもほとんど目立たず、その変貌に気づく者など誰もいなかっただろう
 が、”フォボスを露天掘りするな!”というのは効果的なスローガンだった。
・幸いもっと小さくて遠くにあるダイモスが、いろいろな意味で代用物としてはより適し
 ていた。平均直径は十キロあまりしかなかったが、現地の造船所が今後数世紀にわたっ
 て必要とする金属のほとんどを供給することができたし、その豆粒のような月が千年か
 けて消えてしまっても本気で心を痛める者は誰もいないだろう。おまけにその重力場は
 ひどく弱いので、竣工した船はちょいと押してやるだけで軌道にのせることができる。
・ロバート・シンがはじめて<ゴライアス>を目にとめたのは、それがダイモス三号ドッ
 クで五年に一度の点検と修理を受けているときのことだった。一見したところどうとい
 うことのない船のように見えた。たいていの深宇宙船とくらべてことさら醜いわけでも
 なかった。積荷ぬきの重量が1万トン、全長は150メートルで、とくに大きいわけで
 はないし、もっとも重要な特徴は外からは見えなかった。
・<ゴライアス>の熱核融合ロケットエンジンは、通常なら作動液体として水素を使うが、 
 必要とあれば水でも動かせるし、その出力は同サイズの船の必要量をはるかに超えてい
 た。ほんの数秒間の耐久テスト以外に全力噴射したことはまだ一度もない。
・<ゴライアス>の独特な構造の裏にある目的について、ロバート・シンはあまり深く考
 えなかった。いや、実のところ彼は、その船がなぜそんな途方もない高出力のエンジン
 を装備しているのかすらほとんど忘れていたのだ。
・1772年、フランスの偉大な数学者ラグランジュは、太陽と木星の重力場が結びつく
 と非常に興味深い現象が起きることを発見した。木星軌道上、前方60度と後方80度
 に、ふたつの安定した場ができる、そのどちらかにおかれた天体はつねに太陽と木星の
 双方から等距離、つまりその三つが巨大な正三角形を形づくる場所で安定するのだ。
小惑星群の存在はラグランジュが生きていた時代にはまだ知られていなかったから、お
 そらく彼は自分の理論が実証される日がくるなどとは思っていなかっただろう。木星の
 60度後方を追随しているアキレスが発見されるまでにはそれから百年以上かかった。
 その1年後にはそこから遠くないところにパトロクルスが、つづいて今度は木星の前方
 60度の位置でヘクトルが発見された。今日知られているトロヤ群小惑星の数は1万個
 以上にのぼる。
・実のところトロヤ群小惑星は、そのふたつのトロヤ点に集まっているわけではない。
 30度かそれ以上のひろがりを持つ範囲をあちこち動きまわっている。その原因はおも
 に土星にある。その重力場が太陽=木星のすっきりしたパターンを乱しているのだ。そ
 んなわけでトロヤ小惑星群は木星の両側60度あたりを中心にふたつの大きな雲を形成
 していると考えていいだろう。なぜ木星の前方には後方の三倍の数のトロヤ小惑星が集
 まっている。理由はまだ知られていない。
・なぜトロヤ群がそれほど重要なのか?これらの小惑星は木星の弾薬庫に納められた重要
 な兵器なのだ。ときどきその中のひとつが土星と天王星と海王星を合わせた重力場にひ
 っぱり出され、太陽に向って放浪をはじめる。そしてときたまその中のひとつがわれわ
 れの惑星に衝突する。あるいは地球にさえもだ。
・二十一世紀末までにはアマチュアが科学上の大発見を望めるような分野はほとんどなく
 なっていたが、天文学だけは従来と同じくその希望を残していた。たしかに、いくら裕
 福なアマチュアでも、地球や月面や軌道上の大天文台が常時駆使している装置類には対
 抗すべくもない。しかしおプロの研究者は専門分野を絞り込んでいるし、また宇宙はあ
 まりにも広大なので、一度に見られるのはそのごく限られた一部に過ぎない。豊富な知
 識と熱意と活動力さえあれば、探求すべきものはいくらでも残されている。どこから手
 をつければいいかさえわかっていれば、未知のものを見つけるのに巨大な望遠鏡を用意
 する必要もない。
・ありあまる余暇のおかげで、ミラー医師は火星では数少ないアマチュア天文家となった。
・地球はそれほど眺め甲斐のある観測対象ではない。通常その大部分は雲に覆われている
 し、最接近時には夜側を火星のほうに向けているため自然の地形が見えない。これが一
 世紀前なら、何メガワットもの電力が無駄に空へ放出され、地球の夜側はまさしくその
 名を裏切っていた。前よりエネルギーを重視するようになった社会がその悪しき慣習に
 歯止めをかけたものの、いまだの多くの都市はそれぞれのサイズどおりに輝く光の島と
 して容易に見分けることができた。
・ある日、誰かが問題提起した。「なぜ火星でも最大のクレーターのひとつにモールズワ
 ース
なんて名前がついているんです?直径が175キロメートルもあるのに!いったい
 モールズワースというのは何者なんです?」
・パーシー・B・モールズワースは、二十世紀初頭に火星のスケッチを数多く発表したイ
 ギリスの鉄道技術者兼アマチュア天文家だった。その観測のほとんどは赤道直下のセイ
 ロン島からなされたもので、彼はそこで1908年に41歳という若さで生涯を終えた。
・2061年のハレー彗星回帰のとき、ミラー医師はまだ少年だったが、その壮麗な眺め
 は深く心に刻みこまれた。
・ミラー医師には最初から地球にいる先輩たちより有利な条件がいくつかあった。空はい
 つも晴れているし、それは今後テラフォームが進むにしても、あと何世代かは変わらな
 いだろう。また火星は太陽から遠いぶんだけ観測基地として地球より有利だ。しかし何
 にも増して重要なのは、探索がほとんど自動化できることだった。もはや先人たちのよ
 うに侵入者をただちに識別するため星野を記憶している必要はない。
・写真に頼る方法が一世紀以上つづいたあと、電子技術がそれにとって代わった。高感度
 テレビカメラで天空を捜査して得られた星の映像を保存し、あとでまた同じことをくり
 返せばいい。クライド・トンボーが数カ月を費やした作業をコンピュータ・プログラム
 は、二、三秒でやってのける。
・自動検索装置とそのプログラムはとくに高価というわけではなかったが、それほど必要
 度の高くない多くのハイテク商品と同様、火星では入手できなかった。そのためミラー
 医師は地球のある科学機器販売会社にそれを注文して、とどくまで数カ月待たなければ
 ならなかった。
・作動は完璧だった。さっそくつぎの夜、ミラー医師はダイモスと十五の通信衛星、航行
 中の二隻の連絡船、それに月からやってくる定期船を発見して悦に入った。
・翌年一年の観測で医師は直径百メートルに満たない新しい小惑星をふたつ発見し、妻と
 娘の名前にちなんで命名した。 
・つぎの一年は何度か間違って警報が鳴っただけで新しい発見は何もなく、もうあきらめ
 ようかと思っていたやさきにプログラムが異常を報告した。動いているらしい何かを見
 つけたのだが、誤差の範囲すれすれののろさでよくわからない。どっちかはっきりさせ
 るためにはもっと長い時間をおいて再度観測する必要があるというのだ。
・それは木星の軌道より少し外にあるアステロイドだった。コンピュータをセットしてそ
 のおおまかな軌道を計算させたミラー医師は、マーナと呼ぶことに決めたそのアステロ
 イドが地球のすぐそばまでやってくるのを知って驚いた。結局その名前を認めてもらう
 ことはできなかった。IAU(国際天文学連合)がそれを承認する前に、追加の観測で
 より正確な軌道が判明したのだ。そうなると当てはまる名前はひとつしかなかった。
 壊の女神カーリー
だ。
・ミラー医師がカーリーを発見したとき、それはすでに先例のない速度で太陽に、そして
 地球に、向っていた。このとき誰もがまず知りたがったのは、なぜあらゆる装備を手に
 している「スペース・ガード」が、ほとんど手づくりの道具しか持たない火星のアマチ
 ュア観測家にしてやられたのかということだった。
・カーリーは大きさに比して極端に光度が低く、これまで発見されたもっとも暗いアステ
 ロイドのひとつだった。その表面は文字どおり煤まみれなのだ。しかもこの数年間それ
 が動いてきた背後の星域は、天の川のもっとも濃密な部分だった。「スペース・ガード」
 の観測所から見ればそれは、星々の輝きの中に埋もれたのである。
・火星から観測していたミラー医師は実に運がよかった。彼はなるべき星の密度の低い空
 の一画に望遠鏡を向けていた。そこにたまたまカーリーが現われたわけだ。あと二、三
 週間早いか遅いかしたらチャンスを逃していただろう。
 
第三部 
・クリスラム教の歴史は公式にはまだ百年に満たないが、その起源は1990年から91
 年の「石油戦争」(湾岸戦争)まで、さらに二十年さかのぼる。この戦争が思いがけず
 招いた破滅的な誤算のひとつは、男女問わず相当数のアメリカの軍人が生まれてはじめ
 て素肌でイスラム世界に接し、そして深い感銘を受けたことだった。
・彼らは自分たちの偏見、例えば片手にコーラン、もう片手にマシンガンを振りかざして
 いる頭のおかしい回教徒というよくあるイメージが、多くは実にばかげた単純化にすぎ
 なかったことに気づいたのだ。そしてイスラム世界がヨーロッパの暗黒時代、アメリカ
 合衆国が生まれる千年も前に、天文学と数学の分野で築き上げていた業績を知り、驚き
 を新たにしたのだった。
・湾岸戦争が終結するころには、何千人かのアメリカ人が新しい宗教に入信していた。そ
 の大部分は、どうやら自分たちの祖先がアラブの奴隷商人から受けた酷い仕打ちを知ら
 ないアフリカ系の人々だったが、白人の数もかなり多かった。
・キリスト教とイスラム教は厳密には、”書物の宗教”だと言われている。その申し子で
 あり後継者たらんとしているクリスラム教は、それよりはるかに強力な技術に基礎をお
 いていた。それは、最初の”電子技術の宗教”だった。
・初期の仮想現実システムの映像は最初のテレビ画面と同じくらいお粗末なものだったが、
 そのインパクトは麻薬中毒に近いほどの習慣性をもたらした。三次元の広角なイメージ
 は被験者の心を完璧にとらえ、おかげでそのぎくしゃくした漫画なみの品質もまったく
 問題にはされなかった。すぐに画質も動きも着実に向上し、仮想世界は本物の世界にど
 んどん近づいていった。それでも頭からかぶるディスプレイやサーボ駆動のグローブと
 いった不細工な装置類を通じて体験しているかぎり、両者ははっきり別物だった。完璧
 な幻影をつくり出し、完全に脳を欺くには、眼や耳や筋肉といった外部感覚器官を迂回
 して、情報を神経回路へ直接送り込む必要があった。
・真のブレークスルーが訪れたのは、「ブレインマン」が完成したときだった。それは頭
 の皮膚に軽く接触する何十億もの原子サイズの端子を備えたかぶり心地のいい頭蓋キャ
 ップで、そこに何テラバイトもの情報を蓄積した記憶ユニットが、光ファイバーのケー
 ブルを介してリンクされていた。「ブレインマン」は、娯楽のみならず教育用としても
 きわめて有効だったので、ひと世代のあいだに、費用を払える人間は全員手に入れた。
 そしてそのための不可欠な代償が坊主頭を受け入れることだった。
・「ブレインマン」による代理体験、とくに快楽技術の急速な進歩によりそのエロティッ
 クな面での、はただちに認められたが、よりまじめな応用が無視されていたわけではな
 い。その中でもいちばん受けたのは、完全日記という、人生の貴重な瞬間を保存してあ
 とから再現してくれるプログラムだった。しかもそれは、内心望んでいる形に編集しな
 おすことも可能なのである。
・クリスラム教がどのような技術の助けを得たにせよ、かくて古来の二大宗教の最良の要
 素を体現した新たな宗教誕生の機は熟した。それでも予言者自身には手の届かない別の
 ふたつの要因がなければ、成功はおぼつかなかったかもしれない。
・そのひとつはいわゆる”常温核融合”革命で、それがもたらした化石燃料時代の唐突な終
 焉は、ほぼひと世代にわたってイスラム世界の経済基盤に破滅的打撃を与えた。それを
 立ち直らせたのは、”石油は食料だ。燃料ではない”というスローガンを掲げたイスラエ
 ルの化学陣だった。
・「人為的手段による家族計画にかたくなに反対することによって、教会は数十億の人々
 の人生を破滅に追い込みました。それに加えて妊娠中絶の罪を強調してきたことが、子
 供を育てる余裕もない極貧の人々に産むことを強制するという皮肉な結果を招いたので
 す。この政策は人類を滅亡へと追いやりました。いちじるしい人口過剰が惑星地球の資
 源をはぎとり、世界的な環境汚染を招きました。体内のDNAを保護することによって
 老化現象を抑制する超酸化酵素の発見は、遺伝子暗号の解読に劣らぬ偉業であるとされ
 ています。いまや、健康でしかも活動的な人生を、少なくとも五十年、おそらくはそれ
 以上、延ばすことが可能になったようです。さらにその処置はさほど高くつくものでは
 ないとのことです。つまり、好むと好まざるとにかかわらず、未来社会は元気な百歳以
 上の人間であふれることになるでしょう。SOEによる処置で、人間の生殖可能期間も
 三十年以上延びるということです。これはすなわち破滅を意味します」(2032年)
・二十世紀最後の四半世紀において、ふたつの敵対勢力は数千基に及ぶ長距離ミサイルを
 所有しており、そのひとつひとつが都市をまるごと破壊しうる弾頭を搭載する能力を持
 っていた。当然ながら、そういったミサイルが標的に到達するのを防ぐ対抗兵器の開発
 も試みられた。だが干渉力場の発明、までは、完璧な防御など理論的にすら不可能だっ
 た。それでも両者とも、局地的な防御くらいはなんとかできるミサイル迎撃ミサイルや
 レーザー搭載の軌道要塞の設計に血道をあげていた。
・そうした対抗兵器構想の中でも、非常識さで群を抜いていたのがX線レーザーであった
 ことは論を俟たない。核爆弾の爆発によって生じる膨大なエネルギーを指向性の高いX
 線ビームに変換してやれば、何千キロメートルも彼方の敵ミサイルを撃破できるという
 理屈である。
・「エクスカリバー」装置が、ウニのようなあらゆる方向に向いた針状突起を持ち、中心
 に核爆弾一個をおさめている。その一本一本がそれぞれ違ったミサイルに狙いをさだめ、
 蒸発するまでの数マイクロ秒のうちにレーザー・ビームを発生するというわけだ。
・この手の”単発”兵器に限界があることは、さして想像力がなくてもわかる。しかし、爆
 弾をエネルギー源とするレーザーという考えを裏づける基礎理論そのものは正しく、た
 だそれを製造するさいの現実的な問題点がひどく軽視されていたわけである。実際この
 計画は、数千万ドルを無駄に費やしたのち、すっかり放棄されてしまった。
・しかしすべてが無駄だったわけではない。ほぼ一世紀ののち、その構想はふたたびミサ
 イル、ただし今回は人間ではなく大自然がつくり出したそれ、に対する防御策としてよ
 みがえった。
・二十一世紀の「エクスカリバー」は、X線ではなく電波を発するように設計され、その
 狙いも特定の標的ではなく全天球に向けられていた。ギガトン級の爆弾は、地球の公転
 軌道上、ただし太陽のちょうど向こう側で爆発させられた。そうしなければ地球全土に
 わたって通信機能を破壊し、電子機器を焼き切ってしまっただろう圧倒的な電磁パルス
 に対する、それが可能なかぎりの防御措置だった。
・爆発すると、マイクロウェーヴの薄い殻、厚さわずか二、三メートル光速で太陽系を横
 切ってひろがっていった。つづき二時間、電子の衝撃波が土星軌道を過ぎるまで、徐々
 に小さくなっていく数十万もの反射パルスが「エクスカリバー」に流れこんできた。
 あらゆる既知の衛星、アステロイド、彗星などは容易に識別されたし、解析が完了した
 ときには木星軌道より内側にある直径一メートル以上のあらゆる物体の位置が正確につ
 きとめられた。それらすべてを目録に載せ。将来におけるその動きを計算する仕事に、
 「スペース・ガード」のコンピュータは数年にわたって忙殺された。
・だがこのはじめての”垣間見”は不安を一掃してくれた。「エクスカリバー」の有効範囲
 に地球にとって危険なものは存在せず、人類は胸をなでおろした。「スペース・ガード」
 を解散するべきだという提案まで出る始末だった。
・ずっとあとになって、アンガス・ミラー医師が自家製の望遠鏡でカーリーを発見したと
 きには、なぜそのアステロイドが見過ごされたのかという人々の抗議が殺到した。答え
 は簡単だ。カーリーはそのころ軌道上の最遠点、核エネルギーによるレーダーの有効範
 囲をも越えたところにあった。
・しかしその発見よりはるか以前に、それとは別の、まったく予期していなかった畏怖す
 べき結果が姿を現した。単に危険を探知したばかりではない。多くの人々は「エクスカ
 リバー」が危険をつくりだしたのだと信じ、かつての恐怖をよみがえらせたのだった。
SETI(地球外知性探査計画)はもう一世紀以上にわたって、いやが上にも装置の感
 度をあげ、また周波数帯域を着実にひろげながら探索を続けていた。電波天文学者たち
 は単なる宇宙ノイズの断片ではない、”本物かもしれない”ものを、いくつか記録してい
 た。残念ながら捕捉されたサンプルはどれも短すぎて、もっとも精巧なコンピュータ分
 析によってもそれが知性起源のものだと証明することはできなかった。
・そうして事情が2085年に一変した。その信号は月の裏側に設置された比較的小型の
 電波望遠鏡の一基によって定期観測中に大きくはっきりととらえられた。またそれが地
 球外起源のものであることにも疑問の余地はなかった。その信号を受けた望遠鏡は全天
 第一の輝星であるシリウスにまっすぐ照準を合わせていたのである。
・それが最初の驚きだった。シリウスは太陽の約50倍も明るく、生命の生まれる惑星な
 ど持てるわけがないとずっと思われていたからだ。
・シリウスまで距離は8.6光年、そして「エクスカリバー」計画が実行されたのは17
 年と3カ月前のことである。ちょうど電波がシリウスまで行って帰ってくる時間だ。
 あの電磁的爆発を受信した何者かは、まさしく間髪入れず応答してきたことになる。
 それを裏づけるように、シリウスからの搬送波は、「エクスカリバー」のパルスとまっ
 たく同じ周波数だった。しかしそれは大きな失望の種ともなった。大方の期待に反して
 その電波はまったく変調されていなかった。信号の痕跡もそこにはなかった。それは純
 粋なノイズだったのだ。
・その信号は、変調されていないただのノイズのように見えた。なぜシリウス人がそんな
 ものをわざわざ送ってきたのかはまったくの謎で、そこから無数の仮説が生まれた。も
 っとも一般にうけたのはそれがある種の暗号を用いた極秘のメッセージで、ノイズのよ
 うに見えるだけだという説だった。してみると、もしこのクリスラム教の狂信者たちの
 主張を信じるなら、それは一種の知能テストであって、彼ら、のちに自ら「再誕派」と
 名乗った、だけが合格したということになる。
・「再誕派」が神との、あるいは回線の向こうにいる何者かとの、対話をはじめるため月
 の裏側に直径1キロメートルのパラボラアンテナを建設したとき、一部には不安げなつ
 ぶやきが聞かれた。
・実のところ大多数の人々の気持ちは、人類はこのまま何もしないほうがいい、あるいは
 バッハでも放送してやるのがいい、といったところだった。
・そうこうしているうちに、神との特別な関係を確信した「再誕派」は、祈祷と忠誠をシ
 リウスに向けて送信した。
・カーリーの発見は「再誕派」にとって神の啓示以外の何ものでもなかった。いまや彼ら
 は運命の必然を知り、その名に恥じない行為に出るべく心を決めた。
・すでに何百万もの人々が月や火星への移住を計画していたが、どちらももうそれぞれの
 限られた資源が使い尽くされるのを防ぐため、あらかじめ割り当てを設定していた。い
 ずれにせよそれで脱出できるのは人類のほんの2,3パーセントにすぎない。
・「再誕派」の提案はそれより大胆だった。それは単なる身の安全ではなく、永遠の生命
 だった。長年にわたって求めてきた仮想現実の目標のひとつが達成されたのだと彼らは
 宣言した。 
・ひとりの人間のすべて、生涯の記憶とそれを経験してきた肉体の最新情報、を記録する
 ためのメモリーは10の14乗ビットというささやかなものである。だがその再生には、
 まだ何十年かの研究が必要だ。そうすることに意味があるとしても、カーリーの到着前
 に完成させるのは無理だろう。
・でも心配ない。「再誕派」はすでに神の保証をとりつけているのだ。本物の信者は全員、
 月の裏側にある送信機を通じて自分をシリウスに送り出すことができる。向こうでは天
 国が彼らを迎えてくれるはずだ。
・今後、「再誕派」はむしろブラック・ユーモアに類する現象と見なしておくべきだろう。
 こんな道化が、深刻な問題をかかえているこの惑星の未来にかかわってくるわけがない。
 そう考えられたのも無理はなかった。だがそれは破滅的な誤認であった。
 
第四部
・その竜骨は全長百五十メートル、各面の幅五メートルの、ただの一本の三角柱である。
 二十世紀より前に生まれた技術者の眼にはひどく脆弱に映るだろうが、ナノテクノロジ
 ーによって文字どおり炭素原子をひとつひとつ組みあげたその構造は、鍛えあげた鋼鉄
 の五十倍以上の強度を持っている。
・この合成ダイヤモンドの脊柱沿いにさまざまなモジュールが固定されたものが「ゴライ
 アス」の本体である。中でもひときわ大きいのが、三つの側面に沿ってぎっしり並ぶ球
 形の水素タンクで、ちょうど莢(さや)の外側に豆がついているみたいだ。これにくら
 べると、一端にある司令、整備、および居住モジュールや、その反対の端にある動力お
 よび推進ユニットは、まるであとから思いつきでつけ足したように見える。
・<ゴライアス>の指揮をゆねだねられたとき、ロバート・シンは、これで火星で引退す
 る前の二、三年間、平穏な、できることなら退屈なくらいの宇宙勤務が保証されたもの
 と思っていた。七十歳になったばかりだが、動作の衰えは自分でもはっきり感じられる。
 木星前方六十度にあるT1トロヤ点での勤務は、休暇と呼んでもいいくらいなものだっ
 た。やることはただ、果てしない実験に明け暮れる乗客の天文学者や物理学者たちが気
 持ちよく暮らせるように配慮してやることだけなのである。
・人員の交代や点検や搭載機器の更新のため定期的にダイモスへ帰港する以外には平穏無
 事そのものの日常業務が、すでに三十年以上もつづいており、<ゴライアス>と<ハー
 キュリーズ>が建造された当初の目的を覚えている人はほとんどいなくなっていた。
・ソニーが船内で二番目の重要人物であるという点で、ほぼ全員の意見は一致していた。
 中には船長よりも重要だと思っている者もいるくらいだった。<ゴライアス>における
 ソニー・ギルバードの役割を推しはかることはできない。彼はきわめて優秀な応急修理
 人であった。どんな測定基準によってもソニーの知能指数が全乗船者中で最低だという
 事実は、このさいどうでもいいことだった。重要なのは彼の手際よさと温厚さとまじり
 けなしの親切さだった。
・デイヴィッドが<ゴライアス>の全システムに眠ることのない目を光らせているので、
 二十四時間体制の当直は必要ない。”昼”のあいだはA班とB班の乗員が起きているが、
 勤務につくのはその一方だけだ。ついで船のすべてが八時間の眠りにつく。緊急事態が
 生じても、デイヴィッドがどんな人間より迅速に対処してくれる。実のところ、もし彼
 の手に負えないような事態になったとしたら、おそらくどちらの班の乗員にとっても、
 最後の何秒かを眠ったまま過ごさせてもらうほうが親切というものだったろう。
・中でも何より注目を集めたのは、たまたま近くを通り過ぎるアステロイドへの調査旅行
 だった。おもしろそうなアステロイドが有効距離内にはいってくるたびに、<ゴライア
 ス>の科学者たちはしばしば二派に分裂した。宇宙地質学者は船を、積んでいる研究器
 材ともども、動かして目標とランデヴーさせ、ゆっくり時間をとって調査することを望
 んだ。宇宙論学者たちはこれに総力をあげて反対した。つまらない岩塊のために細心の
 注意をはらって保持している基線を変えると、干渉計による測定がご破算になってしま
 うというのだ。
・最終的には地質学者の側が多少ともいさぎよく折れることが多かった。通りすがりのご
 く小さなアステロイドなら、ロボット探査機を送りこんでサンプルを採取し、いちばん
 基本的な調査だけ実施しておけばそれですむ。
・そんなわけで、本当に重要な、例えばパトロクルスやアキレスのような大型のトロヤ群
 小惑星が近づいたときには、熱心な科学者たちは船の搭載艇を使うことができた。ふつ
 うの自家用車に毛が生えた程度の大きさだが、パイロットと乗客三名との最大一週間分
 の基本的生命維持機能を備えており、その小さな未踏世界をかなり綿密に調査して有効
 なサンプルを二、三百キログラム持ち帰るにはそれで充分だった。
・デイヴィッドが宇宙標準時0530時にシンを起こして、そのニュースを知らせた。指
 揮官の睡眠時間に割り込んだのは、これがはじめてだった。
 「お休みのところ申しわけありません、船長。しかしこれは最優先事項です。わたしも
 はじめてお目にかかりました」
・その点はシンも同様で、瞬時に眠気はふっとんだ。惑星間ファックスを読み、そこに図
 示された地球とアステロイドの軌道に目をとめたとき、彼はつめたい手に心臓をぎゅっ
 とつかまれたような気がした。何かの間違いだと思いたかったが、最初に見た瞬間から、
 これが最悪の事態であることは疑いようもなかった。
・また同時に、矛盾するようだが、一種の高揚感も覚えた。何十年も前に<ゴライアス>
 が建造されたのは、まさにこのときのためだったのだ。
・「ある程度の大きさまでのアステロイドなら軌道を偏向させられるマスドライバーの建
 造計画が何年も前に立案され、設計が完了している。アトラスという名称までついてい
 る。ダイモス造船所が急ピッチで建設にとりかかる。そのあとそいつを<ゴライアス>
 と合体させるわけだが、そのため本船はできるかぎりの速さでダイモスへ向わなければ
 ならない。つぎに本船は最小限の燃料を積んでからっぽのアトラスを木星へ運び、エウ
 ロパ軌道燃料基地で補給を受ける。そして問題のアステロイドとのランデヴーがはじま
 る。そのころにはもう地球衝突まで余すところわずか七カ月だ。たとえ二、三センチメ
 ートルの偏向でも、アステロイドが火星軌道を通過する前に生じさせることができれば、
 地球から数百キロメートル離れたところを通過させるには充分だ」
・ダイモス造船所から乗ってきた上級技師トーリン・フレッチャーは、<ゴライアス>/
 アトラス結合船がエウロパの軌道をめぐる貯蔵施設に到着したとき、補給作業を監督す
 ることになっていた。数万トンもの水素は半液体状態で積み込まれる。これは液体と固
 体の混合物で、完全な液体よりも密度が高く、そのため貯蔵スペースが小さくてすむの
 だ。それでもその総容量は悲運のヒンデンブルク号の二倍以上になる。
・全太陽系を通じ、エウロパは地球以外で海洋を持つ唯一の世界だ。その海洋は厚い氷層
 で蔽われ、宇宙空間から守られている。木星の巨大な潮汐力、近傍のイオの火山活動を
 誘発しているのと同じ力、によって発生する熱がその海洋の凍結を防いでいるのである。
・木星のガリレオ衛星のなかでいちばん小さなエウロパは、太陽系内でただひとつ地球と
 見間違われる可能性のある世界だった。足もとにひろがるかぎりない氷原を見おろして
 いると、自分が本当は故郷の惑星をめぐっているのだと思い込むことさえできそうだっ
 た。
・だがいったん木星に目を向けると、その錯覚は一瞬にして消え去る。エウロパが三日半
 の周期で周回するあいだ、その大きな惑星は、消えいりそうなほど細い三日月へと痩せ
 ていくときでさえ、天空の大部分を占める存在なのだ。しかも木星の夜側が完全に闇に
 つつまれることはめったにない。地球の大陸より大規模な嵐が雷をともなって核兵器の
 撃ち合いさながらに閃いているからだ。
・そして昼半球がほぼこっちへ向いたとき、この惑星はさらに印象的な姿を見せてくれる。
 赤道に沿って永遠に流れつづける雲の帯の複雑なループやリング模様を、色とりどりの
 光の饗宴の中に眺めることができるのである。
・しかし、なんといっても人の目を惹きつけるのは大赤斑だ。何世紀にもわたって拡大と
 収縮をくり返し、ほとんど消え変えたことも何度かあったのだが、いまはカッシーニ
 1665年に発見して以来、もっとも際立った姿を見せていた。
・エウロパは土星軌道の内側で唯一の水、すなわち水素、の宝庫なのだ。冥王星以遠の彗
 星にはそれをうわまわる量が存在するが、その採取はまだ採算が合わない。いつかは可
 能となるだろうが、それまではエウロパが太陽系内を行き来する船の推進剤の大部分を
 供給している。
・しかもエウロパの水素は地球産のものよりも上質だった。長期にわたって木星周辺の放
 射線に打たれてきたため、より大きな原子量を持つ同位体である重水素の含有率が非常
 に高いのだ。ほんのわずか濃縮してやるだけで、核融合駆動に必要な最適の混合剤とな
 るのである。
 
第五章
・もう<ゴライアス>本体はほとんど見えなくなっていた。アトラスのタンクと推進モジ
 ュールにすっかり覆い隠されている。こんな不格好な金属の塊りに人類の未来がかかっ
 ているとは、ちょっと信じられない気分だった。それはたったひとつの目的、可能なか
 ぎりすみやかに強力なマスドライバーをカーリーに設置すること、をめざして設計され、
 組み立てられたものだ。
・その目標の達成には、おそろしいほどの数の相反する条件がからんでいた。最小限の遅
 延でカーリーに到着することが第一条件だったが、速度をかせぐには積載量を減らすし
 かない。<ゴライアス>がカーリーに行き着くために水素を燃やしすぎれば、そのアス
 テロイドを破滅への軌道からそらせるだけの量が残らないことになり、すべての努力は
 水疱に帰してしまう。
・推進剤にたよることなく作戦時間を短縮するため、初期の太陽系外探査宇宙船に用いら
 れた古典的な”重力加速”という方法も提案された。いったん<ゴライアス>を木星め
 がけて降下させれば、その表層をかすめるさいに巨大惑星から運動量を奪うことができ
 るわけである。しかしながらこの案は危険が大き過ぎるため断念を余儀なくされた。木
 星の周囲には大量のがらくたが周回している。その環の希薄な部分は大気圏ぎりぎりま
 でひろがっており、その小さな破片がひとつ当たっただけでも軽量に作られた水素タン
 クには穴があく。
・一日後、10分の1Gで加速する<ゴライアス>は、二番目に大きな衛星であるあばた
 だらけのカリストの近くをのろのろと通過した。しかし最終的に木星圏を離脱するのは
 さらに一週間近くたって、最外縁の小さな双子衛星パシファエシノーベの不安定な軌
 道を越えたときのことで、それまでには太陽でさえ呼び戻せないくらの速度に達してい
 るはずだ。
・三人は慎重にロープをたぐりながら小型の宇宙橇に向った。
・ダイモスでの作業に慣れているトーリン・フレッチャーが、カーリーのきわめて微弱な
 重力の中で宇宙橇を本当に操れる唯一の人間だった。橇はカーリーの地表を、ゆっくり
 歩くくらいのスピードですべっていく。
・<ゴライアス>とアトラスが両方とも見えなくなったそのとき、ドレイカーがたずねた。
 「ここらでひと休みしないか?降りてみたいのだがね」
 「いいですとも。でも万一の場合あなたを引き戻すための命綱をつけていただきます」
 地質学者はうんざりしたように鼻を鳴らしただけでその屈辱を受け入れた。そして彼は
 すでに動きを停めている橇から静かに離れ、自由落下に身をまかせた。
・コリン・ドレイカーはこれまでも数多くのアステロイドに降り立ったことがある。その
 中には大型小惑星のセレスのように、かすかだが重力による下方への引きが容易に感じ
 られるものもあった。だがここでそれを認めるのはかなりの想像力が必要だ。ほんのわ
 ずか身動きしただけでもカーリーとの絆は断たれてしまうだろう。
・ともあれこうして彼は、史上もっとも有名な、というより悪名高い、アステロイドの地
 表にはじめて立った。彼の科学知識を持ってしても、このちっぽけで不規則な形をした
 宇宙の岩層が、かの”核開発発狂時代”のあいだに蓄えられた全核弾頭以上の大きな脅威
 をもたらすという事実を納得することはむずかしかった。
・しばし三人はカーリーの短い夜が過ぎていくにつれて高く上っていく土星を黙って見つ
 めながら、いったい視覚情報のどれだけが信用できるのだろうかと考えていた。
・それから五分で彼らは残りの半周をほぼ終え、小さいがまだ目をくらますには充分な太
 陽が空にもどってきた。橇が小さな丘の上を越えたとき、突然とんでもないものがドレ
 イカーの目にとまった。わずか二、三メートル向こうの墨を流したような風景の中に、
 明るくきらめく色彩が花ひらいたのだ。
・フレッチャーが慣れた手つきで橇をそっちに向けている傍らで、ドレイカーは驚きのあ
 まり口もきけず座り込んでいた。ほどなくその地質学者の驚愕は、信じられないという
 思いに変わった。自分は頭がおかしくなったのだろうか?
・カーリーの不毛な大地から伸びた半メートルほどの茎のてっぺんについているのは大き
 な金色の花だった。 
・加速度計の表示に並ぶゼロの列が変化を見せはじめると、短い歓呼の声と静かな称賛の
 拍手が湧き起った。ブリッジの雰囲気は興奮というよりむしろ安堵に近いものだった。
 カーリーはかすかに震動していたが、その顕微鏡的な速度変化を感知できるのは鋭敏な
 計測装置だけだ。勝利が明確になるのはアトラスの駆動が何日も、何週間も継続したあ
 とのことである。カーリーの自転のせいで、推力はアトラスが正しい方向に向いている
 全体の約10パーセントの時間しかかけられない。固定されたエンジンで回転する乗物
 の舵をとるというのは単純な作業ではないのだ。だが微細な加速が一度、二度と積み重
 なるうち、アステロイドの巨大な質量もおもむりに反応しはじめる。
・ところがそのとき、信じられないことに、数値がいっせいにゼロにもどってしまった。
 数秒後、六つの警報音が同時に鳴りひびいた。
・誰も行動に出ようとするものはなかった。手の出しようもなかった。全員の目がカーリ
 ーに、そしてアトラス・ブースターに釘づけになった。
・巨大な推進剤タンクのいくつかが微速度撮影で撮った花のようにぽっかりと口をあげ、
 地球を救うはずの数千トンの反動質量をまき散らした。 
・そしてカーリーは容赦なく本来の軌道を進みつづけた。
・カーリーの質量は誤差1パーセント以内でわかっているし、地球とぶつかるときの速度
 も小数点下12桁まで計算されている。それが何メガトンの爆発力に当たるか換算する
 くらい中学生でもできるだろう。
・答えは2兆トンというとんでもないものになる。広島を破壊した爆弾の10億倍に相当
 すると言われてもまだピンとこない数字だ。
・いちばん楽観的なシナリオは太平洋のまん中に落ちるという場合だ。高さ何キロメート
 ルもの津波が小さな島々を地図から消してしまう前にそこの島民を避難させるくらいの
 時間はあるだろう。
・もちろんもしカーリーが陸地に落ちたら、そこから数百キロメートル以内にいる人間は
 絶望だ。一瞬のいつに蒸発してしまうだろう。その数分後には、大陸全域にわたってあ
 らゆる建物が衝撃波でぺしゃんこになる。地下のシェルターもおそらく崩壊し、幸運に
 も生き残って外へ出てこられる人間はほんの一部にすぎない。だがそれを幸運と呼べる
 のだろうか?
・衝撃の余波はその直接の被害よりずっとたちが悪いかもしれないのだ。何カ月も、ある
 いは何年も、空が土煙で暗くなれば、世界中の植物の大半と、それにおそらくは衝突で
 死ななかった野生動物も、太陽光線の不足と、火球が大気低層部の何メガトンもの酸素
 と窒素を化合させることによって生じる硝酸のまじった雨とを生き延びることはできな
 いだろう。
・高度な科学技術をもってしても地球は実質的に数十年は居住不能となるだろうし、誰が
 好んで荒廃した惑星に住みたがるだろうか。安全なのは宇宙だけなのだ。
・しかしごく一部を除いてそこへの道は閉ざされていた。いまある船ではいちばん近い月
 まで人類のほんのひと握りを運ぶにも足りない。また運べたとしてもあまり意味がある
 まい。月植民地がなんとか受け入れられる予定外の客の数はせいぜい二、三十万人くら
 いのものだろう。

第六部
・シン船長は太陽系内のどこより長くわが家としてきた、広くて設備のいい船室にひとり
 すわっていた。
・少なくとも自分たちに落ち度はない。責任は果たしたのだ。それに狂信者が地球の破壊
 を望むなど、誰に想像できただろうか?
・人間の歴史を通じてほぼ十年ごとに、予言者と自称する人間が、あるき決まった日に世
 界は終わりを迎える予言している。驚くべきは、それだけで人類の正気に絶望したくな
 るほどだが、そこには常に何千もの支持者が集まり、もはや自分たちには用のなくなっ
 た全財産を売り払い、定められた場所で天国へ連れていかれるのを待ったのだ。
・すぐれた技術的知識を持つ「再誕派」にはそれだけの力があったのだ。必要だったのは
 数キロの爆薬とそこそこ頭のいいソフトウェア、あとはダイモスに協力者がいればいい。
 それもひとりいれば充分だ。
・彼は生まれ故郷の惑星を救う戦いに敗北した。その自分はまったく安全なところにいる
 と思うと、なぜかいっそう気が滅入った。<ゴライアス>にはなんの危険も及ばないし、
 月と火星で恐怖にふるえている人類の生き残りと合流するには充分すぎるほどの推進剤
 もある。
・デイヴィッドが口をはさんだ。「代案があるのですが」
 「たとえアトラスが破壊されても、まだ地球を救うチャンスはあります。<ゴライアス>
 をマスドライバーとして使えばいいのです。まだカーリーを偏向させるだけの推進剤が
 残っています。しかし噴射はただちに開始しなければなりません。遅れれば遅れるほど
 成功の可能性は低くなります。現在のところ成功率は95パーセントです」
・この数時間ではじめてロバート・シンはやや愁眉をひらいた。しかしまだ解決しなけれ
 ばならない問題はいっぱいあるし、やらなければならない仕事も山積している。<ゴラ
 イアス>をカーリーに接地させ、推力を伝えるためその周囲になんらかの足場を構築し
 なければならないのだ。
・カーリーほど微弱な重力場の中でさえ、その作業はほとんど不可能に近いものだった。
 たしかに一万トンの推進剤タンクもここでは”重さ”一トンに満たないし、滑稽なほどち
 っぽけな組滑車で、そろそろとだが、正しい位置に固定することは可能だった。しかし
 これほど巨大な質量を動かすのは、まったく異なる環境で筋肉や本能を発達させてきた
 生き物にとって命がけの作業だった。のろのろと近づいてくる物体を停止させられず、
 よけそこなったが最後ぐしゃりと押しつぶされてしまうなど、とても信じられることで
 はない。
・<ゴライアス>が本格的に稼働にはいり、乗員たちが全力噴射のプラズマ駆動の独特な
 震動を感じはじめてからすでに数週間が過ぎていた。
・加速度計の表示はゼロからのろのろと上昇し、推力が安全域の限界に達したとき1マイ
 クロGより少し上まであがった。カーリーの10億トンの質量は少しずつ軌道から押し
 出されていった。宇宙規模の速度や距離の感覚からみればとるに足りない値だが、はる
 かかなたの惑星地球に住む多くの生命の生と死を分けるにはそれで充分なのだ。
・残念なことに<ゴライアス>はカーリーの四時間という短い一日のうち、三十分しか駆
 動をつづけることができない。それ以上長い噴射はアステロイドの回転のため、せっか
 くの効果を打ち消すことになる。
・いまも<エアフォース・ワン>の名を継承している高貴な宇宙船は、その由緒正しいラ
 ウンジで会議のテーブルをかこんでいる男女のほとんどより齢をかさねていたが、愛情
 をこめた整備によっていまなお完全に機能していた。しかしながら実際に使用されるこ
 とはめったになく、世界評議会のメンバー全員がここで一堂に会するのははじめてだっ
 た。
・「もし一千メガトンの核弾頭をカーリーに命中させることができれば、それをふたつの
 破片に分裂させられるかもしれない。タイミングがうまく合えばアステロイドの回転で
 それが左右に分かれ、どちらも地球からそれで通り過ぎていくでしょう。あるいは片方
 が当たるかもしれませんが、それでも数多くの生命が救われることになる・・・」
・「だがもしかすると、カーリーはそのまま軌道を突き進む散弾の集まりになるかもしれ
 ない。大部分は大気中で燃え尽きるでしょうが、地表に達するものも多いでしょう。ど
 ちらがいいか」
・「<ゴライアス>が首尾よくカーリーの軌道を変えたかどうかはこれから五十日以内に
 わかります。しかしそれまでただ手をこまねいているわけにはいきません。もしこの悪
 魔払い作戦が失敗した場合、それからでは何をするにもおそすぎます。わたしはできる
 だけ早急にミサイルを発射することを提案します」
・人類は恒久的な危機状態のまま長く過ごすことはできない。母なる惑星は急速に一応正
 常と呼べるところまで回復していた。そしてやがて「スペース・ガード」が、カーリー
 の軌道は大気層の最外縁部をかすめ、壮大な花火を演出するだけに終わるでしょう、と
 いう待望のニュースを報じた。
・ロバート・シン船長以下の乗員たちは、まだ気を抜くわけにはいかなかった。大気層を
 かすめる程度ではまだ不十分なのだ。<ゴライアス>でカーリーを押しつづけ、最終的
 には少なくとも一千キロメートルは離れたところを通過させる予定だった。そのときは
 じめて勝利は確実なものになるのだ。
・カーリーが変わらず太陽に向ってスピードをあげながら火星軌道のかなり内側へはいっ
 たとき、デイヴィッドが最初の異常を報告した。それが起きたのは<ゴライアス>が駆
 動をとめている最中、噴射を再開する二、三秒前のことだった。
・<ゴライアス>以外の何かが、わずかだがそれとわかる程度にカーリーをつついたのだ。
 その衝撃は十秒以上つづいていた。
・シンとドレイカーとフレッチャーを乗せた橇が夜の側にまわりこんだとき、地質学者は
 連れのふたりに声をかけた。「なんたることか!あれが見えるかね?」
・前方の空に、シンが数十年前に地球を離れてこのかた目にすることのなかったものがか
 かっていた。何があろうとカーリーに存在するはずのないものだ。信じられなかった
 が疑いようもない。それは虹だった。虹は見る間に薄れていった。
・「生きている彗星でもっとも有名なものにハレー彗星があります。かちかちに固まった
 氷、水や二酸化炭素やあらゆる炭化水素の混合物の、が気化しはじめ、凍結した地殻を
 破って噴き出しています。まるで鯨の潮吹きのようです・・・」
・その噴出のはじまる時刻は少しずつ早くなり、継続時間も長く、また勢いを増してきて
 いた。もっとも幸いなことにそれは<ゴライアス>のほぼ対蹠点に当たるその一帯にか
 ぎられていた。ほかの場所では一度も噴出は起きていない。
・「われわれの推進力以外にもカーリーの軌道に影響を及びしている力が存在しています。
 ストロンボリと名づけられたその噴出孔は一自転ごとに数百トンという物質を放出し、
 それがロケットエンジンのような働きをしているのです。すでにわれわれが与えた推力
 の10パーセントを打ち消してしまいました。事態がこれ以上悪化しなければ、たいし
 たことはありません。しかしカーリーがさらに太陽に接近すればそうなるおそれがあり
 ます」
・「1862年にふたりのアメリカ人天文学者によって発見されたスウィフト=タトル彗
 星にまつわる先例が何かの役に立つかもしれません。それはカーリーと同様、太陽に近
 づいたさい起きた噴出の反動で軌道が変わったため、一世紀以上にわたって行方不明で
 した」
・「その後1992年に日本のアマチュア天文家によって再発見され、新しい経路が計算
 されると広く警告が発せられました。スウィフト=タトル彗星は2126年の8月14
 日に地球に衝突する公算が高いことがわかったのです」
・「1992年の接近のとき太陽エネルギーによって起きた噴射でその軌道はふたたび安
 全なものへと変わりました。2126年には地球から大きくはずれて通過し、われわれ
 は空にかかる無言の壮大な眺めを堪能できるでしょう」
・「当初の計画ではカーリーを安全な軌道に移せたら本船はすぐここを離れ、補給タンカ
 ーとランデヴーして火星に帰還することになっていました。しかしいまやわれわれは、
 このカーリーの上で、あるかぎりの推進剤を燃やしつくすことを想定しなければならな
 くなりました。地球までの全行程を噴射しつづけるには足りませんが、それでなんとか
 なることを祈りましょう」
・「最悪のシナリオ、カーリーの軌道を変えられなかった場合のだ。本気で燃料の最後の
 一滴まで使い切って、<ゴライアス>もろとも衝突するつもりかね?船を安全な軌道か、
 せめてすれすれのコースに乗せるのに、何トンの推進剤が必要になる?」
 船長は陰気な笑みを浮かべた。
・「自殺は無意味ですし、かえってこのハンマーの一撃を一万トン増やすことになる」
・「私には生涯を通じて守ろうとしてきたルールがあります。自分の手に負えない問題を
 思い悩んで睡眠時間を無駄にするな!」
・「通過のあと本船がたどる軌道を見たことがありますか?近日点が水星軌道のすぐ内側
 になっているんです。<ゴライアス>火星と木星のあいだで行動するよう設計されてい
 ます。それだけの熱、通常時の二百倍、をこの船は処理できるでしょうか?」
・「心肺いらんよ。わしがそれよりもっと近くまで言ったことがあるのを知らなかったの
 かね?ヘリオス計画だ。近日点の前後一週間イカロスにいた。必要なのは太陽光線を宇
 宙空間にはね返すための複合反射板ひと揃いだけだ」
・最初の微動を検知するとデイヴィッドはすぐさま全船警報を鳴らした。その二秒後には
 最大推力の80パーセントで駆動していたエンジンを停止させた。それからさらに五秒
 待ったのち、<ゴライアス>を自活可能な三つのユニットに分ける気密ドアを閉じた。
・おかげで船殻に亀裂がはいる前に、幸い一区画だけだったが、全員が最寄りの非常用モ
 ジュールにたどり着いた。シン船長は気密服を身につけながらすばやく点呼をとり、全
 乗員の応答を確認するやいなやデイヴィッドに状況報告を求めた。
・「船首部にはまったく空気がありません。陥没が起きたとき船体がカーリーに地表に叩
 きつけられて漏出が生じたのでしょう。船が動いたとき足場の一部が三号タンクを貫通
 しました。」
・「失った水素の量は?」「ぜんぶです」
・「脱出用の予備燃料もなくなったわけか」
・「連続的に推力を与えたことで船のすぐ下に当たるカーリーの地表が弱化し、その一部
 が耐えられなくなったようです。われわれは残りの推進剤すべてを失ってしまい、これ
 以上カーリーの軌道に変更を加えることができません。最新の計算結果によると、この
 ままいけば地球から一千キロのところを通過するでしょう。なおこの事故で、われわれ
 はカーリーに足止めされることになりました。このこと自体にはなんの問題はありませ
 ん。カーリーといっしょに太陽をまわり、遠ざかる軌道上で姉妹船<ハーキュリーズ>
 に回収してもらうのを待てばいいわけです」
 
第七部
・<エアフォース・ワン」の船内では二十名の命よりも三十億人の命おほうが重要だとす
 る決議が全会一致でくだされるところだった。
・一回目の市民投票では、全人類の85パーセントが、カーリーそのものの衝突よりも砕
 かれた破片を浴びる危険のほうを選んだのである。 
・「きみたちも知っているとおり、ギガトン級の爆弾がカーリーに向って飛んできている。
 それを爆発させる決定は数週間前になされた。そいつが爆発するとき、またわれわれが
 ここにいるというのは、なんとも不運な話だよ」
・「実は予防措置を講じたのです。イリノイ州アーバナにいるわたしの双子の兄弟ジョナ
 サンにわたし自身をダウンロードしたのです」(デイヴィッド)
・最終日の前日にふさわしく、士気は驚くほど高まっていた。ロバート・シンは乗員たち
 をとても誇りに思った。避けられぬ運命を先どりする気になった者がひとりいたが、ウ
 ォーデン博士の静かな説得で思いとどまった。
・ソニーは腕をふるって、通常ならウォーデン博士が容赦なく禁じてしまうよだれの出そ
 うな食事を出した。
・死期の切迫が性行為を増進させることはよく知られている現象である。今回の場合そう
 した根源的な生物学的要因は当てはまらない。種を存続させるつぎの世代が生まれるこ
 とはないのだから。それでも最後の数週間、独身主義とはほど遠い<ゴライアス>の乗
 員たちは可能なかぎりの順列と組み合わせをためした。おとなしくおやすみを言うつも
 りなど彼らにはまったくなかった。
・そしてあっというまに最後の日が訪れ、そして最後の一時間がやってきた。乗員の多く
 と違って、ロバート・シンはひとりで思い出にひたりながらそのときを迎えるつもりだ
 った。
・だが自分で記憶チップに収納した数千時間の中から、どれを選んだらいいだろう?それ
 らは場所のみならず年代順にも索引がつけられていたから、どの場面でもアクセスする
 のは簡単だ。もっともふさわしいひとつを選ぶことが人生における最後の問題となるわ
 けだ。それがなぜか。説明できないが、とても重要なように感じられた。
・火星へもどることもできたが、そこではすでにシャーメインが、もう二度と父さんには
 会えないのよ、とミレルとマーチンに言いきかせているはずだ。火星は彼の属する世界
 だ。幼い息子をよく知る機会のないことがいちばんの心残りだった。
・彼は頭蓋キャップをかぶり、インド洋の浜辺でフリーダ、トビー、そしてちびとらと再
 開した。
・「マーフィーの法則」は工学の全分野においてもっとも有名なもののひとつだ。その標
 準型は、”まずくいく可能性があるものはかならずそうなる”である。またその系として
 ”まずくいく可能性のないものもかならずそうなる!”という、あまり知られてはいない
 が、しばしばより強い調子で引用されるものもある。
・弾頭をできるだけ速くカーリーに到達させるのはごく簡単な仕事だった。搬送用ロケッ
 トも既製品がすぐさま入手できた。実際にはその数基を束ねたものを一段目のブースタ
 ーとし、高加速のプラズマジェットが衝突の数分前まで噴射をつづけ、そこで最終誘導
 に切り替える。すべてがなんの支障もなくはこんだ・・・。
・そしてその瞬間に問題は発生した。疲れきった設計チームには、第二次世界大戦に起き
 た、忘れられて久しい出来事を学んでおく余裕はなかったのだ。
・日本の艦艇相手の作戦において、合衆国海軍の潜水艦は新型の魚雷に望みを託した。当
 時すでに魚雷はほぼ一世紀にわたって改良をかさねてきており、新兵器などと言えるも
 のではなかった。標的に命中した弾頭を確実に爆発させることくらい、たいしてむずか
 しいこととは思われていなかった。だがやがて、魚雷が爆破しなかったという怒りくる
 った艦長たちの報告が、いくつもワシントンに到着した。海軍司令部はそれらの報告を
 信じようとはしなかった。きっと狙いがはずれたのだろう。なにしろ実戦に投入される
 前にかぞえきれないほどテストをくり返した高性能の新型魚雷なのだから・・・。
・だが潜水艦側のほうが正しかったのだ。設計がやりなおされ、調査班は魚雷の先端に位
 置する点火ピンがその一見簡単な役目を果たす前に折れてしまっていたことをつきとめ
 てあわてふためいたのである。
・カーリーをめざすミサイルはわずか時速数キロメートルではなく、秒速百キロメートル
 以上で激突した。これほどの速度になると、機械式の点火ピンは役に立たない。金属中
 を音速でのろのろと伝わってくる死のメッセージがその数倍の速度で移動している弾頭
 に到達できるはずはないからだ。言うまでもなく設計者たちはそんなことぐらい百も承
 知で、弾頭の起爆用には完全な電子的システムが採用されていた。
・彼らには合衆国海軍軍需局よりましな言いわけがあった。このシステムを実地にテスト
 することは不可能だったのだ。そんなわけで、その装置がなぜ作動しなかったのか、誰
 にも知るすべはなかった。
・この時点でシン船長は唐突に自分の立場に目覚め、何度か激しく頭をふって、まだそれ
 が肩の上に載っていることに少なからずびっくりした。信じられない。何もかも正常な
 ようだ。失望感とまではいかないが、なんとなく苛立たしさを感じた。いさぎよく死を
 受けいれようとした感情のエネルギーが空振りに終わってまだ生きているということが、
 なんとも拍子抜けした気分だった。
・はっきりカーヴしたカーリーの地平線上にのしかかるように浮かび、目にとまるほどの
 速さで上昇していくのは、あばただらけの地表を持つもうひとつの天体だった。
・「爆弾は不発だったようだが、それでも何メガトンもの運動エネルギーを持っていて、
 それがカーリーをアメーバーのように分裂させたんだ」
・ミサイルはアステロイドのもっとも細い部分、ピーナッツのくびれた場所、の近くに命
 中したが、ふたりの観測者が期待していた核爆発の火球が現われるかわりに、膨大な量
 の塵と破片が噴き上がった。それが晴れたとき、カーリーにはなんの変化もないように
 見えたが、ほとなくそれはきわめてゆっくりとほぼ同じ大きさの二個に分裂した。まる
 で回転するフィギュア・スケーターが手を離したときのようにゆるやかに離れはじめた。
・「ここで重大な問題は、このどちらかが地球に衝突するだろうか?それともふたつとも
 衝突しないですむのだろうか?運がよければどちらも脇にそれて通過するだろう。そう
 だとすると、爆弾は破裂しなくても、その役割を果たしたことになる」
・少なくとも<ゴライアス>では不安は早々に解消された。「スペース・ガード」がほと
 んどそくざに、カーリー1(船が座礁しているわずかに小さいほうの破片)は地球から
 充分安全な距離をおいて通過するだろうと知らせてきたのだ。
・しかし地球上でその歴史がつづくのかどうかは、まだ誰にもわかっていない。現段階で
 「スペース・ガード」のコンピュータが保証できるのは、カーリー2が大きな陸塊に直
 接激突することはないだろうという程度のことだった。
・それはいくらかの慰めにはなったが、集団パニックや数千もの自殺や法と秩序の部分的
 崩壊をくいとめるには不充分だった。
・カーリー2は日の出直前、ハワイ上空百キロメートルで大気圏にはいった。一瞬にして
 巨大な火の玉が太平洋に偽りの夜明けをもたらし、そこに点在する島々の野生動物たち
 を目覚めさせた。
・ニュージーランド全域で、空をよぎる溶鉱炉の熱が森を燃えあがらせ、山頂の雪を溶か
 して麓の谷間に雪崩を引き起こした。実に幸運なことに、熱による最大の衝撃は南極、
 もっともそれを効率よくそれを吸収しうる大陸、を見舞った。いかにカーリーといえど
 も厚さ数キロメートルに及ぶ氷層をすっかりはぎとることはできなかったが、その”大解
 氷”によって世界中の海岸線は塗り替えられたはずだ。
・カーリーの通過を生き延びた人間で、そのときの音を言葉に表わせるものはひとりもい
 ないだろう。もちろん映像記録は壮絶この上もなく、このさき何世代にもわたって見る
 者の畏怖をかき立てるだろう。しかし実際の恐ろしさとは到底比べものになるまい。
・大気圏に切りこんでから二分後、カーリーはふたたび宇宙へもどっていった。最接近時
 の地表からの距離は六十キロメートルだった。その二分間にそれは十万人の命を奪い、
 一兆ドルの損害を与えていった。
・人類はとても、実にたとえようもないほど幸運だったのだ。