紙の牙 :松本清張 

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この小説が発表されたのは、今から58年ほど前の1959年である。おそらく当時の市
役所という役所の内部の状況は、この小説で描かれた状況に近かったのであろう。当時は
メディアと言われるものが、まだいまほど発達しておらず、人々が得る情報手段と言えば、
新聞が主要な位置を占めていたと思われる。新聞に書かれた活字の情報は、その情報が事
実なのかどうかにかかわらず、多くの人々は疑いを持たず、活字化されたその情報は事実
であるとして受け容れていたのだと思われる。それゆえに、新聞という活字情報の力は、
今以上に絶大だったと思われる。そして、大半の新聞は、その持つ力を社会正義のために
使用していたのだろうが、しかし中には、表向きは社会正義を主張しながら、この小説に
出てくる市政新聞のように、陰でカネのために新聞の力を利用して反社会的な行為を行な
っていた、特殊な新聞社もあったのではないだろうか。もしかしたら、現代においてもこ
れと似たようなことを行っている新聞社や雑誌社もあるのかもしれない。
そして現代社会においては、ネットの世界において、この小説以上のことが行われている
ようだ。そして、自分に都合のよいように事実をねじ曲げて真実でない情報を流す者は、
なにも記者や一般人にかぎらない。どこかの国の首相や大統領までもが、自分の都合に合
わせて、事実とは異なる情報を流すまでになっている。
活字化された情報だから、すべてが真実だと思ってはならない社会に、我々は生きている
ことを認識しなければならない。なにが真実でなに真実でないのか。それを「見分ける力」
を身に付けておかなければ、我々はいたずらに真実でない情報に振り回されることになる。
とりわけ「正義」を振りかざす者に対しては、疑ってかからなければならない。
ところで、この小説で、「妻以外の女と温泉地に行くなどとは、今ではざらに世間にある
平凡はことだ」という一節が出てくるが、今流で言えば「不倫」である。昨今では盛んに
「不倫」ニュースが流れ、ありふれたことになっているが、今から58年前の時代にも、
すでに不倫はありふれたことだったのかと思うと、ちょっと意外な気がした。いずれにし
ても、昔も今も「不倫」で身を滅ぼす者は後を絶たない。いつの時代においても「不倫」
をする者は、相当に覚悟が必要だということを、あらためて感じた。

・この温泉町の繁華街の灯が真下に見えた。旅館は丘陵の斜面に建っていて静かである。
 昌子は下の繁華街に降りて見ようと菅沢を誘った。菅沢は人通りの中を歩くのは、あま
 り気が乗らなかった。漠然とした懼れがある。が、断れないのは、温泉町を昌子と宿着
 のまま外を歩く魅力であった。旅館に着いたのは3時だったから、4時間の快い時間が
 経っていた。まだ明日の夕刻までに充実した時間が湛えられている。小さな弛緩は必要
 かもしれなかった。
・人の通りは多かったが、半分以上は宿の着物をきていた。ぞろぞろかたまって歩くのは
 団体客であろう。夜というのにカメラを肩にしている者がいる。菅沢はもしや知ってい
 る者があるいていないかと思って、顔を横にしたり、うつ向いたりして急ぎ芦になって
 いた。R市役所の厚生課長として、役所の者だけではなく、こちらが覚えないでも面会
 した人間には知られている顔である。思わず足が速くなっているのはその臆病からであ
 った。   
・昌子が土産物を買いたいと土産店に入った。店先の客は絶えず入れ替わっている。菅沢
 はなるべくその方に顔をそむけて店内に入った。菅沢は心を苛々させた。店には客が立
 て込んできた。誰に顔を見られるか分からないのだ。  
・店を出た直後、菅沢はうしろから肩をたたかれた。はじめは昌子かと思ってふり向くと、
 宿のお仕着せを着た男が眼の前で笑っていた。菅沢は蒼くなった。昌子が横を通り抜け
 て、知らぬ顔ですすっと前を歩いて行った。男は、ちらりと眼を動かした女の後姿を追
 い、視線を菅沢の顔に戻した・「おたのしみですね」と男は自分から別な方角に歩きだ
 した。着物を着ていても、肩肘張った歩き方である。
・相手ははっきり女と同伴だということを見極めている。酒飲みだから昌子のいる酒場に
 言ったことがあるかもしれない。昌子を知っていそうだった。彼女の方は気づいていな
 いようだ。昌子は菅沢の方をおそれていた。妻子のある市の厚生課長が酒場の女と温泉
 町に遊びに来ている。その噂が男の疵になることを危惧していた。
・旅館を出なければよかったと菅沢は後悔している。何だか気が進まなかったのは、やは
 り、悪い予感がしていたのだ。菅沢は力が抜けた。
・男は市政新聞の記者だった。発行部数は千か2千である。R市にはこのほかに3つの市
 政新聞があるが、発行部数も同じ、やり方も同じであった。この4つの市政新聞は市民
 には配達されない。購読者が無いからだが、彼らはそれで平気であった。目的が違うの
 だ。「正義に基づき民主的なR市を建設するため市民に代わって市政を監視し、批判す
 る」というのが謳い文句だが、実際は強制寄付であり、吏員へ紙の押し売りであった。
 吏員も一人ひとりが個人の金を出して買うのではない。各部課の費用で、百部、二百部
 と必要のないものをまとめて買いとらされるのである。
・局長も部長も、この市政新聞を恐れている。いや、市長も助役も懼れていた。何を書か
 れるか分からないのである。彼らの言う通り金を出せば紙上で賞賛され、渋ると悪口を
 書かれる。有ることないことが、連載もののように執拗に出てくるのである。それで市
 では、予算から年間六百万円を支出して四つの市政新聞の購読料を支払っている。もっ
 とも金額はばかばかしくて発表出来ないから、各部課の雑費でひそかに落としていると
 ころもあった。ただそれだけなら、まだ単純であった。 
・四つの市政新聞はすべて金で動いている。先月は市長派の肩をもっているかと思うと、
 今月は反市長派を支持している。明日はまた市長派に回りかねないのであった。市長派、
 反市長派は市会議員の問題だが、市会議員同士でいくつもの派に岐れて暗闘があり、そ
 れにボスの代議士がついている。これらが闘争の武器に市政新聞を利用するのであった。
 新聞は金を余計に出した方の提灯をもち、相手方を叩くのである。のみならず、この市
 政新聞の記者たちは「顔」にものを言わせて金儲けを漁るのだ。土地の周旋や物品の納
 入に口を利いてサヤや報酬を取るのである。役所の吏員たちは後難をおそれて、たいて
 い彼らの言いなりになった。
・誰もこのような新聞に係り合いを持ちたくない。真実でなくとも、毎号のように「悪事」
 を書き立てられると、ほとんどの者が参るのだ。活字の魅力が働いて、知らずに読んだ
 ものには真実に近い印象を植え付けるのであった。敵は活字の特殊作用を知っていた。
 活字の前に吏員たちは嬰児のように抵抗力がなかった。ましてどの部課も完璧ではない。
 探せば、いくらでも埃は出て来るのである。その気になってほじくれば、彼らお大見出
 しになる材料には不自由しない。いよいよネタが無ければ、個人的な攻撃に移る。私生
 活が容赦もなく、恥部を黒っぽい粗悪な紙の上に晒されるのであった。狙われた者は、
 彼らの気の済むまで被告人であり罪人であった。当人は歩いても座っても顔を上げられ
 ぬ思いをしなければならなかった。そのことの回避が市政新聞の記者を傲慢にした。彼
 は役所の中をわがもの顔に闊歩する、平気で、助役や局長や部課長の前の椅子にあぐら
 を掻いた。時には猫撫で声を出し、時には声を怒らせた。先方が臆病げに顔色を伺うの
 を、くわえ煙草で見下ろすのである。
・記者の高畠は、あれから毎日役所の中を徘徊しているが、ふしぎと菅沢の机の前には寄
 りついて来なかった。今にもここに姿を移すかと、菅沢は緊張するのだが、高畠は見向
 きもしないで、そのまま肩を張って出ていくのであった。菅沢はこの肩すかしが薄気味
 悪かった。ふと自分の杞憂ではないかと思うこともあった。あるいは余計な取り越し苦
 労であろう。向こうは自分が思うほど心に留めてはいないのかもしれない。妻以外の女
 と温泉地に行くなどとは、今ではざらに世間にある平凡はことだ。高畠はそんなありふ
 れたことは歯牙にもかけないのではないか。小さな安堵が、時日と共に少しずつ這い上
 がってきた。が、そうも安心し切れない警戒心がその不安定な偸安を破壊し、再び暗い
 穴をひきずり下ろされた。
・菅沢の妻は冷淡な女である。夫への心遣いが少しもなかった。自分のことだけを主張し、
 家庭では彼の身の回りもあまりかまってもらえなかった。不満は永い間の鬱積だったが、
 今では子供のために我慢した。現在は子供も成長した。長男は大学に行っている。次の
 長女は来年高校を卒業する。万一のときは覚悟をしていた。しかし、生活は失いたくな
 かった。現在の地位を収入が無ければ、昌子の世話をすることも食うこともできなかっ
 た。市政新聞を恐れているのはそれだった。
・ある日、昼食が済んだあと、菅沢のところに給仕が2枚の名刺を運んできた。上の名刺
 を何気なく覗いて彼は眼をむいた。「高畠」活字がある。その右肩の空いたところに、
 「小林氏を紹介します。何卒よろしく御引見を願います」と走り書きしてあった。菅沢
 の胸に旋風が起こった。
・小林は殺虫剤会社の常務であった。菅沢はこの男の後ろに高畠が突っ立って、へらへら
 薄笑いをしているように思えた。菅沢は名刺を見た時から、小林の訪問の目的が判って
 いた。物を売りつけに来たのである。はじめから被圧迫感があった。圧迫しているのは
 高畠の名刺である。宿の半纏を着た昌子の後姿を追った眼が映り、課長さん、お愉しみ
 ですね、と言った声が耳に蘇る。
・市では清掃用の殺虫剤は例年決まっていた。その時々によって異うが、大体有名品を使
 い、80万円の予算がとってある。菅沢は、心の中で10万円くらいは、この怪しげな
 薬のために無駄にしなければならぬだろうと思った。
・菅沢は怯えた。書き立てる新聞の活字が眼に見えるようである。市役所の厚生課長が酒
 場の女と温泉町に行った。課長は遊蕩児である。課長は月々女に手当を遣っている。知
 れた月給からどうしてそれだけの豪奢な生活ができるのか。暗に課長の不正をほのめか
 す記事がならぶ。家には妻子のある身で、と不道徳を非難する形容詞がならぶ。
・衛生試験に回していた殺虫剤の試験結果の報告がきた。一流メーカー品に較べると、実
 効は3分の1程度との結果だった。暗礁がまた起こった。効果が実験の上で問題になら
 ないとすると、殺虫剤を一瓶でも買う訳にはいかない。菅沢は煙草の煙を吐きながら長
 いこと考えた。全く買わないということは絶対に不可能である。自分の破滅には代えら
 れない。彼の心は、既に20万円の買い上げを決定していた。
・秋が訪れたある日、菅沢は退庁の吏員で混雑している玄関先で、別の市政新聞の記者、
 梨木に呼び止められた。近くの喫茶店で5分くらい付き合ってほしいと言われ、無下に
 断ると何か悪く書かれそうなので、しぶしぶとついて行った。そこには赤ら顔の男が座
 っていた。菅沢はぎょっとなった。顔をよく知っている。市政新聞の社長で大沢という
 男だ。次期には市会議員になることを狙っている。日ごろは、市長や助役や局長クラス
 ばかりと会っていて、課長の菅沢などは全く無視して素通りである。その大沢が待ち構
 えるように座っていたので、菅沢は不吉な予感で頬が硬くなった。そこで「市民の血税
 と購買品」を持ち出されて、菅沢は喫茶店に呼び出された目的が明確になった。小林か
 ら殺虫剤を大量に買い付けた一件を嗅ぎつけて来たのだ。菅沢は目の前に地面を這いず
 って回る動物の鼻を感じた。
・小林から押し付けられた殺虫剤は厚生課が予算の半分を割いて買い付けた。負けたのは
 高畠の顔にである。いや、温泉宿着の昌子と自分を見ならべて眺めた眼であった。それ
 に圧されて小林から殺虫剤を大量に買い上げた。 
・菅沢は、心の中で、待ってくれ、と叫んだ。書かれては困る。それは破滅だった。彼は
 自分の身体が顛倒し、周囲から嘲笑が湧き上げる場面を一瞬に空想した。妻が怒り、子
 供が路で泣いている。彼は身震いした。
・菅沢は昌子と会った。いつも行きつけの旅館であった。秋が終わり、冬がはじまろうと
 していた。旅館では火鉢に火を入れた。昌子は菅沢の頬を両手で撫でて「お痩せになっ
 たわ」と気づかった。金が欠乏していた。貰う給料の3分の1は梨木が毎月とりに来て
 いた。名目は市政新聞への寄付金である。領収証はくれなかった。昌子にも金を与える
 ことができない。妻に渡す金も不足しているから、小遣銭にも苦しんでいた。近ごろは
 煙草も思うように買えず、課員に1本ずつ貰うことがあった。
・3カ月にわたって「寄付」することで殺虫剤購入についての梨木との協定は成立した。
 苦痛だが新聞に暴露されるよりどんないいかもしれない。菅沢はそのままおさまったこ
 とに安堵した。その代わり経済的な苦痛は想像した以上だった。月給が3分の2に減る
 と、生活が折檻を受けているみたいだった。ワイシャツ1枚思うように買えなかった。
 妻は集金の御用聞きに断りを言うようになった。
・季節は冬に入り、年末が来た。ボーナスが入ったことで菅沢は少し助かった。恒例とし
 て、正月には役所の課員が揃って年始に来てくれた。菅沢は妻をなだめすかして、部下
 たちのもてなしの支度をさせた。「お金が充分でないから、そんなにご馳走はできない
 わ」妻は尖った声で応えた。「お酒は二級酒で我慢して貰うわ。数の子は高いから買え
 ない」そんなみっともないことは出来るか、と菅沢は叱った。しかし、妻は決して折れ
 ることをしなかった。
・課員が誘い合わせて来た。「家内が身体を悪くしましてね、思うように料理ができなく
 て申し訳ない」と菅沢は部下に言い訳をした。しかし、それで恰好がつくものではない
 のだ。現実に貧しい皿がならび、酒は二級酒の味であった。課員は、誰も酒がうまいと
 は誉めなかった。菅沢は身体の縮む思いがした。話しもあまり弾まず、陰気な寄り合い
 であった。みんなが帰ったあと、菅沢は寂しさが急にせき上げてきた。
・恐喝の期間も、この月末が終わりであった。暗い、長いトンネルの向こうにようやく出
 口の明かりが見えた。ようやく解放感が菅沢の身体に充ちてきた。来月から楽になる。
 やっとの思いであった。会計から、この3カ月に合計2万円を借り出している。我慢し
 ていたが、ついにそれをしなければならなかったのだ。だが、もう済んだ。破滅の危機
 も乗り越え、来月から元の生活が取り戻せる。ほっとした。
・1カ月たち、2月下旬になった。菅沢が役所から出て道を歩いていると、梨木が寄って
 きた。社長が一言、お礼を言いたいと言っているとのこと。大沢が夕闇の中から姿を見
 せた。大沢は悠然と話し出した。「3カ月に亙ってご援助を頂いた上で、まことに申し
 訳ないが、あと5カ月続けてご援助頂けませんか」菅沢は足が萎えた。全身から力が抜
 け、心臓だけが苦しくうった。
・菅沢は脂汗が滲んだ。あと5カ月の苦難の延長であった。なぜ、自分をこれほど苦しめ
 るのか。ゴロツキ市政新聞の暴力は知っていたが、それは身をもって渦に巻き込まれな
 ければ実感がない。菅沢は、数ある吏員のうちで自分ひとりが捕えられた不運に喘いだ。
 菅沢は永遠の地獄を感じた。
・菅沢は毎日を暗い気持ちで過ごした。仕事が身につかない。少しも心に安定が無かった。
 地面が揺れ、頭の上をいつも押さえつけられている気持ちだ。何を見ても色彩が無く、
 食べるものには味がなかった。
・菅沢は借金のことが頭に粘り付いて離れなかった。これからの目的がない。昌子にも打
 ち明けられなかった。ひとりでやらなければならぬ仕事がある。頼る誰も居なかった。
 あくまでも孤独な処理であった。
・菅沢は高利貸から3万円借りた。抵当物件は役所の給料であった。そういう証書の目の
 前で書かせられた。屈辱が身体中を熱くさせ、顔から火がふくようであった。
・高畠も、梨木も、相変わらず、市役所の建物の中に姿を現した。一かどの新聞記者らし
 い顔をして徘徊している。誰が見ても、貧弱な服装だが、新聞記者の格好である。菅沢
 は憎んだ眼で彼らを見た。しかし、視線以外に抵抗する力は無かった。
・助役も局長も、部長もこの市政新聞をおそれていた。何を書かれるか分からないのは恐
 怖であった。他人のことは興ありげに読むが、自分の順番に回ってくるのはバイキンの
 ように避けた。無事故、平穏が第一の願いである。無気力であっていいのである。彼ら
 から疵を負わせられたくなかった。叩けば誰でも多少の埃は出る。表面は無関心を装っ
 て彼らに接しているけれど、誰もが市政新聞記者に弱腰であった。彼らが傍若無人な態
 度で歩き回ろうと、机の上に腰をかけ、わざと無作法な口の利き方をしようと、かげで
 は罵るが、面と向かって喧嘩をする者は役所の中に一人もいなかった。
・霰の降る日であった。菅沢は梨木から呼び出しを受けた。「どうも言いにくいのですが、
 十万円ご寄付ねがいませんか」菅沢はすぐには実際の感じが来なかった。縁の遠い話を
 聞くようだった。適当な言葉が探せない。言葉が激しい感情に追いつかなかった。菅沢
 は冷たい空気の中で、汗を流していた。自分が断崖の上に立っていることを意識した。
 あたりの景色に距離感がなく、ぼやけた。
・菅沢は怒鳴った。もう、どうなってもよかった。全身が怒りで慄え、頭の中が充血した。
 絶望と自暴自棄が、憤怒の下から拡がった。
・R市の北は、関東の西南の大地に続いている。そこには一本の単線の鉄道が寂しくげに
 原野をよぎっていた。雑木林は丘陵の波に起伏し、平原に流れている。この辺にはもと
 の陸軍の演習場があり、今は外国のキャンプの建物があった。霜が雪のような原野に下
 りた朝、葉を落とした雑木林の中で農夫が男の首吊り死体を発見した。名刺を持ってい
 たので身許はすぐに判った。死の  厚生課長で菅沢という名である。遺書はなかった。
 だが、四十を越した自殺者は遺書を残さない場合が多い。しかし、その市役所の人間た
 ちは、菅沢の自殺が、たったこの前、市政新聞に大きく出た彼の「非行」に関する記事
 に関連していると思っていた。菅沢はそのあと、民生部長に呼ばれて、別室で長いこと
 話をしていた。次には助役と局長とが立ち合いで菅沢課長と話をしていた。菅沢はその
 日の夕刻、家に帰らずに自殺の現場に向かったようである。それは彼を駅で見かけた者
 がいる。支線のホームに佇んでいたのであった。今ごろから、そんな支線の汽車に乗っ
 て何処に行くのだろう、とその人は不思議がって見ていたという。そのとき、課長はも
 の思いに耽っている様子で、一つのところに凝乎として立っていたということである。
・あとで調べてみると、課長は新聞記事が出た日から三日も続けて家には帰らなかった事
 実がわかった。どこに泊まっていたのか誰も知らなかった。その間、役所に出勤しても、
 服装はきちんとしたものだった。独りでかくれていたとは思えなかった。彼の自殺は普
 通の新聞にも小さく出た。原因は、どれにも神経衰弱からとあった。神経衰弱以外に考
 えようがない、という市当局の話で打ち切られた。
・その日限りで、市政新聞は菅沢課長の攻撃を中止した。死者に鞭うつのが本意ではない。
 本紙はあくまで正義の立場から市政を批判しているので、菅沢氏個人は善良な人だった、
 というちぐはぐで礼儀正しい小さな記事が出ていた。