拐帯行 :松本清張 

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人生に絶望した若い男女が、会社の金を横領して、死ぬ前に束の間の贅沢を味わう旅にで
る。その旅先で、中年の夫婦と出会い、その渋い安定感のある身なりや態度を見て、羨望
をいだく。こんな人生もあるのだと。自分も努力してこんな人生を送りたいと自首するの
である。
たとえ、一時的に多額のお金を手にできたとしても、それが安定のある生活の基礎がなけ
れば、砂上の楼閣でしかない。やはり、地味であってもコツコツと一つずつ着実に積み上
げた人生こそ、一番理想とする人生ではないのか。そんな気持ちにさせられた小説であっ
た。

・隆志は、随分、いろいろなところを久美子と歩いている。渋谷、井ノ頭、多摩川、鎌倉、
 日曜日の夜はときどきネオンの看板がひっそりと光っている旅館街を彷徨した。
・隆志は、机の上に投げ出した鞄を見向きもしなかった。しかし、意識は絶えずそこに惹
 かれている。三十五万円の札束が四つに分けて中に納まっていた。どう使おうと勝手な、
 自分のお金であった。
・今日は土曜日である。土曜日に意義があった。計画は前からそれを考えていた。明日は
 日曜日で事務所は死んでいる。月曜日の午前九時を過ぎないと機能は蘇らない。今から
 四十一時間後である。つまり彼の行為が発覚するまでの時間であり、追跡されるには、
 充分に余裕のある距離であった。ゆっくり遠いところに逃げられる。五時半までには少
 し間があった。隆志は京橋から銀座を往復した。
・街は人出が相変わらず多い。男も女も子供も、どのような生活をもって歩いているのか。
 若い男女は腕をくんで喋りながら歩調を揃えている。ばかばかしいと思った。今の気持
 ちに少しも密着のない存在だった。街の色も虚しいものとしか映らない。遠い光景だ。
 行き交う勤め人は身ぎれいな服装をしているが、財布の中は千円とないに違いなかった。
 定期券入れに千円札をたたんで大事にかくしているくらいだろう。鞄の中の三十五万円
 を眼の前で撒いてやったら、どんなに仰天するか。向こうから来る気取った若い女の顔
 だって、いきなり突き飛ばせるのだ。死ぬと決めてしまったら、これほど暴力的に自由
 なことはなかった。  
・隆志は、京橋から車を拾って東京駅に着いた。三分とかからなかった。十五番ホームを
 上って行ったとき、人の群れている中から、久美子が手を振って近づいて来た。顔を上
 気させ、スーツケースを提げている。横に着いている列車は、特急博多行「さちかぜ」
 であった。
・窓から東京の夜景が流れた。密集した灯は次第に凝結を緩め、薄くなり、疎らになった。
 東京が遁げ去ったのだ。それからの窓は、暗黙が走った。特二の車内は、昼光色に輝い
 て、贅沢な旅客たちへ光を添えた。みんな、屈託なく旅を愉しみに行くように見えた。
 男客は煙草の煙を吐き、女客は蜜柑か菓子を食べていた。隆志は手帳を拡げ、指先で突
 いた。博多−阿蘇−日奈久−指宿と鉛筆書きがしてあった。
・久美子はそれほど隆志が金を持っている理由を知らない。死ぬことだけを承知している
 女だった。久美子には両親がなかった。五年前から叔父のところで育てられてきた。叔
 父は下級官吏をしていて、来年くる定年退職後の身の振り方に奔走している。ケチで、
 家庭は息が詰まりそうで潤いが無かった。義理の叔母は、久美子に白い眼ばかりを向け
 ていた。久美子の働く給料の大部分を吸い上げて、給料日だけは機嫌がよかった。久美
 子は希望が無いと言った。
・隆志が、久美子と愛を結んだ半分の理由が、その同情から出発していた。隆志は、長野
 県と山梨県とが境を接する山奥の農家の三男で、実家は兄夫婦のものになっていた。た
 とえ父の代でも百円の送金も受けられなかった。故郷に帰ってみたのは、父の葬式の時
 が一度きりである。  
・乾燥した境遇の相似が、久美子を知ったとき、水が通うよりも容易に愛を流れ合わせた。
 二人は溺れた。しかし、耽溺のあとには、現実の乾きが再び二人を包んだ。丁度、泳い
 だあと、皮膚が乾くようなものである。人間はいつまでも、水の中に浸ってはいられな
 い。  
・死のう、と本気に言い出したのは、どちら側か分からなかった。もっとも、詰まらない
 から死にたいわ、と言ったのは久美子が先のようである。そうだな、生きていても仕方
 がないな、と隆志は空を向いて賛成した。こういう繰り返しが何度かあった。井ノ頭の
 池の傍だったり、代々木の夜の木立の中だったりした。
・二人で死ぬ、という行為は、それ自体に甘美な感傷があった。つまり、乾きがその甘さ
 を求めさせたともいえそうであった。隆志は死ぬなら、その瞬間を贅沢にやりたいと思
 った。今までの生活が、あまりに惨め過ぎた。これを死ぬまで続けるのは情けなさすぎ
 た。一時間でもいい。思うような豪華な味を愉しみたかった。その雰囲気は、一日なら
 いいと思い、二日なら、なおいいと思った。どうせ、死ぬと決めているのだ。恐ろしい
 ものは無いはずだった。秩序も、道徳も気遣う必要はない。最後まで、みすぼらしいサ
 ラリーマンで終わるのは不合理だった。隆志は虚無的な空想を伸ばした。
・ついに、会社の金をその雰囲気の資本にしようと隆志は決心した。死ぬ前に、すぐ捕ま
 っては詰まらない。せめて五日間くらい自由な時間が欲しかった。死に比べて、僅少な
 要求である。そのため、隆志は社金の持ち出しを土曜日に設定した。日曜日が、まる一
 日浮いてくる。絶対に安全な一日であった。
・たいていの逃亡者が失敗するのは、前に旅行したことがあるとか、知人がいるとかを求
 めて行くから、すぐ捜索の手が伸びるのだ。隆志にとって、九州は何らの因縁もない。
 土地カンもない。どの追及者の連想も、ここには及ばない。まず四日間ぐらいは安全で
 あろうと思った。  
・向かい側の三つ目の座席が空いていた。二人ぶん空いていて、海老茶のビロード地に白
 布がカバアが全体を見せていた。列車が停まって、窓の外に明るいざわめきが起こった。
 熱海だった。空いていて客を待っていた斜め向うの二つの席には、中年の紳士と妻らし
 い人が座った。
・この夫婦の乗客は、いかにも渋い安定感をその身なりや態度にもっていた。夫のほうは、
 四十七八であろうか、やや多い加減の白髪まじりの頭髪をきちんと分け、櫛の筋目がき
 れいだった。洋服の柄もネクタイの好みも、教養を偲ばせている。柔和な眼をしていた。
 ポケットからパイプを取り出し、真白いハンカチで磨きはじめた。妻は、夫のオーバー
 を丁寧にたたみ、自分のコートを脱いで一緒に網棚にあげた。四十前であろうか、細長
 い面で上品な感じであった。支度が終わると、夫の横の席に落ちつき、黙って、雑誌を
 開いていた。静かな眼差しである。
・夫は、一言が二言、何か言った。妻は顔を寄せてそれに応えた。微笑が二人の頬いあっ
 た。静かな話し方である。妻は、すんなりとした格好のいい姿勢で掛けていた。隆志と
 久美子は、斜め前のこの夫婦に、しばらく眼を惹かれた。「品のいいご夫婦ね」久美子
 が囁いた。隆志はうなずいた。この夫婦は、周囲のどの乗客にも見当たらない、おだや
 かな上品さと、静寂な愛情を、その雰囲気にもっていた。
・隆志は眼をそむけ、久美子を見た。久美子は背中を後ろに倒し、眠っていた。子供らし
 い寝顔だ。隆志の愛情だけを信じている顔だった。が、この時、彼は妙に久美子が離れ
 た存在に感じられた。それが、向かいの夫婦の影響であることは確かだった。考えてみ
 ると、こっちの二人には過剰な愛情はあるが、生活がなかった。先方は、控え目な愛情
 の底に、安定のある生活の基礎があった。それが眼に見えない圧迫となってくる。
・博多には午を過ぎて着いた。窓の外には見知らぬ駅が構えていた。駅の前に出ると、旅
 館の客引きが寄ってきた。案内されたところは、街から入り込んだ小さな旅館であった。
 部屋は六畳くらいの狭さ、障子を開けると、隣の家の物置がすぐにみえた。服装で、客
 引きに値打ちを踏まれたのだ、と隆志は気づいた。隆志のオーバーは三年前に買ったも
 のだった。久美子のものも色が褪せて裾のほうには汚斑が見える。彼の靴も、彼女の沓
 も、皺が寄ってくたびれていた。その二揃いの靴が、宿の下駄箱の中に入っているかと
 思うと、彼は赭くなった。旅館の者は、隆志の持っている手提鞄の中に、浪費してもい
 い三十五万円があるのを知らない。
・女中が茶と菓子を出して、引き退ったあとに、隆志は「デパートに行こう」と言った。
 「もっと上等な服を着る必要がある」否応を言わせないものがあった。外出する、がと
 宿には言って、デパートの場所を訊いた。東京と同じくらいに立派なデパートがある。
 隆志はまず自分のオーバーと洋服を買った。英国製である。これと靴とに十万円近く払
 った。久美子には、しり込みするのを、スーツに、オーバーを強いた。女店員が半分妬
 ましそうな眼つきで言った。久美子の服装に七万円を払った。
・旅館に帰ると、番頭も、女中も、眼をむいていた。隆志は、ざま見ろ、と思い、他の旅
 館に移るからと言った。女中が、あわてて、もっといい部屋があると告げたが、構わず
 そこを出た。出るとき、千円の茶代を置くと、女中は畳に頭をすりつけてお辞儀した。
・翌日の朝、二人は博多を発ち、熊本に向かった。熊本から阿蘇に行くのだ。今ごろは、
 会社が警察に訴えて、隆志の行方を捜索しているに違いなかった。九州とは誰も気がつ
 くまい。それが分かるまでには、まあ時日がある。鞄の中には、まだ十七万円残ってい
 た。まだ、これだけの金が残っていれば、三四日の旅の夢には少しも困らなかった。
・阿蘇に着いたのは、遅い午後だった。遠いところに霞んで海が見える。雲の下の草の上
 には、放牧の馬が群れていた。火口の上は、褐色の絶壁だった。地鳴りがして煙が上っ
 ていた。二人はそれを見詰めていた。「自殺をする奴は、何処から飛び込むんだろう?」
 ほかの見物客が話しながら、二人の背後を通った。煙で、下は見えなかった。
・山の中腹に、白い壁のホテルがあった。白い服のボーイが飛び出してきた。ここでも、
 帳場は上等な客として隆志と久美子を扱った。「夢みたいだわ」久美子は部屋に入って
 呟いた。観光ホテルは阿蘇山中第一の旅荘である。部屋は色彩と調度に贅沢が充ちてい
 た。  
・これから別な生活がはじまる。それは三日か四日であろう。その先の瞬間のことを隆志
 は茫乎として考えた。しかし、まだ、その現実は知っているだけで隙があり密着がなか
 った。隙間は空気のような不安が揺れて埋めていた。夕食のを摂ったあと、隆志は久美
 子を誘って散歩に出た。二人は手を組んだ。時々は立ち止まって、唇を合わせた。久美
 子は自分の行先の近づいてきたことを知っている。隆志は感情がこみ上がった。
・ホテルの玄関が見えるところまで近づくと、傘をさして二人の男女が歩いていた。傘の
 陰と、暗いのとで顔は見えなかったが、女はホテルの着物を着ていて、すらりとした背
 だった。隆志は、不意に、「さちかぜ」で見たあの中年の夫婦を直感した。 
・翌日、阿蘇から熊本に出ると、二人は城のあとなど見て回った。何も眼に映るものはな
 かった。彼らは、怠惰に市中を彷徨した。
・日奈久という駅に降りた。旅館は海に近く、城壁の塀を回した大きな家であった。女中
 は二人の服装を見て、一番上等の部屋に通したらしかった。海を見に行った。海は、冷
 たい風が吹いていた。家のならびから離れると、人影がなかった。汐の香りだけが強い。
 隆志は久美子の肩に手を措いた・その肩は掌に伝わるほど慄えていた。海は、女中が宿
 で説明した、不知火が夏に浮かぶという有明海であった。二日あとに死ぬよ、と隆志は、
 よっぽど言い出そうとしたが、声にならなかった。言っては残酷のような気がした。久
 美子は、それを感じているのだ。
・死ぬ前の豪華な旅が、このように気持ちを沈ませるとは思いも寄らないことだった。も
 っと人生の最後の充足を期待したのだ。安サラリーマンとして隆志が遂げられなかった
 夢を、三四日の間に悉く燃焼させるつもりで来た。空想していたことの一部は、たしか
 に現実になった。しかしその場の充実は、指の間から逃げて行くように脱落するのだ。
 なぜか分からなかった。が、それが彼の心の中で自然に起こった現象でないことは言え
 そうだった。何かの影を受けてからだった。自分よりも勝っているもの、もっと充実し
 た何ものがの影であった。隆志は、それはあの夫婦だと思った。
・その夜、二時ごろであった。隆志は、何かの音に眼を醒まされた。「ご免下さい」と忍
 びやかな女の声だった。「警察の方が、各部屋のお客様にお会いしたいそうでございま
 す」女中は襖の外で小さく言った。隆志は、顔が蒼くなった。胸が高く鳴りだした。頭
 が逆上せて、指の先まで動悸が搏った。襖が開いた。女中が行儀よく膝を進めて来よう
 とした。それを、誰かが後ろで停めた。ジャンバーを着た男が二人づれで女中の背後か
 ら隆志たちの顔を覗いている。女中をとめたのは、その一人のようだった。「どうも、失
 礼いたしました。もう結構ですからお寝みください」と隆志たちに言った。
・朝になって、茶を運んできた女中が昨夜のことを謝った。「事件が起きたのですって。
 犯人は若い夫婦づれだそうです」
・茶を呑み、新聞を拡げた・「あら、あのご夫婦だわ」と向いの椅子に腰かけていた久美
 子が低く叫んだ。庭はかなり広い。植え込みの樹が多い。その樹の間を二人連れで歩い
 ているのはまさしくあの中年の夫婦だった。「あのご夫婦も、この旅館に泊まっていら
 したのね」久美子が感嘆して言った。
・羨ましい夫婦だった。安定した生活が、その二人の様子に溢れていた。夫のパイプをく
 わえた姿も、妻のより添った姿も、たとえば冬のおだやかな陽の光のように、凝結した
 静止と温かみがあった。がっちりとした建築のような生活の上に踏まえた、羨望のすべ
 き中年の安定だった。”あんな人生もある!”隆志は、感動して泪が出そうだった。夫
 と妻とは静かに語り合った。ふと、夫は顔を上げてこちらの方を見た。やさしい眼に、
 訝りの表情がみえた。それから妻の方を向いて何か言った。夫婦は微笑を隆志と久美子
 に投げた。隆志は希望のようなものが湧いたと感じた。
・隆志は検事に答えた。「あの夫婦が、僕にそれを与えました。実際、僕は羨ましかった
 のです。ああいう人生をいつか持ちたい、そう思ったのです」「それで自首して出たの
 か?」検事は、しばらく隆志の顔を見詰めていたが、「あの夫婦は、君たちの方を羨ま
 しがっていたかもしれないよ」とぽつりと言った。「先方は君たちより、もっと大きな
 苦労をもっていたのだ。あの男はね、六百万円の横領犯人だった。ある会社の会計課長
 でね。君たちが細君だと思っていた女は、バーのマダムで彼の愛人だった。君たちは、
 あの二人から勇気を得て東京に帰ったが、当人たちはそのあとで情死したよ。薬を宿で
 飲んでね」隆志が息を詰めて、言葉を失った。