科学者の心 :寺田寅彦

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この本は、私の本棚の隅にほこりをかぶって眠っていた本で、いまから50年以上も前の
昭和44年(1969)に出版されたものである。同じ本が中古本などで出回っているか
どうかネットで調べて見たが、まったく見当たらない。唯一、国立国会図書館に登録され
ているということだけがわかった。今となってはなかなか貴重な本と言えるようだ。
内容は、寺田寅彦氏をはじめ彼の弟子など四人の物理学者が大正から昭和にかけて記した
エッセイ集である。今からしたら、かなりの昔の時代のエッセイということになるのだが、
そんな昔の時代においても、こんなことが語られていたのかいう内容もあり、とても興味
深く読んだ。

私が特におもしろいと思ったのは、寺田寅彦氏の「科学者とあたま」というエッセイだ。
寺田寅彦氏が理化学研究所の研究員だったということもあってか、私はこれを読んで小保
方晴子
さんのことを思い出した。いまから7年前になる2014年に、当時、理化学研究
所の研究員だった彼女がSTAP細胞なるものを発見したということで、これはノーベル
賞級の発見だということで、NHKをはじめ当時のマスメディアは大々的に取り上げ、彼
女は「かっぽう着姿の研究者」として一気に「時の人」となったのであるが、しかしその
後、STAP細胞発見は誤りということになり、彼女は一気に天国から地獄へと突き落と
された。彼女の記者会見での「STAP細胞はあります」という悲痛な叫びは、今でも私
の耳に残っている。
寺田寅彦氏はエッセイの中で述べているように、科学とはたくさんの誤りや失敗の山の中
から一つとか二つ真実として残ったものなのだ。小保方晴子氏がおかしたような失敗とい
うのは、科学の世界では日常茶飯事なのだ。それを、まるで大詐欺師のような扱いで天下
に晒し、袋叩きにした当時のマスコミや関係機関の行為は、とても罪深いことではなかっ
たのかと、このエッセイを読んで、今になって私には思えたのだ。
あの騒動で地獄をさまよった彼女は、いまどうしているのかわからないが、あの騒動で彼
女の科学者としての道は完全に断たれたのではないかと思うと、なんだかとても気の毒で
残念な気がしたのだ。

また、私がもうひとつ興味深く思ったのは、中谷宇吉郎氏の「天地創造の話」という北海
道の昭和新山に関するエッセイだ。このエッセイを読んで、若い頃に北海道旅行をしたと
き、この昭和新山に立ち寄り登ったことを思い出した。当時は、畑の中に突然できて山ら
しいというぐらいしかの知識しか持っていなかったのだが、今になって、たいへん貴重な
山に登ったのだと、改めて思い知らされた。この昭和新山の出来事に関して書かれた本が
ないかと探したところ、新田次郎が「昭和新山」という作品を書いていた。ぜひ一度読ん
でみたいものである。


<寺田寅彦>

茶碗の湯(大正11年5月)
・すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴の心になるものがあ
 って、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういう心がなかったら、霧は容
 易にはできないということが学者の研究でわかってきました。その心になるものは通例、
 顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かい塵のようなものです。空気中にはそれが自然
 にたくさん浮遊しているのです。
 
藤の実(昭和8年2月)
・年末から新年へかけて新聞紙でよく名士の訃音が頻繁に報ぜられることがある。インフ
 ルエンザの流行しているときだと、それが簡単に説明されるような気のすることもある。
 しかしそう簡単に説明されない場合もある。
・四、五月ごろ全国の各所でほとんど同時に山火事が突発することがある。一日のうちに
 九州から奥羽へかけて十数か所に山火事の起こることは決して珍しくない。こういう場
 合は、たいてい顕著な不連続線が日本海から太平洋に向かって進行の途中に本州島弧を
 通過する場合であることは、統計的研究の結果から明かになったことである。「日が悪
 い」という漠然とした「説明」が、この場合には立派に科学的の言葉で置き換えられる
 のである。
・人間がけがをしたり、遺失物をしたり、病気が亢進したり、あるいは飛行機が落ちたり、
 汽車が衝突したりする「悪日」や「さんりんぼう」も、現在の科学から見れば、単なる
 迷信であっても、未来のいつかの科学ではそれが立派に「説明」されることにならない
 とも限らない。少なくともそうはならないという証明も今のところなかなかむずかしい
 ようである。
 
蜂が団子をこしらえる話(大正10年7月)
・私は毛虫にこういう強敵のあることを全く知らなかったので、この目前のできごとから
 かなり強い印象を受けた。そして今さらのように自然界に行われている「調節」の複雑
 で巧妙なことを考えさせられた。そして気まぐれに箸の先で毛虫をとったりしている自
 分の愚かさに気がついた。
・我々がわずかばかりな文明に自負し、万象を征服したような心持ちになって、天然ばか
 りか同胞とその魂の上にも自分かってな箸を持って行くようなことをあえてする。それ
 が一段高い所で見ている神様の目にはずいぶん愚かなことに見えはしまいか。
・虫の行為はやはり虫の行為であって、人間とは関係ないことである。人として虫に劣る
 べけんやというような結論は今日では全く無意味なことである。それにもかかわらず虫
 のすることを見ていると実におもしろい。そして感心するだけで決して腹が立たない。
 私にはそれだけで充分である。私は人間のすることを見ては腹ばかり立てている多くの
 人たちに、わずかな暇をさいて虫の世界を見物することをすすめたいと思う。

病院の夜明けの物音(大正9年3月)
・朝の五時ごろにいつでも遠い廊下のかなたで聞こえる不思議な音ははたして人の足音や
 扉の音であろうか。それとも蒸気が遠いボイラーからだんだん寄せてくるときの雑音で
 あろるか。とうとう確かめることができないで退院してしまった。今でもあの音を思い
 出すと何となく一種に、神秘的というのはあまり大げさかもしれぬが、しかしやはり一
 種の神秘的な感じがする。なぜそんな気がするのかわからない。遠い所から来る音波が
 廊下の壁や床や天井から何べんとなく反射される間に波の形を変えて、元来は平凡な音
 があらゆる玄逸の手近な音とはちがった音色に変化し、そのためにあのような不可思議
 を感じを起させるのか。あるいは熱い蒸気が外気の寒冷と戦いながら、徐々にしかし確
 実に鉄管を伝わって近寄ってくるのが、なんだか「運命」の迫ってくる恐ろしさと同じ
 ように、何かしら避くべからざるものの前兆として自分の心に不思議な気持ちの悪い影
 を投げるのか。考えてもやはりわからない。
・これとは何の関係もないことだが、自分の病気の経過を考えてみるとなんだか似かよっ
 た点がないでもない。気味わるい不安な、しかし不確かな前兆が長くつづいている間に
 だんだん実になればもう少しも気味わるい恐ろしさはない。
・病院の蒸気ストーブは数時間たつとだんだんに冷えてくる。冷え切ったところにまた前
 のような音がして再び送られてくる蒸気で暖められる。しかし昼間は、あの遠い所です
 る妙な音はいろいろな周囲の雑音に消されてしまうのか、ただすぐ自分の室の隅でガチ
 ャンガチャンと鳴るきわめて平凡で騒々しい、いくらか滑稽味さえ帯びた音だけが聞こ
 える。夜明け前の寂寞を破るあの不思議な音と同じものだとはどうしても思われない。
・自分の病気と蒸気ストーブは何の関係もないが、しかし自分の病気もなんだか同じよう
 な順序で前兆、破裂、静穏と三つの相を周期的に繰り返しているような気がする。一番
 いやなのはこの「前兆」の長い不安な間隔である。「破裂」の時は絶頂で、最も恐ろし
 いときであると同時にまた、適当な言葉がないからしいて言えば、それは最も美しい絶
 頂である。不安の圧迫がとれて貴重な静穏に移る瞬間である。あらゆる暗黒の影が天地
 を離れて万象が一度に美しい光に照らされるとともに、長く望んで得られなかった静穏
 の天国がくるのである。たとえこの静穏がもしや「死」の静穏であっても、あるいはむ
 しろそうであったら、この美しさは数倍も、もっともっと美しいものではあるまいか。
 
科学者とあたま(昭和8年10月)
・いわゆる頭のいい人は、いわば足の早い旅人のようなものである。人よりさきに人のま
 だ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたにあるちょっとした脇道
 にある肝心なものを見落とすおそれがある。頭の悪い人、足ののろい人がずっとあとか
 らおくれて来てわけもなくその大事な宝物を拾って行く場合がある。
・頭のいい人は、いわば富士の裾野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富
 士の全体をのみこんで東京へ引き返す心配がある。富士はやはり登ってみなければわか
 らない。
・頭のいい人は見とおしがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なく
 とも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を沮喪しやすい。
 頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出
 あっても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というの
 はきわめてまれだからである。
・頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然が我
 々に表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っ
 ている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そう言ったような
 傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学でなくなる。一方でまた自分の
 思ったような結果が出たときに、それが実は思ったとは別の原因のために生じた偶然の
 結果でありはしないかという可能性を吟味するという大事な仕事を忘れる恐れがある。
・頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめから駄目にきまっているような試みを、一
 生けんめいにつづける。やっと、それが駄目とわかるころには、しかし何らかしら駄目
 でない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめから駄目な試み
 をあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なく
 ない。
・頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人にしなけ
 ればならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打明けるものである。
・科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者の頭の悪い能率の
 悪い仕事の歴史である。
・頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴う
 からである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれ
 ない。科学者はやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川
 のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭のよい人は戦士にはなりにくい。
・頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする
 ことが愚かに見え、したがって自分が誰よりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そ
 うなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まっ
 てしまう。頭の悪い人には他人がたいていみんな立派に見えると同時にまたえらい人の
 仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるという
 こともあるのである。
・頭のいい人で人の仕事のあらはわかるが、自分の仕事のあらは見えないという程度の人
 がある。そういう人は人の仕事をくさしながらも自分で何かしら仕事をして、そうして
 学界にいくぶん貢献する。
・しかしもういっそう頭がよくて、自分の仕事のあらも見えるという人がある。そういう
 人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それで結局研究の結果をまとめない
 で終わる。すなわち何もしなかったのと、実証的な見地からは同等となる。そういう人
 は何でもわかっているが、ただ「人間は過誤の動物である」という事実だけを忘却して
 いるのである。
・一方ではまた、大小方円の見さかいもつかないほど頭が悪いおかげで大胆な実験をし大
 胆な理論を公にし、その結果として百の間違いのうちに一つ二つの真を見つけ出して学
 界に何かしらの貢献をし、また誤って大家の名を博することさえある。
・しかし科学の世界はすべての間違いは泡沫のように消えて真なもののみが生き残る。そ
 れで何もしない人よりは何かした人の方が科学に貢献するわけである。
・頭のいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合でも、その仕事が結果の価値と
 いう点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なものになりそうもないとい
 う見こみをつけて着手しないで終わる場合が多い。しかし頭の悪い学者はそんな見こみ
 が立たないために、人からはきわめてつまらないと思わることでも何でもがむしゃらに
 仕事に取りついてわき目もふらずに進行していく。そうしているうちに、初めには予期
 しなかったような重大な結果にぶつかる機会もけっして少なくない。
・頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学
 者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ
 出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者に
 はなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれないことももちろんある。やは
 り観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
・最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者で
 も、時として陥る一つの錯覚がある。それは、科学が人間の智恵のすべてであるものの
 ように考えることである。科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が
 科学者であるには防げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となる
 であろう。これもわかりきったことのようであってしばしば忘れがちなことであり、そ
 うして忘れてはならないことの一つであろうと思われる。
 
天災と国防(昭和9年11月)
・日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じ、い
 ろいろな仮想敵国に対しる特殊な防備の必要を生じると同時に、気象学的地球物理学的
 にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地
 異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れては
 ならないはずである。
・地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然ないとは言われないまでも、
 頻繁にわが国のように劇甚な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。
 わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性
 の上に良い影響を及ぼしていることも否定しがたいことであって、数千年来の災禍の試
 練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事
 実である。
・しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れがちな重大な要項が
 ある。それは文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増すという
 事実である。
・文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようと野心を生じた。そうして、重力に
 逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうし天晴れ自然の暴威
 を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、
 自然が暴れ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産をほろぼす。
 その災禍を起させたとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当では
 ないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが
 上にも災害を大きくするように努力しているものは誰であろう文明人そのものなのであ
 る。
・文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こってくると事情は未開時代と
 全然変わってくる。天然による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくな
 ってくる。
・二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパ
 イプが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきもなく張り渡されているありさまは高
 等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響
 はたちまち全体に普及するであろう。
・これほど大事な神経や血管であるから天然の設計になる動物体内ではこれらの器官が実
 に巧妙な仕掛けで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送
 電線は野天に吹きさらしで風や雪がちょっとばかりつよく触れればすぐに切断するので
 ある。市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。
・昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実で
 あった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えた
 ような建築様式のみを墨守してきた。それだからそうした経験に従って造られたものは
 関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を
 見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているの
 に、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているの
 を見たときつくづくそういうことを考えさせられたのであった。今度の関西の風害でも、
 古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場
 が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。
 やはり文明の力を買いかぶって自然を侮りすぎた結果からそういうことになったのでは
 ないかと想像する。
・今度の風害が「いわゆる非常時」の最後の危機の出現と時を同じうしなかったのは何よ
 りしあわせであったと思う。これが戦禍と重なり合って起こったとしたらその結果はど
 うなったであろうか。想像するだけでも恐ろしいことである。弘安の昔と昭和の今日と
 では世の中が一変していることを忘れてはならないのである。
・戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばか
 りは科学の力でもその襲来を中止させるわけにはいかない。その上に、いついかなる程
 度の地震暴風津波洪水が来るのか今のところ容易に予知することができない。最後通牒
 も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろ
 しい敵はないはずである。
・たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡に至るまで
 のあらゆる大小年の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統
 に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹機す
 る恐れがある。万一にお大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々
 の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少なくとも数村を微塵にな
 ぎ倒し、多数の犠牲を出すであろう。水田の堰堤が壊れても同様な犠牲を生じるばかり
 か、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる。
・こういうこの世の地獄の出現は、歴史の救うるところから判断して決して単なる杞憂で
 はない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、
 次に起こる「安政地震」には事情が全然違うということを忘れてはならない。
・国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているの
 であろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する
 国防策は政府のどこで誰が研究しいかなる施設を準備しているか、はなはだ心もとない
 ありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍
 のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備え
 るのが当然ではないかと思われる。
・陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台
 風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどう
 いうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心してもよい
 ものであろうか。
・人類が進歩するに従って愛国心も大和魂もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾
 雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂であるが、天然の強
 敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわ
 しい大和魂の進化の一相としてしかるべきことではないかと思われる。
・天災の起こったときにはじめて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、
 昆虫や鳥獣ではい二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった合理
 的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。
 
 
中谷宇吉郎

日本のこころ(昭和25年4月)
・建国以来二千年、日本の国は、世界からすっかり隔絶されていた。もっとも中国や韓国
 とは、いろいろな交渉があったが、それはいわば身内の中での交渉である。広い地球の
 上では、いろいろは変化があり、興亡も栄枯も非常に目まぐるしかった。特に近世のい
 わゆる植民地獲得時代では、世界中がその荒波の影響を受けた。その時代における徳川
 三百年の鎖国は、世界の中で、一つの特異な文化をこの国につくり上げた。
・この特異な文化は、はなはだしい封建性、我の自覚の徹底的な欠陥など、いろいろな未
 開民族に特有な属性をもっていた。しかしそれと同時に、近代文明の持ち得ない一つの
 人間性を育てあげた点も、見逃してはならない。
・現代の物質文明、というよりもこの物質文明をつくりあげた西洋の意識が、まだ十分に
 輸入されなかった時代、すなわち明治の初期をふり返ってみる。その時代にはあらゆる
 欠陥をもちながらも、そのかげに一種の美しさをたたえた感情が、日本国民の中に広く
 しみわたっていた。
・敗戦後の日本人の大多数、少なくも現代教育を受け、都市生活の片鱗を味わったことの
 ある日本人の大多数は、アメリカの生活を理想の生活と思い込んでいる。アメリカ人の
 能率と勤労精神との所産であるアメリカの生産とは、物質文明の点で、有史以来の繁栄
 をもたらしている。精神界においても、清教徒とクェーカーとの生んだアメリカの精神
 的骨格には、まことに驚嘆すべきものがある。
・しかし世の中には、いかなる場合にも、万全ということは望まれない。アメリカの心あ
 る人びとの中には、この繁栄の下に、おしつぶされつつある人間性のために、憂慮の心
 を抱いている人もかなりあるようである。
・現在の日本人がいちばん学ぶべきことは、アメリカの能率である。そしてあの能率は、
 主としてアメリカの物質文明の所産であるところの、交通および通信施設の完備からき
 ているものである。しかしそれよりも、もっと重視すべきものは、アメリカ人の勤労精
 神である。八時間労働といっても、拘束九時間、実働八時間、午前と午後に十分ずつの
 休憩があるだけで、正味七時間四十分の労働時間中は、一分も休みなく働いている。流
 れ作業に従事している筋肉労働者の勤労ぶりは、組織の中にはめ込まれているので、こ
 れはむしろ当然のこと、あるいは働かざるを得ないようになっていると見ることもでき
 る。それよりも感心なのは、デスクの仕事をしているホワイト・カラーの人たちお仕事
 ぶりである。
・こういう事務をとっている人たちは、つぎからつぎと書類がくるといっても、ベルトに
 ものが載って流れてくるのとはちがう。ちょっと息を抜くことは、もちろん可能である。
 しかし執務時間中は、ほとんど煙草も喫まず、お茶なども決してのまない。
・日本の官庁などでは、客がのべつ幕なしにあり、給仕がまたのべつ幕なしにお茶を運ん
 でくる。隣の席では、二、三人かたまって、煙草の煙をもうもうとさせながら、雑談を
 していることがよくある。ああいう景色を見なれている者の目には、アメリカの官庁や
 会社の執務室にみなぎっている勤労意欲は、まことに異様な趣を感じさせる。そしてア
 メリカ人に幸福をもたらしている、あの膨大な生産の基礎は、この能率生活にあること
 を痛感させられる。
・物質を離れて生活は成り立たない。このアメリカの能率は、近代文明の所産であると同
 時に、その基礎でもある。それで世界中どこの国でも、近代の文明生活に入ろうとする
 には、何によりもまずこの能率生活をとり入れる必要がある。
・しかしこういう能率生活は、人間を非常に疲労させる。筋肉的というよりも、毎日七時
 間四十分、一分の遅刻もなく、機械のように働くことは、精神的に非常に緊張を必要と
 し、それは人間の芯を疲れさせる仕事である。それでアメリカでは、近年は一週五日制
 をとっているところが大部分を占めている。官庁や大会社はすでにこの五日制をとり、
 小さい会社なども漸次五日制になりつつある。
・事実、月曜の朝八時零分から、金曜の午後五時零分まで、こういう仕事をしつづけたら、
 どんな人でもへとへとになってしまうのである。それで、土曜と日曜とは完全な休養を
 とる。またとらざるを得ないのである。もっとも一日は家庭内の細々した仕事もしなけ
 ればならない。人を雇うとたいへんな金をとられるので、中流階級の人たちは、たいて
 いの家の仕事は自分でやる。そして一日は自動車で朝早くから百マイルもさきの自然林
 の中に出かけ、終日人工の全然加わっていない野生のままの自然のなかにねころび、ま
 た汗を流して歩きまわり、ビールを飲んで歌をうたう。夜はばか騒ぎをして、ダンスす
 る。こういう休養、主として精神的の休養をして、そしてまたつぎの日の朝八時零分か
 ら仕事にとりかかるのである。
・しかし一年間こういう生活をつづけると、だんだん目に見えない精神的疲労が、身体の
 奥深いところにたまってくる。それを救うものは、夏休みである。どんな人でも、三週
 間くらい、少なくとも二週間は夏休みをとることができる。この時期が、気持ちの更生
 にたいせつな時期なのである。
・夏休みになると、誰も彼もカーを駆って国立公園に走る。国立公園といっても、大きな
 ものは、四国くらいの広さである。その地域は、なるべく人工を加えないで、原始の姿
 のままに保存されている。道路だけは立派に作ってあるが、一歩舗装道路をはずれると、
 暗黒の密林、あるいは熱帯の砂漠、または奇厳の岩原である。道なき荒野を密林を、何
 マイルと歩きまわり、草の上に寝たり、キャンプしたりして、原始生活を楽しむ。そし
 て煙にむせびながら炊事の火をあおぐ。それが最大の慰安なのである。
・一週間や二週間、こういう原始生活をして、心身を新しくして、また職場にもどる。こ
 れでつぎの一年間は、また朝の八時零分から始まる仕事場で、機械のように働くエネル
 ギーが湧き出てくるのである。
・週末ごとに一週間の疲労を癒し、一年ごとに芯の疲れを救って六十歳ごろまで働く。そ
 の間に老後の生活費を貯蓄し、それを規則正しく使い果たして死ぬ。見ようによっては、
 これが大多数のアメリカ人の一生である。
・よく働き、よく遊び、大いに生産を上げて、国の富を増し、大衆の生活水準を向上させ
 る。そのおかげで、衣食住全般にわたって日本の目からみれば、何不自由ない恵まれた
 生活をしている。しかしこの極度に発達した近代文明は、次第に人間性をおしつぶしつ
 つあるという見方もできる。
・どんな階級の人にも、一年に二週間か三週間かの休暇がとれるというと、日本では無条
 件にうらやましがる人が多い。しかしそういう休暇をもらわねば生命がつづかぬという
 生活をしているともいえるのである。
・文明に逆行することが、人間の幸福であるのかと、正面きって問つめられると、ちょっ
 と困る。しかし、物にはすべて両面がある。それを忘れると、話がとかく極端に走るお
 それがあるということは知っておく必要がある。
・日本人には、どうも近代の西洋文明は肌が合わないのではないかという気がする。そう
 かといって 、世界文明に逆行することはできない話である。能率の向上、生産の拡充
 には、もちろんできるだけ努力する必要はある。しかしあまりそのほうだけに気をとら
 れて、日本のこころを、むやみと振りすてることもちょっともったいないような気がす
 る。

天地創造の話(昭和二十二年七月)
・天地創造の話というと、たいへん大袈裟なことになるが、昭和19年の夏から、北海道
 の片隅で、そういう異変が現実に起きているのである。
・今まで鉄道が通り畑が耕されていたただの平地であった所が、毎日二十センチくらいの
 速さで隆起してきて、人家や道路が、いつのまにか丘の上に持ち上げられてしまった。
 そのうちに噴火が起きて、そこに突如として、四〇五メートルもの高さの火山が現出し
 たのである。その火山は今もなお盛んに鳴動しながら、噴煙を吐いている。
・そういう大異変、おそらく世界的にいっても非常に珍しい天地の変動が、現にわが国の
 一地点で、実際に起きつつあったのである。しかし人々は目前の戦況に心を奪われ、一
 日何合の米に気をとられていて、そういうことには注意をはらう暇がなかったようであ
 る。
・もっともそれには官憲側の取り締まりもあったので、この異変はその勃発当初以来、終
 戦のときまでは、報道が禁止されていたのである。
・この異変が起きた場所は、有珠山の東にあたる壮瞥村であって、?知安から洞爺湖のほ
 うへ抜ける支線鉄道の壮瞥駅から、半里くらいのところにある。昭和十八年末ごろから、
 この地方だけに頻々として地震が起こり、それが一日百回くらいにも達した。また有珠
 山が噴火するのかもしれないというので、年末押しせまって、何十台とかのトラックを
 総動員して洞爺湖温泉の人たちを、急遽非難させたという噂が伝わってきた。
・十八年の暮れといえば、アッツの玉砕に引きつづいて、南太平洋の諸島で、つぎつぎと
 玉砕が報ぜられ、戦局の大勢を示す陰鬱な暗雲が、知らず知らずのうちに人々の頭上に
 感ぜられていたころである。 
・福富博士の報告にあるおもしろい例では、付近の某氏宅から、以前は南方に遠く噴火湾
 を望み得たのに、目の前に丘が盛り上がってきて、その眺望がきかなくなってしまった
 という。その反対に以前は坂下にあって見えなかった人家がせり上がってきて、眼前に
 現われたのである。まさに異変である。考えてみれば恐ろしい話である。しかしそうい
 う土地の上にも、なお住民たちは、案外不安な顔もしないで住んでいた。
・この間わが国の地球物理学者たちは、戦争に直接関係ある研究に動員されながらも、時
 を盗んでたびたび現地の調査をして、一応はこの異変の全貌をとらえたのであった。
・北大では地球物理の福富教授と地質の石川教授とが、四月末ごろからたびたび調査をし
 て、その観測は今日まで続いている。この地変はその年、すなわち昭和十九年の六月二
 十三日の爆発にいたってその序曲を閉じ、引き続いての噴火によって、いよいよ本格的
 大異変に展開して行ったのである。
・これだけの異変が地表に起こるには、地下によほど恐ろしい力のひしめきがあるにちが
 いない。 しかしそれが噴火となって爆発するか、この程度で落ち着きかという見とお
 しは、なかなか困難であった。
・しかし考えようによっては、これだけの大変化として、勢力の一部が発散してしまった
 のだから、案外この程度でおさまるかもしれない。そういう期待をするには、参考とな
 る前例がある。それは明治四十三年の有珠の噴火であって、そのときは今回の場合ほど
 ではないが、やはり異変が起こったので、その前兆をとらえて、ときの室蘭警察署長飯
 田氏が、非常手段をもって、付近一万五千の住民に強制立ち退きを命じて、災害を未然
 に防いだことがある。今回はそのときよりももっと大規模な異変が、もう六か月も続い
 ているのであって、噴火が起きるものならば、もうとっくに起きてしまっているであろ
 うという観測である。
・この根拠のない希望的期待は、簡単に破れてしまって、六月二十三日の朝、ついに爆発
 が起こり、噴煙を開始したのである。地点は有珠火山の山腹をめぐる突起山塊の一つ、
 丸本山の南方ほど近いところである。松本山は標高二三九メートルで、周囲のいくつか
 の山塊の中では、目立って突出していた山であるが、この新火山はみるみるうちに隆起
 して行って、まもなく松本山を眼下に見るまでに生長したのである。
・最初の爆発から新火山の生成にかけて、始終そのスケッチと記事をとって、千歳一隅の
 貴重な記録を残した人がある。これは壮瞥村の郵便局長三松氏であった。その記録によ
 ってわれわれは、この世紀の大事件の過程を、いながらにして知ることができるのであ
 る。この爆発の報道は、数行ばかりの記事として、新聞の片隅に出ていたが、その時期
 が、たまたま今次の大戦の決定的段階を画したサイパンの陥落と相前後していたために、
 狂躁的興奮の渦に巻かれていた国民の中に、それに一瞥を与えた人はほとんどなかった
 であろう。しかし三松氏はその後もあいつぐ国民的悲報の連続の中で、克明にこの記録
 をとり続けたのである。
・周囲の山の木立はもちろん全滅。全山緑であった松本山は、一挙にして熱灰の山となり、
 七月七日の報告で、すでに「丸本山は丸坊主となり低く」とあるところをみると、新火
 山は非常な勢いで盛り上がっていったらしい。
・その後も隆起は依然としてやまず、一日一メートルくらい、火口付近は数メートルとい
 う勢いで生い立っていった。そして冬を越して、昭和二十年の春を迎えるころは、昨年
 まで畑であったところに、周囲二キロメートル、高さ四〇五メートルの火山がそびえ立
 ち、まん中に突っ立って立派な円頂丘からは、盛んに噴煙を見るという奇跡の山が現出
 したのである。
・一生のうちに再び見ることのできないであろうおの大異変を眼前にしながら、私は一日
 一日を引きずられるような姿で、戦時研究に没頭させられ、二日の暇をさくことができ
 なかった。というよりもそれだけの気力が出ないほど疲れていたのであろう。ところが
 その夏に、幸いこの新火山近くの飛行場で、ある研究をすることになったのを機会に、
 一日つぶして全教室員で見に行くことにした。案内は福富教授である。各人それぞれ自
 慢のカメラや寒暖計などを持ち出して、たいへんな意気込みで乗り込むことになった。
・歩きにくい灰の上を難航しながら、新火山の麓近くまで行く。近づくにしたがって鳴動
 はだんだん大きくなってくる。降灰層の厚みは、二メートルを越えるところもある。降
 水の浸蝕のために、いたるところに原始の川ができている。 
・地割れといったほうが適当なこの原始の川については、構造よりもそお形のほうが、私
 にはもっと心がひかれた。山肌のわずかばかりの凹みを水が流れ、一度水が流れると、
 ますます溝が深くなるので、その流路は固定される。そういう流路がたくさん沢に向か
 って集まり、一本の幹となって流れくだる。それらの流路が、一草のさえぎるもののな
 いこの原始の山肌の上では、ちょうど地図の上に見る川の形そのままに見られるのであ
 る。
・山はただ一面の灰におおわれ、生ける者のしるしもない。灰色一色の山肌の上に、両岸
 の切り立ったこの原始の川が、強い鉄線を曲げたような形に、黒く力強い線となって刻
 み込まれている。天地創造の世界で、川が誕生するときの姿を想像するには、これ以上
 のうまい景色はないであろう。
・もうだいぶ山が落ちついているので、円頂丘にはとても登れないが、外輪山壁までは行
 けそうである。そこまで行けば、円頂丘の割れ目から中の溶岩が見えるはずだというこ
 とで、私たちはまず松本山に登った。その頂上から新火山の外輪山壁へは、比較的安全
 に登れるということである。このできたばかりの火山は、私たちの見ている眼の前でも、
 盛んに岩がくずれ落ちているので、とてもまともに近寄れないのである。
・松本山の頂上付近は、深い地割れが一面にはいっている。全山をおおった厚い降灰層が、
 その後の基盤地形の変化のよって、さんざんに割られたのである。今にも全山が崩壊し
 そうな気がする。薄気味悪い思いをしながら深い地割れをまたいで登って行く。いよい
 よ新火山にとりつくと、地鳴りがますます激しくなる。ごうごうと全山が身を震わせて
 鳴っている。何だかほんとうにその振動が脚下に響いてくるようである。
・この如実に示された地球の力に幻惑されたことも、一つの理由であろうが、今目の前に
 見るこの山の姿は、まことに美と力の象徴である。その美は人界にない妖しい光につつ
 まれている。その力にも闘争や苦悩の色が微塵もなく、それはただ純粋な力の顕現であ
 る。こういう美と力との世界は、生を知らぬ世界であり、人の心に天地創造の夢をもた
 らす世界である。
・地球物理学の立場からいえば、今度の新火山も、やはり有珠山火山活動の一例で、それ
 ほど珍しがることもないかもしれない。もっとも有珠山そのものが、世界的に珍しい火
 山なので、その意味では稀有な現象といってさしつかえない。しかし有珠では、すでに
 明治四十三年の噴火に際し、洞爺湖半に新山が隆起し、百日の間に一五五メートルの高
 さとなって、現在の山ができている例がある。
・この有珠火山では、岩漿が火口まで登ってくる前に、溶岩柱の頭が固化し、それが下方
 のまだ溶けている岩漿まで押し上げられて、円頂丘となって盛り上がってくるという特
 徴がある。円頂丘ができると火口をふさぐので、岩漿の新しい活動は、ときとして山腹
 部の抵抗の弱いところに向かい、新しい山を隆起させて、今度のような新火山をつくる。
 その溶岩柱が地上まで噴出せず、地下に潜在円頂丘としてとどまる場合には明治四十三
 年の新山の場合のように、山の隆起だけにとどまることになる。
 

和達清夫

教訓(昭和四十二年)
・明治三十八年、日露戦争が終わり、乃木大将が凱旋して名古屋駅を通過するにあたり、
 一時下車して市民の歓迎を受けた時の話である。私の両親は、当時名古屋に住んでいた。
 私は数えで四歳、兄は二つ年上の六歳であった。午後の陽を受けて、私と兄とは、大天
 幕の外に立って母の呼ぶのを待っていた。婦人会の何かをしていた母は、そのとき、あ
 るいは乃木大将が子どもたちに会ってくださる機会があるかもしれないという望みをも
 って、私たちをそこに待たせておいたのである。
・どういう都合になったのか、私たちは天幕の中に呼ばれた。白木のテーブルが並び、は
 るか先方に乃木大将の席がある。私たちは、テーブルの下をくぐって大将に近づいた。
 兄はどんどん先に行ったが、幼い私は、テーブルの下でまごまごしたので、だれかに引
 っぱり出されて、やっと乃木大将の前に二人は並んだ。私たちはおじぎをすると、大将
 は何かを言いながらあたりを見まわし、テーブルの上の林檎の皿から、一片を楊枝にさ
 して兄に、もう一片を私に渡した。
・兄は、たぶん林檎を手にしたまま、緊張して立っていたのであろう。私は、貰った林檎
 をいきなり食べ始めた。すると突然、「兄さんより先に食べてはいけない」と、大将の
 大きな声が聞こえた。私は、その意味はよくわからなかったが、自分のしたことで叱ら
 れたと知り、大声で泣き出した。
・乃木大将が自刃されたときに、私は大坂の小学校の生徒であったが、その話が新聞に出
 た。乃木大将に教訓を受けた生徒がこの学校にいるという評判がたあって、かなり気ま
 りの悪い思いをした。
・数えで四歳といえば、まだ幼いときのことであるが、私は、そのときの様子をいきいき
 とおぼえている。しかし、これは母からたびたび話を聞いて、あとからつくり上げた記
 憶かもしれない。いずれにせよ乃木大将は、満三歳にならない幼いものに、厳格に成人
 同様の教訓を与えているのである。それは、第一にそばについている母に聞かせるため
 であり、また幼いながらある程度理解できる兄に対してでもあろう。というより、そう
 いう時代だったのである。
・乃木大将にしてみれば、それは私たちに対する最大の贈り物であるし、またそうするこ
 とが、自分のなすべきつとめであると思っておられたに相違ない。
・当時としては、私は偉人に接し教訓を与えられた幸運児と世間は思い、母も子どもの教
 育について熱心さを認められたに相違ない。さて、教訓は実際にはどういう影響を与え
 たであろうか。
・この教訓は兄に向かって与えられたものであるとさえ思える。兄はその後私にはよい兄
 であり、ことに父が早く死んだあとは、私に対して父親代わりとなってよく世話してく
 れ、勉強も教えてくれた。兄は、この言葉から何か幼心に感じとったのではないかと想
 像される。
・私は、ここで変わらないものがあるように思える。それは教えるものと教えられるもの
 との間において、ほんとうに心からでたものが、聞くものの心に受け入れられるという
 ことである。昔は昔なりに、与えるものにも与えられるものにも、ある天下り的の枠が
 あり、その枠の中で、できるだけ真情をつくそうとした。
・現在では昔のように枠もないし、天下りもないし、それだけに、教訓というようなこと
 も、一つ一つその場合に適切であるという十分な考慮が大切である。したがって、その
 人の日ごろの精神とか善意とかが、そこに自然にでてくるようでなければならない。受
 けるほうも、それだけの純真さがなければ効果は期待できず、時には悪結果にもなりか
 ねない。

おかゆと小才<(昭和二十九年)
・私は、中学二年のとき、体が悪く、元気がなくて困った。べんとうがうまくなくて毎日、
 半分くらい残して帰ったものだ。いま思うと、これが、私の肺病の、最初のあらわれで
 あったようである。かかりつけのお医者のすすめで、母につれられて、そのころ、えら
 い先生であった入沢博士の診断をうけることになった。
・毎日、本郷の弓町付近にあった先生のお宅に、朝早くうかがった。先生が大学へ出かけ
 られる前に、 わずかな時間に、二、三の患者を診察してくださるのである。
・ある日、私が先生のお宅にゆくと、もう誰かが次の室で診察を受けていた。そのうちに、
 その室から出てきたのは、私より少し年上の女学生と、そのお母さんであった。その女
 学生は、背が高かったが、顔色は青白かった。お母さんと二人で、私たちにえしゃくを
 して、玄関を出て行った姿は、実に元気がなく見えた。
・それから、私が診察を受けたのであるが、先生は、私と母に向かっておっしゃった。
 「さっきの女学生を見たでしょう。あの人は学校がよくできる人で、からだが悪くても、
 学校を休むのはいやだといって、おかゆをすすで、毎日学校に行ってるんだそうですよ。
 おかゆをすすってまで、学校に行ってどうするの?いくら学校がよくできても、死んで
 はなんにもならないでしょう」 
 私は、今でもこのことばをよく覚えている。
・大阪の学校から東京の学校に、転校して間もないことで、これから一生けんめい勉強し
 ようと思っていたときであっただけに、私は、学校をやすみたくなかった。しかし、こ
 のことばは胸にこたえた。それで、おとなしく家で、二か月ぐらい療養して、それから
 学校に出た。
・私は、それからずっとじょうぶで大学を卒業することができたが、卒業して気象台に就
 職してから三年目に、こんどは血をはいて肺病になった。そして、四年ばかり療養して
 やった快復し、ふたたび気象台に勤めて、今日におよんでいる。
・しかし、「おかゆをすすって学校に行ってどうするの?」ということばを、もっとしっ
 かり覚えていて、いつも健康に気をつけていたら、あとの肺病はしなくてすんだのでは
 ないかと、残念に思っている。
・私は、そのころ駿河台のニコライ堂の下にあった、開成中学の生徒であった。この中学
 では、数学の宮本先生が、全校生徒の尊敬と人気とを一身にあつめていた。
・宮本先生は、実験物理学を専攻された人であった。したがって、物理の講義は数学以上
 におもしろいものであった。私が、中学時代から、将来物理学を学ぼうと思いたち、今
 日、気象台で地球物理学の仕事をするようになったのも、一つには宮本先生の感化が大
 きかったからであろう。
・およそ科学を専攻するものは、すなおに自然にたち向かい、小細工をもてあそばないこ
 とがたいせつである。学問は、小ざかしい智恵を働かせてできるものではない。これに
 ついて思い出すのは、前の中央気象台長で、私の恩師である藤原咲平先生のことである。
 先生は「お天気博士」と世間から呼ばれたほど、天気予報では有名なかたであったが、
 天気予報については、つぎのようなことを、いっておられる。
 「われわれは、正しい判断の妨げをするものを心得ておく必要がある。その妨げの第一
 は私心である。第二は不健康である。第三にはうぬぼれである。これは、私が長い間、
 気象台で天気予報の判断をくだすうち、体験によって学んだことである」

ある中学生の死(昭和四十一年)
・東京の代表的な私立中学K校である。創立が古いこと、多くの著名な卒業生によって有
 名であるが、私が大正の中ごろ、大阪の府立中学校からこの学校に転校してまず感じた
 のは、公舎がきたないこと、よい先生の多いこと、そして生徒のできることであった。
・教室にそまつな机がならび、級長が二人一番前で、それから成績順に後ろから坐るので、
 転校生の私は級長の隣りであった。
・最初は英語の時間で、先生はまだ習わないリーダーの一章をまず級長に読ませ訳させた。
 白面の彼は、その名をMといったが、立ち上がり、やせた両手にリーダーを持ち、大き
 な声ですらすらと訳読した。そのつぎに意外に私の名が呼ばれたので、立ち上がって無
 我夢中でそのあとをつづけた。先生に、転校してきた生徒にしてはとほめられたが、私
 はM君の学力のすばらしさで頭がいっぱいであった。
・それから二年たって、私は再びM君と同じ組になり、彼は級長、私は副級長で机を並べ
 た。M君は、遊び時間には教室で予習か復習をしていた。それだけでなく、朝校門でM
 君に会うと、いつも教科書を読みながらやってくるのである。ずいぶん勉強家だなあと
 思った。
・その後、私たちが高校の受験の準備などを友だちの間で話し合うころ、いつかM君は学
 校に来なくなってしまった。そして、ある日私は新聞の三面の片隅に小さく、中学生の
 自殺という見出しがあり、東武線の鉄道自殺をした中学生についての記事を見つけた。
 M君の名前は少しちがっていたが、確かにM君と察せられ、そして、学業成績を苦にし
 たものと書いてあるのを見て、いい知れない悲しみといきどおりを感じた。
・あとで、M君と家が近かった友人からM君の話を聞いた。M君は家が貧しく夜はある会
 社に給仕として働いていたこと、そしてある晩、珍しM君がその友人のところに来て、
 会社で何かまちがいがあったので、すまないがお金を貸してほしいと述べ、友人から何
 がしかのお金を借りたこと、その後M君は学校に来なくなったことなどである。
・私はそれを聞いて、驚くと同時に自分のうかつさが腹立たしかった。私は坊ちゃん育ち
 で、M君がどんな境遇にあったのか、言ってくれないので想像もできなかった。遊び時
 間のことも、本を読みながらの登校も、みんなそのためであったし、できたら私と無邪
 気に遊ぶ友だちになりたかっただろうに、私はノートに残る”You are happy boy"
 を思い出して号泣した。
・あれから五十年の歳月がたったが、私は今でも、M君のような人がもし生きていたら、
 どんなにりっぱな学者になったかと残念でたまらない。ただ貧乏ということだけで、す
 ぐれた純真な中学生がこんな悲しい運命をたどらなければならないとか。これからの世
 の中はもう二度とこんなことが起こらないようにしたいものである。
 
環境(昭和二十一年)
・従来の日本人の民族性として、学者のよって若干の特性が指摘され、それらは気性風土
 との関係で論ぜられていたが、それらは終戦後もはたして本質的な民族性として保持さ
 れたであろうか。社会状態の大きな変化につれて、民族性といわれたものもずいぶん変
 わったように見える。考えてみると、それらは民族性というほどのものでなく、その時
 々の環境によって適応してきた、適応性であったかもしれない。
・まことに適応性というものは、生物にとって都合のよいものであり、力強いものである。
 これなくしては、人間も生存して行くことができない。われわれは気候風土の異なる国
 に住み移ることもあれば、また大きな社会変革にも処していかねばならない。適応性の
 弱いものは、結局社会の落伍者に終わる。
・人間のつくった環境として、風俗習慣などはその代表的なものである。さきごろは新生
 活運動とかで、悪習慣をやめ、暮らしよい世の中にしようという試みが唱えられたが、
 正直なところ、この運動は、たいして効果もあがらなかった。
・このように、環境をかえることはなかなか困難なことで、各人が力をあわせよほど努力
 しないとできない。人間が自分がつくったものなのに、人間がそれをよくないと思って
 も、環境を変えることはむずかしい。このことは世界でも、一国でも、一家でも同じで
 ある。
・ところで、一方自然環境のことであるが、気候とか風土というものは、全く人間の力で
 どうにもならないものと古来考えられてきたし、今でも、だいたいそうであるが、しか
( し現在では、人びとは自然環境をある程度変化させようと努力している。
・少し以前まで、絶対に入力の及ばないものと思われていた大自然に対しても、人力は、
 人びとの幸福のために勇敢に戦いを挑んで自然環境を変えようとしている。
・これに対して、人間が自分で作った社会的環境のほうは、改善されるべきものが多くあ
 ることは誰も知りながら、実際には、それが非常に困難で悩んでいるとは、思えば大き
 な皮肉と言わねばならない。

坪井忠二

速さいろいろ(昭和三十七年一月)
・何といっても、一番速いのは光である。昔の人は、光陰矢のごとし、などとのんきなこ
 とをいっているが、一秒間に地球のまわりを七まわり半もするというのだから、これは
 ちょっとケタはずれである。太陽を出た光が地球に届くのに、八分半しかかからない。
 電波も光と同じ速さだが、月に向かって電波を打ち出してやると、たった二秒あまりで
 月の表面で反射して帰ってくる。
相対性理論によると、光よりも速いものはないという。H・G・ウェルスの小説には、
 光よりも大きい速さで地球を飛び出して、地球上のできごとを時間を逆にしてみるとい
 う話があるが、あれはアインシュタインにいわせれば全くのつくり話である。
・地球が太陽のまわりを回っている速さは、一秒に三十キロである。光の速さとは比べも
 のにはならないけれど、これも相当なものである。地球を含めて九つの惑星が太陽のま
 わりを回っているのだが、インコースの水星がいちばん速くて秒速約四十五キロ、アウ
 トコースの冥王星がいちばんおそくて秒速約五キロ、地球はまず中ほどというところで
 ある。
・こんどは地中の自転である。地球が自転しているということをいいかえれば、一日で世
 界一周をしているということである。これも相当な速さである。赤道での秒速は四百五
 十メートル、日本あたりで四百メートルである。
・音の速さは空気中で三百三十メートル、百メートル伝わるのに0.3秒もかかる。
・地震がおこると、震源から速い波とおそい波とがやってくる。二つは同時にスタートす
 るのだが、速さがちがうので、震源から遠くなればなるほど、二つの波の間がはなれて
 くる。地震屋は、速いほうの波とおそいほうの波とが自分のところでどのくらい開いて
 いるかということを測って、震源までの距離をきめるのである。
・一昨年チリに大地震があって、そこで生じたあの波が太平洋をよこぎって、日本におし
 よせ、北海道や東北地方の海岸に大損害を与えたことがある。あの海の波は、秒速二百
 メートルくらいでやってくる。だいたい飛行機ぐらいの速さだ。チリから日本まで太平
 洋をよぎるのにおよそまる一日である。だからもし、大きな地震がおこったという電報
 を打つことができさえすれば、そのほうがはやく届いて、警戒や準備をして津波を待ち
 受けることができるのである。
・自然界におこっているいろいろな現象も、要するに時間の問題である。自然の災害を防
 ぐためには、相手より一歩でも二歩でも先に出ればいいのだから、結局はスピードの競
 争である。

地震予知の意味(昭和四十一年)
・地震のような突発現象を予知することはむずかしい。また、もしも、地震というものが
 ほんとうに突発的であって、それの起こる前に前兆的なものが全然何もあらわれないと
 いうものであるならば、予知は原理的に不可能である。
・長い経験から、日本全体として、地震のエネルギーが平均として一年にどのくらい出て
 いるかということは、かなりよくわかっている。その割合が急に変わることも考えられ
 ないから、今後十年の間に、このくらいのエネルギーが出るだろうという予想をたてる
 ことはできる。しかし、今年なら今年、来年なら来年という特定の年を考えて、その年
 にはどうなるかといわれても、これだけの知識からは、何の答えも出てこない。
・これでは、ふつうに地震予知といわれていることにはほど遠い。では全然何の役にも立
 たないかというと決してそうではない。たとえば、日本の政府なら政府が、十年将来ま
 でのいろいろな計画を立てるときに、地震のことを、このくらいは頭に入れておかなけ
 ればならないという見当をつける。その見当の根拠を与えることになるからである。し
 かも、それらの地震は、統計的にいって、これこれの地域であろう、これこれの地域で
 はないであろう、というようなことが、かなり確実にいえるのである。こういうのも、
 ある意味では、予知であって、それはそれとして、充分役に立つ。
・地震というものが、全くの突発現象であって、前兆的な物理現象を全然もたないもので
 あれば、予知は不可能だといわざるをえない。われわれが予知を問題とし、予知をめざ
 すということは、地震のはげしい振動が起こる前に、観測可能な物理現象があるという
 ことを、確信するからこそなのである。
・地震の場合の前兆現象とは何か。そしてそれは、われわれの能力の範囲内にある知識と
 技術と人員と費用と組織によって観測しうるものなのか。これは要するに、地下の岩石
 のなかに歪エネルギーが蓄積してくる様子を物理的な方法によって検出するということ
 であり、それをわれわれの知識によって解釈し地震発生を予知するということなのであ
 る。こまかい具体的なことはいっさい触れなかったが、それは、人員の点で、費用の点
 で、組織の点で、非常な困難があるのはいうまでもない。しかし、知識の点で、技術の
 点では、決して不可能なことではないと、確認しているのである。

高層ビルと人の流れ(昭和四十三年四月)
・霞ヶ関にりっぱな高層ビルがたった。日本の耐震構造論は大したものである。たとえば
 東京タワーである。あれを設計されたのは、内藤多仲先生であるが、地震で地面がどう
 ゆれたときはてっぺんはどうゆれるはずか、という計算をする方式がちゃんとできてい
 る。それを検証する意味もあって、あの塔の地面のところと高いところに地震計がおい
 てある。ほんとうに地震があったとすると、一つには地面のところの地震計で描いた振
 動曲線から前の方式に従って、高いところの振動曲性を計算することができる。また一
 つには、高いところの地震計からは、実際に振動曲線が得られる。この二つをくらべて
 みると、きちんとあうというのだから、大したものではないか。
・ともかくこの調子でいくと、五十階や百階のような高い建物でも、建てようと思えば建
 てられるだけの設計上の基本問題は解けているのだと思う。ただ実際に百階建てをつく
 るということになると、膨大な計算をしなければならない。だからそれに間にあうよう
 な大型の計算機があるかどうかということが、むしろ問題になるのであろう。
・そのことは別に、高い建物といっても、その高さにはどうしてもある制限があると私は
 思う。それは高い建物ほど、人の上下が多く、エレベーターの数が増えることからくる。
 建物を高くすると、その中にいる人が多くなる。そしてそれだけの人をさばくためのエ
 レベーターの面積が大きくなる。極端な場合には建物それ自身の面積よりも大きくなっ
 てしまうことだってありうる。そんな高い建物を建てたって無意味であろう。
・こんどの霞ヶ関ビルも、おそらく一万人程度の人があの赤ではたらくことになるのであ
 ろう。それに来訪者を加えてどれだけの人の上下をさばくエレベーターがいることであ
 ろうか。またその一万人の人が、退社時間にエレベーターでおりてきて一斉に一階の出
 口から出るとすれば、どんなことがおこるであろうか。もちろん、そういうことは十分
 よく考えて設計してあるのだろうと思う。
・四年前の東京オリンピックの競技場は、出入り口の数が実に多くてうまく人波をさばい
 た。あれにくれべて、霞ヶ関ビルは立体的だし、出入り口の数も少ないから、計画もた
 いへんだったろう。あれが開館したらば、人の流れがどういうことになるか、よく観察
 してみようと、私は今からたのしみにしている。