言うたらなんやけど :田辺聖子

この本は、いまから52年前の1973年に刊行されたもので、いわゆるエッセイだ。
私の連れ合いの持ち本であったのだが、処分するというので、その前に興味のある部分だ
け読んでみた。
この本は次の五章から構成されているが、<日々雑感>と<世相あれこれ>の章に興味を
持ちじっくり目を通した。
・日々雑感
・世相あれこれ
・小説の周囲
・わが酒・わが味
・旅・人・旅情

まず、私は興味を持ったのは<日々雑感>の章にある「オトナの男」の部分である。
それは「富島健夫」氏の名前を目にしたからである。じつになつかしい。
わが青春時代の思い出が蘇ってきそうである。
もっとも、この富島氏の作品は、今はまったくというほどお目にかかることはなくなった。
それは別として、この本の著者が、この富島健夫氏の作品に、女性でありながら、これほ
ど理解があるとは、感激した。
オトコというものをよく知っているおとなの女性とは、こういう女性を言うんだなと思っ
た。

それから次に興味を持ったのは<世相あれこれ>の章にある「スカタンだらけの男がなに
をヌカす」の部分である
この「スカタン」という言葉は、私は初めてお目にかかる言葉だったのだが、調べてみる
と関西弁のようで「期待はずれ」とか「見当違い」などの意味があるようだ。
それはさておき、石川達三氏の「婦人参政権亡国論」に対する著者の反論は、現代におい
ても通用するようなじつに見事な反論だったと思えた。
もっとも、このような50年以上前の論争が、それほど古さを感じない、いまだに現代に
もありそうな感じがするのは、「男と女の間にある溝」が、そう簡単には埋まらないとい
うことなのだろうと思った。

そして私が一番興味を持ったのは<世相あれこれ>の章にある「親にはその責任はない」
の部分である。
これは、連合赤軍の事件を例にとって、犯罪者の親の責任について著者が論じたものであ
る。もう50年以上の前のことであるが、現在においても同じように、犯罪者の親の責任
を追求するという社会の風潮はほとんど変わっていないように私は思う。いや、もしかし
たら、50年前よりも現代のほうがより激しかもしれない。
この著者の「親にはその責任はない」は、現代においても正論であり続けてほしいと私は
思う。


<日々雑感>

海坊主と私
・妻の仕事というものは、結局のところ、家族のだれよりも早く起きる、ということにつ
 きるのである。
 夏なら窓をあけ放して冷たい空気を入れかえ、冬ならばまずストーブで部屋をあたため、
 湯を沸かし、弁当を作る。
 それができたら、妻の仕事は半分がたすむ。
 あとは手抜きしたって目立たない。
 また因果なことに、私は、朝起きが苦手なくせに、弁当づくりは好きなのだ。
・私は才能はないが、もしあるとすれば、好きなことを見つける才能である。
 家の前をずーっと南へさがると、昔の赤線の福原遊廓のメーンストリートで、いまでも
 紅燈のちまたである。
 その風情が好きで、海坊主にせがんでよくつれていってもらった。
 それから横丁の路地で飲んだり、おでんや、焼鳥や、屋台のラーメン屋を教えてもらい、
 すぐ好きになった。
・まだある。パチンコとスマートボール、私は何にでも夢中になりすぎる癖もあり、
 貧血を起こすまでパチンコに熱中していて、とうとう、
 「ええかげんにせえ!」
 と、となられてしまった。
 屋台に首をつっこんで飲むコップ酒も、教えられて大好きになった。
・「酒も飲まんと何に人生じゃ」
 と海坊主はいう。
 私は毎晩、酒を飲むのを教えられ、これまた大好きになった。
・この家へ来た当座、彼の枕もとに、いつもお盆にのったアルミのやかんがあるので、
 不思議に思っていたが、それは、夜中、のどが乾いたときにやかんに口をつけて彼が飲
 むためであったのだ。 
 私もためしにやってみたら、じつに美味い。
 酒を飲んだ夜のやかんの水は、これはもう甘露である。
・私は世の奥さんで、旦那の悪口をいうのに日も夜もない人の、その心理がわからない。
 私は、男がそばにいる女の幸せを、妻はもっと感謝すべきだと思う。
 やっぱり、男がいるのと、いないのとでは、おんなの人生がちがう。
 男がそばにいない運命の女たち、離婚者や、まだ相手にめぐりあっていない未婚者や、
 未亡人はしかたがないけれど、幸いに、男が丈夫で仲も悪くなく、暮らしている女は、
 どんなふうに男をだいじにしても、しきれないぐらい、だいじにするべきである。
・というのは、私は38歳で結婚したから、独身者と結婚者の二つの世界を経験した。
 どっちもいいところがあり、どっちもわるいところがあるが、しかし、自分だけの男が、
 往生坐臥、自分のそばにいるという愉しみは、これはほんとは、たいへんな幸福なので
 ある。
・それは女を深い意味で生かし、この人生において、生きることの何たるか、愛すること
 の何たるか、たのしく老いることの何たるかを教える。
・それを考えたとき、私は夫と妻という名でよばれる、男と女の生活に、重たい意味をく
 みとらずにはいられない。
 もしそれに気づけば、良妻、悪妻の定義など、何であろうか。ゴミクズみたいな観念で
 ある。

母というもの
・母親とは何だろうか。
 なんとも厄介な存在、重たいお荷物というか、腐れ縁の道づれ、というか、私にとって
 はそういう、モヤモヤした混沌未分のシロモノである。
 だいたい、女親と娘というのは、二者一体のもので、へその緒を切ってもまだ切れない
 ものがつづいていそうに思えてならない。
・これが男親と息子だと、反発したり親しんだりさまざまでも、一応独立した個と個の人
 格として対せるだろう。
 しかし母と娘はいつまでもべったりである。
・そのべったりが、どこで一応、けじめがつくかというと、娘が子供をもち、新たに母親
 となる時である。 
 そのとき娘は母を離れ、今度は子供にべったりとなる。
・だが、息子しか持たない母親たちは何か、隙間風が身内を吹くような、心もとなさそう
 な、飄々と頼りなる風情をもっていたりするものである。
 同じ子どもでも、娘を持った母親は満たされて、ぺちゃくちゃと喋っていたりするのを
 見るとき、女から女へという大沽以来の連綿たるきずなを見る気がする。
・どうも生物学的に、男は、派生的な、ツケタリの種族みたいに思えて仕方ない。
 私の図式によれば、女ー女ー女と無限につづいてゆくのであって、母系制というのは自
 然の原理にもとづいているのではあるまいかと思ったりする。  
・父という存在は、死ねばそれで絶えてしまうところがある。
 しかし、母はその絆を永劫の未来まで伝えるような、奇妙な存在である。
 
怒りとわたし
・怒る、ということは考えてみると、一面、自分のすべてをさらけ出すことで、恥ずかし
 いことでもある。
 腹が練れて、大人の風格が出来、人間が悟ると、なまぐさ味がとれてめったに怒りを感
 じないだろう。
 慈悲になり、愛になり、同情、憐れみに転化したりしてしまう。
・しかし、私は年がら年中、怒っている。
 怒りっぽくなったのは年のせいでもあるが、そうではなくとも世の中、私を怒らせるこ
 とはいっぱいある。 
 政府にもある。税金の無駄使い、大企業優先政策による公害や物価高。
 それから若い人にも怒りを感ずることがしばしばある。
 やっぱり年のせいか。
 いやしかし、五千年前のエジプトの墓から出土した文書にも、
 「いまの若い者はなっとらん」
 と書いてあったのだ。
 べつに私が寄る年波でそう思うのでなく、昔からの運命的反復だろう。
・若い者に対して私が怒るのは、甘えているからである。
 それから若い人のボキャブラリーが少ないこと。
 とくに学生運動家の政治用語がきまっているのも腹の立つことである。
 みんな同じコトバをハンを捺したようにいう。
 何とか、自分のコトバを自分の肉声でしゃべってくれれば、と思うのに、中身がまだ充
 実していないから、自分の肉声でしゃべれない。
 全共闘の学生たちが、みんな自分の意見で具体的な、中身の濃いコトバで話してくれた
 ら、ずいぶん面白いであろうが、あまりみんな同じ右へ習えの論法・用語なのでオリジ
 ナリティがない。そういう議論を聞かされていると、怒り心頭に発してくる。

オトナの男
・過日、なにげなくテレビを見ていたら、少女小説のセックス描写について議論をしてい
 た。
 少女小説の書き手の中では最も人気のある「富島健夫」氏と、少女雑誌の編集者が擁護
 派、というより弁明派で、反対するのが自民党議員の「内藤誉三郎」氏であった。
 反対派には作家の「小山いと子」氏も居られたが、小山氏の弁は聞く時間がなかったの
 で、どういうご意見かわからない。
・少女小説にセックス描写があるというのでおどろく向きもあるが、少女小説の文体は、
 男性作家の場合はかなり粗くてスピーディなものが多いので、そんなにしんねりむっつ
 りしていないし、それから女流作家には伝統的な美文調もかるから、きれいに書き流し
 てあって抵抗が少ない。
・当然、それだけが目的という小説はないから、作品の骨格としては、かなり倫理的であ
 る。  
 富島氏の作品も清潔な感じで、たいがい、主人公の少年少女は潔癖で廉直な性情をもち、
 そのかぎりではまことに健全で、良風美俗をそこなうとも思えぬ。
 文部省推薦としてもおかしくない。
・問題となったのは「おさな妻」という作品で、長篇の一部であるが、29歳の男に18
 歳のまだ高校生の娘が嫁ぐというあらすじである。
 この女の子は孤児で身寄りもなく、保育園でアルバイトをしている中に、園児の父と知
 り合い、そのやもめの男と結ばれるという設定になっている。
 高校在学中に結婚するが、その初夜のくだりが、いたく良識家たちの憤激を買ったらし
 い。
・司会者が、「一部を読んでもかまいませんか」ときき、富島氏は、それに対して、
 「小説は一部分をとりあげても意味がない。全文読んでもらうのが望ましいし、一部分
 では誤解されるから困る」という意味のことを答えた。
 司会者は納得したが、内藤氏はそれにかまわず、本をとりあげて、司会者がとめるひま
 もなく、その一節を朗読した。
・私は大いにびっくりした。
 ウチの子供たちがふざけてガールフレンドから来た手紙などを奪い声を出して読もうと
 する。一方はそうはさせじと奪い返す。くんずほぐれつして遊んでキャッキャといって
 いるが、まさか、いい年配の大の男が、そういうハシタないことをテレビの前でやると
 は信じられなかったのである。  
・さすがに富島氏は苦笑して黙っていたが、内藤氏は首を突き出して、
 「ある夜、長い接吻のあと、吉川は玲子の手をみちびいた。服の上から玲子がてのひら
 に感じたものがなんであるかを悟ったとき、玲子のからだを電流が走り、玲子は硬直し
 た。・・・こんなことをですな、少女に読ませていいもんでしょうか」
・そんな個所を、私は初老の男のへんなしゃがれ声で拙いアクセントで読まれたくないの
 である。 
 美しい女性の声で美しい言葉で朗読されたいし、かつ、数ページあとにはつぎのような
 一節もある、それも会わせて読まれたいのである。
 「性のエキスパートとは、多くの異性を経験することではなく、一対一のなかで自分た
 ちの世界を深く掘り下げていった者のことをいうのだ」
・たいへん理想主義的な小説で、背徳を使嗾するものでもなく、またそれに隠れてセック
 ス描写を楽しむ意図のものでもない、と私には「思えるのだが、それはともあれ、私は
 ここで、少女小説の限界や、子女に与える影響をうんぬんしようというのではない。
 男の魅力についてである。
・私は男に対してまだ夢を捨てていないので、やっぱり男は女よりオトナで、立派で堂々
 としていてほしいのである。  
 年輩、キャリア、地位、身分、そういうものの重みを知らされるオトナの男が大好きで
 ある。
 バタバタと軽々しく動いてほしくないのである。
 作者が拒否しているのに、夢中になって読みあげる内藤氏の精神のキメの粗っぽさに私
 は悲しくなる。
 男が滑稽であっては悲しいのである。
 いつでも男は女のお手本になってほしいと思っているのである。
 
<世相あれこれ>

スカタンだらけの男がなにをヌカす
・「サンデー毎日」誌上で「石川達三」氏が「婦人参政権亡国論」を唱えた。
 女性がダメになってきたというのは定評のあるところである。
 戦後の片輪で低俗な民主主義が女をダメにした。
 愚劣な女に選挙権は必要ない。
 男と同じことをするのが自由でも平等でも解放でもない。
 家を守り子供を養うのが女である。
 女には自主性がない。
 すぐ流行にとびつき、群集心理で動く。
 亭主にろくな朝飯も食べさせず、インスタント食品を愛用する女たち。
 いまや救いがたいところまで状況はきている。
・これに対して、「瀬戸内晴美」氏が反論「亭主関白亡国論」を書き、
 つづいて「会田雄次」氏が、戦後の女はイバることだけを覚えたと、石川氏側に立つ発
 言をした。
・あー、びっくりした。
 わが敬愛する石川達三先生や会田雄次先生クラスの大物でさえ、男というものはかくも
 女をご存じないのか。  
 女がこの社会で生きにくいのは当然だ。
 一般男性の女性認識の程度も推しはかられようというもの。
・悪男が良女を駆逐する。
 しょせん、この世は男と女しかいないのであれば、おんなが男を作り、男が女を作るも
 の、片方がダメで片方がリッパ、ということはありえないのである。
 そうしてこれは私の年来ひそかな確信であるが、男と女がいた場合、どっちか低いほう
 に水準へ引きずり落とされてゆくのが普通で、どっちか高いほうへ引き上げられてゆく、
 というケースはまれである。
・女は男のよきパートナーたれ、と言われたって、肝心の男自体がなっていないではあり
 ませんか。
・瀬戸内晴美さんのいわれるように、こうなれば、女は男の保護など当てにできないので
 ある。 
 女は家にいて料理洗濯育児にいそしめ、と言われたって、安心して家事にいそしませて
 くれるほどの働きを、現代の男がしてくれているかしらん。
 そんな親切な政治の仕組みであろうか。
 男のやっている政治は、スカタンばかりではないか。
 スカタンな政治をやる政治家を当選させたのがみんな女の投票なら、女に参政権をやる
 なといわれても文句はいえぬが、罪は男女半々だ。
・とくに女の悪口の中で納得できないのは、両先生とも男女論と世代論を混合されている
 ことだ。 
 若い女がなってないといわれたって、若い男のヘナチョコなこどもご同様だから、天の
 配剤まことに妙を得ているわけ。
・青年たちの打算的なことはどうですか(そうでない男もむろん、いるけど)。
 それに骨惜しみして要領ばかりうまく、楽をして世渡りしたがる。
 最小の努力で最大の効果を上げるといえば聞こえはいいが、要するにナマケモノ、ろく
 すっぽ勉強もせず、マンガばかり読んで学校を出るから、常識も情操も欠落した男がふ
 え、年ばかりいっても中身は子供、いい年してとっちゃん小僧、そのまま固まると頑迷
 固陋が服を着たような石頭になり、何を言ってもワケわからず、クルマと着るものと髪
 型ばかりに凝り、仕事させりゃ半人前、口を利かせりゃ礼儀知らずの野蛮人、英語もカ
 タコトなら日本語はいっそう支離滅裂、金の使い方だけ知って儲けかたを知らず、とい
 うより儲けるのがめんどうくさいらしい。
・本当のことを言うと、女と若い青年・子供はひとしなみに、この社会の被差別者なのだ。
 この社会は男社会というけれど、権力を持っているのは壮年中年老年の男たちなのであ
 って、青年は下積みである(ただ権力者予備軍とはいえる)。
・女は青年同様、この社会では無力者だから、世界的な断絶の曲がり角を敏感にキャッチし
 てしまう。
 もう、いままでのままでは生きていられない、女を抑え、しこむタガをはずさなきゃ、
 息ができない、と気づきはじめたのだ。
・石川達三先生は、女には自主性と独創性がないといわれる。
 それから家庭を守って男に仕え、子育てに専念しろ、といわれる。
 しかしこれは、まったく相反する事柄を、女に求めていられるのである。
・家庭の雑事(おお、この厳粛壮重なる苦役、無味乾燥な永遠の反復作業!)は、元来、
 人間の自主・独創性を圧殺するようにできているのだ。
 そんなことはない、家事の中で創意工夫もできれば、夫や子につくすことは女本然のよ
 ろこびではないか、という声が、男性からも同性からも出てきそうだが、それは次元が
 ちがう。  
 独創性や自主性というものは、家庭生活と背馳する。
・人間の個性を守り、それを育てる場でなければ、自主・独創性は生まれない。
 家庭生活の中で、夫や子は個性を守ることはできるが、妻・母は個性を放棄しなければ
 家庭を経営してゆかれない仕組みになっている。
・三度の食事、洗濯、掃除、ということは、状態をもとへ戻しては崩し、またもとへ崩し
 という無限の反復である。  
 しかも家庭が崩壊する最後の日まで、永遠にそれはつづく。
 男は外へ飛び出して、帰ると、
 「メシはできているか。まだ?一日家にいて何をブラブラしているんだ!」
 「フロ沸いているか。子供が泣いているぞ。新聞とってくれ」
 と言えばすむ。
 そういう世話をして、そこへ子供でもあれば、これはイキモノだから待ったなしである。
 飢えずこごえぬようにしてやらなければならない。
 どこに女の自主性・独創性を育てる地盤があろう。
 人間が自分の個性を守り、それを磨くにはコマゴマした雑事を、ある期間プッツリ断つ
 ことが必要だが、哀れ女の方には生涯、雑事の重荷がかかっているのだ。
・よってお女はつい、家庭生活に埋没してしまうという落ち込み方をする。
 とにかく家事に没頭していれば、頭を使う苦しさもいらず、個性を守る戦いも放棄でき
 るし、一生無事にすぎてゆく。
 古来からの女のありかたの仕組みの中へ、ズルズルになだれこんでしまう。
 女が、育児・教育に熱情を傾けるのは、それが安易な、しかも唯一のクリエイティブな
 場だからだ。 
・人間には本来、自主性・独創性への欲望がある。
 それを抹殺しようとする、今までのおんな教育、家庭生活のあり方に、私は不満を持た
 ないではいられない。
 教育ママをなくそうと思えば、働きたい女に自分の仕事を与えたらよいのである。
 自己表現の道が、家庭生活の中だけではもう求められないほど、世間の波風が荒くなっ
 ているのだ。
・インスタント食品だって、もっとどんどん便利なものができればよいのだ。
 テレビ料理でおぼえるのも週刊誌で習うのも、男たちの好きな、お袋さん直伝の味付け
 と変わりゃしないのだ。
・いまどきの女、裁縫料理がまずいというが、男だって瀬戸内さんのいわれる如く、棚ひ
 とつ吊れぬ不器用な奴がいる。釘も打てない、簡単な電気製品の修理もできぬ、大掃除
 というと逃げ出し、お殿さまのできそこないみたいに、てんから無能力者が多いよ。
 昔の男は威張っていたけれど、弩の代わり家のめんどうも見てくれて、頼もしかった。
・会田先生は、女流評論家が子を育てたといっていてっていると、冷笑された。
 しかし、今までの女性解放運動家、女権拡張論者の女たちは、瀬戸内さんの言われるよ
 うに血のにじむ苦闘の歴史を重ねてきた。
 女が少しワケのわかった言葉や、新しい考えを言うと、「女のくせに!」といわれ、
 さらに独身であると加えて、「過程も子も持たぬくせに、何がわかるか、半人前の女が」
 と、男性のみならず、同性にまで痛罵された。
・現代でも仕事をする女性たちが、家庭を持つといい仕事ができなくなることが多い。
 仕事を貫くには、よほどの情熱と意志力が要る。
 家事の重圧感は、人間を萎えさせるほど荒々しいものだから、仕事の意欲まですりへら
 してしまうのだ。
 女たちは必然的に、独身をとらざるをえなかった。
・しかし、現在では、やっと家庭を持ちつつ、自分の仕事ができるという希望がほの見え
 てきた。
 女が夫や子を持ちつつ、なお社会に向かって発言できる時代になった、ということは、
 日本女性史上、画期的なできごとといってよい。
 つまりそれぐらい、女への抑圧が、この男性天国ニッポンでは強かったという証左で、
 冷徹犀利な会田先生にして、この点を洞察してもらえないとはなさけない。
 「私は二人子供を育てています」という女流評論家の発言には、それだけの重い過去が
 あるのだ。
 男が小学校卒業したというのとは、根本的にちがうのだ。
 女のこと、何も知らないな、私、怒るよ、ほんとに。
・ついでに言うと、会田先生はこれからの女房たるもの、男の仕事の手助けぐらいできに
 ゃ、と仰せられるが、功利的な結婚観ではないか。
 形を変えた「山内一豊」の妻で、タイプの違う良妻賢母を求められるところ、しょせん
 石川先生と本質的に変わってはいられないのだ。 
・まあ、実を言えば、今の若い娘、若い奥さんには、西も東もわからぬ、芋の煮え方もご
 存じない、ボーとしたのが多いから、同性の私が見てもじれったくてイヤになることが
 ある。  
 会田先生の言われるのも、それくらいの気働きや才幹をもて、ということだろう。
・しかし私は、結婚というのはやはり、それぞれの個性を持つ人間が二人寄って個性を発
 揮しつつ、その結婚生活を全うするということであるように思う。
・もちろん、人によってはひたすら夫の補助的な人生で、夫を助けつつ一体化して、人生
 を終わるのに、生き甲斐を感ずる女もあろう。
 それは性格の好き好き、向き向きによることで、別にかまわないが(そして男の求めて
 いるのはそういう女であり妻であろうが)、現代では徐々に、個性を生かした結婚をし
 たいと望む女が多くなっているのも事実である。
・現に、結婚している女たちも、自主・独創にめざめて、いちいち亭主に同調していられ
 ない、と思いはじめている。
 男の生態を見ると、可愛いらしいところもあるけれど、女としてホトホトわからぬ、ア
 イソをつかしたくなる部分も多い。
・一般論として男を見ると、いつも思うのが老いも若きもどうしてこう石あたまなのか、
 ということ。
 いわれなき女性蔑視、男性優位の観念が牢固としてぬきがたくあって、空疎な権力をふ
 るう。
 女も人間であるという観念を、もっと徹底的に叩き込んで、幼稚園から教育し直す必要
 がある。
 家の中でいばっているのは女だと言われるかもしれないけど、一歩外へ出るといかに女
 一人が生きにくい社会であるかが、よくわかる。
・からいばりするだけあって、自分もまた権威に盲従する。
 「長いものにまかれろ」という気がつよく、自分の意に反して行われることにすぐたや
 すく屈服する。
・そして、そこで自分の良心とのジレンマに悩み、ひとりで大見得を切っている。
 「五木寛之」さんの小説になれば美しく描いてもらえるけれど、現実では誰も 拍手な
 んかしませんよ。
 男の仕事の辛さといったって、結局はお上や上役には勝てないんだから、九日出すだけ
 野暮というもの。
 「オレも女房がいるからなあ」というのがいつもの逃げ口上であるが、なに、おのれが
 可愛いのさ。
・主婦が域外がないと嘆くようになったのは、男にも女にも責任があるのではなく、社会
 の趨勢なのだ。
 家庭生活の中だけで充実考えられない、烈しい時代になってしまったのだ。
 もうどうしようもないことで、今さらインスタント食品がどうの手編みがどうのといっ
 てもおっつきませんよ。
 もはや狂瀾を既倒に返すべくもないのだ。
・むしろ、夫や子との生活のために、主婦が立ち上がらねばならないときが来ているのだ。
 女に家庭の雑事を押しつけて、自分は高尚な議論をもてあそび、人生のおいしいところ
 を食べて、それでいて女に知性がないという男の意見は、奴隷制度の上に成り立ったギ
 リシャ・ローマの男の文化と同じである。 
・仕事を持たず、家庭の中の雑用が好きで、夫や子供の世話をすることに喜びを見出だし
 ている、もっとも家庭的な女でも、女は常に醒めた部分がある。
 男はそれを知らないか。
 いかにバカな女といえども、男のすることを後ろから眺めて、ニヤニヤしているところ
 があるのですよ。
 それは神の与え給う英知である。
 女がほんとうに、ほんとうに賢くなったら、男はどうしますか。
 三界に身の置き所もあるまい。

親にはその責任はない
・「連合赤軍」の事件は、思いがけなく現代における親と子の関係を切りとってみせた観
 があった。
 ことに「あさま山荘」での親と子のやりとり(親は呼びかけ、子はそれに対して発砲で
 むくいた)は象徴的だった。
・すでにもう、心と心はかけ離れていて、通う合うものはなくなっている、 ヘソの緒は
 絶たれているのに、なお親は説得しようとし、かつ警察は(社会と同義語である)それ
 を強要する。
・そうして説得も功を奏しないとみると、社会は、今度は親に責任を取らせようと、鉾先
 を親に向ける。 
・親の教育、しつけ、ということが声を大にして叫ばれる。
 犯人の親たちは糾弾され、譴責され、脅迫され、憎悪される。
 そしてそれは、親の一人が堪えかねて自殺するまで続けられるのである。
・その一方では新聞の談話で、評論家と肩書きのついた人たちが、
 「親は何をしているのでしょう、どんな家庭に育ったんでしょう、どんな教育をしたの
 でしょう、責任は親にありますよ」
 と非難していた。
・教育、しつけ、家庭。
 そんなもので、赤軍派や過激思想の持ち主が出なくなる、あるいは抑止できると断言し
 えるのか?何という単純で楽観的な教育論であろう。
・私が思うのだが、親たちが犯人の代わりに社会の矢面に立たされ、石つぶてを投げられ
 るのは、社会はつねに犠牲者を、自分たちより弱いものを求めて血祭りにあげたい習性
 があるからである。
 犠牲者をつくりあげ、責任の所在を設定して、それへの弾劾、恫喝、ありとあらゆる非
 難の集中攻撃を加える。
 そして、非はつねに犠牲者にあり、理はつねに、石もて打つほうにあるとして、安心し
 ようとする。
 それはすでに、狂気のリンチである。
・誰が「永田洋子」を指して罵ることができようか。
 現代はすでに一つの大いなる狂気の「るつぼ」ではないか。
・親が、親のほどこす教育が、悪いと指弾する人は、たまたま、偶然の幸運からうまくい
 っている人だと思う。 
 あの事件のあと、あまたの母親が街頭でテレビのインタビューを受け、
 「私の子はそんなことをするはずがありませんから・・・」
 「ウチの子だったら私が説得したら、言うことを聞いてくれると思います」
 と朗らかに、にこにこし、足早に通り過ぎていった姿を私は複雑な気持ちで思いおこす。
・そういう偶然の幸運から得た楽観的教育論が、現代の最も大きな断絶の原因ではないの
 か。 
 それが、社会的な意味で解決されねばならない今度の事件を、たんに、親のしつけ、
 家庭教育の問題にのみ、すり替えてしまう元兇ではないか
・いったい、誰が、石もて、この犯人の親たちを打つ資格があろうか。
 攻めは親みなが負うべきではないのか。
 そして社会がその痛哭に堪え、逆に犯人の親たちを慰撫すべきではないのか。
 私はいくども繰り返して言いたいが、今度の赤軍派を生んだ責任は世のすべての親の責
 任である。
・個人的な家庭問題に集約されるとせまい迷路に入り込む。
 そして「赤軍派に育てないしつけ方」などの本を、母親が買って読むことにでもなれば、
 事態はさらに紛糾する。
 ウチの子が赤軍派でなくてよかった、というのは、ウチの子が小児麻痺でなくて、ウチ
 の子がネフローゼ患者でなくて、ウチの子が重症心身障児でなくて、よかったと思う。
 あのエゴにみちた幸福感と同じように私には聞こえる。
・病める思想を生んだのは、オトナの責任である。
 一個の家庭教育にはよらないのだ。
 その根底のところをみつめなければ、またしても同じことの繰り返しになり、人と人と
 の関係、親と子の関係はさらに不毛となり、なにものも生み出さないであろう。
・私は親は子は早く断絶すべきであると考えるものだ。
 親と子ではなく、戦友として、同志として、時よれば敵としてつき合う、二つの独立し
 た人格、個性としてつき合うべきだと思うものだ。  
・親の教育やしつけは絶対に全的なものではない、と私は考えるようになった。
 人の個性は生まれながらのもので、教育では矯められない部分が七割はある。
 このパーセンテージは私の感覚的なものだから、異論は甘受するけれども、もはや現代
 のような激動期に、家庭教育がどこまで力を持つか、私はあやしまずにはいられない。
・社会も学校も友人関係も、怒涛のように、子供たちの足もとをさらう。
 性格の強い子、あるいは理性よりも情念の強い子、あるいは偏狭である子、あるいは果
 断、鋭敏である子、などはことさらにその疾風怒涛に巻き込まれてしまう。
 子供たちの性格による。
 親がいかに家庭教育に打ち込み、それに全精力、全人生をつぎ込んでいても、ある所へ
 なだれこまずにいられない子はある。
 ただその危険を予感し、それをさらに上廻って抑制しえるものを、子の素質のうちから
 引き出し、教育に成功するということはあるかもしれない。
 そして、世の多くの親がそういうふうに成功したかもしれない。
・しかしそれでもって、でき得なかった親を、石もて打つ資格はないと思う。
 教育に限らず、なんの成功にしても、この人生では偶然に支えられる要素が非常に多い
 のだ。 
 かりに、ある思想、主義に共鳴して暴走しはじめたとなると、これは、もう親の権力の
 埒外のことになってしまう。
 食べものや小遣いをやって手なずけたり、あわててその方面の本を読んだりして理解し
 ようとしても追いつくものではない。
・いつまで日本の親は、子をひしと抱いて断絶をおそれるのであろう。
 もしそれ、子が独自の道を歩きはじめたら、親としてより同志として、あるいは敵とし
 て論争しなければ仕方がないのではないかと思う。
 親と子は対立するべきだ。
・それから、いったん親と子の道が別れたらその事実を認め、その時点から細胞分裂した
 と覚悟すべきである。
 子が疲れて帰って来たら、暖かい飯と寝床は、親の余力があるかぎり、用意してやるべ
 きであろう。
 しかし子が自らの意志で親の元を去ったときは、親は自分の教育が悪かったからだと反
 省しないほうがいい。 
・二十歳を過ぎた、一人前のオトナである犯人の親たちの責任まで云々するのは、日本人
 の精神風土がいかに未開で、エゴで、前近代的な古い体質であるかを思わせる。
・連合赤軍の事件は、世の中や政治が悪いからではなく、ひとり一人の家庭教育が悪いか
 らだと放言する人に、私は心から問いたい。
 親と子の話し合いという甘ったるいことで、激動する現代を手を濡らさずに渡れるだろ
 うか。 
 威嚇や哀願で翻意するほど、革命の幻想は魅力のないものであるか。
 ある種の若者にとって革命の幻想は甘美な麻薬である。
 親はそのとき彼らを解放し、対決するべきである。
 そしてそのとき、親と子は別々の人格として相まみえるべきである。
 
権威崇拝
・いったい、日本ではまあ、どうして、官と名のつくものはやたらと威張るのであろう。
 役所、役人はいわずもがなだ。
 水俣病の公害被害者に対する厚生省の役人の態度、政府の応接など見ていると、徳川時
 代の奉行とかわらない。
・日本には統治者と被統治者の二種類しかない。
 「市民」の歴史がないから、選挙権だの、民主主義だのという言葉が空転する。
 すべては終戦後からの歴史だから、「お上」の権威なんてものは、まだこれから絶対で
 ある。
・官学ばかりでなく官楽も官芸もある。
 音楽はクラシックが上品であり、歌謡曲や浪曲は下品であるということになっている。
 歌舞伎や新劇が高尚で、漫才や落語は下品下司なものという。
・一流という銘を打たれた権威に、日本人は羊のごとくおとなしく忍従する。
 一流の名優や学者、作者が年ととり、駑馬におとり、もうろくし、呆け、支離滅裂とな
 っても、いったん一流の権威で飾られたら、あくまで一流であるから、人は敬虔に頭を
 たれ、退いてうやまう。
・言葉のむつかしいのを選んで使う層の人々も、同じである。
 全学連の闘士も、警察当局も、この点ではかわらない。
 やたら漢語まじりのむつかしい言葉を使う。
 やさしい言葉では権威がないと思うのだ。
・私がどうしても納得できないのは、大学スポーツ部の先輩後輩関係の空疎な権威である。
 私はスポーツに縁のないほうだから、そのムードはわからないのだろうと思うが、数年
 に一度はきっと、スポーツ部のリンチ事件(しごきなんて言葉でごまかしてはいけない)
 で死者を出す。
 野蛮というか無智蒙昧というか、日本人のおろかか権威主義の象徴みたいなところがあ
 り、「拓忍会」なんぞは、実際のところ、日本の社会に無数に存在しているのだ。
 そのデキモノの一番上のウミが「拓忍会」であって、そういうものを養う基盤は、日本
 には底深く根を張っているのだ。
 権威に弱い、疑うことを知らない、従順・愚直なる人々。
 その代わり、いったん自分が権威を持つと、とめどなく高圧的な権威者となり、権威の
 擁護に奔走するようになる。
・フランスのユーモア作家、クールトリーヌは、面白い軍隊小説を書いたが、
 「軍隊とは『それがどうした』という言葉で議論が打ち切られるところだ」
 といっている。
 「それがどうした」という言葉は、反撥する手段も言葉ももたない人間が自分を主張す
 る唯一のコトバである。
・江戸時代は知らず、現代日本では、それがどうしたという発想も姿勢も、影をうすめて
 しまったように思えて仕方ない。
 「それがどうした」と居直る精神は、絶望的に逃げ道のない封建制度の圧制下でこそ生
 まれたものだろうか。
・現代の日本の状況は、江戸時代よりまだマシなので、権威への抵抗も反発もなまぬるく
 なるのだろうか。 
 私には張りボテの権威でいっぱいみたいに思える現代であるが、それがどうした、とい
 うコトバも出ないなら、まさに社会状況は軍隊以下である。
 
高校生の性教育
・高校生の性教育論議がさかんであるが、私としては、それと並行して、あるいはそれよ
 り先行して、女子学生にヒトリダチする能力を与え、気概を与えるべきだと思うのもの
 である。
 それはまさに緊急事である。
・性そのものを抜き出して教育したってどうしようもないと思うがいかがであろうか。
 性教育は、男と女とではその背景がちがう。
・私は、正しい性教育は与えるべきだと思うものだ。
 「ほっといたって自然におぼえまさぁね」という楽観的性教育論も、すてがたい味はあ
 るが、そしてまた「何でもかくしとくところにいいトコがあるんじゃない?」という、
 趣味的性教育論もきらいではないが、無智蒙昧のガキどもがやたらに妊娠したりオロし
 たり病気にむしばまれたりしているのをみると、やっぱり困るのである。
 知っててするのとしらないでそうなるのとは、たいへん意味がちがう。
 と、いうことを教えるのが、私のいう「性教育」なのでありますよ。
・その上に、女子学生はもっと小さいときから、一人で生きてゆける能力と気概を養わせ
 てやらなければ、性教育だけ万全にしたって、片手落ちである。
・むしろ、性教育より、そっちの方が大事である。
 自分で自分の始末をつけられないような、庇護されないと生きてゆけないような人間が、
 ほんとうに人を愛したり愛されたりするような関係を持ちうるはずがなく、そういう関
 係のないところに、性が成立しうるのか。
 「愛のない性は無意味」とは、性教育の必ず第一ページで書かれる決まり文句であるが、
 その基盤は、独立ではないのかしらん。
・そしてまた、独立しうる機会を社会的に与えてやるのがオトナの責任である。
 気概よりは機械のほうがむしろ緊急事である。