一茶  :藤沢周平

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この作品は、俳諧師「小林一茶」の生涯を描いた小説である。
小林一茶は、江戸時代である1763年、現在の長野県上水内郡で中農の長男として生ま
れた。しかし、その生涯は決して明るいものではなかった。一茶は、長男として生まれな
がらも、生まれてすぐに母親が死亡し、その後に父親が生活のために迎いれた継母との折
り合いが悪く、父親は継母に虐められる一茶を見かねて、泣く泣く15歳の一茶を江戸に
丁稚奉公に出した。
しかし、コツコツと下働きをするようなことは、一茶の性格には合わず、職を転々とする。
そのため収入は少なく、その日の食べることさえままならない極貧の生活であったようだ。
そんな中で俳句に出会った。一茶は俳諧で初めて自分を活かせる道を見出し、苦しい生活
をしながらも俳諧師としての修業を積んでいく。東北地方や四国に俳諧行脚も行った。
しかし、俳諧師で生活を成り立たせることは非常に難しく、五十一歳の時に亡き父親が死
に際に書き残してくれた遺言状を頼りに長野の生家に戻り、継母や弟との間で父親の遺産
を巡り激しく争った結果、やっと遺産の半分を手に入れ、そこで初めて人間らしい生活を
送ることになった。
五十二歳にして初めて結婚もした。名前が菊という二十八歳の親子ほども年の離れた若い
女性を嫁に迎えたのである。菊とは時々喧嘩をしながらも、それなりの暮らしを送ること
ができ、子どもも授かった。五十二歳まで結婚できなかったことを取り戻すかのように、
一夜に五回も若い妻と交わるという性豪ぶりも発揮した。五十代半ばを過ぎてのこの回数
は、驚異的と言うしかない。小林一茶が日本史上最強の性豪トップ5に名を連ねているの
も、このあたりからきているかもしれない。一茶の日記には、妻との夜の営みの回数が記
録されていたとのことであるが、その回数は毎夜平均三回ぐらいであったらしい。しかし、
その人並みの幸福も長くは続かなかった。一茶夫婦は次々と子どもを失っていくのである。
そしてついに若い妻も亡くしてしまうのだった。
一茶はその後、三十八歳の藩士の娘「雪」を妻を迎えたが、長くは居つかなかった。そし
て三人目の妻「やを」は、三十二歳の妻だった。一茶は「やを」とも、しっかりの夜の営
みを行っていた。そして「やを」との夜の営み直後、「ごくらくじゃ」の言葉を残して、
この世を去った。六十五歳だった。
小林一茶は、今から二五〇年以上も前の時代を生きた人物であるが、その生涯は現代にも
通じるところがあるように思える、当時と比べ、人々の生活が圧倒的に豊かになった現代
においても、ひとりの人間の人生という面においては、二五〇年以上前の江戸時代も現代
もさほど変わらないのではないのではないのかと思えた。

 小林一茶の代表的な俳句:「我と来て遊べや親のない雀」

・弥太郎はうつむいていた。父親が、どこかで別れの言葉を、それも改まった口調で言い
 出しそうな気がして、弥太郎はそのことを少しうっとうしく感じていた。その時が来た
 ようだった。
・弥太郎を江戸に奉公に出すことは、誰にもすすめられたわけでもなく、父親の弥五兵衛
 が決めたことだった。何度も親戚の家家をたずねて相談し、最後にそういう形で後妻の
 さつと、生さぬ仲の弥太郎との間の不和にひとまずけりをつけたのであった。だが、む
 ろんその処置に満足し、これで家の中が平穏になると喜んでいるのではなかった。切羽
 詰って、そう決めたのである。決めた後も、父親の苦渋が尾を引いている。十五の弥太
 郎は、おおよそそういう父親の立場がわまっていた。
・弥五兵衛は、弥太郎からそらした眼を、北の空にむけていた。口を少し開き、みひらい
 た眼から涙が溢れているのを隠していなかった。父親の横顔を、尾をひいて走った涙が、
 日焼けした首まで落ちるのか、弥太郎は少し当惑した気分で眺めた。
・新しい母は几帳面な性格で働き者だったが、弥太郎にとってやさしい母親ではなかった。
 弥太郎はよく叱られ、時に殴られた。刺すような言葉で罵った。反抗すると折檻がきび
 しくなった。そういう継母に、弥太郎はおびえるだけだった。
・継母は、弥太郎がこれまでやったこともなかった仕事を無造作に言いつけ、しぶったり
 辛がったりすれば激しく叱責した。怠けたり、仕損じたりすることを許さなかった。
・弥太郎は思わず足をとめた。丘の眼下に急になだれるように落ち込み、そのはるかな下
 からひろびろとした平野がひろがっている。野はかすんで、その中を鈍く光って川が流
 れていた。「あれが千曲川だ」と連れの男が言った。
・麓のあたりに、白い花が見えた。そしてそこまでなだれる斜面の樹樹は、すでに白い柔
 毛を光らせていた。「善光寺は、その山の陰だ」と男は呟くと、坂を降りはじめた。
・弥太郎は俳諧を誰かに習ったことはなかったし、これまで発句ひとつ作ったこともなか
 った。「はじめただとしたら・・・あんた、大したものだ」男はちらっと弥太郎を見た。
 ほめられているのだ。弥太郎は、不意に胸のあたりがカッと熱くなるのを感じた。江戸
 に来てから、人にほめられたのははじめてだと思った。行く先先で罵られ、嘲られてき
 た。愚図で気が利かず、信濃の百姓だと言われた。
・「あんた、女は嫌いかね」外に出て、裏店の木戸を出ると、露光が言った。弥太郎は黙
 っていた。深川の根付師の家に奉公に入ったとき、兄弟子に誘われて一度だけ大新地と
 いう岡場所で、女を買ったことがある。そのときの女の白い顔はいまでも思い出すこと
 がある。女は嫌いではなかったが、あれからそういう場所に足を踏み入れたことはない。
 大新地で会った色が白く、目が少し吊りあがった女は、決してやさしくなかったし、ま
 たもう一度そういう場所に行く金もなかった。大新地の女は、年増で態度が悪かったが、
 弥太郎に開いてみせた身体は、かがやくばかりに白かったのだ。
・江戸に出て十年、あらゆる奉公をしくじったが、俳諧というもので、はじめて人がまし
 い扱いを受けたという気持ちがあった。それは闇にさしこんできた微かな明るみにみえ
 た。 
・弥太郎は、二十五になっていた。心の中に焦りがあった。それは江戸の市中を転転とし
 ながら、次の奉公先を探していたころの焦りとは少し違っていた。そのころは目先の喰
 うことしか念頭になかった。先のことなど考えたことがなかった。だが、いまは生涯の
 仕事らしいものが見えてきた。だが実際には、そのものになる手続きもわからず、いつ
 までたっても田舎の油屋の奉公人でいるしかなかった。そこから焦りが生まれてくる。
 喰えるだけでは満足できなくなっていた。
・何も持たない人間が、俳諧をやりたくてその道に入っても、点者と呼ばれるようになる
 のがむずかしいし、なればなったで、俳諧の宗匠などというものは、掃いて捨てるほど
 いる。その中で張り合って生きて行くのは楽なことではない。
・「反対側の人だ」弥太郎は、何となくそう思った。弥太郎の眼に映っているのは、もっ
 とも洗練された江戸人だった。そして自分はまぎれもない田舎者だということだった。
 成美の前に坐っているだけで、田舎育ちの土臭さが匂い立つような気がしてくる。
・芭蕉が弟子の曾良を同行して歩いた「奥の細道」は、俳諧師と呼ばれるほどの者なら、
 一度は辿ってみたいとあこがれる聖なる足跡だった。松島、象潟の月を見ることが、俳
 諧師の資格のように言われたりした。
・故郷はひどく遠いものに思われた。めったに思い出すおともなかった。心を占めている
 のは、今日どうして喰ったらいいかという心配だけだった。喰えないから帰ろうと思っ
 たことはなかった。みじめに落ちぶれた者を、村の者が決してあたたかく迎えはしない
 ことを、弥太郎は本能的に感じ取っていたようである。むしろ故郷に忘れられることを
 望んでいた。
・一茶は自分が人嫌いではないかと思うことがあった。いつも腹が空いていて、のぞみは
 絶えずふくらんだり崩れたりした。何の希望もなく、飢えをこらえて雨戸も開かない庵
 の暗やみの中に蹲っていると、不甲斐ない自分と、冷たい世間を厭う気持ちが胸に溢れ
 た。  
・高名の俳諧師を目指すのはよい。が、さてどこへ行くのだ、と一茶は思った。風に吹か
 れて師走の町を歩いているのは、住む家も妻子を持たない三十六の男だった。高名の望
 みは胸の中にあるだけで、そのかけらさえ、手に握っているわけではなかった。
・露光の家にきて、入口の戸に手をかけたとき、中で泣いている声を聞いた。一茶はあわ
 てて手を引いた。低い泣き声は女だった。争っている様子ではなかった。やるせなさそ
 うな女の泣き声だけがつづき、露光の声は聞こえなかった。露光の家から出て来たのは、
 四十半ばの女だった。黒っぽい地味な着物に身体を包んだ武家方の女だったが、一茶が
 思わず息を呑んだほどの美貌だった。
・露光は「あたしは婿でね。ところが女房とは気が合わなくて、女房の妹の方を孕まして
 しまった。人間てえやつは、思うようにいかんもんだ」と露光は声を出さずに笑った。
・青白いものに眼を刺された気がして、一茶はぼんやり眼を開いた。そして肩の冷えに気
 づいて夜着にもぐったとき、今度はやわらかく温かいものに触れてはっきり眼ざめた。
 横に女が寝ていた。かたむいた障子をの隙間から、朝の光がひとすじ、娼家の部屋に入
 りこんでいた。その光の中に、一茶よりひとかさ大きい女の背が浮かび上っている。女
 はいびきをかいていた。一茶は身体をまわして、女の背にぴったり寄りそうと、深ぶか
 と息を吸った。安物の髪油と香と汗くさい匂いがまじっていたが、間違いもない女の匂
 いが、一茶の鼻腔を満たし、むせかえるほど肺を満たした。女は年増で器量もよくなく、
 むやみに身体が大きいばかりで、日雇いのように浅黒い肌をしていたが、一茶にやさし
 かった。一茶が女の身体にあきるまで、相手をした。そんな女にめぐりあうことはめっ
 たにないのだ。一茶は女の背にぴったり胸をつけ、足で女の腿を探した。女の腿は、胸
 がふくらむほど温かかった。一茶はそこに足をさし込んだ。すると女が低くうなった。
・深川から永代橋を半分ほど渡ったときだった。一茶の五、六間先を、少し腰が曲がった
 年寄りが歩いていた。きっちりと身支度した足袋草鞋の足もとと、色あせた半天は、親
 方とか棟梁とか呼ばれる身分ではなく、雇われの手間職人といった人間にみえたが、そ
 の年寄もわきめをふらずに歩いていた。何年もそうしてきたように、迷いのない足どり
 だった。一茶は顔をしかめた。いい気分で遊んできたが、その金がどういう素姓の金だ
 ったかを、眼の前の年寄が思い出させたようだった。むろん、働いて得た金ではない。
 そして女に使うような金でもなかった。そう思うと、朝帰りの身体が、水を浴び竦み
 あがったような気がした。
・「親爺が死んだら、この家とも縁遠くなるだろうな。」戸口の柱によりかかりながら、
 一茶はぼんやりそう思った。離れていても、親がいて家があるということは心の支えだ
 ったが、父が死ねば、そのつながりは突然に失われるようだった。ふと心細い気分が動
 いた。   
・乙二は奥州白石の千住院という寺の住職で、去年から江戸に出てきていた。道彦も仙台
 の出だが、道彦が風采も言葉もすっかり江戸人になりきっているのにくらべ、奥州俳壇
 の雄といわれる乙二は、素朴な田臭が匂っている。
・女は二十前後、十九から二十一、二といった年ごろで、若いとは言えなかったが、それ
 だけに目立つほど熟した身体つきをしていた。女は同じ屋敷の中の離れ部屋にいる。一
 人ではなく、二つ三つの年上の感じの若い男と一緒だった。二人は布川の男女で、夏の
 はじめころ駆け落ちして村から姿を消したが、ひと月ほど前に、成田にいるところを探
 しに行った者にみつかって連れ戻されたのである。簡単には一緒にできない事情があっ
 たので、双方の家の話がつくまで、この家に預けられているとの話だった。
・夕方庭の築山の陰をゆっくりと歩いていた女にひどく興味をそそられていた。女は一茶
 の好みの熱い腰と豊かな胸をしていた。それが、着ているものの上からもわかった。顔
 は土地の娘らしく浅黒い肌をしていたが、十人並みの容貌で、眉と眼のあたりに、勝気
 さが窺がえる娘だった。その姿に駆け落ちという文字をかぶせると、そこから生生しい
 艶めいた感じが立ちのぼってくるようだった。あの中で、何をしているのだろう。一茶
 はそうも思った。そう思うと、不意に若い男女の痴態が眼にうかんできて、一茶はその
 想像のために息苦しさをおぼえたほどだった。そういうときの一茶は、女の相手に対し
 てほとんどはげしい嫉妬を感じていたと言ってよい。
・一茶は四十二になるまで、妻帯はむろん馴染んだ女というものもなくて過ごしてきてい
 るが、女が嫌いなわけではなかった。定まった相手がいないのは、住居も満足になく、
 時にはその日の糧さえ人の恵みを受けるような暮らしの中で、女房をもらいようもなか
 ったというだけに過ぎない。むしろ女に対する欲望は、ひと一倍はげしいかも知れない
 と、自分で思うことがあった。もっと若い時分は、欲望に堪えがたくなると明白の暮ら
 しのことを考えずに、切見世がある入江町や夜鷹がいる吉田町に走った。
・いまはさすがに四六時中女のことを考え、身体がほてっていたたまれないということは
 ない。それに女房も持てない自分の運命というものを、静かに諾う心も加えわった。だ
 が、それで女に対する欲望が消えたわけではなかった。それは抑圧され、心の一番下に
 押しこめられたまま、そこでどす黒く音を立てて流れ続けている。
・金が入ると、一茶は暮らしに障りのない程度に女を買いに行く。女を選ばず、一番安い
 場所で、病気持ちでないかぎりなるべく安い女を買う。そして丹念に苛んだ。そのため
 に女に嫌われることもあったが、そういうとき一茶は、解き放たれた欲望が、狂奔して
 身内を駆けめぐるのを感じるのだ。
・好もしい身体つきをした女をじかに眼で見、その女が、案外にのんきそうに男と一緒に
 庭をぶらついたりしているのを見ているうちに、一茶の気持ちの中に嫉妬めいた感情が
 生まれたのだった。駆け落ちという行為の中には、眼がくらむほど放恣な、欲望の解放
 が感じられた。一茶は二人がうらやましかった。
・女は麩のようなものを持っているらしく、うずくまったまま、池にそれを投げた。その
 たびに女の袖がめくれて、二の腕のあたりまで露わになった。浅黒い顔に似あわず、白
 い腕だった。一茶は息をつめて、うずくまった女の腰のあたりを見つけていた。豊かな
 腰だった。女が手を振りあげるたびに、脇腹から腰にかけて、生生しい曲線が走った。
 一茶にはまったく気づいていないために、女の身体つきは淫らなほど放恣だった。
・もういいだろうと一茶は不意に思ったのだ。四十を過ぎたときである。のぞみが近づい
 てきたわけではなかった。若いころ、少し辛抱すればじきに手に入りそうに思えたそれ
 は、むしろかたくなに遠ざかりつつあった。それならば言わせてもらっていいだろう、
 何十年も我慢してきたのだと、一茶は思ったのである。世間にも、自分自身にも言いた
 いことは山ほどあった。中でも貧こそ滑稽で憎むべきものだった。
・貧と孤独はいつでもじっと彼を待ち構えていた。前途に何か明るいものが見えるわけで
 もなかった。    
・鶴舞から大多喜に抜ける山中の道で、ある朝、真白に霜をかぶった男の死体が見つかっ
 た。死体は道を少しそれて、枯れ芒の斜面の中に横たわっていた。苦しんだ様子はなく、
 疲れてひと眠りしているような形で見つかったのである。その白髪の男の死体が露光だ
 とわかったのは、近くの根古屋の村に、露光からの俳諧を手ほどきされた男がいたから
 である。 
・帰れば迎えてくれる家がありながら、露光はそうしなかった。そしてそういう死を選ん
 だと思うしかなかった。それは一茶には思いもつかない強い生き方かもしれなかった。
 だがおれはごめんだと、一茶は思った。露光のような死に方はしたくない。死体の上に
 真白な霜がおりていたという死にざまは、やはりみじめだった。誰もいない路傍で息絶
 えることを考えると、身ぶるいするほどこわくおぞましかった。だがこうして旅暮らし
 を続けていれば、それはいつか自分の身の上にも起こりかねないことだった。四十にな
 れば、すぐ五十になる。いつまで浮草の暮らしを続けるつもりなのかと、なじるように
 言った父親の言葉を、一茶は思い出していた。
・四十を越え、江戸で一戸を構えることが容易でないと覚ったころ、一茶は時どきそう思
 い、父親が死の床でしたためた遺言状を取り出して眺めたりした。だが決心は容易につ
 かなかった。遺言状を持ち出して本気で掛けあうことになれば、血で血を洗うような争
 いになる。それも煩わしかったし、江戸に未練もあった。白髪になって故郷に帰るひる
 みもあった。だがようやくその決断に迫られているような気がした。故郷に帰るか、そ
 れとも露光にように行き倒れを覚悟するかだった。
・何の手がかりもないままに、月日だけが速く過ぎるのを見てきている。そうした月日が
 たち、年を取るたびに、そののぞみを手に入れることの難しさが、微細に隅まで見てく
 るようだった。 近ごろの一茶は、そのささやかなのぞみをも許そうとしなかった江戸
 という町に、ひそかに増悪を抱いて暮らしているといってよかった。
・家を出て三十年あまり。はじめて安住できる土地を手に入れた喜びが、白髪の一茶を襲
 ってきた。一茶は履物を捨てると、はだしになって雪の中に踏み出した。足はすぐに膝
 まで雪にもぐったが、ちょっと立ちどまっただけで、さらに二歩三歩と前に進んだ。苦
 しいほど胸をしめつけてくる喜びがあって、そうしないではいられなかった。足先から
 鋭く衝きあげてくる雪の冷たさが快かった。
・ふと箸をとめて、一茶は行燈を見つけた。何年も、ひとりぼっちで。それは、近ごろ時
 どき一茶を襲ってくる、ほとんど泣きたくなるような感慨だった。ひと一倍懸命にやっ
 たが、ついに何ひとつ報われなかった男が、こうして年を取って菜を噛んでいる。一茶
 はそう自分を憐れんでいる。だがそういう思いの中に浮かんでくる自分の姿ほど、滑稽
 でみっともないものはないという気もしてくる。一茶は自分を嘲り、江戸の片隅に、人
 なみの暮らしを立てるという、ささやかなのぞみさえ許そうとしなかった世間を罵らず
 にいられない。 
・一茶の気持ちの中には、ほとんど慢性的な、生活に対する不安が隠されている。ついに
 ひとつかみの米もなくなって成美の家に走ったり、晦日に払う家賃を稼ぎ出すために、
 汗にまみれて旅の道をいそいだりしたときの怯えに近い気持ちは、まだ心の底に消えず
 に残っていた。
・「おまえは菩薩さまじゃ」一度子供を産んで、ふっくらと重味と嵩をました菊の乳房を
 弄びながら、一茶は酔い痴れたように囁いた。菊を抱くとき、一茶の脳裏を、江戸の娼
 婦にあなどられながら過ごした夜の記憶が、かすめて過ぎることがあった。その記憶は、
 今の幸福感を倍加し、欲情を高めてくる。一茶の手は、さらに隠されたふくらみを探り、
 痴愚の動きを示しはじめていた。菊は、閨では機嫌のいい女だった。一茶の手の動きを
 に身体をくねらせて、喉の奥で含み笑いながら、一茶の耳に息を吹きかけた。菊は、一
 茶の耳を噛んだ。そして唇を移して、鳥が餌をひろうように、あわただしく毛深い胸を
 吸ったが、やがて不意に一茶の背中の肉を掴むと、白い胸をつき出してのぞけった。
・闇の中で、一茶は白髪も、皺も消えて、双身の歓喜天に変化していた。一茶は象頭の裸
 身の魔王で、抱き合っている菊は、可憐亜十一面観音の化身だった。象頭を宙にふりた
 てて、荒荒しく動いた。菊のよろこびにすすりなく声が、遠くに聞こえた。
・なんと、昨夜は五つも交わったぞ。煙を吐き出しながら、一茶はそう思った。だが、そ
 れでとくに疲れたという気はしなかった。眼もしっかりしていて、手足にも力が残って
 いた。だが菊は昨夜、しまいには息も絶え絶えになったのだ。一茶は自分の若さが誇ら
 しかった。  
・子供は少しも目放しならなかった・さとと名づけた女の子だった。最初の子を、じっく
 りと顔を見る間もなく失った一茶は、この子がかわいくてならなかった。しぐさひとつ
 ひとつがめずらしく、愛らしくて、一茶はいつの間にか仕事をよそにして、子供の相手
 ばかりしている自分に気づくのだった。五十七になって、はじめて味わう人の親の気持
 ちだった。 
・菊は本当にただの農婦だった。丈夫で若くて、懸命に働くだけの女だった。むろん一茶
 はそれを承知で嫁に迎え、思いがけなく若い妻を得たことを身の果報と思い、二、三年
 は若い身体に溺れたのだ。だが娶って六年にもなり、子供も出来てみると、鳴子百合だ、
 碇草だと精のつく薬草を漁ってはげむ房事にも、少し倦きが来た。その分だけ、話し相
 手には不足な菊に、不満が出て来たようだった。
・一茶は心が暗い怒りで満たされるのを感じた。くだらない世の中だ、と思った。怒りの
 裏には、ごそりごそりと金をさらって行く道彦に対する羨望と嫉妬がぴったりと貼りつ
 いている。しかしいつの世にも、こういう人間が勝つのだ、とも思っていた。彼らは一
 茶が必死になって這い上がろうとし、ついに這い上がれなかったその道を、楽楽と歩い
 ていた。そういう人間は、一茶のように年中人の顔色を窺がったり、控えめに物を言っ
 たり、二年も同じ物を着ていたりはしないのだ。彼らはいつでも、世の中の真中にいる。
 派手に着飾り、ずかずかと人の話の中に割り込んできて、大きな声で喋り、笑い、そこ
 でもやはり真中にいる。羞じらったり、下手に遠慮したりもせず、気ままに振舞いなが
 ら、それでいて何が世に迎えられるかは、ちゃんと嗅ぎわけているのだ。世の中を、大
 手を振って歩くのは、そういう連中だ。おれと道彦を分けたものは、たぶん芸の巧拙で
 はなくて、そういうものなのだ、と一茶は思うのだが、それはわかっただけでどうしよ
 うもないものであった。
・俳諧は、一茶にとって確かに喰うための手段であったが、それだけではなかった。やは
 りそれ以上に芸だったのだ。金が儲かればいいというものではなかった。俳句よみのそ
 の誇りは、いまもしっかりと腹の中にある。ろくに芸ももたずに世にときめいている連
 中をみると腹が立った。 
・一茶は赤ん坊の頬をちゅと吸った。乳の匂いがした。さとは機嫌よく笑って、一茶のた
 るんだ頬の肉をつかんだ。その子供が、疱瘡をこじらせて死んだのは、最初の誕生日が
 すぎてひと月あまりしかたたない六月のことだった。突然に襲いかかってきた不幸に、
 一茶は茫然とした。だが一茶の本当の不幸は、そのときにはじまったばかりだったので
 ある。      
・妻の菊が病気で寝込んだのは、今年二月だった。一旦回復して、家の中のことも出来る
 ようになったが、三月の初めにまた寝込んでしまい、その後はみるみる衰弱した。野尻
 宿から医師を呼んだがいっこうにききめがなく、四月半ばになるとついに起き上がれな
 くなった。  
・最初の男の子がひと月足らずで死んだとき、一茶は悲しみはしたが、世にあることだと
 思ったのである。だが四年前にさとが死に、一年置いて生まれた石太郎という次男が、
 またも百日足らずで死んだとき、一茶は一家を遠くから見つめている、何者とも知れぬ
 ものの悪意のようなものを感じないではいられなかった。  
・次つぎと子を失った夫婦は、ただ寄りそって暮らすしかなかった。しかし去年の三月、
 菊は運命に抗うようにまた男の子を生んだ。一茶は、この三男に金三郎という名をつけ
 た。一茶は六十だった。
・一茶と菊との最後の子供、金三郎が死んだ。小丸山の墓地にのぼり金三郎を埋めた。
 丘の斜面で、一茶はふと灰色の雪空を見上げると、そこで足をとめて動かなくなった。
 疲れたわけではない。六十一になって、ただひとり残されたという気持ちがこみあげて
 きたのである。だがこのとき、知り合いの人間がそこを通りかかったら、一茶が気が違
 ったとみたに違いない。一茶は薄笑いをうかべていたのである。あくまでも不運に出来
 ている自分の人生を、一茶は罵り、笑わずにはいられない。薄笑いしながら、一茶は心
 の中にひろがる暗黒を、凝然とのぞきこんでいたのである。
・弥市は山向うの飯山城下から、中年の女を一人連れてきた。田中という飯山藩士の娘で、
 名前は雪という。年は三十八だと弥市は言った。弥市の女房は、飯山から後妻に来た女
 だったので、そのつてを頼って、縁談をまとめたのである。
・一緒の部屋にいても、一茶から遠く離れて、膝も崩さず座っているような雪をどう扱っ
 ていいかわからなかった。しかしある夜、雪が行燈の火を消して自分の床に入ったのを
 見すますと、一茶はそろりと床を抜け出した。「男と女じゃ」、と思っていた。一年以
 上も絶たれていた欲情に、火がついていた。新しく女房になった女に対する興味が、そ
 の火を煽り立てていた。頭の中で、ふくらんだ血管がごんごんと音立てるのを聞きなが
 ら、一茶はてさぐりで暗い畳の上を這って行った。雪は、はじめ少し抗った。その動き
 にも雪のとまどいが現れていた。だが、一茶が執拗にむしゃぶりつくと、やがて抗うの
 をやめた。だが、突然に一茶は、強い力で押しのけられた。あえなく、一茶は夜具の外
 に転がり出た。起き上がった雪が、小走りに部屋を出て、台所い入ったのが、気配でわ
 かった。はげしく嘔く声が聞こえてきた。
・雪は雪で、やはり夫婦の先行きを見ているかもしれなかった。俳諧師という名につられ
 て縁組みを承知したものの、来て見るとうす汚れた中風年寄がいるのにまず仰天したろ
 うし、暮らしてみて、さらに失望を深めたに違いなかった。そういう雪を責めること出
 来ない、と一茶は思った。むしろ釣り合わない縁談にのって、柏原くんだりまで来てし
 まった女が哀れだった。雪は離縁して去った。
・どこかで哀しげに澄んだ子供の声がするのに、一茶はじっと耳を傾ける。そうしている
 と取りとめもない物思いが浮かんでくるのだった。裸足で川のそばを駆けた子供のころ、
 腹をすかせて、何か喰うものは落ちていないかと、江戸の町町の軒先を眼て覗いていな
 がら歩いた、浮浪のような二十のころ。
・「やを」は前の妻「雪」が去ってからちょうど二年たって迎えた、三度目の妻だった。
 一茶は「やを」が三十二だと聞き、その若さを危うんだ。恐らく居つくまいと思ったの
 である。だが、「やを」は年寄をいやがらなかった。
・「やを」の寝息が聞こえる。その向こうに「やを」の連れ子の倉吉の幼い寝息も聞こえ
 てくる。若くて丈夫な「やを」には、眠りもすみやかにおとずれるらしかった。「やを」
 は気だてのいい女だ。こうして一緒に寝ていれば、それがよくわかる。「雪」などとい
 う女は、ひとつ床に入るのもいやがったものだ、と一茶は思った。
・「やを」は越後の二股村から、柏原に小升屋に乳母となって雇われてきた女だったが、
 隣の柏原で一番の大地主の三男とわりないの仲になった。そして倉吉という子を生んだ。
 倉吉はまだ二つだった。
・「やを」は幾分「菊」に似通っているようにも見えた。「菊」は色が白く、「やを」は
 浅黒い肌をしていたが、丸顔で丈夫そうなところや、ちょっとしたしぐさに似たところ
 があった。ただ、「やを」は無口だった。無口だったが、冷たい女ではなかった。子供
 を連れて一茶の家の者になると、くるくると働き、一茶の面倒もよく見た。
・あたたかい肌だった。一茶は「やを」の腿の間に、いつも冷えている不自由なほうの足
 を突っ込んだ。「やを」は拒まなかった。そうしているうちに、久しぶりに一茶は股間
 に、なつかしい力がみなぎってくるのを感じた。「じっちゃんな、身体にさわるわさ」
 一茶の動きに気づいた「やを」が、今度ははっきり目覚めた声でそう言ったが、やがて
 「やを」の口から呻き声が漏れてきた。前のようにすれば、身体にはさわらない、と一
 茶はせきたてた。「やを」は黙って身体を起こすと、一茶の上に身体を重ねた。無言の
 ときが流れて、闇の中で一茶は、極楽じゃと呟いた声が声が聞こえた。「やを、わしの
 子を生め」一茶は回らない舌でそう言った。そして最後の命をしぼりこむように、小さ
 く身ぶるいした。同時に「やを」の身体が前に倒れて、一茶の胸の上に俯せになった。
・「ごくらくじゃ」そう言った直後、一茶はひどく悪い気分に襲われた。光の見えない闇
 の中なのに、後頭部から後に墜ちていくような感覚が起こり、嘔き気がこみ上げてきた。 
 翌朝、食事が済んだあとで、一茶は不意に倒れて意識を失った。そのまま眼を開くこと
 がなく死んだ。