意気地なし :藤沢周平

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この作品は、いまから46年前の1975年に発表された短編の時代小説である。
幼い乳呑児を残して妻に死なれ、途方に暮れる男やもめの伊作と、それを意気地なしと軽
蔑しながらも、残された赤ん坊のあどけなさに惹かれて、つい手助けしてしまう、同じ長
屋に住むおてつ。おてつには、見栄えのよい婚約者がいたのだが、つき合っているうちに、
その婚約者が、あまりにも女の扱いに慣れていることに気づき、疑念を抱くようになる。
見栄えはよいが、女の扱いに慣れている男よりも、妻を亡くして途方に暮れ、しょぼくれ
ている情ない男と一緒になるほうが、自分は幸せになれると、おてつは確信するのだった。
ここに描かれた、あふれるような母性愛の女性像は、もはや姿を消してしまった古風な道
徳観の持ち主のまぼろしなのだ、と言われてしまえばそれまでだが、それでも、いや、ま
だそういう女性はいるはずだと思いたい気がする。
この作者も、長女が生まれてまもなく、愛妻に急死されて、男やもめの経験をしたようだ。
残された一人娘の世話と仕事で、アップアップの暮らしをしたという。その時の経験が、
この作品にも色濃く反映されているのではないかと思えた。
日本では、ひとり親世帯のうち、約87%は母子世帯だと言われているようだ。残りの約
13%が父子世帯ということになる。そのひとり親世帯では、この物語に出てくる伊作の
ように、ほんとうに困っていても、なかなか助けてくださいとは言えない人も多いのでは
ないだろうか。そのことを周りにいる人が察してあげられる、ゆとりある社会であってほ
しいと願うのだが、残念ながら今の社会は、それぞれが自分の暮らしで精一杯というのが
現実だろう。それでも、この物語のおせつのような女性も、きっといるのだ考えると、な
んだかほっと気持が和らぐような気がする。



・「十三そこらで遠国から出てきて、こちらで所帯をもったわけだ。国は越後だっていう
 から、そこへ帰れば、そりゃ誰がいるに違えねえさ。さがさしあたって、江戸に頼れる
 人間はいねえってことよ」「子供が可哀そうだよ。子供が」「とりあえずお乳は、お増
 さんがやっているそうだけど」「そうか。そいつはま、よかったじゃねえか」両親の話
 し声がしている。
・おてつの眼に、一人の男の姿が浮かんでいる。いつも日焼けが醒めないような黒い顔を
 し、細い眼が哀しげに見える無口な男である。年は二十七、八。
・男は十日ほど前、女房に死なれ、両腕に乳呑児を抱えてしょんぼりしている。そうでな
 くても優しく、もの哀しげな眼がいまにも泣き出しそうに見える。
・男の名は伊作。腕のいい蒔絵師だというが、おてつには若いのに何となくじじむさいだ
 けの男にみえる。 
・要するに田舎者なのだ、あの男は。朝出、居残りで律儀な稼ぎぶりだったのも、そのせ
 いなのだろう。気の毒だと思うが、男に同情する気は起こらない。
・人には言えないことだが、おてつは男の死んだ女房のおせちが、あまりほけた女でない
 ことを知っている。それに気づかずにせっせと働きづめだった男に、軽い軽蔑の気持す
 ら持っている。哀れな男に違いないが、そう思う気持ちの底に微かに腹立たしい気分が
 沈んでいる。 
・ただ、子供は可哀そうだった。乳離れにまだまだ間のあるその女の子は、おけいと名づ
 けられているが、日がな一日泣きわめいている。
・おとなしいのは、同じ長屋のお増の、やや皺ばんではきたものの、大きさでは若いもの
 にひけをとらない乳房を握っているときだけのように見える。
・お増はつい半年前に子供を産んだばかりだが、その子が八人目である。四十になってま
 た腹が大きくなったときはさすがに、「ほんとに恥ずかしい」などと言い言い、裏店の
 連中の顔色を窺う様子だったが、裏店のものはまたかと思っただけである。
・作次は兄の藤太郎の兄弟子だった男で、おてつの婚約者のような形になっている。作次
 は姿ないなせで、男らしく引き緊った顔をしている。その顔を思い浮かべるとき、おて
 つの胸は、くすぐったいような気恥ずかしい思いに誘われる。 
・作次は、早く母親を亡くして父親と二人暮らしだった。
・作次は物言いもさっぱりして、男らしい気性だが、がさつな男ではない。そういう優し
 さを持っていることは、これまでのつき合いで解っている。


・立ち止まったのは、赤ん坊の泣き声があんまりひどかったからである。火がつくように
 泣いているが、誰かがなだめている様子でもない。おてつは戸を開けた。家の中は赤ん
 坊の泣き声だけである。
・おてつは、突き当りの障子を開けた。男の黒い背が見えた。伊作である。伊作は胡坐を
 かいて首を前に垂れているので、首無しの胴が坐っているようだった。おけいが窓ぎわ
 の小布団の上で、亀の子のように手足を縮め、真赤な顔をして泣き喚いている。
・「ちょっと」おてつは呼んだ。伊作があわてて振り向いた。おてつはバツの悪い顔にな
 った。伊作の眼は真赤で、鼻のわきに涙のあとがある。泣いていたらしい。悪いところ
 を見てしまった、と思ったが、すぐに腹が立ってきた。なんて意気地ない男だろう。
・おけいを抱き上げて、指をしゃぶらせてみた。すると、おけいは泣きやんで驚くほど強
 い力で指を吸った。それが乳首でないとわかって指を話すと、おけいは、前にも増して
 ぎゃっぎゃっと声を張りあげて泣き出した。
・じっさい腹が立っていた。やもめだかかもんだか知らないが、一人前の男が赤ん坊のお
 守りひとつ出来ないという話は聞いたこともない、と思った。おまけにどこの世界に、
 子供と一緒になって泣いている父親がいるものだろうか。
・お増はちゃんといた。すぎにおけいに乳を含ませながら、「遠慮してんだよ、あのひと
 は」とお増は言った。 
・おけいは夢中になって、お増の乳房を両掌でつかみつかみ乳を吸っている。腹がくちく
 なると、現金なものでおけいはとたんに機嫌よくなった。ちょっとあやすと、すぐにけ
 らけらと笑い出す。可愛らしかった。
・おてつは、ちらと伊作を見た。暗い顔をして、途方にくれているように見える。じっさ
 い、子供がいてはどうしようもないかもしれない。
・じっさい泣きたいほどなんだろう、と思った。あの時は、意気地のない男だと思ったが、
 伊作もどうしようもなく困っているのだ、ということは察しがついた。
 

・おてつは作次と連れ立って両国橋を渡った。橋を渡ると、作次は川端を左に曲がった。
 その先から水茶屋や寄合茶屋が並んでいる。
・「池ノ端に、生きのいい魚を喰わせる店がある。そこで晩飯でも喰おうや」と作次は言
 った。おてつはちらりと作次の顔を見た。上野とは遠いところまで歩く、と思ったので
 ある。不忍池のあたりは、出合茶屋というものがある、とも聞いている。家から離れた
 遠いところに連れて行かれる不安があった。だがその不安は不快ではない。作次が一緒
 なら構わないという気がした。
・二人は他愛ないお喋りをした。だが、その話の間に、おてつは時々気になるものがはさ
 まるような気がした。何か忘れものをしている感じがある。やがて、あっと思った。
・「いま、子供を預かっているのよ」おてつは伊作と赤ん坊のことを喋った。伊作という
 男が意気地なしで、赤ん坊と一緒になって泣いていたこと。おけいという赤ん坊が可愛
 いことなども勢いづいて喋った。 
 「この頃、おけいちゃん、わたしになついちゃったみたいなのよ。わりに機嫌のいい子
 なの。何か知らないけど、一所懸命話かけてきてさ」
・「そろそろ行くか」「ええ」と言ったが、おてつは気持が茶屋入る前より弾まないのを
 感じた。 
・「あたし、今日はこれで帰るわ」「子供が気になるの」一瞬作次の顔に険しい色が走っ
 たようだった。おてつは微かな怯えが心をしめつけるのを感じた。作次の機嫌をそこね
 たことは明らかだった。だが、作次と上野へ行って、晩飯を馳走になる、という気分は
 もう失われていた。
・「じゃ、またな。俺一人で行ってくる」と作次は言った。作次の長身が、広小路の雑路
 にまぎれ、やがて見えなくなるのを、おてつは茫然と見送ったが、やがて橋を渡りはじ
 めた。 
・取り返しがつかないことをしたような気がしていた。作次を怒らせてしまったことが、
 気分を重くしている。作次は、夕ぐれから夜のひとときを、おてつと二人だけで過ごそ
 うとしたのだ。出合茶屋というところに行くつもりだったかもしれなかった。その先は、
 おてつには解らない。ただ漠然とした恐れのようなものがそこにあった。子供にかこつ
 けて、眼の前にあるその恐れから逃げたような気もした。だが、作次が望むなら、そう
 した方がよかったかもしれない。


・湯屋から戻ってくる途中で、おけいを抱いた伊作に会った。
 「こんばんは」おてつは声をかけたが、伊作はうなだれたまま通りすぎた。おけいが気
 づいて、「うま、うま」と言った。
・ひどく元気がなさそうだった伊作の姿が眼に残っている。伊作などどうでもいいが、
 「うま、うま」と呼びかけたおけいのことが気にかかる。
・おてつは立ち止まった。新高橋の手前に、人影が蹲っている。紛れもなく伊作だった。
 「おー、おー」と喋っているおけいの声が聞こえる。伊作は懐に子供を抱えたまま、落
 ちこむほど川っぷちに身体を乗り出して、じっと蹲っている。おてつは黙って親子を眺
 めた。
・死んだかみさんのことでも思っているのかしら。でも、それを思うくらいなら、少し身
 なりに気を配って、代わりの人をもらうことでも考えたほうがいいのに、とおてつは思
 う。  
・十日ほど前、お増の亭主の七蔵が、後添えでいいという女を連れてきて、伊作の家で見
 合いの真似ごとをさせた。だが、やつれた顔に無精ひげをはやしたままで、着る物はす
 っかり垢じみ、聞かれることにろくに返事も出来ない伊作に、相手の女はひと目見ただ
 けで愛想をつかしたらしく、すぐ断りの返事がきたとお増から聞いている。
・不意に裾を乱しておてつは走った。立ちあがった伊作が、おけいを掴んで腕を突き出し、
 川に投げ込もうとしているように見えたのである。何もしらないおけいがけらけら笑う
 声がした。その笑い声に、一瞬気を殺がれたように、伊作の動きがとまったので、おて
 つは間に合った。ひったくるようにおけいを抱き取ると、おてつはいきなり伊作の頬を
 張った。 
・「あんた、この子を川に捨てようとしたね。あたし見ていたんだから」おてつは烈しく
 言い募った。
・「死なせるつもりじゃなかった。俺も一緒に死ぬつもりだった」伊作がぼんやりした口
 調で言った。
・「あんた、おかみさんがどんなひとだったか、知っているんですか?男がいたんですよ、
 あのひとには」
・「嘘だ。そんな筈がない」「信じないなら、それでいいじゃありませんか」おてつはこ
 わくなって言った。いきなり頬をなぐられて、おてつはよろめいた。
・「済まなかった。おてっちゃん。あんたのようないい人はいないと、いつももったいな
 く思っているのに、俺はどうかしている」伊作は深くうなだれている。
・「今夜は、おけいちゃんはわたしが預かって帰ります。あんたと一緒に置いたんじゃ、
 何されるかわかりませんからね」
・おてつは足早にそこを離れた。泣きやんだおけいが、うま、うまと言って乳房を探りに
 きた。擽ったかったがそのままにしておいた。
  

・「今日はまさか逃げ出しゃしないだろうか」作次は笑いながら言った。出井合茶屋だと
 思われる、不忍池のそばのその店に、作次は無造作に入った。部屋に通ると、作次は女
 中に酒をいいつけ、すばやい手つきで心づけを渡した。このひとは、こういうところに
 入るのが初めてではないようだ、とおてつは思った。作次は物慣れしたふうで、落ち着
 いている。そういう作次をみていると、おてつは、自分はこのひとのことを何も知らな
 い、という気がした。
・まだしも、あのひとの方をよく知っている。不意にそう思った。おてつの眼に、同じ裏
 店のもの哀しげなやもめ姿が映っている。そういう形で作次と見くらべたことは一度も
 ない。あわてて、おてつは伊作の姿を眼の裏から消した。
・おてつは、かたくなに、うつむいたままでいた。そうしていると、急に強い不安に包ま
 れるのを感じた。上野に行こう、と誘われたとき、おてつは作次が何を望んているかが
 解った。だが、おてつは、この前、作次の期待をはぐらかしたという負目がある。黙っ
 てついてきた。五カ月後には祝言をする間柄である。作次の望みが理不尽だとは言えな
 い。 
・不意に作次の手が伸びてきて、おてつは酒くさい匂いに包まれた。おてつは身体を固く
 したが、作次の手の動きは巧みで、いつの間にか胸の中に抱き込まれていた。のぼせた
 ようになって、おてつは唇を吸われた。火が燃えるように身体が熱くなっている。そし
 て身体が浮いた。 
・作次の手で布団の上に横たえられたとき、おてつはふっと、このひとずいぶん女を扱い
 馴れている、と思った。作次はなめらかに手順を運んでいた。また唇を吸われて、おて
 つはのぼせたようになった。その間に、作次の指が動いて、帯を解いているのが解る。
 濃い男の体臭が押しよせてくる。
・冷たいものが、ふくらはぎを撫でたとき、おてつはぴくりと身体が顫え、不意に眼が覚
 めたように意識がはっきりした。冷たいものは作次の指だった。指は次第に膝から腿に
 這い上がってくる。ふと、おてつは、赤ん坊の泣き声を聞いたような気がした。
・「あたし、帰ります」作次の眼が、憎悪に光っているのが行燈の灯で見えた。
 「人をなめるんじゃねえぜ。あんただけが女じゃねえよ。女なんか幾らでもいる」
・おてつは、出合茶屋を出た。これであのひととはおしまいだ、と思った。そう思ったが、
 なぜか悔む気持が湧いて来なかった。
・おてつは暗い道を急いだ。裏店の露地に入ったとき、おてつはおけいの泣き声を聞いた。
 伊作の家は、まだ灯がともっている。しばらく立ち止まって、おてつはおけいの泣き声
 を聞いた。
・「こんばんは」と声をかけたとき、おてつは心が決まった、と思った。障子の中には、
 おてつが面倒みなければ、誰もみてくれる者のない父親と子供がいる。この方がよかっ
 たのだと思った。  
・おしめを取り換えてもらうと、おけいはすぐに機嫌がよくなった。おてつに抱かれると、
 うー、うま、うまと言って胸を探ってきた。幸福な感情がおてつを襲ってきた。
・この子の面倒をみて、伊作さんも身ぎれいにしてあげるのだ。後ろにいる塩たれやもめ
 が、以前は見苦しくない男だったことを思い出していた。幸福な気持に衝き動かされて、
 おてつは襟をつろげて胸を開いた。おけいの柔かな手が乳房を掴み、巧みに吸いついて
 きた。 
・やがて乳が出ないのが不思議だという表情で、おけいは口を離し、おてつの顔を見上げ
 たが、腹はくちくなっているらしく、機嫌よく乳房を手で叩いた。おてつは声を立てて
 笑った。
・「伊作さん、あたしをおかみさんにしてくれません?」伊作はいっぱいに眼をみはって
 おてつをみた。その眼がおてつの開いた胸に落ちると、伊作はあわてて眼を伏せ、赤く
 なった。
・家の者たちが怒るだろうな、と思った。その時はここに逃げてくればいい。おてつは自
 分の幸福に自信があった。伊作のことは、ひどく遠い昔のことに思えた。