いちご同盟  :三田誠広

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この小説は、主人公の北沢良一とその友だち徹也、そしてがんの病を抱えた直美の三人の
十五歳の中学生たちを描いたものだ。
中学生という年代は微妙な年代だ。もう、子供と呼べるほどの幼さはないが、かといって
大人ともいえない。でも、中学生は、周囲の大人が思っている以上に、その内面は大人に
近いまでに成長している。中学生だと思って見くびってはいけない。大人と同じように、
生きることについての葛藤を抱えている。
この小説は、そんな中学生の心もようがよく描かれている。生きることの意味を見い出せ
ないで、ときどき自殺を考える良一。もっと生きたいのにがんという病によって、短い命
を閉じなければならない直美。甘く、せつない初恋と運命の無常さ。
良一のお父さんの言葉もいい。そして直美のお父さんの言葉も、感動的だ。人間の死と生
命、友情、愛の問題について、久しぶりに、まるで中学生に立ち戻ったような純粋な気持
ちで、悩み、悲しみ、感動させられた。中学生世代はもちろんのこと、世代を越えて、読
んでほしい。

・自殺した少年は、五年生だった。担任の先生に叱られたのが直接に原因らしかったが、
 その担任の先生が、少年を職員室に呼びつけておきながら、先に帰って知り合いと遊び
 に出かけていたことが問題になって、新聞にも大きな記事が出た。週刊誌には、少年の
 作文と詩が掲載された。年齢より大人びた、頭のいい少年だった。担任の先生は、子供
 らしさがないと言って、少年を責めた。努力の尊さを説く先生に対して、少年は、努力
 なんて虚しい、といった態度を見せたようだ。正義とか理想とかいったものは大人の約
 束事で、本当は大人たちも、そんなものは信じていない、といった意味のことが、掲載
 された作文には書いてあった。
・ぼくは中学は公立だが、制服はブレザーだ。都心の中学はブレザーが多い。このあたり
 は公立も私立も、同じような金ボタンの学生服だ。
・少年の父親は大卒にサラリーマンで、母親はパートで働いていて、妹が一人いた。どこ
 にでもある家庭だ。この壁に、フェルトペン書きの文字があった。
  むりをして生きていても どうせみんな 死んでしまうんだ ばかやろう
 「ばかやろう」というのは、誰に向かって投げつけられた言葉なのだろう。少年を責め
 た担任の先生なのか。それとも、世の中全体に対してか。
・この建て売り住宅には、半地下式のガレージが付いていたのだが、サッシを入れてレッ
 スン室に改装したので、手前の狭い通路をいつも車がふさぐことになった。四年前、小
 学五年の時に、この家に引っ越してきたのだが、この家が好きになれない。
 以前の2LDKの木造アパートの方が、自分の家という感じがした。子供の頃からの思
 い出が、部屋のすみずみまでしみついていた。
・ぼくは女の子が苦手だ。女の子に声をかけられると、口ごもるくせがあって、子供の頃
 から、よくからかわれた。ことに小学校の高学年になると、女の子はやたらと身体が大
 きくなって、ますます態度がでかくなる。最近は、ぼくも背が伸びたので、恐れること
 はないのだが、いまでも、女の子はなるべく避けるようにしている。
・病院には独特の臭いがある。建物の中に入った瞬間、つんと鼻を突く消毒薬の臭い・・。
 それだけではない。すれちがう患者や看護婦や見舞客の表情、身のこなし、声を殺した
 ような会話、そうしたもののすべてが、息のつまるようなひんやりした雰囲気をかもし
 だす。病気の臭い、あるいは、死の臭いといってもいい。
・思ったより広い部屋に、ベッドがぽつんと置かれていた。黒い鉄棒のはまった窓から、
 やわらかな陽射しがふりそそいでいる。白いカバーのかかったベッドから、女の子の顔
 がのぞいていた。大きな目が、ことらを見ている。ぶしつけな感じがするほど、強い眼
 差しだ。好奇心に満ちた様子で、じろじろとぼくの顔を眺めまわしている。
・病気のせいか、顔や首筋の肌の色が、透きとおるほど白かった。ものおじしない態度や、
 いきいきとした目の輝きが、徹也に似ている気がした。ぼくは、黙り込んでいた。挨拶
 くらいすべきではないか、といったことも、考えなかった。頭の中が、ぼうっとなって
 いた。女の子の目もとが、笑っていた。
・「あたしは、直美。上原直美」妹ではなかったのか、と思った。その時、初めて、妹で
 あってくれと祈るような気持ちでいた自分に気づいた。直美は徹也の顔を見上げた。兄
 妹でないとすれば、いぶかしいほどなれなれしい、妙な親しさが二人の視線に感じられ
 た。    
・「直美が、もう一度お前に会いたいと言っていた」ぼくは、すぐに答えが返せなかった。
 「行ってやれよ。あいつは小学校から私立の女学校だったから、男の友だちは、おれし
 かいないんだ」
・直美は徹也の顔を見上げた。徹也は大げさに首を振りながら、苦笑を浮かべた。「お前
 はわかってないんだ。野球ってもののことがな。苦しみを乗り越えて、勝つ。これが野
 球の醍醐味だ」「試合の勝ち負けは、問題じゃない」「自分に勝つということだ」
・直美が、ぼくの方に振り向いた。「ピアノを弾いていて、苦しいと思うことある?」
 「ふつうに弾いていれば、いい気分だけどね。もっとうまくなりたいと思うと、苦しく
 なる」直美は探るように、ぼくの顔を見ていた。「あなたよりも上手な人がいるってこ
 と?」「もっと基本的なことなんだ。楽譜があれば、そこからいろいろな音のイメージ
 が浮かぶ。せっかくイメージが浮かんでいるのに、自分の指の動きが、正確にそのイメ
 ージを表現できないとしたら、もどかしい気持ちになる」 
・人生というものに関して、ぼくは三つほど、疑問があった。第一は、ピアノを弾くのは
 好きだけど、いまのぼくの技量では、とてもピアニストなんかにはなれそうもないとい
 うこと。第二は、たとえピアニストになったとしても、それが仕事になってしまうと、
 いい気分でピアノが弾けなくなるのではないかということ。そしてもう一つ、ものすご
 い苦労をして、有名なピアニストになったとしても、死んでしまえば、それでおしまい
 ではないかということ。
・自殺した小学生のメッセージが、頭の中でこだましている。あの少年は、十一歳で、世
 界を見通してしまったのだ。生きていたって、ろくなことはない。世界に向かって、な
 かやろう、と罵声をあびせた少年に対して、いったい誰が反論できるだろうか。結局の
 ところ、ぼくの疑問は、その一点に収束する。 
・「いいわね・・・」「あなたたちには、希望があって」低い声で、直美は言った。胸に
 つきささるような声だった。直美は涙ぐんでいた。どうやら、ぼくの言葉が、直美を傷
 つけたようだ。でもぼくは、自分がどうすればいいのかわからなかった。
・「そうね。いじけているわね。北沢くん、ごめんなさい」直美はぼくに向かって微笑み
 かけた。直美の目にたまった涙が、しずくになって、頬を伝い落ちた。顔は笑っている
 のに、涙は止まらなかった。 
・直美の目が、ぼくを見ていた。涙でうるんだ、ドキッとするような目だ。笑いながら泣
 き、素直に謝りながら、その目は用心深く、試すようにぼくの表情をうかがっている。
 その視線には、どことなく、悪意のようなものさえ感じられた。
・「北沢くん、あたしのこと、いやな女の子だと思ってるでしょ」ぼくの顔をまともに見
 すえて、直美は尋ねた。とっさには、言葉が出てこなかった。直美の目には、まるで挑
 むような、不思議な輝きが宿っている。「でも、少しは大目に見てほしいわ。あたし、
 自分の未来に絶望してるから、希望にあふれてる人を見ると、うらやましくなるのよ。
 ほら、これを見てよ」直美は身体に巻きつけていた毛布をめくりあげた。ピンク色のパ
 ジャマから、白い足首と、ふくらはぎがのぞいていた。見えたのは、片方の足だけだっ
 た。もう一方は、太腿のあたりから、パジャマの布が、べたっと平たくなっていた。直
 美はいたずらっぽく笑って、ぼくの顔をのぞきこんだ。ぼくは顔のこわばりを隠すこと
 ができなかった。
・陽が西に傾いた頃、直美のお母さんが、部屋に入ってきた。直美そっくりの、目のきれ
 いな女性だった。いくぶん神経質そうな感じがした。中学生の娘がいるのだから、三十
 代の後半にはなっているはずだが、そんな歳には見えない。ひよわで内気な、少女っぽ
 さを残した女性だ。正直に言って、お母さんの方が美人だと思った。直美も、お母さん
 も、いっぷう変わった女性だった。でも、考えてみれば、徹也というのも、不思議な男
 だ。 
・「あいつはいま、神経が過敏になっている。無理もないさ。片足をばっさり切られたん
 だからな。おまけにあいつは頭がいいから、それだけじゃすまないってことも、うすう
 す感じている」「足には腫瘍があった。悪性のものかどうかおれも知らない。本人はも
 ちろん何も知らされてないはずだが、ものものしい検査の様子を見れば、あんまりいい
 状態じゃないってことはわかるだろう」「直美は、お前のことが、気に入ったみたいだ。
 また見舞いに来てやってくれ」
・ぼく自身、区立中学に入って、突然、成績がトップクラスになったのでびっくりした。
 考えてみれば、小学校でぼくより成績のよかった連中は、みんなどこかの私立にもぐり
 こんでいるのだ。もちろん、家庭の事情で私立を受験できなかった生徒もいる。親が昔
 の都立名門校の伝統をいまだに信じているケースもある。それから、名門私立一本にし
 ぼって、すべり止めを受けなかった生徒もいる。だから、全員が「落ちこぼれ」という
 わけではない。でも、そういう特殊な事情がなければ、成績に自身のある小学生は、た
 いてい私立を受験する。結局、区立の生徒の大半は、小学校で塾に行かず、学校の勉強
 もほとんどしなかった連中だ。
・しんみりとした口調で船橋は言った。自分の手下の不良仲間に対しては、番長らしい横
 柄なしゃべり方をする船橋だが、ぼくだけは特別に対等の扱いをしてくれる。英語や数
 学の宿題をいつも写させてやるので、恩義を感じているのかもしれない。学年ごとにク
 ラス替えがあるのに、どういうわけか船橋とは、三年間、同じクラスだった。ぼくはフ
 ァミコンをやらないし、テレビを見ないから、同級生とは話が合わない。教室でもぽつ
 んと一人でいることが多い。そういうぼくに、船橋は親しげに話かけてくる。何しろ相
 手は番長だから、あんまり親しくされるのも迷惑なのだけれど。
・上級生の中には、高校中退で暴力団の組員になったのもいる。もっとも組に入るのは番
 長クラスではなく、もっと弱いやつらだ。船橋は、成績は悪いけれども、意志が弱いわ
 けではない。誘われても、ずるずると引き込まれたりはしないだろう。
・一年生の頃の船橋は、子分が数人いる程度の、ただのガキ大将にすぎなかった。二年生
 になると、不良仲間の間で、頭角を現わすようになった。体力があるので、喧嘩では負
 けなかった。周りの連中がおだてるものだから、本人もその気になってしまった。成績
 で振るわなかったぶんを、ボスになることで発散させたかったのだろう。やがて、当時
 「番長」と呼ばれていた三年生と、衝突することになった。ある日、教室に現れた船橋
 が、顔に黒いあざを作っていたので、何ごとかと思ったのだが、やがて噂が伝わってき
 た。三年生の「番長」が、肋骨を折って入院したのだという。その時から、船橋が「番
 長」と呼ばれるようになった。 
・不良仲間といっても、大したことはしない。せいぜいズボンの裾を少し広げて、校内を
 大股で歩く程度だ。髪形もふつうではないけれども、染めてはいないし、パーマのかけ
 ていない。いちおう校則は守っている。あとは、放課後、公園でタバコを吸ったり、繁
 華街まで出向いてゲームセンターをうろついたりする。
・船橋自身、野球部のレギュラーになってからは、暴力問題を起こすこともなくなった。
 それでも体力は抜群だし、目配りはしっかりしているので、他の不良連中も逆らうわけ
 にはいかない。人柄がカラッとしているし、ひょうきんなところもある。子分たちは船
 橋を慕っていた。その意味では、船橋は優秀な「番長」だった。ガッツもあるし、人望
 もある、悪いやつではない。多少前科があり、ペーパーテストが苦手だというだけで、
 どこにも行くところがないというのは、いまの教育制度に、問題があるのではないだろ
 うか。
・原口統三「二十歳のエチュード」昭和二十一年に、十九歳と十カ月で自殺した学生の遺
 稿集だ。読書家で、自分でも詩を書いていた原口は、短い遺書とともに、友人に三冊の
 ノートを残した。原口は芸術家になるつもりでいた。職業としての文学者ではない。お
 金のおとなど考えない純粋な芸術家だ。
・長沢延子「友よ私が死んだからとて」昭和二十四年に、十七歳で自殺した女学生のノー
 トだ。長沢延子は出版されたばかりの「二十歳のエチュード」を熟読していた。自殺と
 いうものが、一種の病気だとすれば、この病気は伝染する。
・もう一冊は、自宅の納戸の中にあった。父の蔵書のうち、書斎に入りきらない本が、段
 ボール箱につめて、納戸に積んである。旧漢字の読みにくい本も多いのだが、文学全集
 や文庫本がたくさんあるので、時々箱をひっくり返して、必要な本を抜き出していた。
 その中に、奥浩平の「青春の墓標」があった。奥浩平は二十一で自殺した。死んだのは、
 昭和四十年。新左翼と呼ばれる学生組織に所属していた。当時の学生運動にはいろいろ
 なセクトがあって、敵対していた。その敵対するセクトに、高校時代の恋人がいた。自
 殺の本当の原因はわからない。敵対するセクトの内ゲバ事件をきっかけに、恋人が離れ
 ていったことが一因とされているけれども、それだけが原因ではないだろう。奥浩平は、
 ぼくの父より五歳くらい上のはずだ。父はこの本を、高校生くらいの頃に買ったのだろ
 う。父は文学青年で、大学では、学生運動にもかかわっていたらしい。父はどんな気持
 ちでこの本を読んだのだろうか。
・「純潔−この最も凶暴な自我主義」ぼくは、自分にこだわるつもりはない。「純潔」と
 か「純粋な芸術家」といった理想もない。ただあの十四階建てのアパートの十三階の踊
 り場に立った時、ぼくの体内で、何かが、ふるえおののいていた。あれが、自我ってう
 やつだろうか。十一歳の少年にも、ふるえおののくものがあったはずだ。新聞記事によ
 れば、十三階に住む主婦が、廊下を行ったり来たりしている少年の姿を目撃している。
 階段の近くをうろつきながら、少年は何かと闘っていた。
・最近は私立大学が人気が高いので、付属高校の偏差値が高い。二流の進学校も、一貫教
 育に力を入れているところは、高校からの募集は少なく、大変な倍率になる。弟が中学
 入試の時、すべり止めに願書を出した学校でさえ、いまのぼくの偏差値では遠く及ばな
 いのだ。その下に、三流の私立校とまじり合いながら、都立高校の名前が並ぶ。これも
 学区ごとに、がっちり序列化されている。 
・母は最初から、ぼくがピアノを弾くことに反対していた。幼稚園の頃、ぼくがしつこく
 せがんだので、しぶしぶ許可したのだが、自分では教えず、同級生のいまの先生のとこ
 ろに連れてきた。小学校の四年の時、そろそろピアノをやめたら、と母に言われた。中
 学入試の受験があるからだ。ぼくは、中学は公立に行く、と宣言した。その代わり、高
 校受験でがんばる、と約束もした。たぶん母は、その約束をいまでも信じているだろう。
・父とぼくとの間には、共通の話題がない。だから、たまに父が家にいても、ほとんど口
 をきかない。べつに憎み合っているというわけではない。ただお互いに、関心がないだ
 けだ。その父だって、ぼくが音楽高校を受験すると言えば、びっくりするだろう。
・毛布にくるまれた直美の姿が、目の前にあった。直美の顔をこんなに間近に見るのは初
 めてだ。色白の肌が、病気のせいか、かさかさに乾き、荒れた感じになっていた。それ
 でも、墨で描いたような眉毛や、目の輝きや、血色のいい唇は、細工物のように整って
 いて、いつまでもこの距離で眺めていたいと思わずにはいられなかった。  
・直美はくるまって毛布を解いて、膝の方に押しやった。淡いピンク色のパジャマがあら
 わになった。首から胸にかけての肌が見えた。白い、透き通るような肌だ。ベッドに近
 づくと、かすかに、甘い香りがした。背中に回り、手を伸ばした。壊れ物を触るような
 感じで、指がふるえた。
・父は新書判の本を編集するプロダクションの社長をしている。社長といっても、従業員
 が数人で、大手出版社の下請けをしているだけだ。それでもここ数年、たて続けにベス
 トセラーを出して、儲かっているようだ。仕事が忙しくなって、事務所に泊まり込むこ
 とが多く、日曜日も、めったに帰ってこない。
・父さん、と呼ぶようになったのは、いつ頃からだろう。以前は「パパ」だった。幼稚園
 に入るよりももっと前、「パパ」が毎日家にいた時期があった。もうほとんど記憶に残
 っていないのだが、父は一日中、家の中でぶらぶらしていた。ぼくが寝ている間に、原
 稿を書いたりしていたのかもしれない。とにかくぼくが起きている間は、ぼくの相手を
 して遊んでいた。
・あの頃、父は失業していたのだ。勤めていた出版社をクビになるか辞めるかして、しば
 らくは就職口が見つからなかった。近くに母の実家があった。母は実家でピアノ教室を
 開いて、生活を支えていた。ぼくたちが住んでいたのは狭い木造のアパートで、ピアノ
 は置けなかった。生まれたばかりの弟は、実家で祖母が世話をしていたから、昼間アパ
 ートにいるのは、遅々とぼくの二人きりだった。
・父は昼間からお酒を飲んでいたのではないかと思う。やたらと元気で、明るかった。や
 がて父は、仕事が忙しくなった。いわゆるゴーストライターってやつで、スポーツ選手
 が芸能人など、有名人のところに取材に行って、その人の名前で本を出す。プロダクシ
 ョンを作り、都心のマンションを事務所にして、泊まり込みで仕事をするようになった。
 その頃から、父は別人みたいに、性格が暗くなった。本が何万部売れた、といった数字
 の話しかしなくなった。
・時々、父と、近くの公園に散歩に行った。ボートを浮かべた池もある大きな公園だ。ぼ
 くがブランコやすべり台で遊ぶのを、父はそばで見ていた。初めはぼくの方を見ている
 のだが、そのうち池の方に向き直った。池を見ているのではなく、どこか遠くの方をぼ
 んやり眺めている。そういう時の父は、ひどくしょんぼりしていて、かわいそうになる
 くらいだった。そんな父の姿を見るのが、ぼくは好きだった。
・直美はひとりきりだった。ぼくが病院に来たのは一カ月ぶりだ。驚くか、そうでなけれ
 ば、見舞いに来なかったことを咎めるかと思ったのだが、直美は何の反応も示さない。
 感情を圧し殺しているようにも見えた。重苦しい沈黙がたちまち部屋を満たした。誕生
 日の会でも、その前に徹也と一緒に会った時も、直美はぼくに対して、わざとよそよそ
 しくふるまおうとしているように見えた。直美と徹也は、幼なじみだ。ぼくは余計者だ。
 ある程度の距離をとるのは当然かもしれない。でも、今日の直美は、様子がふつうでは
 なかった。
・ふとぼくは、直美の目に涙がたまっていることに気づいた。ぼくは直美を傷つけてしま
 ったのだろうか。直美の顔が歪んだ。泣き出すのではないかと思った。だが次の瞬間、
 直美は唇を横に開いて、笑いを浮かべた。ひきつるような、つくりものめいた笑いだっ
 た。直美は声を立てて笑い始めた。「あなたって、ほんとに変な人」笑いながら、直美
 は言った。涙が頬を伝い落ちた。直美の激しい感情の起伏が、ぼくには理解できなかっ
 た。   
・「あなたに会いたかったの」ぼくの顔をまともに見すえて、直美は言った。直美はここ
 ろもち頭を起こすようにして、真剣にぼくを見つけていた。「まだ、自殺のこと、考え
 てる?」どう答えていいかわからなかった。原口統三の文庫本はいつも手もとに置いて
 いた。でも、ページを開く回数は少なくなっていた。この一カ月、ぼくはとても忙しか
 った。それだけではない。直美と出会ったことで、ぼくは本を読む気力をなくしてしま
 った。本に書かれた世界よりも、直美がかかえている問題の方が、現実的で、深刻だっ
 たからだ。気持ちの整理がつかないまま、ぼくは小さく、うなずいてみせた。直美はベ
 ッドの上に肘をついて、半ば身を起こし、ぼくの方に向かって身を乗り出すような勢い
 で、ささやきかけた。「あたしと、心中しない?」直美の目が、銃の照準のように、ぼ
 くをとらえていた。
・直美の言葉が耳もとをかすめた。原口統三のことを考えた。長沢延子と奥浩平のことも
 考えた。たぶん彼らには、こんなふうに生きたいという、理想があったはずだ。その理
 想と、現実の自分との距離が、彼らを死に追いやった。
・もしかしたら「二十歳のエチュード」の作者よりも、あの少年の方が、より深く絶望し
 ていたのかもしれない。理想が失われて死を選ぶのではなく、最初から理想がない。
 十一歳で死を選んだ少年に、誰が、異議を唱えることができるだろう。
・もうすくぼくは、十五歳になる。ぼくは現実から逃れようとしているのだろうか。なぜ
 勇気をもって闘おうとしないのか。どうせみんな、死んでしまう。そんなことはわかっ
 ている。直美は生きようとしている。闘おうとしている。
・「もう来ないのかと思ったわ」ぼくが病室に入るなり、鋭い声で直美は言った。ぼくは
 ドアの前で立ったまま、黙っていた。直美は挑むような眼差しでぼくを見つけた。ただ
 見つけられるだけで痛みを覚えるような視線だった。冷気が病室を満たしている。その
 冷気に抗うように、ピンク色に染まった直美の顔や、全身から、熱気があふれだしてく
 る。こんな直美を見るのは、初めてだった。 
・「あなたはいつも、黙っているのね」ぼくは力なく笑った。「徹也は、女の子に人気が
 ある」なぜ徹也のことを口にしたのか、自分でも意外だった。直美の目が、真剣な光を
 帯び始めた。「きみのことを考えると、自然と、徹也のことを考えてしまう。するとぼ
 くは、とてもみじめな気分になる」「なぜなの」ぼくは直美の目を見つめた。なぜそん
 なことを訊くんだ、と無言で問いかけた。直美は一瞬、おびえたような表情を見せた。
 おびえながら、期待をこめて、次の言葉を待ち受けている。そんな直美の気配に勇気づ
 けられて、ぼくは言った。「ぼくはきみが好きだ」直美は目を伏せた。上気していた顔
 が、さらに赤く染まった。
・直美の息の音が聞こえた。何か甘ずっぱいような香りが漂ってくるようだ。ベッドの上
 に寝ているはずの直美の吐息が、耳もとで響く。「あたしも、あながた好き」直美がさ
 さやいた。
・「あたしは運命を恨むわけにはいかない。運命が、あなたをあたしの前に連れてきたの
 よ。だからあたしは、この運命を、喜んで受け入れようと思うの」直美は微笑を浮かべ
 た。不思議な明るさをたたえた、人の表情とも思えない、彫像みたいな微笑みだった。  
 「検査の結果がわかったのよ」微笑を浮かべたまま、直美はつぶやいた。判決を宣告さ
 れる思いで、ぼくは直美の次の言葉を待った。「脇の下のリンパ腺に、腫瘍ができてい
 るんですって」言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。
・直美の足、切断した足にできていた悪性の腫瘍が、すでに転移していたということだろ
 うか。「手術するのかい?」直美はすぐには答えず、こちらを見ていた。「あなたと会
 えて、よかった」直美がつぶやいた。
・「起こして」ぼくはベッドに駆け寄った。「そこに座って」ベッドの上に身を起こすと、
 直美は同じ口調で命令した。言われるままに、ぼくはもとの椅子に腰をかけた。直美は
 淡いピンク色のパジャマを着ていた。首すじの肌の白さが目にしみた。ぼくを見すえな
 がら、直美は言った。「リンパ腺だけじゃすまないよ。たぶん、胸を切ることになるわ」
・直美の手が、パジャマの胸のボタンに伸びた。「見て」すばやくボタンをはずして、直
 美は胸をはだけた。掌にすっぱりおさまりそうな小さな乳房が、ぼくの目の前にあった。
 「よく見て、憶えていて。切る前に、あなたに見てほしかったの」直美の目に、涙が浮
 かんでいた。けれども声は、しっかりしていた。押し寄せてくるものと闘おうとする、
 ひたむきな力強さが、声にみなぎっていた。ぼくは直美の胸と、不思議なほどの静かな
 表情を、じっと見つけた。この白い、つぼみのような乳房と、この表情を、いつまでも
 覚えていよう、とぼくは思った。  
・エレベーターを降りて、まっすぐに病室をめざした。一刻も早く、直美の顔が見たかっ
 た。走るような足どりで、直美の部屋に前に立ち、ドアのノブに手をかけようとした。
 声が聞こえた。圧し殺した、喘ぐような声だった。ぼくはドアに向けて伸ばした手を止
 め、立ちすくんだ。徹也が来ているのだ、と思った。飛び退くように、ドアから離れた。
 それから身をひるがえし、逃げるように、エレベーターの方に引き返した。 
・手術室のドアの向こうからは、何の物音も聞こえてこなかった。ただどこからともなく、
 低いリズムが聞こえてきた。心臓の鼓動に似ていた。半ば消え入ろうとしている直美の
 命の息吹が、最後の力をふりしぼって、生きようとしている。そんな切なげな、規則的
 な鼓動が低く持続している。
・「父さん・・・今日、ぼくの大切な人が、手術を受けたんだ。たぶん、その人は死んで
 しまう」父は腕に力をこめ、ぼくの肩をきゅうっと抱きしめた。「良一。お前にもいつ
 か、わかるだろうがな。長く生きていると、大切な人間が、次々に死んでいく。それは、
 仕方のないことなんだ」「そしてな、良一。大人になり、中年になるにつれて、夢が、
 一つ一つ、消えていく。人間は、そのことにも耐えなければならないんだ」父はぼくの
 耳もとに口を寄せて、ささやいた。
・「今夜は、学生時代の友だちと飲んでたんだ」父は突然涙声になった。「いっしょにデ
 モに行った仲間だ。かつての仲間のうち、一人は内ゲバで殺され、もう一人は自殺した。
 生き残ったつまらんやつらが、過去を懐かしんで、センチメンタルになって酒を飲む。
 中年というのは、醜いものだ。良一、わかるか」
・父は大声でわまいた。「おれがつまらん仕事に手を染めるようになったのも、お前たち
 を食わせるためだ。この家を建てるために、おれがどれほど心を痛め、自己嫌悪にさい
 なまれたか・・・。くそっ、こんな家なんか」目の前の玄関のドアが開いて、母の顔が
 見えた。「ちょっと、静かにしなさいよ」 
・直美の顔が見えた。白いシーツが首までかかっている。目は開いていた。まっすぐに天
 井を見ている。徹也はかなり大きな声で話したから、ぼくが来たことはわかっているは
 ずだが、直美をこちらを見ようとしなかった。首が動かせないわけでも、ぼくを避けよ
 うとしているわけでもなかった。直美は気力を失っていた。横たわっている姿全体から、
 汐が引くように、急速に精気が失せていくように感じられた。
・ぼくは、ひどく緊張して、ベッドのそばに立った。直美の視線がかすかに揺らいだ。見
 る間に涙がわきだして、顔の左右に流れ落ちた。「まだ生きているのよ、あたし」かす
 れ声で、直美はつぶやいた。目は天井に向けられたままだった。「胸が、からっぽ」直
 美は目を閉じた。たまっていた涙が、ひときわ激しく流れ落ちた。「残酷だわ。こんな
 身体になって、まだ生きているなんて」直美の顔は、麻酔の影響か、ほんの少しむくん
 でいた。 
・「直美」遠くに呼びかけるように、ぼくは言った。「どこにも行かないでくれ」「あな
 たのそばにいるわ」「ぼくは・・・」それ以上、何を言えばいいのだろう。ぼくたちは
 知り合ったばかりなのに、もう別れを告げなければならない。息を吐く音が聞こえた。
 徹也が、ぼくたちを見ている。直美の喘ぐような声が、耳もとをかすめた。徹也が直美
 と過ごした時間・・・ぼくにはどうすることもできない年月の重みが、あらためて胸に
 のしかかってきた。
・徹也は顔を上げ、真剣な目つきでぼくを見つけた。「北沢。約束を忘れるなよ。お前だ
 けが頼りだ。お前が直美のことを忘れたら、この地上から、直美が想い出が消えてしま
 う。憶えていろよ。そして、百まで生きろ」ぼくは黙って、深くうなずいた。
・部屋には、お母さんと、看護婦の和泉さんがいた。お母さんは心労で、もう何日も前か
 ら、病人みたいになっていた。ぼくが部屋に入ったことも気づかない様子だ。ぼくがド
 アのそばに立っていると、和泉さんが手招きでベッドのそばに来るように合図をした。 
 直美は目を覚ましていて、ぼくがベッドのわきに立ったことに、すぐに気づいた。声は
 出せない。切開した喉に、カーゼが巻かれていた。手も足も動かせなかった。顔の皮膚
 は異様なほど白く、かさかさに乾いていた。ビニール越しに見るせいか、生気を失った
 人形みたいだった。ただ、目だけが、素早く動き、輝きを失っていなかった。
・「あなたはいつも、黙り込んでいるのね」直美の目が語っていた。ぼくはちいさく、うな
 ずいてみせた。表情は動かなかったが、直美の目が、かすかに笑ったような気がした。
 と、不意に、まるでスローモーションみたいに、直美の唇が動き始めた。
  あ・な・た・が・す・き 
 こえは聞こえなかった。唇の動きは確かに、そう言ったように思えた。わずかな間のあ
 とで、再び、唇が動き始めた。
  し・ぬ・ほ・ど・すき
 直美の目が笑った。ぼくは答えなかった。死が間近に迫っていることを、直美は、知っ
 ているのだ。 
・廊下に出ると、直美のお父さんの姿が見えた。昨日の夜は、いくぶん疲れが顔に出てい
 た。だが今日は、以前の明るさに戻っている。一晩のうちに、お父さんは覚悟を固めた
 のだろう、とぼくは思った。「直美と、話していただけましたか」お父さんが言った。
 直美は口がきけない。不思議なことを言う人だと思った。「直美は声は出せないけれど、
 目で話せます。そういう子です」そう言ってお父さんは、目を細めた。表情は穏やかだ
 った。だがその細い目の奥に、鋭い視線でぼくを見つける瞳があった。
・お父さんはぼくのすぎそばに歩み寄って、ささやくような低い声で話始めた。「きみた
 とてもデリケートな人だということは感じました。直美も、デリケートな子です。きみ
 と会えて、直美は幸福だった。そう思います」 
・お父さんは廊下のずっと向こうの方をぼんやり眺めながら、言葉を続けた。「私の妻も、
 デリケートな女でしてね。私たちは友人の紹介で知り合ったのですが、まあほとんど、
 見合いのようなものです。学生時代から研究所にこもりきりで、女性と知り合うチャン
 スがありませんでした。妻も、人づきあいの下手な女ですから、適齢期を過ぎても、縁
 に恵まれなかったのですね。最初に会った時、妻の美しさに驚きました。こんなに美し
 い女性が、なぜいままで結婚しなかったのか、不思議でした。その理由は、つきあって
 みるとわかりました。妻は神経質で、孤独の殻に閉じこもる傾向がありました。そんな
 妻が、なぜわたしと結婚する気になったのか、よくわかりません。研究のことしか考え
 ていないので、無害な人間と思われたかもしれない。妻は潔癖なくらいきっちりとした
 性格で、家事は完全にこなしましたから、生活い支障はありませんでした。でも、妻と
 わたしの間には、共通の話題が何もない。これでは何のために結婚したのか。わたしも
 時には悩みました。妻との間に、心の触れ合いがないままに、私の一生は終わってしま
 うのではないか・・・」  
・「けれども、時が解決してくれました。妻は病弱で、子供はできないと医者に言われて
 いたのですが、奇跡のように、直美が生まれてきたのです。直美は、デリケートな子供
 でした。正直に言って、わたしはそれまで、神経質な人間というものを、よく理解でき
 なかったのです。けれども、直美はまた、私にも似て、朗らかで、のんびりしたところ
 もありました。自分に似たところがあるので、直美の性格もよくわかったし、また直美
 の持っている繊細さも、十分に理解できたのです。そして、直美を通じて、わたしは少
 しずつ、妻のことが理解できるようになりました。直美が生まれてからのこの十五年は、
 素晴らしい日々でした。直美が大人になり、結婚し、孫が生まれるまで、この幸福が続
 いていくものと、わたしは信じていました」 
・「直美がいなくなったあとも、わたしたちは、生きていかなければならない。わたしは
 自分たち夫婦のことを考えました。わたしと妻お間の架け橋になっていた直美がいなく
 なると、また元のような、心の触れ合いのない夫婦になってしまうのではないか、と考
 えたりもしました」 
・「心配はいりません。わたしはもう、昔のわたしではないのです。ここ数日、妻は少し
 神経がおかしくなっています。でもいまのわあしは、妻を、理解してやれます。直美と
 出会ったおかげです。時がたてば、妻の悲しみも癒えるでしょう。そしてたぶん、妻も、
 わたしを理解してくれることでしょう。なぜなら、わたしたちは、同じ悲しみを抱いて
 いるからです。わたしたちは、いたわりあって生きていけます。何年たっても、わたし
 たちは直美のことを語り合うでしょう。直美の想い出が、永遠に、わたしたちを結びつ
 けてくれるはずです。私は、直美に感謝しています」
・走るようにして病室に向かった。廊下に人垣ができていた。直美はビニールテントの中
 にいた。大きな機械からコードやパイプが何本も延びていた。音とモニターの画面で、
 心臓の鼓動を示す機械があった。直美の鼓動が機械を動かしているというよりも、機械
 が直美の心臓を動かしているようだった。  
・ぼくはベッドのすぐそばに膝をついて、仰向けになって目を閉じている直美の横顔を眺
 めた。透明なビニールには水滴がついていて、ヴェールがかかったようになっていた。
 直美はぴくりとも動かなかった。超えることのできない境界が、ぼくたちを隔てていた。
 手を伸ばしても、触れることさえできない、そんな気がした。 
・どれほどの時間がたったのか。室内の空気が、急にゆるんだ。機械はまだ鼓動を刻み続
 けていた。だがそれは、機械から送り込まれる電気のパルスが、そのままモニターに刻
 まれているだけだった。お父さんが深く頭を下げて、医師に何かささやいた。医師も頭
 を下げて何かを言った。親戚の人の間から、すすり泣きの声が聞こえた。お母さんがベ
 ッドの端にすがりついて、泣きくずれた。 
・徹也は前方の、遠くの方を、じっと見すえていた。「生きろよ」きびしい声で、徹也が
 言った。「ああ、生きるよ」とぼくは答えた。そしてぼくたちは、人影のとだえた夜の
 道を、どこまでもまっすぐに歩き続けた。