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この作品は、1962年に発表されたもので、文藝賞を受賞しているようだ。1963年
にはテレビドラマ化されている。
(おそらく)東京大学の法学部長である主人公(正木)は、恩師の大学教授の姪と結婚し
たが、その妻は、癌を患い、病床に臥したままとなった。そこで、身の回りの世話をして
もらうため、家政婦(米山みき)を雇うのだが、やがて、その家政婦と密かに肉体関係を
持つようになり、妊娠させたこともあった。そして一時は、その家政婦を亡妻の後妻にと
考えたこともあった。しかしその後、同じ大学教授の令嬢(栗谷清子)と出会い、思いが
けず恋心が芽生え、やがて婚約することとなった。
しかし、その婚約発表と同時に、家政婦から婚約不履行で訴えられてしまい、家政婦との
関係を新聞や週刊誌に興味本位の内容で掲載され、時のスキャンダルの人となってしまう。
自分は法曹界の重鎮であると自負する主人公は、自分は法に触れるようなことをしたわけ
ではなく、法曹界や大学関係の人々からも理解が得られるだろうと思っていた。しかし、
それは、ひたすら勉学一筋に励んできたエリートによく見られがちである、世間の目や人
間関係の機微に疎い、一方的な判断であった。そして、理解が得られると思っていた人々
は、主人公の思惑とは異なった反応を示したのである。
主人公は、婚約不履行で訴えた家政婦個人を、名誉棄損で逆に訴えたのであるが、そのこ
とが、さらに世論の反感をかうこととなった。名誉棄損で訴えるなら、興味本位の醜聞記
事を載せた新聞社が週刊誌を訴えるべきであったのではなかったかと私は思うのだが。
主人公は、今までの人生において、恋愛の経験がまったくなく、妻(静枝)と結婚しても、
妻に対して愛の感情は持たなかったようだ。主人公にとって、愛などというものは、余剰
なものであり、できれば避けて通りたいものであったらしい。
しかし、すべて主人公が悪いとは言い切れないと私は感じた。恩師からの薦めで結婚した
妻との結婚生活は、早々に破綻状態にあった。病弱な妻は、主婦らしいことがほとんどで
きず、そんな結婚生活は、もはや、普通の男にとっては、とても耐えられそうもない、不
運とうしか言いようがない結婚生活だったと言えるだろう。しかし、その妻にしても、早
くから両親を失い、遠い親戚に預け育てられるという不運な境遇だった。
そういう状況にあって、主人公にとって家政婦の出現は、おおきな安らぎとなったようだ。
はじめて持てた安定した生活だったのだろう。確かに、一般論としては、主人公と家政婦
との情交は、非難されるべきことなのかもしれない。しかし、主人公がおかれた状況を考
えれば、聖人でもないかぎり、主人公を非難できる人は少ないのではなかろうか。主人公
と家政婦との関係は、なるべくしてなったと言える気がする。
主人公が亡き妻の後妻として、家政婦をむかえたならば、人生の終盤期を、穏やかで安定
した生活で送ることができたのであろう。しかし、自分は法曹界の頂点にいるんだという
プライドと世間体が、主人公にそれを許さなかったのだろう。そして、偶然訪れた、自分
の娘ほども年の離れた若い女性との「老いらくの恋」に、何かを取り戻すかのように、賭
けたのであった。
勉強ばかりの少年期、友とのつき合いも惜しんで、毎日夜遅くまで語学や法律の条文と向
き合った青年期、そんな主人公には、「恋」などというものには、まったく無縁な人生で
あった。それが、人生の黄昏期に、偶然咲いた「老いらくの恋」の花、主人公にとっては、
生まれて初めての「恋」と呼べるものであったにちがいない。
主人公は、自分よりも二十八歳も若い女性に淡い恋心を抱き、その幻影をもとめながら、
他方では家政婦との肉体の快楽に溺れていった。主人公は、家政婦の肉体だけを愛した。
そして突然訪れた人生の崩落。「老いらくの恋」によって、失うものは大きかった。次期
学長候補まで登りつめたその権威は、家政婦との関係を、スキャンダルとして新聞や週刊
誌に興味本位に書き立てられ、裁判沙汰になることによって、一気に崩れ落ちたのであっ
た。
人生の終盤期において、突然足を踏み外し、それまでの順風満帆な人生から転落する人が
時々いるが、この主人公の人生も、そういうことが言えるのではないだろうか。そこには、
人生の終盤において、いままで何か忘れ物をしてきたことを思い出し、これが人生最後の
チャンス、もう二度と巡ってこないチャンスとの焦りから、思いがけない無理なことをし
てしまう。そして、そのことが、それまでの人生からの転落のきっかけとなってしまう。
そんなことを、思わせる内容の作品であった。人生の終盤期は、もはや、決して無理な事
は、特に「老いらくの恋」などというものは、決してしてはいけないと、つくづく思わず
にはいられない。
作者は、癌で39歳という若さで亡くなっている。それを考えると、この作品の中にある
「静枝の手記」の一節の「本当は、もっともっと生きていたい。手術で治るものなら片輪
になってもいい。」は、作者の心の叫びのような気がした。

第一章
・一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である。傷ついた私
 の名誉は、しかし私が気に病むほどには人は気にしていまい。
・愛のことどもについて、ほとんど考えてもみなかった学究生活においても、考えてもな
 んの結論も得られることと知った今も、私は悲哀の感情とは無縁であった。
・私がかつて最高検察庁検事であり、法学博士であり、いま某大学法学部教授であるゆえ
 に、新聞関係者のセンセイショナリズムがとらえた私の事件も、決してそれほど特異な
 ものではなかった。
・新聞はほぼ次のような報道した。
 妻をはやく喉頭がんで失った某大学法学部教授正木典膳(五十五歳)は、ひさしく家政
 婦と二人、不自由な暮らしをしていたが、このたび某大学名誉教授の令嬢・栗谷清子
 (二十七歳)と再婚するはこびとなった、ところが突然、家政婦米山みき(四十五歳)
 により、不法行為により損害賠償請求が提起された。
・この記事のあとに、肉体をふみにじり、女ひとりの運命をもて遊んだ人非人とまで極言
 した、はげしい増悪の言葉が掲載されている。
・農家の主婦による投書は、恋愛の自由をのべたのち、裁判所に解決の場を求める人間関
 係の不幸を哀れんでいる。
・某作家やおなじ大学の教授は、老いらくの恋の清潔さが感じられるという論旨である。
・某週刊雑誌は、家政婦を娼婦あつかいしたのかという記者の質問に、「いや、おそらく、
 私は米山みきを愛していた。」と答えたその言葉尻をとらえ、私が再婚するはずであっ
 た栗谷清子をひきずり出し、私の態度を批評させている。
・私は名誉棄損の告訴をとりさげるともりはない。法に抵触する事実は断じて事実であり、
 中傷の内容いかんにかかわらず、あきらかに名誉棄損した人物に対して、法律は私の味
 方である。この人間の現実において、私が最後の拠点とするのも、私の法律家としての
 名誉にかけて常に法である。姦通罪は法律的に成立しないことは、いまやこの日本の現
 実であり、もしそれを不合理とするなら、訂正にための正当な法律的手続きと合議、決
 定を必要とする。   
・かつまた私は姦通者ではない。家政婦米山みきとの交情、婚約者とのあいだの関係も、
 独身の、それぞれ独立人格者である婦人との合意のうえで結ばれたものである。かたち
 なき女性の感傷に法律は無縁である。
・家政婦米山みきは、六年以前、亡妻静枝が喉頭がんの診断を受け、たすからぬ病床に伏
 せたころ、私のすぐ下の弟(山陰の某大学教授)の紹介で雇い入れた。むかしその城
 下町の某女学校の家政科の教諭をしたこともあり、英語の知識もいささかあるゆえ、女
 中仕事だけでなく、蔵書の整理や書類の分類など、私が必要とする援助にも適任であろ
 うと実弟は薦めた。 
・米山みきは支那事変で夫を失い、二人の間の衣を発疹チフスで失ってから、当時はまだ
 旧制の高等学校であったその大学の事務員になっていた。
・米山みきは、実弟のもらした家政婦入用の話を聞き、自ら進んで単身、上京してきた。
 なぜ、官公庁よりも不安定な個人の雇用に応じたのかと、最初の面接のおり言った私の
 問いに、彼女、「女ひとりのアパート住まいよりは・・・」と語尾を濁して答えた。
・私は子供が二人いる。長男は、私の勧告を無視して北海道大学の酵醸学の研究をしてい
 た。また、娘の典子は、女学校在学中のさる銀行家にもとめられ、その次男の若い支店
 長に嫁いで関西に住んでいた。飛び出すような早すぎる結婚は、床に臥せがちで不機嫌
 な日々を送り、ときには常軌を逸することもあった母親からの逃避であったかもしれな
 い。
・米山みきとの交情の発端は、学会の会合の昼餐会の後、家に帰って風呂に入り、その背
 中を米山みきが流してくれえた。妻は睡眠薬を飲んではやくから寝ていた。
・「夫は酒呑みでございました。」と米山みきは酌をしながら言った。私は彼女が注いで
 くれるままにコップの数を重ねていった。つまみをあられも食べつくし、そして不意に、
 私は彼女に肉体を要求した。暴力を用いたのではなく、言葉で言ったのである。
・「男のかたは遊びですみます。けれど、女はきっと泣かねばなりません。」と冷静に彼
 女は答えた。「いや、失礼なことを言った。忘れてください。それから、もう下りて休
 んでください。」と私は言った。「水をもってきておきましょう。」何事もなかったよ
 うに米山みきは立ち上がった。 
・米山みきが水差しを捧げて持ってあがってきたとき、私は幽かな香料の香りを嗅いだ。
 私は憐愍の情を隠すことができなかった。人は男性の身勝手と思うだろうが、私は真実、
 そのとき、彼女の愚かなわが児のようにあわれに思った。そして、敏感にその気配を察
 したのであろう、彼女は声を抑えて涙を流した。
・「悪かったと思う、あなたには、私が雇主である以上、私の発言は、男女の間という以
 外の強制力を心理的に持ちがちだ。私にもあらぬことを言った。なにもなかったことに
 していただきたい。あなたは不安定な生活をされてきた。私が妙に根に持って、あなた
 を解雇したりすることは絶対にないから、どうか、下がって休んでください。」「そん
 なことで波が出たのではございません。」「互いに話のわからぬ齢ではない。」すでに
 四十に間近い年齢は争えなかった。米山みきの眼尻の皺を伝わって涙はおちた。
・「お憐みになるにしても、憐れまれる方が違っております。」彼女は足もとのほうに廻
 って、あわせの帯を解いた。今度は強く香水の香りが匂った。「私は法律家だ。」無意
 味に私は言った。帯を解いた襦袢の前をあわせながら、米山みきはうつぶせていた私の
 蒲団の横によこたわった。「妙にうそうそ寒い。」と私はまたしても無意味に言った。
・新聞に醜聞として私たちの関係が報道され、また新聞記者が、執拗に再婚の相手のこと
 を尋ねたあげく、米山みきに対する私の感情を問うたとき、私が答えた言葉に偽りはな
 かった。極度に潔癖な、いくぶん感傷的な文学者のように、いつの場合にも虚偽を語る
 ことを罪悪だとは私は思っていない。自己の生命や基本的権利を守るためには、人は虚
 偽を言ってもよいし、嘘一つ言わぬ人間など、現実には存在しない。  
 
第二章
・最初、新聞がとりあげ、次に週刊誌や赤新聞などが徐々に興味本位なスキャンダルに膨
 張させていったプロセスで、私の信頼していた友人たちが示した態度も、私にはげせな
 いもののほうが多かった。人には他人の成功よりも失敗を、より喜ぶ心理的傾向のある
 ことは、一般論として知っている。
・しかし、私の朋輩といえば、大半が大学教授であり、また法曹界の指導的人物たちだっ
 た。しかるに、その反応、および私の耳に伝わってくる反響は、耐え難く不愉快なもの
 であった。 
・そしてもう一つ、私は恐ろしいことを知らされた。なるほど、教育者としての私は、刑
 法研究家として、また検事としてそうであったほど一流の者だったとは思わない。しか
 し、能力の及ぶかぎりそれに尽くしたつもりであったにもかかわらず、一朝目覚めてみ
 れば、私には信頼できるたった一人の弟子もいなかった。私が指導し訓練し、その方向
 を示唆してやり、また、就職の世話に奔走し、結婚の媒酌をつとめさせられた者のたっ
 た一人も、私が誤解の渦中にいるときの味方ではなかった。
・栗谷清子が、最初に栗谷博士に伴われて私の宅を訪れたとき、それももう数年も以前、
 用件は結婚などとは無縁な事柄であった。彼女が出身学校の講堂を借りてピアノのリサ
 イタルを催すにつき、私の手によって裁判所関係の趣味のつどいや、私を中心とする法
 学部卒業生グループの面々に、切符を百枚ばかり売りつけてくれまいかという、ほほえ
 ましい俗事だった。 
・米山みきがさし出した紅茶を、罪のなさそうな、小さな唇ですする音を聞きながら、私
 はふと、栗谷譲を息子の嫁にする想像を楽しんだ。
・その日、つき忘れていた出席簿の印をおし、事務官に出張の車券の購入を命じてから、
 せまい書棚部屋に私は入った。謄写版のローラーを、隅の机で操っていた女事務員がち
 らりと振り返って礼をした。インクのしたたるローラーをもったまま、若い女事務員が
 いまははっきりと振り返って私の方を見ていた。白い事務コートが薄暗い部屋に亡霊の
 ように浮かびあがってみえる。大人の秘密を見てしまった乙女のように、一種悲哀の表
 情で、女事務員は大きな瞳を私のほうにそそいでいた。ふいに襲ってきた疲労感に、背
 をまるめ、そのままの前こごみの姿勢で、私は、激しく瞬かれる少女の瞳を茫然と見返
 した。 
・直接、自己の失敗や羞恥心からおこるのではない羞恥感に私は苦しんだ。恥ずべきなの
 は陰口をたたいている側にあるにもかかわらず、他者の行為があたかも自己の罪のよう
 に、血が逆行するのは何故だろうか。
・謄写印刷版の前で、魚の目のように目を見開き全身を硬直させている女事務員の肩に手
 をおき、私は足音をひそめてその場をたちさった。
 
第三章
・私はスポーツの楽しみを知らない。私は囲碁将棋の楽しみも知らない。酒で失敗し、女
 のことでわめき散らす青春の愚昧も知らない。そしてただ一つ味わった、それを押し通
 すなら私の生涯もまったく違ったものになっていただろう。

第四章
・私の生活にもう一つの変化があった。それは助教授就任後まもなく、恩師の令姪を、生
 活の伴侶に迎えてやってもらいたいと宮地教授から申し入れられたことだった。私には
 それを拒むべき特別な女性関係はなかった。無論ひとたる常、青春の一時期には妹の典
 代の生花や琴の友がときおり家に集うとき、一種のまぶしい視線や華やいだ娘たちをみ
 ていた記憶はある。妹がはなはだきさくで、しかも悪戯ずきであったため、その術策に
 のせられて、華やいだ声の主への関心が、危うく一つの感情に高まりかけたこともない
 ではなかった。しかし、それは風が吹けば揺れ、凪げばとまる一場の動揺にすぎなかっ
 た。みずから是非とも、一つの感情を育てようとする努力も私はしなかった。そうした
 ことに時間を費やすのが惜しかったためでもある。教授から「考えておいてくれたまえ」
 と申し出られたときも、じつは、将来、妻となるかもしれぬ令姪の顔を思い起こそうと
 しながら、遂に何も浮かんでこなかったくらいである。しかし生活はなにも、感受性や
 イメージで構成されるわけではない。
・それから数日後、宮地静枝は盛装して私の研究室を訪れた。そっと滑り込むようにノッ
 クの音もなく、しかし香料と人の気配はあって、私は判例集から目をあげた。
・まだ助手にもたぬ一人かぎりの研究室で、私はこうしたときには扉を開けておくのが礼
 儀かどうかと思い惑った。友禅模様というのだろうか、地味な研究室にはふさわしくな
 い色彩ゆたかな晴着姿だったからだ。そして、そのとき、私は宮地教授の申し出でにも
 かかわらず、一向に彼女を芝居見物にも誘っていなかった自分に気づいた。忘れていた
 のだ。  
  
第五章
・樹々の影やベンチの傍らに、かつて群がっていたモンペ姿の街娼や靴磨きの姿も消え、
 いまは流行の先端をゆく若い男女が歩いている。どうした仕事に従事するのか、休憩時
 間とも思えぬ時刻はずれに、腕を組んで歩む華々しい姿は絶えなかった。
・「結局は示談に落ち着く可能性の多いものなら、世論をこれ以上刺戟しないのが、教授
 ご自身のためかと考えられる。」
・「世論?」と私は大声で言った。冷静になろうとする努力とは裏腹に、せきたてられる
 ように私の感情は高ぶった。「かつて、われわれが、精神の支えとしてそれの支持を渇
 望したとき、世論はわれわれになんの支えも提供してくれなかった。そして、現在は、
 それは覆面の暴力と化している。未熟な政党政治の監査組織としてプラスの面のあるこ
 とを認めるにやぶさかではないが、だが、結局は金力と政治権力の前には無条件に屈服
 し、自由人に対しては嫉妬深い精神干渉の役割しかはたしていない。甘やかされた世論
 は、論理よりも好奇心で、嗜虐的な好奇心で動く。世論を私はいまあてにすることはで
 きない。またそれに媚びるつもりはない。私の自由の保証は残念ながら世論の側にはな
 い。宗教裁判の魔女狩りや科学者の圧迫を、戦後の教科書は権力者の弾圧でのみ説いて
 きた。しかし、断罪せられた者の処刑を、物見高く、遊山気分ではやしたて、人の禍を
 楽しんだのは誰だったか。悲辛を含むように、口に一片の真理を含んで沈黙するのに、
 寄ってたかって石を名がつけてきたのは誰だったか。」
・「名誉棄損の、ないしは侮辱罪の構成動機が、被告側に明瞭にあったとは申せないので
 はないですか。なにかの婦人雑誌に掲載された米山みきの手記は、とり乱した。たどた
 どしい、教授への未練の告白だった。米山みき個人を告訴されます前に、世の中にあり
 がちな男女関係を、興味本位の醜聞記事として載せた新聞社をまず抗議対象とされるの
 が順序ではなかったですか。 
 
第六章
・思い起こす、もう二十余年も以前。亡妻静枝と結婚してのち、私が最初に驚かされたの
 は、妻の夜の歯ぎしりと恐怖の悲鳴だった。結婚生活が一応軌道にのり出し、彼女が妊
 娠して就眠時間が食い違いはじめてから、妻が発病して寝室を別にするまで、何にうな
 されるのか、たとえ儀礼的なものにせよ、恩師や先輩畏友の祝福を受けてうらやまれた
 私の人生の、それが内実だった。
・私は妻にとくに愛の感情をいだかなかったが、私にとって、藍の観念は、罪のそれと同
 様、避けて通ることができれば避けたほうが賢明な余分の感情にすぎなかった。だが、
 妻の悲鳴は、逆なかたちでその余剰の観念に接近させた。それが自分の身辺にはなく、
 今後訪れないだろう欠如の意識として。
・現在から見て、支那事変から太平洋戦争にかけての間の私の家庭生活がまったくの灰色
 に映ずるのにはもちろんほかにも理由はある。私たちだけでなく、ある意味では万人の
 生活がすべて調子はずれな時期だった。眼前に目に見える崩壊はなくとも、崩壊の音は
 伝わってきた。   
・一時的な戦時景気が徐々に窮乏に連なり、精神的な不自由の上に物質的不如意が加わっ
 た。歴史が病気に覆い尽くされるように、街々の商店や食堂の飾窓も単一化していった。
 嗜好品は入手困難となり、切符制となり、そのうえ、煙草すら朝早くから行列して買わ
 ねばならなくなった。食膳は代用食で変化に乏しく、味気ない盛り飯に家族がお互いの
 茶碗を覗きこまねばならない。書籍もラジオも新聞も、画一的で楽しくはなかった。人
 が高度な精神的作業をなすためには、禁欲的な生活よりもむしろある程度の贅沢さを必
 要とする。座り心地のよい椅子、美味しい煙草、快適な生活、そしてある贅沢さをとも
 なった気晴らしが必要なのだ。
・いつの頃からか、睡眠剤がわりに飲む酒を、妻は必要以上に嗜むようになった。私の配
 給分はもちろん、そのために、妹の婿や下僚の分までも買いあさり、体つきに似合わぬ
 酒飲みだという有難くない評判まで私はちょうだいした。
・寝室に足を入れると、疲れた者の寝息特有の悪臭と、酒の匂いが混淆している。こちら
 がビールでも飲んでいるときは、嫌悪をかくすこともできたが、ときに夏の宵など、書
 斎や物干しでやっと涼をとって寝室におりたときなど、蒸し暑さにむれた臭いは、もう
 それだけで耐え難いものだった。何か、人生の本質的な失敗、人間の根源的堕落を感じ
 させるゆえに、一層の嫌悪感をそそるのだ。結婚してからというもの、私はもっとも身
 近かに、始末におえない落伍者を携えていたようなものだった。

第七章
・米山みきが、家政婦とはいいながら、ほとんど家族の一員として正木家に加わったとき、
 率直に言って私が覚えた感情は一種の張り合いと喜びだった。
・米山みきがしゃがむ時、まるで男の視線が滲透力をもつもののようにぴったりと股を合
 わせた。食卓の前に茶瓶を持ってくるとき、障子を開閉するとき、着物のときも、スカ
 ートのときも、彼女はその小さな足の見えぬ巧みな身のこなしかたをした。街角に氾濫
 する露骨な看板や、雑誌や新聞の広告欄にも見られる若い娘の水着スタイルには反応せ
 ぬ私の感覚は、米山みきの慎ましい身のこなしには奇妙に震えた。
・米山みきが来てから妻はしきりに里に帰りたがった。病みついてからは、いままでにも
 ときおり、里帰りのことを持ちだしたことがあった。だが、それが実現しえぬ夢想にす
 ぎぬことがわかると口を噤んだものだ。しかし、今度は、最初から非現実の世界のこと
 として、諦めきった表情で何度も繰り返してそれを洩らすのだった。
・正確に意味では、病んだ身を託すべき里は妻にはないはずだった。船員だった父に、そ
 してその母にも早く死別したゆえに、恩師のもとに身をよせたのだったから。また博士
 の逝去の後は、宮地家も遠い親戚の一員にすぎず、平凡な会社員となっている恩師の子
 息に、たとえその気があるのせよ、老いた従妹を養う余裕のあるはずもない。
・醜い皺の塊となってしまった妻は、私がある書物の印税で買った木製のベッドの上でい
 つも同じ姿勢で臥せている。清潔な寝台も部屋のこもる臭気のために黄ばんでみえて仕
 方がなかった。嗄れ声をだすまいとして気負い、かえって娼婦のような作り声になる。
・怒りと憐愍以外にも人には感情がありうることを、私は米山みきから教わった。みずか
 らに抑制が足らなかったことに悔やむことはあっても、その恩恵ゆえに、本質的には米
 山みきとの交情を私は後悔はしなかった。また、その情交を妻との生活に較べて考量す
 る気もおこらなかった。何故なら、たとえ同じ屋根の下にいても、それはまったく別な
 世界の出来事だったからだ。

第八章
・静枝の臨終に立ち会った駅前の開業医が、制服の警察官と検屍医、そして主治医であっ
 た井口博士を伴って米山みきに案内されてきた。白塗りの警察車で故意に近隣の好奇心
 をあおりながら、御迷惑はわかっておりますが死亡診断書を偽るわけにはまいりません
 のでと、顔見知りの開業医は弁解した。
・「死因は麻酔剤の致死量服用だが、解剖までする必要はないでしょう。」検屍官に井口
 博士が言った。「発見されたのは?」「わたくしでございます」米山みきが進み出た。
 「毎日の日課どおり、お体を拭いてさしあげようと思って、タオルと洗面器を持って入
 りますと、枕もとに白い液を一ぱい吐いて苦しんでおられました。」
・最初泣いているかと思った米山みきが、不意に常軌を逸した嗄れ声で笑いはじめた。居
 合わせた者の皆が、ぎょっとして振り向いた。医師は気弱に、見てはならぬものを見た
 ように顔をそむけ、検屍医と警官は互いに顔を見較べた。
 
第九章
・並川がどういう関係から米山みきを知り、あるいは、どういう手蔓から、米山みきが並
 川法律事務所の門をたたくことになったのかはわからなかった。しかし、消し去りえず
 して確かな客観的事実があった。それは、並川俊雄もまた、宮地博士の門下生であり、
 私の後輩であったという事実である。 
・米山みきが居た頃には、家を出る前に、こうした不愉快な目に合うことはなかった。三
 日とあげず、麻に目ざめれば、枕もとに新しい下着が並べられてあり、一週に一度は、
 風呂からあがれば、全体を着換える清潔な衣類が受け籠に入れてあった。それは、病弱
 だった静枝との生活の間にもなかった快適さだった。神経質だった静枝は、風呂敷まで
 夫のものと妻のものを区別して入れる袖出しを決めていたが、私の衣類は、押入れの長
 持ちに丸め込んであることが多かった。ある夏の日、汗ばんだ下着を、帰宅の直後にぬ
 いで洗ってくれうように手渡したとき、彼女は、いかにも不潔そうにそれを指先でつま
 みあげて風呂場にはこび、私が顔を洗っているとき、偏執狂的に手を洗っていることが
 あった。
・ボタンがとれていても、私が要求するまでつくろおうとはしなかった。つまり洗濯屋に
 まかせていたわけだ。私はいつしか、それが当たり前だと思うようになり、下品な話だ
 が、威儀を正さねばならぬ場面の多い職業にありながら、パッチの前ボタンが全部とれ
 てなくなっていても、細紐で腰にくくりつけたりしていたものだ。だが、人間の自信な
 ど些少なことで成長したり崩れたりする。思い出しついでに書くことが許されるなら、
 人は清潔で綻びのない下着をまといっているときこそ、人前で平静でいることができる。
 たとえ表立って人目にたたずとも、ふと、シャツのボタンがとれていたことを思い出し
 たりするとき、人は理由もなく自信を失い、それを覆い隠そうとしてかえって不機嫌に
 なったり怒り狂ったりするものだ。
・憲法改正問題懇談会において会長である大野博士は、「諸君もすでにご承知のように、
 憲法調査会のための準備資料として内閣法制局によってととのえられた憲法改正資料に
 よれば、戦争放棄を宣言した第九条の削除、内閣の職権を拡大しようとする意図にもと
 づく第七十三条および第三十一条の検討、そして内閣の議会からの超越を目的とする内
 閣拒否権の追加、さらに天皇をふたたび国権の中心にすえ、さらに家族制度を法文化し
 とうとする時代錯誤にいたる憲法の大改悪が政府によって準備されつつある。・・・」
 と、意見書を読み上げた。 
・私は、この会で、世間に注目をあびている第九条よりも、あまり知られていない、<象
 徴者>を刑事上の責任の枠からはずすことを明文化しようとする内閣法制局資料案を強
 く批判するつもりであった。
・実際上の問題として、その特有の資産と補助によって、その生活を保証されている<象
 徴者>が、なんらかの破廉恥罪の被告となる可能性は、戦後いくらかは人々が触れて知
 っているその人柄から推測してもあまり考えられない。世襲されるその地位の未来はと
 もかく、いま、この面から、内閣法制局資料案にうかつに検討を加えることは、逆に皇
 室誹謗罪を構成する危険なしとしない。
・ところで、いま、特定の国事にのみ関係し、国政に関する権能を有しない<象徴者>が、
 一方、内乱罪や外患に関する罪の適用から除外されたとするとどうなるだろうか。国事
 でも国政でもない、クーデター、内乱、革命の、唯一の合法的許容者が誕生することに
 なる。象徴者を利用する秘密結社が抬頭し、しかも、それに合法的に名分をあたえ、ふ
 たたび、天王機関説以前の状態に逆戻りすることは目にみえている。現在の社会機構に
 おいて、あきらかに、事実上その法の運用がブルジョア階級に有利であっても、実定法
 上、ブルジョア階級はこれこれの特権をもっと規定してはならない。
 
第十条
・「朝鮮戦争への間接的参加にほかならぬ武器の製造運搬を拒否しようとする大衆運動を
 封ずるために、政府は、破壊活動防止法案を公布した。そして今度は、あきらかに思想
 と学問の自由を弾圧しようとしている。先生もお気づきのはずです。今度の法案がいか
 に治安維持法を彷彿させるものであるかを。学生たちがそれに反対するのがどうして学
 生の本分にもとるのでしょうか。」と学生が言った。「君は将来何になるつもりかね。」
 と私は言った。「職業革命家かね。」「いいえ。」「就職試験は受けたのかね、今度の」
 「去年受けました。」ほう、そうすると、一年留年したのか。」「いや、二年です」
 「去年はどこを受験した。」「新聞社でした。」「その試験のとき支持政党を訊かれな
 かったかね。」「面接のときにきかれました。」
 
第十三章
・それぞれ、人の心の中には、薄暗く、底知れぬ崖がある。人の堕落は、その断崖からの
 転落であり、みずからの心の中の陥穽ゆえに、他者が手をさしのべるべき手段はない。
 いったん、足を滑らせれば、もはや悔悟するゆとりすらなく、人は無限の落下を墜ちて
 ゆかねばならぬ。  
・「力の支配自体が改められぬかぎり、社会構成に位階、差別がある以上、人はのしあが
 らねばなりますまい。形式的な自由、少しばかりの贅沢、酒池肉林への耽溺のために、
 人はのしあがろうとする。力のないときは群れをなしてでも、暴力ずくででも、そして
 不信と不安が、権力者と大衆の双方の紋章となります。・・・現在の支配の序列を容認
 する範囲内でならば、手続き上の形式がととのえられているかぎり、何をなしても何を
 言っても処罰されません。心に姦淫を思っても、人を死にいたらしめても、法には人間
 の精神的内容は含まれておりません。」
・行く手に水溜まりがあって、私は注意するためにステッキをあげた。敏感に彼女は停止
 し、俯いて、やはり後様に跳び越えた。スカートが芙蓉の花のように恥じらいながら風
 に拡がる。典子がまだ幼かったころ、たまさかに、夜店見物に伴ってやると、嬉しそう
 に私を下から見上げながら、後様に飛びはねつつこう歩いたものだった。家庭が平和な
 らば、あるいは息子の嫁として迎え、娘よりもいつくしむことになったかもしれなかっ
 た。
・勉強のすぎた少年期、机のしみばかりを眺め、絶え間ない神経の逼塞に苦しんだ青年期
 を私は憶った。夜遅く、ひとり鉛筆の芯を削りその粉を吹きながら身につけた語学。観
 劇の誘いに寄った友人に体の調子が悪いからと嘘をついてまで覚えこんだ法律の条文、
 どこで私は私の人生をまがりそこねたのだろう。
・その日だった。墜落するような不自然な愛の表現を米山みきに対してしたのは。狂気の
 ように、悪魔のように肉を求める私を、米山みきは黙って受け入れた。
・酔いが醒めた頃、消えかかった蝋燭の最後の閃光のように、私の内に怪しい欲求が湧い
 た。私は節制なく米山みきを求めた。彼女にはかかわらない一つの幻影を追いながら。
 手のとどかぬ故に、他のなにものにも増して切実な一つの幻影を。
・米山みきが、一度、帰省したいという意向をもらしたのも、ちょうどそのころだと思う。
 彼女の故郷に、彼女を呼びよせる何があったのか私は知らぬ。
   
第十四章
・米山みきは私が寝つくと、そっと階下におりる慣わしだった。いつの間にか、その慣わ
 しが、定形化されていたのだった。手をのばすと、左にある余分の枕にまだ温か味が残
 っており、かすかな椿油の匂いが漂った。そのとき、人の気配がして私は枕を動かした。
 妻の亡霊がかやの外に立って私を見下ろしていた。ぞっと全身に鳥肌が立った。いや、
 亡霊ではなく、それは家政婦だった。   
・先刻すませたばかりの肉体の要求が、ふたたび内に蠢くようだったけれども私は黙って
 いた。なにより、過度の快楽は翌日よそ眼にもそれとわかりそうな、頬の深い疲労の皺
 となってでるのが不愉快だった。
・叫ぶように、「やはり子供が欲しゅうございます」と彼女は言った。彼女の思弁は、と
 きおり、及びもつかない飛躍をした。そのときも、まだ回想の涙の消えぬうちに、未来
 の不安にむけて飛んできた。いや未来ではなく、あるいは、現在、この今を叫んだのか
 もしれなかった。
・私の道義心は、彼女が哀願するように私を見上げるとき彼女を後妻にむかえるのが穏当
 だと私に勧める。だが、私の慎重さが私の口を噤ませた。ふと、とてつもなく彼女が愚
 かに思えるときがあり、そうしたとき、私はすべての打算を忘れかけた。だが、打算で
 はない、みずからの残り少ない可能性、学問の世界のそれではない、日々の生活の願い
 がすぐつぎにあらわれるのだった。確かに、常に従属的な発想のうちに慎ましくとどま
 る彼女の態度は、気持ちにむらの多い私の伴侶として好ましいものだった。   
・無激情が、第一に要求される研究生活の蔭の援助者として彼女は適している。だが、に
 もかかわらず、実現するはずのない欲求が、形も定かならぬままその志向を阻むのだっ
 た。あたかも老いの残滓のように、私は口外しえぬ欲求に口をふさがれ、たった一語で
 足りる言葉を米山みきにかけてやることができない。私をはばんだものは、醜い打算で
 はなく、あの愚かな、実現するはずのない幻影の壁だった。
・最初はためらいがちに、機会がむこう側から訪れるのを待ってなされていた栗谷清子と
 の平静な逢瀬は、その意味をあかし合うことなく徐々に定期的になり、またその周期を
 縮めていった。それはただ、街角の一つで顔をあわせ、レストランや茶屋の一室で夕食
 をともにするというだけの逢瀬だった。
・そうした不相応な逢瀬を重ねながらも、なお私は、低迷する生活の上に偶然咲いた蓮華
 のように、それらの時間を、特別な、私の研究作業とも日常とも直接かかわり合わぬ時
 間のように思い込んでいた。  
・書斎の研究生活から、一ときの休息をとる茶の間への行きもどりの間に、火鉢をまえに
 急須に茶を入れる米山みきを、あるいはまた顔を伏せて裁縫に専念する彼女の横顔を見
 るとき、私はいましばらく事態をそのままにすることをみずからに許した。
・日々、月日の大半、私の目の前にいるのは米山みきであり、栗谷清子ではなかった。人
 間関係の錯綜には慣れぬ私には、愚かな週末の遠出や、その動揺の余韻を隠蔽しおおす
 演技力はなかった。表情に不自由な皺が、皺というよりは、一種の亀裂が米山みきに走
 りがちなことも知っていたが、私のほうからは何も言わなかった。
・喘ぐような中年期の坂から、自分の限界の指標をたしかめるまでの惑いの時期に、男は
 俗物へ俗物へと堕してゆく。 満足よりも満足すべきと思われる位置にあることを重視
 し、観念も変革力も失って、ただ自己の砦を築くためにのみ動員される。私もまた、着
 なれた丹前にくつろぐことを好む疲れた一人の中年男にすぎなかった。
・私がこだわっているほどには、しかし、米山みきは、私たちの関係が内縁のものである
 ということには気を使ってはいないようだった。もちろん入籍を望む気持ちはあっただ
 ろうが、ことあらためてする儀式や披露の宴は、もしなされるにしても彼女のほうがむ
 しろ嫌がっただろう。  
・内縁関係の継続は、彼女の側の法的無智というよりも、もっと根本的な、社会的経験差
 による発想の問題であるようだった。身分保証のある事務職から、わざわざ個人の家庭
 の家政婦になろうとすること自体がすでにそうだった。いま従事する仕事のうえの、身
 分性、嘱託であるか正社員か日雇いかなどという区別は、彼女の意識にはほとんど問題
 にならないのだ。道具が眼前にあること、日々の効果を手でつかんでたしかめられるこ
 と、そして人間関係も、その献酬応報の円環が身近に完結して皮膚に感じられることを
 彼女は望んでいた。米山みきは、私が書斎ですごす時間も身近にいたがった。私に声を
 かけるわけでもなく、ただ縫物の手を休めて目をあげたとき、そこに私の背が見られる
 ということだけのために。
・私の惑いを米山みきは気づいていたようだったが、私が風呂に入れば、週末の夜もいつ
 もと変わりなく、襷がけして彼女は私の背を流した。賢明にも彼女は、かすかな波紋は
 押しつぶすよりも拡散して散るのを待つほうがよいことを知っていたのだ。婚期を逸し
 ているとはいえ、まだうら若い女性が私の掌中に軽く乗るとは私自身思っていなかった。
 極く単純な、ありふれたあの偶然さえなければ、事実、私は私の穴倉へ遅かれ早かれ戻
 っていたはずなのだ。それは、あくまでも惑いであり、その惑いの二度とは訪れないだ
 ろうかけないのなさ故に、その憂愁に心地よく酔っていたのに過ぎなかったのだから。
・一般に、人間の秘密な欲望の中には人前では言えぬ歪んだかたちが、いや、かつて人間
 が四つ足の獣であったころのままの原始的なかたちが残っている。それは本能の部分に
 属するゆえに、なにが正常であり、どうした傾向が不健全であるかは一概にいえないし、
 戦後二三の統計的著述が公にされたとはいえ、開かれた社会生活の事象に対して効力を
 発揮する多数者正常の原理もどれだけあてはまるかも疑問である。事柄はそれ自体とし
 ては、ともすれば快楽に溺れがちな人間の愚かな一面ということにとどまり、それゆえ
 にまた、ことをあらためてこの紙面にあかす必要もない。
・だが、少なくとも私自身は曖昧化することにできない明瞭さで、知っていた。全身が霧
 に洗われて濡れているような米山みきの肉体を、ただ肉体としてだけ愛そうとし、いた
 めつけさせる幻影の存在することを。衝動そのものは自然に衰えてゆくべき年齢にあり
 ながら、いつからか、私は米山みきの、うっすらと中年の脂肪に覆われた肉体を官能の
 満足のためだけ求めるようになった。内部から光を発する若さを失い、外部の翳を吸い
 寄せひっそりと息づいている米山みきの皮膚、小さな争われぬ皺とたるみを宿している
 肉体のやわらかさを、みずから追いつめる幻影を忘れるために過度に愛した。荒淫とい
 うためには、私には明日への配慮がありすぎた。けれども、先に私の心の鏡に映った
 <堕落>のかたちが、不自然な愛の姿態の間にあらわれていた。何が不満なのか、私に
 はわからなかった。いや不満というよりも、いったい、私は何をにそんなにいらだった
 のだろう。今ここで、許される快楽を貧婪になめつくさねばならぬように、もしいま見
 送れば機会が永遠に消え去るかのように。
・いけません。先生、そんなことをなすっちゃ、嫌です。明日、先生の顔を見られなくな
 ってしまいます。そうした視線を避けあわねばならぬような関係に持ち込んだのは私の
 ほうだった。もの憂い、あの名状しがたい嫌悪感を、その罪があたかも相手の存在にあ
 るかのように、私は味わった。しかも、身勝手な私の感情は、米山みきが拒絶のために
 身もだえするのを止め、あの総てのものをどっぷりとのみこむ習慣になれ、彼女のほう
 が私の乱れを受け入れるようになったとき、急速に冷却していった。米山みきの、小さ
 かった小鼻に脂が溜まって光り、敏捷だった動作に、古女房のような鈍重さが加わるに
 つれ、私にとって、徐々に、彼女はまどわしい存在となっていった。
・「先生。」と人前ばかりでなく、二人きりの床でも米山みきは私のことをそう呼んでい
 た。彼女が私を尊敬していたかどうかはわからないが、肉の荒廃の後も、なお奇妙にも
 私を自分よりも高いものと見ていたことは事実だった。彼女の愚かさというよりは、男
 には到達できない女の観念構造の不思議さだった。彼女は私を蔑んでもよかったのだし、
 すくなくとも共犯者の呼び捨てぐらいはしてもよかったのだ。しかも、死んで遺像だけ
 になっておきながら、ときおり話に出てくる静枝への呼称は、やはり、奥様だった。亡
 妻への毎朝の供物と礼拝と、彼女みずからの性生活との矛盾が、いったいどう結びつい
 ていたのか私には理解できない。
 
第十五章
・「人間の社会生活が、政治をとおしてしか統制されえないということは、人間にとって
 巨大な恥辱である」
・スターリンが、毛沢東が、あるいはアイゼンハウアーやダレスが、文学論や通俗科学談
 義を一席ぶっても、大人の礼儀として一応微笑しながら聴くだろうが、真の技術者なら、
 一介の政治家の言うことなど盲従したりするはずはない。なぜなら、技術には重い技術
 的責任があるからだ。  

第十六章
・これも、もう二年以前のことだが、誰か、教養のある人でフランス語の喋れる人は身近
 にいないかと、頭をひねったあげく、私は栗谷清子がかつてフランス語を学んだと言っ
 ていたことを思い出した。
・「わたくし、本当に困ります。」思いつめたように栗谷清子が言った。「女子大時代に、
 カソリックの尼さんに週一度フランス語の会話を教わっておりましたけれど、もう長い
 間使ってはおりませんし、それに、そんなお偉い方のお相手なんてとてもとうていでき
 ゃしませんもの。」
・私は何のために彼女を呼んだのかを忘れ、何を依頼しようとしていたのかも忘れ、周囲
 の書架にある本の山を、馬鹿げた重荷のように眺めた。そして、そのとき、私は、通訳
 のために、彼女の語学力を必要としているのではないことを悟った。彼女を必要として
 いるのは、異国の大学教授やその妻ではなかったのだった。急に雨が降り出し、彼女を
 そのまま帰らせることができなくなった。どこかでお茶でも飲みながら、最初から私が
 たのみなおせば、栗谷清子は応じてくれそうな予感がした。事実、ある機会に一度、彼
 女が語るフランス語を聞いたことがあるのだが、卓越とはいえぬまでも、それは素晴ら
 しく美しい発音だった。だが私自身が彼女を呼び出した理由を自覚してしまい、現に彼
 女の顔を見ている以上、明日のことはどうでもよかった。
・大晦日も間近なある日、繁華街の角にある宝石店へ、私は、あたかも盗人のように落ち
 着きなく視線を動揺させながらはいったのだった。気味悪いほど顔立ちの整った、かっ
 ぷくのいい中年の紳士が、つれの少女のために装身具を選んでいた。俳優かなにかだろ
 う。色眼鏡をかけた顔は、しかし、肌がざらざら疲れて焼けている。もし、彼が俳優な
 ら、つれの少女は娘ではなく、若い愛人だったかもしれない。
・政治に興味をうしない、荒淫に溺れる皇帝のように、はたされなかった別世界の代償を
 柔らかな夜の夢に託し、女体から女体へとさすらおうとするのなら、世間的威信の失墜
 はあっても、渇望の純粋さだけは保てたかもしれない。ところが、私はまったく無関係
 に二つの像を思い浮かべ、しかも、なんの罪の意識もなく、その重複する像を同時に眺
 めていたのだ。
  
第十七章
・米山みきは、私が栗谷父子を料亭に招待するといってでるとき、不意に半狂乱になって
 私にすがった。具体的な事柄の進展はなにも知らないはずだった。だが、盲目の女が手
 さぐりで琴をかきならすように、ひたすらな急調で本質にせまるような敏感さがあった。
 「先生ともあろうおかたが、そんなありえない夢を御覧になって。」「女を、女を御存
 知ないにも程があります。」
・法律的には、米山みきは私の妻ではなかった。その時も、そして今も、しかし、法はと
 もあれ、私の現在の地位は、たいへんな、人々の犠牲の上に成立していることを、その
 ときに私は悟べきだった。だが私は、栗谷清子の、その・・ああ、そのときからわかっ
 ていた。とうてい手に入れることのできない幻影に私はおののいていたのだ。彼女の白
 い頬、真珠色の唇、そこに浮ぶ微笑。私はそのどれ一つすら正視することができなかっ
 た。見ていると、知らず知らず、心の痛みがよみがえるのだ。人間の生理なら知ってい
 る。男性の欲情なら知っている。しかし私の今まで知らなかったもの、今までただ一度
 も触れることのなかったもの、それが同じ部屋の閾の間際の、そこにいる。透きとおる
 ような脆さでそこにいる。
・視線ばかりではない。想念のすべてが、そして体までが傾きそうな幻覚と闘っているこ
 とを相手は知っていただろうか。理屈もなく、私はふと、公職からしりぞいても生活し
 てゆけるだろうかと計算した。いや、計算というべきほどの心の動きではなく、漠然と
 私は書物を買うことを断念し、交際費を節約するつつましやかな暮らしを思った。私の
 退職金は避暑地の小さな別荘を求めるにはたして充分だろうかと。
・その生地の種類は知らぬ。しかし、肩のなめらかさ、胸のふくよかさ、それらを覆いえ
 てなお示す、地味な着物を私はぼんやり見ていた。礼儀ただしく膝のあたりに重ねられ
 た手の指輪の光りをも。女への愛に溺れて自己を見失う男性の本能を、よわい五十五に
 して私ははじめて理解した。
・「わ耳たしくのようなものでもおよろしかったら、どうかお慈しみください。」と彼女は
 言った。私がグラスからビールをこぼさずにのんだのは、すでにそれが飲みほしたあと
 だったからだった。不覚にも私の目尻に波がにじんだ。
・米山みきは顔を伏せたままだった。そのとき、私の目には米山みきが矮小な存在に映っ
 た。女性がもつ、謎めいた、知り難い香気と愚かさを、急激に彼女が失ったように見え
 たのだった。小さな耳たぶも、かすかに脂の浮いた小鼻も、それはただ、そこに扁平に
 あるだけだった。あの充鎮感、稠密さ、安定性、そこにあるというだけで一つの問いか
 けであるような、立体的な存在感がなぜかなくなっていたのだ。
・「人間関係の基本的なものとして、各専門家集団や生産集団とともに、いぜんとして男
 女の結合が一つの単位として残るだろうが、しかし、セックスというものが占める、み
 せかけの重要さは消えるのだろうからね。」
・私はまんまと弟のけた網にかかった。内輪の気安さと、専門を異にすることの無責任さ
 で、めったに披露する機会のない架空論を語っているうちに、私は自己の矛盾と対面さ
 せられてしまった。私はなかば弟の意図に気づいていたけれども、しかし、栗谷清子を
 家に引き入れようとする志向を翻すつもりはなかった。  

第十八章
・「子供は母親の胎内にいるとき、ぴったりと胎盤に囲まれ、外気には触れず、臍から生
 命の糧を得ているとき、確かにまだ独立した生命ではござません。生まれることはまず
 分離することでございましょう。まだ独立した生命ではないから、法律は妊娠中絶を殺
 人とは認めません。しかしまだ分離せぬゆえに、堕胎はその子供に対してではなく、母
 体に対する傷害であり、傷害罪だと、なぜ法律家はお認めになりません。片腕をきられ
 れば、きった者は監獄に、きられた者は傷害賠償をもらえましょう。母体の一部はその
 とき死ぬのです。傷つくのはその女なのです。」米山みきは憑かれたように喋り始めた
 ものだった。
・思い返してみれば、栗谷清子との婚約発表の取り消しを迫る米山みきの、それが最大の
 武器だったのだ。彼女の懐妊という事実は二人の内縁関係の深さを何よりの証拠である。
 女の知恵が彼女を導いて真先にそれを言わせたに違いない。
・だが、その唐突な始め方と妙に陰にこもったその主張の仕方は、なお残っていた、そし
 てそれ故に苦しんでいた私との絆を逆に粉微塵にした。文字どおり、古傷を掻きたてら
 れ、しかも結局は何処かに妥協を含む人間関係から、人間いがいのある断罪者の前に私
 は押し出されたようだった。  
・彼女が、長い二人の交りの間に一度懐妊したことは事実だった。そして合意の下に、そ
 の生命の萌芽を闇に葬ったことも事実だった。
・かつて米山みきと床を共にした日々、そこで私は別段の幸福を感じていたというわけで
 はなかった。ただ少なくとも私は安定し、安心することができていた。同床異夢とはい
 うけれども、夢が異なっても同じ床に臥せることができるというのが人間の社会性の秘
 密であり、現実が一つの均衡を保っているかぎり、人間の現実はそれで充分なのだ。夢
 より優しさが、情熱より秩序の維持が、より根源的な人間の価値である。
・異夢はしかし、いずれは床を異にせねばならぬ分裂を生むもののようである。こうして
 争いあってみれば、私が私の欲望の自然な発散、ものうい倦怠と安心感、それらをとり
 まぜた日常性の枠に憩っているとき、彼女は苦痛と不安、そして不断の猜疑に身をさい
 なまれていたこともあきらかになった。
   
第十九章
・米山みきが、理由もなく荒々しく襖を開け閉めするようになってからも、また、初めて
 性を知った愚かな若者のように、ひたすらその肉体を私に推しつけようとするようにな
 ってからも。また、偶然の機会から急速に栗谷清子との話が進められた間にも、いまわ
 しいとも、消えてなくなってくれとも思ったことはなかった、と。しかしそれを言うこ
 とは、その感情を率直に出せば出すほど、今はよりほの暗い背徳の影におおわれるに相
 違なかった。
・解決のつかない家庭裁判所の調停が、その後も四度ばかり繰り返された。栗谷清子があ
 る時は出席し、あるときは妹の典代が参考人として陪席した。だが、誰が出席しようと、
 ひとたび掘られた溝は埋められるべくもなかった。
 
第二十九章
・かつて米山みきが突然、いとまをもらいたいといいだしたときのことが思いだされた。
 なぜか問い詰めると、みごもった子を、日陰の児としてでもいいから育てたいと、彼女
 は泣きながら訴えた。そのとき、申し出を許しておれば、あるいは彼女もまた、乳房を
 一吸いするごとに大きくなる子供の添い寝をして、未来に対する不安も忘れて生きてゆ
 く強靭な女になっていたかもしれない。母親のくりごと、はてしない問いかけに、嬰児
 が答えられるわけはなくとも、女はその肉の靭帯によって安定できるのかもしれない。
 米山みきの激しい性格転換も、あるいは、そうしたみずからの財を奪われた怨みからき
 たものだったかもしれない。
・私は、また投函された、栗谷清子からの封書を読んだ。近く<保養>のために旅行する
 につき、そのまえに二人の関係を清算したく、従来送った手紙類を自分のほうにかえし
 てほしいと。 

第三十章
・「わたしたちの間は実らないような予感がしておりました。」汽車が発車し、乗客のざ
 わめきもおさまってから栗谷清子は言った。
・「わたくしって何も知らないでしょ。男女のことも、なにもしりませんの」どういうつ
 もりか、上半身をくねらせて呟いたことがあった。いつ聞いた言葉だろう。結局、私は
 この小さな体を、抱きあげることも、ひき寄せることもしなかった。できなかったのか、
 しなかったのか、今となっては手の届かない存在であることに変わりはなかった。
・そう、彼女の言葉のいかんよりも、私にとって彼女は清純な処女だった。快楽にも異性
 の体臭にも染まらない箱入り娘だった。それにどんな価値があるのか、私には論証はで
 きない。むしろ、私の人生態度から言って、無垢とは無意味さの同類語であり、知性の
 業は経験の傷を構成する仕方にあるはずだった。汚れの多いこと自体は自慢にはならな
 いが、強靭な意志力さえあれば、構成すべき認識の傷と痛みの多いほど、生み出される
 価値も多かるべきはずである。だが、私は彼女が無意味までに清純であることを確かに
 望んでいた。
・あなたの体を知りたい、という率直な言葉は、遂に私の口からは吐かれなかった。肩書
 きが何であろうと、年齢に開きがあろうと女の一つの部屋にむかい合えば、私もまた一
 個の男性であるはずだ。私が言い出せば、あるいは、完全な愛の故ならずとも、関係は
 成立したかも知れなかった。その場に雰囲気や、それとは知れぬ本能の命令に服して、
 自分になんらかの魅力のあることが信じられなかった所為ではない。私もまた、この関
 係の実りなく終わるだろうことをうすうす予感していたからだった。あの憐愍の情が、
 男性の自然を抑圧したのだった。
・「女って敏感ですのよ。なにもかも解かりますよ。先生のほうだけが、夢みたいな愛を
 抱いてらして、わたくしは人形みたいに、ちょっと土惑いながら可愛がられようとして
 いた人も言い先生もそう思ってらっしゃる。でも違っていました、本当は。そうだった
 ら、わたくしはどんなに気楽だったかしら。でも本当は反対でした。わたくしばかりが
 初恋みたいに熱をあげて先生のことを思って。それを先生は、お金や地位の腐肉にたか
 る蠅や蛆みたいに言われますのね。わたくしのところも、父は大学教授でしたわ。そん
 な地位や、教授生活の希薄な人間関係の内幕をみていて、いいえ見ていなくとも、女っ
 て、すくなくとも、結婚するまでの女にとって、そんなものが大したことではないこと
 をご存知ありませんのね。そのひと自身が思っているほど、名誉や地位は、他のひとに
 魅力があるわけじゃありませんのよ。」と栗谷清子は言った。
  
第三十一章
<静枝の手記>
・この世に生きてみずからの意志によって為すことの初めはこの日記を書くことだった。
 四十数年のあいだ、ともかくも生きておりながら、なに一つとしてわたしは事を成し遂
 げえなかった。ただ二人の子供を産んだこと、あるいは産ませられたことと、その子を
 無事に育てたことだけが私の仕事だった。
・もう二度とは生きたくないという漠然とした厭世の思いを抱いて一日のばしに生きてき
 た。毎日、とくに病気がはっきりと自分にも救いのないものと意識されてから、死ぬこ
 とばかりを考え、それを考えることにのみ僅かな活力を費やしてきた。
・神さまは、人を、わたくし共を侮辱なすっていらっしゃる。疑ったり渇望したりする能
 力は与えられたが、真にものを創造する能力を与えられなかった。欲すべきでないこと
 まで欲望するように人間はできていて、また欲すべきでないことを分別できて、それを
 どうしても諦められぬようにお創りになされた。
・もう、軟化して思考力の失せた脳に、私は、ラジオのスイッチをひねって、たわいない、
 非現実な夢の劇を流し込む。あらゆる物語、あらゆる時間つぶしの中に、なぜこんなに
 男女の性が叛乱するのだろうか。
・むかし、遠い遠いむかし、女学生時代、体ごと熱っぽい繭の中に住んでいた頃にも、物
 語や小説を読むとき、なぜこんなに男女の愛のことばかりが題材になるのだろうかと不
 思議に思ったことがあった。どれを読んでみても、恋の成就を惜しむように、誤解や行
 き違いの甘い苦渋がもられてあり、それが最高の美ででもかるかのように崩れゆく愛の
 悲哀が語られてあった。
・過去をもつという人物は申し合わせたように愛の失敗者だった。阿保のように登場人物
 は、囁き、わめき、しかめ面して同じ行為を反復する。なにを恐れて慄くのか。なにを
 悟りたくなくて、狂奔するのか。いま命の衰えの過程にいて、一切の関心の薄れゆくこ
 の床において、逆にそれが解かってくる。
・機会があれば、米山みきに、私は決して怨んだりしていないことを知らせてあげたかっ
 た。なるほど、病的に研ぎ澄まされた神経に、彼女は期待し猜疑することの苦しみを私
 に与えてくれた。二階で行われることのすべてが、死の床にいる私には解かる。その事
 があったのを知る苦しみではなく、今度いつ起こるだろうかという救われぬあさましい
 業苦を。
・しかし、私と夫との、週に一度、思い出しても涙の湧いてくる苦しみの祭典を救ってく
 れたのは米山みきだった。いつも私を憐れむ夫が、その時ばかりは私に憐れまれながら、
 いやその私も恐らくは神なる存在に憐れまれながら、私たちは暮らしていました。「か
 まわないかね。駄目ならいいんだよ。」夫は務めて事務的に言ったものだった。しかし、
 どんなに事務的になろうとしても、またどんなに慣れようとしても、慣れることのでき
 ない懊悩の時間でございました。癌を病んでいても、女でなくなっている訳ではない。
 私たちは夫婦である。けれども痩せさらばえて床に臥せた妻が、その日ばかりは腰湯を
 して清めた体を、固くこわ張らせながら、掛布団の裾を自らたくるのは、ああ、そのた
 びにこそ、神よ、私はあなたのことを思いました。
・神さま。神さま。ああ、私のこの生活は地獄でございました。でも、本当は、もっとも
 っと生きていたい。手術で治るものなら片輪になってもいい。しかし、私の命はもう長
 くはないだろう。 

第三十二章
・「原告米山みきと被告正木典膳の共同生活の事実につきましては、もはや論議の要なく
 充分に説明されているものと思念します。」「従いまして本日はその共同生活の不当破
 棄について、原告側証人として、栗谷清子さんを訊問いたしたいと存じます。」栗谷清
 子が原告側証人?そんな馬鹿な。私は自分の耳を疑った。
・あなた方は、深刻ぶって一体、何をしているのかと私は思った。愚昧な雁首を玩具のよ
 うにならべて、何を証明しようというのか。一人の男が一人の女と床を共にしたかしな
 かったか、もし前者なら幾らかの慰謝料、後者なら幾ら・・・はははは。滑稽だとは思
 わないか。恥ずかしいとは思わないのか。時間を無駄にしているとは感じないのか。あ
 なたたちにとって生きているということは一体どういう意味をもっているのか。
・あなたたちが、いま私の振り上げる斧によって頭をぶちわられたとしても、それが一匹
 の蠅の殺されたことと価値的に相違することを証明する根拠があるか、あれば百万言を
 費やしてでもいってみろ。その違いは、結局存在するものの形態が、少しばかり蠅より
 大きいというだけではないのか。そしてまたその血と血漿が少しばかり多量であり、生
 臭く温かいというだけではないのか。
・この女は遠からず自殺するだろうと私は予感した。一歩ごとに階段のきしむ安アパート
 の四畳半の部屋で、人生になにかはりがあるかのように思わせる家具や丁度もなく、米
 山みきは夜更けに独り、梁に腰紐を通し、塵箱に背伸びして立って、首をくくるだろう。
・かつて米山大尉をうしない、二人の子供を発疹チフスでしなせ、さらに正木典膳にも見
 棄てられた彼女は、結局、この世に生きて何もしなかったことになるからだ。子供を産
 んだが、それも死んだ。再び妊んだが、それも堕胎した。彼女にはただ一つの母体から
 二つの生命を生み出したことがあるという記憶と、夫につかえ、また私にかしずいて、
 時には楽しく、時には慌ただしく快楽を味わったこともあるという記憶以外に何もない
 からだ。昼間、織機をおり夜それを解きほぐし、ただ一日のばしに倖いの訪れを貞節に
 待っていただけなのだ。    
・能力の社会、自律の社会にも、おそらく彼女は耐えられない存在なのだ。この慈悲深い
 現在にすら独立的に生きてゆくことができなくて、どうして未来に期待できようか。さ
 ようなら、米山みきよ。私もまたいつかは黄泉の国に帰らねばならないにせよ。たとえ
 来世が存在するとしても、私たちは遂に二度と顔を合わせることはないであろう。なぜ
 なら、あなたは淘汰されて死ぬのであり、おそらく、かつて淘汰されて滅びた爬虫類や
 深海魚や貝類の充満する天国に住むだろう。そこには、何もすることがないものたちが、
 許されて、楽しく平和に過し続けるだろう。いま現に生きる多くの人々も、また同じよ
 うにその天国に行くだろう。
・だが、私は行かない。私は死んでも、私には闘いの修羅場が待っているだろう。私を踏
 みつけせんとする悪魔どもがつぎつぎと現われて、現われ続ける。我が待望の地獄が。
 私は慈愛よりも酷烈を、奴隷の同情よりも猛獣の孤独を欲する。私は権力である。私は
 権力でありたい。   
・機関銃をもって追いつめられた一人の独裁者に、スクラムを組んで立ち向かい、弾丸の
 続く限り血ぬられ殺されながら、なお権力を倒すべく進み続ける群衆を支える力とは何
 であるか。それが、この人々、この庶民、この大衆、この国民に、はたして自らそなわ
 っているものと認めうるか。
・私は友情の名において、他の力によってではなく、君たちの苦悩する地獄へと、君たち
 をたたきのめすために赴くであろう。私たちは格闘し続けるであろう。人間が人間以上
 のものたりうるか否かを、どちらかが明証してみせるまで。
・さようなら、米山きみよ、栗谷清子よ。さようなら、優しい者たちよ。私はしょせん、
 あなたがたとは無縁の存在であった。