果し合い  :藤沢周平

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この作品は、いまから45年前の1976年に発表された短編の時代小説である。
若い頃に果し合いをして、足に大けがし、生涯の大半を部屋住みで過し、厄介者扱いをさ
れた佐之助という男の物語である。
佐之助が、若い時に、どうしてその果し合いをすることになったのかについては、何も触
れられていない。ただ、当時、佐之助が、牧江という女性の家に婿入りするという話がま
とまっていた。それが、果し合いで足に大けがをしたために、その話は破談になってしま
ったのだった。
その後、その牧江という女性は、新しい縁談がまとまり、別の男を婿に迎えたのであるが、
うつ病のなり、一年ほどで病死してしまう。実は、佐之助は、牧江から、二人で駆け落ち
しようと誘われたのだが、佐之助は、自分が身を引くほうが牧江のためだと考えて、約束
した日に落ち合う場所に行かなかった。そのことが、佐之助の生涯の悔恨となった。
佐之助と牧江は、数度会ったことがある、というふうにと書かれているが、佐之助が、果
し合いをすることになった理由は、何か牧江と関係があったのではないかと私は想像した。
それは、牧江が駆け落ちに誘ったり、他の男と結婚した後すぐに、うつ病になってしまっ
たというような事から考えると、単に数度会った程度の関係だったら、そこまではならな
かったのではと思えたからである。
ある日、唯一、佐之助を慕ってくれていた姪の美也が助けを求めてきた。美也が思いを寄
せている信次郎という男が、美也が縁談を断った男から、果し合いを申し込まれたのだっ
た。これを聞いた佐之助は、助だちに駆けつけて、みごと相手を打ち倒して信次郎を救い
出した。
美也と信次郎の二人が、駆け落ちして江戸に向う姿を見送りながら佐之助は、昔の自分と
牧江たちの姿を重ねていた。そのことが、生涯の大半を厄介者扱いされてきた自分にとっ
て、唯一の救いとなったのだろう。この佐之助と同じ年寄りの境遇にある私にとって、な
んだかとても切ない気持ちなった作品だった。
この作品は、2015年に映画化もされており、私も、以前、テレビで見た記憶がある。
佐之助の役は仲代達矢、美也の役は桜庭ななみが演じていた。

ところで、江戸時代の1石とは、どの程度の金銭的価値のあるものなのだろうか。ネット
で調べてみると、諸説あり、なかなかこうだとは決められないようだが、私が一番シンプ
ルで納得しやすかったのは、「米1石=金1両」、そして現在の米の価値に直すと、「金
1両=約6万円」というものだった。
これから計算すると、この物語に出てくる、百石の庄司家の年収は、600万円程度とい
うことになる。また、どら息子の繩手家の年収は約2、300万円ということになる。
また、他の作品でもそうだが、この作品にも「口を吸われた」という表現が出てくるが、
はたして江戸時代に、男女が接吻するという慣習はあったのだろうかと、ふと疑問が湧い
た。私は、接吻は、明治時代以降に西洋からもたらされたもので、それ以前の日本には、
接吻の慣習は、まだなかったのではと思っていたのだ。しかし、ネットで調べてみると、
平安時代末期の現存する日本の説話集「今昔物語」の中に、「口を吸う」という表現で、
接吻が描かれているというのである。これには、ちょっと驚いた。恥ずかしながらこの歳
になるまで私は知らなかった。認識を新たにしないといけないと思った。



・私がいなくなったら、大叔父はどうするのだろうか。美也は、自分の心の中に塊つつあ
 るある決心を確かめながらそう思った。私がいなくなったら、誰が大叔父の面倒をみる
 だろうか。
・大叔父の名前は、障子佐之助である。佐之助は生涯の大半を庄司家の部屋住み、つまり
 厄介者として過ごし、いま五十八だった。死んだ仙台の総兵衛が兄で、美也の父である
 当主の弥兵衛が甥である。
・佐之助は若い頃学問所に通い、一刀流の道場にも通って、その道場で、もっとも有望な
 剣士と言われたという。いずれ家中のしかるべき家の婿に迎えられるだろうとみられ、
 事実、縁談がすすんでいたが、ある日、同門の者と果し合いを行い、相手を討ちとめた
 が、自分も脚を斬られて跛になった。
・果し合いは、尋常な理由があったため、一カ月の謹慎で済んだが、その出来事が佐之助
 の運命を決定した。以来三十数年、佐之助は庄司家の部屋住みとして老いたのである。
・佐之助が三十になったとき、その頃家督を継いだ兄の総兵衛が、さすがに憐れんで妻を
 もたせた。妻とは言っても、床上げと呼ばれる隠し妻である。佐之助は、みちという名
 前のその百姓娘と、新しく建ててもらった離れで所帯を持ったが、生まれた子供はすべ
 て闇に葬られた。百石の庄司家には、部屋住みの子供まで養うゆとりはなかったし、ま
 た部屋住みの子は、そのように処置するのが昔からの慣習だった。
・みちは二十で床上げにきて、三十二で死んだという。
・父や母はあまりそのことを喜ばなかったが、美也は子供の頃から大叔父のまわりをうろ
 ちょろした。あるいは美也は、半ば本能的に自分がまつわりつくのを、佐之助が喜んで
 いることを見抜いていたのかも知れなかった。
・美也がはっきりと大叔父の味方についたのは、十四の時である。五十五の大叔父の孤独
 を老いを、美也はその頃には理解していたが、ある夜、泥酔して外から戻った大叔父が、
 甥である美也の父に厳しく叱責されているのをみたとき、美也は大叔父のために涙を流
 したのである。 
・大叔父は厄介者だった。美也の母は、佐之助と同じ部屋で食事をするのを厭がり、女中
 は忙しさを口実に、佐之助の離れを掃除と洗い物を、三度に一度は怠けていた。美也の
 二人の弟も、離れには近寄ろうとはしない。
・美也が、大叔父に肩入れするのを、父も母も喜ばなかったが、近頃は諦めたらしく、何
 も言わなくなった。結局、誰かが面倒みなければならないのだし、そうでなくとも、忙
 しい女中のヤスに、全部押しつけることは出来なかったからである。
 

・庄司家の墓のある常光寺は、城下町で一番西端れにある大工町にあった。木槿の葉も、
 墓地中の草も枯れていて、歩いて行くと、二人の裾にさやさやと枯草が音を立てた。
・大叔父はしゃがんで草をむしった。草の間からは、さほど大きくない自然石が現われた。
 「わしも、いずれ、この下に入る」
 大叔父は、前歯が欠けた口を開いて笑った。そこは庄司家の墓地の片隅で、意志は庄司
 家のほかの墓石にくらべて、いかにもみずぼらしかった。それが大叔父の連れ合いだっ
 たみちの墓だった。
・「私が、ちゃんと石塔を建ててあげますよ」美也が言うと、大叔父はまた嬉しそうに笑
 った。
 「なに、死んでしまえば同じことさ」
 大叔父は、あっけらかんと言った。
・無口で働き者だったというみちを、美也はやはり不幸な女だったと思うしかなかったが、
 大叔父がこうして毎年欠かさず墓参にくるのを、みちはやはり喜んでいるに違いないと
 いう気がするのである。
・「さてと、もうひとつ寄って行こうか」立ちあがると、大叔父はいつもと違ってそう言
 った。
・べつに帰りを急ぐことはなかった。それに、いくらか、家に戻るのが億劫な気分もある。
 親たちは繩手家との縁談を早く決めたがっていて、はっきりした返事をしない美也に苛
 立っていた。
・親たちがこの縁談に乗気なのは当然だった。繩手家は、当主の十左衛門が番頭を勤め、
 禄高も四百二十石である。上士の家柄であった。弥兵衛夫婦が、玉の輿だと考えたとし
 ても不思議ではない。
・だが美也には、初めからこの縁談を受ける気持は全くなかった。達之助という繩手の跡
 とり息子が、どういう人間かを知っているわけではない。いぜん、親戚の松宮の娘の勝
 江が、繩手の息子は遊び人らしいと噂したのを憶えているだけである。
・だが、美也がその縁談に耳をかさないのは、相手を知らなかったからではない。知って
 いても同じことだった。美也には、ひそかに言いかわした男がいた。そのことは誰も知
 らない。 
・「さあ、ここだ」大叔父は立ち止まった。立派な墓石の前だった。立派だが、新しくは
 ない。墓石に記された戒名は女性のものだった。
・「いまのは、どういう方ですか?」と美也は聞いた。大叔父がみちの墓参にくるときは、
 欠かさずついてきているが、その墓に寄ったのは初めてだった。
・「昔、知っていた女子では」と大叔父は言った。
・「橋川という家を知っとるか。仏はそこの一人娘だったが、婿をもらって一年ばかりで
 死んだ」「じつは、その娘には、わしが婿に行く筈じゃった」「その話がすすんでいた
 ときに、わしが馬鹿なことをしでかして、こういう身体になったもので、話は流れた」
 「お名前は何とおしゃる方でしたの?」「牧江と申したな」「おとなしい女子じゃった
 な」
・美也は牧江という女性は美人だったに違いないという気がした。美人で気だてのいいひ
 とだったのだ。大叔父が、果し合いで人を殺したのは、二十の時だと聞いている。そう
 いう女性だったから、大叔父は四十年も昔のことを、胸の底におぼえているのだ、と思
 った。 
・美也は不意に、あのひとを大叔父にみてもらいたい、と思った。松崎信次郎の家は、少
 し遠回りにはなるが、家へ帰る道筋にある。信次郎は、晴耕雨読と称して、晴れた日は
 庭の菜園を耕すことが多いと話していたのである。
・松崎家の前まできたとき、美也はたちまち胸が息苦しく弾むのを感じた。松崎信次郎が、
 庭で鍬をふるっている姿が見えている。信次郎は、撃剣の方は肌に合わず、少年の頃に
 やめてしまったと言ったが、頭脳は人一倍鋭く、藩校では秀才と謳われていた。松崎家
 の次男であるため、仮身分で句読師を勤めているが、いずれ家中の家と円具縁組が出来
 て、正式に士分になれば、やがて藩校の助教に進むだろうとみられている。
・美也は、親戚に松宮の家にお点前に稽古に通った間に、信次郎と知り合った。美也は信
 次郎をひと眼みると、たちまち恋に陥ったが、信次郎の方も自分に好意を持っているこ
 とを知るまで、三月ほどの間、食が細くなって痩せるほど思い悩んだのであった。
・信次郎は、二人を見かけると、や?という表情になり、鍬を地面におろしてこちらをみ
 た。そのままじっと見送っている。美也は一度はちらと信次郎をみたが、そのまま視線
 を落として歩き続けた。顔が赤くなっているのがわかる。さぞ見苦しかろうと思うと、
 首筋まで赤く染まるようだった。
・信次郎の若者らしく引き締まった裸がまぶしかった。その胸に、美也は十日ほど前、家
 の塀下の闇で慌しく抱かれている。そのとき、繩手家との縁談のことを訴えた美也に、
 信次郎は「いよいよ断りきれなくなったら、二人で夜逃げして江戸へ行くさ」と言った。
 その夜、信次郎にはじめて口を吸われたことを、美也は思い出している。そのとき美也
 は動顛し、しかしすぐに信次郎と別れては生きて行けないという気がしたのだった。
・「美也、これ」「なにをそう急ぐ」「ごめんなさい」美也は謝った。信次郎をみるやい
 なや、のぼせたようになって足を早めてしまったようだった。
・「あの男を、好いとるのか」不意に大叔父が言った。「はい、大叔父」美也は立ち止ま
 って大叔父をみた。美也の顔は、いまや青白くなっている。
・「助けてください、大叔父」美也は囁くように言った。美也の視野が不意にぼやけて、
 困惑している老猿のような大叔父の顔が歪んだ。
 

・前方から声高に話しながら来る四、五人連れをみたとき、美也は怯えた様に塀脇に身体
 を寄せた。家中武士らしい身なりの、若い男たちだったが、声にしたたかに酒に酔った
 気配が感じられたからである。日暮れとはいえ、まだ明るみが残っているのに、大胆な
 ことだった。
・「よう、庄司どのの娘御ではないか」顔を挙げたが、そこには美也の知らない顔が並ん
 でいる。 
・「あの、どちらさまでございましたでしょうか」「どちらさまは、ご挨拶だな」肥った
 男が言うと、一緒の男たちがどっと笑った。
・「失礼いたします」美也は憤然として歩き出そうとした。このような礼儀知らずの酒臭
 い男たちの相手をする義理はない。
・「おっと、少々お待ちあれ」肥った男が手をひろげて美也の行く手はばんだ。胸が悪く
 なるような酒の香が、男の身体から押し寄せてくる。美也は思わず顔をそむけた。
・「そちらはご存じないようだが、こちらはよく存じあげておる」あっ、と美也は眼を瞠
 った。そのときになって、ようやく男が誰であるか解ったのである。
 「繩手の倅、達之助でござる。つまりその・・・」「庄司どののご息女にふられた、哀
 れな男でござる」 
・美也は恐怖を感じた。「繩手さま、それでは失礼いたします」美也は勇気をふるい起こ
 して、達之助のそばをすり抜けようとした。達之助は、美也の方に掌を向けて両腕を突
 き出した。同時に、ほかの男たちも前後にわかれて、美也を取り囲むようにした。
・「何をなさいますか」美也は叫んだ。
・これが番頭を勤める家の、上士の家の子弟か、と思うような崩れた言葉づかいだった。
 きっぱりと断ってよかった。美也はぞっとして思った。繩手達之助という男は、こうい
 う人物だったのだ。
・それにしても、父の弥兵衛や母の多津は、達之助をどこまで知っていて縁談をすすめた
 のだろうかと思った。ただ四百二十石という相手方の家格に眼がくらんだとしか思われ
 なかった。 
・三日前、大叔父と浄光寺の墓参から帰ると、美也は父母にきっぱりと縁談を断った。大
 叔父が思いかげない厳しい表情をみせて、そうしろと言ったからである。 
・達之助が近ぢかと顔を寄せてきた。「松崎と懇意にしておるそうではないか」美也は顔
 から血がひくのを感じたが、松崎という名前を聞いたとき、思いがけない勇気が湧いた
 ようだった。  
・男の一人が無遠慮な声を張り上げた。「懇意とは、一体どのあたりまで懇意になっとる
 のだ」男たちはまた一斉に野卑な笑い声を立てた。
・美也は、恥辱に眼がくらむようだった。家を出るとき、懐剣を持って出なかったのが悔
 まれた。ここまでなぶりものになれば、男たちを刺すか、自分の喉を突くしかないのだ。
 美也は青ざめて男たちを睨み続けた。
・「未練があるなら攫って行けばよい。手を貸すぞ」男たちの眼に、別の光が加わったよ
 うだった。危険で、卑しい光だった。  
・美也は青ざめて、静かな声で言った。「私に手をかけたら、舌を噛みます」男たちは顔
 を見合わせて、忍び笑いをした。
・そのとき、薄闇の中から、いきなりしわがれた声が怒鳴った。「こら、何をしとるか、
 貴様ら」「お、大叔父」
・「何だ、この爺さまは」「脇差ししかさしていないが、町人じゃないらしいぞ」「どう
 する?このあたりで幕をおろすか」「なに、これから面白くなる」一人がいきなり拳を
 固めて、大叔父に打ってかかった。
・美也の眼に奇妙な光景が映った。大叔父に打ってかかった男が、一回転して地上に転ん
 だのである。  
・男たちの身体の間で、大叔父の身体は、大きく左右に傾いたり、不意に地に沈んだりし
 て、男たちが空を掴むのがみえた。だが、大叔父がいいところをみせたのはそこまでだ
 った。 
・男たちは、猛々しい獣のように、休みなく大叔父に組みつくと、地面に引き倒した。男
 たちは口ぐちに罵りながら、大叔父を殴ったり、足蹴にしたりした。
・男たちが背をみせて去ると、美也は倒れている大叔父に駆け寄った。「大丈夫ですか」
・美也に助け起こされると、大叔父は意外に元気よく立ちあがった。
 「見たか、わしもまんざら捨てたものでもあるまい」大叔父は息を弾ませながら自慢し
 た。 
  

・松崎信次郎の弟卓蔵が信次郎の手紙を持ってきたのは五ツ(午後八時)頃だった。美也
 は、見ないふりを装って水仕事を続けている女中のヤスのそばをする抜け、部屋に戻っ
 た。
・美也は慌しく手紙を開いた。だが読むすすむうちに美也の弾んだ胸は、たちまち凍りつ
 いたようになった。 
・信次郎は繩手達之助と、今夜、果し合いをすると書いてきていた。達之助は、応じなけ
 れば家中の間に美也との醜聞を言いひろめると威してきたのである。 
・武門の意気地で、受けるしかないと信次郎は書いていた。だが文章は悲愴な感じはなく
 て、勝負はやってみないと解らないが、勝てる見込みは大へん薄い、とひと事のように
 のんきな書きぶりだった。
・最後に信次郎は、運よく勝てば、今夜のうちに城下を抜け出す。その用意はしてあるか
 ら旅支度をして待つように。しかし四ツ半に裏の戸を叩く者がいなかったら、裏口を閉
 じ、旅支度を解いて寝るように。そのときは万事は終りだが、悲嘆は無用だと書いてあ
 った。  
・「大叔父、起きてください」「信次郎さまが今夜、果し合いをなされます」「相手は誰
 だ?」「繩手達之助さま。あの悪党です」「始める時刻はわかっとるか」「五ツ半(午
 後九時)です」
・「行ってくださいますか」「私も行きます」「ばかめ!女子供の出る幕ではないわ」
・大叔父は、押し入れから大小を取り出すと、刀を腰に帯びた。美也にはそういう大叔父
 の姿が、いつもよりひとまわり大きく、頼もしげにみえた。
・「ここで、じっとして待っておれ」大叔父は念を押すと、足音を忍ぶようにして離れを
 出て行った。
・それから一刻の間、美也は身体を切りきざまれるような苦しい物思いに苛まされた。
 考えは悪い方に傾く。まず撃剣の下手な信次郎が、繩手達之助に勝てるわけがないと思
 った。大叔父が助太刀に行ったが、それもどれほどあてになるものかと、美也の弾んだ
 気持は次第にしおれて行く。 
・母屋の灯が見えたが、その灯に向って、美也は助けをもとめることも、苦しみを訴える
 ことも出来ないのだった。父母にしろ、弟たちにしろ、肉親ではあるものの、いまの美
 也の味方ではなかった。
・離れの戸口に、ことりと物音がしたのは、四ツ半(午後十一時)の少し後だった。弾か
 れたように、美也は立ちあがった。障子を開けると、二人の男が二人もつれ合うように
 戸口に入ってきたところだった。信次郎を、大叔父が肩にかけて支えている。入って来
 たとき信次郎はぐったりしていたが、美也をみると青い顔のまま、にやりと笑ってみせ
 たのである。
・「どうなのですか」美也は大叔父に小声で訊いた。「うまく間に合った。なに、大した
 ことはない。生まれてはじめて斬り合いをしたので疲れておるのだ」
・「繩手さまは?」「死んだ」美也と信次郎はじっと眼を見つめ合った。 
・「わしが仕とめた」と大叔父が言った。「はじめに、わしは無用な果し合いはやめろと
 仲裁したのだ。だが、あの男はわしを見くびっておったらしいな。わしに斬りかかって
 きた」「なに、まだ一本勝負なら、なまじの若い者には負けはせん」「それよりも、二
 人が一緒になるには、駆け落ちするしか手はないようだな」
・佐之助は、江戸を目ざして旅立って行った二人のことを考えていた。美也は部屋を出る
 とき、佐之助にとり縋ってちょっと泣いたが、簡単な旅支度に装った姿には、隠しきれ
 ない弾みのようなものがあった。 
・あれでいいのさ。佐之助はそう思った。そう思う佐之助の心に、微かな悔恨がよみがえ
 る。信次郎と美也の姿に、佐之助は自分と、牧江といった御盾町の橋川の娘の姿を重ね
 てみる。 
・二十歳の佐之助は、牧江に婿入りするはずだった。話がまとまり、二人は何度か会って
 話もしていた。しかし果し合いがあり、佐之助がうまれもつかぬ跛になると、先方から
 破談を申入れてきた。佐之助も、佐之助の父母もそれを受け入れるしかなかった。
・そして半年ほど経ったころ、牧江に新しい縁談がまとまったことを知った。佐之助の心
 は、さすがにいくらか動揺したが、しかしすぐに諦めがきた。そのかわり佐之助は酒に
 おぼれた。  
・橋川の牧江が、突然訪ねてきたのは、その頃のある晩のことだった。牧江は一刻足らず
 で帰ったが、送って出た佐之助に、突然、一緒に逃げてくれと迫った。日頃の牧江とは
 別人のように激しい口調で、「あなたは、私と夫婦にならずに、淋しくないのですか」
 とまで言った。牧江の情熱に引きずられた恰好で、佐之助は駆け落ちを約束した。
・しかし、約束の日、佐之助は決めた場所に行かなかったのである。旅支度で、その場所
 に立っているだろう牧江を思いながら、佐之助は茶屋酒に酔い痴れていた。そうするこ
 とが牧江のしあわせのためだと自分に言いきかせていた。
・牧江は、駆け落ちに失敗する間もなく新しい婿を迎えた
・だが、佐之助が、本当の意味で無気力な部屋住みにおちぶれたのは、一年ほどして牧江
 が死んだときからだった。あたり前の、穏やかな縁組みが、牧江をしあわせにするだろ
 うという佐之助の考えは、間違っていたのである。牧江は、婿を迎えてからも、鬱々と
 して楽しまず、やがて気鬱の病にかかり、痩せ衰えて死んだのであった。
・その事情を知ったとき、佐之助は悔恨に打ちのめされた。そして、その悔恨から抜け出
 したとき、佐之助は眼の前に灰色の人生をみたようだった。
・長い生涯をふり返ると、牧江の思い出だけが、眼の前の野菊のように、一カ所つつまし
 い色どりで光っている。ほかは灰色だった。
・夜が明けはなれたら、佐之助は、ゆうべ繩手達之助と果し合いをした、と大見付にとど
 け出るつもりだった。そして、あるいは腹を切ることになるかもしれない、と思うが、
 それは別に恐いとは思わなかった。どういう形にせよ、ろくでもない人生にけりをつけ
 る日は、そう遠くないことが解っている。
・佐之助は不意に、にやりと笑った。心に痛みはない。美也をのぞけば、佐之助にとって
 庄司家のほかの人間は、とうの昔にみな他人だったからである。