八甲田山消された真実  :伊藤薫

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筆者は、青森県出身の元自衛官である。八甲田山雪中行軍で遭難した第五連隊を継承して
いる青森の陸上自衛隊第5普通科連隊での勤務経験もあるようだ。そのような境遇にあっ
て、筆者はずっと八甲田山雪中行軍遭難事故について興味を持ち、個人的に真実を探究し
続けてきたようだ。
この八甲田山雪中行軍遭難というと、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作に映画
化され1977年に公開された「八甲田山」が有名だ。この本を読んでいる最中に、ちょ
うど衛星放送でこの「八甲田山」が放映されたため、この本の内容と比較しながら、視聴
することができた。
映画「八甲田山」に出てくる高倉健が扮する徳島(福島)大尉は、キリっとした規律と正
義漢あふれる非の打ち所がない軍人だ。しかし、実態はかなり違っていたようだ。一方、
悲劇のヒーローとなった北大路欣也が扮する神田(神成)大尉は、実直さにあふれる軍人
で、実像もそれにかなり近かったようだ。ただ、当時はまだ士族と平民という差別意識が
色濃く残っていたことなどから、平民出身である神田(神成)大尉は、自分の上司には逆
らえないという弱さも持ち合わせていたようだ。
この遭難の直接の原因を作った三國連太郎が扮する山田(山口)第二大隊長については、
本来、犯してはならない越権行為も、映画の中ではうまく表現されているが、自衛隊とい
う組織の中にいた筆者から見たら、その越権行為は、われわれ一般人が感じる以上に深刻
な重罪行為であったようだ。この第二大隊長の越権行為がなかったならば、このような悲
劇が起こらなかった可能性が大きい。
映画では、この雪中行軍遭難事故は、雪中行軍を実施した日が、たまたま猛吹雪となった
たための不運であり、自然災害的な遭難事故であったとも受け取れるが、しかし実際は、
当時の陸軍の同じ師団内にある聯隊の一部幹部のメンツ争いがきっかけであったようだ。
そのため、ほとんど準備らしい準備ができておらず、冬山についまったく素人状態である
にもかかわらず、雪中行軍を命令出している。この遭難は、起こるべくして起きた人災だ
ったというのが実態のようだ。
しかし、当時の事故後に出された報告や顛末書などは、それを作成した者たちが、当事者
や関係者だけだったため、当然ながら自分に不利になる事実は徹底的に伏せられ、責任逃
れの作文が行なわれ、出来上がった報告書や顛末書などは、事実とはかなりかけ離れた内
容になっていたようである。しかし、当時を知る手がかりとなるものは、そのように作文
された報告書や顛末書などの資料しか残されていないため、その作文された資料の内容が
事実とされてきたのである。
このようなことは、何もこの雪中行軍遭難に限られたことではない。その後に起きた戦争
の歴史においても、このような事実隠しは、頻繁に行われてきたようだ。そして「歴史は
作られる」と言われるように、事実とは異なった史実もかなり存在しているのではないか
と思われる。
現代においても、森友・加計問題や最近明らかになった統計問題のように、事実とは異な
る史実がつくられ続けられている。史実とされているものが、ほんとうに事実だったのか。
それは、いままでも、そしてこれからも、完全に明らかになるということはないのだろう。

それにしても、映画「八甲田山」出てくる案内人の村娘に扮した秋吉久美子は、この映画
に出演したのは22才ぐらいだったと思われるが、じつにかわいく、暗く重い内容の映画
の中で唯一、心をときめかされた。

明治陸軍の編制・職責について
・主な部隊編制を規模の大きさで表すと、師団、旅団、連隊、大隊、中隊、小隊となる。
 師団の人員は約1万人。
・階級は上から大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、特務曹長(准
 尉)、曹長、軍曹、伍長、上等兵、一等兵、二等兵となっていた。少尉以上は士官(将
 校)、特務曹長は准士官、曹長から伍長までが下士、上等兵以下が兵卒といった区分に
 なる。 
・大隊長(少佐)は、中隊の指導監督の立場にあるが、中隊長の能力を阻碍しないように
 注意しなければならない。
・中隊長(大尉)は、強固な団結を持って部下を教育訓練して管理し、それら一切につい
 て全責任を負う。

プロローグ
・その事件が起きたのは、明治35年(1902年)1月だった。雪中訓練のため、青森
 屯営を出発した歩兵第五聯隊第二大隊は八甲田山中で遭難し、将兵199名を失う。そ
 の最後の生き証人が遭難当時伍長の小原さんだった。
・明治に起こったこの遭難事故が昭和になって再び脚光を浴びたのは、新田次郎著「八甲
 田山市の彷徨」と、それを原作とした映画「八甲田山」の影響によるものだった。「天
 はわれ等を見放した」と神田大尉の悲壮な叫び、田代越えを成功させた三十一聯隊、救
 助された山田少佐のピストルによる自決など、小説や映画は軍隊の愚かさを訴えていた。
 そして多くの人々は、それら作品に描かれた出来事がまことに真実であると錯覚してし
 まう。 
・今になって真実が露呈する主な原因は、遭難事故の事実が意図的に消されてしまったこ
 とである。責任回避のため都合の悪いことは隠蔽され、あるいはねつ造されて大本営発
 表となった。
・この遭難事故が起こる6年あまり前の明治27年(1894年)、日清戦争が始まった。
 翌年1年、五聯隊は山東半島東端の営城湾から上陸して威海衛へ進撃した。このときの
 五聯隊に神成特務曹長や倉石一中尉がいた。のちに八甲田で遭難する神成大尉、倉石大
 尉である。清国での冬の戦いにおいて、日本軍は防寒が不十分だったためか凍傷患者が
 多数発生したらしい。靴はわた靴が使用されている。
・日清戦争後の明治28年(1895年)4月、露・独・仏の三国干渉により、下関条約
 で領有することになった遼東半島を清国に返還した。当時の日本は、それらの国と戦う
 力がなかったのである。その屈辱から日本は国力の充実と軍備の大拡張に努めた。
・明治33年の北清事変後、ロシアは満州を事実上占領し、朝鮮にも触手を伸ばす南下政
 策を強めてきた。日本政府も対露戦やむなしと判断し、日英同盟を結んだのが明治35
 年1月のことだった。  
・青森平野から南を望むと八甲田山が見える。円錐形をした前獄が露払いとなって、田茂
 萢岳、赤倉岳、井戸岳、大岳、高田大岳などの峰々が並ぶ。八甲田山はそれらを総称し
 たもので、最高峰は1584メートルの大岳となる。
・八甲田山北東の中腹にある周囲十数キロの高原を田代平という。地元の人々は単に田代
 ともいった。田代平には古くから温泉があった。 
・駒込川の右岸にあった田代元湯は冬になると無人になった。その500メートルほど上
 流の左岸に田代新湯があり、そこに一組の老夫婦が住んでいた。
・田代には他にいくつかの無人家屋や炭小屋があるだけだった。大岳の西麓にある酸ヶ湯
 温泉は湯量が多く、古くから湯治客が多かった。客舎組合があって、3月になると地元
 紙に営業を知らせる広告を出していた。その酸ヶ湯に比べると、閑散とした田代の温泉
 はずいぶんと見劣りがした。
・田代の西端に馬立場という小高い場所がある。かつて桂森といわれたその場所が馬立場
 となった由来は、放牧されていた馬が夏になるとその場所で涼んでいたことからといわ
 れている。そこは見晴らしがよく、北西に青森市街、青森湾、東に田代平を一望するこ
 とができた。当時、馬立場は青森と六本木を結ぶ田代街道の重要な道標となっていた。
 今その場所には、軍帽をかぶり外とうを着て銃を両手で保持し、遠くシベリアを凝視す
 る、あの後藤伍長の銅像がある。
・後藤伍長が銅像のモデルとなったのは、困難な状況下、部隊の救援要請に挺身した功績
 によるものだったためらしい。しかし、悲惨な遭難事故に対する国民の非難をかわずた
 め、陸軍が後藤伍長をヒーローに仕立てたというのが本当だろう。後藤伍長の称えられ
 たその行動には、陸軍も承知していた重大な瑕疵があったのである。

現代の八甲田演習
・本州最北の青森県に陸海空の自衛隊と米軍基地があることから、日本の防衛においてこ
 こが重要な地域となっているのは間違いない。そのためか、青森には第五普通科連隊、
 八戸に第三十八普通科連隊、弘前に第三十九普通科連隊と、青森に3個の普通科連隊が
 駐屯している。陸上自衛隊の青森駐屯地には、青森、岩手及び秋田の3県にまたがる第
 九師団の司令部が置かれている。その駐屯地で中核をなす部隊が五聯隊である。五聯隊
 には八甲田雪中行軍の遭難事故という負の遺産が伝統のように付きまとった。
・五聯隊には何事も弘前三十九連隊に負けるなという空気があった。三十九連隊も五聯隊
 に対してそう思っていたに違いない。旧軍の五聯隊と弘前三十一聯隊の強い対抗意識が
 継承されていたのだった。 
・昭和40年に慰霊の八甲田演習が実施された。この演習の目的と意義は「遭難軍人の霊
 を追悼し、その遺徳を広く内外に顕彰することは、伝統の担い手としてのわれわれの努
 めであり、本演習の主要な目的の一つでもある。」とされている。これ以降、五聯隊は
 毎年2月頃に慰霊の八甲田演習を行うようになる。もし遭難事故がなかったら、この演
 習は行われることもなかったに違いない。
・大滝平から南東に約10キロ進んだ場所が2日目の宿営地で、ここは夏の休日ともなる
 と行楽客が押し寄せ、バーベキューやお弁当を広げるなどして楽しんでいた所だった。
・八甲田山は山スキーで人気があり、シーズンともなると多くのスキーヤーがスノーボー
 ダーが、日本のみならず海外からも訪れる。交通の番がよく気軽に行けるのだが、荒れ
 ると数メートル先が全く見えなくなる。   
・明治の陸軍と自衛隊とは根本的にあまり変わらない。将校、下士および兵卒の地位・役
 割、指揮・命令、教育訓練、内営生活、慣例、習性等が面白いほど同じだった。そのよ
 うなことから将兵のものの考え方や、言動の意味するものがおよそ理解できた。特に虚
 偽はわかりやしく、真実が浮かび上げってくるのだった。

遭難前史
・青森県に最初に軍隊が設置されたのは明治4年(1871年)のことだった。東北鎮台
 (仙台)の第1分営が弘前に置かれた。旧津軽藩士百名あまりから編成されたこの部隊
 を「20番大隊」と称した。のちの第五聯隊である。五聯隊となってからの初陣は明治
 10年の西南の役で、熊本、鹿児島の各地を転戦し凱旋した。その後の出征は日清戦争
 で、明治28年となる。
・三国干渉後の明治29年、陸軍団隊配備表および陸軍管区表の改正によって師団が6個
 から12個に増設された。師団の編制は約1万人なので約6万人の増強となる。その内
 の第8師団が弘前に設置されることになった。8師団隷下の基幹となる歩兵聯隊は、第
 五聯隊(青森)、第三十一聯隊(弘前)、第十七連隊(秋田)、第三十二聯隊(山形)
 の4個である。
・旅団は、五聯隊おとび三十一聯隊からなる第4旅団(弘前)と十七連隊及び三十二聯隊
 からなる16旅団(秋田)である。ただ、旅団は運用上の編成で、旅団司令部は旅団長
 以下5名で参謀はいない。平時における活躍の場面は、師団機動演習での旅団対抗演習、
 陸軍特別大演習、他に連隊対抗演習の統裁官ぐらいで、普段は必要のないものだった。
・改編前の五聯隊下士卒は弘前三十一聯隊へ随時移転となり、その徴集は青森県、岩手県
 の二戸郡、南九戸郡、北九戸郡からなされた。改編後、五聯隊の徴集は岩手県(二戸郡、
 南九戸郡及び北九戸郡を除く)、宮城県の登米郡と本吉郡と栗原郡からなされる。 
・改正が完了すると、五聯隊の下士卒は岩手県出身者が多数を占め、残りは宮城県出身者
 がほとんどとなる。青森県出身者が多数だった以前の五聯隊とは違った伝統・文化が形
 成されていく。それは一番古く伝統を持った五聯隊の看板を掲げているが、中身は新品
 の看板なのだった。
・自衛隊で「新編部隊には行くな」と、何度か聞いたことがある。新編部隊は歴史と伝統
 がないので帰属意識が低く、まとまりがないので、業務が円滑に進まない。また、一般
 に規律、士気が低く、事故が起こりやすいというのが理由だった。それは旧軍からずっ
 と言われてきたことなのだろう。
・三十一聯隊は元五聯隊の下士卒が多数を占め、その伝統・文化が継承される。つまり、
 三十一聯隊の中身は五聯隊なのである。そして、下士卒のほとんどが青森県人からなる
 三十一聯隊は、郷土部隊として青森県民に親しまれていくことになる。
・ただ、明治40年の聯隊区の改編で、五聯隊の徴兵管区が青森市、下北郡、上北郡、三
 戸郡、東津軽郡、岩手県の九戸郡、下閉伊郡、二戸郡と新設の青森連隊区となり、
 三十一聯隊の徴兵管区が盛岡市、上閉伊郡、気仙郡、岩手郡、東磐井郡、西磐井郡、
 胆沢郡、紫波郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、の盛岡連隊区となる。それによって両聯隊
 の兵士は逆転し、五聯隊は青森県出身者が多数となり、三十一聯隊は岩手県出身者の部
 隊となってしまうのだった。
・考えてみるとおかしなことに気づく。8師団は青森、岩手、秋田、山形の4県を管轄し
 ている。徴兵・召集の業務を実施する聯隊区は各県にあるが、師団の基幹部隊となる4
 個歩兵連隊は岩手県を除く3個の県に配置された。
・一説によれば、戊辰戦争で官軍に反抗した南部藩の地だった岩手県が、新政府から冷遇
 されたともいわれている。もし青森県に2個の歩兵聯隊がなかったら、つまり岩手県に
 歩兵聯隊が置かれていたら遭難事故は起こらなかったと考えらえることから、この軍備
 の新編・改編が遭難事故の遠因であったともいえよう。
・三国干渉以降、日本はロシアを仮想敵として軍備拡張を進め、軍は戦闘力の向上を図っ
 た。八師団の地位・役割として、積雪地における戦術行動の研究は当然としてあった。
 まさか雪の中では戦えないと言えるはずもない。 
・明治三十一年以上の五聯隊と三十一聯隊は雪中訓練を活発に実施していた。師団は着々
 と積雪地の戦闘能力向上に努めていたのだった。
・ちなみに、宿営法には民家に宿る舎営、舎営すべき民家が不足のときは残りが露営とな
 る村落露営、露天の宿る露営の三つがある。雪中での露営は一番厳しい状況下での宿営
 となる。 
・明治33年の2月に五聯二大隊は雪中露営を実施した。この演習は接敵下で実施され、
 兵士は雪壕の中で立ったまま朝を迎えている。当時の雪中露営は貧弱だった。やってい
 たことといえば、雪を掘りその壕の中で立ったまま休むことぐらいなのだ。もし準備で
 きたとしても藁と毛布ぐらいで、横になって仮眠することはとてもできない。
・五聯隊と三十一聯隊の雪中行軍は、これまで舎営が一般的だった。その理由は宿泊に必
 要な食糧、燃料、炊さん器具等を携行する必要がなかったからである。というよりは雪
 中において露営する能力がほとんどなかったと言った方が正しい。1個中隊が雪中に1
 泊する場合、露営に必要な物品は800キロほどになり、それを自分たちで運ばなけれ
 ばならなかったのである。 
・日清戦争で日本陸軍は真冬の朝鮮、満州、遼東半島、山東半島に侵攻したが、厳しい寒
 さで露営は苦労したようだ。雪が積もっていたが、敷く藁はなく、暖を取る薪もないこ
 とがあった。また、宿営に必要な荷物が近くになかったりした。陸軍にとって、雪中露
 営は早急に解決しなければならない切迫した問題だったに違いない。
・明治34年に五聯隊3大隊も雪中露営を実施していた。五聯隊はこの頃からすでに師団
 の命題に備えて訓練をしていたのである。だが、計画的な練成や研究が実施されていな
 いこと、聯隊内の横の連携がなかったことが34年の演習と遭難事故から判明する。
・日露関係の悪化が進み、軍部の対露戦のため戦闘力の向上と実践的訓練を推し進めた。
 そのようなときに実施された岩木山麓雪中行軍が師団長に評価された。その結果、前年
 までは国道や県道などの人馬往来する道を行軍していたが、35年は人馬往来しない深
 雪で、道路のわからない所で訓練しなければならなくなったのである。それで各聯隊は
 人里離れた山奥に訓練場所を求めたのだった。   
・そのきっかけとなった明治34年の岩木山麓雪中行軍は、三十一聯隊の福島大尉が計画
 したもので、下士候補生86名に対して行われた。第1部隊は当初岩木山麓に旧街道と
 いわれた東回りで鰺ヶ沢い前出し、爾後、青森に進出。第2部隊は岩木山を西回りで鰺
 ヶ沢に進出した。東回りは岩木山の裾野を進む比較的なだらかな経路である。西回りは
 麓の常磐野まで山道を登り、その後起伏のある山岳路を下る経路だった。険しい経路を
 進む第2部隊は福島大尉が率い、下士候補生16名、見習士官1名、看護手1名で編成
 された。西回りの山岳路は予想通り困難を極めた。
・常磐野から5キロあまり先の若松から松代村までの数キロは、深い谷が入り組み難所だ
 った。松代村からは傾斜が緩くなり、鰺ヶ沢までの経路は中村川に沿って延びていた。
 第2部隊は松代村民の助けがなかれば相当危険な状況だった。
・福島大尉が訓練した当時の天気は一昼夜猛吹雪で、第2部隊は急峻で深雪の経路を徒歩
 で行軍している。当時の貧弱な被服・装備を考えると、危険極まりない無謀な計画だっ
 たと言わざるを得ない。
・翌年の田代越えのときにも福島大尉は10名ほど凍傷患者を出していることからすると、
 岩木山の行軍でも凍傷患者を出していたのは間違いないだろう。自衛隊の訓練において
 凍傷が発生したら事故となり、問題となって部隊はしばらく揺れることになる。それは
 凍傷が個人の管理ばかりでなく、指揮官あるいは教官の指導と管理が不十分なことに起
 因するからだ。  
・福島大尉の訓練を受けた下士候補生は、短期の下士と長期の下士の2種類からなる。短
 期下士は徴兵期間3年の最終年に伍長となる。長期下士は任用されてから3年目初日に
 伍長となり、永続勤務が可能だった。
・軍備拡張により下士の補充が困難となり、それを補うため従来の下士制度を改正し、各
 聯隊が下士の養成を実施することになった。特に長期下士は志願者が少なく、部隊にと
 っては虎の子である。精強な下士を育成するために厳しい訓練は行うが、大切に育てる
 のが当たり前のはずだった。   
・福島大尉は聯隊の見習士官、下士候補等の教育を担当する教育委員であるが、彼はあく
 までも三十一聯隊の中隊長であって候補生たちの指揮官ではない。各中隊に配置されて
 いる候補生の管理責任はその所属中隊長にある。福島大尉は教育のために預かった下士
 候補生を危険な目に遭わせ、傷病者を出した責任をどう考えていたのか。翌年も同じよ
 うなことになっているのだから、重くはとらえていなかったようだ。 
・当時は凍傷について軽く考えられていたのかもしれない。下士候補生は自らの道具にし
 か過ぎなかったのだろう。当時、福島大尉は35歳となっていた。陸大に入っていない
 ためエリート街道から外れている。階級が上がったとしても、よくて中佐だろう。非常
 に功名心の強かった福島大尉ができることは実務で目立つしかなかった。そこで目につ
 けたのが雪中における訓練だったのだ。
・そもそも自分の研究のために過酷で危険な訓練を実施するのであれば、自らの中隊を使
 うのが道理である。なぜそうしないのか。中隊の約9割は徴兵された兵卒で、学歴低く
 所作も打てば響くような隊員ばかりではない。一方の下士候補生は将来職業軍人になる
 意思を持ち試験によって選抜された者で、3年間学科と実技の教育を受け進級には試験
 もされた。中隊の兵士と下士候補生とでは、明らかに精神面、学力面及び体力面におい
 て大きな差があった。福島大尉は自分の中隊を見限り、教育委員という立場を利用して
 自らの研究のため、従順で能力の高い候補生を使い、危険にさらしたのだ。
・この年の三十一聯隊における雪中行軍では、福島大尉が率いた行軍隊は従でしかなく、
 主は馬渡大尉指揮の混成中隊だった。この編成は大隊の垣根を取り払い三十一聯隊の全
 中隊から選抜された下士卒が参加し、その総員は将校らを含め220名あまりとなって
 おり、聯隊長の意図が強く入った編成となっている。期間は8日間で、経路は弘前〜黒
 石〜青森〜蟹田〜十三潟〜鰺ヶ沢〜弘前の総距離230キロ余りになる。その間に攻撃
 戦闘山地行軍、氷上通過、夜間行軍等を実施している。それまでの雪中行軍に比べて期
 間がながく、訓練課目も多い。これからすると、三十一聯隊の雪中における研究は馬渡
 大尉が秀でていたようだ。 
・それに比べたら、福島大尉の岩木山麓越えは下士候補生を主体としたわずか19名が実
 施したもので、無謀な冒険だったが、その困難さははるかに及ばない。だが、師団長は
 この年における雪中行軍の成果として岩木山麓越えを挙げていた。どうも師団長は岩木
 山麓越えを評価していたようで、それが山岳での雪中訓練へと師団が基準を引き上げる
 結果にもなったのだろう。
・福島大尉の頭の中で、青森の象徴的な山塊である八甲田への雪中行軍の大計画が形づく
 られていくのである。福島大尉は調子づいて、更に過酷で危険な雪中行軍を計画するの
 だった。その参考としたのは馬渡大尉の雪中行軍なのである。そしてその実験台となる
 のは、またもや教育期間中の下士候補生なのだ。利用できるのものはとことん利用し、
 用がなくなればこみのように捨てる人間性は、後の田代越えで発揮される。
・三十一聯隊の岩木山麓雪中行軍が行われた翌月の3月、東奥日報に五聯隊にとってその
 威信を失墜するような記事が載った。第五聯隊第3大隊が、一泊行軍として将校以下
 209名が東郡瀧村孫内に赴いて露営したが、炊事用に供する器具等を運搬していった
 が、岩度から孫内までは積雪のため超えることが容易でなく困難を極め、孫内からは村
 民がきて運搬を助けた、との内容の記事である。
・三大隊は進まない橇に苦闘していたのだろう。それにしても200名余りの将兵がいる
 のに一体どうしたのか。橇が雪に埋まり進まなかったのだ。雪の中でもがいている状態
 は、まるで初めて訓練をしたかのような印象を受ける。何度も訓練を重ねていれば、橇
 が埋まれないように圧雪要領を考えただろうし、橇が滑るようにもしただろう。もしか
 したら親切に橇は使えないとなっていたかもしれない。明らかに訓練不足による失態だ
 った。
・聯隊の教育訓練の責任は聯隊長にある。当時の五聯隊長は津川中佐だった。この不名誉
 を津川聯隊長はどう処置したのか。普通ならば、3大隊長に失敗原因とその対策を究明
 させ、再度実施させて聯隊長自ら確認するのが当然だった。しかし津川聯隊長はそのよ
 うなことはやらなかったようだ。
・五聯隊の訓練が低調な一因は、やはり兵卒のほとんどが岩手県や宮城県出身で、青森の
 豪雪になれていないからなのだろう。翌年の年明け早々、そのつけが回ってくる。八甲
 田において2大隊は行李の橇が大幅に遅れ、夜になっても目的地に到着できず、ついに
 遭難してしまった。3大隊の失敗はまさに大事故の予兆だったのだ。津川聯隊長が真剣
 にその職責を果たしていたら、199名もの死者を出さずに済んだのである。
・遭難事故が起きた明治35年における師団内の雪中行軍はどうなっていたのか。三十一
 聯隊は2個部隊の実施となっていたが、一つは教育隊で戦闘部隊(一般部隊)ではない。
 福島大尉が率いた教育隊をわかりやすくいえば、福島大尉が教官、下士候補生学生とな
 る。一般部隊は戦闘力向上のために訓練をし、教育部隊は教育のために訓練をする。
・新聞に載る雪中行軍の編成は1個中隊規模が多く、それもほとんどが大隊の各中隊から
 集成した混成中隊で、200名あまりとなっていた。歩兵聯隊における雪中行軍部隊の
 編成は慣例的にそうなっていたようだ。   
・遭難した五聯隊の部隊編成もそのとおりで、演習中隊長は神成大尉である。もう一方の
 三十一聯隊は福島大尉以下37名で小隊よりも人員が少ない。見習士官と下士候補を教
 育するために編成された隊である。教育隊が三十一聯隊を代表する部隊となるはずもな
く、もあしてや五聯隊の一般部隊とは肩を並べられるはずもなかった。
・1月に雪中行軍が実施されたのは過去1回だけで、八師団が創設される前の明治16年
 1月に五聯隊が行っている。   
・遭難事故の前年における五聯隊と三十一聯隊の雪中行軍実施時期は2月と3月で、特に
 2月下旬に集中していた。1月に雪中行軍が行われない理由には、積雪が少ないこと、
 雪が柔らかく締まっていないので歩きにくいこと、中隊規模の行軍を実施するには練度
 が不十分なことなどがあった。この年は3個歩兵聯隊が1月に雪中行軍を計画している
 ので、師団が背中行軍を1月に実施するよう示していたのは明らかである。
・師団または旅団は五聯隊と三十一聯隊に八甲田で訓練するように指導していたのか。明
 治35年の雪中行軍に対する師団の指針を「人馬の往来しない深い雪を踏んで道路のわ
 からない所を行く」と言っていた小原元伍長が三十一聯隊の八甲田越えを知らないのだ
 から、師団及び旅団長が八甲田での訓練実施を示していないのは間違いない。そもそも
 旅団長は聯隊に訓練の指針を示す立場にない。聯隊に訓練の指針を示すのは師団であり、
 その指針に基づいて聯隊を訓練するのは聯隊長である。両断司令部条例でも聯隊の訓練
 は聯隊長の責任と明示されている。
・春の時点で師団が雪中行軍は八甲田と示していたら、各聯隊長は夏のうちに経路偵察な
 り準備訓練なりをするだろう。冬の八甲田での訓練はどこの部隊もやっていないのだか
 ら、入念な偵察や準備が必要である。
・夏に福島大尉が下士候補生を率いて行軍をしている。行進経路は弘前〜十和田山〜三戸
 と歩いているので、おそらく三本木までは冬の経路と同じだろう。それ以降は野辺地〜
 青森と陸羽街道を北上しているので、田代街道は歩いていない。この行軍は冬の行軍を
 想定したもので、その編成もほとんど同じだったに違いない。岩木山麓雪中行軍、夏の
 行軍と訓練が行われていることに、福島大尉の一貫した研究心と綿密さが表れていた。
・一方の五聯隊は、田代の現地偵察も八甲田での訓練も何もやっていない。また、三十一
 聯隊の混成部隊は来満峠で八甲田に入る予定はなかった。それは師団長が八甲田と来満
 峠をはっきりわけていることからもわかる。ちなみに三十一聯隊は明治32年1月に来
 満峠を越えて三戸に至る道路偵察を実施している。こうしてみると、やはり師団や旅団
 は八甲田で訓練するよう示していなかったのである。   
・三十一聯隊の八甲田越えは福島大尉が7月以降のある時期に決め、そして田代街道を経
 路と決定したのは行軍出発間際だったのである。
・五聯隊の田代行きは聯隊長、二大隊長、神成大尉のいずれかが決めたのである。遭難し
 た五聯隊二大隊の名誉のためにはっきりさせておきたい。五聯隊は師団から示されてい
 た中隊編成で、命題の「雪中露営」を研究した。そのため食糧、炊事具、燃料等を携行
 して雪中露営をしようとしたのである。
・三十一聯隊の教育隊は、福島大尉の計画によって行われた訓練で、食事や宿泊は民家を
 頼った。俗に言われているように、参加者は体力が優れた者や地理に明るい者等特定の
 条件で選抜したわけではないし、軽易に動けるよう少人数の編成としたわけでもない。
 教育を受ける見習士官と下士候補生がそれしかいなかっただけなのである。
・編成、目的、宿泊要領が全く違う二つの部隊を、どうすれば安易に「成功だ、失敗だ」
 と比較・判定できるのだろうか。確かに福島大尉率いる教育隊は田代越えができたが、
 その実体はあまりにもひどく、とても褒められたものではない。

行軍準備
・五聯隊の遭難事故を知る上で重要な文書は、事故直後に陸軍大臣に上申された「第二大
 隊雪中行軍に関する報告」と、陸軍大臣へ師団長が提出した「第五聯隊第2大隊遭難顛
 末書」である。次いで「遭難始末」となる。これらはすべて五聯隊が作成したものだっ
 た。大臣報告は、救出された後藤伍長のみの証言で、遭難状況がよくわからない中、五
 聯隊に残留していた将校らによって早急にまとめられたものである。
・顛末書は倉石大尉以下十数名の生存者がいて、150名ほどの遺体が収容された状況で
 作成された。この顛末書は一部内容を除いて印刷され、今後の訓練に生かすようにと各
 部隊に配布された。 
・遭難始末は顛末書を基とし、事故現場・捜索状況などの写真、生存者の治療経過、家族
 の応接、美談がまとめられた付録等から編纂されている。この遭難始末は遭難の状況や
 原因究明よりも、捜索計画や後方面などに重点が置かれていた。遭難した将兵の遺した
 逸事が編纂中であることを聞き及んだ皇后が、立見師団長に出来上がったら差し出すよ
 うに話されたといわれている。それがこの遭難始末だった。遭難始末も顛末書同様、各
 部隊に配布されている。
・とにかく事故報告は都合の悪いことは隠蔽あるいはねつ造し、ちょっとした成果は誇張
 するのが常である。ご多分に漏れず、これら報告もそうだった。
・陸軍大臣は遭難に関する取調委員を命じ、訓示している。その一つに行動計画の調査で
 あった。「行動計画の当否を審査し責任の帰するところを明らかにする事」陸軍省内に
 も同期や親しい隊員もいるだろうから、その訓示内容は津川聯隊長の耳にも入っていた
 に違いない。津川聯隊長による責任回避の隠蔽工作は呆れるほど行われている。大臣報
 告、顛末書、遭難始末と報告時期が後になるほどそれはひどくなった。あえていうなら
 ば、津川聯隊長によって遭難事故の真実が消されてしまったのである。
・津川聯隊長は、これらの報告のなかで、田代越えは戦略的に重要な道で夏には数回試み
 たとしていたが、小原元伍長は八甲田で訓練したことはないと証言している。小原元伍
 長は明治32年12月に五聯隊へ入隊しているので、少なくとも事故の2年前から田代
 越えの訓練は実施していないことになる。
・対露戦略を考えた場合、日本海側と津軽海峡に比べたら太平洋側に抜ける経路は重要度
 は落ちる。それを裏付けるのが、明治33年に五聯隊が作成した田名部近傍路上測図で
 ある。この地図は簡易測量で作成されたもので、野辺地から大湊・大畑までの経路と付
 近の地物が等高線や記号等で表されていた。明治32年には大湊に海軍の水雷団を設置
 するための用地買収が行われ、翌年には造成工事が始まっている。この時期に路上測図
 が作成されたということは、何かあったら五聯隊は下北半島に向かうということなのだ。
・遭難始末で五聯隊が最重要だとした田代街道の路上測図がないことは、遭難事故当時に
 五聯隊自身が認めている。田代街道での訓練はしばらく実施していないし、実施する予
 定もなかったので路上測図も作らなかったのだろう。 
・山口少佐は東京府出身の士族で45歳になる。遭難事故の前年となる明治34年2月に
 山形三十二聯隊から五聯隊へ二大隊長として着任した。二大隊長は聯隊長から教育委員
 主座(委員長)を命じられていたので、見習士官や下士候補生などの教育も担当しなけ
 ればならなかった。
・神成大尉は秋田県出身の平民で33歳だった。五聯隊の所属は2等軍曹の明治21年5
 月からで、台湾征討時の台湾守備歩兵第2聯隊に1年半ほど所属した以外はずっと5聯
 隊である。五聯隊では一番の古参だっただろう。陸軍教導団出身でありながら明治28
 年に歩兵少尉、明治34年5月に大尉へ昇任し五中隊長となった。神成大尉はその在籍
 の長さから、田代街道の行軍を経験している可能性が高かった。
・神成大尉は遭難事故前に予行行軍をしているが、このときには田代までは進んでいない。
 大臣報告による予行行軍時に得た田代に関する情報から、これが作文でなければ、演習
 部隊は誰も田代を知らないことを意味し、作文だとしたら、残っていた五聯隊の将校ら
 は誰も田代を知らないことを意味する。いずれにしても、その程度の情報で冬山に挑ん
 だとしたら、無謀だったと言わざるを得ない。
・二大隊は地形を知らず山に入ってしまったのだ。五聯隊は改編前のそれとは全く違って
 いる。人員数の調整で盛岡連隊区以外の下士卒が若干いるものの、下士卒のほとんどは
 岩手県と宮城県出身者となっている。
・大臣報告や顛末書では行軍の目的地を単に田代としているが、明確にすると、それは田
 代新湯のことである。冬に人が住んでいたのは田代新湯である。何よりも経路上田代新
 湯は、田代元湯と違い駒込川を渡る必要がなかった。遭難前に田代新湯と田代元湯を区
 別してい認識していたかという点についてはかなり疑わしい。また、たとえ神成大尉や
 古参者が田代街道の行軍経験があったとしても、田代新湯に街道から大きく外れた渓谷
 にあるので、その近くにさえ行くこともなかったはずである。遭難地付近の地図はない、
 地形を詳しく知る隊員はいない、それが五聯隊の実態だった。
・3つの文書に記載された行軍準備に関する内容を簡単にいうと、計画は周到で無理なく、
 防寒対策や食料も十分、予行も実施して問題がなかったとなる。だが、一つ一つ調べて
 いくと食糧以外はことごとく虚偽であることがわかる。ずさんな計画、いい加減な予行、
 不十分な準備に愕然としてしまう。
・神成大尉の直近の部下だった中隊付の伊藤中尉は、山形県出身の平民で神成大尉より3
 歳年上の36歳だった。彼の証言から、雪中行軍計画の作成が始まったのは12月頃と
 なる。五聯隊は師団から雪中露営の命題が与えられ、その担当は実施時期からみて2大
 隊と判断できた。師団からの命題であるにしては、随分とその準備にのんびりしている。
・いつから始めたかは不明だが、何度も会議を開いて念入りに計画されていたようだ。し
 かし、田代の現地偵察をしないで計画が進むのは不思議である。教育訓練の計画作成に
 あたり、最初にやることは実施場所の確認である。普段から何度となく訓練している場
 所なら省略もできただろうが、少なくとも2年間は八甲田で全く訓練をやっていないと
 いう状況で、現地偵察もやらずにまともな計画ができるはずもなかった。しかも冬は全
 く未知なのだ。それから判断すると、当初作成された計画は、田代でなかったのではと
 考えられた。   
・大臣報告は「大隊長の採りたる雪中行軍計画」という表題から始まるのだが、ここから
 ずでにおかしいのだ。今回の訓練は中隊訓練であって神成大尉が計画を作成している。
 大隊長は神成大尉の計画を指導する立場であって、自らが指揮官として計画し訓練する
 わけではない。五聯隊は、この遭難事故となった訓練の責任者を大隊長である山口少佐
 とするために、そのような表題であるとしたのだろう。 
・それにしても目的を見ただけで、五聯隊が田代街道を全く理解していないことがわかる。
 五聯隊の屯営あら田代までは22キロ、三本木(現十和田市)までは57キロある。田
 代はその工程の半分に満たない。田代以降の山中を迷わず進めるかわからないし、田代
 から9キロ先の大中台南側は崖で雪崩の危険もあった。田代に行くだけでは三本木進出
 の可否は判断できるはずもないのだ。
・神成大尉の計画は、未完成かと思うほど必要なことが書かれていなかった。足りない分
 は腹案として持っていたとしても、不自然で足りな過ぎた。
・予行行軍は1月18日に実施したとなっていたが、この予行行軍がとにかくおかしかっ
 た。予行行軍2日前の16日は軍旗祝典が行われている。歩兵第五聯隊の軍旗が親授さ
 れたのは明治12年1月16日のことで、毎年この時期に記念している。五聯隊は新年
 早々から軍旗祝典のため、会場設置、飾り付け、式典及び余興などの準備に忙しかった。
 当日は聯隊の祝日となり、兵士の家族も自由に面会することができた。また屯営は一般
 市民にも開放され賑わった。来賓の中には盛岡市長、盛岡市議会議員らがいた。五聯隊
 の下士卒は岩手県出身者が多数を占めており、その関係でわざわざ岩手から来ていたの
 である。つまり五聯隊は岩手県の部隊と認知されていたのだった。これらの来賓者らに
 してみれば、この部隊が岩手県に設置されていたらわざわざ青森くんだりまで来ること
 もなかったという思いがあっただろう。徴兵された隊員の家族らにしても青森は遠かっ
 たにちがいない。
・軍旗祝典が無事終わり、当日に撤収を始めていただろうが、翌17日も撤収に時間がと
 られたはずである。こんな慌ただしい時期に予行行軍を設定することが異状だった。そ
 の上18日は土曜日で、通常であれば午後から課業がなく、物品の清掃等の週末点検が
 行われる。昼食も一週間で一番のごちそうだった。努めて土曜日の終日訓練は避けるは
 ずである。
・事前に訓練が行われたのは確かだったが、実施時期がはっきりしない。本行軍の一カ月
 前となると12月23日である。五聯隊が過去12月に雪中行軍をしたという記録はな
 い。一般に、青森市の12月は積雪が少なく雪中行軍の実施時期としては不適だった。
 実際に明治34年の12月21日の積雪は17センチである。日当たりのいい所や人通
 りの多いところは地面が出ていて、橇など引けなかっただろう。  
・終日の訓練で田代まで行って変えることなど無理なのだ、神成大尉は途中の小峠あるい
 は火打山まで行こうとしたのだろう。吹雪くこともなく田茂木野まで順調に進んだので、
 神成大尉はもう充分として前進を途中でやめて帰隊したのだった。
・津川聯隊長は、事故前にしっかり訓練したと陸軍上層部に訴えたかったのだろう。田茂
 木野までの偵察を兼ねた予備訓練を予行行軍とし、距離が短ぎるので小峠まで行ったよ
 うにしたのだ。これらの作文は五聯隊の将校らによるもので、それを命じたのは津川聯
 隊長なのである。津川にしたら聯隊長としての指導力が問われる心配があったのだ。
・大臣報告に行軍決定までの思考過程とでもいうべき「大隊長判断」が書かれている。し
 かし、山口少佐が不明なのに、その判断が記述されていることに違和感は残る。青森に
 前年着任し、田代街道を知らない山口大隊長が何を判断できたのか。田代まで行けば後
 は容易だというのは全く根拠のないデタラメで、聯隊の将校らによる作文でしかない。
・注目すべきは、予行行軍の結果から本行軍を実施すると決めていることである。いくら
 大隊長が23日に一泊の雪中行軍をやろうと思っても、聯隊長の承認がなければできる
 はずもない。予行を実施して問題がないからすぐに本番、というほど部隊は軽くない。
 これらは二大隊の雪中行軍に全く計画性がなかった証左でもある。つまりは年が明けて
 から急に計画されたということになる。
・要するにこの雪中行軍は二大隊の発案ではなく、津川聯隊長の一方的な命令によるもの
 だったのである。津川聯隊長が田代への行軍を命じた原因は、ライバル三十一聯隊にあ
 った。
・軍旗祝典の記事が載ったその日の新聞に、三十一聯隊の雪中行軍に関する記事もあった
 のだ。それは第三十一聯隊が碇ヶ関方面より十和田湖を経て三本木に出て青森を経由し
 て帰隊する計画をしているという内容であった。三本木から青森へ抜ける経路は田代街
 道である。五聯隊も三十一聯隊も未だにやったことがない冬季の田代越えを三十一聯隊
 は実施するというのだ。  
・津川聯隊長はこの新聞記事をに愕然としたはずである。五聯隊の裏山というべき八甲田
 で、三十一聯隊は五聯隊よりも先に田代越えをやろうとしているのだから当然だった。  
 そうなれば津川聯隊長の面目はまるつぶれである。何としても三十一聯隊より先に五聯
 隊が田代越えをしなければならないと津川聯隊長は躍起になったはずだ。県内に2個の
 歩兵聯隊があったので、その対抗意識は相当強かった。はっきり言えばお互いが平時の
 敵だったのだ。
・二大隊の準備が不十分なのは明らかだった。それは津川聯隊長の命令が二大隊に準備の
 余裕を与えない急な命令だったからである。 
・ところで、津川聯隊長は田代越えではなく田代一泊としたのはどういうわけだったのか。
 田代越えをして三本木に至り青森に帰営するには少なくとも3日はかかるので、師団長
 決裁が必要になる。これから計画を作ってとなると、田代越えは三十一聯隊の後になっ
 てしまう可能性が高い。それにとにかく三十一聯隊よりも早く青森に帰る必要があった
 ことから、田代一泊行軍という選択肢しかなかったのだろう。
・山口大隊長から「23日田代1泊行軍」を伝えられた神成大尉は、早急に現地偵察をし
 なければと判断し、本来は行軍など設定するはずもない軍旗祝典の翌々日の土曜日に練
 成を兼ねた事前偵察を実施したのである。
・編成における問題は、やはり山口少佐の参加である。演習中隊長の神成大尉にとって、
 直属の上司が同行するのは、検閲を受けているのと同じでとてもやりづらい。隊員にと
 っても演習上の中隊長のほかに、編制上の大隊長と中隊長が同行するのだから複雑であ
 る。また、演習中隊は大隊の各中隊による混成となっているので、いまひとつ団結に欠
 ける。この特異な編成が指揮系統の混乱を招くことになった。
・そもそも集成された中隊の訓練に、なぜ山口少佐が参加することになったのか。山口少
 佐がこの演習に参加した大きな理由は、教育委員主座として見習士官と下士候補生を教
 育するためだったのだ。それに下士上等兵教育委員の興津大尉もいた。この演習の特色
 として大隊所属隊員の編成のほかに見習士官と下士候補生の教育という目的があったの
 である。三十一聯隊は教育編成のみで訓練をしていたが、五聯隊は一般部隊の訓練編成
 に教育隊を淹れて訓練をしたのだった。
・山口少佐はこの演習において見習士官に小隊長を体験させようとしていた。そのために
 はある時期に演習中隊の状況をいったん止めて、小隊長を見習士官と交代させなければ
 ならない。演習中隊の指揮官は神成大尉だが、状況を止めて小隊長の交代を命じたりす
 るの見習士官を指揮している山口少佐である。実質的には山口少佐が演習中隊を統裁す
 ることになる。つまり山口少佐は、この演習において統裁官となっていたのである。山
 口少佐が統裁官であるならば、この演習の責任者は山口少佐にほかならない。興津大尉
 以下9名は、山口少佐を補佐する統裁部員と被教育者となる。  
・伊藤元中尉は、山口少佐を厳しく批判した。計画者は神成大尉で指揮官である。山口少
 佐はこの行軍に随ったくらいのもので、位は上級であったが指揮権はなかったのである。
・統裁官は役職交代時や悪天候時などに状況を一時中止して演習部隊を統制したりするが、
 それはのべつまくなしに命令や指示をするものではなく、統裁上必要最小限でなければ
 ならない。演習部隊の指揮官はあくまでも神成大尉なのである。
・しかし、山口少佐は本演習における自分の立場をわきまえていなかった。山口少佐は演
 習部隊が大隊内の各中隊から集成されていることから、大隊長として行動したのだった。
 だから、演習中隊の各小隊を呼称する際に、差し出した中隊名を呼称していたのである。
・師団の命題は雪中露営であったが、神成大尉は村落露営としていた。それは二大隊が命
 る焦点を雪中露営に必要な大行李の運搬としていたのである。露営地となる田代新湯は
 浴場がひとつで茅の屋根、囲いは十分にされていない粗末なものだった。他に一組の夫
 婦が住む母屋と夏季浴客に供する棟が一つあったが、冬は雪で客棟が埋没していた。
・おそらく神成大尉は、山口少佐伊賀の編成外を舎営、演習中隊は露営と考えていたので
 あろう。ただ、舎営といっても事前に田代新湯に住む夫婦と調整ができているはずもな
 かった。また、他の将兵が露営は雪濠に立ったまま休むだけだったのである。
・五聯隊の隊員は靴下あるいは足袋に直接わら靴を履いていたのである。このやり方は、
 舎営のように夜囲炉裏でわら靴や靴下などを乾燥できる場合はいいが、そうでないとき
 のわら靴は濡れたままとなる。雪中露営のような野外では、短靴(革靴)の上にわら靴
 を履くとか、替えのわら靴、靴下を携行するなどの工夫が必要だった。
・三十一聯隊は革靴の上にわら靴を履き、状況に応じて革靴で行進もしていた。また、当
 時の写真から背のうの両側に替えのわら靴を縛着していたことも確認できる。三十一聯
 隊と五聯隊とでは経験の違いが歴然としていた。
・倉石大尉はたった一人ゴムの長靴を履いていた。倉石大尉が履いていたゴム靴はオーバ
 ーシューズだったようだ。着用被服調査表うによると、倉石大尉は毛糸靴下、短靴、ゴ
 ム靴となっている。つまり革靴を履いてその上にゴム靴を履いていたのである。着用被
 服調査表に短靴があるのは倉石大尉ただ一人だった。また、事故後の回収品に短靴がな
 かったことから、倉石大尉以外だれも短靴を履くなり携行するなりしていなかったこと
 がわかる。    
・倉石大尉と一緒に救助された伊藤中尉は、支給品より厚い私物のわら靴を履いて、その
 うえにござのような脚絆(ハバキ)を巻いていた。それはわら靴に雪が入るのを防止し
 た。結果として倉石大尉と伊藤中尉は、足の指が凍傷になっただけで済んでいる。
・倉石大尉は相当用心深かった。演習参加者で一番防寒対策がなされていた。それが後の
 生還にもつながったのだろう。以外だったのは神成大尉の携行品に地図があったことで
 ある。しかも驚くことに25万分の1である。1キロが図上ではたった4ミリとなる地
 図が、八甲田雪中行軍に役立つはずもない。
・行軍に役立たない地図を本当に携行していたのか疑問である。陸軍大臣命で五聯隊に派
 遣されていた田村少佐が、五聯隊に地図を求めたが、なかった事実もあった。神成大尉
 が地図を携行したとする顛末書は、地図不携帯の批判報道からしばらく後の報告であり、
 地図の携行はねつ造の可能性が高い。
・田代に出発する将校の士気は高かったとはいえない。倉石大尉は積極的な参加ではなか
 ったようだ。大尉はそのころ肝臓を患って粥を食べていた。はじめ雪中行軍に参加する
 予定ではなかったが、行軍隊の送別会に列席したところ山口大隊長から参加するよう誘
 われて加わった。    
・山口大隊長はどうして病人の倉石大尉を誘ったのか。やはり士族で士官学校出の若い中
 隊長がほしかったからなのだろう。平民で士官学校も出ていない神成大尉を信用してい
 なかったのだ。信用できない神成大尉を演習中隊長にしたのは、神成大尉以外に田代街
 道を歩いた経験のある中隊長がいなかったからなのだろう。   
・もしからすると、この演習において一番の問題は族籍にあったのかもしれない。この編
 成の将校で平民は神成大尉と伊藤中尉の二人だけで、華族の水野中尉を除く山口少佐以
 下はみな士族である。将校といえども士族と平民とでは厳然と身分格差があったらしい。
 それに薩長閥がまだはびこっていた時代でもある。
・どうも山口少佐と倉石大尉は神成大尉を軽んじていたようだったし、神成大尉は山口少
 佐に逆らわず自ら意見を述べることもなかったようだった。結果として、それが事態を
 悪化させてしまうことになる。
・ところで、五聯隊将校団はこの行軍の壮行会を行っている。出発前日、長谷川特務曹長
 は友人と夜更けまで酒を飲んでいた。同じく前夜、中野中尉と同期6名が一緒に酒を飲
 んでいる。将校団の宴会後、気の合う仲間同士がなじみの店で飲みなおしことは多々あ
 る。もしかすると将校団の宴会は出発前夜に行われていたのかもしれない。だとしたら、
 初めて冬の八甲田に挑むにしては、あまりにも楽観的で緊張感が欠けていたといわざる
 を得ない。  

行軍開始
・各小隊の輸送員が炊事掛軍曹の掌握下に入った5時30分頃は、また暗く作業には明か
 りが必要だった。東の空が白み始めた5時50分頃には演習部隊が五中隊舎前におおか
 た集合し、各小隊長は隊員を掌握していた。神成大尉は部隊前方の中央に直立している。
 山口少佐らの編成外は、演習部隊から少し間をおいて最右翼に並んでいる。
・6時、起床ラッパが鳴りその吹奏が終わると各小隊長は順次、神成隊長に敬礼をして小
 隊の編成完結を報告した。中隊の編成完結を確認した神成中隊長は命課する。「要演習
 中隊の指揮を神成大尉が執る」続けて訓示し行進命令を下達した。その後、山口大隊長、
 聯隊長と訓示が続き、最後に医官から衛生上の注意が達せられた。もしかすると聯隊長
 訓示は最後だったかもしれない。厳寒のなか、山口大隊長と聯隊長の長々とした話は、
 隊員の士気を一気に低下させたに違いない。
・6時50分営門通過、行進順序は一小隊、神成大尉、二小隊、三小隊、四小隊、特別小
 隊、山口少佐以下の編成外、行李の順となる。営門を出て目前の道を左に進んだ。幸畑
 まで3.2キロ、人馬の往来があり多少圧雪されている。また高低差もほとんどなく平
 たんな道だった。  
・1月下旬は雪が降りやすく、八甲田山は雪雲に包まれることが多い。この日もそうだっ
 たに違いない。荒涼たる白銀の平野を黙々と演習部隊は進んだのである。
・7月40分頃、演習部隊は幸畑村に到着、約10分間の休憩をとった。休憩といっても
 ただ休んではいられない。大小便を済ませ、服装、装備などの不具合を正さなければな
 らない。
・幸畑より先は積雪が深いので先頭小隊はカンジキを履き、3人2人3人2人の縦列を以
 って行使し、以って後続部隊及び大行李の道を踏開きつつ行進した」と伊藤元中尉は証
 言している。 
・カンジキが40足あって小隊がだいたい40名なので、ラッセルは40名と思いがちで
 ある。けれども、各小隊は兵卒15人を橇の輸送員に差し出していたので、実際のラッ
 セル要因は25名ほどになる。
・橇の輸送員はその時すでに汗びっしょりとなっていた。毛布で作られた防寒外とうは暑
 くて耐えられず、薄いが普通外とうに着替えていた。ここまで3.2キロ、田代までは
 残り18キロでほとんど登りとなる。3.4キロ先の田茂木野までは標高が150メー
 トル高くなる。
・休憩後、前進を開始して500メートルほど進むと右手に陸軍墓地が見える。皮肉にも、
 この行進に参加した将兵のほとんどとなる199名の埋葬式が、翌年の7月23日にこ
 の墓地で挙行されることになる。
・新聞によると、田茂木野で事件が発生している。演習部隊に対して農民らが行軍をやめ
 るよう、また案内人をつけるよう諫言したが、演習部隊は農民らを叱りつけて田代に突
 き進んだとしていた。
・考えてみると、当時、天皇の軍隊を止めて物申す農民がいただろうか。二百名あまりの
 将兵が行軍しているさまは威圧があり、高い地位にある者か、よほど度胸のある者でな
 ければ呼び止めることなどできるはずもない。
・また三十一聯隊の道案内人は八甲田山中でのできごとを福島大尉に口止めされ、28年
 間、口外することはなかった。そのような風土気質にあった農民らが、天皇の軍隊に対
 して行軍をやめろと言えるはずもない。それに農民らがどうして二大隊に道案内が必要
 だと判断したのか、おかしな話である。
・ほとんどの新聞は、道案内を雇わなかった五聯隊と道案内を雇った三十一聯隊と比べ、
 五聯隊の不備を批判した。しかしながら、よく考えてみると、道案内人に頼る訓練はま
 ともな軍隊の訓練といえるだろうか。師団は人馬往来しない道路のわからない所で訓練
 するように指針を示していた。果たして道案内人を雇うことは師団に指針に忠実なのだ
 ろうか。部隊の命運が道案内人次第となれば、それは訓練ではなくして冒険になってし
 まう。三十一聯隊の福島大尉はまさいく冒険をしたのである。
・行軍が順調にいかない理由はいろいろあるが、最大の原因は橇にあった。行軍に使用さ
 れた橇は、棺が載るくらいの荷台と高さ30センチほどの脚部からなる。二つに分かれ
 た足の下にはスキーのような滑走版があった。この橇は雪の上を滑走版が浮いた状態が
 一番滑る。つまり雪がある程度固まっていないと滑らないのだ。深雪は滑走版と脚部を
 飲み込んでしまう。そうなると雪が抵抗となり、滑りは悪くなる。さらに雪が深いと脚
 上部の荷台や荷物までが雪の抵抗を受ける。極端に言うと、荷台の裏が滑走面になって
 しまう。そうなったら滑るはずがない。
・橇が用をなさなかった端的な事例に、事故現場から田茂木野までの遺体搬送に橇を使っ
 ていないことがある。山の下りで使えない橇が、上りで使えるはずがないのではないか。
 訓練を何度もやっていれば、装備された橇が深雪では使い物にならないことはすぐにわ
 かったはずである。前年の三大隊もそれで失敗しているのだ。新聞にまで載ったその失
 敗を放置したのは津川聯隊長なのだ。橇が使えないとわかれば、最初から行李を背負う
 などして行軍しただろう。滑らない橇は、兵卒の体力を奪うものの遅々として進まない。
 二大隊が遭難する大きな要因の一つはこの橇だったのである。
・伊藤元中尉は、大行李が橇道がつかないので予定の半分も進まず、小峠に至った時には
 既に午前11時になっていたので、橇の着するのを待って昼食にした、と話している。 
 橇は一列縦隊になって前進しているので行進長径が長くなる。先頭の橇が小峠に着いた
 としても、1台当たり10メートル間隔があいていたら、最後尾までは140メートル
 離れることになる。極端なことを言えば小峠に先頭の橇が到着したとしても、最後尾は
 まだ小峠山麓に到着していないかもしれないのだ。  
・伊藤元中尉の証言では、昼食をとらんとしたが、その時既に御飯は凍っていた、氷を食
 するようであったが、捨てずに食べた、とある。小原元伍長の証言でも、研究のため中
 隊の曹長がおにぎりを袋に入れていったんですね、石のようになって全然歯が立たない
 んですね、とある。 
・いつもの雪中訓練と同じように食糧を携行したが、番頭の御飯も間食の餅も凍っていて、
 ほとんど食べることができなかったのである。
・青森市の気温は10時がマイナス4.7度、14時がマイナス5.2度だった。標高差
 から小峠の気温はマイナス7〜9度と予想された。この頃はまだ視界がなくなるほどの
 吹雪ではなかったが、きっと指先が痛くなるほどの寒さだったに違いない。兵卒は深雪
 のラッセル、または橇のけん引で疲労の色を濃くしていた。休止間は汗でぬれた下着が
 体を冷やした。飯や餅は凍っていて食べられず腹を満たすことができなかった。弱った
 兵卒に吹雪が追い打ちをかけた。午後から午前以上に力が出るはずもない。
・小峠において気象の悪化から永井軍医より帰隊の意見具申があったとしている。大隊長
 は将校を集めて意見を聞いたがまとまらず、下士官の血気と「田代に行って温泉にでも
 入りゆっくりやろう」という安易の空気に、行軍続行の決心をしてしまった。
・永井軍医は三大隊の所属である。三大隊は前年、孫内の坂を登れず村民の助力を受ける
 大失態を演じている。その行軍に永井軍医は参加し、橇が雪に埋まり全く進まない実態
 を見ているのだ。その経験から永井軍医がこのまま田代へ進むのは無理だと判断し、意
 見具申をした可能性は高い。
・将校らのなかで演習を中止して帰隊しようという意見があったことは間違いない。最終
 的には統裁官山口少佐が判断すべきことで、山口少佐は引き続き田代に前進させたのだ
 った。ここで疑問が生じるかもしれない。演習を中止する判断は、演習中隊長の神成大
 尉にあるのではないかと。山口少佐がいなければ、当然神成大尉の判断となる。だが、
 本演習では、神成大尉に演習を命じた山口少佐がすぐそばにいるのである。それに山口
 少佐は全般を統制する統裁官なのだ。したがって、神成大尉は演習中止の意見具申はで
 きるが、命じる立場になかったのである。   
・このときの行動指針として、予定通り田代新湯に前進、もしくは予定を中止して帰隊が
 ある。また、馬立場では前進をやめて露営という方針もあった。帰隊や馬立場露営を選
 択していれば遭難は避けられたかもしれないが、帰隊は聯隊長の命令を達成できないの
 で、ほぼ選択されない。また、馬立場露露営はまず考えつかないだろうから行動指針に
 は挙がらない。結局、予定どおり田代新湯に前進する以外の行動指針はなかったのであ
 る。
・ただ、方針の決定にあたり忘れていることがある。というよりも考えられていないのだ。
 田代新湯を知る者が誰一人いないということを。田代新湯はまるで峠の茶屋のように著
 明で簡単に見つけられるとでも思っていたのだろう。だが、遠くから見通せるような場
 所にはなかったのである。
・昼食場所は小峠であり、火打山はそれより約2キロ先だった。田代街道の青森側最初の
 著名となる小峠を火打山と言っているのだから、その先の田代など彼らには未知の世界
 だったに違いない。当初この演習を楽観していた将兵の士気は、著しく低下していた。
 吹雪で顔が痛く、予想以上に雪が深い。橇は埋まり進まない、腹は減って力が出ない。
  
・小峠からは大峠から火打山〜大滝平〜賽ノ河原〜按ノ木森〜中ノ森〜馬立場と約6.4
 キロ進んだ。主力の馬立場到着は16時半頃、小峠出発を13時とすると3時間半かか
 ったことになり、時速は約1.8キロだった。
・八甲田は午後から断続的に吹雪となり、17時頃からは猛吹雪となったのである。按ノ
 木森に達していない橇が1時間で馬立場の位置に到着したとすれば、その時間は17時
 半頃となる。
・橇の遅滞を徹底して隠ぺいする理由は、橇の遅れが遭難事故を誘発したと五聯隊もわか
 っていたからだ。
・馬立場から東へ3キロ進むと田代新湯、その手前の鳴沢までは焼0.5キロだった。沢
 には吹き付けられた雪が溜まり、周囲に比べると一段と積雪が多くなる。鳴沢に入った
 橇はそれまで以上の深雪に埋まり、兵士はいくら引いても動かない。
・ずっと気になっていたことに、演習中隊長神成大尉の動向である。伊藤中尉の行進要領
 の意見具申以来、神成大尉の存在が感じられず、その指揮が見えない。
・なぜ演習中隊長が馬立場から先行したのか。この状況で指揮官が中隊から離れたのは適
 切な行動とはいえない。田代新湯への経路は神成大尉以外あてにならなかったという事
 情があったにせよ、見方によっては神成大尉が斥候に成り下がってしまったと捉えかね
 ない。やはり演習部隊の指揮は山口少佐が執っていて、神成大尉は名ばかりの中隊長と
 なっていたようだ。
・目的地の田代新湯まで、あと2キロの位置まで前進した・辺りはすっかり暗く、しかも
 猛吹雪で田代新湯がどの方向にあるのか全くわからない。   
・生存者の証言などを勘案すると、露営地到着時間は18時を過ぎていたのは間違いない。
 露営準備は猛吹雪と暗闇のなかで行われたのだった。ただ行李は到着していないので、
 その本格的準備は行李到着後となる。その頃、神成大尉は先行し、必死になって田代新
 湯を探していた。神成大尉に田代街道の行軍経験があったとしても、街道から大きく外
 れた田代新湯に行くことはなかったはずである。駒込川の渓谷にあった田代新湯は雪に
 埋もれ、初めて訪れる者が道案内人なしで行けるような場所ではなかった。しまも日が
 暮れ、猛吹雪という最悪の状況下では、道案内人すら到着できなかっただろう。実際に
 三十一聯隊の道案内人は田代新湯を見つけることができなかった。
・神成大尉があきらめて中隊に戻ったときには、自分に断りもなく露営を命じた山口少佐
 に多少の怒りはあっただろう。しかし、それ以上に田代新湯を探せなかったことに大き
 な責任を感じていたに違いない。 
・仮設敵のない単純な演習では、明るいうちに部隊を宿営地に到着させて露営準備をする
 ものである。そうしなかったのは、田代新湯に行けばなんとかなると考えていたからだ。
・演習部隊は誰一人として目標の田代新湯がどこにあるのかわからないまま前進していた
 のだがら、当然見つられるはずもなかった。夜になってどうすることもできなくなり、
 露営することになってしまったのである。 
・雪濠の大きさは幅約2メートル、長さ5メートル、深さ2.5メートルとある。およそ
 40名の兵士は身動きができないほど密着した状態で立っていたに違いない。伊藤元中
 尉が1丈(約3メートル)掘っても地面に達しなかったと証言している。遭難始末のよ
 ると、鳴沢付近の積雪は3.6メートルから5メートルほどあったらしい。演習部隊は
 地面まで掘ることなく途中でやめてしまう。
・あれがないこれもないといった準備不足は計画を見れば明らかだった。二大隊はこれま
 でどんな訓練をしてきたのかと首をかしげざるをえない。これは大隊長ばかりの責任で
 はない。各大隊の訓練を管理する立場にあった津川聯隊長は、一体全体どういう指導を
 してきたのだろう。おそらく大隊長任せだったに違いない。そうでなければ、前年の三
 大隊の失態と同じようなことが繰り返されるはずはないのだ。
・小隊が入り雪濠を掘る作業は2時間ぐらいかかったのではないかと思われる。その間作
 業をしていない将兵は、厳寒と猛吹雪にじっと堪えているしかなかった。21時頃まで
 に、橇と荷物を背負った兵卒が露営地に到着した。露営地は馬立場からわずか1キロほ
 どだったが、行李(橇)は3時間半以上かかっている。暗闇、猛吹雪、深雪に埋まった
 橇で輸送員は本当に疲れ果ててしまっていた。
・木炭が配られ、各壕では暖をとろうと雪の上で炭を起こした。雪上でじかに炭を起こす
 など、普通に考えたらダメなことはわかっていたはずである。寒さと疲労がそうさせて
 しまったのかもしれないが、あまりに未熟だった。
・青森測候所の記録によると18時の気温はマイナス8.3度、風速最大5.8メートル
 だった。露営地の気温は、標高差から推定するとマイナス11度〜14度、風も強かっ
 たので体感温度はさらに低くなる。  
・燃火は徐々に積雪を融解し、炊釜の偏傾を来す等、この間の炊事掛の苦心惨胆は実に想
 定外であった。午前1時頃に飯盒に半煮の飯1杯が分配された。酒は炊釜で温めて分配
 されたが異臭を帯びて好酒家でも飲まなかったらしい。雪中露営で重要な採暖と食事が
 とれなかったのは、地面を出さなかったからだ。
・二大隊は田代の積雪が4メートル近くにあることを事前にわかっていながら、雪を掘る
 のを途中で止めてしまったからだ。訓練ができていないのは明らかだった。もしかする
 と二大隊は今回のような大きい雪濠を掘ったことがないのではないか。訓練をしていれ
 ば地面まで雪濠を掘っただろうし、携行する円匙(シャベル)を増やしただろう。二大
 隊の露営はあまりにもお粗末だった。

彷徨する雪中行軍
・夜中になってから急に気温が低下してきたので、山口大隊長は各中隊長及び軍医を集め
 口達した。吹雪と寒さに耐えられなかったのか、山口少佐は突然と行動を起こしたのだ
 った。
・実質的に露営準備が始まったのは、行李が到着して21時過ぎ、炭を起こすのに1時間
 余り費やし、採暖可能になったのが22時過ぎ。生煮えの米が配られたのは1時半。大
 隊長が帰営を決心し、神成大尉が命令下達した時間も1時半。約5時間の混乱は、予期
 通りの露営からはほど遠く、何一つ満足にできていない有様である。田代に向かったら
 今日中に帰るのは困難としているが、田代新湯がどこにあるのかさえわかっていない。
・大隊長の判断により5時出発が即時出発に改められ、神成大尉が行進命令を下達する。
 吹雪で方角がさっぱりわからなくなったとき、山口大隊長はみんなに「聯隊はどの方向
 と思うか」と問うが、応えはばらばらで何の役にもたたなかったという。誰もこの地を
 知らず、帰る方向すらわからないのだから遭難は必然だった。
・暗闇と猛吹雪のなか、帰る方向もわからないまま部隊を動かしたのは致命的だった。山
 口少佐は、山で一番やってはならないことを命じてしまったのである。 
・神成大尉と伊藤中尉が適切な判断をして、露営地に戻ろうとしたが生かされることはな
 かった。山口少佐はまた過ちを犯したのである。隊員の「田代の道を知っている」とい
 う言葉に乗ってしまったのだ。山口大隊長は佐藤特務曹長が田代の道を知っていると話
 したのを軽率に信用し、この雪中行軍の指揮官たる神成大尉に相談せず「然らば案内せ
 よ」と命じて、暗夜田代に向けて行進したが、進路を誤り、駒込川の本流に迷い込み一
 歩も進むことができなくなったのである。
・この日に前進した経路を、連隊の諸記録と伊藤元中尉の証言から考察すると、まず北西
 に進み鳴沢の北側にぶつかり宿営地に引き返したが、宿営地目前で北に向かい駒込川に
 出た。そこから川沿いを下って金掘沢、鳴沢と左回りに進み、さらに鳴沢沿いに沢を登
 り、最後には鳴沢の源に近い場所で停止となる。ここがいわゆる第二露営だった。
・もしかしたら佐藤特務曹長は、田代の温泉を少しは知っていたかもしれない。駒込川の
 本流にぶつかったのだから、あとは川沿いを約1キロ上流に進めば田代元湯、さらに
 0.5キロ進めば田代新湯だった。だが、演習部隊は上流に進まず、逆に下流に進んで
 しまったのである。やはり二大隊に、田代元湯と田代新湯を知る者は誰ひとりいなかっ
 たのである。 
・隊員の士気は極端に低下していた。寒さと飢え、昨日来疲労でかろうじて歩いている。
 橇を引いたり、行李を背負ったりする力はなく、荷物は放棄された。そうしないと動け
 なくなりそのまま斃れてしまうのだった。
・田代に行かず帰営するとした山口少佐の決心は、隊員の言葉一つで覆ってしまった。指
 揮官の判断が兵士の生死を左右するといわれるが、まさにこのことだった。山口少佐は
 適切な状況判断ができなかったのである。とにかくこの寒さから逃れたかったにちがい
 ない。
・伊藤中尉は、到底このまま前進することは凍傷及び死亡者が多数出ると思い、倉石大尉
 と相談して山口少佐にこの状況を報告せんと伝令を出したが一向に通じない。2回3回
 でしたが、通じないから伊藤中尉自身が行くことにした。伊藤中尉は士官学校も出てい
 ないたたき上げだった。族籍は平民だったが、士族の山口少佐へも物おじせず意見を述
 べた。先頭の山口少佐に会い、具に凍傷及び斃れるものの続出することを申し述べ、こ
 のまま継続する場合は死者が出るから、再度露営することを提言したが聞かなかった。
 実は山口大隊長はその時、寒さのため頭脳の明瞭を欠いていたようであった。
・顛末書では、山口少佐は兵が斃れているのはわかっていたが、停止しても風雪防ぐ方法
 なく、退こうとしても再び経路を啓開する体力はない。むしろ前進して凹地を探すのが
 もっともよいと判断して血涙を飲んで前進を継続したと書かれている。しかしそれは作
 文であって詭弁にすぎない。部隊が歩いた経路は、深い沢や小さい沢が複雑に絡み合っ
 た地形にあったので凹地はその気になればどこにでもあった。それがただ帰りたい一心
 で、あてもなく歩き続けたのである。
・演習部隊は軍隊の体をなしていなかった。戦争はいざ知らず、訓練において死者が出て
 いたのに前進を続けているのだ。伊藤元中尉が具申したように、将校が適切に対応して
 いれば死者の続出は防げたはずだ。
・それにしても、演習中隊長の神成大尉は一体何をしているのか。神成大尉は、伊藤中尉
 の意見具申を大隊長のそばで聞いていたはずなのに、何ら動いていない。演習中隊に死
 者が出ているのだから、まず部隊を止めて状況を掌握するのが最優先なはずだ。だが、
 神成大尉は判断力を失った山口少佐に何も言わず、ただ従っていたのである。
・神成大尉が山口少佐に卑屈に服従するおは族籍が平民だからなのか、それとも士官学校
 をでていないからなのか。だが、平民で士官学校を出ていない伊藤中尉は意見具申をし
 ている。神成大尉は、伊藤中尉に比べ年が若く昇任も早い。下士上りではエリートなの
 だ。エリートは上司の評価を気にし過ぎるとともに、上司への意見を控えるきらいがあ
 る。それに部隊が窮地に陥ったのは、山口少佐の状況判断や命令が原因だった。そんな
 こともあってか、神成大尉は山口少佐に逆らわずにいたのかもしれない。
・水野中尉が歩行困難になってきた。水野少尉は平生、休日を利用し登山などして身体を
 鍛錬していたが、将校中で一番早く死亡したので、山口少佐も驚いて鳴沢西南の窪地に
 露営することにした。     
・水野中尉が斃れるまでに、少なくとも10人ぐらいお兵卒が斃れ、置き去りにされてい
 た。伊藤中尉の意見具申も聞き入れなかった山口少佐だったが、華族水野中尉の死亡は
 さすがに効いたようだ。
・行軍して2日目ごろから精神的に異状をきたす者が出てきた。わけのわからない叫びを
 はりあげて、雪中ヤブのなかに突進する者がいた。とたんに身体がスポッとはまって見
 えなくなる。手を挙げて助けを求めると、雪が頭に落ちて完全に埋まってしまった。そ
 れでも、助けようという者はなかった。
・演習部隊は奇声を発する者、動けなくなる者が出ていた。つまり演習部隊は低体温症に
 陥っていたのである。山口少佐も低体温症で状況判断ができなくなっていたのだ。演習
 部隊はすでに普通に行動することができる状態になかったのである。
・現在、県道40号線沿いには「後藤伍長発見の地」、「中の森第三露営地」等の案内表
 示がある。
・将兵の死者は、第二露営地に集中していた。食糧も燃料もなく、ただただ寒さに耐えて
 いるだけで、とても軍隊の露営といえるものではなかった。どうしても悔やまれるのは、
 第一露営地で地面まで穴を掘って採暖し、食事をとってじっとしていればということだ
 った。
・演習部隊は地形がわからず、こっちだろうという方向に進んでいるだけだった。そんな
 部隊が現在地を知るはずもない。「鳴沢道路西方1000メートル」と言えるはずもな
 く、そもそも鳴沢道路はどこなのかもわからない。また、田代は青森市街地の南東にあ
 るので帰路は北西に進まなければならず、とう考えても東に進むことはありえないのだ。
・山口少佐は多数の死亡を出して、ようやく暗いなか方角もわからずに出発することの愚
 かさを知ったらしい。だがその教訓はすぐに兵士の泣き言に流されてしまう。山口少佐
 には強固な意志が欠けていた。そして、愚行はまた繰り返されたのである。
・演習部隊は田茂木野とは逆方向の前獄を登っていたのだ。神成大尉は部隊の先頭付近で
 前進を指揮していたが、経路の誤りを指摘され部隊は反転することになる。このとき、
 ついに神成大尉の溜まりに溜まった怒りが爆発してしまった。山口少佐の演習中隊長を
 無視した越権行為、山口少佐の誤った状況判断による演習部隊の窮地、多数の死者、厳
 しい寒さと止まらない吹雪、帰路がわからない苛立ちなどからであろう。引き金は倉石
 大尉である。山形出身の士族で士官学校出の倉石大尉は神成大尉より4歳若い29歳だ
 った。 
・編成外で指揮官でもない倉石大尉は、演習中隊長である神成大尉のそばにいながら「回
 れ右前へ」の号令をかけたのである。明らかな越権行為だった。進路が間違っていたの
 であれば、神成大尉に誤りを知らせればいいだけなのだ。それを平然と号令がかけられ
 たのだから、山口少佐と同じように指揮官の神成大尉を軽んじていたのは間違いない。
 やはり根底には身分を差別する族籍問題があったのである。士族の倉石からすれば、平
 民の神成大尉は目下にしか見えなかったのだろう。そうでなければ安易に越権行為など
 できるものではない。 
・神成大尉は、同じ階級でしかも歳下の倉石に我慢できなかったに違いない。衝撃的なそ
 のときの状況を先頭付近にいた小原元伍長に話す。「これはだめだ、これは天が我ら軍
 隊の試練のために死ねというのが天の命令である、みんな露営地に戻って枕を並べて死
 のう」   
・神成大尉の悲愴に満ちた怒号は、隊員の士気を著しく低下させ、今まで耐えていた隊員
 の気力を一気に失わせてしまった。神成大尉は、指揮官としては言ってはならないこと
 を言ってしまったのである。
・鳴沢の高地を下った後、つまり怒号から少し経ってからなので、神成大尉の感情も落ち
 着いていて怒りも感じられない。だが、神成大尉についていく者はいなかった。背のう
 をもやし火を奪い合っていたのだ。軍の骨幹をなす団結、規律、士気は完全に崩壊し、
 人心は神成大尉から離れてしまったのである。
・二大隊はパニックを起こし、てんでんバラバラになってしまったのだ。発端はやはり神
 成大尉の悲愴な怒号に違いない。隊員は死の恐怖に恐れ、騒ぎ、秩序なく乱れてしまっ
 たのだ。まさにこのとき二大隊は空中分解してしまったのである。
・パニックが起きたとはいえ、軍隊からの逃亡は脱走である。戦場ならば敵前逃亡の重罪
 である。さりとて山口少佐伊賀の将校は、斃れた者や歩けなくなった者を見捨ててきた
 のだから仕方がないことなのだろう。 
・将兵に見放された神成大尉は、死に場所を探していたかもしれないし、あるいは茫然自
 失の状態だったかもしれなかった。山口少佐も人事不省になってしまい、興津大尉は斃
 れてしまった。部隊を指揮する者は倉石大尉以外にいなかった。
・山口少佐はこの演習の壮行会で倉石大尉に演習参加を促していた。当初から山口少佐は
 何かあったら倉石大尉に任せようと思っていたのだろう。倉石大尉の指揮は、これ以降
 最後まで行われた。だから神成大尉が指揮を執ったという倉石大尉の証言は嘘となる。
 自らに責任が及ばないようにしたのだ。
・神成大尉は自ら剣を抜いて前に立って歩いた以降ぷっつりと消え、翌朝まで何をしてい
 たのか知らせるものはない。
・新聞の第一報では、演習部隊が「任意解散」した、「各自の任意に従うこととなり」と
 報道した。これらの意味するところでは、指揮官が部下に対して「指揮を解く」という
 ことである。本当に山中において、山口少佐が大隊長として部隊の指揮を解いたという
 のか。もしそのような命令を出したとしたとするならば、山口少佐は切腹して責任を取
 るのが普通である。だが山口少佐は生きて営門を入っていることから、そんな命令を出
 していないようだ。 
・山口少佐は、大隊長として各中隊長等に対して各中隊ごとに前進するよう命じたのであ
 る。つまり五中隊長神成大尉、六中隊長興津大尉の次級者鈴木少尉、七中隊長代理大橋
 中尉、八中隊長の倉石大尉の4人に対して、任意の方向に進めと命じたのである。いつ
 までも全員一緒に彷徨するよりはいいと判断したのだ。  
・雪中行軍のあの悲惨事は実に山口大隊長が軽率にも雪中行軍の計画者であり指揮官であ
 る神成大尉に相談もせず命令を発したのがそもそもの原因である。一体この行軍は計画
 者は神成大尉で指揮官である。山口少佐はこの行軍に随って行ったくらいのもので、位
 は上級であったが指揮権はなかったのである。この些細な誤りが200名余りの生命を
 奪ったかと考えるとき、上官たるもの行動及び式について深く考えさせられることがあ
 る。
・演習部隊が各中隊ごとに行動していたのを裏付けるようなこともある。演習部隊の行動
 は大きく二つに分かれている。一つは倉石大尉と大橋中尉が進んだ駒込川沿いである。
 大橋中尉らは途中の按ノ木森で、倉石大尉の進んだ方向から右に逸れて駒込川に下りて
 いる。もう一つは田代街道を進んだ神成大尉と鈴木少尉で、一緒に行動している。
・では「任意解散」や「各自の任意に従うこととなり」は誰が言い出したのか。大隊長の
 周りにいて大隊長の話を聞いていた下士卒が、各個に対する命令と都合よく解釈したの
 だろう。この日の未明、大隊長に対して早く行進するよう泣き言を言っていた兵士らな
 のだ。もはや何でもありの状態となっていたのである。そしてある者は自ら活路を求め
 て部隊を離れたのである。これが任意解散の実態なのだ。 
・青森測候所のこの日6時の記録は、快晴、気温マイナス10.6度、風速5.1メート
 ルだった。一時的に吹雪がやみ視界が開けたらしい。だが、誰も帰る方向がわからない。
 それも当然で、視界がほとんどない猛吹雪のなかを彷徨していて、現在地がどこなのか
 わからないからだった。そこで倉石大尉は斥候を出して前進経路を探すことにした。斥
 候となる者の負担は大きいが、全員をムダに歩かせるよりはましだった。決死隊を募り
 田代街道と本体へ急報せしむべく募集したところ、渡辺曹長、高橋伍長以下10名が応
 募した。これを2隊に分け派遣したところ1隊は失敗したが、他の高橋伍長の隊は帰路
 を発見したとのことだ。気になるのは、「田代街道と本隊へ急報」という言い方である。
 どうも田代新湯に斥候を出したような印象を受ける。
・やはり倉石大尉は田代新湯探しに斥候を出していたのである。だが、顛末書と倉石大尉
 の陳述は田代へ斥候を出したことは隠し、田茂木野方向の偵察に2隊出したとしていた。
 ほとんどの隊員は手と足が凍傷でまともに動けなかったので、田茂木野よりはろかに近
 い田代新湯を避難場所に選ぶのは誤りでない。ただし、それは田代新湯に食糧、燃料等
 が確実にある場合である。演習部隊はこれらを確認していないのですべてが不明だった。
 それに23日、24日と田代新湯を見つけられなかった。駒込川沿いに上流を目指せば
 田代新湯に行けたのだが、演習部隊はそれさえわかっていなかったのである。現在地す
 らわからないのに、まったく不明な田代新湯を探しに斥候を出すという判断はない。ま
 してや凍傷で早期治療が必要なのだ。来た道を探して帰ることが最良のの策なのだが、
 倉石大尉にはそれがわからない。結果は明らかで、1隊は失敗したのである。
・山口少佐は意識を戻していたが、命令、指揮を行なう元気はなかった。神成大尉は自ら
 軍刀を抜いて前方を歩いた以後行動はわからないが、演習部隊を指揮していないことは
 確かだった。演習部隊の指揮は倉石大尉が執っていた。それは倉石大尉が露営地にいた
 隊員の状態を見て武器の携行は難しいと判断し、残置させていたことからもわかる。
・演習部隊主力は馬立場へ前進した。当初は60人いたとしていた。だが、第二露営地か
 ら北上した経路上および駒込川沿いの死体数を生存者数を確認すると120名あまりに
 なる。つまり倉石大尉は残り約60名を見捨てて前進したのだ。その多くは、凍傷で倉
 石大尉ら主力について行くことのできなかった下士卒だった。彼らはそれでも動けなく
 なるまで部隊主力の後を追ったのである。
・倉石大尉率いる主力は馬立場の西側進んで按ノ木森を登り、そこから反時計回りに中ノ
 森北側へ戻っていたようになる。だが、馬立場北側斜面にラッパ手を含む数名の遺体が
 三十一聯隊に確認されていることから、倉石大尉らの主力は馬立場を通っていたと考え
 られる。   
・倉石大尉らの主力は按ノ木森と中ノ森の間に露営した。そこは第二露営地から直線で約
 1.5キロの場所だった。前進途中に落伍者は次々と出ていたがどうすることもできな
 かった。誰もが倒れる寸前なのだ。倉石大尉は神成大尉と連携して行動しているように
 装っていたが、そのとき神成大尉は後方の第二露営地にいた。そして、部隊から離反し
 た後藤伍長はその露営地で眠っていたのだった。
・翌26日朝、後藤伍長が目を覚ましたときには、第二露営地に残っていた60名ほどの
 下士卒はほとんど消えていた。彼らは自らを見捨てて田茂木野に向かった部隊主力を追
 い、あるいは自らが思う方向に必死で進んだのだった。
・神成大尉は山口少佐のいる主力に付いて行くことなく、第二露営地に残っていたのだっ
 た。それは倉石大尉が神成大尉を見捨てたか、あるいは神成大尉が山口少佐及び倉石大
 尉と行動を共にすることをやめたかのいずれかだろう。これで神成大尉が演習部隊を指
 揮していたとする倉石大尉の陳述の嘘がはっきりした。
・神成大尉が進む経路は、前日出発した倉石大尉らやその後を追いかけた下士卒の痕跡を
 頼りに馬立場〜按ノ木森と進み、大滝平に到着したのは日の入近かったと推察された。
 開かつした場所に進み出て前進方向を確認いようとした鈴木少尉は、雪庇でも踏んだの
 か突然消えてしまう。他の3人にその安否を確かめる体力はなかった。それから間もな
 く及川伍長も動けなくなってしまう。及川伍長は自分にかまわず一刻も早く田茂木野に
 進むように言ったという。神成大尉と後藤伍長は歩を進めたが、すぐに動けなくなって
 しまった。2人とも精も根も尽き果て、夜はそこで休んだのである。
・27日8時頃、神成大尉は「自分はすでに歩行することはできない、お前はこれから田
 茂木野に行って村民に伝えよ」と後藤伍長に命じ、そしてこんなことも言った。「兵士
 を凍死させたのは自分の責任であるから舌を噛んで自決する」と。後藤伍長は立ち上が
 り、凍傷で自由の利かなくなった足を何とか前に出して歩き始めた。100メートルほ
 ど歩いたところで力尽きてしまい、一歩も進めなくなってしまう。気を失う寸前で、し
 ばらくそのまま立っていたらしい。
・11時頃、後藤伍長は前方から人が近づいて来るのを確認し、声を上げて叫んだ。だが、
 猛吹雪のためか捜索隊には聞こえなかったようだ。その捜索隊も前方に人らしいものを
 認め、近づいて後藤伍長を確認した。捜索隊は後藤伍長から神成大尉が付近にいること
 を聞き出し捜索したが、神成大尉を探し出したときにはすでに事切れていた。
・神成大尉は山口少佐に演習を滅茶苦茶にされたが、演習中隊長としての責任から逃げる
 ことはなかった。その強い意志があったならば、どうして山口少佐の暴走を止めなかっ
 たのかと悔やまれる。   
・26日に経路となった賽ノ河原北側に、特別小隊の中野中尉と他の20名余りが連なっ
 て斃れている。おそらくそのほとんどが長期下士候補生だったに違いない。また周辺に
 は死体の分岐が多いことから、倉石大尉が吐露していたように部隊指揮は執れず、数名
 の集団がそれぞれの方向に進んでいたようにも見える。
・伊藤中尉は直属の上司である神成大尉と行動をともにすることなく、同じ山形県出身の
 倉石と行動をともにした。というよりも山口少佐のいる演習部隊主力として行動したの
 だろう。
・倉石大尉率いる主力は生きているのがやったで、部隊行動など取れる状態ではなかった。
 だがそんなときに狂気じみた出来事が起こる。倉石大尉が、兵隊の銃剣を持ってきて、
 「どうだお前、これから筏でいって聯隊に報告するから筏作るんじゃねぇがぁつ」。今
 泉見習士官が川に入っていって報告することになった。そうして川に入って流されて行
 ったのだ。
・今泉見習士官は12月に倉石大尉の中隊へ配置されたばかりだった。川に入ることは命
 令ではなかったらしいが、上官が言うことは要望だろうがお願いだろうが命令と同じで、
 おの意図を忖度して黙ってやるしかないのだ。今泉見習士官の遺体は、3月9日に大滝
 の150メートル下流で引き上げられた。 
・倉石大尉に自責の念はなかったようだ。寒さ、疲労、寝不足が隊員の精神を混乱させて
 いた。小原伍長も川に入ろうとしたが、山口少佐に止められて命拾いをしている。山口
 少佐は大隊長としてダメだったが、人としてほんとうに優しかったようだ。山口少佐が
 小原伍長を制止したことによって、遭難事故の証言は後世に残された。
 
捜索と救助
・五聯隊の初動は緩慢だった。演習部隊の帰隊は24日である。だが、捜索が開始された
 のは26日だった。津川聯隊長は演習部隊が23日に田代到着し、24日は雪のため田
 代に宿営しただろうとして、遭難していると考えつかないほど脳天気だった。何の根拠
 もない判断をして、25日まで何をしなかったのである。25日夜になって救援隊を編
 成し、翌朝、田代に出発するよう命じたとしているが、それもどうやら自発的にやった
 ものではない。
・おそらく筒井、幸畑あたりの村で五聯隊が遭難したと騒ぎになっていて、それを聞きつ
 けた現地の巡査が上司に報告したということではないだろうか。とにかく警察から五聯
 隊に対処するよう働きかけがあったのである。
・原田大尉は二大隊七中隊長だったが、業務で演習に参加していない。演習部隊の帰りが
 遅く自分の中隊が心配になり、猛吹雪だったが幸畑まで行ったのだろう。原田大尉は
 25日は被服委員会出席のため、弘前に移動しているので青森にはいなかった。
・津川聯隊長以下の五聯隊将校団は、あろうことか、演習部隊の帰隊が1日あまり遅れて
 いるにもかかわらず、転出将校の送別会を行っていた。二大隊が遭難し死者が続出して
 いるときに、ぬくぬくとした集会所で酒を飲み、盛り上がっていた。
・津川聯隊長は演習部隊の心配より送別会が大切だったのである。そんな津川聯隊長が、
 わざわざ24、25日と自らの判断に反する出迎えなど出すはずがない。
・津川聯隊長は捜索隊から第一報があった日、普段と変わりなく官舎に帰った。普通の指
 揮官ならば、演習部隊が帰隊するまで屯営で待っているものである。原田大尉は自分の
 中隊が心配で、猛吹雪のなか、幸畑まで迎えに行った。そのような感情は津川聯隊長に
 は微塵もなかったのである。それを顛末書では、自らの官舎で将校会議を開いていたと
 真っ赤な嘘をついていた。顛末書にあった大捜索をしていたのであれば、聯隊本部にお
 いて指揮するのが当たり前で、それは本当に幼稚な嘘だった。
・聯隊長官舎に駆け込んだ三神少尉の報告は、楽観していた津川聯隊長に大きな衝撃だっ
 たに違いない。後藤伍長の証言から、生存者は他にないと伝えられた津川聯隊長は、ま
 た判断を誤る。津川聯隊長は、三神少尉の報告から後藤伍長以外の生存者はいないと決
 めつけ、今後の方針を死体捜索と決定してしまったのである。
・津川聯隊長は三神少尉の報告を聞くまで、演習部隊が遭難したとは全く考えることなく、
 田代新湯に到着し足止めされていると確認していたように、今度は後藤伍長以外全員死
 んだと確認したのだった。津川聯隊長は他の可能性を全く考えることができなかったの
 である。
・津川聯隊長は世間に自らの浅はかな考えをさらしたのだった。それはわが子の無事を願
 う親たちにとって冷酷な知らせとなった。
・三浦、安部、山口大隊長以下の生存者の発見は31日だった。生き残っていた将兵にと
 って、この2日間はいかに貴重な時間だったか、31日以降に救出された将兵の数から
 しても明白だった。五聯隊のやることなすこと、ことごとく裏目に出ていた。それはす
 べて聯隊長の状況判断が間違っていたからである。二大隊の被害を拡大させたのは、帰
 隊予定日を過ぎても何ら対処せず、遭難が判明しても2日間捜査をしなかった津川聯隊
 長なのだ。五聯隊の不幸は、津川が聯隊長として着任したときから始まっていたのかも
 しれない。
・隊員家族も五聯隊の進まない捜索に不満が爆発していた。隊員家族は自ら田代街道を登
 り、捜査した。それに加えて野次馬も山を登ったらしく、1月31日以降は隊員家族も
 登山ができなくなってしまった。
・この遭難で救出されたのは全部で17名、その後経過不良で亡くなったのが山口少佐、
 三浦伍長、高橋伍長、小野寺二等卒、佐々木二等卒、紺野二等卒の6名だった。倉石大
 尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3名は、軽度の凍傷だったためか切断手術もなく、2
 月18日に退院している。
・倉石大尉は隊員に「あまり騒がず静かにしていたらいい」と忠告していたらしい。倉石
 ら十数名が川べりにじっとしていたことで、9名が救出された・23日の出発から8日
 後の31日まで生存していたのであるから、演習部隊が当初から第一露営地でじっとし
 ていたら、どれだけの将兵が救出されたことだろう。だが、演習部隊はやみくもに歩き
 続け、体力を消耗し大多数が斃れてしまったのである。
 
三十一聯隊の田代越え
・五聯隊が多数の死者を出しながら田代をさまよっていたころ、三十一聯隊福島大尉率い
 る教育隊は、1名帰隊のほかは順調に行軍を続けていた。1月20日、弘前屯営を出発、
 小国〜切明温泉〜銀山〜宇樽部〜戸来と行進し、25日、三本木に到着した。編成は福
 島大尉以下37名だった。ただ、そのうち1名はひざを痛め25日に下田から列車で帰
 隊しているので、三本木からは36名となる。
・途中で帰隊した斎藤伍長が関節炎なのか凍傷なのかはわからないが、田代越えにおいて
 隊の約3分の1にが凍傷になっている。手の凍傷は下士4名、足の凍傷は10名いた。
 この受傷数には、手と足の両方とも受傷した者も含まれる。
・この編成の主体は見習士官と下士候補生で、この行軍は彼らの教育だった。教育におい
 て、被教育者に多数の凍傷患者を出したことは間違いなく、教官として福島大尉は失格
 である。
・26日は当初の予定で田代まで行くことになっていたが、途中の増沢に宿泊し27日に
 田代と変更された。この変更が教育隊の生死をわけたのである。
・福島大尉を悩ませたのは、天候よりも田代街道を知らないということだった。準備のつ
 もりで実施した昨年夏の行軍で田代越えはやっていない。だからどうしても道案内が欲
 しかったのである。そのため福島は出発前に、どんでもない手を打っていた。
・福島は行軍で通過する町村役場に休憩、宿泊、食糧、道案内等の協力依頼をしている。
 福島は、谷地温泉を経由し田代そして青森に至る経路を検討していて、その可否を役場
 に問い合わせていた。役場からの返事で増沢から田代を経由する経路しかないことがわ
 かり、福島はこのときに行進経路を田代街道と決定したのである。
・役場にとって福島大尉の依頼は迷惑で、冬は雪で通行できないとして終わりたかったの
 である。だが、上げ膳据え膳の接待と道案内の支援を期待していた福島大尉は常套手段
 を使う。改めて法奥沢村役場に手紙を送ったのである。 
・福島大尉は天皇上奏の演習だとして、役場を恫喝したのだった。助役の書簡には「御」
 の文字が溢れていて、悲壮感を感じる。酒肴を準備している、道案内は処置するとひれ
 伏してしまった。福島大尉は天皇という言葉を利用して自分の思いどおりにしたのだっ
 た。福島大尉にとって饗応を受けるのは当然だったのである。
・師団長は五聯隊の遭難事故で進退伺を提出していた。その微妙な時期に、三十一聯隊の
 成功に関する記事は、遭難した五聯隊の問題を際立たせただけだった。師団としては、
 福島大尉に静かにしていてほしかったのである。しかし、福島大尉は田代越えを成功し
 ていながら、師団にまったく評価されていないことに不満だったのだろう。 
・状況を読めなかった福島大尉の言動は、とうとう師団を怒らせてしまった。その3月に
 歩兵第四師団の副官という閑職に転出を命じられたのだ。当分の間静かにしていろとい
 うことなのだろう。旅団は平時において必要のないものなので、大した仕事もなかった。
 福島は指揮する部隊も教育する隊員も失ってしまったのである。
・ありもしない錦の御旗を掲げて、福島大尉は行く先々で当然のように饗応を受けていた。
 福島大尉をそうさせたのは陸軍である。陸軍は舎営と称して民家に宿泊する悪い習慣が
 あった。一般に部隊の依頼で役場が宿泊する民家を割り当てた。その割り当てられた家
 が大変だった。寝具、食事等準備しなければならないからだ。 
・一概にはいえないが、軍隊が旅館に泊まれば1人60銭、みんなに泊まれば6銭で、そ
 の費用は10分の1で済む。民家とはいえ、旅館と同じように食事を賄い宿泊をさせる
 のである。寝具をそろえたり、ランプを買ったり、食事も自分らが食べられないような
 御馳走を準備したり、酒、煙草を買ったりで、大きな出費となるのだった。なかには借
 金をしてまで歓待しなければならなかったのだ。これではまりで時代劇で村を襲う盗賊
 と変わらない所業ではないか。罪なことだが、陸軍はそれを止めることはなかったので
 ある。
・福島大尉は雪中の行動を研究していたのかもしれないが、実態は「たかり」ではないか。
 教育訓練中の昼から酒を飲むあど言語道断である。下士候補生にとって2年連続して死
 の危険に直面させられた教育訓練は一体何なのか。福島の自己満足のためだけに利用さ
 れたのである。
・三十一聯隊の教育隊は、27日から28日にかけて遭難しかけた。それを救ったのは大
 深内村役場から依頼された饗導である。それなのに福島大尉は、嚮導に対し悪逆無道な
 る振る舞いをする。「過去2日間の事は口外すべからず」と封印した福島の悪行は、昭
 和になって明らかになる。
・なぜ嚮導が7名もいたのか不思議だった。道案内であれば2人もいればいいはずである。
 福島大尉が嚮導を7名に増やしてとある。しかもそれまでは1名ないし2名だったと書
 かれている。それが本当ならば、福島がラッセルのために多くの嚮導を役場に要望した
 ことになる。つまり、自らが楽をするためにそうしたということだろう。
・軍隊が民間人に道案内を頼んだのはまだいいとして、軍人でもない者に斥候のようなこ
 とをどうして命令できるのか。それに加えて何の調整もしていない新湯の住人を連れて
 こいとは常軌を逸していた。もはや福島大尉は絶対的な権力者となって暴走していたの
 だった。
・仕方なく前進しようとした7人に、福島大尉はさらにとんでもないことを言い放った。
 「携行品は全部置け、ただし7名中2名は此処におり5名で使いを果たすように」
 携行品を残置させたのは、逃げられないためである。そして2名を残したのは、ひとつ
 はやはり5名が逃げないように人質とした、ひとつは5人が遭難したり逃げたりしても
 いいように道案内2人を確保したのである。福島大尉は嚮導を奴隷のように扱っていた。
・福島大尉は嚮導を田代新湯に行かせておきならが、自分らは火にあたり暖を取っていた
 のだ。嚮導5人は2時間ほど新湯を探し歩いたが、見つけることはできなかった。だが
 小屋を発見し、そこで暖を取ることができた。 
・嚮導は福島大尉の無慈悲な仕打ちを恨むこともなく善意で対応したのだった。暗闇の猛
 吹雪のなか、深い雪を泳ぐように進み、一行の待つ赤松に向かったという。赤松とはど
 こなのか。箒場から約1里北西に進んだ場所は現在の八甲田温泉付近である。近くを流
 れる空からの川床は赤茶色だった。嚮導がいう赤川とはこの空川に間違いないだろう。
・福島大尉に小屋の発見を伝えると、すぐにその小屋に向かうこととなった。途中少し迷
 ったが空が白み始めた5時頃に小屋に着いたという。小屋は狭いので、福島大尉は半数
 交互に暖と食事をとらせた。嚮導のおかげで教育隊は命拾いをしたのである。その恩人
 らを記録から消し続けた泉舘元伍長や従軍の東海記者に慚愧の念はなかったのか。
・福島大尉は嚮導に「もはや新湯に行く必要はない。君らは此処から引き返すよりは一緒
 に青森に出るほうが便利ではないか」と話し、一同は喜びそれに同意した。午前7位頃
 小屋を後に出発したが相変わらず先頭を命じられで進んだとのことだ。
・福島大尉がかけた言葉はやさしさから発したものではない。その魂胆は道案内とラッセ
 ルをさせるためだったのである。福島大尉の人間離れした冷酷さからすれば、これはま
 だ序の口だった。 
・嚮導はラッセルという苦役を強制されたままだった。鳴沢の数町手前の小高い丘とは、
 五聯隊が最初に露営した場所から300メートルごと馬立場寄りの標高671地点あた
 りだろう。そこは八甲田山から下りる稜線上にあり、向こう側に下りると鳴沢だった。
 軍の小銃が放置されていたことに、皆とまどいながら馬立場を越えた。
・福島大尉に率いられて田代越えをした間山元伍長、泉舘元伍長、従軍記者、嚮導のそれ
 ぞれが小銃を拾った、軍人の遺体を見たとの証言をしていたにもかかわらず、三十一聯
 隊は五聯隊と遭遇していない。軍の記録や福島大尉の文書にそうした事実がない従軍記
 者は事後口を閉ざしていた。   
・そもそも馬立場付近は前獄と馬立場にはさまれたあい路を通らざるを得ず、馬立場から
 小峠までの経路は稜線上なので通る場所が極点に限定されてしまう。五聯隊と三十一聯
 隊が遭遇する可能性は極めて高かったのである。考えてみると、銃と遺体に関する複数
 の証言があったにもかかわらず、確かな根拠もない説で事実が消されてしまうのだから
 あきれてしまう。
・しかし、福島大尉の供述を知らない人は、これからもずっと遭遇はなかったと言い続け
 るに違いない。また、福島大尉の供述があったとしても、三十一聯隊は五聯隊と遭遇し
 ていないと言い張る人もいるだろう。そうして、真実と異なるさまざまな俗説は、この
 先もずっと生き続けていくことになるのだろう。
・三十一聯隊の教育隊が、馬立場〜賽ノ河原と進み、大滝平に到着したのは18時頃だっ
 た。前日にはこの辺りで後藤伍長が救出され、神成大尉の遺体が残置されていた。さら
 に進むと進行方向に青森の灯りが点々と見えた。そのとき、福島大尉は嚮導を切り捨て
 るかのような行動をとった。福島大尉は「汽車賃なり」といつの間にか準備したのか金
 弐円づつを7名に渡し口を一文字に結んで言った、「過去2日間の事は絶対に口外すべ
 からず」と。無情にも嚮導を置き去りにして隊員を引率して何処ともなく暗闇の中を出
 発して行った。
・青森の灯りが見えたことで、一緒に青森までと誘った嚮導は、福島大尉にとって用済み
 となってしまったのである。彼らから受けた恩、彼らを青森まで連れて行く責任、福島
 大尉はそんなものは微塵もなかった。もしかすると、五聯隊の捜索隊がいることを察知
 し、軍人ではない彼らが邪魔になったのかもしれない。福島大尉以下の隊員は、茫然と
 していた嚮導を気にすることもなく田茂木野に向かったのだった。 
・ところで福島が嚮導に渡した金額に驚く。明治33年の雪割人夫(除雪員)の日当が
 34銭で2円はその5倍余りとなる。青森から彼らが向かう沼崎駅までの汽車賃が64
 銭で、残り1円36銭となる。決して安い駄賃ではなかったが、奴隷のように扱われ遭
 難寸前だったこと、後に凍傷で苦しんだことを考えると安いという以外にない。
・嚮導7人は、やっとのことで田茂木野にたどり着いた。未明だったが、村は五聯隊の捜
 索隊で騒々しかった。食事と睡眠のため、とある家に宿泊を頼んだが、五聯隊の捜索隊
 が宿泊していたため断られた。それでも頼み込み、どうにか土間を借りることができた。
 鍋を借り木炭をもらい凍った弁当を煮て食事をとり、いつのまにか寝てしまったのだっ
 た。正午ごろ田茂木野を出発して、日本鉄道の浦町駅で列車に乗り、東北線の沼崎駅
 (現在の上北町駅)で降りた。そこから8里の道を、7人は黙ったまま増沢に向かった
 のである。
・我が家の敷居をまたいだのは30日午前2時頃。家内に支えられて倒れるように家の中
 に転がり込んだ。顔面は腫れ上がり四肢は凍傷に冒され股引きは脱ぐ事ができない。仕
 方なく切り開いて脱ぐあり様であったという。それでも生きて還ったことを家族等はせ
 めてもの事として喜んだ。その後病者のように床に臥すなどして数日を経ったが、凍傷
 の手当ての療法も判らぬうちに病状が悪化する者が続出したという。
・快復せずに十数年、廃人同様に過ごし死亡した者もいた。彼らは福島大尉に奴隷のよう
 に使われ、凍傷となりながらも、福島大尉の言った「絶対口外すべからず」を28年間
 守った。そうした理由は、だたただ軍隊が怖かったのだ。
・生きて帰れたのは天のおかげだとしているが、それは違う。嚮導のおかげで生還できた
 のである。隊員は限界を超えていたが、生への執念で歩いていたのだった。三十一聯隊
 でそのような状態であるなら、それ以上に過酷な状況にあった五聯隊は推して知るべし
 だった。  
・福島大尉は行軍途中で兵卒の遺体を見たことについて、どういうことなのかわからなか
 ったと言っている。だが、福島大尉は発見時、遺体に触るなと言っていた。普通ならば
 遺体を確認するだろう。福島大尉は軍銃が放置されていたことから、五聯隊の遭難にう
 すうす気づいていたのだろう。遺体に触って、五聯隊の遭難が確認されたら、何も知ら
 ないは済まなくなると判断し、制止したに違いない。
・五聯隊の遭難に気づいていた福島大尉がわからないとした理由は、何もしなかったこと
 に対する後ろめたさと追及の不安があったからだ。それに田代越えの成果に傷がつくの
 を避けたかったこともあっただろう。三十一聯隊も遭難しかけ、ようやく田茂木野に到
 着したのだから、三十一聯隊にそれ以上のものを期待するほうが間違っている。
・聴取後、福島大尉率いる教育隊は、青森市内に移動し旅館に宿泊した。翌30日、福島
 大尉は当初の予定通り行軍を続けようとしたが、友安旅団長に諭されてまっすぐに帰営
 することになった。 
・福島大尉は予定どおり実施することを強硬に具申した。どんな理由にせよ計画が完全に
 実施されないことには、せっかくの実績に傷がつく。福島大尉には功名心しかなかった
 のである。それに田代越えをしたことで、福島大尉の気持ちは高ぶっていたに違いない。
 だが、旅団長の命令に逆らえるはずもなく、福島大尉率いる教育隊は、途中浪岡に一泊
 して、翌31日14時30分帰営した。営内では聯隊長以下残留者一同に歓迎され慰労
 会も催された。
・福島大尉の無謀な冒険は多くの人々に災いをもたらした。それは全て福島大尉の自己満
 足に起因している。このような人間を野放しにしていた三十一聯隊に大きな責任があり、
 立見師団長にも責任がある。特に立見師団長は福島の岩木山麓雪中行軍を評価していた。
 それが福島をつけあがらせてしまったのだ。
・田代越えも成功した福島大尉は、自分を評価しない師団を不満に思い、新聞を利用して
 自らの成果をアピールした。だが、遭難事故で苦しい立場にあった師団は、福島大尉を
 黙らせるために三十一聯隊から転出させたのである。その転出先は、五聯隊の遭難事故
 で進退伺を提出していた友安旅団長の先任副官だった。
・まっすぐ帰れと論した友安旅団長に、予定通り行軍を続けると強硬な態度をとった福島
 大尉。師団の命令で福島を引き受けた友安旅団長と、成果を出しながら閑職に追いやら
 れた福島大尉。二人の関係がうまくいくはずもない。1年半後の明治36年9月、師団
 と旅団の司令部から遠く離れた山形三十二聯隊の中隊長に福島は転出となったのである。
 
山口少佐死因の謎
・山口少佐は1日に衛戍病院へ収容され、翌日亡くなったのである。病室は奥から山口少
 佐、倉石大尉、伊藤中尉、下士卒3名、兵卒5名となった。山口少佐は危篤のため面会
 は許可されなかったが、それ以外の者は特に制約されることもなく面会にきた。倉石大
 尉の病室に母親が面会に来たが、それに関係なく慰問は続けられた。夕方まで衛戍病院
 に大きな混乱はなかったようだ。 
・どうやら山口少佐は、師団長が病室に入る前に亡くなっていたようだ。山口少佐夫人も、
 夫の死に目に会えなかった。 
・後備中佐でもあった実兄の成澤氏が津川聯隊長に会い「自殺したはずだ」と詰め寄ると、
 津川聯隊長は、「山口少佐は武人らしく立派に自殺した。しかし自殺が公表されると生
 存した倉石大尉ら3人の士官もまた、大隊長だけの責任ではないとして後追い自殺の恐
 れがある。対露戦役が予測されるだけに、これ以上将兵の消耗は許されない。残念だが
 目をつぶってほしい」と話したということである。 
・青森駐屯地に入ると、すぐ右手に古びたレンガ色の建物がある。木造二階建てのその中
 央上部には菊の御紋、まさしく歩兵五聯隊本部の建物である。筒井の元であった場所か
 ら移築され、今は自衛隊の広報資料館になっている。そこに拳銃自殺説を裏付けるかの
 ように、山口少佐の遺品である拳銃が展示されていた。 
・あの当時、将校の拳銃や軍刀は自弁である。山口少佐は遭難時に軍刀を携行していた。
 その軍刀は、山口少佐が亡くなった後の3月19日、賽ノ河原で回収された。拳銃は携
 行品になかったので、大隊長の机にでも保管されていたのだろう。だとすると自殺する
 ためには、拳銃を誰かが山口少佐に渡さなければならない。
・拳銃自殺をしたとして、病院内に「パン」と鳴り響く銃声はどうするのか。銃声に敏感
 な軍人にはすぐに拳銃だとわかる。近くには後年に証言する伊藤中尉、小原伍長、安部
 一等卒、後藤二等卒らがいたのだ。彼らから山口少佐が自殺したという証言は出ていな
 い。万が一銃声が聞こえなかったとしても、山口少佐の自殺を入院患者に知られずに済
 むはずもない。切腹についても同じことが言える。
・さらに言うと、拳銃自殺にしても切腹にしても、あるいは舌を噛み切ったにしても、遺
 体に痕跡が残るではないか。山口少佐が自殺したのならば、普通その痕跡に基づいた遺
 族の証言があるはずではないのか。自殺の裏付けが聯隊長の証言だけとなっていること
 に違和感は隠せない。もし聯隊長の証言がなかったら、拳銃自殺の根拠は全くないのだ。
 手段に電話はない。最も速い連絡手段は電信(電報)だったが、その伝達にはある程度
 時間がかかり内容は電信従事者に筒抜けとなる。 
・山形から軍医を派遣しての暗殺説もある。しかし、山形より近い秋田に軍医の支援を要
 請しなかったのは、当時の秋田は大雪で陸の孤島となっていたため、軍医の派遣などで
 きる状況ではなかったのである。   
・青森および能代間の鉄道距離は僅かに百余理で平常は約6時間を費やせば青森に達する
 ことができる。この時期、能代から青森間の鉄道移動は期待できなかった。それに秋田
 から東能代まではまだ鉄道が開通していないのである。平成の今でも、青森と秋田の県
 境辺りでは大雪で列車が運休することがあるのだ。師団としては秋田からの支援は全く
 期待できなかったために、八師団館内で青森に支援が可能なのは弘前と山形しかなかっ
 たのである。
・結局、山口少佐の死因の謎は、後に作られたものだった。事実は単純明快で、山口少佐
 は心臓麻痺で亡くなったのである。
・立見師団長は199名の死者を出していながら、その本質が理解できていなかったよう
 だ。陸軍の頂点にある天皇に対して、師団長として最初にしなければならないのは、
 199名の将校を亡くしたことを謝罪することではないのか。しかも戦争ではなく、訓
 練中のことなのだ。立見師団長に師団長としての自覚や責任といったものは全く感じら
 れない。将軍閣下になると、隷下の将兵は将棋の駒と同じで、死者199名など特段の
 思いなど湧かないのだろう。
・立見師団長、友安旅団長および津川聯隊長に対する処分が下された。歩兵第五連隊遭難
 に関する取調委員は、陸軍少将中岡黙を長として7人の委員から成る。この委員のなか
 で現地へ派遣された田村少佐もいた。この委員会の処分案は、津川聯隊長のみだった。
 大山参謀長は、聯隊長の職を解けとした。これに対し野津教育総監は真っ向から反対し、
 遭難後創作の遅延はむしろ師団長及び旅団長に責任があるとした。寺内正毅陸軍大臣も
 困ったことだろう。
・天皇が下した判断は委員の案どおりとなり、師団長と旅団長にはお咎めがなかった。そ
 して津川聯隊長は「謹慎7日」の処分となった。
・陸軍は遭難事故を不慮の災害とした。そして津川聯隊長は救済遅延の責任が問われただ
 けで、199名の命が失われたにしてはあまりにも軽い処分となった。その背景には、
 事故を穏便に処理しようとした陸軍上層部の思惑があったのである。ロシアとの戦いが
 目前に迫っていたし、中国に出兵した将官の馬蹄銀略奪事件が世間を騒がせていた。
・津川聯隊長には、遭難の間接的な原因となる三大隊の雪中行軍失敗を是正しなかった職
 務怠慢と、八甲田雪中行軍を自らのメンツのために命じた責任がある。保身のため、事
 故の事実を隠し偽って報告もしていたのだ。聯隊長を更迭され、予備役にさせられたと
 してもおかしくない。この処分はとても納得できるものではなく、亡くなった199名
 の将兵は浮かばれない。 

エピローグ
・二大隊が八甲田で遭難した原因は何か。猛吹雪で寒さも厳しかったが同じ時期に三十一
 聯隊は十和田湖東側の山岳地を行軍し、田代街道を踏破したのだから、気象を原因とす
 るのは難しい。橇は部隊の前進速度を著しく低下させ、そのため途中で夜になってしま
 い、露営することになったのだからその影響は大きい。だが、それよりも重大なのは、
 誰一人として田代新湯を知らなかったし、田代街道もよくわかっていなかったことであ
 る。ここでの訓練や偵察はやっていないし、地図もないのだから経路がわかるはずがな
 い。経路がわからなければ遭難するのは当たり前である。
・田代新湯に到着できなくとも、露営がしっかりできていたら死亡者はなかったかもしれ
 ない。だが二大隊は穴が掘れず、雪の上で炭を起こすなど、露営に関してあまりにも未
 熟だった。食糧や燃料があったにもかかわらず、それを生かすことができなかったので
 ある。また、大隊に円匙が48本ありながら、たった10本しか携行しておらず、見積
 不十分、訓練不十分だった。
・遭難を決定づけたのは、猛吹雪で進む方向さえわからないのに、部隊を前進させた山口
 少佐の判断だった。冬山に対する認識不足、経験不足である。  
・はっきりいって、二大隊は田代で訓練できる練度になかった。つまり、事故の原因は二
 大隊の訓練不足にあったのである。そして、その訓練不十分は部隊に田代へ行軍するよ
 うに命じたのは、聯隊長の津川であり、その動機はライバル三十一聯隊に対抗したもの
 だった。さらにいうと、五聯隊がまともに訓練できていないのは、津川が各大隊の訓練
 管理を怠っていたからだった。中身は何もないのに「伝統の五聯隊」という名門意識の
 上に胡坐をかいていたのだ。
・新田次郎は「八甲田山死の彷徨」で、この遭難事故の最大の原因は、「日露戦争を前に
 して軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験」とした。また「私の創作ノート」
 では、「八甲田山の悲劇の取材をしている間につくづく感じたことは、二つの聯隊に雪
 中登山競争をさせた当時の第八師団の首脳部の思慮の浅はかさであった」としている。
・しかし、師団あるいは旅団は、五聯隊と三十一聯隊に八甲田で訓練しろと命じてないの
 だから、第八師団の首脳部が考え出した人間実験だとする論は的をはずしている。 
・この八甲田雪中行軍は福島大尉が考え出し、それに対抗した津川聯隊長が二大隊に命じ
 たものである。功名心の強い福島と、津川のメンツによって引き起こされた演習なのだ。
 二大隊が八甲田でやらなければ、遭難することはなかったのである。
・青森の五聯隊内において、編成準備をしていた三十一聯隊が、弘前の真新し兵舎に移駐
 したのは明治30年8月だった。翌年から五聯隊と三十一聯隊の雪中訓練が活発化する。
 そんな中、功名心にはやる福島の冒険を師団長が評価したことで、福島が八甲田山に照
 準を合わせたのは間違いなく、その点で師団(長)には非があったといえよう。
・日露戦争後の明治39年7月23日、馬立場において銅像除幕式が挙行された。参加者
 には、津川少将、伊藤大尉、後藤元伍長、神成大尉の未亡人及び遺子らがいた。あの津
 川は少将になっていた。第五聯隊長の職を解かれ、第八旅団長に命じられたのだ。  
・軍は津川を少将に昇任させ、第八旅団長を命じた。要するに栄転である。訓練で199
 名を死亡させても、津川の評価には全く影響しなかったのだ。これは軍上層部にはびこ
 っていた無責任体質がもたらした結果なのである。
・陸軍が強く推し進めた遭難者の靖国神社合祀については、寺内陸軍大臣が桂太郎内閣総
 理大臣に閣議で決定するよう申請したが、内閣書記官長は前例がないとして陸軍総務長
 官に書類を突き返している。遭難事故死は、敵と戦って死んだ場合に比べ、その意義が
 異なるということらしい。
・はたしてこの結果は、遺族に周知されたのだろうか。疑問は残る。この明治時代の判断
 は昭和において生かされなかった。今、靖国神社に閣僚らが参拝するたびに、中国や韓
 国から要らぬ抗議を受けているのは、合祀の本質である戦死というその意義をおろそか
 にして、A級戦犯を合祀したためではないのか。残念ながら、位の高い人は死んでから
 でもなお優遇されるということなのだろう。
・幸畑陸軍墓地は高さ2メートルばかりの土塁に囲まれ、その上に高さ5メートルにもな
 る多行松が70本ほど植えられていた。正面には山口少佐を中心に将校の墓標が並び、
 その前面には特務曹長以下の墓標が建っている。将校の墓標が並ぶその右端に、生存者
 11名の合同碑がある。昭和37年の雪中行軍遭難60周年記念事業として新しく建立
 されたものだ。
・二大隊遭難の実態を簡単にいうと、「無能な指揮官の命令によって、登山経験のない素
 人が準備不足のまま知らない山に登山をした」ということなのだ。事実を隠し偽った事
 故報告に教訓はない。

あとがき
・軍隊において、師団であれ、聯隊であれ、大隊であれ、中隊であれ、その長たる指揮官
 は部下に対して絶対的な権限を持っている。それをいいことにして無理難題を言い出す
 指揮官がいる。そのような者はおよそ道徳心に欠け、部隊の先頭となって模範を示すこ
 とや、部下の苦楽をともにすることなどできない。指揮官になってはいけない人間なの
 だ。士官学校などの成績で昇任は決まり、よほどのことがない限りそれが覆ることはな
 い。部隊で事故を起こした将校を処分すれば、その上司たる将校にも責任問題が発生す
 る。重大な事故になると、そのまた上司へと処分対象が広がる。また処分が重いと上司
 の処分も重くなる。そのため処分は軽くなり、身内に甘い組織となってしまう。あきれ
 るのは、ほとぼりが覚めると何もなかったかのように前のコースに戻っているのだ。陸
 軍は明治からずっとそのような問題を抱えてきたのだろう。
・自暴自棄に陥った神成大尉が発した叫び、「天が我ら軍隊の試練のために死ねというの
 が天の命令である」は、平民で士官学校を出ていない神成大尉が、山口少佐以下の士官
 将校へ放った引導だったかもしれない。
・制服を着ていた頃、夜、布団に入ってから幾度となく戦場の自分を思った。孤立無援の
 状況下、目の前まで敵が迫り、銃弾を浴びながら応戦し続ける自分を。降伏という言葉
 が思い浮かぶ。そのたびに、自分がやらなければ誰がやるんだ、と自分に言い聞かせて
 いた。制服を脱いだ今は、そんなことを考えることもなくなった。ただ、毎日のように
 八甲田山を見ながら思うことは、日本の平和であり人々の幸せである。