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この作品は、1958年に発表されたものであり、芥川賞受賞作である。戦後の急速に組
織化されていく社会のなかで、個人や個性の重要性について問うた作品と言われているよ
うだ。
この作品の出てくる太郎の父親である大田社長は、高度成長時代の猛烈ビジネスマンの象
徴と言っていいだろう。そして彼が「裸の王様」の一人なのだ。このような家庭を顧みな
い父親というのは、高度成長時代ばかりでなく、いまの時代においても、少なからずいる
と思える。ただ、「裸の王様」は一人だけではないだろう。山口という教師もそうだろう
し、児童画コンクールの審査員になった画家や教育評論家や指導主事なども「裸の王様」
と言っていいだろう。この作品は、児童画という子供を題材にしているが、その内実は権
威主義に対しての作者の痛烈な批判なのだろうと私は感じた。

ところで、私自身は子供の頃から絵心というのはまったくなかったように思う。下手なこ
ともあって絵を描くということは好きではなかった。絵を描いたという記憶もほとんど残
っていない。そんな私なので、この作品に出てくるような、児童画に隠されている子供の
心理などというものに関しては、まったく無知であった。
「教育ママ」という言葉があるが、この作品に出てくる太郎の継母は、まさにそれだった
のだろうと思う。母親の方は子供のために良かれと思ってやっているのだろうが、過剰に
子供に干渉にし過ぎると、子供は自分の意志で行動することを止めてしまう。太郎はまさ
にそんな子供だった。これでは自我を確立することができず、まさに生きた人間のロボ
ット化である。子育ての難しさを改めて痛感させられ、いろいろ考えさせられた作品だっ
た。

・太田太郎は山口の紹介でぼくの画塾へくることになった。山口は小学校の教師をするか
 たわら自分でも画を描いている男である。展覧会があると学校を休んでも制作にふける。
 太郎のときも、ちょうど個展の会期に迫られていたところで、自分の担任のクラスの生
 徒でありながら、ぼくのところへ回してよこしたのである。
・太郎と両親のことは以前にあらましを山口から聞かされていた。太郎の父は大田絵具の
 社長で、母は後妻ということだった。先妻、つまり太郎の実母は大田氏の不遇期に死ん
 で、それ以後子供はないので、太郎はまったくの一人息子である。
・山口は担任学級のPTAで太田夫人と知り合いになった。何度か会っているうちに彼は
 彼女を通じて大田氏にわたりをつけ、グループ展や個展があると、ときたま一点、二点
 と画を買い上げてもらうところまで懇意になった。昔から彼はそんなことにかけては機
 敏な男であった。  
・大田氏の絵具会社は最近急速に発展した会社である。それまでは親会社から独立した中
 小メーカーにすぎなかたが、いまでは強力な販売網を市場にひろげて旧勢力を脅かして
 いる。どこへいっても大田氏の製品を売っていない文房具店はないくらいである。
・庇護にこたえる気持ちからか、山口は大田氏がパステル類やフィンガー・ペイントなど
 の新製品を発表すると、いち早くとりあげて生徒に教室で使わせ、その実験報告を教育
 雑誌や保育新聞などに発表した。前衛画家としての立場から彼は新手法の紹介には熱心
 で、コラージュやデデカルコマニーやフロッタージュなど、たえずなにか新奇な実験を
 やって話題を投げていた。
・画の背後にある子供の個性を、そうした偶然の効果をねらった手法の、画だけの個性に
 すりかえてしまう危険を含んでいるにもかかわらず、彼の仕事は若い教師仲間でたいへ
 ん評判がよかった。
・「子供は小学校に入るまでにすっかり委縮してしまってるからな。概念くだきはいくら
 やってもやりすぎるということがないよ」児童画の目的と手段をはきちがえた行過ぎの
 実験だという保守派からの反論に対して彼はいつもそううそぶいていてひるまなかった。
・山口のやり方にはどこか売名を計算した野心家の匂いがあるので、彼が生徒につくらせ
 る作品の無機質な美しさにぼくはいつも警戒心を抱いている。
・どういうつもりか、山口は庇護を受けているにもかかわらず、ぼくに向かっては大抵大
 田夫人のことを悪く言った。たとえば、大田夫人が後妻だから先妻の子の太郎にことさ
 ら善意を押し付けるのだとか、外出好きの性格だとか、ときには夫婦の寝室に対する嘲
 笑的な臆測などといった種類の醜聞である。
・山口は利己的な男で、自分の都合のよいときだけ責任を他人に押し付ける癖があった。
 太郎のときも、さんざんそんなふうに言っておきながら、いざとなると個展の日まで日
 数のないことや、先方の頼みが断り切れないことなど、自分勝手な弁解ばかり並べて逃
 げてしまった。 
・「歩いて来るなら引き受ける。自動車で来るならごめんだ。ぼくの生徒はみんな貧乏サ
 ラリーマンの子供だからね。自動車なんかで乗り付けられてはたまらないな」ぼくはそ
 れだけ言って電話を切った。
・約束の日、確かに大田夫人は歩いてくることは歩いてきたが、帰りに門口まで送ってゆ
 くと、ぼくの家から一町ほどさきの辻に一台の新車がとまっていた。夫人が息子の手を
 引いてそちらに歩いていくと、当年型のシボレーから制服制帽の運転手が飛び出してき
 て護衛兵のように扉の前に立ったのである。
・想像していたより太郎はひどい歪形を受けていた。彼は無口で内気で神経質そうな少年
 で、夫人とぼくが話をしているあいだじゅう、身じろぎもせず背を正して椅子にかけて
 いた。その端正さにはどことなく紳士を思わせる大人びたものさえあった。
・大抵の新人の子が眼を輝かせる壁いっぱいの児童画に対しても彼はまったく興味を示さ
 なかった。母親が彼の名を口にするたび、彼は敏感さと用心深さをまじえたすばやい眼
 差しでぼくの顔をうかがい、ぼくがなんの反応も示さないとわかると、またもとの無表
 情に戻った。その白い、美しい横顔にぼくは深傷を感じた。
・子供には子供独特の体臭がある。ぼくはいつもそれを自分の手足にかぐことができる。
 ところが、太郎にはそんなむんむんしたにごりがまったく感じられなかったのである。
 壁と本棚にある童話本やポスターやおびただしい児童画など、なにを見ても彼は顔色を
 動かさなかった。ときどき服の皺を気にしながら、ほっておけば二時間でも三時間でも
 彼は言われるままに椅子に坐っていそうな気配であった。  
・大田夫人は息子の薄弱さを訴えながらも、どことなく躾の良さを誇りにしているような
 ところがあった。もし後妻だということを聞いていなければ、ぼくはそのまま彼女を太
 郎の母親として信じてしまったかもしれない。彼女の口調や物腰はつつしみ深く、上品
 で、ドレスも淡い色のものを選んでいた。息子に対する善意の押しつけはさておき、彼
 女が外出好きで派手な性格だという山口の毒を含んだ説明を、少なくともその場でぼく
 は認める気になれなかった。
・ただ、彼女が小学校二年生の子供の母親として注意深く振舞っているにもかかわらず、
 どこか年の若さが包みきれずにこぼれるのは避けられないことであった。どうかしたは
 ずみに彼女の動作や表情のかげにはいきいきしたものがひらめいた。彼女が腕をあげた
 り、体を動かしたりすると、落着いたドレスの下でひどく敏捷な線が走るのにぼくは気
 がついた。彼女の顎にも首にも贅肉や皺のきざしはほとんどと言ってよいほど感じられ
 なかった。
・彼女は太郎のスケッチ・ブックを取り出した。彼女はそれを一枚ずつ操って、どういう
 ふうにして描かせたかという事情をいちいち丁寧に説明しはじめた。太郎はだまって礼
 儀正しい姿勢でそれを聞いていたが、ぼくは大田夫人からスケッチ・ブックを取り上げ
 ると、それとなく話題をあたり障りのない世間話にそらせてしまった。少し児童画の知
 識のある母親なら誰でもやりたがるように彼女は画で子供の症状を説明しようとしたの
 だ。子供のいる前でそんなことをやれば、せっかくの善意も負荷を残すばかりである。
 子供は画で現実を救済しようとしているのに傷口をつつき廻され、酸をそそがれたよう
 な気持ちになってしまう。その結果ぼくに提供されるのは、防衛本能から不感症の膜を
 かぶった恐怖の肉体だけである。大抵の子供はイソップの蛙である。母親の何気ない言
 動が彼らをおびやかし、自分でも原因のわからない硬化を暗部に起こして彼らは苦しん
 でいる。
・大田夫人は太郎に家庭教師とピアノ教師をつけていることを話したが、それが彼の自由
 をどれだけ殺しているかについては疑念を抱いていない様子だった。
・太郎はクレヨンを使っても、クレパスを使っても、電車や人形やチューリップばかり描
 き、どの画を見ても人間がひとりも登場していなかった。どの画用紙も余白が多く、描
 かれた線には対象への傾倒がまったく感じられなかった。とりわけ人間がひとりも画が
 かれていないという事実は彼の不毛をそのまま物語るもののごとくであった。
・太郎はアトリエにやって来ると膝を正して床に坐り、ぼくが言うまで姿勢を崩そうとし
 なかった。ぼくは子供に画の技術を教えない。フォルムや均衡や遠近法の意識は、ぼく
 が手をとって教えなくても彼らのなかにちゃんと埋もれているのだ。ぼくはそれを覆う
 破片の山をとりのけ、彼らに力をわかせる助けをするだけだ。彼らが自分で解決策を発
 見するまでぼくは詩人になったり、童話作家になったりして彼らの日常生活のなかを歩
 きまわり、ときどき暗示を投げるのである。
・ところが、太郎は何日たっても画を描こうとしなかった。自分のイメージに追われて叫
 んだり、笑ったりしている仲間の喧噪をよそに彼はひとりぽつんとアトリエの床にすわ
 り、物憂げな眼差しであたりを眺めるばかりだった。いつ見に行っても彼の紙は白く、
 絵具皿は乾き、筆もはじめ置かれた場所にきちんと揃えられたままだった。ためしにフ
 ィンガー・ペイントの瓶をさし出してみると、「服が汚れるとママに叱られるよ」彼は
 そう言って細い眉をしかめ、どうしても指を瓶に突っ込もうとしなかった。きちんと時
 間どおりにやってきて一時間ほど辛抱強く坐っては帰って行く彼の小さな後ろ姿を見る
 と、ぼくは大田夫人の調教ぶりに感嘆せずにはおれなかった。
・太郎の場合に困らされたのはぼくが彼の生活の細部をまっとくといっていいほど知らな
 かったことだ。鋳鉄製の唐草模様の柵で囲まれた美しい邸のなかで彼がどういうふうに
 暮らしているのか、そこで何が起こっているのか、ぼくには見当のつけようがなかった。
 ピアノ教師や家庭教師をつけて大田夫人が彼に訓練を強制し、また、作法についてもか
 なりきびしく彼を支配しているらしい事実はわかっても、太郎自身がどんな感情でそれ
 を受取っているのか、内心のその機制を覗き込む資料をぼくはなにひとつとして与えら
 れていなかった。彼はほとんど無口で感情を顔に出さず、ほかの子供のようにイメージ
 を行動に短絡することがないのである。
・フィンガー・ペイントがしりぞけられたので、ぼくは次に彼を仲間と一緒にぼくのまわ
 りに坐らせて童話を話して聞かせたが、その結果、聡明な理解の表情は浮かんでも、彼
 の内部で発火するものはなにもないようだった。話が終わると子供たちは絵具と紙を持
 ってアトリエのあちらこちらに散らばり、太郎はひとり取り残された。
・ブランコに乗せることもやってきたが、失敗だった。彼はぼくがこぎ始めると、必死に
 なってロープにしがみつき、笑いも叫びもしなかった。降ろしてやると、この優等生の
 小さな手はぐっしょり汗ばんで、蛙の腹のようにつめたかった。ぼくは自分の不明と粗
 暴を恥じた。 
・二十人ほどの画塾の生徒のなかに、ひとりかわった子がいた。彼には奇妙な癖があり、
 なにを描いてもきっちり数字を守らねば気がすまなかった。学校から遠足に行くと、何
 人参加して何人休んだかということを覚えておいて、つぎに画を描くとき、それをその
 まま再現するのである。
・ある日、彼は兄と一緒に小川でかいぼりをした。そして、その翌日、酔ったままぼくの
 ところへ紙をもらいにきたのである。彼はぼくから紙をひったくると、うっとりした足
 どりでアトリエの隅へもどってゆき、床にしゃがみ込むと、鼻をすすりながら画を描き
 だした。彼は一匹描きあげるたびにため息をつき筆をおき、近所の仲間にそのエビガニ
 がほかの一匹とどんなにちがっていたか、どんなに泥穴の底から引っ張り出すとおかし
 げに跳ね回ったかと雄弁をふるった。仲間はおもしろがって三人、五人と彼のまわりに
 集まり、口ぐちに自分の意見や経験をしゃべった。アトリエの隅はだんだん黒山だかり
 に子供が集まり、騒ぎが大きくなった。
・すると、それまでひとりぼっちで絵筆をんぶっていた太郎がひょっと立ち上がったので
 ある。見ていると彼はすたすた仲間のところへ近づき、人だかりの後ろから背伸びして
 エビガニの画をのぞき込んだ。しばらしそうやって彼は画を見ていたが、やがて興味を
 失ったらしく、いつもの遠慮深げな足どりで自分の場所へ戻って行った。ぼくのそばを
 通りながら何げなく彼のつぶやくのが耳に入った。「スルメで釣ればいいのに・・・」
・ぼくは小さな鍵を感じて、子供のために練っていたグワッシュの瓶を置いた。ぼくは太
 郎のところへゆき、いっしょにあぐらをかいて床にすわった。「ねえ。エビガニはスル
 メで釣れるって、ほんとかい?」ぼくは単刀直入にきりこんだ。ふいには話しかけられ
 たので太郎はおびえたように体を起こした。
・「ぼくはツバミミズで釣ったことがあるけど、スルメでエビガニというのは聞きはじめ
 だよ」ぼくが笑うと太郎は安心したように肩を落とし、筆の穂で画用紙を軽くたたきな
 がらしばらく考え込んでいたが、やがて顔をあげると、キッパリした口調で、「スルメ
 だよ。ミミズもいいけど、スルメなら一本で何匹も釣れる」
・「スルメはイカだろう、イカは海の魚だね。すると、つまり、川の魚が海の魚を食うん
 だね・・・」言ってから、しまったとぼくは思った。   
・彼はせき込んで早口で言った。「エビガニはね、スルメの匂いが好きなんだよ。だって、
 ぼく、もうせんに田舎ではそうやってたんだもの」太郎の明るい薄茶色の瞳には、はっ
 きりそれとわかる抗議の表情があった。ぼくは鍵がカチンと音をたてるのが聞こえたよ
 うな気がした。
・これは新発見であった。大田夫人からも山口からもぼくは太郎が田舎にいたことがある
 などとは一言も教えられていなかった。大田夫人が後妻だということを聞いても、ずっ
 とぼくは太郎が都会育ちだと思い込んでいたのだ。ただ、いままで伏せられていたこの
 事実にはどこか秘密の匂いがあった。  
・その翌日、ぼくははじめて差別待遇をした。月曜日は太郎は家庭教師もピアノ練習もな
 い日だったので、ぼくは彼を連れて川原へ出かけたのだ。ほかの生徒には用事があると
 言ってアトリエを閉めると、ぼくは正午すぎに大田邸を訪ねた。すでにぼくは太郎が母
 親といっしょに九州にいたことがあるのを彼の口から知っていたが、夫人には何も言わ
 なかった。   
・彼女はぼくから太郎を写生に借りたいと聞かされて、たいへん喜んだ。夫人は太郎のた
 めに絵具箱やスケッチ・ブックを用意した。いずれも大田氏の製品で、専門家用の豪奢
 なものだった。その日は夫人は明るいレモン色のカーディガンを着ていた。芝生の庭に
 面した応接室の広いガラス扉からさす春の日光を浴びて、彼女の体は歩き回るたびに軽
 い毛糸のしたで明滅する若い線を惜しむことなくぼくに見せた。
・しばらく応接室で待っていると太郎が小学校から帰ってきた。彼は部屋に入って来てぼ
 くを発見すると、驚いたように顔を赤らめたが、夫人に言われるまま、黙ってランドセ
 ルを絵具箱にかえて背にかけた。そんな点、彼はまったく従順であった。  
・太郎はデニムのズボンをつけ、ま新しい運動靴をはいた。「汚れますよ」ぼくが玄関で
 注意すると、大田夫人はいんぎんに微笑した。「「先生といっしょなら結構でございま
 す」口調は丁寧でそつがないが、ぼくはそのうらに何かひどくなげやりなものを感じさ
 せられた。
・太郎を連れて駅にゆくと、ぼくは電車に乗り、次の駅で降りた。そこから堤防まではす
 ぐである。ぼくのいそぎ足に追いつこうとして太郎は絵具箱をカタカタ鳴らしつつ小走
 りに道を走った。ぼくは太郎を連れて堤防の草むらを下りて行った。
・橋脚だけ残されたコンクリート橋の下でぼくと太郎は腰をおろした。橋は戦争中に爆撃
 されてから取り壊され、少し離れたところに鉄筋のものが新設された。 
・「今日は遊ぼうや。カニでもとろうじゃないか」「だって、ママが・・・」「画は先生
 が持って帰ったと言えばいいよ」「うそをつくんだね?」太郎はませた表情でぼくの顔
 を覗き込んだ。
・ぼくは葦の茂みのなかに入って行った。一足ごとに、おびただしい数の川ガニがいっせ
 いに走った。はじめのうち太郎は泥がつくことを嫌がっていたが、そのうち口にしみが
 一点ついたのをきっかけに、だんだん大胆に泥のなかへ踏み込むようになった。
・ぼくは太郎といっしょに息を殺して水底の世界をみつめた。水のなかには牧場や猟林や
 城館があり、森は気配にみちていた。
・池の声明がほぼ頂点に達したかと思われた瞬間、ふいに水音が起こって、ぼくは森に走
 り込む影を見た。ぬれしょびれた顔を水面からあげて、太郎はあえぎあえぎつぶやいた。
 「逃げちゃった・・・」茫然として彼はぼくをふりかえった。彼の髪は藻と泥の匂いを
 たて、眼には熱い混乱がみなぎっていた。そのつよい輝きを見て、案外この子は内臓が
 丈夫なのではないかとぼくは思った。  
 
・ニューヨークにひとりの少女が住んでいた。名前を忘れたので、仮に、キャル、とでも
 しておこう。彼女は小児マヒで小さいときからずっと病院暮らしだった。毎日ベッドに
 寝たきりの生活に退屈した彼女は、ある日、ふと思いついてベッドを窓際に移させると、
 看護婦に封筒と便箋をもらい、不自由な手で手紙を書いた。その日その日の病室の出来
 事を克明に書き込むと彼女は封をし、窓のあいているときをみすまして外へ投げた。毎
 日彼女はそれをせっせと続けた。窓の下には五番街の雑踏があった。二週間ほどすると、
 彼女のばらまいた日記に対して、マニラやリスボンやロンドンなど、世界中から激励の
 返事や贈り物が戻ってきた。キャルの手紙の宛名はいつも「誰かさんへ」となっていた。
・三カ月ほどまえにぼくはこの記事を「ニューヨークタイムス」で読んだ。まったくの偶
 然である。山口が本を返すときに包んできた新聞だったのだ。ぼくは大衆食堂でラーメ
 ンをすすりながらなにげなくこの記事を読んで、いかにもアメリカ娘らしいキャルの現
 実処理に感心した。
・ある日の夕方、ぼくはまったく突然衝動を感じてコペンハーゲンへ手紙を出すことを決
 心してしまったのだ。これは完全な不意打ちだった。ぼくは自分の体内でよみがえった
 小児マヒのキャルの強さに驚き、しかも計画がすでに隅から隅まで完備しているのを感
 じてたじたじした。
・その晩、ぼくは焼酎を一杯できりあげると、いそいでアトリエにもどり、辞書と下書用
 紙を机にそろえた。そして、単語の密林をさまよいながら、「デンマーク、コペンハー
 ゲン、文部省内児童美術協会御中」と宛名を書き、アンデルセンの童話の挿画を交換し
 ようではないかという内容の原稿を書いたのだ。とにかく誰かが読んでくれたらいいの
 だ。返事が来なければ来るまで何回でも書いてやれとぼくは辞書をひきながら酔いにま
 かせて考えた。原稿は翌日、図書館へ持って行き、タイプライターを借りて正式の手紙
 に打った。
・その手紙のなかでぼくは自分の立場と見解をつつまず述べた。自分が画塾をひらいてい
 ること。その生徒の数、年齢、教育法。ぼくは詳しく説明し、創造主義の立場から空想
 画が児童のひとつの解放手段であると思うことを説明した。そして、子供にアンデルセ
 ンの童話を放して挿画を描かせ、おたがい交換のうえで比較検討しようではないかと提
 案したのである。
・第一便に対しては何の答えも得られなかった。第二便についても同様だった。あともう
 一回書いて断念しようと考えて送った第三便に対して返事が戻ってきた。内容は全面的
 受諾の吉報であった。
・キャルにそそのかされてぼくは事を始めたのだったが、そのうちにこの話は思いがけぬ
 方向に発展しだした。第二便から一週間ほどして、ぼくは突然大田氏の秘書から、社長
 がぜひ会いたいと申しておりますから、という電話を受けたのである。その日の夕方、
 アトリエで待っていると迎えの自動車がやってきた。ホテルへ行くと大田氏は食卓を用
 意して、ひとりでぼくを待っていた。
・「息子がたいへん御厄介になっているそうで、いとどそのお礼を申し上げようと思いま
 してね」大田氏の挨拶は愛想がよかったが、会食の真意はそれではなかった。大田氏は
 ブランデーのグラスをもって食卓を離れてから要件を切り出した。意外だったのはぼく
 とコペンハーゲンの関係を彼が完全に知り抜いていることであった。「こえはすばらし
 いお考えですよ。なにから思いついたかしりませんが、敬服いたします」彼はそう言っ
 て胸のポケットから航空便箋とそれの翻訳文を取り出してぼくに渡した。読んで見てす
 べての事情が判明した。大田氏はぼくのとまったく同じ内容の提案をしたのだったが、
 ぼくのほうが一週間早かったのだ。
・「はじめはカッとなりましたね。負けたと思ったんですよ。ところがあなたの身元をさ
 ぐってゆくと、なんとこれが息子の先生じゃないか。二度びっくりというところです」
・その夜、ぼくは九時頃まで大田氏と話あった。彼の考えは、要するに、ぼくの案を全国
 的な運動として拡大しようというのであった。画を描くことが盛んになるのは根本的に
 ぼくも賛成だが、学校の先生が無理やり子供の尻をたたいてひとりでも多くの入選者を
 自分の級から出そうというのなら感心できない。入選した子供は得意になってそれ以後
 自己模倣を繰り返し、あとの子供たちはみんなその真似をするという危険がある。また、
 大田氏が自社製品を売るための宣伝事業としてこれをやるならぼくは先取特権に立てこ
 もりたい。この二つの留保条件をつけて、ぼくは彼に企画をゆだねることとした。
・帰途の自動車の中で彼はぼくにこの企画の顧問の位置を申し出た。ぼくの先取特権に対
 する譲歩を彼はそんな形であらわそうとしているらしかったが、ぼくは断った。ぼくは
 児童の原画がほしいだけなのだ。ほかに野心はない。
・大田氏は、創造主義の美育理論のことをぼくにたずねた。ぼくが画塾の教育方針をいろ
 いろ話すと「つまり、ひとくちに言えば子供には自由にのびのび描かせようというわけ
 ですね。いい思想ですね。私のほうもあやまりたい。つまりそのほうが、むかしより余
 計に絵具を使ってもらえますからな」ぼくはそれまでのコニャックの酔いが急速に潮を
 ひいて行くのをありかりと感じた。    
・この瞬間に受けたぼくの予想は十日後に緻密に組織化されてぼくの前にあらわれた。大
 田邸の書斎でぼくは全国の学校長に宛てた児童画の公募案内のゲラ刷りを見せられたの
 だ。挿画の審査員には教育評論家や画家や指導主事など、児童美術に関係のある人間、
 それも進歩派、保守派、各派の指導的人物をもれなく集めていた。さらにぼくは巻末の
 小さな項目を見て、計画が完全に書きかえられたのを知った。すなわちこの企画に応募
 して多数の優秀作品を出した学校には「教室賞」を与えようというのである。
・「賞金で釣ってもろくな画はできませんよ。子供は敏感だからおとなの好みをすぐさと
 ります。悪達者な画が集まるばかりですよ」「「賞金で釣ったってなんにもならんだろ
 うということはわかっております。しかし、日本全体としてみれば、せめて賞金でもつ
 けなきゃ画を描いてもらえないというのが現状じゃないですか。児童画による人間形成
 なんてお題目は結構だが、いざ進学、受験、就職となったら、画なんてどこ吹く風とい
 うのが実情です。だから少々悪達者でも、とにかく画を描かせること。このほうが、目
 下の急務じゃないですかな」 
・彼は自分の儲けを率直に告白し、損を打ち明けた。彼は子供を毒することを認め、子供
 を解放しようという。教育制度をののしり、しかもなお巨額の資金を寄付しようとする
 のだ。この口実のどれをとりあげても、ぼくは歯が立たない。ぼくには資料がない。彼
 が美徳によってあげる利潤をつきとめる資料が皆無なのだ。完全さにつきまとう嘘の匂
 い、それが鼻先に漂うばかりである。
・「太郎君の画をこぞんじですか?」大田氏は突然問題が思いがけぬ方向に変わったこと
 に戸惑ったらしく、二、三度眼を瞬いた。「どうも、わしは忙しいんでね」ぼくは彼の
 表情につよい興味を抱いた。
・ぼくは先夜も、彼が息子について通りいっぺんの挨拶をのぞいて何も積極的に発言しよ
 うとしないことに気がついたのだ。二人の話はすべてビジネスに終始していた。のみな
 らず、ぼくはこの書斎と邸の静かさが異様に感じられたのだ。今夜も大田氏は会社から
 秘書に電話をかけさせ、自分は書斎でひとりでぼくを待っていた。邸の玄関でぼくを迎
 えたのは太郎でもなく、夫人でもない。五十すぎの寡黙な老女中であった。
・「こないだ山口君から聞いた話では、学科は人なみということでしたな」「数字ではわ
 かりませんよ。画ですよ。太郎君は画が全然描けないんです。というより、描くべきも
 のを持っていないんですね」
・大田氏はしばらく困ったように微笑して頭をかいていたが、突然納得がいったように膝
 をたたいた。「わしに似よったんですよ。わしも子供のときは画が不器用で大嫌いで、
 そうそう、図画の時間になるともう頭から逃げることしか考えなかった。皮肉なもんで
 すな。それがいまは絵具屋の社長さん・・」「まあ、しかし、あなたを前にこういっち
 ゃなんだが、画はできなくても大学にはいけましょう?」
・ぼくはぼんやりと彼の顔を見た。そして、突然声をあげて笑いたくなった。とうとう大
 田氏は自分から不用意にも嘘を告白したのだ。
・彼の偽装にぼくは再び迷わされなかった。すでに彼はひとりの中老の口達者な絵具商に
 すぎなかった。なるほど彼は強大だ。デンマーク大使をそそのかし、文部大臣を篭絡し、
 日本全国の子供と教師を動員する。しかし息子の太郎はクレパス一本動かせないであえ
 いでいるのではないか。児童画の生理など、大田氏にはなにもわかっていないのだ。そ
 れは彼にとって器用不器用の問題でしかない。学校教育の実情が人間形成を考えないと
 いって攻撃するのはまったくお題目にすぎなかったのだ。彼は息子を大学に追いやるこ
 としか考えていないのだ。
・この家は考えると太郎そのものであった。美しくて、整理され、しみも埃もないが空虚
 であった。部屋は死んだ細胞だ。みんなそのなかに隔離されて暮らしている。声や息や
 波が壁をふるわせることなく、主人は自室で下宿人のように暮らしているのだ。
・「太郎君は人形の画しか描きません。これはお隣の娘さんとしか遊ばないからですよ。
 おまけに太郎君の画には人間がひとりも出てこない。お父さんの画もお母さんの画も出
 てこない。もともと描く気がないんですね」「それはどういうわけです?」「わかりま
 せん。お宅の事情を私はまだよく知りませんからね。ただ、太郎君が孤独だということ
 だけは事実です。不器用だから画が描けないのじゃないんです」
・「あなたが構わなすぎるようですし、奥さんが構いすぎるようにも拝見できます。あん
 な小さな子にピアノをやらせ、家庭教師をつけ、そのうえ画までやらせるというのは酷
 です」
・ぼくは安楽椅手を蹴るようにして立ち上がると、大田氏を待たないで廊下へ出た。廊下
 は清潔で明るく、乳黄色の壁は温かい微笑と不安をただよわせていたが、ぼくは病院か
 水族館を歩くような気がした。  
・屋台に寄ってから帰ろうと思って僕は駅へいった。タクシーに乗ろうとする女のそばを
 通りかかると、花束のような香水と酒の霧が鼻さきをかすめた。彼女は自動車に乗り込
 むと、ぐったり額を窓によせて外を見た。顔は青ざめていたが、彼女の眼は濡れたよう
 に激しくキラめいていた。誰が送ってきたのだろう。彼女の視線をたどったが、深夜の
 駅に人影はなかった。いそいで踵を返した瞬間、大田夫人を乗せた車は甲高い苦痛のひ
 びきをあげてぼくの横を疾過した。
・川原へ行った日から太郎とぼくとのあいだには細い道がついた。
・画塾には二十人ほどの子供がやってくるが、そのひとりひとりがぼくに向かって自分専
 用の言葉、像、まなざし、表情を送ってよこす。その暗号を解して、たくみに使いわけ
 なければぼくは旅行できないのだ。他人のものは絶対通用を許してもらえないのだ。
・太郎は友人がいない。彼は仲間に対して圧迫感を抱いている。母親に禁じられて彼は粗
 野で不潔な仲間とまじわることができず、いつもひとりぼっちでいる。その圧力を彼は
 画で排除しようとしていたのだ。
・ある日、ぼくはあらかじめ電話で在宅をたしかめておいてから大田夫人を訪ねた。彼女
 に会って確認しておきたいことがぼくにはいくつかあった。山口にはない特殊な立場が
 あったので、ぼくは大田氏に面と向かって太郎の歪形を訴えることができたが、当分彼
 は信用できそうになかった。彼は有能な商人かもしれないが父親としては資格皆無の男
 のようだ。
・どんな眼が現れるだろうかとぼくは軽い不安で待ったが、玄関に出てきた夫人は健康で、
 清潔で、一見、酒や終電とはまったく関係のなさそうな家庭人であった。
・しばらく挨拶を交したり、太郎の近況を話したりしているうちに、もはやぼくは後悔し
 はじめた。夫人はぼくにまったく警戒心を抱こうとせず、型どおりの良妻賢母を演じて、
 いささかも疑わないのである。先夜、駅前広場でぼくに見られていることに、彼女はま
 ったく気がついていないのだ。
・さらに大田夫人の良妻賢母ぶりに打たれたのはぼくが太郎の過去を発掘したいきさつを
 打ち明けたときであった。ぼくはためらいを感じながらそっとさしだしたのに、彼女は
 そのカードをみて何の動揺も起きなかったのだ。
・ぼくは手持ちの札が切れたのを感じた。ぼくは焦燥をおぼえて記憶を操った。はじめて
 夫人が太郎をぼくのところへ連れて来た日のこと、山口に対して辛辣で的確な評を一言
 下したこと、川原へ太郎を連れ出すときに言葉とはひどく裏腹な、投げやりな違和感を
 与えられたこと、そして夜更けの広場で垣間見た眼の異常な輝きと酒の霧。このなかで
 もっともぼくに気がかりなのは、ぼくの直感だけを頼りにした、あの散歩の日の玄関先
 での印象であった。
・彼女はあのとき、ぼくが、太郎の新しい運動靴をみて、川原で汚れるからと注意したの
 に対し、先生と一緒なら結構でございますと言ったのだ。それだけのことで、はっきり
 した意志の表示は何もない。そのくせぼくは何か氷山の下に沈むものを感じさせられた
 ような気がしたのだ。彼女には先妻の典型ぶりに対するあせりがあることは確かだ。子
 供のしつけに対する彼女の趣味にはどこか過剰なものがある。おそらくそれは山口の言
 うように彼女の善意からくるものにちがいない。その方向が誤るのは彼女の若さ、未経
 験さによるものだ。彼女は太郎を肉体で理解できていないのだ。だからきびしい訓練教
 育をほどこして彼を破産させてしまったのだ。しつけの厳しさを非難されることを口に
 はするが、彼女は果たしてどれだけそれを自覚していることだろうか。
・「太郎君は少し孤独すぎるようですね。太郎君はちっとも友だちのことを画に描かない。
 もう少しみんなと遊ぶようにおっしゃってください」「子供には子供の世界があります
 からね」「泥まみれでも垢だらけでもよいから環境と争えるだけの精神力をもった子供
 をつくりたいですね。そういう子供の画こそ美しいし、迫力もあるんですよ。いまのま
 まじゃ太郎君はさびしすぎます」
・「・・・でも、孤独なのは太郎ばかりじゃございませんわ」彼女はそう言うと窓にちら
 りと眼をやり、何ごともなかったようにすぎ編針を動かしにかかった。その手は感情を
 隠してよどまずたゆまず毛糸のうえを流れた。ぼくは彼女に一瞬ひどく肉にあふれたも
 のを感じさせられた。ぼくは彼女の眼のなかをのぞきたい欲望を感じた。きっとそこに
 は短切夜の輝きが発見されるはずであった。
・ぼくは口まで出かかった言葉をのみこんだ。彼女の手の速さがぼくをこばんだ。ぼくは
 体のまわりに壁と扉と、そして静かすぎ、堅固すぎる朝を感じて足を踏み出せなかった。
 はじめて太郎の画を見たときに感じた酸の気配をぼくは夫人の皮膚のしたにもまざまざ
 と感じて沈黙におちた。大田氏が部屋を陰険に領してした。あきらかに夫人は編んでい
 るのではなく、殺しているのだった。
・大田氏は終戦直後にそれまで勤めていた絵具会社を辞めて独立し、自分で工場を建てて
 クレヨンやクレパスなどの製造をはじめた。工場といっても、創業当時はカルナパ・ワ
 ックスやパラフィンなどの原料油を釜で煮て顔料と混ぜ合わせて、それをいちいち薬缶
 で型に流し込んで水で冷やすというような手工業であった。それを彼は数年のうちに市
 場を二分するまでの勢力に育て上げたのだから、おそるべき精力であった。その間、彼
 は妻子を故郷におき、自分は工場の宿直室で寝泊まりして妻子を忘れ、月に一度仕送り
 をするときをのぞいてはほとんど手紙を出さす帰省もしなかった。自分が食うに困るほ
 どの破綻に追い込まれても仕送りを絶やすようなことは絶対しなかったが、それは後に
 なって考えると事務家としての正確への熱度が主であったようだ。妻が死んだとき、彼
 は業者の会合で主導権を握るための画策に忙殺されて、かろうじて骨壺をひきとるため
 に一日帰省しただけであった。そして、足手まといになるばかりだからと称して太郎を
 自分の実家にあずけたまま顧みようとしなかった。
・父親の愛撫の記憶もろくに持たないで捨てられている太郎を引き取ったのは、いまの大
 田夫人である。彼女は大田氏の僚友で、絵具会社の重役の親類にあたる旧家の出身であ
 った。彼女の実家は事務機械製造を営んでいたが、当時は事業不振で、資金面で大田氏
 から多大の援助を受けていた。そのため、彼女が大田氏と見合結婚をしたとき、人びと
 は彼女が金銭登録器と一緒に買い取られたのだと陰口をきいた。
・再婚後も大田氏の冷感症は回復しなかった。彼は事業が安定期に達しても安まることを
 知らなかった。彼にはゴルフから畜妾に至るまでの道楽らしい道楽は何ひとつとしてな
 く、力のすべてを販売網の拡張と新企画につぎ込んで、家庭をまるで念頭におかなかっ
 た。没落家族の旧邸を買い取り、葉巻をくゆらし、コニャックを飲んでも、彼は依然と
 して工場の宿直室に寝泊まりしているような考えでいるらしかった。
・ただ強いばかりが取得のこの商人を前にして、大田夫人は当然、方向を失ってしまった
 のだ。聡明な彼女は不和のつめたさを表面に出すまいとしてみのることのない努力と工
 夫を繰り返した。彼女は夫に早く諦めをつけると太郎の塑型に熱意をそそいだが、その
 結果はぼくのところに持ち込まれた不毛の肉体でしかなかった。
・彼女がどれほど苦労しても太郎は彼女をイメージとしてとらえることができなかった。
 彼は継母の善意を支えるものが孤独であることを敏感にかぎとっておびえ、暗部に後退
 し、チューリップと人形を繰り返すことで防壁を築きあげたのだ。夫人はPTAに出席
 し、百貨店の教養の会に入り、ピアノ教師を呼び、家庭教師をつけ、友人を選択したが、
 太郎にはそれがことごとく抜け道のない網としか受け取れなかったのだ。夫人は太郎を
 起居動作で支配しながら彼の内部はまったく支配できなかった。彼女は母親として若す
 ぎ、妻としては孤独すぎた。  
・「大田のおやじさんには仕事がある。太郎には君がついた。しかし、マダムには行き場
 がないんだね。こないだの晩も画を描いているところへふいにやって来られてね、なに
 やかやしゃべっているうちに飲もうということになったんだ。酒場を何軒歩いたかなあ、
 俺は告白されるのが苦手だから酒で逃げることにしたんだ。飲まなきゃ、なんだか生臭
 いことになりそうだったからな」山口はめずらしくシニシズムのない口調でつぶやいた。
・「あんなおとなしい奥さんでも荒れるんだね。根気もわめきもしないが、とにかく飲ん
 だね。俺はたじたじしたよ。なんでも彼女のいうところでは、君には感謝はするが、一
 緒に飲む気にはならなかったそうだ」「どうして?」「一種の嫉妬だろうね」「私が何
 年かかってもやれなかったことをさっさとやってしまいそうだとかいって、えらく君の
 ことをほめてたよ。君は太郎を彼女からとってしまったんだ」
・川原へ行く日に玄関先で彼女から感じさせられた投げやりな印象、ひどくうらはらな違
 和感は彼女の孤独のサインだったのだ。どういうきっかけで彼女が邸から抜け出す衝動
 を覚えたのかはわからないが、彼女は自分の衰弱にいたたまれなかったのだろう。明る
 い灯に照らされた壁のなかで毛糸を編んでいるうちに、とつぜん彼女は指が死ぬのを感
 じだのだ。何時間か後に駅へ戻ってきたとき、彼女はアルコールの力で鉱物より固く凝
 集し、輝いていた。あのとき声をかけたらぼくは彼女から知恵や礼節や暗示でない、も
 っと距離の短い苦痛の言葉を聞くことができただろう。彼女の眼はガラス窓の向こうで
 膜をやぶって光っていたのだ。彼女は緊張で青ざめ、何を考え、何を見つけていたのだ
 ろう。 
   
・子供たちはみんなコンクールのことを知っていた。教室で先生から言われたために、ぼ
 くのところへ、どう描いたらよいかを聞きにくる子もあった。しかし、ぼくは自分の生
 徒をコンクールに応募させる気持ちにはなれなかった。アトリエの隅で画の宿題をして
 いる彼らの作品を見ると、恐れていた徴候がまざまざと現れていた。彼らは先生の話し
 た童話を街に氾濫する像と色でとらえた。子供雑誌や童話本などにある挿画を真似て彼
 らは描きだしたのだ。どれほどすぐれていてもそれらの画はおとなの作品だ。彼らは教
 師にせかれるために自分の努力を捨てて安易な模倣の道を選んだのだ。
・太郎の過程の状況を知ってみると、いよいよ手のつけられないような気がした。大田夫
 妻は何年もかかって太郎をそれぞれの立場から黙殺するか、扼殺するかしてきたのだ。
 家庭のつめたい子は何人もいる。しかし彼らはたいてい貧しいか、富みすぎていないか
 で、生活を持ち、友人があり、土の匂いを身につけていた。ところが太郎には何もない
 のだ。  
・その不安は、しかし、やがてぼくのなかでおぼろげな期待に変わりだした。太郎が少し
 ずつ流れはじめたのだ。ぼくと話しあったり、画塾の空気になじんたりしているうちに、
 彼は遠慮がちながらもまじわって、一緒に公園や川原で遊ぶようになったのだ。そうし
 て変化は緩慢であった。何日もかかて彼はそっと仲間のなかへ入っていき、めだたぬ隙
 に身をおいて、まわりでひしめく力や声をおびえつつ吸収した。家庭や学校にまったく
 生活のないことが、この場合かえって彼をアトリエにひきつける大きな要因となったよ
 うだ。 
・もう二度と彼はチューリップや人形を描かなくなった。そのときどきの気持ちに従って
 彼は仲間や動物や山口やぼくをつぎつぎと画にしていった。彼の画に人間が登場してう
 ごきはじけた以上、ぼくは整形をあせる必要がなかった。ぼくは彼の姿勢がくずれない
 ように後ろから支えていてやればよかった。ぼくは何回と知れず彼にさまざまな行動を
 教えてやったがその末にわかったことがひとつあった。やはり彼はどうしても父や母の
 像を描かなかった。
・ある月曜日の夜、ぼくは突然家の外でとまる自動車のきしみを聞いた。アトリエに電燈
 をつけ、玄関の扉を開けると、運転手が太郎を連れて立っていた。運転手はぼくを見る
 と恐縮して制帽をとり、頭をかきながら説明した。「坊ちゃんがどうしても連れて行け
 って聞かないもんですからね。ちょうど奥さんも旦那さんもいらっしゃらなくて、さび
 しいらしいのです。なんでも画を見てもらうんだとかおっしゃってるんで、すみません
 が、先生ひとつ・・・」
・ぼくは、まだべっとりと絵具のぬれている画用紙を一枚ずつベッドにならべた。それを
 見てぼくは太郎が邸で何をしていたかがすっかりわかった。彼は昨日の日曜日にぼくの
 話したアンデルセンの童話を画にしたのである。その反応は太郎の画のひとつずつには
 っきりあらわれていた。「マッチ売りの少女」や「人魚のお姫様」や「シンデレラ」な
 どがたどたどしい線と、関係を無視した色彩とでとらえられていた。ぼくは詳しく各作
 品を調べてみて、太郎のめざましい成長と努力を感じた。
・ぼくは五枚の作品を一枚ずつ観察してはベッドの横においた。最後の一枚が色の泥濘の
 したからあらわれたとき、思わずぼくはショックを感じて手をおいた。ぼくは坐りなお
 してその画をすみずみまで調べた。この絵はあとの四枚とまったく異質な世界のもので
 あった。越中フンドシをつけた裸の男が松の生えたお堀端を歩いているのである。彼は
 チョンマゲを頭にのせ、棒をブンドシにはさみ、兵隊のように手をふってお堀端を闊歩
 していた。その意味をさとった瞬間、ぼくは噴水のような哄笑の衝動で体がゆらゆらす
 るのを感じた。
・ぼくは画を投げ出すと大声をあげて笑った。ぼくは膝をうち、腹をかかえ、涙で太郎の
 顔がにじむほど笑った。ベッドの横の机に転がっていた中古ライターに没頭していた太
 郎はぼくの声にふりかえり、きょとんとした表情で、笑いころげるぼくを眺めた。 
・太郎はぼくのさしだす画を眺めたが、すぐつまらなそうに顔をそむけてライターをカチ
 カチ鳴らせにかかった。ぼくはベッドから飛び出すと机の引き出しをかきまわして、ね
 じ回しを見つけ、太郎の膝に投げた。「分解してごらんよ」「それは君にあげる」太郎
 の眼と頬に花がひらき、火花が散った。彼はねじ回しをつかむと、ライターを攻撃にか
 かった。 
・実験は完全に成功した。途方もない成の功だ。昨日、ぼくは「皇帝の新しい着物」を話
 してやったのだが、話す前にぼくはこの物語がほかの物語よりはるかに装飾物が少ない
 ことを発見して、即興で抽象化を試みたのだ。
・「むかし、えらい男がいてね、たいへん見え坊な奴でな、金にあかせて着物をつくっち
 ゃあ、一時間おきに着かえては、どうだ男前だろう、立派にみえるだろうと、いばって
 いた・・・」そんな調子でぼくはこの物語の骨格だけの寓話に書きかえてしまったので
 ある。「皇帝の新しい着物」では権力の虚栄と愚劣という、物語の本質を理解させてや
 りたかったのだ。
・太郎はそれを「大名」というイメージでとらえた。そのため背景には松並木とお堀端が
 登場したのだ。太郎は父親にすてられて生母と一緒に村芝居を見に行った。自家用車や、
 唐草模様鉄柵や、芝生や、カナリアなどというものにかこまれて暮らしていながら越中
 フンドシとチョンマゲがさまよいこんだのはぼくの話が骨格だけで、なんの概念の圧力
 もないために、むかしの記憶が再現されやすかったからだ。おそらくこの画のイメージ
 は村芝居の役者と泥絵具の背景であろう。
・ベッドに寝そべってライターいじりに夢中になっている太郎をぼくは新しい気持ちで眺
 めた。彼は孤独を救うために午後いっぱいかかって画を描いたのに、もうふり向こうと
 もせずライターを鳴らしたり、たたいたりしていた。こんな子供の精力にはいつものこ
 とながらぼくは圧倒される。新しい現実から現実へと彼らはなんのためらいもなく飛び
 移ってゆくのだ。どんな力の無駄も彼らは意に介しないのだ。
・それら一時間ほどぼくは乱雑な小部屋のなかで太郎と遊んだ。腕相撲をとったり、五目
 ならべをしたりして、最後には紅茶をわかした。  
・太郎は夜道を歩きながら、中古ライターをカチカチ鳴らせてぼくと一緒に家へ帰った。
 太郎邸に着いて呼鈴を鳴らすと、老女中が急いで出てきた。彼女はぼくに厚い礼を言っ
 たが太郎の両親がそれぞれどうしているかについては用心深く口をとざした。しかし、
 みたところ広い邸内で電燈のついている窓はひとつしかなく、あとはひっそり静まりか
 えっているようだった。女中に手をひかれて暗がりのなかへ消えていく太郎の小さな後
 ろ姿を見送ってぼくは苦痛の感情を体の底に抱いた。ライターやふとんのことを陽気な
 高声で報告する太郎の足音は軽く踊りながら沼に吸い込まれていった。
・ぼくは家に帰ると、もう一度、太郎の描いた裸の王様の画を取り出して、つくづく眺め
 た。今日、やっとあれは自分の世界をつかみ、それを組みたて、形と色彩をあたえるこ
 とに成功した。王冠とカイゼルひげの代わりにチョンマゲと越中フンドシを描いた彼に
 ひとりの批判者を感ずるのは、この場合、不当なことであろう。批判は物語にあったの
 だ。ここにあるのはあくまでも太郎の世界である。彼は誰にも助けを借りずにそれを構
 築したのだ。太郎はあくまでも内心の欲求にしたがったのだ。
・イメージの傾倒といった点からみれば、裸の王様には夾雑物がなにもないのだ。そこで
 はアンデルセンが完全に消化されていた。太郎はぼくから暗示を受けた瞬間にこの人物
 と風景をみたはずだ。彼はまっすぐ松並木のあるお堀端にむかって歩いていき、虚栄心
 の強い 権力者がたまされて裸で闊歩するあとをつけていったのだ。そのときほど彼が
 壁や母親から遠く離れて独走している瞬間はこれまでにかつてなかっただろう。彼は父
 親を無視し、母親を忘れ、松と掘とすっ裸の殿様をためつすがめつ描きあげ、つぎに中
 古のライターを発見した瞬間、その努力のいっさいを黙殺してしまったのだ。

・それからしばらくたったある日、ぼくは大田氏の秘書から電話をもらった。児童画コン
 クールの審査会があるから出てこいというのである。ぼくは太郎の画を新聞紙に包んで
 会場の公会堂へ出かけた。
・彼はぼくを連れてテーブルからテーブルに案内した。画家や教育評論家や指導主事など、
 各界各派の審査員がテーブルについていたが大田氏はその誰ともそつなく挨拶を交し、
 冗談を飛ばし、笑いあって、円転滑脱の様子であった。彼は審査員の後ろをそっと歩い
 て、床に画が落ちていると拾いあげ、奢らず、誇らず、たくみに快活な慈善家として振
 舞った。彼はすべての審査員を支配しているのにもかかわらず、そんな表情はおくびに
 も出さなかった。   
・ひとりひとりの審査員に彼はいんぎんに頭をさげて歩いた。壇上でホールを見下して高
 笑いしたときとはうってかわった態度であった。こんな商人のしたたかさには、ぼくは
 ついていけない。  
・ぼくは大田氏から離れてホールを一巡したが、画を見てすっかり失望してしまった。 
 審査員たちは各派さまざまな理論を日頃主張しているのに、ここではまったく公平であ
 った。どのテーブルにも申し合わせたように同じような画が選ばれていた。彼らは公平
 であるばかりか、正確で、美しくて、良識に富み、よく計算していた。ことごとくその
 ような画が選ばれているのだ。どの一枚をとってもそのまま絵本の一頁になりそうな、
 可愛くて、秩序があって、上手で微笑ましい画ばかりであった。ぼくにはこの部屋にあ
 るものすべてが趣味のよい鋳型の残骸としか考えられなかった。いったい、何万冊の絵
 本が手から手へ、家から家へ流れたことであろう。
・「これは外交事業としては意味あるけれどね、それだけだよ。あとは大田のおやじさん
 が儲けるだけだよ。それに、君たちの選んだ画は描かされた画ばかりで、ちっとも子供
 の現実が出ていないじゃないか」と山口にぼくは言った。
・ぼくは「裸の大様」と書いたテーブルにまっすぐ歩みよると、いちばん上にあった一枚
 をすばやくとり、山口に見えないように床にかがんで、それまで、新聞に巻いて持って
 いた画をほどいた。ちょうど審査が完了したらしく、大田氏を先頭に審査員一同がどや
 どや戻ってきた。ぼくはずかずかと山口に近づくと、テーブルに二枚の画を投げつけた。
 一枚では王冠をかぶったカイゼルひげの裸の男が西洋の銃眼のある城を背景に歩き、一
 枚では越中フンドシの裸の殿様が松並木のあるお堀端を歩いていた。
・山口は二枚の画を見比べてはっきり虚をつかれた表情をうかべた。当然だ。ぼくだって
 実際これがとびだすまでは予想もできなかったのだ。山口は越中フンドシをすばやく裏
 返したが、名前もなにも書いていないのをみて、けげんそうな表情でつぶやいた。「農
 村か漁村の子だろう・・・」   
・ぼくは彼の敏感さにひそかに脱帽しておいて言葉を続けた。「この二つをくらべたらど
 ちらが日本の子供かわかるじゃないか。どちらがアンデルセンを地について理解したか、
 どちらが正直か火を見るよりはっきりしているよ。どうして王冠が入選してフンドシが
 落選したか」ぼくの声は思わず高くなった。山口はあたりをはばかってみじめな顔をし
 た。
・「フンドシが落選したのは君たちが輸出向きの画しか選らばないからだ。今日の入選作
 はみんなこの王冠式の画じゃないか」ぼくはまわりでこころよい疲労をコーヒーととも
 に楽しんでいる男たちを計算に入れて声をあげ、席についた。 
・ひとりの男が立ち上がり、それをきっかけに二、三人の男がどやどやとテーブルのまわ
 りにつめよってきた。「なんだい、これは」「ふざけてるんだろう?」「アイデアはお
 もしろいけど、これは理解の次元が低すぎるんですよ。アンデルセンほど国際的な作家
 をこんな地方主義で理解させるなんて、これは先生の責任です」「フンドシと王冠とど
 ちらが生活的かなんて、わりきれたもんじゃないよ。子供の生活は絵本と直結している
 んだからな」「この画はみたけどね、落としたんだ。輸出向きとかなんとか、そんな大
 げさなことじゃない、これは下手なんだ。だから落とした。あたりまえじゃないですか」
・そのとき、人ごみのうしろから大田氏が顔を出した。みんなはパトロンのために道をひ
 らき、いかに殿様がふざけた、趣味のわるい、そして下手な画であるかを口に説明した。
 大田氏は葉巻を指にはさみ、にこにこ笑いながら画を眺めた。そして、彼は彼としても
 っとも正直な意見を述べた。「たっぷり塗り込んでいますな、なかなか愉快じゃないで
 すか」彼はそれだけ言ってひきさがった。
・すると、それまで黙っていた山口が体をのりだした。彼はぼくの顔をみつめ、よく言葉
 を選んで静かに言った。「わかったよ、君。この子供は正直に描いたんだ。下手は下手
 なりに自分のイメージに誠実だ。フンドシと王冠とどちらが地についたものか、それは
 大きな問題だけれど、とにかくこの子はアンデルセンを理解した」
・ぼくはまわりにたちふさがった男たちをひとりひとり見上げた。彼らは自尊心に満ち、
 若い山口のでしゃばった役柄に軽い反感を示しながらも、自分たちの紐帯を感じ合って
 自信たっぷりに腹をつきだしていた。彼らの眼にあるのは知的か寛容か、軽蔑か、教養
 ゆたかな微笑、そのいずれかであった。
・彼らは安心し、くつろぎ、栄養の重さを感じて傲慢に立っていた。ぼくはその様子が我
 慢ならなかった。彼らは子供の生活を知らず、精神の生理を机でしか考えず、自分の立
 場を守るためにしかしゃべっていなかった。彼らは子供にだまされていることを知らな
 いのだ。子供は少子の強制を避けるため、教師の弱点を見抜いて教師の気に入るような
 画しか描いていないのだ。
・この申分のない「鑑賞者」たちは色彩と形のうしろにひそむおびえた暗部や、像に満ち
 た血管や、たえず脱出口を求めて流れやまない肉体を何ひとつとして理解することがで
 きないのだ。彼らは商人に買われ、自分をだまし、校長と教師をそそのかし、二千万人
 の鉱脈を掘り荒らしただけだ。
・ぼくは裸の殿様を巻き取りながら山口に静かに言った。「だまして悪かったがね、これ
 は応募作じゃないんだ。俺が持って来たんだよ」山口の顔から微笑が消えた。「君の画
 塾の生徒かい?」誰が描いたんだ?」ぼくは講壇の隅のテーブルでひとり静かに葉巻を
 くゆらしている中老の男を眼でさした。「太郎君だよ」
・山口は色を失った。ぼくはまわりにひしめく男たちの顔をひとりずつ見渡して、「この
 画を描いたのは大田さんの息子さんです。山口君の生徒ですが、画は私が教えています」
・ぼくは椅子に腰をおろしたまま、ハンカチをもった画家や、ふちなし眼鏡の男や、赤ら
 顔や、そのほか名の知れぬつめたい眼、増悪の額、ひきつった眉を眺めた。ぼくはひと
 りずつ眼を合わせ、相手が視線をそらせるまで見つめて、次に移った。この瞬間、壇上
 には声と息が死に絶え、ぼくは自分に向かって肉迫の姿勢をとった重たい体をいくつも
 ひしひしと感じた。誰かが声を出せばぼくはたちまち告発の衝動に走っただろう。ぼく
 はかつてそのときほど濃密な感情で太郎を愛したことはなかった。
・審査員たちは息苦しい沈黙のなかで互いに顔を見合わせ、山口を見た。彼はさきほどの
 激しい眼差しを失って肩を落とし、みすぼらしげに髪をかきあげた。壇上から審査員を
 侮蔑し、画家をののしった自身と衒気はもうどこにもなかった。彼は細い首で大きな頭
 を支えた、みじめなひとりの青年にすぎなかった。すでに彼は画家でもなく教師ですら
 なかった。
・緊張はすぐとけた。審査員たちは山口を見放した。彼らはそっと背を向け、ひとり、ふ
 たりと礼儀正しく壇を下りて行った。画家はひっきりなしに顔をぬぐい、教育評論家は
 つんと澄まし、指導主事は世慣れた猫背で、それぞれ大田氏にかるく目礼をしながら去
 って行った。大田氏は何も知らずにいちいち丁寧に頭をさげ、満足げに微笑して全員が
 立去るのを見送った。 
・激しい憎悪が笑いの衝動に変わるのをぼくはとめることができなかった。