フーコン戦記  :古山高麗雄

この本は、今から21年前の2003年に刊行されたものだ。
この本のタイトルにある”フーコン”とは、旧ビルマ(現ミャンマー)北部にある東西30
キロから70キロ、南北200キロの広大な谷地でジャングル地帯のようだ。
大東亜戦争(太平洋戦争)時において、日本軍は、インパール作戦が成功するまで、この
フーコン谷地を死守るよう通称菊兵団と呼ばれた第18師団4000人をこのフーコン地
区へ送り込んだという。
しかし、インパール作戦の失敗により、フーコン地区の第18師団は、援軍もなく補給路
も断たれた。そしてついに連合軍の攻撃で追い詰められ、散り散りとなって敗走すること
になったようだ。このフーコンでの戦闘で、第18師団4000人のうち、3000人以
上が戦死したと言われている。
この本の著者も当時のビルマ戦線に一等兵として従軍の経験があるようで、その経験をも
とにこの作品が書かれているようだ。
なお、この本の著者の父親は、宮城県刈田郡七ヶ宿村(現七ヶ宿町)の出身のようで、
その実家のあった場所は、現在は七ヶ宿ダムの湖底に沈んでいる。
また、この本の著者も父親の本籍地の関係から入営したのは、仙台の歩兵第四連隊に配属
されたようだ。

この作品では、フーコンの戦いから片腕を失いながらも生還した村山辰平という老人が主
人公だ。辰平は、戦後も、片腕だけの体にもかかわらず、懸命に働き、結婚し子をもうけ、
孫にも恵まれた。
しかし、やがて妻に先立たれ、今は侘しい男やもめの生活を送っている身の上である。
辰平には、フーコンを共に生き抜いた唯一の戦友である戸之倉晋がいたが、辰平にとって、
戸之倉は戦友ではあったが、親友ではなかった。二人は時々会うことはったが、フーコン
時代の話を語り合うことはなかった。
また、辰平は戦友会や傷痍軍人の集いなどに出席することもなかった。なぜなら、出席し
ても、フーコンでの戦友はほとんど戦死してしまったので、出席しても顔見知りの者はい
なかったからである。
ある日、そんな辰平のもとに、フーコンで夫が戦死したという中川文江という女性が訪ね
て来た。夫が戦死したフーコンの話を聞きたいというのであった。辰平は、いままでフー
コンのことをあまり思い出したことがなく、ほとんど忘れてしまっていたが、文江とフー
コンの話をするにつれて、徐々に当時のことを思い出すようになってきたのだった。
それと同時に、辰平は文江に対して助平な妄想も抱くようになる。古希を過ぎ、もうあれ
が立たなくなってしまったというのに、男の助平心だけはいまだに健在であるという、侘
しさと生々しさが同居した老人姿が描かれておいり、ついわが身と置き換えてしまう。
戦争では、国家が赤紙一枚で国民を召集し、そして見知らぬ戦場に送り込み、他国を荒し、
そして野垂死させた。
あの時代、徴兵を拒む者は、悪質も良質も、情状酌量もない、蔑む犯罪者であって、本人
だけでなく、家族親族までが迫害された。そして国民は、それを当然のこととして受け止
めたのである。
昨今の政府は、集団的自衛権の行使容認だの、敵基地攻撃能力だとのと、戦争へ前のめり
だ。さらに先般は、岸田首相がアメリカに国賓待遇で招かれ、有事の際、日本の自衛隊は
アメリカ軍の指揮下に入ることまで宣言している。これはどういうことを意味するのか、
われわれ国民はよく考えなければならない。
国家の名のもとに、赤紙一枚で、われわれ国民が戦地に起きり込まれるような時代が、ふ
たたび来ることを、なんとしても阻止しなければならない。



・昭和20年、菊第8902部隊は、北ビルマから南下して、メイクテーラ奪還作戦をや
 った。
 奪還作戦と言っても、あのような状況になっては、もちろん、奪還などできるわけがな
 い。
 あれは、すでに戦力を失った日本軍の、最後のあがきのようなものであった。
 敵機甲兵団のM4戦車の数は2千輛だという。
 これに対して、日本軍は、M4よりはるかにひ弱な、小型の戦車を3輛投入したのだと
 いう。
 2千対3である。メイクテーラの空もまるで英印軍のものだった。
 日本軍には、もう、ろくな兵器も資材もなかった。
 三八式銃やわずかばかりの手榴弾、すでに消耗し尽くして、敵の百分の一もあったかど
 うかの砲と砲弾では、わが物顔に飛び交う敵機や、連なって向かって来るM4戦車に、
 対抗する術はなかった。
・菊8903は、村山辰平が召集された大村の歩兵第55聯隊の防諜号だが、55聯隊と、
 菊8903の56聯隊が、フーコンで壊滅した歩兵聯隊である。56聯隊は久留米の聯
 隊である。菊兵団こと第18師団のもうひとつの歩兵蓮癩は、小倉の114聯隊で、
 114はミイトキーナで壊滅した守備隊の基幹であった。
・第55聯隊は、フーコンの後、バーモに南下して戦い、さらに南下して、メイクテーラ、
 ピョーベ、ピンマナなどで、英印軍と戦った。
 そして、わずかな生き残りが、シャン高原山脚道を通って、シッタン河の東岸に退いた
 のである。
・シッタンの要地確保のための戦闘、あれが、大東亜戦争の、村山辰平の最後の戦闘にな
 ったのであった。 
・あれが俺の、最後の、運命の戦闘だったのだ、と辰平は思う。
 もし、もう一週間か十日、玉音放送が早かったら、俺は片腕を失わずに帰ってきたかも
 しれないのだ。 
 逆に、もう一週間か十日、玉音放送が遅かったら、俺は死んだかもしれないのだ。
 運だなと思う。戦争に行って、あんな目に遭うと、何だって運だなと思うようになる。
・昭和18年に大村の55聯隊に召集されて、20年の玉音放送まで、死と紙一重のとこ
 ろにいて死ななかったのも運。
 シッタン東岸の部落でゲリラに襲われて腕を失ったのも運。
 人によっては、負傷して第一線から後送されて、命を拾った者もいる。
 負傷して消耗し、動けなくなって野垂死にした者もいる。すべて運。
・玉音放送が、もう一週間か十日早かったら、といって、それも運である。
 しかし、あの時期、あの場所で被弾したのは、あるいは幸運である。
 おかげで俺は生き長らえているのだ。
 あの時期、あの場所だったから、俺は英印運の野戦病院に収容されて助かったのである。
 もし、フーコンでこれだけの怪我をすれば、間違いなく俺は死んだだろう。
・それにしても、フーコンというビルマの地名を知っている人が、今のこの日本に、どれ
 だけいるだろう。 
・フーコンはビルマの僻地の名だ。
 フーコンは、インパールのように知られていないのだ。
 ビルマと言えば、インパールだ。
 インパールは、ビルマではなくインドの地名だが、インパール作戦は、その悲惨が、
 マスコミで繰り返し語られ、有名である。
 累々と続く死体と死にかけている兵士の幽鬼のような姿。
 けれども、フーコンも悲惨であった。
 そして、インパールもフーコンも、そして中国雲南省の拉孟、騰越、龍陵などの戦いも、
 天王山などというものではなく、みんな必敗の戦闘だったのである。
・どうやったって勝ち目のないのに、ふた言目には大和魂なんて言いやがって、チョンマ
 ゲ時代の戦争ではないのだ。  
 軍のお偉方というのは、どうかしていたのだ。
 食う物もなく、兵器も兵員も少なく、にもかかわらず、あれほど大規模の戦争をしたの
 は、正気の沙汰ではない。
 だがわが国は、正気の沙汰ではない戦争をしたのだ。
 おかげで、おびただしい人が死に、俺は、フーコンで死にそこなったのだ、辰平は思っ
 た。
・フーコンとは、カチン族の言葉で、死の谷のことだという。
 首塚という意味だという人もいるが、いずれにしても瘴癘の地である。 
 病原菌に満ち、毒虫、毒草に満ち、毒蛇や猛獣の棲息する密林と特太の茅の原に覆われ
 た蛮地である。
・英仏軍は、この谷地を経て中国に通じる援蒋の輸送路”レド公路”を作ろうとし、日本軍
 はそれを遮断しようとして戦ったのである。
・モガウンからモガウン河に沿って北上すると、カマインという村がある。
 日本軍の敗色が濃くなり、カマインからモガウンへの河沿いの道が通れなくなって、工
 兵隊が輸送路として作った伐開路が、菊の将兵の名づけた”筑紫峠”で、それがフーコン
 からの脱出路になったのだ。
・筑紫峠も、辰平は忘れることができず、フーコン、という言葉を聞けば思い出すのであ
 った。
 サモウの野戦病院というのか、患者収容所というのか、あれもひどいものであった。
 患者が多くて、とてもあの瀬降り病棟に全部を収容しきれず、土の上に、何人もの患者
 が横たわっていた。
 雨が降ると、そこでそのまま打たれて、ずぶぬれに濡れていた。
 そのような患者が次々に死んだ。
 死体は、共同の大きな死体壕に投げ込まれた。
 死体壕に雨水が流入してできたプールに、沈んでいる死者もあり、浮かんでいる死者も
 いた。
 禿鷹が降下して死者の肉を爪にひっかけて、飛び去った。
・あの屍体壕に投下されるまで、死者は泥土に顔を突っ込んでいた。
 あるいは、仰向けになって、眼と口をあけていた。
・それにしても、あの戦争では、日本人だけで三百万人死んだ。
 支那やロシアでは、千万人も死んだという。
 日本人はビルマだけで19万人死んだ。
・それだけ人が死ぬのが戦争である。
 戦争というやつは、反対だと言っても、起きるときには起きる。
 起きればまた大ぜい人が死ぬ。
 その死を英霊だの、犬死だと言う。思い軽いと言う。
・以前、福田という総理大臣が、人の命は地球より重い、と言って話題になったな。
 人はあのような空々しいことを言うのだ。
・人は群れたがる生き物で、群れるためには、みんな同じ思いを持とうとする。 
 戦友会には、菊を自賛し、遺骨の収集こそ英霊に対する生き残った者の務めだと弁じ
 る者がいる。
 それに反発することはない。みんなに同調し、フーコンの追憶を語り、それにしてもよ
 くぞ生きて還ってこられたものだ、とお互いに幸運を祝い合ってくればいいのだと思う。
・もともと、嘘や妥協のない世間はないのだ。元来そういうものだと思う。
 けれども、辰平はそう思っても、なにか浮き上がってしまう自分を感じるのである。
・五十年前も、ともかく、みせかけであれ、本心であれ、戦争遂行のために、みんな、同
 調しないわけにはいかなかったが、今は、あれもこれも、反戦平和のためだというので
 ある。  
 これも、嘘であり、嘘ではない。
・二度と戦争を起こさないために、戦争の悲惨を語り継ごう、などと言って、戦争を知ら
 ない若者たちに、戦場や空襲の話をしたり、それを印刷物にしている人たちがいる。
 荒れも嘘であり、嘘ではない。
 あれは、本当は平和のためではなく、大変な目に遭った自分の話を聞かせたいのが第一
 で、平和のため、というのは、名目である。
・そんなふうに思っている者だから、戦友会にも、傷痍軍人の集いにも、慰霊祭にも、出
 席する気になれないような者だから、辰平が、帰国後付き合っている元戦友は、少ない
 のである。  
 博多の戸之倉晋は、その数少ない元戦友である。
 と言って、戸之倉は、意気投合するような友人ではないので会った。
 どちらかと言えば辰平は、それどころか、戸之倉とは、話が合わず、いらいらすること
 が多いのであった。 
・戸之倉とは、同期の召集で、入隊以来、ずっと行を共にした相棒であった。
 辰平は戸野倉について、入隊前の細かいことまでは知らなかったが、戦後は、ずっと定
 職を持たず、女で食っている男である。
 いわゆる髪結いの亭主、あるいはヒモというやつである。
・戸之倉は、今はもう、七十半ばの老人でしなびていえるが、戦後五十年間、女から女へ
 わたり歩いて生きてきた色男である。
 俺には、戸之倉のどこが女に好かれるのか、わからないけれど、何か女に好かれるもの
 があるのだろうな。 
・戸之倉の女は、辰平が知っているだけでも、四人である。
 一番目は看護婦であった。次に、スナックのママである。三番目は職業は知らないが、
 戦争未亡人だと言っていた。そして今の女は、彼より二十何歳か若い、美容師である。
・二十何歳若い、と言っても、今の美容師は、五十代である。タマというネコの名のよう
 な名の女である。 
 五十代だが、年よりずっと若く見える、明るいにこやかな感じの女である。
・戸之倉は、軍人恩給も傷痍軍人恩給も、もらっていない。
 普通軍人恩給は、すこしばかり月が足らず、傷痍軍人恩給は、軽傷で許可が下りなかっ
 た。それは、考えようによっては、幸運である。
・戸之倉には、子供はいない。
 辰平は、もしかしたら、いわゆる隠し児がいるのではないかと思って訊いてみたことが
 あるが、戸之倉は、いないと言っていた。
 戸之倉の方から子や孫の話をすることはなかった。それを話題にするのは、いつも辰平
 の方であった。
 辰平には戦後生まれた娘が一人いて、孫は上の男の子が高校生、下の女の子は中学生で
 ある。
 娘の亭主は、いわゆる真面目な勤め人だし、孫たちにも、特に問題はない。
・辰平は、ともに餓鬼道に落ちた戸之倉と戦争の話をする気にはならなかったが、以前、
 娘夫婦や孫たちには、フーコンの話を聞かせようとしたことがあった。
 けれども、子や孫への戦争話も、戦友会への出席と同じように、一度だけでやめたので
 ある。 
・戦争の話に限らず、孫たち、あるいは娘夫婦にも、何を話しても通じないと、辰平には
 思えるのであった。
 それは、いつの世にもある老人と若者の話の不通といったものではなく、あの戦争で生
 じた独特のもののように、辰平には思えるのであった。
・辰平は、やもめである。
 妻の静子が死んで六年になる。
 静子が死んだ後、中川文江と知り合ったが、きっかけは、戸之倉の三番目の女、武雄の
 未亡人の小森真紀子の紹介であった。
・鈴子が死んで数ヵ月たった夏の日に、真紀子から、大村に来ているのだが、食事をしな
 いかと誘われ、インターナショナルホテルで会った。
 真紀子と一緒にいたのが、文江であった。
・文江は、「私も、戦没者の遺族なんですよ」と言った。
 真紀子も文江も六十代の女性であった。
 文江は、彼女の夫が召集されたのは、大村の55聯隊ではなく、久留米の56聯隊だ
 ったが、戦死したのはフーコンで、だから、フーコンのことを書いた本を集めているの
 だ、と言った。
・「フーコンの話、うかがいたいんです。村山さんに」
 と文江は言った。
 その後、文江は、ときどき、辰平を訪ねて来るようになったのだった。
・フーコンの話、と言っても、文江は、彼我の作戦や攻防を、いちいち聞こうとしたわけ
 ではなく、辰平もまた、そういうことまでつぶさに話すことはできないのである。
 ただ、ジャングルの中の戦闘とはどうのようなものであったか、フーコンとはどういう
 ところであったか、筑紫峠の悲惨とはどのようなものであったか、など、辰平は、経験
 と見聞を話したのであった。
・けれども、文江には、戸之倉とは違って、フーコンの話だけでなく、多岐にわたって、
 戦争の話をしたのだった。
 文江が訊くので、つい、いろいろ話すことになるのであった。
 フーコン以外の戦争話にも、文江は熱心に耳を傾けた。
 輸送船の話も、「泰緬鉄道」の話も。メイクテーラやシッタンの話も。英印軍の収容所
 の話も。復員の話も。「牟田口廉也」や「辻正信」への悪態も。
 いや、文江が訊くから話すのではない。やはり、辰平は戦争の話を誰かにしたかったの
 である。 
 そして辰平は文江から銃後の話を聞いた。
・戦争中の内地のことは、死んだ静子から聞いているし、本で見てもいる。テレビのドキ
 ュメンタリーなどでも見ている。 
 空襲の様子、食糧事情、原爆についても、一応はわかっているつもりだったが文江に聞
 かされた。
 文江の銃後の話が、特に変わっているわけではない。
 けれども、そういう話をしたり聞いたり、あるいは日常的な雑談を文江とするのは、悪
 くなかった。
 しばらく会わないでいると辰平は、彼女、来ないかなあ、と心待ちにするようになった。


・55聯隊の方が書かれたもん、と言って文江が最初に持ってきたのは、井上咸という人
 が書いた「敵・戦友・人間」という本と、古賀保夫という人が書いた「死者の谷」とい
 う本であった。 
・井上という人も、古賀という人も、55聯隊第三大隊の将校で、井上という人は元大尉、
 古賀という人は元中尉である。
・辰平が、井上大尉と古賀中尉の本をまだ読み終わらないうちに文江は、これも55聯隊
 の将校さんの書いた本だと言って、もう一冊持って来た。
 元軍医少尉大久保国夫という人が書いた「私のビルマ戦記」という本であった。
 この大久保という人は、今、長崎で千綿病院という病院の院長をしている。
・「55聯隊の方の書かれたものは、この三冊だけかな」
 「全部で何冊ぐらい、もっておらるるとですか」
 「そうですね。二十冊もありましょうか。聯隊史だとか、防衛庁の戦史室編集とかいっ
 て、戦史叢書というのも出ていますよ。そういうものすべていれて、そうですね、それ
 ぐらいですね」 
 「55聯隊に限って言えば少なかね。ばってん、日本全国では、戦争や軍隊について書
 かれた本は、山んごと出とるんじゃろうね」
 「そうでしょうね。全国では、手記だけでも、千も二千も、本ができとるんじゃないで
 しょうかね。見当がつきませんけど」
・三冊とも、夢中で読んだ。
 そう言えば俺は、これまで、フーコンのことを書いた本など、読んだこともなかったな、
 と辰平は思った。
・武雄の小森真紀子の紹介で文江と知り合いになって以来、辰平は文江と、旧知のように
 会っている。   
 文江が突然訪ねてきたこともあったし、電話で誘ったり、誘われたりしたこともあった。
 会って話をするだけだが、文江はいい話し相手である。
 娘と話しても、孫と話しても、なにかギクシャクしてしまう。
 昔から、世代が違えば、話が通じなくて当然だったのか。
 いや同じ年配でも、いい話し相手は少ない。
 それは相手のせいではなく、俺に同調性とでもいうようなものが欠けているからかなと
 辰平は思う。
・自分の同調性とでもいうようなもののことを思うと、辰平は一度だけ出席したことのあ
 る、ある戦友会を思い出す。
 会の雰囲気に溶け込めない自分を感じて帰ってきたあの戦友会。
 同じ戦場からの生還者だ。同じ部隊だからと言って、辰平は、かつての古兵や上官に、
 連帯感を感じないのである。
 博多の戸之倉の他、同期の補充兵たちがみんな戦死してしまったということも、連帯感
 の持てない李通かもしれないなと辰平は思う。
 あの戦友会では、出席者は少なくなかったが、知った顔や懐かしい顔はなかった。
 とにかく戦友会に出ても、辰平には話し相手がいなかった。
 だが文江となら話がはずむのであった。
・戸之倉とは、辰平が博多に行って時間があれば会っている。
 辰平は戸之倉にも、なにか率直に親しめないものを感じるのだが、遠慮なく物の言える
 相手ではある。それが取り柄だな、と思うのであった。
・その戸之倉の、別れた女が文江を紹介してくれたのだ。
 これもめぐり合わせというものか。
 文江とは、遠慮なくというわけにはいかないが、構えずに、楽しく会話ができる。
 しかも、なぜか、文江と会って、話をして、別れるだけで、かなり気持ちが昂揚するの
 である。  
・「よか友だちがでけたばい。あんたんのこったい。また会いたか」
 と辰平は、文江の表情をうかがいながら、甘いことを言ったことがある。
 文江はそういうときには、少しばかり照れて、視線をそらすのである。
 辰平は文江にそんなことを言って、ちょっと思いを告白したような気持になるので
 あった。 
・辰平は、近ごろ、しばしば、文江との情事を空想するようになった。
 けれども、そんなことは空想どまりである。
 七十を過ぎた俺は、もうできない。
 俺はもう立たなくなっているのだ。
 それに、俺が求めたら、もしかして文江は、俺から遠ざかってしまうかもしれないので
 ある。
 せいぜい、また会いたか、というぐらいのところで付き合っているのがいいところかも
 しれないな、と辰平は思うのであった。
 それにしても、男は立たなくなっても助平だが、六十代の女はどうなのだろうか。
・本を読むと、古賀中尉は、俺たちが門司からビルマに送られたときの輸送指揮班の将校
 である。だから何回か見ているはずである。
・「死者の谷」には、「泰緬道路縦断記」という章があるが、それを読むと当時はたぶん
 少尉であった古賀中尉は、松尾少尉、平山少尉と共に、俺たち55聯隊の補充兵を引率
 して、タイからビルマへ、ジャングルに覆われた四百キロの賛同を行軍したと書いてあ
 る。
・大東亜戦争が始まると日本は、初めのうちは、勝った、勝ったと言っていた。
 皇軍の征くところ敵なし、などと言っていた。
 けれども、辰平が召集されたのは、昭和十八年の夏であったが、そのことはもう、連合
 軍の反攻が始まっていて、ガダルカナル島の日本軍は昭和十七年の暮れにはすでに壊滅
 していたし、海戦でも大敗していたのだ。
・軍隊では軍隊以外の社会を、地方と言い、軍人以外の人を地方人と言っていたが、辰平
 は地方では、三菱で徴用工をしていた。
 大本営は例によって、ガダルカナルの敗北をできるだけ隠そうとして、転進などという
 言葉を使って、敗北の実相を薄めた。
 けれども、転進とは退却のことであることぐらいは、兵士であれ、地方人であれ、わか
 っていた。
 けれどもあのころ、辰平も、大本営発表というのは、発表通りには受け取れないとは思
 っていたが、そうは思っていても、やはり、だまされていたのだ。
 転進とは、退却の言い換えぐらいのことはわかっても、ガ島で、70パーセントの将兵
 が死んだことも、70パーセントも死ぬ戦場とはどういうところで、どういう状況なの
 か、ということも、そういうことはわからないのだ。
 大本営としては、そういうことは言えないわけだろうが、あのことは、ただただ、寄ら
 しむべし、知らしむべからず、というやつだった。
 あのころは、国民の知る権利などというやつはなかった。
 情報も、一方的な配給で、国民はそれを、信じたり、疑っていたりしていたのである。
 まるまる信じないが、まるまる嘘だとも思わない。
 大本営発表など、国民の大半は、こしらえているな、とは感じていたのだ。
 だが、どれくらいこしらえているかはわからない。
 実のところは一切知りようもなく、国民は、疑い深い人は深く疑い、信じやすい人は、
 信じ、人によっては、少しだけ信じ少しだけ疑ったりしていたのだ。
・ガ島の転進の前に、ミッドウェー大海戦というのがあった。
 あの回線の実のところも、俺にはわからなかった。
 一方的な勝ちではないが、とにかく大本営は勝ったと言い、新聞もそう書いていた。
 さすがにガ島については、勝ったとは言わなかったが、壊滅したとは言わなかった。
 あのころ、ニューギニアでの日本軍の惨状についても、俺はまるで知らなかった。
 ガ島にばかり、目が行っていた。
 それは軍がそう仕向けていたからである。
 軍は、ここもやられた、あそこもやられた、とは言いたくないのである。
 やられたのはここだけだ、と思わせたかったのである。
・ビルマについても、軍は、インパールの不首尾までは隠しおおせないので、インパール
 については、退却を転進、野垂死にのような兵士の死を、壮烈な戦死、というような言
 い方をしながら、国民の目をインパールばかりに向けさせて、フーコンや雲南を視線か
 らそれそうとしたのだ。  
・泰緬鉄道についても、鉄道については知らされているが、道路については語られない。
 何だってそんなふうにしか知らされていないのだ。
・泰緬道路は、鉄道建設以前から、タイ側ノンプラドックから120キロほどのところま
 では、小幅の道があったという。
 その道を鉄道に並行して、広げ、延ばしたのである。
 それは、場所によっては、何十キロにもわたって密林を伐採して作った鉄道建設の資
 材輸送のための道路でもあり、兵隊や資材をビルマに送り込むための道路でもあった。
・俺たちは半月がかりであの道を踏破したのは、昭和19年の1月中旬から下旬にかけで
 てあったという。  
 泰緬道路が完成したのは、昭和18年の10月だという。
 すでに鉄道は開通していたのだが、俺たちは歩かされた。
 鉄道隊は「歩兵を歩かせるな」を合言葉にして敷設を急いだというが、できると物資輸
 送が先になり、歩兵は後になったと古賀中尉は書いている。
・歩兵は歩け、である。けれども歩兵だからと言って、歩かせて泰緬国境を越えていたの
 では、大東亜戦争では勝てなかったのだ。
 歩兵は歩かせるものと考えていた軍隊は、歩兵は送るものと考えていた軍隊には勝てな
 かったのである。 
 俺たちは日露戦争用の鉄砲、三八式歩兵銃を担がされ、自動小銃をかかえて輸送機で運
 ばれていた軍隊に、途方もない長い道のりを、途方もない長い時間歩いて向かって行っ
 て、兵員が少なくとも、食べるものがなくても、大和魂で戦えば勝てる、敵の兵員が十
 倍なら、一人が十分ずつ殺せば勝てる、俺たちはそんなことを言われながら戦い、やら
 れたのだ。


・戦後、インパール作戦の退却路は、白骨街道と言われ、広く知られるところになったが、
 フーコンも白骨街道であった。
 昭和17年に日本軍がビルマを席巻したときには、フーコン谷地は中国軍の白骨街道で
 あったが、昭和18年の10月末からは、日本軍の白骨街道になった。
 特に、フーコンから最後の脱出路となった、筑紫峠と呼ばれていたラガチャンからラバ
 ンガトンへの15キロの伐開路は、累々路傍に死者の連なる、地獄の泥道であった。
・あのころは、しかし、敵はすでに、モガウン、ミイトキーナ地区にも進出していたので
 ある。 
 辰平が筑紫峠を歩ききってモガウン・サモウ地区にたどり着いたころは、114さ聯隊
 基幹のミイトキーナ守備隊が、全滅に瀕していた。
・ミイトキーナ守備隊は、それでも、7月いっぱいはもちこたえた。
 軍からは死守、つまり全滅の命令が出ていたが、龍から赴任した「水上源蔵」兵団長は、
 撤退を命令し、少将自身は自刃した。
 おかげで僅かではあったが、生き延びた将兵がバーモ守備隊にたどり着いた。
・隊長も俺たちも、フーコンに行けと言われればフーコンに行かなければならないのだ。
 攻撃せよと言われたら攻撃しなければならないし、死守せよと言われたら死守しなけれ
 ばならないのだ。
 けれども、大隊長も聯隊長も、そのまた上から命令が下れば、たとえ、納得がいかなく
 ても命令通りやらなければいけないのである。
・フーコン作戦だの、断作戦だのは、軍の一番上の方で決めて、下達されるだけで、命令
 が下りれば、何万人もの人間が、動き、死ぬものは死ぬのである。
 俺はそういう者たちの末端の一人である。
 そのような俺にとって、作戦とは何だろう、と辰平は思ったものだった。
 いったい、国というのは、俺には何だろう。
 国民は国から達しがあれば、軍隊に入らなければならない。
 それを拒むと、犯罪になるのだ。
 みんな黙って国の命じるままに入隊するのだ。
 入隊したら自分の意思には関係なく、ビルマなどに送られる。
 みんなそれを当然のこととして受けとめて、行けと言われたところへ行き、やれと言わ
 れたことをやり、そして、死ぬのだ。
・何だろうな、これは。これは、それが国民として当たり前だと言えば、当たり前にも思
 えるけれど、奇妙と言えば、奇妙だな。
・辰平の乗った輸送船の出港地は、門司であった。
 あれは何艘ぐらいの輸送団だったのだろうか。
 数は思えていないが、何艘かが連なり、前後に駆潜艇というか、海軍の船がついていた
 ような気がする。
・行先は南方だとばかり思っていたのに、輸送船が着いたのは、支那であった。
 上海に近い、呉淞という港だった。
 呉淞で上陸して上海に向かって行軍したが、しばらく歩くと兵站があって、そこでひと
 月ほど過ごし、その間また新兵教育でしごかれた。
・一度、引率で上海見物に連れて行かれたことがあった。
 兵隊だから自由はないし、金もなく、ただ景色を見ただけであったが、姑娘が目に沁み
 たものだ。 
 姑娘にかぎれない、あれから、行く先々の女を見ては、辰平は、結局俺は、女には縁の
 ないまま死ぬことになるのかもしれないなあ、しかし、これが日本人に生まれた俺の運
 命だと思うしかないのだな、と思ったものだった。
・あの呉淞の兵站には慰安所があったようだ。
 だが、一カ月もいて、結局、辰平には行く機会はなかった。
 慰安婦は、ビルマでは、モガウンやミイトキーナあたりまで来ていたようだ。けれども、
 慰安婦にも縁がなかった。
・呉淞からバンコクまでの間でいちばん碇泊が長かったのが、サイゴンであった。
 サイゴンで停泊したのは、メコン河の支流らしいが、輸送船が入港すると、安南笠をか
 ぶった女たちが、小舟をあやつって、果物を売りに来た。
・サイゴンで停泊していたのは、一週間ぐらいだったろうか。
 あの街も、引率で見物した。
 小パリなどと言われているのだそうで、上海や香港とは感じの違う、もちろん日本とは
 まったく感じの違う、しゃれた街であった。  
・サイゴンでも辰平は、ああ俺は女に恵まれないまま死ぬ事になるそうだな、と思ったが、
 本当は、ビルマに入るまでは、死をさほど身近には感じていないのだった。 
・あのころの日本の若者たちは、一応、みんな、俺は二十代で死ぬことになるかもしれな
 い、と思う一方、俺だけは死なないのではないか、とも思っていたのだ。
 なにしろ、兵役は免れない。国民皆兵と言っても、大東亜戦争が始まるまでは、召集が
 来ても、ある程度は将来の見通しを立てることができたのだが、あの戦争が始まってか
 らは、自分の行先がどういうことになるのか、まったく見通しがつかなくなったのだっ
 た。
 ただ、いつ戦場に送られるかわからないし、戦場に送られたら死んでしまいそうだから、
 行先きの見通しはなくても、運に恵まれなければ、死ぬことになるかもしれぬと、一応
 はそう思っていたのだ。
・辰平もそうだった。しかし、辰平が本当に死を身近に感じ、覚悟を新たにしたのは、
 フーコンに入ってからである。
・フーコンに着いて、ワンタク山系の密林の枝の彼方の空を、敵の輸送機が飛ぶのを見た。
 インド方面に向かって飛んでいたが、連合軍は、何万もの雲南兵をインドに空輸して、
 訓練して、日本軍に優る兵器と、日本軍の何十倍、何百倍の弾薬を与えて反攻して来た
 のである。
・日本軍の親玉たちが、そのような敵に対して、どのような方法を考えたのかは、辰平に
 はわからない。あるいは、方法もなく、勝ち目もないと承知で、これたちは、あんな戦
 闘をさせられたのかもしれないなあ、と辰平は思うのである。
 だからと言ってどうしようもない。結局はいつも諦めである。
・辰平が部隊に着いた日、その日のうちに、一緒に来た数人の補充兵が、迫撃砲にやられ
 て死んだ。 
 死守せよ、と言われなくても、俺もこの人たちのように、いつ死ぬかもしれないのだ、
 と思った。
 あのころから辰平は、毎日、死と身近に、切実に付き合うようになった。
 そして馴れたと言えば馴れたのであった。
 

・当初、辰平は、中川文江との交際が、こんなふうに続くとは思っていなかった。
 博多の戸之倉の三番目のかみさんの小森真紀子は以前にも、友人だと言って、辰平には
 初対面の夫人を伴って来たことがあった。
 もともと、辰平は、真紀子と、親しく付き合っているつもりはない。
 その真紀子の友人など、もちろん、その場限りの人である。
 それぐらいにしか思っていないのに、真紀子は、戸之倉と別れた後も、ときどき電話を
 かけてくる。
 文江を紹介したときのように、食事に誘ったり、武雄に湯につかりに来んね、などと言
 ったりする。
 まさか俺を誘惑しているわけではないだろう。
 もし、真紀子にそんな気があるとしても、戸之倉のかみさんであった女に誘惑されるわ
 けにはいかない。
 いや、そういうことではなく、真紀子は、気楽に、誰とでもそういうふうに付き合う性
 格の人だということかもしれない。
 それならこちらも、たまに声がかかってくるだけのことだし、気楽に付き合っていれば
 いいのである。
・辰平は、そんなふうに思っていたので、文江とも、初めは、こんなふうに付き合う気持
 ちはなかったのである。
 初めて会ったとき、文江はどうということもない老婦人であった。
 染めていない白髪が印象的であった。
 六十代の女は、たいていかみを染めている。 真紀子も染めている。死んだ静子も染め
 ていた。
 最近は、若い娘たちが、茶色に染めているが、茶髪の六十婆さんもいる。
 そういう老女は、大村には少ないが、長崎や博多あたりでは、しばしば茶髪の老女を見
 かける。
 文江は、そういう老女たちとは違って、髪も染めず化粧もしていなかった。
・着ているものは、いつも和服である。ぴっちり着こなしていて、いい姿である。
 辰平には、文江が、温和で気どりや構えの少ない人に思えた。
 どこか少女の稚なさを感じさせるところもある、と思えた。
 死んだ静子には、温和な感じがなかった。
 辰平が思い出す静子の顔は、泣き顔か、怒り顔か、取りすました顔である。
・文江が辰平に見せるは、あれが彼女の他処行きの顔かもしれないが、優しげな笑顔であ
 る。特に初めて会った日はそうであった。
 その後、付き合っているうちに、とぼけが顔や、あれは同情しての悲しみ顔というのだ
 ろうか、話題によっては同情の表情を見せたことはある。
 けれども、泣き顔や怒り顔は見たことはないのである。
 それは静子とは違って文江とは、そういう顔を見る機会のない間柄だとも言える。
 思ってみると、静子に先立たれて以後、文江とぐらい頻繁に会っている相手はいないの
 だが、それでも、文江とは、他処行き顔を見せ合っているだけで済む関係なのである。
・それにしても文江は、微笑の人だ。
 人をなごませる性質の人なのだ、と辰平は思うのであった。
 けれども辰平は、初めのうちは文江にも口が重かった。
・それはあるいは、亡妻の静子にも、娘の有樹子にも、孫の大助や華枝にも、いわば、戦
 争の話ができなくて長い間過ごしてきて、そういう日常の中で自分を躾けた寡黙であっ
 たかもしれない。  
 静子と有樹子は、孫娘の華枝のように、「自慢話は聞いとるごたる」などと痛烈なこと
 は言わなかったが、静子は一緒になった当初、辰平が戦場や軍隊の話をすると、「そげ
 ん話は聞きたくなか」と言って、腰を折った。
・しかし、文江に対しては、いつのまにか饒舌に戦場や軍隊の話をするようになっていた
 のである。 
・追憶というものは、忘れようと思っても、忘れられるものではない。
 口にしなくとも消えるものではない。
 にもかかわらず、消えるものは自然に消えるのだ。
 戦場を経験して還ってきた者もさまざまで、まったく戦争の話をしない者もいるし、饒
 舌にしゃべまくる人もいる。
 話をしない者にも、本当は話したいのだが、聞き手がいなくて、離せない者もいる。
 俺はその口ではないか、と辰平は思うのであった。
 文江に俺のその寡黙はほぐされたのだ。
・それにしても、まったく人さまざまだ。
 あの経験の受け止め方もいろいろだ。
 戦後早い時期には靴に取り憑かれた復員者がいたという。
 靴さえ見れば買わずにいられなくなって、有金をはたいてしまう。
 部屋中、何十足もの靴を並べて、その中で寝ている、というのである。
 確かに、戦場では、靴は何にもまして貴重であった。
 靴と、飯盒と水筒と。
 取り憑かれる気持ちが、わからなくもないようにも思えるが、しかし、狂った状態にな
 ってしまった人の世界は、やはりわからないのである。
・せっかく生還したのに、突然自殺してしまった人が、いる。 
 自殺する人の心の中は、俺にはわからない。
 ただ、ある日突然自殺してしまうような人は、戦争の話はしないのだという。
 自慢話のようにそれを話す人たちは、自殺したり、有金をはたいて靴を買い集めたりは
 しない。
・俺は一時期、妻や子供に戦場の話を聞かせようとしたのだった。
 黙っていられない気持ちもあった。
 フーコンがどんなにひどい戦場であったか、戦争がどんなに残酷で理不尽なものである
 か、軍隊というところが、どんなにおぞましい社会であったか、あるいは、軍司令官だ
 の師団長だの参謀だの、いわゆる軍のお偉方が、いかに人を人とも思わず自分の栄達ば
 かりを考えていたか、そんなことを、誰よりも静子に話したかった。
 それは、自慢話ではなく、愚痴であり、恨みごとのようなものであった。
 けれども静子は、聞き手にはなってはくれなかったのだ。
・フーコンの何が妻子と共有できるのだろうか。
 いや、共に戦い、共に死にそこなった男同士だって、何を共有しているのだろうか。
・運委せの生と死。飢えや、吸血山蛭体験。尻を拭いたら腫れ上がった毒草体験。
 しかし、聯隊長や大隊長と俺が共有していたものは、何だったのか。
 しかし聯隊長といえども、運まかせの生死からだけは、俺たち下級兵士と同様に、逃れ
 られなかったと言えるかもしれないな、と辰平は思うのであった。
・階級が違うと、共有するものも違うのだろうか。
 下級将校も、消耗品であった。
 今は、ふたこと目には、平等でなければいけないの、差別があってはいけないの、と言
 うが、軍隊で平等だったのは、運だけである。
 聯隊長と小隊長と一等兵とでは、まるで同じ人間ではないかのように差別された。
 しかし、メイミョウの料亭で娼妓をはべらしてふんぞり返っていた親玉連中はともかく、
 たとえ、一等兵よりは強固な壕に身を沈め、一等兵よりは栄養を摂っていても、そうい
 うやつらは確率はいいが、しかし、やつらも運が悪けりゃ死ぬ。
 「牟田口廉也」中将や「辻政信」大佐やミイトキーナの114聯隊の聯隊長丸山房安大
 佐などは、うまく帰ってきたが、水上源蔵少将は死んだ。
 戦争が終わってからだが、「東条英機」も、「山下奉文」も殺された。
  
・静子が、六十五歳で死んだ年、辰平は古希を越えた自分の年を思い、俺ももう、せいぜ
 いあと十年もすれば、死ぬだろう。
 それにしても、静子は、よくぞ俺のようなものと世帯を持ってくれたな、俺のような貧
 しい傷痍軍人と。 
 思い出せば、静子は不遇な女だったなあ、と、これまでを振り返ったものであった。
・静子が乳癌で死んだのは、結婚して四十年目ぐらいであった。
 復員して五年目であったか六年目であったかに結婚して、長い年月をともにした伴侶で
 あった。 
 けれども辰平は、結婚前の静子の生活については、まるで、と言ってもいいぐらいに知
 らないのである。
・静子は、満州からの引揚者であった。
 静子の両親は、満州で死んだ。
 静子は一人娘であった。
 静子は一応、長崎の親類を頼りに帰国したが、その親類は原爆で死んでいた。
 そういったことを多少は話すのだが、辰平の戦争話を聞くことも、自分の引揚げの話を
 することも、嫌った。
 なにかの流れで、満州は引揚げが話題になると、静子は、思い出したくもなか、と言っ
 て、口をつぐんでしまうのである。
・静子には、結婚前、よほどのつらいことがあったのではあるまいか。
 それは自慢話のように話すどころか、思い出したくもないようなことなのであろう。
 それがどういうことなのか、もう俺には知りようもなく、静子は墓に持って行ったのだ。
・静子が生きていたときは、それでいいじゃないか、と思っていた。
 話したくなうことは話さなくてよい、聞きたくないことは聞かなければよい。
 結婚前の静子に、思い出したくもないつらいいやなことがあったとして、それがどんな
 ことだったのか、しつこく詮索してはいけない。
 はじめのうち辰平は、自分を語らない静子に満たされなかった。
 もっと何でも話し合う間柄でありたいと思ったし、もっと結婚前の静子について知りた
 い気持ちが強かった。  
 けれども、その気持ちは嵩じなかった。だんだん、どうでもよくなってきた。
・四十年も共に暮らしたのだから、静子については、語りつくせぬ追憶がある。
 それは自分自身にも、語り尽くせぬいろいろなことがあったということだ。
 歳月というやつは、喜びも悲しみも、いやなことも、思い出したくないことも、思い出
 さずにはいられないことも、すべて薄めてしまう。
・戦争のことも、軍隊のことも、もうどうでもよくなってきている。
 もうじぶんのことが、他人のことのようでもある。
 年をとるということは、そういうことだ。
 フーコンがどうの、天皇の軍隊がどうのと言ってみても、間もなく俺は消えるのだ。
 これでいいではなか。
・戦場のことも、戦争のことも、もうどうでもいい。過去のことは、薄れてしまうことは
 薄れてしまえばいい。   
 忘れて、馴れて、答えの出ないことを、とやかく思いながらなんとか暮らし、そして、
 死んでいけばいいのだ。
・静子に死なれて、辰平は、俺ももう長くはない、という思いがひとしお強くなった。
 思い出にふける時間が多くなった。
 ますます、何でも、どうでもいい、と思うようになった。
・文江は、フーコンについての話を聞きに来るだけではなく、そのうちに、自炊している
 辰平の食器を洗ったり、惣菜を持ってきてくれたりもした。
 飯を炊いてくれたこともあった。
 そういうときに、辰平は、一緒に食事をしないかと誘ったことがあったが、辰平の住ま
 いでの食事には、文江は応じなかった。
・辰平が初めて文江の家を訊ねたのは、55聯隊の元将校の三冊の本を読み終えて、ひと
 月ぐらいだってからであった。
 辰平が、文江のフーコン図書館を見たい、というと、文江は、いつでもお出かけくださ
 い、と言った。
 女性の部屋らしく、よく片づいていて、彼女の亡夫の写真を、一輪押しと並べて立てて
 ある飾り棚のある部屋に通された。文江は、女性らしく、花好きなのであろう。
 狭い庭に、一杯に花壇を作っていた。
・写真立ての中の文江の亡夫は、軍衣軍帽姿で、襟についている階級章は、星一つであっ
 た。最下級の二等兵である。召集された直後の写真である二十代の若者である。
 二十代で死んだ文江の夫は、永遠に二十代である。
 死んだ者は若いままで、生き残った者だけ年をとって老人になる。
   

・それにしても、この中川文江という人は、なぜ、かくも戦争にこだわるのか。
 あるいは、フーコンにこだわるのか、これは何なのであろうか、と思った。
 菊兵団関連の本を集めて、私のフーコン図書館と言っているぐらいでは、驚かなかった。
 けれども、戦史叢書の附録より詳細な地図をこうも丹念に作ったりする。
 そういうのは、この人の、たんに趣味のようなものなのだろうか。
・文江に、もし、どうしてあなたは、そんなふうに戦争の本を集めたり、戦史叢書の附録
 より詳しい地図を作ったりするのか、と訊いたら、文江はどう言うだろうか。
・主人が戦死したからと言うだろう。
 しかし、戦死した夫への追慕に飲み浸ってこういうことをしているのだろうか。
 文江は、二度と戦争を繰り返さないために、戦争の悲惨な追憶を風化させるな、などと
 言っている語り継ごう会の婦人たちとは違う。  
 そういうのではなくて、今もなお自分流に戦争を身近に引き寄せている。
 文江はこうして話をしていると、戦後などなかったかのようである。
・もしかしたら文江は、はじめは何であれ、話を聞いたり、本を読んだりしているうちに、
 あの地獄の戦場を思うことが面白くなってしまったのかもしれないなあ、と辰平は思っ
 た。 
・あの悲惨な戦場を面白い、などと言ったら、不謹慎だ、平和の敵だと言われそうだが、
 英霊たちの冥福を祈る、だの、自分ばかり生き遺って英霊に申し訳ない、などと言って
 いる人の中にも、今になれば面白かったと思っている人もいるだろう、と思うのであっ
 た。 
 それを潜り抜けて来た者には、体験が悲惨であればあるほど、面白い、ということもあ
 る。
 過去の悲惨を、今もなお引きずって癒されていないでいる人もいるから、戦争に関して
 は、面白いという言葉は、思っても口にしてはならぬ。
 けれども、文江は口は出さないが、もしかしたら、彼女には、戦争やフーコンは、面白
 いかもしれない。
 そこに面白いことがあるから、文江はしているだけのことかもしれない、と辰平は、思
 うのであった。
・戦前の日本は、嘘八百の国であったが、嘘八百ということでは戦後も同様である。
 戦前の嘘の第一は、天皇陛下のため、御国のため、というやつだ。
 御国のために命を捧げる、というやつだ。
 本当に国を護るために、命をかけて戦うというならいいが、あの戦争で国民が、国を護
 る戦争だと思いはじめたのは、負け始めてからである。
 本土が空襲で焼かれ、沖縄が占領されたころになって大東亜戦争は、侵略戦争から、国
 を護る戦争に変わったのである。
 国民は、徴兵を拒むことはできなかった。
 軍の敷いた法律からのが逃れることができず、軍の意のままに狩り出され、物品のよう
 にどんなところにでも送られて、殺し合いをさせられた。
・あの戦争は、米英仏蘭にはめられたということもあるだろうが、日本軍は、国を護るた
 めに支那大陸を侵略したのではない。 
 東亜解放というのも、後追いの標語である。
 国民はそれを感じながら、しかし、口を揃えて、天皇陛下のため、国のため、と言った。
 口先だけで言っていた者もいたが、そうだと思い込もうとした。
 そう思わなければ、軍の奴隷になってしまうからである。
・フーコンでもインパールでも、おびただしい将兵が餓死した。
 それを本人も、夷族も軍の奴隷の餓死だとは、思いたくないのである。
 国のための名誉の戦死だと思いたいのである。
 軍は、人のそういう心につけ込んだ。
・そうかと思えば、日本軍というのは、悪い軍隊であった、ということばかり言う人もい
 る。辰平は、日本兵は、敵にも殺されたが、それは日本という国にも殺されたというこ
 とだ、と考えている。  
 職業軍人というのは、自分の国民を自在に殺すことのできる道で出世を求める人だと思
 っている。
・元将兵に、第15軍の牟田口元司令官や辻元参謀は、さすがに評判が悪い。
 けれども、菊の田中元師団長や、55聯隊の山崎元聯隊長は、立派な武人だったと言わ
 れ、人気がある。
・そういう話を聞くと、辰平は、なにかむなしいような気持になるのであった。
 田中師団長がりっぱな武人であったにせよ、なかったにせよ、彼もまた、出世主義の軍
 人で、兵士の死を当然としていたはずである。
 そうでなければ職業軍人としてはやっていけない。
 職業軍人であれ、将官であれ、人の死に涙を流すこともあるだろう。
 しかし、村山辰平一等兵が、敵迫の直撃を受けて木端微塵になろうが、幽鬼のように痩
 せて行き倒れになろうが、連中にしてみれば、どこかで雑草が一本折れたというぐらい
 のことだ。
 そういう人が立派な武人であったとはどういうことなのか。
 と言って、牟田口や辻を恨んでもしようがないし、師団長を自慢してもしようがない。
 すべてがむなしい。思い出せば、むなしく、いやなことだらけだ。
・やはり、死んだ静子が言っていたように、いやなことは思い出さないように努めるしか
 ないのかな、それが、一番かな、と思うのであった。
 だが、思い出さないように努める、と言っても、肘までしかない自分の左腕を見れば、
 やられたときのことや、病院のことなどが思い出される。それが引き金になって、戦場
 のもろもろ、軍隊のもろもろを思い出してしまう。
・静子は、引揚者だから、初めのうちは文江と同じように、標準語を使っていたが、だん
 だん、大村弁を使うようになった。けれども、そういう大村弁だから、半端であった。
 後覚えの大村弁である。
 静子がその半端で後覚えの大村弁を使うようになったのは、あるいは、過去を標準語と
 共に捨てて、新しい人生を始めようといたのかもしれないな、と辰平は思うのである。
・とにかく、静子には、満州は忘れられない土地であるはずだ。
 楽しかったこともあったはずである。
 けれども、たぶん、引き揚げのころに、よほどいやなつらいことがあったのだ。
 辰平はそう思っているのだが、静子はそういったことについては、まったく話すことな
 く死んでしまった。   
・文江も、平和のために語り継ごうのおばさんたちとは違う。
 語り継ごうのおばさんたちは、しゃべりたがり屋だが、文江は、いわば、聞きたがり屋
 である。
 しゃべりたがり屋の人たちは、自分たちはただのしゃべりたがり屋でないと言いたくて、
 平和だの正義だのを出してくるが、文江にはそういうものはみじんもない。
 けれども、文江は、静子とも違って、風化させたいとは思わないのである。
・それは、文江は、思い出したくもないような過去を生きてこなかったということかもし
 れないな、と辰平は思うのである。
 文江の人生も、無論、語り尽くせぬいろいろなことがあったはずだ。
 しかし、まずは平穏であったということかもしれないな。
 

・真珠湾の奇襲を、信長の桶狭間になぞらえて、開戦時の日本国民は得意になっていたが、
 その他の南方各地の戦闘も、いわば桶狭間式の戦法だったのである。
 夜陰に乗じて近づき、虚を突くというやり方だったのである。
 けれども、虚を突いて奪う戦法は、一度は成功しても、続けてうまくいくものではない
 のだ。
 大東亜戦争は、物量の戦いであり、輸送力の戦いだったのである。
・山本五十六は、開戦したとき、勝算はないが、一年は持ちこたえて見せるとか、暴れて
 見せると言ったのだそうだが、彼我の物量や輸送力の差を知っていたので、勝算はない
 と言ったのだろう。 
 けれども、一年持ちこたえたりあばれたりするのが精一杯の戦争をやらされたのでは、
 国民はたまったものではない。
 牟田口なんかは、物量だの輸送力だのは無視して、やみくもに勝てる、と思ってようだ。
 敵の何十分の一、何百分の一の装備で、食糧を送ることもできないのに、一カ月でイン
 パールを陥すことができると思っていたというのだ。
・一カ月で占領できるのだから、一カ月分の食糧を持って行けばいい。
 あとは占領地で徴発すればいい、と言って、インパール作戦を発動したのだという。
 その結果が白骨街道だ。国民はたまったものではない。
・俺たちは、軍隊であれ、ビルマであれ、行先を拒めたわけでもないし、選べたわけでも
 ない。  
 そういう者にとって、軍の作戦などどうでもいいことだ。
 戦場に送られて敵に遭うか遭わないか。先に撃てるか撃てないか。退路に敵がまわって
 いないか。それが俺の戦況であった。
 下級兵士には、戦況はあっても作戦はない。戦況と運があるだけだ。
・迫が当たるか当たらないか、は運次第。生死は運次第だ。
 負傷して、退げられて生き延びるということもあり、負傷して動けなくなって、死ぬ者
 もいる。それは運だ。
 本籍地が長崎県だから、55聯隊に召集された。それも運。フーコンに送られたそれ
 も運だ。 
・ルーズベルト大統領は、レド公路の開設は、全ビルマの奪還より重大である、と言って
 いたのだそうだ。 
 日本軍は、連合国の重慶支援の戦略が、よくわかっていなかったのではないか。
 だから、連合軍の反攻の主指向が、フーコン、雲南であったにもかかわらず、インパー
 ルに大軍を送ったのである。
 敵の攻撃の重点を、日本軍は、こちらの重点のインパールを成功させるために、敵を引
 き寄せておく戦場にしようとしたのである。
 このようなたがいの重点の置き方の異なる戦略を「回りあんどん」と言うのだそうだが、
 このような「回りあんどん」になったのも、日本軍のお偉方が阿保だったからではない
 のか。
・日本軍のお偉方も、陸軍大学校を出た専門家だから、戦争に関してはいろいろ研究して
 いるはずだが、ああこれでは勝負にならない、と一等兵でも思う。
 そう思いながら戦闘をしたのであった。
 敵は、勝つためには、これだけの弾薬と兵員が必要だ、これだけの輸送力が必要だ、そ
 ういったことを、緻密に検討して、必要な条件を整えたうえで戦った。
・こちらは、弾がなくても、食糧がなくても、とにかく、やれと言う。
 こちらの計算は、弾がなくても食糧がなくても、一人が二十人殺せば二十倍の敵に勝て
 るわけだから、そうしろと言う。
 言う方も聞く方も、算術や大和魂で戦争はできないのだと知らないわけではないのに、
 そんなことばかり言っている。
 そんなことでも言うほかには物の言いようもなかったということか。
・元来日本人というのは、大和魂だの、必勝の信念だの、国への御奉公だの、名誉の戦死
 だの、そういうことを人の大事と思うように教育されているので、弾がなくても、食う
 ものがなくても、お前らみんな、国のために一人が二十人ずつ殺して勝て、と本気で言
 い、本気で聞いているものだ。
 実際にはできないことでも、そう思わねばならないと思っていたのだ。
・どこの国だって、国にはきまりがあり、国民はきまりに従うのが当然。
 あの時代のこの国の国民なら、兵隊にとられて当然。ビルマであれどこであれ、連行さ
 れて当然。死んでも当然。そして死ねば、名誉の戦死などと言っている。
・場所も月日もわからない戦死ということは、文江の夫が所属していた分隊は全滅したの
 かもしれない。 
 どんな死に方だったのか、陣地にいて迫を撃ち込まれたのか、それとも遭遇した敵の自
 動小銃の弾に当たったのか、それとも、どこかで、栄養失調で行き倒れになって死んだ
 のか。
・一切わからない。下級兵士には、文江の夫のように、フーコンのどこかで死んだという
 ことしかわからない者が少なくないのである。
 たまに、一緒に戦って、戦死の様子を知っているものが生還して、遺族に話すなどとい
 うこともあるけれども、そういう人がいても、遺族を訊ねるとはかぎらないし、遺族の
 方でそういう人を捜してみても、捜し出せるかどうかわからない。
 文江も、一応は、夫の戦友を捜してみたが、見つかれなかったのだと言っていた。
・それに、遺族にはとてもはなせないようなむごい死もあるしな。
 そういう場合は、話にも行きにくいし、来られても困るのだ。
・ちょっと思い出しただけでも、たいていの死は、ありのままには言えない。
 なにか言おうとしていたが、口を動かすと、血がドクドク流れ出しましてな、そのうち
 冷たくなりました。
 こういうのはまだいい。
・顔も手も吹き飛ばされて体の一部だけが残されていました、などと言う話ができるか。
 一応野戦病院には送られたのですが、うわごとを言い始めて、そのうちに冷たくなって、
 遺体は、雨でプールのようになっている屍体の壕に投げ入れました。
 その死体をねらって、羽を広げると1メートル半もあるような禿鷲が舞い降りて来て、
 死体の肉をえぐりとって、それを爪にひっかけて舞い上がるのです。
 遺族にそんな話ができるか。
・と言って、杖にすがっても、歩くどころか立ち上がることもできず、わずかに口を動か
 すだけで声も出ず、ぼんやりと坐り込んで死を待っていてしんだ野垂死を、鬼神も哭く
 壮烈な戦死だった、と遺族のために言えというのか。
 ありのまま、も言えないけれども、造って言いたくもない。
・文江は、夫の死を美化するためにフーコンにのめり込んでいるのではない。
 ではなぜだ、と思うが、わからない。
 人とは結局、互いに少しだけわかり合ったり、共鳴したりできれば、それでいいという
 ことかもしれないな。   
 わからなくてもいいのである。
・わからない、と言えば、静子だって、わからない女であった。
 一つ屋根の下に、何十年も一緒に暮らし、子供を作った。
 しかし、だからと言って、俺に、静子がどれだけわかっていたか、と言えば、彼女の一
 部しかわかっていなかったのではないかな、と辰平は思った。
・人はみんな、そういう関係で、しかし、相手にわからない部分を気にしている、という
 ことかな。 
 だが、気にしても、わからないものはわからない。
 今までわからなかったことで、わかるものがあっても、必ずわからないものがのこる。
 そして、そのうち死んで、おしまいになる。
・人は、わからないことの「回りあんどん」だ。
 そして、他人はすべてわからない。
 ただ、わからないことが気になる人がいて、そうでない人がいる。
 牟田口などわからなくてもいい。
 ただ俺は、推測で、ああいう奴らには、国民の命など鼻毛ほどにしか考えないところが
 あって、だからインパール作戦などやったんだ、と思っている。
 あいつらは、軍人というのは、国民を好きなように使ってもいいものだと思っているの
 だ、と思っている。 
・今の政治家や役人が出世したがっているように、奴らは出世と権力の亡者で、本当はそ
 う思っていないのに、口だけで、陛下の赤子の命をお預かりして、その責任の重大さを
 思えば、身が震えるなどと、紋切型のきれいごとを言っているのだ。
 だが、そういうことを言ってみても、もちろん、あいつらのすべては語れない。
 あいつらは、勝てないとわかっていて、大和魂と言っていたのか。それとも、本当に大
 和魂で勝てると思っていたのか。そういったことまでは、推測ではわからないのである。
 

・日本軍は、昭和17年の5月の末までに、一応、ビルマから、英印支軍を一掃した。
 その後、米英支連合軍の反攻が始まるまでの期間は、ビルマに駐屯していた日本軍にと
 って、いわば「、極楽の期間であったという。
 日本軍は、ビルマの占領軍である。連合軍を追い出した駐屯軍である。
 自国が戦場になったにもかかわらず、ビルマ人は日本軍に優しかった。
・日本軍は、上から下まで、束の間の極楽を愉しんだのである。
 菊の司令部は、昭和17年の5月から、18年の1月まで、シャン高原のタウンジーに
 あった。 
 タウンジーには、久留米の料亭翠香園が店を開いた。翠香園は、北ビルマや中国雲南省
 にまで進出して、師団長以下将校たちに酒色を供した。
 タウンジーには、慰安所も酒保も設けられた。
・女がいて、酒があり、タバコがある。
 タウンジーの屋根の下で、毛布を抱いて寝たのである。
 飢えがない。戦闘がない。行軍もない。それだけでもタウンジーは極楽である。
 その極楽の時期は、連合軍の反攻が始まると地獄に変わった。
 地獄の釜のふたがあいたのが、昭和18年の10月である。
・当初はインドへの侵攻を企図していた菊兵団の作戦は、インパール作戦の発令にともな
 い、防衛任務に変わったが、推し進めてくる敵の陣地を奪えなくては、防衛はできない
 のである。 
・陣地の作り方にしても、敵は巧妙であった。
 チンドウィン河右岸のガジャズップ、タガックの敵陣地は、侵攻した敵が壕を掘って構
 築したもので、セメントで固めたトーチカではないが、どの方向から攻めても対応でき
 るよう、重機、迫撃砲で三方にすえて視角を消していた。
・砲兵一個小隊で守備する単位陣地を数十メートル隔てて、ほかの陣地と連結させ、中隊
 陣地を作る。
 その単位陣地を三角形に配置し、連結していたので、日本軍は、米支軍の三角陣地と言
 っていた。
 死角なく重機と迫撃砲で迎え撃つ陣地の連なりを奪取するのは至難であった。
・敵の三角陣地に較べると、友軍の陣地は、行き当たりばったりに穴を掘っただけのもの
 に思えた。 
・計算して、勝てる条件を満たして攻めてくるのが敵の戦法である。
 それに対して、必要な戦力を準備できない友軍は、奇襲でしか対抗できないのだ。
 虚を衝いて攻め込み、白兵戦で奪うしかない。
 だが、防衛に関しても敵は計算し工夫していた。
 敵の三角陣地は、日本軍のそのような戦法を封じることができるよう考えて作られてい
 たのである。
・敵が日本軍の陣地を攻略する場合は、まずたっぷり、砲撃を撃ち込み、爆弾を落とし、
 無勢の相手を弱めるられるだけ弱めてうえで、歩兵に突進させる。
 歩兵を出してなお敵が頑強であれば、いったん退いて、砲撃や爆撃をやり直し、再び突
 撃してくる。
 拉猛や騰越で、昭和19年に龍の守備隊が全滅するが、あれはそのような連合軍の攻撃
 になすすべもなく、ただ、耐えられるだけ耐え、そして結局、全滅した戦闘である。
 あのやり方も、敵の理にかなった戦法である。
・兵員、武器弾薬に圧倒的な懸隔のある敵が反攻に転じてからは、日本軍の攻撃法は、
 いわば肉弾攻撃一点張りになったのだ。 
 虚を衝いて飛び込んで格闘する。
 敵に気づかれないように接近するためには、夜間攻撃か払暁攻撃になる。
 それが成功することもある。
 けれども、そのような戦法でいったん敵陣を奪っても、維持することはできない。
 例のたっぷりの鉄の雨を降らせる敵の反攻には勝てないのである。
 そのような戦法くり返し、結局、損耗をふやしてどうにもならなくなってしまうのが、
 あの頃の日本軍であった。
・だが、密林の中の陣地の攻撃は、昼間でもう夜間攻撃のようなものであった。 
 闇の代わりに、樹木が、彼我の視界を遮るからである。
 密林戦は、ゲリラとゲリラの遭遇戦である。
 日本軍は視界を遮る密林を利用して攻めたのだが、やはり肉弾は鉄弾には勝てないかっ
 た。
 敵は密林でも兵力の一部を日本軍の後方にまわり込ませ、退路遮断、あるいは包囲の隊
 形を作って攻撃してくる。
 両軍の将兵が思わぬところで出会う。
 そういう戦場で重要なことは、撃たれる前に撃つことであった。
 そのためには、発見される前に敵を発見することである。
 けれども、あの戦場では、そのような戦闘に終始したのではない。
 敵はそこに日本軍の陣地があると思えば、その一帯が禿げ地に変わってしまうほど、
 たっぷり打ち込んできたのであった。
 その砲撃と爆撃には対応のしようがなかった。
・中川一等兵については、文江の不充分な言葉をもとに、推測したり、想像したりするば
 かりだが、辰平はなんとなく、聯隊こそ違え、同じ輸送船団で南方に送られ、同じころ
 に、フーコンに送られたような気がするのであった。
・文江は、確か、夫は第一大隊たった、と言っていた。中隊はわからない、と言っていた。
 中隊はわからなくても、第一大隊であったとすれば、中川一等兵は、もしかしたら、西
 ヨンバンのあたりで隊に到着したのではないか。
 いや、俺と同じころの補充なら、西ヨンバンではなくて、やはり、ムンワンあたりかも
 しれない、辰平は想像した。
・いずれにしても、文江の亡夫が、いつどこにいたか、いつどこでどんな戦闘をしたか、
 などわかりようがない。
 なにしろ、戦死の日や、戦死の場所が不明でも、それが当然なのが、下級兵士というも
 のだ。 
 俺も死ねば同様だが、中川一等兵は、文江や俺の、不正確な、勝手な想像の中にしかい
 ないのだ。正確なことは知りようもないのだ。
・将校は、兵士よりは、戦死の日も場所も記録に残っている。
 下級兵士は、不明の者が多い。
 俺は、そういったこともどうしようもないではないか、と思うが、遺族には、いまだに
 気持ちのどこかで納得できない人もいるかもしれないな。
 せめて、戦死の日と場所ぐらいは知りたいと思い続けている人もいるかもしれないな。
 けれども、もう、どうしようもないのだ。
・けれども、あの戦場については、いろいろ思い出すのだ。
 機銃掃射や爆撃以上に、迫撃砲弾が怖かったな。
 連合軍の迫撃砲は、飛距離の長い砲で、重迫と呼ばれていたが、砲弾が、頭上から突然
 降ってくるのだ。
 迫撃砲弾には、瞬発信管の弾と、延期信管の弾とがあって、瞬発弾は、細枝に当たって
 も破裂する。
 延期信管をつけた弾は、地面に突き刺さって、しばらく時間をおいて炸裂するのだが、
 その殺傷力は強大であった。
・迫撃砲は、密林の山中では、運ぶのにも壕や地隙に潜んでいる者を殺すのにも、好適の
 兵器である。
 連合軍は、フーコン用に、あり余るほどの迫撃砲を準備して攻めてきたのである。
 敵は、日本軍がいるとわかっているところだけでなく、いそうなところには、惜しげも
 なく撃ってきた。
 密林の中を歩いていると、瞬発の迫撃砲弾が頭上から鉄の雨を降らし、延期が地雷のよ
 うに足もとから鉄を吹き上げたのだ。
・フーコンでは、シラミにもたかられた。
 ワンタク山系に入るころには、おびただしいシラミにとりつかれていた。
 あれは、つぶしてもつぶしてもつぶしきれない。
 あの密林の中でシラミをつぶしながら思ったものであった。
 人間なんて言っても、このシラミたちみたいなものかもしれないなあ。
 こうしてつまみあげられて、簡単に殺されてしまう。
 だが殺しても殺しても殺しきれない。
 シラミの方では、増えても増えても殺されると思っているのかもしれん。
 あの戦争で、日本人だけで、三百万人が死んだが、三百万人は御国のために散華した英
 霊か。英霊と言われても、俺たち、シラミでなくなるわけではない。 


・有樹子は、この家で、文江と初めて会った日の夜、電話をかけて来て、文江はどういう
 人なのか、と訊いた。
 友だちだと辰平が言うと、恋人じゃなかね、と言った。
 恋人という老人に似合わない言葉を有樹子が口にしたのは、父親をひやかした冗談口で
 ある。
・娘のひやかしに、いちいちムキになって否定したり弁解しなくてもいい。
 文江との付き合いについて、別に隠さなければならないことがあるわけでもないし、
 有樹子の思惑を気にしなくてもいい、と辰平は思うのだが、しかし、有樹子にしてみれ
 ば、文江は気になるおばちゃんでもあろう、と思われた。
・その後も有樹子はここで、何回も文江と顔を合わせている。
 人付き合いのよくない辰平を頻繁に訪ねて来る文江を、有樹子が、どげんな人だろうか、
 と思うのは当然である。
 だから辰平は、その後も何回か、有樹子に、中川というおばちゃん、どげんな人ね、と
 訊かれた。
・どげんな人ね、と訊かれても、辰平は、例によって、フーコンの話を聞きに来る戦争未
 亡人だ、と言うばかりである。
 実際、辰平は、文江については、それ以外のことについては、ほとんど何も知らないの
 である。
・文江は、亡父とは結婚して数日を共に過ごしただけで、それっきりになってしまった。
 それっきり、再婚もせずにお婆さんになってしまったけれど、私のような者もおおぜい
 いるんですよね、私の年配の者には、と言った。
 文江の育った家庭の話、肉親の話、戦後五十年未亡人としてどんな生活をしてきたのか、
 どんなことがあったのか、いろいろなことがあったはずだが、辰平は、そういう話は聞
 いていないのである。
 そりゃこの年まで生きて来たんですもの、いろいろとありましたよ、と文江が言ったこ
 とはあったが、そのいろいろがどんなことであったかは話さない。
 辰平は、おいおい文江は、おやきょうだいの話や、少女時代の話や、戦後どんな生活を
 してきたのかといった話だとか、そんなことも話すようになるのかなあ、今はフーコン
 の話ばかりしているけれども、フーコンの話がいつまでもこんなふうに続くわけではな
 い。いずれは、今のようには、戦争や戦地の話はしなくなる。
 まったくしないのではなくて、なにかのきっかけで口にすることはあるだろうが、少な
 くなるだろうな、と思うのであった。
・いずれは文江とも、こう頻繁に会わないようになるだろうな。
 結局、人は疎遠になるのだ。
 他人との関係はみんなそうだ。
 友達だ、親友だ、と言っても、離れた場所にいて、滅多に会わないでいると、いつのま
 にか疎遠になる。 
・辰平は、文江は俺の一生のある期間に、ひょいと俺の前に現われ、またいつか追憶だけ
 を遺してひょいと消えてしまう人かもしれないのだと思ったり、疎遠になるどころか、
 もしかしたら文江と一緒に暮らすことになるというようなことにならないだろうか、な
 どと思ったりするのであった。 
 そして、そんなことは実際にはできないのに、と思いながら、文江との情事を思うので
 ある。その思いは切実ではない。だが。思うのである。
・辰平は、いつだったか戸之倉が、おりももう呆けたばい、年たい、と言ったのを思い出
 した。 
 戸之倉は、二言目には、あれがでけんごつなって、ぐんと呆けが進みよった、だの、立
 たんごつなったもんな、もう俺もおしまいたい、だのと言うのである。
・あれ、とは性のことである。戸之倉もついに、でけんごつなったか、か、この年になれ
 ば、みんなそんなもんだ、と辰平は思ったものであった。
 辰平も、三、四年前から立たなくなっている。戸之倉が言ったように、もうおしまい、
 だと思っている。 
 しかし、立たなくなっても辰平は、文江との、手や口で性行為を思うのである。
・体と共に、気持ちも衰えている。けれども、この年になっても、助平心は消えてはいな
 い。しかし、やはり、助平心に限らず、なにもかも衰えたなあ、年の衰えだけはどうし
 ようもないなあ、と思うのである。 
・フーコンを生き延びることができたのは、運でもあるが、若さのおかげである。
 フーコンでは、何日も、ものも食わず、疲れ果てて、拳を握りしめていても、まったく
 力が入らなかった。
 重い足をひきずりながら、このまま倒れて死んでしまった方が楽だと思った。
 それでも、俺が、あの山蛭毒草の密林をなんとか歩きまわったのは、あのころは若くて
 それだけの体力があったからだろう。
・当然のことだが、今はもうあのころのようには歩けない。
 ワンタク山系の険しい山腹を登った俺が、文江の家を訪ねるのに、短い坂を歩くと足は
 動かなくなるし、息が切れる。
・そう言えば、俺は、娘の有樹子に、何も隠すことはないと思いながら、先日、俺が文江
 の家に行ったことは、隠している。
 そういうことは、別に隠さなくてもいいと思いながらなんとなく隠している。
 有樹子には、文江が一方的にここに訪ねて来て、有樹子が来ない日には、掃除をしてく
 れることもあるし、食器を洗って帰ることもある、と話してある。
・静子の死後、二日か三日に一度は、有樹子がきて、掃除や洗濯をしてくれている。
 来れば、台所に立って、食器を洗ったり、煮物をしたりしてくれる。
 有樹子には、夫と二人の子の家庭があるから、辰平の世話は、静子が死んだ後の負担で
 ある。  
・戦後、この国では、個人主義だ、核家族だのと言って、親との同居を厭う人が増えたよ
 うだ。
 親は老いて、片方が死んで、独居老人になる。
 独居老人を身近に置いて面倒を見る子もいるが、国の施設の老人ホームなどに送り込む
 子もいる。
・戦争時は、ひとはやたらに早死にしたが、戦後は、年々、やたらに長生きするようにな
 り、呆け老人や寝たきり老人が増えている。
 辰平は、俺もいつかは、呆けや寝たきりにならないとも限れないので、もしそんなふう
 なったら、養護施設にでも入れて、手数がかからないようにしろ、と言ってるのだが、
 今は、有樹子に、手数をかけさせている。
 同じ大村に住んでいて、辰平の家と有樹子の家は、歩けば二十分ぐらいの距離にあるが、
 有樹子はマイカーを運転してくるので、来るだけなら容易だが、それでも、なにかと厄
 介に思うこともあるだろう。
・けれども、有樹子が世話をしてくれなくても、先のことはともかく、今はやっていける
 のだ、と辰平は思うのであった。
 なるほど、皿洗いに限らず、片手の生活には不便があるが、だからと言って、暮らして
 いけないわけではない。
 有樹子は、不便を減らしてくれるし、一人暮らしの辰平にとっては、娘が来れば孤独は
 紛れる。
 だから有樹子の来訪を歓迎しないわけではないが、彼女が帰ると、なにかホッとするよ
 うな気持にもなるのであった。
・日々に疎しも嘘ではないと思う。けれども文江は、夫とは言えないような亡夫に、今で
 もなお、文江にしかわからぬ自分の思いを持ち続けているのであろうか。
 その思いは、必ずしも、亡父への愛情だの恋情だのといったものではあるまいと思われ
 るが、では文江の思いとは、何か。そういうことは、他人にはわからないのである。
・そうは思うのだが辰平は、文江の心のうちを、あれこれ思ってみるのであった。
 亡夫への愛一筋といって、やもめを立て通す女も、もちろん世の中にはいるわけだけれ
 ど、その一筋の愛も同じ濃さで続くものではないだろうし、人がやめもめを通すのは、
 愛情以外の理由にもよる。
 愛情などなくても人は結婚するし、そんな結婚でも、後で愛情が生じるもするのだ。
 文江の場合は、恋愛して結婚したのでもなく、結婚後、愛情の生じる生活もなかった。
 そういう文江がやもめを通したのはどういうことなのか。
・もしかしたら文江は、性への欲求は希薄で、寂しがりやでもなく、遺族恩給だけでは暮
 らしていけないだろうが、他にも何か収入があり、不満哭一人暮らしをしてきたのかも
 しれない、と辰平は想像するのであった。世の中にそういう人がいても不思議ではない。
・還暦を過ぎても、文江を紹介した武雄の小森真紀子などは、まだ色気たっぷりのところ
 がある。年に似合わぬ厚化粧をして、着ているものもケバケバしい。
 真紀子に較べると文江は、化粧もしないし、服装もおとなしく地味である。
 真紀子に較べると、文江はもう女ではないかのようだ。
 けれども、真紀子のような人がいても、文江のような人がいても、不思議ではない。
 だが、色気の希薄な文江だけれど、それでも辰平は、文江にあらぬ妄想を抱いたりする
 のだ。
・このところ辰平は、有樹子からそろそろ有樹子の一家と一緒に住んだほうがいいのでは
 ないか、と言われている。
 今のままでもしばらくはやっていけないことはないが、一緒になればもっと便利だし、
 第一辰平が病気で倒れたりしたときのことを考えれば、離れて独居老人にさせておくの
 は不安だというのである。 
・そう言われると、もっともだと思うが、今はこのままでいたくて、
 「ま、そのうちにのう。そげん急がんでもよかたい」
 と言っている。


・昭和19年2月のフーコンでは、もはや、クツカイやアラカン越えのインド侵攻などは
 夢物語でしかなかった。
 菊の田中師団長も一時は、インド、アッサム州への侵攻を夢見ていたのだ。
 師団長は、しかし、それが無理なことも知っていた。
 ところが、牟田口第15軍司令官は、一カ月でインパールを占領するという見果てぬ夢
 を、見果てぬ夢だとは考えずに実行に移したのである。
 牟田口は、防専一の態勢では、防御に破綻をきたすので、攻勢を考えたのだというが、
 そのために、9万の将兵を送って、その70数マーセントを殺したのである。
・辰平がヨンバンに着いたのは、そのインパール作戦が発令される直前だったのである。
 まったく何も知らなかったなあ。辰平はまた、知らなかったなあ、と思うのだった。
 あのころの俺は、ビルマの日本軍の編成がどんなふうになっているかも、どこの師団が
 ビルマに来ているかも、何万人ぐらい来ているかも、何にも知らなかった。
・インパール作戦どころか、あのころの俺は、今はこうして本を見てああだこうだと思っ
 ているけれども、自分の師団の戦争指令所の在処も、聯隊本部の在処も知らなかったの
 だ。
・いきなり、初めての土地に、物を運ぶように運ばれ行って、その土地に地名を知らない
 のは当然だ。
 生還した者は、行って知ったいくつかの地名だけを覚えているだけだが、それが当然だ。
・あの知ったかぶりの分隊長は、俺よりはフーコンについて知っていた。
 けれどもそれは、俺よりはということであって、あの班長も、その上級の将校も、自分
 の周りのほんのわずかなことだけを知っていたのであって、結局はしらないことだらけ
 なのである。 
 そうなのだ。俺たちは、思わず土地へ運ばれて、何も知らず、コロコロ死んで、それも、
 当然だったのである。
・けれども、師団長だの参謀だのは、自分がいる場所のことだけではなく、戦局全体にわ
 たって知っているわけだろう。仏印のことも、タイのことも、フィリピンのことも。
 海軍のことも。内地のことも。そのほか、いろいろ、知っていたはずである。
 大本営だの軍司令部などで、俺たちを奴隷のように使っていた連中は、もちろん、戦争
 の指導者として、権力者として、できるだけの情報を集めて、その情報に基づいて、俺
 たちを使ったわけだろう。
・俺に、いまだにわからないのは、そういう膨大な判断資料を持つ軍の指導者たちが、
 あのころ、あの戦争は勝てると思っていたかどうか、ということである。
・勝てるか勝てないかではない。勝つのだ。
 あのころは、そういう言い方をしていて、そう言われたら、反論などできなかったのだ
 ったな。 
 大和魂で糧、などと言っていた。
 大和魂とは何だ。考えてみれば大和魂とはよくわからない言葉だけれども、あのころは、
 なんとなくわかっているような気がしていて、しかし、そんなもので、戦力の不足を補
 って勝てるとは、俺たちには思えなかったのだ。
 だが、思えなくても、思っているふりをしていなければならなかったのだ。
 ふりをするだけで済めばいいのだけれど、俺たちは、魂だの信念だのと言うだけで、勝
 てるわけのない戦争に使われ、あれだけ多くの者が無惨に死んだのだ。
・司令官や参謀といっても、人によっては、勝てないと思っていたはずだ。
 だからといって、軍も師団も、大本営の意向のままの戦いを続けなければならなかった
 のだろうが、勝たねばならぬという思いが、あれだけ戦力の差があっても、勝てるとい
 う妄想に変じていた将軍もいたのだ。
 牟田口だの辻政信などはそういう人だったのかもしれない。
 いまさら恨んでもどうしようもないが、大本営だの将官だとのいうのは、恨まれても当
 然である。 
・文江の亡夫もおそらくは、当時は俺と同じように、何も知らずに、ポンと連れて行かれ
 て、ポンと死んだのだ。俺もポンと連れて行かれたが、俺は、腕を失ったが、生きて帰
 ってきたのだ。
・文江の亡夫は、御国のために死んだのか。
 文江はどう思っているのだろうか。
 本人の中川一等兵は、どう思っていたのだろうか。
 あの戦争がどうして御国のためなのか。
 戦争になったために、御国のためにということになったのだ。
 御国のために始めた戦争ではないのだ。
 あの戦争、米英にはしてやられて、手を出させられたのだと思うが、支那に攻め込むの
 が、なぜ御国のためなのか。
 支那に攻め込まなければ、日本は亡びたのか。
・暴支膺懲などと言っていたが、膺懲とは、なんという思い上げりだ。
 しかし、あのころの日本人は、アジアの他民族に対しては思い上がっており、軍部は国
 民に対して思い上がっていたのである。 
・徴兵制度というのは、つまりは人間狩りの制度である。
 狩るほうも狩られる方も、人間狩りに疑いを持たない。
 持ってもどうしようもないので、初めから諦めている。
 そして、行先知らされず、どこかへ連れて行かれて、御国のためにということにされて、
 死んだのである。
・このところ、辰平は、毎日、文江に電話をかけている。
 だが、かからないのであった。
 昨日は、時間をおいて、三回かけてみたが出なかった。
 今日も二度かけてみたが、二度とも、受信の音が鳴っただけであった。
 旅行でもしているのかな、と思う。
 ならば、旅行に行くぐらいのことを言ってくれてもよさそうなものだ、と思う。
 けれども、文江には、そう言うことを言われなければならない俺への義理はないのだ。
 文江は、俺が思っているより、ずっと淡白な気持ちで俺と付き合っているのかもしれな
 いな、と辰平は思った。
・いずれにしても、文江のような女性は初めてだなあ、と辰平は思うのであった。
 女だけでない、男もだが、人は自分を世間に合わせて生きている。
 たぶん、そうすることで安心していたいのだろう。
 二度と戦争を起こさないために戦争の悲惨を語り継ごう、などと言っている婦人団体の
 人たちには、どこかに反戦平和が聖戦遂行によって代わった世間に自分を合わせて、安
 心したがっているところがあるのではないか。
 戦争中は、兵役は国民の義務だとする世間に、人は当然のこととして自分を合わせ、国
 を広げるために他国を荒らした。
 国を広げることが国を護ることだという世間に自分を合わせた。
 そして、人を殺し、自分も死んだ。
・あのころは、お上の狂気を狂気と言えず、愚劣を愚劣と言えず、嘘を嘘と言えない世間
 であり、けれども人には、そういう世間に合わせた生き方のほうが、ほかの生き方より
 はずっと安心だったのである。
・あのころの国民は、とにかくみんなに合わせて、嘘であれ狂気であれ、そういったこと
 には目をふさぎ、渡ろうとした。
 いや、今だって同じだ。
 国を護るという嘘が、平和を護るという嘘に代わったのである。

10
・白タバコが配給されたのは、どこで、だったろうか。
 食糧やタバコの配給についても、もう細かいことは忘れている。
 憶えているのは、何本かのタバコを、しけらないように「突撃一番」という名の衛生サ
 ックに入れて、一口吸っては消し、一口吸っては消すような吸い方をしたことだ。
 今はコンドームと言うが、軍隊ではコンドームのことをサックと言っていた。
 いや、軍隊の外でもあのころは衛生サックと言っていた。
 そのサック慰安所で使う機会はなかったが、あれにタバコを入れたり、マッチをいれた
 りして、湿気防止に使ったものであった。
 けれども、フーコンの湿気は、サックでは防げなかった。タバコもマッチもしけった。
・衛生サックは、何個、どこでもらったのだったろうか。
 サックについても、細かいことは、もうすっかり忘れている。
・それにしても俺は、死を怖れながら、死に不感症になっていたと思う。
 あの戦場で、なんと多くの人間が、死んだことか。
 いや、あれから、戦争が終わるまで、フーコンの後も、ずいぶん、死んだのだ。
 戦争が終わるまで、ではなくて、終わっても、死んでいる。
 今も死んでいる。日本人だけではない。
 あの戦争だけで、世界中の人間が、何千万人も死んだのである。
 死んだ者があまりにも多いので、人の死の痛ましさが薄れてしまう。
・元来、身近な者以外の死は、言葉ではどう言おうと、どうでもいいことなのかもしれな
 い。 
 原爆で何万人死のうと、南京で何万人死のうと、ユダヤ人が何万人ナチに殺されようと、
 ポルポトがカンボジア人を何万人殺そうと、人は、ひどいと思い、ひどいと言うが、
 話題になったとき、あるいは一時、思ったり、口にするだけのことなのだ。
・日本だけで、交通事故によって、毎年一万人ぐらいの人が死んでいるのだそうだが、見
 も知らぬ他人の死なら、一万人が五万人であってもかまわないだろうな。
 人はそういうものだろう。だから軍人たちは、戦争もできるのだろう。
 今の政治家が口ばかり国民のため、などと言っているように、軍部のお偉方は、国のた
 めと言いながら、自分のためを考えた。口では、天皇陛下の赤子を死なせて申し訳ない
 などと言い、見も知らぬ国民など、三百万人殺しても、平気だったのである。
 そうでなくては戦争など、できないのだ。
・軍隊は、兵站病院というものを作っていた。陸軍病院という看護婦のいる大病院も作っ
 ていた。弾薬、糧秣、医薬品を輸送する機関も、一応は作っていた。
 しかし、弾薬も糧秣も医薬品も、必要な場所に必要なだけは届かなかった。
・軍隊には、刑務所もあり、娼妓もいた。久留米の料亭翠香園は、北ビルマや雲南まで、
 軍についてやって来て、店を開いたり、北ビルマでは、ミイトキーナやモガウンまで、
 雲南では拉猛、騰越まで、慰安婦が来ていた。
 軍は、娼妓屋だけではない。国をまるごと飲みこんでいた。企業も学校も、その強固で
 膨大な組織に人は取り入り、計算して何かを選び、あるいはほとんど何を選ぶ余地もな
 く、生き、または死んだのだ。
・病院下番というのは退院のことである。例の七分退院、六分退院である。
 あのころの入院患者は、つまりはあり程度治れば退院を命ぜられて、戦線に送り返され
 たのである。 
 それでも、後方の病院に退げてもらいたくて、南フーコンでは自傷者がふえたのである。
 自傷者については、自分で自分を撃って負傷して入院を求める者である。そういう将兵
 が出てきたのである。 
・敵弾による負傷か、自傷なのか、傷を見れば軍医には一目瞭然だが、そのうちに軍医に
 よっては、自傷であっても何も言わないようになったという。
 井上大尉は、学徒出身の若い見習士官が、自傷をやって咎められ、罵られ、蹴り倒され、
 そのまま最も危険な前線に出された話を書いている。
 部隊長としては、後日、軍法会議にかけられて恥をさらすより、「名誉の戦死」させる
 方をよりよき配慮と考えたのである。
・その見習士官は、自ら傷つけた片腕を巻脚絆で吊って、大隊本部に来て、自らの行為を
 詫び、立派に死んでお役に立ちたい、と言う。
 井上大尉が見習士官の肩をたたいて、「元気を出すんだよ。誰でも同じなんだ。あまり
 焦るな」と言うと、見習士官は、顔をあげて井上大尉を見て、急にすすり上げて泣いた、
 という。結局、自傷者は死刑である。 
・昭和19年の3月ごろはもう、たとえ野戦病院に後送されても、助かるかどうかわから
 ない状況になっていたのだ。
 死が当たり前だった。次々に人が死んだ。つい今しがたまで生きていた者が、次の瞬間、
 死者になっている。あまりにそれが多いので、だんだん、俺は何も感じなくなっていた。
・俺も、もしかしたら、数分後には、死んでこんなふうになっているかもしれないな。
 戦友の遺体を見ながら、そう思ったような気がする。
 砲撃の合間に、タコツボの中で、母のことを思ったような気がする。母のことや自分の
 少年時代のこと。
 あのころは母はまだ生きていたが、もう二度とおっかやんとは会えんとよ、とタコツボ
 の中でつぶやいたような気がする。
 母のこと、いろいろ懐かしく思い出して、もう会えんと、つぶやいていたような気がす
 る。

11
・中川文江と知り合ってから、毎日、戦場のことを思い出している。
 今の俺は、仕事もなく、余生も短い。仕事はなくても恩給で食える。
 平和と言えば平和で、閑と言えば閑な、男やもめの毎日である。
 そのような俺は、昔をあれこれ思い出すことしか、することがないようなものだが、
 つまりはこうして、文江と付き合っているのだ、と辰平は思うのであった。
・あれから何十年たっても、たまに、であっても、生々しさは薄れていても、消えない思
 い出というものはある。 
 けれども俺は、文江に言われて、もう忘れたことまで思い出そうとしているのだ。
 俺は、博多の戸之倉には、意地の悪いところがあるが、文江には甘い。
 つまり、戸之倉と違って、つまりは、文江が好きだ、ということなのだろうな、と辰平
 は思うのであった。
・文江に対しては、助平を空想する。
 実際はもうできんのに、俺は、思いの中で、文江と接吻したり、乳首を吸ったり、股間
 に顔を埋めたりした。
・けれども、これが、老人の恋などということなのかどうか。
 辰平は、恋などと言えるものではあるまい、とも思い、いやいや、文江と調子を合わせ
 たいという気持ちの中には、老人の恋と言えるようなものが、あるかもしれんぞ、と思
 うのであった。
・軍隊というのは、四割の死傷者が出たらもう戦闘能力がなく、それが六割に達したら、
 全滅と言っていいのだ、という話を聞いたことがあるが、だとすれば、昭和19年3月
 の55聯隊は、すでに全滅の状態にあったのだ。56聯隊も状況は同じであったはずだ。
 しかし、日本軍は、六割やられても、死守だの脱出作戦だのと言って、さらに死傷者を
 増やしたのであった。
・脱出作戦に成功したなどと言うが、それは、何人かがなんとか逃げおおせたということ
 である。
 日本軍に退却という言葉はない。退却は、転進であり、脱出というのであった。
 全滅は玉砕である。
・英霊だの、玉だのと言われても、陸軍一等兵など、いつ、どこで、どんなふうに死んだ
 のかわからない。
 中川一等兵の戦死公報は、いつごろ文江に届いたのだろうか。
 もしかしたら戦後かなりたってからであったかもしれない。
 それが届くまでは、文江は夫の帰国を待っていたのだ。
・戦死公報というのは、いつ、誰が作ったのだろうか。
 軍は、死亡事実証明書を作って送り、それにもとづいて、役所が戦死公報を遺族に届け
 る。  
 そういう仕組みになっていたのだろうが、兵士たちの死亡事実証明書には、フーコンで
 の英霊に関しては、不確かな月日しか書けなかっただろう。戦死の場所は、フーコンと
 しか書けなかっただろう。
・もう忘れてしまった戦友たち。名前も、所属の部隊もわからない、日本の兵士たちの死。
 俺は生きて還ってきたが、名も知らぬ日本兵についてはもちろん、名前を忘れた戦友の
 遺族に、それがどんな戦死であったかを話すことはできないし、名前を忘れてしまうぐ
 らいの戦友については、その気もない。
・国は、そういう人たちの死についても、事実証明書だの、公報などというものを出すの
 だ。
 しかし、死んだということは言えても、俺たち兵士、一人一人がどんなふうに死んだの
 かは報じようもないのである。
 もし、俺が戦死していたら、俺もあの連中と同じように、遺族には、ずっと後になって
 から、月日も場所も大まかに決まり文句で書いた通知が届く。
 もっとも、俺の遺族は、母が一人いただけで、しかも母は、戦争中に死んだ。
 どっちみち俺には、俺の戦死公報を受け取る遺族もいなかったのだ。
・そんなことを考えていると、虚しくなってくるのであった。
 遺骨や正確な記録があればいいというものではない。
 もちろん、それは、ないよりはあったほうがいいだろうが、次々にボロボロと死んだ戦
 没者のことを思うと、人というものが、なんとも虚しく思われるのであった。
 今はもう、軍や国を恨んでもどうにもならないと思っている。
 あんな目に遭っても国民は、国とはこういうものだ、人生とはこういうものだ、と諦め
 るしかないと思っている。 
 だが、虚しいな、と言ってもどうしようもない。
 俺は、この虚しさを抱いて、なにか、少しでも心を満たしてくれそうなものを求めなが
 らもうちっと生きていくしかないだろうな。
・もし、肉親の戦死の状況や、それまでの戦地での詳細を知ることができたら、遺族の心
 は満たされるのだろうか。それで何か納得できるのだろうか。
 人は、愛する者について、知らない部分について知りたいと思うのだ。
 後になってみれば、知らないほうが良かったと思うようなことも知りたがる。
 人とはそういうものなのだろう。知ることは、知りたい気持ちだけは、とにかく満たし
 てくれるわけだろう。
・文江のフーコン探求は、しかし、愛する夫の戦場を知りたいという気持ちだけのものな
 のだろうか。
 それだけではないとすれば、ではどういうことなのだろうか。
・辰平はまたそこに行き当たるのであった。
 そして、いつも、答えは同じだ。わからん。
 第一、文江の亡夫への気持ちというのがどういうものなのか、わからん。
 女、と言っても、いろいろな女がいるわけだろうが、文江は婚前の付き合いもなく、後
 にも先にも数日一緒に暮らしただけで、あわただしく戦場へ去った男に、どのような愛
 情を抱いているのだろうか。 
 それだけで、今なおどんな思いを抱き続けているのだろうか。
・わからん、女はわからん。いや男だって、泣き戦友が話題になると、今でも泣く人がい
 る。 
 戦友の冥福を祈って、復員後、一日も欠かさず朝夕読経している人がいる。
 国はもう今は、遺骨収集団の派遣はやっていないが、個人で、自費でしている人がいる。
 けれども、慰霊は、生者の営みである。生者は死者を祀ることで、自分を慰め、自分の
 生き方を作る。
 死者に語りかけ、そうすることで生者同士語り合う。
 死者は生者に語りかけることはできない。
 生者は、生者の死者への思いの中に、死者からの語りかけがあるのだと思ったりするが、
 それは生者の営みなのだ。
 戦没者を、英霊などと言うのも、生者から死者への語りかけなのだろうか。
・辰平には、文江は、わからん、というだけでなく、ときにはなにか、まったく異質の、
 別世界の人のようにも思えるのであった。 
 けれども、文江との助平事を空想する。
 そのときには、やはり、死んだ静子を意識するのだ。
 もしかしたら、いったん疎くなったものが甦るということも、人にはあるかもしれない、
 と辰平は思った。
 それに、愛する者の知らない部分を知ろうとするのではなく、逆に、あえてしらずにい
 ようという愛情もあるのではないか。
 辰平は、俺は静子にはそうしようとしたのだ、と思い出すのであった。
 そうだ、静子と結婚して、有樹子が生まれて、有樹子が結婚するまで、あのころは、
 俺は、一所懸命に生きたのだ。
 家族三人が普通に生活できるだけの収入を得るために、懸命に生きた。
 振り返ってみると、あのころが、俺の生涯の中で、最も張りのある時期だったのではな
 かったかな。
 それが、有樹子が嫁ぎ、静子が死んで、ゼロになったのだと辰平は思うのであった。
・有樹子が生まれたときの静子の顔を思い出す。
 滅多に笑顔を見せない静子が、辰平が産褥を訪ねると、笑顔で迎えた。
 有樹子が小学生のころ、三人で花見に行ったこともあった。
 長崎に嬉野温泉へ行ったこともあった。
 いろいろなことがあった。なにしろ、長い歳月である。もう孫が、高校生と中学生にな
 っているほどの歳月である。 
 静子との初夜のことも思い出すし、静子の臨終のことも思い出す。葬式のことも思い出
 す。そういうことを思い出すにつけ、静子を哀れに思う。
・俺はしかし、文江のように、知りようもない亡夫の部分を知ろうとするようなことは静
 子にはしなかった。 
 静子に触れられたくない過去があることを、なんとなく感じながら、自分の中にそれを
 知りたいという気持ちが起きなくはなかったが、それを抑え込んだ。
 文江がフーコンでの亡夫を想像するように、俺も、静子の満州からの引揚時の悲惨につ
 いて想像はした。
・満州からの引揚げの話を読んだり聞いたりして、フーコンの方が、まだマシだと言える
 かもしれないな、と思ったものである。
 満州からの引揚者といっても、もちろん、それほどひどい目に遭わずに還って来た人も
 いる。
 けれども、子を手放した親がいる。目の前で父が殺され、母が犯された子がいる。
 日本兵もそれを支那大陸でしたというのだけれども、フーコンには、そういう家族がひ
 どい目に遭う悲惨はなかった。
 たとえ、粉々になって死のうと、憔悴の果てに体力を失って泥の中に沈んで死のうとも、
 自分ひとりが死ねばいいのであった。
・静子は、俺よりももっとひどい目に遭っているのかもしれない、と辰平は思った。
 もしそうなら、そこにうっかり立ち入ってはならぬ。
 俺のフーコンの悲惨は、語ることのできる悲惨である。
 静子の悲惨は、語ることはおろか、思い出したくない、にもかかわらず、忘れることの
 できないことなのかもしれない。 
・辰平は、そんなことを思わないではなかった。
 だが、そういったことを話さずに、静子は死んだ。
 静子につきまとっていた、なにか暗く哀しげな感じを、辰平は思い出すのである。
 静子の、思い出したくもなか、という言葉が、耳の中に残っている。
・静子の生前を思い出して、これでとかったのだ、と辰平は自分に言い聞かせる。
 しかし俺も結婚した当初は、結婚前の静子いついて知りたいと思ったな。
 だが、最後には、立ち入ってはならぬ、と考えるようになったのだ。
・文江には、静子のような暗さはない。
 文江も戦争によって人生の行路を決められた者の一人ではないか。
 軍に夫を連行されて、戦争未亡人になったのではないか。
 けれども文江は、何を恨むこともなく、それを当然のことと受け入れ、明るく暮らして
 いる。  
・何かを誇ろうともしない。恨もうともしない。文江のような生き方もあるのだ、と辰平
 は、何か教えられるような気がするのであった。
 文江には悲惨な経験と言えるようなものはないらしく、辰平がフーコンの話をすると、
 大変でしたね、ほんとうに大変でしたね、と言うのである。
・それにしても、文江は、今、どこにいるのだろうか。
 文江があの岳の木場公園のそばの坂の途中の家にいるのであれば、三日連絡がなかろう
 と、四日無沙汰が続こうと、どうということはないのである。
 けれども、あの家にいないということになると、もう帰って来ているのかどうか、気に
 なるのである。 
 だから、毎日のように電話をかけてみるのだ。今日も、先刻かけてみたが通じなかった。
・文江がいないのに行ってみてもしようがないが、あの家へ、散歩がてらに行ってみよう
 な、と辰平は思った。
 そこへ電話がかかって来た。
 文江が帰って来て、かけてきたのかもしれない、という気がして、送受話器を取り上げ
 た。 
・けれども電話は、文江からではなかった。
 博多からであった。戸之倉のかみさんのタマからであった。
 「ちょっと、そうだんばしたかこつあるんよ」
 とタマは言った。
 「なんね、なんの相談ね」
 「戸之倉が呆けたんよ。ぼって、うち、困っておるとよ。どうね、会うて話ば聞いてく
 れんね」

12
・タマの経営する小さな美容院は、博多祗園山笠で知られる櫛田神社の近くにあって、
 戸之倉はその美容院の二階でタマと暮らしているのである。
・戸之倉は、元来、とりとめのないぶらぶら男で、これまでにも、行先の曖昧な外出が少
 なくなかったが、それでもたいてい、その時間はずれるが、何時ごろ帰るぐらいのこと
 は言っていた。 
 ところが最近は、帰宅時間も口にせず、鉄砲弾のように飛び出して、思わぬ時間にひょ
 っくりと帰ってくるのだろという。
 それで、帰宅予定の時間ぐらいは言って出かけてくれ、と言う。
 そうすると戸之倉は、適当な時間を答えるが、言った時間に帰って来たためしはないの
 だという。
 何時と言ったか、言ったとたんに忘れてしまうらしい。
 これも呆けの症状だと思う、とタマは言うのである。
・辰平はタマの話を聞いて、たとえ戸之倉が、鉄砲弾のように家を飛び出して、思わぬ時
 間に帰ってくる、としても、それはぼけとは無関係ではないか、と思った。
 それが、自分の家に帰る道がわからなくなって、警察の厄介になるような事態を繰り返
 してでもいるなら問題だが、玉には思わぬ時間であれ、彼はちゃんと帰ってくるのだか
 ら、タマの話は、むしろ、戸之倉の軽症を語っているように思えた。 
 ただ、戸之倉が、タマが誰なのかわからなくなり、あんだ誰な、と言ったりするという
 話が本当なら、これは問題だ。
 呆けは始まっているのかもしれない、とも思えるのであった。
・とにかく辰平は、久しぶりに戸之倉を訪ねてみることにした。
 戸之倉はなるほど、とりとめのない男だと思うが、タマの話も、不得要領である。
 もしかしたら、本当に戸之倉は呆け始めているのかもしれないが、タマの話だけでは、
 実際にわからん、と思った。
・もし、タマの話の通りなら、戸之倉は俺にも、あんた誰な、と言うかもしれないな、と
 辰平は思った。  
・それにしても、物があふれ、道路も鉄道も戦前とは段違いに整備された日本で、冷房の
 きいたバスに揺られていると、物と輸送力がないためにあんな悲惨な戦争をさせられた
 国の、戦後のこの大発展は、皮肉だな、辰平は思った。
 戦争に必要なものが戦争中にはなく、だから負けて、負けた後で手に入れているのだ。
・この皮肉も、しかし、生きているから味わえるのである。
 この景色も、生きているから見られるのである。
 窓外の町や村は、こんなに、豊かな感じで、その中を貫く道路がこんなに立派で、飛行
 機も縦横に飛び交っている。
 戦争で死んだ連中は、この日本の発展を見ることはできないのだ。
・死ねば無だ。人は死ぬと、もはや物思うこともなく、肉体は溶け、骨だけが残るのだ。
 辰平は、また死ねば無だ、と思った。
 溶けてフーコン谷地の土に吸い込まれた死者を思った。
 あの広大な谷地と、谷地を囲む密林の中の至る処に、戦死者の骨が埋まり、あるいは散
 乱しているのである。  
・バスに揺られながら辰平はフーコンを思い出し、戸之倉とタマを思い浮かべた。
 静子のことも思い出した。
 戸之倉は、ポンポンと短い言葉を口にするだけで終わる男である。
 そう言えば、死んだ静子も、戸之倉式の口の利き方をする妻であったなあ。
 静子とも、ついに、しみじみと語り合ったり、激励し合ったりしたことはなかったな、
 と思い出すのであった。
・俺は、そういう静子に、どこか満たされないものがあったのではないかな。
 あるいは、中川文江は、俺のそういう不満を見てしてくれるのかもしれないぞ。
 それで俺は、文江を歓迎しているのかもしれないぞ。辰平は、そんなことを思った。
・大村では、8月1日が花火大会で、2日と3日が本祭りの夏越し祭で賑わう。
 先日、辰平が、もうすぐ花火じゃのう、花火ん日には一緒に行ってみんね、と文江に言
 うと、文江は、文江の家から見物しようと言ったのであった。
 蚊遣りを焚いて、西瓜を切って、冷えたビールを飲みましょう、と文江は言ったのだっ
 た。  
・あの時も辰平は、戦没者のことを思った。
 戦没者たちは、この世にテレビが、当然のことのように行き渡っている今の日本を知る
 由もないだけではない。
 もう、水かもビールも口にすることはできないのだ。
 死んだ者と生き残った者の、なんというこの違い。
 生き残った、ということだけで、ありがたい、と思わなければいけないのだ、と辰平は
 思った。
・フーコンで済んだのは幸運である。それをありがたいと思わなければいけないのだ、と
 は思うが、辰平はこのところ、それはそれ、俺ももうそろそろ死んでもいいな、と思う
 のであった。
 静子が死んだあと、そう思うことが多くなった。
 しかし、そう思うだけである。
 もう、英霊だの犬死だの、そんなことはどうでもいい。
 もう、俺は消えてなくなり、俺の虚しさも、恨みも、助平心も、消えてなくなればいい。
 それでいい。
・辰平が、タマの美容院に着いたとき、戸之倉はまだ帰って来ていなかった。
 早速、戸之倉の呆けの症状を訊いてみたが、タマの話では、電話で聞いた、タマに、あ
 んた誰な、と言ったということ以外、タマの話は曖昧であった。
・ときどき、タマが誰かわからないようになるというのは嘘ではないかと思われた。
 しかし、そのようなことがあったかもしれず、それがたとえ一度であったとしても、
 タマには大きなショックであったのかもしれないな、とも辰平は思った。  
 そして、なぜか女に近づくのが巧みで、そして、女に好かれて、髪結い亭主というのか、
 ヒモというのか、そういう自分を当然のこととしているように生きて来た戸之倉だが、
 もしかしたら、老人になって、タマには厄介者になって来ているのかもしれないな、と
 思われた。
・「もっと呆けて、どうもならんごつなったら、村山さん、晋ば、施設にいれてやって」
 「老人ホームか、福祉施設の」
 「そこしか行くところはなかでしょうが、身寄りのない人じゃもんね」
・お前が身寄りではないか。
 内縁とはいえ、施設に入れるなら入れるで、お前がやればいいではないか。
 しかも、話を聞けば、まだ本当に呆けているとは言えないぐらいだのに、もうそんなこ
 とを言っている。 
 戸之倉は女に好かれる、と言っても、こういうことになってしまうのか。
 これが老いたるヒモ、の姿なのか。
 これが、地獄から巧みに生還した者の老後の一景とでもいうものなのか。
・タマが戸之倉を厄介に思い始めているとしても、責められない。
 二人のことは二人のことだ。
 それにしても、これでも、生き残ってビルマから帰って来た者は、幸運だということに
 なるのかな。
 辰平は、戸之倉が本当に呆けて、老人ホームでポカンとしている姿を想像した。
 その姿は、俺の姿でもある、と辰平は思った。
・もしかしたら、今日は帰ってこないかもしれないな、と思った。
 とにかく、バスに間に合う時間まで待ってみることにした。
 戸之倉不在の戸之倉の部屋に泊るわけにはいかないし、だからといって、今から宿を取
 るのも億劫だ。  
 タマにそう言うと、戸之倉の部屋を使えばいいと言う。
 「村山さんも、もう男ではなかでしょう。もう、安全地帯じゃなかね」
 とタマは言った。
 自分は隣りの部屋で寝るから、遠慮せずに止まって行け、と言うのであった。
・しかし、辰平は、泊まらずに帰って、また出直して来る気でいた。
 そして、もうそろそろ帰ろうかな、と思った矢先に、戸之倉が帰って来た。
・タマは、戸之倉と別れる気でいた。タマと話しているうちに、辰平は、タマの前の女た
 ちも、戸之倉から逃げ出したのだろうな、と思った。
 いや女が逃げ出したのではなく、戸之倉が追い出されたのかもしれない。
 タマの前の女たちも、女が戸之倉のところへ来て同棲していたわけではない。
 戸之倉が女の許に入り込んでいたのである。
・別れるときには、戸之倉の方が出なければならなかったはずである。
 これまで俺は、戸之倉には俺にはわからないなにか女に好かれるものがあり、それをい
 いことにこの男は、女から女にわたり歩いている、と思っていたが、彼は女を口説いて
 同棲してもそのうちには捨てられ、また別の女と同棲しては、また追い出され、だがま
 たすぐ、別の女を見つける。
 そういうことを繰り返してきたのだ。
 たぶん、戸之倉は、女と親しくなるのはうまいが、すぐに嫌われる男なのである。
・戸之倉は、女と別れるたびに、気の合わんごつなったばって別れたばい、と言っていた。
 看護婦と別れたときも、スナックのママのときも、今は武雄に住んでいる戦争未亡人の
 小森真紀子と別れたときも。
 けれども実のところは戸之倉は、看護婦からも、スナックのママからも、小森真紀子か
 らも、嫌われて、追い出されたのではないか。
 俺はずっと今まで、戸之倉の方が次々に女を捨てたのだと思っていたが、女の方が戸之
 倉を捨てていたのではないか。 
・辰平は戸之倉の部屋に一晩泊まって、次の日、正午前に、美容院を出た。
 戸之倉には、自分がここに来た本当の理由は言わなかった。
 別用で博多まで来たので寄ってみたのだ、と言っておいた。
・昨日、戸之倉が帰ってくる前に、タマは、呆けた戸之倉にここでウロウロされては困る、
 早めに施設にでも入れてしまいたいと思っているが、そのためには、どこでどういう手
 続きを取ればいいのだろうか。
 戸之倉の身寄りについては一切知らず、付き合いもない。
 それで、あんたに相談するのだ、と辰平に言った。
・「冷たかおなごだと思われましょうけど、うち、はじめから、生涯添い遂げるつもりで
 あん人と一緒になったのではなかとです。なにかずるずるとこげんふうになっとりまし
 たが、心は前から離れとりましたとです」
 とタマは言っった。
・このようなことを俺に言うのは、どういうことなのだろうか。
 戸之倉と俺が戦友であっても、タマは俺が、自分の味方になってくれるとでも思ってい
 るのだろうか。
 味方になるだのいったようなことはまったく考えずに、ただやみくもに、戸之倉に関す
 ることは俺と相談するのがいい、と決めているのだろうか。
 戸之倉の身寄りを一切知らないタマは、俺を、戸之倉の身寄り代わりに思っているのか
 もしれない。
 あるいは、俺が戸之倉の戦友であり、身寄り代わりだから、本心を言っておこうと考え
 ているかもしれない。
・いつものことだが、戸之倉とは、話がはずまなかった。
 中川文江と話ているときのように、話が話を生むというようなことは、戸之倉との間に
 はない。
 戸之倉が、やもめ暮らしで不自由しとろが、と言ったので、別に不自由なこともなか、
 と言ったら、それで終わってしまった。
 戸之倉は、もう古希を越えているというのに、色話をする。
 もうたたんごつなってつまらん、とこぼしながら、自分にはまだ色目を使う女がいるの
 だと自慢したりする。辰平は、昨夜も、戸之倉の色目自慢を聞いた。
・タマから捨てられかけているのに、そしてこんな年になったのに、まだ色自慢をしてい
 るのである。
 呆けの話はどこまで本当かどうかわからないが、どっちにしろ戸之倉は、そのうちタマ
 に追い出されることになるだろう。
 施設に入ろうが入るまいが、これからの戸之倉は哀れである。
 今までうまく行ったかもしれんが、もう、戸之倉を迎え入れる女はいないのではないか。
 彼の言う、色目を使う女がいる、と言う話などは、もう十年も前なら信じただろうが、
 今は嘘だろうと思うのであった。
 かりにそんな女がいたとしても、もう戸之倉は、これまでのように、ヒモ男にはなれな
 いのではないか。
・哀れな、つまらん男だ、と辰平は思うのであった。
 俺もそうだが戸之倉は、あの戦場から生還したほんの一握りの幸運な人間である。
 だが、その幸運な人間の中には、戸之倉のような者もいるのだ。
 辰平は、呆けた戸之倉が、施設に収容されて、虚ろな眼を中空に向け、あるいは床に向
 け、言葉もなく口を動かしている、あるいはポカンと口をあけている、そんな姿を、
 また思い描いた。
 最後はそんなふうになっても、死なずに戦場から生還することができたということは、
 一応、幸運と言うことになるのだろうかな、と辰平は思った。
・辰平は復員後ずっと、たとえ片腕を失っても、自分は数少ない幸運な者の一人だと思っ
 て来た。
 けれどもそう思いながら、俺も戦死してもよかったのだ、と思っているのである。
 それにしてもこれまでは、人には、戸之倉のような晩年もあるのだなどとは考えたこと
 がなかった。
 彼の呆けも、施設への収容も、今はまだ決まっているわけではない。
 あるいは別のかたちになるかもしれない。
 だが、どんなふうになるにせよ、戸之倉の今後は、侘しいものになるだろう。
 俺のこれからだって、侘しいものだが。
・なにか戸之倉は、あのフーコン脱出から半世紀たって、再び、あのヨロヨロ行軍を始め
 たようなものではないか、と辰平は思った。 
 施設の一室で虚ろな眼を何に向けるともなく向けて、呆然としている想像の中の戸之倉
 の姿は、まさに筑紫峠の泥の中で、もはや立ち上がる気力もなくへたり込んでいて、そ
 のまま死んで行った兵士の姿ではないか。
 あの泥道にへたり込むよりは、施設の床にへたり込む方が、まだ、マシかなあ、と思う。
 俺は、戦後、いわば、小事に一喜一憂しながら、平凡に生きて来た。
 仕事に張り合いを持ったことがあったわけではない。平凡と言えば平凡な人生であった。
 だが、これでいいのだ。
 俺はそう思い、だが生きて還って来たことだけでも、ありがたいと思わなければいかん
 のだ、と再三自分に言い聞かせて来た。
 けれども、ときどき、俺も戦死してもよかったのだ、と思ってしまうのだ。
・あいつは、タマの翻意を求めて、ああでもないこうでもないと言うが、追い出されてし
 まう。
 戸之倉はそのような場合、一応はタマの顔色を窺いながら、弁解したり懇願したりする
 だろうな。
 けれども、案外、淡白なところもあって、さほど粘らずにタマのところから出ていって
 しまうかもしれない。
 その後は、どういうことになるだろうか。
 戸之倉には、暮らしていく手立てが何かあるだろうか。
 問題は俺たちの年である。
 古希を過ぎたこの年になればもう、職はない。
 俺と違って、年金のない戸之倉は生活保護でも受けるしかないのではないか。
 彼に貯えがあるとは考えられない。
 そんなふうになるよりは、いっそ戸之倉は、本呆けに呆けてしまった方がいいかもしれ
 ないなあ。
 戦場で俺は、死ねば楽になるから、いっそ死にたいな、と何度も思った。
 だからといって、自殺はできなかったが、死で人が楽になるように、呆けも人を楽にす
 るのではないか。
・やはり大村に帰ってくると、ホッとするなあ、と辰平は思った。
 バスから降りると辰平は、家に帰る前に、文江のところによってみることにした。
 どこかに行ったきりで、文江はまだ帰って来ていないかもしれないのである。
 けれども、とにかく行ってみて、もし、まだ帰って来ていなかったら、帰られたら電話
 をください、と書いた紙片を、郵便受に入れておこうかなと思った。
・ゆっくり時間をかけて、歩いた。文江の住居は、歩く距離はさほどのものではないのだ
 が、坂道を登らなければならない。
 坂道を上ると、短い距離でも年を感じる。
 衰えているのは、性だけでない。やはりこの年になると、足腰の力がすっかり弱くなっ
 ている。文江の家への坂は、短いが勾配が急だ。膝が重くて、動かなくなる。
・フーコン作戦でも、インパール作戦でも、おびただしい数の兵士が栄養失調で死んだが、
 栄養失調死とは餓死のことだ。脱出作戦とは、敗走のことだ。  
 帝国陸軍は、何万もの兵士を栄養失調死させたとは言わない。
 まして餓死させたなどとは言わない。名誉の戦病死と言うのである。
 帝国陸軍は、敗走だの退却だのという言葉も使わない。
 転進だの、脱出作戦だのと言うのである。
・日本軍がジャンブーキンタンまで撤したころには、死守という言葉しかしらぬかのよう
 な軍の首脳たちも、もはや挽回はありえないと判断して、僅かばかりの生き残りの、他
 の戦場への転進を考えたのである。
 軍は続けざまに、脱出作戦という退却命令を出すのである。
 軍も師団も、国や国民のためと言いながら、よくもあんなに国民を殺したものだ。
 やつらはまず死守を命じる。
 そして、死守を脱出に変えて退却させたのだ。
・大村の坂を登と、ジャンブーキンタンの悪路が思い出され、戸之倉を見ると、野垂死を
 した兵士たちの姿が思い出されるのである。
 そして、そういったものを思い出すと、この年になっても自分の中に、少しばかり消え
 ずに残っている恨みが、諦めの中に、ちょっぴり首を出すのであった。
・もう、何がどうだっていいじゃないか、と思うが、こんなどうだっていいじゃないかと
 いう気持ちになるのも、廊下のせいかもしれんな、と辰平は思うのであった。
 けれども、もうどうだっていいのだ。静子も死んだし、俺の残りも少なくなったし、
 別にしなければならないことがあるわけでもないし、もういい。
・文江の家への坂道で、辰平は、また、もう死んでもいいなの思いを繰り返し始めた。
 死んでもいいな、という思い、これまでに何度繰り返しただろうか。
 生きて還って来ることができたのは幸運だが、フーコンで死んだってよかったのだ。
 この思いも、何度これまでに繰り返しただろうか。
・フーコンでも、もう死んでもいい、と思ったな。
 そう思いながら、何とか生きようとしたのだ。
 今も、そう思いながら、生きられるだけは生きようとしているわけだろうな。
 この俺の思いは、戸之倉には、わからないだろうな、文江にもわからないだろうな、と
 辰平は思うのであった。 
 文江には、村山さんには、主人の分まで生きてほしい、と言われたことがあった。
 そのとき、辰平が、なんだかテレビドラマのセリフのごたる、と言うと、文江は、でも
 ほんと、と言ったのだった。

13
・辰平が博多から変えて来た日の翌日、文江から電話がかかって来た。
 「京都へ行ってました。二泊三日の予定でしたのに、ちょっとのびてしまいました」
・電話をいただいたんでしょうね、と文江が言ったので、はあ何回か、などと淡白な言い
 方をしたが、電話は、実は、何回、どころではなかった。
 毎日、日によっては一日に何回もかけたのだ。
 それどころか、昨日のように、留守の家に行ってみたりもしたのだ。
 だが、そういうことは言えなかった。
・文江の京都旅行についても、立ち入ったことは聞かなかったが、文江の方が、義弟の法
 事があったのだと言った。  
・文江に亡夫の歩いた道が本の記述だけでたどれるはずがない。
 けれども、正確でなくてもいい、大ざっぱでもいい、こういったことをすることは、
 文江にとっても、俺にとっても、いいことではないか。
・文江には、亡夫へに供養にもなろう。
 俺には、文江との老男女のままごとだ。
 老人の助平心の炎が、ひそかにとろとろと、俺の中で燃えていることを、文江は感じて
 いるかどうか。 
 けれども、俺には、そういう気持ちがあってのふみえとのままごとである。
・それにしては、文江は、大義不要の一方的な聞き手だな。
 文江が俺の”自慢話”を、大義も平和も関係なく、ただ、フーコンをもっと知りたいので
 体験を聞かしてほしいというのは、それにしても、やはり亡夫への追悼を深めようとし
 てのことなのかな。 
 辰平は、またまたそのことを思ってしまうのであった。
・辰平は、そうですか、たいへんでしたね。よくまあ乗り越えられましたね。神様が護っ
 てくださったとしか考えられませんわね。
 そう辰平に言った文江の、どこか子供っぽさのようなものを宿している顔を思い浮かべ
 るのである。 
 そしてさらに、文江の裸身を思うのであった。
 辰平の思い描く文江の裸身は、静子であった。
 文江の乳房も、ボボも、陰毛も、静子の乳房であり、ボボであり、陰毛であった。
 そしてなにか、甘悲しいような気持になるのであった。
・それにしても、人さまざまだなあ。男も女もいろいろだ。
 文江のような女もいれば、タマのような女もいる。
 女にも、夫や子供を捨てて、男のもとに出奔する者もいれば、二股かけてやっている者
 もいる。再婚、どころか三婚でも四婚でもする者もいる。
 夫が戦場から帰って来たら、妻が他の男と一緒になっていた、とか、誰かの子を産んで
 いたとか、そういう女もいるかと思うと、生死もわからぬ男を待ち続けた女がいたとか、
 いろいろである。
・文江は、再婚せずに戦争未亡人を押し通している女だが、五十年前に、数日接しただけ
 で死んだ夫を偲んで白地図に、創造の足跡を書いている文江と、いやになったからか、
 いらなくなったからか、簡単に男を追い出してしまうタマとでは、違うなあ。
・辰平の思いは、また戸之倉とタマにもどり、タマのような女と一緒になったのは、戸之
 倉の身から出た錆だ、と思うのであった。
・文江との電話の後、辰平は、またいつものように、文江の亡夫への気持ちや、自分の文
 江の気持ちについてあれこれ思い、また文江との助平な光景を空想したりした。
 助平といっても、この年になっては、もし、実際に自分が求めて、文江が応じたとして
 も、これまた、子供のままごとのような情事になりそうだな、と空想する。
 老人になると子供に還る、と言うが、もし、文江が応じたとしても、彼女との色事は、
 大人の真似をする子供のそれのようなものになりそうである。
 今度は、老人が若者を真似るだけの行為になる。そんなことをあれこれ空想した。
   
14
・名前も憶えなかった戦友のある者は、鉄片に体を裂かれ、おびただしい鮮血を流して死
 んだ。
 人の血は、体から飛び出したときは、鮮血である。強烈な赤色である。
 それが、たちまち、どす黒い色に変わっていく。
 俺は、左手を失っても生きているけれども、あの密林の中には、体の一部を切り飛ばさ
 れた死体があった。
 死体は河のほとりにもあり、茅の原の中にもあって、うっかり蹴つかずいて俺は転んだ
 りもしたのだった。
 あの追憶。そして、つい今まで、声を出したり動いたりしていた人間が、突然、ピクリ
 ともしない物になってしまうあの感じ。
・あの言いようのない感じは、静子が死んだときにも感じた。
 なにか、信じられないことが起きたような感じだが、夢でもなければ、嘘でもない。
 そんな感じを、急に突きつけられて、ポカンとしたわけのわからない気持ちになったの
 だ。  
・けれども、人はそうなるのだ。
 みんな、例外なく死んで、ピクリともしない物になるのだ。
 生きている者は、死んだ者を焼いてお骨にして、壺に入れる。
 フーコンで死んだ人たちのことも、なにか納得がいがないが、つまり、人は、いつか、
 どこかで、プチンと死体になるのだ。
 あの者たちに較べると、俺は長生きした。
 けれども俺も、もうそう遠くない将来、死んで、ものも思わず、ピクリともしない物に
 なる。
 静子も死んだ。もちろん、文江もいずれは死ぬ。戸之倉も死ぬ。その日が近づいている
 のである。

15
・待っていたチャイムが鳴った。来た。辰平は、ハイと声を挙げ、どうぞ、まっとりまし
 たばい、と言って玄関の戸を開けた。
 ところが、立っていたのは文江ではなく、博多の戸之倉晋であった。ボストンバックを
 下げていた。
・辰平は、あれはつい一昨日のことだというのに、もう、こいつ、追い出されたのだな、
 と思った。
 「別れたばい」
 と、戸之倉は言った。やはり、追い出されたのであった。
・「いきなり、生活保護の、特養老人ホームの、と言われても、返事のしようもなかばい。
 ばってん、別れたいと言うなら別れるが、別れた後の俺んことまで、ああしんしゃい、
 こうしんしゃい、と言うことはなかろうが、と言うたばい。俺がそう言うたら、タマは、
 そうじゃね、よけいなこつまで言うたかもしれんね、と言うて、その後は、黙って、
 むっとしとったなあ」
 「そうか。それで晋は、これからどうする気でいるとね」
 「それがどうすればいいかわからんばってん、相談ばしようと思ってきたんじゃ」
・これからどうする、とは、これから、どうやって食っていくのか、という意味で辰平は
 言ったのであったが、タマと別れるとなると、戸之倉のこれからは、食うことだけでは
 なく、住むところも手に入れなくてはならない。
・国は、戸之倉のような老人には、タマの言った生活保護というのをくれるのだろうか。
 そのためにどういう手続きをとればいいかは、市役所に行って訊けば、教えてくれるの
 だろう。  
 国というのは国民を、まるでイワシかシラミかなんぞのように殺しもするが、終始女に
 食わせてもらって来て、追い出された七十老人を、保護してくれるのかもしれないな。
・チャイムが鳴った。今度は文江であった。
 文江は、戸之倉の靴を見て、「お客さんですか」と言った。
・「ほら、中川さんも知っとろう。戸之倉が来とっとです。ほら、昔、武雄の小森さんと
 暮らしとった戸之倉が、突然やって来らしたとです」
 と辰平が言うと、文江は目を丸くして、
 「あら、真紀子さんの。私、その方、お目にかかったことはありませんけど、真紀子さ
 んから聞いていますわ。そうですか、でも、いいんですか、私、上がっても。おじゃま
 になりませんか」
・そう言えば、文江をおれに引き合わせたのは、戸之倉の三番目の女の小森真紀子だった
 のだな、と思った。
 小森真紀子を俺に引き合わせたのは、いわば腐れ縁のような戦友の戸之倉である。
 戸之倉の女は、戸之倉と女が別れたら、俺とも疎遠になる。
 今のタマにしたって、今後、俺はもう会うこともあるまいし、話すこともあるまい。
 だが武雄の小森真紀子は、普通なら疎遠になっていたはずだが、彼女は戸之倉と別れた
 後も年賀状はくれるし、滅多に会うこともないのに、突然、大村に来ているから食事を
 しようなどと言って来るのである。
・人さまざまであり、女もさまざまである。
 戸之倉はタマのことを、男から男に渡り歩いた女だと言っていた。
 タマがそうなら戸之倉は、女から女に渡り歩いた男ということになるだろうが、タマの
 ような女もいれば、文江のような女もいるのだ。静子のような女もいるのだ。
・タマはタマ、文江は文江、静子は静子で、みんな自分流に生きてきたのだ。
 一口に戦争と言っても、タマと静子では、同じものではない。
 フーコンと言っても、遺族と言っても、人それぞれなのである。
 それにしても、文江とフーコンとは何のだ。
 言葉にすれば、執着していではいられない亡夫の墓場だということになるのだろうが、
 それだけではないような気がする。
 では、何だということになると、わからないのである。
   
16
・師団長や参謀たちは、補給がなくなっても、六分退院だの七分退院だのといって、野戦
 病院からまだ傷病の癒えていない患者を退院させて、補充兵として戦線に送り返しなが
 ら、カマインで戦える気でいたのだろうか。
 戦えなくても戦うのが日本軍だというわけか。
 今まさに祖国の存亡に危機に立っているのだから一師団の玉砕などは問題ではないとい
 うことか。
・田中師団長は、カマインに戦闘司令所を開設した日、軍司令官宛ての何度目かの遺書を
 書き直したが、死ななかった。
 その遺書には、カマイン、モガウン、ミイトキーナの北ビルマ三角要域を確保できなか
 ったのは、自分の作戦指導に帰するものであって、師団は壊滅したが、将兵は、一死報
 国、よく統帥に従ったことを万世に顕彰すべきである、と例によっていい気なことが書
 いてあったのだろいう。
 俺は万世に顕彰してもらいたいなど思っていない。
・俺は、絶対に勝算のない戦闘を、報国の名目でやらされて、殺されて、万世に挙証など
 してほしくない。
 統帥に従わなければならない巨大で強力な組織に投入された国民が、統帥に従ったから
 といって、なぜ万世に顕彰されなければならないのだ。
 俺も戸之倉も、顕彰されるべき人間なのか。
  
17
・戸之倉が帰ったあと、半時もたたないうちに有樹子が来た。
 辰平は、戸之倉は何のために是のところに来たか、改めて考えてみた。
 今後について相談しに来たのではないのか。
 そう思って彼を迎えたのだが、彼は相談などせずに帰った。
 辰平は、彼の今後については、今後収入のあてがないのであれば、生活保護をもらうに
 はどうすればいいか、市役所に訊きに行け、と言っただけである。それだけである。
・有樹子は、いつものように、食器を洗い、掃除機をかけ、洗濯物を洗濯機に投じ、スイ
 ッチを入れた。 
・静子が死んだ後、辰平は何回か有樹子から、とおちゃん、うちに来て一緒に暮らさんか
 ね、と言われた。
 そうじゃのう、と辰平は生返事をする。
 辰平は、そう言うだけで、独り暮らしを変えようとはしないのであった。
・「おっかやんの思いでの染みついとる家だもんね。離れとうなかでしょうね」
 と言われたこともあった。
 そう言われると辰平は、確かにこの小さな家には、静子と暮らした日々の思い出が、
 みっちりと染みついている、と思うのであった。
 他人に話せない思い出も、みっちり。
 この小さな家で、数えきれないぐらい、静子を抱いたのだ。
 にもかかわらず、子は有樹子しかできなかった。
 性のことを言えば、静子は日によって、今日はしとうなか、と言った。
 そう言われても、のしかかって無理にしたことがあった。
 そういう求め方をしたとき、静子は涙を流して、ロスケごたる、と呟いたことがあった。
 以来、辰平は強引にのしかかるのはやめた。
・静子は、満州から引揚げのときに、もしかしたらロスケに暴行されたといったような厭
 な追憶があるのではないか。  
 静子の生前、静子としていて、ふとそう思って、とたんに萎えてしまったことがあった。
 そうではないかもしれないが、そう思った。
 何かでもし静子が、誰にも言えないことでひそかに苦しみながら生涯を終えたとすれば、
 哀しいと思う。
 辰平はしばしば、今でもそういう思いにとらわれるのである。
 そして、そんなことは、もうどうでもいいことなのだと思うのであった。静子は死んだ
 のだ。
・おそらく人はみんな、多かれ少なかれ、深かれ浅かれ、生涯誰にも言えずに墓場に持っ
 て行く、悲しいことや恥ずかしいことが、何かあるのではないか。
 戸之倉にも、タマにも、文江にも、何かあって、しかし、人はそれに馴れるのである。
 何だって、忘れたり疎くなったりするのである
 だからやっていけるのだと思うが、しかし、人によって、同じことにも馴れやすい質の
 人と馴れにくい質の人がいるということかもしれんな、と辰平は思う。
・忘れたり、疎くしたりするのではなくて、中には、独り自分の中で、ますます肥大させ、
 濃度を高める質の人もいるのではないか。
 もし静子がそういう質の人であったとしたら、彼女は死ぬまで陰鬱であり、俺はそこか
 ら静子を救出できなかったわけだ。
 いったい彼女は、何も語らず、だから彼女の陰鬱がどのようなものか皆目わからず、
 だから、救出などしようがなかったのだが、それにしても静子を思い出すと、悲しみが
 湧いて来る。 
・死が救いであったかもしれないな、と思う。
 そういう生もあるのだ。
 しかし、死が救いの生とは、哀しいではないか。
・あまりないことであったが、静子は、たまには、機嫌よく笑顔を見せた。
 上機嫌の理由も不機嫌の理由も、ついにろくにわからぬまま静子は逝ったが、辰平は、
 静子の不機嫌のときの顔を思い出したり、上機嫌のときの顔を思い出したりした。
・戦後のわが国では、全滅を玉砕と言っているが、フーコンの戦闘部隊では、なぜか玉砕
 という言葉はよくないとされていた。
 玉砕もよくない、全滅もよくない、いいのは、死守という言葉だという。
 死守という言葉には、戦意や大和魂がこめられているとでもいうのであろうか。
 そう言われれば、そんな気もしないでもないが、しかし、どんな言葉を使おうと、ナン
 ヤゼイク以降は、もはや戦いではなく、敗残であった。よたよた、やっとの退却であっ
 た。 
・俺は、ナンヤゼイクからカマイン近くまでは行ったが、町中には入らなかったような気
 がする。
 砲や銃は天皇陛下の御分身だと言って、大村の内務班では、鼻毛ほどのゴミが一つつい
 ていいただけで、陛下の御分身にゴミをつけたと殴られたものであったが、フーコンで
 は、もう御分身などと言ってはいられなかった。
 俺は御分身を、インドウ河に捨てた。
・あのころの俺につって、何よりも重要なことは、歩くことだった。
 歩いても、死から逃れられるというものではない。
 けれども、歩けなければ、確実に、死んだのだ。
・筑紫峠のことは、どのへんで誰に聞かされたのだったろうか。思い出せない。
 しかし、あの伐開路が最後の唯一の脱出路であったことを俺は知っていた。
 筑紫峠をこえることが、三途の川をあの世からこの世に渡ることだったのだ。
 そして渡ることができたのは、歩ける者だけだったのだ。
 野戦病院に収容されなくても、俺たちはあるいは軽傷を負い、あるいは、体内に排泄す
 るものなどないのに絶えず便意を催し、ビルマ潰瘍の膿を蛆に吸われ、なけなしの皿を
 山蛭に吸われながら、力のこもらぬ栄養失調の体をよろめきながら運んだのだ。
・俺たちも戦傷者だったのだ。だが、必死に歩き続けたのだ。
 だが俺たちのなからも、歩けなくなった者が出た。河が渡れなくて、死んだ者もいた。
・有樹子の背中を見ながら、辰平は、ここにこうして有樹子がいるのは、俺が生還したか
 らだと思った。  
 やはり俺は、恵まれているのだと思った。
 死ねばそれっきりである。

18
・みんながみんな、銃や被甲を棄てたわけではなかったな。
 銃は生き延びるために必要な道具であった。
 御分身からではなく、殺される前に敵を殺すために、銃は手放せないと思っていたので
 ある。
 だがあの場合は、俺は、捨てないわけにはいかなかった。
 俺は、銃を背負い、弾薬を腹につけて、インドウ河を泳ぎ渡ることはできなかったのだ。
・迫に吹っ飛ばされての即死の方が、楽だと言えば楽だな、と辰平は思った。
 もっとも、それは今だから思うことかな。
 いや、歩くどころか立ち上げる力も尽きて、泥の中に坐り込んで死を待っていた者、
 あれよりは一気にコマ切れになって死ぬ方が楽だ、とあのころも思っていた。
 死んで楽になりたい、とも、あのころ、何回思ったことであろう。
 歩けなくなって、手榴弾で自決した者がいた。
 よほど楽になりたい思いが募らなければ、自決はできるものではなかった。
 即死の方が楽だと、考えの中では思っても、実際に迫が飛来すると、体がこわばり、歯
 が鳴った。
・いちいちそれが国のためだと思って、張り切って敵を殺すのが戦闘ではなかった。
 殺される懸念の中にいたのが戦場であった。
 それは連合軍の兵士たちも同じだったのだろう。
 敵を殺すのは、殺される前に殺さなければ、殺されるからである。
 だから俺たちは、フーコンの密林や茅原の中で、先に敵に気づき、先に撃とうと努めた。
 けれども、何万人かの敵の何人かの敵を殺せたからといって、それだけで生き延びられ
 るものではない。
 空からの攻撃や、遠くからの砲撃には、先に撃って殺すことはできないのである。
 味方に飛行機や砲がなければ歩兵は、殺す前に殺すすべもなく殺されるしかないのであ
 る。
・遊兵と呼ばれる兵士たちがいて、遊兵狩りというのがあったのだ。
 軍人は国のためだ、天皇陛下のためだ、と言って、好きなだけ、好きなように国民を徴
 集して、好きなように組み合わせ、好きなところに運び、簡単に殺した。
 それを国民は、奉公と言ったり、出征と言っていたり、編成と言っていたりしていたの
 である。
 国民など、虫けら同然に扱わなければ、戦争はできないし、軍隊は成り立たない。
 だから、前線陣地が崩壊に瀕すると、野戦病院に、何人退院者が出して、どこそこの部
 隊へ送れと、泥で洪水の穴を塞ぐような命令が来る。
 五体万全でも、天皇や国のために死ぬ気でいても、食い物はなく、死が待ちかまえてい
 る前線に行きたい者はいない。
 それでも退院を命じられた者は、行かねばならぬ。ただし、その足取りは重いのである。
 戦傷病が治りきっていなくて、体力がないからだけではない。行きたくないからである。
 だが、行かないわけにはいかない。だから、少しでも時間をかけて行こうとする。
 それでも、そういう連中が集団で動いていれば、弁解の余地はある。
 けれども、一人や二人で足をひきずっていたら、遊兵だと言われて狩られるのだ。
 遊兵狩り担当の憲兵がいて、遊兵を見つけると、殴ったり、蹴ったりして、前線への追
 及を急がせたというのだ。
 
19
・昨日、文江が帰った後で、「あの中川ちゅう婆さんは、辰平は、どぎゃん関係ね」と
 戸之倉が訊いたので、辰平は、文江はフーコンで戦死した56聯隊の兵士の未亡人で、
 フーコンのことを聞かしてほしいと言って訪ねて来るのだ、それだけ言うと、
 「あの婆さんは、若かころは美しかおなごじゃっただろうの」
 と戸之倉は言った。
・辰平も、そうであっただろう、と思うのである。
 辰平は、若く美しかったころの文江を、これまでに何度も想像したものである。
・50年前の文江は、二十歳を乞えたばかりの年齢である。
 若い娘ならではの甘い香に包まれた女である。
 乳房は丸く盛り上がって、弾力があり、中川一等兵は、その乳房に鼻や口を押しつけた
 のである。文江の股間も、鼻や口を押しつけたのである。
 文江ははじらいながら、どこにでも押しつけてくる夫の鼻や口を受け容れたのである。
 その鼻や口を、しかし、中川一等兵は、フーコンの泥に突っこんで死んだのだ。
・昨夜は、戸之倉と床を並べて横になってからも、文江のことを思ったり、死んだ静子の
 ことを思ったりした。想像する文江の体は、静子の体でもあった。
 プリンと丸く真理上っていた文江の乳房は、静子の乳房でもあった。
 だが盛り上げっていた文江の乳房も、今はもう、晩年の静子の乳房のように、ふにゃふ
 にゃに垂れているのである。 
 けれども辰平は、そのふにゃふにゃの文江の垂れ乳房に、思いの中で鼻と口を押しつけ
 るのであった。
・さすがにもう、文江の裸体を想像しても、空想の中で、文江とのどんな行為を思い描い
 てみても、立ち兵の股間は、ほんの少し反応するだけで、立ちはしないのである。
・戸之倉は、ふた言目には、立たんごつなってつまらん、と言うが、俺ももう立たなくな
 ったなあ、年だなあ、と思うのである。そう思いながらも空想するのであった。
・ただ押しつけるだけでも、と思う。もし、共に素裸になって、抱き合い、押しつけ合う
 ことができたらと思う。
 「いいんですよ、これで」と文江が言う。
 「年じゃもんなあ、でけんじょん、そうだじょん、おりゃうれしか」
 「私も」と文江は言う。
 勝手に思うのだから、文江は、私も、と言う。
・空想の中で辰平は、文江の唇を、瞼を、耳たぶを、乳首を、へそを、指を、そして、
 ボボを吸い、舐めた。
 ボボには、指を挿した。
 空想では、立たせることもできるし、それを入れることもできるのである。
 だが、空想がそこまで広がると、現実に引き戻されるのであった。
・辰平は言ってみた。
 「あんたんボボいろうてんよかと」
 文江ははじらいながら、いいと言った。
 「あんたんボボ舐めてんよかとね」
 文江は、いいと言った。
 空想だから、文江は拒まないのである。
・だが、実際には、何もできないのだ、と辰平は思った。
 これまで何回か、抱かいてくれんね、と、云いたい気持ちにはなったが、言えなかった。
・実際に、抱かいてくれんね、と言ったら、文江は、首を横に振り、いけませによ、と拒
 まれた場合のことも、辰平は思ってみた。
 そのとき文江がきつい顔つきになるか、笑みをたたえているか。
 笑みをたたえていたら俺は、おりゃ文江は好いとるばい、と言えそうにも思える。
 そう言っても、文江は、いけませんわ、と言う。
 そこまでで終わりそうである。
 逃げるのを追って、無理に抱き締めるようなことは俺にはできないのだ。
・辰平は、しばしばそのような空想をするのだが、しかし、それは、たちまち消えてしま
 う空想でもあった。   
 もう俺の助平は、空想にも馬力がないのだ、と辰平は思った。
 そして、そんなことはもうどうでもいいではないか、と言う気にもなるのであった。
 
20
・今は、男女が会うのはデートと言うが、文江とのデートは、明後日か明々後日以降とい
 うことになった。
 食い違いだすと、ずるずるとこんなふうになるのだ。
 けれども、本当は別にデートが急がなければならない理由はないのである。
 明々後日が、一週間後でも半月後でもいいわけではないか。
 にもかかわらず、二、三日延びたといだけで、少しだが落胆しているのである。
 やはり、好いとるから、ということになるんじゃろうな、と辰平は思うのであった。
・明日だの明後日だのと言えば、筑紫峠を歩いたときも、この泥道を歩ききるのは、明日
 かな、明後日までかかるかな、と思ったのである。 
 もうに、三日歩き続け、死なずにいれば、フーコンから抜け出すこちができる。
 どこでそう思ったか、あのころはもう、モガウンには行けなくてサモウを目ざして歩い
 たが、モガウンには行けないと知ったのは、いつ、どこで、であったか思い出せない。
 あの伐開路に入ったのは、どこからであったかも思い出せない。
・ただ、伐開路に入ると、いきなり泥道の脇の木に凭りかかって、よどんだ眼を開いたま
 ま死んでいた兵士がいたのであった。
 泥の中に坐ったまま死んでいる兵士を、それから何人見たのであったか。
 まだ死んでいないが、泥の中で動けなくなっている兵士、坐ってもいられなくて、横に
 なって、顔だけを泥の上に出していた兵士、弱々しい声で、連れて行ってくれ、と言っ
 た兵士、そう言いたかったのだろうが、もう弱り果てて声も出ず、鯉のように口ばかり
 動かしていた兵士、口を動かす力もなくなっていた兵士、そういった死体や、死にかけ
 ていた兵士が、何メートルか行くたびに、虚ろに俺を待っていた。
・連れて行ってくれ、と言われても、俺には連れて行く力は残っていなかった。
 もしかしたら今日のうちに、あるいは明日は、俺がこの兵士のようになってしまうかも
 しれないのだ、と、ぼんやり思っていたのである。
・傷口に真っ白に蛆がたかっているのに、それを取り除く力もなくなっていて、ただ死を
 待っていた兵士もいた。  
 そういう兵士たちを、あのときは、もう哀れとも思わず、俺は歩いたのだ。
 物を思う力も、もうろくになかったのだ。
 今日のうちに、あるいは明日、俺もこの人たちのように野垂死にするかもしれない、と、
 ぼんやり思いながら歩き続けたような気がするのだが、実はこれも確かではない。
 今、そんな気がしているだけの話かもしれない。後になって思っているかもしれない。
 だが、あの伐開路の泥道の脇に、屍体や死にかけている髪も髭も伸び放題の、土色の顔
 の中で眼の光を失いかけている兵士が、乞食のように汚れたボロをまとって、点々と身
 をさらしていたのは事実である。
・死体を見馴れている、と言っても、その死体の多さ、そして、死にかけている兵士の多
 さ、に辰平は眼を見張った。
 なぜここには、死体や死にかけている兵士がこんなに多いのか、と思ったが、今考えて
 みれば当然である。
 それはあそこに、瀕死の兵士たちが、わずかな生の可能性を求めて押し寄せ、集まって
 いたからである。
・瀕死の兵士たちが押し寄せて、もう伐開路の坂道を登る力はなくて、次々に死んだので
 ある。
 生きている者は、死者のわずかな所持品を奪う。
 死者が、乾麺麭のいくつかでも、何勺かの米でも所持していれば、収穫である。
 タバコの数本でも残して死んでくれれば、収穫である。
 もし、まだ履ける靴を履いた兵士が身近で死んでくれたら、大当たりだが、辰平が出会
 った死者はみな、裸足か、口をあけた靴を履いていたか、どちらかであった。
 身近で死んでくれない限り、背嚢や雑嚢をさぐってみても、何も出てこない。
 そうとわかっているから辰平は、死者の遺産を入手するために、その雑嚢やふところを
 検めるようなことはしなかった。
 けれども、後で、ある兵士から辰平は、渡河点での死体あさりの話を聞いた。
 あの戦場での死体あさりは、当然のことだったのだ。
・死守の命令が脱出に変わる、次の陣地で、また死守が脱出に変わる。
 そのたびに何人かが死んだ。
 ナンヤゼイクでは、あの最後の脱出命令が出たとき、菊の師団長は、傷病者は一人残ら
 ず連れて退がれ、一人も敵手に委ねてはならぬ、と厳命したというのだが、そんなこと
 ができるわけがない。
 師団は三十名の患者輸送隊を編成してナンヤゼイクに向かわせたが、その程度の輸送力
 で後送できる患者の数は、わずかである。
 だから、敵手に委ねる者を残さないために、まず、出発時に、独歩不能の者を安楽死さ
 せ、渡河点では、渡河不能の者を安楽死させた、というのである。
・「戦友ば敵手に委ねんよう配慮の安楽死ばい。衛生兵が、死にかけとるもんに、注射ば
 射って回りよったが、あれや昇天水じゃろうかのう。赤か色の注射液じゃったが、あげ
 ん衰えてしまえば、もう死ぬしかなかばい。あげんごつなれば、もう、生きて虜囚の辱
 しめば受くるこつもなか。敵の来んでも、注射ば射たんでも、死ぬのに時間はいらんた
 い」と、あの兵士は言った。 
・辰平は、瀕死の兵士でも、日本人の心のどこかには、敵には殺されたくないとか、生き
 て虜囚の辱めを受けたくないとか、そんなものがあったのだろうかな、と考えてみたが、
 答えは出なかった。
 とにかく、日本の下っ端の兵士はみじめだった。
 殺される患者も、注射をして回った衛生兵も、遺品をあさった兵士も、俺も、みんな、
 みじめだ。けれども、みじめだ、と言ってみても、しよいがないな、と思うのであった。
・師団長や、辻政信や、ああいった連中のことを考えると、コンチキショウ、と思うのだ。
 あんな戦争をして、なにが、一人残らず連れて退がれ、だ。
 あいつらは、ふたこと目には、国家のためと言うが、あいつらの言う国家とは、結局、
 てめえだけのことではないか、と思うのである。
 あいつらは、国民がどんなにみじめな目に遭っても、何万人もの兵士が餓死しても、す
 べて、国のためだと言って、平気なのだ。
・だが、それを恨んでも、どうしようもないな、と思うのであった。
 実際、国だの、社会だの、人生だのというのは、どうしようもないものだ。
 俺は、心の中で、あいつらを罵倒することはできるが、あいつらを追放することも、
 世の中を帰ることもできないのだからな。
 それどころか、いまだにあいたらを、立派な閣下だとあがめている元将兵が少なくない
 のだ。 
 結局、人は、自分に与えられた小さな穴の中で、不遇であれば不遇を引き受け、理不尽
 なことがあっても、なんとかそれをこなして、諦めたり、いい加減な考え方をしたりし
 て過ごして行くしかないのかなあ。 
 俺たちは、そんなふうな生き方しかできないということなのかなあ、まあ、そういうこ
 となのだろうな、と辰平は思うのであった。
・戦争中、あんなに威張りくさり、戦後も恵まれているやつがいる。
 だが、それはそれでいいのだ。
 たまには、東条のように、死刑になったやつもいる。
 それでも、それでいいのだ。
 俺は、心の中で、ときどき、あいつらに、コンチキショウと言っていればいいのだ。
 間もなく、フーコンも筑紫峠も、誰も語らず、誰も思い出さないものになるが、それで
 もそれでいいのだ、と辰平は思うのであった。 
・やがて、疲れ果てて歩けなくなった。
 道端前方に、小屋らしいものが見えたので、とにかくあの子山で行き着こうと、必死に
 歩いた。
 小屋に近づくと、一坪あるかないか、と思われる床に、二つの死体が横たわっていた。
 その死体を隅に押してスペースを作り、死体と死体の間に、仰向けになった。
 ニッパ椰子の屋根の隙間から見える空には雨雲が広がっていて、そのうちに雨が落ちて
 来た。
・空襲もなく砲撃もない伐開路であった。
 セトン方面では砲声が鳴ったが、伐開路は、空襲、砲撃の目標にはなっていないようで
 あった。
 弾薬を撃ち込まなくとも、俺たちが行き倒れるのを知っているかのようであった。
・食い物のまったくない日が、何日続いただろう。二週間ぐらいかな、と思ったが、日を
 数える気力もない。 
 横の死体を、床から落とす体力もない。
 あの日は、小屋にたどり着いた後は、もうまったく体が動かなかった。
 しかし、歩かなければならないのだ。
 ひと寝入りすれば、少しは体力を取りもどせるのではないか、と思った。
・あの小屋で、死体と死体の間に横たわり、俺は何を思っただろう。
 母親のことを思ったのだろうか。食い物を思ったのだろうか。
 フーコンでは、よく食い物のことを思ったものだが、あれぐらい飢えてしまうと、かえ
 って思わなくなる。 
 それにあのころはもう、疲れ果てて物を思う力もなくなっていたのだ。
 けれども、母親のことを思ったような気がする。
 母のこと、というより、母と暮らしていた入隊前の日々のこと。
 貧乏といえば貧乏な生活ではあったが、なつかしく、もう二度とあれにはもどれないか
 もしれんな、と思うと泣きたくなった。
・両脇の死体から、顔の上まで這いあがって来たあの蛆虫は気持ちが悪かった。
 だからと言って、死体を動かす気にもなれないのであった。
 なけなしの精力をそのために使いたくないのであった。
 筑紫峠まで、もう一息である。
 全力を、その一息のために使わねばならぬ。
・そう思いながら、翌朝を待った。次の日も雨であった。
 明るくなると辰平は、蛆虫を払い落として杖にすがった。
 昨日と同じように、泥濘から脚を抜いては、踏み入れる。
 緩慢な行軍でも、あの日は行き着けるはずあった。
 もう、這ってでも行けそうに思えた。
 だが、ここまで来て動けなくなった兵士もいた。
 昨日に較べると数は張っていたが、行く先、行く先死に者がいた。
・五百メートルほど坂を登ったころであった、下の方から、元気な下士官が迫って来た。
 師団司令部の下士官であった。下士官は辰平に追いつくと、
 「貴様、しばらく、見えんところに行っとれ」
 「閣下が通られるんじゃ」
・閣下に、幽鬼のような兵士、浮浪者のような兵士は見せられん、といって、師団の下士
 官が、清掃に来たのであった。
 続いて、ほかの清掃係もやって来た。
 坐ったままの死体は、樹陰に倒せばよい。
 辰平のような独歩者には、伐開路から眼の届かぬ場所に行けというのであった。
 汚いものを閣下に見せられんと言って清掃に来た者たちは、屍体を引きずったり、その
 上に灌木の枝をかぶせて隠したりした。
・辰平は、命じられるまま、道を外れて樹間に入った。
 道からは見えないが、辰平の方からは見える場所であった。
 地面は濡れていた。
 辰平は、枯枝を見つけ、それを尻に敷き、閣下が来るのを待った。
・下にィ、下にィだなあ、昔の殿様だなあ、と辰平は思った。
 閣下とは師団長のことである、
 馬にでも乗って来るのか。
 伐開路は、車の通れる道ではない。
 いや、馬だって動けるかどうかわからない。
 ならば閣下も徒歩でこの坂を登るのか。
・そう言えば、辰平は、まだ師団長を見たことがなかった。
 このさい、見ようと思ったのだが、閣下は、いつまでたっても現れなかった。
・どのぐらい待っただろうか。やっと一行が現われた。徒歩であった。
 副官らしい将校と参謀を従えて、師団長も泥道を歩いた。前後に護衛兵らしいのがいた。
・師団長だの参謀だのというのは、物を食っているから元気である。
 着ているものも、汚れていなくて立派である。
 フーコンでは戦闘司令所が危険にさらされたこともあったというが、あいつらは、食糧
 にも、酒、タバコも不自由しないし、だから、元気なわけだ。
 しかしこうして、瀕死の兵士や、浮浪者のようになっている兵士を見せないようにと部
 下たちがしつらえるのだから、白骨街道の飢餓街道のと訊いても、わからないのである。
 わかっていても意に介せぬ連中もあるのだろうが、どうしてみんな、あんなやつらに仕
 えたがるのか。
・辰平は、筑紫峠も、しかし、夢のようだな、と思う。
 だが、あったのだ。実際に、と思う。
 いつも最後は、夢のようだ、と思うが、俺の過去にはあの戦争があったのだ。
 人にはそれぞれその人の過去があり、それが人間の結びつきをつくる。
 文江という友ができたのも、互いの過去の関係があり、静子と結婚したのも、互いの過
 去の関係である。
 静子は、しかし、自分の過去もろくに話さず、俺の過去についてもろくに聞かずに死ん
 でしまった。
 だが、フーコンも戦争も、夢であって、夢でない。
 その印が、この腕だ。
 
あとがき
・今は太平洋戦争と言っている半世紀前の戦争を、私たちは大東亜せんそうと言っていた
 が、あの大東亜戦争の敗戦で、日本帝国の軍隊はなくなった。
・あの軍隊は、国民皆兵の軍隊であった。
 兵役と納税と、初等教育を受けることは、国民の義務だと国法で決められていたが、
 子供を学校に行かせなかったといって、たちまち親が牢に放り込まれるわけではない。
 脱税もよほど悪質のものでなければ、ただちに牢に投じられるわけではない。
 ただ、徴兵を拒む者は、悪質も良質も、情状酌量もない。
 蔑むべき犯罪者であって、本人だけでなく、家族親族までが迫害された。
・それを当然だと思っていた国民が、満州や蒙古や支那大陸、南は東南アジアの広汎な地
 域に送られ、他国を嵐、盛大に死んだ。
・私は、徴兵は当然だとは思っていなかったが、拒むことはできなかった。
 私も徴集され戦場に送られた。
・私が送られたのは、東南アジア、私は終始最下級の兵士であったが、戦後のこの国の人
 たちの戦争の語りように納得のいかないものがある。
・たとえば、インパールの悲劇があれほど大きく賑やかに語れれるのに、中国雲南省や北
 ビルマの戦いがろくに語られていない。
 雲南、北ビルマの戦いを語らずにビルマの戦いを伝えることはできない。