俘虜記 :大岡昇平

俘虜記 (新潮文庫) [ 大岡 昇平 ]
価格:869円(税込、送料無料) (2020/7/1時点)

板東俘虜収容所の全貌 所長松江豊壽のめざしたもの [ 田村一郎 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2020/7/1時点)

クワイ河収容所 (ちくま学芸文庫) [ アーネスト・ゴードン ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/7/1時点)

ミンドロ島ふたたび改版 (中公文庫) [ 大岡昇平 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2020/7/1時点)

蚤と爆弾 (文春文庫) [ 吉村 昭 ]
価格:605円(税込、送料無料) (2020/7/1時点)

収容所から来た遺書 (文春文庫) [ 辺見 じゅん ]
価格:682円(税込、送料無料) (2020/7/1時点)

二つの山河 (文春文庫) [ 中村 彰彦 ]
価格:605円(税込、送料無料) (2020/7/1時点)

この作品は終戦2年後の1948年に発表されたものである。
作者は、1944年(昭和19年)に召集されて、フィリピンのミンドロ島に赴くたが、
翌年米軍の俘虜となり、レイテ島収容所に送られたという。その時に実体験をもとに書か
れているようだ。
当時の日本人は、東條英機が陸軍大臣だったときに示達した「戦陣訓」により「生きて虜
因の辱めを受けず」と叩き込まれ、また「俘虜となればきわめて残忍な扱いを受ける」を
教え込まれていた。軍隊の教育訓練では、いざという時のために、手榴弾や銃を使っての
自殺の方法も教え込まれていたようである。
そんな日本兵が俘虜になったとき、実際にはどういう状態であったのか。この作品で窺い
知ることができる。またそれと同時に、当時の日本軍の中枢にいた人たちは、自国の兵士
を消耗品として、いかにぞんざいに扱かっていたかをあらためて思い知らされたような気
がした。

・私は昭和二十年一月二十五日ミンドロ島南方山中においいて米軍の俘虜となった。ミン
 ドロ島はルソン島西南に位置し、わが四国の半分ほどの島である。軍事施設として見る
 べくもなく、これを守るわが兵力は歩兵二箇中隊、海岸の六つの要地に、名ばかりの警
 備駐屯をおこなうのみである。
・私の属する中隊は昭和十九年八月以来、島の南部および西部の警備を担当した。つまり、
 島の西海岸の全長をおおう約五十里が開けはなたれ、ゲリラが自由に米潜水艦の補給を
 受けていた。しかし彼らは攻撃して来なかった。 
・昭和十九年十二月十五日、米軍は艦船約六十隻をもってサンホセに上陸した。われわれ
 はただちに山に入り、南部丘陵地帯を横切って、三日の後ブララカオ背後の高地で、
 同地駐屯の小隊と連絡した。明けて一月二十四日米軍の襲撃を受けて四散するまで、約
 四十日、われわれはここに露営した。
・米機は終日頭上にあったが、米軍はただちに追求して来なかった。米軍がこの島をルソ
 ン島攻撃の中継基地として選んだことが明白である以上、われわれが山中にじっとして
 いれば、戦いはわれわれの上を通過して、ここは最後までいわゆる「忘れられた戦線」
 として残る可能性があった。われわれのような孤立無援の小部隊にいだき得る唯一の希
 望である。
・しかし不幸にしてわれわれはやはり「行かない」わけにはいかなかった。やがてルソン
 島バンダガス所在の大隊本部から敵状偵察の命をうけ、たびたび十数名より成る斥候が
 組織され、十日あるいは一週間、サンホセ付近の山中に潜伏して帰った。あるときは彼
 らは米哨兵に発見され射撃された。
・まもなく一箇小隊はサンホセをみはらす高地に移動して分哨となり、毎日彼らが望遠鏡
 で見た情況を大隊本部に打電した。彼らはしばしば数十隻よりなる船団がサンホセ沖を
 通過北上するのを見、大型爆撃機が多数新設飛行場から離陸するのを見た。
・一月にはいり、大隊本部は百五十名からなる斬込隊の派遣を告げて来た。六十隻をもっ
 て上陸した米軍にたいする百五十名の斬込隊の成果について、われわれは何の幻想も持
 っていなかった。  
・しかしわれわれはその後も無電命令により幾度かブララカオに出張し、あるいは到着し
 ているかもしれぬ斬込隊を迎えに行った。われわれは無人の民家をあらし、たまたま家
 財を取りに来た不運な住民を拉致して帰った。こうしてわれわれは不本意ながら、だん
 だん掃討される原因を作っていったのである。
・われわれはときどき麓にくだり、飼主を失った牛を射ってその肉を食べた。
・災厄は意外なほうからやって来た。マラリアである。一月二十四日米軍に襲撃されたと
 き、立って戦い得る者三十人を出なかった。最後の半月のあいだには大体一日三人ずつ
 死んでいった。
・中隊長は毎朝欠く分隊の小屋を見舞った。彼は小屋に充満している病人を眺め、だまっ
 て戸口に立ちつくした。 
・私の分隊長は米軍上陸直後まだ退路のひらいていたあいだに、しゃにむに北上してルソ
 ン島に渡らなかったことにつき、中隊長の決意を非難する口吻をもらした。彼によれば、
 こんな山の中にいつまでもまごまごしているから、大隊本部からめんどうな偵察の命令
 をうけ、結局こうして病人がふえて動きがとれなくなったのである。
・下士官のエゴイズムである。しかしこの判断にはルソン島を永久の安全地帯と見なす近
 視眼的前提がふくまれていた。かつてのノモンハンの戦闘を見た中隊長が、比島派遣軍
 の運命についてかかる楽観的予測を抱懐し得たはずはない。
・彼は幹部候補生あがりの若い中尉で、二十七歳であったが、無口で陰気で、三十歳より
 下には見えなかった。彼がノモンハンで何を見たか、彼は一度も語らなかったが、その
 目その顔には現れていた。私は彼のからだにその僚友の死臭をかぐようにさえ思った。
 「警備隊は警備地区をもってその墓場と心得ねばならぬ」と彼はいつもいっていたが、
 私が彼が通りいっぺんの訓示をおこなっていたとは思わない。
・彼は米軍に対してわれわれの現在地をとくに秘匿しようとはしなかった。サンホセから
 道案内した土民には、慣習に反して食糧を与え帰らしめた。
・彼は幾分すすんで死を求めたようである。サンホセサンホセサンホセ駐屯中おこなった
 討伐戦で、彼はつねに先頭に立って戦い、決して自分を遮蔽しなかった。彼は自分では
 戦争の要請を至上命令として自分に課することを許しながら、それを部下に課すること
 については自己の責任を感ぜずにはいられない、あの心やさしい指揮者の一人であった。
 彼らは一般にただ自己の死によってしか、その部下に対する要求を正当化する手段を持
 っていない。    
・山中で最後に米軍の襲撃をうけたとき、彼は火点観測のため単身前進し、迫撃砲の直撃
 弾をうけて、一番先に戦死した。おそらく本望だったろう。
・一種の共感から私はこの若い将校をひそかに愛していた。私もまた私なりに、彼とはか
 なり違った意味においてであったけれど、自分の確実な死を見つめて生きていたからで
 ある。 
・私はすでに日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦いに引きずり
 こんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった以上、
 彼らによって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、
 一国の暴力を行使する組織とを対等におくこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無
 意味な死に駆り出されてゆく自己の愚劣をわらわないためにも、そう考える必要があっ
 たのである。
・しかしいよいよ退路が遮断され、周囲で僚友がつぎつぎに死んでゆくのを見るにつれ、
 不思議な変化が私の中で起こった。私は突然私の生還の可能性を信じた。九分九厘確実
 な死は突然押しのけられ、一脈の空想的な可能性を描いて、それを追求する気になった。
 少なくともそのために万全をつくさないのは無意味と思われた。
・私には一人の仲間があった。滋野はある漁業会社の重役の息子で、私と同年の、妻子の
 ある男だったが、彼は銃後の資本家のエゴイズムに愛想をつかし、その手先たらんより
 は前線に出て一兵卒として戦うことを夢みた。彼は内地で教育中、前線出動の可能性を
 わざと軍に影響を持つ父親に知らさず、みずから内地に残る手段をたち切っていた。彼
 の夢は前線の状況を見て破れた。彼はわが軍が愚劣に戦っていると判断し、「こんな戦
 場で死んじゃつまらない」と思ったといった。
・この言葉は私にとって一種の天啓であった。こんなへんぴな山中でなすところなく愚劣
 な作戦の犠牲になって死ぬのは、「つまらない」ただそれだけなのである。われわれは
 二人で比島脱出の計画を立てた。
・われわれはくりかえし計画を検討し、日に三人だれか死んでゆくなかで、墓掘人足のよ
 うに快活であった(われわれは実際墓穴を掘った)。われわれのもっとも身近な敵、マ
 ラリアにかかった場合を考慮し、現在のこった唯一の対抗法、つまり、あらかじめ体力
 をたくわえることに全力をあげた。われわれは病人の残した粥を食べ、土に落ちた飯粒
 もひろって食べた。 
・われわれはこうして、あらゆる場合に備えて周到に計画していたにもかかわらず、ただ
 われわれがマラリアで発熱しているちょうどそのとき、米軍がやって来る場合に想到し
 ていなかった。  
・分隊長はまた中隊本部に呼ばれ、すぐに帰って、病人は非戦闘員とともにサンホセ方面
 高地の分哨まで退避する、歩ける者は支度しろといった。そして彼自身も支度をはじめ
 た(彼も少し前から病人と称していた)。
・私もようやく歩いて便所に行けるまで回復していたが、分哨まで十五キロの道は自信が
 なかった。私はついに自分がここで死ななければならないことを納得した。
・分隊長以下十二名中二名が死んで十名である。そのうち私を入れて四名が残った。滋野
 は行くつもりらしく支度をはじめた。彼も大分よくなっていた。彼は私の脇の下へ腕を
 入れ「大丈夫だ。おれが助けてやるから一緒に行こう」といった。私はふと歩けるとこ
 ろまで彼と一緒に行く気になった。私は分隊長に決心を変えたことを伝えた。彼はだま
 っていた。
・出発のときになった。私が皆について歩きだそうとすると、分隊長が振り向いて、しか
 し私の顔を見ないようにしながら「大岡、残るか」といった。私はとっさに私がいかに
 一行の足手まといになるべきか、私の状態が職業軍人の目にどううつるかを了解した。
 私は「残ります」と答え、銃をおろした。
・この退避組は全部で六十名あまりになったが、二キロばかり行ったところで襲撃され、
 ちりぢりになった。米軍はこのときすでに完全にわれわれを包囲していたのである。
・滋野はその晩まで分隊長と一緒にいたが、翌朝落語していたそうである(私は後で私と
 同じ俘虜収容所に来たこの分隊長から聞いた。彼は四名の兵士とともに一ヵ月ばかり山
 の中をさまよった後比島人に捕らえられた。彼はその手に残っていた手榴弾を名がなか
 った)。
・私はこのとき分隊で一番重い病人であったから残るのは当然として、他の三人が出発し
 た連中とくらべて、とくに悪い状態にあるとは見えなかったのは意外であった。一人は
 衣川という大正の講壇批評家の息子で会社員であった。彼はつねづね命令された最小限
 をおこなうというすこぶる消極的な勤務ぶりを示し、上官の受けはよくなかった。他の
 一人は土木師であった。彼は熱はもう下がっていたが、多分体が見かけ以上に弱ってい
 たのであろう。もう一人はおとなしい北多摩の百姓である。彼は行くとも残るともはっ
 きり意志表示をせず、ただ皆が出かけた後で、見たら彼がそこにいたというにすぎない。
・突然、谷の下の方から三発のにぶい発射音が聞こえ、少し間をおいて中隊本部のある山
 の上で、三発の澄んだはじけるような音がした。小銃の音ではなかった。私はそれまで
 迫撃砲の音を聞いたことはなかったが、なぜかこのときそれを迫撃砲ときめてしまった。
 弾着を見るための試射の音であると思われた。
・私はなるべく身軽に身をこしらえて外に出た。弾入れも一個しかつけなかった。そのと
 きの私の感じでは、私の生命はその三十発を射ちつくすまではもたないのである。
・私は不思議に歩けて途中休みなしに登りきることができた。上ではみんな活発に動いて
 いた。私は稜線を越えたところにある一つの分隊小屋に入って腰をおろした。二、三人
 の病兵が銃をだき、顔をゆがめて横たわっていた。
・中隊長が出て来た。彼は背負った鉄兜の上から上衣を羽織り、せむしのような恰好をし
 ていた。彼は「にぎやかでいいじゃないか」と笑いながら双眼鏡を持ちそえ、弾の来る
 方へ、映画の画面を横切るように歩いて消えた。これが私が彼を見た最後である。
・「隊長殿がやられた」という声がし、「衛生兵」と叫ぶ声が続いた(この衛生兵も後で
 収容所で会ったが、彼は中隊長の死体を見つけることができなかったという。 
・私は槲に似た大木の根もとに身を横たえた。おもむろに腰の手榴弾をはずしてそばに置
 いた。今となっては、これが私の唯一の友であり、希望であった。その強烈な爆発力は
 私を苦痛なくあの世へ送ってくれるはずである。
・谷の向こうの高みで一つの声がした。それに答えて別の声が、比島人らしいアクセント
 で「イエス、云々」といった。
・声はそれきりしなかった。ただ叢を分けて歩く音だけが、ガサガサと鳴った。私はうな
 がされるように前を見た。そこには、はたして一人の米兵が現われていた。私ははたし
 て射つ気がしなかった。   
・それは二十歳ぐらいの背の高い若い米兵で、深い鉄兜との下で頬が赤かった。彼は銃を
 ななめに前方に支え、全身で立って、大股にゆっくりと、登山者の足どりで近づいて来
 た。 
・私はその不用心にあきれてしまった。彼はその前方に一人の日本兵のひそむ可能性につ
 き、いささかの懸念も持たないように見えた。
・私は異様な息苦しさをおぼえた。私も兵士である。私は敏捷ではなかったけれど、射撃
 は学生のとき実弾射撃で良い成績をとって以来、妙に自信を持っていた。いかに力を消
 耗しているとはいえ、私はこの私がさきに発見し、全身を露出した相手を逸することは
 ない。私の右手は自然に動いて銃の安全装置をはずしていた。
・そのときふいに右手山上の陣地で機銃の音がおこった。彼は振り向いた。銃声はなお続
 いた。彼は立ち止まり、しばらくその音をはかるようにしていたが、やがてゆるやかに
 向きをかえてそのほうへ歩きだした。そしてずんずん歩いて、たちまち私の視野から消
 えてしまった。    
・このとき私は、「殺されるより殺す」というシニスムを放棄させたのが、私がすでに自
 分の生命の存続に希望を持っていなかったということにあるのは確かである。明らかに
 「殺されるよりは」という前提は私が確実に死ぬなら成立しない。
・私は一人の放蕩者の画家を知っていた。彼は中年をすぎて一人の女子の父親となったが、
 以来二十歳前の少女に情欲を感じないといっていた。自分の子供がこの年頃になったら
 こうなるだろうか、という感慨がじゃまをして、彼が認めた感覚的な美に対して、正直
 な情念が起きなくなった、と彼は自分の感覚を説明した。   
・私は私の正面からも米兵が来たのを見て、伍長の一隊もこの方面から脱出できず、正面
 の銃座へ立てこもって「最後の一戦」を交えているものと想像した。わつぃは死にゆく
 人の脈をとるような気持ちで、銃声に耳を傾けた。銃声はかなり長く続いていたが、つ
 いに一発の長く余韻を引いた音とともに止んだ。
・私は銃と帯剣をすてた。米軍に会っても私に戦う気はないことを私はすでに確かめてい
 た。雑嚢も捨て、ただ米を両手に一握りずつ取ってポケットに入れた。ただ手榴弾はし
 っかり腰につけ、水筒を大事にはすかいにかけた。
・私は手榴弾を腰からはずし、目の前の土において眺めいった。それは九九式と呼ばれる
 樺色に塗られた六角の鉄の小筒で、その胴には縦横に溝が走っていた。その溝によって
 くぎられた方三分ほどの小片が、内部の火薬の爆発とともに四散するしかけらしい。
・私の生命は私の携行した手榴弾が不発だったという偶然に負っている。もっとも太平洋
 戦線に送られた友軍の手榴弾の六割が不発だったそうであるから、私の幸運は大して珍
 重に値するものではない。
・私はこれまで愛した人の顔を一通り思い浮かべようとしたが、すべて「思い浮かべる」
 というほど、はっきりとは目の前に現れては来なかった。笑いながら「あばよ」といっ
 て、その呼びかえっから連続した動きで、信管を地上の石に打ちあてた。信管は飛んだ。
 しかし手榴弾は火を吹かなかった。
・私は信管をうしなった手榴弾を調べた。裸のその口の奥には小さな円形の突起が出てい
 た。それを刺戟しれば発火することは明白である。私はその突起を見てわずかに戦慄し
 た。 
・私は飛散した信管の部分を集めて復元してみた。信管の内部の細い針は、私の目測では
 円形の突起にとどかないようである。石に打ちあてた。手榴弾ははたして発火しなかっ
 た。
・私は苦笑した。私に楽な一瞬の死すら与えない運命の皮肉が何となくおかしかった。私
 は舌打ちして手榴弾を林の奥へ投げ込んだ。
・このときあの内部の突起にふれれば爆発すると推測していた私が、それが信管の装置に
 かぎらず、何かほかのもので、たとえば木の枝ででも刺戟するという考えが浮かばなか
 ったのはかなり奇妙なことである。
・自殺とは、あらかじめ定められた手段による決行である。自殺者の注意は、この決行の
 一点に向けられ、通常その手段については反省の労を取らない。ある自殺の手段が、流
 行し得るゆえんである。  
・私は第二の自殺の手段を思い、むろん銃を思った。私は上半身を起こして銃口を両手で
 額に当て、右足の靴を脱してその親指で引金を引こうとした(この姿勢は内地で教育中
 古兵から教わったものである。私は依然として人に教えられたところにしたがっていた)。
 しかし私はこの不安定の姿勢を保つことができず横に倒れた。私は「今やっちゃ失敗す
 る」と思った
・私は眠ったのだろうか、それともいわゆる人事不省におちいったのだろうか。腰に連続
 する衝撃を感じながら、私はしだいに意識を取りもどしつつあった。そしてやっとそれ
 が私を蹴りつつある靴であると感じることができた瞬間、片腕を強くつかまれて、完全
 にわれにかえった。
・一人の米兵が私の右腕をとり、他の一人が銃口を近くさしむけていた。彼は「動くな。
 おまえは私の俘虜だ」といった。
・俘虜収容所で私はよく米兵から「君は降服したのか、つかまったのか」ときかれた(彼
 らは日本人が降伏より死を選ぶという伝説を確かめたかったのであろう)。私はいつも
 昂然として「つかまったのだ」と答えるのを常とした。
・彼らはまたきいた。「君はわれわれが俘虜を殺すと思っていたか」「私はそんな軍部の
 宣伝を信じるほどばかではない」「そんならなぜ降伏しなかったのか」「名誉の感情か
 らである。私は降伏について別に偏見を持っていないが、しかし敵に屈するのは、私の
 個人的ブライドが許さない」 
・眼鏡をかけた二人の兵士が来て私の軍袴をぬげと命じた。下着も取れといった。私がそ
 れを足から抜きさろうとすると「もういい」といった。身体検査であった。
・やがてもう一人の兵士が友軍の雑嚢から一束の書類を出した。ここに遺棄されてあった
 書類であろう。それは中隊長が持っていた地図、分隊編成表から兵士の手帳にいたる、
 あらゆる雑多は紙片をふくんでいた。私はそれがいかに取るにたらないものであるかを
 説明することができたようである。
・一兵士の日記帳があった。隊長はそれを訳して見ろといった。私は少なくともそのあい
 だはめんどうな尋問から逃れられるのがうれしく、ゆっくりと一語一語訳していった。
・私は顔をあげた。隊長の目が一種の同情と好意をもって私を見つけていた。私が「おし
 まいです」というと、彼が「もういい」というのと同時であった。そして、それが尋問
 のおわりであった。
・隊長は横をむいてつぶやくように「すぐ食物をあげる。おまえはいつか国へ帰れるだろ
 う」といった。
・「殺せ、すぐ射ってくれ、僚友がみんな死んだのに、私一人生きているわけにはいかな
 い」私は顔をそむけて叫んだ。「そいつはおれが引き受けた」という声がした。振り向
 くと一人の兵士が機銃で私をねらっていた。私は「どうぞ」といって胸をあけたが、そ
 の兵士のいたずらそうな目を見て私の顔はゆがんだ。
・隊長は私の叫びが聞こえないように、だまって行ってしまった。
・ビスケットの包みが一つ胸にあたった。一人のひげの濃い若い兵士が見おろしていた。
 その顔は完全に無表情で、私の礼に彼は答えず、銃をずりあげて去った。
・私はあらためて周囲の米兵を観察しはじめた。私はこれほど雑多な皮膚や髪をした人間
 の蝟集したのを見たことがない。
・顔見知りの土民が通りかかった。私はこれほど憐憫にあふれた顔を見たことはない。つ
 まり生涯でこのときほど私があわれむべき状態にあったことはないわけである。