不死身の特攻兵 :鴻上尚史

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よく「旧日本軍は戦地の兵隊は優秀だったが上層部の幹部たちが無能だった」と言われる
が、この本を読むとまさのそのことが嫌というほど突きつけられる。当時の日本軍の上層
部にいた人たちは、戦時中であっても、敵国と戦っていたのではなく、軍組織内での対立
する派閥と戦っていたと言ってよい。戦時中であっても軍組織内での出世競争に明け暮れ
ていた。軍司令部から出される指令も、合理性に欠けるものが多く、精神論的な指令が多
かった。その実態を知れば知るほど、あきれるばかりである。
日本の無能な指導者たちのよって、戦争が始められ、無能な指導者たちによって多くの若
い命が無駄に失われ、そして無能の指導者たちの決断力のなさによって、無駄に戦争が長
引かされ、さらにとんでもない数の人々の命が無駄に失われていった。
戦後、自衛隊に対して批判的な声が多かったのも、当時のこうした無能な指導者や指揮官
たちが、戦後その責任を逃れて自衛隊に職を得、おめおめと生き延びたことに対してだっ
たこともかなりあったのではないかと私は考えている。
安倍首相は、「自衛隊が憲法で認められていないから自衛官がかわいそうだ。自衛隊を憲
法に明記するために憲法を改正する」と張り切っているが、なんともピントの外れた、バ
カバカしい主張に私には思える。この人は、先の大戦のことも、そして自衛隊のことも、
深くは考えたことがないのではと思える。もし深く考えたことがあるならば、そんな軽口
は叩けないはずだ。もしかしたら、安倍首相にとっては、本当は、どうでもいいことなの
かもしれない。

はじめに
・海軍の第一回の特攻隊は「神風特別攻撃隊」と名付けられ、零戦に250キロ爆弾を装
 備して体当たりしました。陸軍の第一回の特攻隊「万朶隊」は、九九式双発軽爆撃機に
 800キロの爆弾をくくりつけて、体当たりするものでした。それでも、9回出撃して、
 体当たりしろという上官の命令に抗い、爆弾を落として、9回生きて帰ってきた人がい
 ました。名前は佐々木友次、その時、彼は21歳の若者でした。
・佐々木さんは生きていました。92歳で札幌の病院に入院していましたが、意識も記憶
 も明瞭でした。 
・9回出撃して、9回生きて帰ってきた佐々木友次さんをたくさんの日本人に知ってほし
 い。佐々木友次さんという存在を歴史の闇に埋もれさせてはいけない。佐々木友次さん
 が何と戦い、何に苦しみ、何を拒否し、何を選んだか。そして、どうやって生き延びた
 か。生き延びて何を思ったか。一人でも多くの日本人に知ってほしい。

帰ってきた特攻兵
・アジア・太平洋戦争中に、福岡県福岡市に「振武寮」と呼ばれる、生還した特攻隊員だ
 けを集めた寮が存在した。
・鹿児島県の知覧飛行場から、特攻機で沖縄の海に向かって出撃した特攻隊の大貫さんは、
 待ち構えていた米軍のグラマン戦闘機に迎撃され、命からがら徳之島に不時着します。
 その後、喜界島に渡り、九死に一生えを得て、ようやく福岡に戻りました。すぐに代わ
 りの特攻機が与えられ、再び、沖縄に向かって出撃するのかと覚悟していた大貫さんや
 他の特攻隊員達は、福岡市内にあった第六航空軍の司令部の中庭に集まられます。彼ら
 を迎えた倉澤少佐は開口一番、「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズ
 だ」と、怒鳴りました。「そんなに命が惜しいか。いかなる理由があろうと、突入の意
 思がなかったのは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか」炎天下の中庭で大貫
 さん達、喜界島からようやく戻ってきた28名の特攻隊員は30分近く罵られ続けまし
 た。  
・そして、次の日、大貫さん達は真新しい看板の黒ペンキで、「振武寮」と書かれた寮に
 軟禁されます。それは私立福岡女学校の寄宿舎だった建物で、周囲には鉄条網が張り巡
 らされ、銃を持った衛兵が入り口に立っていました。外出はもちろん、手紙も電話も禁
 止され、外部との接触は一切絶たれました。また、先に入寮している隊員との会話も厳
 禁でした。つまり、「振武寮」は、死ななかった特攻隊員を、外部に知られないように
 軟禁する場所だったのです。
・「死ななかった」理由はさまざまあります。多いのは、エンジントラブルなどのなんら
 かの機体不調が原因の不時着ですが、他にも悪天候、アメリカ機の迎撃からかろうじて
 逃げたり銃撃を受けての不時着や、敵艦船を発見できないまま出撃基地に戻れなかった
 場合などがあります。
・「振武寮」には。他にも、特攻基地まで行ったものの飛行機の故障などで出撃そのもの
 ができなかった特攻隊員や、福岡で代替機を待つ間の態度が自堕落だと倉澤少佐に咎め
 られて送り込まれた人達もいました。
・不時着は不可抗力だから反省のしようがない、こんなことをするぐらいなら、早く次の
 特攻機が欲しいと大貫さんが訴えると、激しく竹刀で殴られました。
・「振武寮」は陸軍の正式な記録には一切残っていない寮です。経験した人が声を上げな
 いと歴史の闇に埋もれてしまう「事実」なのです。
・大貫さんは、すでに自分の戦死広報が親元に届けられていたことが、「振武寮」に送ら
 れた大きな理由だったのではないかと考えています。特攻隊員が生きて帰ってきたこと
 を他の兵隊達が知ってしまうと戦意が鈍る、だから隔離しなければいけないという一番
 の理由に加えて、死んだと発表した以上、極力、人目をさらしたくなかったのではない
 か、ということです。
・海軍、陸軍ともに、一回目の特攻隊は、優秀なパイロットが選ばれました。絶対に「特
 攻」という攻撃を成功させ、輝かしい戦果を上げる必要があると司令部が判断したから
 です。しかし、優秀であればあるほど、技術にプライドがあればあるほど、パイロット
 は怒り、苦悩しました。   
・出撃した佐々木友次伍長は、「戦艦」一隻を撃沈したという輝かしい戦果を報道されま
 す。天皇まで報告され、佐々木伍長は軍神として褒めたたえられました。が、佐々木伍
 長は生きていました。体当たりではなく、急降下爆撃を試みた後、不時着していたので
 す。戻ってきた佐々木伍長に、司令部は何度も出撃の命令を出し、参謀は「必ず体当た
 りしろ」と強く求めました。が、佐々木伍長は、命令を拒否して爆弾を落としました。
・ところが佐々木伍長は、周囲が死に追い立てるのをあざ笑うかの如く、8度の出撃にも
 かかわらずことごとく生還している。 

戦争のリアル
・佐々木友次さんの同期には、戦争を生き延びて日本航空のパイロットとなり、1970
 年の赤軍派による「よど号ハイジャック事件」に遭遇した石田真二機長がいる。
・のちに「万朶隊」の隊長に使命された岩本大尉も、佐々木の毎日の大胆な操縦を見て、
 佐々木を認識し、可愛がることになる。
・陸軍第一回の特攻隊「万朶隊」の岩本隊長は、陸軍士官学校を出た28歳。操縦と爆撃
 の名手であり、戦局打開のための「跳飛爆撃」の第一人者だった。「跳飛爆撃」とは、
 爆弾を直接、艦船に投下しないで、一度、海に落として跳ねあがらせ命中させる方法で、
 ちょうど、水面に向かって石を横投げすると、幾段にも跳ねて飛ぶのと同じメカニズム
 だ。爆弾を上空から落とすより、うまく海上を跳べば艦船に当たる可能性は上がる。艦
 船を縦に見るより、横に見たほうがどこかの部分に当たりやすいのだ。それはまるで、
 通常爆弾なのに、魚雷のような動きをする爆撃方法なのだ。
・1944年8月、沖縄での「跳飛爆弾」の演習の帰り、立川飛行場に寄った岩本大尉は、
 竹下少佐に内密に格納庫に案内され、そこで異様なものを見た。それは、3本の細長い
 槍が機体の先頭から突き出た九九双軽だった。風防ガラスで丸く囲まれた機首部の先端
 から、長さ3メートルほどの見たこともない金属の細い管が3本、突き出ていたのだ。
 よく見れば、細い槍の先には、小さなボタンのような起爆管がついていた。明らかに体
 当たり用の飛行機だ。細い管の先に付いている起爆管のスイッチが、体当たりすること
 で押されて爆発する仕掛けだ。
・戦況が悪化すると、陸海軍の中から体当たり攻撃を主張する声が聞こえ始めた。しかし、
 岩本大尉も竹下少尉も、体当たりは反対だった。理由は、体当たりが操縦者の生命と飛
 行機を犠牲にするだけで、効果があり得ないと考えるからだ。
・体当たり攻撃を主張する側は、未熟なパイロットが増えて、急降下爆撃で艦船を撃沈す
 ることが難しくなってきたからと理由を説明した。だからこそ、二人は、「跳飛爆撃」
 を主張した。沖縄の演習では、岩本大尉は全弾命中に近い成績をあげた。実戦に活用で
 きるという自信を得たのだ。      
・体当たり攻撃に効果がないと考える理由はいくつかあった。艦船を爆弾で沈めるために
 は、甲板上ではなく、艦船内部で爆発させるのが効果的だ。そのためには、爆弾は甲板
 を貫く必要がある。
・貫く力は、爆弾の落下速度と投下角度で決まる。落下速度は、投下高度にほぼ比例する。
 つまり、高い場所から落とせば落とすほど、爆弾の貫通力は増すのだ。だが、どんなに
 急降下で突っ込んでも飛行機の速度は爆弾の落下速度のおよそ半分になってしまう。加
 速しようとすれば翼によって空気揚力が生まれて機体は浮く。それが飛行機の構造で、
 だからこそ飛べるともいえる。
・海軍の実験では、800キロの徹甲爆弾を高度3000メートルで投下することが、ア
 メリカ艦船の装甲甲板を貫く最低の条件とされた。急降下では、貫通に必要は落下速度
 が出ないのだ。 
・飛行機は爆弾より大きいから有効だと主張する人もいたが、飛行機は身軽にするために
 軽金属を使って作られる。だが、空母の甲板は鋼鉄だ。岩本大尉と同じく、福島大尉は、
 それは「卵をコンクリートにたたきつけるようなものさ、卵はこわれるが、コンクリー
 トは汚れるだけだ」と言った。
・「一機一鑑」を目標に体当たりするのだと推進派は主張する。それが戦局を打開する方
 法だと。だが、艦船を爆弾で沈めることがどれほど難しいか、事実が教えてくれる。
 イギリスの小型旧式空母ハーミスは60数発の爆弾を受けてもすぐには沈まなかった。
 アメリカの正規空母ホーネットは、9発の爆弾(うち数発が甲板を貫通して爆発)と3
 本の魚雷でようやく傾いた。艦船を飛行機から攻撃で沈めるのが、どれほど難しいかの
 例だ。
・さらに、効果がないという理由が、陸軍にももうひとつあった。甲板を貫く「徹甲爆弾」
 は海軍にしかなかった。陸軍の爆弾は、人馬殺傷用で地面に当たれば、簡単に壊れるよ
 うになっていた。そのまま艦船に落とせば、甲板の上で爆発して終わりだ。陸軍の爆弾
 では、体当たりどころか、通常の爆撃でも、そして跳飛爆撃でも艦船には効果がなかっ
 たのだ。鉾田飛行師団の岩本大尉と福島大尉は、効果的な爆弾、つまり海軍のような徹
 甲爆弾を作るようにと再三、陸軍の航空本部と三航研(第三陸軍航空技術研究所)に求
 め続けた。けれど、三航研は効果的な爆弾を作る代わりに体当たり攻撃を主張し始めた。
・福島大尉は激しい怒りと共に、三度、航空本部と三航研に対して、「体当たり攻撃がい
 かに無意味で効果がないか」という理論的な反論の公文書を提出した。だが、三航研は、
 理論的に都合が悪くなると、「崇高な精神力は、科学を超越して奇跡をあらわす」と技
 術研究所なのに精神論で体当たりを主張した。 
・1994年10月、徹甲爆弾や高性能飛行機の代わりに長い槍が、つまり「死のツノ」
 が生えている3機の九九双軽が鉾田飛行場に飛来した。岩本大尉は呼び出しを受け、
 「死のツノ」のある飛行機に乗るように命令された。陸軍最初の体当たり部隊の隊長に
 指名されたのだ。よりによって、岩本を。航法の天才と言われた、最も優秀な操縦者を。
 体当たり攻撃を否定するために骨身を削って跳飛攻撃の鬼となっていた岩本を。
・上層部に政治的な意図があるとしか考えられなかった。「跳飛爆弾」の名手岩本大尉が、
 陸軍の一番目の特攻隊になれば、「もはや特攻しかない」というキャンペーンになる。
 特攻を否定した岩本大尉が一番に特攻したのだから、誰も逆らえない。岩本大尉は、人
 身御供として選ばれたとしか福島大尉には思えなかった。
・岩本大尉には、前年に結婚した23歳の妻、和子がいた。けっこんしてまだ10カ月だ
 った。その夜は、食事の後、親しい友人に別れを告げる夫に付いて回った。岩本大尉に
 別れを告げられる相手の態度が尋常ではない様子で、和子はあにかある、通常の出撃で
 はないと感じた。 
・「万朶隊」が結成された。構成は、岩本隊長以下、陸軍士官学校出身のエリートである
 将校操縦者4名。佐々木達、下士官の操縦者が8名、それに、通信係に4名、機体整備
 に11名という編成だった。 
・陸軍参謀本部は、なにがなんでも一回目の体当たり攻撃を成功させる必要があった。そ
 のために、技術優秀なパイロットを「万朶隊」に選んだ。けれど、有能なパイロット達
 は優秀だからこそ、パイロットとしてのプライドがあった。爆弾を落としてアメリカ艦
 船を沈めるという目的のために、まさに血の出るような訓練を積んだ。「急降下爆撃」
 や「跳飛爆弾」の訓練中、事故で殉職する仲間を何人も見てきた。技術を磨くことが、
 自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、「体当たり攻撃」は、その
 すべての努力と技術の否定だった。なおかつ、与えられた飛行機は、爆弾が機体に縛り
 つけられていた。参謀本部は、もし、操縦者が卑怯未練な気持ちになっても、爆弾を落
 とせず、体当たりするしかないように改装したのだ。岩本大尉は、陸軍参謀本部の作戦
 課員のその考えを許せなかった。操縦者に対する侮辱であり、操縦者を人間とは思わな
 い冷酷無比であり、作戦にもなっていない作戦を立案する大愚だと感じた。 
・通常は新作機について、100時間ぐらいの試験飛行をした後に、部隊に渡した。新し
 いエンジンが故障を起こすかどうかは、70時間程度使わないと分からないからだ。け
 れど、万朶隊に九九双軽は、「死のツノ」の改装を終えて、試験飛行をしないまま渡さ
 れていた。整備班長の村崎少尉は、「こんなガタガタ飛行機じゃ、フィリピンまでも行
 けやせんぞ。体当たりをやらせようというのに、試験飛行もしない飛行機をよこすとは、
 なんということだ」と顔を赤くして怒った。 
・陸軍の組織としては、岩本隊長が率いるのだから、「岩本隊」が正式に編成されるのが
 通常のことだ。そして、特別の攻撃なので「万朶隊」という呼び名が例外として付くと
 いう順序だ。ところが、万朶隊全員は、個人としてフィリピンの第四航空軍に配属され
 ることになった。このままだと、岩本隊長の下、全員が体当たりをしても、陸軍の正式
 な記録としては岩本隊ではなく、各個人がしたことになるのだ。公式な編成命令によっ
 て、「岩本隊」を作っては都合が悪いと上層部は思っている、ということだった。部隊
 の公式な編成命令は、天皇陛下の名によって出される。つまり、体当たりという戦法は、
 天皇陛下の命令として出してはいけない、と上は判断したとしか考えられないのだ。天
 皇陛下が体当たり攻撃のための部隊を編成されるようなことがあってはならない、とい
 うことだ。けれど、実際に戦場に行けば、全員は部隊として行動する。そして戦死する。
 その時、陸軍の正式編成記録には、万朶隊の名も岩本隊の名も残らない。ただ、第四航
 空軍所属の個人の名前が残されるだけなのだ。
・岩本大尉は、この「巧妙な仕掛け」にどうしても納得できなかった。「跳飛爆弾」の可
 能性を奪われ、祖国を救うために体当たりを命令された自分達が、正式な編成部隊では
 ない、という矛盾に怒りが湧き上がった。自分が率いるのは正式には「岩本隊」であり、
 通称「万朶隊」であると、主張したかった。我々は勝手に集まった個人ではない。非公
 式に集められた集団でもない。国難を打開するために編成された正式な部隊である。そ
 う言いたかった。
・豪華な食事、一流の旅館の待遇は、自分達の異常な任務が現実のことなのだと、あらた
 めて全員に突きつけた。下士官達は、酒を飲み、思い思いの街に出て行った。盛り場に
 は軍人専用の慰安所があり、朝鮮や台湾の女性がいた。狭く仕切られた、わびしい部屋
 で下士官達は、自暴自棄のまま慰安婦を抱いた。  
・1944年10月、海軍の最初の特攻隊「神風特別攻撃隊」が出撃した。第一号と報道
 されたのは、250キロ爆弾を装着した零戦に乗り込んだ関大尉に率いられた「敷島隊」
 5機だった。戦果は「撃沈、空母1.撃破、空母1.撃沈、巡洋艦1」と発表された。
 しかし、空母はすべて、護衛空母と呼ばれる、商船を改装した船体の弱い空母だった。
 正式空母の約半分の大きさ、排水量は3分の1、搭載機も正式空母が100機以上なの
 に比べて、20機から30機だった。この空母は、輸送船団の上空に飛行機を飛ばして、
 潜水艦からの攻撃を護衛するのが任務だった。けれど、すべて正規空母をイメージさせ
 る「空母」と発表された。零戦1機の特攻で空母が撃沈できるという「誤信」が生まれ
 た瞬間だった。  
・この知らせを受けて、海軍の特攻隊を作ったと言われる大西中将は「・・・甲斐があっ
 た」と独り言のように低い声で言った。目は潤み、興奮していたが、明るい感じだった
 という、さらに「これで何とかなる」とぶやいた。そして、特攻作戦を推し進めること
 を決意した。 
・関大尉は、出撃前、新聞記者のインタビューを受けて「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国
 のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻のこと)のために行くんだ。
 命令とあれば止むを得ない。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。
 ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ」
・第四航空軍の富永司令官は、儀式が好きだった。特攻隊がフィリピンに到着したことを
 知り、隊長に会いたいと言い出した。富永司令官は、兵隊の手を握り、肩を抱き、握手
 をして激励することが得意だった。制空権のない遠路を呼び寄せるのは危険だと、参謀
 達は止めたが、聞き入れなかった。  
・岩本大尉ははっきりと不機嫌だった。銃座を外した九九双軽たった一機で、アメリカ軍
 機が飛び交う中、400キロも遠く離れたネグロス島まで、わざわざ配属の申告に行く
 意味を見いだせなかったのだ。 
・軍司令部の参謀達は、富永司令官がマニラに戻って指揮を執ることを望んでいた。航空
 の素人だった富永司令官は、陸戦のイメージから、勇敢な司令官は最前線にいるべきだ
 と思っていた。だが、航空戦では、情報が集中する場所に司令官はいるべきだったのだ。
 それが、フィリピンの首都、マニラだった。だが、富永司令官は、周囲の反対を押し切
 って、情報も途絶えがちで、作戦立案にもっとも不向きな最前線にいた。
・どうして航空戦をまったく知らない人物が、フィリピンの空を戦う第四航空軍の最高司
 令官なのか。富永司令官は、好き嫌いの激しかった東条英機前首相のお気に入りで、司
 令官になる前は、陸軍次官と人事局長を兼任していた。陸軍次官は、陸軍大臣に次ぐ陸
 軍のナンバー2だ。  
・富永次官が陸軍省の移動車を、東条大将の私用に提供したことが問題になった。東條派
 の影響を一掃したいと狙っていた反東條派は、これ幸いと富永をフィリピンの第四航空
 軍司令官に転任させた。小磯内閣の杉山陸軍大臣は「どうだ、うまい人事だろう」と得
 意気に語った。日本の陸軍本部から東條派の富永を、それなりの役職を与えて追い出し、
 なおかつ、航空の素人であるからフィリピンで死ぬかもしれない、という厄介払いの意
 味だった。妙案かもしれないが、押し付けられる方はたまったものではなかった。陸戦
 の経験さえほとんどなく、航空戦に関しては、まったく無知で経験もない人物が、激戦
 のフィリピンの航空軍の総司令官になったのだ。 
・軍隊は階級社会である。命令は絶対だ。その命令がどんなに無意味でもトンチンカンで
 も不合理でも、絶対服従が軍隊のルールである。それが軍隊を軍隊ならしめている唯一
 の原則だ。フィリピンに着いて以来、富永司令官は、航空戦に無知がゆえに不合理な命
 令を繰り出していく。冗談としか思えない指令で、多くの兵隊が死んでいった。上層部
 の派閥争いの割を食うのは常に末端の人間なのだ。 
・岩本隊長以下5名の将校は、マニラに来るように命令を受けた。ネグロス島にいた富永
 司令官がようやくマニラに戻ることになり、儀式好きの司令官は、陸軍最初の特攻隊員
 と宴会をしようと決めたのだ。一番の理由は、岩本隊長達をマニラの料亭に招き、芸者
 を見せ、酒を飲ませ、富永司令官自ら激励することだった。
・岩本隊長達が乗っている九九双軽は、一門の機関砲もなく、一機の護衛もつかない状態
 で、単独でマニラを目指した。岩本隊長の離陸からしばらくして、リパ飛行場は二度、
 アメリカ軍の空襲を受けた。佐々木が経験する、初めての激しい攻撃だった。
・夜9時過ぎ、万朶隊に、岩本隊長の乗った九九双軽がグラマン戦闘機に襲われて墜落、
 岩本隊長以下4名の将校が戦死したという知らせが届いた。午前8時を少し過ぎた時間
 に、海軍の若い操縦者が偶然、一部始終を目撃していた。九九双軽は、マニラ近くを高
 度400〜500メートルで飛んでいた。その高度は、マニラ周辺の飛行場を探してい
 るためかと、目撃した操縦者は思った。突然、九九双軽の後上方から、二つの黒点が落
 下するのが見えた。グラマン戦闘機2機だった。2機は後上方から急降下しながら射撃
 を続け、急上昇した。九九双軽は急旋回しながら、バイ湖の岸の方に隠れた。そして、
 その方向から黒煙が上がった。   
・そして、マニラ近く、バイ湖のほとりで岩本隊長以下4名の遺体は発見、回収された。
 通信担当の中川少尉だけは重傷だった。4名の将校操縦者はグラマンの機銃掃射を受け
 て、即死状態だった。
・誰もが泣いた。そして、マニラに呼び寄せた命令の理不尽さを罵った。岩本隊長達は、
 富永司令官の宴会のために死んだのだ。陸軍最初の特攻隊は、隊長だけではなく、将校
 の操縦者を一気に失ってしまった。  
・残された万朶隊は富永司令官に呼ばれた。佐々木は雲の上の存在である富永司令官の顔
 をじっと見た。「最後に言っておきたいことがある。それは、諸子だけを体当たりさせ
 て死なせるのではなないということである。諸子のあとからは、第四航空軍の飛行機が
 全部続く。そして、最後の一機には、この富永が乗って体当たりする決心である。案じ
 て大任をはたしていただきたい。 
・初めての実戦では、佐々木は500メートル以下まで待てなかった。すぎに操縦桿を引
 き起こした。翼の下を船体が流れ去った。佐々木は急上昇しながら、振り返った。船体
 から離れた海面に大きな白い波紋が沸き立っていた。「しまった」思わず、言葉が出た。
 佐々木は500メートルの高度で海上を1時間飛び続け、アメリカ軍機に発見されずに、
 ミンダオ島のカガヤン飛行場に着陸した。
・軍の発表を元に新聞記事が書かれた。新聞社に送る前に、新聞記事は検閲され、軍の意
 向を無視した記事は許されなかった。万朶隊の戦果は、「戦艦1隻、輸送船1隻を撃沈」
 と発表された。田中曹長の一番機が輸送船に体当たりをして撃沈。佐々木の四番機は、
 「戦艦に向かって矢の如く体当たりを敢行して撃沈」させた。
・掩護戦闘機は同時に戦果確認機でもある。だが、写真撮影ではなく、肉眼での確認はじ
 つに不正確だった。敵と戦い、特攻機を守り、敵の攻撃を避けながら、特攻機の戦果を
 確認するのは至難の業だった。戦いながらの戦果確認が難しい上に、基地に戻って報告
 する時、上層部の「これだけの犠牲を払ったんだ、もっと多くの戦果があるはずだ」と
 いう無意識の圧力がさらに戦果を大きくした。不充分な戦果では、壮烈な戦果を遂げた
 英霊が浮かばれないという思いから、誘導尋問が自然に生まれ、戦果は増え続けた。そ
 して、軍部も国民もそれを信じた。
・軍の検閲があるから、こうした記事を書いたというより、こういう基地を書いたほうが
 国民が喜んだ、つまり、売れたから書いたと考えたほうがいいだろう。売れるのなら、
 売れる方向に記者は熱を入れる。筆を競う。それが、さらに次の特攻を用意した。
・海軍の第一回地無別攻撃隊は、空母を沈めたが、陸軍は戦艦を沈めた。空母に優るとも
 劣らない戦果である。ちなみに、「米国海軍作戦年誌」によれば、レイテ湾のこの日の
 被害は、「揚陸舟艇修理艦エジャリア、同アキリーズ、特攻機により損傷」だけである。
 船の形からみて、佐々木が攻撃した艦型と一致する。それ以外は、なんの被害の記録も
 ない。
・第四航空軍に呼ばれた佐々木は「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達した
 ことである。このことをよく肝に銘じて、次の攻撃では本当に戦艦を沈めてもらいたい」
 と参謀から言われた。”上聞”、つまり、天皇に報告したことは、絶対に訂正できない。
 天皇に嘘の報告をしたことになれば、司令官の責任問題になる。だから、分かっている
 な、という暗黙の命令だった。
・夕方、翌日の特攻出撃が慌ただしく告げられた。石渡軍曹、近藤伍長、奥原伍長、佐々
 木の4名だった。隊長を務める石渡軍曹は夜間飛行に慣れていなかった。攻撃の打ち合
 わせをしている時、顔がこわばり、声もかすれ気味で聞き取りにくかった。近藤伍長も、
 興奮し過ぎているのか、歪んだ表情だった。奥原伍長も落ち着かない様子だった。
・上空を旋回続けながら、佐々木はなかなか、僚機が見つけられなかった。空中集合を終
 えなければいけない時間になっても、奥原機が見えなかったのだ。目の前に見えた石渡
 軍曹の一番機は、後続を待たず、直進して行った。懸命に後を追い、雲の中に入り、そ
 して出た時には、周りに赤い翼灯も排気管の青白い炎もまったく見つけられなかった。
 佐々木は機体を180度、旋回させた。その時、闇の底に強烈な光が閃き、赤い火柱が
 たった。大きな爆発が起こったのだ。旋回しながら見下ろした飛行場は無事だった。僚
 機は一機も見つからず、佐々木は空中集合を諦め、着陸した。しばらくして、奥原伍長
 機も降りて来た。旋回しながら空中集しようとしたが、爆発が見えたので帰ってきたと
 報告した。マニラ市の南部に墜落して爆発したのは近藤伍長機だった。飛行機の原形も
 わからないほど飛散し、搭乗員の死体は跡形もなかったが、近くの椰子の木に焼けた千
 人針の布切れに「近藤」の文字が見えた。石渡軍曹機と百式司偵はついに帰ってこなか
 った。前期の空中集合を待たず、一直線に飛んで行った石渡軍曹が、その後、どうなっ
 たか誰もわからなかった。
・3度目の特攻命令を佐々木は受けた。奥原伍長と佐々木、2機だけの万朶隊の出撃だっ
 た。猿渡参謀長は、厳しい顔で「佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、
 天皇陛下にも体当たりを申し上げてある。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今
 日こそ必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてはならんぞ」と叱りつけるように言っ
 た。  
・直掩機のパイロットは、特攻隊のパイロットに対して複雑な心境があった。自分達は最
 後の最後、特攻を残して帰って来る。それが、どうにもやりきれなかった。 
・「それにしても、嫌な時間だな。こんなあぶない時間に出撃させるなんて、乱暴な」作
 見隊長は青空を見上げた。白昼はレイテ湾を飛ぶことはもちろん、空襲の危険も多かっ
 た。3度目の出撃の宴で乾杯を終え、笹井は操縦席に着いた。エンジンを回し点検しよ
 うとした時、天蓋が激しく叩かれた。整備員が上空を指さし、大声で叫んでいた。見上
 げれば、黒い編隊の機影がまっすぐに飛行場に向かっていた。 
・アメリカ艦載機が爆弾を落とし終わると、グラマン戦闘機が急襲して砲撃を加えた。佐
 々木と奥原伍長の九九双軽は火を噴き上げた。直掩機も燃え上がった。
・佐々木は急に腹が立ってきた。こんな真っ昼間に飛行機を並べて出そうとしたら、やら
 れるのは当然だ。危険な時間帯に、ノンキに出撃の儀式の乾杯までするとは。参謀ども
 はバカではないのか。  
・頭に包帯を巻いた佐々木に4度目の出撃命令が出た。朝、命令を受けたが、出発はその
 日の午前10時だった。3度目と同じく、白昼に近い時間だった。佐々木ただ一機での
 出撃命令だった。他の特攻隊と一緒に編成しなおすという方法もあったが、佐々木はた
 だ一機での出撃を命令された。カローカン飛行場では、佐々木に同情が集まっていた。
 佐々木を殺すために、無理に出撃させていると思う人が多かったのだ。
・滑走路脇の指揮所に佐々木が行くと、猿渡参謀長が待っていた。「今日の直掩隊は必ず、
 敵艦船の上空まで誘導する。そして、佐々木の突入は必ず確認することになっている。
 晴れの舞台だ。万朶隊の名に恥じないよう、立派に体当たりをするんだ」猿渡参謀長は
 しわがれ声で威圧的に言った。
・第四航空軍から特別に来ていた佐藤作戦参謀が話を続けた。「佐々木伍長に期待するの
 は、敵艦撃沈の大戦果を、爆撃ではなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐
 々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃
 で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりするのだ。体当たりならば、確実の撃沈で
 きる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当
 たりで確実に戦果を上げてもらいたい」
・天皇に上聞した以上、佐々木は生きていては困る。後からでも、佐々木が特攻で死ねば、
 結果として嘘をついたことにならない。そのまま、佐々木は二階級特進することになる。
 上層部の意図ははっきりしていた。
・佐々木は答えた。「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬ
 まで何度でも行って、爆弾を命中させます」。猿渡参謀長は厳しい顔で答えた。「佐々
 木の考えはわかるが、軍の責任ということがある。今度は必ず死んでもらう。いいな」
・6機の直掩機と共に、佐々木はただ一機の特攻隊として出発した。レイテ湾が前方に見
 てきた。先頭を飛んでいた直掩隊の隊長機が翼を左右に振ると、急に旋回してやってき
 た方角に向いた。佐々木は敵かと警戒して四方の空を見回した。アメリカ軍機は見えな
 かった。隊長機が方向を変えたので、僚機もそれぞれに旋回した。佐々木も続いた。理
 由はわからなかった。しかし、隊長機が引き返すのだから、佐々木が単独でレイテ湾に
 突進することはなかった。      
・カローカン飛行場に戻った後、佐々木は直掩隊の下士官達に聞いた。けれど、彼らも何
 故引き返したのかわからないと答えた。やがて、直掩隊の隊長が佐々木に同情し、わざ
 わざ殺すことはないと、適当な場所まで飛んで引き返したのだとわかった。猿渡参謀長
 へは、レイテ湾上空は気象情報どおり雲量が多く、敵艦船を発見できなかったと報告し
 ていた。佐々木の4回目の出撃は、こうして終わった。
・佐々木の5回目の出撃命令が出た。4回目の出撃から6日後だった。B29が東京を夜
 間爆撃した日だった。神田や日本橋などが、焼夷弾で燃え上がった。フィリピンでは続
 々と特攻隊が出撃していた。海軍最初の特攻隊、敷島隊が護衛空母に体当たりして以来、
 この日までに、海軍、陸軍あわせて、大和隊、菊水隊、富獄隊など40隊以上が出撃し
 ていた。 
・アメリカ軍は、特攻隊対策として、空母に載せる急降下爆撃機の数を半減させ、艦上戦
 闘機の数を2倍にした。そして、戦力再編を行い、特攻機の目標である空母の前方60
 カイリに、レーダー警戒駆逐艦を配備した。これによって、近づく特攻隊をいち早くレ
 ーダーで発見し、何百機という艦上戦闘機で迎え撃つ態勢が整った。通常、それは三波
 態勢が取られていた。一波が約100機、それが、時間差で3回、特攻機を迎え撃つ。
 その攻撃を、重い爆弾を抱え、迎え撃つ銃器もないまま、かいくぐった特攻機だけが、
 アメリカ艦船に近づけたのだ。
・午後3時、佐々木は万朶隊として再び一機で飛び立った。直掩は隼二機だった。出発し
 て3時間、レイテ湾の海面が見えてきた。右斜め下の海上に100を越える無数の艦船
 が確認できた。その時、佐々木は、小さな点が近づいて来るのに気付いた。アメリカ戦
 闘機の編隊だった。前を飛ぶ直掩隊の隊長はまだ発見していないようだった。佐々木は
 すぐに直掩二機との編隊飛行を離脱し、低空に降りた。逃げ切るために、身軽になろう
 として800キロ爆弾を海上に投下した。カローカンに引き返そうと思ったが、猿渡参
 謀長の怖い顔が浮かんだ。佐々木はレイテ島の上空をまっすぐ西に飛んで、ネグロス島
 に向かい、バコロド飛行場に着陸した。   
・何度目の帰還の時か、司令官が軍刀の柄を両手で掴み、ギラつく目で佐々木をにらみつ
 けた。「きさま、それほど命が惜しいのか、腰抜けめ!」佐々木伍長は落ち着いた声で
 答えた。「お言葉を返すようですが、死ぬばかりが能ではなく、より多くの敵に損害を
 与えるのが任務と思います」司令官は激怒した。
・バコロド飛行場で、佐々木は自分の生還が話題になっていることを知った。バコロドの
 兵隊達は、空中戦の激しさやレイテ島に飛ぶ危険をよく知っているので、佐々木を悪く
 は言わなかった。英雄とはいわないまでも佐々木は人気者だった
・九九式襲撃機は、内地から来たばかりで、250キロ爆弾を針金で胴体にくくりつけて
 いた。佐々木の乗る九九双軽に比べて、航続距離は短く、速度も遅いので、あれではレ
 イテまで行けない、行けば簡単にアメリカ軍に食われてしまうと佐々木は主張したが、
 聞き入れられなかった。
・佐々木が疲労が激しいことを理由に休養を頼むと、猿渡参謀長は大声を上げた。「いか
 ん!絶対に許さんぞ!すぐに、鉄心隊について出発しろ。目標はレイテ湾の艦船だ。船
 はどれでもいい。見つけ次第、突っ込め。今度帰ってきたら、承知せんぞ!」
・鉄心隊の3機が離陸し、佐々木が続いた。6回目の出撃だった。直掩の隼9機が特攻隊
 を先導した。マニラから東海岸に出ると、攻撃隊は高度40〜50メートルの低空を飛
 んだ。アメリカ軍のレーダーにつかまるのを避けるためだった。レイテ湾の上空に来る
 と、機体の両側に無数の船が見えた。左側に、中でも一番大きく見える船があった。
 佐々木は機体を傾けて左旋回し、大型船が右側に見えてきた時に攻撃態勢に突入した。
 突然、大型船と平行の位置を取った時、突然、佐々木の後方に爆発が起こった。アメリ
 カ艦船が高射砲を撃ってきたのだ。あっという間に、高射砲の弾幕で、夕焼け空が曇っ
 てきた。至近距離に起こった炸裂が、機体を強く揺るがした。佐々木は背筋に寒いもの
 を感じた。佐々木は機体を傾け、そのまま斜めに急降下させた。高度1500メートル、
 角度60度、時速450キロ。操縦桿を倒し続けると、時速が500キロに上がってい
 く。全身がゆがむような重圧を感じる。目標船が急速に大きくなり、今にもぶつかりそ
 うになる。200メートルから300メートルに近づいた時、佐々木は必死に鋼索を引
 いて投下した。佐々木が振り向くと、大型船が傾いているのがはっきりとわかった。
・そのまま、佐々木はミンダオ島のカガヤン飛行場を目指した。カガヤン飛行場に着いて、
 飛行場大隊長に「レイテ湾で大型船げ撃沈しました」と報告した。カガヤン飛行場の人
 々は佐々木を歓迎し、大隊の幹部は会食に招き、佐々木のために宿舎の当番兵は特別に
 ドラム缶の風呂を用意した。喜んで入浴していると、自分の耳が聞こえなくなっている
 ことに佐々木は気付いた。
・3度目の回線記念日だった日、ようやく耳が回復した佐々木は、カガヤン飛行場にあっ
 た短波ラジオで、開戦記念の大本営発表を聞いた。それは、万朶隊の一機が特攻攻撃に
 より、戦艦か大型巡洋艦一隻を大破炎上させたという放送だった。万朶隊として、佐々
 木と石渡軍曹の名前が挙げられた。佐々木は烈しく混乱した。佐々木にとって、2度目
 の戦死発表だった。佐々木の故郷、当別村は大本営発表と新聞記事によって、再び、大
 騒ぎになった。2度目の大がかりな葬式が行われたのだ。
・佐々木がカローカンに戻ると、司令部から出頭の命令が来ていた。すぐに出向くと、猿
 渡参謀長が頭から怒鳴りつけた。「この臆病者!よく、のめのめと帰ってきたな。貴様
 は出発の時になんと言われたか覚えているか!」「貴様は特攻隊なのに、ふらふら帰っ
 てくる。貴様は、なぜ死なんだ!」猿渡参謀長は、佐々木が大型船を撃沈したという戦
 果にはまったく触れなかった。   
・1944年12月、7回目の出撃命令が佐々木に出た。胴体着陸をしてから5日後だっ
 た。百式重爆撃機9機が菊水隊という名前で特攻に出撃することになり、それに万朶隊
 として一機だけで参加せよという命令だった。
・百式重爆は通称「呑竜」と呼ばれ、まさに爆撃専門の飛行機である。最高速度は500
 キロに足らない。迎え撃つアメリカの艦載機、F66ヘルキャットは最高速度600キ
 ロ、P51マスタングは700キロを越える。動きの遅い大型の重爆撃機がたった3機
 の掩護で敵空母に近づけば、結果は火を見るより明らかだ。ちなみに、直掩の一式戦闘
 機隼の最高速度は550キロ前後である。そもそも、不利な戦いなのだ。
・午前7時、佐々木はいつもの手慣れた操作で滑走を始めた。と、急に機体が動揺し、尾
 部が左右に振れ動いた。尾輪が固定していないと気付いた、佐々木はフィットバーを踏
 んで、方向舵を動かそうとしたが、機体はあっという間に滑走路を外れて、野地に飛び
 出してしまった。呑竜の9機編隊が上空に現れ、大きく旋回し始めた。佐々木と空中集
 合するためだった。佐々木は見上げて手を振ったが、どうにもならなかった。
・しばらくして、呑竜は南に向かって飛び去った。その後、菊水隊は「敵戦闘機と交戦中」
 の無線を打った後、連絡がつかなくなった。「目標発見」の無線ではなかった。それは、
 目標の戦艦までたどり着く前に撃ち落されたことを意味していた。
・呑竜を失った小川団長は、自らの「所感録」に、はたしてこれでよかったのかと書きつ
 けた。「壮烈」「名誉」「旺盛なる責任観念」「任務に邁進」などという精神主義を満
 足させただけではないのか。指揮官や参謀達にとって、それは、壮烈な快感と言えるだ
 ろうが、少しも科学的ではなく、組織として努力していない、なんのための戦いなのだ、
 司令官達は恥じるべきであると痛烈に批判した。
・翌日夜、8回目の出撃命令を佐々木は受けた。旭光隊と共に出撃せよというものだった。
 早朝、佐々木は一機で西回りでミンドロ島に向かいサンホセを目指すように言われた。
 旭光隊の2機は東回りでサンホセを目指すという。たった一機で出発する佐々木には、
 直掩機が一機もつかなかった。これでは掩護するどころか、戦果の確認も不可能だった。
・佐々木は1時間ほど飛んで、ミンドロ島の上空に近づいてきた。島の山ひだにそって飛
 び続けると、島の南岸が見えてきた。一部分、土砂崩れが起こったかのような場所があ
 った。その周辺の海に小さな点が集まっていた。アメリカ軍の上陸地点だった。無数の
 点は、上陸用の輸送船団と艦船だった。日本機が接近したことに、まだ気付いていなか
 った。もうすぐ、上陸地点の陸上と海上から、圧倒的な砲火が上がり、大空は花火を連
 発したように火煙に包まれるだろう。そこに突っ込んでいくのは恐ろしいけれど、それ
 より、佐々木にはなにか、虚しく馬鹿げているように感じられた。強烈な孤独が佐々木
 の全身を包んでいた。命懸けで突進する姿を、味方は誰も見ていない。自分の最期を誰
 も確認しない。200隻近い敵船団に対して、たった一機で突っ込むことに、どんな意
 味があるのか。佐々木は、戦闘機に発見される前に戻ろうと決意して、機首を旋回させ
 た。    
・それから2日後に、9回目の出撃命令が佐々木に出た。富永司令官は滑走路の横で、出
 発していく特攻隊に対して、日本刀を抜き、振り回しながら、「進め!進め!進め!」
 と叫んでいた。九九双軽が一機、直進せずにふらふらと蛇行し、富永司令官とその後ろ
 の見送りの列に突っ込んできた。大混乱となり、富永司令官は必死になって走って逃げ
 た。十数分後、操縦していた若い軍曹は、富永司令官に激しく叱責された。「特攻隊の
 くせに、お前は命が惜しいのか」叱られている隊員は、土色になった顔で頬の筋肉をピ
 クピクと痙攣させていた。軍曹は、敬礼をして、飛行機に向かって走って行った。整備
 兵と打ち合わせをした後、駆け戻ってきて、しばらく口ごもっていたが、やがて、はっ
 きりした声でこう言った。「田中軍曹、たたいまより自殺攻撃に出発いたします」富永
 司令官はこわばった顔のまま、何も言わなかった。
・佐々木が出発する時、富永司令官が近づいて来て「佐々木伍長」と声をかけた。富永司
 令官は、日本刀を抜いて佐々木伍長の方に突き出して叫んだ」「佐々木、がんばれ。佐
 々木、がんばれ」佐々木は、敬礼を返して、出発した。
・マニラ上空を南に向かっている時に、爆音が異常になった。空気と燃料の混合比を示す
 ブースト計の片方に不調が現れていた。これ以上、飛ぶことは危険だと判断した佐々木
 は、旋回してカローカンに戻った。出発してから40分後だった。飛行場大隊長に事故
 の報告をして宿舎に戻ると急に熱が出て苦しくなった。宿舎で寝ていると、鵜沢軍曹が
 現れた。リンガエン湾の海岸に不時着して火傷を負い、野戦病院に収容されていたが、
 とうとう退院して来たのだ。
・再び万朶隊に出撃命令が出た。ただ、佐々木は高熱が続き、鵜沢軍曹だけが出撃するこ
 とになった。佐々木は全身がだるく、歩くとふらつくほど足に力がはいらなかったが、
 見送りに出た。鵜沢軍曹は笑ったが力がなかった。特攻機を故障させたり、わざと不時
 着したとしか思えなかった鵜沢軍曹は、ここに来て、生きることを諦めたように見えた。
 「軍曹殿、死ぬことはないですよ。信念も持てば、必ず帰れます」佐々木は他の者に聞
 こえないように、鵜沢軍曹にささやいた。鵜沢軍曹は急に目を輝かせて「そうだ。忘れ
 物をした」と元気な声で駆けだした。戻ってきた時には、腰に拳銃をさけていた。体当
 たりをして死ぬなら、必要ないものだ。 
・鵜沢軍曹と若桜隊の二機に、直掩の一機がついて出撃した。一機しかいない直掩機では、
 掩護できない。戦果を確認できればいい方だ。けれど、何百機というアメリカ戦闘機を
 相手にして、一機が戦果を見届け、帰還する可能性はないと言ってよかった。
・この後、佐々木の記憶はあいまいになる。この日、寝込んだ直後に、出撃命令を受けて
 いるのだ。それを目撃した若桜隊の池田伍長の手記がある。「ぼくらは毎日、万朶隊の
 佐々木伍長の部屋に行き、話し合いました。彼は何度か出撃し、戦果を上げて帰還して
 いました。ぼくらはその考えを何度も難詰しました。彼は「死んで神様になっているの
 に、なんで死ぬ急ぐことがあるか。生きられれば、それだけ国のためだよ。また出撃す
 るさ」と、淡々としておりました。そんなある日、彼が40度の熱を出してマラリアで
 休んでいる時に、出撃の命令が来ました。命令伝達に来た四航軍の将校が、本人が起き
 ることもできないでいるのに、「貴様は仮病だろう」と、聞くに堪えない悪罵を残して
 帰って行きました。彼は「軍神は生かしておかないものなあ」と言って、さびしく笑っ
 ていました」     
・佐々木がマラリアの熱と悪寒に苦しめられ、故郷で盛大な行事が開かれている日、レイ
 テ島での日本軍全体の組織的戦闘が終わった。レイテ決戦を指揮する第十四方面軍が
 「自活自戦永久に抗戦を持続せよ」という最後の命令を出したのだ。自分で食糧を調達
 し、自分で武器をなんとかして戦えという、命令になっていない命令だった。「降伏」
 という概念ンがない以上、これしか言えなかった。そして、翌日アメリカ軍が上陸以来、
 約2カ月にわたったレイテ戦の終結を宣言した。レイテ島に送り込まれた日本軍の将兵
 のうち96%が死亡した。
・一年の終わりに、足音も荒々しく、師団の参謀が入ってきた。もう一人の軍医、影山軍
 医が追いかけて止めようとした。「出丸中尉殿は、まだ動けませんよ」だが、参謀は出
 丸中尉の寝台の横に立ちはだかり、今から出撃せよと命令した。参謀はいきなり手を伸
 ばして、出丸中尉の胸元を掴んで引き起こした。「出丸中尉、すぐに飛行場に行け!」
 出丸中尉はしばらく参謀の顔を睨んでいた。その時、出丸中尉が叫んだ。「よし、死ん
 でやるぞ!」泣くような、だが必死の声だった。出丸中尉は立ち上がったが、足に力が
 入っていなかった。出丸中尉が飛行服を着るのを、参謀は冷たく見ていた。影山軍医は、
 もう、どうすることもできずに、黙って立っていた。
・部屋を出て行く出丸中尉の足は、まっすぐに歩けないでよろめいていた。参謀は、それ
 を後ろから追い立てるように急かした。二人の靴音が聞こえなくなった時、影山軍医が
 つぶやいた。「かわいそうに。無理に殺さなくてもいいものを」
・しばらくして、飛行場に爆音が起こった。佐々木は起き上げり、窓際に寄って、滑走路
 のある方向を見ていた。隼が一機まっすぐに離陸して云った。それだけだった。直掩機
 も他の特攻機も空中集合する飛行機もなく、出丸中尉はたった一機で飛び立った。これ
 は特攻飛行ではなく、処刑飛行だと佐々木は思った。    
・富永司令官の第四航空軍は司令部をマニラから約300キロ北にあるエチャーゲに移動
 することを発表し、即日、移動を始めた。もっとも、富永指令は、マニラに立てこもり、
 最後は竹槍で突撃することを主張していた。第四航空軍の司令部には、充分な火器がな
 かった。参謀達は、マニラを出ることを強く勧めたが、富永司令官は頑強に拒んだ。立
 てこもり、最後に突撃するのは、歩兵の発想だった。富永司令には、最後まで航空の発
 想がなかった。精神的に不安定になり、命令を頻繁に変えることも多くなった。部下を
 怒鳴り、鞭で殴りつけることが日常になった。「呑竜」を筆頭に特攻に不向きな飛行機
 を部下の反対を押し切って、次々と出撃させた。体調を崩したと自分で言い、宿舎を出
 なくなり、司令官を辞任したいと言い出した。第四航空軍の参謀達は呆れ、南方軍の総
 司令官は、認めなかった。その間も、3人の若い女性看護師が交代で世話を焼き、マッ
 サージ専門の准尉を従え、毎日、戦時中のマニラとは思えない豪華な食事を続けた。
・そして、アメリカ軍の上陸が目前に迫った時に、突然、富永司令は司令部の移動を認め
 た。あまりに急であり、なんの準備もなかったため、第四航空軍は大混乱になり、各部
 隊は連絡が取れなくなった。富永司令は、3人の看護師と世話役の准尉をつれて、車の
 後部座席に布団を敷かせて、そこに寝ながらマニラを脱出した。  
・アジア・太平洋戦史に長く記録されるであろう、信じられないことが起こった。富永司
 令が、エチャーゲ南飛行場から台湾に逃亡した。同行したのは、マッサージなどの身の
 回りの世話をしている准尉だけだった。 
・戦後、生き延びた富永司令は、電報で命令を受けたのだと強弁した。電報は、2通が混
 信し、文字崩れが起き、判読できないものだった。もちろん、大本営も南方軍も、出張
 の命令など出していなかった。富永司令は、そういう命令が来たのだと言い張り、飛行
 機を用意させた。
・富永司令の単独逃亡の計画を、事前に気付いている参謀達もいた。だが、止めなかった。
 司令官が台湾に逃げれば、部下である自分達も堂々と司令官を追って、フィリピンから
 脱出できるからである。しかし、この日、天候が悪く、飛行機はバシー海峡を越えられ
 ず、エチャーゲのさらに北のツゲガラオ飛行場に引き返した。次の日、掩護の隼を2機
 増やして、富永司令は台湾に渡った。護衛を増やさせたのは富永司令だった。
・ツゲガラオの将兵達は、怒りに身を震わせた。ガソリンが欠乏し、飛行機を飛ばすこと
 は厳しく制約されていた。それを、富永司は無視した。さらに、特攻では直掩機も戦果
 確認機も出さなくなっていたのに、自分だけは、4機の隼を掩護につけた。
・儀式が大好きだった富永司令は、特攻隊員を前にして、必ず、この言葉を繰り返した。
 「決して諸君ばかりを死なせはしない。いずれこの富永も後から行く」
・大岡昇平の「レイテ戦記」には、6行ほどの佐々木に関する描写がある。万朶隊の特攻
 を説明し、「その時、搭乗員佐々木友次伍長は体当たりはせずに爆弾を命中させてから、
 ミンダナオの飛行場に着いた。特攻隊中の変わり者で、自分の爆弾技術に自信があり、
 体当たりと同じ効果を生めばよいのだと独自の信念の下に、爆弾を切り離して生還した
 のであった。処罰を主張する上官もいたが、富永司令官の裁量で、この日再び出撃させ
 たという。ただし伍長は再び生還した。その後何度出撃しても必ず生還し、二カ月後エ
 チャゲ飛行場で、台湾送還の順番を待つ列の中に、その姿が見られたという」戦争の悲
 惨さと上層部の愚かさを冷徹に描写した戦争文学の傑作でありながら、どこか、佐々木
 が「生還したこと」に対する批判的な匂いがあると感じられたのは僕だけだろうか。    
・「富永司令官の裁量」というのも事実ではないような気がする。事情を知れば知るほど、
 「処罰」ではなく「処刑飛行」しか、佐々木に対する処置はないように思う。天皇に奏
 上までした軍神を、いまさら処罰はできないはずだ。そして、佐々木は「台湾送還の順
 番を待つ列の中」には、いられなかった。大岡氏のイメージは、特攻隊なのに死を拒否
 し、ちゃっかりとフィリピン脱出を狙った人物だったのだろう。だが、事実は違ってい
 た。
・証明書の発行を拒否されてから、佐々木にはすることがなかった。同時に、猿渡参謀長
 がどんなに佐々木を殺そうとしても、エチェーゲには出撃できる九九双軽は一機もいな
 かった。佐々木は猿渡参謀長が自分に台湾行きの証明書を出さないことを、怒るよりバ
 カバカしいと思うようになった。今、操縦者を優先して台湾に送っている。戦勢が悪化
 して、操縦者の消耗が激しく、補充の人員を養成するのが間に合わない。操縦者の質が
 落ちるばかりだ。自分のような人間こそ、先に帰して、実戦にも教育にも使うべきだ。
 それなのに、正反対なことをしている。なんと不合理で愚かなことだろう。
・台湾に渡れない佐々木は、たった独りでルソン島に残るしかなかった。共に戦う部隊も
 なければ、満足な銃器もない。アメリカ軍が侵攻してくれば、死しか選択の道はなかっ
 た。 
・8月10日早朝、午前会議で、ポツダム宣言の受諾が決定された。軍部は最後まで降伏
 に反対した。神風特別攻撃隊を始めたことで「特攻の産みの親」と言われた大西中将は
 「今後二千万の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として用うれば、決して敗けはせぬ」
 と最後まで主張した。
・第四航空軍は佐々木と津田少尉の銃殺命令を出していたと読売新聞の鈴木記者は続けた。
 大本営発表で死んだ者が生きていては困るから、そんな命令を出したのだと。佐々木は
 驚き、信じられなかった。鈴木記者はさらに、第四航空軍の命令は、第四飛行師団の猿
 渡参謀長が実行するはずだった、と説明した。二人を分からないように殺すために狙撃
 隊まで作っていたと。  
・同じ頃、津田少尉もまた、高千穂空挺隊の大尉から「殺せという命令」が出ていたとい
 う話を聞いた。別々のルートで同じ話を聞くということは、殺害命令が事実であること
 を裏書きするものだろう。戦争が長引いていれば、二人は近くの山から来た日本兵に殺
 されていたのだ。 
・1946年、佐々木はマニラ港でアメリカ輸送船に乗った。空から何度も見たアメリカ
 軍の揚陸船だった。自分がそれに乗って日本に帰ることに、佐々木はなんだか皮肉なも
 のを感じた。9日後、船は富士山の見える三浦半島の浦賀港に入った。港の内外に見え
 る船舶はすべて、アメリカ国旗を翻していた。日本の船は一隻もなかった。
・浦賀の収容所に2日いた後、佐々木ら復員部隊は隊列を作って収容所を浦賀駅に向かっ
 て出発した。途中で露店が並んでいる道に出た。それが闇市と呼ばれるものだと気がつ
 いた。行進を続けていると、ひとかたまりの男女が叫び始めた。寄せ集めの服を着て、
 それでも寒さに震えているような、惨めな姿をしていた。やがて、彼ら彼女らは、復員
 軍人の列に向かって石を投げ始めた。佐々木にはののしる声がはっきりと聞こえた。
 「日本が負けたのは、貴様らのせいだぞ!」「いくさに負けて、よくも帰ってきたな。
 恥知らず!」「捕虜になるなら、なぜ死なないのか!」石つぶては、佐々木の前後にも
 飛んできた。復員軍人達は、ちらっとその方を見ただけで、あとはうつむいて黙り込ん
 で歩いた。 
・佐々木達は、貨物列車に押し込まれ、東京に運ばれた。横浜を過ぎると、列車は廃墟の
 中を走った。扉の隙間から見える無残な焼け野原に復員軍陣達は、驚きと絶望の声を上
 げた。 
・佐々木は市ヶ谷の第一復員局に向かった。そこで第四航空軍担当者をしていたのが猿渡
 参謀長だった。猿渡参謀長は、昔の気難しく、ぶっきらぼうな言い方に戻った。佐々木
 は猿渡参謀長の真正面に立って、その顔を見つめた。自分をいくたびも殺そうとした男
 の顔だった。そればかりか、最後は射殺することも計画していたという。佐々木の体か
 ら激しい怒りが湧き上がってきた。が、同時に、浦賀の収容所の出来事が浮かんできた。
 収容所では、兵隊達が横暴だった将校下士官達に対して復讐していた。かつて暴力を働
 き、暴力的な制裁を続けた奴らに対して、兵隊達が追い回し、袋叩きにしていた。佐々
 木はそれを見て、虚しい気持ちになった。猿渡参謀長を、いや、猿渡元参謀長を殴って
 も傷つけても、飽き足りないものを佐々木は感じた。
・「最後の一機には、この富永が乗って体当たりする決心である」と、毎回、特攻隊に向
 かって訓示していた富永司令官は満州で終戦を迎え、ソ連の捕虜となった。そして、
 1955年、10年間の捕虜生活を終えて帰国し、1960年、68歳で寿命を迎えた。
・「特攻の産みの親」と言われた大西中将は終戦の翌日、8月16日に自決した。54歳
 だった。  
・佐々木は、札幌駅の待合室の隅の土間に、直に毛布を敷いて倒れこんだ。突然、英語の
 会話が耳に入った。目を向けると、若い女性とアメリカ兵がふざけあっていた。カタコ
 トの英語を話す日本人女性を見て、佐々木は衝撃を受けた。フィリピンの捕虜収容所で
 は、アメリカ軍が内地に上陸すれば、日本の女性達は貞操を守って自決するだおると言
 い合っていた。けれど、今、目の前では日本の女性が、敵性語と言われた英語をしゃべ
 り、アメリカ兵の腕にぶら下がっている。佐々木は、その光景を見ながら、猛烈な疑問
 が湧き上がって来た。「なんのための、体当たり攻撃だったのか」
・佐々木は、当別村に帰って、しばらく寝込んでいた。その間に、岩本大尉の妻、和子に
 自分の帰郷を手紙で伝えた。岩本大尉のことを話したかったが、和子の実家がある山口
 県の萩まで旅行できる体の状態ではなかった。  
・春になり、ようやく体力も回復した頃、村役場から男がきて、佐々木に、特攻隊員とし
 てもらった勲章と賜金を返納するようにと要求した。佐々木の戦死に対して、勲章と共
 に死亡賜金が国債の形で3000円渡されていた。佐々木は反発したが、父親の藤吉は
 すぐに返せと佐々木に言った。 
・佐々木は父親の言う通り、勲章も賜金も返納した。体力が回復した佐々木は、母親から
 汽車賃を借りて萩に向かった。萩では、和子も和子の父母も佐々木を喜んで迎えた。佐
 々木の語る岩本大尉の話を、和子達は涙を流しながら聞いた。佐々木は、岩本大尉の墓
 に参った後、引き止められるままに数日、滞在した。 
・和子には養子ができていた。夫の岩本大尉が死んで、和子はずっと夫の後を追うことを
 考えていた。終戦の前年、岩本大尉の実姉が1歳になるかならないかの子供を連れて、
 和子も住む岩本大尉の実家、福岡に来た。幼いながら、笑うと目の細さが岩本大尉にそ
 っくりで、和子は赤ん坊をの笑顔を見ながら、夫も思い出して涙を流した。そんな姿を
 見た実姉は、赤ん坊を、息子として育てないかと、和子に申し出た。和子は心底喜び、
 我が子として育て、夫と同じような立派な航空軍人にしようと決めた。生きていく理由
 を見つけたのだ。戦後、和子は、婚家去り、子供をつれて萩の実家に帰った。だが、妻
 としての籍はそのまま残した。和子は上京し、文化服装学院で洋裁を学び、地元の萩に
 洋裁学院を開いた。経営は苦しかったが、子供の成長を生きがいとして、生涯、独身の
 まま岩本姓を名乗った。 
・1968年、北海道の丘珠にある陸上自衛隊の駐屯地に勤務する、北部方面航空隊の航
 空隊長が、フィリピンで万朶隊の掩護をした第二十戦隊の隊長であることを知った佐々
 木は、直接会いに行った。どうして、自分が戦艦を撃沈したことになったのが、掩護隊
 の隊長だった人物なら分かるだろうと思ったのだ。だが、自衛隊の一等陸佐は、佐々木
 の質問に対して、よく記憶していないとか、どの操縦者だったのか分からないとかと、
 あいまいな答えをするだけだった。将校だった人は、真実を語ろうとしていない。日本
 軍の不名誉なことを隠そうとしている。戦後、20年以上たっても変わっていない。佐
 々木は虚しい怒りを感じならが、当別に帰った。 
 
特攻の実像
・「神風特別攻撃隊」という戦後、ベストセラーになった本があります。大西中将の部下
 であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力平の二人が書いたものです。それには、関
 大尉が海軍第一回の特攻隊長に指名された時の様子が描写されています。深夜、寝てい
 るところを士官室に呼ばれた関大尉に対して、所属部隊の副長である玉井中佐は、肩を
 抱くようにし、二、三度軽くたたいて、現在の状況を説明し、「零銭に250キロ爆弾
 を搭載して敵に体当たりをかけたい。ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽
 の矢を立てたんだが、どうか?」と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇を結んでなんの返
 事もしない。目をつむったまま深く考えに沈んでいった。身動きもしない。一秒、二秒、
 三秒、四秒、五秒。と、彼の手がわずかに動いて、髪をかき上げたたかと思うと、しず
 かに頭を持ち上げで言った。「ぜひ、私にやらせてください」すこしのよどみもない明
 瞭な口調であった。 
・これを「志願」という人もいるかもしれません。かれど、厳しい階級社会の軍隊におい
 て、中佐という二階級上の上官から「涙ぐまれながら」「どうか?」と言われて断るの
 は本当に難しいと思います。ところが、1984年、戦後40年近くたって、この夜の
 やりとりが猪口・中島の書いた嘘だと判明します。のちに、僧侶になった元副官の玉井
 氏が、関大尉の中学校時代の同級生に対して、「関は一晩考えさせてくれ、といいまし
 てね。あの日は豪雨で、関は薄暗いローソクの灯の下で、じっと考え込んでいました」
 と証言していたのです。 
・「一晩考えさせてください」と答える関大尉に、玉井中佐は、編成は急を要する、でき
 れば、明日にでも、敵機動部隊が現れれば攻撃をかけねばならない。と、重ねて、大西
 長官の決意を説明し「どうだろう。君が征ってくれるか」とたたみかけたのです。そし
 て、関大尉は、「承知しました」と短く答えました。これは、「志願」のふりをした
 「強制」です。いったん、ふりをするだけ、余計に残酷だと感じます。 
・「神風特別攻撃隊」では、他の隊員の志願に関しても、嘘が書かれています。初めて隊
 員達に特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。「集合を命じ
 て、戦局と長官の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手をあげての賛成であ
 る。彼らは若い。小さなランプひとつの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らせて立派
 な決意を示していた顔つきは、いまでも私の眼底に残って忘れられない。これは若い血
 潮に燃える彼らに、自然に湧き上がった激しい決意だったのである」
・だが、生き残った浜崎飛曹の証言によれば、23人の搭乗員達は、あまりの急な話に驚
 き、言葉も発せずに棒立ちになっていました。「いいかお前達は突っ込んでくれるか!」
 玉井副官は叫びましたが、隊員達には戦闘機乗りとしてのプライドがありました。反応
 が鈍いのに苛立った玉井副官は、突然、大声で、「行くのか行かんのか!」と叫びまし
 た。その声に、反射的に総員が出を挙げたのです。
・それは、意志というより、突然の雷に対する条件反射でした。玉井副官は、その風景を
 見て「よし判った。志願した以上、余計なことを考えるな」と答えました。全員が「自
 発的に志願」した瞬間でした。 
・それ以降の隊員選びでは、中島飛行長は、封筒と紙を配り、志願するものは等級氏名を、
 志願せぬものは白紙を封筒に入れて、提出させたと戦後、答えました。「志願、不志願
 は私のほかだれにもわからない」ためです。けれど、やはり生き残った隊員は、そんな
 手順を踏まず、実際は、「志願制を取るから、志願する者は一歩前へ」というものだっ
 たと証言しています。中島だけにわかるのではなく、まったくの逆です。結果、全員が
 一歩前に出たと言います。   
・当事者の隊員がこう証言していても、中島は、戦後もずっと当人達の意志を紙に書かせ
 たと主張を続け、航空自衛隊に入り、第一航空団司令などの要職を経て、空将補まで上
 り詰めました。 
・猪口、中島というリーダーは、部下の内面に一歩も踏み込んでいないと感じられるので
 す。どれぐらい動揺しているのか、本心はどうなのか、動揺に耐えられるのか。優秀な
 リーダーなら、部下と話し、部下を知り、部下の状態を把握することは当然だと考えま
 す。けれど、特攻を「命令された側」の内面に踏み込む記述はないのです。それは見事
 なほどです。登場する隊員達は、全員、なんの苦痛も見せないのです。それは、今読み
 返してみると、異常に感じます。隊員の内面に踏み込んだ描写をぜず、関大尉の場合の
 ように嘘を書く理由は、ひとつしか考えられません。特攻の全員が志願なら、自分達上
 官の責任は免除されます。上官が止めても、「私を」「私を」と志願が殺到したのなら、
 上官には「特攻の責任」は生まれません。が、命令ならば、戦後、おめおめと生き延び
 ていたことを責められてしまいます。多くの上官は、「私もあとに続く」とか「最後の
 一機で私も特攻する」と演説していたのです。
・大西中将のように、戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどが「すべての特攻は志願
 だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。
・2012年8月に放送されたNHK「クローズアップ現代」は奇妙な内容でした。海上
 自衛隊第一術科学校の倉庫の奥深くから大量の特攻隊員の遺書が見つかったことが始ま
 りでした。1949年、特攻隊員の遺書を遺族から回収して歩いた男がいたことがわり
 ます。男は、特務機関の一員だと名乗り、このことは口外しないようにと遺族達に言い
 ました。もちろん、戦後ですから、もう特務機関などというものは存在しません。集め
 られた遺書は、1000通あまり。2000近くの遺族を訪ね歩いていました。どうし
 ても遺書を渡すのが嫌だと拒否した場合は、その場で書き写したそうです。けれど、多
 くの遺族は従いました。
・遺書に押されていた「二復」の文字から、この男は海軍を事実上引き継ぐ組織である
 「第二復員省」から情報をもらって遺族を訪ね歩いていたとわかりました。その男と頻
 繁にやりとりをしていたのが、猪口力平でした。なんのために遺書を集めたのか、何が
 目的だったのか。
・1951年、特攻作戦や軍部への批判が高まっていた時に、「神風特別攻撃隊」は、そ
 の風潮に対抗するように出版されました。この本の中には、特攻が現場の兵士達の熱望
 によって生まれ、出撃の志願者が後を絶たなかったということの裏付けとして、遺書7
 通が引用されています。これらは、すべてこの時い回収された遺書でした。
・この当時、10年たったら海軍は復活すると多くの人は考えていて、明治以来の立派な
 歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあった。その時、唯一、海軍としては
 軍としても人としてもやってはいけない特攻作戦を発案し、それを実行したという、本
 当に抜きがたい、心に刺さったとげのような部分があったのではないか。なので、日本
 全国の遺族の手元に遺書があると、これは孫の代になっても、ひ孫の代になっても、自
 分の祖父は、曽祖父は、こういう形で死んだんだというのがずっと残る。海軍はそれが
 つらかったんじゃないか、と分析しています。
・特攻が「志願」だったと強調する人は、特攻隊員の遺書や遺稿に溢れる「志願」「喜び」
 「熱意」を根拠にしますが、それは当時の状況を無視しすぎています。
・慶応大学から学徒動員で特攻隊員になった22歳の上原が「きけわだつみのこえ」の冒
 頭に収録されて、とても有名になりました。「権力主義、全体主義の国家は一時的に隆
 盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次
 世界大戦の枢軸国家(日本・ドイツ・イタリア)において見ることができると思います」
 と書くのです。
・ちなみに、猪口と中島は、それぞれ昭和の終わりと平成まで生き、80歳と86歳で亡
 くなりました。   
・大貫少尉を毎日、「振武寮」で罵った倉澤少佐は、戦後インタビューに答えて、「士官
 学校は大学よりも教育期間が短いでしょう(通常は2年)。だから「年齢が若くて参謀
 なんかになって、自分は特攻隊にならないで、我々素人を特攻隊用に大学から引っ張っ
 て」という態度が、消えなかったですね。「日本の教養のある人間を特攻隊にして。士
 官学校などという教育期間の短い人間には、軍人学はできるけれども、経済学、政治学、
 外交関係、国際関係などの知識がない。おまえらこそ特攻に行け」と思っていたようで
 す。
・ちなみに、倉澤少佐は護身用に拳銃を80歳まで手放しませんでした。「振武寮」で罵
 り続けた特攻隊の生存者や関係者から襲われるかもしれないとずっと警戒していたので
 す。80歳になってやっと、自宅近くの警察署に拳銃を提出しました。敗戦と同時に父
 親に預けていたが、遺品を整理していて偶然見つかったと嘘の説明をしました。
・海軍特攻戦死者は2525名、うち予科練出身者が1727名。エリートである海軍兵
 学校出身者は110名。大学出の「海軍飛行予備学生」出身である予備士官と特務士官
 は688名。陸軍は、特攻戦死者1388名。主力は大学出の特操と1943年以前に
 入隊した少年飛行兵(下士官)でした。海軍でここまでわかっていますが、陸軍では正
 確な数字が公式戦記にも残っていません。
・エリートを外し、若者を送り出したという点では、海軍の事情も似ていました。特攻に
 出撃するのは、予科練の20歳前後の下士官か、学生出身の予備士官でした。全体の特
 攻死者の中で、予備士官の戦死が25%。士官の死者全体の80〜83%を占めていま
 す。エリートである海軍系学校出身者は、全体の4%。士官で見れば、わずかに1%か
 ら1.4%ほど。 
・特攻に出撃し、アメリカの艦船に突入する時に「海軍のバカヤロ」と無線を打った特攻
 隊員がいました。それは、自分達の身内をかばい、学徒出身や若い下士官を送り出すこ
 ういう差別構造が許せなかったのです。出撃前、ビールビンを士官宿舎の窓に向かって
 投げ、「アナポリ、出て来やがれ、お前達はこの戦争で一体何をしているんだ。いま沖
 縄の海で戦っているのは、予備学と予科練だけだぞ!」と怒鳴った予備士官がいた。
 (「アナポリ」とは兵学校出身の海軍エリートを揶揄する言葉。アメリカの海軍兵学校
 がアナポリスにあったから。まさか「江田島」とは言えなかった)
・海軍も陸軍も、自分達の一番の身内であり、中枢である海軍兵学校出身者と陸軍士官学
 校出身者を戦争末期になればなるほど、なるべく特攻に出さないようにしました。 
・特攻が「志願」だったのか、「命令」だったのかという問いかけの時に、司令官ではな
 く、隊員達が書いた多くの手記は、「志願」の形をした「命令」だったと断じます。佐
 々木友次さんのように、はっきりと「命令」の場合もありましたし、「志願せよ」と命
 令した場合もありました。命令すれば、それは「志願」ではありません。志願するまで
 繰り返し、問い続けられるというケースもありました。
・エリートである士官達は、岩本大尉もそうでしたが、技術論として特攻に反対する人が
 多かったのです。岩本大尉は、当時の士官エリートがそうであったように、祖国を愛し、
 熱烈な天皇崇拝者でした。ですが、それと、作戦として「無意味な」特攻をすることは
 別だったのです。
・そして、予備士官や特操という、学生を経験した若者は、軍隊式思考に染まらず、批判
 的知性を持っていましたから、「この方法しか戦い方はないのか?」「戦争は負けると
 思われるのに特攻を続ける意味はどこにある?」「なぜ、私が選ばれ、エリートの士官
 は選ばれないのか?」と苦悩したのです。
・猪口は、全国から集めた遺書を見た結果でしょう。次のように言います。「総じて下士
 官兵のものは、比較的単純であり、同型のものが多い。また、海軍兵学校出身者の士官
 は、とくべつ書き残したものが奇妙に少ないようである。それは、平生からその心構え
 をそなえており、ことさら最後に書く必要がなかったかもしれない。その点、学徒兵の
 ものは、複雑な精神の曲折を自覚的に受け止めて、人間的衷情を訴えているものが目立
 っている」
・体当たり特攻への志願・自発性の度合いは、当然にもその有効性を信じる度合と平行し
 た。種別的に見れば、回天特攻のそれが最後まで最も高く、ついで海軍特攻機、陸軍特
 攻機の順となる。時期的には、特攻開始の初期ほど高く、後ほど低くなる。また、実戦
 経験や技術的練度の高い者や高学歴者ほど批判的であり、年齢も学歴も低い者ほど積極
 的であった。
・「命令された側」になり、特攻隊員として亡くなった人達に対しては、僕はただ頭を垂
 れるのみです。一部の「自ら志願した」人達も同じです。深い尊敬と哀悼と祈りを込め
 て、魂よ安らかにと願いだけです。「特攻はムダ死にだったのか?」という問いを立て
 ることそのものが、亡くなった人への冒とくだと思っています。死は厳粛なものであり、
 ムダかムダでないかという「効率性」で考えるものではないと考えるからです。
・総じての死は痛ましいものであり、私達が忘れてはならないものだと思います。特攻隊
 で死んでいった人達を、日本人として忘れず、深く記憶して、冥福を祈り続けるべきだ
 と思います。けれど、「命令した側」の問題点を追及することは別です。 
・戦後、東久邇宮首相は、「この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなけれ
 ばならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の一歩であり、わが国内団結の一
 歩だと信ずる」というような発言をしました。敗戦の責任に対するいわゆる「一億総懺
 悔」と呼ばれるものです。 
・「命令した側」と「命令を受けた側」をごちゃ混ぜにした、あきれるほどの暴論です。
 どんな集団でも、リーダーと部下がいて、責任を取るのは、「その指示を出したリーダ
 ー」です。その指示に従って部下まで責任を取るなら、「責任」というものは実質的に
 無意味になります。また、「軍」と「官」と「民」でも立場が違います。将軍と一兵卒
 が同じ責任のはずがない。政治家と一下級官僚が同じ責任のはずがない。大会社の社長
 と事務員が同じ責任のはずがない。特攻も同じでしょう。特攻という攻撃を決定した人。
 それを推進した人。それに従って 死んだ人。それが同じ重さの責任のはずがないので
 す。 
・けれど「一億総懺悔」という、当時のリーダーにとってじつに都合のいい考え方は、国
 民の一定の支持を得ました。日本国民は、「私にも責任がある」と自省しました。それ
 は、とても思いやりのある優しい国民性ですが、問題の所在を曖昧にし、再び、同じこ
 とを繰り返す可能性を生むのです。「命令した側」と「命令された側」ごちゃ混ぜにし
 てしまうのは、思考の放棄でしかないのです。
・猪口は、遺書を紹介しながら「私は、神風特別攻撃隊に対する批判はどうであろうとも、
 いさぎよく散ったかれら自身だけは救われてくれ、と祈念してやまないものである」と
 書いています。ここには、自分が「命令した側」だという意識がありません。選抜し、
 命令した側ではなく、特攻隊員と同じ場所に立っているふりをしています。もっと悪く
 言えば、自分に対する批判を、特攻隊員への批判にすり替えることで無くそうとしてい
 ます。英霊を批判できないから、自分も批判できないという論理です。意識的なのか、
 無意識なのか。
・ですから、特攻隊員を「英霊」「軍神」と無条件で讃える言い方も、僕は気を付けない
 といけないと思っています。そういう言い方によって、「命令した側」の存在が曖昧に
 なってしまうからです。「英霊」「軍神」と褒め讃えると、そんな特攻隊員を生んだ
 「命令した側」も評価されるイメージが生まれるのです。特攻隊員の死は、「犬死に」
 や「英霊」「軍神」とは関係のない、厳粛な死です。日本人が忘れてはいけない、民族
 が記憶すべき死なのです。
・フィリピンでは、まさに「特別」の攻撃あった体当たりは、沖縄では、「主流」になり
 ます。つまりは正規の作戦を放棄し、「統率の外道」である特攻を推進することを公然
 と宣言したのです。
・特攻から生還した桑原敬一氏は著書のなかで「元特攻隊員にとって、「志願」なのか
 「命令」なのかはどうでもいい」と書いています。桑原氏は、18歳で特攻隊員に指名
 され、出撃しますが、機体のトラブルで不時着、なんとか生き延びたパイロットです。
 どうして、どうでもいいことなのかと言えば、「初期の特攻はいざ知らず、末期特攻に
 おいては、それぞれの航空隊が、それぞれの方法によって選抜したといわれるその実態
 が、本質的にはとかく議論の余地のない命令そのものであったことに違いないからであ
 る」。
・大貫少尉は、「熱望する 希望する 希望せず」と文字が三列に並んで書かれた紙を渡
 されます。その紙に官姓名を署名して、いずれかに丸をつけて提出しろと言われました。
 渡される前には、「特殊任務にみなが率先して志願してくれることを期待する」という
 司令官の演説が30分も続きました。はっきりと「希望せず」に丸をつけたのに、次の
 日の訓示で「全員が熱望していることに感動した」と言った司令官もいましたし、「希
 望せず」に丸をつけた後、上官から呼び出しをくらい、訂正せざるを得なかった隊員も
 いました。
・予備学生に対しては、一応、「志願」の形をとろうとしています。予科練生に対しては、
 もっと高圧的でした。「全員が志願するだろうから、こちらから指名する」とか、「志
 願をつのる」と言いながら、反応がないと「誰もいないのか、誰も!」と全員の手が上
 がるまで怒鳴り続けたり、志願を当然の前提として部隊全体に命令したのです。「全機
 特攻化」ですから、隊員が不足するのです。繰り返し出撃できず、減っていくだけです
 から、次々と特攻隊員を編成する必要があったのです。
・沖縄戦で「命令された側」がさらに悲惨なのは、満足な特攻機が少なくなったことです。
 沖縄特攻では、旧型機や古い機体、さらに羽布張りの、つまり翼が布張りの練習機まで
 特攻に使われました。そんな飛行機で出撃する特攻隊員を、司令部は勇壮果敢と表現し
 ましたが、整備員は泣くのです。羽布張りの中型練習機を与えられた予科練出身の少年
 達は、「せめて零練機(練習戦闘機)で行きたい」と思いながら出撃します。整備員達
 は、「こんな子供をこんなボロ飛行機で!」と泣くのです。どう考えても、どんなに精
 神力があろうと、どんなに祖国を愛していようが、戦果を期待できないから泣くのです。
 戦争はリアリズムであり、整備員はアメリカ戦闘機の能力と練習機の能力の違いを冷徹
 に知っているから泣くのです。 
・予備学生出身の杉山元少尉は、「特攻隊員が、現地で特別待遇を受け、特別の寝食を与
 えられたと、想像している人々が多いのに私は驚く。特攻隊員の宿舎は、一言でたとえ
 れば、生き地獄だったと評しても過言ではなかった。宿舎の屋根は、穴だらけで、雨水
 がと飛び散り、毛布を抱えて、雨を避けながら、部屋の片隅にかたまって仮眠する哀れ
 な特攻隊員達の姿を、人々は想像出来るだろうか」「出撃前、いまだ生を受けていると
 き、特攻隊員達と親しく語り合ってくれた参謀が、一人でもいただろうか。「無謀を承
 知だが、お国のためだ。すまんが死んでくれ」と頭を垂れた参謀が一人でもいただろう  
 か。特攻隊員の宿舎は、陰気臭いので、窓の傍にさえ誰一人、近寄らなかったのではな
 いか。予備学生は、軍人精神がまるでなく、飛行技術も未熟だと罵られながら、離陸す
 らやっとの整備不良の零戦で出撃させられたのである」「今でも、彼ら海軍上層部の連
 中を許せないのは、真の戦争の責任をこそ問われるべき連中が、戦没者の慰霊祭の際に
 は、必ず出没し、英霊にぬかずき、涙を流し、今となって、特攻隊員の勇敢さをほめた
 たえ、遺族をねぎらっているあの偽善の姿である。あのずうずうしさには、身震いさえ
 感じる」
・初期はベテランパイロットを特攻隊員に命じましたが、沖縄戦になると、はっきりと未
 熟で経験が浅いパイロットが特攻隊員として選ばれるようになりました。それが、予科
 練であり、予備士官、特躁、少年飛行兵の若者達です。兵学校や士官学校を出ていない
 古参下士官達は、「俺を特攻隊に選んだら許さんぞ」と放言して牽制した者が多かった
 と言います。任命する上官達も、ベテランのパイロットは、本土防衛のために温存して
 おく必要があったのです。結果、飛行時間が300時間から500時間、なかには、
 100時間前後で離着陸がやっとという若い操縦士が特攻隊に選ばれました。「戦闘機
 操縦者戦力一覧表」によれば、2000時間で「指揮官・僚機として戦闘で力を発揮し
 た」と分類されています。600時間から1500時間だと「僚機として作戦任務につ
 ける」です。「万朶隊」の他の下士官はこれぐらいだったのでしょうか。そして300
 時間では「作戦任務につけない」となっています。100時間前後では、問題外です・
・そもそも、「体当たり」は難しいのです。アメリカの猛烈な弾幕を避けながら、超低空
 で近づき急上昇して急降下する攻撃も、高高度から急降下する攻撃も、突入の角度を維
 持しながら、船の軸線に入り、蛇行しながら逃げていく進路の先を予想しなければなり
 ません。同時に、風向きと風速も急降下の角度に影響を与えます。角度が浅くなりと飛
 行機の腹が出て敵から狙われやすく、深すぎると、操縦困難になって海に突入したり船
 を飛び越したりします。体当たりを成功させるためには、ある水準の技量が絶対に必要
 なのです。けれど、富永司令官のように空戦の経験がない参謀は、「体当たりは、爆弾
 を落とすより簡単だろう」という憶測で命令を出し続けたのです。圧倒的に飛行時間の
 足らない操縦士を、ボロボロの飛行機で送り出した上官達は、どんな言い訳をしても、
 若い人命を消耗品と考えていたとしか思えません。彼らは、どこまで本気で戦果を上げ
 ると信じていたのでしょうか。
・いかに戦時とはいえ、生還の可能性のない攻撃は、リーダーは踏みとどまるべきではな
 いかと考えます。攻撃を受け、生還の望みのない兵士が、自主的判断に敵に体当たりを
 するここと、組織として「九死一生」ではなく「十死零生」の命令を公式に出すことは、
 根本的に違うのです。
・岩本大尉が熱望した「跳飛爆弾」は、マリアナ沖海戦以降、アメリカ軍が使用し始めた
 近接信管(VT信管)のためにほとんど不可能になりました。近接信管とは、電波発信
 機を備えドップラー効果を利用して、目標物が15メートル以内に来ると爆発するもの
 です。従来の触発信管つきの爆弾は、目標に当たらないと爆発しません。また、時限信
 管は、発射さえてから2秒後とか3秒後とか時間で爆発するものです。が、近接信管は、
 当たらなくても、また爆発までの時間の計算とは関係なく、飛行機が近くを通った瞬間
 爆発し、その破片で機体を破壊します。近接信管の使用によって、日本機は甚大なダメ
 ージを受けるようになりました。アメリカの艦船に搭載されていた機関砲は1秒間に
 4.7発の近接信管付き砲弾を撃てました。駆逐艦程度で、装備していましたから、跳
 飛爆弾のために近づくことは非常に困難になりました。が、どんなに不可能に近くなっ
 ても、可能性はゼロではありません。見事、跳飛爆弾を成功させて、生還する可能性は、
 どんなに少なくてもあるのです。だからこそ、岩本大尉は熱望しました。が体当たりは、
 生還する可能性はありません。それが「九死一生」ではなく「十死零生」と言われる所
 以です。
・いかの戦争でもあっても、生還の見込みがゼロの作戦を、組織として採用すべきではな
 い。どんなに不利な戦いでも、どんなに負け戦でも、指導者として踏むとどまる限界が
 あるのではないか。  
・僕が「命令した側」に対して理解できないのは、フィリピン戦から沖縄戦にかけて、
 「特攻の効果」が著しく逓減したことを知りながら、特攻を続けさせたことです。アメ
 リカは、すぐに特攻隊対策を打ち出しました。艦載機を増やしたのもそうですが、空母
 から110キロのレーダー駆逐艦を広範囲に配置し、レーダーピケットと呼ばれる鉄壁
 の態勢を作り上げました。どこから飛んできても、特攻機の高度や水平方向、距離を測
 定し、その情報を統合して分析する情報中枢を設けたのです。これにより、飛来する前
 には情報を確定することが可能になり、特攻機の上空で待ち構えることができるように
 なりました。特攻機は、突然、上空から襲ってくるアメリカ機に次々と打と落されたの
 です。
・アメリカ軍機が迎撃しきれず、レーダーピケットの最前線である駆逐艦まで飛来する特
 攻機もいました。駆逐艦の撃沈が多いのは、この理由です。これによって、フィリピン
 戦よりもさらにレーダーをくぐり抜けて、アメリカ艦船に近づくということが非常に困
 難になりました。そして、近接信管の登場が決定打になりました。状況は劇的に変わっ
 たのです。なのに、「命令した側」は、同じ命令を出し続けたのです。それも劣化した
 飛行機で、経験の浅い操縦士達に。明らかに下がった命中率は無視して、軍司令部は、
 フィリピン戦での命中率を「揺るげない事実」つぃて作戦を立案しました。もはや、冷
 静に現実を見る能力をなくしていたと言っても過言ではない状態だったのです。  
・天皇は初めての特攻隊、関大尉が指揮する「敷島隊」の報告を及川軍司令総長から受け
 た時、顔を曇らせ、声を押し殺すように「そのようにまでせねばならなかったか。しか
 しよくやった」と語ったと言われています。別の証言では、この二文の間に「まことに
 遺憾である」という、特攻に反対する言葉が入っていたとも言われています。後日、米
 内光政海軍大臣が上奏した時は「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である」と
 強い口調で言い、続けて「神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸子には哀惜の情にたえ
 ぬ」と語ったとされています。
・戦後の研究では、昭和天皇は軍部の暴走に対して、何度かはっきり止めようとしていま
 す。大日本帝国憲法では、軍部にブレーキをかけられるのは法的には天皇のみでした。
 が、それは、暴走する軍部と直接対立するということを意味します。孤立した天皇の戦
 いを守る制度はなかったのです。  
・昭和天皇は好戦主義者ではなかったが、平和主義者だったということもできない。昭和
 天皇が何よりも大切にしていたのは、「皇統の継続」で、それがあらゆる判断に優先し
 た。昭和天皇は、自らの責任として、皇統(天皇制)をつなげていくことを最重要課題
 にしていたということです。当時の軍部の原理主知的な部分は、コントロールできない
 だけでなく、天皇といえども具体的に危険を感じるレベルだったと残された資料から推
 測できます。 
・「敷島隊」以降、新聞の一面に特攻隊の記事が躍り出ます。朝日新聞を例にとれば、こ
 れ以降、なんらかの形で特攻隊が一面で記事になったのは、1944年の残りの二カ月
 と少しで42回、1945年の終戦までで86回。計128回。さらに新聞の二面では、
 より物語的な記事が多く書かれました。未来ある若者が、祖国のために、自ら志願して、
 微笑みながら体当たりをしていった。どんな人物だったのか。最後の姿はどんな風だっ
 たのか。同僚はどう思ったのか。両親は、妻は、恋人は何を思い、特攻隊員は残された
 人達に何を託したのか。見送る整備員が、「喜びのあまり」号泣した風景、など。玉砕
 と転進が続く記事の中で、特攻隊に関する文章は、どんな「戦果」よりも勇壮で、情動
 的で、感動的でした。
・だからこそ、第一回の特攻は絶対に成功させるためにベテランパイロットが選ばれたの
 です。国民は感動し、震え、泣き、深く頭を垂れました。そして、結果として、戦争継
 続への意志を強くしたのです。こんな若い兵隊さんが、自ら志願して、祖国のために率
 先して身を捧げている。それを知れば知るほど、英米への憎しみや戦い続ける決意、窮
 乏に耐える根性、不屈の闘志を強くしていくだろう。そのためには、「戦果」より「死
 ぬこと」の方が大切だと司令官が考えても当然だと思うのです。 
・司令部の意図をくんで煽ったマスコミを責めるだけでは何の問題も解決しません。はっ
 きりしているのは、国民はそういう勇壮で感動的な記事が読みたかったということです。
 日露戦争以降、新聞社は戦争が商売になることを知って、軍部に協力していきます。満
 州事変の時、ほとんどの新聞が「援軍」「擁軍」になった時、「大阪朝日新聞」だけは、
 「この戦争はおかしいのではないのか。謀略的な匂い、侵略的な匂いがする」と書きま
 した。ですが、在郷軍人会を中心とする不買運動にやられて部数が急落、、最終的には
 負けて編集方針を変えました。不買運動に反対し、満州事変に反対する「大阪朝日新聞」
 を買い支える大衆は存在しなかったのです。
・特攻が続いたのは、硬直した軍部の指導体制の過剰な精神主義、無責任な軍部・政治家
 達の存在が原因と思われますが、主要な理由のひとつは、「戦争継続のため」に有効だ
 ったからだと、僕は思っています。   
・東条英機首相は、帝国議会での施政方針演説で、「申すまでもなく、戦争は、畢竟、意
 志と意志との戦いであります。最後の勝利は、あくまでも、最後の勝利を固く信じて、
 闘志を持続したものに帰するのであります」と話しました。この演説に、議会人は拍手
 を送りました。 
・「勝つと思った方が勝つんだ」というのは、子供の発言ならわかります。しかし、一国
 の首相の発言ではありません。一国の首相のすることは、日本とアメリカの国力、生産
 力、軍事力を冷静に分析し、これ以上戦ったらどうなるかを客観的に判断することです。
 「勝と思ったら勝つのだ。気力がすべてだ」と叫ぶことではありません。東條首相は、
 「負けたと思った時が負けなのだ。負けだと思わなければ負けない」という意味の発言
 もよくしました。「負けた」と絶対に思わないまま、勝たないとしてら、待っているの
 は「死」だけです。負けないと思うなら、何十万という将兵が殺されても、負けていな
 いことになるのです。
・東條首相は、「勝利」「最後の勝利」と言い続けましたが、具体的には内容を一度も語
 っていません。東條首相は開戦の時に、陸海軍の事務局政治将校に、終戦の方針を書く
 ように命じました。将校達は、たたき台だと思って「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹
 案」という方針を書きました。が、「大本営政府連絡会議」ではなんの深い議論もされ
 ず、あっさりと政府の方針になったことに、書いた将校達は驚き、戸惑いました。その
 終戦の腹案は、極東においては、アメリカ・イギリス・オランダの根拠地を破壊して、
 自在自衛を確立し、蒋介石政権を屈伏させ、ドイツ・イタリアと連携してイギリスを屈
 伏させ、アメリカの継戦意志をなくすというものでした。ドイツを過剰に信頼し、イギ
 リスの軍事力を過小評価し、アメリカの国民の抗戦意欲を軽視した、非常に観念的なも
 のでした。東條首相は、願望と期待に満ちた、じつに曖昧な形でしか「勝利」を予測し
 ていなかったのです。 
・東条首相が飛行学校を訪れ、学生にどうやって敵機を撃ち落すかと質問し、学生達は
 「高射砲でこう撃てば・・・」と具体的に答えたら、東條は、「違う、精神で撃ち落す
 んだ」と答えたのです。東條英機は首相であり、同時に陸軍大臣でした。首相として、
 まして陸軍大臣としては、これは言うべき言葉ではありません。敵機は「精神」では撃
 ち落せないのです。けれど、「精神」で撃ち落すと最高責任者が言ってしまったら、撃
 ち落せない時、その理由は、高射砲の性能の限界でも、アメリカ機の高性能でもなく、
 「精神」になってしまいます。高射砲が届かない高高度をB29が飛び、どうしても撃
 ち落せない時、おまえの「精神」が弛んでいるからだと責める理由を与えてしまうので
 す。ここから、「命令した側」が特攻までたどり着くのは、じつに早いと思います。
 「精神」さえあれば、レーダー網を突破し、何百機というアメリカ機をかいくぐり、正
 規空母を撃沈できるんだ、という論法が出てくるのです。 
・「特攻は自分の責任ではない、現場で自然発生的に生まれたものだ、海軍では、それは
 大西中将の発案なのだ」と戦後、自己弁護を続けた司令官達が多くいました。けれど、
 大西中将が神風特別攻撃隊の編成を命令する以前から、組織として特攻兵器の生産に、
 海軍中枢が関わり、決定を出していることがやがてわかってきました。海軍は、桜花も、
 回天も、大西中将が特攻の決定を下す数カ月前からプロジェクトをスタートさせていま
 した。
・おそらく、「精神で撃ち落す」と東條首相が答えた時、周りにいた多くの生徒も飛行学
 校関係者もハッとして感動したはずです。そうだ、気持ちだ、気概だ、気迫だ、それが
 一番大切なことなのだと。けれど、「精神」を語るのは、リーダーとして一番安易な道
 です。職場の上司も、学校の先生も、スポーツのコーチも、演劇の演出家も、ダメな人
 ほど、「心構え」しか語りません。心構え、気迫、やる気は、もちろん大切ですが、そ
 れしか語れないということは、リーダーとして中身がないのです。本当に優れたリーダ
 ーは、リアリズムを語ります。現状分析、今必要な技術、敵の状態、対応策など、です。
 今なにをすべきか、何が必要かを、具体的に語れるのです。
・組織の長としてある事案に向き合い、賛成する人も反対する人もいて、けれど、とにか
 く結論を導き、ある決定を出さなければいけない、という意味では構造は同じだと考え
 るのです。会社の上司も教育現場の管理職もスポーツチームの監督も同じ苦悩を持って
 いると思います。「精神」だけを語るのはとても簡単なのです。けれど、自分達を分析
 し、相手を分析し、必要なことを見つけ出すことがリーダーの仕事なのです。それがで
 きなければ、リーダーではないのです。
・1945年2月、木更津の海軍航空基地で、連合艦隊司令部により作戦会議が行われま
 した。そこで、赤トンボと呼ばれた「九三式中間練習機」を特攻に投入することが発表
 されました。「全軍特攻化」ですから、練習機といえども特攻すると決めたのです。赤
 トンボは、翼はもちろん羽布張りの複葉機で、最大速度が200キロほどです。迎え撃
 つグラマンはおよそ600キロ。零戦による爆装特攻でさえ、成功が難しくなっている
 のに、動きが遅く、防御装置もほとんどない練習機の特攻は、どう考えても、いえ、航
 空のプロであればあるほど、無意味であるとしか思えませんでした。が、集められた航
 空部指揮官達は、参謀の言葉をただ黙って聞くだけでした。
・すると、末席にいた29歳の美濃部少佐が立ち上げりました。階級として、この会議で
 は一番下位の飛行隊長でした。「劣速の練習機まで狩り出しても、十重二十重のグラマ
 ンの防御陣を突破することは不可能です。特攻のかけ声ばかりでは勝てるとは思えませ
 ん」全軍特攻化の説明をした参謀は、意外な反論に色をなして怒鳴りつけました。「必
 死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!」それに対して、
 美濃部少佐はなんと答えたか。「私は箱根の上で零戦一機で待っています。ここにおら
 れる方のうち、50人が赤トンボに乗って来てください。私が一人で全部たたき落とし
 て見せましょう」同席した生出少尉が「誰も何も言わなかった。美濃部の言う通りだっ
 たから」と報告しています。   
・美濃部少佐は、芙蓉部隊という夜間攻撃専門の部隊の隊長でした。厳しい訓練で知られ、
 「これができなければ、特攻に出すぞ」と部下を叱咤しました。大西中将の部下でした
 が、徹底して特攻を拒否、部下も誰も特攻に出しませんでした。その代わり、夜間襲撃
 の激しい訓練を積み、芙蓉部隊は確実な戦果を挙げました。
・けれど、この後も練習機を含む「全機特攻化」は続いたのです。それでも、美濃部少佐
 の存在と勇気ある発言は、海軍におけるひとつの希望だったと僕は思っています。あの
 時代に、「精神力」だけを主張する軍人しかいなかったわけではない、心の中で反論す
 るだけではなく、ちゃんと声を挙げた軍人がいたんだと知るだけで、僕は日本人の可能
 性を感じるのです。   
・77歳になった美濃部元少佐は、「ああいう愚かな作戦をなぜ考え出したか、私は今で
 もそれを考えている。特攻作戦をエモーショナルに語ってはいけない。人間統帥、命令
 権威、人間集団の組織のこと、理性的につめて考えなければならない。あの愚かな作戦
 と、しかしおあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解し
 なければならない。私は、若い搭乗員達に特攻作戦の命令を下すことはできなかった。
 それを下した瞬間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ。そ
 んなことは私にはできないし、してはいけないとの覚悟はあった」と述べていたとのこ
 とだ。 
・当時は非常事態だった、以上の状況だったから、異常の措置を取ったのだ、という言い
 方で特攻を弁護する人は多いです。それに対して「つらい真実」の著者の小沢氏は、次
 のように言っている。
(1)戦争が異常な状態であることは確かであるが、軍人とはその異常な状況に備えて養
   成され、一般人を見下すだけの社会的優遇を受けていたのではないか。戦争のプロ
   ではないのか、勝ち戦しかプロは考えなかったのか。 
(2)戦況が異常な不利であったことも確かである。が、そのような状況で、平静に、ム
   ダな被害を減少する方策を把握するのがプロの軍人、特に将たる者の存在意義では
   ないのか、参謀達の役割ではないのか。火事が燃えさかるとき、一般人同様に慌て
   ふためく消防士にプロの資格はない。
(3)ましてや、見通しもなく、一般人(予備学生)に消火作業を命じ、最も危険な個所
   に行けというならば、どうであろうか。
(4)最初の見通しの誤りは仕方がないとも言える。が、効果がなくなっているのに、強
   行させたことは許せない。それは「異常な」愚かしさである。    
(5)愚行を反省もせず、もちろん謝罪もせず、正当だった、仕方なかった、と戦後まで
   言い張ることは、死者への鎮魂になるであろうか。「異常」への責任回避や責任転
   嫁は、それをする人の名誉を守りはしないだろう。勝ち戦さの功績は自分達のもの
   とし、悲劇の責任は「異常」と言ってすむなら、軍人くらい気楽な職業は世の中に
   あるまい。
・1945年8月2日、奥日光に疎開していた明仁皇太子が、戦況の見通しを説明に来た
 陸軍中将に対して、「なぜ、日本は特攻隊戦法をとらなければならないの」と質問した
 というエピソードがある。この時、中将はかなり困った顔をしたものの、すぐに気を取
 り直し、次のように答えた。「特攻戦法というのは、日本人の性質によくかなっている
 ものであり、また、物量を誇る敵に対して、もっとも効果的な攻撃方法なのです」    
・現代の日本人は「中途半端な壊れた世間」に生きている。「世間」とは「現在、および
 将来においてなんらかの利害・人間関係がある、または生まれる可能性のある人達」の
 ことです。現在も将来も関係のない場合は、「社会」です。道ですれ違った人や、居酒
 屋で隣のテーブルで飲んでいる人や、お店の知らない店員などのことです。「世間」の
 代表的なものは、明治時代までの村落共同体でした。人々は村の中で生活し、村の掟に
 従って生きていました。村の掟に背こうとすると「世間に顔向けができない」とか「世
 間さまが許さない」という強力な圧力が働きました。 
・もともと、村という「世間」が一番、重要視したのは、「水利」でした。稲作や野菜作
 りのために、水を村全体でどう分けるか。 
・古来、アジアの稲作文化では、水を求めて個人が争うのではなく、集団を形成し、集団
 の合意で生活を守っていました。田植えの時期や取り入れの時期、主要な働き手が体を
 壊して動けない家があると、村全体でカバーしました。「世間」というシステムがちゃ
 んと機能していたのです。それは、裏切らない限り信者を支える一神教の強さと同じで
 した。人々は、「世間」の中でしか生きていませんから、周りの村人は「他人」ではな
 く「仲間」でした。どんなにひどいことを言われても、それは、「巡り巡ればあなたの
 ことを思っている」アドバイスだと考えられました。 
・「社会」では、こうはいきません。「社会」における相手への厳しい忠告は、ただ自分
 のメリットのためです。ただ一度、出会っただけの人や二度と交流する予定のない人に
 対しての言葉は、相手のことを考えているわけではありません。それによって、「社会」
 がどうなるかということを考える必要もないのです。
・「世間」は違います。「村全体が健全に機能」して初めて「一人一人が幸福になる」と
 いう前提でしたから、相手に対する厳しい忠告も、「村全体」のことを考えることが必
 要になります。結果的に、どんなに厳しくても、それは「あなたのため」でもあったの
 です。  
・「社会」は、いわば、近代合理主義・資本主義のためには必要な考え方でした。取引す
 る相手がすべて「お得意さん」と「お馴染みさん」で、お互いが大儲けもせず、大損も
 せず、持ちつ持たれつの関係を続けるのが「世間」です。けれど、たった一回の取り引
 きで結果を出し、相手とは二度と交渉しないかもしれない、というのは「社会」の考え
 方です。
・明治時代、「世間」しかなかった日本に、明治政府はなんとか「社会」を定着させよう
 としました。「村の決定」を一番にしている間は、徴兵制度や裁判制度や教育制度とい
 う近代合理主義の国家機能が成立しないからです。知らない相手と協同活動を成立させ
 るためには、「社会」という「自分と関係ない人」を交渉相手にすることを当たり前に
 しなければなりませんでした。ですが、「社会」を定着させようとする上からの改革は、
 国民の本質の部分を簡単に変えることはできませんでした。
・「世間」あ、いくつかの特徴があります。例えば、村落共同体がずっと続いていたよう
 に、「共通の時間を生きている」ということです。「いつもお世話になっています」と
 いう、英語に翻訳不可能なビジネスの挨拶は、「あなたと私は共通の時間を生きていま
 す」という表明です。  
・明治政府は産業構造を変え、人々を村という「世間」から殖産興業のかけ声とともに企
 業という「社会」に移そうとしました。けれど、日本企業の中では、「終身雇用制」と
 いうシステムによって、「共通の時間意識」という「世間」のルールが生きて続けたの
 です。 
・いくつかの「世間」の特徴をまとめると、「世間」は「所与」のものだと日本国民は考
 えていることがわかります。つまり「初めから与えられたもの」という認識です。いろ
 んな社会的なシステムに対して、日本人は、自分の判断とは関係なく、初めからそこに
 あるものと考えているのです。初めからそこにあるので、自分がどうこうできるもので
 はない、と当然のように考えるのです。 
・日本人は集団への所属意識が強いという意味で、集団依存主義に傾くのだが、またそれ
 と平行して運命への従属と依存を感じる運命依存主義の傾向も持ち合わせている。ここ
 に運命共同体意識が生まれる。 
・日本人の自我構造の特徴の一つは、自分の所属する集団の目標活動と内部の人間関係に
 深い親和感を持ち、自分の自我を集団と一体化させ、そこに「集団我」とでも呼ぶべき
 部分を形成することである。集団との一体化は、先にあげた集団依存主義と運命依存主
 義とに結びつき、集団の運命と個人の運命とを同一視する意識を生む。これが運命共同
 体意識であり、集団を運命共同体として受けとる意識である。
・日本人が「集団我」というものを持ちやすい国民なのは、アジア型の農耕社会で「世間」
 が生まれ、孤立した島国という地理的要因で、異文化の侵略を受けにくかったという理
 由だと思います。だから、東南アジア型の「世間」よりもはるかに強固な「世間」が形
 成されたと考えられます。中国や中国の近隣諸国のように、何度も異国に侵略され、文
 化的に蹂躙された経験があれば、「世間」は所与のもだとは思わなかったはずです。与
 えられたシステムは自分達が求めたものではないので、変革すべきだと戦ったはずです。
 けれど日本では、違う言語を話す異文明に蹂躙された経験がないので、「世間」は所与
 のものだと思うことが当たり前になり、集団依存主義と運命依存主義が生まれたのです。
・神に問いかけるのは、信じられないことが少数回起こるからです。突然、愛する人が死
 んだとか、侵略されて国民全体が捕虜になったとか、未曾有の大洪水が起こったとか、
 一回または少数回の深刻なことだからこそ、深く神と対話しようと思うのです。けれど、
 自然が豊かで、それゆえに自然災害が多い日本という国では、山には山神がいて恵みと
 災いを人々に与え、海には海の神がいて恵みと災いを、川の神も雷の神も雨の神もいる
 と思わなければ、たった一つの神がこんなに試練を与えるという考え方は、受け入れら
 れなかったのではないでしょうか。  
・毎年の台風や日照り、地震が、たったひとつの神による日本人に対する試練なら、日本
 人はどんなにひどいことをして、罰を受けることが当然の民族なのかと混乱するはずで
 す。たくさんの神がいて、それぞれに活動するから、毎年の自然災害は受け入れられた
 のだと思います。そして、だからこそ、強力な一神教が生まれなかったのです。
・日本人は与えられたものを受け入れる。それが美徳だと思われている。「世間」が機能
 していた時代には、どんなことを言われたり命令されても「巡り巡ればあなた自身のた
 め」だという信頼があった。その記憶が、例えば、私達日本人が「人に頼みを断る時」
 に感じる苦悩の源泉ではないかと僕は思っています。欧米人の断り方との一番の違いは、
 相手の申し出やアドバイスを否定したり断ったりする時、日本人は原罪にも似た痛みを
 感じることです。欧米人のように、にっこりと微笑みながら、気楽に断ることがなかな
 かできない理由はこれだと思っているのです。逆に言えば、私達日本人は、自分が生き
 る「世間」の中で、精一杯、その世間に相応しい人間として振る舞おうとするのです。
・「命令した側」からすれば、「世間」の「所与性」とは、「現状維持が目的」というこ
 とになります。ずっと続いていることを、無理に止めることはない。自分はそれを止め
 る立場にはない。そもそも、続いていることは、止めることより、続けることの方が価
 値があるのだ、という思う込みが「所与性」の現れです。「世間」の中に生きている自
 分は、「世間」の掟を変える立場にないと、みんな思うのです。   
・僕は毎年、夏になると、「いったいいつまで、真夏の炎天下で甲子園の高校野球は続く
 のだろう」と思います。地方予選の時から、熱中症で何人も倒れ、脱水症状で救急搬送
 されても、真夏の試合は続きます。10代の後半の若者に、真夏の炎天下、組織として
 強制的に運動を命令しているは、世界中を見ても、日本の高校野球だけだと思います。
 好きでやっている人は別です。組織として公式に命令しているケースです。重篤な熱中
 症になって、何人が死ねば、この真夏の大会は変わるのだろうかと僕は思います。
・僕は「命令された側」の高校球児を尊敬し、感動します。もちろん、大変だなあと同情
 しますが、けなしたり悪口を言うつもりはまったくありません。問題にしたいのは「命
 令した側」です。ですが、怒る人は、「命令した側」と命令された側」を混同するので
 す。「命令した側」への批判を、「命令された側」への攻撃だと思うのです。その構図
 は、「特攻隊」の時とまったく同じです。
・けれど、いつものように、炎天下の試合は続きます。甲子園大会は所与のものだからで
 す。昼の12時から3時までは試合を休止しようとか、ナイターをスケジュールにいれ
 ようとか、そもそも真夏を外して秋にしようとか、そういう提案を主催者側がしている
 という話を僕は聞いたことがありません。大人達は、誰も言い出さないまま、若者達に
 命令するのです。それもまた、とても、特攻隊の構図と似ていると感じます。
・そして、高校野球だけが問題なのではなく、みんななんとなく問題だと思っているのに、
 誰も言い出さないから「ただ続けることが目的」となっていることが、この国ではとて
 も多いのじゃないかと僕は思っているのです。    
・論理的に分析して、何が必要かを堂々と言えるようになりたいと思います。少なくとも、
 「夏を乗り切るのは根性だ!」とか「死ぬ気でやれ!」とか、精神論だけを語る人間に
 はなりたくないと思うのです。
・特攻隊員の外面を見て淡々として征ったとか、笑顔で征ったと言うが、それは慰め言葉
 であって、けっして真実を伝えていない。特攻攻撃はそんな淡白なものではない。生き
 とし生ける者が、生死について、もう一人の自分との果てしない抗争という地獄を体験
 したうえで、どうにもならな諦めの心境で、最後の修羅場へ飛び込んでいったのである。
 そういう人が多かったということをぜひ知ってほしい。
・「命令した側」と「命令を受けた側」と、もうひとつ「命令を見ていた側」があったと
 いうことです。一般論で語れば、どんな社会的な運動も「当事者」より「傍観者」の方
 が饒舌になります。思い入れを熱く語るのは、当事者になれなかった傍観者、または当
 事者になりたかった傍観者です。当事者は、思い入れがありすぎて、自分の体験が整理
 できなくて沈黙しがちになります。特攻体験はもちろんですが、「学生運動体験」も
 「新興宗教体験」も、熱く語るのは、運動や組織の周辺にいた傍観者で、当事者は抱え
 込むのです。けれど、真実は当事者の言葉の中にあるのです。重い口を開いて語る当事
 者の思いが、歴史の闇に光を当てるのです。 
・南スーダンでの駆け付け警護への参加に対して、「1熱望する 2命令とあらば行く 
 3行かない」という三択で、3に丸をつけると、個人的に上司に呼ばれて「なんで行か
 ないんだ?」とえんえん問い詰められたと、匿名の自衛隊員は語っていました。そして、
 結局、2と答えたと。1944年と2016年が一気につながった瞬間でした。
 
おわりに
・21歳の若者が、絶対的な権力を持つ年上の上官の命令に背いて生き延びることを選ん
 だ。それがどんなに凄いことなのか。多くの日本人に、こんな特攻隊員がいたことを知
 って欲しい。