永遠の0(ゼロ)  :百田尚樹

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この物語は、ひとりの零戦パイロットの物語である。妻を愛し子どもを愛したひとりの零
戦パイロットが、悲惨な状況に置かれる中で、家族のために生きて帰ると、必死に戦った。
同僚からから「臆病者」と嘲られようと、上官から殴られようと、自分の信念を曲げずに、
組織の論理にひたすら立ち向かう。彼にとって、敵はアメリカ軍だけではなく、日本軍と
いう組織そのものが敵だった。組織の暴走、組織の理不尽さそのものが敵だった。
当時の軍隊というところは、徹底した身分階級があるところだったらしい。そしてこの身
分階級というのは、現代社会の組織の中においても、未だににその残像が残っている組織
が多いような気がする。その典型的なのは公務員組織ではないだろうか。高級公務員の中
には、「自分は選ばれた者」という意識が強く、自分の高級公務員という立場を「身分」
と思っている高級公務員が多いのではないかと感じる。まさに昔の軍隊の士官の意識と同
じである。
そもそも組織というものには、少なからず昔の軍隊と同じような面が内在する気がする。
組織は、それを構成しているひとりひとりの人格は無視する。組織は、それを構成する人
のためにあるのではなく、組織のための組織だからである。そしてその組織とは、その組
織内で権力を握っている一部の上層部そのものである。そして組織は時々暴走する。組織
は効率的ではあるが、非常に怖い面を持っている。これは当時の軍隊に限らず、現代の企
業などでも言える気がする。
この本を読むと、当時の軍部の上層部の人たちは、アメリカと戦っていたというよりも、
自分たちの組織内での出世争いをしていただけというふうにも感じる。当時の軍幹部たち
が戦況にかかわらず、ひたすら強気一点張りの態度を取り続けたというのは、組織内での
出世競争で、不利になりたくないという意識から出ているような気がする。一般国民は、
そのような出世競争の犠牲になったのではないのか。
そんな組織の中において、組織のためではなく、自分の家族のために生きて帰ろうと戦う
男の生き様は、涙なしでは読み進められない。男の無念さで胸が押しつぶされる。この男
の生き様が、真の男の生き様だと思う。

プロローグ
・初めてカミカゼを見たときやってきた感情は恐怖だった。こいちらに地獄の底まで道連
 れにされると思った。日本人は次から次へとカミカゼ攻撃で突っ込んでくる。俺たちの
 戦っている相手は人間ではないと思った。死ぬことを怖れないどころか、死に向かって
 突っ込んでくるんだ。こいつらには家族がいないのか、友人や恋人はいないのか、死ん
 でも悲しむ人がいないのか。
・やがて恐怖も薄らいだ。次にやってきた感情は怒りだった。神をも恐れぬ行為に対する
 怒りだった。いや、もしかしたら恐怖を与えられた復讐心から出たものかもしれない。
・最初の恐怖が過ぎると、ゲームになった。我々はクレー射撃の標的を撃つようにカミカ
 ゼを撃ち墜とした。奴らはたいてい浅い角度で突っ込んでくる。その頃の日本軍パイロ
 ットは新人ばかりで、深い急降下で突っ込んで来られる奴はほとんどいなかった。
・しかしカミカゼを撃つのも次第に辛くなってきた。標的はクレーじゃない、人間なんだ。
 もう来ないでくれ!何度そう思ったかわからない。しかし、やって来れば撃つ。そうし
 てないと俺たちが死ぬからだ。

臆病者
・我々は日本という国が滅ぶかどうかという戦いをしていたんだ。たとえわしが死んでも、
 それで国が残ればいい、と。
・人類の歴史は戦争の歴史だ。もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう。そんなことは誰も
 わかっている。だが誰も戦争をなくせない。
・あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては
 関係ない。戦場に出れば、目の前の敵を討つ。それが兵士の務めだ。平和や停戦は政治
 家の仕事だ。
・あれは本当に素晴らしい戦闘機だった。米英機も、零戦にはまったく歯が立たなかった。
 格闘戦で旋回戦に入ると、苦もなく後ろにつくことが出来た。零戦はまさに戦いの申し
 子のような飛行機だった。
・弾というものはなかなか当たるものではない。訓練では百メートルの距離で撃てと教え
 られていたが、実戦になると、たいていの者は恐怖心から二百メートル以上離れている
 距離から打ち出す。これでは当たらない。わしはいつも五十メートル以内に近寄って撃
 つ。
・空の洗浄は地面の上とはまったく違う。一旦敵味方の飛行機が入り乱れて乱戦になると、
 もうどいつが敵か味方かもわからない。ある意味、平地の戦場よりも恐ろしい。空の上
 では塹壕などというものはない。全部がむき出しだ。敵は前後左右どころが、上下にも
 いるのだ。
・飛行機乗りにとっては、「死」ほど身近なものはない。操縦訓練生の時から、「死」は
 常に隣り合わせにあった

真珠湾
・零戦の正式名称は三菱零式艦上戦闘機です。零戦は素晴らしい飛行機でした。何より格
 闘性能がずば抜けていました。すごいのは旋回と宙返りの能力です。非常に短い半径で
 旋回できました。だから格闘戦では絶対に負けなかったわけです。それに速度が速い。
 おそらく開戦当初は世界最高速度の飛行機だったのではないでしょうか。つまりスピー
 ドがある上に小回りが利くのです。本来、戦闘機においては、この二つは相反するもの
 でした。格闘性能を重視すると、速度が落ち、速度を上げると格闘性能が落ちます。し
 かし零戦はこの二つを併せ持った魔法のような戦闘機だったのです。
・しかし零戦の真に恐ろしい武器は実はそれではありません。航続距離が桁外れだったこ
 とです。三千キロを楽々と飛ぶのです。当時の単座戦闘機の航続距離は大体数百キロで
 したから、三千キロというのがいかにすごい数字か想像がつくでしょう。
・当時は結婚を大げさには受け取りませんでした。というより結婚はするものだと思って
 いました。なんのためにとは考えたことはありません。
・我々は、攻撃中に被弾して帰還が困難と思われた時には自爆せよと命じられていました。
 生きて虜囚の恥ずかしめを受けずと教えられていました。
・人は人間社会で生きていくのに多くの本能や欲望を制御して生活していくように、軍人
 は「生きたい」という欲望をいかに消し去ることが出来るかが大切だと思っています。
 命が助かることを第一に考えていたら戦闘は成り立ちません。
・今ならわかることがあります。搭乗員の身内にとっては、大勝利の喜びよりも、家族が
 亡くなった悲しみの方がはりかに大きかったということが。何千人が玉砕した戦闘であ
 っても、あるいはたった一人の戦死者を出した戦闘であっても、遺族にとってみれば、
 他にかけがえのない家族を失ったことは同じなのです。何千人の玉砕の場合、そうした
 悲劇の数が多いだけで、個々の悲劇はまったく同じなのです。しかしその時はわかりま
 せんでした。
・私には妻がいます。妻のために死にたくないのです。自分にとって、命は何よりも大事
 です。
・あの頃、私たち搭乗員は非日常の世界を生きていました。そこはすでに条理の世界では
 ありませんでした。死と隣り合わせの世界というか生の中に死が半分混じり合った世界
 で生きていたのです。死を怖れる感覚では生きていけない世界なのです。彼は戦争の中
 にあって日常の世界を生きていたのです。戦後、復員して結婚し、家族を持って初めて、
 彼が妻のために死にたくないという思いが理解できるようになりました。
・我々は、宣戦布告と同時に真珠湾を攻撃すると聞かされました。しかしそうはならなか
 ったのです。理由はワシントンの日本大使館職員が宣戦布告の暗号をタイプするのに手
 間取り、それをアメリカ国務長官に手交するのが遅れたからですが、その原因というの
 が、前日に大使館職員たちが送別会か何かのパーティーで夜遅くまで飲んで、そのため
 に当日の出勤が遅れたからだといいます。  
・当時、アメリカは日本に対して強い圧力をかけていましたが、国内世論は逆に戦争突入
 は反対だったといいます。我々が戦前聞かされていたのは、アメリカという国家は歴史
 もなく、民族もバラバラで愛国心もなく、国民は個人主義で享楽的な生活を楽しんでい
 るというものでした。我々のように、国のため、あるいは天皇閣下のために命を捧げる
 心はまったくないのだ、と。山本長官は緒戦で太平洋の米艦隊を一気に叩きつぶし、そ
 んなアメリカ国民の意気を完全に阻喪せしめようとしたのです。 
・卑劣なだまし討により、アメリカの世論は、「リメンバー・パールハーバー」の掛け声
 とともに、一夜にして「日本撃つべし」と変わり、陸海軍にも志願者が殺到したという
 ことです。 
・戦術的にも大成功だったかと言えば、実なそうとも言えなかったのです。それは第三次
 攻撃隊を送らなかったことです。我が軍はたしかに米艦隊と航空隊を撃滅しましたが、
 ドックや石油備蓄施設、その他の重要な陸上施設を丸々無傷で残したのです。これらを
 完全に破壊しておれば、ハワイは基地としての機能を完全に失い、太平洋の覇権は完全
 に我が国のものとなっていたでしょう。
・その後、太平洋の至るところで、日本海軍は何度も決定的なチャンスを逃がしますが、
 これらはすべて指揮官の決断力と勇気のなさから生じていると思います。
・長い間、世界は「大艦巨砲主義」の時代で、海戦というものは戦艦同士の戦いで決着が
 つくと考えられていました。戦艦こそ史上最強の兵器であり、制海権を得るには強大な
 戦艦が必要と考えられていたのです。あの大英帝国が世界を制したのも強い戦艦を何隻
 も持っていたからです。
・空母の登場は第一次世界大戦後です。ただ、その頃の飛行機は複葉機で、空母も補助的
 な役割を担う艦にすぎませんでした。飛行機による攻撃の有効性は一部で言われていま
 したが、小型艦船は沈めることはできても、戦艦などの大型艦を沈めることは不可能と
 考えられていました。しかしその後の航空機の驚異的な発達により、いつのまにか空母
 の力が増していたのです。これを世界に証明したのが、開戦劈頭の真珠湾攻撃です。航
 空機の攻撃だけで戦艦を一挙に五隻も沈めてしまったのです。この瞬間、何百年もの間、
 制海権を巡る戦いの主役であった戦艦は、その座を空母に譲ったのです。
・もはや日露戦争のような戦艦同士の艦隊決戦は起こりえないこととなりました。真の艦
 隊決戦は空母同士の戦いとなったのです。当時、我が軍の正規空母は六隻、対する米太
 平洋艦隊の空母は五隻でした。
・当時、搭乗員の技量が一番高いのが「赤城」と「加賀」に属する第一航空戦隊と言われ
 ていました。日本軍の空母四席が一挙に沈められました。海軍の誇る最強部隊である一
 航戦の「赤城」「加賀」、二航戦の「飛龍」「蒼龍」の四隻です。戦後になって、ミッ
 ドウェーの敗北の原因をいろいろ本で読んで知りました。すべては我が軍の驕りであっ
 たようです。   
・ハワイ沖に米空母部隊の出撃を知らせるための潜水艦部隊を配備することになっていま
 したが、実際に配備されたのは、既に米空母がハワイに出た後でした。
・五航戦の任務は陸軍上陸部隊の輸送船団護衛にあったのです。しかし空母戦のあと、井
 上成美長官は輸送船団を退却させました。敵機動部隊は既にはるか後方に避退していた
 にもかかわらず、それを怖れて作戦を中断したのです。結果として、第一線で勇敢に戦
 った兵士たちの努力を無にするような決断でした。このために、後に陸軍はポートモレ
 スビー攻略のために兵隊たちに片道分の食料しか持たせず、陸路でオーエスタンレー山
 脈を越えるという無謀極まりない作戦を決行し、何万人という犠牲を出しています。
・ミッドエェーでは五航戦は参加しませんでした。珊瑚海海戦で翔鶴が損傷し、大量に飛
 行機と搭乗員を損失したからです。しかもこれもおかしいと思います。少なくとも「瑞
 鶴」は無傷だったわけですし、飛行機の補充も何とかなったはずです。連合艦隊司令部
 の本音は、何も全部の空母を使うことはありまいというものだったのでしょう。  
・ここらあたりが米軍とまったく違っていました。米軍は修理に一ヵ月はかかるという
 「ヨークタウン」を三日間の応急修理で間に合わせ、ミッドウェーの海戦に参加させて
 いたのです。艦内はまだ修理の工員が多数いたといいます。
・我々はアメリカ人というものは陽気なだけの根性のない奴らと思っていましたが、そう
 ではなかったのです。彼らはガッツというものを持っていました。
・突然、甲板上に待機していた攻撃機の魚雷を陸上用爆弾にする換装が始まったのです。
 どうやら、ミッドウェー島の二次攻撃をやることに急遽決まったようです。それまでは
 敵機動部隊に備えて、攻撃機は艦船攻撃用に雷装されていたのですが、索敵状況から敵
 機動部隊は周辺にいないとみて再び陸上基地攻撃に作戦が変更になったのでしょう。今
 して思えば、これが第一の油断です。  
・ようやく換装が終わった頃に、索敵機から、何と敵機動部隊らしきものを発見したとい
 う情報が伝わってきました。ところが飛行甲板上の攻撃機には陸上攻撃用の爆弾がつけ
 られています。何と間の悪いことでしょう。南雲司令長官は、再び陸上用爆弾から魚雷
 への再換装を命じました。全空母が一斉に爆弾から魚雷への転換を始めました。今しが
 た終えたばかりの作業をもう一度繰り返すわけです。
・戦後になって、この時のことが「運命の五分間」と言われて有名になりましたね。あと
 五分の猶予があれば、我が方の攻撃隊は全機、換装を終えて発進していただろうから、
 仮に同じような爆弾を受けたとしても、甲板上の爆弾の誘爆は避けられたから、空母は沈
 むことはなかったであろうと。そして我が攻撃隊は必殺の攻撃で、敵空母を海の藻屑に
 してしまっただろうと。だから、あれは運が悪かったのだと。しかしそれは嘘です。敵
 の急降下爆撃を受けたとき、換装終了までは程遠かったのです。あとどれぐらいで換装
 が終わったのかはわかりませんが、少なくとも「五分」などということはありません。
・歴史にタラレバはありません。あの戦いも運が悪かったわけではありません。やろうと
 思えば、もっと早く発進できたはずなのです。陸上用の爆弾でも何でも、先に敵空母を
 叩いてしまえば良かったのです。それをしなかったのは驕りです。 
・またこの時、米軍の雷撃機は護衛戦闘機なしでやってきました。雷撃機が護衛の戦闘機
 なしで攻撃するなど、自殺行為です。現実に零戦にすべて落とされました。しかし結果
 として、それが囮の役目になりました。母艦直衛の零戦は雷撃機に気を取られ、上空の
 見張りがおろそかになりました。その間隙を突かれ、遅れてやってきた急降下爆撃機に
 やられたのです。  
・これはたしかに運が悪かったと言えますが、私にはそうは思えません。後に知ったこと
 ですが、戦闘機の配備が間に合わなかったにもかかわらず、準備の整った攻撃機から順
 次送り込んだというのです。私はこの時の米軍の雷撃機の搭乗員たちの気持ちを考える
 と胸が熱くなります。彼らは戦闘機の護衛なしに攻撃するということがどんなことがわ
 かっていたはずです。「ゼロ」の恐怖を十分に知っていたはずです。自分たちはまず生
 きて帰れないだろうと覚悟したに違いありません。にもかかわらず彼らは勇敢に出撃し
 ました。そして必死に我が空母に襲いかかり、零戦の前に次々と墜とされていきました。
 しかしその捨て身の攻撃が、母艦直衛機の零戦を低空に集めさせ、急降下爆撃機の攻撃
 を成功に導いたのです。私はミッドウェーの真の勝利者は米軍雷撃隊ではないだろうか
 と思います。
・国のために命を捨てるのは、日本人だけではありません。我々は天皇閣下のためという
 大義名分がありました。しかしアメリカ人は大統領のために命は捨てられないのでしょ
 う。でも彼らは何のために戦ったのか。それは真に国のためだったということではない
 でしょうか。そして実は我々日本人もまた、天皇閣下のために命を懸けて戦ったのでは
 ありません。それはやはり愛国の精神なのです。
・ただ一つ、我が方にも褒めてやりたいものがあります。それは四隻の中でたった一隻、
 敵の攻撃から逃れた「飛龍」の奮戦です。「飛龍」は三隻の空母がやられた後、二航戦
 の司令官、山口多聞少将に率いられ、文字通り孤軍奮闘で敵の三隻の空母と渡り合い、
 ついに「ヨークタウン」と刺し違えて沈んでいったのです。山口少将も「飛龍」と運命
 を共にしました。ちなみに山口少将は南雲長官の雷装変換に強く反対し、ただちに攻撃
 隊を発進させることを進言した人です。真珠湾の時も第三次攻撃隊を送ることを強く具
 申した人でした。
・航空母艦の戦いといえど、結局は人間同士の戦いだった。戦力データの差だけが勝敗を
 決めるのではない。勇気と決断力、それに冷静な判断力が勝敗と生死を分けるのだ。そ
 れにしても当時の兵士たちは何という非常な世界に生きていたのだろう。つい六十年前
 には、こんな戦いが現実の行われていたのだ。
・特攻で散った大奥の搭乗員は予備学生と若い飛行兵でした。陸海軍は特攻用に彼らを速
 成搭乗員にして、体当たりさせたのです。一人前の搭乗員を育て上げるには最低でも二
 年はかかりますが、彼らは一年足らずで飛行訓練を終えました。体当たりするだけの搭
 乗員ならそれでいいということだったのでしょう。
・戦術的には、熟練搭乗員を一回の特攻で殺してしまうのはもったいない話です。熟練搭乗
 員たちは、特攻機が敵艦隊に到着するまでの護衛の役目が与えられたのです。それに、
 熟練搭乗員には本土防空の役目もありました。しかし終戦間際にはもう敗北は決定的で
 したし、一億玉砕、全機特攻という空気が作られていましたから、彼のようなベテラン
 にも特攻出撃命令があったのでしょうね。
・我々の世代は愛などという言葉を使うことはありません。それは彼も同様です。彼は、
 妻のために死にたくない、と言ったのです。それは私たちの世代では、愛しているとい
 う言葉と同じでしょう。

ラバウル
・世界史的に見ても、組織だった自爆攻撃は非常に稀有なもので、かつてのカミカゼアタ
 ックと現在のイスラム原理主義による自爆テロの二つがその代表です。この両者になん
 らかの共通項があると考えるのは自然な考え方だと思います。現にアメリカの新聞では
 昨今の自爆テロのことをカミカゼアタックと呼んでいます。
・特攻員の手記を読みますと、多くの隊員が宗教的な殉教精神で自らの生命を捧げていっ
 たのが読み取れます。出撃の日を、大いなる喜びの日と書いた隊員もいます。でも、こ
 れは別に驚くに値することではないのです。戦前の日本は現人神の支配する神国でした
 から、若者の多くが国に殉ずる喜びを感じだのは当然かもしれません。
・いつの時代にも家族への愛はあります。しかし戦前は、天皇閣下は現人神であるという
 教育が行われ、多くの人たちがそれを受け入れていました。
・戦前の日本は、狂信的な国家でした。国民お多くが軍部に洗脳され、天皇閣下のために
 死ぬことを何の苦しみとも思わず、むしろ喜びとさえ感じてきかした。
・特攻隊員たちはそれほど特殊な人たちだったのでしょうか。ぼくには、そうではなくて、
 普通の日本人だったのではないかという気がします。たまたま彼らは飛行機のパイロッ
 トだっただけなので、普通の人たちと同じだったのではないでしょうか。
・当時、零戦に無線機は積まれていましたが、これはまったく役に立たないものでした。
 私たちは以心伝心で戦っていたのですが、それには限界があります。あの頃、いい無線
 機があれば、ずっと楽な戦いが出来たことでしょう。
・実は海軍の撃墜王のほとんどは兵隊からの叩き上げで、予科練や操練出身の下士官搭乗
 員です。海兵出の士官が操縦技術や空戦技術で下士官にかなうわけがありません。しか
 し中隊以上の編隊を組む分隊長の指揮官には必ず海軍兵学校出身の士官がつきます。実
 際には士官などよりも経験も豊富な下士官の搭乗員のほうが腕も判断力もあります。に
 もかかわらず、帝国海軍では、いくら腕があっても下士官には絶対に中隊以上の分隊長
 にはなれません。分隊長の判断の過ちで、まずい戦いになったことは枚挙にいとまがあ
 りません。
・空の上では、階級は何の意味も持ちません。経験と能力、それだけがものを言う世界で
 す。中でも経験というものは何にも代え難い大きな武器でした。しかし海兵出の士官た
 ちは経験もないくせにプライドだけは高く、我々下士官から学ぼうとはしませんでした。
・海軍航空隊における兵や下士官に対する冷遇はひどいものがありました。士官は宿舎も
 従兵付き個室で至れり尽せりですが、下士官以下は大部屋で雑魚寝です。それも宿舎は
 遠く離れていて、両者は、ほとんど交流がありません。食事も天と地ほどの開きがあり
 ました。同じ空の上で戦う搭乗員なのに、まるで違う境遇に置かれていたのです。もっ
 とも食事に関してだけは航空兵は恵まれていました。整備員や兵器員更はさらにひどい
 食事でした。要するに軍隊というところは、徹底した身分階級がある世界ということで
 す。
・ラバウルには慰安所がありましたが、慰安所も士官と下士官以下のものでは違っていま
 した。下士官や兵たちが相手にした慰安婦を士官が相手に出来るか、ということだった
 のでしょうか。 
・太平洋戦争の初期の零戦の力は圧倒的でした。格闘戦になれば絶対に負けないと言って
 も過言ではありません。敵のパイロットは勇敢で、零戦に対して真っ向から向かってき
 ましたが、それは自殺行為に等しいものでした。零戦の空中戦能力は抜群で、たいてい
 の敵機は巴戦に入って、三度旋回するまでに撃ち落とされました。巴戦というのは、互
 いに相手の後方につこうとぐるぐる回りながら戦うことです。向こうでは「ドックファ
 イト」と言うらしいですね。
・零戦は本当に無敵の戦闘機でした。連合軍には零戦と互角に戦える戦闘機がなかったの
 です。これは敵が零戦との戦い方を知らなかったせいもあります。零戦と格闘戦で勝て
 る戦闘機は存在しません。連合国軍はそれとは知らずまともに向かってきて、悲劇的な
 最後を遂げていったのです。
・多分日本という国を侮っていたということもあるでしょう。航空機というものはその国
 の工業技術の粋を集めたものです。三流国のイエローモンキーたちに優秀な戦闘機が作
 れるわけがないと思っていたのでしょう。たしかに当時の日本はまともな自動車さえ作
 れない国でした。ところが零戦はそんな三流国が生み出した奇跡の戦闘機だったのです。
 若い設計者たちが死ぬほどの努力を重ねて作った傑作機でした。敵はそれを知らずに向
 かってきたのです。
・しかし零戦も不死身の戦闘機ではありません。撃たれれば火を噴くし、撃墜もされます。
 零戦の弱点は防御が弱いところです。正攻法の戦いではまず敗れることのない零戦でも、
 乱戦になれば流れ弾にあたることもありますし、目の前の敵機を深追いして別の敵に撃
 たれる時もあります。
・たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることができれば、また敵機を撃墜する機会はあ
 る。しかし、一度でも撃ち落とされれば、それでもうおしまいだ。
・「娘に会うためには、何としても死ねない」その顔は普段の穏和な彼からは想像もつか
 ないほど恐ろしい顔でした。その日以来、私の彼を見る目が変わりました。生き残ると
 いうことがいまに大切なものであるかということを百万の言葉より教えられた気がした
 のです。

ガダルカナル
・ガダルカナルこそ太平洋戦争の縮図だということがわかりました。大本営と日本軍の最
 も愚かな部分が、この島での戦いにすべて現れています。いや、日本という国の最も駄
 目な部分が出た戦場です。だからこそ、ガダルカナルのことはすべての日本人に知って
 もらいたい!
・大本営は翌月、ガダルカナル島の飛行場奪還のために陸軍兵士を送り込んだのです。こ
 れが悲劇の始まりでした。大本営は敵情報偵察もろくにせずアメリカ軍の兵力を二千人
 と見て、わずか九百人あまりの部隊を送り込んだのです。二千人という数字がどこから
 出てきたのか不明ですが、驚くのはその半分の兵力で島と飛行場を奪還できると踏んだ
 のです。ところが実際には米軍海兵隊の兵士は一万三千人もいたのです。突撃前夜、陸
 軍の上陸部隊はすでに勝ち戦の気分だったと言っています。
・この一戦が日本陸軍とアメリカ海兵隊との初めての対決でした。陸軍兵士たちは、腰抜
 けのヤンキーどもを皆殺しにしてやるという気分だったのでしょう。当時、私たちは、
 アメリカ人がいかに腰抜けで弱虫かということをさんざん教えられていました。あいつ
 らは家庭が第一で、国に帰れば楽しい生活が待っている。やつらは戦争が嫌いだし、何
 より命が大事と思っている国民だと。だから、本当に厳しい戦いになると、やつらは躊
 躇なく投稿する。捕虜になるくらいなら潔い死を選ぶという帝国軍人とは決死の覚悟が
 違う。だから戦って負けるわけがない、と。敵兵の半分の兵力で十分だと踏んだのもそ
 ういう先入観があったからでしょう。 
・しかし結果は、話すのも辛いことですが、一木支隊は最初の夜襲で全滅しました。米軍
 の圧倒的火力の前に、日本軍の肉弾突撃はまったく通用しなかったのです。日本陸軍の
 戦いの基本は銃剣突撃です。捨て身で敵陣に乗り込み、銃剣で敵兵を刺し殺して戦うと
 いう戦い方です。対する米軍は重砲、それに重機関銃と軽機関銃です。米軍は日本兵に
 向かって砲弾を雨あられと降らせ、白兵突撃してくる日本兵に機関銃を撃ちまくりまし
 た。こんな戦いで勝てるはずもありません。いったいなぜこんな愚かな作戦が実行され
 たのでしょう。参謀本部は何を考えていたのでしょう。戦国時代のような戦い方で米軍
 に勝てると判断した根拠がまったくわかりません。
・突撃した約八百人中七百七十七人が一夜にして死んだと言われています。一木隊長は軍
 旗を焼いて自決しました。米軍の死者は数えるほどだったといいます。一木支隊全滅の
 報を受けて、大本営は「それじゃあ」と送り込む兵隊を一挙に五千人にしました。これ
 ならいけるだろうと。しかし米軍はその上をいっていました。日本軍を撃退はしました
 が、今後、日本軍は前回にまさる兵力を送り込んでくるだろうと予想し、守備隊を一万
 八千人にまで増強していたのです。
・大本営の参謀たちの作戦はまったく場当たり的なものでした。最初は敵の兵力がどれく
 らいのものなのか調べようともせず、都合よく推算して、千人足らずの支隊で行けるだ
 ろうと、それで駄目だとなると、今度は五千人なら行けるだろうと安易な発想。これは
 兵力を逐次投入と言ってもっとも避けなければいけない戦い方です。大本営のエリート
 参謀はこんなイロハも知らなかったのです。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と
 いうのは有名な孫子の兵法ですが、敵も知らず戦おうというのですから、話になりませ
 ん。
・哀れななはそんな場当たり的な作戦で、将棋の駒のように使われた兵隊たちです。二度
 目の攻撃も日本軍はさんざんに打ち破られ、多くの兵隊がジャングルに逃げました。そ
 この後、大本営は兵力の逐次投入を繰り返し、その多くの兵士たちが、飢えに苦しめら
 れます。そして戦闘ではなく餓えで死んでいきます。
・結局、統計で三万人以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命を失いました。二
 万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは餓えで亡くなったのです。生きてい
 る兵士の体にウジがわいたそうです。いかに悲惨な状況だったかおわかりでしょう。ち
 なみに日本軍が「飢え」で苦しんだ作戦は他にもあります。ニューギニアでも、レイテ
 でも、ルソンでも、インパールでも、何万人という将兵が餓えで死んでいったのです。
・なぜ飢えるのか。軍が食糧を用意しないからです。日本陸軍は作戦計画にあるだけの食
 糧しか用意ぜずに兵士を戦場に送り込むのです。作戦計画の日数とは、つまりその日数
 で敵陣を奪い、その後の食糧はその陣地で奪えばいいし、また敵陣を乗っ取れば、その
 後から食糧は補充するという考え方です。食糧のない兵士たちはあとがないだけに死に
 物狂いで戦うだろうと踏んでいたのでしょうか。
・兵站は戦いの基本です。兵站というのは、郡たんの食糧や弾薬の補給のことです。戦国
 時代の武将たちが戦で最も重要視したのが兵站だそうです。ところが大本営の参謀たち
 はそんなことさえ考えなかったのです。彼らは皆、陸軍大学をトップクラスで出た超秀
 才です。当時の陸大のトップクラスは東大法学部のトップクラスにひけを取らなかっ
 たでしょう。
・ガダルカナルの海戦では緒戦に非常に大きなチャンスがあったのです。「第一次ソロモ
 ン海戦」と言われる海戦ですが、この戦いで三川軍一司令長官率いる第八艦隊は米巡洋
 艦の艦隊をほぼ完全に打ち破ったのです。日本海軍の得意とする夜戦による奇襲が成功
 したのです。しかし三川艦隊はただちに撤収しています。この時、更に突き進み、敵輸
 送船団を攻撃すれば、ほぼ完全に輸送船団を撃滅させることが出来たのです。巡洋艦
 「鳥海」の早川艦長は、輸送船団撃滅を目指して進むことを強く具申しますが、三川長
 官はそれを退けました。三川長官は米空母を恐れたのです。輸送船団を撃滅させても、
 朝になって米空母の艦載機の攻撃を受ければ、護衛戦闘機のない艦隊にとっては絶望的
 な戦いになると。しかし、実はこの時、ガダルカナルを支援しにやってきていた米空母
 三隻は「ガ島」を遠く離れていたのです。
・この時、敵輸送船団は重砲などはほとんど揚陸させておらず、三川艦隊が襲いかかれば、
 米輸送船団の多くの武器弾薬は海中に没することになったのです。そうなればその後に
 行われた一木支隊や川口支隊の戦いはまったく違った様相を呈していたことでしょう。
 第一線の将兵が命懸けで戦っているのに、司令部の弱気のせいで、こんなことになった
 のは本当に残念です。
・これも三川長官が第八艦隊の司令長官に赴任する際、永野軍令部総長が「我が国は工業
 が乏しいから、出来るだけ船を沈めないようにしてくれ」と言ったというのです。一体
 何という考え方でしょう。兵隊や搭乗員の命は簡単に捨て駒にするくせに、高価な軍艦
 となると後生大事にするとは。
・世界最大の軍艦「大和」はラバウルの北わずか千数百キロのトラック島に温存し、ガダ
 ルカナルにはついに一度も出撃しませんでした。山本長官以下司令部幕僚たちは軍楽隊
 が演奏する中で豪華な昼食を取りながら、第一線で戦う将兵たちに命令を下していまし
 た。水兵たちが「大和」をどう呼んでいたか知ってますか。「大和ホテル」です。しか
 し前線で戦う兵士たちは必死で戦いました。
・一体に帝国海軍は第一線で命を懸けて戦った者に卑怯に薄情です。海軍大学校出身の将
 校はどんなミスをしても出世していきますが、叩き上げの将兵が報われることは極めて
 少ない組織です。私たち、兵や下士官などは、最初からもう道具扱いです。幕僚たちに
 とっては下士官や兵の命などは鉄砲の弾と同じだったのでしょう。
・物量で押しまくる米軍は、同時にパイロットの命を非常に大切にしました。何と彼らは
 一週間戦えば後方に回さて、そこでたっぷり休息を取って、再び前線にやってくるとい
 うものでした。そして何ヵ月か戦えば、もう前線からは外される。我々には休暇などと
 いうものはなかなか与えられません。連日のように出撃させられるのです。
・我々は一度でもミスしたら終わりなのです。失敗は繰り返さなければいいという甘い世
 界ではないのです。一度の失敗が、すべてを終わらせてしまうのです。
・八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員の
 ことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断できない。我々は民間航
 空の操縦士ではない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で八時間の飛行は体
 力の限界を超えている。自分たちは機会じゃない。生身の人間だ。八時間も飛べる飛行
 機を作った人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していただろうか。
・現代でも零戦が語られる時、多くの人があの驚異的な航続力を褒め称えます。しかしそ
 の航続力ゆえにどれほど無謀な作戦がとられたことでしょう。戦闘機の搭乗員の体力と
 集中力の限界は一時間半くらいだ。

ヌード写真
・かつて日露戦争では、連合艦隊がバルチック艦隊を打ち破って戦争に勝利した。連合艦
 隊はそれ以来、敵の王将つまり主力艦隊を打ち破れば戦争に勝つと思い込んできたのだ。
 しかし今度の戦争は、敵の王将を取れば終わりという戦ではない。
・海軍の士官というのはたいてい農家の口減らしで入って来た連中です。農家の次男坊以
 下に生まれた者は、都会に丁稚奉公に行くか、軍隊に入るしか生きる道はなかったんで
 す。
・子供ができて初めて、自分の人生が自分だけのものではないということを知りました。
 男にとって、「家族」とは、全身で背負うものだということが。その時、彼が言った
 「家族の元に帰る」という言葉の本当の重みを知ったんです。
・日本は戦後、素晴らしい復興を遂げました。それは生きること、働くこと、そして家族
 を養うことの喜びに溢れた男たちがいたからこそだと思います。 

狂気
・ほとんどの戦場で兵と下士官たちは鉄砲の弾のよう使い捨てられていた。大本営や軍令
 部の高級参謀たちには兵士たちの命など目に入っていなかったのだろう。兵たちに、家
 族がいて、愛する者がいるなどということは想像する気もなかったのだろう。だからこ
 そ彼らに降伏することを禁じ、捕虜になることを禁じ、自決と玉砕を強要したのだろう。
 力を尽くして戦った末に敗れた者に「死ね」と命じたのだ。
・ガダルカナルで全滅した一木支隊にも、戦いが済んで一夜明けた海岸には多くの負傷兵
 がいた。米軍が近づくと、彼らは動けないにもかかわらず、最後の力を振り絞って銃を
 撃ったという。しして銃の弾がなくなった者は手榴弾で自決したという。やむなく米軍
 は戦車で負傷兵を踏みつぶした。こんなことがいたるところで繰り返されたのだ。
・空母四隻沈没のことは徹底して箝口令が敷かれた。口外すれば、軍法会議で重罪みたい
 な空気があったな。馬鹿げているよ。国民に本当のことを言わないでどうする。いや、
 それどころか海軍は陸軍にも本当のことを言っていなかったらしいな。それでガダルカ
 ナルの時も、陸軍は、なぜ海軍は米軍よりも制海権と制空権が取れないのだ、と不思議
 がっていたそうだ。 
・サイパンは日本軍としては絶対に守り切らなければならないところだった。ガダルカナ
 ル島やラバウルは太平洋戦争が始ってから占領した島だが、サイパンは違う。ここは戦
 前から日本の統治領で、日本人町があり、多くの民間人も住んでいた。それにサイパン
 を取られたら、新型爆撃機B29の攻撃に本土がさらされる危険もある。だからこそ日
 本軍はここを絶対国防圏としていたのだ。
・米軍と日本軍の思想はまったく違うものだったのだと知った。「VTヒューズ」は言っ
 てみれば防御兵器だ。敵の攻撃からいかに味方を守るかという兵器だ。日本軍にはまっ
 たくない発想だ。日本軍はいかに敵を攻撃するかばかりを考えて兵器を作っていた。そ
 の最たるものが戦闘機だ。やたらと長大な航続距離、素晴らしい空戦性能、それに強力
 な二十ミリ機銃、しかしながら防御は皆無。「思想」が根本から違っていたのだ。日本
 軍は最初から徹底した人命軽視の思想が貫かれていた。
・サイパンの日本陸軍はほとんど全滅し、民間人も犠牲になった。バンザイ岬では多くの
 日本人が身を投げて死んだ。戦後、崖の上から次々と落下する日本人の姿を映した米軍
 の映像を見たとき、私は涙が止まらなかった。「許してください」と心の中で何度謝っ
 たかしれなかった。
・死を覚悟して出撃することと、死ぬと定めて出撃することはまったく別のものだった。
 これまでは、たとえ可能性は少なくとも、一縷の望みをかけて戦ってきたのだ。だが特
 攻となればもう運も何もない。生き残る努力もすべて無駄なのだ。出撃すれば必ず死ぬ。
・関大尉には新婚の奥さんがいた。彼女をおいて死ぬことはどれほど辛かっただろう。彼
 は出撃前に親しい人に、「自分は国のために死ぬのではない。愛する妻のために死ぬの
 だ」と語ったそうだ。関大尉たちの敷島隊の五機は全機体当たりに成功し、護衛空母三
 隻大破させるという大戦果を挙げた。
・関大尉は軍神として日本中にその名を轟かせた。関大尉は母一人子一人の身の上で育っ
 た人だった。一人息子を失った母は軍神の母としてもてはやされたという。しかし戦後
 は一転して戦争犯罪人の母として、人々から村八分のような扱いを受け、行商で細々と
 暮らし、戦後は小学校の用務員として雇われ、昭和二十八年に用務員室で一人寂しく亡
 くなったという。「せめて行男の墓を」というのが最後の言葉だったという。戦後の民
 主主義の世相は、祖国のために散華した特攻隊員を戦犯扱いにして、墓を建てることさ
 え許さなかったのだ。
・栗田艦隊は、敵の航空攻撃と潜水艦攻撃で、「武蔵」をはじめ何隻かの艦艇が沈められ、
 残りの艦艇も傷を負っていたが、世界最強の「大和」は健在で、まだ多くの艦艇が力を
 残していた。小型の護送空母六隻と駆逐艦七隻からなる米艦隊は突然、サマール沖に日
 本艦隊が現れたのを見て、驚愕したという。煙幕を張り、駆逐艦が魚雷を放ち、必死で
 逃走を図った。頼みとする高速機動部隊は小澤艦隊におびき出されていた。米艦隊は全
 滅を覚悟したという。ついに肉を切らせて骨を断つという日本海軍の決死の作戦が実っ
 たのだ。しかし米軍にとって奇跡が起こった。栗田艦隊が突如、反転したのだ。これが
 史上有名な「栗田艦隊の謎の反転」だ。一体なぜ、栗田艦隊は反転したのか。後年、様
 々な説が飛びかったが、このことについて栗田長官は戦後ついて一言も弁明せずに亡く
 なったという。
・もしもあの時、栗田艦隊がレイテに突入していたら、ほとんど丸裸の米輸送船団は全滅
 していただろう。そうなれば米軍のフィリピン侵攻作戦はおいなる蹉跌を被ったことは
 間違いない。大量の物資と人員を失った米軍はその作戦の立て直しに、あるいは一年以
 上はかかったかもしれない。少なくとも、この後に起こったレイテ島の陸上先頭におけ
 る日本陸軍の何十万人にも及んだ戦死者は防げただろう。しかし、栗田艦隊の反転で、
 アメリカ軍に一矢を報いる最後の機会を逸した。小澤艦隊の多くの将兵の犠牲はすべて
 無駄になった。また敵攻撃機の攻撃を一身に引き受けてスリガオ海峡に沈んだ「武蔵」
 の奮戦も無駄になった。
・敷島隊の特攻が全軍に布告された時、全搭乗員の志気は大いに上がったと書かれたもの
 も少なくないが、決してそんなことはない。搭乗員の志気は明らかに下がった。当たり
 前だ。
・「僕は絶対に特攻に志願しない。妻に生きて帰ると約束したからだ」「今日まで戦って
 きたのは死ぬためではない」「どんな過酷な戦闘でも、生き残る確率がわずかでもあれ
 ば、必死で戦える。しかし必ず死ぬと決まった作戦は絶対に嫌だ」 
・あの当時、何千人という搭乗員がいたはずだが、こんなことを口にした搭乗員ははたし
 て何人いたか。しかしこの彼の言葉こそ、ほとんどの搭乗員たちの心の底にある真実の
 思いだった。
・戦争が終わって村に帰ると、村の人々のわしを見る目が変わっていた。けがれたもので
 も見るような目で眺め、誰もわしに近寄ろうとはしなかった。村人たちは陰でわしのこ
 とを「あいつは戦犯じゃ」と言っていた。悔しくてたまらなかった。昨日まで「鬼畜米
 英」と言っていた連中は一転して「アメリカ万歳」「民主主義万歳」と言っていた。村
 の英雄だったわしは村の疫病神になっていいたのだ。
・わしは自分で商売することを決めた。様々な商売に手を出した。何度もだまされ、何度
 も裏切られた。戦後の人々は戦前の人々とはまるで違う人たちだった。人にだまされた
 夜、戦争で死んだ戦友たちを思い出し、彼らのほうが幸せかもしれないと思ったことも
 あった。こんな日本を見なくてすんだ彼らの幸運を羨んだ。
・しかしそれは終戦直後の混乱と貧困による一時的なものだった。多くの日本人には人を
 哀れむ心があり、暖かい心を持っていた。自分が生きるのでさえ大変な時にも人を助け
 ようとする人がいた。だからこそ、わしたち夫婦もあの悲惨な時代を生き延びることが
 できたのだと思う。 
・本当に日本人が変わってしまったのはもっとずっと後のことだ。日本は民主主義の国と
 なり、平和な社会を持った。高度経営成長を迎え、人々は自由と豊かさを謳歌した。し
 かしその陰で大事なものを失った。戦後の民主主義と繁栄は、日本人から「道徳」を奪
 った。今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。六十年前はそ
 うではなかった。
・卑怯なのは、俺も後から行くと言って多くの部下に特攻を命じておいて、戦争が終わる
 とのうのうと生き延びた男たちだ。
・戦争に行った人の話を聞いていると、本当に兵士たちは使いすれられたって気がする。
 「赤紙」一枚でいくらでも補充がつくと思っていたのね。昔の兵隊さんは、上官に、お
 前たちより馬の方が大事なんだって言われたって。お前たちなんか一銭五厘でいくらで
 も代わりがあるって。つまり、陸軍の兵士も海軍の兵士も、そしてパイロットも、軍の
 上層部にとっては、わずか一銭五厘のハガキ代でいくらでも集められるものだったのよ。
・日本軍って、強気一点張りの作戦をとってばかりじゃなかったのかな。強気というより
 も、無謀というか、命知らずの作戦をいっぱいとっている。ガダルカナルもそうだし、
 ニューギニアの戦いもそうだし、マリアナ沖海戦もレイテ沖海戦もそう。有名なインパ
 ールもそう。でもね、ここで忘れちゃいけないのは、これらの作戦を考えた大本営の軍
 令部の人たちにとっては、自分が死ぬ心配が一切ない作戦だったことだよ。自分が前線
 の指揮官になっていて、自分が死ぬ可能性がある時は、逆にものすごく弱気になる。勝
 ち戦でも、反撃を怖れて、すぐに退くのよ。
・たとえば真珠湾攻撃の時に、現場の指揮官クラスは第三次攻撃隊を送りましょうと言っ
 ているのに、南雲司令長官は一目散に逃げ帰っている。珊瑚海海戦でも、敵空母のレキ
 シントンを沈めた後、井上長官はポートモレスビー上陸部隊を引き揚げさせている。も
 ともとの作戦が上陸部隊支援にもかかわらずよ。ガダルカナル緒戦の第一次ソロモン海
 戦でも三川長官は敵艦隊をやっつけた後、それで満足して敵輸送船団を追いつめずに撤
 退している。そもそも敵輸送団の撃破が目的だったのに。この時、輸送船団を沈めてい
 れば、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない。
・多分、それは個人の資質の問題なのだろうけど、でも海軍の場合、そういう長官が多す
 ぎる気がするのよ。だからもしかしたら構造的なものがあったと思う。将官クラスは、
 海軍兵学校を出た優秀な士官の中から更に選抜されて海軍大学校を出たエリートたちよ。
 言うなれば選りすぐりの超エリートというわけね。彼らはエリートゆえに弱気だったん
 じゃないかって気がするの。もしかしたら、彼らの頭には常に出世という考えがあった
 ような気がしてならないの。個々の戦いを調べていくと、どうやって敵を打ち破るかで
 はなくて、いかにして大きなミスをしないようにするかということを第一に考えて戦っ
 ている気がしてならないの。十代半ばに海軍兵学校に入り、ものすごい競争を勝ち抜い
 てきたエリートたちは、狭い海軍の世界の競争の中で生きてきて、体中に出世意欲のこ
 とが染み付いていたと考えるのは不自然かな特に際立った優等生だった将官クラスはそ
 の気持ちが強かったように思うんだけど。太平洋戦争当時の長官クラスは皆、五十歳以
 上でしょう。実は海軍は日本海海戦から四十年近くも海戦をしていないのよ。つまり長
 官クラスは海軍に入ってから、太平洋戦争までずっと実戦をひとつも経験せずに、海軍
 内での出世競争だけで生きてきた。
・当時の海軍について調べてみると、日本海軍の人事は基本的に海軍兵学校の次席がもの
 を言うってこと。つまり資源の優等生がそのまま出世していく。今の官僚と同じね。あ
 とは大きなミスさえしなえれば出世していく。極端かもしれないけど、ペーパーテスト
 による優等生って、マニュアルにはものすごく強い反面、マニュアルにはない状況には
 脆い部分があると思うのよ。それともう一つ、自分の考えが間違っていると思わないこ
 と。戦争という常に予測不可能な状況に対する指揮官がペーパーテストの成績で決めら
 れていたというわけだ。日本海軍の脆さって、そういうところにあったんじゃないかな
 と思う。
・日本海軍の高級士官たちの責任の取り方だよ。彼らは作戦を失敗しても誰も責任を取ら
 されなかった。ミッドウェーで大きな判断ミスをやって空母四隻を失った南雲長官しか
 り。マリアナ沖海戦の直前に、抗日ゲリラに捕まって重要な作戦書類を米軍に奪われた
 参謀長の福留中将しかり。福留中将は敵の捕虜になったのに、上層部は不問にした。こ
 れが一般兵士ならただではすまなかったはずだ。
・高級エリートの責任を追求しないのは陸軍も同じだよ。ガダルカナルで馬鹿げた作戦を
 繰り返した辻政信も何ら責任を問われていない。信じられないくらい愚かなインパール
 作戦を立案して三万人の兵士を餓死させた牟田口中将も、公式には責任はとらされてい
 ない。ちなみに辻はその昔ノモハンでの稚拙作戦で味方に大量の戦死者を出したにもか
 かわらず、これも責任は問われることなく、その後も出世し続けた。代わって責任は現
 場の下級将校たちが取らされた。多くの連隊長クラスが自殺を強要されたらしい。
・真珠湾攻撃の時、山本五十六長官が「くれぐれもだまし討にならぬように」と言い残し
 て出撃したにもかかわらず、宣戦布告の手交が遅れて、結果的に卑怯な奇襲となってし
 まった原因は、ワシントンの駐米大使職員の職務怠慢だった。戦後、責任者は誰もその
 責任を取らされていない。日本という国にこれほどの汚辱を与えたにもかかわらず、当
 時の駐米大使感の高級官僚は誰も責任を問われていない。あるキャリア官僚はノンキャ
 リの電信員のせいにしようとした。前日「泊まり込みしましょうか」と申し出た人をだ。
 それを「不要」と帰らせた男が、戦後、彼に責任をなすりつけようとしたんだ。結局、
 当時の高級官僚は誰も責任を取らされていないばかりか、何人かは戦後、外務省の事務
 次官まで上り詰めている。もしこの時、彼らの責任をしっかりと問うていれば日本人の
 「卑怯な民族」という汚名は雪がれ、名誉は回復されたかもしれない。
・軍隊や一部の官僚のことを知ると暗い気持ちになるけど、名もない人たちはいつも一所
 懸命に頑張っている。この国はそんな人たちで支えられているんだと思う。あの戦争も、
 兵や下士官は本当によく戦ったと思う。戦争でよく戦うことがいいことなのかどうか

桜花
・明け方近くに「志願します」という項目に丸印を書き入れました。多くの者が志願する
 と書くはずだという意識が書かせたように思います。私一人が卑怯者になりたくなかっ
 たのです。
・飛行学生たちは全員「志願する」を選びました。しかし後に、当初、何人かは「志願し
 ない」としたらしいと聞きました。志願しないと書いた人たちは、上官に個別に呼ばれ、
 説得を受けたようです。当時の日本の軍隊における上官の説得というのは、これはもう
 ほとんど命令と同じです。これに逆らうことは不可能です。いや現代でも、果たして会
 社や組織の中で、自分の首をかえて上司に堂々と「NO」が言える人たちがどれほどい
 るのでしょうか。私たちの状況はそれよりもはるかに厳しいものでした。
・「志願せず」と書いた男が何人かいたらしいと聞いたとき、私は、どうせ説得されて志
 願させられるのだから、初めから志願すると嗅げばよかったのにと思いました。しかし、
 今、確信します。「請願せず」と書いた男たちは本当に立派だったと。
・自分の生死を一切のしがらみなく、自分一人の意志で決めた男こそ、本当の男だったと
 思います。私も含め多くの日本人がそうした男であれば、あの戦争はもっと早く終わら
 せることが出来たかもしれません。
・彼らを志願させたのは、もしかしたら上官ではなく私たちだったかもしれません。そう
 いう私たち自身、決して喜んでシを受け入れたわけではありません。しかしあの時代は
 それ以外に選択の余地がなかったのです。軍部は特攻隊を志願しない者を決して許さな
 かったでしょう。実際にそうした噂も聞きました。他の練習航空隊で頑として特攻をし
 なかった者は、前線の陸戦隊に送られたり、あるいはほとんど絶望的な戦いに投入され
 たと。
・あの頃の軍部は、兵隊の命など何とも思っていなかったのです。先ほど、特攻隊で散っ
 た若者は四千四百人と言いましたが、沖縄戦での戦艦「大和」の海上特攻では一度の出
 撃で同じくらいの人が命を失っています。「大和」の出撃は絶望的なものでした。沖縄
 の海岸に乗り上げて陸上砲台として上陸してきた米軍と砲撃するという荒唐無稽な作戦
 のために出撃させられたのです。しかしそんなことが出来る得るはずもありません。航
 空機の護衛もなく、一隻の戦艦と数隻の護衛艦が沖縄にたどり着けることなど、万が一
 にもあり得ないことです。つまり「大和」もまた特攻だったのです。そしてこの特攻は
 「大和」の乗組員三千三百人とその他の小型艦艇の乗組員を道連れにするものでした。
 この作戦を立てた参謀たちは人間の命など屁とも思わなかったのでしょう。負けること
 がわかっている戦いでも、むざむざ手をこまねいているわけにはいかず、それなら特別
 攻撃で、意地を見せるという軍部のメンツのために「大和」と数隻の軽巡、駆逐艦、そ
 れに数千人の将兵が使われたのです。
・アメリカの兵士たちが祖国の勝利を信じて命を懸けて戦ったように、私たちも命を懸け
 ていたのです。たとえ自分が死んでも、祖国と家族を守れるなら、その死は無意味では
 ない。そう信じて戦ったのです。そう思うことが出来なければ、どうして特攻で死ねま
 すか。自分の死は無意味で無価値と思って死んでいけますか。死んでいった友に、お前
 の死は犬死にだったとは死んでも言えません。
・必ず死ぬ作戦は作戦ではありません。

カミカゼアタック
・当時の手紙類の多くは、上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。戦争や軍部
 に批判的な文章は許されなかった。また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許
 されなかったのだ。特攻隊員たちは、そんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書
 いたのだ。それは読む者が読めば読み取れるものだ。報国だとか忠孝だとかいう言葉に
 だまされるな。喜んで死ぬと書いてあるからといって、本当に喜んで死んだと思ってい
 るのか。
・私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている。日露戦争が終わって、ポー
 ツマス講和会議が開かれたが、興和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。
 こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、
 全国各地で反政府暴動が起こった。日比谷公会堂が焼き討ちされ、講和条約を結んだ小
 村寿太郎も国民的な避難を浴びた。反戦を主張したのは徳富蘇峰の国民新聞くらいだっ
 た。その国民新聞もまた焼き討ちされた。
・私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺だと思っている。この事件以降、国民の多くは戦
 争賛美へと進んでいった。そして起こったのが五・一五事件だ。侵略路線を収縮し、軍
 縮に向かいつつある時の政府首脳を、軍部の青年将校たちが殺したのだ。話せはわかる、
 という首相を問答無用と撃ち殺したのだ。これが軍事クーデターでなくて何だ。ところ
 が多くの新聞社は彼らを英雄と称え、彼らの減刑を主張した。新聞社に煽られて、減刑
 嘆願運動は国民運動となり、裁判所に七万を超える嘆願書が寄せられた。その世論に引
 きずられるように、首謀者たちは非常に軽い形が下された。この異常な減刑が後の二・
 二六事件を引き起こしたと言われている。
・これ以降、軍部の突出に刃向かえる者はいなくなった。政治家もジャーナリストもすべ
 てがだ。この後、日本は軍国主義一色となり、これはいけないと気づいたときには、も
 う何もかもが遅かったのだ。しかし軍部をこのような化け物にしたのは、新聞社であり、
 それに煽られた国民だったのだ。
・戦後多くの新聞が、国民に愛国心を捨てさせるような論陣を張った。まるで国を愛する
 ことは罪であるかのように。一見、戦前と逆のことを行っているように見えるが、自ら
 を正義と信じ、愚かな国民に教えてやろうという姿勢は、まったく同じだ。その結果は
 どうだ。今日、この国ほど、自らの国を軽蔑し、近隣諸国におもねる売国奴的な政治家
 や文化人を生み出した国はない。
・特攻隊員の中には、隊員に選ばれて、取り乱すような男は一人もいなかった。もちろん、
 出撃に際して泣きわめくような男もいなかった。彼らの多くは、出撃前に笑顔さえ浮か
 べる者もいた。やせ我慢などではない。すでに心が澄みきっていたのだ。
・死刑を宣告された犯罪者の多くが、執行当日には恐怖で泣き叫ぶと聞いたことがある。
 自ら立って歩くことも出来ず、刑吏たちに抱きかかえられるように刑場へ連れて行かれ
 る者もいると聞く。自らの非道な行いの報いでそうなるにもかかわらず、哀れにもそれ
 を受け入れることが出来ないのだ。
・特攻要員たちも特攻隊員に選ばれた瞬間から同じ状況にある。朝、指揮所の黒板の搭乗
 員割に名前がある時が死ぬ時だ。名前がなければ、命が一日延びる。その日はいつ来る
 かわからない。名前が書かれた日、人生は終わる。愛する人にも会えないし、やりたか
 ったことはもう二度と出来ない。未来は数時間で打ち切られる。それがどんなに恐ろし
 いものだったか。
・しかし彼らは従容としてそれを受け入れた。私の前で笑って飛び立っていった友人を何
 人も見た。彼らがそこに至るまでにどれほどの葛藤があったのか。それさえ想像出来な
 い人間が、彼らのことを語る資格はない。
・我々の中には天皇閣下のために命を捧げたいと思っている者など一人もいなかった。戦
 後、文化人やインテリの多くが、戦前の日本人の多くが天皇を神様だと信じていたと書
 いた。馬鹿げた論だ。そんな人間は誰もいない。軍部の実権を握っていた青年将校たち
 でさえそんなことは信じていなかっただろう。
・何度も言うが、日本をあんなふうな国にしてしまったのは、新聞記者たちだ。戦前、新
 聞は大本営発表をそのまま流し、毎日、戦意高揚記事を書きまくった。戦後、日本をア
 メリカのGHQが支配すると、今度はGHQの命じるままに、民主主義万歳の記事を書
 きまくり、戦前の日本がいかに愚かな国であったかを書きまくった。まるで国民全部が
 無知蒙昧だったという書き方だった。自分こそが正義と信じ、民衆を見下す態度は吐き
 気がする。
・先ほどの男を見ていると、あの当時、軍隊にいた多くの士官たちを思い出す。自分が属
 する組織を盲信し、自らの頭で考えることをせず、自分のやっていることは常に正しい
 と信じ、ただ組織のために忠誠を尽くすタイプだ。特攻作戦を指揮した多くの者たちも
 そうだった。彼らは言った。「お前たちだけを死なせはしない。自分も必ず後を追う」
 と。しかしそう言った連中の中に、後を追う者はほとんどいなかった。戦争が終わると、
 みな知らん顔をして、まるで自分には何の責任もないような顔をしていた。それどころ
 か「特攻隊員は志願だった。彼らは純粋に心から、国のために命を捧げた」と言う輩が
 大勢いた。特攻隊員を祭り上げることによって、自分たちの責任を逃れたのだ。あるい
 は自らの良心の痛みを少しでも軽くするためか。
・私がどうしても許せないのが五航艦司令長官の宇垣纒だ。宇垣は終戦を知った後、自分
 の死に場所を求めて、十七名の部下を引き連れて特攻した。あたら死なないでいい多く
 の若者を道連れにしたのだ。
・忘れてはならない人もいる。特攻に断固反対した美濃部正少佐だ。美濃部少佐は連合艦
 隊の沖縄方面作戦会議の席上、首席参謀から告げられた「全力特攻」の方針に真っ向か
 ら反対した男だ。軍人は「上官の命令は朕の命令」と刷り込まれている。抗命罪で軍法
 会議にかけられれば死刑すらあり得る。だが美濃部少佐は死を賭して敢然と反対した。
 それどころか色をなして怒鳴りつけた上官に対して「ここにおられる皆さんは自ら突入
 できる方がいるのか」と言い返した。私は戦後、この時の美濃部少佐の言葉を知り、帝
 国海軍にもこれほどまでに勇気ある指揮官がいたのかと心から感動を覚えた。もしこ
 の時の会議の席に美濃部少佐のような男がもう少しいれば、あるいは沖縄特攻はなかっ
 たかもしれない。
・美濃部正の名前は日本よりもむしろ海外で高く評価されているという。残念なことだ。
 美濃部正こそ、真に立派な日本人の一人だ。忘れてはならない人だと思う。
・進藤三郎少佐も立派な戦闘機隊指揮官だった。進藤少佐は終戦の年は鹿児島の二○三航
 空隊の飛行長になっていたが、上層部の「全機特攻」の掛け声の中、一機の特攻機も出
 さなかった。岡嶋清熊少佐もまた戦闘三○三飛行隊で、司令部から「国賊」呼ばわりさ
 れても特攻機を出すことを断固拒否したと言われている。
・私たちに空戦の訓練はなかった。教育終了の日に特攻志願書を書かされていた。これは
 志願書の形をとった命令だ。このために特攻隊員たちは、それを命じた者から「彼れら
 は自らの意志で特攻へ行った」と言われた。私は断じて言う。一部の例外を除き、特攻
 は命令であった。「志願する」と書いた時の苦しみと葛藤は言いたくない。
・つくづく戦争とは総合力だと思った。一つ二つ優れていても、どうにかなるものではな
 い。それでも私たちは頑張った。たとえ微力でも国のためになるならと志願したのだ。
 祖国を守るためにこの身を捧げようと思ったのだ。この考えが狂信的愛国者なのか。
・彼は言った「私にとって操縦訓練は、生き残るための訓練でした。いかに敵を墜とすか、
 いかに敵から逃れるか。すべての戦闘機乗りの訓練はそのためにあるはずです。しかし
 皆さんは違います。ただ死ぬためだけに訓練させられているのです。しかも上手くなっ
 た者から順々に行かされる。それなら、ずっと下手なままがいい」
・零戦は長く戦いすぎました。日中戦争から五年も第一線で戦い続けました。何度も改造
 を重ねてきましたが、飛躍的な性能向上はありませんでした。零戦の悲劇は、あとを託
 せる後継機が育たなかったことです。零戦はかつては無敵の戦士でしたが、今や老兵で
 す。
・特攻隊員が出撃を家族に知らせることは禁じられている。後に残る友人たちが基地の外
 の人に頼んで手紙などで家族に知らせるのだが、出撃前に間に合うことは稀で、多くの
 家族が出撃した後にやって来て、大きな悲しみと共に基地を後にすることになる。基地
 で夫の死を知らされた若い夫人も見た。国分でも宇佐でもたくさん見た。悲しみと衝撃
 で立ちあげれなくなってしまう女性もいた。彼女たちを見ると、自分は結婚していなく
 てよかったと思った。しかし同時に、愛する女も知らないまま死んでいく自分が哀れに
 も思えた。
 
阿修羅
・会社しか頼るもののないひ弱なサラリーマンが妻子の写真をお守り代わりに定期入れに
 しまい込んでいたとしても、むしろ可愛げがある。しかし六十年前はそうではなかった。
 俺たちは命を的にして戦っていた。
・編隊を指揮する分隊長は腕に関わりなく士官がなることになっていた。ごく稀に優秀な
 奴もいたが、たいていの海兵出の分隊長は経験もなく無能な奴が多かった。指揮官の誤
 った判断で、編隊そのものが危機に陥ったことは山ほどあった。しかし軍隊というのは
 上官の命令は絶対だ。そっちへ飛ぶと危ないとわかっていても、編隊の指揮官が飛べば、
 ついて行かざるを得ない。そして案の定、敵機の奇襲を喰らうというわけだ。
・奴らの死はまったくの無駄だった。特攻というのは軍のメンツのための作戦だ。沖縄戦
 のときには、既に海軍には米軍と戦う艦隊はなきに等しかった。本来なら、もう戦えな
 いと双手を挙げるべきだったのに、それができなかった。なぜならまだ飛行機が残って
 いたからだ。ならその飛行機を全部特攻で使ってしまえというわけだ。特攻隊員はそれ
 で殺された。
・軍令部の連中にとったら、艦も飛行機も兵隊も、ばくちの金と同じだったのよ。勝って
 いるときは、ちびちび小出しして、結局、大勝ちできるチャンスを逃した。それで、今
 度はじり貧になって、負け出すと頭に来て一気に勝負。まさに典型的な素人ばくちのや
 り方だ。
・世間では、特攻機というと、華々しく敵艦にぶつかって散っていったと思っているだろ
 うが、実際はそのはるか手前の洋上で、敵戦闘機に撃墜された者がほとんどだ。
 
最期
・特攻の中でも一番悲惨だったのは神雷部隊です。神雷部隊とは桜花部隊です。数ある特
 攻の中でもあれほどひどい特攻はありません。一式陸攻に人間爆弾の桜花を積んで行く
 のですが、あんな無茶な作戦はないでしょう。援護戦闘機の不足で、何人もの司令や参
 謀が計画延期を宇垣中将に進言しましたが、中将はそれをはねのけたと言われています。
 一式陸攻を率いて行った野中少佐は「こんな馬鹿な作戦はない」と言い残して出撃した
 そうです。

真相
・これだけは言える。私たちは狂信的に死を受け入れたのではない。喜んで特攻攻撃に赴
 いたのではなかった。あの時ほど、真剣に家族と国のことを思ったことはなかった。あ
 の時ほど、自分がなき後の、愛する者の行く末を考えたことはなかった。