ど忘れ万六 :藤沢周平

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この作品は、いまから35年前の1988年に刊行された「たそがれ清兵衛」という時代
小説の短編集のなかのひとつだ。
この物語は、隠居した下級武士の老人が主人公だ。主人公の樋口万六は、物忘れがひどく
なったことが原因で、城勤めを引退し隠居生活に入った。本人自身は、隠居はまだ先と思
っていたが、物忘れが原因で起きたある事故を契機に引退を決意したのであった。
しかし、予想していたどおり、隠居生活は退屈きわまりないものだった。”つまらない”
という声が、どこからか聞こえてきそうである。
しかし、そんな退屈な隠居生活の老人にも、活躍のチャンスが訪れる。昔取った杵柄の居
合抜きの剣で、息子の嫁を困らせていた粗暴な武士を撃退し、嫁のピンチを救ってやった
のだ。「まだまだ若い者には負けておらん!」という万六の声が聞こえてきそうである。
しかし、気持ちはそうであっても、老人特有の、物の名前が出て来なかったり、ちょっと
したことで腰が痛くなったりといったことは、どうにも如何ともしがたい。
「若い者なんかに負けてたまるか!」という気持ちは、ほとほどにしておいた方がよさそ
うだ。

ところで、この作品を読んでおもしろいと思ったのは、藩の台所が苦しいので藩士の石高
を減らして、藩士が内職をするのを奨励したという話だ。これは、現代で言うなら国や企
業が、公務員や会社員に対して、給料を上げられないからその代わり副業は認めるという
話と同じだ。昔も今も、お上のやることは同じなんだなと思った。



・襖があいて嫁の亀代が入ってきた。手に朝食の膳をささげている。仏頂面をして小声で
 何かを言ったのは、朝の挨拶を述べたのだろうが、万六には聞こえなかった。
 食事の支度を運び入れて、そのまま行くのかと思ったら、亀代は顔を伏せたまま飯を給
 仕した。珍しいこともあるものだと思いながら万六は、黙々と朝飯を食べた。
・亀代は美人で気が強く、舅を舅とも思わないところがある嫁だが、感心なことに台所仕
 事を厭わずまた上手であった。 
 もっとも、料理上手といっても普請組勤めの四十五石の家である。毎日の食事にさほど
 金をかけるわけではないが、亀代はその限られた費えの中でご馳走をととのえるのが巧
 みな女だった。
・万六は満足して三椀目の飯椀をつき出したが、亀代は手を膝に置いたままうつむいて気
 づかない。何か考えごとをしているように見えたが、その顔色が暗かった。
・「これ」
 声をかけると、亀代ははっと顔を上げて飯椀を受取ったが、万六を見た顔に一瞬おびえ
 に似た表情が浮かんだのを万六は見逃さなかった。何事だと思った。気性の勝った亀代
 には似つかわしくない顔である。
・「何かあったのか」
 と万六は言った。だが万六に飯を給仕すると、亀代はまた深くうつむいてしまった。
 「何事か知らんが、胸にしまっておくのはよくない。話したらどうだ」
 「参之助といさかいでもしたか」
 「ちがいます」
 言うと同時に亀代は袂をすくい上げ、横を向くとこらえかねたような嗚咽の声を洩らし
 た。  
・万六は唖然として、肩をふるわせて泣いている嫁を見つめた。飯どころではなくなって
 きた。


・一年前に樋口万六は勤めからひいて隠居した。齢は五十四だった。
 譜代組の小頭を勤め、小柄ながら身体が丈夫で、万六は自身でも隠居するにはまだ早い
 と思っていたが、五十を過ぎた頃からにわかに物忘れがひどくなった。
 部下を前に言い渡すべき命令をど忘れしたり、面とむかってしゃべっている相手の名前
 をどうしても思い出せない、などということが続くと勤めにも差し障りが出てきた。
・そしてある日、万六に即座に隠居の決心を固めさせるような事故が起きた。いや、起き
 かけたと言うべきかもしれない。
 事件の成り行きによっては、隠居するぐらいでは済まない重大な過失になるはずだった。
・万六は工事が終わったあとでその日の事故を上司に届け出て、譴責を受けた上で隠居願
 を出し、城勤めを息子の参之助に譲ったのである。 
・隠居したあとの日々は、万六がかねがねこうなろだろうと思っていたような味気ない毎
 日になった。
・藩の台所が苦しいという理由で、家中藩士は藩に録米の一部を貸していた。貸すといっ
 ても、その禄米は還ってきたためしがなく、まだ借上げは強制的に行われるので家中の
 家々にとっては事実上の減石にほかならなかった。
 万六の家にかぎらず、百石以下の家はどこでも何かしらの内職をやり、それを藩が咎め
 るどころか、相当の内職なら奨励もしているのが近年の風潮だった。
・万六の家でも、嫁の亀代がはたを織り、参之助が木彫りの達磨を彫って、家計の足しに
 していた。それでも一家の主として城に登っている間は、ひととおりはそれらしく待遇
 されるのだが、隠居してしまえば、昨日までの一家の柱はたちまち家の中の厄介者に下
 落しかねない、と万六は思っていたのである。
・参之助のように木彫りができるわけではなし、散歩して昼寝をして飯を喰うだけでは、
 多少冷遇されてもやむを得まい。こっちはあとは年寄るだけだから、せいぜい嫁に嫌わ
 れないようにするのが肝心だろうと、万六は若夫婦を横目で見ながら、いくらか二人に
 距離をおいた気分で暮らしていたのである。
・そのよそよそしい嫁が、舅の前もはばからず泣くのは、よほどのことがあったに違いな
 いと万六は思わざるを得なかった。
・「どうした?わけを話さぬか」
 と万六は言ったが、このときふと、袂に顔を埋めて泣いている嫁に愛憐の気持ちが動く
 のを感じた。
・亀代は幼児の頃に両親を失い、たらい回しのようにして親戚に養われて成人した女子で
 ある。この娘は親の情というものを知りません。縁あって嫁となされる以上は実の娘の
 親のごとく情をかけて頂きたいと、仲人の曾根源左衛門が言ったのを、万六はいま思い
 出している。舅の部屋に来て泣くのは、ほかに行って泣く場所がないからに違いなかっ
 た。
・「参之助にも内緒のことらしいな」
 その声で亀代ははじめて顔を上げて舅を見た。まだ子を持たない嫁である。涙に汚れた
 顔が娘のように見えた。
 「さあ、話してみろ」
 「ひとに脅されています」
 「誰にだ?」
 「大場庄五郎さまです」
・大場庄五郎は、時の相場で町の商人と取引する会所を束ねている男である。庄五郎が織
 物会所のようなさして日のあたらないところにいるのは、性格が粗暴で城勤めが無理だ
 ったからと聞いている。性格粗暴だが剣は出来て、城下の室井道場で高弟の一人に数え
 られていたといううわさも万六は耳にしていた。
・「片岡文之進さまとお茶屋から出て来たところを、大場さまに見つかりました」
  

・片岡文之進が下城して来るのを、万六は笄町の入口でつかまえた。
 万六は、半月ほど前に菊井町の小萩茶屋というお茶屋で亀代に茶を馳走したというのは
 事実であろうかと言った。
 「いかにも、思い出した。たしかに亀代どのに茶を馳走したが、それが何か?」
・文之進は万六が猜疑に満ちた眼でじっと自分を見ているのに気づいたらしく、たちまち
 狼狽した顔になった。
 「いやいや、馳走したと言っても他意はござりませんぞ、ご隠居。亀代どのは、それが
 しの家が宮川町にあったころ、隣同士で親しく朝夕の挨拶をかわした間柄。ひょいと菊
 井町の路上でお逢いしたゆえ、あまりの懐かしさに少々むかし話をしたまで」
・「奥では酒も出す店であるのをご存じでしたかな?
 「いくら懐かしい人に遭ったと言っても、亀代どのはいまは樋口家の嫁女。酒をのんだ
 りはせぬ。そのぐらいの作法は、それがしもわきまえでおる」
 「むかし話をしたと言っても、せいぜい四半刻(三十分)。お疑いなら小萩茶屋で確か
 めてもらいたいものだ」  
 「間違いありませんな」
 「誓って。それがしもすでに妻を迎える人が決まって、来春には祝言を挙げる身、疑わ
 れるような真似はせぬ」
・「わしは信用するとして、お手前と嫁が連れ立って茶屋から出て来たのを見て、嫁に脅
 しをかけてきた者がおる」
 「世間には黙っていてやるゆえ、一度おれの言うことを聞けと申したそうにござる」
 「亀代どのは美人ですからな。しかし何者ですか、脅しをかけたというそのばか者は?」
 「大場庄五郎をご存じか」
 「大場に会って、やつが脅しの種にしている事柄がまったくの誤解である旨を、お手前
 から話していただくわけにはいきかせんかな」
・文之進の顔色が、みるみる真青になった。慄える声で、それは困ると文之進は言った。
 「そういうことは、直接ご隠居が掛け合う方がよろしい。それが筋でもある」
 「まず年の功で、ご隠居からさきに掛け合ってもらう。それでどうにも埒があかんよう
 であれば、そのときはやむを得ぬ、それがしが乗り出して談判すると、その段取りで行
 こうではないか」
 それがよい、では今日のところはこれでごめんこうむると、一方的にしゃべりおわると
 文之進はそのまま背を向け、足早にその場から離れて行った。要するに責任を万六に転
 嫁して逃げてしまったのである。 
・万六はため息をついた。片岡が骨のある男なら、亀代にふりかかった迷惑はこちらの責
 任、おれが引き受けて始末するぐらいは言ってくれるのではないかと期待して来たのだ
 が、とんだ見込み違いだったようである。あれはただの、口舌の徒だと万六は思った。
・もっとも、よその家のことは言えない。参之助が腕におぼえでもある人間ならば、嫁の
 軽率な振舞いは振舞いとして、よく言い含めて大場の倅に談じこませるところだが、参
 之助もさっきの片岡にひけをとらない軟弱の徒。事の解決には何の役にも立つまい、と
 万六は思った。 
・万六の説明に、相手がそうかとうなずくようなら何の心配もないが、こっちを年寄りと
 侮って耳を傾ける様子を見せないときが問題。そのときは覚悟がいるぞと思った。
・もはや錆びたかもしれんが、と思いながら万六は薄暗い諏訪神社の境内に入って行った。
 万六が若いころに、城下の林崎夢想流を教える道場があった。万六は子供のときからそ
 の道場に学んで、やがて師匠の寺内五右衛門に、師を超えると折紙をつけられる名手と
 なった。 
・万六は葉が落ちつくした木槿の前に立った。刀の鯉口を切り、手をゆるやかに垂れて足
 を配る。そのまま木槿を見ながら、気息を整えた。
 四半刻ほどして、万六はひと声気合いを発すると腰をひねった。とたんに「あいた、た」
 と言うなり腰に手をやって暗い地面にうずくまったが、その頭上に両断された木槿がゆ
 らりと倒れかかってきた。刀は眼にもとまらず鞘にもどっている。
 

・「言うことを聞けと言ったおぼえはない」
 大場庄五郎はにたにた笑いながら言った。
 「しかし、ウチの嫁は、たしかに脅されたと申しておる」
 「脅したことはないと言った。しかし、じいさんの家の嫁が、男と一緒にお茶屋から出
 て来たのは事実だ。中で酒を飲んだかお茶を飲んだかまでは、おれは知らん。
 ただ、いま言った事実をだな、おれが世間に言うも言わないも、こちらの勝手だ」
 「やはり脅しだ。嫁は会所にはもう品物を持ち込みたくないと言っておるから、内職の
 妨害だ」
 「そのことを上に届け出る」
 「やめた方がいいぞ。家の恥をさらすだけだ」
 「家の恥なんぞかまわん。嫁の身が大事だ。貴様に手出しさせん」
 「どうしても届け出るつもりか」
  「届け出る。この際、司直の手で黒白をつけてもらうのが一番だ」
  「あくまでやるというなら、ただでは済まん」
・大場は、身体に似合わない軽い身ごなしで尻下がりに三間あまりも後ろに動いた。それ
 からゆっくりと万六に近づいてきた。
・大場は笑いを消した。そして不意に体を沈めた。本気で万六を斬るつもりだったかどう
 かはわからない。だが怒号していきなり刀を鞘走らせた姿に、粗暴で城勤めも出来かね
 る男の無気味さが出た。峰打ちかもしれないが、刀は万六の頭上を襲って来た。
・だがつぎの瞬間、大場の刀は宙を飛んで川に落ち、大場自身はわめき声をあげて膝を折
 ると地面にうずくまった。万六の居合の一撃が刀を跳ね飛ばし、返す峰打ちでしたたか
 に大場の脛を払ったのである。 
・万六は油断なく刀を突きつけながら大場に近寄ると、残っている小刀も大場の腰からは
 ずして川に投げ込んだ。
・「上に届けると言ったのは、貴様を外に引っ張り出す口実だよ、若いの。かりにも上司
 の息子、人の前で斬り合うことも出来んからな」
 「今日はこのぐらいにしておくが、今度嫁に無礼なことを申したら、足一本折るぐらい
 では済まされん。わかったか」
・万六はゆっくりと後じさってから、わざと大場に見えるように、眼にもとまらぬ手つき
 で刀を鞘にもどした。それから背をむけて歩き出した。ゆっくりとゆっくりと歩いてい
 るのは、さっき居合を使ったときに、またしても腰を痛めたのである。
  
・万六が大場をやるこめたあと、亀代が織物をいさめに会所に行くと、大場は声をかける
 どころか、眼をそらして一度も亀代を見なかったという。
 「おとうさま、あの乱暴者にいったいどういう手を使ったのですか」
 と亀代は感嘆して、それからは万六の身の回りの世話にも至れりつくせりの心遣いを示
 したのだが、それも大体ひと月ほどで元の木阿弥にもどったとういうことのようである。
・しかし万六にさほどの不満があるわけではない。あまりまつわりつかれるのもうっとう
 しいものだし、嫁などというものは機嫌のいい顔をしてうまい物を喰わせてくれれば、
 ほかに言うことはないと思っていた。
・なかなかうまいではないかと、万六は思いながら亀代がつくった鮒の甘露煮を噛んでい
 る。甘露煮という言葉が、喉まで来ているのに口に出て来なかった。その言葉は思い出
 そうと焦れば焦るほど、ふわふわと宙にただよって遠ざかるようでもある。