だんまり弥助 :藤沢周平

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この作品は、いまから35年前の1988年に刊行された「たそがれ清兵衛」という時代
小説の短編集のなかのひとつだ。
この作品は、極端な無口のために「だんまり弥助」とあだ名をつけられた杉内弥助という
下級武士が主人公だ。
だが、弥助は生まれつき極端な無口だったわけではなかった。弥助は二十二歳の時に起き
たある出来事において、自分の不用意な行動から一番仲の良かった美根という従妹を自害
に追いやってしまった。それがトラウマとなり次第に無口になっていったのであった。
しかしその出来事は、弥助自身が悪いわけではなかったし、自害した美根も、若い女性を
弄んで楽しんでいた服部邦之助という男に騙されたようだった。
その出来事から15年後、藩内の老中同士の派閥争いが起こり、弥助も否応なしにそれに
巻き込まれるのであるが、弥助は独自の調査により、服部が所属する派の不正を暴き、失
脚へと追い込んだ。さらに、服部との果し合いで服部を倒すことにより、弥助はようやく
長年のトラウマから抜け出ることができたのだった。
もっとも、作者はこの作品で無口が悪いと言っているわけではないようだ。無口の人には
無口なりの良さもあるのだ。無口な弥助も、妻との夫婦仲はとてもよかった。それに、普
段は無口でも、言うべき時に、しっかり自分の考えや意見を言えれば、それでいいのだと
いうことも、この作品では言っているような気がした。



・杉内弥助は藩中で少々変わり者とみられていた。極端な無口のためである。
 たとえば杉内弥助には、前方から来る上役に挨拶をするのが嫌さに、用もない角を曲が
 って行ったといった類のうわさが無数にあった。口数が少ないどころか日常の挨拶にも
 欠けるところがあるとなると、これは美徳という話ではなくて人間的な欠陥ということ
 になってくる。弥助が日ごろ、変人の部類に数えられているのはやむを得ないことだっ
 た。
・しかし、幸いにと言うべきか、弥助の変人ぶりは、はたに迷惑をかけるものではなかっ
 た。ただそこに、非常に無口な男がいるというだけで、気にしなければそれまでという
 ところもあった。
・無口は無口なりに、白の往復をともにする昵懇の友人も二、三人はいて、弥助は同じ馬
 廻組の曾根金八とは殊に親しく付き合っていた。
 

・「金井家老の子息が不祥事を起こした。聞いているか」と金八は言った。
 染井町の料理茶屋「たちばな」のおかみを手籠めにしたという。
・金井甚四郎は次席家老で、藩政を牛耳る実力者だった。大橋源左衛門は中老だが、彼も
 また一方の実力者である執政府にいるこの二人の対立は久しく、また根深いものだった。
・ところで、金井家老の子息の不祥事は、実は罠に嵌められたのだという説がある。
 「『たちばな』のおかみが、人にそそのかされて亀次郎どのを誘惑したのではないかと
 いうのだ」  
 亀次郎というのは、金井家老のあまり出来のよくない総領の名前である。
・弥助は一度だけ、”おちか”という名前のそのおかみを見たことがある。ただしそれは
 十四、五年も前、おちかがまだ婿ももらわず、「たちばな」の一人娘だった頃の話であ
 る。一度見ただけだが、その娘の尋常ではない美貌は印象に残った。
 おかちはいま三十歳前後にはなっているはずだが、やはりひと目を惹くほどの美しい女
 房に熟したのだろうと弥助は想像した。
 そのおかみは染井町あたりで遊び馴れた男たちに言わせると、男なら誰でも犯したくな
 るほどの美人というから、誘惑されたという亀次郎どのの言い方も必ずしも鵜呑みには
 出来ぬと言った。
・「大橋中老と村甚がつながっていることぐらいは耳にしているだろうな」
 と金八が言った。
 村甚というのは、城下の富商、種物問屋の村井屋甚助のことである。
 村井屋の富の大半は、種物商いではなくて、裏の商売である金貸しが生み出したもので
 ある。  
 村甚は、町人百姓はむろんのこと、家中にも手びろく金を貸し、藩にも万を越える金を
 貸して、その富は測り知れないとも言われていた。
・金八は、村甚の娘が今度、内膳さまの養女になったと言った。
 「いずれその娘を、殿か新五郎さまの身辺にささげて、あわよくば藩主家の外戚におさ
 まろうという魂胆だと聞いた」
・「御使番の服部邦之助は知っておるな。なんと『たちばな』のおかみの情人だとわかっ
 た」  
 「服部は生粋の大橋派だ。つまり『たちばな』の一件は、金井家老の失脚を狙って大橋
 派が筋書を書いた芝居じゃないかというのは、そこから来ている」


・民乃は、弥助との縁談があったとき、弥助の無口がいたく気に入ったのである。民乃は
 二百石の朝海家の次女で、もっと格上の家からも縁組み話がなかったわけでもなかった
 のに弥助を選んだのは、これという理由はないものの、無口な男は気持はあたたかかろ
 うという気がしたからだった。 
・実際に夫婦になってみると、弥助の無口は民乃の予想を越えるものだったが、最初の直
 感はあたったようだった。言葉が足りない分だけ、弥助は妻に心を配るように思われた
 のである。
 ただその間に思いがけない変化があった。妻の民乃が新妻の頃とは似ても似つかないお
 しゃべりになったのである。夫が無口だと、妻の口数はどうしても多くならざるを得な
 い。
・弥助は妻の多弁が嫌いではなかった。民乃のさほど中身のないおしゃべりを聞いている
 と、鳥のさえずりでも聞くようで気持が和む。
 
・服部邦之助か。唾棄すべき名前だった。しかしその名前は、弥助にとって忘れることの
 できない一人の女性を思い出させるのである。
・淵上の祖母は十七回忌か。死者の名前は美根。弥助が子供のころからいとしんだ従妹で、
 美根が自裁してから何年になるかは、弥助が自分の齢を数えればいい。
 事件が起きたのは弥助が二十二のときで、それから十五年経っていた。
・忌まわしい記憶は、その十五年前の夏にさかのぼる。
 その夜、弥助は酔っていた。堀江道場の夏稽古が終わった日で、高弟たちだけの軽い酒
 宴があった。  
 そのあとで、弥助たちは気の合う者同士が連れ立って、それぞれに染井町や料理屋、茶
 屋がならぶ尾花町に繰り込んで飲み直したのである。
・弥助と坂口善平が尾花町の小料理屋「かりがね屋」を出たのは、五ツ(午後八時)を過
 ぎた頃だったろう。 
 そのとき弥助の眼に、斜め前方の構えの大きな料理茶屋から出て来た女の姿が見えた。
 女は頭巾で顔を隠していたが、武家の女だった。身体つきは若く、ほっそりして小柄だ
 った。その身体つきに見おぼえがあるような気がしたとき、女が振り向いて弥助を見た。
 美根だった。
・ともかく弥助には、女が美根だとわかった。そして美根も、うしろから来る酔漢が弥助
 だとわかったのである。逃げるように立ち去るうしろ姿にその狼狽が出ていた。
 「おい、美根じゃないか」
 弥助は胴間声を張り上げて叫んだ。
 「ちょっと待て、夜道の一人歩きはいかんぞ。送って行こう」
 だが美根は足を止めるどころか、振り向きもしなかった。小走りにみるみる距離をあけ
 ると、遠い角を曲がって姿を消した。
・「いまのは誰だ」
 「叔父の娘だよ。三年前に小鹿町の橋本に嫁いだんだ。近習組の橋本雄之進の女房だ」
 「橋本の女房が、どうして夜中にあの家から出て来るんだ。そこの料理屋は、男女の密
 会の場所して有名な店だぞ。知らんのか」
 「橋本はいま江戸詰で留守だろう」
 「そうだ。しかし、だからといって美根は、それをさいわいに男と密会するようなふし
 だらな女ではない。またそんな度胸もない」
 「それはわからんぞ」
 「女子の心中など、男にわかるもんか」
 坂口は言った。  
・のっそりと、料理茶屋「ささ舟」の門を出て来た長身の男がいる。男は立止まって通り
 の左右を見た。と思う間もなく、弥助たちがいる方角とは逆の方に足早に歩み去った。
 「いまの男がそうだ。間違いない」
 確信ありげに坂口が言った。不本意だが、弥助もそれを認めざるを得ない気持ちになっ
 ていた。男は顔を隠していなかったが、いわばその眼くばりに人目をはばかる気配があ
 らわれていたのである。
・弥助は衝撃を受けていた。坂口は言った。
 「誰だかわかったか」
 「いや、若い男だということはわかったが、顔までは見えなかった」
 「そのぐらいのことは調べればわかる。調べてやろうか」
 「よけいなことはするな。いいか」
 弥助は低い声で言った。
 「今夜見たことは忘れろ。もし今夜のことが人に洩れて、従妹の身に何か起きたら貴様
 のせいだと思うぞ」
・それから数日、弥助は世間の声に耳を澄まして過ごした。薄氷をわたるような気持だっ
 た。弥助の知っている美根は、風の音にも驚くような臆病な女である。「ささ舟」で男
 に会っていたなどということが人のうわさになったりすれば、とても生きてはいないだ
 ろうと思った。
・その臆病な美根が、どうして夫の留守に男と密会するような真似ができたのかが不思議
 だった。それには何かわけがあるのか、また密会はたびたびにおよんだのか、それとも
 たった一度のことを不運にも弥助に目撃されてしまったのか。さまざま疑問が弥助をと
 らえたが、弥助は「ささ舟」に事実を確かめに行くこともせず、むろん美根に会いに行
 くこともしなかった。
・ただ、何事もなく事がおさまればいいと念じた。弥助に見られたことに驚いて美根が男
 に会うのをやめ、その上、弥助に会っても、尾花町になど行ったこともない、という顔
 をすればいいのである。
・子供のころ、数多いいとこの中で弥助は美根と一番気が合っていた。どういうわけか美
 根が弥助を慕って、祝い事だ、法事だと親戚が集まるときに必ずまつわりついて来た。
 二人は一緒に美根の屋敷の隅にある杉の大樹の虚に隠れたり、弥助が蛇を殺すのを美根
 が息を殺して見守ったりしたのである。
・何事もなく日が過ぎ、尾花町で見たことは勘違いだったかと思うようになればいい、と
 弥助は思った。だがそうはならなかった。尾花町で弥助に見られてから半月後に、美根
 は病気を理由に実家に戻り、その日のうちに自害したのである。
・その知らせを聞いた日、弥助はすぐに坂口善平の家に行った。坂口は、美根が自害した
 という話を聞くと、さすがに驚いた顔になった。
 「おれは約束を守ったぞ。おれを責めに来のなら、弥助、そりゃお門違いだ」
・突然に、美根を自殺に追い込んだのはほかならぬ自分だと納得したのである。密会の宿
 から出て来たところを目撃されて、それを恥じて美根は自殺したのだと思った。
・しかしたとえ目撃したとしても、と弥助はさらに考える。あんなふうに大道で声をかけ
 たりしなければ美根は死なずに死んだのではなかっただろうか。本来なら、美根だとわ
 かっても坂口の目から隠すべきだったのである。それを逆にあばき立ててしまったのだ。
 何という愚かさだと弥助は思った。
・「いまとなっては手遅れだろうが、その死んだ従妹の相手がわかったぞ」
 「近習組の服部邦之助だ」
 邦之助は三谷道場の高弟で、美男剣士として有名な男だった。
 家は御使番で三百石の上士である。剣はともかく、家柄、風采ともに弥助のおよびもつ
 かない男である。 
 邦之助は半年ほど前に、二年間の江戸詰を終って帰国したばかりだったのを思い出した。
 あるいはそっちの事情から、夫の留守を守る美根に近づいたのかと思った。
・葬儀が終わったあとで、美根の母が弥助にそっと封書を手渡した。弥助あての美根の遺
 書だった。服部邦之助に欺かれたと書いてあった。醜い姿を弥助に見られたのが恥ずか
 しい、しかし過ちはただ一度だけだったのを信じてもらいたいと美根は書いていたが、
 服部がどんなふうに美根を欺いたのかはわからなかった。 
 美根の死は、気鬱の病から来た発作的な自殺と人々に受け取られた。実家でも事情はよ
 くわからなかった様子だが、弥助は沈黙を守った。
・美根の葬儀が終わった頃から、弥助は少しずつ寡黙になった。自分を罰するといった強
 い意味があったわけではない。ただ胸の中に世の中から一歩身を引く気分が巣くった。
 すると言葉はおのずから少なくなったのである。
・その後、坂口善平から、美根の相手が服部邦之助とわかったのは、あれから間もなく料
 理茶屋「ささ舟」の前で、今度はばったりと服部と顔を合わせたからだったこと、相変
 わらずさっそうとした身のこなしの服部邦之助は、その夜は別の若い女と連れ立ってい
 たことを聞いたが、弥助の気持ちはもうさほどに動揺しなかった。
 ただ、唾棄すべき男として、その名前が胸に残ったのである。
   

・「さきほど曾根さまがみえました」
 刀を受け取りながら民乃が言った。
 「今夜のうちに届けてもらいたいとおっしゃって、お手紙のようなものを置いて行かれ
 ました」
・「届先はどこだ」
 「御番頭の藤尾さまだそうです」
 「曾根さまは、ここにいらしたときは、あなたさまに一緒に行ってもらうおつもりだっ
 たようです」
 「自分で行くおつもりだったのですが、人につけられているので無理だとおっしゃいま
 した」
・番頭の藤尾外記の屋敷は近江町にある。さほど遠いところではないのに、ここまで来て
 訪ねるのを断念したというのは、曾根がよほどの危険を感じたからに違いあるまいと弥
 助は思っていた。
・金八はかなり深入りしているようだと弥助は思った。金井派と大橋派の対立激化という
 ものがあるとするなら、曾根金八はその渦中で働いているに違いなかった。
 
・近江町に入ったが、その屋敷町には灯影ひとつ見えなかった。つぎが番頭の家かと思っ
 たとき、闇の中にいきなり白刃がひらめいた。敵は二人のようである。
・体を沈めて峰を返した刀で相手を打った。腿を打ったはずである。打たれた敵がうめい
 た。もう一人が正面に回って激しく斬り込んできた。唸りを生むほどの豪剣だったが、
 弥助はびしびしとはね返した。
 弥助のはね返す剣には、手練の技が籠められている。相手は腕がしびれたはずだった。
 出足がとまった。その一瞬をとらえて、弥助は鋭く踏み込むと、無声のまま相手の肩の
 あたりを打った。峰を返した刀が存分に決まった手応えがあり、相手はわっと叫んだ。
 よろめいて後ろにさがった。
・そこで襲撃者たちは、ようやく斬り合いの異常さを嗅ぎつけたらしかった。
 「人違いじゃないか」
 「だんまり弥助か」
 「まずいぞ」
 襲撃者たちはあわただしくささやきかわすと、突然に足音を乱して逃げ去った。
   
・番頭の屋敷のそばで闇討ちをかけてきた男たちは、当然、金八を待ち伏せていたのだろ
 うと思われた。しかも問答無用のさっきのやり方をみれば、金八を斬って封書を奪うつ
 もりだったことに間違いはないと弥助は思った。
・金八の身の上が心配だった。向う意気こそ強いものの、金八は剣はあまり出来る方では
 なかった。
・弥助は夜道を金八の家にいそいだ。奥から曾根金八の妻が出て来た。
 「曾根は?」
 「たったいま、使いの方が見えて一緒に出て行きました」
 妻女はそう言ったが、その声には言いようのない不安が籠っていた。
 「金井さまのお使いだとおっしゃっていましたが、主人はその方と一緒に行くのをいや
 がっているように見えましたのです」
 「どんな男か?」
 「背が高く、ことのほか男ぶりのよろしい方で、齢は主人やあなたさまと・・・」
 みなまで聞かずに、弥助はさっと背をむけた。迎えに来たのは服部邦之助である。
・「主人は、心配ないのでしょうか」
 小柄で細おもてのきれいな妻女の姿に、ふと二十の若さで死んだ美根のおもかげを見た
 ような気がしている。 
 「いまから確かめてまいる」
 
・大橋中老の屋敷は橋をわたった向う岸の町にある。ぼんやりした川明かりに、黒々とし
 たその橋が見えて来た。だが弥助の眼は、橋の手前の地面に盛り上がるものを見つけて
 いた。足をゆるめて近づくと、すさまじい血の匂いが顔をつつんで来た。地面に盛り上
 がっているものが何かは、もうわかっていた。
 金八はこと切れていた。左の肩から肋骨まで斬り下げた一撃が致命傷である。身体のそ
 ばに大きな血だまりが出来ていたが、流れ出る血はほとんど止まっていた。
 かなわぬまでも斬り合ったらしく、少し離れたところに抜身の刀が落ちていた。
 このまま大目付に届けて出るか、それとも金八を家に運ぶかと弥助は思案したが、結局、
 背に金八を背負い上げると、来た道をもどった。
・曾根金八の殺害について、弥助はたびたび大目付の事情聴取を受けたが、犯人は服部邦
 之助だと露骨にほのめかしたにもかかわらず、服部が司直の手につかまる気配は何ひと
 つないまま、日が過ぎた。大橋中老の方から、いち早く大目付の方に陰蔽工作が施され
 たことはあきらかだった。 
・そして秋口になると、藩政の要職から金井派の人間がつぎつぎと締め出され、ことに藩
 政の中心である執政府は大橋派一色となった。
 かろうじて、金井派でも大橋派でもない筆頭家老、しかしながら居眠り権兵衛と呼ばれ
 て無能の標本のように言われている殿村権兵衛が、ただ一人残っただけである。
・そして、明年は、藩主の帰国を待って新たにきびしい藩政改革案が示されるだろうとい
 う噂が流れるうちに、年も暮れに近づいて行った。
  

・遅い商談から戻ってきた村甚の番頭仁兵衛は、提灯の灯を吹き消して店の潜り戸を開け
 ようとした。するといきなり横から腕をつかまれた。
 簡単に言うぞ、と男が言った。男は武家だった。
 「大橋源左衛門、榊原内膳、服部邦之助に、村甚は多額の金を貸しているそうだが、そ
 の金額がいかほどか調べてもらいたい」
 「そんなことができますか、あなた」
 「やれぬというなら、そなたが伝馬町に囲っている妾のことを村甚にばらすが、それで
 もいいのか」
・そのひと言で、仁兵衛は小刻みに身体をふるわせはじめた。仁兵衛は店の者にも女房に
 も内緒で、伝馬町のしもたやに若い妾を囲い、その金を店の売り上げから流用していた。
 
・郡代次席村井屋甚助が立案した藩政改革案は藩主が帰国して半月ほど経ったころ、藩主
 の出座を仰いで家中が総登城した席で、大橋家老から発表された。
・大橋の発表が終わると、広間が少しざわめいた。しかし大橋源左衛門が広間を睨み回し
 て、この案に不満のある者は申し出られよ、と言うとざわめきはすぐに静まった。
 不満のつぶやきを洩らしても、藩財政の貧しさは誰知らぬ者のいない事実である。
・大橋家老が、勝ちほこったように声を張った。
 「意見があれば、いまのうちに申し出られよ。意見がなければ、この案に不満の者はな
 いと認めて・・・」  
・そのとき、お待ちくださいと言った者がいる。人々は一斉に声の主を見た。発言したの
 は杉内弥助である。
 「それがしは、ただいまの案に反対でござる」
 弥助が言うと、今度は執政たちが坐っている席がざわめいた。
 弥助が物を言うのは、たとえば牛が物を言い出したほどの珍奇な光景だった。
・弥助の話しぶりは、能弁とは言えないがなかなか堂々としていた。広間にいる者の中に
 は、弥助の声をはじめて聞いた者もいるはずである。もう笑っている者は一人もなく、
 人々は意外な成り行きに、打たれたように弥助の声に耳を傾けている。
 「反対の理由は、今度の改革案は村井屋甚助どのの案とお聞きおよびましたが、一藩の
 今後を左右する改革案のごときものは、一人の案に限らず、ひろく家中から良案をもと
 めて、慎重に審議してしかるべきものと思うものです」
 「いまひとつの反対の理由は、立案者の村井屋どのと執政の職にあられる大橋さまとの
 癒着が過ぎることであります」 
・「さきほどから癒着癒着と、ひとを中傷するがごとき言辞を弄していおるが、何をもっ
 て癒着というのか」
・「おそれながらご家老は、村井屋どのに莫大な借財を負われております。借財は誰もあ
 ることゆえ、おどろくにはあたりませんが、しかしお上より拝領した知行地を抵当にさ
 し出したのはのは、いかがなものでしょうか」
・「よし、杉内。そこまでだ」
 不意にだみ声でそう言ったのは、居眠り権兵衛こと殿村権兵衛だった。権兵衛は膝行し
 て藩主のそばに行くと、扇子を口にあてて何事かささやいた。すると藩主が立ち上がっ
 て、無言で広間を出て行った。
・「よし、大目付はいるか」
 殿村は自分の席に大目付の市村瀬左衛門を呼び、すばやく何事か打ち合わせた。それか
 ら声を張って、本日の会議はこれにて閉じる。と宣言した。なかなか見事な采配ぶりだ
 った。
・大橋家老は失脚した。身動きも出来ないほどに村甚からの借金があり、杉内弥助が指摘
 したように知行地を抵当に入れていただけでなく、村甚に利を喰わせるかわりに、莫大
 な賄賂を取っていたことが大目付の調べで判明したからである。
・村甚は郡代次席の役職と二百石を棒に振って、もとの十石にもどり、服部邦之助は御使
 番の職を解かれ、大橋家老ともども家禄を半減された上に、五十日の閉門をくらった。
  
・暑い夏が過ぎ、秋めいた風が吹くようになったある日に夕方、杉内弥助を服部邦之助が
 たずねて来た。
 「今度は貴公一人にやられたよ」
 「大橋源左衛門は再起不能だな、おそらく」
 「おれも再起不能だ」
 服部は低い声で笑った。
・服部邦之助は、するするとしりぞいて間合いをあけた。
 「貴公、美根という女子を覚えているか」
 「誰だったかな。知らんな」
 「いや、いいんだ」
 と弥助は言った。二人はほとんど同時に刀を抜いた。
・青い草を蹴って服部が走って来た。刀は右肩の上にほとんど水平に寝ている。
 弥助は青眼に構えていた。
 服部が、三間まで迫って来たとき、弥助は剣を下段に移して前に踏み込んだ。体を斜め
 に傾け、剣を摺り上げながら擦れ違った。存分に脇腹を薙ぎ払った感触があった。
 踏みとどまってすばやく体を回すと、のめって草むらに突っ込んでいく服部のうしろ姿
 が見えた。
・弥助は肩に手をやった。着ている物が破れて、指にうすく血がついたが軽傷だった。
 服部はびくりとも動かなかった。
 大目付に届け出るために、弥助は歩き出した。
・弥助は不思議なことに、いまは無性に誰かに向かって話しかけたいような気持になって
 いる。