散るぞ悲しき :梯久美子 (硫黄島総指揮官・栗林忠道) |
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
この本は、いまから20年前の2005年に刊行されたものだ。 今年(2025年)4月7日、天皇皇后両陛下は、戦後80年にあたって硫黄島を訪問し、 戦没者を慰霊された。 戦後50年を翌年に控えた平成6年には平成天皇皇后両陛下も硫黄島を訪問されている。 太平洋戦争時の1943年後半から大本営は、「絶対国防圏」と呼ばれる戦略線を設定し、 その内側は絶対に守る方針を取った。硫黄島はその重要な防衛ラインの一角とされた。 この「戦隊国防圏」構想を策定の中心的人物は次の人物だったようだ。 ・海軍軍令部総長 :永野修身 ・海軍軍令部第一部長(作戦担当) :福留繁 ・陸軍参謀総長 :杉山元 ・陸軍参謀本部次長(事実上の「ブレーン」):服部卓四郎 ・参謀本部作戦部長 :田中新一 そして、部下が火事を出した責任をとって東部軍司令部付という閑職にあった栗林忠道中 将が、1944年5月に第百九師団長を拝命し、硫黄島へ赴くことになった。 栗林中将は、陸軍大学校、海外留学と、いわばエリートコースを歩んでいたが、大本営勤 務の経験は一度もなく、経歴を見ても軍馬を扱う部署に長く在籍したりと意外に地味で、 政治とはまったく関わりを持たず、軍閥抗争とも無縁であった。 硫黄島の総指揮官をつとめるまでは特筆すべきものはない傍流の人だったようだ。 硫黄島行きについては、辺鄙な上に生きて還れぬ戦場へ征くのを嫌がり、あれこれ理由を 並べて逃れる将軍もいた中、栗林だけが馬鹿正直に受けたともいわれている。 つまりは、嫌と言えない人を人選したということが言えそうだ。 それでは、選ぶ側にいた人は誰だったのか。それは東条英機であったようだ。 東条は栗林に「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったという。 アッツ島は、栗林が硫黄島へ行く前年の5月に米軍の上陸を阻止しようとして死闘を演じ、 玉砕という名の全滅を遂げていた。 大本営は、当初は「硫黄島を死守」の方針を打ち出しており、1944年3月から増員が 開始され1944年10月には2万余規模に達した。 しかし、大本営の方針は二転三転する。 そして最終的には、米軍の上陸直前になって「敵手に委ねるもやむなし」として切り捨て ることになるのである。 その背景には、絶対国防圏そのものが現実離れしていたということがある。範囲が広すぎ て、当時の日本にはそれを維持・補給するだけの兵力・艦船・航空機・燃料が不足してい たのだ。国防線の中核拠点が相互に支援できない距離にあり、ひとたび攻撃されると救援 が困難だった。 「絶対国防圏」は本来、戦力を集中して効果的に守るための線であるべきでだったが、 実際には「全部を守る」となり、結果的にどこも守れなくなる典型的な失敗を犯したのだ った。 しかし、「敵手に委ねるもやむなし」として簡単に切り捨てられる側はたまったものでは ない。補給・増援は完全に絶たれた中で「死守」を命令されたのだ。 栗林中将は、大本営宛の訣別電文で、将兵たちの戦いぶりを伝えた。 「真に鬼神を哭しむるものあり」 そして、 「宛然(=まるっきり)徒手空拳を以て」 と、武器もなく補給も途絶えた中で戦わねばならなかった兵士たちの苦しみと悔しさを伝 えた。 訣別電文は大本営に宛てて発せられるが、新聞に掲載されて一般の目にもふれる。 栗林が将兵の戦いぶりを伝えようとした相手は、大本営だけではなく広く国民一般であっ たと思われる。 訣別電文の最後には、栗林の辞世が3首、添えられていた。その中の一首が、 「国の為重きつとめを果し得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき」 しかし、この一首の最後の「散るぞ悲しき」が、新聞では「散るぞ口惜し」と変えられて いたのである。 国運を賭けた戦争のさなかにあっては、「散るぞ悲しき」という表現は許されないことだ ったのである。 しかし栗林中将は、いたずらに将兵を死地に追いやった軍中枢部への、ぎりぎりの抗議と もいうべきこの歌を、あえて詠んだのだ。 平成6年に平成天皇皇后両陛下が硫黄島を訪問した際、次のような歌を詠んだ。 「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」 これは決して偶然ではないだろう。 49年の歳月を超え、新しい時代の天皇は当時の最高責任者だった昭和天皇の息子として、 栗林の絶唱を受け止めたのであろう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
プロローグ ・「栗林忠道」中将が玉砕を目前にした昭和20年3月16日、大本営に充てて発した訣 別伝聞の冒頭である。 戦局、最後の関頭に直面せり 敵米攻以来、麾下将兵の敢闘は 真に鬼神を哭しむるものあり ・栗林中将は太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島の総指揮官として2万余の兵を率い、かつ てない出血持久戦を展開した。 周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲ リラ戦に転じ、「5日で落ちる」と言われた硫黄島を36日間にわたって持ちこたえた。 ・米軍の中でも命知らずの荒くれ揃いで知られる海兵隊の兵士たちをして「史上最悪の戦 争」「地獄の中の地獄」と震え上がらせた凄惨な戦場。 ・硫黄島は、はじめから絶望的な戦場であった。 彼我の戦力差を見れば、万にひとつも勝ち目はない。 硫黄島の日本軍はもはや飛行機も戦艦もなく、海上・航空戦力はゼロに等しかった。 ・陸上戦力においても、日本軍約2万人に対し、上陸してきた米軍は約6万。 しかも後方には10万とも言われる支援部隊がいた。 日本軍の玉砕は自明のことであり、少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を少しで も遅らせることが、ただひとつの使命だった。 ・栗林中将の電文は、改変されて新聞に掲載された。 栗原の電文では、まず最初に、将兵たちの戦いぶりが述べられている。 が、改変された電文では、まず最初に将校たちの姿ではなく、「皇国の必勝と安泰」が 強調されている。 また「壮烈なる総攻撃」という言葉は、当時さかんに使われた、死を前提とした最後の 突撃を美化する常套句であり、栗林の電文には出てこない。 ・後半はおおきな改変はなされていないが、「将兵一同共に謹んで聖寿(=天子の寿命) の漫才を奉唱しつつ」という、栗林の文章にはない言葉が挿入されている。 そして、栗林の文章にあって、新聞では完全に削除されてしまっている語句がある。 「宛然(=まるっきり)徒手空拳を以て」という部分である。 武器もなく補給も途絶えた中で戦わねばならなかった兵士たちの苦しみと悔しさ。 栗林がもっとも伝えたかったであろうそのことが、削られてしまっているのである。 「徒手空拳」を訴えるなどは泣き言であり、軍人たるもの、どんなに苦しくとも文句を 言わず耐えて戦い、黙って死んでいくべきである。 そんな当時の”常識”が透けて見えてくる。 ・栗林の電文は、当時の軍人の常套句が使われており、最高指揮官の訣別電文としての体 裁は十分に整っている。 しかいs、ありありと描かれているのは、圧倒的に優勢な敵に「徒手空拳」で立ち向か わなければならなかった兵士たちが、「弾丸尽き水涸れ」で斃れていく姿である。 そして、電文全体をつらぬいているのは「鬼神を哭しむる」という語に端的に示された。 指揮官としての断腸の思いなのである。 ・当時の軍上層部は、そこに敏感に反応したのではないか。 訣別電文は大本営に宛てて発せられるが、新聞に掲載されて一般の目にもふれる。 栗林は当然それを意識していたいはずである。 栗林が将兵の戦いぶりを伝えようとした相手は大本営だけではなく広く国民一般であり、 軍上層部は、栗林の文章をそのまま新聞に掲載することは差し障りがあると判断したの であろう。 ・ところで、訣別電文の最後には、栗林の辞世が3首、添えられている。 国の為重きつとめを果し得で、矢弾尽き果て散るぞ悲しき 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ 醜草の島に蔓るその時の 皇国の行手一途に思ふ ・ここでもまた、見逃すことのできない改変がなされていた。 1首目の最後、「散るぞ悲しき」が、新聞では「散るぞ口惜し」と変えられているので ある。 国の為に死んでいく兵士を、栗林は「悲しき」とうたった。 それは、率直にして痛切な本心の発露であったに違いない。 しかし国運を賭けた戦争のさなかにあっては許されないことだったのである。 ・この電報は、死んでいった、あるいはこれから死んでいこうとする兵士たちへの鎮魂の 賦だったのである。 だからこそ、栗原の部下として死ねかなった貞岡にとって、これを唱えることは、栗林 に代わって彼の2マンの部下たちを弔う行為だった。 ・このとき、私はまた知らなかった。 死んでゆく兵士たちを「悲しき」とうたうことが、指揮官にとってどれほど大きなタブ ーであったかを。 エリート軍人たる栗林が、いたずらに将兵を死地に追いやった軍中枢部への、ぎりぎり の抗議ともいうべきこの歌を詠むまでに、どのような戦場の日々があったかを。 出征 ・陸軍中将・栗林忠道が硫黄島へ向けて出発したのは、昭和19年6月8日のことである。 家族に行先は知らされなかった。 当時、栗林のような職業軍人であれ、召集された兵であれ、どこの戦地に向かうのかを 家族が知ることはなかった。 ・「今度は骨も帰らないかもしれないよ」 妻・義井はそう告げられたが、そのときの夫の顔があまりにも穏やかだったので、それ ほど深刻には考えなかった。 ・当時の栗林家は、妻・義井(当時40歳)、長男・太郎(同19歳)、長女・洋子(同 15歳)、次女・たか子(同9歳)の5人家族。 帝都線と呼ばれていた京王井の頭線の東松原駅に近い一軒家に住んでいた。 ここに一家が越してきてから、実はまだ2ヵ月ほどしか経っていなかった。 ・昭和16年9月に南支派遣軍(第二十三軍)参謀長として広東に赴任し、同年12月の 香港攻略に参加した栗林は、18年6月、首都東京の防衛を任務とする留守近衛第二師 団の師団長となる。 しかし翌19年4月、部下が火事を出したことから責任を取って職を辞し、東部軍司令 部付となった。 そのため師団長時代から住んでいた官邸を出て、東松原の家を借りることになったのだ。 ・東部軍司令部付といういわば閑職にあったのはわずかな期間で、5月27日には第百九 師団長を拝命する。 師団長となった栗林は、新しい家に落ち着く暇もなく指揮官として硫黄島へ赴くことに なった。 ・栗林は随分と筆まめな人だったようだ。 私が彼に興味を持ったきっかけも、たまたま目にした一通の手紙であった。 戦史を扱った本の中で見つけたその手紙は、たか子に書き送った最初の手紙と同じ6月 25日に、妻・義井にあてて書かれたものである。 ・文中に「私からの手紙はこれからはもう来ないものと思って下さい」とあるから、遺書 のつもりだったのだろう。 ・栗林が着任した6月、硫黄島は15日、16日、24日と3度にわたって米軍の組織的 な空襲を受けている。 この3日間で日本側は計100機以上の航空機を失い、16日の空襲では40名に及ぶ 死傷者も出た。 ・米軍が上陸してきたのは8ヵ月後の昭和20年2月だが、この頃からすでに一瞬たりと も油断のできない状況になっていたのである。 ・手紙では「もし私のいる島が敵に取られたとしたら、日本内地は毎日毎夜のように空襲 されるでしょう」として、家族に早めに疎開することを勧めている。 夫として父として、御身達にこれから段々幸福を与えるだろうと思った矢先この大戦 争で、しかも日本として今最も大切な要点の守備を命ぜられたかれには、任務上やむ を得ないことです。 と現在の心中を述べ、 最後に子供達に申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母 を助け、相はげまして元気に暮らしていくように。 と書いている。 まさに遺書といっていい内容である。 ・そして「妻へ 子供達へ ではさようなら 夫、父」と結んだ後に、「追伸」として次 3項目がつけ加えられている。 一、持ってきたものの中、当座いらないものをこの便で送り返します。 二、家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ 措置をしてきたかったのが残念です。 ・私が驚き、興味をひかれたのは、二の内容を読んだときだった。 2万余の兵を束ねる最高指導者が”遺書”の中で、お勝手の隙間風を気にしているのであ る。 このとき栗林は52歳。出征直前には天皇に拝謁して直接激励されるという名誉に欲し ている。 その彼が最後の心残りとして記したのが、留守宅の台所のことだったのである。 ・硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻撃に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害 を上回った唯一の戦場である。 最終的には敗北する防御側が、攻撃側にここまで大きなダメージを与えたのは稀有なこ とであり、米海兵隊は史上最大の苦戦を強いられた。 ・米軍側の死傷者数2万86868名に対し、日本軍側は2万1152名。 戦死者だけを見れば、米軍6821名、日本軍2万129名と日本側が多いが、圧倒的 な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである。 ・日本軍が各地で胚胎を続ける中、乏しい装備と寄せ集めともいえる兵隊たちを率い、 これだけの戦いができたのは、栗林の断固たる統率があったからである。 ・戦史に残る壮絶な戦いを指揮した軍人はまた、自宅お勝手の隙間風が心配で仕方ない夫 でもあった。 ・他の軍人の遺書に比べると栗林の遺書はずいぶんと日常的で所帯臭く、当時の軍人とし ては女々しいとさえ言える。しかし、私はそこに惹かれた。 ・戦場とは上官の判断と命令によって兵士が命を落とす場所である。 死ぬとわかっていても、突撃しろと言われればそうするしかない。 しかし、陸海軍を通じての最高指揮官である栗林だけは、誰からも命令されることがな い。逆に、死ねと命じる立場なのである。 ・しかも栗林は、総指揮官としての自分の役割が「勝つ」ことではないと知っていた。 栗林を硫黄島の総指揮官に命じたのは、当時首相を務めていた「東条英機」である。 その際、彼は栗林に「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったという。 アッツ島は、栗林が硫黄島へ行く前年の昭和18年5月、米軍の上陸を阻止しようとし て死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン列島の小島である。 ・大本営は硫黄島を死守せよと命じたが、太平洋の孤島を守りに赴くということは、 もはや勝って敵を撃退することを意味しなかった。 日本にはもうその力がなかったのである。 ミッドウェー開戦での敗退以来、日本の敗色は日に日に濃くなり、戦力の差は開く一方 であった。 問題は、島をいつまで持ちこたえられるか。その一点だった。 ・しかし敗北が決定的になったとしても退却は許されない。 「アッツ島のように」、粘れるだけ粘り、全員が死ぬまで戦わなければならないのだ。 22km2の荒野 ・硫黄島には、栗林が着任した昭和19年6月の時点で、千鳥、元山の二つの飛行場があ り、北東部にも新たな飛行場が建設中だった。 このちっぽけな島に、飛行場が3つ。 つまりここは、洋上に浮かぶ”不沈空母”たりえる島だったのである。 航空戦が勝敗を決する太平洋の戦いにあって、それは日米双方にとってもっとも必要な ものだった。 ・米軍は「超空の要塞」と呼ばれた新鋭爆撃機B−29さをサイパンに配備しようとして いた。 しかしこの巨大な爆撃機で日本本土を空襲しようとする場合、4つの大きな問題点があ った。 ・第1:サイパンを飛び立ったB−29あ、東京までの2600kmの長い距離を、 戦闘機の護衛なしに飛び続けなければならない。 ・第2:それだけの距離を飛ぶ燃料のために、搭載する爆薬の量を減らさなければなら ない。 ・第3:故障や被弾の際、不時着する場所がない。 ・第4:硫黄島のレーダーが米軍機の接近を感知して本土に警報を発令、さらに硫黄島 から飛び立った日本の戦闘機がB−29を攻撃してくる危険性がある。 ・米軍がサイパンに上陸を開始したのは、栗林が硫黄島にやってきて1週間ほどたった6 月15日のことである。 栗林は着任したその月に空襲を3度受けたが、これらの空襲は、たまたま行われたもの ではなかった。 米くんがサイパンに上陸するにあたって、滑走路のある硫黄島を牽制する意図があった のである。 ・サイパン島に上陸後の米軍は、圧倒的な戦力でサイパンに日本軍を凌駕しつつあった。 そして19日にはサイパンにほど近いマリアナ沖で、のちに「マリアナ沖海戦」と名付 けられた、日本艦隊と米軍機動隊との一大海戦が始まる。 ・このマリアナ沖海戦に日本は惨敗し、「大和」や「武蔵」は無事だったものの、航空機 の大半を失うことになる。 ミッドウェー海戦以来、日本海軍が起死回生の望みをかけて養成してきた聯合艦隊は、 ここに事実上の終焉を迎えたのである。 ・大本営は、まだ日本の将兵が必死の光線を続けていた6月25日、「サイパン放棄」を 決定する。 そして、サイパンに向かわせるはずだった部隊を、フィリピン、台湾、南西諸島、硫黄 島に振り向けることを決めた。 ・東条首相が「難攻不落」と豪語したサイパンを米軍上陸開始からたった10日間で見限 ったように、この後、硫黄島に関しても大本営の方針は二転三転する。 そして最終的には、米軍の上陸直前になって「敵手に委ねるもやむなし」として切り捨 てることになるのである。 ・着任後の栗林がまず行ったのは、島の隅々まで見て回り、地形と自然条件を頭にたたき 込むことだった。 硫黄島は半日もあれば徒歩で一周できる。 東京から伴ってきた副官の藤田正善中尉とともに、栗林はとにかく歩いた。 ・藤田中尉は栗林が東京の留守近衛第二師団の師団長だったときからの副官で、志願して 硫黄島についてきた。 栗林家とは家族ぐるみのつきあいがあり、義井や子供たちとも親しかった。 裕福な子息ですでに婚約者もいたが、敬愛する栗林と最後まで行動を共にしたいと、 親の反対を押し切ったという。 ・最大の問題は、飲み水をどうするかだった。 最初に島を巡回した際、栗林はこの島に川田一本もないことに気づいた。 湧き水も一切ないという。 岩と砂でできたこの島では、雨水は1〜2時間で地面に完全に浸み込んでしまうのであ る。飲み水を確保するには、貯水槽を設けて雨水を貯めるしか方法はない。 ・日本軍は、絶望的に乏しい水で2万を超える人間の生命をつなぐという離れ業を、どう しても演じなければならなかった。 ・とにかくこの島には水が足りない。 そのことが常に頭を離れなかった栗林は、水の浪費を厳に戒めた。 優遇されがちな上級幹部に対しては特にきびしく、島内巡回の際、ある部隊長が水槽か ら汲んだ水に手ぬぐいを浸して身体を拭ったのをみたときには烈火の如く怒った。 その後、水の大切さを諄々として説き、「この島では、水の一滴は血の一滴だ」と論し ている。 ・また陣地を見回る際、栗林はいつも徒歩だった。 騎兵出身で乗馬の名手である栗林に馬での巡回をすすめる部下もいた。 硫黄島には馬が3頭いたのである。 しかし彼は一度も乗ることはなかった。 馬を歩かせれば水をたくさん飲むから、というのがその理由だった。 ・水だけではなく生活雄他の面についても、栗林は上下で差をつけることを固く禁じた。 栗林は自分自身を兵士たちと同じものを食べると決め、それを実行した。 異例のことに当番兵たちは困惑した。 師団長の食事ともなれば、本来、皿の数からして違う。 それを兵士たちと同じにせよと言われても、どうしていいかわからない。 栗林は「では、皿だけ並べておけよ」と笑って、空の皿を前に食事をしたという。 ・輸送手段を持っているため補給が比較的容易だった海軍にくらべて、陸軍は食糧が質・ 量ともに乏しかった。 水だけでなく生鮮野菜が絶対的に足りず、代わりに用いられたのが乾燥野菜である。 栗林ももちろんそれを食べていた。 野菜不足を何とかしようと、畑を作ることを各部隊に奨励した。 ・硫黄島のおもな産業は硫黄や燐鉱の採掘で、硫黄の精錬所があった。 土質と気候条件のため稲作はできず、農産物といえばサトウキビや薬用植物くらいだっ た。 それでも栗林が着任したとき島には1000人ほどの住民がおり、その多くが元山台地 の中央部の集落に暮らしていた。 貧しいながらも平和な暮らしを営んでいた、素朴な人々である。 ・6月の空襲の際には、この住民たちを軍の防空壕に収容して保護した。 もとより自前の防空など持たぬ人たちである。 女性や子供が慣れぬ事態に逃げまどい、着の身着のままで防空壕に飛び込んでくるのを 見て、栗林は住民を早めに内地へ送還するべきだと判断した。 軍人と民間人が狭い島で雑居するのはよくないと考えたのだ。 ・安全のために軍の防空壕に民間人を収容するのはよいが、空襲警報が解除になった後は すみやかに自宅へ帰すべし、また夜間に民間人を防空壕に入れてはいけないと言ってい るのである。 空襲に備え、女性はなるべくもんぺをはくようにという指示も出している。 おそらく風紀上の問題が起こってはいけないと考えたのだろう。 ・栗林は潔癖な人だった。 硫黄島には慰安所が設けられなかったが、これは栗林が難色を示したためだという説が ある。 ・島民の内地送還は7月3日から始まり、14日まで完了した。 16歳から40歳までの扶養者のいない男子が陸軍の軍属として徴用され、また島にあ った気象観測所の署員が海軍勤務となったが、そのほかの住民は全員島を離れた。 こうした判断をごく早い時期に下したことが、硫黄島が結果的に民間人の犠牲者を出さ なかったことにつながったのである。 ・栗林は米国通の軍人だった。 まず昭和3年から5年まで軍事研究のため留学。30代後半の、まだ陸軍大尉だった頃 である。 その後、昭和6年から8年まで駐在武官としてカナダに滞在している。 アメリカの軍事力、経済力を自分の目で見て把握していたのである。 ・しかし栗林の経験と見識を軍中枢部が活用した形跡は見られない。 逆に、アメリカびいきとされて疎まれたのではないかとする説がある。 栗林が硫黄島行きを命じられたのは、その指揮能力を評価されてのことだったというの が定説だが、一方で、彼のアメリカ的な合理主義が嫌われ、生きて還れぬ戦場に送られ たとする見方もあるのだ。 ・硫黄島で戦死した著名な軍人に、昭和7年のロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金 メダルを獲得した「西竹一」男爵がいる。 オリンピックの活躍で、”バロン(=男爵)西”としてアメリカ外交界の花形となった西 は、米国に友人が多かった。 彼についても、親米派と目されて玉砕が確実な戦場に送られたという噂が当時からあっ た。 作戦 ・栗林が選んだ方法は、ゲリラ戦であった。 地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。 どんなことをしてでも生き延びて、一人でも多くの敵を倒す。 それを実行するためには強靭な精神力が要る。 ・事実、硫黄島の戦いは酸鼻をきわめた。 生還した兵士の手記に「武士道とは死ぬこと、といった言葉が通用する戦場であってほ しかった」という一節があるが、もし、潔く死ぬことが武士の美学だとすれば、栗林は そうした美学を部下にも自分にも許さなかったのである。 死を前提として一斉に敵陣に突入する、いわゆる”バンザイ突撃”を栗林は厳しく禁じた。 栗林は、この島では、一平たりとも無駄に死なせではならぬと固く思いさだめていた。 それは、ヒューマニズムではなく、冷徹な計算であった。 ・栗林がどんな犠牲を払ってでも持久戦に持ち込もうとしたのは、B−29によって一般 市民が殺される事態となるのを一日でも遅らせたいという思いからだった。 さらに、自分たちが米軍を釘付けにして時間を稼いでいる間に、軍中枢部が終戦交渉で 終戦交渉を進めることを期待していたと思われる。 ・1日でも長く島を維持するために栗林が立案した作戦の内容は、以下の2点に集約され る。 1.水際作戦を捨て、主陣地を海岸から離れた後方に下げたこと。 2.その陣地を地下に作り、全将兵を地下に潜って戦わせたこと。 しかしこれは、日本軍の伝統的な作戦を否定するものだった。 ・栗林が「効果なし」として採用しなかった”水際作戦”とは、上陸してくる敵を水際で撃 破するという戦法である。 これは帝国陸軍70年の、まさに伝統的戦法だった。 ・水際作戦は、装備の劣る中国戦線の敵には通用しても、タラワ、マキン、そしてサイパ ンといった太平洋の島嶼作戦においてはことごとく失敗していた。 なぜなら高いレベルの航空戦力を有する米軍は、上陸前に徹底的に爆撃を行い、陣地を 破壊してしまうのである。 水際の陣地は遮蔽物がないため発見されやすいという欠点があった。 もうひとつ、米軍は上陸作戦の間じゅう、艦砲砲撃や空爆によって徹底的な支援を行う。 そのため、米軍の総体的な攻撃力は、水際においてもそれほど弱まることはない。 これに対し、硫黄島の日本軍は、海と空からの支援をほとんど期待できなかった。 制空権と制海権が米軍の手にあるかぎり、日本陸軍伝統の水際作戦は意味をなさない。 このことを見抜き、ごく早い時期に水際作戦を捨て去れる決断をしたのが栗林だった。 ・しかし、栗林のこの構想は、海軍側から激しい抵抗を受ける。 8月中旬、大本営陸海軍部作戦部長の真田、中沢両少将とともに硫黄島を訪れた第三航 空艦隊参謀・浦部聖中佐は、 「硫黄島の陸上航空基地は不沈空母として絶対に確保しなければならない。そのために は、敵が水際に達する前に撃滅すべきである」 と強く主張した。 そして、千鳥飛行場の両側の水際に強固なトーチカ(コンクリート製の小型防御陣地) を何重にも作るよう進言した。 ・硫黄島ではこのときすでに、栗林の方針に基づいて後方陣地の構想が進められていた。 しかし浦部参謀は、兵器資材はすべて海軍で提供するので、陸軍の兵力を提供するよう にと迫った。 「これは中央の意向である」とする海軍側の主張は強硬だったが、栗林は主たる陣地を 水際ではなく後方に作るという方針を変えることはなかった。 不沈空母として確保すると言っても、硫黄島の航空機の実動機数は、8月10日段階で、 零式戦闘機11機、艦上攻撃機2機、夜間戦闘機2機しかなかったのである。 ・しかし最終的に栗林は、水際のトーチカづくりに協力することを約束する。 海軍が提供するという資材を陸軍の地下陣地づくりに役立てようと考えたからである。 硫黄島では当初の約束通りの資材が供給されず、セメントもダイナマイトも圧倒的に不 足していた。 栗林は、海軍提供の兵器資材の半分を水際のトーチカづくりに使用し、残りは陸軍で使 うという条件を出したとされる。 ・栗林は約束通り、水際拠点の構築に協力した。 しかし、海軍中央部から送られてきた兵器資材は、わずかセメント3000トンと、 25ミリ機銃75丁のみだった。 ・陸軍の協力のもと、千鳥飛行場周辺の海岸に構築されたトーチカは26個とされる。 しかしこれらは結局、米軍上陸前後の空爆と艦砲射撃によって、あっという間に破壊さ れることになるのである。 覚悟 ・それまで水際配備に固執していた大本営陸軍部がようやく考えを改め、後退配備の新方 針を打ち出したのは、昭和19年8月19日のことだった。 大本営は、「絶対国防圏」の要衝だったサイパンの防備に自信を持っていた。 しかし実際には、米軍が上陸作戦を開始するや、守備撫隊はあっという間に崩壊してし まった。 7月7日にはサイパンが玉砕したのに続き、8月3日にはテニアン、11日にはグアム も玉砕している。 これを重く見た大本営は、従来の水際思想を改め、後退配備に転換させることにした。 ・しかしこの新方針への転換は、遅きに失した。 硫黄島と同様、米軍の上陸作戦が予想されていたパラオ諸島では、従来の水際作戦の考 え方にもとづいて海岸近くの陣地構築がほとんど完了しかけていた。 しかも米軍の侵攻は近いと見られており、いまさら陣地配備を変更するには、時間的に も資材的にも余裕がなかった。 ・これに対し硫黄島では、大本営から新方針が示される2か月も前から、栗林の決断によ って後退配備による陣地の構築が進められていた。 栗林の判断は、目の前の現実を直視し、五売る敵に考えさえすれば当然行き着く結論だ ったといえるかもしれない。 しかし、先例をくつがえすには信念と自信、そして実行力が要る。 事実、栗林が水際作戦を放棄すると決めた際、反対したのは海軍だけではなかった。 硫黄島の陣地幹部からも強い反対意見が出たのである。 しかし栗林は孤立を怖れず、これをはねつけている。 ・栗林は昭和19年の秋以降、自分の戦術思想と相容れない者や能力がないと判断した将 校の更迭を行っている。 旅団長、参謀長、作戦参謀、大隊長2名など、思い切った人事異動である。 栗林が大本営に「もっと優秀な歩兵団長を寄越してほしい」と要請したのに応えて着任 したは「千田貞季」少将である。実戦型の優秀な指揮官であった。 ・水際作戦を捨てたことに加え、すべての陣地を地下に構築したことが、硫黄島の日本軍 の善戦の理由だった。 ・起伏に乏しいこの島には、軍事上の拠点に適した場所がほとんどなかった。 また、米軍の猛烈な空襲や艦砲射撃に対しては、普通の防空壕やタコツボ(一人用の塹 壕)を掘っても、瞬時に壊滅してしまうと思われた。 ・武器弾薬、装備、兵力のすべてに劣る日本軍が少しでも長く抵抗を続けるには、正面切 って戦いを挑むのは無謀だった。 地下の陣地にひそみ、相手の不意をついて奇襲攻撃を仕掛けるのが効果的だと栗林は判 断したのである。 ・ゲリラ戦は、勝つことではなく負けないことを目的にした”抵抗の戦術”である。 戦力において劣る側が、圧倒的に優位な側に対して消耗戦を行おうとするとき、選択の 余地は他にはない。 毛沢東が率いた中国共産党軍の戦いしかり、ベトナム戦争しかりである。 ・硫黄島とまったく同じこの方針で戦って大健闘し、米軍を大いに悩ませたのが、パラオ 諸島にある小島・ペリリューの守備隊である。 守備隊長の「中川州男」大佐。彼の指揮の下、1万余の将兵が約2か月間の長きにわた って島を死守した。 将兵が掘った地下陣地は500にのぼったという。 ここにも天然の洞窟があり、中川大佐はそれを生かす戦法をとった。 最大の目的が飛行場の確保であったこと。にもかかわらず自軍はすでに飛行機をほとん ど持たなかったことも、硫黄島と同じである。 ・フィリピン侵攻作戦の足がかりとするためペリリューに米軍が上陸を開始したのは、 昭和19年9月15日、玉砕は11月25日である。 この間、ペリリューの守備隊は、粘り強い敢闘善戦によって天皇の御嘉尚(お褒め)の 言葉を10回も受けている。 ・先んじて米軍の侵攻を受けたペリリューはその作戦内 容に硫黄島との共通点が多いが、 栗林がペリリューの戦訓をもとに作戦を立てたというわけではない。 ペリリュー守備隊の善戦が伝えられた頃、すでに硫黄島では、栗林の作戦をもとに地下 陣地構築に取りかかって久しかった。 二人の智将がほぼ同時に同じ作戦を立て事項に移したのは、ともに現状を正しく認識し、 先例にとらわれず合理的な判断を行ったからであろう。 ・しかし、地下に陣地を作り島を要塞化することを思いつくことはできても、それを実行 することは容易ではない。 その作業が、兵士たち院とってあまりにも過酷なものだからである。 特に硫黄島での陣地構築は困難をきわめた。 ・陣地は、砲弾にも耐えられるように地下15〜20メートルの深さに作られた。 主陣地が置かれた元山地区は、土丹岩と呼ばれるやわらかい凝灰岩からなり、比較的掘 りやすい地質だったが、問題は再考で摂氏60度にもなる地熱と、ところどころ噴き出 す硫黄ガスだった。 地熱の高い所では地下足袋の底が溶け、硫黄ガスのせいで頭痛がして呼吸が苦しくなる 褌一本の姿でツルハシやスコップを振るうのだが、5〜10分でこうたいしなければな らなかった。 ・島での栗林は、毎日隅々まで歩いて陣地構築を視察し、率先して節水に努め、みずから 畑を作った。 自宅からの差し入れを断り、三度の食事は兵士と同じものを食べた。 兵士立ちの苦しみの近くになることを、みずから課していたのである。 明日なき命を生きる同胞として、兵士たちの日常の中に自分もとどまる。 米軍上陸に備えた栗林の「覚悟」は、つねに2万のぶかとともに生きることだった。 家族 ・埼玉県川口市の自宅に新藤たか子を訪ねたのは、平成15年暮れのことだった。 栗林が硫黄島に旅立つとき泣いてだだをこねた「たこちゃん」は、69歳になっていた。 ・疎開先で終戦を迎えたたか子は、母とともにまもなく東京に戻る。 姉の洋子は終戦直後、腸チフスでこの世を去っていた。 ・成績のよかったたか子を、母は保険の外交員や寮母の仕事をして大学まで進ませた。 たか子が大映のニューフェースに合格したのは、早稲田大学仏文科在学中のことである。 応募の動機は日本舞踊や礼儀作法を勉強できることであり、女優を目指したわけではな かったという。 父を失った当時の栗林家では、習い事をする余裕はなかった。 ・大映の助監督と恋に落ちたたか子は「映画には”その他大勢”の役で一、二度出ただけ」 で引退し、大学卒業後に結婚、3人の子供に恵まれる。 その後、幼稚園教諭の資格を取り、義父がひらいた幼稚園の園長となった。 ・調べるほど、硫黄島は戦う前から見捨てられていたことがわかっていく。 マリアナ沖海戦に敗れ、サイパンが陥落して絶対国防圏が破綻した後の昭和19年7月 21日に、大本営はいわゆる”捷号作戦”を決定した。”捷”とは勝利の意味である。 ・しかしこの作戦の内容や、それに関する大命(大元帥である天皇の命令)は、硫黄島に は一切伝達されなかった。 大本営が死守すると決めた新防衛線に小笠原も含まれているにもかかわらず、である。 このとき大本営が重視していたのは、フィリピン方面だった。 ・2万人以上の将兵がいるのに、飛行機は戦闘機と中攻が計13機しかないという。 また武器も、小隊に軽機関銃が2挺ずつしかないと訴えている。 当時、硫黄島への物資を運ぶ船には、しばしば大量の青竹が積まれていた。 船が撃沈されたときはこれにつかまって泳ぎ、戦闘の際には竹槍を作って小銃の代わり に使えというのである。 ・不足していたのは飛行機と兵器だけではなかった。 船も食料もすべてが不足していたのである。 父島との間の輸送船が少なく、硫黄島まで食料や兵器が届かなかったこともわかる。 ・こうした状況の中で栗林は、いつ攻めてくるかわからない敵から何としても島を守り抜 かねばと奮闘していた。 結局、地下陣地を作るのに必要な資材は予定の約4分の1しか届かず、兵器や弾薬も不 足したままだった。 ・何もかも足りないのは、どの戦場も同じだった。 戦線を広げすぎた大本営は、計画を立てて命令を下すだけで、その実行に必要な物資を 送ることができない状態になっていた。 物資がなかっただけではない。 制海権を失っていた日本軍の輸送船は米軍によって次々に沈められ、目的地へ達するこ とができなくなっていた。 ・太平洋の戦局が不利になるにつれて、大本営の関心は本土決戦へ移り、硫黄島の防備は 軽視されるようになっていく。 ・開戦以来初めての、陸海軍共同による作戦計画である「帝国陸海軍作戦計画大綱」が立 案されたのは、昭和20年1月20日だった。 この時点ではまだ、硫黄島は「本土防衛の善戦として確保すべき要域」ということにな っていた。 ・それが、この大綱を受けて2月6日に策定された「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定研 究(案)」では一転、「結局は敵手に委ねるもやむなし」となる。 ここにおいて硫黄島は、戦う前に放棄されることが決定したのである。 ・その理由は、大本営は「日本本土の航空基地から遠いため航空戦力の発揮が困難である」 「米軍の日本本土侵攻基地としての価値が少ない」ためであるとした。 それならば、なんのために2万もの兵を送り込んだのか。 あまりにも一貫性を欠く。行き当たりばったりの作戦方針といえる。 ・そして、36日間にわたる抗戦の後に将兵たちは玉砕した。 その敢闘ぶりを知る日本人は今ではほとんどいない。 栗林と彼の部下がどんな地獄をくぐったのかは、歴史の中に埋もれてしまっているので ある。 ・たか子の自宅では、3度にわたって話を聞いた。 最後に訪ねたのは平成16年1月の寒い日だった。 別れ際、門まで送ってくれた彼女は「帰りのバスの中でお食べなさい」と、私のコート のポケットにチョコレートを入れてくれた。 彼女の訃報を聞いたのは、それから半年後のことだった。 ・栗林の妻・義井が没したのは、たかこの死の前年、平成15年秋のことである。 「恐ろしい敗戦の運命の中・・・女ながらも強く強く生き抜くことが肝心です」という 夫の言葉通り、最後58年を生き抜き、99歳の長寿を全うした。 ・栗林夫婦が結婚したのは大正12年12月8日、栗林32歳、義井19歳のときである。 旧制中学を出て陸軍士官学校に入校した栗林は、騎兵少尉、中尉を経て陸軍大学校に進 んだ。 ・その陸軍大学校を2番で卒業した栗林には上司に娘との縁談も持ち込まれたという。 それをすべて断り、同郷の義井と一緒になったのである。 義井は合戦で有名な川中島に近い氷鉋の地主の娘である。 旧姓も栗林だがこれは偶然で、親戚ではない。 義井の兄の妻にあたる栗林松枝によれば、両方の栗林家に出入りしていた紺屋の紹介で 見合いをしたという。 ・兄が一人いるだけと当時としては兄弟が少なく、両親と兄に可愛がられて育った義井は、 兄嫁の松枝によれば「お嬢さん育ち」で、娘時代は「呉服屋さんが来て反物を選ぶよう なときも、恥ずかしがって奥の部屋に引っ込んだまま出てこなかった」というほど内気 だったという。 ・留守宅に宛てた栗林の手紙で、私が直接手にとって読んだものは41通がるが、その中 に天皇、皇国、国体、聖戦、大義といった、大所高所に立ったいわば”大きな言葉”は、 ただの一度も出てこない。 かわりに出てくるのは、アンカや湯たんぽであり、腹巻きやラクダのシャツであり、 屋根裏にしまってある靴の箱である。 生活の細部を見つめるこうした栗林の目は、硫黄島において、地形を細かに観察し、 毎日陣地を見回り、兵士たちが何をどのくらい食べているかをチェックした目と同じも のであろう。 空疎な理想によってではなく、人間が生きるその足もとを見つめる目によって、栗林は 戦おうとしたのである。 ・皇室に限りない崇敬の念を抱いていた山本五十六は、トラックやラバウルといった太平 洋の戦場にあっても、毎朝、部下に首都の天候を尋ねたという。 皇居が空襲の被害にあうことを怖れたのである。 ・栗林もまた、つねに東京の空襲について心配し、しつこいほど繰り返し手紙を書いてい る。 しかし彼の場合、つねに眼前にちらついてその心をさいなんだのは、火の海を女子供が 逃げまどう光景だった。 一家の主のいない留守宅で、空襲の際、家族は無事に逃げのびてくれるだろうか。 あまり身体が丈夫でない義井のことが特に心配だったのだろう、栗林は長男と長女に、 空襲の際はとにかく母を守るよう書き送っている。 ・夫の愛情を一身に受けた妻。その妻が一度だけ、夫からの手紙の文面を黒く塗りつぶし たことがある。 年が改まった昭和20年1月の手紙の末尾、栗林の鉛筆書きの文章が7行にわたって黒 いペンで消されている。 当時、黒インクの下の文字を判読し、書き留めておいたのは長男の太郎である。 今もよく注意してみれば、辛うじてもとの文章を読み取ることができる。 義井の手で消された文章は以下であった。 なおもう一つ、墓地についてはこの前、豪徳寺などとも申したが、あれはあの当時、 東京に定住できる場合であったからで、今日としてはどこでもよい。 殊にまた、遺骨は帰らぬだろうから墓地についての問題はほんとに後まわしでよいで す。 もし霊魂があるとしたら、御身はじめ子供達の身辺に宿るのだから、居宅に祀ってく れれば十分です。 「墓の話は、母には辛すぎたのでしょう」と太郎は言う。 米軍上陸 ・地下陣地は、戦闘が始まる前からその価値を大いに発揮した。 上陸の前哨戦として島に加えられた圧倒的な砲爆撃から将兵たちを守ったのである。 硫黄島が太平洋戦争始まって以来最大の空襲と艦砲射撃に見舞われたのは、昭和19年 12月8日のことだった。 真珠湾攻撃からちょうど3年目、明国にとっては屈辱の記念日である。 ・この日だけで、硫黄島に飛来した戦闘機と爆撃機はのべ192機、投下された爆弾は、 800トンに達した。 また、重巡洋艦3隻、駆逐艦6隻から6800発におよぶ艦砲射撃を受けている。 日本軍は地上では10機の飛行機を失ったが、地下陣地に損害はなく、死傷者も少なか った。 ・それまで間歇的に行われてきた砲爆撃は、この日から上陸まで1日も休まず、実に74 日間連続で行われた。 スミス中将ら米軍の指揮官を驚かせたのは、この間、太平洋のどの戦場をも上回る量と 密度の砲弾を撃ち込んだにもかかわらず、陣地が着々と増え、堅固になっていったこと である。 ・空爆や艦砲射撃が始まると、兵士たちは全員、地下に潜る。 終わればまた地上に出て作業を続ける。 しらみつぶしの砲爆撃に、地上では一木一草にいたるまで死に絶えたが、地価は無傷で あった。 ・米海兵隊公刊戦史「硫黄島」によれば、74日間に投下された爆弾は計6800トン。 米軍にしてみれば、島そのものが消えてなくなってもおかしくないほどの砲爆撃だった。 しかし、偵察機が撮影した航空写真によれば、爆撃を開始した時点で450だった主要 陣地が、上陸直前には750に増えていたのである。 ・艦砲射撃に続いて行われた空爆もまた壮絶なものであった。 激しい爆撃によって、摺鉢山の山頂4分の1が吹き飛んだほどである。 それでも日本軍は夜になると、地上に出て陣地の修復作業を行った。 米軍の官邸から照明弾が打ち上げられると地下壕に退避し、暗くなるとまた這い出して いくのである。 ・黒こげになったステーキのようなこの島に、生きて呼吸している者がいるなどというこ とがあるだろうか? この上陸作戦は、もしかすると意外に簡単に片がつくかもしれない。 海兵隊員たちの頭を楽天的な予想がよぎった。 彼らは間違っていたのである。 ・上陸開始時刻は、午前9時ちょうどの予定だった。 最初の上陸用船艇が海岸に到着する。 栗林が予想した通り、上陸地は島の南海岸だった。 日本軍はまったく抵抗せずに上陸を許した。 そして、狭い海岸が兵員と物資、弾薬でいっぱいになった午前10時過ぎ、はじめて攻 撃を開始したのである。 砲弾や銃弾が海岸に降り注ぎ、砲身を下に向けてあった大砲や対空砲が、上陸用船艇を 狙い撃ちにした。 ・もっとも威力を発揮したのは、噴進砲だった。 噴進砲とはロケット砲の日本式の呼び名で、砲弾が自分自身の力で飛んでいくのが特徴 である。 大砲のように大がかりな発射装置を必要とせず、製造・輸送が簡単だったことから、 昭和18年頃から南方の戦地に送られて活躍した。 栗林が軍中央から受け取った兵器の中でも特に殺傷能力が高く、硫黄島守備隊の善戦の 要因ともなった。 ・南海岸の黒い砂はやわらかい火山灰でできている。 しかも地形は段丘状である。 上陸した兵士たちは、一歩踏み出すたびに足首までのめり込んでしまう。 コーヒーの粉のような砂に足をとられて、なかなか段丘を越えることができない。 まるでラッシュアワーのように海岸には兵士たちがひしめいていた。 ・そこへ雨あられと砲弾が降ってきたのだからたまらない。 砂浜には遮蔽物はなく、塹壕も掘りようがない。 引き返すことも進むこともできず死傷者が続出した。 噴進砲の威力はすさまじく、砲弾が命中すると米兵の四肢はばらばらになって吹き飛ん だ。 その悽惨な状況は米兵たちを震えあがらせ、海岸は一時パニックとなった。 ・上陸阻止にこだわらず、いったん上陸させておいて近い距離から狙い撃ちにする栗林の 戦略は功を奏した。 この日1日で566人の米兵が戦士または行方不明となり、1755人が負傷し、99 人がいわゆる戦争神経症でそれ以上戦えなくなった。 これは3万1000名の上陸部隊の8パーセントにのぼる。 ・もちろん日本側にも大きな損害が出た。 水際の陣地は1日目で戦闘力をほぼ失ったが、これはいわば織り込み済みのことであっ た。 栗林は水際で決着をつけるつもりはなく、できるだけダメージを与えた後は、後方の主 陣地で戦い、さらに最後には複郭陣地にたてこもって抵抗するつもりだった。 ・日没は、午後6時45分だった。 疲れ切った海兵隊員は、しかし夜が来てもなかなか眠ることができなかった。 日本軍の”バンザイ突撃”がいつやってくるかわからないからだ。 ・上陸日の夜には大規模なバンザイ突撃があると米軍は確信していた。 これまで戦った太平洋のすべての島でそれは行われた。 日本刀を振りかざした将校、銃剣や手榴弾を持った兵士。奇声と怒号、連呼されるバン ザイ・・・。 米軍にとってバンザイ突撃は嫌悪と脅怖の対象だったが、同時に日本分の兵力を一気に 減少させるチャンスでもあった。 無謀に突っ込んでくる日本兵士たちは、すぐに総崩れになるからだ。 ・昼間の水際の戦闘と夜間のバンザイ突撃によって、日本軍の戦闘能力は初日で急激に低 下するのがこれまでの常だった。 硫黄島が5日間で落ちると考えたのも、それを計算に入れてのことだったのである。 骨踏む島 ・現在、自衛隊の飛行場があるのは、戦時中、日本軍の元山飛行場だったところである。 米軍が奪取したこの飛行場は、死守しようと戦った日本兵のおびただしい遺体が遺され た。 本土攻略に向けて滑走路の整備・造成を急いだ米軍は、遺体を回収しないまま、その上 にアスファルトを敷いたといわれている。 ・昭和43年、硫黄島を含む小笠原諸島は日本に返還された。 この飛行場を引き継いだ自衛隊は、米軍の滑走路を少しずらした位置に新しい滑走路を 建築した。 その際、緊急発掘として一帯の33か所を掘り、できるかぎり遺骨を収集したが、まだ 数多くの遺骨が埋まってるはずだという。 ・この滑走路を現在使用しているのは、実は自衛隊だけではない。 米軍の空母艦載機の夜間発着訓練が行われているのだ。 住民がいないので騒音問題はなく、絶海の孤島でほかに灯りもないため、飛行場を海に 浮かぶ母艦と見なして訓練するのに最適なのである。 自衛隊機と米軍機の両方が、日本兵の遺骨の上で発着を繰り返していることになる。 ・硫黄島で戦った日本軍2万余のうち、実に95パーセントが戦死。 生き残ったのは捕虜となった約1000名のみであり、そのほとんどが重症を負って米 軍に収容された者だという。 ・昭和45年から本格的な遺骨の収集作業が進められているが、今なお1万3000柱を 超える遺骨が地下に眠っている。 この島の上を歩くことは、それがどこであっても、すなわち骨を踏んで歩くことなのだ。 ・その中に、おそらくは栗林の骨もある。 玉砕を覚悟した最後の出撃に際し、将軍は陣の広報で腹を切るのが当時の通例だった。 しかし栗林はそれをあえて破り、みずから陣頭に立った。 ・戦闘の後、敵将の敢闘ぶりに敬意を表した米軍が遺体を捜索したが、階級章を外してい たため発見できなかったという。 栗林は部下の兵士たちと同じく、誰のものともわからぬ骨として島の地下に眠ることを 選んだのである。 ・現在の硫黄島に住民はいない。 海上自衛隊と航空自衛隊が合わせて350名ほど常駐するほかは、使節後事関連の防衛 施設庁職員および建設業者が在島するのみである。 米軍上陸前年の昭和19年夏、戦禍を避けるため疎開を余儀なくされた住民たちは、 島の日本返還後も帰島を許されなかった。 ・これといった産業がないことや、生鮮食料品をはじめほとんどの生活物資を島外から運 び込まなければならないことなどから、定住は困難とされたのである。 ・日本軍が玉砕し、島が米軍に占領されてからも、多くの日本兵たちがゲリラとなって壕 に潜んでいた。 彼らは夜陰に乗じて、あるいは米軍の陣地に切り込みをかけ、あるいは食料や水を漁っ た。 昼間はじっと地下にこもっているから、何日も何か月も日光を浴びることがなかった。 やがて食料も水も尽きて骨と皮ばかりになり意識も混濁する中、「死ぬ前に一度だけお 天道様を拝みたい」と壕から這い出したところを捕虜になったという話を生還者から聞 いた。 壕の出入り口米軍によって爆破で塞がれ、地下に閉じ込められたまま窒息死や餓死した 者も多い。 ・硫黄島に掘られた地下壕の正確な数はわかっていない。 1000を超えることは間違いないと言われ、約5000とする戦史研究者もいる。 その内部には今も数多くの遺骨が眠っているはずだが、まだ発見されていない壕が多い。 戦闘中や占領直後に米軍によって出入り口が爆破されたり、あるいはブルドーザーで壕 ごと埋められたりしたため、島が日本に返還されたときにはすでに場所を突き止めるこ とが難しくなっていた。 ・摺鉢山の山頂にはもちろん日本側が立てた記念碑もある。 勝利を記念したアメリカとは違い、慰霊を目的としたものである。 黒い御影石のどっしりした作り。各県から持ち寄った石で日本地図が描かれているのは、 硫黄島で戦った日本兵の出身地がほぼ全国にわたるためであろう。 ・この島で戦ったほとんどの将兵が、職業軍人ではなく市井の人々だった。 農民、商店主、サラリーマン、教師、そして出陣学徒。それぞれの故郷で普通の生活を 営んでいた人たちが召集され、この島に送られたのである。 ・「硫黄島戦歿者顕彰碑」と削られたこの碑は、島が日本に返還されてからちょうど1年 後に建立された。 まるで両手でVサインをしているようなアメリカ側の碑と、全国から召集されたごく普 通の庶民がここで散っていったことを表した日本側の碑。 ・その南海岸で”名誉の再会”と名づけられた記念式典が行われたのは、戦後40年を経た 昭和60年のことである。 それは、かつて敵味方として戦った日米の元兵士たちが一堂に会するイベントだった。 目的は、両国の戦死者をともに弔い平和を誓い合うこと。 あれほど多くの犠牲者を出した凄惨な戦いの当事者同士が、戦場となった場所で合同式 典を行う話は例がない。 しかしそれは実際に行われたのである。遺族を含め、日米合わせて400名近くが参加 した。 ・日米合同の慰霊追悼式は、現在も毎年続けられている。 かつて殺し合った者同士の再会と和解が、硫黄島に限って実現したのはなぜなのだろう か。 ほとんど顔をつきあわせるようにして激烈な接近戦を演じ、互いに死力を尽くしたから こそ、歳月を経て許し合い理解し合う関係になれたということなのか。 それは戦った当事者以外にはわからないことであろう。 ・この式典が行われた南海岸には記念碑が建てられた。 そこには日本文と英文で、次のような文章が刻まれている。 硫黄島戦闘四十周年に当たり、かつての日米軍人は本日ここに、平和と友好のうちに 同じ砂浜の上に再開す。 我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦ったことを銘記すると共に、硫黄島 での我々の犠牲を常に心に留め、かつ決してこれを繰り返すことのないように祈る次 第である。 兵士たちの手紙 ・栗林は留守宅へ便りを出すことと送金することを奨励していた。 米軍上陸前、兵士たちは訓練と陣地構築のかたわら、せっせと家郷への手紙を綴った。 硫黄島からは遺骨や遺品がほとんど還らなかったため、多くの遺族が戦地からの便りを 形代として大切に保管している。 ・兵士たちもまた、家族からの手紙を心待ちにしていた。 空襲の合間を縫って将兵と家族の心の絆となる手紙を運んだのは、木更津の1023航 空隊である。 人員や機材、薬品や飲料水などと一緒に、かならず手紙の束が積み込まれた。 輸送便は非武装であるため、危険を冒しての往復だった。 ・手紙を運んだ航空便は、戦場と家郷をつなぐ細い糸であった。 それが断ち切られたのは、いよいよ情勢が緊迫し、米軍上陸近しと思われた2月11日、 紀元節の日である。 「本日をもって郵便止めとする」 その報せを、兵士たちはどんな思いで聞いたのだろうか。 ・当時、将兵がどこへ送られたかを家族が知ることはなかった。 戦地へ手紙を出す場合の宛先は、硫黄島の場合、「千葉県木更津通便局付」であり、 そのあとに第百九師団をあらわす「膽」という文字符(一種の暗号名)と部隊名を記す ことになっていた。 届いた便りの文面から南方であることはわかっても、どこであるかはわからなかったの である。 戦闘 ・米軍は、摺鉢山に”ホット・ロックス(熱い岩)”という暗号名をつけていた。 このホット・ロックスの山頂に星条旗が翻ったのは、2月23日午前10時のことであ る。旗は小ぶりなものだったが、狭い島内ではほとんどの海兵隊がこれを目にすること ができた。 島の象徴ともいえる山を征服した感激に、ある者は歓声を上げ、ある者は涙を流し、 ある者はヘルメットを振り回して口笛を吹いた。海上の感染は一斉に汽笛を鳴らした。 米兵たちが熱狂したのは、上陸からこの日までの自軍の損害があまりに大きかったから だ。 ・ところで、新聞の一面を飾り、のちに切手や銅像となった6人の兵士の写真はこのとき 写されたものではない。山頂での国旗掲揚は、実は二度行われている。 一度目の国旗掲揚の直後、この旗を取り外して記念に持ち帰るべきだと考えた者がいた。 チャンドラー・W・ジョンソン中佐である。 ・記念すべき本物の旗は早めに確保しておき、代わりの旗を立てればいい。 どうせなら、もっと大きい旗がいいんじゃないか。 そう考えたジョンソン中佐は、別の旗を探して山頂に届けさせた。 こうして最初の旗は降ろされ、代わりの旗があらためて掲げられた。 AP通信のカメラマン・ジョー・ローゼンソールが撮った有名な写真は、この二度目の 掲揚の瞬間をとらえたものだ。 海兵隊の報道班員が撮った最初の掲揚写真よりも早くグアムに送られ、また構図や光線 の具合などが素晴らしかったことから、こちらの写真が大々的に新聞を飾ったのである。 ・人物の配置から哈達の翻り具合まで、あまりにもぴたりと決まっていたため、カメラマ ンがポーズをつけたのではないかという説も流れたこともあったが、遅れて現場に着い たローゼンソールがたまたま二度目の掲揚に立ち会い、夢中でシャッターを切ったとい うのが真相だという。 ・日本でも、この歴史的な写真を目にしたことのある人は多いに違いない。 しかし、星条旗のポール、つまり旗竿に使われたものが何であったのかを知る人は、 ほとんどいないはずだ。 ジョンソン中佐は、摺鉢山にのぼる部下に旗を渡したが、掲げるためのポールは渡さな かった。 最初の掲揚のときも二度目の掲揚のときも、海兵隊員は山頂でそれを”調達”したのであ る。 旗を結びつけるのにうってつけのものを見つけたのは、ロバート・リーダー伍長とレオ ・J・ロゼック一等兵だった。 山頂付近の瓦礫の中に、鉄製の細いパイプが落ちていたのだ。 ・それは、日本軍が雨水を集めて利用するために作った貯水槽に取り付けられていたもの だった。 海兵隊員たちにとってそのパイプは、瓦礫の中から拾ったガラクタでしかなかった。 しかし日本兵たちにとっては、それ以上の何ものかであった。 水のない苦しみを経験した者でなければ、冷たい水が飲みたいと言いながら死んだ戦友 を看取った者でなければ、その薄汚れたパイプの価値はわからなかったはずだ。 ・米兵たちは、缶詰の水を飲料水としていた。 ある日本兵は、戦闘のさなかに「アメリカ兵は缶詰の水を飲んでいるという噂を聞いた が、米軍の揚陸艇には、18リットルの水が入った缶が、一隻につき6000本積み込 まれていたのだ。 揚陸艇は計73隻。海兵隊たちは硫黄島を地獄に例えたが、少なくとも彼らが渇きに苦 しむことはなかった。 ・アメリカの勝利と占領の宣言である、硫黄島の星条旗。 それが結びつけられたのは、2万余の日本兵にとって生命をつなぐ道具だったものの残 骸であった。 この奇妙な残酷な取り合わせは、比類なく完璧な写真の中に定着し、今なお全世界の人 々の目にさらされ続けている ・摺鉢山の山頂に最初の星条旗が立てられた直後、数人の男たちがモーターボートで硫黄 島に上陸した。 降り立ったのは、米軍がグリーンビーチと名づけた、南海岸で摺鉢山に最も近いエリア の一角である。 4日前、海兵隊員たちの足をもつれさせ、戦車のキャタピラを使い物にならなくした黒 い砂の上に、ふたりの男が並んで立った。 そこからは、摺鉢山の山頂に翻る星条旗がはっきりと見えた。 ・カーキ色の軍服の上にグレーのセーターをはおった男が、横に立つ男にこう話しかけた。 「ホーランド、これで海兵隊は今後500年間安泰だな」 ホーランドとは、スミス海兵隊中将のファースト・ネームである。 これが最後の戦闘指揮となる老いた将軍は、”マイ・マリーンズ”が成し遂げた快挙と、 そこに至るまでの犠牲を思って目を潤ませた。 ・セーター姿の男は「ジェームズ・V・フォレスタル」。米国海軍長官である。 彼は海兵隊の硫黄島上陸作戦を自分の目で見ようと、はるばる太平洋までやって きていた。 そしてこの日、長官の身に危険が及ぶのを怖れる側近たちの反対を押し切って、上陸を 敢行したのである。 7か月前にはノルマンディの海外にも自分の足で立ったフォレスタル長官は、硫黄島の 橋頭堡(上陸作戦の拠点)を視察すると言い張った。 ・スミス中将が指揮していたのは海兵隊の遠征部隊である。 指揮系統でいうと、その上に統合遠征軍の指揮官である「リッチモンド・K・ターナー」 中将がおあり、その上に第五艦隊司令官挺の「レイモンド・A・スプルーアンス大将」、 そのまた上に太平洋方面最高指揮官の「ミニッツ大将」、ということになる。 海軍長官のフォレスタルは、さらに高位になる海軍のトップである。 ・スミス中将は、まさか海軍長官を一人で上陸させるわけにもいかず、フォレスタルの側 近らとともに自分の硫黄島の土を踏んだ。 おかげで歴史的な瞬間を目にすることができたのだった。 ・フォレスタル長官がスミス中将に「これで500年間安泰」と言ったのには理由がある。 海兵隊は海軍の付け足しのように扱われ、創設以来、不要論が持ち上がることもしばし ばだったのである。 ・敵前上陸を敢行し後続部隊のための陣地確保を行う海兵隊は、敵と最初に接する部隊で あり、危険に身をさらす確率が高い。 しかし、陸海空の3軍と同じレベルの敬意が払われることはなく、荒くれ者の集団と見 なされることが多かった。 その危険で過酷な任務に見合う評価を、一本の星条旗が今後500年間にわたって保証 してくれる。そうフォレスタル長官は請け合ったのである。 ・翌24日、フォレスタル長官を乗せた艦艇はグアムに向けて出発した。 彼は、見るべきものはすでに見たと思っていた。 上陸は完了し、島の要衝である摺鉢山もすでに確保されていたからだ。 ・しかし、戦いは終わったわけではなかった。 フォレスタル長官も、星条旗掲揚の写真に熱狂したアメリカ国民も知る由もなかったが、 硫黄島を完全に占領するまでに、海兵隊はさらに30日を要することになる。 それはまさに血みどろの30日間となった。 ・あの歴史的な瞬間に摺鉢山の頂上にいた40人中、自分の足で歩いて帰りの船に乗り込 んだ者はわずか4人。残りの36人のうち、運のいいものは担架に乗せられて島を去り、 運の悪い者は死体となって島に埋葬されることになる。 ・米軍上陸から4日で摺鉢山が陥落したことは、栗林にとって痛手だった。 最終的な決戦を行うのは島の中央から北部にかけての陣地であり、いずれこの山を失う のは仕方がないと思っていた。 しかし摺鉢山の守備隊には、せめて10日は持ちこたえて敵を釘付けにしてほしかった のである。 ・摺鉢山が早期に落ちた最大の理由は、元山地区(島の中央部)とをつなぐ地下道の完成 が間に合わなかったことだ。 米軍上陸間に日本軍が作り上げた地下道は全長18kmに及んだが、摺鉢山と元山地区 の間はまだつながっていなかった。 そのため、両者の間にある千鳥が原を米軍が占領すると、摺鉢山は孤立してしまった。 ・もし摺鉢山ー元山地区間の地下道が完成していれば、地上を通ることなく両方の陣地を 行き来することができ、連絡が容易になるのはもちろん、兵員や武器弾薬の移動もでき るはずだった。 地下道を構築するための資材がもっとあればと、栗林は臍を噛んだに違いない。 ・南海岸から上陸した米軍は、左手方向に進んで摺鉢山を攻略する一方で、別の部隊が右 手、つまり北東に向かって攻め上った。 対する日本軍は、主陣地第一線、主陣地第二線、そして複郭陣地と、三層にわたって構 築した陣地でこれを迎え撃った。 火砲は地表の凹凸や地下陣地を利用して巧みに陰蔽され、砲兵もまた地下に潜って敵を 待ち受けた。 ・米軍が最も手に入れたがっていたのは、島の中央にある元山飛行場である。 日本軍の主陣地第一線と主陣地第二線は、この元山飛行場をちょうど挟む形で手前と後 ろに配置されていた。 ・元山飛行場を目指して進んでいた海兵隊弾四師団および第五師団は、日本軍の頑強な抵 抗に遭って多くの犠牲を出した。 そこで米軍は、摺鉢山を落とした翌日の2月24日、予備師団である第三師団の投入に 踏み切る。 米軍の投入総兵力は、海兵三個師団基幹約6万1000人にふくれあがり、この日から 4日間にわたる元山飛行場付近での戦闘は熾烈なものとなった。 ・米軍の戦い方は、あくまでも力にものを言わせた正面突破だった。 戦車を先頭に、砲爆撃部隊がロケット砲を乱射しなから北進する。 その後に続く歩兵部隊が、トーチカや地下壕を火炎放射器や手榴弾、高性能爆薬でひと つひとつ潰していく。 ・対する日本軍は、巧妙に偽装した銃眼から火砲を浴びせ、さらに迫撃砲や噴進砲を集中 的に発射した。 米軍の圧倒的な火力で劣勢となると、いったん地下陣地へ潜り、縦横に張り巡らされた 地下道を通って思いがけない位置から攻撃を再開する。 地下道には有線電話が通じており、部隊間で連絡を取り合いながらの戦闘が可能だった。 ・これこそが、栗林が考え抜き、8か月にわたって準備してきた戦い方である。 兵士たちが血と涙を注いで掘った地下壕と地下道は、出撃前の待機所であり、敵の砲火 から身を隠す待避所でもあった。 同時に、戦闘中も絶えず行われた空襲から身を守る生活の場となり、食糧・弾薬の貯蔵 庫となった。 ・日本兵は、破甲爆雷(戦車の装甲を破壊する爆弾)を抱いて穴から飛び出し、戦車に体 当たりして爆発炎上させることもあった。 戦車に対する肉薄攻撃では本来、爆薬を戦車のキャタピラに投げ込み、自身は退避する。 しかし実戦においては体当たりを敢行する兵士が多かった。 そのほうが確実に戦果をあげられるからだ。 もちろん自分の身体も爆薬とともに砕け散る。 空における特攻隊と同じことが地上において行われたのである。 ・死力を尽くして戦った日本軍だったが、兵力を増強して虱潰しに砲撃を加えてくる米軍 によって2月26日までに元山飛行場を喪失する。 27日の夕方までに日本軍の兵力は50パーセントに低下、火砲・弾薬は3分の1に減 少していた。 特に野砲と中迫撃砲の弾薬は当初の保有量の約10パーセントにまで激減した。 ・米軍の火力に対し、火力でもって応戦できる状況は、ここにおいて終わったといってい い。 戦闘らしい戦闘はこれ以後望めず、この先も戦おうとするなら、それは死よりも苦しい 出血持久戦となる。 しかし栗林は全将兵に対し、死を急ぐことを許さなかった。 潔い死を死ぬのではなく、もっとも苦しい生を生きよ。そう兵士たちに命じることが、 極限の戦場の総指揮官たる栗林の役割なのであった。 ・硫黄島の兵士たちは、陣地構築で体力を激しく消耗しながらも訓練を怠らず、自らを鍛 えあげていった。 何よりも、何としても日本の国土である硫黄島を守り抜き、内地への空襲、そして米軍 の本土侵攻を防ごうという気迫が、彼らを精鋭に仕立て上げたのであろう。 ・実際に先頭に入ると同時に栗林が開始したのは、部下将兵の功績調査とそれにもとどく 感状(最高指揮官からの表彰状)の授与、そして進級の申請である。 ・栗林は将兵の功績を念入りに調べさせて感状を授与し、上聞に達するよう処理している。 上聞に達するとは天皇に伝えられることで、当時としては破格の名誉である。 公刊戦史には栗林が授与した4通の感状が収録されているが、そのすべてが上聞に達し たと記録にある。 こうしたまめさは太平洋戦争のほかの戦場の指揮官には見られない。 おそらく部下の働きに少しでも報いようとしたのであろう。 栗林の直属である副官部の担当官は戦闘のさなか、危険を冒して各部隊へ感情の伝達に 赴いた。 ・感状は大本営にも伝達され、公式の記録に残る。 いつどこで誰がどのような働きをしたかが具体的に記されるため、生還者が少なく戦闘 の記録もほぼ散逸した硫黄島では、どのように戦いが展開したかを知る手がかりともな るのである。 ・また、公式の記録に残るということは、留守宅の家族に伝わるということでもある。 当時それは一門の誉れとなったのはもちろん、夫や父、息子が戦場でとう戦ったかを知 ることは、残された家族の心の慰めとなったのではないだろうか。 ・もちろん感状を授与された将兵のみが勇ましく戦ったのではない。 連絡が途絶えて報告のできなかった、あるいは部隊が全滅したために記録に残らなかっ た、感状級の武勲の数々があるに違いない。 ・さらにいえば、硫黄島では武勲を立てることだけが戦いではなかった。 手当てされることなく衰弱死した負傷兵もいれば、壕を塞がれて窒息死させられたり、 ガソリンを流し込まれて焼き殺された兵士もいる。 銃弾の雨の中を伝令に走ったり、仲間のために水を探しに行って帰って来なかった者も いる。 ・戦場の死はどれも無惨である。 しかしもし、戦史が”名誉ある死”でありえるなら、彼らのすべてが、恐怖におののきな がら息絶えた者も、故郷に帰りたいと願いながら無念の最期を遂げた者も、名誉ある死 と呼ばれるべきであろう。 ・彼らは、自分たちが生きて抵抗しているうちは硫黄島は落ちたことにならないと信じて、 苦しい生を生き苦しい死を死んだ。 硫黄島では、生きることと死ぬこととのすべてが戦いだったのである。 ・3月上旬になると、すでに島全体の約3分の2が米軍に占領されていた。 主陣地第一線・第二線とも突破され、3つの飛行場のうちもっとも北にあった北飛行場 も奪取された。 日本軍はいよいよ島の北部に追い詰められつつあった。 ・3月4日の時点で、日本軍の残存兵力は約4100名。 指揮官の3分の2が戦死し、火砲と戦車の大部分が失われていた。 この日、千鳥飛行場の滑走路に初めて米軍機が着陸した。 サイパンを飛び立って東京を空襲したB−29が、帰路、誇唱と燃料切れで不時着した のだ。 日本軍の迫撃砲による攻撃を受け、すぐにサイパンに向けて飛び立ったが、米軍は硫黄 島攻略の成果を着々と形にしつつあった。 ・一方、砲弾の尽きかけた日本軍の戦いはゲリラ戦に移行していた。 米兵はじりじりと迫ってくる。 日本兵は後退せず自分の陣地を死守しようとする。 いきおい両者は互いの顔が見えるほどの距離で接近戦を展開することになる。 兵軍は、自軍に損害を与える怖れがあることから空からの掩護爆撃ができず、火炎放射 器や爆薬を手に進んでくる。 それに対し日本軍は、地下壕から手榴弾を投げ、あるいは小銃で狙撃して応戦する。 ・米軍の野営地への夜間斬り込みも行われた。 バンザイ突撃ではなく、少人数による計画的なものである。 最初の頃は効果があったが、そのうち米軍も慣れて対策を怠らなくなり、生きて帰らな い者のほうが多くなった。 ・負傷者のうめき声があふれる地下壕には、硫黄の匂いとともに死臭が充満していた。 壕内で死んだ者を埋葬する術はなく、兵士たちは戦友の遺体と同居するしかなかった。 食糧も残り少なくなっていたが、何より苦しいのは水のないことだった。 米軍上陸前、壕掘りのときの水不足も辛かったが、そのころは少ないながらも一定量の 水の配給があった。しかし今は、それもない。 ・栗林は、移り変わる戦争の状況を戦訓電報で克明に報告している。 硫黄島の後、米軍は台湾や沖縄に上陸してくると予想されていた。 その際の防備に少しでも役立つようにと、正確な数字の把握、敵の戦術・戦法の観察と 分析につとめたのである。 ・当時の栗林の報告を、戦後に発表された米軍の資料と照らし合わせると、彼が正確に米 軍の損害状況を把握していたことがわかる。 たとえば3月2日現在の米軍の損害を、栗林は死傷者約1万2000、戦車約200、 航空機約60と推定しているが、これは実際の数字よりも一割程度多いだけである。 ・太平洋戦争を通じて、日本軍の指揮官は、仙峡を自分に都合のよいように解釈しがちだ った。 それに対し、栗林はひたすら冷静に事実を見据えていたといえる。 ・その栗林が最後の戦訓電報を発したのは、3月7日のことだ。 硫黄島から発信された中で最も長いこの電報は,ふたつの点で異色だった。 ひとつは、蓮沼侍従武官長に宛てて書かれていることだ。 侍従武官長宛てに書くというのは、いわば”お門違い”であり、普通はまずありえない。 なぜ栗林はこんなことをしたのか。 それはこの戦訓電報の、もうひとつの異色さに関係している。 ・もうひとつの異色さ。 それは、戦訓の”中身”である。 この戦訓の中で栗林は、大本営の方針に対する率直な批判を行っているのだ。 批判の要点はいくつかあるが、まず一つ目は、後退配備での出血持久という方針に徹底 せず、水際陣地にも未練を残したことに対してである。 ・昭和19年8月の段階で、大本営は後退配備に方針を転換した。 しかしそれは、後方の主陣地に100パーセント力を注げというのではなく、水際陣地 も構築せよというものだった。 特に海軍側が、水際陣地を作ることに頑強にこだわった。 サイパンの戦訓から、敵を水際で撃滅することは無理だとわかっていながら、軍中央部 は大胆な方針転換ができなかった。 水際陣地にも未練を残したために、中途半端な防備態勢になってしまったのである。 このことを栗林は、どっちつかずの方針のために肝心の主陣地が不徹底なものになった のは大きな反省点だとしている。 ・批判の二つ目は、日本軍にはもう飛行機などないにもかかわらず、米軍の上陸直前まで、 飛行場の拡張工事を行わせたことに対するものである。 ・硫黄島はもともと”洋上の不沈空母”として構想されており、当初は確かに飛行場の整備 拡張が第一だった。 しかし米軍の上陸がほぼ確実となり、島を少しでも長く死守することが最大の課題とな ってもなおその方針を変えず、拡張工事に人員を割いていたのは不合理としかいいよう がない。 しかも使える飛行機はゼロに近かった。 苦労して拡張した飛行場は結局、米軍による日本本土空襲に使用されることになるので ある。 ・この二つの批判、後退配備の不徹底および飛行場への固執、はいずれも海軍が従来の方 針に拘泥したことによって生じたものだった。 ・硫黄島における陸海軍間の齟齬は、陣地構築のときからすでに顕在化し、米軍上陸後の 戦闘に至るまで尾を引いていた。 その原因は、中央の陸軍と海軍が対立しており、そのため硫黄島の防備方針が一本化さ れなかったことにあるとして、栗林は戦訓電報の中で、 「陸海軍の縄張的主義を一掃し両者を一元的ならしむるを根本問題とす」 と指摘している。 ・この戦訓電報は公刊戦史に収録されているが、陸海軍の縄張主義を批判し、一元化を進 言した部分だけが省略されている。 陸海軍の対立は、戦後、自衛隊の時代となっても、できれば触れたくないタブーだった ということなのだろうか。 ・栗林が硫黄島から最後の戦訓電報を発した時刻は3月7日23時、大本営が受電し参謀 次長に提出されたのが8日7時15分。 「蓮沼侍従武官長」が「木戸内大臣」を訪ねたのは9日12時30分だから、蓮沼は栗 林の電文を読んでから内大臣に会いに行ったに違いない。 戦場の第一線の現状を中央に伝えようとする栗林の意志を、蓮沼侍従武官長は確かに受 け止めたのである。 ・だが陸海軍の一元化は結局、実現しなかった。 陸海軍双方の首脳による会談も行われたが、意見は一致せず、3月26日、杉山陸軍大 臣は、陸海軍統帥一元化は困難である旨の結論を天皇に上奏する。 陸海軍の作戦思想の不統一は終戦まで続くこととなった。 ・最後の戦訓電報の締めくくりに栗林が綴ったのは、この無謀な戦争そのものへの批判と もいえる文章であった。 「防備上更に致命的なりしは彼我物量の差余りにも懸絶しありしことにして結局戦術も 対策も施す余地なかりしことなり」 ”彼我物量の差”とはつまり、国力そのものの差である。 ・戦いの現場には、優秀な指揮官がおあり、みずからの生命を顧みない勇敢な兵士がいた。 しかし彼らが流したおびただし血をもってしても埋めきれない国力の差が、はじめから あったのである。 栗林の言う”結局戦術も対策も施す余地なかりしこと”とは、硫黄島に限ったことではな く、この戦争全体を指しているのではないか。 ・現実を直視せず戦争に突き進んだ上、その場しのぎの弥縫策を繰り返した戦争指導者た ちを、この電報はきびしく指弾している。 一般の兵士たちには言いたくてもその術がなく、黙って戦うことを美学とした現場の指 揮官たちはあえて口にしようとしなかったことを、栗林は戦訓の形で主張したのだ。 ・硫黄島に来るまでの栗林は、スマートな文人肌の軍人であり、熱情に突き動かされて上 層部に楯突くようなタイプではなかった。 しかし2万余の部下の悽惨にして苛烈な戦いぶりを見て、どうしても言わねばならぬと 思ったのだろう。 最後の戦訓電報は、理路整然とした批判文であると同時に、今この時も命を落としつつ ある全将兵を代表しての、必死の抗議文でもあったのである。 ・「取扱注意}、細かな文字がびっしりと並ぶこの電報の冒頭には、筆文字で大きくそう 記されている。 大本営の手によるものである。 桐林の戦訓が、この後の日本軍の戦いに役立てられることはなかった。 最期 ・3月9日の夜は晴れていた。まだ生きている日本兵たちが、地下壕の奥深くの暗闇で、 あるいはつかの間の休息をとり、あるいは傷の痛みに呻吟していた頃、はるか8000 mの上空を通過する爆撃機の編隊があった。 金色に輝く巨大な機体、”超空の要塞”B−29爆撃機である。 グアム、サイパン、テニアンの各基地を離陸した334機は、変態を組むだけで3時間 を要し、その全長は100kmに達した。 針路は北。目標は東京である。 ・かつて米軍の爆撃機をレーダー探知して本土に警報を発し、ときには戦闘機を発進させ て迎撃した硫黄島の日本軍基地は、そうした機能をすでに失っており、B−29の大編 隊は、日本の戦闘機や高射砲の安劇をほとんど受けることなく東京上空に達した。 3月10日、午前0時過ぎのことである。 3000m以下の低空から投下されたのは、焼夷弾1665トン。 折からの強風にあおられて燃え広がった炎は下町一帯を焼き尽くした。 ・約8万4000人(10万人との推定もある)の死者、約40万人の負傷者を出し、 焼失家屋は約26万7000戸、罹災者は100万人を超えた。 ・東京大空襲の特徴は焼夷弾による火災が人々の命を奪ったことである。 使用されたM69焼夷弾は日本の木造家屋を焼く払うために実験を重ねて開発されたも ので、屋根を貫通し着弾してから爆発、高温の油脂が飛び散って周囲を火の海にする。 これを都市に投下することは一般市民を無差別に殺傷することであり、それまでは人道 的見地から米軍も使用をためらってきた。 ・しかし、軍需工場をピンポイントに爆撃するそれまでのやり方では効果が少ないという 意見を受け、陸軍航空団の「アーノルド大将」は昭和20年1月、マリアナ基地司令官 の首をすげ替える。 軍事施設のみへの精密爆撃を行ってきた「ハンセル准将」を更迭し、焼夷弾の使用に よる無差別戦略爆撃を主張する「ルメイ少将」を後任に据えたのである。 ・焼失面積は江東区、墨田区、台東区にまたがる約40km2. まず先発部隊が目標区域の輪郭に沿って焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民が逃げら れないようにしたうえで、内側をくまなく爆撃した。 いわゆる絨毯爆撃である。 ・降温の油脂が燃えるのだから、ただの火事とは違う。 火は雪崩のように地を這い、竜巻のように空に舞い上がった。 B−29の乗員の証言によれば、すさまじい火炎の熱によって乱気流が生じ、低空で飛 ぶ機体を激しく揺らしたという。 人間の力で消火することなど不可能で、人々はただ逃げまどうしかなかった。 ・激しく燃える炎が酸素を奪い、窒息死する人もいた。 鉄筋コンクリートの建物なら安全だと思い学校等に避難した人たちも、爆風のような勢 いで流れ込んでくる炎に焼かれた。 川は、炎熱地獄から逃れようと殺到した人々の死体で埋まった。 ・2時間半に及んだ爆撃を終えて帰途についたB−29の乗員が振り返ると、300キロ 離れてもなお、東京の上空が白く輝いているのが見えたという。 ・帰路、機体に損傷を受けた2機のB−29が硫黄島の滑走路に着陸した。 また14機が近くの海に不時着し、そのうち5機の乗員は救助された。 これほどの大規模攻撃でありながら、東京大空襲に参加した334機のB−29のうち、 未帰還機はわずか14機であった。 この村外の少なさには、硫黄島の存在が寄与している。 東京を焼き尽くすという大仕事を成し遂げた英雄たちを、もとはといえば日本軍が建設 した滑走路が救ったのである。 ・3月12日には名古屋を空襲したB−29のうち7機が、17日には神戸から帰る途中 の13機が、硫黄島に不時着した。 危うく生命が助かった乗員の中には、飛行機やら降りるやひざまずいて滑走路にキスす る者もいた。 ・それを見た硫黄島の米兵たちはぎょっとした。 彼らにとってこの島は地獄そのものであり、地獄の大地にキスするなど狂気の沙汰に思 えたのだ。 しかしB−29の乗員たちは、マリアナ基地まで変える遠い道のりの半ばに、この焼け ただれた醜い島が存在したことに来ことから感謝していた。 ・焼夷弾による無差別爆撃を立案し実行した司令官ルメイ少将は、先導機のパイロットと して神戸空爆の爆撃チームに参加していた。 神戸空襲後にサイパンで行われた記者会見で彼は、「硫黄島のおかげで、われわれは仕 事がやりやすくなったよ」と満足げに語ったという。 ・終戦までに不時着したB−29は、のべ約2400機。 硫黄島はおよそ2万7000名の搭乗員の生命を救ったのである。 ・不時着場として使われただけではもちろんない。 完全に陥落した後の硫黄島には、B−29を掩護する多数の戦闘機、そしてB−29そ のものも配備された。 もはや米軍は、日本のどの都市でも自在に壊滅させることができるのだった。 本土への空襲はますます激しくなり、被害は激増した。 硫黄島を奪取したことで切り拓かれた本土への空路はまさに、アメリカの勝利につなが る道であった。 ・戦闘で命を落とした兵士の数を上回る生命を救ったこと。 自国の勝利を早める空路を得たこと。 この二つをもって米軍は、硫黄島攻略戦が生んだ史上最大級の犠牲はあがなわれたと結 論づけることになる。 ・3月10日は陸軍記念日だった。 硫黄島の日本軍はこの頃すでに主陣地第二線も突破され、島の北部のごく狭い地域に追 い詰められていた。 島内の要所がすべて敵手に落ち、夜間の斬り込みで死傷者が増えるばかりの北地区の壕 を、少し前から「陸軍記念日には本土から援軍が来る」という噂が駆けめぐっていた。 「その後、4月29日の天長節には本土に帰れる」という話がつけ加えられることもあ った。 そんなことはもはやありえないと思いつつも、一縷の望みをかける兵士も少なくなかっ た。 ・硫黄島に特攻隊が来援したのは2月21日のことだった。 千葉県の香取基地を飛び立った第601海軍航空隊の第二御楯特攻隊である。 編成は、艦上戦闘機(零戦)9、艦上攻撃機(天山)6、艦上爆撃機(彗星)10。 このうち故障機などを除く21機が、硫黄島を取り囲んだ米艦船に体当たりを敢行した。 第二御楯特攻隊は、護衛空母轟沈1、空母大破1、貨物輸送船損傷1という戦果をあげ た。 これは非常に大きな成功といっていい。 日本軍の特攻攻撃によって沈んだ空母は太平洋戦争を通じて3隻のみだが、そのうちの1 隻がこのときだった。 新聞やラジオで戦火が大々的に報じられたが、硫黄島への本格的な支援はこれが最初で 最後となった。 戦闘が始まってまだ3日目だったが、軍中央部はこれ以上、硫黄島のために飛行機を使 うつもりはなかった。 そのことを、栗林はじめ硫黄島の幕僚たちはみな承知していたのである。 ・東京が猛火に包まれていた3月10日の時点で、硫黄島の戦いの帰趨は事実上決してい た。 栗林のもとには、部隊ごとの玉砕の報せが入ってくるようになっていた。 栗林はバンザイ突撃を厳しく禁じていたが、各部隊ではすでに水も食糧も枯渇し、兵の 体力も衰えている。その上、周囲を米軍に包囲されてしまえば、”進むも死、とどまる も死”という状態である。 「いっそ突撃して万歳を唱えん」と、局骰を決意する指揮官も出てくるものも無理はな かった。 ・しかし玉砕の意志を伝える無線連絡が入ると、そのたびごとに栗林は中止を厳命した。 思いとどまる部隊もあったが、敢行する部隊もあった。 栗林の命令に従って玉砕を中止し、司令部に合流するため壕を出て転進した部隊も、 多くが途中で敵弾に斃れた。 ・日本兵が戦友の遺体ばかりが増えてゆく地下壕の中で渇きに苦しんでいるとき、米軍側 の前線の数キロ後方では米兵が温かいコーヒーを飲み、シャワーを浴びていた。 日本兵が故郷からの擦れ切れた手紙を懐に息絶えているとき、米兵は航空機が本土から 運び込んできた家族の手紙を受け取っていた。 ・3月14日には、硫黄島作戦はほぼ終了したと考えた米軍による、公式の国旗掲揚式が 行われた。 掲揚のためのポールは、スリ張り山から200mほど北に立てられていた。 そこに星条旗が揚がると同時に、摺鉢山の星条旗はおろされた。 ・スミス中将はもちろんそこにいた。 ”マイ・マリーンズ”のそばに。 彼は目に涙をためて、第三海兵師団長のアースキン少将に話しかけた。 「この島の戦いは、最悪だったな」 ・その”最悪”は、まだ終わっていなかった。 スミス中将の立っているところからそう遠くない場所に、この島で死んだ兵士たちの墓 地が作られていたが、白いペンキで塗られた十字架の数は増え続けていた。 日本軍の兵士たちは抵抗をやめず、前線では死闘が続いていたのである。 この日から、最高指揮官・栗林が戦死し日本軍の組織的抵抗が終わる前までに、米軍は さらに2000人を超える死傷者を出している。 ・この頃にはもう、日本分と米軍の前線は、近いところでわずか50mの距離しかなかっ た。 砲弾も銃弾も尽きた日本兵たちが頼みにするのは、ほとんど手榴弾のみとなっていた。 しかしどの兵も、最後の一発だけは使わずに残しておいた。自決するためである。 ・北地域にある日本軍最後の拠点に残った兵力は、3月14日の段階で約900名(うち 海軍約200名)。 ただし島の中にこれだけしか日本軍の将兵がいなかったのではなく、すでに米軍の前線 が通り過ぎた地域にも壕の中で生き残っている兵士がいた。 部隊がばらばらになり、指揮する者がいなくなっても、かれらの多くはゲリラとなって 戦った。 米軍が投降を呼びかけても、応じる者はまずいなかったという。 米軍は、もうとっくに占領したと思った地域で、思わぬところから飛び出してくる日本 兵によって死傷した。 ・確かに硫黄島でよく戦ったのは日本兵だけではない。 公平に見て、海兵隊の戦いぶりもまた戦史に残る目覚ましいものだったといわなければ ならない。 ・息を引き取る間際まで、自分が流した血の海の中で指揮を続けた将校もいれば、戦友た ちの命を救うために手榴弾の上に身を投げ出して死んだ兵士もいた。 物量においては日本軍よりはるかに恵まれていた点を差し引いても、海兵隊始まってい 以来の犠牲にもひるまず前進した彼らの勇気は、米国民の尊敬と感謝に値するものだっ たといえる。 ・3月16日、栗林は最後の総攻撃に打って出る決心を固めていた。 これまで各部隊に玉砕を禁じてきた栗林だったが、このとき日本軍は南北約700m、 東西200〜500mというごく狭い範囲に封じ込められ、米軍に完全に包囲されてい た。 米軍は戦車や火砲を使って壕を圧迫し、死傷者が続出した。 この状況と、弾薬や食糧・水の残量、負傷者の数、将兵たちの体力などを計算し、総攻 撃を効果のあるものにするには、いまが潮時であると判断したのである。 ・栗林が大本営に宛てて訣別電報を発したのは、この日の16時過ぎだった。 宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする所なり 国の為重きとつめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき ・その電報が大本営によって改変されようとは、このときの栗林は知る由もない。 しかし”徒手空拳”という言葉が大本営のお偉方の心情を逆撫ででるであろうことも、 死んでゆく将兵を”悲しき”と嘆じることが帝国軍人にあるまじきタブーであることも、 わかっていたはずである。 わかっていてあえて認めたのが、この訣別電報であった。 ・出撃は、敵の圧迫が激しい司令部壕からではなく、約60m離れた来代工兵隊壕を拠点 として行うことになった。 そこには硫黄島守備隊の中核ともいえる歩兵第百四十五聯隊が指揮所を設けていた。 副官部に勤務し、この夜、みずからも来代工兵隊壕へ転進した龍前新也軍曹による証言 がある。 「三月十七日の夜半司令部壕を脱出の時も、参謀その他の将校と異なり元気なく、一見 田舎の老爺が子供らに連れられて行く状態であった。杖をつき丸腰で500名位の真中 付近で軍医部長と兵器部長と一緒であったが、参謀たちとは別々な行動を取っていた。 この時の姿が私が見た兵団長の最期であった」 ・龍前はすでに故人であるが、生前、本人から直接話を聞いた人によれば、 「ずっと衒気だった栗林閣下が、そのときは見る影もなく憔悴し、疲れ切った表情だっ た」 とも話したそうだ。 ・栗林の気力をくじいたものは何だったか。 ひとつには、部下将兵に凄惨な戦いを強いなければならなかったことだろう。 それが顔も知らない一兵卒であろうと、栗林は自分の指揮下にある兵士を、戦争のため の”駒”とは思えない人だった。 渇きと飢えに苦しみつつ米軍のすさまじい猛攻に立ち向かい、次々と斃れていった将兵 たちの、痩せ衰えた幽鬼のごとき姿は、栗林を打ちのめしたものと思われる。 ・そしてもうひとつは、東京が前例のない無差別爆撃を受けた事実を知ったことではない だろうか。 この頃までに、栗林は東京大空襲の情報を得ていたはずである。 大本営との通信はまだ確保されており、ラジオ放送も受信できていた。 当時、アジアおよび太平洋地域にいる米兵たちに向けてプロパガンダ放送を行っていた ラジオ東京(日本放送協会海外局)は、東京大空襲の直後に、日本の首都が無差別爆撃 を受けたことを報じている。 焼夷弾による火災が大惨害をもたらし、被害の中心が非武装市民であることを指摘して アメリカを強く非難したのである。 栗林が知った惨状は、想像をはるかに上回るものだったに違いない。 ・必敗の戦いの苛烈な苦しみの中に、あえて部下たちを踏みとどまらせたのは、日本国民 の惨禍かれ守るためだった。 そして自分たちが島を守り、米軍の本土侵攻を遅らせている間に、終戦交渉が進むこと を願ったのである。 日本の敗戦を予測していた栗林にとって、2万もの部下を絶海の孤島で死なせることの 意味は、そこにしかなかったはずだ。 ・それが、一般市民が犠牲になり、すでに東京は焼け野原になっているというのである。 それを知ったときの落胆と虚しさはいかばかりであったろう。 もちろん妻子の生死もわからない。 留守卓の家族は全員無事だったのだが、それを栗林が知る術はなかった。 ・それでも、戦う石まで失われたわけではなかった。 17日の夜に出撃を見合わせてからさらに8日間、栗林は総攻撃の時機をじっと待った。 精も根も突き果て、何歳も老け込んだ姿となってもなお過早の突撃を戒め、断乎として 持久を図る方針を捨てない栗林に周囲は驚嘆したことだろう。あるいはうんざりした者 もいたかもしれない。 ・確かに、B−29によって本土が蹂躙され、一般市民に戦禍が広がっている現状を見れ ば、硫黄島を死守する最大の目的は失われたといえる。 しかし、島が完全に制圧されれば、大部隊が上陸してきて滑走路が本格的に整備される。 そうなれば本土への空襲がますますひどくなることは目に見えていた。 ・最後まで粘り抜くことで本土空襲の被害を少しでも減らしたいという思いで、この期に 及んでも栗林は踏みとどまった。 また、敵により多くの出血を強要することで、終戦交渉を有利に進めることができると の考えも捨てなかったであろう。 ・さらにもうひとつ、栗林がいかに苦しくとも決してバンザイ突撃を行わなかった理由が あると私は考える。 硫黄島は軍中央部の度重なる戦略方針の変化に翻弄され、最終的に孤立無援の状態で敵 を迎え撃たねばならなかった戦場である。 ・当初、大本営は硫黄島の価値を重視し、それゆえに2万の兵力を投入したはずだった。 それがまさに米軍上陸近しという時期になって、一転「価値なし」と切り捨てられたの である。 その結果、硫黄島の日本軍は航空・海上戦力の支援をほとんど得られぬまま戦わざるを 得なかった。 ・実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰ってにっちもさっちもいかなくなったら「見込 みなし」として放棄する大本営。 その結果、見捨てられた戦場では、効果がないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが 死んでいく。 将軍は腹を切る。 アッツでもタラワでも、サイパンでもグアムでもそうだった。 その死を玉砕(=玉と砕ける)という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を 「美学」で覆い隠す欺瞞を、栗林は許せなかったのではないか。 ・合理主義者であり、また誰よりも兵士たちを愛した栗林は、生きて帰れぬ戦場ならば、 せめて彼らに”甲斐ある死”を与えたかったに違いない。 だから、バンザイ突撃はさせないという方針を最後まで貫いたのであろう。 ・米軍の包囲がゆるんだのは19日頃だった。 栗林はなおしばらく状況を見極め、24日夕方に包囲網が解かれ始めたのを見て出撃の 好機と判断した。 ・生き残った全将兵に呼びかけた電報で、「予は常に諸子の先頭に在り」と宣言したとお り、栗林は陸海軍約400名の先頭に立った。 絶望を超え、最後の気力を振り絞って。 ・最後の総攻撃の際、総指揮官は陣の後方で切腹するのが当時の常識だった。 しかし栗林はあえてそれを破ったのである。 師団長(兵団長)自らが突撃した例は、日本軍の戦史・戦例にはない。 この総反撃は極めて異例のものである。 ・栗林率いる部隊は、海岸に沿って摺鉢山方向へ南下、翌26日午前5時過ぎに海兵隊と 陸軍航空隊の野営地を襲撃した。 日本軍の組織的抵抗はとっくに終わったと思い込んでいた米兵たちはパニックに陥る。 約3時間におよぶ激烈な接近戦闘の末、米軍に与えた損傷は死傷者約170名。 生き残った日本兵な元山、千鳥飛行場に突入し、そこでほとんどが戦死を遂げた。 ・米軍は、この攻撃が栗林の指揮によるものだということを知らなかった。 バンザイ攻撃どころか物音ひとつたてず整然と攻撃してきた兵士たちに不意を突かれ、 思わぬ損害を被った。 ・栗林は途中で右大腿部に重傷を負ったが、司令部付軍曹に背負われなおも前進した。 その後、出血多量で死亡したという説もあり、拳銃で自決したという説もある。 絶命のときまで部下とともに戦った指揮官の最期を見届けた者は、一人も生還していな い。 エピローグ ・夫が硫黄島で戦死したとき、義井は40歳だった。 19歳で嫁いできて以来、家庭から出たことのなかった主婦が、子供たちを抱え、自分 が生活を支えなくてはならなくなった。 ・次女のたか子は、終戦直後、両親の実家のある長野市で、どこからか”のしいか”を仕入 れてきて露店で売っていた母の姿を覚えている。 東京に戻ってからは、中野駅の近くにわずかな場所を借り、下駄や履物を売った。 ・その後は保険外交員をし、やがて世田谷にあった紡績会社で住み込み寮母の職を得る。 たか子は高校を出るまで、母と一緒にこの会社の寮で暮らした。 その後は、台所もトイレも共同の、一間アパートに住んだ。 硫黄島で亡くなった将兵の遺族がお金を借りに来ると、「今、このくらいしかないんだ けど・・・」と謝りながら、できるかぎりの金額を渡したという。 ・「母はお嬢さん育ちで、結婚してからずっと父に守られてきました。それまでただの一 度も働いたことがなかったのに、終戦直後の大変な時期には露店で物売りまでやって、 私たちを育ててくれた。そして、兄だけでなく女の子の私も大学まで進ませてくれまし た」 ・栗林は義井に、軍人の妻として夫の名を汚さぬように生きよとは言い残さなかった。 むしろ逆のことを、硫黄島からの手紙で伝えている。 子供達の養育をよろしく頼むという意味のことを述べた後で、次のように書き記してい るのである。 「なおこれからさき、世間普通の見栄とか外聞とかにあまり屈託せず、自分独自の立場 で信念をもってやっていくことが肝心です」 ・二人の子供も巣立ち、ようやく落ち着いた暮らしを送ることができるようになったある 日、義井は夢を見た。 死んだはずの夫が、軍服姿でにこにこしながら玄関に立っている。 びっくりしていると、「いま帰ったよ」とやさしく言った。 ああ、やっぱり帰ってきてくれたんだ。 嬉しさで胸がいっぱいになった瞬間、目覚めた。 夢とわかってからも、義井の心は温かかった。 夫が、ほんとうに明るい表情をしていたからだ。 硫黄島を含む小笠原諸島が23年ぶりにアメリカから返還されるという知らせがもたら されたのは、それから間もなくのことである。 ・平成16年初夏、私は栗林の出身地である長野市松代町を訪ねた。 松代町は真田十万石の城下町で、幕末の先覚者といわれる「佐久間象山」の出身地でも ある。 ・栗林家は戦国時代から真田家関谷郷の郷士として現在の地にあった旧家である。 郷士とは、城下町に居を移すことをせず、農業を営みながら地元に住んだ武士をいう。 ・栗林の父・鶴治郎は製材業や土木建築業に励み、母・もとは使用人とともに農業を営ん でいた。 両親とも多忙であり、子供たちは幼いころから廊下のぞうきんがけや庭掃除など、家の 手伝いをした。 いわゆる地方の名家に生まれたが、贅沢とは無縁で、勤勉質素に育てられたのが栗林と いう人であった。 ・末代高等小学校から長野中学校(現・長野高校)に進んだ栗林は成績優秀、とくに英語 が得意で、外国回りの報道記者を志望していたという。 事実、陸軍士官学校のほかに、当時ジャーナリストや外交官を多く輩出していた上海東 亜同文書院を受験して合格している。 どちらを選ぶか迷ったが、教師のすすめに従って陸軍士官学校に進んだという。 ・その後は陸軍大学校、海外留学と、いわゆるエリートコースを歩んでいるが、大本営勤 務は一度もなく、政治とはまったく関わりを持たなかった。軍閥抗争とも無縁である。 陸代軍刀組の割には出世が早いとはいえず、少将になったのも中将になったのも、同期 でもっとも早い者から半年遅れだった。 経歴を見ても、軍馬を扱う部署に長く在籍したりと意外に地味で、硫黄島の総指揮官を つとめるまでは特筆すべきものはない。 ・硫黄島行きについては、辺鄙な上に生きて還れぬ戦場へ征くのを嫌がり、あれこれ理由 を並べて逃れる将軍もいた中、栗林だけが馬鹿正直に受けたとも言われる。 その後は、死地図上に知ろうともせぬままいては合理主義者だった栗林だが、生き方に おいては、前線に赴き敵弾に身をさらすころこそが軍人の本分であるという愚直なまで の信念を持っていた。 ・硫黄島に渡ってからの栗林の軌跡を辿っていくと、軍の中枢にいて戦争指導を行った者 たちと、第一線で生死を賭して戦った将兵たちとでは、”軍人”という言葉でひとくく りにするのがためらわれるほどの違いがあることが改めて見えてくる。 安全な場所で、戦地の実情を知ろうとせぬまま地図上に線を引き、「ここを死守せよ」 と言い放った大本営の参謀たち。その命を受け、栗林は孤立無援の戦場に赴いたのであ る。 ・平成6年2月、初めて硫黄島の父を踏んだ天皇はこう詠った。 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき ・見捨てられた島で、それでも何とかして任務を全うしようと、懸命に戦った栗林以下2 万余の将兵たち。 彼らは、その一人一人がまさに”精根を込め戦ひし人”であった。 ・この御製は、訣別電報に添えられた栗林の辞世と同じ「悲しき」という語で結ばれてい る。 大本営が「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し」に改変したあの歌である。 ・これは決して偶然ではあるまい。 49年の歳月を超え、新しい時代の天皇は栗林の絶唱を受け止めたのである。 死んでいく兵士たちを、栗林が「悲しき」と詠った、その同じ硫黄島の地で。 ・生家からほど遠い「竜潭山明徳寺」に栗林の墓はある。 後ろに控える小高い山は、松代大本営跡がある皆神山である。 ・末代大本営とは、本土決戦に備え、大本営や天皇の御座所、政府各省庁、放送局などを 東京から移すために建設された巨大な地下壕である。 皆神山のほか、舞鶴山、象山の3つの山で昭和19年11月から工事が始まり、20年 8月15日まで1日も休まず掘り続けられた。 ・栗林が硫黄島で地下壕掘りの指揮に汗を流していたちょうど同じ頃、生まれ育った地に おいても大規模な地下壕が掘り進められていたのである。 どちらも、国の運命を救おうと信じて構築された施設であった。 ・松代に大本営が移されることは極秘だった。 当時の設計図にも大本営という表記はなく「松代倉庫」と呼ばれていたが、栗林はここ に何が作られるかを承知していたようだ。 |