地下室の女神  :武田泰淳

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この作品は、1959年に発表された短編小説である。昭和初期における思想犯と言われ
た二人の男と一人の女の牢獄の中での情景が描かれている。その一人の女は、牢獄の中で
は「女神」と呼ばれていた。
厳しい取り調べに堪えかねて、情報をもらし仲間を裏切ることになった思想犯の一人の男
が、その後になんとか仲間の信頼を取り戻そうとするが、一度失った信頼を二度と取り戻
すことができなかった。
特にその男は、敬愛する「女神」と呼ばれた女性からの信頼を失ったことが、とても辛か
ったようだ。しかし、何とかその「女神」からの信頼を取り戻そうと、その男は努力する
のだが、無視され、むしろ危険視されるのだった。
信頼を失いということはどういうことなのかを、この作品は示しているような気がした。
信頼は、呆気なく失われるが、それを挽回することは非常に困難である。このことは、人
間関係においてばかりではく、政治の世界においても言えることだろう。一度国民の信頼
を失えば、再び国民に信頼してもらうおとはむずかしい。今のドタバタ状態の安倍政権を
見ていると、そんな思いにさせられた。

・山田の留置場入りは、それで三回目だった。大地主の息子、二十一歳、兵役は乙種で第
 一補充兵であるから、人なみな健康体だった。
・若者らしい正義感も多少はあったのであろう。多少というのは、ほんの少しという意味
 であった。非合法の新聞を読んでいて、つかまっただけの、無害無益な「犯人」であっ
 た。革命党のファンにはなれるが、大事業に参加できるがらではなかった。好奇心ばか
 り強くて、中位ぶかさや綿密さは、およそ縁のない男だった。
・彼にとっては、昭和六、七、八年の政治的秘密出版物より面白い読物は、ほかになかっ
 た。エロ小説でも探偵小説でも、とてもかなわない強烈な刺激が充満していた。天皇の
 漫画や裏切者の攻撃記事など、どこでどうやって印刷されたものやら、いずれも珍奇な
 事ばかりで、緑の樹木にかこまれた、贅沢な二階の一室に寝転んで、眺め入っていると、
 映画館でも女郎屋でも味わえない戦慄と快感をおぼえるのであった。
・その一方で山田はまた「どっちにしても、心配は要らない」と、ひとりで考えているの
 であった。革命が起これば、日本中地主というものが消滅するんだから、ぼくの生計の
 途は断たれてしまう。これはたしかに、ぼくら一家にとってまずいことだ。だがまあ、
 そうしたら、どこかの門番でもして暮らせばいい。革命が起こらなければ、地代収入は
 増える一方だし、このまま平穏無事にすぎて行くのだから、それはそれで都合がいい。
・つまるところ、革命があろうがなかろうが、ぼくという人間は、何とかやって行けそう
 なのだ。他人ほどひどいことにならずに、すみそうなのだ。
・先ず、思想犯が同じ房の中にいるか、いないか、それが山田の興味の中心であった。先
 に入っている思想犯の方が、山田より早く仲間の到来にかんづく。まるで野生の動物が、
 体臭や足音で相手をさぐりあてるように、すぐさま結びついてくるのだ。山田自身は好
 奇心とおそれがあるばかりで闘志などさらさらないのであるが、相手には、それが急に
 は理解できない。     
・相手は垢だらけ、ひげだらけ、痩せ衰えた青白い顔を緊張させて、「AかそれともYか」
 などと尋ねてくる。Aとは反帝同盟、Yとは青年同盟の意味である。山田は苦笑しなが
 ら、「いやいや、とんでもない」と、首を振る。
・いくら世間なれしない山田でも、相手が大物であるか、小物であるか次第にわかってく
 る。いわゆる大物は、三人入っていることが二三日すると判明した。いずれも留置され
 てから百日も経過している。中の一人が女で、それが一番大物だ、とバクチ打ちや、ス
 リや、不良少年たちは噂している。男の犯人の一人は、山田と同じ監房で、向かい側の
 房にもう一人の男が入っている。 
・女の監房は、便所の前にあるので、日に四五回は、そのまえにホンの数秒立ちどまるこ
 とができる。彼女が、洗面したり、調べ室に呼び出されたりする時に、なんとか彼女の
 姿を一目でも拝みたいものと、男たちは重なりあって、金網に顔をこすりつける。
・留置場では、強い男は、肉体的のみならず、精神的な支配者になる。痩せ衰えて、いま
 にも倒れかかりそうな男でも、長期間、閉じ込められている奴は、一種の強者なのだ。
 まして、それが女性となれば、彼女の強さは、一種のセックス・アピールともなり、た
 とえカボチャのような顔をしていても、スター級の重量をくわえてくる。孝か不幸か、
 その女思想犯は、眼玉の大きい、顔だちのはっきりしたすばらしい美女であった。
・強盗や詐欺漢にとってさえ、彼女は、「そうとうな代物」なのであるから、同系列の事
 件で逮捕された二人の男にとっては、どうしても、男の意地にかけて、守り抜かねばな
 らぬ神聖な女神であるにちがいなかった。
・その証拠には、山田の房内で、青山(彼女の名前)について、猥談ふうの噂話が開始さ
 れるや否や、角(彼女の同志)はたちまち、眉をしかめ、声を震わせて怒るのであった。
 そればかりではなく、角は同胞の男たちの猥談を面白がる山田を、はげしい嫌悪の念を
 むき出しして、睨みつけるのだった。
・山田の眼から見ても、角は裏も表もない好人物の如く思われた。看守に殴られて眼鏡を
 割られたあと、彼の表情はどこか鈍い、とりとめのないところがあった。この印刷工は、
 肩つきなどガッシリしていたが、呼吸器でもわるいのか、低いしゃがれ声しか出せなか
 った。
・「あの女、偉いのかね」と、バクチ打ちはいった。「あの女のほうが、角さんより上役
 じゃねえのか。あの女には頭が上がらないように見えるからな」「あれが中央本部なん
 だろう。きまってるさ」と、硬派の不良少年がわかりきったようにいった。
・「なあに、角さんはあの女の惚れてるんだ」と、不良少年がバクチ打ちにいった。「だ
 けど俺の見るところじゃ、あの女、角さんを問題にしていねえな。同志なら、もう少し
 なんとか角さんに色眼ぐらい使ったらどうなんだ」「僕もそれは不思議に思ってるんだ。
 あの女はきっと、向かいの房にいる黒木に気があるんだ。黒木の方が色男だし、さっそ
 うとしているからな」 
・たしかに、黒木という人物は、姿勢もシャッキリした長身の美青年だった。大実業家の
 御曹子とかいうことで、房に出入りにも、態度が実にゆったりしていた。どちらかとい
 えば、貧乏くさい感じのする角にくらべ、いかにも厳然とした彫りの深い顔付きをして
 いた。
・男二人、女一人の大物たちはもちろん拷問を受けていた。特高の誰かの咳ばらいや足音
 で、今度は三人の大物のうち誰が呼び出されるかと、山田たちは息をのむのだった。誰
 が一番先に参るかという見物人の興味もあった。二階の調べ室で、三人のうち、誰がど
 んな表情、どんな態度で抵抗しているか、泣き声をあげているか、無言でいるか、それ
 とも灰皿を振り上げて相手に投げつけたりしているのか、それらの事実は断片的にしか
 伝わってこなかった。
・三人の誰もが、這いずるようにいて、自分の房に戻ってくることがある。そんな時には、
 被害者が、どんな格好で、どんな眼の色を示すか、一同が見まもるのであった。三人は
 お互いに、他の誰にもわからない暗号で示し合わせているらしく、しかし、すれ違った
 り、眼くばせしたりしている時の三人の様子では、青山と黒木は、冷酷といいたほど冷
 静であった。印刷工の角だけが、二人とはちがったあたりまえの人情味、丸っこい暖か
 さのようなものを示した。
・角が二人に対して、とりたてて批評したことはなかった。どこに、どんな姿で、たとえ
 ば酔っ払いの浮浪人、姦通した女房、いや、もっと戦闘的な土方、人夫の姿でスパイが
 ひそんでいるかもしれないからだ。山田もようやくわかりかけてきたことだが、昨日ま
 での忠実な闘士が、もっとも悪質なスパイになることもあり得るし、当人は、本流に沿
 って闘っているつもりでも、それが思いもかけぬ裏切りになることもあるのであった。
・便所の隅の洗面所には、和服の青山が立っていた。青山は拷問で腫れあがった腕を、水
 で冷やしていた。ぬらした手拭い(と言っても、それはちいさくちぎった布の小片にす
 ぎなかったが)で、彼女はあわせず騒がず、紫色にふくれた手首をこすっていた。彼女
 が何か山田に連絡したがっていることは、うしろ向きの彼女の肩つき、腰つき、美しい
 横顔などでわかった。 
・「角に用心しなさい。油断しないように・・・」そう、彼女は言った。
・房にかえった山田は、角に警戒するどころか、いつのまにか敬愛する女神の口から、内
 々で批判されているらしい角が可哀そうになった。角はたしかに、青山をうやまってい
 る。慕っている。熱愛していると形容していいかもしれないのだ。それだのに、青山は
 角を無視している。どころか、むしろ危険視しているらしいのだ。
・大物の拷問は、ある期間、猛烈につづくと、そのあと暴風が去ったように、ピタリと止
 まることがある。荒れ狂った豪雨がすぎて、無意味な風なぎの日が、取り調べ、呼び出
 し一つなく何ヵ月もつづくことがある。
・ちょうど角の取り調べに、その風なぎの日が来たかもしれなかった。青山と黒木が依然
 として呼び出され、いためつけられているのに、角だけに無難な日が続くのだ。その種
 の事情が、青山の警戒心と関係していたのかもしれない。角にしたって、拷問抜きの日
 が、なるべくなら続いた方が有難いにちがいなかった。しかし、自分だけが取り残され、
 青山が呼び出されていくと、角は必ず立ち上がって金網にしがみつき、彼女の後姿を食
 い入るように見送るのだった。もしかしたら、角は、自分自身が拷問を受けるより、彼
 の女神が拷問を受ける方が辛かったのではなかろうか。
・或る夜、青山が、血まみれの雑巾のようになって、二階から引き降ろされて来たのをみ
 ると、角は、仁王立ちになって喚き始めた。「拷問はやめろ!ひどい目にあわせるのを
 やめろ!」と、彼はあたりかまわぬ大声でがなりたてた。
・無論のこと、角は二人の看守に引きずりだされた。コンクリートの床の上に仰向けに倒
 され、警棒で撲られ、靴で踏んづけられた。唾を吐きかけられても、角は叫ぶのをやめ
 なかった。    
・角は、撲られても、転がされても、立ち上がって、青山の方へ近づこうと努めた。口も
 きけないほど疲れ果てた青山は、自分の房の前で、うずくまっていたが、眼だけは大き
 く見開いて、自分の方へ這いよってくる角を見つめていた。彼女の血走って輝いている
 両眼には、自分のために悪戦苦闘してくれる角に対する親しみや、情愛は少しも現れて
 いなかった。汚らしい動物が、何やら自分とは無関係に騒いでいる、とでもいいたげな
 顔つきであった。
・角の、見苦しいまでの奮闘に感動したりするのは、たった一人恵まれたお坊ちゃん山田
 ぐらいなものである。「角はどこか、弱い所があるんじゃなかろうか」いびきや寝息に
 包まれながら、山田は考える。「彼は何か、おしゃべりをしすぎたんじゃないだろうか。
 彼らの仲間の秘密を、ほんの少しにしろ、喋ったんじゃなかろうか。その内心の苦痛に
 責められて、わざと大騒ぎするんじゃなかろうか。それでなければ、あんなに青山や黒
 木が彼に対して、冷たい態度を示すはずはない。もしぼくが彼らと同じように、秘密活
 動に深入りしていたら、きっとぼくも角と同じ立場におかれることになったろうな。愛
 する女に、とことんまで軽蔑されてしまう。それは実に、辛いこったからな」
・「青山という女も、小憎らしい女だな。石か氷みたいでね。あんな女、かかあにしたら、
 亭主はたまらんぜ」「まああいつは、喋らなけりゃ、いつまでも置いとくさ。弁護士が
 ついてるわけでもなし」「角って奴は、チョロかったな」「ああ、あんなのは取扱いや
 すい」これらの雑然たる会話を、想い出し、つづり合わせて見ると、角は結局、地下室
 の監房で軽んじられているばかりでなく、階上でも軽く見られているのであった。仲間
 からも、敵からも、あるいは全く無関係な男たちからも、甘く見られ、馬鹿にされてい
 る気配であった。 
・次の日、青山が急病人となった。容態は悪化するばかりで、地下室から階上へ、またそ
 の逆へと、あわただしい足音とざわめきが、往きつもどりつした。原因が昨日の、調べ
 室における無茶な取り扱いに在るのは、わかり切ってきた。
・やがて、白衣の男と女が到着した。警察病院から駆けつけたその二人は、むさくるしく
 汚れはてた房内の男たちの眼には、まるで別世界の住人の如く、清潔で敏捷な文明人に
 見えた。 
・青山の身体は、担架にのせられ、房の外へかつぎ出された。看守が黒木の房の錠をはず
 して、黒木を呼び出した。上物の和服を着た黒木は、いつもと少しも変わらぬ冷静な態
 度で外へでてきた。「青山が病院へゆくことになったんでな。お前さんに会いたいそう
 だ」
・黒木に声をかけようとした角は、黒木が、全然こちらを見ないので止めにした。その代
 わり、角は看守に向かって、あわてて叫んだ。「俺はどうするんだ。俺だって青山に一
 言挨拶がしたいんだ」
・「お前さんはだめだよ」と、看守はそっけなくいった。「青山はお前さんに会いたくな
 いそうだ」看守は、じゃけんというよりは、むしろ憐れむようにいった。
・角は下うつむいてしまった。一人のスリが、くすりと小さな笑い声をたてた。ほかの者
 は、みんな妙に気まずくなって、沈黙をまもっていた。この印刷工が、いまどれほど眼
 の眩むような辱しめを受けているか、みんなの胸にはよくこたえたのだ。角はいま、一
 番下劣な詐欺漢にもさげすまれそうな、窮境に陥らされたのだ。女神は永久に、彼を見
 棄てたのである。 
・毛布に下から青山の腕が、たよりなく伸ばされた。黒木が、その手を握った。それを見
 つけている力が、もはや角にはなかったのであろう。角は、コンクリートの壁に額を押
 し付けていた。
・それから一週間ばかりで、山田は釈放された。今度の拘留中、山田に一番印象深かった
 のは、三人の思想犯の関係であった。とりわけ、どっやっても醜態をさらしそうな、角
 の立場、彼の悲恋であった。
・山田は少年時代から、女性に好かれやすいタチだった。そのかわり、女性を敬慕する念
 に欠けていた。女性から、精神的に高いものを求めることは、はじめからあきらめてい
 た。肉体的なもの、それも一瞬の快楽をうる以外に、しみわたるような交情などあり得
 ないと思っていた。つまり恵まれたお坊ちゃんの彼には、男神はあっても、女神はない
 のであった。 
・山田は、ふっくらした布団にねそべって、こう考える。青山という女は、たしかに頑強
 な女だ。男まさりの指導者だ。だが彼女だって、女であるにすぎないじゃないか。彼女
 だって、決して女神なんかであるわけがない。可愛い女、綺麗な女、強い女、おそろし
 い女、いじらしい女は、いる。しかし、女神なんか、この猥雑な地上に存在するはずは
 ないんだ。角だって、青山のことを女神みたいに思いつけたりなんぞしなければ、もう
 ちっと気がラクになれたはずだ。
・偶然にも、父親の顔で、山田の就職した会社に、黒木も勤めていた。社長が黒木の父親
 だった。そうでもなければ、かつての「大物」が、大手をふって、まともな職場に勤め
 ることなど、できるはずはなかった。
・黒木と山田が、ことさら会うのを避けたわけではなかった。黒木は山田とちがった部門
 の上層部にいたし、山田は山田で出張ばかりしていたから、過去の仲間と話し合うチャ
 ンスはなかった。 
・宴会の席で、二人は会った。黒木はあいからず、上物の和服がよく似合っていた。社長
 の御曹子という軽薄な明るさは、もとより見えなかった。黒木はかつでの地下室の時と
 寸分ちがわぬ、冷静な姿勢で山田に挨拶をかえした。
・もしその日の夕刊に、角の自殺のニュースがのっていなかったら、山田は決して社長の
 息子と、留置場ばなしなどする気は起こらなかったにちがいない。
・「君が入社していることは、知っていたよ」と、黒木はしずかに言った。「夕刊に出て
 いた角というのは、あの角のことなんでしょうね」「そうだよ、あの角のことだよ」と、
 黒木は淋しげに、かつあいまいな笑顔でこたえた。
・「こんな話は、今さらしたくないんだが、あの男・・・」「いいさ。話しなさいよ。別
 にどうと言うこともないんだから」と、黒木はものうげに山田をうながした。
・「あの男、ほんとにスパイだったんですか。こんな所で、妙な話だけど」「いや、そう
 じゃないだろう。ただ少し弱い人だっただけだろう。それにまア、一本気な男だったか
 ら、うねりくねって生きてくわけに、いかなかったんじゃないかな」
・「あの青山という女のひと。あの人今でも牢屋ですか」「いや、青山はね」彫りの深い
 黒木の鼻先が、急に黒いかげをおびたように見えた。「獄死したんだよ」「ヘえェ、い
 つですか」「それがね。つい一週間ばかり前のことでね。ぼくは面会にいきましたよ」
 「刑務所ですか」「そう、彼女から、来てくれと伝言があったもんでね。しかし、行っ
 たときには、もう意識はなくてね。ただ行って死顔をおがんできただけです」
・「すると角は、青山が死んだのを知っていたわけですか」「さあね」「それはわからな
 いよ。知っていたかもしれないし、知らなかったかも知れないしな。そのことは永久に
 わからないよ」
・「永久に」と言う黒木の声には、いくらかの湿った感慨がこもっていた。いくらかので
 はなく、かなりのと言ってもよかった。そして女神を発見できなかった二人の会社員は、
 めいめいの酔いと、めいめいのよろめいた足どりで、右と左にわかれたのであった。