父の詫び状 :向田邦子 |
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この本は、いまから47年前の1978年に刊行されたもので、24話から構成されてい る。そのうち、特に興味を覚えた10話を読書メモとして残した。 そのなかで、「ごはん」という話は、著者が直接体験した「東京大空襲」の話しである。 1945年3月10日の東京大空襲では、アメリカのB29爆撃機が約300機飛来し、 それから投下された焼夷弾は約50万発(約1,700トン)と言われている。 そして、それによって約10万人が焼死したと言われている。 これを大量虐殺だといわなくて何というのだろう。 アメリカのB29爆撃機から雨のように投下された焼夷弾の下では、こういう一般庶民の 生活があったのだと思うと、あらためて戦争の恐ろしさを思い知らされた。 作家で、実際に東京大空襲を直接体験した作家は少ないようだが、その中のひとりの貴重 な体験談といえる。 また「隣の匂い」では、著者は危なく悪名高いTという国会議員の愛人のひとりにさせら れるところだったようだが、この「グラマン男」とか「マッチポンプ」と言われたTとい う国会議員とはいったい誰なんだろうと興味を覚え調べてみたら、どうも「田中彰治」氏 のことのようだ。 なお、私はこの本を読んで、著者の家族が一時この仙台にも住んでいたとことがあるとい うことを初めて知った。 |
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父の詫び状 ・子供の頃、玄関先で父に叱られたことがある。 保険会社の地方の支店長をしていた父は、宴会の帰りなのか、夜更けにほろ酔い機嫌で 客を連れて帰ることがあった。 母は客のコートを預かったり座敷に案内して挨拶をしたりで忙しいので、靴を揃えるの は、小学生の頃から長女の私の役目であった。 それから台所へ走り、酒の燗をする湯をわかし、人数分の膳を出して箸置きと盃を整え る。 再び玄関に戻り、客の靴の泥を落とし、雨の日なら靴に新聞紙を丸めたのを詰めて湿気 を取っておくのである。 ・あれはたしか雪の晩であった。 お膳の用意は母がするから、といわれて、私は玄関で履物の始末をしていた。 靴の中に詰める古新聞に「御真影」がのっていて叱られたことがあるので、かじかんだ 手をこすり合わせ、気にしながらやっていると、父が鼻唄をうたいながら手洗いから出 て座敷にゆくところである。 うちの中で鼻唄をうたうなど、半年に一度あるかなしのことだ。 こっちもついつられてたずねた。 「お父さん、お客さまは何人ですか」 いきなり「馬鹿」とどなられた。 「お前は何のために靴を揃えているんだ。片足のお客さまがいると思ってるのか」 靴を数えれば客の人数は判るのではないか。 当たり前のことを聞くなというのである。 あ、なるほどと思った。 ・父は、しばらくの間うしろに立って、新聞紙を詰めては一足ずつ揃えて並べる私の手許 を眺めていたが、今夜みたいに大人数の時は仕方がないが、一人二人の時は、そんな揃 え方じゃ駄目だ、というのである。 「女の履物はきちんとくっつけて揃えなさい。男の履物は少し離して」 父は自分で上がりかまちに座り込み、客の靴を爪先に方を開き気味にして、離して揃え た。 「男の靴はこうするもんだ」 「どうしてなの」 私は反射的に問い返して、父の顔を見た。 ・父は、当時三十歳をすこし過ぎたばかりだったと思う。 重みをつけるためひげを立てていたが、この時、何とも困った顔をした。 少し黙っていたが、 「お前はもう寝ろ」 怒ったように言うと客間へ入って行った。 ・客の人数を尋ねる前に、靴を数えろという教訓は今も忘れずに覚えている。 ただし、なぜ男の履物は少し話して揃えるのか、本当の意味がわかったのは、これから だいぶあとのことであった。 ・昭和二十二、三年だろうか。 父が仙台支店に転勤になった。 弟と私は東京の祖母の終え~学校へ通い、夏冬休みだけ仙台の両親のもとへ帰っていた。 東京は極度の食糧不足だったが、仙台は米どころでもあり、たまに帰省する別天地のよ うに豊かであった。 東一番丁のマーケットには焼きがれいやホッキ貝のつけ焼きの店が軒を並べていた。 ・当時一番のもてなしは酒であった。 保険の外交員は酒好きな人が多い。 配給だけでは足り筈もなく、母は教えられて見よう見真似で「ドブロク」を作っていた。 米を蒸し、ドブロクのもとを入れ、カメの中へねかせる。 古い「どてら」や布団を着せて様子を見る。 夏は蚊にくわれながら布団をはぐり、耳をくっつけて、 「プクプク・・・・・」 と音がすればしめたものだが、この音がしないと、ドブロク様はご臨終ということにな る。 物置から「湯たんぽ」を出して井戸端でゴシゴシと洗う。 熱湯で消毒したのに湯を入れ、ひもをつけてドブロクの中へぶら下げる。 半日もたつと、プクプクと息を吹き返すのである。 ・ところが、あまりに暖め過ぎるとドブロクが沸いてしまって、酸っぱくなる。 こうなると客に出せないので、茄子やきゅうりをつける奈良漬けの床にしたり、 「子供のドブちゃん」と称して、乳酸飲料代わりに子供たちにお下げ渡しになるのであ る。 すっぱくてちょっとホロっとして、いける口の私は大好物であった。 ・客の人数が多いので酒の肴を作るのも大仕事であった。 年の暮など夜行で帰って、すぐ台所に立ち、指先の感覚がなくなるほどイカの皮をむき、 細かく刻んで樽いっぱいの塩辛をつくったこともあった。 ・働くことは苦にならなかったが、嫌だったのは酔っ払いの世話であった。 仙台の冬は厳しい。 代理店や外交員の人たちは、みぞれまじりの風の中を雪道を歩いて郡部から出てきて、 父のねぎらいの言葉を受け、かけつけ三杯でドブロクをひっかける。 酔わない方が不思議である。 締切の夜など、家中が酒臭かった。 ・ある朝、起きたら、玄関がいやに寒い。 母が玄関のガラス戸を開け放して、敷居に湯をかけている。 見ると、酔いつぶれて明け方帰っていった客が粗相した吐瀉物が、敷居のところいっぱ いに凍りついている。 ・玄関から吹き込む風は、固く凍てついたおもての雪のせいか、こめかみが痛くなるほど 冷たい。 赤くふくれて、ひび割れた母の手を見ていたら、急に腹が立ってきた。 「あたしがするから」 汚い仕事だからお母さんがする、というのを突き飛ばすようにして押しのけ、敷居の細 かいところにいっぱいつまったものを爪楊枝で掘り出し始めた。 ・保険会社の支店長というのは、その家族というのは、こんなことまでしなくては暮らし てゆけないのか。 黙って耐えている母にも、させている父にも腹が立った。 ・気がついたら、すぐうしろの上がりかまちのところに父が立っていた。 手洗いに起きたのだろう、寝巻に新聞を持ち、素足で立って私が手を動かすのを見てい る。 「悪いな」とか「すまないね」とか、今度こそねぎらいの言葉があるだろう。 私は期待したが、父は無言であった。 ・三、四日して、東京へ帰る日がきた。 いつも通り父は仙台駅まで私と弟を送ってきたが、汽車が出る時、ブスッとした顔で、 「じゃあ」といっただけで、格別のお言葉はなかった。 ・ところが、東京へ帰ったら、祖母が「お父さんから手紙が来てるよ」というのである。 いつもより改まった文面で、しっかり勉強するようにと書いてあった。 終りのほうにこれだけは今でも覚えているのだが、「この度は格別の御働き」という一 行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれてあった。 それが父の詫び状であった。 身体髪膚 ・耳といえば、こんなこともあった。 小学校六年の夏は、四国の高松にいた。 海水浴から帰ったところ右の耳がさっぱりしない。 水が残っているのである。 このとき、少女雑誌の附録で、耳に水が入った時は、豆を煎れると水を吸う、と書いて あったのを見た。 ・荒神様の神棚を探したら、隅に節分の大豆の煎ったのが転がっていたので、耳の中の一 つ押し込んで様子を見た。 確かに、水を吸ったらしく、さっきまでは頭を叩くと、プカンプカンと西瓜のような音 がしていたのに、今度はまさしく自分の頭になっていた。 ・ところが、今度は水を吸った大豆が出なくなってしまった。 楊子で突ついても、右を下にして飛んでも駄目である。 私は、右の耳の豆から芽が出て、巨大なジャックと豆の木に育ってゆく絵を、眠れない 夜の暗い天井に描いておびえていた。 ・結局、次の朝母に白状して、直ちに耳鼻科に引っぱってゆかれ、ピンセットでつまみ出 していただいた。 白くふやけた豆は、記念にとって置いたのだが、いつとはなしにどこかへなくしてしま った。 お辞儀 ・祖母が亡くなったのは、戦争が激しくなるすぐ前のことだから、三十五年前だろうか。 私が女学校二年の時だった。 通夜の晩、突然玄関のほうにざわめきが起こった。 「社長がお見えになった」 という声がした。 祖母の棺のそばに坐っていた父が、客を蹴散らすように玄関へ飛んでいった。 式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀をした。 それはお辞儀というより平伏といった方がよかった。 当時すでにガソリンは統制されており、民間人は車の使用も思うにまかせなかった。 財閥系のかなり大きな会社で、当時父は一介の課長に過ぎなかったから、社長自ら通夜 に見えることは予想していなかったのだろう。 それにしても、初めて見る父の姿であった。 ・物心ついた時から父は威張っていた。 お亜木菟をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。 地方支店長という肩書もあり、床柱を背にして上座に座る父しか見たことがなかった。 それが卑屈とも思えるお辞儀をしているのである。 ・私は、父の暴君振りを嫌だなと思っていた。 母には指環ひとつ買うことをしないのに、なぜ自分だけパリッと糊の利いた白麻の背広 で会社へゆくのか。 部下が訪ねてくると、分不相応と思えるほどもてなすのか。 私たち姉弟がはしかになろうと百日咳になろうとおかまいなしで、一日の遅刻欠勤もな しに出かけていくのか。 ・高等小学校卒業の学力で給仕から入って誰の引き立てもなしに会社始まって以来といわ れる昇進をした理由を見たように思った。 私はなくなった祖母とは同じ部屋に起き伏した時期もあったのだが、肝心の葬式の悲し みはどこかにけし飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。 私たちに見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。 父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うようにまかせない締切の時 期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨も許そうと思った。 私はいまでもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある。 ・母や子供たちにお辞儀をみせてくれたが、父は現役のまま六十四歳で、しかも一瞬の心 不全で急死したので、遂に子供には頭を下げずじまいであった。 晩年は多少折れたようなものの、やはり叱りどなり私たちに頭を下げさせたまま死んだ。 ・親のお辞儀を見るのは複雑なものである。 面映ゆいというか、当惑するというか、おかしく、かなしく、そして少しばかり腹立た しい。 自分が育て上げたものに頭を下げるということは、つまり人が負い吹けるということは 避けがたいことだとわかっていても、子供としてはなんとも切ないものがあるのだ。 細長い海 ・鹿児島の磯浜は、錦江湾の内懐にある。 目の前に桜島が迫り、文字通り白砂青松、波のおだやかな美しい浜である。 近頃は観光名所になってひどくにぎわっているらしいが、戦前は静かなものだった。 ・島津別邸もあり、市内に近いこともあって品のいい別荘地でもあったようだ。 山が河岸近くまで迫り、海に向かって名物の「じゃんぼ」を食べさす店が何軒か並んで いた。 ・「じゃんぼ」は醤油味のたれをからめたやわらかい餅である。 ひと口大の餅に、割り箸を二つ折りにしたような箸が二本差してあるので、二本棒つま り「リャン棒」がなまったのだと、解説好きの父が食べながら教えてくれた。 ・母がこの「じゃんぼ」を好んだこともあって、鹿児島にいる時分はよく磯浜へ出かけた。 海に面した貸席のようなところへ上がり、父はビールを飲み、母と子どもたちは大皿い っぱいの「じゃんぼ」を食べる。 このあと、父は昼寝をし、母と子どもたちは桜島を眺めたり砂遊びをしたりして小半日 を過ごすのである。 ・あれは泳ぐにはまだ早い春の終わり頃だったのだろうか。 いつもの通り座敷に上がって父はビールを飲み、私たちは「じゃんぼ」の焼の上げるの を待っていた。 おとなにとって景色は目の保養だが、子供にとっては退屈でしかない。 小学校四年生だった私は一人で靴をはき、おもてへ遊びに出た。 貸席と貸席の間はおとな一人がやっと通れるほどの間で建っている。 私はそこを通ってタクシーの通る道路の方を見物にゆき、格別面白いものもないので、 また狭いすき間を通って家族の煎る座敷へもどっていった。 ・その時、海の方から、一人の漁師が上がってきた。 下帯一本の裸で、すき間いっぱいになって歩いてきた。 よけようとして板にはりついた時、洋服の上から体をさぐられていた。 漁師は私に軽いいたずらをしたのである。 ・声も出ないで立ちすくんだ時、父の大きな声が聞こえた。 漁師はそのまま行ってしまった。 私はしばらくの間、板に寄りかかって立っていた。 建物と建物の間にはさまれた細長い海がみえた。 ・私はすぐには座敷にもどらず、いったん表へ出て井戸で手を洗った。 さびついたポンプが、 「ジャッキン・ジャッキン」 と音を立てた。 ごしごし手を洗ってポケットからハンカチを出して拭いた。 ハンカチの端に、母の字で、 「向田邦子」 と書かれた墨の字が、水をくぐって薄くなっていた。 初めて自分の名前を知らされたような、不思議な気持ちがあった。 ・ゆっくりとハンカチをたたみ、今度はぐるりと廻って座敷へもどった。 さっきのことは誰にも言わなかった。 漁師は若かったのか年かさだったのかも覚えていない。 なぜ声を立てなかったのか、手が汚れたわけでもないのになぜ手を洗ったのか。 どういう気持ちだったのか、判るような気もするが、言葉にしてならへると、こしらえ ごとになるそうなのでやめておいたほうが無難だろう。 ごはん ・今から三十二年前の東京大空襲の夜である。 当時、私は女学校の三年生だった。 軍需工場に動員され、旋盤工として風船爆弾の部品を作っていたのだが、栄養が悪かっ たせいか脚気にかかり、終戦の年はうちにいた。 ・空襲も昼間の場合は艦載機が一機か二機で、偵察だけとわかっていたから、のんびりし たものだった。 空襲警報のサイレンが鳴ると、飼い猫のクロが仔猫をくわえてどこかへ姿を消す。 それを見てから、ゆっくりと本を抱えて庭に掘った防空壕へもぐるのである。 ・本は古本屋で買った「スタア」と婦人雑誌の附録の料理の本であった。 クラーク・ゲーブルやクローデット・コルベールの白亜の邸宅の写真に溜息をついた。 私はいっぱしの軍国少女で、「鬼畜米英」と叫んでいたのに、ハリウッドだけは適性国 家ではないような気がしていた。 シーモヌ・シモンという猫みたいな女優が黒い光服を着て、爪先をプッツリ切った不思 議な形の靴を吐いた写真は、組んだ脚の形まで覚えている。 ・三月十日。 その日、私は昼間、鎌田に住んでいた級友に誘われて潮干狩に行っている。 寝入りばなを警報で起こされた時、私は暗闇の中で、昼間採ってきた蛤や浅蜊を持って 逃げ出そうとして、父にしたたか突き飛ばされた。 「馬鹿! そんなもの捨ててしまえ」 台所いっぱいに、蛤と浅蜊が散らばった。 ・それが、その夜の修羅場の皮切りで、おもてへ出たら、もう下町の空が真赤になってい た。 我家は目黒の祐天寺のそばだったが、すぐ目と鼻のそば屋が焼夷弾の直撃で、一瞬にし て燃え上がった。 ・父は隣組の役員をしていたので逃げるわけにはいかなかったのだろう、母と私には残っ て家を守れといい、中学一年の弟と八歳の妹には競馬場あとの空地に逃げるよう指示し た。 ・駆けだそうとする弟と妹を呼び止めた父は、白麻の夏布団を防火用水に浸し、たっぷり と水を吸わせたものを二人の頭にのせ、叱りつけるようにして追い立てた。 この夏掛けは水色で縁を取り秋草を描いた品のいいもので、私は気に入っていたので、 「あ、惜しい」と思ったが、さっきの蛤や浅蜊のことがあるので口には出さなかった。 ・だが、そのうちに夏布団や浅蜊どころではなくなった。 「スタア」や料理の本なんぞといってはいられなくなってきた。 火が迫ってきたのである。 ・「空襲」 この日本語はいったい誰がつけたか知らないが、まさに空から襲うのだ。 真赤な空に黒いB29。 その頃はまだ怪獣ということばはなかったが、繰り返し執拗に襲う飛行機は、巨大な鳥 に見えた。 ・家の前の通りを、リヤカーを引き荷物を背負い、家族の手を引いた人たちが非難して行 ったが、次々に上がる火の手に、荷を捨ててゆく人もあった。 通り過ぎたあとに大八車が一台残っていた。 その上におばあさんが一人、チョコンと座って置き去りにされていた。 父が近寄った時、その人は黙って涙を流していた。 ・炎の中からは、犬の吠え声が聞こえた。 飼犬は提出するよういわれていたが、こっそり飼っている家もあった。 連れて逃げるわけにはゆかず、繋いだままだったのだろう。 犬とは思えない凄まじいケダモノの声はまもなく聞こえなくなった。 ・火の勢いにつれてゴオッと凄まじい風が起こり、葉書大の火の粉が飛んでくる。 空気は熱く乾いて、息をすると、のどや鼻がピリピリした。 今でいえばサウナに入ったようなものである。 乾ききった生垣を、火のついたネズミが駆け廻るように、火が走る。 水を浸した火叩きで叩き廻りながら、うちの中も見廻らなくてはならない。 ・「かまわないから土足で上がれ!」 父が叫んだ。 私は生まれて初めて靴をはいたまま畳の上を歩いた。 「このまま死ぬのかも知れないな」 と思いながら、泥足で畳を汚すことを面白がっている気持ちも少しあったような気がす る。 ・こういう時、女は男より思い切りがいいのだろうか。 父が、自分でいっておおきながら爪先立ちのような半端な感じで歩いているのに引きか え、母は、あれはどういうつもりだったのか、一番気に入っていた松葉の模様の大島の 上にモンペをはき、いつもの運動靴ではなく父のコードバンの靴をはいて、縦横に走り 廻り、盛大に畳を汚していた。 母も私と同じ気持ちだったのかも知れない。 ・三方を火に囲まれ、もはやこれまでという時に、どうしたわけか急に風向きが変わり、 夜が明けたら、我が隣組だけがウソのように焼け残っていた。 私は顔中煤だらけで、まつ毛が焼けて無くなっていた。 ・大八車の主が戻ってきた。 父が母親を捨てた息子たちの胸倉を取り小突き廻している。 そこへ弟と妹が帰ってきた。 両方とも危ない命を拾ったのだから、感激の親子対面劇があったわけだが、不思議に記 憶がない。 覚えているのは、弟と妹が救急の乾パンを全部食べてしまったことである。 うちの方面は全滅したと聞き、お父さんから叱られる心配がないと思って食べたのだと いう。 孤児になったという実感はなく、おなかいっぱい乾パンが食べられて嬉しかった、とあ とで妹は話していた。 ・さて、このあとが大変で、絨毯爆撃がいわれていたこともあり、父は、この分でゆくと 次は必ずやられる。最後にうまいものを食べて死のうじゃないかと言い出した。 母はとっておきのうどん粉と胡麻油で、精進揚をこしらえた。 格別の闇ルートのない庶民には、これでも魂の飛ぶようなご馳走だった。 ・昨夜の名残りで、ドロドロに汚れた畳の上にうすべりを敷き、泥人形のような親子五人 が車座になって食べた。 あたりには、昨夜の余燼がくすぶっていた。 ・わが家の隣りは外科の医院で、かつぎ込まれた負傷者も多く、息を引き取った遺体もあ ったはずだ。 被災した隣近所のことを思えば、昼日中から、天ぷらの匂いなどさせて不謹慎のきわみ だが、父は、そうしなくてはいられなかったのだと思う。 母はひどく笑い上戸になっていたし、日頃は怒りっぽい父が妙にやさしかった。 「もっと食べろ。まだ食べられるだろ」 ・おなかいっぱい食べてから、親子五人が河岸のマグロのようにならんで昼寝した。 畳の眼には泥がしみ込み、イクサが切れてささくれ立っていた。 そっと起き出して雑巾で拭こうとする母を、父は低い声で叱った。 「掃除なんかよせ。お前も寝ろ」 父は泣いているように見えた。 自分の家を土足で汚し、年端もゆかない子供たちを飢えたまま死なすのが、家長として 父として無念だったに違いない。 それでも一個人ではどう頑張っても頑張りようもないことが口惜しかったに違いない。 学童疎開で甲府にいる上の妹のことも考えたことだろう。 一人だけでも助かってよかったと思ったか、死なばもろとも、なぜ、出したのかと悔や んだのか。 部屋の隅に、前の日に私が取ってきた蛤や浅蜊が、割れて、干からびて転がっていた。 ・戦争。 家族。 ふたつの言葉を結びつけると、私にはこの日の、みじめで滑稽な最後の昼餐が、さつま いもの天ぷらが浮かんでくるのである。 ・空襲は、ヤケッパチの最後の昼餐の次の日から、B29は東京よりも中小都市を狙いは じめ、危ないところで命拾いをした形になった。 それにしても、人一倍食いしん坊で、まあ人並みにおいしいものを頂いているつもりだ が、さて心に残る”ごはん”をと指を折ってみると、第一に、東京大空襲の翌日の最後 の昼餐。第二が、気がねしいしい食べた鰻丼なのだから、我ながら何たる貧乏性かとお かしくなる。 あだ桜 ・日本のお伽噺の主人公はほとんどが老人である。 「一寸法師」「桃太郎」「浦島太郎」「かぐや姫」「こぶ取り」「かちかち山」「花咲 かじいさん」 いずれも、おじいさんと赤んぼうであり、老人たちと身近な動物たちのメルヘンである。 血気盛んな壮年男女はほとんど姿を見せていない。 したがって外国のお伽噺のように、美しいお姫様と凛々しい騎士のロマンスは、かぐや 姫にほんの少し匂うぐらいで、あとは色模様は抜きである。 そのせいだろうか、異形の者が登場し、SFや超能力、裏切りから人殺しまで行われて も、さほど陰惨な感じがしない。 よく考えてみると、じつに恐ろしい話が多いのだが。 「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがありました」 というお決まりの語り口の中で、生臭い血の匂いは消えてしまうのだろう。 ・お伽噺の中で、一番心に残るのは「桃太郎」である。 父、母、祖母、弟や妹たちが食卓にならんで、朝ごはんを食べている。 小学生の私は、お櫃の上にノートをひろげ、国語の教科書を見ながら「桃太郎」の全文 を写し取っている。 登校の時間は迫っているのに、まだ宿題は大方残っていて、私は、半べそをかきながら 書いている。 「どうしてゆうべのうちにやっておかない。癖になるから、誰も手伝うことはないぞ」 大きなごはん茶碗を抱えた父がどなっている。 ・私は、満二歳にならないうちに弟が生まれたので、この祖母と一緒に部屋に起き臥しを し、お伽噺もこの祖母から聞いている。 当時の女にしては長身で、やせぎすの顔立ちの美しい人であったが、姿形にも性格にも おそそ丸味というものがなく、固くとがっていた。 ・私の三尺帯の結び方ひとつでも、息がつまるほど、強く結ぶのである。 お結びも母のはゆるやかな丸型だが、祖母のはキッチリと結ん太鼓型で、 「お母さんのは、あれはお結びじゃなくて、大崩だ」 と、小さな声で言っていた。 ・なるほど、祖母のお結びは滅多なことで形崩れしなかったから、遠足には都合がよかっ たが、水筒の栓も、ギュッと締めるので、子供の力では開かなくなり、いつも先生の ところへもっていって開けてもらっていた。 ・この祖母は、「一向一揆」の本場である能登の生まれだったせいか、熱心な仏教徒で夜 寝るときは必ずお経を上げていた。 私もおつきあいをさせられたのだが、この桃太郎の宿題でベソかいたすぐあとだったと 思う。お経が終わってから仏壇の前で私に歌を教えてくれた。 明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは 親鸞上人の作といわれているが、これが我が人生で最初に覚えた三十一字である。 ・祖母は、歌の意味を教え、宿題は必ず前の日のうちに済ませておかなくてはいけない。 夜中にどんなことが起こるかもしれない、といってきかせてくれた。 ・遊び好きで面白いことをまず先にしてしまい、あとになって時間がたりなくなってあわ てる私の性格を、すでにして見抜いていたことになるのだが、この頃になって、私の子 の性格は、父でもなく母でもない、この祖母からゆずり受けたものであることに気がつ いた。 ・祖母は、今の言葉でいえば、未婚の母であった。 父の違う二人の男の子を生み、その長男が私の父である。 したがって、私自身のホームドラマには祖父は、欠落して、姿を見せない。 年をとってからは、よく働く人であったが、若い時分は遊芸ごとを好み、母が嫁いでき てからも、色恋沙汰のあった祖母であった。 ・見たい芝居、着たい着物、そして好きな人には、自分の気持ちを押さえることができず、 あとさきのかんがえなくそれを先にしてしまう。 あとから、倍の苦労がくることを考えないところがあったらしい。 ・長男である父はそういう母親を最後まで許さず、扶養の義務だけは果たして死に水を取 ったが、終生、やさしい言葉をかけることをしなかった。 祖母も期待はしていなかったろう。そういうあきらめのいいところがあった。 「やったことはやったことなんだから、仕方がないよ」 というように、弁解もせず愚痴や恨みごともいわず、家族より一歩下がって、言葉少な に暮らしていた。 ・この頃になって、私は祖母が、くどいほどこの歌を繰り返して私に教え、毎晩のように そらんじさせたのは、ひょっとしたら自分にいってきかせていたのではないかと思うよ うになった。 ・末の妹に、「浦島太郎」の話をしているのを横で聞いていた記憶がある。 浦島太郎が亀の背中にのって浜辺に帰り、あけてはいけない玉手箱をあけるところで、 「浦島太郎は、白髪のおばあさんになってしまいましたとさ」 と言ったのである。 私は、 「おばあさんでなくて、おじいさんでしょ」 と言ったが、ほどきものをしていた祖母は私の声が耳に入らぬらしく、和バザミを持っ た手をとめ、この人にしては珍しく放心した顔で返事をしなかった。 ・若さにまかせ、気持ちにまかせ、好きに振る舞い、まだ大丈夫とたかをくくっているう ちに髪に白いものがまじり、時間が足りなくなって取り返しがつかなくなる。 祖母は、自分にいいきかせる形で、私に教えてくれたのだ。 ねずみ花火 ・有楽町に「ブリッジ」という有料喫茶室があった。 十五年ばかり前、私はこの店の常連だった。 昼は出版社につとめ、夕方から週刊誌のルポ・ライター、その合い間にラジオの原稿を 書くという気ぜわしい暮らしをしていたので、一時間確か五十円払えば半日でもいやな 顔をされないこの店はもってこいの仕事場であった。 ここのテレビの下が私の指定席だった。 うるさいし、首を曲げて見上げなければプロ野球もプロレスも見えないが、自分に関係 のない騒音は音楽と同じで、あまり気にならない。 うしろの席の別れ話をされたりするとかえって気が散るので、私はいつもテレビの下の、 誰も座らない席で内職原稿を書いていた。 ・この店には十人ほどの女の子がつとめていたが、中に一人とても気のつく子がいた。 十七、八の小柄な細面の子で、小まめにお茶を入れかえてくれたり、伝言なども正確に 伝えてくれた。 ・ある時、私が仕事の疲れでうつぶして寝込んでしまい、頬にビニールをバラの花形に切 り抜いたテーブル・クロスの型が赤くついてしまった時も、彼女は、笑いをこらえなが ら、蒸しタオルを何回も取りかえてくれたりした。 ・心づけ代わりにハンカチでも買ってそっと手渡そうかな、と思っていた矢先、お昼のテ レビ・ニュースに突然、被害者として彼女の写真があらわれた。 ・つき合っていた男友達に殺されたのである。 身ごもっていたこともあり烈しく結婚を迫ったのが理由だとアナウンサーは事務的な口 調でしゃべっていたが、首を絞められ古材木の浮かぶ濁った掘割に投げ込まれていたと 聞いて、私は食事をつづけることができなかった。 ・私の知っている彼女は、笑顔のあどけない人なつっこい少女だった。 話をする時、人に体をもたせかける癖が気になったが、ユニフォームの下からのぞく細 い足にはまだ充分育ち切らない稚さがあるように思った。 だが、子供っぽい薄い胸の中にはこんな修羅場を抱えていたのである。 人を見る目が幼かったのは、むしろ私の方であった。 ・ウエイトレスや看護婦さんや、ユニフォームを着て働く人を見るたびに、この下には、 一人一人、どんなドラマを抱えているのかも知れないのだ。 十把ひとからげに見てはいけない、と自分にいいきかせている。 チーコとグランデ ・学生時代に日本橋のデパートで歳末だけアルバイトをしたことがある。 私はレジスターで、最初は金物売場だった。 「臨休」がトイレで「有休」が食事といった符丁も覚え、「湯たんぽ二百円」ばかり打 つのでうんざりした頃、地価の佃煮売場へ廻された・ まだ学生アルバイトの珍しい時分で、私たちは随分可愛がってもらった。 「おいしそうねえ」と言えば、ひょいと脇の下が突かれ経木にのせたひと口ほどのハゼ の佃煮や煮豆が客から見えない高さで差し出された。 ・だがお多福豆だけは別だった。 みごとな大粒で、黒光りして並んでいた。 値段も飛び抜けて高かった。 売場責任者の中年の店員は、時々、目でお多福豆を数えるしぐさをした。 数は判っているんだぞ。 暗につまみ食いを牽制しているようにみえた。 ・雨の日だった。 これもアルバイトの男子学生が、開店前に冷蔵庫から佃煮を出してショーケースになら べる作業中、雨靴で床が滑ったのか、お多福豆のバットを取り落とし、全部床にぶちま けてしまった。 ・床は、雨靴の泥で濡れている。 売場責任者が飛んできた。 私はレジの支度をしながら、身体を固くして眺めていた。 全部でいくらの損害になるのか。 しくじりをしたアルバイト学生が顔をこわばらせて何かいいかけた時、責任者の店員は、 彼の体を押しのけるようにしてかがむと、手で床に散乱したお多福豆を素早く拾い上げ、 ショーケースに納めた。 ・開店ベルが鳴りわたり、気の早い客がチラホラ入って来ている。 責任者は、何事もなかったように、 「いらっしゃいませ」 とにこやかに声をかけていた。 ・街は特需景気でわき返り、新しい千円札が出廻りはじめていた。 美空ひばりが登場し、金閣寺が焼け、中小企業の倒産が新聞をにぎわせていた頃だった。 食糧事情はよくなったといっても、まだまだ毎日の暮らしは不安定であった。 今日はこんなことはないだろう。 だが、私はそれ以来、お多福豆を買ったことがない。 海苔巻の端っこ ・小学校の時の同級生にNという女の子がいた。 資産家の娘で、式の日には黒いビロードの服を着てきた。 二階建ての大きな西洋館の邸に住んでいたが、遊びに行って驚いたのはNが靴のままう ちへ上がることであった。 Nだけでない。 弟や妹も、二、三頭いた大型の飼犬までも泥靴泥足のまま絨毯の上を走り廻る。 絨毯はすれで垢すりのようになっていた。 ピアノの上にもカーテンにも、まっ白にほこりがたまっていた。 ・幼い弟たちの耳や手足も白くひびわれ、ぜいたくな服装もよく見るとほころびが切れて いた。 生別なのか死別なのかNには母親がいなかった。 使用人が二人、三人いたが、何時に帰って何時におやつを食べようが何も言われなかっ た。 ・私たちが食堂でおやつを食べていたら、父親が帰ってきた。 飼っていた外国産の鼻の長い犬と同じような顔をした人で、大学の先生だという。 口ひげが半分茶色なのを子供心に不思議だなと思っていた。 これもほこりだらけのサン・ルームで、オウムがけたたましい声を立てていた。 父親はチラリと私たちを見ただけでまったく表情を変えずに引っ込んだ。 ・あれは何年生の時の遠足だったのか、私の隣りでお弁当を開いたNが、不意に両手で顔 を覆って泣き出した。 膝の上の海苔巻のうち一本に包丁が入ってなかった。 ・Nは間もなく新しい母が来た。 結婚もクラスで一番早かった。 やや暗いが美しい人だったから幸せに暮らしているとばかり思っていたが、結婚後間も なく不治の病に冒され亡くなったということを最近知った。 ・青草の上に投げ出したNの細い足と黒い上等のエナメルの靴。 当時はまだ珍しかった甘い紅茶の入った魔法壜。 そして一本丸のままゴロンと転がっていた黒い海苔巻が目の底によみがえってきた。 ・学生の頃、九人制のバレー・ボールで、中衛のライトをしたことがあったが、その名残 りが、右側に他人がいると落ち着かなくなって困った。 もうそんなことはないが、身体の片一方、もしくはうしろに壁を背負うと気持ちが多少 落ち着いてくる。 ・それでも二度ほど広間の真中に座る羽目になったことがある。 一度目は十年ほど前に一人で関西へ用足しに行った時だった。 京都に鱧を専門に食べさせる高名な店がある。 名前を覚えていたので電話帳で調べお昼を予約した。 電話がひどく遠いようだが、「どうぞお越し」といっているようなので探し探し出かけ て行った。 ・見つけて驚いたのが、腰掛け割烹のつもりで行ったら堂々とした料亭なのである。 向こうは向こうで、まさか女が一人でくるとは思わなかったらしく、一番大きい部屋し か空いていない、と多少当惑している風であった。 だが、若主人らしき人が、ボストン・バックを下げている私を見て、奥へ案内してくれ た。 ・かなり広い座敷である。 困ったことになった、と思ったが、今さら引っ込みがつかない。 覚悟を決めて席につき、次から次へと運ばれる鱧料理を頂戴した。 中年の仲居さんが世話をして下さったのだが、終わり際にこういうのである。 「私はずいぶん長いことこの商売をしているが、この広い座敷で女一人で床柱を背にし て悠々とお酒を飲み料理を食べた人はそうはいない。どこのどなたさんですか」 ・こうと判れば来ませんでしたとも言えないので、名前を名乗るほどの者ではございませ んと恐縮した。 仲居さんはつづけて、 「あんたさん、きっと出世なさいますよ」 ・このとき、隣の部屋の間仕切りの襖が音もなく一センチほど開いていた。 そこから幾つもの目がのぞいている。 隣りの部屋は中年の女性が十人ほど会合をしているらしく、関西弁のあけすけな世間話 が聞こえていたのだが、どうやらけったいな客を覗いておいでになるらしい。 ・八つ目鰻を食べに来たんじゃないのよ、といいたかったが、せっかくご出世なさいます と太鼓判を押して下すっているので、やめにした。 ・ご出世のひと言にくすぐられたのか心付のほうも、私としては破格の弾みようで、板前 さんから中居さん一同、店の前にならんで見送ってくださった。 タクシーに乗ってから、どっと汗が出た。 ・二度目は七、八年前、赤坂のあるホテルに仕事でカンズメになった時だった。 全国市長会議があるので、一晩だけ和室の大広間に引越しをしてくださいという。 狭いところで飽きたいたので喜んだが、入ってみて愕然とした。 ・五十畳だか六十畳の大広間の中央に屏風を立て廻し、坐り机ひとつポツンと用意されて いる。 大文豪ならいざ知らず、駆け出しの三文ライターである。 おまけに何より端っこの好きな貧乏性である。 もぐらがいきなり土の上に放り出されたようで、体中がムズムズしてとても駄目ですか らと机を引っぱり、部屋の隅っこにもってきた。 ・やっぱり駄目なのである。 端だから落ち着くのではない。 狭いところの隅だから気が休まるのである。 大広間の隅っこでは広さが気になってどうしようもない。 明かりを消すと不気味だし、あかあかとつけるとまた白々しい気分になる。 仕方がないので、真中に出て体操してみたり、布団をしいて寝てみたが、どうにも格好 がつかない。 隣りの匂い ・二十代の終わりから、ぼつぼつとラジオやテレビの仕事をするようになっていたが、 家を出て別に住むようになったのは三十を過ぎてからである。 些細なことから父と言い争い、 「出てゆけ」「出てゆきます」 ということになったのである。 正直いって、このひと言を待っていた気持ちもあって、いつもならあっさり謝るのだが、 この夜、私はあとへ引かなかった。 次の日一日でアパートを探し、猫一匹だけを連れて移ったのだが、ちょうど東京オリン ピックの初日で、明治通りの横丁から開会式を眺めた。 ・父は、二、三日口を利かず、 「邦子は本当に出てゆくのか」 とだけ母にたずねたという。 ・生まれて初めてのひとり暮らしは、霞町であった。 マンションとは名ばかりのアパートだったが、静かな屋敷町の中にあるのは悪くなかっ た。 ・左隣りは、「T]と名字だけの表札の出ている大きな家で女世帯のようであったが、犬 好きらしく、白地に黒の斑のあるハルクイン(道化師)と呼ばれるグレート・デンの牝 がいた。 巨体に似ず人なつっこいたちで、「リリイ」と名前を呼ぶと、どこまでもついてきた。 一度など、私のあとからタクシーに乗り込んでしまい、運転手は、青くなって車外へ飛 び出し、「何とかしてくださいよ」とどなっていた。 牝牛のようなのがうしろの席に陣取って、運転手の耳のうしろをなめたりするのだから、 たいがいの人はびっくりする。 ・このリリイがお産をした。 「奥さん」と呼ばれる人が、中庭で仔犬を見せてくれた。 チャンピオンの子だけあって、すぐに専門家によって値踏みが済んでおり、上は二十五 万、一番安いのは七万だという。 ・偶然にも私が抱き上げたのが七万であった。 今見ると、白地に黒の斑がいい具合なのだが、成長すると、黒の部分が多くなる。 それで値が安いのだそうな。 「ナナマン!」 と呼ぶと飛んでくる。 私はこの犬を買おうかなと思ったが、せまいアパート暮らしと、餌代を考えると、どう なるものでもなかった。 ・それからすこしたって、グラマン男とかマッチポンプとか異名を取った政治家のことが 新聞をにぎわすようになった。 ひとつの火の手が上がると、矢つぎ早で、恐喝から脱税、はては愛人の数までが週刊誌 をにぎわせた。 ・私はこのニュースを或る感慨をもって聞いていた。 二十年近く前、一日だけ私はTの事務所で手伝いをしたことがある。 学校は出たものの、コネもなく就職も決まっていなかった私は、国会議員Tの秘書をし ている級友のところへ立ち寄った。 歌舞伎座のうしろの小さな事務所であった。 ・Tは私に、よかったら私の秘書に下働きとして手伝わないかという。 「賭けごとは好きか」 と尋ね、嫌いだと答えると、 「気に入った」 とせっかちに話をすすめ、私が母の実家に居候をしているというと、事務所の上の部屋 に寝泊まりをしなさいという。 ・新聞の綴じ込みや陳情団の弁当を数えたしているうちに夕方になった。 保守系大物を招いて赤坂の料亭で宴会をするが、 「勉強になるからきなさい」 有無をいわさず車に押し込まれた。 Tは数奇屋橋のところで車をとめ、秘書に夕刊を買わせた。 自分の記事を得意そうに読んでいたが、読めない漢字があった。 ・その夜の宴会は、大物政治家の裸踊り、氷の彫刻に伊勢海老の活き造り。 末座に連なる私には、まったくいい勉強であった。 一足先に帰ろうとすると、Tは廊下で呼び止め、「靴を買いなさい」と封筒を押しつけ た。 五千円入っていた。 秘書に返して靴をはいていたら、追いかけてきて家族は何人だとたずね、人数分のすし 折が「おみやげだよ」と膝の上に置かれた。 ・その夜、私は仙台にいる父に手紙を書いた。 面白そうだから、勤めてみたい。 自分さえしっかりしていれば「大丈夫」だと思います。 折り返し父が上京してきた。 とんでもない、というので、首根っこをつかまえるようにして仙台に連れ戻され、この 話はおジャンになったのである。 ・友人たちに、「惜しいことをした。ブラ下がっていれば、第五夫人か第六夫人になれた のに」とからかわれていたが、或る日、美容院で女性週刊誌をのぞいていて仰天してし まった。 Tの愛人宅の写真が何枚かのっていて、その一枚が、私のマンションの隣りのナナマン の家なのである。 迂闊な私は、五年間もまったく知らないでTの家の犬と遊び「奥さん」と立ち話をして いたのである。 新聞のほとぼりがさめた頃、Tは小菅刑務所から出所してきた。 男の若い男に支えられるようにして着流しで散歩するTと出逢ったことがある。 艶のない、鶯色のハトロン紙を貼り付けたような無表情な顔で歩いていた。 ・私は立ちふさがるようにして顔をのぞき込んだが、二十何年前、一度だけみた顔を相手 は思い出すはずもなく、こわれたマリオネットのようなギクシャクした歩き方で遠ざか って行った。 まもなく私は青山へ引越し、新聞でTの訃報を見た。 |