僕たちの失敗 :石川達三

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この作品は、いまから60年前の1962年に発表されたもので、作者が57歳頃の作品
のようだ。1964年の東京オリンピックの2年前というと、日本が驚異的なスピードで
戦後復興を遂げている最中の時代だ。
この作品の主人公の利己的な考え方は、読んでいてあまり気持ちのいいものではない。
しかし、戦前・戦中・戦後を体験した作者は、戦前の、人情が支配的だった日本社会が、
戦後、手の平を返すように急速に西洋の合理主義思想に染まっていくことに対して、おそ
らく大きな皮肉を込めてこの作品を書いたのだろうと私には思える。
この作品の主人公の冷酷なまでの利己的な考え方は、当時としては、相当インパクトのあ
る内容だったのではと思える。しかし、いまの時代では、それほど奇異だとは思えない。
それだけ現代の社会が、冷酷な利己主義になっているということなのだろう。
主人公は、「僕は僕の考えが空想だとは思わない。その通りの道を進んでいるのだと思う。
客観的に考えれば、それより他の結論が出る筈がないと思う。僕は予言者でも何でもない。
算術のように単純な計算をしただけのはなしだ」と述べる場面があるが、おそらくこれは、
作者が主人公を通じて未来の日本社会を予言しているのだろう。そして現代はまさに、そ
れに近い社会になっている。当時すでに、そんな予想をしていた作者は、すごい人だった
と思った。
ところで、「ぼくたちの失敗」という曲がある。1976年に発売された森田童子の曲だ。
この曲は1993年にドラマ「高校教師」の主題歌に起用され大ヒットとなった。
この曲と、「僕たちの失敗」というこの小説とには何か関係があるのだろうか。それとも
偶然に同じタイトルとなったのか。調べたがよくわからない。謎だ。


結婚について
・結婚ということについて、僕は懐疑的だった。懐疑的ではあったが、否定的ではなかっ
 た。結婚は、否定するわけにはいかない。否定したら人類は滅亡するし、第一、人生が
 おもしろくない。ただ、どういうかたちで結婚するか、どんなかたちの結婚生活が現代
 の僕たちに最もふさわしいか。そのことにはいろいろ問題がある。僕はそのことで悩ん
 でいた。
・僕は伊吹まさ子を愛していた。愛していたということには原因も何もない。好きになっ
 たから好きになっただけのことだった。僕は恋愛が神聖だなどと思ったことは一度もな
 い。僕はなにも恋愛を美化してはならないとは思わない。恋愛は本能から出発した感情
 であるのだから、動物的だ。恋愛が神聖だのと言うのならば、鳥やけだものの行為もみ
 な神聖だということになる。僕はそういう風にひねくったり美化したり誤魔化したりし
 たくない。在るがままの自然な姿で恋愛を考えて行きたいと思っていた。
・まさ子はすこし気が強くて我儘なところがあった。ぼくはそれを、まさ子が利口なせい
 だと考えた。
・僕は懐疑的になってはいたが否定的ではなかった。本当は何とか合理的な、納得できる
 ような形式と方法で発見して、結婚したかった。結婚ということはずいぶん楽しいこと
 に違いないと思っていた。
・しかし結婚の失敗ということも無数に実例がある。失敗したらどうするか。しかしいく
 ら用心深く考えていても、失敗することは必ずある。失業、病気、経済不況、災難、
 戦争。僕の力でそのすべてを防ぎ止めることなどは、とうてい不可能だ。
・妥協の余地がないものとわかれば、僕の恋愛はそこであきらめるべきだと思った。恋愛
 というものはそういうものであるべきだ。二人のあいだに妥協の道がなければ、その恋
 愛は整理してしまうべきだ。そして他に新しい対象を求めるべきだ。要するに恋愛とい
 うものは一つの過程であり手段であって、それ自身が目的ではないのだから、結婚の可
 能性がまったくないときは、恋愛だけにこだわっているのは愚劣だと僕は思った。
・だから、早くまさ子と話し合ってみて、可能性があるならば局面を進展させる。可能性
 がなければ彼女の幸福を祈って、握手して別れる。それが一番手っ取り早い方法だと考
 えた。
・僕は恋愛ははずかしい事だとは思っていない。だから誰かに知られたくないという気持
 ちも持っていない。僕の父ぐらいの年齢の人たちは、恋愛を神聖だと思っていたらしい。
 そのくせ恋愛をはずかしがっていた。矛盾した話だ。
・恋愛というものは、おたがいによく知っているから愛するというわけのものではないと
 思う。好きになる動機などは、きっと単純なものだ。好きになってから相手を知りたく
 なる。それからたくさんの知識をむさぼる。そして、知れば知るほど好きになって行く。
 何だって良い方にばかり解釈してしまうからだ。つまり、自分勝手にまちがった解釈を
 する。そのまちがいは、結婚してから徐々に姿をあわらして来る。だまされていたよう
 な気がする。だから恋愛結婚というものは、案外命が短い。
・短くてもいいじゃないかと僕は思った。短くても、その間に充分楽しい時間があるに違
 いない。一生つづいた結婚が必ずしも立派で理想的であるとは限らない。僕は短くても
 いいから楽しい結婚生活を持ちたかった。
・要するに恋愛というものを、僕はあまり信じていなかった。日本中に女は何千万人もい
 るのだ。偶然にそのなかの一人を発見した男は、これが自分の女性だと信じ込んでしま
 う。信じるだけの根拠がどこにあるかというと、どこにもない。理論的にはあり得ない
 ようなことを、恋愛をする人は簡単に信じてしまう。そして、眼が美しいとか、声がき
 れいだとか、笑顔がたまらないとか、愚にもつかない理由を並べ立てる。ところがそん
 なものは日常生活とは根本的には何の関係もない。アクセサリーにすぎないのだ。
・伊吹まさ子は小さな木造アパートに住んでいた。六畳の台所がついただけの貧しい部屋
 だった。彼女はガスで湯を沸かし、僕のために番茶をいれてくれた。それから黒砂糖の
 飴を出してくれた。
・僕の部屋とちがって女の部屋というものは、ひとりきりでも一応は家庭のかたちをして
 いるものらしかった。ここに僕が坐っていれば、もう新しい家庭とおなじことだった。
 してみると、家庭というものは女が造るものらしいと僕は思った。女と子供とを入れて
 置く場所が家庭であって、男なんか本当はどうでもいいらしい。
・僕は大学の法科を卒業した。なまけものの学生であったから、法律家にもなれないし外
 交官にもなれなかった。だから平凡な役人になるのが一番いいと思った。そこで法務省
 の試験を受けてうまい具合に合格し、官庁勤めをはじめた。
・それが僕の第一の失敗だった。役人というものは首を切れることがないかわりに、無数
 の規則や法律にしばられているのだった。その規則や法律におとなしく縛られた人間だ
 けが定年まで月給をもらえるという仕掛けだった。僕みたいな我儘な人間にはとても勤
 まるところではない。僕は九カ月と十日で、依願退職した。僕は出世を望むよりも自由
 を望んでいた。自由な仕事がどこかにないかと考えて、見習い工場になろうと思った。
・「僕たちはね、三年間の約束で結婚するんだよ。三年経って、もうお互いにたくさんだ
 という気持ちだったら、文句なしに別れよう。しかし三年たったあとで、二人とも、も
 う少しいっしょに居たいと思うようだったら、一年ずつ一年ずつ約束を延ばして行こう。
 そういうことにきめたんだ。合理的だと思わないか」
・「人間の愛情というものを君はどんな風に理解しているんだね。ことに愛情の永続性と
 いうことについて、君は確信のあることを言えるかね。君は自分の女房を、これからさ
 き三十年もそれ以上も、変わることなく愛して行けるという自信があるのか」
・「男だって女だって、生きものだからね。三年たったら人間は変わると思うんだ。変わ
 る方があたりまえで、変わらなかったらおかしいよ。お互いに嫌になることもあるよ。
 嫌になってから、それでもまた一緒に暮らしている夫婦なんて、悲劇だからね。たった
 五十年か六十年の人生を、悲劇的に暮らすという法はない」
・「結婚というものは、楽しい間だけ続ければいいんだ。三年のあいだにはいろいろな変
 動があるだろう。経済状態も社会情勢も、思想的にも、職業的にも、変化は起こってく
 る。ほかに好きな人が出来たという場合もある」
・「世の中がどんなに変わっても、二人の結婚生活は変わらないという訳には行かないよ。
 戦争未亡人、引揚げ未亡人、戦災未亡人、そういう未亡人が戦後にはたくさんいた。つ
 まり社会の変化のために結婚生活がこわされたんだ」
・「こんな風に変化のはげしい時代には、生涯の結婚を誓うことは、実行できないことを
 誓うのだということになる」
・「僕は政治家なんていうものは信じないし、いまの政治も信じていないよ。そんなもの
 を頼りにしていた日には、命はいくらあっても足りないからね。自分の命は誰もまもっ
 てはくれない。自分で守るより仕方がない。そのためには僕は身軽にしておいて、いつ
 でも、どこへでも逃げ出せるような用意をしておくんだ。だから本当を言えば、独身が
 いちばん良いわけだよ。しかしそれでは淋しいだろう。人間の生活としても片輪だと思
 うんだ。男にしても女にしても」
・僕は女というものを信じていなかった。自分自身だって、どこまで信じていいか解らな
 い。女はもっと信じられないと思っていた。
・女を信じないことと、伊吹まさ子を愛しているということは、別のことだった。愛して
 はいたが、信じるわけにはいかない。僕は伊吹まさ子の人格を信じていた。彼女の誠実
 さをも信じていた。しかし人間の女というものを信じることはできなかった。
・女は三年経てばきっと気が変わるだろう。気が変わらなくても、性格が変わるだろう。
 思想も変わるだろう。それは進歩のこともあるし、退歩であることもある。 僕は現在
 の伊吹まさ子を愛しているけれども、変わってから後の伊吹まさ子を愛せるかどうかは
 わからない。
・ 普通の結婚は、相手が変わらないということを条件にして成立している。自分も変わら
 ないという誓いを立てる。こんな不合理な話はない。変わるのが自然であるならば、変
 わったらいいじゃないか。その上で、都合がわるかったら別れればいいじゃないか。
・責任を負うことができるのに、その責任を回避するのを、責任逃れというのだ。僕は、
 責任を負うことができない世の中だから、お互いに責任を負わせることはやめようと言
 っているのだ。

思わざる障害
・徳丸恵子というのは二十一歳の女工で、評判の美人だった。
・「エゴイストとか利己主義者とかいう言葉は、あまり良い意味では使われないようだね」
 と僕は言った。「しかし何事につけても、自分中心に物事を考えるというのは誰でもが
 やっていることだ。問題はその程度によるのではないかね。君だって自分の利益を一切
 すてて他人のため奉仕の生活を送っているわけではないからな」
・日本古来の良風美俗を破壊したとしても、一体良風美俗とは何であるのか。徳川時代に
 良風美俗であったものが、現代においてもそのまま良風美俗であるかどうか。昔の良風
 美俗がいつの間にか意味が変わってきて、今では悪習悪俗になっているような事実もあ
 るかもしれない。今の時代はむしろ、昔の良風美俗を再検討して、あたらしく今日の良
 風美俗をつくり上げるように努力すべき時ではないだろうか。衣食住、言語、交通、政
 治、その他あらゆる生活環境が、百年前とは比べものにならないほど変わってしまった
 のに、昔の良風美俗だけが骨董品みたいに、そのまま通用する筈がないと僕は信じてい
 た。
・僕には母がいた。母八重子はもう五十をちょっと過ぎていた。
・母と子とは、別々の時代に生活するのが運命だ。だからいつの時代、いずれの家庭にお
 いても、 母と子は精神的に喰いちがっていた筈だ。鋭敏な利発な息子ほど、母とのあ
 いだの喰いちがいは大きい。だから昔から、孝行者とたたえられた息子には、進歩的な
 人物はあまりいなかった。
・「いいわ、福田さん。わたし、三年待つ。だから三年たったらあの人と、別れてね。き
 っとよ」 
・僕は徳丸恵子をきらいではなかった。見たところ、どこもかしこも可愛く出来た娘だっ
 た。全体に、まだ成長の足りない少女みたに見えたが、胸や腰はまるまると発達してい
 て四十女みたいだった。四十女の豊満と、いたいたしいまでの幼さとが、彼女の内に同
 居していた。バランスは彼女の精神の上にもあるように思われた。彼女は幼稚な口調で、
 中年の女のような図太い要求を持ち出すのだった。
・僕はもともと、あまり貞操堅固ではなかったけれども、いままでに僕は、女の愛情を裏
 切ったことは一度もなかった。男の貞操ということは、女の愛情を裏切らないことだと
 僕は思っていた。したがって独身で、愛人もなにもいない男には、貞操という問題は起
 こってこない。
・僕は徳丸恵子を好きだったけれど、三年の後に結婚することを約束するところまで好き
 だという訳ではなかった。彼女にはどこかしら、僕の感覚をそそのかすような魅力があ
 る。しかしそれは僕を、結婚したいという気持ちにさせるものとは少し違っていた。彼
 女はなにかしら、無貞操みたいだった。セックス・アピールは無茶苦茶あるけれども、
 僕は彼女を、女として尊敬しているわけではなかった。
・暗く茂った街路樹の下まで来たとき、僕はまさ子を引き寄せて短い接吻をした。ふわふ
 わした柔かいくちびるだった。それだけのことで、そのときまでの彼女の心配は解消し、
 彼女は安心したらしかった。
・「子供は駄目だよ」と僕は言った。「子供なんか持ったら、全然動きが取れなくなるか
 らね。昔の人は、やたらと子供を産んで四苦八苦していたんだ。まあ、医学の未発達な
 あいだは仕方がなかったろうけどさ。今はどうにでもなるんだからね」
・女は理屈なしに、本能的に子供を産みたいものだ。そういう機能を持っているからには、
 そういう要求も持っているのだ。それは原始的な要求だ。しかし現代は原始時代ではな
 い。生活条件がまるで違っている。現代に生活しながら原始的な本能に支配される人間
 は、ほんとうの意味で現代人とは言い得ない。われわれは原始的な本能を適当におさえ
 たり制限したり押し込めたり、上手にコントロールしながら生活の秩序を保っていかな
 ければならない。
 
笑ってはいけない
・人が死んでいたら、同情しなくてはならないという理由はない。人が死ぬということは、
 僕たちにとって興味のある問題だ。アメリカ映画の西部劇や日本映画の時代劇がいつま
 でもすたれないのは、 簡単に人を殺す、あの面白さのためだと僕は思う。
・一体、同情というのは何だろう。考えてみると変なものだ。自分と何の関係もない人間
 の不運や不幸に対して、自分がまるで親戚か肉親ででもあるかのように、悲しい気持ち
 になったり涙を流したりすることが、何の役に立つだろうか。僕には納得できない。
・世の中にはうまい言葉が氾濫していると僕は思う。人道主義、ヒューマニズム、人権擁
 護、共存共栄、隣人愛、人類愛、世界平和、社会福祉。僕はなにも信じない。そんな言
 葉が使われるようになってから何十年何百年たったか知らないけれど、すくなくとも僕
 は過去二十七年のあいだ、どんな恩恵も受けたことはなかったようだ。
・他人の言うことなんか、うっかり信じたら馬鹿を見るばかりだ。自分の幸福は自分でつ
 くる。自分の命は自分ひとりで守る。他人から尊重してもらう必要はない。自分ひとり
 で尊重するのだ。自分ひとりの人道主義、自分ひとりの人権擁護だ。他人から同情され
 たいなどとは、露ほども思ったことはない。
 
生活の設計
・僕たちの新婚旅行は箱根だった。ホテルに着いたのは夜で、風景もなにもわからなかっ
 たが、あくる朝になると仙石原の高原風景が、さわやかに窓から眺められた。昨夜まで
 は他人であった伊吹まさ子が、いまは他人ではなく、僕の専属の女性だった。僕たちは
 二人だけの、共通の秘密をもっている。その秘密が、新鮮な感動だった。
・別居結婚などというとハイカラみたいだが、日本の歴史をひもといてみると、むかしむ
 かしにそれが流行した時代がある。平安朝のころだったと思うが、女は結婚しても親の
 家に住んでいた。良人も自宅に住んでいた。妻に会いたくなったら自分で訪問してゆく。
 会いたくない時は行かないまでのことだ。話はかんたんで、精神的な負担はすくない。
・「私は子供のときからひとりきりで居るのが好きで、母なんかはよく、この子は変人だ
 変人だって言ってましたけど、いまでもわたしは、どうしても独りになる場所がほしい
 の。あなたとだって、年じゅう一緒に居たら、お互いにうっとうしくなる時があると思
 うの」
・「結婚とは婚を結ぶことであって、配偶者を得て契りを結ぶのが目的なんだ。同居とい
 うのはそのための手段であって、ちかごろは同居しなくては結婚でないように思われて
 いるが、あれはまちがいだね。ほんとうはどっちだっていい事なんだ。大体日本の家庭
 生活というのは繁雑すぎると僕は思うね。家具類が多すぎる。毎日の習慣がうるさすぎ
 る。そういう繁雑さがどこからきたかというと、夫婦が同居しているからだ」
・「お前は経験がないから知らないんだろうけどね。別居していたら、女は手に負えなく
 なるんだよ。一緒に家に住んでいれば女は弱い立場なの。わかるかい。追い出されたり
 しないように、亭主や姑の機嫌をとらなければならなし、いろいろ弱味ができるんだよ。
 別居なんかしていたら、こわいものは無いんだからね。お前がたずねて行ったって、気
 に入れなけれや締め出しを喰らわせることもできるし、居留守を使うこともできるし、
 逆にお前のほうが女の機嫌をとることになるんだよ」
・「お前は女というものが解っていないんだよ。わたしは女だけど、そこのところでは女
 の味方はしないよ。女というものはね、野放しにしておいたら何をするか解らないもの
 なの。いつだって男が、女をしっかり握っていなかったら、無茶苦茶なことになるんだ
 よ。お前みたな馬鹿なことを言っていたら、三年契約どころか、お前たちの仲は一年と
 持ちやしない」
・母がかわいそうになった。母は僕に嫉妬していたのだ。母は三十六の歳で未亡人になっ
 た。多分それっきり、もう何十年も、どこの人からも愛されたことはないのだ。つまり
 昔の言葉でいえば大変に貞淑であったわけだ。愛されたい気持ちがいっぱいあって、愛
 されるに価する健康と美貌とをもっていたにもかかわらず、不身持ちだとか、不貞だと
 か、不道徳だとか言われるのがこわかったから、なんにもしなかった。なんにもできな
 かった。自分の自然な欲望も能力も、一切を押し殺して、小さくなって生きてきたのだ。
 かわいそうな母さん。
・むかしの道徳がなぜそんなに、女に対して惨酷であったのか、僕にはよくわからない。
 母は恋をしてもよかったのだ。僕という子供を連れていては、再婚はむずかしかったか
 もしれない。しかし恋愛をすることだけならちっとも構わなかったのだ。いまからでも
 いい。僕はいつか折をみて、母に恋愛をすすめてやりたい。人生の終わりちかくになっ
 て、もう一度美しい恋に心を燃やすことができれば、母だってどんなにか楽しいだろう
 と思う。
・まさ子は経済的には完全に、僕から独立していた。したがって、世間の普通の妻のよう
 に、良人の経済力によって生活しているという引け目は、彼女は一度も感じたことはな
 かった。まさ子は僕と対等の立場であり、平等の発言権をもっていた。
・男が経済力をにぎっていて、その事で女に対する支配力をもつというのは不純だと、む
 しろ僕は思っていた。それは経済が女を支配するのであって、男自体ではない。男は、
 自分の人格や才能や力量などによって、女を保護し、その事によって女の尊敬と献身と
 を受けるのが正しいかたちであって、それはむずかしい事かも知れないが、僕はそうい
 う風に努力しようと思っていた。
・「文明はどんどん進んでゆく。凄い速力ですすんで行きつつある。それにつれて生活の
 速力もどんどん早くなった。高速道路、高速鉄道、電信、電話、飛行機の発達。まごま
 ごしていると、この物凄い回転かにはじきとばされてしまう。遠心力ではじき飛ばされ
 て、世間から放り出されてしまう」
・「いまは工員でも生活できるが、やがて工員という職業はどんどん減って行くんだ。電
 話交換手みたいな仕事だって、電話機械がもっと発達すれば、職業として成り立たなく
 なる。計算器が発達して、そろばんを持つ計算係もいらなくなった。そういう激しい時
 代に、僕はあたらしくどんな仕事を選らんだらいいか。つまりどんな職業が安定した生
 活をささえてくれるか」
・「それはね、運送業だよ。人と物をはこぶ仕事、動かす仕事だよ。世の中の文科程度が
 進めば進むほど、人と物とを動かすことが必要になってくる。都会に食糧を運ぶ、衣料
 を運ぶ、工場に原料を入れる。製品を運び出す、それを消費者の手まで運ぶ。勤めの人
 が出勤する、帰宅する、出張する。とにかく年がら年中人と物とを動かさなくては、文
 化社会を支えて行くことはできないんだ」
・「まず百人の友達を集める。一人から一万五千円ずつ出させる。その百五十万円でトラ
 ックを買って、営業をはじめる。儲けはみんなで平等に分配する。原理は単純明快だが、
 結論として、一万五千円ずつ出してくれる友人は、二、三人もいるかどうかわからなか
 った」
・「あなたって、案外ロマンティックなのね」
・僕はロマンティックどころではなかった。最も現実的に、最も合理的に、社会のしんぽ
 するすがたを考察して、僕の生活をそれに合わせて設計しとうと試みたつもりだった。
 僕の考えは決してまちがってはいなかった。
・「わたしにはもっと良い考えがあるわ。小さな資本ではじめられる仕事で、文明が進歩
 してもしなくても、絶対にほろびることのない職業よ」「飲食店よ。人間が生きている
 限り決してなくなることはないわ。人口が増えれば増えるほど栄えていくし」
・それから僕たちはまた、子供の問題について結論を出しておく必要があった。まさ子は
 もしかしたら、三年という結婚契約を、生涯の契約にまで延長しようとする、ひそかな
 野心を抱いていたかもしれない。彼女は直接にはそうは言わなかった。それでは契約違
 反になる。だから彼女はもっと聡明な方法で、彼女の計画を持ち出した。
・「わたし本当は、子供がひとりだけ欲しいのよ。あなたと別れたあと、私は再婚なんか
 する気はないの。だから、別れてから、やはりあなたの思い出がほしいのね。根にも無
 かったら生きていく張り合いがなくなるでしょう。一番の思い出はあなたの子供よ。あ
 なたが反対するのは解っているけど。決して迷惑なんかかけないわ。養育費だとか扶助
 料だとか戸籍のことだとか、そんなことは一切なしで、ただ子供だけ欲しいの。あなた
 の責任ではなく、わたしひとりの責任で産みたいの」
・「僕も君も子供のときに大戦争を体験した。空からは焼夷弾が降り、爆弾が降り、地上
 はいたるところに死骸がころがっていた。僕たちは食に飢えながら、山に疎開し郷里に
 疎開して、やっと命だけは助かったのだ。第三次世界大戦はいつ起こるかわからない。
 それはいわゆるボタン戦争である。原爆と水爆との戦争である。生物をことごとく焼き
 つくすような戦争である。それを誰が防止することができるか。その時代に生きてゆく
 僕たちの子供の幸福を、田絵が保証することができるか」
・「世界大戦はもう起こらないかも知らない。しかしそうなれば、人口過剰はますますひ
 どくなるだろう。むかしの人間は地球の表面にひらたく住んでいた。いまから後はたて
 に住むのだ。頭の上に人間、その上に人間、その上にも人間。二十階、三十階、雲に近
 いところに住むことになる。光を奪い合うような生活だ。それでも僕たちの子供は仕合
 せなのだろうか」
・僕は世間を信じない。政治を信じ得ない。今後の政治はますます個人生活を圧迫し、統
 制し、自由を抑圧するようなかたちになってゆくだろう。それよりほかにやりようがな
 いのだ。世間の人はますます冷酷になり、生存競争のために義理も道徳も踏みにじって
 行くようなことになるだろう。悪人ばかりがのさばり、良心のある人間は自殺を望むよ
 うになるだろう。そういう世の中に、僕は自分の子供を送り出してやるわけにはゆかな
 い。
・僕は僕の考えが空想だとは思わない。現実が既にその通りであり、その通りの道を進ん
 でいるのだと思う。客観的に考えれば、それより他の結論が出る筈がないと思う。僕は
 予言者でも何でもない。算術のように単純な計算をしただけのはなしだ。
 
愛と平和の関係
・愛情は永続きしないのだ。むかしむかしの平和な時代、文化程度の低かった時代には、
 愛情がいまよりも永続きしていた。人間同士の愛情が、いつまでもあたたかく育てられ、
 茂り、根を張り、枝をのばし、他人にまでも人情が及んでいた。いまの時代になると、
 愛情が自分にとって、しばしば苦痛になってくる。
・戦災では何十万という人が死んだ。二つの原爆で死んだ人の数だけでも三十万に近かっ
 た。外地の戦場で死んだ人たちは百万を越えていた。その人たちがすべて、肉親や妻や
 良人とのあいだの、強い強い愛情関係で結ばれていた。その愛情がことごとく、悲劇に
 変わった。失われた愛情の数は、どこにも記録されてはいない。ただそれが、無数の悲
 劇となって、生き残った人々の心に深い深い傷跡を残しているばかりだ。愛情の和人同
 じだけの悲劇の数があった。
・「これから先は人類が宇宙を征服する時代だからね。うちの子供も人工衛星や宇宙船に
 のって、宇宙旅行に行くようなことになるかも知れん。そういう可能性もあるわけだ」
・「愛情にはやがて終わりがやってくる」「その時は忘れるのよ。愛したことも、愛され
 たことも、みんな忘れるの。忘れるのが一番いいわ。思い出すから辛いのよ。わたしは
 何だって、さっさと忘れるの。わたしを愛してくれた人のことも、私を裏切った人のこ
 とも。忘れてしまえば、また新しい元気が出るわ」
・僕はふと嬉しくなった。徳丸恵子という女はもっと軽薄な、もっと愚劣な、もっち幼稚
 な女だろうと思っていた。ところが彼女には彼女の生き方があり、一種の哲学があるら
 しいのだ。何事もさっさと忘れることが出来さえすれば、人生は生きやすい。忘れられ
 ないから苦しいのだ。しかし彼女は辛い思い出を忘れるための、なにか特殊な技術をも
 っているらしい。既に幾度か、忘れることに成功した経験を持っているのだ。
・僕は一種のおどろきをもって恵子のおしゃべりを聞いていた。僕は、生活の根を深くお
 ろさないように、結婚も軽いかたちで、いつでも別れられるように、そして子供はもた
 ないようにと、用心深く、警戒しながら生きる方針をとっていたが、徳丸恵子はもっと
 積極的だった。好きなことは何でもやろう。しかし翌日は忘れよう。好きな人をひとり
 で勝手に愛するけれども、愛されることを要求はしないというのだ。
・孤独な女だ。愛情をも信じない。男をも信じない。孤独な心のなかで、自分ひとりの愛
 情を楽しみ、ひとりきりで明るく楽しく生きて行く。そういう孤独は僕の心のなかにも
 ある。むしろ恵子の方が僕より強くて、僕より勇敢だ。まだ二十一にしかならないとい
 うのに、彼女はひどくおとなびた人生観を持っており、一種のさとりを開いている。あ
 きらめのような悟りだ。
・自由!と僕は心のなかで叫んだ。僕たちはもっと自由にしてもいいのではなかろうか。
 義務や、道徳や、習慣や、節操が、僕たちにどんなに良いものを与えてくれただろう。
 僕たちは束縛され、息苦しくされ、臆病にされ、うそつきにされたけれども、そんな事
 で僕たちの幸福が保証されたわけではなかった。僕たちは正しく、まちがいのない生き
 方を教えられ、一生懸命にそれを守ろうとして来たけれども、僕たちの仕合せは容赦な
 く破壊され、僕たちの生活は年じゅう不安にさらされている。
・僕たちにどれだけの自由があるのか。何程おありはしない。しかし手のとどく所で、あ
 まり他人に迷惑をかけない範囲ならば、もう少し自由で、勝手きままにしてもいいので
 はないだろうか。
・僕は約九時間のあいだ、行方不明であった。しかし母もまさ子も僕の行方不明に気がつ
 いていなかった。僕が実行した自由は、それほど窮屈な、あわれな、秘密の自由にすぎ
 なかった。他人にしゃべることのできないような自由は、泥棒みたいなものだ。
・すべて、僕の罪だった。僕よりもっと悪いのは、僕を誘惑した徳丸恵子だった。しかし
 僕は恵子を憎んではいなかった。僕はいくらか良心に咎められるような気もしていた。
 しかし、あまり後悔はしていなかった。徳丸恵子は魅力的であったし、情熱的であった。
 妻の立場にある女の控え目な情熱よりも、妻でない女の積極的な情熱の方が、より魅力
 的だということは困ったことだが、それがきっと、いろいろ間違いの元になる。だから
 僕は、恵子が昨夜言ったように、忘れるのが一番いいと思っていた。よろこびもかなし
 みも、その場かぎりにしよう。すべての記憶は、拭い去るに如かず。過去はふりかえる
 まい。
・「わたしはお前たちのやっている事が気に入らないよ。何だね、三年契約の結婚だの、
 別居のままの結婚だの。それに小理屈をくっつけて、やれ社会が不安だの人口過剰がど
 うだの。そんな事が色恋沙汰と何の関係があるのよ。好きになったから一緒に暮らすと
 いうだけのことじゃないか。私だって女だからね。人に言われないような事もあったわ
 よ。だから誰にも言わないのさ。何のために人に知らせる必要があるの?二人のことは
 二人きりで、静かに始末をつけるものよ。それが世間に対する礼儀というものだわ」
 
挑戦者
・結局、僕は徳丸恵子と一時間も話し合ってみたけれども、彼女のどこが本音であるのか、
 見当がつかなかった。彼女は自分で頭が弱いと称していたが、実はとても利口な女で、
 僕に正体を見せないで、僕を手玉にとっていたのかも知れなかった。僕は恵子と本気で
 結婚するつもりはなかった。だから僕はどっちつかずの態度を取っていた。恵子はしき
 りに僕と結婚することを主張していたけれども、それも本気かどうかわからなかった。
 女というものは、いつでも好きな時に、自説を変更したり、約束を取り消したり気が変
 わったり、逆なことを言ったりすることができるのだ。女こそ真の意味において自由だ。
・僕は嫉妬するつもりはなかった。まさ子に求婚した男が何人もいても、そんな事は何と
 も思っていなかったし、たといまさ子が今のその中の誰かと交際していたとしても、交
 際するぐらいはあたりまえだと思っていた。封建時代の武士の妻たちは一切の男性との
 交際を禁じられていたらしいが、二十世紀後半の現代において、妻をあらゆる男性から
 隔離しようなどという男は、すこし頭が狂っている人物だろうと思う。僕はまさ子を独
 占するつもりはなかった。まさ子はまさ子の自由がある。僕たちは軽い結婚をしたのだ
 から、それだけ自由の幅は大きい筈だ。
・「あなたはいろいろ、悪いことをしているらしいわね。私はそのことであなたを責める
 つもりはないのよ。はじめから三年の約束をしたんだし、別居生活の約束もしたんだか
 ら、そのくらいのことはあなたの自由なんだろうと思っています。私の今の立場はまる
 で二号さんみたいって、私の母なんか怒っているんですけど、それでも私は私なりに、
 ちゃんと解っているつもりなの」
・僕は胸のなかが熱くなってきた。僕が外で悪いことをしているのを、まさ子はちゃんと
 知っているらしい。どいして知ったのか、それが疑問だ。徳丸恵子が自分でまさ子に知
 らせたということも考えられる。つまり僕とまさ子の関係をはやく駄目にするために。
・僕たちの軽い結婚は、第三者から軽く見られるような結婚という意味ではなく、僕たち
 自身の心のもち方が軽いという意味であった筈だ。お互いに拘束しないこと。お互いの
 自由をみとめること。二世を契るだとか、生涯の伴侶だとか、貞婦二夫にまみえずだと
 か、鴛鴦のちぎりだとか、良き半身だとか、偕老同穴だとか、そんな風な重苦しい考え
 方は一切抜きにして、ただ、(僕たちがお互いに求めあっているから結婚する)という
 だけの、単純明快なものでありたいという意味だった。
・一般に、同居している夫婦であれば、たとい二人が三年も仲たがいしていたとしても、
 再三者が割り込んできて、妻を奪い取ろうなどとは考えないのが普通だ。それは良人が
 妻を占有し、監督しているからだ。妻は占有され、監視されているからだ。そして、そ
 ういう形の結婚を、世間では堅実な結婚だと認めている。そのくせ女性の独立だの平等
 だのという。矛盾しているのではないか。僕はまさ子を占有したり監視したりはしない。
 僕たちはお互いに、本当に自由であり独立している。まさ子はその意味では最も近代的
 な妻の立場を保っている。文句はないはずだ。
 
むずかしい事件
・もともと夫婦などというものは、赤の他人であった筈だ。どんな親から生まれ、どこで
 どんな風に育ってきたのか、お互いに何も知らなかったのだ。それがふとした機会にめ
 ぐりあって、好きになったというだけのものだ。だから夫婦というものは、偶然の結果
 であって、必然性は全然ないのだ。神の意志で結ばれたわけでもないし、天命でもない。
 好きになったこと自体が、ほんの気まぐれであったかもしれないのだ。そんな事は昔か
 らわかりきったことだった。しかしあまり偶然を強調しては具合がわるいから、ありも
 しない必然性を考え出した。そして神前結婚という形式をこしらえた。神様の事務所に
 登録したから、もう大丈夫ということに話をきめた。それをお互いに、疑わないという
 約束をした。それだけのことだ。
 
冷酷な人たち 
・徳丸恵子はどこもここも可愛らしく出来た女だが、貞操観念は信用できなかった。僕が
 妻帯者であることを承知のうえで僕を誘惑するような女だった。
・僕が手前勝手なことを要求していたことに気がついた。僕が二重の関係を持っているの
 だから、徳丸恵子も二重の関係を持つ権利があるという訳だ。理屈を言えばそういうこ
 とになりそうだ。しかし僕は何となく納得できなかった。徳丸恵子の理屈は、それをど
 こまでも押し進めて行けばどういう事になるだろうか。僕には伊吹まさ子という妻があ
 る。そして徳丸恵子と二重の関係をもつ。だから徳丸恵子もまた若林君と二重の関係を
 もつ権利がある。そこで若林の方でも、恵子のほかにA子と二重関係をもつ権利がある。
 とどまる所がない。要するにこれは一夫一妻制の破壊であって、二夫二婦制が創設され
 ることになる。
・一夫多妻とか一妻多夫とかいうことは歴史上にいくつも例があるが、二夫二婦制という
 性道徳は人類の歴史のなかに一度も出現したことがないようだ。なぜだろうか。もしも
 二夫二婦制というものが実現されて、それが一般的なことになったら、どういう結果が
 出てくるのだろうか。社会は大変に複雑になり、新しい変化が生じてるだろう。すべて
 の個人は、二人の配偶者をもち得る。二人の配偶者はたがいに優劣を競うことになるだ
 ろう。劣敗者は配偶者の一人を失い、または二人を失う。愛情の自由競争が激しくなる
 ために、みんな怠けてはいられない。そこで男たちは、大いに働き、財を蓄え、力を養
 い、女たちは利口になり、美を競うことになるだろう。
・近代社会においては一夫一婦制が発達し、配偶者の地位が安定し、法律がそれを擁護し
 たことによって、一般に女性は怠慢になり、きたなくなり、そして男は常に束縛を受け、
 失意の状態に置かれていると僕は思う。そもそも結婚ということに法律が口を出すのは
 筋がちがっている。結婚はあくまでも愛情の自由競争によるべきものだ。真の愛情によ
 ってのみ結婚は持続される。しかし愛情にも季節的な変化はある。その変化をうまく調
 節して行くのが二夫二婦制ということにならないだろうか。
 
年暮るる
・僕は二夫二婦制について説明してやった。要するに、一人の配偶者では人間は満足し得
 ないものであること。それを法律的にまたは道徳的に、ひとりの配偶者だけに対象を限
 定するところから、世間のありとあらゆる悲劇や惨劇がうまれてくるものであること。
 法律が二人の配偶者を認めることは困難であるにしても、社会の道徳がもしも二人の対
 象を許すことにすれば、社会はきわめて平和になるであろうこと。良人殺し、無理心中、
 親子心中、女殺し、というような血なまぐさい事件は半減するにちがいないこと。自由
 恋愛の時代にはそれにふさわしい性道徳も変わってこなくてはならない筈であること。
・なるほど二夫二婦制になると社会の紛糾はひどくなり、収拾がつかなくなる。しかしそ
 れは金銭問題、財産問題にすぎない。つまり男の経済力が社会生活を支えていることと、
 そして男系の社会であることから紛糾するのであって、母系社会にしてしまえば紛糾は
 整理されるのだ。つまり、二人の男のうちのどちらかの子供であろうとかまわない。要
 するに(母から子へ)の相続として、世襲財などはみんな女に与えればいいのだ。
・むかし、日本でも母系時代があった。それはまた父権が確立される以前の、未成熟な、
 けだものと同じように父系をたどることが難しいという乱婚の風習から来た母系社会で
 あった。
・しかし僕がいま考えている母系社会は、人間の自由が次第に拡大され、それが家族制度
 という制約と相容れなくなり、そこで一夫一妻制による家族制度が崩壊して、個人の自
 由を中心にした社会が出現する。それにつれて再び、やむを得ず、母系社会が出現する
 のではないかという考え方である。そしてそれが最も自然であり、むしろ必然ではない
 かと思うのだ。
・日本の女の生活はいつの間にか、こんなにも自由になっていたのだ。母は子を置き去り
 にして、恋人といっしょに旅に出る。妻は良人を置き去りにして、郷里へ行く。娘は愛
 人を置き去りにして、もうひとりに愛人とスキーに行く。彼女らは良人にも息子にも愛
 人にも、拘束されてはいけない。もしかしたら彼女らは、男よりももっと自由であるか
 もしれない。思想的にも、道徳的にも、行動においても。そしてそのことによって女性
 は新しい美を造りだそうとしている。封建時代の女性美とは全くちがった、別の魅力を
 創造しつつある。

女性の裏切り
・今夜こそ、まさ子は僕を裏切ったのだ。それは徳丸恵子と僕との関係に対する、まさ子
 の復讐であったかも知れない。僕は復讐された。その事について何も文句は言えないの
 だ。貞淑な妻が、いつまでも貞淑だと思うのはまちがいだ。貞淑な妻こそ、良人に強烈
 な復讐をする妻であるのだ。
・まさ子は片桐と示しあわせて、同じ汽車に乗った。旅行の口実は前もってすっかり打合
 せてあった。だから僕はなに一つ確実な証拠をにぎることができない。二人は神戸まで
 行く。汽車のなかでは何事も起こり得ないと思って安心するわけにはいかない。途中下
 車はどこででもできる。今夜は二人で熱海の宿に泊るかもしれない。それとも明日の朝
 京都について、どこかのホテルに入るつもりだろうか。もし彼らがその気になりさえす
 れば、どんな事でも可能なのだ。
・僕はたのしくなかった。母の家もまさ子のアパートも、からっぽだった。僕は置き去り
 にされ、愛する三人の女から一度に裏切られたのだった。
・しかし僕は徳丸恵子を許すことができた。彼女が僕以外の愛人を持つことは、彼女の自
 由であり、彼女の権利だった。彼女は僕だけに貞節をつくさなくてはならないという理
 由はないのだ。それと同じように僕は伊吹まさ子も許すことができた。僕が二人の女性
 を愛している限り、まさ子だって二人の男性を愛する自由がある筈だと思った。その点
 で僕たちは平等であり、僕はまさ子に対する嫉妬を押さえなければならなかった。
・しかし僕は母八重子を許すことはできなかった。何となれば母は、僕が自由に選んだ女
 性ではない。妻や愛人は、僕が自由に選んだ女性であり、嫌いになった時、愛情が薄れ
 た時には、お互いに別れることのできる女性だった。母だけは違う。母は僕の生涯の母
 であり、取りかえることのできない、絶対に母だった。その意味において、母は僕に関
 する限り、自由はない。母が僕を産んだという事は、母がそれだけ自由を失ったことで
 あり、母があたらしく恋愛をしたり結婚したりする場合には、僕にも何らかの発言権が
 ある筈だった。
 
我に自由を!
・サラリーマンの仕事は人間が相手だ。社会が相手だ。土地や株券や犯罪や外交や戦争や
 貿易や交通や法律や病気や通信や保険や、要するに生きた人間社会が相手だ。だからそ
 れは、永久に解決することのない泥沼みたいな仕事だ。僕はくたびれる。僕は良心の疲
 労を感ずる。そして逃げ出したくなる。
・サラリーマンの仕事は人間との闘いだ。人間のいやらしさ、狡さ、みにくさ、おろかさ、
 貪欲さ、けち臭さ。そして名誉欲、物質欲、売名、打算。人間というものがそういうき
 たならしい存在であることは五千年も昔からきまりきったことで、いまさら文句を言っ
 ても始まらない。ただせめて、自分の職業だけは人間たちと縁のないものでありたいと
 僕は思うのだ。
・工場の仕事は機械的な、同じ作業のくり返しにすぎない。だからここは人間臭いものは
 一切入り込んでは来ないのだ。僕は機械を操作しながら、平静な気持ちでいられる。機
 械は機械的に、非人間的に、与えられた運動をしているだけだ。僕は少しも疲労を感じ
 ない。世界の何十億の人間が何をしていようと、僕は作業をしながら全く無関心でいら
 れる。工員の仕事こそ現代のオアシスだ。そこでは人間は人間から離れていることがで
 きる。僕が、僕自身から解放されているのだ。そのとき僕の心は空白であり、僕もまた
 命なき機械の一部分となって回転している。
・自分の心に湧き上がってくる無軌道な欲望を、僕はできるだけ多く満足させてやろうと
 考える。その事によって、一日じゅう空白があった僕自身が、元の人間に立ちかえる。
 そのとき僕は世間の秩序や習慣や道徳や礼儀を、うるさく思う。僕は道徳や習慣から、
 わざとはみ出して行きたくなる。そういう我儘をすることによって、ぼくの生命が充実
 してくるような気がするのだった。我に自由をあたえよ。無限の自由を・・・。
・一番大事なことは、僕が、飢え渇くがごとく自由を求めているという、その事であるの
 だ。僕は牢獄のなかの囚人のように、檻のなかの狼のように、絶えず自由の空気を求め
 ている。それがサラリーマンと違うところだ。サラリーマンは何も求めていない。月給
 と、課長に昇進することと、怠惰な休息と、それ以外の何も求めていない。
・僕は何とも言えないすがすがしい気持ちだった。あの二人は、二人とも僕の愛人だった。
 僕は世の経の男のように、彼女等を拘束してはいない。彼女等は自由な立場だ。ひとり
 は若杉とスキー行き、ひとりは片桐と神戸へ行った。しかし僕は嫉妬などはしない。僕
 自身もまた彼女等に拘束されてはいないのだ。三人とも自由であり、孤独だった。孤独
 なままで、愛しあっているのだ。
・古い人たちは、愛しあうことによって孤独から逃れようとする。やみくもに、お互いを
 拘束することによって、自分の人生が安定したような気持ちになる。しかし僕は疑う。
 ふたりの人間が(一心同体になる)などという事があり得ようか。そんなものは言葉の
 あやにすぎない。二人はどこまでも二人であり、愛しあうと同じ程度に憎みあうのだ。
 孤独こそ、平和な人生だ。孤独のままで愛しあう姿こそ、もっとも高級な愛情だ。
 
新しい生活
・僕は理想を持たない。理想なんか持ったら苦労が絶えないからね。理想のない生活はそ
 の日暮らしだ。その日暮らしが何が悪い。誰にも迷惑もかけやしない。誰にも被害を与
 えるわけじゃない。僕がひとりで勝手に暮らしているだけだ。お国にとっても、会社に
 とっても、有益ではないが有害でもない。
・僕は誰にも迷惑を与えないために、子供を持たない。人口を増やすような事は絶対にし
 ないつもりだ。これは僕の責任感だよ。つまり、僕は誰にも、どこにも、責任を持ちた
 くない。だから絶対に無責任な立場に自分を置こうとしている。人に恩を与えないが、
 人から恩も受けない。それが僕の努力だ。僕は責任をとらされたくないから、責任のあ
 るような行為は避ける。そういう僕の努力が、僕の安易な生活を支えているんだ。
・「自分の人生に対して勇敢である必要はないと思うね。勇敢なんて馬鹿みたいだ。勇敢
 な生き方が目的とする ところは何だい。立身出世じゃないか。物欲と名誉欲と権勢欲
 と、それだけじゃないか。君みたいな男には無欲の人生というものが解っていないんだ。
 実を言うと僕にも欲はあるよ。自由への欲望だ。これは物欲でもない。権勢欲でもない。
 名誉欲でもない。自分ひとりが誰にも拘束されないで暮らしたいという、それだけのこ
 とだ」
・「君は原爆や水爆をどう思うんだ。あれは単なる戦争手段じゃないよ。人類の理想をゼ
 ロにする手段だよ。理想をもつすべての人間は原爆とたたかうべきじゃないか。ところ
 があらゆる強国の政治家たちは原爆を持つために一生懸命だ。君が持っている人生の理
 想なんて、原爆の前に何の価値があるんだ」
・「政治家は悪いことばかりやっている。民衆の生活はインフレーションのために追い立
 てられている。労働者はその日暮らし、サラリーマンは定年までの命だ。人民大衆なん
 てみな馬鹿だから、理想なんかどこにもないのに、女房子供のすこやかな顔をみれば、
 それが人生最大の幸福などと、浮かされたようなことを言っているんだ。恋愛の幸福、
 結婚の幸福、そんな個人的なものが人間の理想と何の関係があるんだ。

心の綾
・僕はもう徳丸とは別れるつもりだった。多勢の男にとりかこまれたり騒がれたりしてい
 る女は、僕は好きではなかった。というよりも、ひとりの女を争っている男たちの仲間
 に加わることが、嫌いだった。僕は闘争を好まない。恋はたのしむためのものであって、
 血を流すためのものではない。その点では僕は卑怯で弱虫であったが、僕はそれでいい
 と思っていた。

身辺多事
・近ごろの僕の愛読書は原子科学、ことに原爆や水爆に関する本であった。水爆はどのよ
 うにして爆発し、どれほどの破壊力を持ち、一発でもって何百万人の人間を蒸発させる
 ことができるのか。そのあとの地球の表面がどんな風に荒廃するのか。アメリカとソ連
 がどれだけの水爆を貯蔵しているのか。そして第三次世界大戦が起こったときには、人
 間の理想や愛や信仰や偉業や、何万年に及ぶ人間の歴史や、極度に進歩を遂げた人類の
 すべての科学や、高度に発達して芸術や社会機構や法律や、国際連合組織などが、灰神
 楽のようになって成層圏までふっ飛んでいくであろうことを考えると、僕にとってはど
 んなスリラー小説よりもスリルがあって、楽しかった。
・徳丸恵子は悪い人間ではない。可愛いところもあるし女性的な魅力もある。しかし情痴
 の果ての事件を起こすのは、きっとあんな風な女だ。つまり彼女は男女関係というもの
 を紛糾させるような、男たちをかっとさせるような、一種の性格を持っている。多分彼
 女は、その紛糾のなかで生き甲斐を感じるのだろう。
 
花ひらく時
・「あのね、わたし・・・妊娠なの」とまさ子は小さな声で言った。僕はぎくんとなった。
 まさ子も人妻であるからには、当然起こり得ることだった。桜の木の桜の花がひらくよ
 うに、彼女のからだは彼女の花をひらかせたのだ。
・「僕の子供なら、僕はうみたくないんだ。僕は僕の責任上、産まない事を要求する。僕
 の子供でないのならば、君は勝手に産むがいい。僕は知らん」
・まさ子は両手を膝に置いたまま、喉を鳴らして泣いた。僕は手をこまねいて見ていた。
 何とも処置ない。なぜ女というものは、こうまで子供を産みたがるのか。僕には量見が
 わからなかった。
・僕はまさ子のことを考えた。僕はやはりまさ子が好きだった。この一年あまり契りを重
 ねてきて、結婚する前よりももっと好きになっていた。結婚の約束は三年であったが、
 今のままなら僕は四年になっても五年になってもいいと思っていた。まさ子が子供のこ
 とで僕に譲歩してくれさえすれば、僕は別れたいとは思ってはいないのだ。
・まさ子は遠からず母親になる予定だった。彼女が親子の関係を絶対的なものとして考え
 たい気持ちはわかる。僕は親子なんて、いい加減な、根拠のない薄弱な関係にすぎない
 と思っていた。少なくとも両者合意の上ではなく、母が一方的に僕を産んだのだ。父や
 母には子供を養育する義務があるけれども、子供には自分の意志で、父や母と縁を切る
 自由がある筈だと思っていた。
 
ひとりぼっちの僕
・まさ子は僕の子をみごもった。僕の意志ではない。僕は僕の子孫などというばかばかし
 いものを持ちたくはない。そんな事は嫌だ。僕はひとりきりで生き、ひとりぼっちで死
 ぬ。死んだあとに、僕の血筋などというものを残したくはない。死んだあとは永遠の虚
 無にかえる。それでいいではないか。
・「まさ子、頼むから子供は始末してくれ」と僕は言った。
・「あなたの知ったことではないわ」とまさ子は意外に静かな口調で言った。「私はもう
 あなたなんか当てにしていません。あなたは子供のことなんか考えないで、勝手に何で
 もおやりなさい。子供は私が勝手に育てます」
・まさ子は一滴の涙もこぼさなかった。女の強さというよりも母の強さだった。僕は一種
 不気味なものを感じた。結局女にとって、男などというものは、行きずりに匂ってきた
 花の香りぐらいのものに過ぎないらしい。
・僕たちの三年契約の結婚は、要するに一年あまりで終わりを告げた。しかし僕はまさ子
 との結婚が失敗だったとは思わなかった。僕たちは別離のその日まで愛しあっていたし、
 別れたくなかったのだ。つまり結婚そのものは成功であったが、まさ子の妊娠という事
 だけが失敗だった。というよりも、妊娠をどこまでも守ろうと望んだまさ子の(女ごこ
 ろ)だけが、どうにもならない僕たちの躓きだった。
・それから僕はいろいろ考えたあげく、自体隊に応募してやろうと思った。世界平和など
 という事は口先だけのはなしで、絶対に実現することはない。だから日本の自衛隊もや
 がては正式な軍隊になるだろうし、しかもどんどん強化されて、そのうち原爆や水爆も
 整備されるに違いない。第三次世界大戦は必ず起こる。五億、十億という人間が蒸発さ
 せられるような戦争だ。
・僕はヒューマニズムを信じない。宗教も救いも信じない。人間はお互いに殺しあいなが
 ら生きて行く動物である。人類文化七千年の歴史がそれを証明している。次の大戦がは
 じまる頃、僕は自衛隊のなかの将校になっていて、僕の命令ひとつでもってミサイルを
 ぶっ飛ばし、原爆弾頭を敵陣にたたき込んでやるのだ。虚無的な感動、破壊のよろこび、
 それは現代の爛熟した文化に対する僕らの復讐だ。
・僕は自衛隊にはいって、日本国を防衛する気は全然なかった。僕は愛国心などというも
 のは持っていないのだ。日本の社会も人民も、どうなってもかまわない。僕はただたく
 さん月給をもらって、戦争ごっこをやっていればいいのだ。そしていざ戦争という時に
 なったら何千万人という人間を殺してみたいのだ。日本人でもアメリカ人でも同じこと
 だ。殺すということは平凡だ。僕自身は臆病で弱虫だけれども、みんながやる時には僕
 だってやれるだろう。それが僕みたいな卑怯ものの、ひそかな復讐の方法だ。
・僕は渋谷の街の裏の裏の方に、小さな汚い四畳半のアパートを借りた。休みの日にはこ
 の部屋に帰って、誰にも見つからないこの場所で、自由と孤独とをたのしむためだった。
 僕は差し当たって結婚するつもりはなかったけれども、誰かを可愛がってやりたい衝動
 だけはしきりに感じていた。
・僕のアパートの近所に一軒の果物屋があった。六十ばかりの爺さんと三十すぎの若いお
 かみさんとが経営していた。僕はその(おつねさん)というおかみさんと仲良くなった。
 おつねさんは未亡人で、子供が二人いた。
・おつねさんは時間を見はからって、そっと僕のアパートに忍んで来るのだった。果物を
 届けに来たという口実があったから、誰かに見つかっても平気だった。僕はおつねさん
 と結婚する気は毛頭なかった。おつねさんも僕と結婚できるなどとは思ってもいなかっ
 た。完全にあきらめていたために、かえって彼女はさっぱりしていて、明るかった。
・おつねさんは僕のオアシスだった。彼女は健康なけだものだった。彼女は僕の自由を少
 しも侵害しないし、僕の孤独を掻き乱すこともなかった。彼女は僕が誘わなければ自分
 から来ようとはしなかったし、誘えば必ずやって来た。帰るときは嬉しそうに笑って、
 子供のように浮き浮きした様子で帰って行った。愛の誓いだとか約束だとか真実だとか
 いう事は、僕たちの間では問題ではなかった。だから僕とおつねさんとの間では、嘘と
 か裏切りとか悩みとか悲劇とかいうことは、一切有り得なかった。僕たちは猫と猫とが
 出会うようにして出会い、犬と犬とが別れるようにして別れた。
・別れたあとの僕の心には、男であることの自信と、男であることの喜びとがじっとりと
 残っていて哀しみの影はすこしもなかった。そして僕は全く自由であり全く孤独であっ
 た。これは僕にとって理想の生活だった。僕は土曜の午後から日曜にかけての休みを、
 本当に心待ちにしていた。僕とおつねさんとの間は、少なくとも心と心との恋愛はなか
 った。あるのは純粋に肉体だけの恋愛であったかもしれない。しかも僕はおつねさんを
 この上もなく愛していた。彼女の単純さを、彼女の無欲さを、彼女の愚かさを。
・四カ月ばかりそういう生活がつづいてから、ある日、彼女は私を拒んだ。「いまは駄目
 なのよ。この次ね」 
・彼女は妊娠したのだった。僕は何も知らなかった。彼女は四日まえに、ひとりで医者へ
 行って、さっさと処分してしまった。胃が悪いと父をいつわって、一日寝ていたが、そ
 れだけだったと言うのだ。
・おつねさんは一種の野蛮人だった。しかしあるいは伊吹まさ子よりも文化的感覚をもっ
 ていたかもしれない。何が何でも僕の子を産みたがったまさ子の方が、かえって野蛮人
 であったようにも思われた。おつねさんは全く何の教養もない女であったが、色事の作
 法を心得ていた。男を困らせるような事は一切しない女だった。
・僕たちはいつでも別れられるような、いつ別れても当たり前のような、そういう自由な
 関係をつづけていた。それ故にかえって、いつまでも別れられなかった。別れる必要が
 なかった。僕はおつねさんを憎いと思ったことは一度もなかった。僕たちは世間的には
 内密な関係であったけれども、普通の夫婦よりはずっと純粋で清潔な関係だと僕は思っ
 ていた。
・伊吹まさ子と別れてから一年ばかり経ったある日、一通の手紙がきていた。きれいな可
 愛い女の子の上半身だった。僕は全身が粟立つような気がした。まるまると肥った、元
 気そうな赤ん坊だった。そして、僕の子供のときに似ていた。
・まさ子は僕をこの子の父だと信じている。一生信じて行くだろう。しかし僕はこの子を
 知らない。無責任と言われようと何と言われようと、僕はこの子を知らない。知らな
 いと言っても、それで事は済まない。僕の行為は生涯、僕を追及してくるだろう。無責
 任であればあるほど、その追及はきびしいに違いない。僕は逃げられない。しかし僕は
 この子を承認しない。
・僕がこの子を承認すれば、僕はもはや逃げられない。僕の自由と孤独とはたちまち失わ
 れ、僕の人生は義務と責任と愛情と苦悩とに充たされてしまう。僕はまさ子を愛した。
 僕はまさ子だけを愛したのだ。その結果が子供である必要はない。僕は結果なぞほしく
 はないのだ。
・しかし僕はこの子が可愛い。芳江と名づけられたこの娘が、僕は可愛い。この子を手に
 取って抱いてみたい衝動を感ずる。愚かな衝動だ。