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この本は1968年に書かれたもので、ビートルズのそれぞれのメンバーの生い立ちから
ビートルズとしての人気が出るまでを記したノンフィクションである。
ビートルズというグループがどうしてあのように世界的な人気グループとなったのか、そ
の謎を知りたくて読んで見た。
この本によると、ビートルズのメンバーそれぞれは、どれも複雑な家庭に育っているとい
うことで共通している。ちゃんとした音楽の学校を出たわけでもなく、音楽は見よう見ま
ねでおぼえたようだ。
彼らは、いまで言う落ちこぼれの不良仲間だったが、それでも当時流行していたエルヴィ
ス・プレスリーのロック音楽に出会えたことが、幸運をもたらしたともいえるだろう。
彼らはエルヴィス・プレスリーのロックと出会うことによって、それに熱狂し、それが彼
らの持っていた潜在的な音楽的能力を呼び覚ましたと言えるのだろう。
そんなビートルズでも、当初の5年間は、リヴァプールというイギリスの地方都市だけで
の人気者だったというから、いまから見るとちょっと驚きである。そんなビートルズを世
界的に有名にしたのは、なんといってもマネージャーのブライアン・エプスタインの存在
が大きかったと言えるだろう。彼がいなかったら、ビートルズは単にイギリスのローカル
的な人気者だけで終わっていた可能性のほうが大きかった。
それにしても、絶頂期のビートルズの人気が凄かったようだ。ビートルズのコンサートで
は、興奮のあまり若い女性たちが次々と失神して倒れたという。「彼女らはオーガズムに
達していたのだ」という心理学者もいたようだ。
1966年6月には、日本でも東京の日本武道館でビートルズ公演が行われた。その時の
テレビのニュースは、私の記憶の奥底にもかすかながら残っている。もっとも、その頃の
私はまだこどもだったこともあり、ビートルズにはあまり関心は持っていなかったのだが。
そんな私でも、次の3曲は大好きな曲だ。
イエスタデイ
イマジン
レット・イット・ビー
そのビートルズも、メンバー内のいざこざで1971年に解散し10年間のグループでの
活動を終えた。
ところで、ビートルズ(Beatles)という名前の由来は、長い間謎となっていたが、その名
前の由来の真相は、カブトムシ(beetles)の綴りをちょっと変えたという単純なものだっ
たという。

ジョン
・ジョンの父親のフレッド・レノンは孤児として育てられ、当時は孤児を入学させていた
 リヴァプールの慈善学校に入った。みなし児になったのは9歳のときで、その年に父親
 のジャック。レノンが死んだのだった。
・このジャック・レノンという人は、人生の大半をアメリカで、職業歌手として送った。
 歌い手をやめてから、リヴァプールへ帰り、そこでフレッドが生まれた。
・フレッドは、15歳で孤児院を出て、ある事務所の給仕になった。フレッドは16の年
 に事務所をやめて、海に出た。船の仕事に乗り出す直前に、フレッド・レノンはジュリ
 ア・スタンリーと出逢った。初めて二人が逢ったのは、フレッドが孤児院を出て、一週
 間後のことだった。 
・フレッドの船が港に入るたびに、フレッドとジュリアはデートを重ね、それが約10年
 間続いた。ある日、ジュリアが「ねえ、結婚しましょう」と言った。結婚式は1938
 年に登記所で行われた。
・フレッドが留守中にジュリアは自分が妊娠していることを気づいた。それは1940年
 夏のことである。リヴァプールは猛烈な空襲に見舞われていた。
・赤ん坊は1940年10月9日、激しい空襲の最中に生まれ、ジョン・ウィストン・レ
 ノンと名づけられた。しかし、まもなく二人の結婚生活は事実上終わった。
・ジョンが最初の入学した学校はダヴディル小学校だった。その教頭は「この子は針みた
 いに鋭い子だ。自分でする気になったことはなんでもするけど、月並みなことは絶対に
 したがらない」と言った。 
・ジョンは7歳頃から自分の本を書き始めた。
・表面的には、ジョンの育った環境は、愛情にあふれた、やさしい、しかも断乎としたミ
 ミ叔母さんという人物に恵まれ、理想的であるように見えた。  
・1952年にジョンが入学したころのクオリー・バンク中学校は、ミミ叔母さんの家か
 ら程遠からぬ町外れ、リヴァプール市の小さな中学校だった。この中学校は、それほど
 有名ではないが、現在でも評判の良い学校である。
・最初の1年が終わる頃になると、あらゆる規律や、天下り義務に反抗するレノンと友だ
 ちのショットンは、二人を除く学校の全員と対立していた。
・ジョンには絵の才能があり、ほかのことはともなくとして絵はいつも上手に描いた。
・ジョンは1年ごとに確実に悪くなっていった。初めクラスのトップに近かった成績は、
 3年生になるとBグループにまで下落した。  
・まもなくジョンは成績最低のグループ、Cグループに入れられた。そして5年の最終学
 期になると、ジョンの成績は20番にまで落ちた。すなわち、最低のクラスの最低の成
 績である。
・しかし現在、中学時代を振り返って、ジョンにはいささかの後悔もない。「ぼくが正し
 かったことが証明されたんだ。連中は間違っていて、ぼくが正しかったのさ。連中は今
 でもぱっとしない有様なんだろう?だとすれば駄目な人間は連中のほうじゃないか」
・中学時代の終り頃、ジョンはポピュラー音楽に情味をもった。ジョンはどんな種類の音
 楽教育も訓練を受けなかった。しかし流行っていたハーモニカは、自分で吹き方を覚え
 た。 
・1950年代のポピュラー界に起こった第三の、そしてある意味では最もめざましい事
 件であり、ビートルズ以前のポピュラー界で最も影響力の強かった一人の人間、それは
 エルヴィス・プレスリーであった。
・ロックはすべての少年たちを熱狂させる音楽だった。エルヴィスはその熱狂的な唄を歌
 う熱狂的な歌手だった。 
・ビートルズの全員は、同性代の数百万の少年たちと同じく、その影響に巻きこまれた。
・この熱狂が始めった頃、ジョン・レノンはギターを持っていなかったし、ほかのいかな
 る楽器も持っていなかった。
・ある日、ジョンは、学校で一人の少年からギターを借りたが、弾けないとわかるとすぐ
 に返してしまった。だが、母親のジュリアがパンジョーを弾けることを知っていたので、
 ジョンは母親にねだりに行った。ジュリアは10ポンドの中古品のギターを買って与え
 た。

ポール
・ポールは1942年6月にリヴァプールの病院の個室で生まれた。ジェームズ・ポール・
 マッカートニーと名づけられた。
・ビートルズのメンバーで、こんな贅沢な環境で生まれた者はごかにいない。マッカート
 ニー家は普通の労働者の家庭であり、当時は戦争のさなかだった。だが、ポールがこれ
 ほど恵まれた生まれ方をしたのは、母親が一時この病院の産婦人科の看護婦をしていた
 ためだった。最初の子、ポールを生むために元の職場へ現われた母親は、スター扱いを
 受けたのである。
・母親のメアリー=パトリシアは、1年前、ポールの父親と結婚したときb病院の仕事を
 やめ、保健婦になっていた。
・ポールの父親のジム・マッカートニーは、14の年に、綿花輸入商会に使い走りの少年
 として勤め、その労働生活が始まった。1941年に、39歳でジムは結婚した。 
・ジムの話によれば、ポールの母親は必要以上に一所懸命働いた。昔からこのひとは生真
 面目な女性だった。
・ポールは初めストックトン・ウッド・ロード小学校へ入った。母親は保健婦としてカソ
 リック系の学校に出入りし、あまりいい印象を受けなかったので、息子をカソリックの
 学校には入れなかったのである。 
・ポールは成長するにつれて、ますます平和主義を押しすすめ、騒がしい弟のマイケルと
 違って、いつも物事を静かにてきぱきと片付けるのだった。それは母親そっくりのやり
 方だった。
・ポールはたやすく入学試験にパスして、リヴァプール・インスティテュートに入った。
 これはリヴァプールでは一番有名な中学である。
・弟のマイケルもこの中学に入ったが、成績は悪くなる一方だった。ポールはよく勉強し、
 いつも優秀な成績だった。
・同じ学年の生徒たちのなかで、ポールは性的にきわめて早熟な生徒だった。低学年のう
 ちから、そのことを何から何まで、あるいはほとんど何から何まで知っていた。「一度
 ぼくは、クラスの連中のために猥画を描いたことがある。畳むと女の頭と足しか見えな
 いが、拡げると全裸なんだ。ちょこちょこっと陰毛を描きこんだ。まだ女の裸なんか、
 まともに見たこともなかったくせにね」  
・ポールが14になったばかりの頃、母親は突然胸に痛みを感じるようになった。ある日、
 弟のマイケルが家へ帰って来ると、母親が泣いていた。自分とポールが何かいけないこ
 とをしたからだ、とマイケルは思った。「ぼくらはいたずらばかりしていたからね」だ
 がマイケルは母親にわけを訊かなかった。母親もなにも言わなかった。しかし実のとこ
 ろ、母親は専門医に診て貰ったのである。医者は癌だと診断を下した。そして手術の結
 果、母親は死んだ。初めて痛みを訴え始めたときから、まだひと月も経っていなかった。
・弟のマイケルは、父親がどうやって生活を続けていたのか、今思うと不思議で仕方がな
 いと言う。「ぼくらは乱暴だったし、残忍だった。ところが父はあくまでやさしかった。
 その間、ずっと女っ気なしだからね。想像もつかないな。ポールが一人前になれたのは
 父のおかげだ。ぼくらは二人とも父のおかげで一人前になれたんだ」
・父親の十八番の家庭哲学を、二人の子供は嘲笑していた。人生で一番大切なことは二つ
 ある。それは「寛容」と「穏健」だと、父親は子供たちに言い聞かせたのである。
・人間にとって何が一番良いことなのかを、父親はいつも考えていた。この人はだれに対
 しても丁寧で、飾らぬ魅力を持って付き合ったが、それは単なるセールスマンの腰の低
 さではなく、もっと深い、もっと本物の態度だった。この父親が軽率な、思慮の浅い人
 物だったら、母親の詩と同時に子供らはたちまち手がつけられなくなったに違いない。
・ポールは母親から辛い献身的な仕事に対する能力を受け継いだように思われる。現在の
 ポールは、その気になりさえすれば、いつでも仕事をてきぱきと処理できる人間である。
・ある意味で、ポールはジョンに負けず劣らず、学校を軽蔑し、その規則ずくめの全体系
 を馬鹿にしていた。しかしポールの中には自分をおとしめることを望まない部分がひそ
 んでいた。たとえ発作的にであろうとも、いつでも面倒な勉強に精を出すすべを知って
 いたポールは、ぶじ学業を切り抜けることができた。ジョンは全くその過激分子になり、
 非協力分子になったが、ポールは決してそうなれなかった。
・子供の頃、ポールは音楽に特別な関心を示さなかった。
・ポールはペニー通りのそばのセント・バーナス教会の合唱隊に少しのあいだ入っていた。
 さらにそのあと、ポールは叔父さんから中古品のトランペットを貰い、独習して、聞き
 覚えていろんな曲を吹くようになった。この聞き覚えの才能は父親ゆずりである。父親
 は少年時代、独学でピアノを弾いたのだった。ビートルズのメンバーの親たちのなかで、
 多少とも音楽家としての体験をもつ人はポールの父親だけである。
・大多数の友人たちと同じように、ポールも12歳ぐらいからポピュラー音楽に興味をも
 った。 
・ポールは「パヴィリオン」にも行った。「パヴィリオン」というのは、ヌード・ショー
 をやっていた劇場だ。
・ジョンや、ほかの少年たちと同じように、ポールも素人バンドの演奏や、ビル・ヘンリー
 の初期のロック・ナンバーに影響されたが、これまたジョンと同じく、エルヴィス・プ
 レスリーが出現するまでは、ほんとうに熱狂できる対象をもたなかった。
・ギターを手に入れると、ポールはエルヴィスの唄や、そのほかの流行の曲を真似して弾
 き歌いした。
・ポールはもう夢中になってしまった。食事の時間も惜しんで、洗面所や、浴室や、いた
 る所で練習していた。
・1956年夏、ウールトン教会での演奏会で、ポールとジョンは出会った。ジョンはそ
 の時16歳で、ポールはまだ14歳だった。ポールはジョンの知らなかったコードを二
 つ三つ教えてやった。
・ジョンはポールと逢ったことを、そのあとも考えつづけ、暫くは何も手につかなかった
 ことを記憶している。物事をじっくり考えるというよりも、やりたいことをどんどん実
 行するタイプのジョンにとって、これは異様なことだった。「演奏するポールにいかれ
 ちまったんだ。彼は確かにギターが上手だった」
・ポールは二曲ほど自分の書いた曲をジョンに演奏して聞かせた。ギターを弾き始めた頃
 から、ポールは自分の曲を作ろうとしていたのである。ジョンも負けじと、ただちに自
 分の曲を作り始めた。それまでにも他人の歌詞や曲を借りて、適当な曲をでっちあげる
 ことはあったが、ポールが現れるまでは、まともな曲を作ったことはなかったのである。
 もちろん、ポールの曲も、ジョンの曲も、まだ大したことはなかった。ひどく単純で、
 擬い物くさかった。けれども二人が知り合い、お互いに刺激し合って、とつぜん自分た
 ちの演奏する曲を作り始めたことには大きな意義があった。その日から、二人の活動は
 やむことがなかった。  
・「そのときから、ぼくは全く新しい方向に進んだんだ」と、ポールは言う。「ジョンと
 知り合って、すべてが一変した。ジョンと知り合ってよかった。彼はぼくより二つ年上
 で、ぼくはまだほんの子供だったけれど、ぼくら二人は同じようなことを考えていた」
・それから数カ月のあいだに、ジョンとポールはお互いに充分知り合った。二人は四六時
 中一緒だった。二人とも学校をさぼり、父親が仕事に出て留守のあいだにポールの家に
 行き、フライエッグを食べながら、ギターのコードを練習した。 
・ポールは、自分の学校友達のなかの大物の一人をグループに加える可能性について、だ
 んだん考えるようになった。その友人はポールよりも若かったが、腕前を考えれば、そ
 んなことは問題にならないだろう。
・その新しい友人はポールよりも若かったばかりでなく、ポールのようにインテリである
 ことへの未練をきれいさっぱり捨てていた。ジョージ・ハリスンという名のその友人は、
 正真正銘のテディ・ボーイ(不良少年)だった。
 
ジョージ
・ジョージ・ハリスンは、ビートルズの中でたった一人、兄弟の多い家庭に生まれ、ノー
 マルで平穏な家庭環境に育った人間である。ビートルズのメンバーでは一番若く、ハリ
 スン家のハロルドとルイーズのあいだに生まれた4人の子供の中の末っ子である。
・ハリスン夫人は頑丈で、陽気で、親切で、社交性に富む婦人である。ハリスン氏はやせ
 ていて、思慮深く、几帳面で、慎重である。この人は14の年に学校をやめ、かつて家
 庭の主婦が洗濯に使っていた仕上機械を作る会社で働いた。 
・ハリスン氏は1926年から36年まで、海運会社のボーイ長として海上生活を送った。
 妻のルイーズと初めて逢ったのは1929年のことだった。
・ハロルドとルイーズは1930年に結婚した。教会ではなく、登記所で。ルイーズはカ
 ソリック信者だったが、ハロルドはそうではなかったのである。二人が結婚して18年
 間暮らした住居は、ジョン・レノンやポール・マッカートニーの住居から、ほんの数マ
 イルの場所である。1944年に四人目で三男のジョージが生まれた。
・ジョージは普通の公立の小学校に入った。それがダヴディル小学校だった。ジョン・レ
 ノンがかつて入学したのと同じ学校である。ジョンはジョージよりも2歳半だけ年上で、
 学年は3つ上だった。ジョンのジョージは小学校時代には交渉がない。だが、ジョージ
 の兄は、ジョン・レノンと同学年であった。
・ジョージの小学校時代の成績は悪くなかった。
・ジョージは1954年にリヴァプール・インスティテュートに入学した。ポール・マッ
 カートニーは一年先輩で、すでにそこにいた。
・インスティテュートでは、ジョージは初めから度外れの服装をする生徒として有名だっ
 た。ジョージは長髪が流行り出す何年も前から髪を長くしていた。
・ジョン・レノンの反逆は、喧嘩をし、トラブルの種をまくというかたちで行われた。ジ
 ョージはそれを服装でやったわけだが、それも同じ程度に教師たちを困らせたのだった。
・インスティテュートの4年生になった頃から、ジョージはトラブルを避けるようになっ
 た。ジョージがやっと学校に順応したのを見て、ハロルド・ハリスンはもちろん喜んだ。
 息子たちのなかで中学に進んだのはジョージだけだったから、父親はこの子に期待をか
 けていたのである。ジョンの叔母のミミや、ポールの父のジムと同じように、この父親
 もまた教育というものを、自己の形成ばかりでなく、世間的な成功と名声に至る唯一の
 道と見ていたようである。
・安定した有利な職業を子供のために願わぬ親はいないだろうが、ハロルド・ハリスンの
 世代の人間にはことにその傾向が強かった。なにしろ1930年代の不況のただなかで
 何年も失業し、わずかな失業保険金で家族を養った経験の持ち主であるから。
・ジョージの個人主義や反権威主義は、どうやら父親ゆずりではないようである。少なく
 とも父親の若い頃の貧乏生活は、ジョージに生活の安定が必要であることを痛感させた
 にちがいない。
・だが母親のほうは常にジョージの味方だった。母親は子供たちみんなの仕合せを望んで
 いた。子供たちが何に興味を抱こうと、それをすることが楽しければ結構という主義だ
 った。だから、どこからどう見ても無意味なこと、だれの利益にもならぬ趣味、生活の
 安定や名声とは明らかに無関係なことに、ジョージが関心を示し始めたときですら、母
 親はこの子を激励したのである。    
・ハリスン夫人は陽気で社交的に富むというだけのひとではなかった。ビートルズの他の
 メンバーの両親たちとは違って、このひとはこのひとなりに無鉄砲な変わり者だった。
・ハリスン夫人は昔から音楽やダンスが好きだった。夫と共同で初心者のためのダンス講
 習会を市バス従業員社交クラブで、ほとんど10年間にわたって続けていたほどである。
・両親が覚えている限りでは、子供の頃のジョージは音楽に関心を示さなかった。14歳
 の頃、ジョージは突然、学校から帰って来ると紙切れにギターの絵を描くようになった。
 ある日ジョージは母親に言った。「学校の友達で5ポンドのギターを3ポンドで譲るっ
 て言う奴がいるんだけど、買っていい?」
・「ジョージは独学でギターを覚えようとしました」と、ハリスン夫人は言う。でもあま
 り進歩しませんでした。「駄目だ、これじゃものにならないよ」とジョージは何度も言
 いました。ハリスン夫人は「大丈夫よ、大丈夫よ、とにかく続けなさい」ジョージは指
 から血が出るまで続けました。 
・ある日、ジョージがクラブでオーデションを受けると言った。兄と友達がギターを弾き、
 そのほかに一人はお茶箱を叩き、もう一人はハーモニカを吹き、ジョージ自身はギター
 を弾いた。   
・ホールに着いてみると、本職の楽団が来ていなかった。ほかに代わりがないので、ジョ
 ージたちが一晩演奏しなければならないことになった。「帰って来たときは、みんなと
 ても興奮して大声で叫んでいました」とハリスン夫人は言う。「みんながそれぞれ生ま
 れて初めて音楽の演奏で儲けたお金を見せてくれました」
・ジョージがポールと初めて口をきいたのはインスティテュートに入学したばかりの頃だ
 った。バス通学の途中で二人はよく出逢った。ジョージは、ある日、母親が自分の息子
 とポールの両方のバス代を払ったことを記憶している。素人バンド全盛時代が来て、二
 人はどちらもギターを手に入れ、もっと親しく付き合うようになった。二人は暇な時間
 はいつも、休日でさえ一緒にすごすようになった。
・ジョージを仲間に入れることをためらったのは、ジョンの記憶によれば、やはりジョー
 ジの若さのせいだった。「あまりといえばあまりにだからね。ジョージは若すぎた。最
 初は年を訊く気にもなれなかった。まるっきり子供に見えた」「結局、ジョージを仲間
 に誘ったのは、彼がぼくらよりコードをたくさん知っていたからだった。彼にはずいぶ
 んたくさん教わったな。新しいコードを覚えるたびに、それを使って唄をこしらえた」
・ジョージはたぶんわざとジョンにつきまとったのだろうと、ジョージ自身は言う。ジョ
 ンはその頃までに美術学校に入ろうとしていたが、叔母のミミの躾にもかかわらず依然
 として攻撃的であり、労働者階級の匂いを発散していた。
・「ジョンにはとても強い印象を受けていた」とジョージは言う。「もしかすると、ポー
 ルよりも印象は強かったかもしれない」  
・リーダーのジョンは、素人バンド熱にあてこんで儲けようとする大勢のマネージャたち
 に近づいて、なんとか出演契約をとりつけようとした。だが定期的な出演契約をとるの
 は非常にむずかしかった。素人バンドの数は多く、その大部分はずっと上手だったので
 ある。  
・しかし今や根拠地は二つ出来た。ジョージの家は、ほとんどいつでも好きなときに使え
 たし、ポールの家も、父親がいないときには使えた。どちらかの家で、彼らは練習し、
 作曲し、でなければただなんとなく暇つぶしをすることができた。

美術学校で
・ジョンの母ジュリアが死んだのは、1958年の7月だった。事故は叔母ミミの家のす
 ぐそばで発生したのである。ジュリアの死は、ジョンにとっては明らかに恐ろしい悲劇
 だった。ジョージの母親のハリスン夫人は、この事件がジョンにおよびした影響をいま
 だに覚えている。母親の死によって、ジョンはポールといっそう親しくなった。
・セルマ・ビクルズは当時のジョンの女友達の一人だった。といっても深刻な関係ではな
 く、ジョンの取り巻きのなかの一人というだけのことである。セルマが言うには、大部
 分の学生たちはジョンのような個性を初めて見たので、その振舞い驚き、かつ怖がった。
 人がめったに言わなうような乱暴なことをよく言ったという。
・美術学校におけるジョンの生活に、新たに二人の人間が入りこんできた。一人はスチュ
 アート・サトクリフである。スチュアートは同じ学年だったが、ジョンとは違って将来
 を嘱望された優秀な芸術家だった。芸術家ふうで、神経質だが、非常に激しいところが
 あり、独特の個人主義者である。スチュアートとジョンはたちまち友達になった。
・美術学校でジョンの友人となったもう一人の重要な人物は、後に婦人となったシンシア・
 パウエルである。シンシアは、中流階級の出身で、とても物静かな人だったと言う。
 2年のとき、1958年のクリスマスに、本格的な交際が始まった。以後、二人は毎晩
 のようにデートを重ね、夜ばかりでなく昼間も、講義に出る代わりに映画に行くように
 なった。
  
スチュとスコットランドと「シルヴァ・ビートルズ」
・ジョージの記憶によれば、スチュは二者択一を迫られた。つまり、ベース・ギターか、
 ドラム・セットか、どちらかを買おうというのである。ギターは三人だけで、ほかにバ
 ックが一人もいないバンドでは、そのどちらも必要だった。
・「スチュは弾き方を全然知らなかった」と、ジョージは言う。「ぼくらは知っている限
 りのことを教えたが、スチュは本当のところはぼくらと一緒に舞台に出ているうちに、
 自然に弾き方を覚えたようだった」
・残っている写真から判断すると、当時のスチュは、自分の弾けるコードがほんの僅かし
 かないことを隠すために、なるべく徴収に背中を向けるようにしていた。
・まだ稼ぎこそ少なかったが、グループはますます頻繁に労働者の社交クラブなどに出演
 していた。ビート・グループのブームがリヴァプールを覆うにつれて、十代の少年少女
 たちのための小さなクラブが徐々に現われ始めた。それはイギリス全土に姿を見せてい
 た。エスプレッソ・コーヒーを飲ませる、何百という喫茶店と同じ系統の、コーヒー・
 クラブだった。
・ビート・クラブは、たとえばキャヴァンというような伝統的なクラブには決して入るこ
 とができなかった。そういう場所はジャズ・ファンやジャズ・バンドの縄張りであり、
 ジャズはもっと高級な芸術だとみなされていた。ビート・グループはどれもこれもむさ
 くるしく、素人っぽく、かつテディ・ボーイふうだった。それは電気工や労働者などが
 加わった、労働者階級の芸術だった。したがって一般的には、ビート・クラブや、そこ
 で演奏する人間は、何か低級なもののように見下されていた。
・イギリスの新しい傾向は、依然としてロンドンから始まるのだった。イギリスでアメリ
 カのスターなみに全国的に有名になった最初のロックンロール歌手は、ロンドンのコー
 ヒー・バーに現れた一人のロンドンっ子、トミー・スチールである。つづいて、完全に
 プレスリーを真似て歌うクリフ・リチャードが現れた。クリフは、トミー・スチール以
 上に十代のアイドルとなった。
・ジョンのジョージとポールは、トミー・スチールを知らなかったか、あるいは少なくと
 も特になんらかの影響を受けたことがなかったように見える。
・ジョンは、グループの名前を、しゃれた感じのする名前を、昆虫の名前からいくつも考
 えた。言葉遊びをする子供のように、あとからあとからいろんな名前を思いついた。そ
 のうちふっと、カブトムシ(beetles)という名前が浮かんだ。それをBeatlesと綴るこ
 とにした。これがビートルズという名前の由来の単純な真相である。
    
ハンブルグ
・ハンブルグはドイツのリヴァプールである。どちらも北部の大きな港町で、住民はがさ
 つなしたたか者揃いだが、一皮むけばやさしいところがあり、感情的である。だが、ハ
 ンブルグの町は大きさがリヴァプール倍もあり、伝統的に悪の町である。ハンブルグの
 犯罪と売春は全ヨーロッパに鳴り響いている。 
・17歳になったばかりでまだ一度もキスしたことのないジョージを含めて、ビートルズ
 の一行が1960年にこの町を訪れたとき、ハンブルグの悪はその絶頂に達していた。
 1960年8月にベルリンの壁が高くなったとき、東ドイツの大勢の犯罪者や非合法移
 民は、ベルリンを素通りして、まっすぐハンブルグへ向かったという。
・ドイツ人のいわゆる「マックショウ」は重要な問題だった。ビートルズはロック・グル
 ープだったけれども、リヴァプールでは比較的おとなしく演奏していた。それが今、舞
 台でできるだけ派手に動きまわることを要請されたのである。それはジョンにはたやす
 いことだった。ジョンはたえずこのマックショウをやり、恍惚たる表情で跳びあがった
 り、床にころがったりした。ハンブルの客たちはこれを喜び、たちまち ビートルズ
 のファンになった。 
・正式の契約では、演奏時間は一晩に6時間である。しかし、どこへ行くことも、何をす
 ることもできなかったから、実質的に12時間ぶっ通しに演奏するのと大差なかった。
 痩せ薬を飲むと眠くならないという話をドイツ人から聞いて、それを飲んだりしながら
 演奏した。初めは全然無害な薬を使っていたが、だんだん強い薬を使うようになった。
 しかし、ビートルズが薬に頼ったり、溺れたりした形跡はない。だがいくら軽度の服用
 とはいえ、これは麻薬への興味や嗜好の始まりだった。ビートルズのメンバーは一人残
 らずある時期には麻薬を試みている。
・薬を用いても度をすごさなかったのは、刺激のためではなく、本当に眠くならないため
 にそれを用いたからだった。眠くなりたくなかったのは、ハンブルグの荒々しい十代に
 むかって自分たちのやりたい曲をやりたいだけ演奏しつづけることが本当に好きだった
 からである。長時間の舞台は少しも苦にならなかった。
・体をこわさなかったのは驚くべきことである。ろくなものを食べなかったし、ほとんど
 睡眠もとらなかったのに。「遊びと、酒と、女とて、眠る時間なんかありゃしなかった」
 と、ジョージは言う。
・アストリッドはハンブルグの中産階級の堅実な家庭の出身である。美術学校では写真を
 勉強していた。1960年当時、アストリッドはカメラマンの助手になっていた。
・ビートルズは暇な時間はたいてい、アストリッドや、その友人たちと、お喋りをしたり
 飲んだりするなかになった。ドイツ語は話せなかったが、ドイツ人のなかには英語を解
 する人間がいた。  
・一週間ほど毎晩のように通いつめてから、アストリッドはようやく勇を振るって、写真
 を撮らせてほしいと頼んだ。アストリッドはスチュともっと親しくなりたかったので
 ある。「一目で彼に恋をしてしまった」のだという。
・アストリッドは始終カメラを持ち歩き、ビートルズの写真をたくさん撮るようになった。
 これはビートルズの最初の職業的写真であり、その先何年にもわたって最も芸術的な写
 真である。アストリッドは巧みな光の使い方によって、ビートルズの顔の反面が影にな
 るように撮った。このハーフ・シャドウというやり方はオリジナルではないが、以後多
 くのカメラマンによって真似されることになる。アストリッドはビートルズのフォトジ
 ェニックな可能性を発見した最初の人間である。この可能性はのちに大いにその価値を
 発揮するのである。 
・初めにお茶を御馳走されてからというもの、ビートルズはほとんど毎晩アストリッドの
 家へ食事に行くようになり、彼女とスチュの仲は徐々に進展した。やがてスチュはそれ
 以外のときにも一人で行くようになり、二人はアストリッドの黒いベッドに腰かけて、
 独英辞典の助けを借りながら話し合うのだった。
・1960年11月、初めて逢ってから2カ月後に、スチュとアストリッドは婚約した。
 スチュは19歳で、ジョージと似たり寄ったりの年頃だったが、考え方は遥かにおとな
 だった。学業を捨てたジョンとは違って依然として美術に関心があったが、このグルー
 プのことにも同じ程度に情熱を注いでいた。 
・ビートルズは国外退去を命じられた。追放の本当の原因は、未成年者だったこと以外に
 は、遂に不明である。たぶんクラブ間のトラブルが何か関係しているのではないだろう
 か。
・まともに帰れたのはスチュだけだった。スチュは飛行機でリヴァプールへ帰った。扁桃
 腺が腫れ始めていたので、長い道中にそれが悪化することを心配し、アストリッドが飛
 行機の切符代をくれたのである。ほかの連中は、それぞれ自力でリヴァプールへたどり
 着いた。プロとしての初めての経験は、こうしてきわめて惨めな結果に終わったのであ
 る。
 
リザーランド・ホールとキャヴァン・クラブ
・ハンブルグから帰っての初演奏はカスバ・クラブで行われ、その演奏はすばらしかった。
 猛烈にうまくなっていた。
・だが、ハンブルグ以後の最も重要な公演は、1960年12月、リザーランド・ホール
 で行われた。運命の分かれ目ということが言えるとすれば、この日はまさにそれだった。
 ビートルズの成長、その新しいサウンド、新しい唄は、その夜、だしぬけにリヴァプー
 ルに襲いかかったのである。カスバ・クラブのファンたちはリザーランド・ホールに詰
 めかけ、ビートルズの成功に力を貸した。この日以後、熱狂的なファンを抱えていると
 いう点では、ビートルズは一歩たりとも後退しなかった。
・リザーランド・ホールは大きなホールで、普通、週に二回だけティーンエイジャーたち
 のダンスホールとして開放されていた。ビートルズはそれまでそんな大きなホールで演
 奏したことがなかった。ハンブルグ仕込みの足を踏み鳴らし、跳びまわる、やかましい
 音楽は、ここで初めて聴衆を熱狂させた。客は狂ったようになった。
・その夜のポスターには、「ハンブルグから来たビートルズ」と書かれていたので、熱狂
 した客たちは、ビートルズはドイツ人だと誤解していたようである。サインを頼むとき、
 ビートルズが喋るのを聞いて、だれもがびっくりしたように、「英語が上手ですね」と
 言うのだった。  
・変化したのはビートルズだけではない。ビートルズの留守中にイギリスでは重要な変化
 が起こっていた。つまり、どのグループも今では狂ったようにザ・シャドウズを真似よ
 うとしていたのである。  
・一方ビートルズはいわば一種の先祖返りといったふうに、騒がしく粗野な演奏をし、そ
 の服装も突飛で無秩序だった。すなわち、リヴァプールを発つ頃は流行っていたが、今
 では死滅しかけていたロックンロールの演奏様式を、ビートルズは継続させたのである。
・ビートルズはなぜこれほど人気があるのだろうか。彼らはアメリカの黒人歌手に由来す
 るロックンロール音楽のオリジナルを復活させたのだ。それはクリフ・リチャードのよ
 うな歌手によって骨抜きにされていた。人間感情に炎を点じるようなエネルギーは消え
 失せていた。その疲れ切った状態の所で、ビートルズが爆発したのである。
・1961年初頭、リザーランド・ホールの成功に引きつづいて、いくつかの大ホールで
 の公演が行われた。どのホールでも、終わりはいつも気違いじみて混乱だった。ことに
 ポールが、ロックのスタンダード。ナンバー「のっぽのサリー」を、猛烈なピートをき
 かして歌い出すと、興奮は凄まじかった。 
・キャヴァン・クラブは久しい以前から生演奏を聴かせる場所としてはリヴァプールの中
 心地で最大のクラブだったが、演奏はジャズに限られていた。
・ビートルズはハンブルグから帰国ののち、1961年1月以降、定期的にキャヴァン・
 クラブに出演した。キャヴァン時代が訪れて、地方的現象としてのビートルズの成功は
 確実になった。約5年間の低迷ののち、ビートルズはようやく個性を築き上げ、リヴァ
 プールの熱狂的なファンを獲得したのである。  
・だが、その後の1年間、1961年の大部分にわたって、ドラマチックなことは何一つ
 起こらなかった。ビートルズは今や地方的な成功という谷間に落ち込んでいた。その演
 奏活動はリヴァプールかハンブルグに限られてしまったように見えた。ほかの町の人た
 ちはビートルズに関心を抱かなかった。
・スチュがハンブルグに残り、アストリッドと結婚し、美術学生の身分に残ること決心し
 た。スチュはまだビートルズの音楽が好きだったが、自分はベース・ギターよりも美術
 の道を進むべきだと感じたのである。
・1961年7月、4人になったビートルズは、スチュをハンブルグに残して、リヴァプ
 ールへ帰った。スチュは美術学校でまじめに勉強した。
・1961年末のある日、スチュはハンブルグ美術学校で卒倒し、自分の部屋に担ぎ込ま
 れた。「その前からしきりに頭が痛いと言っていましたけど」と、アストリッドは言う。
 「勉強のしすぎだと、私たちは簡単に考えていました」
・スチュは翌日は学校に出たが、1962年3月にまた同じことが起こった。卒倒したス
 チュはアストリッドの家に運ばれ、そこで寝起きするようになった。
・1962年4月、スチュは脳出血で死んだ。今日では、ビートルズの一同はスチュの死
 を悲しんでいる。ビートルズのなかで最も知的だった男が1962年にすでにこの世を
 去ったという事実は、考えてみれば不思議なことである。
 
ブライアン・エプスタイン
・エプスタイン家の財産を創ったのは、ブライアンの祖父のアイザックだった。この人は
 ユダヤ人の亡命者で、今世紀の初めの頃ポーランドからリヴァプールへ渡って来た。そ
 して家具店をリヴァプールに開いた。この店はやがて長男のハリー、すなわちブライア
 ンの父親に引き継がれた。
・リヴァプール市民の大多数は、エプスタイン一家が初めからNEMS、しなわち「ノー
 スエンド・ミュージック・ストア」の持ち主だったのだと思っている。NEMSの名前
 は、のちにブライアンがレコード売場を引き受けたことによってリヴァプール中に広く
 知れ渡るのである。だがNEMSはエプスタイン家以前にも存在していたのだった。
・エプスタイン家がNEMSの所有者になったのは、1930年代のことだった。 
・シェフィールド市のハイマン家という、もう一つの裕福なユダヤ人の家具店の娘が、ハ
 リーの妻になった。1933年に結婚したとき、その娘クイーには18歳で、ハリーは
 29歳だった。長男ブライアンは1934年9月に生まれた。次男のクライヴは23カ
 月後に生まれた。
・13歳の年、ブライアンは資格試験を受けた。それは一流のパブリック・スクールに入
 学するための資格試験だったが、ブライアンはそれにみごとに落第した。 やくなく、
 ブライアンははだれでも入れてくれるような中学校へ行った。自由放任主義的でスポー
 ツの盛んな中学だった。
・だが父親はなおあきらめず、1948年の秋、ちょうどブライアンの満14歳の誕生日
 に、ブライアンをレキン中学に入学させた。
・16歳の年、卒業証書は遂に取らずに、ブライアンはレキン中学をやめた。どうせ卒業
 できないだろうというのが大方の意見だったのである。ブライアンは学校をやめて、就
 職することを決めたのだった。  
・初めは家具のセールスをやった。仕事を始めて2日目に、ブライアンは鏡を買いに来た
 婦人に食卓を売りつけることに成功した。自分は商売人だったのだとブライアンは悟っ
 た。父親は、長男がようやく家具に精を出すようになったので、もちろん喜んだ。  
・1952年12月、エプスタイン家具店の新しい試みに夢中になっていた最中に、ブラ
 イアンは兵役を課せられた。かつて学校が恐ろしかったとすれば、軍隊は考えるだに恐
 ろしい場所だった。したがって軍隊でも一番だめな兵隊になるだろうことは目に見えて
 いた。  
・ブライアンは空軍を志望したが、結局、輜重兵にとられ、オールダショット兵営で基礎
 訓練を受けた。そのあと、ロンドンのリージェント兵営に勤務することになった。しか
 し、些細な不服従や失策などで幾度となく処罰され、ブライアンは精神的に不安定にな
 っていった。
・軍医はブライアンを精神科の医者の所へまわした。この精神科医はまた別の精神科医に
 相談し、ブライアンは生まれつき兵隊に向いていないという点で、医者たちの意見は一
 致した。精神的、感情的に、兵役には不適当な人物であるという診断が下された。兵役
 はまだ半分残っていたが、ブライアンは医学的な理由で除隊になった。にもかかわらず、
 軍隊の慣例として、ブライアンの考査表には、いいことずくめの評価が記されている。
・店に戻ったブライアンは一所懸命働いた。ますます関心をひかれるようになったのはレ
 コード売場の仕事だった。昔から音楽には関心があり、対象は主としてクラシックのレ
 コードだった。  
・父親は今度はリヴァプールの中心部に新しい支店を開こうとしていた。ブライアンは大
 いにあてにされた。ブライアンは助手を一人つけてもらってレコード売場の主任にな
 った。   
・開店から2年後の1959年に、NEMSは、レコード売場を建物の二つに階に拡張し
 た。店員は最初の2人から30人にまで膨張していた。あまりにも事業がうまくいくの
 で、NEMSのもう一つの支店を出すことが決まった。
・1961年秋、ブライアンは5週間のスペイン旅行という長い旅に出た。私生活と事業
 の両面で幽かな挫折感が、その旅にはつきまとっていた。それはたぶん深刻なものでは
 なく、ただ何かが満たされぬという感覚にすぎなかったかもしれない。かつて軍隊時代
 に悩んだように深刻に悩むには、過去4年間のNEMSの生活はあまりにも忙しすぎた。
 一部の人が、ブライアンを、金持ちの甘やかされた哀れな青年と見たことは事実である。
 しかし大部分の人が見る限りでは、ブライアンは家族に愛される魅力的で陽気な青年で
 あり、仕事熱心な男であった。
・これが1961年10月のブライアン・エプスタインだった。年は27歳。挫折した中
 学生であり、成功した家具店の店員であり、挫折した兵士であり、成功したレコード店
 の店員であり、挫折した俳優であり、成功したレコード店の支配人だった男。そのとき
 一人の客が店に入って来て、ビートルズのレコードをくださいと言った。
・エプスタインのご自慢の在庫指標システムは打ち破られた。「マイ・ボニー」というレ
 コードのことも、ビートルズというグループのことも初耳であると、ブライアン・エプ
 スタインは認めなければならなかったのである。
・ブライアンがビートルズのことを知らなかったのは、奇妙といえば奇妙だった。ブライ
 アンの商品はレコードであるから、彼の関心はレコードを出したグループにのみ向けら
 れていたのだろう。してみれば、ブライアンがビートルズを知らなかったことは無理も
 ないと言える。    
・リヴァプールでビート・グループやビート・クラブが盛んなことはブライアンも知って
 いた。しかし個人的にはそういうものに関心がなかった。
 27という年で今更コーヒー・クラブやビート・グループでもないだろう。それに過去
 5年間は商売に忙しく、芝居以外には遊び歩く暇はほとんどなかったのである。
・だが客の言った新しいレコードを知らなかったことは口惜しかった。そこで、そのレコ
 ードを取り寄せることをブライアンは約束し、メモに書きつけた。
・リヴァプールの各方面に問い合わせて見た結果、ビートルズはドイツのグループではな
 くイギリスのグループであり、しかもその出身地はリヴァプールだとわかって、ブライ
 アンは茫然とした。  
・そこで店の女店員にビートルズのことを訊いてみた。女定員たちは答えて、ビートルズ
 は有名だと言った。そしてブライアンが二度びっくりしたことは、ビートルズはこの店
 に来たことがあるという。午後など、それと知らずに、ブライアンは幾度となくビート
 ルズと対面していたのである。
・1961年11月の昼の演奏時間に、ブライアンは初めてキャヴァン・クラブを訪れた。
 客の興奮のすさまじさは確実だった。彼らは一種の磁力を発散しているように見えた。
 ブライアンはすっかり魅せられてしまった。
・ビートルズの現状がマネージャーを必要としていることを、ブライアンはまもなく見て
 とった。 
・1961年12月、ブライアンは店の事務所へビートルズの一同を招待した。名目はた
 だのお喋りの会ということだった。次の水曜に一同はまた寄り合い、ブライアンははっ
 きりとマネージャーになりたい意志を表明した。
・ブライアンはビートルズのマネージメントのために新しい会社を起こすことを決意し、
 レコード店の名を借りて、それをNEMSエンタープライズと名づけた。これは上手な
 命名だった。
・ブライアンが最初に着手した最大の仕事は、ビートルズの近代化だった。運営、衣裳、
 舞台マナーの近代化である。ブライアンはビートルズをロンドンでも受け入れられる存
 在とすべく、懸命に努力を続けた。
・ブライアンはマネージャーになることを決心したとき、当然ビートルズの両親たちに逢
 わなければならなかった。両親たちは、それまでの息子たちの友人連中とは違った、ブ
 ライアンの礼儀正しさと財産とに深く感銘を受けた。
  
デッカとピート・ベスト
・初めからブライアン・エプスタインはレコード業界の地位を利用した。それは初めから
 効力を発揮した。デッカ社が興味を示したのである。
・デッカとブライアンとの関係は、もちろん販売面だけでの付き合いだったが、非常にう
 まくいっていた。
・オーデションは962年1月に行われることになった。ジョージは甘ったれた声で「ザ・
 ジェイク・オヴ・アラビー」を歌った。ポールは「夕日に赤い帆」と「ライク・ドリー
 マーズ・ゴー」を歌ったが、少々上がり気味だった。自分たちの曲はたくさんあったの
 に演奏しなかった。ブライアンがスタンダード・ナンバーをやるように主張したからで
 ある。録音は終わり、関係者一同はきわめて満足したように見えた。
・しかし、数週間経ったが、何事も起こらなかった。何度か問い合わせた末、やがて三月
 になって、ブライアンはデッカ社から、ビートルズのレコードは出さないという決定を
 聞かされた。サウンドが気に入らないという。ギターのグループはもう流行遅れだと言
 われた。  
・リヴァプールで立派なレコード店をやっているのだから、そのほうに精を出したらどう
 だろうか、とブライアンは忠告された。そしてまた、どうしてもレコードを作りたいな
 ら、百ポンドも出せばスタジオを借りて録音技師を雇うことができると教えられた。
・1961年12月、マージー・ビート紙は人気投票を試みた。投票は何ダースものグル
 ープについて行われたが、結局、ビートルズの圧倒的な勝利だった。この事実をブライ
 アンは最大限に利用した。
・ブライアンは、デッカのオーデションのときのテープを、方々のレコード会社にもちこ
 んだ。その結果、EMIのオーデションを受けることになった。1962年6月の初め、
 EMIのスタジオでオーデションが行われた。しかし、たいへん結構です。結論はあと
 でご連絡しましょう。それで終わりだった。
・やがてブライアンがEMIから返事を受取ったは、7月の末のことだった。パーロフォ
 ン・レコードとの契約書にサインしてほしいと言って来たのである。ジョンも、ポール
 も、ジョージも、飛び上がって喜んだ。
・だが、ピート・ベストにはこのニュースは伝えられなかった。
・ニュースはたちまち外部に漏れ、リヴァプール中が大騒ぎになった。マージー・ビート
 紙が「特報、ビートルズのドラマー入れ替え」と大見出しを掲げたのである。その記事
 には、理由は示されず、入れ替えは円満に行われたとだけ書いてあった。
・ビート・ベストのファンたちは、ポール・マッカートニーのファンより遥かに少なかっ
 たが、激怒した。ビートルズの栄光の瞬間に、彼らの偶像がクビになったのだ。    
・ジョンや、ポールや、ジョージも、ピート・ベストのファンたちに襲われたが、彼らの
 最大の敵は、ブライアン・エプスタインだった。
・一番の責任者はジョージだ、と言われる。ジョンはピートと相当親しかったし、ポール
 はそんなことを一人でやる筈がない。たとえ最終的には三人の意見が一致したとしても、
 ブライアンに最後の一押しをしたのはジョージだという。なぜならジョージはリンゴを
 非常に尊敬していた。
・ピート・ベストをクビにしたことは、ビートルズの歴史における幾つかの陰気な事件の
 一つである。この事件の経過には何かしら陰険なところがあった。もちろん、たいてい
 の人間は同じようなことをやっただろう。つまり、マネージャーにいやな役割を押しつ
 けただろう。だがビートルズの三人は、ことにジョンは、昔からだれに対しても率直か
 つ誠実だった筈である。    
・ピートのドラムがビートルズの成功に一役買っていたにせよ、ピート・ベストなくして
 ビートルズサウンドはあり得なかったというのは、事実ではないし、事実から程遠いで
 あろう。 
・一部の人に言わせると、ビートルズがピートを永いこと仲間にしていた主な理由は、彼
 のサウンドではなくて、ドラマーが永い間このグループの最大の問題であったためであ
 る。ドラマーがいなければグループの進展は支障が来すから、彼らは常に良いドラマー
 を求めていた。そして使えそうなドラマーが現れたので、すぐにとびついた。それはピ
 ートが偉大なドラマーだったためではなく、ドラマーがいないことの不自由を見にしみ
 て感じていたためなのである。
・だれが名ドラマーであり、だれがそうでないかを定義づけるのはむずかしいが、これを
 性格の問題として見るならば、ピートがこのグループに溶け込めなかったことはやはり
 事実のようである。ただピート自身はそのことを意識していなかった。スチュはピート
 と違って、初めから自分の立場をよく理解していた。ピートはその後も永いこと自分は
 グループの一員だと思っていただけに、破局が来た時の驚きも大きかったのである。
・ピートの立場を考えるならば、この問題の処理の仕方、ことにクビの宣告は、もっとカ
 ラリとしたかたちで行われたほうがよかったかもしれない。しかし、今となってはそう
 言うことはたやすい。当時は、ビートルズがその後いかに発展し、ピートの失うものが
 どれだけ大きいかを、だれも知らなかったのである。ビートルズ自身はいくらかうしろ
 めたさを味わったが、この一件はあくまで三人の合議によるものであり、ジョージの策
 動ではないと言う。三人はピートが仲間だとは一度も思ったことがなかったのであり、
 したがって、こうなることは時間の問題だった。
・ピートは去り、芸能界で有名になるチャンスを失った。だが、この事件はビートルズに
 とって一つの仕合せな結果を招いた。リンゴ・スターである。
   
リンゴ
・リンゴ、こと、リチャード・スターキーは、ビートルズの中の最年長者である。
・リンゴは1940年7月生まれた。鉗子で取り出された赤ん坊は、体重が10ポンドも
 あった。生まれたときから目を開いていて、あたりをきょろきょろ見ますのだった。ま
 るで前に一度ここに来たことがあると言いたげな様子だったと、母親は近所の人たちに
 語った。
・そのときの母親のエルシーは26で、父親のリチャードは28だった。最初の子であり、
 ただ一人の子であるこの赤ん坊に、夫婦はリチャードと名前をつけた。長男に父親と同
 じ名前をつけるのは労働者階級のなわらしである。愛称も父親がかつてそう呼ばれてい
 たように、リチーといった。
・リチャーが満3歳になったばかりの頃、両親は別れた。以後、リチーは3度ほどしか父
 親に逢っていない。エルシーは赤ん坊を引きとり、まもなく夫婦は正式に離婚した。
・リチーは5歳で小学校に入った。それは家から歩いてほんの3百ヤードの所にあるセン
 ト・サイラス小学校だった。学校に入って1年経つか経たないかのとき、6歳のリチー
 は盲腸炎になった。それがこじれて、腹膜炎を併発して。通算して12カ月以上リチー
 は病院にいた。  
・7歳のリチーは退院して、セント・サイラス小学校へ戻った。もともと勉強のできるほ
 うではなかったが、1年の入院生活で完全に立ち遅れ、読むことも書くこともできなか
 った。マリー・マグワイアがいなかったら、遅れを取り戻すことは絶対にできなかった
 だろう、とリンゴは言う。マリーの母親とリチーの母親は昔から親友同士だった。
 二人は一緒に働きに出て、リチーマリーに預けられた。
・セント・サイラス小学校については、ズル休みをしたことや、公邸で下級生を脅して小
 銭を巻きあげてことしか、リンゴは覚えていない。
・11歳で、リンゴはディグル・ヴェイル中学校に入った。成績はかんばしくなかった。
 成績を上げるために特別クラスでも、試験を落ちた。
・リチーが11歳のとき、母親はリヴァプール市役所で室内装飾の仕事をしていたハリー・ 
 グレイヴズという男と付き合うようになり、リチーが満13歳の誕生日の数カ月前に結
 婚した。   
・13歳のとき、リチーは第二の大病に罹った。風邪をこじらせて、肺炎になったのであ
 る。今度は13歳から15歳まで、約2年のあいだ、リチーは入院していた。退院した
 ときは15歳だから、ほとんど恰好へ行かないうちに中学時代が終わってしまったわけ
 である。学校では、だれもリチーの顔を覚えていなかった。
・二度の大病は確かにリンゴに大きな影響をおよぼし、学校生活や、職場や、普通の家庭
 生活への順応を困難にしたようである。今日でも、リンゴは学校の先生の名前を一つも
 思い出せないが、自分を看護してくれた二人の看護婦の名前は、はっきりと覚えている
 のである。
・だが、リンゴ自身は不幸な幼年時代だったとは思っていない。普通の幼年時代だったと
 考えている。  
・リンゴは少年時代、音楽に興味を示さず、何かの楽器を習うということもなかった。素
 人バンド熱が始まったのは、リンゴが組立工の見習いとして働き始めた頃だった。
・1962年の夏、シンシアは自分が妊娠していることに気がついた。「ジョンが結婚し
 てくれるかどうか、私にはわかりませんでした。彼を束縛したくなかったし」「打ち明
 けられたときは少しばかりショックだった」と、ジョンは言う。「でもぼくはイエスと
 言った。いずれは結婚するのだから、それに逆らう気はなかった」二人は1962年8
 月リヴァプールの登記所で結婚式を挙げた。どちらの側の両親も結婚式に現れなかった。
・一同はこの結婚をビートルズファンたちには隠しておこうとしたが、キャヴァン・クラ
 ブの常連の女の子の一人が登記所から出てくるビートルズの姿を見たので、ニュースは
 洩れ、ビートルズはそれを懸命に否定した。   
・シンシアもこの結婚をできるだけ隠しておこうとした。この頃には、女の子のファンは
 ますます数が増え、どこまででもビートルズについてきては、何かとキャアキャア騒ぐ
 のだった。だが、リヴァプール以外の土地では、だれもビートルズを知らなかった。
 リヴァプールですら、何もかもがなんの宣伝もなしに起こったのである。ファンたちは
 独力でビートルズを発見したのだった。
・モーリン・コックスは、そういうファンの一人だった。モーリンは友人の二人で、ビー
 トルズに加わったばかりのリンゴを街で追いかけた。現在、モーリン・コックスはリン
 ゴの妻である。だが彼女が初めてキスした相手はポールであり、それを思い出すと今で
 もモーリンは照れくさそうな顔になる。
・リンゴはモーリンにキスされたことや、サインをねだられたことを覚えていない。「あ
 れは流行だったんだ。キスは。サインをせがむことから、さわることに、さわることか
 らキスすることに、だんだん程度が進んでね。楽屋へ行く途中で、いつも女の子の腕が
 にゅっと出て来て、抱きつくんだ。だからモーリンがキスしたときも、ハエがとまった
 ぐらいにしか感じなかったんじゃないかな」 
・だが3週間後、キャヴァンで、リンゴはモーリンをダンスに誘った。そのあと自宅まで
 送って行ったが、ついでにモーリンの友達も送っていかなければならなかった。この状
 態が数週間つづいた。モーリンはその友達に、あんた邪魔よと言う勇気がなかった。
・それからというもの、ビートルズが出演しているときのキャヴァンに、モーリンは欠か
 さず出かけて行ったが、まもなく、自分以上の熱狂的なファンがいることを悟った。
 「半分は性で、半分は音楽じゃないかしら。魅力の中身はそれなのよ。とにかく女の子
 たちはビートルズのだれかと付き合いたくて、うずうずしていたわ。ビートルズがいよ
 いよ出てきたときの金切り声、あれは凄まじかったわ。まるで発狂状態よ」
・リンゴとデートするようになったとき、モーリンはそれを極力隠さなければならなかっ
 た。「でなきゃ殺されたかもしれないわね。女の子には全然友情なんてないんです。隙
 あらば、うしろからぐっさり、という感じよ。ビートルズはみんな独身で、女の子には
 みんなチャンスがあるというのが、もう固定観念になっているんですね。ビートルズは
 特定の女の子とデートしちゃいけないんです」
・「いつかビートルズがクラブに出ていたときでした。演奏が終わる少し前に、リチーが、
 先に外へ出て、だれにも見つかれないように車の中で待っていてくれ、と私に言いまし
 た。車の中で待っていると、一人の女の子が現われました。きっと私をつけていたのね。
 「リンゴとデート?さっき彼と話していたのを見たわよ」私は車のウィンドウを閉める
 のを忘れていたんです。あっというまに、この子はウィンドウから手を突っ込んで、私
 の顔を引っ掻きました。そして金切り声をあげて、ものすごく汚い言葉で私を罵りまし
 た。ああ、もう駄目だ、ここで殺される、と思ったわ。でも、ようやくのことでウィン
 ドウを閉めました。ぐずぐずしていたら、あの子はきっとドアをあけて、私を殺したで
 しょうね」    

ビートルズマニア
・ビートルズ狂は、1963年10月、ちょうとクリスチン・キーラーとプロフューモの
 醜聞が明るみに出た時期に英本土をおそった。
・それは3年間にわたって消えることがなく、3年のうちに全世界を蔽いつくした。あら
 ゆる階級、あらゆる陣所のヒステリカルな十代のファンが絶えず熱狂的な喚声をあげイ
 エ・イエをぶつけるので、大多数は自分のあげる騒音で演奏も何も聞こえなくなるのだ
 った。彼らは感情的、心理的、性的に興奮する。口から泡をふき、涙を流し、ビートル
 ズに向かって北極産の旅ネズミのように殺到したり、あるいは、あっさり失神するので
 ある。
・この3年間全体を通じて、これは世界のいたるところで起こっている。どこの国でも大
 衆全体が興奮に巻き込まれる光景が目撃された。それは以前には考えられなかったし、
 二度とくり返されそうもない空前絶後の光景である。現在では、まるで一種の創作のよ
 うに聞こえるが、しかし、これはまだなまなましい過去の事実なのだ。
・この現象が1967年にひとたび終わると、だれもが疲労や倦怠感に圧倒されてしまっ
 て、それまで起こったことがまるで信じられなくなってしまった。ありとあらゆる人が、
 これほどの狂気にとらえられることがあり得るだろうか?あらゆる年代の人びと、知識
 階級までがついには屈服したのだった。もっとも十代のファンのように、みんながみん
 なヒステリカルになったわけではないが。 
・この現象は、1963年10月、劇的なかたちでイギリスに起こったが、当時、ブライ
 アン・エプスタインはその準備ができていなかったと言っている。成功を受け入れる準
 備はできていたのだった。すでに成功しつつあったからである。たがヒステリー現象に
 はまったく無防備であった。
・1963年10月、ビートルズは単に興味あるポピュラー音楽界の話題であることをや
 めて、全国の新聞が第一面でとりあげる大ニュースとなった。それは、最高の人気スタ
 ーとしてロンドン・パラディアムに出たショウで、「ロンドン・パラディアムの土曜日
 の夜」という題名でテレビ放送された。この夜、推定1500万の視聴者がこのショウ
 記事を見た。
・パラディアムのあるアーガイル通りは一日中ファンが詰めかけてごった返していた。劇
 場内は、街頭に集まったファンのどよめき、無数の喚声がつづいて、リハーサルもでき
 ない状態となった。
・すっかり驚愕した警察当局は、大群衆をコントロールすることができなくなってしまっ
 た。公演のあと、聴衆が楽屋からビートルズが出てくるものと思っているので、ビート
 ルズを乗せて脱出する車は正面入口に駐車させておく手配をした。
・自分たちは利口だと思っている警察は、車をわざと正面入口から少し離れた場所に駐車
 させ、めだたないようにしたのだった。ところが、ニールに付き添われて出てきたビー
 トルズは、必死になって車の位置を探して50ヤード疾走しなければならなくなり、途
 中、大群衆にもみくちゃにされ、もう少しで殺されそうになる結果になってしまった。
・翌日の全紙が第一面に、ヒステリックな群衆の熱狂ぶりを長い記事にとりあげ、大きな
 写真を掲載した。この記事では、ビートルズの演奏の良否よりも、ただ彼らが原因にな
 った大混乱だけをとりあげていた。
・次の週の水曜日、イギリスの芸能人のあいだで年度最大のショウと見なされている、ロ
 イヤル・ヴァラエティ・パーフォーマンス(王室芸能大会)にビートルズが出演するこ
 とが公表された。全国の新聞社は、記者や写真班を派遣して、このニュースに対するビ
 ートルズの反応を聞きにやらせた。ビートルズがイギリス王室に対して何か皮肉めいた
 ことを言うのではないかと明らかに期待したのだが、ブライアンが立ち会って、そんな
 意見はまったく出なかった。  
・ロイヤル・ヴァラエティ・パーフォーマンスは11月にプリンス・オブ・ウェールズ劇
 場で開催された。客の層はずっと高く、入場料は平常の四倍だった。このとき王室から
 お見えになったのは、皇太后、マーガレット王女、スノードン卿だった。このショウで
 は演奏がしにくいといわれている。出演者終わっても観客は拍手するか笑うかする前に、
 いちいち、王室のかたがたの反応を確かめるためにいっせいに顔をふりむけるという、
 胸の悪くなるような伝統がある。
・ジョンは一つの曲を紹介した。「安い席にいらっしゃるみなさんは拍手をお願いいたし
 ます」そしてロイヤル・ボックスに向かって一礼すると、こうつけ加えた。「あとのか
 たがたは宝石をチャラチャラさせてください」 
・この冗談は翌日の各紙がいっせいにトップに掲げた。みんながこのあてこすりをよろこ
 んだ。きわめてやんわりと、王室費に皮肉を申しあげたのだった。むろん、これはまっ
 たく悪意のない冗談だった。ずいぶん生意気だと見られもしたが、むろん、罪のない、
 可愛らしい冗談で、それというのもビートルズが非常に愛すべき存在だったからである。
・皇太后は、あとで彼らに話しかけられ、さきほどのことばに気がついておられたことを
 しめされた。皇太后も冗談をいわれたが、もっとも冗談のおつもりではなかったのだろ
 う。皇太后は、ビートルズのつぎの出演はどこかお訊きになったので、彼らはスラウだ
 と答えた。皇太后は言われた。「あら、うちの近くですね」
・国会では、ビートルズのために無数の警官が全国各地で動員され、正常勤務外の危険な
 勤務につくことに関して質疑が行われた。議員の一人は、警察が事態を放任してどうい
 うことになるか静観しようと提案した。さいわいこの提案はまともにとりあげられなか
 った。  
・十代の少年たちの大多数がビートルズふうに長髪になろうとして髪をのばした。髪を長
 くしたため学校の寮から家庭に送りかえされた少年たち、あるいは工場で髪をのばすこ
 とを許可されない見習工などの記事が、はてしもなく新聞紙上にあらわれた。
・ディリー・テレグラフ紙は、ビートルズ。ヒステリーに対してはじめて指導的な批判を
 加えた。こうした大衆ヒステリアは、あくまで無智な人間の頭に宿るもので、ちょうど
 ヒットラーが作り出したものと同じ性質のものだという論調だった。
・ディリー・ミラー紙は、飼いならされた心理学者をひっぱりだして、この現象を説明さ
 せた最初の新聞である。こうした社会心理学者は、ビートルズが「性衝動の緩和」する
 と言った。あとになって、医者たちがあらわれて、ビートルズの音楽に夢中になる少女
 は、演奏会の途中オーガズムを経験するなどと言うのだった。 
・知識階級の声も、いまや喧喧囂囂というありさまだった。学芸、教養を重視する新聞も
 ビートルズのことは一般紙と同じスペースで扱った。どの新聞にもビートルズに因んだ
 冗談やマンガが掲載され、みんなの口にのぼった。
・ブライアン・エプスタインは怪物を創造したスヴェンガリだという人もいた。彼がみご
 とな計算のうえでビートルズを創造し、支配しているのだ、と。ブライアンはいつもこ
 れを否定した。 
・むろん、ブライアンはなめらかに動く機構を作りあげ、ビートルズの生活をびっちり狂
 いなく組織だて、他人の手でこわされないようにした。四人の私生活は、こうした態度
 がまもられた。
・1963年以後、ビートルズの空前の成功を分析しようとする人びとが無数の文章を書
 くようになっていた。そのときあらわれた論説を全部ひとわたり紹介するだけでも別に
 一冊の本が必要だろう。この分析が最初に言及するのはビートルズの性的な魅力である。
 それから空論家は、ビートルズは社会的な意義そのもので、新しく出現した、水素爆弾
 のような、階級差のない、唯物主義的ではなく、まぎれもない戦後派の十代の人びとの
 欲求不満と野心を象徴しているということになった。そこへもってきて知識人が、ビー
 トルズの言動、音楽につよい興味をもって研究しながら、なかなかうまい説明をした。
 そうしたすべてがいずれも真実だし、現在でも真実なのだ。だれかが何かを好きになる
 理由は、それがどんな理由であれ、全部ほんとうである。