東電OL殺人事件   :佐野眞一

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この事件が起きたのは、あの日本全国、いや世界をも震撼させたオウム真理教の事件から
2年後の1997年であった。当時は、殺人事件よりも、殺害された女性への関心が集中
した。なにしろ、慶応大学経済学部卒でしかもあの東京電力の管理職の立場にある女性が、
夜な夜な街角に立ち、売春行為を行なっていたというから、世間はおおいに驚き、興味を
惹きつけられた。
事件は、ネパール人が犯人であると結論つけられ、無期懲役の最終判決が出されて、だん
だん世の中からも忘れ去られていった。
あれから15年後の最近になって、当時の判決が翻され再審が確定したのを機会に、この
本を読み直してみた。
この本を読むと、筆者は、当初の段階から犯人とされたネパール人は、無罪ではないかと
の思いがあったようだ。自分でネパールまで出かけていって取材をしたり、東京拘置所内
にいるネパール人に差し入れをしたりして、ネパール人を支援していた。
しかし、読み直してみてもわからないのは、殺害された被害者の行動である。慶応大学経
済学部という学歴を持ち、敬愛していたという父親と同じ東京電力に夢を持って入社しな
がら、どうして夜な夜な街角に立ち、売春をしなければならなかったのか。性に狂ったわ
けでもなかったらしい。筆者の調査でも、彼女は、セックスそのものはあまり好きではな
かったらしい。それなら、経済的な理由かと思えば、彼女は大企業の中でもさらにワンラ
ンク平均給料が高いと言われる、あの東京電力に勤めていたのである。世間並み以上の収
入があったはずである。彼女のとった行動は、まことに不可解である。彼女の行動は、ま
るで自分自身を、徹底的に痛めつける行動だ。精神が病んでいたとしか思えない。官僚以
上に官僚的だと言われる東電という組織の中において、彼女をそこまで追い詰めたのは、
何であったのだろうか。謎だらけだ。
彼女は、自分が東京電力の社員であることに、とても誇りを持っていたという。そんな彼
女は、福島原発事故で存亡の危機にある今の東京電力の状態を見て、あの世でどんなふう
に思っているのだろうか。
そして、間違った司法判決で、15年間も拘束し、彼の人生を台無しにした日本政府は、
ネパール人ゴビンダに対して、どのような償いをするのだろうか。

プロローグ
・「東電OL殺人事件」が起きたとき、世間は「発情」といってもいいほどの過剰反応を
 示した。昼は美人エリートOL、夜は売春婦。マスコミは彼女が殺人事件の被害者であ
 ることをそっちのけに、昼と夜の二つの顔の落差に焦点をあてたストーリーづくりに狂
 奔した。
・集中豪雨的なプライバシー報道に、より強く「発情」したのは、実は送り手側のメディ
 アより、受け手側のわれわれだったのではなかったか。
・男女雇用機会均等法が導入された1980年代、企業の中に大量に入りこんできた高学
 歴の女性総合職たちは、それまで男社会に安住していた会社人間にとって、明らかに
 「異物」だった。東電OL殺人事件への異常な関心は、いわばその反動だったともいえ
 る。
・彼女は、人間が生きるということは結局堕落の道だけなのだということを、文字通り身
 をもってわれわれに示した。彼女は、小賢しさと怯懦と偽善にあふれ、堕落すらできな
 現代の世にあって、堕落することのすごみをわれわれにみせつけた。われわれは彼女が
 潔く堕落する姿に、副腎皮質を強く刺激されたのだ。
・彼女はなぜ堕落の道を選んだのか。彼女をそう仕向けたのは何だったのか。取材をすれ
 ばすれほど謎は深まり、彼女の行動の不可解さがまずばかりだ。

迷宮
・渋谷駅から道玄坂をまっすぐ登り、ほぼ登りきったところで右に曲がる。そこが円山町
 の入口である。この街の一帯は約六十軒のラブホテルが林立している。
・迷路のように入り組んだそのラブホテル街を抜けたところに、井の頭線の神泉駅がある。
 踏切を越え五メートルほど行った右側の木造モルタルの古ぼけたアパートが、彼女の殺
 害された現場である。
・その現場を過ぎてまっすぐ進むと、淫風漂う街並みとはうってかわった宏壮な住宅街に
 つきあたる。都内でも屈指の高級住宅街といわれる松濤は円山のラブホテル街とまさに
 隣接しており、そのあまりの落差の激しさに一瞬軽い目まいを覚える。
・都知事公館や松濤美術館が落ち着いたたずまいをみせるその街の一画に、まつて鍋島藩
 の庭園の一部だったところをそっくりそのまま利用した鍋島松濤公園という小さな公園
 がある。
・円山町と国道二四六号線をはさんで隣接する南平台は、松濤と並ぶ高級住宅街として知
 られている。円山は二つの高級住宅街に挟まれた谷間の街である。
・「東電OL殺人事件」は、渋谷という大繁華街のアジール(避難所)ともいうべき場所
 で起きた。彼女はなぜ、まるで通勤でもするかのように約五年間にもわたって
 連日円山町を徘徊したのだろうか。
・最寄り駅の西永福駅から井の頭線に乗り、渋谷でおりる。渋谷で地が鉄銀座線に乗り換
 え、勤務先の東京電力本社がある新橋に向かう。これが彼女の判でおしたような通勤ス
 タイルだった。
・彼女は道玄坂のなだらかな坂を上り、道玄坂上交番を過ぎたところで右に曲がる。彼女
 は円山町のラブホテル街を抜け、狭い路地の奥にある道玄坂地蔵という小さなお堂の前
 に立つ。ここに佇み、道行く男たちに声をかけるのが彼女の約五年間かわらぬ日課だっ
 た。まるでそれが本当の自分の仕事ででもあるかのように、毎日、彼女はそのお堂の前
 に立ちつづけた。
・その律儀にすぎる行動は、とめどなく堕落しながらもプロの売春婦にはついになれなか
 った彼女の、ぎりぎりまでに追い詰められてなお残る最後の倫理だったかもしれない。
・彼女は東京電力に勤めていることを異常なほど誇りに思っており、電力こそ日本経済を
 支える最大不可欠の原動力だと熱っぽく語るのが常だったという。ちなみに慶応大学経
 済学部を優秀な成績で卒業した彼女は、東洋経済新報社が主宰する高橋亀吉賞でも佳作
 入選したことがある。
・ホテルに入り、レギュラー缶二本、ロング缶一本のビールを飲みながら、四十分間、経
 済論議をするのが彼女のいつもの習わしだった。あるとき、五十代の男が、東京電力は
 大企業の電力料金をひそかに割引しているのではないか、大企業はその浮いた分の資金
 を政治献金に回しているのではないか、と冗談めかしていったことがあった。すると彼
 女は、ふだんめったにみせない感情を剥き出しにして「東京電力はそのような不正は断
 じてしておりません」と、怒りながらきっぱりといいきった。
・彼女が自分と同じ東京電力に勤め、重役一歩手前の副部長まで昇進しながら、五十代の
 若さで死亡した父親を激しく慕っていたことはよく知られている。事実、彼女がとる客
 は例外なく自分より年上で、甘えられるタイプばかりだった。
・彼女は円山町に通ったのは、単に帰宅途中にある街だったからだけでなく、彼女を吸引
 する強い磁力のようなものが、この街ににあったからではないか。
 
幻聴
・「東電美人OL」が殺害された現場には、彼女がふだんから使っていた手帳とアドレス
 帳が残されていた。二つの手帳には彼女が客としてとっていた男性の名前と連絡先の電
 話番号が書かれており、これが捜査のカギをにぎる最重要証拠となっている。
 
富士
・最初に疑われたのは、彼女が遺体で発見されたアパートの空室の鍵を大家からまかされ
 て管理し、第一発見者ともなったネパール料理店の雇われ店長だった。 
・彼女の服装は素人ばなれしていた。紫色の服着て、髪は腰まであるほど長く伸ばしてい
 た。てっきりオウムの女だと思った。オウムの女が資金に困って円山町に立ちんぼ商売
 を始またんじゃないかってね。最初は身なりのいい紳士タイプの客ばかり連れてきたけ
 ど、最後の方は、みるからに薄汚い労務者タイプでも何でも連れ込んでいた。料金も最
 初はこの当たりの相場の二万五千円から三万円とっていたようだが、最後の三千円でも
 いいって感じだった。犯行現場のあの部屋には自分で誘ったんだよ、空室ということを
 知っていたんだ。旅館代ももったいないってね。
・一度、近くのホテルでトラブルを起こして彼女が裸で外に飛び出してきたことがあった。
 すると彼女、何したと思う?しばらくして会社のワープロで「申し訳ありませんでした」
 というお詫びの文書を打って、近くのホテルに配ったんだ。そういう点は素直で律儀だ
 ったよ。それにしても彼女はえらいよ。雨の日も風の日も毎晩この街に立つんだからな。
 宮沢賢治だよ。
・ホテルで彼女が飲む三本の缶ビールはたいていの場合、彼女が道玄坂近くの酒屋で買っ
 てきた。彼女はその領主書を必ず客に渡して、その分の金をきっちり請求した。
・「彼女とは二年間つきあいましたが、その間、宝石が欲しい、毛皮が欲しいというおね
 だりの類は一切ありませんでした」
 
証拠
・警視庁は殺害現場隣のビルに住む当時三十歳のネパール人ゴビンダを逮捕した。逮捕の
 決め手は、殺害があったとされる3月8日深夜、ゴビンダとみられる外国人が彼女と一
 緒にアパートに入るところを見たという目撃証言があり、室内に残っていたコンドーム
 の精液が、ゴビンダのものと一致したことなどとされた。しかし、ゴビンダは一貫して
 殺人の容疑を否認している。
・この逮捕、起訴は、状況証拠の積み上げによって強行された面が否めず、関係者の間で
 は、公判維持できるかどうかも怪しいと言われていた。
・「奪った金を家賃にあてたといいますが、それはおかしい。だって空には3月5日に給
 料が出ているんですよ。20万円ね。だから金を奪って家賃にあてたとは考えられない。
 本当に彼が殺しているなら殺害してから遺体が発見されるまで11日間も隣に住んでい
 るわけがないじゃないですか」
・「重要なのはアリバイです。彼は勤め先の千葉市バク針のインド料理店を、夜の10時
 を少し回った頃に出ています。ところが、警察では殺害された投じの月8日の午後11
 時25分頃、彼に似た男と彼女が一緒に喜寿荘の部屋に入っていったという目撃証言が
 あるという。彼は絶対にその時間には渋谷には帰ってこられません」
・喜寿荘101号室は事件前年の平成8年10月頃から空室となっており、それ以降、浮
 浪者が住みつかぬよう、部屋の電気も水道も切られている。そんな真っ暗な部屋のなか
 で、果たしてセックスするかという点も疑問である。部屋から漏れる明かりもなく、ま
 わりからの明かりもほとんどない状況で、目撃者は何を根拠にして、ネパール人が彼女
 と一緒に部屋に入るのをみたというのだろう。
・「これは冤罪ですよ。消去法で彼が犯人とされただけです。警察は目撃情報と、彼が部
 屋の鍵を管理人から借りていたことだけを殺人の根拠にしている」
・部屋から発見されたコンドームのなかの精液が、仮に、ゴビンダのDNAと一致したと
 しよう、しかし、それだけではゴビンダと彼女の間に性交渉があったことが類推される
 だけで、殺人の直接的証拠には当然なりえない。
・空室となっていた現場は、埃がたまり、クモの巣が張っているような有様だったんです。
 彼女はそこに靴を脱いてあがっている。それも、爪先を土間の入口のほうにきちんと向
 けて、そろえてあった。土足であがってもおかしくないような汚い部屋に、靴の爪先を
 きちんとそろえてあがる。そんなところにも、彼女の律儀さが現れていると思った。
・彼女はアパートに入る直前、近所のコンビニでおでんを買ったといわれる。仮に101
 号室の室内に、容疑者のDNAが残るコンドームと、被害者の買ったおでんのカップが
 捨てられていたとする。それと一緒に捨てられたコンドームも、ほぼ同じ時間帯に使わ
 れた可能性が高い。捜査当局はおそらく、こうした推論を積み重ねて容疑者逮捕にふみ
 きったのだろう。
・しかしここで不思議なのは、現場に残された彼女の着衣に乱れがなく、争った形跡もみ
 られなかったことである。着衣の乱れはなかったが、現場に残された彼女のバックの把
 手はちぎれていたという。捜査当局はこれを根拠に、行為が終わったあと金銭トラブル
 になり、バックの奪い合いになって把手がちぎれた、とみている。
 
不定
・この事件のもう一つの謎は、巣鴨に落ちていた彼女の定期入れである。定期いれが落ち
 ていたのは、都内で唯一残る都電荒川線の進庚申塚駅近くの民家の庭先だった。この辺
 り一帯は古くから寺町として知られている。駅を降りるとすぐに「お岩通り」という街
 路がある。これは、「四谷怪談」で有名なお岩さんを祀ってある寺が近くにあるためだ。
・彼女の定期入れが殺害現場から持ち去られたことはほぼ断定していいだろう。しかし、
 一体誰が持ち去り、何の目的で、円山町と山手線をはさんで正反対のところにある巣鴨
 の民家に捨てたのか。逮捕されたゴビンダも、円山町の部屋と幕張のインド料理点の間
 をまっすぐ通勤していただけで、巣鴨と彼を結ぶ線は見つかっていない。
・捜査当局が押収した彼女の手帳のなかには、「客」と、それ以外の人物をあわせ、15
 名の名前と電話番号が書かれていたといわれている。
・彼女の手帳には、もう一人東電の常務の名前も出ていたといわれている。その常務にも
 東電の社内で会った。常務は予想通り、彼女とは一面識もありません、まったく知りま
 せん。思いあたるフシはゼロです、天地神明に誓って知りません、の一点張りだった。
 しかし私は、唇をふるわせながら早口で否定する口調に、かえって何かを知っている印
 象を受けた。
・彼女が勤めていた東電の経済調査室は、国会答弁用や審議会用の資料を用意するなど、
 永田町や霞ヶ関ときわめて結びつきの強い部署である。

遺骨
・エリート幹部候補生の父は重役を目の前にしながら、五十代の若さで死ななければなら
 なかった。その父を尊敬してやまなかった彼女は、東電に入社したとき「亡き父の名を
 汚さぬよう頑張ります」といったという。しかしその思いも果たせず、末代まで残る汚
 名名をあびたまま、三十九歳の若さで絶命しなければならなかった。
・彼女は東電の洗い場で、よく茶碗を割った。能力に比して役職が軽い、という思いが、
 彼女にそんな犯行的態度をとらせたという。顔所が昭和63年からある研究機関に出向
 させられたのも、上司から使いづらいと敬遠されたからだといわれる。
・彼女の父が胆管ガンで聖マリアンナ医大病院に入院しているとき、何かの部下が見舞い
 に行った。病室には父ひとりが横たわっているだけで、付き添いの婦人の姿を見たもの
 は、誰もいなかった。彼女の父が亡くなる頃、父の実家と妻との間は、急に折り合いが
 悪くなったという。
・彼女の父が死んだのは、彼女が大学二年の時である。精神世界が最も過敏な頃に、敬慕
 してやまなかった父と父の実家の面倒を母親が疎かにしていると思ったとき、彼女が必
 要以上に傷つきられたと感じたであろうことは、想像に難くない。
・彼女は父が死んだとき号泣し、父にかわってこの家を支えていかなければ、といったと
 いう。あるいは彼女は無意識のうちに、母が父を蔑ろにしたと思い込み、母親に対する
 憎悪をふくらませていったのかもしれない。
・父親を失った彼女にはこの家を支えるのはもう私しかいないという気負った思いがあっ
 たに違いない。しかし、学生時代はいざ知らず、社会人になってからの経済状態を考え
 れば彼女に背伸びする必要はまったくなかった。事件当時、彼女の年収は一千万円近く
 あったといわれる。東京女子大を卒業した妹もすでに大手電器メーカーに勤めており、
 二人の収入だけで家計を支えるには十分なはずだった。にもかかわらず彼女は円山町に
 立った。彼女の心中は、事件の謎よりもさらに迷宮である。
・彼女の遺体は東京・品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。
・「客」として、顔所と二年間つきあった五十代の男によれば、彼女は男性とのセックス
 は本当はあまり好きではなく、「日曜の朝、自宅のベットのなかでオナニーするのが一
 番好きなんです「と、よく言っていたという。
・彼女の不幸は、しかし、堕落への道にわが身を愚直までに落とし込んだことそれ自体に
 あるわけではない。彼女の不幸は、援助交際の女子高生でにぎわう渋谷センター街をは
 じめとする世間の方が、とっくに、しかも軽々と堕落していることに、おそらく気づい
 ていなかったことである。 

山嶺
・インドはよくも悪くも激しい国だ。あそこに行った者は、インドを好きになるか、嫌い
 になるか二つに一つしかない。ところがネパールは国も人もおっとりしていて、古きよ
 き日本のようだ。一度行った者は必ずハマって帰ってくる。

公判
・粕谷ビル付近で彼女と出会ったゴビンダは、彼女と性交しようとした。しかし、自室の
 粕谷ビル401号室には未成年者がいたのでこれを避け、たまたま喜寿荘101号室の
 鍵を所持していたことから、その部屋に彼女を連れ込み、性交の及んだ。
・彼女は、客と入ったラブホテル「クリスタル」から持ち帰ったコンドームを使用し、使
 い終わったコンドームを自分の手で同室内のトイレに捨てて処理した。
・冒頭陳述を通読してわかるのは、ゴビンダが当時、いかに金に困っていたかをこれでも
 かといわんばかりに強調し、金のためなら平気で女性を殺す冷血なネパール人像を懸命
 につくりあげようとしていることである。

検証
・主人検察官は五十代とおぼしき女性だった。女検事の前には、資料が堆く積みあげられ
 ていた。資料が分厚くみえたのは、一ページごとに被害者遺体のカラー写真が貼付され
 ているためだった。ページをめくるごとに、女検事はゴビンダの顔をなめまわすように
 のぞきこんだ。ゴビンダを完全に真犯人と決めこんだその目は、私には獲物を狙うとき
 の蛇の目のようにみえた。 
・女検事が、残酷な遺体の写真を見せて被告人の心の動揺をひきだそうとしているとすれ
 ば、江戸時代の「お白洲」そのものではないか。
・女検事は被害者について、「平成元年の頃からクラブホステスのアルバイトを始め、数
 年前から渋谷界隈で売春するようになった」と冒頭陳述で堂々と被害者のプライバシー
 をあばきながら、その同じ口の下から平然といいはなった。
・女検事のパフォーマンス戦術は、したたかというよりは田舎芝居じみて詐術的にすら感
 じられた。
・この事件は、東電のエリート女性総合職という匿名化された女性と、日本に不幸滞在し
 たネパール人という記号化された外国人が、ある意志の力によって恣意的にからめさせ
 られおとしこめられた事件だと思った。 
・初公判は本当にお粗末きわまるものだった。公判前、検察側はこれはという「隠し玉」
 をぶつけてくるのではないかと、もっぱら囁かれていた。だが、マスコミが警察のリー
 クをもとに一時さかんに書き立てたコンドーム内に残ったゴビンダの精液のDNA云々
 は、初公判では一言もでなかった。
・遺体の処分とは違い、コンドームは簡単に処分することが可能であり、ゴビンダの犯行
 であるなら当然事件発覚前に処分しているはずである。性交渉後のコンドームをわざわ
 ざ殺人現場に放置することは、逆にゴビンダが犯人でないことを証明することにつなが
 る可能性すらある。
・私は実は検察の最大の「隠し玉」は、巣鴨で発見された彼女の定期券だと思っていた。
 もし、この定期券にゴビンダの指紋が付着していたとすれば、ほとんど決定的な殺害の
 証拠となる。しかし、これについても検察側は、彼女の定期券にゴビンダの指紋が付い
 ていたという事実はおろか、定期券の存在そのものについても一切ふれずじまいだった。
 
夜気
・ゴビンダは小菅の東京拘置所に収監され、最悪では死刑の可能性もある自分の境遇に怯
 えながら叔父さんになったのか。幼い甥っ子は、成長したとき、この事件に何を思い、
 日本をどう考えるだろうか。
 
帰郷
・日本でも高度成長前までは路上で働く子供たち姿がどこにでもみられたものだ。それが
 少子高齢化社会の到来で、路上で遊ぶ子供の姿さえめっきりみかけなくなった。経済大
 国という虚名に胡座をかき、外国人労働者を3Kの職場でこき使うだけこき使ってきた
 日本は、間違いなく衰亡にむかうだろう。たくましく働くネパールの子供たちをみて、
 そんな思いが脳裏をよこぎった。
・「ネパールに死刑制度はありません。死刑のない国の国民としては死刑制度に反対しな
 ければなりません」
・ゴビンダの裁判は5人の弁護士たちによって続けられている。彼らは無報酬で弁護活動
 を行なっている。国選弁護人に認定されれば彼らに法定の弁護費用が支払われるが、国
 は弁護人の数が多いことを理由に彼らを国選弁護人に認定しなかった。その弁護士たち
 も東京拘置所内のゴビンダの経済生活を心配していた。食事は官費で支給されるので心
 配ないが、身の回りのこまごまとした品は自分で買わなければならない。
・人権、人権といいたてるだけで、人権回復の具体的なアクションを何ひとつ起こそうと
 しない人権派といわれる我が国の困った人びとのグループにもあてはまる。人権と一言
 叫ぶだけで、本当に人権が回復し、死刑になるかもしれない恐怖からたちまち解放され
 るなら、何も私も好き好んでネパールくんだりまで出かけてくることもなかっただろう。
・「この国の経済を完全に牛耳っているインド人は、ネパールを属国くらいにしか思って
 いない。その支配構造はパースと制度そのもので、インド人は明らかにネパール人を差
 別している。ところが、そのインド人に対して日本人は、平気で彼らを叱りつけること
 ができる。そんな日本人観光客の姿をネパール人たちはふだんからよくみている。ネパ
 ール人が日本に出稼ぎに行くのは、経済的な理由も大きいが、日本人を民族として尊敬
 しているから出稼ぎに行く、という心理的な側面の方が、それよりむしろ大きいかもし
 れない」 
・ネパールがODA資金を二本から最も多く仰いでいる国だということも、こうした心理
 を促進する大きな要素となっているように思われた。
・ネパール人の給与のことをいっておけば、三千ルピーから五千ルピー、日本円にして六
 千円から一万円というのが、平均的な月給お相場である。海浜幕張駅近くのインド料理
 店に勤めていたゴビンダの月収は約二十万円だったから、故国値ネパールの平均給与に
 比べ、二十倍から三十倍あったことになる。
 
落涙
・日本人のルーツはそこにあるのではないかともいわれるインドのシッキム地方のことを
 思い出した。二本祖語が生まれたという学説もあるシッキムはダージリンのすぐ隣だっ
 た。空恐ろしくなるほどの美女がぬかるみの道を裸足で歩いている。アジア的としかい
 いようのないその喧噪のなかに身を置いていると、日本人が混血の果てに生まれた雑種
 民族だということがよくわかった。すれ違う男も女も、みな日本のどこかで見た顔だっ
 た。
・彼女は慶応大学三年のときネパールに留学した。彼女はネパールの田舎に、貧しい子供
 たちを救うための孤児院をつくろうとしていた。彼女が売春で稼いでいたのは、その孤
 児院づくりのためだった。こうした報道に加えて、ゴビンダが逮捕されてからは、彼女
 が行ったのはゴビンダの故郷のイラムだった、という情報も一部流れた。しかし、その
 段階では彼女がネパールに行ったという証拠は何ひとつみつかっていなかった。
・女性週刊誌を中心とした彼女のネパール行きの情報は、警察のリーク情報に誘導された
 虚報という疑いが濃厚だと思われた。 
・彼女には元々イラムに住むネパール人の知り合いがいた、というなら話が別だが、これ
 ほど辺鄙な村に、しかも今から二十年も前に、わざわざ訪ねてきた日本人女性がいると
 は、到底考えられなかった。
・南向きの斜面に建てられた家には、まぶしいほどの光があたっていた。その強い日差し
 をあびた庭先で、六歳と四歳になるゴビンダの娘たちが無邪気に遊んでいた。二人は胸
 に船のデザインがある緑色のおそろいのセーターを着ていた。ゴビンダが日本から送っ
 てきたものだという。そのデザインに、海を知らないネパールの娘たちに、せめて潮の
 香りのする船だけでもみせてやりたいというゴビンダの親心が感じられた。
・ハッとするような知的な美人が私にお茶をいれてくれた。それが十年前に結婚したゴビ
 ンダの妻だった。

供述
・今ではまったくみられなくなってしまったが、日本の田舎では、旧暦の正月十四日の晩、
 若者たちが棒や竹の先を割ったささらなどを道に打ちつけながら家々を回る風習が残っ
 ていた。これは田畑に被害を与える鳥獣を追い払う行事からきたもので、鳥追いと呼ば
 れる。そんな懐かしい風習が、日本から遠く離れたネパールで見られるというのも、な
 にか因縁かと思った。

暴行
・私はここまで聞いて、ゴビンダ他2名が平成8年12月にセックスをした女性が、服装
 などに関する証言で、彼女であることをほぼ確信した。前日に会った一人にこの点につ
 いてたずねたとき、その話を全否定しながらも、その顔に微妙なニュアンスが浮かんだ
 理由もわかったような気がした。彼は一番の年長者でありながら、同室のゴビンダたち
 がセックスすることを制止できなかった自分を、恐らく深く恥じたのだろう。彼が日本
 人の女性とは一度もセックスしたことがないと虚偽の証言をしたのは、たぶん、それに
 よって不利になるかもしれないゴビンダをかばう配慮もあったのかもしれない。
・ゴビンダは去年の12月、ほぼ確実に彼女とみられる女性とセックスをした。ゴビンダ
 の無実を信じている私にとって、その証言に衝撃を受けたかったといえば、それはウソ
 になる。しかし、ゴビンダの清廉潔白を信じたい気持ちが、所詮、人間性善説に立った
 幻想にすぎないことも、私にはわかっていた。そしてそうした気持ちが、人間を白か黒
 かだけで判断する検察側の論理と同じだということも、私にはわかっていた。人間は黒
 か白かで判断できるほど生やさしいものではない。だからこそ人間はおもしろいのだ。
・ゴビンダが事件当時勤めていたJR海浜幕張駅近くのインド料理店の店長代理によれば、
 ゴビンダの勤務態度は真面目一本やりで、酒も飲まず、女性との噂が立ったことも一度
 もなかったという。
・家をつくることだけを生きがいにして異郷の地で働いてきたゴビンダが、ふと人肌が恋
 しくなることがあったとしても不思議ではない。そのとき魔がさしたように彼の前に現
 れたのが、クラブなど風俗生活を遍歴した果てに、円山町に立ち、客を直引きするほど
 転落した東電OLの彼女だった。
・私は安い金でセックスのできる彼女と、一度の情交をしたゴビンダを、責める気持ちに
 はなれなかった。正直にいえば、彼女とセックスしたゴビンダに急に親近感さえ感じ、
 むしろ心が安堵しないでもなかった。
・警察がゴビンダが最悪では死刑もありうる強盗殺人の真犯人とみて逮捕したのは、彼女
 とたった一度セックスしたというのが、たぶん最大の心証となっている。彼はおそらく、
 いま小菅の東京拘置所の中で死刑の恐怖に怯えながら、たった一度の彼女とのセックス
 を深く深く後悔しているに違いない。
・とめどなく堕落することでしか自分の生を確認できなかった彼女は、堕落に赴くそのす
 ざまじいまでのエネルギーで、ネパールの農村からやってきた純朴な青年まで奈落の底
 にひきずりこんでしまったような気がしてならない。いや、ゴビンダが虚妄の繁栄にわ
 く日本に出稼ぎにきたというそのこと自体が、そもそも間違いだった。彼はカトマンズ
 に家を建てるなどという野心をもつべきでなかった。イラムの田舎で両親と妻子に囲ま
 れ、飼っている牛とともにのどかな生活を送るべきだった。
・ネパールでは、売春行為をすればすぐに罰せられるばかりか、結婚前の女性とセックス
 しただけで処罰される。そんな厳しい倫理にしばられるネパールからやってきた青年が、
 安い金でできるというそれだけの理由で、丸山町の街角に立って客を引く彼女とたった
 一度のセックスをした。日本の繁栄を嘲笑するように堕落への道をひた走った彼女に、
 日本人になりたかったゴビンダが道づれにされたのは、いびつな国際化社会がもたらし
 たきわめて不幸な出会いだったともいえた。そして、それはある意味で、そうなるべく
 してなった二人の堕落の末路を暗喩する出来事だといえなくもなかった。
 
調書
・彼女が勤務先の東電から帰宅の途上、乗り換え駅の渋谷でおり、円山町のラブホテル街
 に立って直引きの売春をしていたことはこれまでの取材でわかっていた。それ以前には、
 ホテトルなどの風俗営業で働いていたこともあるという噂があることも知っていた。し
 かし、殺害当日までホテトル嬢として働いていたことが明らかになったのは、この公判
 がはじめてだった。
・彼女が五反田にあるホテトルに務めていたのは平成8年の6月か7月で、店では「さや
 か」と呼ばれていた。彼女の勤務日は土・日・祭日に限られており、殺害のあった3月
 8日も土曜日だったので昼の12時30分頃に出勤し、夕方5時30分頃まで客からの
 電話を待った。彼女は仕事熱心というか積極的で、「どんなお客さんでも回してね」と
 いつも言っていた。
・3月8日の午後5時半過ぎ、五反田のホテトルを退店した彼女が、かねてから交際中の
 客と渋谷駅前で落ち合い、円山町のラブホテル「クリスタル」に入って4万円で売春し
 たことは、初公判の証拠開示ですでに明らかになっていた。
 
幻影
・私は二つの奇妙な事実に驚かされた。一つはそのビルの持ち主でもあり、当該の焼肉店
 の経営者でもある会社が、トルコ風呂のはしりをつくった東京温泉だということがわか
 ったことである。もう一つは、そのビルの地下に東京不動産管理という東京電力の子会
 社が入っていたことである。少なくとも、東京温泉が古くから風俗営業の看板をかけて
 いる以上、警察とのとながりは相当に深いはずだった。
・私はあいた口がふさがらなかった。警察官の送り迎え付きの証人など日本の裁判史上前
 代未聞のことだろう。弁護側の「前回の裁判後、一人で帰ったか」との質問にも、さし
 て悪びれたふうもなく、「警察官と一緒でした。東京駅まで車で送ってもらいました」
 と答えた。
・口封じとも威迫ともとれる警察の異常な神経のとがらせ方に、私はまたこの事件の背後
 に広がる闇の深さを思った。

目撃
・「あれは事件が起きる前の年の暮れ頃だったかな。うちによく買い物にくるおじいちゃ
 んがいるんです。年はもう七十を過ぎているかな。そのおじいちゃんが突然、店の中に
 飛び込んできた。みると、いつも客引きをしている女が、「ねえ、お茶しません、ねえ、
 お茶しません」と言って、必死に誘っている。

実検
・法廷で約10分ほどかけて行わえた「首実検」の結果は、結論から言えば、「似ている
 と思う」という証言がひき出されただけで、ゴビンダを真犯人と特定するだけの決め手
 とはとてもならなかった。私はまるでテレビドラマでもみているような「首実検」をな
 がめながら、それでも「似ていると思う」と証言しただけで絞首台に送られた人間も過
 去には何人もいただろうな、とぼんやり考えていた。
 
拘置
・東京拘置所の中にある売店には、差し入れ用の缶詰、菓子類、下着などのほか、ヤクザ
 を特集したみたこともない実話雑誌が並んでいた。その日、私はパイナップルなどの缶
 詰数個と、チョコレート、キャラメル、タオル類を差し入れた。
 
精液
・彼女はやせすぎ、というよりガリガリの女性だった。それでも彼女はダイエット錠を常
 用していた。彼女は一体何に向かってさらにダイエットしようとしていたのだろうか。
・彼女が殺害される前、およそ2年間にわたって「客」として彼女とつきあったという五
 十代の男によれば、彼女はラブホテルの入ると、サービス用のクーポンを忘れずにもら
 っていたという。「クーポン券を10枚集めても、貰えるのはちっちゃなポーチ程度の
 ものでした。それでも彼女は必死にクーポン券を集めていた」
・円山町から遠く離れた巣鴨の民家の庭で発見された彼女の定期入れは、いずれもこの事
 件のカギを握る重大な証拠である。とりわけ殺害現場から発見された他人名義の預金通
 帳は、東電の政治資金がらみの謀略が彼女を売春婦に転落させるひき金となった、とい
 う事件直後に囁かれた噂の信憑性を裏付ける決定的な証拠になるものと思われた。だが、
 なぜか、三点ともこの段階では証拠品として開示も採用もされていなかった。
・警察は当然、この通帳の名義人に事情聴取しただろうから、本件とは関係がないという
 結論になったものと考えられる。少なくとも遺留品の預金通帳からは、東電の政治資金
 がらみの謀略が彼女を売春生活に転落させるきっかけになったという推論を導き出す証
 拠とはならなかった。
・DNA鑑定の結果は公判では明らかにされなかったが、鑑定の標本となったものは示さ
 れた。科捜研が標本としたのは、喜寿荘101号室の便器内の青っぽい汚水に浮かんで
 いたコンドーム内の精液と、警察で採取されたゴビンダの血液である。
・ショルダーバックの把手に付着した手あかはB型でゴビンダの血液型と一致したが、D
 NAについては一致しなかったと明言した。
・彼女の遺体を東京女子医大で司法解剖した際、膣内から精液が検出されたことが明らか
 になった。その後、この残留精液が彼女がかねてから交際中の年配の「客」のものであ
 る可能性が高いことがわかった。3月8日の事件当日、土、日ごとに通っていた五反田
 のホテトル退店した彼女は、その「客」と渋谷駅前で落ち合い、円山町のラブホテル
 「クリスタル」に入って4万円で売春したことは、初公判の証拠開示ですでに明らかに
 なっている。このとき「客」はコンドームを装着せずに彼女とセックスしたという。ま
 た彼女の膣内の残留精液とその「客」の血液型も一致したという。ただしDNA鑑定ま
 で行われたかどうかは明らかにされていないため、残留精液が本当にその「客」のもの
 だったと速断するのは危険である。
・今後DNA鑑定の争点となるであろう精液の付着したそのコンドームは、しかし、あく
 までも状況証拠でしかない。そもそも、トイレ内に浮かんでいたコンドームがいつ使用
 されたか特定されていないし、仮に事件当日使用されたとしても、殺害との因果関係を
 ただちに証明する証拠とはなりえない。
・事件当時、喜寿荘に住んでいた女子高生は、3月8日の深夜、喜寿荘前の路上で、女性
 がセックスのときにあげる声を聞いたと証言したという。被害者と二年間「客」として
 つきあった五十代の男の話では、被害者は不感症らしくセックスのときはほとんど声を
 あげなかったという。女子高生が聞いたというセックスの声は、被害者があげた最初で、
 そして最後お歓喜の声だったということになるだろうか。
 
墓地
・墓はその霊園のほぼ中央にあった。やはり彼女の遺骨は思慕する父の墓に納められたい
 た。私はその墓に何本かの花を供え、線香を手向けた。墓前に合掌しながら私の念頭に
 しきりに浮かんだのは、彼女の戒名のなかにある「室」という奇妙な一文字だった。思
 えば私は、この間、法廷という「室」と、獄舎という「室」、そして墓という「室」の
 間を往復してきただけのような気がする。そしてその三つの「室」を結ぶものが、精液
 の付着したピンクのコンドームという生々しいものだということに、いまさらながら気
 づかされた。

顧客
・平成11年、事件発生から早くも3年目、円山町のラブホテル「クリスタル」はすでに
 閉じられ、新しいラブホテルの建設工事が始まっていた。
・彼女が東京電力初の女性総合職として入社した昭和五十五年は、わが国の年間自動車生
 産台数が1千万台を突破し、世界一になった年である。日本はこれが合図だったかのよ
 うに、政治家から官僚、経営者から庶民にいたるまで金に群がるバルブという名の「小
 堕落」の時代に突入していった。
・彼女はラブホテルに週4、5回、男をかえて通い、一日二回別の男を連れ込むこともあ
 った。
・公判では、彼女が身の丈が二メートルに近い大男の黒人を円山町の別のラブホテルに連
 れ込んだことがあったことも明らかになった。
・私には彼女の自暴自棄とも思えるそんな行動それ自体が、本当に堕落するとはこういう
 ことなんだよ、バブルに浮かれた世間の堕落なんて、「小堕落」にすぎないよ、といっ
 ているように思えてならなかった。
・喜寿荘203号室に住む女子高生は、事件当夜の11時45分頃、神泉駅の公衆電話で
 友達に電話するために階段を降りいき、階段を降りきったとき、すぐ右手にある101
 号室から漏れる女のあえぎ声を聞いたという。また事件の翌日、101号室の窓の下に
 は、使用済みと思われる複数のコンドームが落ちていたことも明らかとなった。
・ホテトル経営者には暴力団関係者はあまりおらず、ほとんどが脱サラ組だという。私は
 女を働くだけ働かせて大枚を搾取する脱サラ経営者の手口のあざとさとさもしさに、や
 りきれない気持ちになりながら、ホテトル嬢を金で買ってやり放題やりまくるサラリー
 マンのみみっちさとあさましさにも吐き気をおぼえた。
・関係者は、いまやセックスも吉野家の牛丼と同じコンビニ感覚になった。要するに早い、
 安い、うまいだけでいいんだ、といった。彼女はこうした「小堕落」する性風俗の風景
 のなかにどっぷり身を浸しながら、その世界に沈淪するというよりは、むしろその世界
 から屹立する場所にいた。手をかえ品をかえのセックス産業が横行する世の中にあって、
 命を張って客を直引きする彼女の立ちんぼ姿は、コンビニ感覚のセックスの比べ、神々
 しくさえみえる。
・彼女は駐車場の暗がりでもビルの陰でも路上でも平気でセックスに及んだ。井の頭線の
 終電車のなかで人目も気にせず菓子パンをむさぼり、円山町の路地端でコートの裾をた
 くし上げて小便をする姿すら何度も目撃されている。彼女は「小堕落」しながら溶融の
 度を加える現実世界からはるかに突き抜けた高みにいた。
・東電OLの仮面を脱ぎ捨て夜鷹となった彼女の姿は、坂口安吾が「堕落論」のなかで
 「人は正しく堕ちる道を落ちきることが必要なのだ。堕ちる道を堕ちることによって、
 自分自身を発見し、救わなければならない」と述べた言葉を想起させ、私を感動させる。
 私は彼女の奇矯な行動にこころ動かされるわけではない。堕落する道すじのあまりのい
 ちずさに、聖性さえ帯びた怪物的純粋さにいい知れぬほど胸がふるえるのである。
・私は「大堕落」に赴く彼女の衝動の深さにあらためて心を動かされた。それは化け物じ
 みた性行動というよりは、畏怖すら感じさせる性の行為だった。手帳と客の名とセック
 スした場所、それに料金まで克明に記載したマメさからもわかるように、彼女は根っか
 らの働き者だった。
・月曜日から金曜日まで勤務していた東京電力の彼女の机の中からは、ワープロで作成し
 た顧客に対する売春行為の申込書や、やはりワープロ打ちされたホテルに対する詫び状
 などが見つかった。
・東電勤務から退出後、円山町の暗い辻に立って客引きし、入ったラブホテルの部屋に脱
 糞や放尿をしたり、使用済みのコンドームを平気で駅のゴミ箱に投げ捨てる落花狼藉も
 彼女ならば、失礼を働いたラブホテルにきちんとした詫び状を出す誠実さと律儀さも、
 また彼女だった。
 
路上
・現場から発見された陰毛のなかにゴビンダと同じ血液型のB型のものがあったというだ
 けでは、まったく証拠にならないし、水洗便器内のブルーレット水溶液に浮かんでいた
 コンドーム内の精液がゴビンダのDNAと一致したという説明も、いつの時点の精液だ
 ったのか特定されていない以上、この事件との因果関係をただちに証明する証拠とはな
 りえない。仮にそれが彼女とセックスしたあとのゴビンダの精液だったとしても、あく
 までも性行為があったことを特定する証拠になるだけで、殺害の直接証拠とするには飛
 躍がある。
・遺体発見の一週間前、巣鴨で発見された彼女の定期入れについては、警察も検察もいま
 もって誰にも納得できる形で説明しきれていない。 
・常識的にいえば、この定期入れは彼女を殺害後、犯人が現場から持ち去って巣鴨の民家
 の庭先に捨てた、と考えるのが順当である。しかし捨てられた彼女の定期入れからは、
 ゴビンダの指紋は発見されていない。となると、ゴビンダ犯人説はかなり遠のく。ゴビ
 ンダが巣鴨方面にまったく土地勘がなかったことも、ゴビンダ犯人説を薄める有力な状
 況証拠となっている。
・警察、検察側の論理は随所にほころびをみせ、それを何とかとりつくろうためとしか思
 えない子どもだましの強弁が随所で展開される。司法もまた世の中と遠くかけ離れたと
 ころにいることによって、「小堕落」している。これが、しかつめらしい装いで繰り返
 される公判劇を眺めながら浮かんだ、私の実感だった。
 
肉声
・ゴビンダは、ことセックスに関してだけはつましい生活とは反対だった。この日の尋問
 にゴビンダは、彼女とのセックスだけでは満足せず、渋谷駅ハチ公前に集まる売春婦に
 声をかけたこともあると正直に告白した。最近の日本人は精子の数も性欲自体も減退す
 る一方だといわれる。これに対しネパールから出稼ぎにやってきたゴビンダの性欲は、
 公判で明らかになっただけでも、セックスの妄想で頭が爆発するのではないかと思われ
 るほど旺盛なものだった。
・ゴビンダは性の衝動にいつも悶々としていたが、来日以来身に付けた倹約精神だけは、
 女を買うときも忘れなかった。それを経済観念の発露というなら、ゴビンダを相手にし
 た彼女も同じだった。経済大国の女を安く買おうとするゴビンダと、外国人にはダンピ
 ングしても身を売った彼女は、経済観念の世界においてねじれながら接近し、事故にあ
 うように同じ地点でクラッシュした。ネパールからの出稼ぎ人のゴビンダが蓄財に励ん
 だ円山町は、高齢の彼女でも相手がみつかる特異な性の出稼ぎ場だった。
 
遍歴
・ゴビンダのこれまでの証言からは、彼女に対する「愛情」も「憎悪」も一度も感じるこ
 とができなかった。彼にとって彼女は安上がりにできる性のはけ口以外の何物でもなか
 った。彼女にとってもゴビンダはおびただしい数の「顧客」の一人にすぎなかった。
・ネパールから日本に出稼ぎにきた外国人労働者と、東京電力に総合職で入った慶応大学
 経済学部出身のエリートOLは、常識的といえば、お互い絶対に遭遇することのない相
 手だった。その二人が時代の攪拌にきりもみにされ、円山町に吹きよせられた。そして
 円山町の強い磁力が二人を衝突させた。二人の衝突は、わが身を畜生道に沈淪させた彼
 女の神々しいまでの「大堕落」と、ゴビンダの浅ましくもケチくさい「小堕落」ぶりの
 対照を、玻璃のなかに映る影絵のようにありありと浮かびあがらせた。
・私は二年近くにわたって行われたこの公判に通いつづけた。そこで痛感したのは、真実
 追及の姿というよりは、むしろそれを必死で覆おうとする法廷の闇の深さだった。その
 闇は公判が進めは進むほど暗さをまし、被告人ゴビンダも殺害された彼女もその闇のな
 かに包み込まれ、次第に消失していくような気がしてならなかった。 
 
部屋
・事件から約三年、その間に神戸で「少年A」の事件があり、和歌山でヒ素入りカレー事
 件があった。オウムが復活の兆しをみせ、金融機関の経営破綻が相次いだ。失業率が急
 伸し、東海村ではついに臨界事故まで起きた。「世紀末」信仰もまんざらウソでないと
 信じたくなるほど、人も社会もドロドロに溶け始めている。
・東電エリートOLの彼女は、命がけの堕落を世間に見せつけることで、この世の虚妄と
 欺瞞を丸ごと暴き、人間の最後の尊厳を自らの肉体を持って守ろうとしたのではなかっ
 たか。
 
求刑
・彼女は、地元の効率の小・中学校を経て、慶応女子高等学校に進み、慶応大学経済学部
 を卒業後、東京電力に入社し、同社企画部調査課等を経て、被害当時には企画部経済調
 査室副長として、国の財政や税制及びその運用等が電気事業に与える影響をテーマにし
 た研究に従事し、月数本の報告・論文を作成するという立場にあったのであり、その論
 文等は高い評価を得ていた有為に人材であり、将来を嘱望されていたのである。
・彼女は病的な性格により売春をしていたものであるが、同女が売春を行っていたからと
 いって、被告人から殺害されなければならない理由は全くない。
・検察側は殺害の直接証拠を何ひとつ提示できなかったにもかかわらず、状況証拠だけで
 ゴビンダを真犯人ときめつけ、死刑に次ぐ極刑を求めた。こうした論理にもならない論
 理と強引な手口がもし許されるならば、検察官は、誰でも殺人犯に仕立てることが可能
 となるだろう。
・一度犯人と決めつけたら絶対にそれを見なおししようとしない日本の司法制度の硬直性
 に、私はいまさらながら肌に粟だつものをおぼえた。こんな暗黒裁判がまかり通ってい
 るものなのか。
 
結審
・他国から訪れた者にこのような苦しみを与えたことは、国際社会の中に地位を占めよう
 とするわが国の司法になすべきことではありません。裁判所は、本件審理に際して、弁
 護人の数が多いことを理由に、私たちを国選弁護人として認められませんでした。この
 ため、弁護人は、これまで無報酬で弁護活動を行ってきました。これもわが国の司法に
 お店を残さないための動機からでたものであります。
 
陰毛
・遺体の下から陰毛四本が発見され、うち1本は被告人と、1本は被害者と血液型及びD
 NA型が一致したとされています。仮に、前者の陰毛が被告人のものであったとしても、
 被告人は公判廷における供述のとおり犯行と無関係に101号室に出入りし、女性とセ
 ックスしているのであって、被告人と犯行を結びつけることにはなりません。
・検察官は論告において、コンドーム内の精液と合わせて陰毛の存在を指摘していますが、
 陰毛も精液と同様に犯行と無関係に存在する可能性がある以上、陰毛によって被告人と
 犯行を結びつけることができないことはもとより、陰毛の存在がコンドーム内の精液の
 証拠価値を高めることにもなりません。
・少なくともこの2本の陰毛の存在は、2名の被告人以外の人物が101号室において、
 被害者とセックスをしていた事実を推測させます。
 
閉廷
・被害者は、毎晩、売春行為のために、不特定の客を四人以上とっていました。これは彼
 女の手帳からはじめて開示された事実で信用性はきわめて高い。彼女は東電が休みの土、
 日には五反田のホテトルに勤務しており、そこでとった客はこれに含まれていない。と
 なると、彼女は、土、日には五人以上の客をとっていた公算が高い。
・そもそも、平日の四人という客数からして驚くべき数字である。五時に東電を退社して
 6時過ぎに渋谷の円山町に現れ、神泉駅を12時34分に出る終電に乗り込むまでの約
 6時間のなかで、彼女は自ら課したノルマをこなすように4人の男を相手にしていた。
 彼女は売春客を4人見つけるまでは絶対に終電車には乗らず、客を求めて夜の円山町を
 徘徊した。彼女をそこまで思いつめさせ、そこまで律儀に働かせたものは一体なんだっ
 たのか。
 
拒食
・彼女は事件前日の3月7日夜、いやがる遊客を執拗に追い掛け回し、駐車場の車の陰で
 売春におよんだ。あたりには華美な「愛の空間」が妍を競い合うように密集していると
 いうのに、なぜ、彼女はこんな薄暗く不潔な場所を「愛の空間」にしなければならなか
 ったのか。私はここに立って、そうせざるをえなかった彼女の心の闇の深さがあらため
 て伝わってくるような気がした。
・彼女がクラブホステルのアルバイトをはじめたのは平成元年頃のことで、渋谷界隈で売
 春するようになったのは事件の数年前からだったという。その後の公判のなかでも、事
 件の1年前の平成8年6,7月頃から、土、日ごとに五反田のホテトルに通勤し、その
 後、円山町で複数の男と売春行為をしていたことが明らかとなった。
・彼女は一方でそうした夜鷹お生活を送りながら、その一方で、経済セミナーに通い、講
 師をつとめたかつての恩師に、エコノミストとしてやっていきたいという抱負を語って
 いる。私はしかし、それを必ずしも彼女のもつ二重人格ゆえだとは思わない。その見方
 がたとえ間違っていないにせよ、あまりにも通俗的でご都合主義的な解釈だと考えてい
 る。
・彼女ははじめまら東電入社を志望したのではなく、本命は国家公務員上級試験の合格だ
 ったという。
・彼女とゼミで同期だった女性は、「事件を知ったときにはとても信じられませんでした。
 彼女はすごく潔癖症だったので、精神のバランスを欠いてしまったのではないかという
 のが、私なりの結論でした。でも、女性ならば誰でも、自分をどこまでもおとしめてみ
 たい、という衝動をもっているんじゃないかとも思うんです」。その女性の口からまさ
 か「堕落願望」の言葉が出るとは思いもよらないことだった。
 
滑落 
・昭和55年に慶応の経済学部を金時計組に近い成績で卒業した彼女は、父親の部下だっ
 た人物の口ぞえで東京電力に入社した。配属されたのは企画部調査課だった。彼女はそ
 れから13年後の平成5年7月、経済調査室の副長という管理職抜擢されるが、いずれ
 の職場も通産省や資源エネルギー庁との情報交換や、経済動向などの分析が主な仕事だ
 った。
・彼女の入社した55年入社組みの9名の女子のうち、現在管理職についている者はゼロ
 である。正確にいえば、55年入社組のうち管理職となった女性は彼女ひとりだった。
 その他の8名は、全員、彼女が管理職になる前に東電を退社している。そして同期入社
 で唯一の管理職だった彼女は不幸な事件にまきこまれ、命そのものを落とした。
・彼女と同じゼミだった女性は、「日本の企業には結婚と仕事を両立させるシステムはあ
 っても、出産と仕事を両立させるシステムはまだほとんどないんです。名の通った大企
 業ほど女性が長続きしないのもそのためだと思います」 
・東大の教養学部を卒業して東電に入社した女性は、彼女の最大のライバルで、その女性
 が東電の社内選抜試験に受かってハーバード大学に留学したことが、彼女の転落のトリ
 ガーをひいた、という噂を聞いた。彼女がこの試験を受けたかどうかは、はっきりしな
 い。
・彼女は28歳の頃、拒食症に陥り入院したことがあったという。この年、彼女の最大の
 ライバルと目された東大出の女性が社内選別に合格している。彼女の拒食症とライバル
 の合格は、やはりどこか深いところで響きあっているように思えてならない。
・昭和63年8月、彼女はリ本リサーチ総合研究所に出向命令を受けている。しかし、東
 電はその研究所とは出資関係はなく、東電から同研究所に出向したのも彼女が初めての
 ケースだった。その後も、東電から同研究所への出向はない。
・この出向は一貫してエリートを目指してきた彼女にとって格落ちという印象を拭えなか
 ったのではなかったか。
・彼女は東電に入社し、役員入りの一歩手前で若死にした父親を、唯一無二の神のように
 尊敬していた。東電入りした彼女のなかには、あるいは、病を得て無念の降格人事を味
 わうことになった父親の恨みを晴らし、女性として役員まで上り詰めるという大望があ
 ったのかもしれない。それがライバルに海外留学先を越され、そしてまた出向命令を受
 ける。彼女お挫折の思いは余人からは想像もできないほど深いものだったのかもしれな
 い。
・彼女が書いた論文は、こんな書き出しからはじまっている。「所得税・住民税減税と消
 費税導入、厚生年金保険料率の引き上げなど、家計を取り巻く環境は、制度的な側面か
 ら、ここへきて大きく変わろうとしている。本格的な高齢化社会の到来する将来を展望
 すれば、こうした制度改革はようやく始まったところといえるだろう。・・・・・・・
 今後さらに消費支出の対実収入比率が低下していくとすれば、この「適切」さを税収額
 のバランスと解釈する限り、消費税の税率引き上げの議論はいずれ浮上せざるをえない
 ことになる。また現実問題として、消費税率を3パーセントに固定したままでは、仮に
 所得税・住民税減税を今後実施しなくとも、税収総額が不足する事態が訪れる可能性は
 高いことになる」。消費税がその後、彼女の予想通りに上げられたところにも、彼女の
 日本経済を見る目の確かさが感じられる。
・東電の出向期間は通常2年である。彼女は通常より1年長く出向していたことになる。
 東電と日本リサーチ総合研究所の彼女の出向期間をめぐる食い違いは、この間、彼女と
 東電の間で、「帰る」、「まだ早い」といった類の言い争いがあったことを暗示してい
 るようにもみえる。いずれにせよ、彼女が売春生活に入るきっかけのなかに、出向時代
 に受けた何らかのトラウマが大きく作用していることだけは確かなように思われた。
・彼女は売春婦に堕ちることで、一体、誰に何を訴えようとしたのだろうか。あるいは誰
 に対しても何に対しても、自分に対してさえも訴えるものなど何もない。そおことを訴
 えようとしたのだろう。

対話
・効率優先の競争社会では、人びとの心の中に、厳しい自己監視装置が内蔵され、この自
 己査定によって人々は自らの上級品から規格はずれまでに階級区分している。現代の市
 民たちは暴力で抑圧されることは少なくなったが、代わりに徹底的な評価で管理され、
 「品質」ごとに階層分化されるようになった。この評価は内面化されて厳しい自己評価
 となり、自らを客体化して他者(社会)にとっての「品質の良い製品」になろうと必死
 になっている。身体を売っているのは、売春婦だけではない。現代市民たちの多くは身
 体どころか心まで、社会というシステムに売り渡している。
・彼女から尊敬されすぎるほど尊敬される父親お死がトリガーとなったことは間違いない
 でしょうね。私はこの事件の報道を最初に接したとき、「これは自己処罰だな」と感じ
 ました。彼女は死んだ父親を過剰なまでに理想化するあまり、「父親に比べて見下げ果
 てた自分」「汚い自分」を処罰したいという衝動から行動していた。その結果、心と体
 が分離され、心が体に「見下げ果てた自分」「汚い自分」になることを命じてしまった
 と思うんです。 
・彼女が売春に走るようになったのは、役員入りまで目指した東電で、その目がなくなっ
 てしまったことにいやおうなく気づかされたからだと思っています。そのとき、父の死
 のショックによって発病した拒食症も再発しています。いわばバージョンアップした拒
 食症が、性的潔癖症を大きく反転させ性的自堕落の道に追い込んでいく。彼女にはいつ
 も「申し訳ない」という感情がこびりついていたと思います。誰に対して申し訳ないか
 といえば、それは尊敬する父親に対してです。「立派な父親に比べずっとちっぽけな自
 分は生きていく価値がない、申し訳ない」と考えて、自分を辱しめるような行動に走る。
・このような感情は、親がその子を特別視し、過大な期待をかけたことからくることが多
 いといえます。つまり勝手にかけられた過大な要求にこたえられないと感じた時点から、
 自己処罰がはじまるのです。彼女の場合も、「父親が東大なのに、私は東大に行けなか
 った」からはじまり、「国家公務員試験に落ちた」などの挫折がいくつか重なり、それ
 が東電入社後も、「親が期待したようになっていない」という自責の念を生んで、自己
 処罰の方向に向かっていったのではないかと思います。
・彼女のやったことは、自分を「物」としてしまうことなんです。突き放した言い方をす
 れば、金銭を媒介にして性器の摩擦を行なったんですから。この事件は本質的に非常に
 危険は要素をはらんでいます。普段みんなが隠していることを、ストレートすぎる形で
 つきつけたわけですから。ですから、彼女は、自分たちがふだん心の底のどこかで望ん
 でいても社会的規制が働いてできなかったことをやってくれたという意味で「黒いヒロ
 イン」なんです。
・彼女のみならず、現代人はみな多重人格化しています。学校、家庭、会社など、その場
 その場での役割を演じることに重点を置いています。「自己同一性」など必要とされず、
 いまの世の中はむしろ、そんなものを獲得したら生きにくいとさえいえます。
・そんな中で、彼女はどこまでも人格をかえずに一貫性を持って生きたといえるのではな
 いでしょうか。ある意味で古風とさえいえます。例えば、売春する場所も円山町と決め
 たら、一度もかえなかったわけですですから。一本気といえは実に一本気です。その一
 貫性に関しては、わたしは価値観が多様化して拡散化する一方の世の中や多重化する人
 格をよしとする風潮に対して、彼女が毅然と挑戦状を叩きつけているような感じさえし
 ます。
・彼女の病んだまなざしのなかには、すべての約束ごとをとっぱらった裸の世間が生々し
 く浮かんできた。彼女からすれば、安全な所に身を置いて援助交際するケチな女子高生
 などちゃんちゃらおかしくてならなかっただろう。堕落するならここまで堕落してごら
 ん。彼女はあらゆる病巣が巣つくった円山町のなかで、画然とし屹立する「病の怪物」
 だった。魂を深く病んだ人間にしか、魂を深く病んだ社会は見えない。
 
あとがき
・日本の社会がいま大きな土石流に襲われ、人を縛り人を解放してきた「等高線」がずた
 ずたになっているのではないか。自分の立つべき「土地」を見失った人々はかげろうの
 ように浮遊し、「等高線」を欠いた企業と家族はメルトダウンをはじめている。そして、
 マスメディアが流す「情報」という名の洪水は、その傾向に一層拍車をかけている。