「天皇機関説」事件 :山崎雅弘

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この事件は、明治憲法(大日本帝国憲法)上において、天皇という特殊な存在を、どのよ
うに解釈すれば矛盾がないか、という憲法解釈上の二つの学説(天皇機関説天皇主権説
をめぐっての対立だったようだ。
しかし、当初は学者同士の学説の論争だったものが、しだいに政治家や軍人や右翼活動家、
さらには宗教家を巻き込んだ大論争に発展していったようだ。もちろんそこには、天皇主
権説のほうが、自分たちに都合がよいという思惑があったからだろう。
天皇主権説派が、天皇機関説とその支持者に対し、尋常ではない激しい批判・排撃を繰り
広げることによって、その勢力が雪だるま式に増していき、それまでは妥当な学説だと多
くの支持を得ていた天皇機関説が、完全に追い込まれてしまった。
やがて政府も、公式に天皇機関説の否定声明を発しなければならなくなり、これにより、
ますます勢いづいた天皇機関説排撃派の軍人たちは、「二・二六事件」という実力行使に
打って出るまでになってしまう。このクーデターに対しては、天皇が「反乱を起こした逆
賊だ」と討伐命令を出して、この時は何とか事を収拾させたが、それでもこの天皇機関説
排撃運動は収まらなかった。
この天皇機関説排撃運動は、単なる学説の排撃に留まらず、個人主義や自由主義の排撃へ
と拡大していったようだ。そして日本社会は、しだいに自由にものが言えない社会へとな
っていく。それと同時に、天皇を「神」と崇める国家神道が、社会の中に広められていく。
この天皇機関説事件がきっかけとなり、日本はその後は、あの破滅への道を突き進んでい
くことになったのだ。
この天皇機関説事件の経緯を見ると、日本という国の危うさを、まざまざと見せつけられ
たような気がした。そして、これは戦前という昔の話で、現在の社会ではこんなことは絶
対に起り得ないとは、残念ながら言えないのではないかと私には思えた。


はじめに
・2015年の夏、日本の政治は安倍晋三政権の発議した安保法制をめぐって、大きな動
 乱の渦に投げ込まれました。自衛隊の戦闘任務での海外派兵を認める「集団的自衛権
 行使容認」という問題でした。
・メディアのアンケート調査の結果、憲法法学者の実に九割以上が「違憲」、すなわち憲
 法違反であると評価し、戦後日本の歴代政権が政党を問わず「憲法上許されない」と判
 断してきた「集団的自衛権の行使」を、連立与党の自民党と公明党が強行採決で押し通
 したため、日本国内では反対する市民の間で「立憲主義の破壊だ」という声が上がりま
 した。
・立憲主義とは、ふだんの生活では、まず使わない言葉ですが、その意味を簡単に述べる
 と、市民の日常生活や政治家の権力行使、公務員の業務など、あらゆる社会的な行為の
 土台には「憲法」が存在し、憲法で定められた枠組みから外れるような行動は、それが
 選挙で選ばれた政治家であっても許されないという考え方です。
・「刑法」や「民法」は「国民が守らなくてはならない規則」ですが、「憲法」は「政治
 権力者が守らなくてはならない規則」を意味します。
・憲法に記された「国民は何々をできる」という文言は、単に「国民の権利」を説明する
 ものではなく、政治権力者は「この国民の権利を侵害してはいけませんよ」と釘を刺し
 て、国民を権力の横暴から守るために書かれた確認事項です。
・ヨーロッパをはじめ、世界中のあちこちには、国王や女王が国の元首として存在するも
 のの、憲法によって権力を制限された「立憲君主国」がいくつも存在しています。ここ
 で言うところの「立憲」も、国王や女王が国のことをなんでも好き勝手に決められるわ
 けではなく、あくまでも憲法に定められた枠組みの中で決定権を持つ、という意味です。
・現在の日本も、天皇という君主的な存在はあるものの、昔の国王のような絶対的権力を
 持たないので、その意味では「立憲君主国」という一面を持っています。
・明治維新によって急速な近代化を成し遂げた明治時代と大正時代の日本においても、大
 日本帝国といういかめしい国の名称にもかかわらず、天皇はあくまで憲法の枠組みを尊
 重しながら、さまざまな国務に当たるという形式がとられていました。
・ところが、昭和初期に起きたある「事件」がきっかけで、こうした「立憲主義」の形式
 が失われ、日本の社会システムが一時的に「憲法の枠組みから外れた状態」に陥ったこ
 とがありました。それが「天皇機関説事件」と呼ばれる出来事でした。
・天皇機関説事件とは、1935年に日本の政界を揺るがした政治的な弾圧事件で、天皇
 の権力の範囲を憲法の枠組みに合致させる「天皇機関説」という解釈を提唱した憲法学
 者の美濃部達吉と、天皇を崇拝する退役軍人や右派政治家の対立が、事件の発端でした。
・東京帝国大学などで長年にわたり憲法学を教え、憲法に関する数々の書物を著した美濃
 部達吉は、当時の日本でトップレベルの憲法学者と見なされており、憲法を学ぶ若者た
 ちは、美濃部の憲法関係の著作を教科書として使用していました。
・天皇機関説とは、まず日本という国家を「法人」と見なし、天皇はその法人に属する
 「最高機関」に位置する、という解釈でした。天皇の持つさまざまな権限は、個人とし
 ての天皇に属するものではなく、あくまで大日本帝国憲法という諸規則の範囲内で、天
 皇が「国の最高代表者」として行使するものだ、という考え方です。
・ただし、実際には日本の政治家や一般国民が、天皇の権力行使について「その行動は憲
 法違反ではないか」と指摘することはまったく不可能な状況でした。絶対的な存在出る
 天皇に失礼な態度をとることは、当時の日本では凶悪な思想犯罪と見なされ、「不敬罪
 という罪状で警察に逮捕され、投獄されることになるからです。
・天皇機関説で説明される「天皇の権力の制限」とは、実際に天皇の権力行使に影響を及
 ぼすものではなく、あきまで「近代国家をスムーズに運営するための枠割の体裁や位置
 づけ」を、憲法と合致するかたちで理論的に構築したものでした。
・そして、天皇という絶対的な存在を、国の基盤である憲法と密接につなげておくことで、
 誰かが天皇の権威を勝手に悪用して、自分や自分の組織に都合のいい方向へと日本の政
 治を誘導するという事態も、避けられると考えられていました。
・美濃部が天皇機関説の中心的な提唱者と見なされていましたが、実際には彼がこの学説
 の発案者ではなく、明治時代の法学者・末岡精一をはじめ、多くの学者がこの説を支持
 し、研究を重ねてより完成度の高い理論に磨き上げていました。
・しかし、1935年の2月から10月にかけて、日本の政治中枢と軍の周辺では、天皇
 機関説という憲法解釈に対し、激しい批判や罵倒の言葉が投げつけられます。
・こうした罵声を浴びせる人々は、ただ「天皇をどんな言葉で表現するか」という表面的
 なことだけを問題にしており、「近代国家の枠組みと天皇という特殊な制度を理論的に
 整合させる工夫」や「憲法を逸脱するかたちで天皇の権力が悪用され、暴走するのを防
 ぐ工夫」などの、複雑な構造についての認識は、事実上皆無でした。
・当時の総理大臣だった岡田啓介は、最初のうち、貴族院議員でもある美濃部の憲法学説
 を擁護する態度をとりましたが、退役軍人や右翼団体、その支持を受ける議員などが
 「天皇機関説=不敬」という政治的圧力を強めていくにつれ、内閣の倒壊という事態を
 避けるため、こうした圧力に譲歩して、美濃部を切り捨てる方向に舵を切ります。
・岡田首相は、二度にわたり政府の声明を発表しましたが、その内容は「天皇機関説のよ
 うな憲法解釈は、日本の国体に合致しない」というものでした。
・これにより、昭和天皇も「それでよいではないか」と認めていた天皇機関説という憲法
 解釈は、日本では「禁じられた思想」となり、美濃部は貴族院議員の辞職を余儀なくさ
 れ、憲法に関する彼の著作も発禁処分を受けました。
・天皇機関説は、天皇という古い制度を近代国家の枠組みに整合させる「仕掛け」であっ
 たと同時に、天皇の特権的地位を根拠とする政治権力が、コントロールを失って暴走す
 るのを防止するための「安全索」のような存在でもありました。
・天皇機関説事件のあと、昭和天皇が、権力を握る「支配者」として暴走することはあり
 ませんでした。しかし、当時の国家指導で大きな発言力を持っていた「軍部」が、天皇
 の名において、あるいは天皇の名を借りて、事実上の「最高現力者の代行人」として、
 国の舵取りという「権力」をわが物顔で振り回し始めた時、もはや誰もそれを止めるこ
 とはできませんでした。
・先の戦争における日本の内外での悲劇は、日本国内の政治制度において「立憲主義」
 という安全装置が壊れたことによる、史上空前の規模で発生した「大惨事」であったと
 見ることも可能です。 
・美濃部は決して、天皇を馬鹿にして見下すような人物ではありませんでしたが、いくつ
 かの理由で美濃部を敵視する人間たちは、彼の憲法に関する著作や過去の発言から、断
 片的な言葉を切り取って抜き出し、前後の文脈とは関係ないかたちで「これは天皇を馬
 鹿にする言い草ではないか」と威圧・恫喝し、天皇という「絶対的な権威」を自分の側
 に置くことで反論を封じながら、相手を追い詰めるというやり方をとりました。
 
政治的攻撃の標的となった美濃部達吉
・1935年2月、貴族院本会議で、菊池武夫という元軍人の議員が演壇に立ち、さまざ
 まな問題に触れた質疑の中で、こう発言しました。
 「我が皇国の憲法を解釈いたします著作の中で、皇国の国体を破壊するようなものがご
 ざいます。・・これらの著作があることを、政府はお認めになっているかどうか。・・」
・菊池武夫は、熊本の由緒ある華族の家に生まれました。1933年に菊池は仲間と共に
 「日本精神協会」という政治団体を設立しますが、その活動の目的は次のようなもので
 した。
 「今や、我が日本は決然と、一大転換を行なわねばならない時期に臨んでいる。欧米追
 随の態度を久しく続けてきた在来の不見識をやめ、皇道日本精神に基づき一切の改造改
 革を行なわねばならない」
・菊池は「日本は欧米のやり方をなんでも真似るのではなく、天皇を戴く日本ならではの
 考え方で、あらゆる物事に対処すべきだ」という思想の持ち主でした。天皇機関説への
 批判も、基本的にはこの考え方に基づいています。
・菊池の質問のあと、演壇に上がった三室戸敬光という子爵の貴族院議員が次のような発
 言をした。
 「天皇機関説なるものは、今日の大日本においては用いるべきものにあらず、これだけ
 のことは言っていただきたいと思います」
・三室戸に続いて、男爵の井上清純議員が登壇しましたが、彼もまた、菊池や三室戸と同
 じく、天皇機関説という憲法解釈を否定する人物でした。
・貴族院での菊池武夫の発言は、本当に菊池本人が考えて口にしたものだったのか?
 実は、彼の発言の陰には、当時活発に言論活動を行なっていた右翼の論客・蓑田胸喜
 存在がありました。
・蓑田は、美濃部達吉や末弘巌太郎牧野英一などの東京帝国大学や京都帝国大学の教授
 を「日本の学生に共産主義思想を広める不届き者」と決めつけて敵視し、激しい言葉で
 罵倒する言論活動をくり広げていた人物でした。蓑田は大学時代には一時期「興国同志
 会」という国粋主義の学生団体に所属していました。
・興国同志会を立ち上げたグループの一人は、東京帝国大学で憲法学を教える上杉慎吉
 授でしたが、この上杉はかつて天皇機関説をめぐって美濃部達吉と激しい議論の応酬を
 行なったことのある人物でした。
・蓑田は執筆と編集に携わった雑誌「原理日本」において、マルクス主義の革命思想を批
 判していましたが、やがて攻撃の矛先は「革命思想の温床」と彼らが判断した、東京帝
 国大学へと向けられるようになります。
・こうした中で起きたのが、「京大滝川事件」という出来事でした。
・1932年10月に中央大学の講演で京都帝国大学の滝川幸辰教授が「社会は犯人への
 報復的態度をとるだけでなく、犯罪の原因や社会的背景にも目を向ける必要があり、特
 に法に携わる者には、被告人への同情と理解が必要である」と説きました。
・それから間もなくして、判事などの司法関係者が共産党のシンパとして治安維持法違反
 に問われるという「司法部赤化事件」が発生すると、蓑田は「こうした事態が起きるの
 は、司法関係者が帝国大学で法律を学んだ時、赤化教授の門下生だったからだ」との論
 陣を張り、美濃部と牧野、滝川、末弘の四教授を「諸悪の根元」として激しく罵倒しま
 した。
・この蓑田の個人攻撃は、やがて政界へも波及し、蓑田と近い議員が帝国議会に持ち込ん
 で話を大きくしたことから、文部大臣と内務大臣は事態の収拾を図るため、滝川への処
 分を決断しました。
・滝川だけが処分の対象となった背景には、悪意に基づく捏造の情報が、文部大臣と内務
 大臣に通報されていた事実が影を落としていました。
・この一件で蓑田は「滝川を休職に追いやった右派論客の急先鋒」としての知名度を獲得
 しました。 
・1935年2月の貴族院で、菊池武夫に続いて天皇機関説を攻撃した三室戸敬光と井上
 清純の二人の貴族院議員も、蓑田と親しい交友関係を持つ政治家でした。
・蓑田がこれほどまでに美濃部を憎んでいた理由は、大きなものとして二つありました。
 ひとつは、美濃部が著作などで前提とする西欧式の法理論や価値観が、蓑田の理想とす
 る 「西欧の影響を排した日本中心の法理論や価値観」とはまったく相容れないこと。
 もうひとつは、そうした日本中心の法理論や価値観にとって大きな脅威となる、共産主
 義の革命思想に感化される人間を輩出しているのが、美濃部や末弘などが教鞭を執って
 いた東京帝国大学など帝国大学の法学部だという、一方的な思い込みでした。
・美濃部は貴族院で、自分の唱える天皇機関説は決して天皇への不忠でも不敬でもなく、
 また当時の日本の「国体」を揺るがすような反逆的思想でもないことを訴えました。
・美濃部は、自分に投げつけられた「不当な誹謗中傷」と、それを注意もせず傍観してい
 る貴族院の議長(近衛文麿)への不満を述べた上で、菊池が「憲法学の素人」であるこ
 とを踏まえた上で、本当に自分の憲法学の著書を読んで内容を理解したのか、という点
 に疑問を呈します。
・美濃部は自分と自分の学説(天皇機関説)を批判した菊池に対し、全面的な対決姿勢を
 示しました。ただし、美濃部の反論は徹頭徹尾、冷静で理性的な論理で行なわれたため、
 議場の各議員は特に野次を飛ばすこともなく、静かに耳を傾けていました。
・美濃部は、欧米諸国と動揺の構造を持つ近代国家の枠組みと、天皇という日本独特の存
 在をうまく整合させるには、天皇が国家の最高機関であると解釈するのが最も合理的で、
 国の政治システムを円滑に機能させられる、というふうに理解していました。
・美濃部が弁明を終えた時、貴族院の議場では彼に対する強い反発などは見られず、それ
 どころか一部の議員たちからは、異例の拍手で迎えられました。
・一方、美濃部の弁明で一時的に気勢を削がれた「機関説排撃」の陣営は、江藤源九郎
 菊池武夫、井上清純、井田磐楠の主催で、貴衆両院議員による「有志懇談会」を開いて
 いました。
・月が変わって3月に入ると、菊池や三室戸、井上などの「天皇機関説排撃派」による巻
 き返しの攻撃が再び活発化します。
・貴族院の予算総会で、三室戸は再び美濃部の天皇機関説問題を蒸し返し、四つの質問を
 岡田首相に呈しましたが、その内容はいずれも、美濃部の弁明を曲解したり論点をする
 替えた上で、瑕疵をあげつらうものでした。
・これに対して、岡田首相はまたしても「自分は天皇機関説に賛成しない」と述べた上で、
 国体の尊厳は学説によって揺らぐことはない、という曖昧な返答で凌ごうとしました。
・続いて、菊池武夫と井上清純に加え、両人と同じ「公正会」に所属する井田磐楠が演壇
 に立ち、美濃部の天皇機関説に新たな攻撃の矢を放ちました。最初に登壇した菊池は、
 前回にも増して激しい言葉で、美濃部を非難しました。
・岡田首相は「自分は天皇機関説には賛成しないが、美濃部の憲法学説は長きにわたって
 唱えられ、幾多の議論を重ねられた問題なので、何らかの措置を講じるには慎重な考慮
 が必要だ」との答弁で場を乗り切ろうとしました。
・美濃部に対する攻撃の火の手は、彼の属する貴族院だけでなく、衆議院でも上がってい
 ました。その先鋒となったのは、陸軍少将の肩書きを持つ江藤源九郎議員でした。
・江藤は美濃部の著作内容は不敬罪に該当するとして、東京地方裁判所検事局に告発しま
 した。 
・菊池や江藤など軍人出身の議員は徒党を組んで、美濃部に対する「全面戦争」を、これ
 から幅広い分野で本格的に開始しようとしていたのです。
 
「天皇機関説」とは何か
・そもそも、天皇機関説と呼ばれる憲法学説を日本で最初に提唱したのは、美濃部達吉で
 はありませんでした。この学説の実質的な始まりは、ドイツとオーストリアに留学して
 国法学や行政学を学んだのち、帰国して帝大の法科大教授に就任した、末岡精一の講義
 だったとされています。
・1907年から早稲田大学の法学教授を務めた副島義一が、憲法学者として最初に公然
 と天皇主権説を批判的に論じた人物でした。
・また、美濃部の師として名前が出た一木喜徳郎や、市村光恵佐々木惣一らも、国家法
 人説(天皇機関説)の理論を唱える憲法学者でした。
・「天皇の権力は、憲法の制約を受ける」という発想は、伊藤博文らが大日本帝国憲法の
 草案を作成する時にも前提とされていました。
・つまり、明治期の公布・施行せれた大日本帝国憲法は、そのスタート時点から、天皇の
 持つ権力を「無制限」であるとは規定せず、ドイツ帝国の場合と同様、憲法という一定
 の枠組みに収める形式をとっていました。
・「天皇主権説」を唱えたのが、穂積八束やその弟子の上杉慎吉などでした。
・穂積の唱える「天皇主権説」は、この時期の日本における憲法学や、一般国民の憲法認
 識を大筋で反映していたかのように思われるかもしれません。ところが現実には、彼が
 展開した天皇主権説の憲法解釈は、国内の法学者や国民からの、激しい反発に晒される
 ことになります。
・穂積八束が持論を披露した1889年(明治22年)当時の日本国内では、後の昭和初
 期に見られるような天皇を絶対的な「神」と同一視する風潮はまだありませんでした。
・明治政府は、天皇を西欧の君主と同様の超越的地位へと担ぎ上げ、憲法の裏づけと共に
 「大日本帝国のトップ」へと君臨させることで、対外的には近代的な立憲君主国の体裁
 をアピールし、国内的には薩長両藩出身者の寡占支配という新政府の実情から国民の目
 を逸らして、大衆的な支持を集めようとしていました。
・しかし、明治維新より前の日本では、天皇という存在は国民のほとんどを占める一般大
 衆には縁のない存在であり、国の支配層が望んだような天皇に対する敬意や親近感は、
 なかなか浸透していませんでした。
・そのため、穂積八束が論じるような、天皇を際限なく神格化し、天皇の権力を無制限で
 あるかのように見なす憲法解釈は、西欧の文化に通じた冷静な法学者も、天皇への絶対
 的忠義という心情がまだ「血肉化」していない大衆も、素直に受け入れられないものだ
 ったのです。
・しかし、そんな状況下でも、穂積の学説に支持を表明し、天皇主権説を唱える憲法学者
 は存在していました。東京帝大の学生時代には穂積の自宅に下宿し、やがて同大学で穂
 積の後任として法科大学で憲法講座を担当し、美濃部達吉からライバル視されていた人
 物、上杉慎吉です。
・美濃部は、「上杉は、すこぶる極端な論鋒を用い、人を誤らせるおそれが多い。反対説
 を十分理解しないでそれを罵倒し、悪名を付けるのは、学者の態度として、いかがわし
 いことであろうと思う。上杉の態度はそれに近く甚だ残念である」と、上杉の論の進め
 方を諫めた。
・上杉の論法は、美濃部が提示した学問的な論点に対して、同じ学問の反証で応えず、代
 わりに「国体」という当時の右派勢力が好んで使用した「主観的愛国心」を振りかざし
 て相手をねじ伏せようとするものでした。
・この美濃部・上杉論争の結果、日本の憲法学においては上杉の天皇主権説は説得力を失
 い、美濃部の天皇機関説が憲法解釈の主流という地位を確立しました。
・衆議院本会議では、当時の多数派を形成していた「立憲政友会」の山本悌次郎が、天皇
 機関説に関して質問に立ち、「天皇機関説については、30年来、よく知らずにきた」
 として、自分の不注意を反省する言葉を述べた上で、今後はこうした説を放任するつも
 りはないと明言し、菊池らの天皇機関説批判に加わる姿勢を表明しました。
・立憲政友会総裁の鈴木喜三郎もここに加わりました。
・衆議院本会議においては、「政府は、崇高無比なる我が国体と相容れない言説に対し、
 ただちに断固たる措置を取るべし」という「国体に関する決議案」を満場一致で可決さ
 れました。
・この決議成立から18日後、文部省も、同様の内容を含む「訓令」を発表していました。
・学問を管轄する官庁である文部省が、こうした「特定学説の排撃」に加わる姿勢をみせ
 たことに対し、当時の学者の多くは、沈黙や政府への追従という態度をとりました。
・経済学者の石浜知行は、美濃部の天皇機関説が貴族院・衆議院の両方で建議・決議をも
 って「国体に反するもの」と断定されたことは、「美濃部の学説に対して押されたのみ
 ならず、広く立憲主義、自由主義に対しての強圧を意味する」と帝国大学新聞の寄稿文
 に書いている。
・日本の政治システムにおいて、天皇という存在をどのように位置付けるかという問題は、
 当然のことながら、当事者である天皇にとっても大きな関心事でした。そして、侍従長
 などが書き残した記録によれば、天皇は美濃部の提唱する天皇機関説を、おおむね妥当
 な解釈であると認め、これを批判する勢力に厳しい視線を向けていました。
・天皇はかなり早い段階から、帝国議会での「天皇機関説排撃」の動きに不快感を抱いて
 いたことがわかります。天皇機関説を排撃しようとする勢力が、その政治目的のために、
 自分の存在をみやみに絶対化、あるいは神格化する態度を、精神的にも肉体的にも迷惑
 なことだと述べていたようだ。
・当時の天皇の認識は、天皇機関説と天皇主権説は根本のところで一致しているはずで、
 それが紛糾を招いている原因は「機関」という用語の語弊なので、これを「器官」に置
 き換えて「天皇器官説」にするのが適当ではないのか、というものでした。
・天皇は、天皇機関説と天皇主権説の違いについて、自分の考えを以下のように披露しま
 した。
 「統治の主権は君主にあるか(天皇主権説)、または国家にあるか(天皇機関説)と論
 究する場合においては両者はまったく異なるものとなる。もし、主権は国家にあらずし
 て君主にあり、とするなら、専制政治の誹りを招くことなり、また国際的な条約、国際
 債権などの場合には、困難な立場に陥ることになる。朕も、君主主権説のような専制の
 弊に陥らず、外国からも首肯されるような、しかもそれが我が国体の歴史に合致するも
 のならば、喜んでこれを受け入れるべきと思うが、遺憾ながらいまだ敬服すべき学説を
 聞いたことがない」
・天皇は、自分は専制君主ではなく、そのような存在になるつもりもないことを、「誹り」
 という否定的な言葉を使うことで表明しています。
・大日本帝国時代の日本軍は、皇軍、すなわち「天皇の軍隊」という役割を与えられてお
 り、 そこで共有される絶対的大義とは、とりもなおさず「天皇のために戦い、天皇の
 ために死ぬ」というものでしかありませんでした。
・そのような精神文化を持つ組織から見れば、美濃部らの提唱する天皇機関説は、天皇の
 尊厳という、磨かれた鏡のような明白な大義の絶対性に、意味のよくわからない「曇り」
 のような留保を差し挟むものでしかありませんでした。
・軍人が戦場で臆せず生命を捧げることができるのは、守るべき天皇が絶対的に崇高な存
 在だからで、その絶対的な崇高さに「学者ごとき」がケチをつけることは許されない。
 そんな反発が、天皇機関説事件における一部の現役軍事や予備役軍人、彼らと思想を共
 有する政治家や右翼活動家の攻撃的な振る舞いの根底に存在していたのです。
 
美濃部を憎んだ軍人と右派の政治活動家
・衆議院でも事実上の「天皇機関説排撃」を意図した決議が可決された日、同院の尾崎行
 雄
議員は、国防に関する質問主意書の中で、帝国議会とその外の日本社会において、言
 論の自由が次第に圧迫され始めている状況に注意を促しました。
・実は、この時期の日本軍人は、いくつかの出来事がきっかけで、美濃部達吉という個人
 に対して、強い反感や敵意、恨みの感情を抱いていたのです。ひとつは、1930年4
 月に日本政府が締結した「ロンドン海軍軍縮条約」に関し、日本海軍の軍令部が「天皇
 の統帥権を干犯するものだ」として強く反対したにもかかわらず、美濃部が自分の憲法
 解釈を援用して政府の判断を「正しい」と弁護したこと。そしてもうひとつは、陸軍省
 が1934年に刊行した「国防の本義と其の強化の提唱」というパンフレット(陸軍パ
 ンフレット)について、美濃部がその内容を徹底的に批判する記事を雑誌に寄稿したこ
 とでした。
・「陸軍パンフレット」の内容は、陸軍省の主流派が理想とする「高度国防国家」創設に
 向けて、軍人と政治家、国民が持つべき心構えを、きわめて好戦的で勇ましい語句を用
 いて表明するものでした。
・この「陸軍パンフレット」に対して、美濃部は、「創造」や「文化」は「個人の偉大な
 天才と、自由な研究によってのみ生まれ出るもの」だとの認識を述べた上で、それはも
 っぱら平和の産物で、戦争はむしろ、これを破壊するものと、我々は考えているのであ
 るが、この冊子によると、それは「たたかい」によって初めて生まれ得るものとしてい
 る、と疑問を呈しました。
・「国際主義を否定する極端な国家主義は、逆に国家自滅主義、敗北主義に陥るほかない。
 明治維新以来、世界の驚異となった我が国の急速な進歩は、主としてこの個人主義、自
 由主義の賜物にほかならない。国民を奴隷的な服従生活の中に拘束して、いかにしてこ
 のような急速な文化の発達を実現することができようか。個人的な自由こそ、実に創造
 の父であり、文化の母である」(美濃部)
・陸軍パンフレットに対する美濃部の批判を読むと、その指摘の的確さに加え、その後に
 日本がたどる道を、ほぼ性格に予見したかのような内容であったことに驚かされます。
・そして、この美濃部による、いちいち的を射た批判の文言が、どれほど当時の日本軍人
 の神経を逆撫でしたかについても、容易に想像できます。「皇国」という語句に特別な
 思い入れを込めていた日本軍人にとって、理屈の上では美濃部の言い分が正しくても、
 素直に従う気にはなれなかったはずです。
・美濃部と天皇機関説への排撃運動は、美濃部を憎んでいた日本軍の現役・予備役の軍人
 にとって、格好の「仕返しをするチャンス」に他なりませんでした。
鈴木荘六予備役陸軍大将を会長とする帝国在郷軍人会は評議会を開き、「天皇機関説排
 撃」の声明を決議した上、それを林陸軍相と大角海軍相に提出しました。
・海軍予備将校の団体である大洋会の臨時総会が開かれ、美濃部の憲法解釈について意見
 交換を行なったのち、この思想を一刻も早く排撃すべしという意見で満場一致し、岡田
 首相、大角海軍相、林陸軍相らの関係閣僚に手交して、対処を要請することになりまし
 た。
・教育総監の真崎甚三郎陸軍大将は、師団長会議において、「最近、我が国体観念に関し、
 種々誤った言説が行なわれているが、こうした謬説は、我が国体観念上、絶対に相容れ
 ざる言説であるから、軍人たるものはこうした言説に過られず、軍務にますます励精し
 て崇高無比なる我が国体の明徴を期すべし」と訓示した。
・この真崎の訓示により、現役の陸軍軍人も事実上、天皇機関説の排撃という在郷軍人の
 政治運動に同調していくことになります。 
・1935年3月から4月にかけて、日本各地で活動する右翼団体は、ほとんど例外なく
 「天皇機関説の排撃」を掲げ、演説会を開催したり、排撃文書を作成・配布したり、政
 府に決議文を提出したり、美濃部に自決の勧告文を送ったりしました。その数は、東京
 だけで55団体、全国の合計では実に151団体に達していました。
・右翼団体による天皇機関説排撃運動は、単に美濃部の学説を否定するのみならず、西欧
 の影響を受けた自由主義や個人主義の思想の排撃や、美濃部への自決勧告など、より過
 激な方向へとエスカレートしていきました。
・そして、在郷軍人団体と右翼団体による天皇機関説排撃の動きは、やがて政界の「反岡
 田内閣」勢力とも結ぶ付き、一学説の是非をめぐる議論は、岡田内閣の打倒を目指す政
 治運動という、新たな展開局面をみせることになりました。
・美濃部と天皇機関説に対する敵意を剥き出しにした出版物が、雨後の筍のように次々と
 刊行されました。 
・「大日本生産党」総裁の内田良平が、『国憲変革の天皇機関説」と題した小冊子を刊行
 し、「いやしくも真の日本国民たるものはこの際、死力を尽くして彼等の掃討撲滅に従
 わなければならない」と排撃を扇動しました。
・右派の著述家である宮下亀雄も「問題化せる天皇機関説」を世に出し、実質的に「学問
 の自由」を否定する論陣を張りました。
・政界・財界・軍部に大きな影響力を持つ神道思想家の今泉定助は書籍のなかで「公開の
 席上における美濃部博士のやり方は、明らかに我々国体論者に対する挑戦である」と述
 べた。
・在郷軍人勢力と右翼団体、そして主に神道を中心とする宗教界からも、美濃部と天皇機
 関説に対する激しい非難の嵐が湧き起こると、その攻撃の矛はやがて岡田啓介首相と、
 その内閣を構成する何人かの人物にも向けられるようになりました。
・こうした岡田首相の「窮状」を見て、チャンスだと考えたのが、立憲政友会の総裁を務
 める衆議院議員の鈴木喜三郎でした。
 「天皇があって国家がある。国家があって天皇あるのではありません。政府は、天皇機
 関説を否定しながら、これに対する措置をとっていない。政府は最も厳粛な態度をもっ
 て、ただちに適当な措置をとらねばなりません」
・陸軍パンフレットに対する批判的な感想文を見ると、美濃部は当時の日本軍に対し、否
 定的あるいは非好意的な考えを持っていたかのようにも見えます。しかし、憲法に関す
 る彼の著作を見ると、美濃部は日本軍の存在意義をまったく軽視しておらず、むしろ大
 日本帝国という近代国家の枠組みの中で、きわめて重要な役割を担う「機関のひとつ」
 と見なしていたことがわかります。
・美濃部の陸軍パンフレットへの批判は、そこに見られるような夜郎自大の思考形態や独
 善的な主観への過度な傾倒が、国防という重要な職務に及ぼす悪影響を懸念したもので
 あり、彼はいわゆる「反軍」主義者ではありませんでした。むしろ、そうした主観の肥
 大を抑制し、冷静で合理的な思考形態を保つことが、日本軍の持つ戦闘力や組織力を最
 大限に発揮させる上で不可欠だと理解していました。
・美濃部は当時の軍人がとりわけ重視した「統帥権」についても、明解な論理その意義や
 必要性を書き記していました。
・統帥権とは、大日本帝国憲法の第11条にある「天皇は陸海軍を統帥す」という文言を
 根拠に、陸海軍の統帥は「天皇」のみが行なえ、首相を含む国務大臣はこれに一切口出
 しすることができない、という、軍の特権的な権限解釈を表す言葉です。
・この単純な統帥権の解釈は、のちに日本軍の上層部が、実質的に議会の政治家よりも強
 い政治力を持つという事態を生み出す原因となります。軍が自ら決めて行なう軍事行動
 に対して、ブレーキをかけることができるのは天皇のみである、というふうに規定すれ
 ば、天皇が止めない限り、何をしても軍の自由だ、ということになります。
・けれども、美濃部の憲法学説に基づく「統帥権」の理解は、軍人に全能の「魔法の杖」
 を与えるものではなく、それがなければ有事の際に「軍の戦闘力を最大限有効に発揮で
 きなくなる」という、実務的な必要性を訴えるものでした。
・そして美濃部は、統帥権が及ぶ範囲の限界について、次のように説明しています。
 「統帥大権の及ぶべき範囲は、ただ軍隊を指揮し、その戦闘力を発揮することにのみ留
 まることを原則とする。宣戦講和または出兵を決定する時はもちろん、戒厳を宣告し、
 および陸海軍の編制および常備兵額を定めることも国務に属し、他の一般国務と同じく、
 国務大臣の輔弼によることを必要とする」
・「ロンドン海軍条約の締結」についても、美濃部は「政府の軍縮条約締結は天皇の統帥
 権を干犯するものではないと主張したが、その理論は要するに「外国との軍縮条約の締
 結は、単一の軍事作戦や計画やその実行とは異なり、国家の運営に関してさまざまな分
 野に影響を及ぼすものであるから、海軍軍令部には不満な条件であっても、内閣の総合
 的判断に基づく決定を受け入れるしかない」というものでした。
・美濃部は天皇が「帝国の君主として国家統治権の最高の源泉たる地位に」いることを名
 言しており、 在郷軍人や右翼団体が彼への攻撃で常套句として用いた「国憲紊乱」な
 どの罵倒の言葉は、まったくの誤解でした。
・しかし、憲法に関する美濃部の著書三冊に対し、内務省は発売禁止という厳しい処分を
 下したのです。 
 
「国体明徴運動」と日本礼賛思想の隆盛
・内務省も当初は「問題の本質である天皇機関説の学理的根拠を否定し、天皇機関説その
 ものを排撃することは、内務省の権限である警察行政の範囲を逸脱するのみならず、学
 説そのものの中に行政官庁が関与することになり、理論的にも実際的にも到底不可能」
 という認識を示していました。
・しかし、内務省は、在郷軍人を中心に高まった政府への圧力を無視できなくなり、美濃
 部に対する何らかの「行政処分」を行なう必要に迫られました。
・美濃部の著作に対する発禁と内容修正の処分は、実質的に、日本で30年近くにわたり
 憲法解釈の定説として受け入れられてきた天皇機関説を「異端の禁教」と見なすもので
 あり、ドイツやイタリアと同様の「政府による学説の抹殺」が、日本でも行なわれる事
 態となったことを意味していました。
・新聞や雑誌などのメディアの多くは、在郷軍人や右翼団体などの「反機関説勢力」から
 敵視されることを恐れて、この内務省による発禁処分を正面から批判せずに傍観する態
 度をとり、美濃部を弁護する記事はごくわずかでした。
・美濃部の著作に対する処分は、全国の大学にも大きな影響を巻き起こしました。各大学
 では、政治的な騒動に巻き込まれることを恐れて、憲法講座を中止したり、天皇機関説
 をとらない講師に変更するなどの措置がとられ、美濃部も三つの大学で受け持っていた
 講座を取りやめることとなりました。
・右翼団体の連合体である国体擁護連合会は、天皇機関説問題を単に「美濃部問題」や
 「学説問題」に終わらせるのではなく、これを「日本にはびこる西洋崇拝思想の一掃」
 を目標とする政治運動に高めていこうという、今後の活動方針を示しました。
・天皇崇敬の信念を共有する宗教家と右翼団体、在郷軍人の連合体は、天皇機関説事件を
 きっかけに、西洋思想の排撃という共通の目標を持つ一大政治勢力となり、思想に同調
 する貴族院や衆議院の議員とともに連携しつつ、国の価値観を根本から揺るがす存在へ
 と成長していきました。
・彼らは、自らの国粋主義の運動を「昭和維新」と呼び、美濃部や一木らが日本に持ち込
 んだ「汚れた西洋思想」を一掃して、本来の「日本の国体」を取り戻すことを、自分た
 ちの崇高な使命であると理解していました。
・日本では、天皇機関説事件が発生する以前から、一部の国学者と国粋主義者の間で「
 体明徴
」の意義や必要性を唱える政治運動が起っていました。
・多くの場合、国体とは「日本が他国よりも優れていることを示す、独特の性質」や「日
 本という国の他国とは異なる成り立ちを示す概念」を言い表す語句として用いられまし
 たが、その根拠の中心には常に、天皇という絶対的な崇高な存在がありました。
・社会構造のピラミッドの頂点に天皇とその祖先を「絶対的に神聖な存在」として位置付
 け、天皇を際限なく賛美することによって、そこにつながる日本人全体が優れた民族で
 あるかのように理解する考え方は、国体思想に共通する価値観の基盤、あるいは「思考
 の出発点」でした。
・そのため、西欧で理論的な構築がなされた哲学や近代的な政治理論、思想は、国体の価
 値観から出発したものではないとの理由で、排斥の対象と見なされました。
・1930年代の日本では、国体の理念を政治的な世界観まで高めた「国家神道」と呼ば
 れる政治システムが、実質的に社会を支配していました。
・天皇への絶対的崇拝を土台とする国体思想は、形式的には神道の信仰やしきたりと融合
 しており、実質としては「宗教」の範疇に属するものでした。それを、包括的な政治シ
 ステムとして完成させたのが「国家神道」でした。
戊辰戦争で江戸幕府が倒れて、伊藤博文らを指導者とする明治新政府ができた時、彼ら
 は自分たちが日本全体の統治者としての正当性を著しく欠いていることを自覚していま
 した。明治新政府の要職は、かつての長州藩と薩摩藩の出身者によって独占されていま
 したが、薩長二藩による国政の支配を何の工夫もなく続ければ、やがて他の藩の人々か
 ら不満が噴出することが予想されました。
・そこで、明治新政府は自分たちが「正当な日本全土の統治者」であると権威付けるため、
 天皇という存在に着目しました。
・天皇は本来、日本の歴史においては豊穣祈願などの祭祀を司る存在として、時の権力者
 に庇護され、政治の統治システムに直接関わることは、一部の時代を除いてほとんどあ
 りませんでした。
・伊藤博文らを中心とする明治新政府は、近代国家としての日本をスタートする際、ヨー
 ロッパの君主国を手本にしながら、明治天皇を日本の「民衆の心を捉える全国レベルの
 指導者」として担ぎ出しました。その上で、すべての日本国民に「国の進路を正しい方
 向へと導く、絶対的に偉い存在」として天皇を尊敬するよう求め、自分たちは「崇高な
 天皇を脇で支える僕」であるとの構図を創り出しました。
・明治天皇と大正天皇の時代においては、こうした形式での政治システムは、良くも悪く
 も、ヨーロッパの君主国と同様に機能しました。
・しかし、明治時代の日本人はここで、大きな問題に直面します。自国の君主を「神の子
 孫」と見なすような考え方は、西欧ではすでに「時代遅れの旧弊」として政治システム
 から排除されており、日本では天皇と「立憲主義」を論理的に整合させるための新たな
 工夫が必要になったのです。そこで生み出されたのが天皇機関説の考え方でした。
・この騒動が起こるまでは、社会でも学界でも政界でも、天皇機関説は容認されてきたは
 ずでした。それがなぜ、1930年代に入り、こうした過激で極端な、反西欧的思想を
 含む国体論が、日本国内で大きな力を持つようになったのでしょうか。その背景には、
 当時の日本が直面していた内外の問題が存在していました。
・まず最初に挙げられるのは、国際連盟からの脱退という出来事でした。日本軍が引き起
 こした満州事変とそれに続く満州国の建国は、国際秩序を乱す身勝手な行ないだとして、
 当時の国際的な協議機関であった「国際連盟」で厳しい批判に晒されました。そして、
 日本政府がおの件で譲歩も撤回もしなかったことから、連盟の脱退という苦渋の決断を
 迫られることになりました。一部には「日本は何も悪くないのだから、連盟など脱退し
 て良かった」と強がりを言う人間もいましたが、国際的な仲間外れという明治以来初め
 て経験する現実は、当時の日本人の自信を大きく揺るがすものでした。
・また、第一次大戦とシベリア出兵の後から続く深刻な経済不況や関東大震災、そして西
 欧から流入する新たな政治思想によって、明治政府が創り出した「国家神道」体制への
 疑問や不安、迷いなどが、少しずつ社会に広まることになります。
・天皇機関説への反発と「国体の明徴」を求める意識が高まった背景には、こうした社会
 情勢の混沌と閉塞感、進むべき進路が明瞭さを欠いていたことへの不安や危機感などが
 存在していました。
・1920年から1930年頃までの日本では、それに続く15年間とは比べものになら
 ないほど、軍人の社会的地位が低下していました。娘の結婚相手が軍人だとわかると破
 談にする親がいたり、電車に乗る際に軍人が軍服を脱いで私服に着替えるなど、軍人が
 自分の職業に誇りを持てない状況が、しばらく続きました。
・岡田首相の出した政府声明の内容は、天皇の絶対的な統治大権を明確にした上で、天皇
 機関説はその「国体の本義」を誤解したものだと断定し、天皇機関説は解釈として「正
 しくない」と結論付けるものでした。ただし、学説としての価値を完全に否定するよう
 な文言は、含まれていませんでした。
・1935年8月に、現役や在郷の軍人勢力が、国体明徴といい大義を掲げて天皇機関説
 への攻撃を激化させた背景には、もうひとつ、ある特殊な事情も存在していました。
 以前から、日本陸軍の内部で対立関係にあったふたつの派閥、「皇道派」と「統制派」
 の確執が極限にまで達しており、その構図が事件への対応にも反映していたのです。
・皇道派は、荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将が主な指導者でした。彼らは「天皇主権説」
 を強く信奉する軍人で、政治家や財界などの力を弱めて、天皇が直接的に政治的な指導
 力を発揮する国家体制を理想としていました。
・皇道派に属していたのは、主に部隊付の将校たちで、わかりやすく言えば「非エリート」
 の軍人が主流でした。
・もうひとつの派閥である統制派は、東京の陸軍中枢部に勤務する「エリートコース」の
 将校を数多く含んでおり、陸軍組織の「統制」を重視する立場から、その名前で呼ばれ
 ていました。
・統制派の将校は、日本が将来「総力戦」を戦わざるを得ない立場になった場合、軍だけ
 でなく政界や産業界とも一致協力した体制を作る必要があるとの考えから、政財界との
 緊密な連携を前提とする「高度国防国家」の早期建設を活動の主眼としていました。
・当時の日本の政財界は、皇道派の「暴走」を恐れており、どちらかといえば統制派が陸
 軍の主導権を握ってくれた方が望ましいと考えていました。
・しかし、1934年に荒木の後任として陸軍大臣となった林銑十郎大将が、側近の軍務
 局長に統制派の永田鉄山少将を任命し、陸軍の中枢から皇道派を締め出す動きをとった
 ため、これに反発した皇道派の相沢三郎中佐が、陸軍省の建物内で永田軍務局長を日本
 刀で斬殺するというショッキングな事件を引き起こします。
・相沢中佐が永田少将を殺害した動機のひとつは、林と永田が本人の同意を得ないまま、
 皇道派の尊敬する真崎大将を陸軍教育総監から罷免したことへの報復でした。
・この永田鉄山斬殺事件(相沢事件)は、陸軍組織内に大きな心理的動揺を引き起こしま
 したが、天皇機関説の排撃に熱心だった皇道派の勢力は、国体明徴運動という政治的イ
 ベントを最大限に利用して、天皇主権説の影響力を強め、統制派との派閥争いでも優位
 に立とうとしていました。
・林銑十郎は陸軍大臣を辞任し、後任には真崎と個人的に親しい川嶋義之大将が任命され
 ます。林の辞任の理由は、表向きは相沢事件の責任を取るというものでしたが、陸軍内
 部ではかねてより「林はなぜ岡田首相のあのような声明文を了承したのか」と激しい反
 発が湧き起っており、実質的に信任を失った状態にありました。
・美濃部達吉の貴族院議員辞職によって、半年以上にわたってくり広げられた天皇機関説
 事件は、ようやく鎮火の段階を迎えたかに見えました。しかし、事件の火はまだ消えて
 いませんでした。
・消えかかった火を、再び大きくしたのは、他でもない美濃部の次のような弁明でした。 
 「辞任の提出は私の学説を翻すとか、自分の著書の間違っていたことを認めるという問
 題ではなく、ただ貴族院の今日の空気において、私が議員としての職分を尽くすことが
 甚だ困難になったことを深く感じたために他なりません」
・国体明徴運動を展開する右翼団体や在郷軍人勢力は、この出来事を機に「昭和維新第三
 期戦」とも言うべき、新たな政治的構成を開始することになります。
 
「天皇機関説」の排撃で失われたもの
・美濃部は、貴族院議員を辞任したあと、学術書編纂などに関わりましたが、政界からは
 完全に身を退き、彼の著書と憲法学説は、日本の憲法学の学界から事実上追放されたか
 たちとなりました。
・天皇は「今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることは、
 すこぶる惜しいものだ」鈴木貫太郎侍従長に述べていましたが、事あるごとに「天皇」
 の名を持ち出して「美濃部は不敬だ」「国体への反逆者だ」と口汚く罵倒していた在郷
 軍人や右翼団体の運動家は、そんな天皇の美濃部に対する思いやりなど、まったく想像
 もしていませんでした。
・川島陸軍相と大角海軍相は「機関説に関する書物が今も書店に残っている」「地方には
 今も天皇機関説を講義している中等学校がある」などの事例を挙げた上で、問題はいま
 だ収束していないとして、「さらなる善処」を岡田首相に要求しました。
・軍部が要求する「さらなる善処」とは、具体的にはより明確な「天皇機関説の否定」に
 修正する、第二の政府声明の発表でした。
・ここで問題となったのは、天皇機関説の排撃に加えて、その前提とも言える国家法人説
 をも排撃に対象に含めるのかどうか、という点でした。国家法人説までも否定してしま
 えば、外国との条約締結など、さまざまな面で国政に支障が出ることは確実だと思われ
 ました。そのため、政府はこの点に関しては頑強に抵抗し、軍部の圧力に対しても譲ら
 ない態度をとり続けました。
・この第二次国体明徴声明により、天皇機関説は名実共に、学説としての息の根を止めら
 れたかたちとなりました。そして、この声明は、国家法人説を排撃対象から外すのと引
 き換えに、岡田内閣がなんとか避けようとした「政府が特定の憲法学説に違憲の判定を
 下すようなかたち」、つまり憲法学説の国定という措置を認めるものとなってしまいま
 した。
・しかし、第二次国体明徴声明を機に、連携していた現役軍人と、在郷軍人およびそれに
 つながる右翼団体各派の間に、足並みの乱れが生じ始めます。その背景には、倒閣とい
 う次なる政治目標に対する、両者の認識の違いがありました。
・在郷軍人と右翼団体の目指す最終的なゴールは、彼等の認識で「現下の日本の停滞と混
 迷を招いた元凶」とみなす「重臣グループ」の撃滅と、彼らの考えに近い内閣の樹立で
 した。
・重臣グループとは、明治期から日本の政治を実質的に取り仕切った、天皇と近い西園寺
 公望
牧野伸顕一木喜徳郎などの人脈を指す言葉で、「現状維持派」とも呼ばれてい
 ました。
小林順一郎を中心とする在郷軍人の右翼団体「三六倶楽部」は、大井成元陸軍大将をリ
 ーダーとする22人の集団で岡田首相と面談し、吊し上げのようなかたちでプレッシャ
 ーをかけながら、天皇機関説の明確に否定と首相の辞任を要求しました。しかし岡田首
 相は、従来と同様の返答でなんとか乗り切り、辞任を求める圧力も跳ね返しました。
・川島陸軍相と大角海軍相は、これ以上軍が政治運動に深入りすることは、逆に国民の不
 信感を招く可能性が高いと考え、自らも閣僚を続けるのは、やりすぎだと理解していま
 した。
・つまり、現役軍人と在郷軍人は、ともに軍事のエキスパートでしたが、攻撃停止のタイ
 ミングあるいは「退き際」の見極めに関して、完全に意見が割れていたのです。
・また、現役の陸軍内部においても、依然として皇道派と統制派の対立は続いていました
 が、在郷軍人や右翼団体と同様、重臣グループを敵視する皇道派の軍人は、矛を収めて
 収束する方向に転じた陸軍指導部の方針に不満を募らせていました。
・そんな皇道派軍人の神経をさらに逆撫でしたのは、罷免された真崎甚三郎に代わって教
 育総監に就任した渡辺錠太郎大将の言動でした。
 「機関という言葉が悪いという世論であるが、小生は悪いと断定する必要はないと思う。
  天皇を機関と仰ぎ奉ると思えば、何の不都合もないではないか」
・渡辺錠太郎は、皇道派とは距離を置く態度をとっており、天皇機関説に対しても一定の
 理解を示していました。 
・こうした渡辺の天皇機関説に対する理解は、結果として彼の人生を大きく変えてしまう
 ことになります。この訓示を知った一部の右翼団体は渡辺の殺害を計画し、陸軍内部の
 皇道派も渡辺に強い敵意を抱き始めていました。
・吉祥寺の自宅にいた美濃部を、元教え子と名乗る人物が面会に訪れ、美濃部が機関説に
 ついての自説を変えていないことを知ると、男は、身の危険を感じて戸外に逃げた美濃
 部に、背後からピストルを発砲しました。弾丸は、美濃部の太股を貫通しましたが、命
 に別条はなく、犯人は美濃部邸を警備していた警官に取り押さえられました。男は、小
 田十壮という右翼団体の活動家でした。
・美濃部が暴漢に襲われた5日後の1936年2月26日に東京で新たな大事件が発生し
 ます。皇道派の若手将校とその部下約1500人が、東京の政治の中枢を占拠し、天皇
 新政への体制変更(昭和維新)を求めるクーデター「二・二六事件」を決行したのです。
・彼らが岡田首相を憎んだ理由は、天皇機関説事件の際、美濃部らを弾圧する手法が手ぬ
 るかったというもので、斎藤内大臣は汚職(帝人事件)の疑惑、高橋蔵相は軍事予算の
 緊縮を図っことにより、それぞれ皇軍派軍人の不信と恨みを買っていました。
・決起の将校たちは部下の下士官兵を率いて各地で襲撃を行ない、高橋是清斎藤実
 辺錠太郎
らを次々と惨殺しました。
・自宅で襲われた渡辺の場合、拳銃や小銃ではなく軽機関銃という殺傷力の高い野戦用の
 兵器が使われ、全身に40発以上の弾丸が打ち込まれた事実が、そこに込められた増悪
 の強さを物語っています。
・陸軍相官邸を占拠した将校は、川島義之陸軍相と面会して決起趣意書を読み上げ、「昭
 和維新」に陸軍全体が動いてくれることを要請しました。
・天皇は、一部の陸軍将校が自分の命令もなく、勝手に東京の中心部を支配下に置いた上、
 斎藤や高橋など自分が信頼していた重臣を冷酷に殺したことを知って激怒し、すぐに鎮
 圧せよと命令したのです。 
・拝謁した川島陸軍相が、決起趣意書の内容を読み上げても、天皇は「なぜそんなものを
 読み上げるのか」と、一切聞く耳を持ちませんでした。
・決起将校が「天皇新政」を目標に掲げていたにもかかわらず、その天皇の好意を得られ
 ず、逆に「反乱を起こした逆賊」として討伐の対象となってしまう。この皮肉な展開を
 見た陸軍上層部の皇道派は、もはや決起将校に同情的な態度をとれなくなりました。
・飛行機からまかれたビラとラジオ放送で、自分たちの行動が「天皇にまったく支持され
 ていない」ことを知った将校と下士官は、戦意を喪失して次々と解散し、陸軍同士討ち
 が東京の都心部で起こることは回避されました。 
・二・二六事件は、一般的には北一輝西田税などの国粋主義の理論家から思想的な影響
 を受けた若手将校の「暴発」として説明されることが多いできごとです。けれども、こ
 のクーデター未遂事件は、天皇機関説事件と国体明徴運動につなげる一連の流れに位置
 するもので、当時の日本陸軍という組織が内包していた問題点や歪みを、凄まじい勢い
 で噴出させた現象に他なりませんでした。
・二・二六事件の収束から9日が経過後、精神的ショックから立ち直れない岡田啓介首相
 は、同事件の引責というかたちで内閣総辞職を行ないました。
・西園寺公望は後任の首相として、貴族院議長の近衛文麿を推薦しましたが、近衛が病気
 を理由に辞退したため、一木が推薦した広田弘毅が新たな首相として組閣を行ないまし
 た。
・1930年代後半の日本国内で、大きな思想運動となった国体明徴運動は、日本国民の
 思想を、政府の提示する「正しい道」へと統一することを実質的な目的としていました。
 そこでは、天皇機関説の憲法解釈は完全に否定され、一人一人の人間が生まれながらに
 個人としてそれぞれ固有の存在価値と権利を持つという人権尊重の考え方も「西洋式の
 発想であって日本には馴染まない」として認められませんでした。
・天皇機関説の排撃に熱心だった神道思想家の今泉定助は、天皇機関説の背景には美濃部
 の西欧的な個人主義と自由主義の思想が存在していると指摘して上で、このふたつを
 「日本の国体に合わない思想」だとして全否定していました。
・当時の日本で大々的に行なわれた国体明徴運動には、政府その支持勢力が「神聖かつ崇
 高な国体を惑わす不純思想」と見なした考え方を排除し、その価値を全否定して、国民
 が自由にそれを口にすることもできないような社会にするという、ネガティブな「特定
 思想の弾圧」という側面も存在していました。
・つまり、美濃部と天皇機関説に尋常でないほどの敵意と憎しみを抱いた「排撃派」の目
 に映っていたのは、美濃部達吉という個人や、彼の語る憲法学説だけでなく、その背景
 にある「個人主義と自由主義の思想」でもあったのです。
・美濃部も、天皇機関説事件の前年に、雑誌に寄稿した記事ので、個人主義と自由主義の
 価値について、次のような肯定的な言葉で説明していました。
 「個人主義と言えば、国家の利益や社会の福利を顧慮せず、各個人をして小我的な自利
 を主張することであるとか、あるいは何らかの節制もなく個人のわがままな行動を放任
 することであるとするような傾向があるけれども、正当な意義における個人主義とは、
 各個人の人格を尊重し、個人としての生存の価値を認め、国家および社会の利益と調和
 できる範囲において、個人の精神的および物質的に自由な活動を容認するという主義に
 他ならない」
・美濃部は同じ記事の中で、当時の日本が陥りつつあった「国家主義への過度な傾倒」に
 についても、次のような言葉で警告を発していました。
 「国策としての国家主義は、その最も極端なかたちにおいては、国家を単に戦闘団体と
 してのみ観察し、国防すなわち国家の戦闘力を強くすることが、国家の唯一の目的であ
 るとし、国家のすべての編制および活動について、ひとえにこの目的を達するための手
 段にしようとするところがある。こういう考え方の下においては、国民は単に国家の戦
 闘力を構成する手段に留まる」
・1937年に文部省は、国体とは何かについての政府の公式見解をまとめた「国体の本
 義
」と題された書物を刊行しました。
 「天皇は統治権の主体であらせられるのであって、かの統治権の主体は国家であり、天
 皇はその機関にすぎないという説のごときは、西洋国家学説の無批判的の踏襲という以
 外には何ら根拠はない」
 「帝国憲法の他の規定は、すべてかくのごとき御本質を有せられる天皇御統治の準則で
 ある。なかんずく、その政体法の根本原則は、英国流の君臨すれど統治せずでもなく、
 または君民共治でもなく、三権分立主義でも、法治主義でもなくして、一に天皇の御新
 政である」
・日本は法治主義ではない、という記述は、文部省の刊行物であることを踏まえて現代の
 目で見るとかなりショッキングな内容ですが、これが天皇機関説事件によってこの国に
 もたらされた、最大の問題点でした。
・帝国憲法が、単に「天皇御統治の準則」と位置付けられたことは、天皇機関説の認めら
 れていた時代にあった「立憲主義」の実質的な放棄を意味していました。
・文部省の「国体の本義」が刊行されてから四カ月後の1937年7月、中国の北京近郊
 で盧溝橋事件が発生し、8年にわたる日中戦争が勃発します。
・それから4年後の1941年7月に、文部省は「臣民の道」という新たな国民教育用の
 教材を出版しました。当時日本は、さらに国際的孤立を深めており、日本政府は近い将
 来の「アメリカとの全面戦争」をも視野に入れざるを得ない状況に置かれていました。
・この本は、戦時の心構えを説いて精神的な締めつけを図りつつ、天皇と皇室への献身と
 奉仕こそが日本国民のとるべき「唯一の道」であるとの国体思想を、改めて国民に植え
 付けようとするものでした。
・「臣民の道」の序言には、「欧米文化の流入に伴い、個人主義・自由主義・功利主義・
 唯物主義等の影響を受け、ややもすれば我が古来の国風に悖り、父祖伝来の美風を損な
 うという弊害を免れ得なかった」とあり、ここでも個人主義と自由主義は「国体の本義
 に反する思想」として、否定的に扱われています。
・この「国体の本義」と「臣民の道」に書かれた内容と、美濃部の個人主義と自由主義に
 関する論考を比較すれば、天皇機関説事件が単なる「憲法解釈の齟齬」に留まらない、
 より深い価値観や世界観の対立に根差していたものであったことがわかります。
・天皇機関説事件は1935年10月に一応の収束を見たものの、その政治的・社会的影
 響は、10年後の1945年8月の敗戦まで、さまざまなかたちで尾を言いていたと言
 えます。
・天皇機関説の排撃により、日本における立憲主義は実質的にその機能を停止し、歯止め
 を失った権力の暴走が、日本を新たな戦争へと引きずり込むこととなりました。ただし、
 ここで言う「暴走した権力」とは、昭和天皇の大権のことではありませんでした。
・天皇機関説とそれに続く国体明徴運動によって、軍部の政府における発言力は飛躍的に
 増大し、運部とつながる政治家や在郷軍人などの持つ政治力とも相俟って、この複合体
 がある方向に向って進み始めた時、政府の文民がこれを押し止めることを可能にする制
 度的なブレーキは、残されていませんでした。
・1937年7月に始まった日中戦争の場合、当時の近衛文麿首相も拡大方針に積極的だ
 ったこともあり、必ずしも「軍部の暴走」だけで本格化したわけではありませんでした。
 盧溝橋で起きた小規模な交戦のあと、現地の日中両軍の間では、双方の譲歩に基づく停
 戦協定が結ばれ、盧溝橋付近にいた日本軍部隊はいったい豊台という場所の兵営に撤退
 して、ひとときの平和が訪れていました。
・しかし近衛は同日夜、政財界の有力者と新聞社、通信社の代表を首相官邸に招き、中国
 との対決を支持し、協力してくれるよう要請します。これを受けて新聞各紙は、近衛首
 相の「重大決意」と新たな派兵決定を大々的に報じ、現地で成立した停戦協定の記事は
 片隅に小さく掲載されただけでした。
・その後、「張鼓峰事件」と「ノモンハン事件」というふたつの国境紛争が発生しました
 が、日本陸軍の現地部隊は天皇の裁可を得ないまま、勝手に武力行使を行なったり、モ
 ンゴル内地部にある敵の基地に対する大規模な越境爆撃を行なったりしました。
・しかし、軍部の行動に外部の人間が口を挟むことは「統帥権の干犯に当たる」という、
 実際には正しくない憲法解釈に基づく論法を軍部の人間が濫用したため、軍部の独断的
 な行動が政府や憲法学者によって批判的に検証されることは、事実上皆無でした。
・国体思想は本来、神の子孫で、なおかつ現人神でもある天皇の意向を絶対的に尊重する
「天皇大権至上主義」のはずでした。ところが、実際には天皇の意に沿わないことでも、
「国体」という大義を全面に押し立てれば、軍部を含む政府は自分たちの行動を正当化で
 き、国民にもそれを押し付けることが可能でした。
・こうした国体思想が政治的支配力を持った社会では「国体とは何か、皇国の道とは何か
 を独占的に判断する権限を持ち支配層」の顔色をうかがいながら、その逆鱗に触れない
 ように注意して言葉を発することしか、一般の国民には許されませんでした」
・国体思想と天皇機関説が「共存」できた時代、つまり天皇機関説事件が起きる前の日本
 では、物事を観察したり評価する際、主観と客観の両立が認められていました。けれど
 も、天皇機関説が排撃されたあと、後者の客観が徹底的に排斥され、前者の主観のみが
 社会を実質的に支配するようになりました。
・日本にとって大きな不幸だったのは、そんな「主観だけが極端に肥大した思想的環境」
 の中で、太平洋戦争という大きな戦争を始めたことでした。
・軍隊は医学や科学と同様、徹底した合理的思考が求められる世界です。その軍隊教育の
 中核に、このような主観的な「信仰」あるいは事実上の「宗教」とも言うべき観念論を
 置いていた事実は、太平洋戦争で日本軍がくり返した数々の「非合理的な行動」を生み
 出した背景をも、雄弁に物語っていると言えます。
・当時の軍部は「国体」思想に傾倒するあまり、戦争遂行に不可欠な「合理的な思考」を
 著しく軽視していました。 
・その結果、戦況が悪化しても、軍部が大きな影響力を持つ日本政府は合理的思考で、
 「講和」や「降伏」の選択肢の議論ができず、大勢の軍人と市民が日々命を落としてい
 たにもかかわらず、破滅的な敗戦まで「国体護持のための戦争継続」というただひとつ
 の道しか進むことができませんでした。
・1935年に天皇機関説の排撃が盛んに行なわれていた時、中心的な役割を果たした貴
 族院議員や 在郷軍人、右翼活動家の誰ひとりとして、それからわずか10年後に、日
 本が戦争に破れて独立国としての主権を失うことを予想していませんでした。
・そして、「天皇機関説事件の仕掛け人」とも言える蓑田胸喜が、失意のうちに首を吊っ
て自らの命を絶ったのは、敗戦から五か月後の1946年1月のことでした。

あとがき
・この数年、日本の社会ではいわゆる安保法制の採決(2015年)をめぐる議論など、
 さまざまな場面で「立憲主義」という言葉を多く目にするようになりましたが、この言
 葉も、知識としては知っていても、自分の生活と具体的にどう関わるのか、という身近
 な感覚として捉えることは、今まではあまりなかったと思います。
・けれども、専門家である憲法学者の方々が、80年以上も前の天皇機関説を引き合いに
 出しながら、口々に「日本の立憲主義が脅かされている」と警鐘を鳴らしておられるの
 を見ると、心穏やかな気分ではいられなくなります。
・もちろん、天皇機関説事件が起きた1930年代と現在では、立憲主義の基となる憲法
 の内容そのものが大きく異なっているので、単純な比較はできません。それでも、権力
 者と国民の関係を規定する憲法と、それに基づいてさまざまな社会制度を構築する立憲
 主義が失われた時、国民の将来が大きく変わってしまうことを、1935年に起きたこ
 の事件は、後世の日本人に教えてくれます。
・また、天皇機関説と並行して進められた国体明徴運動でこの国から失われたものとして、
 自由主義や個人主義、政府の方針を批判する言論の自由、報道の自由などを挙げること
 ができます。後世から見れば、こうした変化は数年後に日本という国を破滅に導くこと
 になる重要な転機でしたが、同時代の人々は、そのことに気づいていませんでした。
・天皇機関説事件で、美濃部を攻撃した「機関説排撃派」は、政治と宗教、文化が天皇中
 心に融合した「国体」という概念を振り回し、あたかも宗教上の「異端審問」に近い構
 図で、相手を追い詰めて黙らせる方法をとりました。
・日本人は形式を重んじる傾向が強く、形式的に立派な大義名分を持ち出されると、たと
 え実質に問題があっても、形式の権威に屈服して従う人が多いようです。それは、ある
 種の「真面目さ」でもある反面、付け入る隙という意味での「弱点」でもあります。
・戦前と戦中の日本においては、天皇あるいは「天皇を中心とする国体」は、どんな相手
 をもひれ伏させられる威力を持つ、絶対的な大義名分でした。それゆえ、1930年代
 の初期にはさほど大きな政治力を有していなかった軍人や右翼団体は、天皇や国体とい
 う概念を、自らの発言力を増幅させる「魔法の武器」として使い、対立する相手を次々
 と切り捨てていきました。こうして紛糾がくり返されたあと、最後には実質的に憲法す
 ら超越するような権力を、軍部が独占的に握る状況が創り出されたのです。