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日本社会の特徴は、「家」が社会を構成している基本単位となっていることにある。この
特色は、江戸時代以降から現代社会においても、それほど変わってはいない。そして、
「家」が集まって「世間」を構成し、「世間」が集まって「社会集団」が構成されている。
そして、特徴的なことは、この「家」の中におけるルールが、その「家」を構成する人の
行動、思想、考え方まで及ぶことである。つまり、そこには「個人」が許されないのであ
る。日本社会に「個人主義」思想はなじまないのは、このが起因していると思われる。
さらには、社会を構成する基本単位となっているこの「家」のルールの基本概念は、その
まま「世間」にも適用され、「社会集団」にも適用されいく。
日本の「家」におけるルールの特質は、そのルールが明確でないことだ。またそのルール
は、固定的ではく「家」の権力者によって随時変わっていく。そのため何か行動しようと
するとき、その行動がルールから外れていないか、たえず確認する必要がある。このこと
は「家」だけでなく、「世間」や「社会集団」においても基本的には同じである。
これって昔の話ではないかと思ってしまうが、よく考えてみると、今の社会でも、それほ
ど大きく変わってはいないことに気づく。例えば、地域コミュニティにおいても、学校や
会社などの組織においても、無意識のうちに似たようなことが行われている。明文化され
た規則や規定があっても、普段はあまり顧みられることがなく、その場の「空気」がもの
ごとの決定を大きく左右することが多い。
そして、この「空気」はその集団内の人と人との上下関係によって支配されていく。つま
り、下の者は上の者の意向に沿った内容のことしか発言できず、上の者の意向に背くよう
な発言をすることはむずかしい。このため、この「空気」というものは、上の者の意向に
添ったものとなる。
さらには、この集団内における「空気」というものは常に変化していく。そのため常にこ
の集団に密接にかかわっていないと、この「空気」の変化に気づくことができない。結果
として、個人は特定の集団に強く縛られることになる。これが日本社会の特徴である集団
至上主義へとつながっていくのである。
その一方、日本社会では明治維新以降、早急に近代化を推し進めるために、それまであっ
た士農工商という身分制度を撤廃し平等主義を取り入れた。この平等主義は、すべての人
は潜在的には同じような能力を持っているという能力平等主義でもあった。努力すればだ
れでも出世できるという希望を抱かせる一方で、同じ集団内での上下関係を争う出世競争
の激化をまねくことにもなった。何かチャンスだと見なされれば、一斉にみんな同じもの
に群がる日本人の行動は、このことが底流にあるからだと思われる。
日本社会では、同じ集団内での競争が激しいため、それだけに終始して疲弊するため、自
分の集団の外に目を向ける余裕はなかなか生じない。これが日本人特有の封鎖性を生み出
している。
このような社会の中で暮らす我々日本人は、それが当たり前であり、他の国々でも同じよ
うなものだろうという認識があるが、実は、この日本社会の特質は、国際的に見るとかな
り特異なものらしい。西欧の国々はもちろんのこと、アジアの国々においても、日本社会
は他の国々の社会とはかなり違っているということだ。
日本社会は一言でいうと「相対基準社会」だ。絶対的な基準というものはなく、他との比
較が基準となっている社会なのだ。これに対して、西欧社会は「絶対規準社会」であると
言えるだろう。必ず絶対的な基準があり、それに照らし合わせて物ごとの良し悪しを決め
るのだ。このことは宗教を見ればはっきりわかる。西欧社会においては、キリスト教とか
イスラム教などのように絶対的な規準となるものがある。しかし、日本社会においては、
八百万神に象徴されるように、そのような宗教は存在しない。
このことを、しっかり認識しておかないと、日本は国際社会において、いままでも、そし
てこれからも、「ガラパゴス」状態を続ける運命にあるというこのだろう。

序論
・日本の大企業や官庁というのは、西欧のそれとまったく同じ組織をもっているにもかか
 わらず、その人々が何かを決定しようとする場合、その会議の議論の進め方、お互いの、
 また外部の人との折衝にあり方などは、まったく日本的なやり方がとられているのであ
 る。これを同様な近代的仕事に従事しているイギリス人の会議や折衝のあり方と比較す
 ると、その議論のテーマ、内容において同様であっても、その仕方、運び方においては
 非常に異なり、むしろ、それは、かつての日本の農村の寄り合いにおけるものと軌を一
 にしているのである。
・イギリスにいけば、日本と同じように彼らは、うまくいかない時には「イギリスはご存
 じのように封建的でね。こういうことがなかなかうまくいかないんですよ」とか、「や
 っぱり人を知っているのと、知らないのとでは、うまくやる場合にはたいへんな違いな
 んですよ」などというのである。その局面・内容は違っても、フランスでもイタリアで
 も、イギリスにまさるともおとらない、近代化の理想に抵抗をもつさまざまな問を抱え
 ているのである。このような、命に見えない分野におけるさまざまな問題のあり方は、
 西欧諸国の問題においてさえ、相当な違いが見られるのである。
・経済的に工業化したからといって、日本人の考え方、人間関係のあり方がすべて西欧の
 それに変わる、あるいは近づくと考えるのは、あまりに単純すぎはしないだろうか。
 あらゆる近代組織の中で働いている日本人が、いかに「西欧」諸国のそれと異なってい
 るか、そして日本人として、本質的に少なくとも明治以来あまり変わっていないという
 事実は、こうした単純な考え方に反省を促さざるをえないのである。
・大切なことは、単に変わるということではなく、経済的・政治的な変動・変化を通じて、
 どのような部分に変化がみられ、どのような部分が変わらないかということ。そして、
 その変化と、変化しないものが、日本の社会の中で、どのように矛盾と感じられずに綜
 合されていっているかということである。  
・社会人類学においては、この基本原理はつねに個人と個人、個人と集団、また個人から
 なる集団と集団の関係を基盤として求められる。この関係というものは、社会(あるい
 は文化)を構成する諸要素の中で最も変わりにくい部分であり、また経験的にもそうし
 たことが立証されるのである。
・日本社会について簡単な例をあげると、明治以来、特に戦後飛躍的に、日本人の生活形
 態−衣食住に現れるように−は変わっていている。来日する外国人を驚嘆させるほど西
 欧的な様式をぐんぐん取り入れて。目に見える文化という点では、日常の人々の付き合
 いとか、人と人とのやりとりの仕方においては、基本的な面ではほとんど変わっていな
 いことが指摘できる。
・学生の先生に対する、または父親に対する子どものマナーとか、儀礼的なやりとりが簡
 略になってきたとか、敬語が乱れてきたとか、戦後の社会生活における変化がいろいろ
 指摘されようが、その変化の代表選手のようにみなされている若い人たち、例えば、学
 生の間では、今でも上級生、下級生の根強い区別があり、その他の分やにおいても、同
 一集団内における上下関係の意識はあらゆる面に顔を出している。
・こうした一見、外部からは目に見えないような、しかも、個人の生活にとって最も重要
 な人間関係のあり方こそが、社会人類学でいう人間関係の主要な部分−すなわち変わり
 にくい部分−なのである。 
・変化というものは、どんな時代の、またどの社会をとってみても、白紙の状態に起こる
 ものではなく、一定の歴史的な存在の上にのみ起こりうるものであって、それを完全に
 否定した、あるいは、それから離れた大変化というものはない。もしあるとすれば、き
 わめてスケールの小さい小人口からなる未開社会が、圧倒的な経済力と政治権力をもっ
 た外からの社会に呑流されるような場合だけであろう。 
・「ソーシャル・ストラクチュア」の持続性・固執性の度合いは、その社会の歴史が古い
 ほど、またその社会の人口が大量で密度が高いほど強いものである。これは社会がそれ
 自体高度に統合されており、社会としての質が高く厚いために、いっそう根強い力を持
 つものである。近代化に伴うすべての変化現象も、これを前提として考えるべきである。

「場」による集団の特性
・ここで資格とよぶものは、普通使われている意味より、ずっと広く、社会的個人の一定
 の属性をあらわすものである。例えば、氏・素性といったように、生まれながらに個人
 にそなわっている属性もあれば、学歴・地位・職業などのように、生後個人が獲得した
 ものもある。 
・「場による」というのは、一定の地域とか、所属機関などのように、資格の相違をとわ
 ず、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合をさす。
・どの社会においても、個人は資格と場による社会集団、あるいは社会層に属している。
 この両者がまったく一致して一つの社会集団を構成する場合はなきにもあらずであるが、
 たいてい両者は交錯して各々ふたつの異なる集団を構成している。
・社会の構造において、最も極端な対照を示しているは、日本とインドの社会だろう。す
 なわち、日本人の集団意識は非常に場におかれており、インドでは反対に資格(最も象
 徴的にあらわれているのはカースト制度である)におかれている。日本とインドほど理
 論的アンチテーゼを示す社会の例は、ちょっと世界中にないように思われる。この意味
 では中国やヨーロッパの諸社会などは、いずれも、これほど極端なものではない。
・はっきり言えることは、場、すなわち会社とか大学とかいう枠が、社会的に集団構成、
 集団意識に大きな役割を持っているということであって、個人のもつ資格自体は第二の
 問題となってくるということである。この集団意識のあり方は、日本人が自分の属する
 職場、会社とか官庁、学校などを「ウチ」、相手のそれを「オタクの」などという表現
 を使うことにもあらわれている。 
・「会社」は、個人が一定の契約関係を結んでいる企業体であるという、自己にとって客
 体としての認識ではなく、私の、またわれわれの会社であって、主体化して認識されて
 いる。そして多くの場合、それは自己の社会的存在のすべてであり、全生命のよりどこ
 ろというようなエモーショナルな要素が濃厚に入ってくる。   
・日本社会に根強く潜在する特殊な集団意識のあり方は、伝統的な、そして日本の社会の
 津々浦々まで浸透している敷衍的な「イエ」(家)の概念に明確に代表されている。
 「家」については、従来法学者や社会学者によって「家制度」の名のもとにずいぶん論
 ぜられてきた。そして近代化に伴って、特に新憲法によって「家」がなくなったと信じ
 られている。こうした立場は「家」というものを、特に封建的な道徳規範などと結びつ
 けたイデオロギー的見地から論じたものであって、その社会的集団としての本質的構造
 については必ずしも十分考察されていない。
・「家」を構成する最も基本的な要素は、家をつんだ長男の夫婦が老夫婦とともに居住す
 るという形式、あるいは家長権の存在云々という権力構造ではなく、「家」というもの
 は、生活共同体であり、農業の場合などをとれば経済体であって、それを構成する「家
 成員」(多くの場合、家長の家族成員からなるが、家族成員以外の者も含みうる)によ
 ってできている。明確な社会集団の単位であるということである。すなわち、居住(共
 同生活)あるいは(そして)経営体という枠の設定によって構成される社会集団の一つ
 である。
・ここで重要なことは、この「家」集団内における人間関係というのが、他のあらゆる人
 間関係に優先して、認識されているということである。すなわち、他家に嫁いだ血を分
 けた自分の娘、姉妹たちより、よそから入ってきた妻、嫁というものが比較にならない
 ほどの重要性を持ち、同じ兄弟ですら、いったん別の家を構えた場合、他家の者という
 認識を持ち、一方、まったく他人であった養子は、「家の者」として自己にとって、他
 家の兄弟よりも重要な者となる。兄弟姉妹関係の強い機能が死ぬまで強く続くインドの
 社会などに比べると、驚くほど違っている。
・「家」の構造を明確にあらわしているこの枠による機能集団構成原理というものは、理
 論的に当然資格を異にする構成員を含む可能性を持ち、またそれが現実的に普通に見ら
 れるのである。まったく血のつながりのない他人を後継者、相続者として迎えるばかり
 でなく、奉公人や番頭が「家」成員を堂々と構成し、家長の家族構成員同様の取り扱い
 を受ける場合が非常に多かったのである。番頭を娘の夫として(婿養子として)家を継
 がせるなど、まったくこうした考え方を前提としなければできないことである。
・日本における社会集団構成の原理は、このように、「家」に集約的にみられ、日本の全
 人口(少なくとも江戸中期以降いかなる農村においても)に、共通して「家」がみられ
 ることは、日本の社会構造の特色として、枠設定による集団構成というものが捉えられ
 るのである。 
・「家」よりも大きい集団としては、中世的な「一族郎党」によって表現される集団があ
 る。すなわち、一族(同じ血統、あるいは家系につながる者)と郎党に分けるのではな
 く、一族・郎党一丸となって一つの社会集団を構成しているのである。そしてその間に
 しばしば婚姻も結ばれ、現実的にも、その差は不明確なほど両者は密着している。
・さらに、こうした「家」「一族郎党」を構成した人々は、近代社会にはいると「国鉄一
 家」的集団を構成する。組合は、職員・労働者ともに包含し、労使協調が叫ばれる。家
 制度が崩壊したといわれる今日なお、「家族ぐるみ」などといわれるように、個人は常
 に家族の一員として、また、従業員の家族は従業員とともに一単位として認識される傾
 向が強い。
・同質性を有せざる者が場によって集団を構成する場合は、その原初形態は単なる群れで
 あり、寄り合い世帯で、それ自体社会集団構成の要件を持たないものである。これが社
 会集団となるためには、強力な恒久的な枠−例えば居住あるいは経済的要素による「家」
 とか「部落」とか、企業組織・官僚組織などという外的条件−を必要とする。
・この枠をいっそう強化させ、集団としての機能をより強くするために、理論的にもまた
 経験的にも二つの方法がある。一つはこの枠内の成員に一体感を持たせる働きかけであ
 り、もう一つは集団内の個々人を結ぶ内部組織を生成させ、それを強化することである。
・資格の異なる者に同一集団成員としての認識、そしてその妥当性を持たせる方法として
 は、外部に対して、「われわれ」というグループ意識の強調で、それは外にある同様の
 グループに対する対抗意識である。そして内部的には「同じグループ成員」という情的
 な結びつきを持つことである。資格の差別は理性的なものであるから、それを越えるた
 めに感情的なアプローチが行われる。 
・この感情的アプローチの招来するものは、たえざる人間接触であり、これは往々にして
 パーソナルなあらゆる分野(公私とわず)に人間関係が侵入してくる可能性を持ってい
 る。
・したがって、個人の行動ばかりでなく、思想、考え方まで、集団の力が入り込んでくる。
 こうなると、どこまでが社会生活(公の)で、どこからが私生活なのが区別がつかなく
 なるという事態さえ、往々にして出てくるのである。これを個人の尊厳を侵す危険性と
 して受け取る者もある一方、徹底した仲間意識に安定感を持つ者もある。要は後者のほ
 うが強いということであろう。
・日本では嫁姑の問題は「家」の中のみで解決されなければならず、いびられた嫁は自分
 の親兄弟、親類、近隣の人々から援助を受けることなく、孤軍奮闘しなければならない。
 インドの農村では、長期間の里帰りが可能であるばかりでなく、常に兄弟が訪問してく
 れ、何かと援助を受けるし、嫁姑の喧嘩はまったく華々しく大声でやり合い、隣近所に
 まで聞こえるので、それを聞いて、近隣の嫁や姑が応援に来てくれる。他村から嫁入り
 して来た嫁さん同士の助け合いはまったく日本の女性にとっては想像もつかないもので
 羨ましいものである。
・夫唱婦随とか夫婦一体という道徳的理想はあくまで日本的なものであり、集団の一体感
 の強調のよいあらわれである。従来のいわよる家制度の特色とされたような日本の家長
 権というものは、家成員の行動、思想、考え方にまで及ぶという点で、インドの家長権
 より、はるかに強力な力を発揮しうる性質のものであったといえよう。近代化に伴って、
 特に戦後、「家」制度というものが封建的な悪徳とされ、近代化をはばむものであった
 と考えられている根底には、こうした家長権の無限な浸透による悪用があったことが指
 摘できるのである。
・しかし、ここで付け加えておきたいことは、実際は家長個人の権力と考えられがちであ
 ったが、実は「家」という社会集団のグループとしての結束力が成員個々人を心身とも
 にしばりつけていたといえることである。
・インドの家族制度というものが、その社会の近代化にあって、経済的、道徳的に個人に
 邪魔することはあっても、個人の思想とか考え方についてはまったく開放的であるため
 か、日本人が、伝統的ないわゆる「家」制度というものを目のかたきのようにしている
 のに対し、インドの家制度は、インド人にとって悪徳でもなく、仇にもなっていないの
 である。
・日本に長く留学していたインド人が、「日本人はなぜちょっとしたことをするのにも、
 いちいち人に相談したり、寄り合いって決めなければならないのだろう。インドでは、
 家族成員としては必ず明確な規則があって、自分が何かしようとするときには、その規
 則に照らしてみれば一目瞭然にわかっていることであって、何も家長やその成員に相談
 する必要はない、その規則以外のことは個人の自由にできることであり、どうしてもそ
 の規則にもとるような場合だけしかそうだんすることはないのに」と不思議そうにたず
 ねたことがある。
・日本の「家」にあらわれている集団としての特色は、また大企業を社会集団としてみた
 場合にもみられるのである。すなわち、終身雇用制によって、仕事を中心とした従業員
 による封建的な社会集団が構成されるばかりでなく、社宅生活、従業員家族慰安会、結
 婚・出産その他の慶祝金・弔慰金の制度などをみてもわかるように、従業員の私生活、
 すなわち、家族にまで会社の機能が及んでいる。そして、興味あることは、この方向は、
 最も先端をゆく大企業ほど、また、近代的とか先進的とかいわれる経営にきわめて顕著
 にみられることである。
・明治以来、現在にいたるまで、日本の経営管理に一貫してみられるのは、いわゆる「企
 業は人なり」の立場で、経営者と従業員は仕事を媒介して契約関係を結ぶというより、
 よく経営者の言葉にあらわれているように、経営者と従業員とは「縁あって結ばれた仲」
 であり、それは夫婦関係にも匹敵する人と人の結びつきと解されている。
・従業員は家族の一員である、「丸抱え」という表現にもあるように、仕事ではなく人を
 抱えるのであるから、当然その付属物である従業員の家族がはいってくる。したがって
 日本の企業の社会集団としての特色は、それ自体が「家族的」であることと、従業員の
 私生活まで及ぶという2点にある。 
・近代的とは先進的とかいわれる経営では、「愛社精神」を真正面から吹き込むというよ
 りは、「愛社心が旺盛であるかどうかは事務管理のバロメーターである」というように、
 経営方針の結果として、それを望むのであるらしいが、「社を愛せよ」というのと、
 「愛社精神くたばれ」などと、反対ともみえる異なる表現を使ったりするだけで、その
 意図するところは結局従業員の全面的(全人格的)はエモーショナルな参加にあること
 は疑う余地のないところである。
・農村の封鎖性ということはしばしば言われてきたのだが、都会における企業体を社会集
 団としてみると、基本的な人間関係のあり方、集団の質が非常に似ていることが指摘で
 きるのである。農村自体についても他の社会の農村のあり方に比べて、日本農村の部落
 の孤立性、部落が集団として、個々の成員を束縛する度合いが非常に強いことが指摘で
 きるのである。
・エモーショナルな全面的個々人の集団参加を基盤として強調され、また強要される集団
 の一体感というものは、それ自体閉ざされた世界を形成し、強い孤立性を結果するもの
 である。ここに必然的に、家風とか社風とかいうものが醸成される。そして、これまた、
 集団結束、一体感をもり立てる旗印となって強調され、いっそう集団化が促進される。
・一体感によって養成される枠の強固さ、集団の孤立性は、同時に、枠の外にある同一資
 格者の間溝をつくり、一方、枠の中にある資格の異なる者の間の距離を縮め、資格によ
 る同類集団の機能を麻痺させる役割をなす。すなわち、こうした社会組織にいあっては、
 社会に安定性があればあるほど同類意識は希薄となり、一方「ウチの者」「ヨソの者」
 の差別意識が正面に打ち出される。 
・「ウチ」「ヨソ」の意識が強く、この感覚が先鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以
 外は人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同
 じ会社にみられるようになる。知らない人だったら、つきとばして席を獲得したその同
 じ人が、親しい知人(特に職場で自分より上の)に対しては、自分がどんなに疲れてい
 ても席を譲るといった滑稽な姿がみられるのである。
・実際、日本人は仲間と一緒にグループでいるとき、他の人々に対して実に冷たい態度を
 とる。相手が自分たちより劣勢であると思われる場合には、特にそれが優越感に似たも
 のとなり「ヨソ者」に対する非礼が大っぴらになるのが常である。この態度が慣習的と
 なって極端にあたわれる例は、離島といわれる島の人々や、山間僻地に住む人々などに
 往々にして示される、冷たさや疎外の態度である。自分たちの世界以外の者に対しては、
 敵意に似た冷たささえもつのである。  
・どこの社会にも、もちろん「私たち」という特別の親愛関係、同類意識をあらわす社会
 的概念がある。しかし、それは「私たち」の内容を説明する必要性のあるときに使われ
 るものであり、他人から自分たちを故意に区別したり、排他性を誇示するために使われ
 るものではない。むしろ排他性を出すのを極力避けようとするマナーすら発達している
 社会も少なくない。
・日本人による「ウチ」に認識概念は、「ヨソ者」なしに「ウチの者」だけで何でもやっ
 ていける、というきわめて自己中心的な、自己完結的な見方にたっている。
・日本社会は、全体的にみて非常に単一性が強い上に、集団が場によってできているので、
 枠を常にはっきりしておかなければ−集団成員が自分たちに常に他とは違うんだという
 ことを強調しなければ−他との区別がなくなりやすい。そのために、日本のグループは
 知らず知らず強い「ウチの者」「ヨソ者」意識を強めることになってしまう。 
・外国滞在の経験を持つ者なら誰でも思い起こすことができよう。日本人同士が偶然外国
 で居合わせたときに起こる、「冷たさ」を通り越した「いがみ合い」に似たあの「敵意」
 に満ちたような視線のやりとりは、まったくお互いにやりきれないことだ。知らない人
 はすべて「ヨソの者」で、「ヨソ者」とは知的にも情的にも交流した経験のない不安定
 さが、自分をいらだたせ、それが異人種の中で生活する孤独さの中で、突然言葉の通ず
 る同類を発見したという驚きと混合して、その自己の弱みをカバーするためにつくられ
 て虚勢ではないかと思われるのである。この例によって浮き彫りされた日本人の姿とい
 うものは、俗的に表現すれば、「社交性の欠如」に尽くされる。
・社交性の欠如は、こうした社会全体の仕組み、基本的な人間関係のあり方につながるの
 であるが、特に強調したいのは、枠による集団の構成のあり方からは、およそ社交性と
 いうものを育てる場がないということである。すなわち、社交性とは、いろいろ異なる
 個々人に接した場合、如才なく振る舞いうることであるが、一体感を目標としている集
 団内部にあっては、個人は同じ鋳型にはめられているようなもので、好むと好まざると
 にかかわらず積極を余儀なくさせられ、個人は、集団の目的・意図に、よりかなってい
 れば社会的安定性が得られるのであり、仲間は知り尽くしているのであり、社交などと
 いうものの機能的存在価値はあまりないのである。同様に「他流試合」の楽しさとか、
 きびしさもなく一生終わってしまうというおおぜいの人間が生産される。個性とか個人
 とかいうものは埋没されないまでも、少なくとも、発展する可能性はきわめて低くなっ
 ている。 
・このようにして生産され、教育される人間関係の特色は、地域性が強く、直接接触的で
 あるということである。地域性が強いということは、その集団ごとに特殊性が強いとい
 うことと、一定の集団構成成員の生活圏がせまく、その集団内に限定される傾向が強い
 ということである。感覚としては「田舎っぺ」という表現がよく当てはまる。すなわち、
 自分たちの世界以外のことをあまり知らない、あるいは、他の世界の存在をあまり知ら
 ず、それになれていないということである。 
・この地域性はあらゆる分野に共通してみられる。派閥集団を形成している政治家は、自
 分たちだけで他の派閥内のことがよくわからず、政治記者が他の派閥の情報提供者であ
 ったりする。学者や知識人はグループを常に構成し、その中で独得な発想法や用語を使
 用して、第三者は他のグループとは同じ分野の専門でありながら、さっぱり遺志が疎通
 せず、ディスカッションが不可能だったりする。同じ日本人でもよくわからないのであ
 るから、国際性のないことはおびただしい。
・ローカルであるということは、直接接触的であるということと必然的に結びついている。
 集団構成員の異質性からくる不安定さを克服するために、集団意識と常に高揚しなけれ
 ばならない。そしてそれは多分に情的に訴えられるものであるから、人と人との直接接
 触を必要とし、また、その炎を絶やさないためには、その接触を維持しなければならな
 い。
・事実、日本社会における、人間関係の機能の強弱は、実際の接触の長さ、激しさに比例
 しがちである。そしてこの要素こそが、往々にして、集団における個人の位置づけを決
 定する重要な要因となっているのである。日本のいかなる社会集団にあっても、「新入
 り」がそのヒエラルキーの最下層に位置づけられているのは、この接触の期間が最も短
 いためである。年功序列の温床もここにある。
・日本のどのような分野における社会集団においても、入団してからの年数というものが、
 その集団内における個人の位置・発言権・権力行使に大きく影響しているのが常である。
 いいかれば、個人の集団成員との実際の接触の長さ自体が個人の社会的資質となってい
 るのである。しかし、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAか
 らBに変わるというのは、個人にとって非常な損失となる。
・日本人の転職による移動性の少なうことは、よく「集団主義」とか、会社に対する「忠
 誠心」などによって説明されたりするが、それはむしろ日本人個々人を取り巻く社会的
 条件に対して、個々人の選択の結果生まれた現象とみるべきで、日本人が他の国の人々
 より、生来そのような性向を顕著に持っている特殊民族だなどと考えるのは当をえてい
 ない。個人が同一の会社にとどまるのは、会社に対する忠誠心などというものよりも、
 社会的損失が、転職した場合、個人にとっていかに大きなものであるかを察知すること
 ができるからである。
・近年増加したといわれる転職のケースをみると、その大部分は入社してまもない、例え
 ば2〜3年内の若年層に集中している。彼らの場合は、また社会的資本の蓄積が低く、
 転職による損失が少ないためである。また、転職のケースが中小企業の従業員により多
 くみられるのは、経済的・社会的安定度が大企業の場合より低いために、個人にとって
 相対的に社会的資本蓄積の価値が低くなるからである。
・たとえ、個人がAの会社からBの会社に移り、地位・給料がずっとよくなった場合でも、
 その好条件をうわまわるほどの社会的損失を覚悟しなければならない。例えば、B社の
 新しい職場において、部下との間がうまくいかなかったり、同僚から浮き上がってしま
 い、仕事がしにくくなるというような、日本人として耐えられないような不快感を味わ
 わされることなどである。これは、彼をとりまくB社側の同僚のほとんどがすでに就職
 以来長年そこにいて、社会的資本を蓄積しているのに対して、彼はゼロから出発しなけ
 ればならないというハンディキャップを負わされているからである。否、ゼロというよ
 りはマイナスの立場に立たされる。
・それは、集団所属というものが、直接接触の単なる長矩によって形成されるのではなく、
 社会人としての個人の一生のうち、きわめて早い時期に形成され、定着するものである
 からである。それは、最初の就職から約5年内外で、その時期の直接接触を通して形成
 される人間関係が、集団所属に決定的な意味を持つということができる。
・したがって、この時期を共有しなかった人々の中で、同じような安定した人間関係を持
 つということは、個人にとってきわめて難しい。
・日本社会においては、個人の集団帰属はその期間の絶対の長さに比例するのではなく、
 個人の就職歴における特定の期間が意味を持つという限定条件があるのである。しがが
 って、こうした強い社会学的志向のなかにあって、転職を容易にしうる条件はきわめて
 限られてくる。
・直接接触の機能は、その期間の長短ならびに時期とともに、その現実的な持続性が問題
 となる。友人・知人・親類といった人たちとの間でも、ある時期ゆききしなかったり、
 音信の交換がないと疎遠になることが多い。一定の親しい人々に「ご無沙汰する」とい
 うことは、相手の期待を裏切り、たいへん失礼なこととされている。
・日本人の場合、同じ集団に属していてさえも、物理的に遠隔の場にたつということはマ
 イナスを招くことが多い。今まで東京に仕事の場を持っていた者にとって、東京を離れ
 るということは、地理的に東京を離れるということのみでなく、仲間から社会的に遠く
 なるという悲哀を持つものである。「去る者は日々に疎し」とは、まったく日本的な人
 間関係を象徴しており、「水盃」の持つ悲壮感はここから生まれる。社会生活をする個
 人にとって頼りになる者は、同じ仕事の仲間であり、日々実際に接触している人々であ
 る。
・このような日本人の集団参加のあり方に対して、資格において集団が構成されている場
 合は、個人の生活の場とか、仕事の場のいかんにかかわらず、空間的・時間的な距離を
 越えて、集団は寝ネットワークによって保持される可能性を持っている。外国に滞在し
 ているインド人・中国人・ヨーロッパ人たちが現地において、ゆうゆうとして仕事をし、
 落ち着いた生活をしているのは、実にこのネットワークの存在にあるのである。
・日本人の場合、このネットワークが往々にして弱く、頼りにならないのである。この事
 実は、あらゆる分野において、いったん自分の集団を離れ、再び帰ってきた者たちが身
 に染みて味わされる悲劇に遺憾なく発揮されている。農村の場合も例外ではない。日本
 では、いったん自分の村を離れ、他の地に長く滞在した者にとって、再び村人になると
 いうことに非常な社会的抵抗がある。自分の父が生存していればまだいいが、兄弟・甥
 の代になってしまっている故郷の家というものは、寂しいものである。
・日本社会では個人の生活が、集団から地理的に離れて、毎日顔をみせることができない
 ような状態におかれると、集団から疎外される結果を招きやすいが、反対に、地理的に
 接近し、顔を合わせるチャンスが多いと、否応なしに集団の中に組み入れやすく、いっ
 たんそうなると、集団成員として、他の社会のそれにみられないほど個人は束縛される。
・注目すべきことは、こうした日本人コミュニティというものが、現地の社会からひどく
 浮き上がっていることである。これは決して、日本人が外国語が下手だからというよう
 な単純な理由からではなく、日本人の社会集団のあり方が、他の社会のそれと、構造的
 に異質なものであるからと思われる。   
・この異質性の大きな原因となっているものは、日本人の社会集団というものが、個人に
 全面的参加を要求しるということである。事実、日本人コミュニティの成員としても百
 パーセント認められ、一方、現地の外国人たちと密接な社会関係(友人関係)を持ち続
 けるということは、日本人にとってはたいへん難しいことである。多くの場合、現地の
 人々と親しく交わる日本人は、日本人コミュニティから遠ざかったり、脱落したちして
 いる。
・こうした現象は、何もこのような外国にあるという特殊条件をとらなくても、日本社会
 においても、二つ以上の集団に同様なウエイトをもって属するということは非常に困難
 である。もちろん個人として二つ以上の集団に属しているのが普通であるが、重要なこ
 とは、必ずしもそのいずれか一つ優先的に属しているものが明確にあり、あとは第二義
 的な所属で、また、自他ともにそれが明瞭になっているということである。
・この第二義的な所属は、第一の所属と質的に異なるものである。例えば、第一所属がダ
 メになった場合は、個人にとって致命的であり、その場合、第二所属をもっていてもほ
 とんど大して役にたちえないのが普通である。したがって、構造的には集団所属はただ
 一つということになる。  
・こうした日本人的一方所属というのは、世界でもまことに珍しい。イギリス人も、イタ
 リア人もみな、複線所属である。彼らにしてみれば、一本(単一に関係)しか持たない
 などということは、保身術としては最低であるというわけである。
・日本人の単一主義は、日本人の潔癖性などというものをとりあげて、相関関係を論ずる
 などという単純な見方よりも、場による集団構成ということから考察するほうが、はる
 かに興味深く思われる。なぜなら、場によって個人が所属するとなると、現実的に個人
 は一つの集団にしか所属できないことになる。その場を離れれば、同時に、その集団外
 に出てしまうわけであり、個人は同時に二つ以上の場に自己をおくことは不可能である。
・これに対して、資格によれば、個人はいくつかの資格をもっているわけであるから、そ
 れぞれの資格によって、いろいろな集団に交錯して所属することが可能である。

「タテ」組織による序列の発達
・集団が小集団であれば、特に個々の成員を結ぶ特定の組織といったものは必要ではない
 が、集団が大きい場合、あるいは大きくなった場合、個々の構成員をしっかり結びつけ
 る一定の組織が必要であり、また、力学的にも必然的に組織ができるものである。この
 組織がまたおもしろいことには、日本のあらゆる社会集団に共通した構造がみられるこ
 とである。これを便宜的に「タテ」の組織と呼ぶ。
・理論的に人間関係をその結びつき方の形式によって分けると、「タテ」と「ヨコ」の関
 係となる。例えば、「タテ」は「親子」関係であり、「ヨコ」は「兄弟姉妹」関係であ
 る。また、上役・部下の関係に対する同僚関係も同様である。社会組織のおいては、両
 者いずれも重要な関係設定要因であるが、社会によって、そのどちらかがより機能を持
 つもの、また両者とも同様の機能を持つものがある。
・かつての軍隊では、同じ将校といえども位官の違いによる差別は、驚くほど大きく、さ
 らに同じ少尉であっても任官の順によって明確な序列ができていたという。同じく外交
 官といえども、たとえば一等書記官と二等書記官の差は素人では想像できないほど大き
 く、さらに同期であるとか、先輩・後輩の序列がある。
・会社によっては、同年に入った者たちが、「同期生の会」というのをしばしばつくって
 いる。これはいっそう社内における先輩・後輩の序列をはっきりさせる役割を持ち、年
 功序列をますます助長させる結果となっている。同期生の一人が抜擢されると、同期の
 者すべて「あいつがなるんだったら、われわれだって」という気持ちに駆り立てられ、
 大騒ぎになる。もちろん、自分より後輩が自分を飛び越えたりしたら、たいへんなこと
 になる。この驚くべき序列意識に対しては、会社側はたとえ近代的管理法といわれる能
 力主義を打ち出したとしても、たじたじとならざるをえない。    
・そこで、経営者側は、例えば同期の何人かを、ズルズルと、あまり差をつけず昇進させ
 るというところに追い込まれる。課長は一人しかないのだから、課長代理、補佐とか、
 いろいろ不必要な細かい序列をつくって何とか処理する以外になくなる。
・比較的歴史のある大企業ほど、社会集団として安定性と密度が高いため、いっそうこの
 序列の力というものが強いといえよう。言い換えれば、中小企業や新しい企業ほど、年
 功序列賃金から能力給への転換がやりやすいといえよう。
・年功序列制は、いうまでもなく終身雇用制と密接な関係に立つもので、戦争中の非常時
 体制という特殊条件のもとにいっそう助長され、さらに戦後の組合運動(首切り反対)
 によって、いやが上にも徹底した形に発達したのであるが、明治以来の日本の近代化へ
 の歴史全体を通じて、年功序列−終身雇用制への志向がみられる。アメリカ式能力主義
 への切り替えが叫ばれ、さまざまな提案、試みがなされているが、現実的には多くの困
 難をかかえている。 
・いずこの社会においても、この年功序列制と能力制という二つの方法は、多かれ少なか
 れ存在し、組織として取り入れられているわけであるが、日本の場合、常に年功序列制
 に圧倒的な比重がかかり、バランスがいつもそちらにかかるという現象がみられる。
・能力主義をとる場合には、個々人の能力差を克明に判定する必要が生じ、それに対応す
 るメカニズムが当然要求されるのであるが、日本社会においては、そうした判定法が雇
 用制度として存在しなかったばかりでなく、一般の人々の生活においても能力差に注目
 するという習慣は、ほかの諸社会に較べて非常に低調である。
・伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の努力差には注目す
 るが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が非常に根強く存在している。
・ある大企業の人事課の方が、能力主義導入方法について、いろいろ話し合っていたとき、
 日本でも学歴というものによって差をつけていたから、能力で判定していたことになる、
 といわれたことがあったが、学歴で一律に個人の能力を判定するということは能力主義
 というよりも反対に能力平等主義である。なぜならば、学歴で能力が違うということは、
 誰でも在学した一定年数分だけ能力を持つということになるから、個人の能力差を無視
 した考えである。また、在学するというおとはもちろん個人の能力発掘によい条件を与
 えるものであり、これを無視することも妥当ではない。
・学歴一律主義や極端な学歴反対主義は、いずれも能力平等観という本質的に同じ信念か
 ら生まれており、違った表現をとるのは、たまたまその主張者の条件・利害が相反して
 いるからにすぎない。   
・日本において、民主主義・社会主義がしばしば混乱を招く一つの原因は、社会主義の国
 々においてさえ認められている能力差すら認めようとしない点にあるといえよう。
・いかの日本人が序列偏重だとはいえ、現実に顕在する個人の能力差を無視するこはでき
 ないし、また、実際に能力の評価ということが行われている。この評価は、序列システ
 ムの枠内というように、きわめてせまい範囲で行われる、また行われざるを得ない。
・入社試験などで入ってきた同じ職場の同期というのは、往々にして出身大学も同じで粒
 がそろっていたり、同じ職場で働いているために相互影響もあって、似てきたり、相補
 うために、能力差による選抜が容易でない条件もあるが、大きい目でみれば、その選抜
 には、その場の事情を背景として能力主義が行われていると認められる。たまたま一見
 不公平と思われる人事が行われたとしても、長い目でみれば、後に調整されたりしてい
 る。その意味で、人事の不公平による弊害の有無は、日本的システム自体にあるという
 よりは、その集団の機能の高さ、性能の度合に求められるといえよう。
・仕事の運ばれ方をみていると、同じ職場で同じ賃金を受けている者のなかでも、より能
 力のある者がより多くの仕事、またはより重要な仕事を負担させられるというように、
 ある程度の片よりがみられるのが常である。仕事がより重く与えられている者が、その
 不公平にあまり不平をいわないのは、自分は能力が認められているという満足感、誇り
 に裏打ちされているためではなかろうかと考えられる。そして会社などでは、それが往
 々にして昇進につながるということになれば、いっそうそうした実際上の不公平は容認
 されることになる。
・こうしてみると、外国の場合のように、目だった抜擢ということは行われないが、日本
 のシステムは序列一辺倒で、能力主義が行われていないと見るのは間違っている。正確
 には、能力主義がきわめて限定された枠内で行われているというべきであろう。
・したがって、欧米の場合と異なるところは、能力主義の有無というよりも、日本の場合
 は枠が強くはまっていて、きわめて限られた人数の候補者の間で行われているというこ
 とである。     
・日本ではどんな会合に招かれても、招いた側の集団の成員の序列は、一目瞭然であるの
 が普通である。招客のすぐ横が上座であり、入り口の方が下座で、発言の順序・量・態
 度といったものが、驚くほどその座順を反映しているからである。そんなある会合で、
 「わが社はほかと違って、アメリカ式の能力主義を採用し、民主主義的な経営をしてい
 ます」などと、上座にいる部長などが誇らしげにおっしゃり、課長・係長は、「いかに
 も、その通りで」などという反応をされるので、私はおかしさを必死にこらえて、「そ
 うですね、アメリカの能力主義の日本版といったところを実現されているわけですね。
 もちろん相手はアメリカ人ではなく、日本人ですから」と答えるのが精いっぱいである。
・能力主義の適用をこんなに一生懸命に実行されているにもかかわらず、根強い序列意識
 から少しも逃げられないということは、日本的社会の序列組織の根強さを遺憾なく示し
 ているものといえよう。 
・能力主義貫徹が、日本社会では、いかに困難なものであるかは、会社のような組織体で
 はなく、個人の能力で百パーセント活動できる作家や俳優のような職業に従事する人々
 の中にまで、序列意識が根強くあることである。ある文学賞を授与されたある作家の言
 として、「受賞はうれしいが、先輩をさしおいて私のごときものが受賞するとは・・・」
 という文句があったり、急に評判がよくなった俳優が、ギャラをもっと上げてくれ、と
 いう理由のなかに、自分の主演した映画が興行的に成功をおさめたという理由に加えて、
 自分より後輩でさえ自分よりはるかに多いギャラをもらっているのだから、先輩の自分
 のもっと多くギャラを取るのは当然、というようなことをいっていることである。
・序列という規準は、いかなる社会にも存在している。しかし、日本以外の社会では、そ
 の規準が社会生活におけるあらゆる人間関係を支配するというほどの機能をもっていな
 いことである。きわめて弾力的・限界性をもって、他の規準(たとえば能力)に対して
 譲歩しうるのである。 
・諸社会のうちでも、日本の序列意識に最も近いと思われるのはチベット社会で、彼らの
 間では、日本の場合にまさるともおとらない序列意識があり、それは社会生活における
 席順の重要性や驚くべき敬語のデリケートな使用法によくあたわれている。しかし、私
 が感心したことは、学者(伝統的に僧侶であるが)の間の討論の場においては、完全に
 この序列意識が放擲されることである。
 
「タテ」組織による全体像の構成 
・日本社会において、闘争の関係に本当にたっているのは、資本家あるいは経営者と労働
 者ではなく、A社とB社である。競争者は上下関係にたつものではなく、むしろ隣接し
 並存するヨコにたつものとの関係である。闘争は対立するものとではなく、並立するも
 のとの間に展開されているのである。
・日本的イデオロギーの底にあるものが、極端な、ある意味では素朴ともいえるような、
 人間平等主義である。これは西欧の伝統的な民主主義とは質的に異なるものであるが、
 日本人の好む民主主義とは、この人間平等主義に根差している。
・これは、「能力差」を認めようとしない性向に密接に関係している。日本人は、たとえ、
 貧乏人でも、成功しない者でも、教育のない者でも、同等の能力をもっているというこ
 とを前提としているから、そうでない者と同様に扱われる権利があると信じ込んでいる。
 そういう悪い状態にある者は、たまたま運が悪くて、恵まれなかったので、そうあるの
 であって、決して、自分の能力がないゆえではないと自他ともに認めなければいけない
 ことになっている。 
・しかし、実際の社会生活では、そうした人々は損な立場にたたされている。ところが
 「貧乏人は麦を食え」などとは、決して口に出すべきことではない。弱き者、貧しき者
 をそれ相応に遇することを口に出していうことは日本社会ではタブーである。実際に、
 そうした人々のために本当に働くか、尽力するかは別で、口ではそういするべきだとい
 うこと自体が美徳とされている。日本では、何とこうした口だけのエセ同情者(あるい
 は言行不一致の者)が多いことか。特に左翼的言辞を弄する人々の大部分が、こうした
 種類の特権的ムード派であるところに、平等主義から派生するところのぬるま湯的道徳
 がみられるのである。
・この根強い平等主義は、個々人に(能力のある者も、ない者も)自信を持たせ、努力を
 惜しまず続けさせるところに大きな長所があるといえよう。そして、「タテ」のリンク
 は、そうして努力してきた個人にとって、またとない上昇するためのはしごを提供する。
 これは、社会における個人にとっても、また集団にとっても、十分立証できるところで
 ある。
・日本社会の驚くべき可能性は往々にして戦後の現象と考えられがちであるが、江戸時代
 から現在までの農村の家々の興亡を調べてみると、ちょっと想像以上の興亡の歴史を見
 出すのである。郷士とか、特別の家々を除いてみると、三代以上続いて上層を占め続け
 たというのは少ないのであり、五代以上となると、例外に近くなるのである。
・いわゆる旧い家とか、格の高い家、地主などといわれるものは、一見、いかにも先祖代
 々連綿としてその地位を保ってきたように見えるが、実際調査してみると案外新しく、
 村落の一つとっても、家々の興亡の歴史は複雑であり、上・下のモビリティは、他の国
 々の農村におけるよりも、ずっと顕著にみえるのである。だいたい、金持ちの息子は苦
 労がないから、おめでたく、バカで、刻苦勉励型が出世するという社会的イメージが、
 日本人の常識の底流となっていることは、これをよく示すものであろう。 
・東大出身ということと、オックスフォード出身ということとは決して同じ意味を持って
 いない。前者においては、魚屋の子だろうが、水飲み百姓の子だろうが、実業家の子だ
 ろうが、大学教授の子だろうが、東大というものを通過することによって、同列にたち
 うる。活発な上・下のモビリティがあり、一方に上昇する者があるということは、他方
 に悲劇を生んでいる。自分は大学に行けず、一生下積みで終わった、せめて子供だけは
 出世させてやりたい」という親の悲願が、現在の日本ほど強い社会はないであろう。
・オックスフォード出身においては、ジャントルマンの子弟はだいたいオックスフォード
 に行くから、オックスフォードの特色が出るのであって、労働者の息子はオックスフォ
 ードに行っても、下層出身者ということは一生ついてまわる。すなわち、教育機関とい
 うものは、社会層の差に対して、さして機能を発揮しないのである。 
・したがって、社会的に機能を持つものとして、学閥か階級かという対照がここにみられ
 る。学閥のあることは非常に非難されるが、階層間のモビリティがあるというよさは忘
 れられている。
・どんな社会でも、すべての人が上に行くということは不可能だ。そして社会には、大学
 を出た人が必要であると同様に、中学卒の人も必要なのだ。しかし、日本の「タテ」の
 上向きの運動の激しい社会では、「下積み」という言葉に含まれているように、下層に
 とどまるということは、非常に心理的な負担となる。なぜならば、上へのルートがあれ
 ばあるだけに、下にいるということは、競争に負けた者、あるいは没落者であるという
 含みが入ってくるからである。
・このようなモビリティは必然的に同類を敵とする。これはまたいっそう「タテ」の機能
 を強くさせ、一方「ヨコ」の関係は弱くなるばかりでなく、邪魔な存在にまでなろう。
 同僚に「足を引っ張られる」とか「出る杭は打たれる」などというのは、この作用をよ
 く象徴している。これが集団の場合になると、同じような種類と実力を持ったものが敵
 となる。例えば、鉄鋼業の諸会社、貿易業の諸会社というように。同じく、学校ならば、
 大学と大学、高校と高校、農村ならば、部落と部落、宗教界であったら、新興宗教集団
 は同じような新興宗教集団と、官僚ならば、内務官僚と外務官僚というように。そして、
 こうした競争はきわめて現実的な表現となってあらわれ、競争を通して、そしてその結
 果「格付け」ができてくる。
・家々の格が問題とされるのは、何も農村ばかりではない。だいたい競争のスタートが早
 い(歴史が古い)ほど、格が高いが、その格が実績によって変更しうるというところに、
 競争をいっそうかきたてる要因がある。この競争はまた個々の集団の結束をかためる重
 要な要因となって、いっそう集団の孤立性・封鎖性をまねいている。
・この並立するものとの競争は、日本の近代化、特に工業化に偉大な貢献をしたものと思
 われるのである。つねに上向きであるということは、人々の活動を活発にし、競争は
 (集団としても個人としても)大きな刺激となって、仕事の推進力となっていることは
 疑うことのできないところである。しかし同時に短所を持っている。これはいうまでも
 なく、不当なエネルギーの浪費であろう。外国貿易において、同じような商社が同一の
 バイヤーに殺到し、共食いとなっている光景はよく知られているところである。これに
 よって象徴されるように、国全体としてのマイナスが大きいといわなければならない。
 野菜がいいといわれると、農家はわれもわれもと野菜をつくり、翌年はキャベツが畑で
 腐っていたり、一、二の出版社が新書版を出すと、どの社もいっせいにはじめ、同じよ
 うなシリーズ、同じような著者がおなじようなことを書いている。みんな同じことをし
 ないと気がすまない、いや競争に負けてはならない、バスに乗り遅れてはならないから
 するのだろうが、国全体として何という浪費であろう。分業の精神というのはいったい
 日本人にあるのだろうか。
・この日本的現象は、日本社会のあらゆる分野にみられる。日本の企業のあり方など、そ
 の代表的なもので、一つの企業は、まったく違う何種類かの製品を作り、事業をしてい
 るのが常である。さまざまな産業分野を持っていたかつての財閥の構成など、この日本
 的現象をまことによく実現したものであった。また財閥が解体したとはいえ、大企業の
 その傘下に、膨大な数の同種の企業を系列化しているばかりではく、特定の異なる企業
 となかば独占的な県警を結ぶことによって、かつての財閥の構成を反映している。
・このようにして、その一群、一群が明確な集団を形成し、極端にいえば自己完結的なワ
 ン・セットを構成しているのが常である。他の集団を必要とせず何もかも自分のところ
 でできるわけで、構造的に、まさに分業精神に反する社会経済構成ということができる。
・この「なんでも屋」精神は、すべての分野にみられるが、出版界・放送・新聞・雑誌の
 あり方にもよくあらわれている。どのチャンネルを見ても同じような番組だし、どの新
 聞・雑誌を見ても、少なくとも代表的なものは、まったく同様な構成・内容をもってい
 る。また、その構成・内容が、政治・経済・文化・社会とあらゆる分野にわたり、イン
 テリも労働者をも含むあらゆる種類の人々たちを対象としてつくられている。まったく、
 何と欲張りなワン・セット主義であることか。     
・このようなワン・セット主義をとる以上、過当競争が助長され、格差が生ずるのは当然
 である。自由主義の社会では、競争は当然であるが、日本社会においては、他の社会よ
 りずっと過当競争が激しくなっているのは、まさにこのワン・セット主義のしからしむ
 るところであると思われる。
・また、格差というものも、多かれ少なかれ、どの社会にも現れる現象であるが、日本社
 会において、極端に現われ、問題とされるのは、このワン・セット主義のため、同一分
 野では、みな同じ構成をもち、同様な活動をしているために、比較が歴然とするためで
 ある。
・格差の由来は、社会学的構造からくるもので、道徳的善悪の問題ではなく、力学的な問
 題だからである。格差を低調に、また縮小するには、ワン・セット主義をやめて、分業
 主義に移行する以外には方法はないように思われる。 
・ワン・セット主義の志向が強く支配している社会の全体像は、企業・学校などのように、
 類を同じくする分野ごとに群が形成され、その各群には、同じような内容・構造・活動
 をもつ孤立した大小の多数の集団がしのぎをけずっている、ということになる。この競
 争においては、より完備したワン・セットを持ち、より歴史の古い集団が優勢になりや
 すい。すなわち、そうした特定集団が同類諸集団のなかで、より多くの広範なマーケッ
 トを支配するようになるのが常であり、その分野の発展とともに、ますます優勢となり、
 全国をそのネットワークでカバーし、ゆるぎない地位を誇るようになったりする。
・どんなに大きくなっても、同類集団とヨオにつながる可能性はほとんどないから、それ
 自体孤立しており、社会には、その大集団に入り得ない同類の他の諸集団が同時に存在
 するということになる。このような連帯性のない無数の大小の孤立集団の存在は、中央
 集権的政治組織の貫徹に絶好の場を与えるものである。同時に孤立している集団は、よ
 り高次の活動の発展のために、より大きな統合の組織を必要とする。ところが個々の集
 団自体には、そうした組織を生む社会的力を持っていないので、必然的に他の組織(政
 治組織)に依存せざるを得ないことになる。ここに、日本における中央集権的行政組織
 が著しく発達した理由があると思われる。すなわち、日本社会における社会組織の貧困
 が政治組織の発達をもたらしたものと解さされるのである。 
・孤立した諸集団を統合する行政網は、同時に各集団の内部組織である「タテ」の線を伝
 わり、その集団の底辺にまで難なく達することができ、それによって世界にちょっと比
 類のない徹底した行政網が完備し、全人口に浸透したのである。実際、江戸時代におい
 て、幕府の政策や藩の行政が、山奥の村々の家々にまで、あのようにもれなく達してい
 たという行政網の機能力は、単に幕府の権力のみでなく、日本における社会集団の構造
 におっているところが多大であると思われるのである。 
・徳川幕府というものは、まず士農工商という身分に全人口をホリゾンタルに切り、さら
 に藩という「タテ」割りを設けて行われたのであり、その善悪は別として、組織として、
 「ヨコ」「タテ」両者を交錯させているということで、これはまことにすぐれたものと
 いうべきであろう。
・社会組織とは異質の政治組織も、日本では、社会集団の内部構造とまったく同じ「タテ」
 の組織(官僚組織)を基盤としているのである。近代以前に驚くほど完備した中央集権
 的官僚体制が日本に成立していたということは、日本社会の「タテ」構造の志向が政治
 組織自体の発達に大いに力になったのではないかと思われる。
・中央から水を流せば、末端までしみとおるような見事な行政網の発達は、中央権力の助
 長にいやがうえにも貢献し、当然、権力の乱用を可能とし、権力に対する一般国民の恐
 怖を植え付けたようである。「長いものにはまかれろ」という一方、すべて上からの命
 令というものに生理的に反発を覚える。日本人ほど、政治権力に弱く、また、ことごと
 く政治権力に反抗を試みる国民は少なかろう。
・日本の工業化が速やかに達成されたのも、またあの悲惨な戦争に国民がかりたてられた
 のも、この世界にも比類のない政治組織の力によるところが大きいということは否定で
 きないであろう。日本における政治権力というものは、常に日本独得な社会構造にささ
 えられて、威力を発揮してきたのである。

集団の構造的特色
・かつての日本軍の実戦における弱点は、実戦の単位である小隊の小隊長が戦死した時で
 あるといわれる。小隊長の戦死によって組織の要を失った小隊は烏合の衆になりやすく、
 戦力・士気のソソウが甚だしい。これがイギリス軍のアメリカ軍の場合は、すぐ小隊の
 中から次の小隊長となる者が出され、最後の一兵となるまで小隊の統制が乱れないとの
 ことである。
・官僚組織は近代的な、制度化されたものであるが、親分・子分によって象徴される日本
 の土着の組織と原理的に軌を一にするものである。したがって、日本的な集団構造は、
 封建的とか前近代的などと片付けられるものではなく、その原理は、ある意味では近代
 的であり、非常に効力のある組織方法である、ということもできる。
・この組織構造の長所は、リーダーから末端成員までの伝達が、非常に迅速に行われると
 いうこと、そして、動員力に富んでいることである。実際、日本人の仕事は、このよう
 に組織化された人間を多量に使うが、その「タテ」の連絡のよさ、動員の迅速さにおい
 て比類がなうように思われる。
・集団成員の意見の不一致がある場合、集団が行動を起こす前に十分時間があると、ずい
 ぶん、もんちゃくもあり、勝手な意見も出るが、集団として行動をすぐ起こさなければ
 ならないような事態にさしかかると、必ず、集団のヒエラルキーによる力関係が優先し、
 組織の下方に位置する者の意見より、上の者の意見が取られて、議論の余地なく、集団
 の核を握る上部の意見によって押し切られる、ということになる。こうして、行動に移
 る前の、集団の「意見の一致」とか「思想統一」呼ばれるものが出されるのである。 
・日本においては、同等の(あるいは同格)とみなされている会社の合併は想像以上の困
 難を伴うのが普通である。もし行われたにしても、どちらかの集団(会社)成員が他方
 を圧倒しやすい(タテになりやすい)のに対して、タテマエは同格であるために、各レ
 ベルでの軋轢は相当期間避けられないものである。合併による確執、悲哀、不愉快さは、
 経験者ならば身に染みて味わわされているはずである。
・二つ以上の集団が合流して、より大きな集団を形成する場合の常は、合併ではなく、系
 列化である。これは合併に較べるときわめてスムーズに行われる。その理由は、合併と
 違って既存の集団がそのまま枠を保持でき、個々人の日常の仕事に異質のものが入り込
 んでこないためと、もう一つは、タテ関係によって集団と集団が結びつくからである。 
・「意見一致」は異なる集団においてはタテにつながっていない限り至難の業である。両
 集団を結ぶ「タテ」の線のない場合には、どちらも各々の集団の利益を最大限に主張す
 るばかりで、その折衝において、調整の作用が全然働かず、また、各々の代表またはリ
 ーダーが、自己の集団の利益を多少譲歩して調整しようとする客観的立場に立ちにくい
 ということは、彼らが構造的に他の成員によって突き上げられやすい、という点にもあ
 る。リーダーの存在価値は、折衝の成功にあるよりも、集団の利益を最大限に標榜し、
 集団成員の意を十分受け止めることであって、もしこれに失敗すれば、自分自身が危く
 なる、という立場におかれている。実にここに、異なる集団の意見統一の困難さが存在
 するのである。
・社会集団の存在を可能とさせる最低の条件となる枠とは、農村であれば、小は「家」か
 ら「クミ」「ムラ」といったものであり、近代的なものとしては、官僚組織・会社組織
 などである。こうした枠内において、往々にして、外から「見えない」組織として、底
 辺のない三角関係が複雑な形を持ちながら存在しているのが常である。しかし、こうし
 た枠、あるいは「見える」組織の中における「見えない」組織の機能は、もちろんあな
 どりがたい点があるが、その機能の低下が全集団構成の瓦解にいたるような危険性はな
 い。
・これに対して、枠を持たないか、あるいは持っていても、それが非常に弱い場合には、
 「底辺のない三角関係」の組織に集団の全生命がかかってくるのであり、必然的にこの
 組織が強調され、猛威をふるうのである。すなわち、政治家の世界、やくざの世界がそ
 の典型的なものであり、また不安定な小資本のよる漁業集団(網元・大船頭・船子など
 からなる)などにも顕著にあたわれているのである。これが従来、親分・子分・派閥の
 名のもとに、封建的であるとか、悪徳とされて非難の的となっているものである。
 
リーダーと集団の関係
・日本的集団の内部構造を持つ集団組織においては、リーダーシップというものは非常に
 制約を受けるということである。「親分」というものは、たいへん権力を持っているよ
 うに思われているが、実は他の社会におけるリーダーに比べて、リーダーとしての権限
 を制約される点が非常に多い。
・その原因の一つは、リーダーは、すべての成員を、直接ではなく、大部分はリーダーに
 直属する幹部を通して、把握していることである。このことは、リーダーに直属する幹
 部成員の発言権をきわめて強いものとすることになり、ともすればリーダーは二人以上
 のこれら直属幹部成員の調整役的立場に立たされる。
・これら幹部成員は、ある意味で、それぞれの支配下にある成員の利益代表的存在である
 から、お互いに相当緊張した力関係が生じている。こうしたメカニズムがリーダーをし
 ばしば突き上げ、リーダーはその力関係の調整に相当なエネルギーを使わなければなら
 なくなる。 
・日本的リーダーは、どんなに能力があっても、他の社会のリーダーのように、自由に自
 己の集団成員を動かして、自己のプラン通りに、他の成員の強い意向を抑えてまでこと
 を運ぶことはできない。このような独裁制を発揮できないばかりか、大乗的見地に立っ
 て、より目的にかなうリーダーシップを発揮することも難しい。行動の決定は、往々に
 して、直属幹部の力関係、リーダーとの人間関係に左右されることが非常に多い。そこ
 で、リーダーは自由に幹部を操縦するどころか、彼らに引きずられるのである。
・したがって、リーダーとして当然持つべき「独裁制」すら持ちえないリーダーが少なく
 ない。セクショナリズムとか、派閥が猛威をふるうのは、実のこのリーダーの「独裁制」
 の欠如に負うことが大きいのである。言い換えれば、リーダーの権限が非常に小さいの
 である。 
・この傾向は、戦後の日本的民主主義によって、ますます助長されている。現代の日本社
 会には、決断をにぶるリーダーが何と多いことか。彼らが決断を強いられた場合には、
 往々にして、人間的に最も親近な関係にある直属幹部に相談し、その助言によって決断
 をするのが常である。
・「ワンマン」と呼ばれるリーダーが時々現れるが、これは直属幹部との相対的力関係に
 おいて、リーダーが圧倒的に優勢であり、その人間関係において、リーダーが十分自信
 を持っている場合に限られる。
・一定の分野において、特定集団が圧倒的に優勢である場合、そのリーダーが社会的にク
 ローズ・アップされ、脚光をあびる。しかしそれは、外部の者が考えるほど、そのリー
 ダー個人は権力を持っていないのが普通である。そのリーダーの権力であるかにみられ
 るものは、実は、その集団自体のものであり、リーダーはその代表者といったほうが適
 切な場合が圧倒的に多いのである。
・日本社会における輝かしいリーダーというものは、そのリーダー個人の力によって集団
 を形成しているのではなく、もともと他の集団との力関係において優勢であった集団に、
 比較的有能な個人がタイミングに恵まれて出てきた、というものである。つまりリーダ
 ー個人の力よりも、内外の条件に支えられている。東条英機はヒットラーやムッソリー
 ニと質的に異なるリーダーであったのであり、それは実に、この日本的社会構造による
 ものである。
・このような立場におかれている日本のリーダーが、しいてリーダーシップを発揮しよう
 とすると、たいていの場合、強権発動の形をとる・「ワンマン」とよばれるリーダーを
 はじめ、戦前の多くのリーダーのとった方法である。ここにえてしてみられるのが、リ
 ーダーの独断的な決定・権力の不当な行使である。リーダーの能力・人格が非常にすぐ
 れている場合には、普通の日本的リーダーの場合よりも、このほうが、はるかにすぐれ
 た仕事をすることができ、貢献も大きいが、そうした資質を持たないリーダーの場合に
 は、その集団にとっては悲劇であり、社会的な弊害を招来するものである。
・日本のリーダーシップがなぜ西欧近代的なディレクターシップをとらず、下からの力関
 係に左右されたり、反対に、強権発動という形をとるようになるかは、一考を要する問
 題である。この一件相反するリーダーの形は、同一の構造を基盤としたシーソーゲーム
 のバランスのいかんにかかっている。すなわち、リーダーと部下との相対的な力関係に
 よって、リーダーのあり方が決まってくる。 
・何らのルールが存在していないため、相対的条件において、どちらかが優勢になるわけ
 である。特に現代の日本のように素朴な民主主義(平等主義)的信念が社会に横行して
 いると、一般的な傾向として下が当然強くなるから、リーダーはますます弱くなる。し
 たがって、この日本的傾向は戦前と比べていっそう助長されたということもできる。戦
 前戦後を通じて、集団構造自体、リーダーと部下との基本的関係は全然変わっていない
 のである。
・リーダーシップにみられる上・下関係の特質は、日本によく発達している、いわゆる
 「稟議制」なるものによってもよくあらわれている。上の者の発想を下の者に押し付け
 るのではなく、反対に下の者が上司に意見を具申して採ってもらう。これは官僚機構を
 つかって政治をやるという面にも出ているし、企業内においては、従業員の創意を活用
 するという点にあらわれている。
・これを十分活用すれば、極端にいうと、上の立つものはバカでもいいということになる。
 事実、これが、年功序列系がさして不便をきたしていないということにつながっている。
 そしてまた、実力も、腕もなく、どうみても人の上に立つのはふさわしくないと思われ
 る人まで、みな××長という地位に異常なほどつきたいと願望し、また事実、そうした
 人が××長になっても、何とかやっていける、という現象は、リーダーの資格というも
 のが、必ずしも、その個人の仕事の能力にあるのではないということを立証している。
・実際、上に立つ者、親分は、むしろ天才ではいほうがよい。彼自身頭が切れすぎたり、
 器用で仕事ができ過ぎるということは、下の者、子分にとって彼らの存在理由を減少す
 ることになり、かえってうとまれる結果となる。子分は親分に依存すると同時に、親分
 が子分に依存することを常に望んでいる。親分のすること、考えることはすべて子分に
 理解され、納得される必要がある。
・天才的に能力よりも、人間に対する理解力・包容力を持つということが、何よりも日本
 社会におけるリーダーの資格である。どんな権力・能力・経済力を持った者でも、子分
 を情的に把握し、それによって彼らと密着し、「タテ」の関係につながらない限り、よ
 きリーダーにはなりえないのである。
・一定の個人がこの頂点の位置を占めているということは、その集団の現存成員のうちで、
 その集団への参加が最も早かった一人であるということになる。実際の年齢においては、
 他の成員より若いとしても、集団組織へ参加した後の年限が他の成員よりも長くなけれ
 ばならない。したがって、集団の歴史が長く、大きい集団であるほど、リーダー自身の
 年齢も相対的に高くなるわけで、こうした集団においては、若者などいうに及ばず、中
 年であっても、とてもリーダー、××長のポストを占める可能性はない。
・日本社会における重要な地位がすべて高齢層の者たちによって占められている事実は、
 実のこのメカニズムを反映しているのである。一定の組織に属する日本の男性にとって、
 彼らの社会的活動は、五十代になって上昇し、そのピークは定年直前となる。また定年
 制に制約されない分野にあっては、すべ六十歳以上とみて差し支えないであろう。この
 意味で、実に、日本は老人天国である。
・他の国であったならば、その道の専門家としては一顧だにされないような、能力のない
 (あるいは能力の衰えた)年長者が、その道の権威と称され、肩書きをもって脚光を浴
 びている姿は日本社会ならではの光景である。しかし、この老人天国は、決して日本人
 の敬老精神から出てくるものではない。それは、彼がその下にどれほどの子分を持って
 いるか、そして、どのような有能な子分を持っているか、という組織による社会的実力
 (個人の能力ではない)からくるものである。 
・いざとなったら動員できる兵隊を持たなければ、いかに年長者といえども社会的実力を
 持つことができない。兵隊もなく、地位もない(なくなった)老人が日本社会ではいか
 に冷たくあしらわれているかを想起すべきであろう。 
・「タテ」組織の頂点に位置しない限り、どんなに能力のある個人でも、その集団を代表
 したり、リーダーになったりすることはできない。よしできたとしても、その集団内の
 「タテ」組織で、彼のもとに直属している者以外を動員することは不可能に近い。
・集団における規制の組織力が驚くほど強く、いったんでき上がっている組織の変更は、
 集団の崩壊なしにはほとんど不可能である。そして集団成員の行動力は、完全に既成組
 織を前提としていることを忘れてはならない。したがって、このメカニズムでは、事実
 上、その集団の存続を前提とすれば、頂点にいない限り、個人はリーダーになりえない
 ということになる。個人プレーが圧倒的にものをいう、きわめて限られた分野以外では、
 どんなに個人が能力を持っていても、頂点にいない限り、名実ともに輝かしい活躍をす
 ることはできない。能力のすぐれた若者・中年者にとって、まことに遺憾なメカニズム
 である。
・日本のリーダーほど、部下に自由を与うるリーダーというものは、他の社会にはちょっ
 とないであろう。日本の組織というのは、序列を守り、人間関係をうまく保っていれば、
 能力に応じてどんなにでも羽を伸ばせるし、なまけようと思えば、どんなにでもなまけ
 ることができ、タレントも能なしも同じように養っていける性質を持っている。
・こうしてみると、リーダー個人の能力の有無はそれほど大きな問題ではない。よいリー
 ダーを持つことにこしたことはないが、リーダーの能力で、その集団の力を測定するこ
 とはできない。看板にいつわりのある場合も少なくないのである。集団の実力は、実に
 その内部事情にかかっているのである。 
・ここで重要な問題となってくるのは、リーダー自身の能力よりも、リーダーがいかに自
 分の兵隊の能力をうまく発揮させるかということになる。この実現はきわめて人間的な
 接触にささえられているので、リーダーがすぐその下にある集団の幹部をいかによく把
 握するか、さらにその幹部が彼らに直属している部下を、いかにいまく統率していくか
 にかかっている。
・リーダーへの人格的敬愛があればいっそうスムーズに機能することはいうまでもないが、
 どちらかといえば、まず、直接につながる者の関係に組織の基盤が置かれている。した
 がって、ある個人がその超人的能力を持っていて、そのもとに、その力自体に魅せられ
 て多くの人々が従っていく、そしてまた、その個人にその能力が失われた時には、それ
 まで忠誠を捧げてきた信奉者たちがいっせいにそのリーダーを捨ててしまうというよう
 な、カリスマ的リーダーや、そうした集団を日本の土壌には育ちえないのではなかろう
 か。
・リーダーがたとえカリスマ的な要素を持っていたとしても、それは、直接接触をする、
 その集団の核を構成する幹部に、独占的に吸収され、さらに、彼らを通して、そのもと
 につながる「タテ」の組織を通してのみ、信奉者を獲得することができるのである。
・日本のリーダーの影響力・威力というものは、部下との人間的な直接接触を通して、は
 じめてよく発揮されるものである。事実、日本人のリーダーの像は、ナポレオン的なも
 のではなく、あくまで大石内蔵助的なものである。
・集団の機能力は、ともずれば親分自身の能力によるものよりも、むしろすぐれた能力を
 持つ子分を人格的にひきつけ、いかにうまく集団を統合し、その全能力を発揮させるか
 というところにある。実際、大親分といわれる人は必ず人間的に非常に魅力を持ってい
 るのである。子分が動くのは、親分の命令自体ではなく、この人間的な、直接膚に感じ
 られるところの人間的な魅力のためである。 
・「オレに顔にめんじて・・・・」というせりふは、あらゆる理性的な判断をこえた力を
 もつのである。「天皇陛下万歳」といって死んでいったとされる兵たちは、実は日ごろ
 温情をかけられ、敬愛するところの「この小隊長のいうことだから」といって勇戦した
 といわれている。企業体においては、経営者または上に立つ者は、このリーダーとして
 の資格を持つことが望まれ、実際、経営者のパーソナリティというものが、その従業員
 にとっても、また会社においても、日本ほど問題として取り上げられている国はちょっ
 とないであろう。また、経営者自身としても、いつの時代にあっても、「企業は人なり」
 と、人についての問題に真剣に取り込んできており、日本においてはこれが経営管理の
 重要な課題となっている。
 
人と人との関係
・日本の近代企業が、その初期から、労働力の過剰・不足にかかわらず、終身雇用的な方
 向をとってきているという事実は、雇用において、西洋的な契約関係が設定されにくい
 という理由に求められるのではなかろうかと思うのである。経営者側としては、当然、
 コンスタントな労働力を確保するために、労働者(特に熟練労働者)の引き止め策とし
 て、コントラクト(契約)制を発達させる代わりに、より日本人にあった生涯雇用制の
 方向を打ち出してきたのではなかろうかと思う。
・経営者ならずとも、一定の人々を使って、あるいは協力して、一定の仕事をした、ある
 いはしようとした経験のある者なら、だれでも思い当たるに違いない。当初に、その仕
 事をやりましょうと約束した人々が、長年同じ場所で働いていたか、何らかの「タテ」
 の関係を持っている人々でない場合には、必ずといっていいほど、苦い経験を持たされ
 るものである。そしてその原因がほとんど人間関係、特に感情的なものに発しているの
 である。
・その個々の成員の間、リーダーとその他の成員の間がしっくりいかなくなって、なかに
 は仕事を怠る者が出るばかりでなく、邪魔をしたり、仕事を放擲したりする者が出たり
 する。自己の欲求が十分満たされないと、仕事の途中に「おれはやめる」とか「辞表を
 たたきつける」などといって、リーダーを困惑させ、ある種のエゴイスティックな感動
 を味わうというやり方は、日本人の得意とするところである。
・共通の目的・仕事の達成に責任感がないといおうか、としあったとしても、個々人にと
 っては、それ以上に感情的な人間関係が重要視されるという、きわめてエモーショナル
 な性向が認められるのである。これはコントラクトが遂行されないというよりは、もと
 もとコントラクトなどという観念は存在しないといえよう(これは仕事を依頼するほう、
 引き受けるほう、両者ともにいえることである)。 
・ヨーロッパ人による調査団というのは、まず、そのほとんどが何々大学などといわず、
 団長の名を調査団の名とし、団員は必ずしも団長の属する大学のスタッフとか、その弟
 子というのではなく、隊長が広く一般から最も調査団の目的にあっていると思う専門家
 を抜擢、招請することによって構成される場合が多い。したがって、隊長が依然少しも
 面識がなかった者なども入っていることが多い。一度、団長と団員の間にコントラクト
 が結ばれると、その調査が終わるまで、団長と団員の関係は徹底したものであって、仕
 事に関する限り、団長命令は絶対的なものとして服従される。たとえば、どんなに有名
 な写真家といえども、団員となった限り、団長(たとえ写真家より世間的にも知られて
 おらず、年も若かったとしても)の指示のもとに、一枚一枚の写真がとられる。しかし
 調査期間中でも、仕事に関係のないときは、たとえば、団員が夜どこへ遊びに行こうが、
 何をしようがまったく自由である。仕事に関係のない行動について団長の意向をうかが
 う必要は少しもない。仕事に関する限りは、団長は自分の意思どおりに団員を動かして
 目的を達成できる。
・しかるに、日本の学術調査団にあっては、まず、コントラクト形式などをとって寄り合
 い世帯的団員構成をもった場合、ほとんど例外なく失敗を招く。失敗とまでいかなくと
 も、仕事の能率は悪く、感情的な人間関係にすっかり精力を使われ、予定した仕事が少
 しもスムーズに運ばず、ものすごい苦労をする。こうした調査団はたいてい仲間割れを
 しており、団長は悪口雑言の対象以外の何物でもなくなってしまう。日本では、立派な
 大学教授でも、現地人や外国人の前で喧嘩をし、いがみあって汚名を土地に残してしま
 うような結果となる。
・これに対して、リーダーが長老格の教授で、その愛弟子ばかりを団員とした調査団ほど
 うまくいっている。こうした隊では、どんなに貧しい調査費でも、どんなに苦しい環境
 であっても、目的を遂行しうるのである。それは、われわれの団長(師)のためにはあ
 らゆる犠牲をいとわないといううるわしい(日本的な意味)積極性が団員にあり、一方、
 「かわりい奴らだ」という限りない弟子へのいくつしみにささえられた団長の思いやり
 がある。この関係にあっては、団長の力ももちろんあるが、団員によって団長が動かさ
 れる度合いは、目には見えないが、相当あるのが普通である。実際、リーダーの権限は
 ヨーロッパ人による調査団の場合よりずっと小さくなっている。したがって、学問的に
 非常にすぐれ、才能のあるリーダーが、それを十分発揮することができない場合が多い。
 団長の存在理由は、調査を指揮する、あるいは自分の調査目的を達成するというよりも、
 むしろ人間関係の要となって、その和を保つということにある。調査団はゲマインシャ
 フト(共同社会)的な「みんなの調査団」である。 
・この学術調査団のあり方にも明らかなように、親分・子分というものに象徴される人間
 関係は、政治家やヤクザの世界ばかりではく、実際、進歩的思想の持ち主だとか、文化
 人と自他ともに認める人々や、大学で西欧の経済や社会について講義をしている教授た
 ち、あるいは最先端をゆく大企業の中で働いている人々の中でも、見られることが指摘
 できるのである。そしてこの根強い人間関係のあり方というものは、決して、従来説明
 されてきたような封建的などという簡単なものではないし、工業化とか西欧文化の影響
 によって簡単に是正されるものではない。
・近代企業における経営者と従業員の結びつきや、西欧的教養を身につけているとされて
 いる知識人の間においてさえ、このような「タテ」の情的関係が強いのであるから、こ
 れがヤクザの世界の親分・子分関係となれば、論を待つまでもない。親分のために殺人
 くらいするのは当然であろう。 
・ある保護施設の園長の言によると、ヤクザの世界を一度味わった子供が、何回連れ戻し
 ても戻って行ってしまうのは、ヤクザの世界では、その子にとって、保護施設や里親な
 どからは得られないような、理解と愛を受けるからであるという。親分・子分関係の強
 さ、エモーショナルな要素は、弱い者にとって安住の世界をつくっている。
・戦後とみに盛んになった新興宗教集団が、魅力的なリーダーたちを持ち、直接積極を媒
 介とするエモーショナルな「タテ」の線を集団組織の基幹としていることも注目に価す
 る。創価学会の折伏による「タテ線」、立正佼成会の「親・子」関係は、その典型的な
 ものである。これによって信者は、しっかりと組織網に入れられ、「私はもう一人ぼっ
 ちではないのだ」という安定感に浸ることができる。 
・日本人にとって「神」「祖先」というものは、この「タテ」の線のつながりにおいての
 み求められ、抽象的な、人間世界からまったく離れた存在としての「神」の認識は、日
 本文化の中には求められないのである。極端にいえば、「神」の認識も個人の直接接触
 的な関係から出発しており、またそれを媒介とし、そのつながりの延長として把握され
 ている。常に、事故との現実的な、そして人間的なつながりに日本人の価値観が強くお
 かえているというえよう。
・このあまりにも人間的な−人と人との関係を何よりも優先する−価値観を持つ社会は宗
 教的ではなく、道徳的である。すなわち、対人関係が自己を位置づける尺度となり、自
 己の思考を導くのである。
・「みんながこう言っているから」「他人がこうするから」「みんながこうしろと言うか
 ら」ということによって、事故の考え・行動にオリエンテーションが与えられ、また一
 方、「こうしたことはすべきではない」「そう考えるのはまちがっている」「その考え
 は古い」というような表現によって、他人の考え・行動を規制する。このような方式は、
 常に、その反論に対して、何ら論理的、宗教的理由づけがなく、もしそれらの発言を支
 えるものがあるとすれば、それは「社会の人々がそう考えている」ということである。
 すなわち、社会的強制である。社会の道徳とは、修身の本にあるのではなく、いうまで
 もなく、この社会的強制である。したがって、その社会がおかれた条件によって、善悪
 の判断は変わりうるものであり、宗教の基本的な意味で絶対性を前提としているに対し
 て、道徳は相対的なものである。日本人の考え方や信条が戦前・戦後とたいへんな変わ
 り方をしたことや、また戦後においてすら、現在までずいぶん変化している事実は、こ
 うした動く実態自体(社会)に価値の尺度をおいているためである。
・日本においては、どんなに一定の主義・思想を錦の御旗としている集団でも、その集団
 の生命は「その主義(思想)自体に個人が忠実である」ことではなく、むしろお互いの
 人間関係自体にあるといえよう。 
・日本人の価値観の根底には、絶対を設定する思考、あるいは論理的探究、といったもの
 が存在しないか、あるいは、あってもきわめて低調で、その代わりに直接的、感情的人
 間関係を前提とする相対性原理が強く存在しているといえよう。
・論理を容易に無視するこの相対的価値観は、現実の日本人の人と人の関係、やり取りに
 如実に発揮されている。そして、特に知的な活動において致命的な欠陥を暴露するので
 ある。はっきりいうと、知らない人のもの、自分の反対に立つ人のものに対しては、悪
 評をするが、知人や仲間、特に先輩のものに対しては、必ずと言っていいくらいほめて
 いる。
・人のことを言ったり、ある事件に、ある問題に関して、私たちが自分の意見を発表する
 とき、対人関係、特に相手に与える感情的影響を考慮に入れないで発言することは、な
 かなか難しい。
・何らかの意味において「タテ」につながる人々の中では、反論は抑圧されているから、
 大っぴらな反論というものは、常にそうした関係にない人々(他の集団に属している人
 々)、あるいは反抗者から出される。この場合も、反論とは称しても、実は論理上での
 反論というよりは感情攻撃の形をとりやすい点で、やはり論理性の欠如が見られる。こ
 の典型的な例は、国会のおける与党に対する野党の反論である。
・論争が行われ、どちらかが、ゆずらなければ事が運ばないような場合、一方の主張がと
 おり、一方が譲歩する原因は、論争テーマ自体ではなく、他の社会的強制による場合が
 圧倒的に多い。したがって、譲歩した側には、いつも感情的欲求不満が残りやすく、ま
 た、これは第三者にとっては、不可解な決着が少なくない。論理のよる勝敗の決着に見
 られる、あのサバサバした気持ちには遠く及ばない。 
・日本人の「話せる」とか「話ができる」という場合は、気が合っているか、一方が自分
 をある程度犠牲にして、相手に共鳴、あるいは同情を持つことが前提となる。すなわち、
 感情的合流を前提として、はじめて話ができるのであるから、お互いに相手について一
 定の感情的理解を持っていなければならない。したがって、初めて会った人とか、知ら
 ない人とかとは、日本人は実に会話が下手であり、つまらない内容のことしか喋ること
 ができないという弱点を持っている。
・反対に、たいへんよく知っている、そして気の合った仲間の間では、最も会話を楽しむ
 ことができる。こうなると感情的合流がみごとにできるので、断片的に言葉を発するだ
 けでも通ずるし、話題を何の前ぶれもなく、急に変えても大した支障は来さない。もち
 ろん、敬語を使いわけるわずらわしさからも自由になり、何を喋っても誤解されたり、
 不都合なことが起こらないという安心感がある。
・日本的お喋りの楽しさは、実にこうした条件において最高である。お互いの気分のおも
 むきままに話は流れ、非論理的であるから、内容は当然(インテリの場合も)知的なも
 のではないかもしれないが、これは一種のリラクセーションとして、大いに社会生活上
 貢献している、といえよう。こんな無防備な会話というものは、少なくとも外国のイン
 テリの間では存在しないといってもよいかもしれない。
・日本人は、論理よりも感情を楽しみ、論理よりも感情をことのほか愛するのである。少
 なくとも、社会生活において、日本人は、インテリを含めて、西欧やインドの人々がす
 るような、日常生活において、論理のゲームを無限に楽しむという習慣を持っていない。
 論理は、本や講義の中にあり、研究室にあり、弁護士の仕事の中にあるだけであって、
 サロンや喫茶室や、食卓や酒席には存在しない。そうしてところでは、論理をだせば屁
 理屈っぽい話として避けられ、屁理屈っぽい人は遠ざけられる。
・論理のない世界に遊ぶ−しかもそれがきわめて容易に日常生活の場で行なわれ、それが
 公的な関係に交錯するほど、しゃかい生活全体のリズムの中に、その重要な部分として
 位置づけられている−ということは外国人にとっては一つの芸当と見えるかもしれない。
 日本人にとっては、それは序列のきびしい生活における神経の疲れを癒すという重要な
 精神衛生に貢献しているにちがいない。しかし、この論理のない世界というものを、そ
 して、それを社会生活の中で、これほど機能させるということを、そうした慣習を共有
 しない人たちに説明することは実に難しい。 
・日本人、日本の社会、日本人の文化というものが、外国人に理解できにくい性質を持ち、
 国際性がないのは、実は、こうしたところ−論理より感情が優先し、それが重要な社会
 的機能を持っているということ−にその原因があるのではなかろうかと思われる。
  
おわりに
・日本人の社会生活における非論理性(相対的関係)にこそ、日本社会の分析の難しさが
 ある。しかし、多量の人間が、一応つつがなく社会生活を送っているということは、そ
 こに必ず一定のシステムが存在し、いかに、日本人が論理的行動をとらないといっても、
 そのシステム自体は、一定の論理を持っているはずである。
・日本社会の特色というものは、決して日本人が本質的に他の社会の人々と比べて異なっ
 ているということではない。それぞれ古い歴史を持つ文明社会においては、長い間にそ
 の社会的独得の慣習を発達させ、結晶させるもので、他の社会のそれと比べると、別人
 種、異民族という感を深く抱かせ、その文化的な違いがあたかも決定的な生物学的な違
 いであるかのようにさえ感ぜられるものである。
・しかし、いずれも「人類」という動物の一種である。どの社会の人々も、人間という
 「種」として本質的に同様な特質を持つばかりでなく、これほど文明が進んだにもかか
 わらず、一定の条件に対しては、個人としても集団としても、他の動物に共通した反応
 を示すことも十分指摘できるのである。
・現在の学問の水準でさかのぼれる限り、日本列島は圧倒的多数の同一民族によって占め
 られ、基本的な文化を共有してきたことが明白である。日本列島だけをみれば、よく言
 われるように、関東・関西、また東北・西南日本などという設定をはじめ、その他、地
 域差というものがクローズ・アップされるが、この地域差にもまして、全行的な共通性
 は驚くほど高い。実際、他の国との比較においてこれをみると、日本における地域差と
 言われるものは、同質社会の中の相対的差の問題にしか過ぎず、むしろ共通性のほうが
 重要なウエイトを持っていることがわかるのである。
・この日本列島における基本的文化の共通性は、特に江戸時代以降の中央集権的政治権力
 に基づく行政網の発達によって、いやが上でも助長され、強い社会的単一性が形成され
 てきたのである。さらに近代における徹底した学校教育の普及が人口の単一化にいっそ
 う貢献し、とくに戦時の挙国一致体制、そして、戦後の民主主義、経済の発展は、中間
 層の増大拡大という形をとりながら、ますます日本社会の単一化を推進させてきたもの
 といえよう。
・この日本社会の「単一性」こそ、人と人、人と集団、集団と集団、の関係設定のあり方
 を決定する場合に、重要な基盤となっているものである。