「大変な時代」   :堺屋太一

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 この本が書かれたのはバブル崩壊後の1995年頃であるが、いまでもまだその内容に古さを感じ
ない。むしろ、バルブ崩壊後の「大変な時代」の経過を経験と合わせながら読めるので、ますます現
実感がある。
 バブル崩壊から今日までまさに大変な時代だったという気がする。これまでの常識が次々と崩壊し
始めた。年功賃金が崩壊し、終身雇用が崩壊し、そしてそれに伴い今は職縁社会の崩壊が静かに進行
している。多数を占めているサラリーマンがこれまで拠り所としてきた「会社」が、拠り所ではなく
なってきている。拠り所を失ったサラリーマンは、これからいったい何を拠り所にしたらよいのか。
 筆者は、これからは「好縁社会」であると説いている。同じ好みを持つ者同士がコミュニティを成
していく社会が出現するという。しかし、今の社会を見ると、その「好縁社会」というものの姿は、
まだ見えてこないような気がする。人々のつながりがどんどん細くなり、孤立化が進行しているよう
な気がする。
 旧体制から新体制に代わるまで10年間は要するというのが筆者の持論である。バブル崩壊から既
に10年が過ぎている。しかし、新しい社会体制というのはまだ見えないような気がする。それとも、
もう既に新しい社会体制になっているのか。
 これからの時代は成長が期待できない「うつむき加減の時代」だという。少子化が進み、高齢化が
どんどん進行していく。自由化による競争もますます激しくなる国際化の中において、日本が再度こ
れまでのような経済成長をするのは極めて困難なのだろう。
 日本国内においても、人々の間においての自由競争により、格差が拡大することを筆者は示唆して
いる。野心を持ち激しい競争を勝ち抜き巨額の富を得る者と、そうではない者とに分かれるという。
大多数の平凡な人々は、危険を冒して富を求めるべきではなく、ささやかな幸せを求めるべきである
という。これは、「格差社会」もしくは「階級社会」の出現を示唆しているものと思われる。
 恐らく新しい社会体制というのは、こうした「格差社会」「階級社会」となるのだろう。その兆候
は既に現れている。六本木貴族といわれる人々が出現する反面、フリーターやニートと呼ばれる人々
が増大し続けている。しかし、そういう社会体制を人々はいつまで許容していけるのだろうか。
いつかは、不満が大爆発するのではないのかという気がする。その時は、近未来映画のように階層間
の戦争が起きるのだろうか。

「大変な時代」とは
 ・今日の日本では、過去の常識とは断絶した新しい現象がある。多くの人々が「大変な時代になっ
  た」と思うのは、「これまで」の知識や経験では推し測れない「これから」に対する不安、つま
  り時代の「不連続感」があるからだろう。
 ・「大きな変化が続く日々」という意味だけでも、今は「大変な時代」に違いない。しかし、多く
  の人々が、今を「大変な時代」と感じるのは、そんな単純な驚きによるだけではあるまい。これ
  に劣らず重要な第二の点は、「これまで」の知識や経験に代わって、「これから」を説明するよ
  うな思想も理論も見えてこないし、それを生み出しそうな技術も組織も現れないことである。
 ・この国の高度経済成長と国際競争力強化を実現してきたはずの官僚組織と一部の経営者とが、バ
  ルブ景気の崩壊と円高の過程で、国庫と企業に膨大な損失を与えた。「偉い」と思っていた高級
  官僚や経営者の多くが、実は見通しが悪く見切りが拙い無能無責任な人々だとわかったわけだ。
 ・このことは、有能で勇敢だと信じていた帝国陸海軍の将星たちが、必ずしもそうではなかったこ
  とを知らされた終戦時と同じような衝撃を、日本人多数に与えている。つまり、今の世の中は一
  種の「終戦」現象が起こっているのだ。困ったことは、当の本人たち、高級官僚や企業経営者の
  ほとんどが、その事実に気づいていない点である。
 ・だが、何よりも多くの人々に不安と不信を与えているのは、日本の官僚機構や企業組織には、
  「これから」の時代にふさわしい改革を実現する能力と勇気が欠けているように見えることだ。
 ・今日の日本は、本音と建前が大きく乖離した世の中だ。本当の気持ちや目的を露骨に言わず、言
  葉を飾り表現を工夫するのは、文化の成熟化現象の一種といえなくもない。
 ・いつの時代でも、世の中は変わる。そういう意味では、時代は常に不連続だ。
 ・今が特に「大変な時代」と感じられるのは、この不連続で不透明な先に、夢とおもしろさが期待
  できないからだろう。世界の冷戦構造と国内のバブル景気が崩壊して以来、日本の将来を明るく
  思わせるような展望は出てこない。
 ・経済成長率は、予測に差があるとはいえ、今までよりは下がることは間違いない。特にこれまで
  日本が得意とした規格大量生産型の製造工場では、東アジアの新興工業地域の追撃が急激であり、
  規模の縮小と利益の減少は避けがたい。それに伴って、投資要因は減り、財産性の物価も上がら
  なくなるだろう。つまり、経済は「右肩上がり」から「うつむき加減」に変わらざるを得ない。
 ・何より決定的なのは、これからの日本は人口が増えないこと、特に若年人口が急速に減る出すこ
  とだ。
 ・今、多くの人々が、「大変な時代になった」と思う第三の要素は、日本の将来に対する衰退の予
  感である。現在の日本の最大の問題は、現実のきびしさではなく、将来に対する脅え、特に夢と
  おもしろ味のない未来図から感じる衰退と退屈の予感である。国民の中には、自由な発想と大胆
  な行動とで、おもしろい未来を描くのを抑制するこの国の体質と気質に対する不満が潜在してい
  るのだ。
 ・経済成長率の低下は、今日と明日、今年と来年の生産量の増加率が減ることを意味していても、
  今年の楽しみや未来の夢がなくなることを意味するものではない。「右肩上がり」で走り回るよ
  りも、「うつむき加減」で今を楽しむほうがずっとおもしろい、という生き方もありうる。
 ・子供が減れば、国民社会全体の教育負担は軽減する。人口が増えなければ住宅を増やす必要では
  ない。住宅が増えなければ、都市を広げる苦労も、道路や地下鉄を延ばす費用も必要でない。い
  くらか贅沢な暮らしをするとしても、住宅投資や公共投資は大幅に減らせるし、資源やエネルギ
  ーの使用量も抑えられる。生活の質の向上ぐらいは、利用の高度化、効率化で十分まかなえるは
  ずである。
 ・つまり、経済が「うつむき加減」になり、国際社会での責務が増え、若年人口が減少するという
  ことは、より多くの選択の自由と今を楽しむ余裕が、この国に生じることでもある。
 ・若年人口が減少する「これから」の時代には、巨額の費用を「今」のために自由に使えるように
  なるはずである。
 ・人間が自らの好みでお金を遣い、自らの選択で周囲と付き合えるのは、楽しいことだ。今、よう
  やく日本は、そんなことができる世の中になろうとしている。そのことに、われわれは脅えおの
  のいてはならない。管理された成長よりも、選べる自由を楽しむ知恵と勇気が必要になっている
  のである。

今、変化とは何か
 ・今、日本は、そして世界は大変革の時代を迎えている。この変革とは、世界的には「冷戦の時代」
  から「大競争の時代」へと変わることであり、日本的に見ると「成長の時代」から「成熟の時代」
  に変質することである。
 ・1971年にニクソン・ショックがあり、金とドルとの交換が停止された。これによって、金為
  替本位体制は崩壊し、全世界が完全なペーパーマネー・ソサエティになった。人類はいかなる物
  質にも裏づけられていない通貨を世界的に使用することになったわけだ。
 ・ところが、81年に登場したレーガン大統領は、現代がペーパーマネー・ソサエティであること
  に気づき、それにふさわしい政策をやりだした。国内物価が急騰しない限り財政赤字を苦にしな
  い積極財政、保守的な見方からすれば、「破滅的な楽観主義」とさえいえるような政策をとった
  のである。これによってアメリカの景気は振興され、「強いアメリカ」が回復し、やがて冷戦に
  勝利することになるのである。
 ・「大競争時代」を生み出した第二の理由は、70年代末から始まった世界的な規制緩和現象だ。
  ペーパーマネー・ソサエティの時代になって、政府の通貨に対する統制力が弱った。その結果、
  まずアメリカとイギリスで「ビックバン」といわれる規制緩和が行われた。
 ・世界的な供給過剰時代となった80年代には、先進諸国で次々と ビックバン的な自由化が広が
  った。その結果、生じた現象の一つが、自国の国内市場に頼ることなく、輸出目的だけで工業を
  起こすことが容易にできるようになったことだ。
 ・世界的な工業製品の貿易自由化は、低賃金などの社会条件を利用して、豊かな先進国向けの製造
  業を産み出したといってよい。
 ・80年代後半に急激に進歩したエレクトロニクス技術は、製造業の現場における熟練の必要度を
  低下させ、あまり教育水準の高くない人々でも高品質の製品をつくれるようにした。エレクトロ
  ニクスは高度の技術にはちがいないが、それを組み込んだ機器を操作するのはさほどむずかしい
  ことではない。
 ・近代化以来、日本は四回の変革を経験した。そしていずれの場合にも、旧体制が崩壊してから新
  体制が確立するまでには、約十年を要している。最初の四年間は、旧体制を破壊することに費や
  され、次の二年ないし三年間は、新体制の方向を模索することに使われる。そして最後の三年な
  いし四年間が、新体制の中で主流となるべき産業、組織、人材を確定する機関である。
 ・日本は大久保利通らの賢明な選択によって、ドイツ帝国の倣った官僚主導型啓蒙主義体制をとっ
  た。しかし、外交的には歴史的偶然によってイギリス陣営に属していた。
 ・現在の世界の基本は、イギリス(およびそれを引き継いだアメリカ)で形成されたアングロ・サ
  クソン系のシステムだが、その中でドイツが貢献したものは、健康保険と幼児教育と大衆旅行だ
  という。この三つの分野には今も多くのドイツ語が残っている。
 ・明治の日本は、このドイツ帝国の方式をとり入れたうえに、過去と断絶した「理想の組織」をつ
  くった。それゆえ、日本では初等教育や鉄道、郵便などがまたたく間に全国に広まった。徴兵制
  度も徹底さて、均質的な兵士のよる強力な陸軍もつくることができた。貴族や私兵団ではなく、
  軍事官僚(いわゆる軍部)が権限を握る源泉ができたのだ。
 ・昭和の初めの軍人や官僚が、全員無能であったわけでも、悪人であったわけでもない。彼らの最
  大の欠点は、組織への狭い忠誠心にこだわり、権限を放棄する勇気を失い、組織人としてもっと
  も重要なガバナビリティ(被統治能力)を欠いていたことである。そして、その根本的な原因は、
  被統治能力を欠いていることに対する罪悪感を感じない倫理の頽廃であった。
 ・いわゆる「五五体制」が生まれたのは終戦から十年目である。このときもまた、変革には十年を
  要したわけだ。
 ・「五五体制」は、政界だけではなく、政策にも経済にも、経営や社会生活の面にも存在した。日
  本で終身雇用という言葉がはじめて使われたのが五六年だった。このころから日本の社会全体が
  「職縁社会」に変わっていく。つまり、職場が共同体化し、地域コミュニティや家族制度が崩壊
  する現象が進んだ。
 ・ところが、この戦後体制が、九○年から急激に崩壊過程に入った。九○年から九三年までの四年
  間は、これまでの戦後体制を破壊し消滅する時期だったといえるだろう。そして九四年からは、
  まさに新しい体制を模索する時期、つまり変革期の中でもっとも変動の激しい「乱期」に入って
  いる。
 ・まず政界において、自社対立構造が破壊された。経済の面では価格破壊、流通の経路破壊が起き
  ている。遠からず戦後築かれた共同体型の職場組織が破壊されるという現象が始まるだろう。そ
  してそれは、「職縁社会」全体の破壊につながる。こうした結果、今やあらゆる常識が次々と破
  壊される「常識破壊」の時期を迎えるまでになった。

五つの「戦後体制」の崩壊
 ・成功した明治維新や太平洋戦争後の新体制づくりと、失敗した第一次大戦後の体制改革とを比較
  すると、きわめて興味深い点がある。その第一は、成功だった明治維新と太平洋戦争後の新体制
  づくりは、日本人自身が選択をしたのではなく、歴史的偶然と世界情勢によって日本の位置が決
  定づけられた結果だったということだ。つまり、この二つの場合は、強大な外国勢力の前に日本
  人には抵抗の余地がなかった。少なくともそう信じることで、徹底的な変革を受容することがで
  きた。
 ・これに対して失敗した第一次大戦後の改革では、日本は主体的に戦わずして戦勝国となり、その
  後の体制は日本人自身が選択をしなければならなかった。このため、古い制度と勢力が残り、そ
  れまでの成功体験を繰り返した。つまり、変革が不徹底だったばかりか、旧勢力を強化する方向
  へ走ってしまったわけである。
 ・今回(冷戦後)の場合は、日本を一定の方向に導いていこうとする強力な外国勢力が存在しない。
  つまり、日本自身の決断で旧体制の清算と新体制の構築をしなければならない。当然、これには
  日本人同士の争いが生じ、日本人の間に利害損得が生まれる。それはおそらく、この国の社会を
  不安定な状態にするだろう。
 ・変革期の改革を決断しないことは、世界の流れに抗して独り守旧的な態度をとり続けることを意
  味する。激流の中で立ち止まろうとするのは、きわめて危険なことなのである。
 ・第二の問題は、成功した明治維新や太平洋戦争後の体制づくりには、「欧米列強に追いつく」
  「アメリカ的豊かさを目指す」という明確な手本があったのに対して、失敗した第一次大戦後の
  改革には、明確な目標がなかったことだ。
 ・勝利のむずかしさは、次の目標を自ら創造する点にある。昭和初期の日本は、それにも完全に失
  敗した。創造力のある人間より試験上手に権力を委ねたからである。
 ・今この間に起こっているのは、戦後体制、いわゆる「五五体制」の全面的崩壊現象だ。
 ・「政策の五五体制」に代わる基本政策を、日本は見つけなければならない。つまり、対米追随を
  きっぱりと放棄して世界との対立を辞さない覚悟を固めるか、供給者保護を中止して、消費者優
  先の自由市場経済に転換するか、いずれかを選ればなければならないときが来たわけである。
 ・そして今は、「経営の五五体制」すなわち閉鎖的労使慣行、先行投資型財務体質、集団的意思決
  定方式を三大要因とする日本式経営も崩壊の危機に瀕している。長引く不況によって、終身雇用、
  年功賃金の見直しは避けがたくなっている。株価の低迷と地価の下落で先行投資型財務体質も効
  力を失ってしまった。多くの企業は、社員共同体としての集団的意思決定方式だけは残そうとし
  ているが、それにこだわれば企業全体を衰退させることにもなりかねない。
 ・だが、何よりも重大なのは、「社会の五五体制」である職縁社会の崩壊が始まっていることだ。
  「会社人間」が時代遅れだといわれだすとき、日本人はどのようにして生きるべきであろうか。
 ・今、進行中の変革においては、この五つの「五五体制」のすべてが崩れる、ということこそ重要
  である。これを部分的な問題として理解しようとすると、本当の改革からは取り残されてしまう
  だろう。しかし、たとえ頭ではわかっていても、それぞれの問題となると、自己の分野だけは従
  来のやり方、つまり「五五体制」を維持しようと努力したくなるのが人の常だ。数十年もの間、
  慣れ親しんだ仕掛けと仕組みと仕方から抜け出すことは誰にも恐ろしい。慣れた苦痛には辛抱で
  きても、未知の恐怖には耐え難いものだ。
 ・しかし、変革の時代には、過去を打ち砕く勢力が必ず現れる。新興企業群の出現、政界の激動、
  そして価格破壊、経路破壊、組織破壊等々の現象だ。これら全部をまとめていえば、これまでの
  常識が破壊される「大変な時代」ということになるだろう。

変質する「四化」の衝撃
 ・日本では、九五年を迎えて四つの重大な変化が出現している。それは、「高齢化」「国際化」
  「成熟化」、そして「情報化」の「四化」が、根本的に変質したことだ。
 ・今までは高齢者の増加による「めでたい高齢化」だったが、これからは高齢者の増加とともに若
  者の減少が進む「寂しい高齢化」が始まるわけである。若者人口の減少は、分化、経済、社会に
  きわめて大きな影響を及ぼすだろう。
 ・団塊の世代は、生涯、住宅の購入を意識し、住宅ローンに苦しんだ世代でもある。
 ・住宅を購入しなければならないという切迫感は、団塊ジュニアにはほとんどない。しかも、彼ら
  に続く世代は、さらに大幅に数が減るのだから、次の世代に住宅を譲り渡さなければ、という気
  持ちも湧いてこないだろう。そうだとすれば、二十一世紀になるころは、住宅建設は大幅に減少
  し、日本は住宅過剰の国になる可能性がきわめて高い。
 ・人口増加が停止し、地域間の人口移動が減少すると、現在の半分ぐらいまで住宅建設戸数は減少
  するだろう。そして、それ以上に宅地造成の必要性は少なくなるに違いない。
 ・これまで日本の企業は、若者マーケットを追求し、若者文化に迎合してきた。極端に言えば、す
  べての供給者が若者にゴマをすってきたのである。しかし、若者が減り、若者文化が退潮化して
  いくとすれば、日本の企業は若者以外に新たなマーケットを見つけなければならない。
 ・日本の供給者も、高齢者マーケットを真剣に考えなければいけないのだが、いまだにその意欲と
  能力は非常に低い。その最大の理由は、高齢者マーケットが非常にわかりにくいことだ。
 ・これから日本の需要を考えるとき、高齢者文化というものに対して熟知していく必要がある。そ
  の中から、高齢者の心理、高齢者の社会的および家庭的な立場、人間関係に対する希望などを改
  めて考えなければならない。
 ・現在四十五歳以上の人たちは、いわば住宅ローンで苦しんだ世代だ。あらゆることが住宅購入を
  前提として考えられていた。だが、これからの世代はそうではない。住宅は夫か妻かどちらかの
  親から相続できる。一人っ子同士が結婚すれば二軒もらえるかもしれない。これからの若者は、
  住宅ローンを払わない世代なのだ。では、その分だけ何に消費するのだろうか。それを考えただ
  けでも、この国の需要構造が大きく変わることは想像にかたくない。
 ・平均で見ると、日本の住宅は必ずしも狭くはない。特に東京は大阪など大都市の住宅は、世界の
  大都市の中でも広いほうだ。しかし、それはあくまでも平均値であって、豪華な住宅、広い住宅
  はごく少ない。政府の住宅政策は、「ウサギ小屋」と呼ばれる小規模住宅の数を増やすことでし
  かない。
 ・日本の経済はいずれ成長段階から成熟段階へと移行する、といわれ続けて久しい。しかし、これ
  まで成熟化という概念は、経済成長の究極の姿として語られていた。つまり、経済が高々度に成
  長し、産業が発展し、社会の効率が高まり、人々が豊かになる。その極限として成熟化社会があ
  る、と考えられていたわけだ。
 ・したがって、成熟化社会では、すべてが効率的になり、すべてが清潔で、すべての人々が豊かに
  なる、と信じられていた。それが、世界中の経済学者や政治家のまき散らした、成長の究極とし
  ての成熟化社会の幻想であった。
 ・ところが、八○年代にアメリカの社会が成熟し始めたとき、そこに現れたのは、効率がいい社会
  でも、清潔な街並みでも、みなが豊かな世の中でもなかった。生産効率の高いエレクトロニクス
  や自動車産業が外国に流出し、必ずしも効率がいいとはいえない都市清掃や大衆飲食店がアメリ
  カ国内に残ったのである。その結果、アメリカにおいて中堅の所得者が激減した。年収3万ドル
  から8万ドルの中堅所得者が大幅に減り、年収3万ドル以下の低所得者が急増したのである。
 ・その一方では、そうした低所得者を巧みに操るごく少数の者が、年収100万ドル以上の高い所
  得を得るようになった。しかも、その低所得の職業さえありつけないホームレスも相当増えた。
  したがって、街は美しくなるのではなく、むしろより不潔になり、犯罪や麻薬が蔓延するように
  もなった。
 ・八○年代には、多くの人々は「これは多様なアメリカ社会の特殊現象である。成熟化社会の一般
  的なパターンではない」と強弁した。みながそう信じたかったのである。ところが、九○年代に
  なると、ドイツやフランスでも同じことが起こり始めた。それを象徴的に示すのが、失業率の高
  さ、とりわけホワイトカラー失業の問題である。
 ・所得の少ない人たちは当然、低価格志向になる。そうすると、時給40ドルの売り場主任がいた
  百貨店が潰れて、時給6ドルの見張り人だけが立っているディスカウント・ストアに替わる。猛
  烈な勢いで低価格志向が起こり、低賃金化が促進される。
 ・欧米に広がる階層分化をされに徹底させそうなのが、本社機構の縮小運動である。欧米の大企業
  では、これまで工場労働者はレイオフしても、本社従業員のホワイトカラーは減らさなかったが、
  1993年から本社機構の縮小も始まった。
 ・要するに、成熟化社会の見方は今や大きく変わってしまったといえる。成熟化社会とは、技術の
  進歩と組織の変革によって、中間管理職と熟練工のいらなくなる社会なのだ。そのことに、世界
  中がやっと気がついた。中堅管理職や熟練工に代わって仕事をするのは、コンピュータだ。
 ・十八世紀にイギリスで始まり十九世紀に欧米諸国に広がった産業革命は、人間の筋肉を蒸気機関
  に置き換えたが、今、進行している知価革命は、人間の知識と経験と規律の習慣をコンピュータ
  に置き換えている。しかも、そのコンピュータの配置は、通信機関によってどこに置いてもよい。
  これが成熟化社会の本当の姿であることを理解しなければならない。
 ・真の情報化社会というのは、情報そのものが価値を生み出す社会でなければならない。したがっ
  て、おカネの取れる情報の生産と加工が重要だ。ところが、その面では、日本は非常に立ち遅れ
  てしまった。
 ・情報関連のもっとも劇的な失敗例はハイビジョンだ。ハイビジョンは1964年につくられた研
  究開発計画に基づいて進められてきたが、70年代後半になると失敗だったことが明らかになっ
  ていた。なぜかというと、ハイビジョンであれば他のテレビと違って格段におもしろいという映
  像ソフトが発見できかなったからだ。
 ・とかく物財の技術者は「何ができるか」を過大視し、次々の高級品をつくりたがる。自動車でも、
  最初は低価格車で出た車種が、毎年モデルチェンジのたびにいろいろなものが付加され、値段が
  高くなる。
 ・ハードの技術者は、常に最高の技術を発揮し、最高の製品をつくりたいという意欲に燃える。自
  動車もAV機器も、マルチメディアも、何ができるかを過大に宣伝するが、「それに一般消費者
  が何円払うか」という話しはおろそかにされがちである。
 ・「フランスのエリート官僚が考えるとコンコルドができた。アメリカのビジネスマンがつくると
  ジャンボジェット機ができた」というたとえ話がある・アメリカのジャンボジェット機は、ビジ
  ネスマンが商売先行でつくったが、フランスのコンコルドは国家官僚と技術エリートが可能性へ
  の限界を追ってつくり上げた。結果はジャンボ機は二千機以上も売れたが、コンコルドは二十機
  も売れなかった。
 ・ハイビジョンは、まさに「情報のコンコルド」だった。性能は確かに良いが、値段は高い。その
  値段に見合うほどの楽しさの上積みが発見されなかったのである。
 ・これからの情報化においていちばん大切なことは、情報化によってごく普通の人間がどれだけの
  代金を支払う楽しみが与えられるかである。
 ・情報化社会の主要な部分は「楽しみ」であり娯楽である。その中でいかに大量の、いまに多様な
  情報を与えるかの競争である。情報の豊かさというのは、多元さと多様さのことだ。
 ・情報の多様性は、日本においては情報管理システム、特に記者クラブ制度によって抑制されてい
  る。情報の多元性は、情報発信の東京一極集中によって困難にされている。そして、何よりも、
  小学校から多様さを排除する没個性化教育を受けてきた多くの消費者が、多元性や多様性を求め
  ようとしない。この国では、多元多様な情報の需要が、今のところは少ないのである。
 ・日本で多元多様な情報を発信しているのは、歌謡曲とコミックとゲーム・ソフトの世界だろう。
  この三つ、つまり、カラオケとアニメとファミコン・ゲームだけは、日本が世界を圧している。
  大企業大組織から排除された日本の創造的な個性が、ここに集中しているからである。
 ・歌謡曲もコミックもゲーム・ソフトも、制作主体は多くて二十人、だいたい十人ぐらいのスタジ
  オだ。この程度の組織なら、日本でも個性と創造性を許容することができる。それ以上大きな組
  織になると、日本では個性と創造性が許容されない。

「競争」のさまざまな概念
 ・日本人は、現在の日本の社会を自由経済と考え、日本の企業がこの国でやっていることを自由競
  争と信じてきた。しかし、世界からは、日本は自由経済の社会ではないし、日本の企業は(少な
  くとも日本国内では)自由競争を行っていない、と見られている。
 ・「日本は官僚主導型業界協調体制であり、いわゆる護送船団方式で業界全員が保護されている」
  という話は、諸外国からも日本国内でもよく耳にする。つまり、自由競争のない供給者保護社会
  だ、というわけだ。
 ・ところが、その一方では、日本には「過当競争」が多い、ともいわれている。日本企業はすぐ過
  当競争をする。これを防止するためにも、ある程度の「官僚主導型業界協調体制」は不可欠だと
  いう論法が、かなり広範に行われていた。
 ・「過当競争」という言葉は日本独特のものだ。供給者側の競争ならどんなに激しくても過当とは
  考えられない。自由競争社会においては、供給者の競争は激しければ激しいほどいい、というの
  が一般的概念なのだ。ここで問題なのは、真の自由競争を制限する独占や談合、および同業他社
  を破綻させる目的で行われる不正な競争手段だけである。
 ・日本の企業間競争をわかりやすくいうならば、「大相撲型」である。新規参入がきびしく制限さ
  れ、すべてが伝統的様式によって規格化され、力士の優劣は官僚機構によって決められる。それ
  は官僚主導であって消費者主権ではない。したがって、真の意味での自由競争ではない。日本型
  競争の典型である大相撲は、確かに良さを持っているが、世界で通用する自由競争ではない。
 ・日本型の官僚管理下での業界協調体制による「規制された競争」とはまったく逆の、完全な自由
  競争を理想としているのがアングロ・アメリカの社会だ。これをスポーツにたとえるとすれば、
  「プロレス」になるだろう。自由競争に結果、プロレスは極端にローコストになった。大相撲と
  は逆に、プロレスは、もっとも選手寿命の長いプロスポーツの一つなのだ。
 ・今日、日本で消費者の払う入場料だけで成り立っているエンターテイメントは、歌謡曲と漫才と
  プロレスの三つだという。歌謡曲と漫才とプロレスが入場料だけで成り立つのは、主としてロー
  コストだからである。自由競争とは、あくまでもコストの範囲内で競われるものだ。コストを無
  視した競争は、自由競争ではなく、政治的闘争である。
 ・新規参入が自由で消費者の選択によって盛衰が決まるアングロ・アメリカ型の自由競争では、価
  格の引き下げこそが競争に勝つ道だ。このためには、常に「常識」が破られる。つまり、価格破
  壊が常態化する仕組みになっているわけだ。
 ・誰でも参入できる、消費者に受けることなら何をしてもいい、何が伸びるかは消費者の選択で決
  まる、これがアングロ・アメリカ流の自由競争だ。だが、ここには、二つの絶対的は歯止めがあ
  る。第一は、製造物責任(PL)原則であり、第二はコスト内競争を強要する競争のむ無限性で 
  ある。
 ・自由競争のもっとも重要な点は、常に消費者主権が機能しており、新規参入がさまざまな方向か
  ら入ってくることにある。
 ・欧米では地域独占が実現すると、競争意識が働きにくい。ところが日本では、官僚主導と業界協
  調体制の枠の中であって、間接的な評判競争が起こる。これがある程度は地域独占企業にも経営
  努力を促したことは事実である。しかし、圧倒的に大きいのは、「赤信号みんなで渡れば怖くな
  い」式の、業界全体のハイコスト容認風潮だ。その結果、業界全体が官僚主導の下に安全性や責
  任回避に惜しみなく費用をかけ、最先端技術には熱心だがコスト引き下げ型技術には不熱心な気
  質を生み出した。つまり、日本の体制は、ハイコスト社会になりやすい仕組みなのである。

「ローコスト革命」が日本を救う
 ・日本は今、非常なハイコスト社会、何ごとにつけても経費の高い世の中になっている。
 ・CATVやマルチメディアには、多様な機能が期待されている。ところが、その費用は誰が何の
  ために支払うのか、あまり明確ではない。
 ・古くから日本の社会は、人手をふんだんに使うことで、土地と資源とを節約する方法を追求して
  きた。たとえば、飲食店の場合、日本では、できるだけ店舗を遊ばせないように従業員を多めに
  雇う。客が最大限に入る時間に合わせて従業員を配置し、繁忙期には相席にしても手早いサービ
  スを行って客席の回転をよくする。だから、比較的客の少ない時間帯でも店舗を遊ばせない。ダ
  ラダラウロウロあり余るのは従業員のほうである。
 ・欧米(特にアメリカ)のレストランは、逆に従業員数を最低に抑えているために、昼食・夕食の
  繁忙期にも相席は許さず、客を待たせる。少数の客に占拠されるので、繁忙期でも回転率は上が
  らない。その代わり、客の少ないときでも店の空席は目立つが、従業員は休みなく働く仕掛けに
  なっている。
 ・こうした「人余り」社会の発想できた日本が、今や世界一の高賃金国になったのだから、ハイコ
  スト化するのは当然だ。日本は今、低金利なのだから、施設をあり余らせても人を遊ばせない仕
  掛けへの転換が必要である。
 ・公共事業では、入札に際して、一定の金額を下回る入札者は落選になる。官庁側が計算した予想
  入札価格があり、それから一定比率を引いた最低入札価格を下回ると落札できないという制度だ。
  新しい工法や新規の材料、効率的な作業によって低価格で完成できるとしても、従来の方法で、
  従来どおりの材料費で計算した工費を取らなければ請け負えない。いわばコスト引き下げ型進歩
  を否定する状態が保たれているのである。
 ・日本をローコスト化するためには、公共事業や教育や医療を含めて、全社会的に<コスト+適正
  利潤=適正価格>という発想から離脱しなければならない。自由競争社会の原則である<価格ー
  利潤=コスト>という発想に基づく仕組みへ、世の中全体を変えなければならない。
 ・まず市場(消費者)がいくらなら買うか、他の供給者にいくらなら勝てるかという価格から、企
  業を維持するための利潤を引いた残りが、経営者に与えられたコスト使用権限だ、ということを、
  官僚も経営者も従業員も、明確に意識する必要がある。
 ・人間が生き、次の世代の労働力を再生産するために必要不可欠な費用というのは、実はごくわず
  かである。すでに十八世紀の末に、アダム・スミスは「現在の人間は、ほとんどの費用を見栄と体
  裁のために使っている」と書いている。
 ・しかし、それ以上に重要なのは、企業組織自体が持つ、「内なる規制」の撤廃である。日本企業
  は、集団的意思決定方式をとっているから、必ず多くの人々に事務連絡をする必要がある。会議
  を開く、書類を回す、そしてその前に根回しをする。そういった手続きに膨大な費用と手間がか
  かっている。
 ・個人生活では見栄にかかる費用はかなり大きい。ブランド品を持つ、贈答品を贈る、学校の参観
  日に新しい衣服を買う、不便なほど大きな車に乗る、あるいは住宅にさまざまな飾りものを置く、
  といった見栄に費用が支払われている。
 ・個人生活では、見栄のためにおカネを使うことで本人の満足が得られるとすれば、それも決して
  無駄ではない。しかし、企業経営の場合はどうだろうか。
 ・見栄を張ることによる経営的利点もないわけではない。賃借料の高いビルに入居したほうが優秀
  な従業員が集まりやすい、あるいは制服が高価なブランド品だと女子従業員が募集しやすい、と
  いった傾向はよく指摘される。けれども、実際にはそういう理由をつけて、経営者や管理職クラ
  スが自己満足のために多くの費用を支払っている場合も少なくない。
 ・最大の問題は、最後の「平等化費用」の肥大化である。有能な社員とそうでない者の間にでさえ、
  給与や待遇の差は付けにくい。管理者は無為無能な者にも一定の給与場所と経費を与えることで、
  摩擦と抵抗を避けようとする。成長分野と低迷分野との隔差の問題も容易につけられない。低迷
  分野の担当者も、何とか成績を伸ばそうとするし、それなりの理屈をつけてくる。個人的な人情
  としては、そうした真面目な社員を何とか救ってやりたくなるものだ。
 ・社内のバランスとか社員の士気とかを理由に、収益性の乏しい部局にも予算と人員を配置する。
  担当者への義理や発案した上司への気兼ねから、見込みの乏しい事業からも撤退をしない。そう
  したことに投じられる組織的な平等化費用は、限りなく肥大化する可能性がある。
 ・日本の企業の中には、利益追求の機能体としての本来の姿を忘れ、従業員共同体になっていると
  ころも多い。
 ・日本では人件費が低いことを前提として、さまざまなシステムができているため、清潔や手続き
  や責任回避に人手をかけることには実の無頓着だ。ところが、人件費が上がってきた今日では、
  これまでと同じ手法をとっていては、清潔や手続きや責任回避のための費用が思いのほか大きく
  なってしまう。したがって、部署別分析と項目別分析のほかに、もう一つ、効果別分析というコ
  ストの分析を考えてみる必要が出てきたわけである。
 ・今、日本の企業が直面している最大の問題の一つは、人余りの低賃金時代に確立された人手をか
  ける業務様式を、高賃金時代にふさわしいものに見直すことだ。そのためにも、<コスト+適正
  利潤=適正価格>という官僚主導型業界協調体制の中で生まれた「コストはかかるもの」「この
  費用は仕方がない」といった感覚を変えなければならない。
 ・右肩上がりの経済と業界協調体制の中では、拡大は常に利益を生み出したので、企業は社員から
  拡大意欲が失われることを著しく恐れた。ところが、日本経済はうつむき加減となり、世界は
  「大競争時代」になった。量よりも質、売上高よりも利益率、さらには利益質が追求されるとす
  れば、やたらとやる気を出して事業を広げることは、ときとして有害危険である。ローコスト化
  のためには、やる気を抑えることが必要なときもあるのだ。
 ・組織にとって、士気論ほど危険なものはない。士気論というのは共同体の倫理であって、機能体
  の論理ではない。冷静に目的を追求すべき機能体にとっては、全員の士気が高い、やる気がある
  というのは、きわめて危険状態であり、しばしば危険を冒して費用をかける競争を展開させるこ
  とにもなる。士気が高い人は、自分の所管分野を削除してもよいとは絶対にいわないからだ。
 ・特に、官僚化された組織では、もっとも極端な例をもって一般的利便と効率化を妨げる現象が起
  こる。「もし事故が起きたらどうするのか」といわれると、誰も反対できない。「不潔で食中毒
  が出てもいいのか」とか、「手続き漏れによって不明朗な事態が起こったらどうする」といわれ
  たら、反対できない。だが、ごくまれな極端な例のために、手間と費用を積み重ねるのは愚かな
  ことだ。この点でも、確率論的な連続した思考方法が大切である。
 ・玄人だけが、玄人同士の評判を気にして費用と手間をかけるのを、丁寧で真面目な職人気質とい
  って高く評価するのは、徳川時代以来の人余り時代の名残りである
 ・企業経営においては、常にコスト対効果を考えていかなければならない。技術者やテクノクラー
  トは、自分の分野については完全を期してコストを考えない傾向がある。その結果、一般的な利
  便性が失われ、膨大な費用のかかることにもなってしまう。
 ・こうした心理状態が組織全体に広がってしまえば、各部門が競って費用をかけ手間を費やして完
  全を期し、ひたすら自己満足と責任回避に浸る共同体的悪風が、正義面で通用することとなる。
  そしてそれを「やる気」とか「士気」とか称する。
 ・右肩上がりからうつむき加減に変わった日本経済の変化に対応するためには、根底にある美意識
  と倫理観を変更しなければならなくなってきているのである。

「うつむき加減の時代」をどう生きるか
 ・日本はこれまで、長く「上り坂の時代」にあったから、景気の上昇期は長く下降期は短かった、
  上り坂は急で下り坂は穏やかだった。
 ・これからの経済は、上下波動はあるが、基本趨勢はほぼ水平化する。したがって、長い上り坂に
  慣れたわれわれ戦後日本人には、上り坂は短くかつ穏やかであり、下り坂は長くかつ急に感じる
  だろう。「ゼロ成長」の年が特に不況で悪いわけではないのだ。
 ・明治以来日本が本格的な経済の「下り坂」を経験したのは、太平洋戦争の時期だけだった。それ
  には物理的な破壊とインフレによる蓄積喪失を伴った。逆にいえば、日本人は物理的破壊と体制
  変革を伴わない本格的な「下り坂」の経済というものを経験したことがないわけである。
 ・「うつむき加減の時代」の特徴としては、まず第一は、物価、特に不動産や株式などの財産性価
  格が常に上昇した時代から、上昇するとは限らない時代、むしろ長期にわたって低迷する時代に
  入るということだ。もちろん、世界的にペーパーマネー化が進む中で、各国とも大規模な赤字財
  政をやっているのだから、ある時期に急激なインフレーションが起こる可能性は十分にある。特
  に、石油などの国際商品が急騰する恐れは少なくない。しかし、そうしたインフレ懸念が一方に
  あるとしても、それが起こると次にはまた大幅な値下がりが起こる。長期的に見れば、極端はハ
  イコスト社会を作ってきた日本では、物価、特に土地や株の低下傾向が続くと考えたほうがよい。
 ・第二は、経済が成長から波動に変わるということだ。つまり、拡大志向からローコスト志向に変
  わらなければならないことを意味している。企業の売上げも、都市の広さも、各施設の規模も、
  個人の所得も、押しなべて拡大した時代から、大きくならない時代、大きくなることを予定でき
  ない時代へと変わる。いわば、「明日は今日より豊かとは限らない」ということだ。これは、組
  織論の上からも、人生論の上からも、大きな変化を強いる問題だろう。企業や官庁では、大きく
  するために意欲と馬力の持ち主は危険な存在となり、効率と選別のできる人材が大事になる。
 ・第三に、国際的大競争下でのローコスト化体制となることが挙げあれる。環境問題や安全性の問
  題と、効率追求とは両立する。いや両方を追求しなければならないからこそ、ローコスト化体制
  が不可避なのだ。農林業と小売業では戸数と従事者の急激な減少が進むだろう。続いて、52万
  社を数える建設業界でも、事業者数が激減するだろう。場所によっては、街がさびれビルが空く。
  賑やかな商店街が静かな住宅地へと逆流することもありうる。その一方では、国際競争に勝ち進
  んで巨大企業となるところも出てくるに違いない。国際的な人々が集う新しい盛り場や興行地も
  生まれるだろう。
 ・第四は、若者が増加する時代から若者が減少する時代へ変わることだ。つまり、若者文化から大
  人の文化の時代になることを意味する。日本の社会的雰囲気は、未来志向型で行動的な騒々しさ
  から現在志向の熟慮型に変わっていくだろう。
 ・第五は、これらの結果、建設主導型の「職縁社会」から消費中心の「好縁社会」に変わってくる
  ことが指摘できる。職場にのみ帰属し、職場の縁につながる人間関係にだけ頼る「会社人間」の
  世の中から、好みの縁でつながる人脈を大事にする社会になるということだ。
 ・物価が上がる時代から上がらない時代へ変わることは、先行投資が有利な時代から必ずしも有利
  ではない時代へ、さらには概して不利な時代になることを意味している。
 ・物価が上昇しなくなれば、過大な先行投資をして不景気の間に赤字をだせば、後からつくる施設
  よりも高価な固定費と多額の繰り越し損金を背負うことになる。企画の悪い先行投資は「過去か
  らの追徴金」を求めてくる格好になる。したがって、企業は投資に慎重にならざるを得ないし、
  銀行は融資に控えめにならざるを得ない。何でもやるき満々の社員、」「意欲があって能力がな
  い人材」は、危険な存在と化すだろう。
 ・今、間尺に合わない活動は、平均すれば永久に損失を生む、と見るべきであろう。何でもいいか
  ら販路を広げろ、何でもいいから新規事業を起こせ、といったことは成り立たない。
 ・このことを、さらに大規模かつ組織的にしたのが、新規事業における「ツバつけ競争」だ。土地
  開発、レーザー機器、リニア・モーターカー、CATV、衛星放送、映像ソフト事業と、なんで
  も新しい事業が登場すれば、各企業がすぐに飛びついた。「今は持ち出しでもいずれは成長する」
  と信じられたからである。だが、結果としては、これらの大部分はいまだに投下資金が回収でき
  ていないどころか、単年度黒字にさえなっていない。1990年以降は、成長産業、成長市場と
  いわれたものが一人前の利益を生むようになった例はむしろ珍しい。
 ・これからは、世評や流行だけで新規事業や新製品に飛びつくことは危ない。「うつむき加減の時
  代」に利益が上がる経営を行うためには、拡大志向よりもローコスト志向が大切なのだ。
 ・国際競争の時代に、日本の業界が価格をつり上げていたら、外国からもっと安価なものが入って
  くる。あるいは、より安価な代替品に市場を奪われてしまう。これからの自由競争の時代には、
  「わが社の特色」を掲げて抜け駆けすることが大事だ。抜け駆けの中でもっとも一般的な「わが
  社の特色」を掲げることは、ローコストである。
 ・何が出てもいいように、コストの引き下げと、多様な能力開発のできる組織形態と組織気質、つ
  まりローコスト化体制を常に準備しておかなければならない。
 ・自由競争の世界では、特色を出して他に抜け駆けすることこそ、成長と生き残りへの近道なのだ。
  これまで重視されてきた手続きと根回しに代わって、特色の創造と個性の発揮が経営の最重要課
  題となる。その中には、コストの引き下げがもっとも一般的な方法だが、特定の品質を向上させ
  る道もある。特色の発揮には、決まった方向があるわけではない。
 ・日本でも、国際競争のないところでは、コスト引き下げ型技術がほとんど開発されていない。典
  型的なのは医療と教育の分野だ。
 ・消費者主導も国際競争もない教育、特に小中学校の初等教育の教育費は、日本ではきわけて高く、
  子どもたちがこぞって学習塾に通うという奇習が広まっている。
 ・概して言えば、文部省と厚生省と警察の三つの系統では、コスト意識がなく、消費者の意見も聞
  かない。それというのも、消費者を軽視または軽蔑しているからだ。
 ・官僚組織に限らず、セクショナリズムの進んだ組織では、コスト意識が希薄になり、技術進歩も
  本来の目的を見失いやしい。例えば、省力化技術とコスト引き下げ型技術を混同しているような
  経営者さえいる。省力化技術を導入しても、実際の雇用を減らせないのであれば、コストは下が
  らない。それにもかかわらず、経営者は「人減らしになった」と自己満足している例もある。
 ・ジャスト。イン・タイムで部品在庫を持たないカンバン方式は、日本の企業経営の自慢だったが、
  実際には少量配送費用のほうが高いという例も多い。特に、近年の金利低下で在庫費用が下がっ
  たことは再検討すべき要素だろう。
 ・国際競争とは、あらゆる分野から競争参入者が出てくることを意味する。それだけにローコスト
  を強いられる。それに対応するためには、やはりコスト引き下げ型技術をもっともっと重視しな
  ければならない。
 ・これまでの日本の社会をおおってきたのは、まさに行動性と蓄積性の高い結果重視・未来志向の
  文化だった。テニスやゴルフを一所懸命に習う、旅行して楽しむより写真とみやげ物に走る、カ
  ルチャー教室でも何かの資格を取ろうとする等々、行動性と蓄積性の文化が発展してきた。
 ・対照的に、大人の文化は快適性と納得性を重視し、回顧型のものが多い。日本よりも大人の文化
  が先行しているヨーロッパやアメリカでは、回想録がよく売れる。
 ・要するに「大人」は乗せにくい。乗せにくいということは、多様化するということだ。こうした
  傾向は、産業構造にも影響する。概していえば、過程を楽しむ「時間産業型の文化」が成長する
  ということだ。従来は、結果を求めて刻苦勉励する「知識産業型の文化」が多かった。これから
  は、今の時間を楽しむ「時間産業型の文化」が多くなり、そうした産業が伸びるだろう。
 ・納得性が重視される大人の文化では、今この時点で納得できることが前提だから、将来よくなる
  という期待値では商売がしにくい。消費者としても、拡大のない「うつむき加減の時代」には、
  あまり期待値に乗ってはいけない。未来に対しては慎重に、現在に関しては積極的に生きるべき
  だ。
 ・これからの時代は、都市の人口もそれほど増えない。1994年からは東京圏も流出超過に転じ
  た。近畿圏はずっと前からそうなっている。これからは、都市の人口増加率はきわめて低いもの
  になるだろう。そうなれば、「都市拡大政策」は不要となり、「都市深化政策」、つまり都会性
  を深めていく政策が重要になってくる。
 ・都会性とはなんだろうか。都会の何よりも重要な要素は、多様な選択性だ。われわれが都会に住
  むことを好む最大の理由は、いろいろなものを選択できる点にある。
 ・これからの都会深化政策では、まず、あらゆるものの多様性を拡大し、選択性を広げなければな
  らない。個人も、複属化した人間、つまり、さまざまな断面で異なったコミュニティに参加でき
  る人間であるべきだ。規格基準の撤廃と規制の緩和は、そうした都会深化政策の面からも非常に
  重要である。
 ・選択性が乏しいことは、管理者には楽だが、消費者には大きな不幸だ。今、大きな社会問題にな
  っている「いじめ」も、学校の選択性がないために生じる問題である。監獄と軍隊と日本の学校
  でいじめが起こりやすいのは、一度入ったら自分の意思でやめることができないようになってい
  ること、つまり選択の自由が奪われているからである。
 ・日本では職場にも一部にはいじめがある。終身雇用で選択性が狭められているからだ。
 ・選択性を高めれば、好みの情報が得られる。象徴的ないい方をすれば、住宅ローンを払うのに費
  やす人生から、好みの情報を買い取る人生へ、これからの時代は変わっていくだろう。「うつむ
  き加減の時代」の究極の姿とは、今を楽しむために自らの好みを存分に満たせる十分な選択が可
  能な社会だ。
 ・人々の人生目標が、住宅を建設して子供たちに残すという建設型・蓄積型の「職縁社会」から、
  好みの情報を持って自らが納得する人間関係を楽しむ「好縁社会」に変わる。これによって「う
  つむき加減の時代」を楽しく生きられる世の中が生まれるはずである。
 ・今、日本人はみながみな、成長業種に入り込もうとしている。このため、これからも成長する業
  種がたくさんある、と信じたがっている。もし、他者と同じことをしていれば成長業種に入れる、
  と考えているとすれば大いなる誤解だ。これからの時代には、人も企業も、非成長の時代を上手
  に生きるノウハウを知らなければならない。
 ・そこにおいて健全に利益を上げられる経営、そこにおいて幸せを感じる生き方、そこにおいて楽
  しさを味わえる人生観というものを、われわれはつくり出さなければならない。それを、それぞ
  れの好みを持つ人々が入り込める多様な器として、体系的な社会的心象風景として確立すること
  が、今の日本には求められているのではないだろうか。

「神話」に頼らぬ人生を
 ・戦後、日本人の生き方には三つの暗黙の前提があった。その第一は、「人生に突然の中断はない」
  ということである。戦前には、そうした人生の中断に対して備える心構えを「覚悟」といい、そ
  れこそ人間に必要な心の用意だと考えられていた。「覚悟」が出来ている人こそ、「立派な人」
  だったのである。
 ・およそこの世の宗教はみな、そういった突然の不幸に備える心構えを説いている。それほどに人
  生の不幸な中断が多かった。ほとんどの外国では、今もそうである。
 ・およそ人生に突然の中断がなければ、大きな賭けをしないほうがよい。したがって、戦後に日本
  人からは、「覚悟」とともに「決断」とか「勇気」とかという美徳も消えた。さらには、そのよ
  うな美徳が必要な世の中を嫌悪するようになった。「臆病」は「慎重」といい換えられ、「不決
  断」は合議制の装いをこらした「協調」に変わり、それぞれに美徳化された。そして、その「慎
  重」とか「協調」の背景に隠された社会的コストについては、誰も語らなくなっている。
 ・戦後の日本人にとって、第二の人生の前提は、「人生は負債なく始められる」という神話だった。
  戦後の日本人は、親から恩恵を受け、「資産」を引き継ぐことはあっても、何らかの「負債」を
  負うとは思わなくなった。つまり、人生は必ず「正の資産」のみを持つ状態からスタートするも
  のと信じているのである。
 ・しかし、これからの社会においては、教育や住宅、社会資本等の「正の資産」を前の世代から受
  け継ぐなら、「負の資産(負債)」のほうも負って人生をスタートしなければならないと考える
  べきだろう。個人的な親の扶養であるか、社会的な国債残高や高齢者年金の負担であるかの違い
  はあっても、いずれにしろ気楽な無借金人生というわけにはいかないだろう。
 ・戦後の日本人が持つ人生観の第三の前提は、「明日は今日よりも豊かだ」という神話である。昨
  日よりも今日、今日よりも明日と、年を追うごとに所得も財産も増え続ける、都市も企業もより
  大きくなる、世の中は年々便利になり安全になり美しくなる、という進歩史観的な信仰があった。
 ・戦後の日本人が揺るぎなく信じてきた人生における三つの「神話」は、いずれも一国平和主義と
  高度経済成長と特殊戦後型日本式経営に支えられていたものだ。つまり、冷戦構造の中での右肩
  上がり経済という特殊事情において成立した「常識」だったにすぎない。しかし今、われわれは、
  長い夢から覚めなければならない。阪神大震災は、それを警告した天災として受け止めるべきで
  あろう。
 ・これからの世の中は、大きく変わる。まず第一に、国際化と自由化が進む。これまでの「国際化」
  は、常に日本が出したいものを出し、入れたいものを入れる、日本の出したくないものは出さな
  い、入れたくないものは入れない、いわば「ええとこ取り」の国際化、「改札口付きの開放」で
  あった。
 ・国際化とは壁をなくすことであって、官僚監視の改札口をつくることではない。したがって、入
  れるとすれば何でも入れる、出すとすれば何でも出て行く。それを決定するのは自由競争による
  消費者の選択だけだ。そういう当たり前のことを実現せざるを得ない。そういう意味で、ようや
  く「真の意味での国際化」が始まった。
 ・このことは、「自由競争の原理」を認識する必要性を意味し、日本社会全体がローコスト化する緊
  急性を示している。
 ・今後の日本は「右肩上がりの経済」から「うつむき加減の時代」になる。経済成長率が長期的に
  低下するだけではなく、価格非上昇、人口非増加、都市不拡大の時代になってくる。したがって、
  企業は資産の値上がり益を期待しない経営をしなければならないし、人々も「明日は今日より豊
  かだ」と考えずに生きなければならない。これからの人生では、「明日は今日より豊かだ」とい
  うこと以外に、希望と満足を持つことが大切である。
 ・若者の人口が少なくなる時代に入った。その結果、日本の社会は、フローよりもストック(蓄積)
  の多い社会に突入するだろう。
 ・うつむき加減の社会では、住宅や公共事業に代わるものとして考えられる需要項目は三つある。
  @メンテナンス費用、A医療介護費用、B生活快楽費用、である。@やAの後ろ向き費用が少なく、
  Bに回る費用が多いほうが人々は幸せである。そうだとすれば、今後の消費の中で、時間産業的
  な情報(楽しみのための情報)に対する支出は大幅に伸びるだろうし、伸ばさなければならない。
 ・本当の情報化社会であるためには、情報そのものに対して消費者が直接おカネを支払うようにな
  らなければ、たいした金額にはなりえない。つまり「ゼニ」になる楽しい情報(時間産業的情報)
  が大幅に増えなければならないわけだ。
 ・これまでの情報は、生産要素の一部として、企業が購入する財と考えられていた。今後は、情報
  を消費財として大衆が大量に消費する社会に進むことだろう。世の中全体が建設主導から楽しみ
  重視の情報化社会へと転換する。これが本当の意味でのソフト社会であり、成熟社会というもの
  だろう。
 ・日本も情報化、ソフト化の時代になると、空間的発想から時間的発想に切り替えていかなければ
  ならない。人間の動きを基本とした時間軸がまずあって、それに土地や物財を当てはまる空間軸
  を結び付けていくという発想に、経営が変わっていかなければならない。最初に「土地ありき」
  ではなく、まず人間(従業員)の時間がある。その時間を仕事で満たすためにはどのような施設
  を設けるべきか、という考え方である。
 ・戦後、日本人の大いなる幸せは、自らの人生設計についてさほど迷わずともよかったことだ。い
  や、日本人は利巧にも、そうした時代に対応して、与えられた目標(成長)に満足し、それ以外
  を求めようとしなかった。しかし、これからはそうもいっておられない。人生の目標は、政府か
  らも、職場からも、与えられなくなる。もともとそれは、自分で探し、自分で決めるべきものな
  のだ。
 ・その際、われわれの身辺で確実に起こることの一つは、終身雇用の崩壊、つまり閉鎖型雇用の慣
  行の消失である。そしてそれは、取りも直さず、職場が全人格的に帰属すべき共同体ではありえ
  なくなることをも意味している。
 ・戦後を生きてきた日本人にとっては、転職とは、自分が属している共同体から抜け出し、まった
  く見ず知らずの共同体に入ることを意味している。四十歳を過ぎた大企業の従業員にとっては、
  離婚と転宅と職業替えと改宗とをいっぺんにするほど深刻な事態だ。家族以上に堅固な絆で結ば
  れた職場共同体の人間関係から脱退するという思いが強いからである。
 ・しかし、本人がどのように考えていようと、しょせん職場は職場、労働力を販売して給与を受け
  取る経済機能体でしかない。給与を支払うことが理にかなわなくなれば解雇するのが当然である。
 ・組織の経済基準は、常に組織を守ることであって、組織の構成員を守ることではない。経験的に
  も理論的にも実証されているこの事実を率直に容認し、それ以上のロマンを職場に持たないほう
  がよい。
 ・日本人は宗教心の薄い民族だ。千数百年にわたって神とのつながりではなく、現世における人と
  のかかわりに心の拠り所を求めてきた。つまり、共同体の中での評判を大切にしてきたのである。
 ・帰属する共同体をそれほどまにでに気にする日本人の多くが、単属的に帰属してきた職場共同体
  は、今や崩壊しようとしている。少なくとも、全人格的に帰属しうる対象ではなくなろうとして
  いる。この事実を、われわれは真っ向から見据える必要があるだろう。
 ・終身雇用、年功賃金が崩れるとすれば、人々は二つのことをしなければならない。一つは、閉鎖
  的雇用慣行に頼らずとも十分な所得が上げられる「売れる自分」を形成することだ。もう一つは、
  「与えられた気楽さ」よりも「自分で選ぶ喜び」を持つことだ。
 ・この大きな変化の中での一つの生き方が、どこでも「売れる自分」をつくること、いわば自己の
  市場価値を高めることだ。「売れる自分」をつくることに幸福を感じるならば、これからの時代
  に要請される技能と感覚を大いに身に付ける気にもなるだろう。
 ・野心的な人生を求める者は、たいてい失敗する。それを覚悟で挑戦するのが本当の起業家であり、
  その中での数少ない幸運に恵まれた者だけが創業者として讃えられる。うつむき加減の世の中で
  は、成長はやすやすと手に入るものではない。「明日は今日より豊かだ」という理想を追うこと
  は危険を伴う。それを覚悟で並はずれた富と名声を求めるか、すでにして得られた並みの豊かさ
  を本当に幸せにつなぐ方法を考えるか、それこそがこれからの人生の最大の選択だろう。
 ・いつの時代でも、勇気と冒険心は尊い。それがあるゆえに人類は進歩し、成功する個人も現れる。
  本当の自由競争は、そうした人間の欲望をかき立てる仕組みでもある。これからの時代に、野心
  を燃やすことは悪いことではない。むしろ賞賛すべきことだ。しかし、それは危険なことでもあ
  る。もし危険を避けようとするなら、自らの能力の範囲内で人生を楽しめる自分をつくる道を探
  ることだ。
 ・幸せの大きさは、必ずしも所得の大小によって決まるものではない。所得が多いから楽しい人生
  だ、所得が少ないから哀しい人生だというわけではない。歴史でも、小説でも、映画でも、観る
  人の涙をそそるのはたいてい所得の高い人々の悲劇である。
 ・もし、危険を避けて自らの能力の範囲内で人生を楽しむとすれば、大事なのは所得の大きさでは
  なく、消費と生活の選択である。自らの野心の実現に人生を賭けるのではなく、自らの能力の範
  囲で生きる者にとっては、得られる所得を本当に自分の楽しみに使えるかどうかが、人生の孝不
  幸を分けることになるだろう。同じだけの所得があっても、本当に自分が満足できるもののため
  にお金を使えば、より大きな満足が得られる。周囲の目から離れた自分自身の生き方、自分自身
  の幸せを追求することに対する自信が大切である。
 ・これからの人生は、圧倒的多数の凡人は幸せを目指すべきであって、有利を目指すべきではない。
 ・幸せな人生を送るために必要なことは二つある。第一は、有利さよりも好きを基準にして、職業
  と住居と結婚相手を選ぶことだ。第二は、限られた所得(財)でいかなる消費をするか、いかな
  る喜びをどのようにして買い取るか、そこに自分自身の基準を持つことだ。自分が楽しめること
  を行う自分自身の基準に自信を持つ。つまり、自らを尊ぶ「自尊」の精神が必要である。
 ・戦後の日本には、「自尊の精神」がまるでない。みながこういっているから、世間がこうだから、
  会社でこう決めたから、役所の規制がこうだからと、他人に決めてもらうことに慣らされた。つ
  まり意思決定から逃げているのである。自分で自分のことを決める。それは、誰にとっても当然
  の権利であり、喜びのように思うだろう。だが、現実には、決めることはしばしば大変につらい
  ことでもある。意思決定を他人にしてもらいたいという欲求は、人間の意識のどこかに常にある。
 ・規制緩和を叫びながらも、官僚主導がいっこうに緩まないのにも、統制社会の気楽さに頼ろうと
  する戦後日本の心理の一面がのぞく。官僚統制社会においては、個々人が意思決定する必要がな
  いし、官僚自身も意思決定をしているわけではない。数多くの前例と、積み上げられた規格基準
  と、多くのセクションの相互依存によって、誰も深刻な意思決定することなく、世の中が少しず
  つゆっくりと動くのが官僚主導体制である。
 ・国際化と自由競争が進み、馬力よりも選択が重大になるこれからは、自分自身の意思決定を尊び、
  自らの意思決定を、すなわち真の意味での自由を、楽しむ「自尊」の精神が大切だろう。
 ・これまでの歴史は、貧しい時代の歴史だった。人類は、この貧困からどうして脱出するか、飢餓
  を避けて生命の維持と種の保存をどう全うするかを最大の課題として生きてきた。したがって、
  これまでの社会では生きるための糧を得る生産関係が共同体のあり方を決定する最大の要素とな
  った。それは事実だろう。たとえば、農業生産するために大家族制度という労働力の集中管理制
  度が生まれた、といった見方である。
 ・このような発想を追求していくと、夫婦の協力がなくとも生産(勤務)に支障がないサラリーマ
  ンの間で離婚や婚外同棲が多くなるのは当然、という結論になるだろう。
 ・今や豊かになった日本や欧米先進国では、生産のために他を犠牲にする必要はなくなった。貧困
  からの離脱は、人生の中の欠かせぬ一部ではあってもすべてではない。少なくとも、生産関係の
  ために共同体の形態と相手を選ぶ必要性は急速に低下している。むしろ、消費の配分と共同化こ
  そが共同体の基本となっている。つまり、共同の消費(家計)を持つことを楽しみとする者こそ
  家族なのだ。
 ・「好縁社会」の概念は、生産関係よりも消費関係を重視したものだ。そんな世の中が前面に現れ
  るようになったとすれば、「本当に日本が豊かになった」といえるだろう。
 ・貧困の時代には、子供を育てることは将来の生産を継続し、ひいては自分自身の老後生活の保障
  ともなった。しかし、豊かな世の中では、現在の蓄えによって老後を生きることができる。この
  ため、将来の生産を託する子供のために今の暮らしを拘束されるよりも、現在の消費の選択幅を
  広げたい、少子化して消費の自由度を求めたいという者が増えたのである。
 ・おそらく極端な少子化現象もまた、前近代的な貧困から本来的豊かさへの過渡期としての近代工
  業社会が生んだ一時現象だろう。人類が本当の豊かさ、つまり生産関係からの拘束を断ち切るこ
  とができるような心理状態まで達したときには、労働(勤務)のために育児を断念する者はごく
  少なくなるに違いない。