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 この本は、戦後の団塊世代を総括したものであるといえるだろう。筆者によれば、団塊
世代が作りだした新しい価値観とは「私生活主義」と「経済主義(拝金主義)」に集約で
きるという。団塊世代が作りだしたライフスタイルは「自分の私的な時空間に他者が干渉
することを嫌う」生き方であるという。この「私生活主義」とは、全体が個を抑圧してき
ても、人間としての強い意思をもって対峙する思想としての「個人主義」とは異なる。そ
れはある一面では、「無関心主義」とも言えるものではないかと思う。そして、この「無
関心主義」が今の社会を覆い尽くしていると言えるだろう。その一つ例が政治に対する無
関心ではないのか。選挙の投票率が五割を切るような状態を見れば、納得できる。そして、
その低投票率が生み出しているのが、今の政治の劣化と言えるのではないかと思う。
 そして「経済主義」は、多様な価値が存在する中で、すべてをお金に換算して考えると
いう価値基準を生み出した。これが「私生活主義」と相まって、経済的安定と豊かさだけ
を求めるという傾向が今の日本の社会に深く染み込んでいる。戦後の団塊世代がつくりだ
したこのような価値観を、そのまま後代に残していいのであろうか。
 会社人間として本気で社会に参画し、高度成長期を享受した世代が、定年退職期を迎え、
思いにまかせぬ今の社会状況の中で、私的生活主義に回帰して再び内向していっている。
平均的に考えてあと25年を生きねばならない団塊世代は、自らの体験を整理して、いか
に社会的に生きるかを問い詰め、何かを後代に残していかなければならない責任があるの
ではないか。この本は、団塊世代に向けた叱咤・激励の書であり応援歌である。

はじめに
・いま日本社会において高齢者人口の比重は三割に迫ってきている。2015年には実際
 に27%になった。日本の人口が約30年後に1億人を割ることは確実視されているが、
 人口の減少と同時に、2060年には高齢者人口が四割に至ると予想されている。
 1966年に日本の人口が1億人を超した。その時の総人口1億人における、65歳以
 上の人口比重はわずか7%だった。同じ1億でも、「700万人しか高齢者がいない1
 億人」と迫りくる「4千万人が高齢者によって占められる1億人」という状況の違いを
 よくイメージすべきである。
・2015年、18歳まで投票年齢を引き下げたが、人口の四割が高齢者だということは、
 有権者人口を分母にとれば有権者の五割は高齢者になる。さらに、若者の投票率が低く、
 高齢者は投票に行くという現在の傾向が続いたならば、有効投票の六割を65歳以上の
 人が占めるという事態が充分に予測される。このまま行けば、「老人の、老人による、
 老人のための政治」になりかねないのである。世に「老人がもっともらしい理屈で戦争
 を起こし、若者が戦争に行く」という言葉があるが、我々は日本の民主主義を、このよ
 うな空虚で荒涼としたものにしていいのだろうか。
・世界的に見ても、民主主義の再考察を迫る状況が顕在化している。たとえば、英国の
 EU離脱を巡る国民党投票において、43歳以下の若い世代がEU残留を支持したのに
 対し、高齢者がEU離脱を支持する投票行動を示した、という事実は重い。また、世界
 の民主主義国において、米国大統領選における「トランプ現象」やフィリピンにおける
 ドゥテルテ大統領の暴言への国民の支持のごとく、判知性主義的ポピュリズムが跋扈し
 ており、民主主義への失望に拍車をかけている。
・戦後日本が高度成長期に人口を都市圏・大都市圏に集中させて高度成長期をしのいだが
 ために、首都圏・大都市圏を取り巻く団地、ニュータウン、そしてマンション群を作り
 上げ、現在のコンクリートブロック空間の中に高齢者世代を閉じ込めている状況をつく
 ってしまった。  
・いまの日本の状況は、「新自由主義」と「リフレ経済学」の複雑骨折である。日銀が異
 次元金融緩和をやり、「財政出動」してくれれば経済はよくなるなどという経済学を誰
 が信じて戦後の日本をつくってきたというのか。マネーゲームを礼賛し、株高に拍手を
 贈るような経済学から、もう一回足元をみつめて健全な産業主義に立ち、額に汗して働
 いている人たちに恩恵が向かうような経世在民の経済学を取り戻さなければいけないの
 ではないか。
・日本はいま、非常に複雑な中国に対する屈折した感情を生きている。たとえば中国人が
 外国人来訪者として押しかけて爆買いしてくれることに対して、激しい不快感と爆買い
 への期待感とが複雑骨折しているように、中国に対する冷静な視座を見失いつつある。
 そして中国台頭のエネルギーに追いまくられ、中国の「脅威」を米国との連携の中で封
 じ込めようというゲームの中に埋没している。本当なら、アジアの信頼を確立して、ア
 ジアの中で一次元高い「浩然の気」を放つ指導者としての存在感を高めなければならな
 いはずだ。
・本気で民主主義を獲得するために闘ったことのない人間が、ある日突然マッカーサー民
 主主義でもって生きることになったことを踏まえて、その上で民主主義をどう守り、育
 てていくかという根性持っているのか。絶えずその「弱いところ」へ国家主義への誘惑
 が起こってきて、戦後民主主義は「行き過ぎた民主主義」であるという言い方がすぐさ
 ま登場してくるのである。結局、常に何かが起こると「絆」と「連帯」を叫び始め、そ
 れで国家主義への誘惑を吸い込まれていく。国家主義への郷愁を讃えた民主主義から脱
 却できない状況をどう思うのかという課題を、我々は抱えている。
 
戦後民主主義の総括と新たな地平
・戦後民主主義の空洞化を再確認するかのような2015年夏から2016年にかけての
 政治状況であった。大多数の国民が理解も支持もしていない安全保障関連法が、代議制
 民主主義のルールを満たしたとして成立した。一内閣の判断によって、大多数の憲法学
 者・法曹関係者が「憲法違反」とする法案が成立する事態を目撃したのである。「民主
 主義は死んだ」という叫びさえ空しいほど、事態は深刻である。
・「アベノミクス」なる金融政策に過剰依存した経済政策を支える「リフレ経済学」は既
 に破綻し、経済お根幹たる「経世済民」、つまり国民生活における所得も消費も低迷を
 脱しえないまま、マネーゲームだけが肥大化している状況にもかかわらず、多くの国民、
 とりわけ高齢者が「株高誘導」に期待してアベノミクスを支持する事態を迎えている。
 民主主義がもはや資本主義を制御しえない状況に至っているのではないかという懸念を
 抱えざるをえない。だが、日本における民主主義の空洞化など、今に始まった話ともい
 えない。そもそも、この国が民主主義を真剣に希求したことなどあるのだろうか。
・敗戦の最大収穫は、主権在民の大宣言を前文として11章103条からなる新憲法であ
 ろう。もし戦争に敗れなかったら、人民の基本的人権をかくまで徹底的に保障したこん
 な立派な大法典はとてもかち得なかったであろう。この新憲法は、数百万の人の命と、
 数千億の戦費と、台湾・朝鮮。樺太・千島等の領土と、無条件降伏という最大の不名誉
 を代価として、やっと手に入れたから。民主政治は必ず人民自身によって行わなれる政
 治でなければならぬ。日本の民主化の実現を妨げるものありとすれば、それは唯一、国
 民自身の無自覚怠慢があるだけである。
・平和で安定した戦後日本を生きた日本人は、普遍的価値を重視することよりも、自分が
 帰属する組織の「ウチの会社」の価値に埋没していった。
・実は、民主党政権の失敗は「団塊の世代の失敗」でもあった。鳩山由紀夫、菅直人、仙
 谷由人をはじめ、2009年から3年間の民主党政権には、15人以上の団塊の世代が
 大臣・副大臣。党三役として参画した。団塊の世代の特色でもあり、この世代の先頭と
 する戦後日本人が身につけた、強靭な価値基軸を持たない者の危うい変容性が、この政
 権の迷走の要因であった。タテマエとしての理想主義への傾斜、そして要領のよい現実
 主義への反転、つまり、入口の議論ではたとえば「故郷は地球村」「コンクリートから
 人へ」といった美しいキャッチコピーが好きで、複雑で厳しい現実に直面するとあえな
 く変容する。このことは、沖縄基地問題から原発問題におけるまで、民主党政権のあき
 れるほど無責任な変容を我々は目撃することになった。
・残念なことに、団塊の世代は戦後日本人の先頭世代としての責任をまだ果たしていない。
 仮性成熟の世代というべきで、キレイごとの世界を脱して何を成し遂げるのかの覚悟が
 できてない。戦後の残滓というべき課題、安全保障、原発、沖縄基地などの問題を突き
 詰るならば、結局のところアメリカとの関係であり、「反米・嫌米」の次元を超えて、
 真剣に日米戦略対話を進める決意と構想力が求められるわけで、対米関係の再設計なく
 しては日本の新しい時代は開かれないのである。
・我々は、日本における民主主義の歴史の中で、戦後民主主義の意味を踏み固め、その進
 化を図るべき局面にある。まず、戦後民主主義は「与えられた民主主義」という限界を
 内包しながらも、婦人参政権の実現、20歳からの若者への投票権の拡大を柱とする、
 民主化への前進という意味があることを確認すべきである。戦後民主主義に疑問を抱く
 人たちの本音に耳を傾けると、そこに「戦後民主主義は悪平等をもたらした」という論
 点があることに気づく。「女子供」が衆愚政治を増幅させているという差別意識が見え
 隠れしているのだ。つまり、より多くの国民の意思決定への参画を快く思っていないの
 である。 
・いうまでもなく、民主主義とは「多数派の支配と少数派の擁護」である。問題はその
 「多数派」の正当性であり、民主主義を志向する者にとって、現下の日本の政治は正当
 性を喪失しつつある。2014年12月の総選挙は、野党の準備不足を衝いた抜き打ち
 解散で、争点は「アベノミクスへの信任」とされ、決して安全保障法制や憲法改正を争
 う選挙ではなかった。結果は、自民党4議席減、公明4議席増で、大勝を目論んだ政権
 の意図は空振りであった。ないより投票率は52.7%ろいう低調さで、比例区での自
 民党の得票率は33.1%であった。つまり有権者のわずかに17.4%の得票にすぎ
 ない政党が総議席の61.3%たる291議席を得るという「仕組み」が、国民の意思
 と乖離した安全保障法制を成立させる議会を作ったのである。戦後民主主義が行き着い
 た代議制のあり方に根源的な不信が生じていると言わざるを得ない。
・直接民主主義への限りない誘惑であり、その技術可能性への予感が、国民の意思を反映
 していない代議制の現実と政治を弄ぶ代議者の実態に憤り、「政治不信」を加速させて
 いるのである。
・私は必ずしも直接民主主義を支持しているわけではない。民主主義こそ指導者を必要と
 しており、移ろいやすい民にに乗った劇場型政治がよいとは思わない。「大衆の反逆」
 に過敏に振り回される政治は危険でさえある。だからこそ代議者の役割が大切であり、
 単に民意を意思決定にストレートにつなぐだけの役割ではなく、識見を持ったオピニオ
 ン・リーダーとして意思決定の質を高める役割を担わなければならない。だが、現状の
 多くの議員は政党内での数合わせの陣笠にすぎず、代議制での議論を通じて意思決定の
 質が高まっているとは思えない。
・もし、代議制民主主義の価値を認め、生かすのならば、代議制の錬磨に取り組まなけれ
 ばならない。具体的には、政治で飯を食う人の極小化であり、代議者の定数削減であり、
 任期の制限である。日本は、人口比で米国の三倍の国会議員を抱え、一人当たり年間二
 億円の国家予算を代議制のコストとしている。人口が今後40年間で3割減ると予想さ
 れる国で、国会議員の数を半減することは合理的であり、任期を何年かに制限すること
 は、孫子の代まで政治家を継承する世襲議員や政党を渡り歩くゾンビ議員を消去するた
 めに必要な筋道であろう。
・もう一つ、「首相専制政治の牽制」に工夫を要する局面に来ている。「タテ割り行政の
 排除」という意図もあり、官邸主導がこのところの流行である。「日本版NSC(国家
 安全保障会議)」などの統括組織の新設、やたらに増える「担当大臣」の登場で、本来
 の主務省庁との役割分担が不明のまま奇妙な官邸専制政治が繰り広げられている。
・議会のチェックも与党内の牽制も効か首相主導は危険である。代議制の下で大統領制に
 近い権限を首相に行使させるのであれば、現行憲法通りに議会が首相を選ぶにせよ、国
 民投票で信任を問うなどの方式が付加されるべきであろう。
・戦後民主主義は確かに与えられた民主主義かもしれないが、今その真価が根付くか否か
 の試練の時を迎えている。安保法制から憲法改正に至る「国権主義的国家再編」と「軍
 事力優位の国家への回帰」を試みる勢力という明確な敵に対峙しているからである。民
 主主義への「国民の不断の努力」が求められるその時なのである。
・21世紀の日本は、中国と対抗できる軍事力と経済力を持った専制国家ではなく、アジ
 アの安定軸としての敬愛される成熟した民主国家でなければならない。
  
戦後世代としての原点回帰
・確かに戦争があった。230万人の軍人と、70万人の民間人の同胞が死傷し、家が焼
 かれ、産業が破壊され、民族に悲惨な混乱をもたらした「太平洋戦争」という戦争があ
 ったのだ。そして、アジア全体を戦火に巻き込み、結果として列強によるアジア支配構
 造を解消する間接的導火線になったとはいえ、明治以来列強模倣の「脱亜入欧」路線の
 行き詰まりに生じた「侵亜」の破壊という事実が横たわっているのである。そのことの
 意味はあまりに大きい。じつは、現在の政治、経済からわれわれの日常に至るまでのす
 べてが「敗戦」という事実に規定されたものであり、戦争による被害者性と加害者性の
 同居した「疲弊感」こそ、戦後日本の出発点であった。
・戦後世代のほとんどは、自らの歴史的役割を意識していない。むしろ、「歴史的役割」
 などという歴史主義的表現を好まず、そしてその超克をさえも、肩の力を抜いた微笑で
 見つけ続けている。だが、ここに未来の原型があり、予兆があることだけは否定しがた
 い。
・クルマは自由と欲望の開放をもたらす移動メディアとなった。すなわち、一日の生活行
 動圏徒歩での15km、自転車での40kmから一気に200kmへと拡大し、しかも、
 クルマの中はあくまでも「私的な場」として個人の空間的自由の拡大を促した。たとえ
 ば、クルマによって日本人の性体験の様式が一変し、「性倫理」の変化に影響を与えた
 ことは、かなりの程度実証されている。
・団地および住宅の高層化が人間にもたらしたものは、何であったか。第一に、それは人
 間生活の「個別化」である。団地は、増大する都市住民に効率的に独立した住宅を提供
 することを狙ったものという意味では、かつての「長屋」的な共同住宅と近似したもの
 である。しかし、都市のアパート、マンションが「長屋」と異なるのは、きわめて閉鎖
 性が強いという点である。コンクリートで隔絶された空間として、個々の家庭は高度の
 プライバシーを確保できる反面、鉄のドアを閉めてしまえば、よほど積極的に関心を払
 わないかぎり、まったく近隣社会から隔絶した生活が可能なのである。
 第二に、「団地化」がもたらしたものは、過剰外部依存による変動への過敏性の増大で
 あった。「団地化」にともない、水洗便所や家庭風呂が普及し、「便利で清潔な文化的
 生活」が多くの都市市民に与えられるようになったことも確かである。だが、その反面、
 多くの人に便益を提供するメカニズムは、集中管理方式の機械系、エネルギー供給系に
 依存せざるをえず、その構造は代替性が少ないだけに、都市住民をつねに潜在不安の中
 に置いているといえる。団地における人間生活の「個別化」はけっして本質的な意味で
 の「自立化」ではなく、むしろ個別のカプセル(住居)が、冷暖房、上下水道、煮焚き
 から食べ物まで何らの自立性もない過剰外部依存構造の中に組み込まれていることがわ
 かる。突き詰めて言えば、都市文明そのものがそうした性格をもつわけであるが、都市
 市民の「尻の下」は、表面的「自由」「便利さ」とは裏腹に明らかに不安定が内在して
 いる。
・「都市化は核家族化を促す」といわれているが、狭く金のかかる住環境、農村のように
 大家族による共同作業を必要としない職業生活、自由で個人主義的な都会の雰囲気など
 が要因となって、都市を中心にした「核家族の増大」は戦後社会の大きな特色の一つと
 なった。
・核家族化は、その中で育った子供にとって、いかなる意味をもつのであろうか。それは、
 兄弟が少ないため生まれたときから両親を軸とした「大人の世界」に取り込まれて育っ
 たことを意味し、しかも、親の「豊かさ」と「余暇」の拡大によって、文字どおり専心、
 手塩にかけて育てられたことをも意味する。5,6年前、東京近郊の団地の世論調査を
 担当した際、「子供たちがケンカをしなくなった」という教師の話を聞いた。それは
 「大人の世界」を特色づける「効率性の原則」が子供の世界に入り込み、「ケンカなん
 かしたってバカバカしい」といった大人の感覚を子供がいちはやく身につけてしまって
 いる、ということなのである。また、事実、子供もますます忙しくなってきている。そ
 してその忙しさは、「塾」「お稽古」といった明確な目的に対する多忙であり、かつて
 子供の世界を特色づけた無目的な時間の浪費。「腕白遊び」とは異なるものである。
 こうした環境下で、子供たちのあいだに真の友情が育つことはまれである。効率感覚を
 超えた無意識の自己犠牲はくしては、たとえ「仲間」は獲得し得ても「親友」は獲得し
 得ないからである。同世代との共有時間、共有空間がきわめて淡泊に、合目的に分断さ
 れていく環境の中で、戦後世代は孤独である。
・戦後世代は、共通与件として戦後民主教育を受けて育ったのであり、それは、戦前の
 「教育勅語」を基軸した教育とはさまざまな意味で異なる教育効果を戦後世代に与えた
 と言える。一つは、「歴史」と「価値」に対して、できるかぎり距離をとろうとする姿
 勢である。戦後教育においては、戦前から戦争にかけての歴史に関しては、戦争の悲惨
 な思い出を意識するあまり、歴史自体を倫理的に検討することを拒否するという姿勢が
 とられ、歴史を直視し、継続性の中で歴史を止揚しながら、進むということはなされな
 かった。そうした中で、戦後世代は、一つの時代を支配する「社会的価値」なるものが
 いかに相対的なものであり与件の変更によって、「国家主義から民主主義へ」といかに
 巧妙に変化するものであるかを大人たちの生活態度に見てとり、社会的価値そのものを
 「胡散臭いもの」として拒否し、冷笑することへと傾いていった。つまり、戦後民主主
 義教育の所産は、まずそれが何かを形成したからではなく、何も形成しえなかったこと
 において、相対感覚を戦後世代に残したのである。二つは「平等主義」「平和主義」を
 選好する姿勢である。戦後の当初は「貧しさを憂えず、等からずを憂う」という価値観
 が重視されていた。それは、「機会の平等」からさらに「結果の平等」を求める方向へ
 と進み、所得、門地、家柄、性別、能力による「差別」を後退させると同時に、「区別」
 さえ不当なものとする土壌が形成されていったのである。
・「平等化」の背後で、むしろ陰湿なかたちで「差をつける」という志向が生まれていっ
 たという面も忘れてはならない。平等化志向の戦後教育の「誰もが機会均等に教育が受
 けられる」という原則が、全般的富裕化を背景にしていつのまにか「誰もが高等教育を
 受ける」という現象を生み、激烈な「受験地獄」を現出し、友情を裏切っても何らかの
 かたちで「差をつけよう」とする傾向をもたらしたのである。「平等化」という名の下
 で平準化、均質化、画一化が進んでいるのかもしれない。
・平和は戦争(物理的暴力の行使)の対立概念として掲示され、「戦争のない状態をして
 平和とする」かのごとき位置づけが戦後平和教育の漠然たる主潮であった。それゆえに、
 「戦争」の記憶が遠のくにつれて「平和」の影響も薄くなっていった。「平和」は常識
 となり、日本の「平和」を意識するために、海の向こうの「ベトナム戦争」を対照しな
 ければならない段階が、すでに60年代にやってきた。そして、PEACEバッチが一
 つのファッションとなる状態を迎えたのである。「武器をとらなければ平和である」と
 いうことが明らかに虚構であり、物理的暴力を行使しなくてもより深刻な不条理が存在
 するのだという常識が日本の「大国化」の中で明らかになっていくにつれて、弱者の逃
 避的虚構のうちに形成さえてきた「平和主義」は、またたくまにうす汚れていったので
 ある。 
・日本の戦後世代も、経済成長と富裕化を背景にした大学進学者の急増(大学の大衆化)
 という状況におもいて、「甘え」といえば「甘え」ともいえる政治的構想をもたない
 「拒否の運動」を提起し、それが高揚、沈滞していくサイクルの中で、一つのことを学
 びとった。それは、国家および社会の中で存在する権力構造が、いかに空虚なものであ
 り、非人間的なものとなりやすいかの確認である。そこに、国家および社会的テーマ、
 さらには集団、組織における集権、管理の態度が形成されていったのである。
・戦後世代の「個人主義」ということであるが、これを「全体に対して個の尊厳をもって
 対峙する」という意味での緊張した主体主義と考えるのは正しくないであろう。戦後世
 代の個人主義は、むしろ「およそ共同体というものに属したり、そのために心身を動か
 すことお拒否」としての「ミーイズム」であり、良い意味でも、悪い意味でも、個を基
 点にした思考様式がこの世代の性格を貫いているということである。
・戦後世代の行動形態を貫く価値基準を若干誇張して描出するならば、それは「受ける」
 ことと「のる」ことであろう。いま、若者がつき動かされたように行動に向かうとき、
 必ずといってよいほど登場してくるのが、「バカ受けに受けた」という具合に友人や集
 団の中で注目されることを大切にする価値基準であり、「今日は大いにのりまくった」
 という具合に、気持ちが入って調子よくいくことを示す価値基準である。
・父の世代に代表される戦前生まれの中高年は、一般に生活の臭いが強く、薄汚く、ケチ
 である。そして、「あるべき社会のイメージ」について、けっして体系性と論理的緻密
 性はないにもせよ、かたくななまでの見解がある。しかしながら、「戦後近代化」とい
 う内面的自立が許容されうる環境の中で育ってきた戦後世代は、個人の生き方において
 の「洗練された多様性」にもかかわらず、社会的構想に関する明確な主張は皆無といっ
 てよいほど存在しない。むしろ、社会的テーマ、生活のテーマを可能なかぎり拒否し、
 忌避するところに自らの存在証明を見出すかのように、個人的世界を回遊しているのみ
 である。
・戦後世代の行動表現における共通性ともいえる「やさしさ」は、真に自分を省察し、他
 者、そして人間への思いやりをはらむものではろうか。もし、それが「恵まれた自分」
 を前提としてのみ他者に向けられる寛容にすぎないならば、また、自らの虚弱性ゆえの
 他者への期待にすぎないものならば、それによって形成される人間関係はけして実りの
 多いものとはならないであろう。それは、単なる虚構の連帯にすぎないからである。
・福祉化志向の風潮の中で、国家による個人への便益の供与に期待が高まっているが、便
 益の供与はそのまま官僚機構の肥大化と管理メカニズムの高度化をもたらし、結果とし
 て個人の尊厳という真の福祉を脅かすものとなる可能性が高い。政治が国家の名によっ
 て行なうべき個人への救済、および便益に対しては、むしろ個人の側から明確な限界を
 設定する決意が必要となるのである。確かに、世の中には、本人が責任を問われるべき
 でない不条理によって苦しむ人が存在しており、たとえば病気に苦しむ人の負担の救済、
 すべての子供の平等の教育権の確保は、まさに国家および政治の責務である。しかし、
 本人が自らの責任において苦しむこと、たとえば努力の結果によって生ずる分配の格差、
 機会の平等お結果もたらされるゴールの不平等に関しては、国家が踏み出してくる前に
 個人の側が厳しく拒否の姿勢を貫くのでなければ、息苦しい官制管理社会を回避するエ
 ネルギーは生まれえないであろう。「福祉社会」と責任の散逸した「ぬるま湯社会」と
 せず、活力ある責任社会とするには、強い個人の意思とそれを尊重するシステムが必要
 だということである。
・突き詰めていえば、「福祉」の本質は金ではない。年金や医療や老人ホームをいくら充
 実させたとしても、たとえば「誰が寝たきり老人の世話をするのか」という現実の役務
 の問題が残るのである。「高福祉社会」が一部の福祉事業従事者に肉体的・精神的苦痛
 を肩代わりしてもらい、後の人たちは「金を負担する」ことで片づけるような社会とも
 なりかねないのである。したがって、もし本気で「福祉大国」を志向するならば、高等
 学校、大学での教育課程に福祉施設等での実習を義務づけるなどの構想を導入する、国
 民的取り組みの決意が問われるのである。
・職業政治家が日本の社会的意思決定に本当に必要なのであろうか。また、社会構造変化
 に取り残され、真の政策立案能力もなく、政党間の主張の差異さえ不鮮明となってきた
 政党なるものが、不可欠の政治集団なのであろうか。さらに、マスメディアと通信手段
 の発達の中で、より徹底した直接民主制(たとえば、首相公選制、国民投票制など)が
 技術的に可能となってきているのではないか。地方分権による国権の下放により、分権
 と集権のバランスをとるべきではないか。
・エネルギー問題に対しても、いつまでも化石燃料の供給不安定に脅えるのではなく、日
 本の国土に無限にある再生可能エネルギー(太陽光、太陽熱、風力、波力、バイオマス
 など)の開発に向けて既存の蓄積した産業技術を投下し、成長と雇用を維持しつつ、エ
 ネルギー問題への本質的対応を進めるという「したたかな取り組み」がより真剣に検討
 されてもよいのではないであろうか。
・もはや工業生産力とて日本のがアジアで唯一の千年王国を誇れるものではないことは、
 最近のNICSという韓国・台湾・シンガポールなどの中進工業国の工業開発の現状を
 知る者にとっては常識となりつつある。これら、中進国の産業現場にある青年の眼は、
 異様なほど輝いている。国際技能オリンピックにおけるメダル獲得数で、すでにここ数
 年日本が大きく韓国に水をあけられていることを知る人は少ない。

それからの団塊の世代を見つめて
・団塊の世代が「戦後日本」という環境の培養され、身につけてきた価値観を集約的に表
 現するならば、「私生活主義(ミーイズム)」と「経済主義(拝金主義)」といえる。
 全体が個を抑圧してきても、人間としての強い意思をもって対峙する思想としての「個
 人主義」とは異なり、他動的に与えられた民主主義の中で自分の意思で生きていること
 を認められた個々人が、ライフスタイルとして「自分の私的な時空間に他者が干渉する
 ことを嫌う」傾向を「私生活主義」という。個の価値を問い詰めて、社会との位置関係
 を模索する真の個人主義には背を向け、結局、戦後世代が身につけたものは、この私生
 活主義にすぎなかった。また、戦後復興・成長という過程に並走する形で幼年期を生き
 た者として、「何はともあれ経済が大切」という暗黙の価値を身につけてきたとも言え
 る。日本の戦後世代において、極端に「経済主義的傾向」が強いことを実感する。経済
 を超えた価値、たとえば、人間社会には、思想的・文化的・宗教的な多様な価値が存在
 するということには希薄な関心しか抱かず、本音の部分で経済的安定と豊かさだけを求
 める傾向が、日本の戦後世代には深く染み込んでいる。
・「私生活主義」と「経済主義」の谷間に生まれ育ったのが「団塊ジュニア」だとすれば、
 この世代が親の世代お性格を超えた価値を見つけるよう期待することは不自然である。
 団塊ジュニア世代が引き起こす昨今のおぞましい事件やこの世代のありようは、日本の
 戦後とそこに関わった世代の問題を問いかけてくるのである。
・我々の世代は、自由に「自分を生きる」ことが許された世代であった。日本の歴史の中
 で、「個」と「我」の論理を認められた最初の世代と言ってよいであろう。にもかかわ
 らず、60歳にもなろうかという年齢になっても、なお十分自分らしく生きていないと
 思い続け、「自分を生きる」と頑張ってみせる心情にこの世代の特質が浮き出ていると
 言える。たかだか「離婚する」などという私的事情を、ことさらに「自分を生きる」証
 としてもってくる心の動き、さらには「蕎麦打ち」をしたり、「楽器を弾く」ことなど
 に自分の世界を求める心理、この辺りを一歩も出ないところに我々の世代の壁を思うの
 である。  
・会社人間として結構本気で右肩上がり時代の企業戦士として参画し、バブル期を中間管
 理職として享受した世代が、定年退職期を迎え、全体状況の中で思うにまかせぬ局面に
 なると屈折した私生活主義に回帰して内向し始める。
・世界的に21世紀の構造的課題が噴出し、日本経済お深層に戦後の澱のようなものが溜
 まっている。これらの課題に正面から向き合わなければならない今、平均的に考えてこ
 れからの25年を生きねばならぬ団塊の世代は、自らの体験を整理し、いかに社会的に
 生きるかを問い詰めm何かを後代に残していかなければならない。
・すでに2014年に人口の25.9%が65歳以上によって占められているが、「超高
 齢化社会」がヒタヒタと迫っている。30数年後に人口が1億人を割るとき、それは
 1966年の1億に戻るわけではない。1966年の1億人はその7%しか65歳以上
 の人はいなかった。だが、1億を割る頃、人口の40%が65歳以上となり、しかも
 25%が75歳以上になると予測されている。超高齢化社会がもたらす社会構造の変化
 と顕在化する課題の中核的担い手が団塊の世代になることもまちがない。
・2014年は「第一次世界大戦勃発から100年」という年であった。日本が真珠湾攻
 撃に至った歴史を考えるとき、実は、1910年の日本の選択が運命の分岐点であった
 と、私は考える。欧州大戦の勃発を好機ととらえ、大英帝国との日英同盟に基づく「集
 団的自衛権」を根拠に中国におけるドイツの権益を奪うべく参戦、1915年には「対
 華21カ条の要求」を突きつけ、遅れてきた植民地帝国としての野心を露わにしていっ
 た。日清・日露戦争での「戦勝」、韓国併合という歴史と並走した世代の日本人は、指
 導者を含め、次に世界史が向う方向を見抜けなかった。かの孫文が、遺言ともいうべき
 神戸での講演で、「日本が、これからのち、世界の文化の前途に対して、西洋の覇道の
 番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重
 に選ぶことにかかっている」と述べたのは1924年であった。残念ながら日本は西洋
 列強模倣の帝国主義国家へと向かい、敗戦を迎えた。
・日米同盟の本質を再考するうえで重要な設問がある。「何故、北海道に米軍基地はない
 のか」という問いである。つまり、日本列島の南端で、国土面積の0.6%にすぎない
 沖縄に米軍基地の74%が集中する理由とは何かを考えてみることである。日米同盟は
 冷戦構造を前提に成立した同盟であり、仮想敵国をソ連と想定するならば、侵攻の危険
 性の高い北海道にこそ米軍が配置されてよいはずだった。在日米軍の北限は三沢の通信
 基地であり、その意図は、米議会の秘密会などでの議論を踏まえるならば、「ソ連侵攻
 の場合、まず北部方面の自衛隊が戦って、米軍は南に構え、行動を選択する」というも
 のである。それが冷厳な現実で、米国はいつでも駆けつけてくれる善意の足長おじさん
 ではない。今日の日米中のトライアングル関係においても、米国の本音は「日中の紛争
 に巻き込まれて米中戦争になることは避けたい」ということで、「日米同盟に中国の脅
 威に向き合うという日本の期待とは温度差があることを認識すべきである。米国のアジ
 ア戦略の本質は、アジアにおける米国の影響力を最大化であることは当然で、「同盟国
 日本も大切だが、21世紀の大国中国も大切」というゲームであり、一方的にどちらか
 に加担することは賢くないのである。日本が敗戦後わずか6年で講和を迎え、国際社会
 に復帰できたのも、共産中国の成立と朝鮮の動乱に衝撃を受けた米国が「日本を西側に
 取り込んで、戦後復興させ、アジアの防波堤にしよう」という判断が働いたことによる。
・同じ敗戦国だったドイツは、冷戦後の1992年に「在独米軍基地の見直しによる縮小
(在独米軍を26万人から4万人に削減)と地位協定の改定」に踏み込み、ドイツの主権
 回復に舵を切った。対照的に日本は「アジアでは冷戦は終わっていない」という認識で、
 大事な90年代を日米安保の自動延長どころか、96年の「日米安保の再定義」、97
 年「ガイドラインの見直し」と、むしろ米軍の世界戦略と一体化する方向に向かった。
 知的怠惰であり、21世紀に入ってアフガン・イラクに展開した米軍が「同盟国軍隊と
 共同作戦」を期待して推進した「米軍再編」には思考停止のまま引き込まれていくしか
 なかった。 
・我々はこんな自堕落で矮小な時代を目撃するために生きてきたのであろうか。経済社会
 のあり方について、「アベノミクス」なるものに拍手を送る知見の低さを省察せねばな
 らない。日銀総裁を取り替えてでも超金融緩和に踏み込み、株高と円安を誘導、やがて
 それが実体経済を押し上げ、デフレkらの脱却をもたらすという「好循環」を描いてい
 るのが「アベノミクス」だが、現実に進行しているのは金融政策だけに過剰に依存した
 株高主導経済と円安反転による輸入インフレであり、国民生活の毀損である。経済社会
 の現場に立ち人間は、決してこんな安易な経済理論を信じなかったはずだ。アベノミク
 スがもたらしのは「つり天井経済」とでもいうべき状況で、金融を溢れさせて株が上が
 っているから、天上の高い母屋が建っているように見えるが、柱や土台というべき実体
 経済が動かず、株高で恩恵を受ける一部の人と取り残された人の格差と、エネルギーと
 食料を海外に依存する国として「輸入インフレ」に苦しむ国民と言う歪んだ結末をもた
 らしている。 
・アベノミクスなど信じておらず、外国人買いに並走して売り抜いている構造は加速して
 いる。産業を育てる資本主義とは無縁な、マネーゲームだけを高揚させ額に汗して働く
 人は苦闘するという愚かな構造に気付かなければならない。しかも、GPIF、つまり
 年金基金の運用方針を転換し、その五割(従来は24%程度)を国内外の株で運用でき
 ることにした。国債での運用では制度が回らないほど国債の価値を毀損しておいて、運
 用力など期待できる体制にもないGPIFに株への投資を促すわけで、国民は知らぬ間
 に大きなリスクを背負いこんだのである。
・我々が目指すべき経済社会は、マネーゲームで景気浮揚の幻覚をもたらし、株価と政権
 の支持率が相関するような次元のものではあってはならない。実体経済を直視し、産業
 を育て、未来につながるプロジェクトを組成し、国民経済を豊かにし、配分の公正を実
 現することこそ重要なのである。そして、安易な財政出動を繰り返し、1000兆円を
 超す債務を後代に回すような財政構造を脱し、歳入に見合った歳出という規律を取り戻
 すことである。アベノミクスは「好循環」を祈って金融を肥大化させる呪術経済学の産
 物である。  
・「中国・韓国には侮られたくない」という時代の空気を投影した国家主義・国権主義へ
 の回帰に関し、いかなる緊張感を持って向き合うべきか。民主党政権の自滅ともいえる
 崩壊を受けて、「日本をどり戻す」として衆議院326議席の巨大与党に支えられて安
 倍政権がスタートして2年、近隣外交の緊張、首相の靖国参拝、徳的機密保護法の成立、
 集団的自衛権行使容認の閣議決定などを積み上げてきたこの政権が目指すものは何なの
 か。明確に透けて見る意思は「憲法を改正して、戦後レジームからの脱却を図ること」
 であろう。   
・自民党の「憲法改正草案」を見ると、そこに見えるのは国権主義への回帰願望であり、
 これこそが我々が対峙すべき「力への誘惑」だと思う。
・「シルバー・デモクラシー」時代が迫る。人口の四割が高齢者という超高齢化社会では
 有権者の五割、「老人は投票に行く」という傾向を踏まえれば現実に投票に行く人の六
 割を高齢者が占めることになる。「老人の、老人による、老人のための政治」になりか
 ねない。   
・戦後民主主義が、与えられた民主主義であるにせよ、また民主主義が「悪平等」を助長
 して煩瑣で時間がかかる仕組みであるにせよ、我々は国家主義の誘惑に引き込まれては
 ならない。とくに、「戦争をしらない子供たち」ではあるが、戦争を意識の奥に置き、
 戦前とすぇんごをつなぐ時代を生きてきた団塊の世代は、「国家」の名における犯罪を
 拒否する責任を有する。  
・戦後日本の忘れ物としての最大の課題は米国との関係の再設計である。21世紀の世界
 では米国への過剰依存と期待では生きていけない。世界史の常識を還ることである。そ
 れは「独立国に長期にわたり外国の軍隊が駐留し続けることは不自然なことだ」という
 常識である。この意思を失った国を世界では「独立国」とはいわない。
 
2016年参議院選挙におけるシルバー・デモクラシーの現実
・2016年の参議院選では、大勢として国民はアベノミクスの継続を選んだ。正気の議
 論をするならば、アベノミクスの論理などとっくに破綻しており、「道半ば」とか「こ
 の道しかない」などといえるものではない。2020年に名目GDPで600兆円を実
 現して、その果実を国民が享受することなど虚構にすぎないと気づきながら、それでも
 国民の多くが「株高誘導の景気刺激」という共同幻想に乗っているのである。何故か、
 それが都合がよいと思う人たちがいるからである。
・アベノミクス4年の総括を凝視したい。経世済民、経済の根幹である国民生活、そして
 実体経済はまったく動かない。米国が2008年のリーマンショック後の緊急避難対策
 とした異次元金融緩和を見習って「第一の矢」とし、日銀のマネタリーベースをほぼ
 400兆円の水準まで肥大化させ、金利も「マイナス金利」などという異常事態に踏み
 込んだ。ご本尊の米国が実体経済堅調を背景に、量的規制緩和を終え、政策金利の引き
 上げ局面を迎えているのに、日本は「出口なき金融緩和」に埋没している。
・また、財政出動を「第二の矢」とし、消費税引き上げもできぬまま、さらなる財政出動
 を模索し続けている。「金利の低い時だから、赤字国債を出しても利払いが少ない」と
 いう誘惑に駆られ、「市場はさらなる景気刺激策を求めている」などという無責任な経
 済メディアの甘言に乗って、「ヘリコプターマネー」と称する無利子んお日銀からの借
 金で、財政出動を加速させるべきだとの議論さえ生まれ始めている。すでに1000兆
 円を超す負債を抱える国だという事実を忘れはならない。自分が生きている時代だけは
 景気刺激を、という考えは「後代負担」、つまり後の世代に負担を先送りする自堕落な
 思考である。
・家計消費で極端に減少した支出項目としての「こづかい、交際費、交通費、外食、酒類」
 などに象徴されるごとく、日本人は行動的でなくなったことと、「仕送り金、授業料、
 教養娯楽、書籍」などへの支出減に象徴されるごとく、日本人は学べなくなったいう事
 実。そして、こうした時代の空気が、日本人の視界を狭め、内向と右傾化の土壌となっ
 ていることに注目したい。
・働く現役世代の可処分所得が、ピーク比で年額84万円も減ったという状況では、この
 世代が高齢化した親の世代の面倒をみて経済的支援をするための基盤が失われていると
 いうことである。もっとも、戦後70年というプロセスにおいて、「親に孝行」といっ
 た儒教的価値を失わせる社会構造を作ってしまったともいえる。都会に産業と人口を集
 中させて高度成長期を走ったことにより、「核家族化」が進行し、すでに1980年に
 38%まで不増やしていた核家族の比重は、2010ねんには61%となり、現在は
 65%を超えていると推計される。つまり、「家族」の性格がすっかり変わってしまい、
 世代間の支え合いが困難な社会となっているのである。
・働いていない高齢者の経済状況は、さらに厳しいといわざるをえない。60歳以上の無
 職の可処分所得(年金+所得−社会保険)は、平均年額178万円で、平均生活費は
 248万円、年間70万円足りないとされ、その分は資産を取り崩していると思われる。
 それゆえに高齢者の就業志向は高まっており、男性における就業者の比重は60〜64
 歳で73%、65〜69歳で49%、70〜74歳で32%、75歳以上16%となっ
 ているが、ここでの「就業者」には雇用者(役員を除く)、役員、自営業主も含まれ、
 65歳以上の雇用者は13%程度であり、雇用条件も非正規雇用が大半となるため大き
 な所得は望めない。だが、高齢者層は現在の勤労者世帯を形成する世代(現役世代)よ
 りも相対的に恵まれているといえるであろう。日本が右肩上がりの1960年代から
 80年代にかけて壮年期を送り、勤労者世帯の可処分所得が増え続けた環境の中で、一
 定の貯蓄と資産を確保できた出代だからである。東京に吸収されたサラリーマン層をイ
 メージしても、郊外にマンションの一戸程度は手に入れ、ローンを払い終えて定年を迎
 え、一定の貯蓄を金融資産を手にしているというのが一般的高齢者であろう。
・国民の金融資産保有状況(2014年)を見ると、貯蓄の58%、有価証券72%は
 60歳以上の世代が保有している。つまり、株価の動きに最も敏感であり、金融政策主
 導で、日銀のETF買いだろうが、GPIFによる株式投資の拡大だろうが、株高誘導
 政策には「何でもやってくれ」といわんなかりに共感する土壌を形成しているのが高齢
 者なのである。
・ただし、高齢者の経済状態は、一般論で単純に判断できないほど、二極分化が進んでい
 る。人口の27%、3400万人が2015年時点での高齢者人口だが、あえて高齢者
 を経済状態で分類するならば、約20%(700万人)が「金融資産」1000万円以
 下で、年金と所得の合計が200万円以下」の「下流老人」であり、約15%(500
 万人)が「金融資産5000万円以上で、遠近と所得の合計が1400万円以上の「金
 持ち老人」で、残りの約2200万人が「中間層老人」といえるが、この中間層老人が
 「病気・介護・事故」などを機に、下流老人に没落する事例が急増しているという。生
 活保護受給世帯159万世帯のうち7万世帯が高齢者世帯であり、「貧困化する高齢者」
 問題も深刻である。
・こうした潜在不安を抱える高齢者、とりわけ中間層から金持ち老人にかけての層、約
 270万人が、金融資産、株式投資に最も敏感な層であり、「とにかく株が上げればめ
 でたい」という心理を潜在させ、アベノミクス的「資産インフレ誘発政策」を支持する
 傾向を示すのである。結局、アベノミクスの恩恵を受けるのは、資産を保有する高齢者
 と円安メリットを受ける輸出志向型企業だという構図がはっきりとしてきた。ここから
 生ずる世代間格差と分配の適正化という問題意識を持たねば、金融政策に過剰に依存し
 て「調整インフレ」を実現しようとする政策は社会構造の歪みを招き、まちがった国へ
 と向かわせるであろう。 
・日本の社会的意思決定において、高齢化が問題になるのは、現在よりも5年から10年
 先の時代においてであろう。高齢者の貧困化、二極分化がより一層際立つと予想される
 からである。つまり、現在40歳から60歳戦後お壮年層が高齢者となろ頃の日本にお
 いて、より一層厳しい格差と貧困が予想されるのである。この20年間の勤労者世帯の
 可処分所得の動きを視界に入れて試算すると、事態の深刻さがわかる。日本の勤労者世
 帯の可処分所得は1997ねんがピークで、年間596万円であった。それが2015
 年には512万円と、年間84万円も実際に手元で遣える所得が減少しているのである。
 ほぼ20年間にわたって、サラリーマン所得は減少基調を続けているということで、現
 在60歳で定年を迎えかけている人は、40歳戦後の時以来、この基調の中にあるとい
 うことであり、もし可処分所得がぴーくのままの水準で推移した場合に比べると、20
 年累積で1500万円も所得が圧縮されたことを意味し、消費を切り詰めた部分を配慮
 しても、約700万円は貯金に振り向けたはずの部分を圧縮し、貯金のないまま高齢者
 に入っていくということを意味する。
・人生は欲よ道連れであり、高齢者が潜在する経済不安の中から、アベノミクスを支持す
 る心理に至ることもわからないではない。しかし、歴史の中での高齢者の役割を再考す
 るならば、社会活動の現場で体験を重ねてきた世代として、後からくる世代に道筋をつ
 ける知恵を働かせるべきである。とくに、戦後日本の産業化と国際化の現場を支えた世
 代として、マネーゲームと金融政策では経済社会が空洞化することに厳しい視点を向け
 るべきではないのか。少なくとも、後から来る勤労者世代の貧困化に目を配らねばなら
 ない。自分の生活だけが安定していれなよいというのではなく、高齢者らしい社会への
 配慮と成熟した知性が問われるのである。
  
2016年の米大統領選挙の深層課題
・アメリカの痙攣を見る思いで、トランプ当選を見つめた。それほどまでに、米国の病は
 深刻なのだと思う。結局、米国民は「アメリカン・ファースト」(アメリカの利益が第
 一だ)という自国利害中心主義に還った。
・トランプの「アメリカン・ファースト」への呼応は、余裕を失った白人貧困層の不満が
 トランプ現象の震源地であり、ヒラリー失速の主因となった「サンダー現象」の震源地
 は「格差と貧困」にいらだつ若者たちであった。不満といらだちがトランプを押し出し
 たとすれば、そこには「希望」がない。核心的課題ともいえる「格差と貧困」について、
 トランプには解答も構想もない。
・ヒラリーは聡明で野心的な上昇志向の女性であり、計算通り高学歴を極め、ローズ奨学
 金による欧州留学で知り合った青年ビル・クリントンと結婚した。ビル・クリントンは
 決して優れた資質を持った人物ではないが、「負け続けても級長選挙に立候補し続ける
 異様な上昇志向を持つ若者」「恵まれない出自を留学。ロースクールといった金メッキ
 で覆い、一流を装う青年」だったと言われている。この乗りの良い危うい青年を操縦し、
 夫婦の情愛を超えて、クリントンというブランド事業の共同経営者として生きたのがヒ
 ラリーであった。
・トランプは父親の威光と支援でビルの再開発やカジノの経営で「金ピカのアメリカ」を
 象徴するように生きてきた男であり、人生を貫く価値は「DEAL(取引)」である。
 はったりで相手をだじろがせ、落としどころで取引するワザが人生だと考えている。思
 慮も哲学もない反知性的存在なのだが、このトランプが、饒舌なヒラリーとの対比にお
 いて、率直で本音を語る人物に見える瞬間がある。トランプが大統領候補として台頭し
 た過程を振り返るなら、「民主党はほぼヒラリーが大統領候補になるだろう」という状
 況が前提として存在していた。ヒラリーい対する国民の不信感、「ヒラリーはうそつき
 で何かを隠している」という印象に火をつけたのが、トランプの歯に衣着せぬ舌鋒であ
 った。  
・米国には「貧困率」という統計があり、たとえば2014年の場合、4人家族で年収
 2・4万ドル(日本円で260万円)以下の家計を貧困とするという指標が存在する。
 21世紀に入って貧困率は、2000年の11.3%から2014年には14.8%に
 まで上昇しており、とくに白人の貧困率が増えている。堅調な景気回復にもかかわらず、
 なぜ「貧困率」が高まり続けているのか。確かに、景気拡大に伴い雇用環境もよくなり、
 失業率も低下しているのだが、IoT時代のパラドックスというべきか、雇用の量では
 なく質が問題なのである。つまり、増えている仕事は、俗にいう「バッドジョブ」つま
 り付加価値の低い単純労働であり、資源開発、素材供給、生産、流通、販売などのあら
 ゆる局面でネットワーク情報技術が活用され、「雇用なき景気回復」、正確に言えば
 「高付加価値の仕事を増やさない経済成長」が進行しているといえる。したがって、米
 国においては、金融経済の肥大化がもたらす格差の深刻化と、雇用の質の劣化による貧
 困率の高まりが同時進行する事態を生じており、それが国民の不安と不満を掻き立てて
 いるといえる。
・日本は米国が採用する経済政策の川下に置かれてきた。今世紀に入って、米国の「新自
 由主義的潮流」を受けて、小泉政権の「規制緩和」、とりわけ「郵政民営化が本丸」と
 いう小泉改革に邁進し、「新自由主義のエピゴーネン」のような経済学者が跋扈してき
 た。ところが、2008年に強欲なウォール・ストリートの金融工学がもたらしたリー
 マンショックが起こり、政府主導の金融危機の回避に動くと、日本政府は緊急避難的政
 策であった米FRBの超金融緩和(量的緩和とゼロ金利)を「デフレからの脱却」とい
 う目的に置き換え、政府主導の下に日銀が「異次元金融緩和」に踏み込んだのである。
 第一の矢「異次元金融緩和」と第二の矢「財政出動」で景気はよくなるという「リフレ
 経済学」が機能しないということは、2014年から3年間の日本の実質成長率がゼロ
 成長軌道を低迷していることが証明している。
・異次元緩和はエスカレートし、日銀のマネタリーベースは2016年7月末残高には
 404兆円と、2012年比で4倍近くまで拡大、名目GDPの7割超と異常な金融肥
 大化状況をもたらしている。欧米も金融緩和基調にあるが、2割程度である。さらに、
 マイナス金利にまで踏み込み、金融秩序の動揺を招いている。産業活動や家計消費など
 実体経済は動かず、金融政策に過剰に依存した経済政策が展開されているのである。
・私は日本の高齢者がアベノミクスに拍手を送る構造を解析した。金融資産の保有状況を
 見ると、貯蓄の58%、有価証券の72%は60歳以上の世帯によって保有されている。
 貯蓄が、毎なく金利を受けて、一切の利息を生まない状況となり、年金だけでは手元が
 苦しくなってきた高齢者にとって、保有する株が上がることへの関心は尋常ではなく、
 「株を上げること」につながる政策誘導を支持する心理がアベノミクスに向かうという
 論旨であった。政府主導の金融緩和だけでなく、公的マネーを突っ込んでも株価を支え
 る方向に向かい、GPIFと日銀のETF買いだけで、実に39兆円(16年3月末)
 もの額を直接日本株に投入しているのである。その結果、上場機能の4分の1の筆頭株
 主が「公的マネー」という事態が生じており、国家資本主義ともいえる様相を呈してお
 り、健全な市場機能が急速に失われているといえる。アベノミクスに入り3年間は外国
 人投資家の買い越し(ピーク時累計で21兆円)が日経平均を2.1万円に押し上げた
 が、2016年に入って8兆円の売り越しとなり、代わって公的マネーの投入でなんと
 か1.6万円台を維持しているが、39兆円の公的マネーの投入がなければ、日経平均
 は既に1.2万円を割り込んでいるであろう。株価の維持が政権基盤となり、安易に株
 価を上げる政策だけに誘惑を感じるという高齢者心理で政治が動くという現実を噛み締
 める必要がある。
・日本のような産業国家は、「経済の金融化」に振り回されることに極力避けなければな
 らない。マネーゲームを抑制し財政を健全化し、技術を重視する産業政策をもって実体
 経済に地平を拓かねばならない。   

シルバー・デモクラシーの地平
・ポピュリズムはファシズムではない。大衆迎合主義と訳されるから、大衆、民衆の嗜好
 や価値にすり寄るイメージがあるが、決して民衆に敬意を抱いているわけではなく、む
 しろ民衆が蔑視し、利用する意図が潜在している思潮といえる。耳に心地よい単純なメ
 ッセージに民衆が呼応しているうつに、混迷を助長していらだち、結局は統合に理解を
 求めるに至り、ファシズムの揺りかごになる可能性があることに気づかなければならな
 い。
・異次元の高齢化に向き合う責任意識として、少なくとも後代負担を押し付けて去るとい
 うようなことを、我々は避けなければならない。高齢化が後代へのコストと重圧になら
 ないような高齢化社会を、つまり、高齢者が参加して、少しでも貢献できるような仕組
 みを模索し、切り開いていかなければならないのである。
・「戦後」なる日本を虚心に見つめ直してみる必要がある。「戦後」日本は、とにかく産
 業力、工業力を重視して、国際分業論に正当性を感じて農業を案楽させた。つまり、
 カネは産業によって稼いで、食べ物は海外から買おうという国を作ったのである。さら
 に冷戦後の世界経済における金融の肥大化の潮流に乗って、金融への依存を高め、現在
 の「株が上がれば結構」というようなマネーゲーム資本主義への傾斜が進行した。こう
 した時代がもたらしたものを、もう一回筋道を立てて再考してみる必要がある。
・我々の世代が残した「グループサウンズ」「フォークソング」「ニューミュージック」
 といわれるものを聞き返すと、気恥ずかしくなるような「やさしさ」のためらいもない
 表象が満ち溢れており、それまでの日本人にはない心象風景がそこにある。「花の首飾
 り」をささげる男、「ただ貴方のやさしさが怖かった」と同棲生活を思い出す女、そし
 て「君を南のサンゴ礁の海へ連れ去りたい」といった私小説世界への埋没であった。そ
 れが許される時代環境を生きた「戦争を知らない子供たち」だったということである。
・高齢化社会の分析をしていて最も気になっている点が、都会の高齢化と田舎の高齢化は
 違うということである。田舎には田舎なりの強みがあることに気づかなければならない。
 至近距離に第一次産業があることである。今までは、農業や水産業などを中心とした地
 域は、第二次産業が劣後しているために出遅れている感覚があったが、超高齢化社会に
 あっては、宝の山が眠っている状態であることに気づかなければならない。つまり、体
 力・気力に応じて、高齢者が貢献を実感できる産業基盤が身近にあるということである。
・つくづく思うのは、田舎の高齢化社会はまだ制御可能であり、高齢者が幸福を実感でき
 る社会を形成できる可能性が高いということである。その理由は、高齢者が参画できる
 手だてとしての土台、インフラとしての第一次産業が生活の至近距離にあるということ
 であり、それが高齢化社会の質を変えるということである。
・産業構造は家族構成にも投影する。農業を抱える田舎ほど「一人暮らし老人の比率」が
 低い。もちろん、大家族、何世代にもわたって住んでいることが幸せとは単純には言え
 ないが、多くの世代にまたがる家族の中で暮らしている高齢者が、体力・気力に応じて、
 裏山の芝刈り、田畑の草むしりでも何でもいいが、自分も家族の一員として生活に参画
 し、貢献しているという手ごたえを感じられることは、精神的に充実した歳の取り方が
 できるということであろう。
・一方で、都会の高齢化は容易ならざる問題を顕在化させつつある。サラリーマンとして
 企業・団体・官庁などで働き、つまり機能集団としてのゲゼルシャフトに帰属していた
 人生を送ってきた人たちは、ひとたびそこから去ったら、多くの場合、もはや、やりこ
 とがないのである。若い頃から帰属組織の外で自分自身の関心領域でのネットワークを
 構築したり、自分の生活基盤の中でコミュニティをつくってきた人は、めったにいない。
 特にこれまでの日本のサラリーマンは組織への帰属意識が強く、「うちの会社」意識に
 のめりこんできた。ベッドタウンの名の通り、都会郊外の住居空間というのは、ほぼ寝
 に帰るだけの場所だったのである。一時間以上の通勤ラッシュに耐え、ヘトヘトになり
 ながら人生を送り、定年退職を迎えたとき、その住居空間には多くの場合、近隣の友人
 も、そしてやるべきことも何も残っていない。子供は卒業・就職して家を出ていき、夫
 婦二人か単身の自分しかなく、社会との接点を急速に失い始める。この社会的に孤立化
 しかねない高齢化した都会新中間層の社会心理が、時代を動かくマグマとなって蓄積さ
 れつつあるといえる。
・都会の「ニューファミリー」は高齢化し、構造は歪んだ。核家族の中核ともいえる「両
 親と子供」という世帯は減り、単身者の急増、母子・父子世帯の増加、夫婦のみの世帯
 の増加という事態が進行した。三世代同居世帯など、大都会の住環境、および世帯主の
 仕事から無理で、田舎に両親を置いて上京し、築いたはずの核家族もバラバラとなり、
 世代間の分離が進行したのである。
・核家族から、無家族化ともいうべきか、問題は単身者だけではない。実体的無家族化で
 ある。なぜならば、母子世帯も父子世帯も夫婦のみ世帯も、やがて時間の経過とともに
 単身化する構造なのである。単身化する構造に向かう家族構成に急速に傾いていってお
 り、しかもそれが常態化しつつあるわけで、もう特殊な状況ではない。人口の六割が単
 身化することがあたりまえであり、現実問題として、家族がいようがいまいが心に中は
 無家族などという人はいくらでもいるのである。
・戦後日本は結局のところ、産業化を担ったサラリーマン退役組の膨大な単身世帯を、都
 会の郊外のコンクリート空間に収容するような社会構造を作ってしまったのである。い
 ま求められるのは、これらの層の新たな「社会参画への構想」である。わかりやすく言
 うと、高齢化し単身化している都会新中間層を、再び社会的な接点を拡大して、経済的
 にも精神的にも安定した主体にしていく構想である。これまで企業というゲゼルシャフ
 トにしか参加してこなかった大部分の都会新中間層を包摂する社会参画の構想がないま
 までは、この層は社会不安の潜在要因になってしまうであろう。かつての都会新中間層
 は高齢化し、二極分化している。持たざる層はいよいよ貧困化し、多少とも持てる層は
 ひたすら株価の上昇を願ってマネーゲーム政策に暗黙の支持をしてしまうといった状態
 を放置して、社会的な意思決定に参加するとしたら、この層が次元の低い意思決定を支
 えるという民主主義の落とし穴にはまってしまいかねない。支える側に立って、充実し
 た老後、社会参画の実感を持った老後というものを、新しい発想で組み立て直さなけれ
 ばいけないところに来ているのではないだろうか。
・「戦後」なる時代を経て、日本は何を失ったのか。凝縮して言うならば、「食」の安定
 である。この間、我々は、食は田舎が作って都市はそれを買って食う所、さらには、産
 業力で外貨を稼ぎ、食は海外から買ったほうが効率的という考えで走ってきた。そのた
 めに必死で産業化を進めてきたとも言える。つまり、比較優位に立つ国際分業論を常識
 として、鉄鋼とエレクトロニクスと自動車で外貨を獲得して、食とエネルギーは海外か
 ら買うことが合理的だという国をつくったのが戦後日本なのである。
・かつて農業主義国家であった日本はすっかり変容した。就業人口が都市の製造業、建設
 業、サービス業に向かい、都市新中間層の中核を形成した。田舎には、田畑を背負って
 年老いていく両親と長男一家が残った。  
・農村から労働人口を引きはがし、都会近郊へと人口を集積させることにとって実現して
 しまったのが、「農業の安楽死」なのである。日本は現在、先進国中最低のカロリー・
 ベースの食料自給率39%というレベルに至っている。
・「食と農」から隔絶して生きてきた都会新中間層が、それぞれの役割分担の中で、応分
 に参画し食を支えることは意味のあることであり、そうした動きは実体化できると感じ
 ている。いかなる分野でサラリーマン生活を送った人であれ、都会郊外にリタイアした
 人たちがシステムとしての農業の一翼を担う形で参画することが、日本の高齢化社会の
 パラダイムを変えるであろうと確信している。「食と農」を至近距離に引き寄せる社会
 システムを実現することが、高齢者に安定した豊穣な人生をもたらし、日本の産業構造
 を一段と重心の低いものにするであろう。
・これまでサラリーマン生活をしてきた人間が、定年後に農業をやるというのは簡単な話
 ではない。農業は甘い世界ではない。ただ、これまで企業で経理・会計をしてきた人間
 が農業生産法人の経理を手伝ったり、営業マンがマーケティングを手伝ったりすること
 は荒唐無稽なことではない。特技を生かした「応分の参加」でよいのである。
・働くことは「稼ぎ」と「つとめ」という二つの意味がある。家族を養い、子供を教育す
 るための責任を担い、稼ぎのために働かなければならなかった青壮年期を過ぎ、年齢を
 重ねることに自分自身の価値基準でつとめを果たすことへの転換していかなければなら
 ない。
・システムとしての農業を促進して、食料自給率を高め、高齢者の参画を図ることで社会
 との接点や社会への貢献、参画を拡大していく総合エンジニアリング力が求められてい
 る。そして、これこそが実はデモクラシーの原点なのである。自分が額に汗して参画し
 ている視点から社会との関連性を自覚し、あるべき社会への問題意識を持つという、シ
 ルバー・デモクラシーの起点はここにあるといえる。
・「現在存在する労働の75%はAIによって取って代わられる時代」とか「AIが人間
 を超えていく時代」などという展望が語られる今、我々は人間の尊厳において、機械に
 取って代わられることのない人間の役割を思考しべきであろう。AIがいかに進化して
 も、機械は「目的・手段合理性」において動くものであり、目的を提示する能力は人間
 に残るといえる。つまり、課題設定力は人間が果たす役割であり続けるという見方は正
 しい。
  
おわりに
・戦後の日本は、経済での復興・成長に邁進する中で、政治セクターの人材を育ててこな
 かった。政治は、親が政治家だった家業としての政治屋か、政治を「おいしい仕事」だ
 と思い、しゃしゃり出てくる鉄面皮な人たちの集積場となった。戦後日本は経済・産業
 界と官僚という世界にもっぱら人材を注入した。政治家でも軍人でもなかったのである。
 現下の日本で、政治で飯を食う人たちと向き合えば、その人間としての質の劣悪さに驚
 く。戦後日本の上澄みだけを吸ってきた愚劣で劣悪な政治家・指導者を拒否する意思、
 この緊張感が代議制民主主義を錬磨するのである。社会参加し、貢献する意思と代議制
 民主主義を錬磨する意思が、迫りくる異次元の高齢化社会を空疎なものとしない基盤で
 ある。