堺屋レポート1997−2001 :堺屋太一

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この本は、今から21年前の2001年に刊行されたものだ。
内容は1997年から2000年までの間の日本の状況を著者の視点でレポートしたもの
だ。内容としては古いのだが、二十世紀末の日本の経済や政治がどういう状況であったか
を振り返ることができ、また現在でも参考になる事柄も多い。今ではもうすっかり忘れて
しまっていた当時の状況を思い出しながら、懐かしくかつ興味深く読んだ。
この本を読んで、特に私の心に残ったのは、次のようなこの国の「借金」についてである。

イギリスには「他人のお金を使う時には、自分のお金を使う時ほど慎重になれない」とい
う諺があるという。まさしく真実を突いた諺であると思う。
我々日本人は、納税者意識が薄く、自分の支払った税金が、どんなふうに使われているか
についてあまり関心を払わない。
それを良いことに、政治家や官僚たちは、やりたい放題に「他人のお金を」使いまくって
きた。いまでは、集めた税金だけではあき足りなくて、さらに巨額の借金を積み上げ続け
ている。どうせ、自分が返す借金ではないと思っているのだろう。もはや、慎重さが足り
ないとか無責任だとかなどの、ありきたりの言葉では言い表せない状況だ。
そして最終的にそのツケは、われわれ国民に上に降りかかってくる。政治家や官僚は逃げ
られても、われわれ国民はこの借金から逃げられないのだ。

この本の中に、1997年度末には日本には国と地方を合わせて529兆円の「借金」が
ある、と書かれている。「子供たちに世代に、これ以上の借金を背負わせては可哀想だ」
という訴えには、説得力があると著者は述べているのだが、2022年現在、その借金は
1200兆円にまで膨らんでいる。もはや、子供世代どころか孫世代でも背負い切れない
ほどの借金になってしまっている。こんな借金を作ってしまった我々世代は、子や孫どこ
ろか、その先の未来世代にまで恨まれることだろう。 

しかし、著者は最後に次のようなことを述べている。
「今の世代は個人金融資産だけで1200兆円、住宅や社会資本を含めると、おそらくそ
の二倍もの試算を築きあげた。「世代間の負担」でいえば、次の世代は絶対に有利、巨額
の正の資産を引き継ぐはずである」と。
これはどういう意味なのか。この著者の主張は、私には全く理解できなかった。


序文
・1996年から2000年までの五年間は、日本の「失われた10年」の後半にあたる。
 それはまた、日本経済がバブル崩壊後二度目の下降を経験し”これではいかん”と真剣に
 思いだした時期でもある。
・「戦後体制」とは、外交的には日米同盟を基軸として西側自由主義陣営に帰属し、軍事
 小国、経済大国を目指す、内政的には官僚主導主義体制の下に業界協調を進め、規格大
 量生産型の近代工業社会を完成する、というものだった。
・この結果、1980年代末の日本は、人類史上最も完璧な近代工業社会になることがで
 きた。この社会は巨大な生産力を誇っており、規格大量生産型の工業においては絶大な
 競争力も備えていた。 
 しかし、人々の暮らしには楽しみが乏しく、市井の人々が新規の企業や新技術の開発普
 及を行なうにも適していなかった。
・80年代は、コンピューター技術の進歩で多様な生産流通のコストが低下、規格大量生
 産の利点は減少した。同時に、人々の欲求が高い技術、新しいデザイン、広範な情報へ
 と移行する需要のソフトが進み出した。
・このため、経済成長の企業利益の主要な源泉が、規格大量生産の「規模の利益」から、
 知恵で創造される値打ち、「知価」に変わった。
 加えて、経済と文化のグローバル化で規格大量生産型の工業はアジア諸国に拡大、この
 面で日本の優位も失われ出した。 
・90年代に入ると長期に続いた戦後体制が劇的に急崩壊した。
 冷戦構造の消滅で、日本の国際的存在感は大幅に低下、知価革命の進展によって経済が
 再生したアメリカと急速に工業化する中国との峡間で、日本の外交は政府ベースでも世
 論の段階でも戸惑い続けている。
・一方経済は、90年代に入ると株と土地が大暴落、多くの企業に大損失が生じた。この
 ため、株や土地を担保に投融資した金融機関には膨大な不良債権を抱え込んでしまった。
・80年代末に土地や株の値上がりでバブル現象が生じたのは、日本だけではない。規模
 の大小はあるもののアメリカにも北欧諸国にも見られた。だが、それが崩壊した時の対
 応は大いに違った。
・アメリカは、公的資金の投入と金融機関経営者の訴追によって処理した。
 フィンランドやスウェーデンは、大型の金融再生フレームを作り多くの銀行を一時国有
 化するなどの処理をした。 
・これに対して日本は、長い間、何もしなかった。冷戦構造とバブル景気が崩壊してから
 の五年間、政治家も官僚機構も何もしなかった。
・95年1月、阪神・淡路大震災が発生、その復旧需要によって経済活動が押し上げられ
 た。 
 この状況を景気回復と誤認した官僚やマスコミは、時の橋本内閣に対して万般の改革を
 急ぐべく促した。
・事態を甘く見て功を焦った橋本内閣は、行政改革、教育改革、社会保障改革、金融改革、
 経済構造改革、および財政改革を「六大改革」と位置づけ、一挙解決を図った。その上
 にもう一つプラスワンとして首都機能移転も実現しようとしたのである。
・しかし、教育改革と社会保障改革は官僚と業界に阻まれ、金融改革と経済構造改革はそ
 の本質を見失った。橋本内閣が曲りなりにも推進できたのは、行政機構の改革だけであ
 る。  
・一方、財政改革は大失敗だった。橋本内閣は、同時に支出削減と消費税等の増徴という
 デフレ政策をとった。心臓の手術の最中に血液を搾り取るようなものだ。
 官僚機構らしい縦割りの発想で、全体像がどうなるのか見失っていたのだ。
  
経済を見つめて
・日本の河川には農業用水などの水利権が張りついていて、水はあっても利用できない、
 という状況がよくある。町の近くを滔々と水が流れているのに、水道は給水制限という
 例も実際にあった。都市化や減反で水田が減っても、昔ながらの水利権がなくならない
 からだ。
・規制を緩和して、誰でも「売水事業」ができるようになれば、山間部の自治体で水利権
 を持つ農民の組合が大小さまざまな利水施設をつくって大都市の水道局に売り込むに違
 いない。そうすれば、中山間部の町村の収入が増え、それを利用した観光やお祭りがで
 きる。
・東京の水不足の背景にも、河川を取り仕切るのは公権力、一級河川は国だけが管理し工
 事をするという官僚的な権限思想が災いしているのだ。
・河川や水資源だけではない。世の中には官庁にしか分からないこと、関係官庁とその周
 辺にしか専門がいないことがたくさんある。
 通信電波の割り当てにしても、空港上空の空域管制にしても、首脳の警備や道路交通整
 理にしても、関係官庁のほかには専門家がいない。
 だから、「これはこうしかできません、この規制を外すとこんなに危険です」といわれ
 ると「ああ、そんなものか」と思ってしまう。
 ところが、外国の例を見ると、日本では危険でできないことや、技術的に不可能だと聞
 いてことをどんどんやっている例がたくさんある。おして大抵は、何年が何十年か遅れ
 て日本でもできるようになる。 
 携帯電話の電波割当数は増えるし、成田空港の横風用滑走路はなしでも済むことになっ
 た。木造三階建ても許されるようになった。
 
・イギリスには、こんな諺がある。
 「他人のお金を使う時には、自分のお金を使う時ほど慎重になれない」
・日本人は納税者意識が弱く、支払った税金は、「他人のお金」と諦め、あえてその使い
 道を詮索しない。
 このため、官僚は軽率に「他人のお金」を使いまくる。政治家もこれに乗っかり、官僚
 と癒着して税金を自分の選挙や人脈に役立ちそうなところにばら撒こうとする。
 誰もが「他人のお金」と思って気楽に使ってしまうのだ。
・それだけではない。この国には、税金よりも徹底した「他人のお金」が巨額に存在する。
 国会での審議もほどほどで、少数の官僚が勝手気ままに使える財政投融資、略して財投
 だ。原資は郵便貯金や厚生・国民年金だが、金額は年間五十兆円にも達する。預金者や
 加入者は「自分のお金」を預けたつもりで安心しているが、預けたお金は郵便局を素通
 りして、大蔵官僚に運用が委ねられる。
・確かに、貯金や年金は国が保証しているから取り付け騒ぎを起こす心配はあるまい。問
 題は、その「国の保証」とはどういうことかだ。
 二十六兆円にも達した旧国鉄の債務の例でも分かるように、「返せない債務者の分は国
 が公費で、究極的には税金によって返す」という意味なのだ。
・では、どうすればよいか。
 「他人のお金」になる税金や社会保険料を安くして、「自分のお金」である個人所得を
 増やすことだ。何よりの「他人のお金」財投は廃止し、より「自分のお金」と感じられ
 る郵便事業の民営化を進めるべきだ。
・福祉に関しては、介護施設に補助するのではなく、福祉の消費者たる高齢者などに年金
 や福祉クーポンを与えるほうがよい。与えられた年金等は、受け取った人の「自分のお
 金」になるから、慎重によい施設を選ぶだろう。
  
・「文化は儲からない」という文化人は多い。「大衆に媚びるようでは芸術が創れない」
 という作家もいる。
 しかし、大衆の支持によって育った芸術文化は多い。特に市民の多くに余暇と余裕のあ
 る社会では、市民自身の支払うお金でこそ文化が創造される。
・もちろん、大衆に受けるものなら何でもよいわけではない。その中には、一時の流行で
 終わるものも、話題性だけを狙った驚世家も多い。だが、それを一時の流行に終わらせ
 るのも消費者大衆なら、崇高な文化まで育てるのも大衆である。
・自分のお金で入場料や代金を支払う者は、税金を分けるだけの官僚よりも真剣だ。スポ
 ーツや文化の分野でも、官僚の判定よりも消費者の選択のほうが正しい場合が多いので
 ある。   

・需要不振の不況を治すには、消費需要の喚起が必要だ。アメリカが好況を続けているの
 も、消費意欲が衰えないからだ。現在のアメリカには「お金で買える楽しさ」がたくさ
 んあるからだ。
・人間は楽しくなければお金を使わない。買物をしたり外食をしたり、旅行や観劇・観戦
 をして、おもしろいと思えばお金も払う。豪邸を建てれば褒められ、寄付をすれば讃え
 られる。それでこそお金を出す。俗物的といわれるかもしれないが、人間の本音はそう
 に違いない。

・実際、景気はきわめて悪い。なかでも深刻なのは消費。家計調査では97年11月から
 は平均消費性向が70%前後が続いている。異常事態である。
 買いたくなるような新商品やブランド品がなくなったのに、増税や年金崩壊で将来の不
 安だけが重くのしかかっているからだ。
・こういう時には、あっと思うような発想の転換、それも人々に不安を与えないような仕
 掛けが必要だ。
 その一つとして公共料金の大幅値下げをやってみてはどうだろうか。実はこれ発想の転
 換と法改正で可能なのだ。というのは、不況の今年に十年後の金利を支払い、十年後に
 今年の金利を支払うことにすればよいのである。
  
・株と土地の急騰は、国民の資産価格を押し上げ、金持ちになったような気分にさせた。
 バブル景気は、一般大衆をも巻き込んでいたのだ。
・これに対して、自宅を持たない都市住民からは、「自宅も買えない」という怒りの声が
 上がった。90年ころには、地価さえ下がれば全国民が幸せになるかのような論評も多
 かった。
 今や地価は大暴落したが、これで国民の多くが幸せになったかといえば、そうではない。
 バブル時代に土地買いに走った企業やそれに融資した金融機関が、巨額の不良債権を抱
 えて四苦八苦、この時期に自宅を買った人々はローンの返済に苦しんでいる。
 一方、自宅を買わなかった人々は値上がりの期待がなくなったので、今さら買おうとは
 しない。
 この国には今もなお、土地や住宅を、「利用する資源」としてよりは、「子孫に遺す資
 産」と見る思想が強いからだ。結果としては、住宅産業も大不況に陥っている。
 
・この世で当てにならないものが三つある。政治家の公約と気象の長期予報と株価の理論
 だ。
 政治家の公約が充てにならないのは毎度おなじみのところだ。
・江戸時代の諺に「安いものと化けものはない」というのがある。実際、この世の中に割
 高なものは多いが、滅法割安なものはめったにない。安いものには、それ相応の欠陥が
 あるが普通である。投資対象においては、特にそうだ。
・利回りのよい投資対象や値上がりしそうな証券や物件は、確かにある。
 しかし、利回りのよい投資は必ず危険が大きい。
・およそプロの投資家がウヨウヨしている以下の世界で、高利回りで安全な投資が簡単に
 できるはずがない。  
 そんなものがあれば、たちまち全世界から資金が殺到、そのものの価格は急騰、ほかに
 比べて高利回りではない水準までに暴騰するはずである。
・投資には、大なり小なり危険はつきものだ。本当に罪深いのは、損失を隠してひそかに
 取り戻そうとして投機に走り、損を重ねることだ。これまでに損をした者が、これから
 投機をしてとり戻せると思うのは、下手な賭博師の発想である。
・金融機関であれ投資顧問であれ、他人のお金を運用する者は、自分のお金を動かすほど
 には慎重になれない。それでもまだ、民間の機関なら損失は自分の給与にも将来の立場
 にも影響するから、歯止めが利く。
 ところが郵便貯金や年金で集まった公的資金の運用となれば、まったく無責任。これに
 失敗した例は多いが、役人が責任を取って辞任したことは一度もない。
・金融機関のモラル、経営者のマインド、それは健全なる経済に必要だが、なおそれだけ
 では十分ではない。もう一つ、経済を成長させ、未来を拓くには、新しい業を起こすス
 ピリットが要る。この国の言葉でいえば、「志」であろう。
・経済は生き物だから老化する。産業は古くなり、都市は汚れ、組織は安定を求めるよう
 になる。これに代って次々と新規産業が現われ、新しい起業が起こる。それによって、
 経済は若さを保ち続けるのだ。
  
政治を見つめて
動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の、茨城県東海村の再処理施設で起こった火災に関
 する報告で、いくつもの嘘があったことが問題になっている。
 動燃は、1995年、福井県の高速増殖炉「もんじゅ」の事故でも虚偽の報告をしたと
 して問題になったが、今回も同種の過ちを犯してしまった。
・動燃に限ったことではない。厚生省もHIV感染症を招いた血液製剤に関する資料が見
 当たらないといっていたのに、やがて本棚から発見されたとかいって公表した。官庁の
 常識として、あれほど分厚い綴りが本棚にありながら、何カ月も見当たらなかったとは
 考え難い。 
・組織が情報を秘匿するのは、その組織の構成員の利益を守るためだ。しかし、その瞬間
 に組織の本当の目的は放棄されて、本来の機能は失われてしまう。
・ある目的を達成するために創られた機能組織が、仲間うちをかばい合う共同体化するこ
 とは、「組織の死に至る病」である。
・アメリカやイギリスで情報の秘匿や虚偽の報告にことのほか神経質なのは、それが自由
 社会と民主主義の根本を揺るがす社会的重罪と見なされるからである。
   
・大正デモクラシーではじまった戦前の民主主義が、十年を経ずして機能停止した理由の
 一つは、普通選挙への過大な期待と、その結果への失望、それを助長した政党間の無節
 操な誹謗合戦だった。
・もともと民主主義には、さまざまな欠点がある。ギリシャ・ローマの昔から金銭疑惑は
 絶えないし、人格下劣なデマゴーグ格好だけの無能者が、一時のブームで政権を取るこ
 ともある。
・だが、民主主義のよい点は、そんな失敗があっても、次の選挙で有権者の意思によって
 変更できることだ。民主主義とは、国民多数の選択は一時的に誤ることはあっても、常
 に正しい方向に修正されるので大きく誤らない、という国民信頼に基づく制度なのだ。
・戦前の日本の失敗は、あまりにも高邁な理想をこの制度に期待したため、一時的な失敗
 だけで民主主義の仕組みそのものを放棄した点にある。つまらないと思っても投票に行
 き、少しでもましな政治を選ぶようにしたい。
・民主主義の長所は、誰もが政治を批判できることだ。それゆえ、民主主義の国ほど、
 「政治が悪い」といわれることが多い。世界でその国の国民が「わが国の政治は良い」
 と言い切るのは、北朝鮮のような国だけである。
   
・いつの時代、どんな場所でも、体制を改めるような大改革を論じると、必ず、「現実的
 に考えなければ」とか、「そうはいっても現実問題としては」という人々が現われる。
 こうした「現実主義者」は大抵、現にその分野を担当する経験豊かな有資格者、いわゆ
 る「専門家」である。だが、彼らのいう、「現実的な方法」を採用すると、結局は今ま
 でどおりの仕組みで今までと同じ担当者が、少しばかり仕方や名称を変えて同じことを
 続けることになってしまう。つまり、改革は実現せず、人事は変わらず、旧態依然たる
 状況が続くのだ。
 世の専門家たちがいう「現実的な改革方法」とは、改革を実現するには、最も非現実的
 なやり方である場合が多い。
・改革とは、全体の仕組みを改めることで、個々の仕方を変えることではない。
 ところが、世の専門家というのは、現にある仕組みの中で育ち、そのためにできた組織
 で地位と経験を得た人々だから、現在の仕組みを万有引力と同じような万古不易の公理
 と信じ込み、それが壊れれば何もかも無茶苦茶になると思い込んでいる。したがって、
 仕組みを改めることは考えず、その中での仕方だけをいじくりたがる。
 
・日本の官僚組織は供給者を育てることを目的としてきた。通産省は製造業と流通業、運
 輸省は運輸業と港湾建設業者、農林省は農民の農協の保護育成を目的としている。文部
 省は学校と教師の保護に夢中で生徒のことは考えない。厚生省は医師と薬屋の味方で患
 者の仇だ。
 これでは各省庁とその所管業界が癒着しやすいのは当然だ。最近「役人は業界人と会食
 をするな」とか「ゴルフを断れ」とかいうが、供給者の保護育成を正義と信じる官僚の
 倫理と目的意識が続く限り、そんなことをしても大して変わらないだろう。
・日本は古くから、政治家は批判しても安心だが、官僚を批判すると恐ろしい。戦前には、
 軍務官僚を批判すれば徴兵令状が来るとか、警察官僚を批判すれば職務尋問されること
 もあったが、今でも官僚が権限を法で定められた目的以外に行使するのは容認されてい
 る。 
・世なれた言論人は、政治家批判を免罪符にして官僚機構を持ち上げる。この結果、批判
 されない官僚がむやみに強くなり、政治家は官公庁へ陳情を取り次ぐ仲介業者に成り下
 がった。これが「族議員」の実態である。
・仲介業者は本家本元が強力で近づき難いほど値打ちが出る。自分が仲介する官公庁の予
 算と権限を拡大し、官僚の裁量権を強めて近づき難くしれば、族議員も値打ちが上がる。
 仲介を受け入れてもらうには官僚の覚えめでたいことが大事だ。いったん族議員になる
 と、その官公庁には忠勤を励み、前後の見境もなく官庁擁護に突進する。新聞などにも、
 各省大臣をその省庁が提出の法案の成立度合いで採点した表が載ることがある。官僚に
 対する従順度が政治家の点数になっていたのだ。
・「族議員」は、隣の「族議員」を攻めない。自分の分が増えればよいので隣を削れとい
 う必要がない。その結果、予算は増え続け、規制強まり、世の中は硬直して生活はおも
 しろくなくなる。  
・こうした事態を変えるために、「族議員」を廃止せよといってもはじまらない。むしろ、
 個別の利害にとらわれずに全体を調整に当たる「調整族」という「族議員」を育てたら
 どうかというアイデアが出た。もともとの発案者は竹下登元首相だが、発想としては面
 白い。

・日本には、辞めた者や死んだ人の旧悪を暴き立てない慣習がある。特に、率先退任や覚
 悟の戦死なら、「潔し」としてすべてを帳消しにしてくれる。
 このことは、現在の権力者を辞めやすくし、人事の円滑化には役立つ。旧共産圏諸国の
 ように、いかなる独裁者もその地位を去ると必ず批判に曝されるのでは、みな死ぬまで
 権力の座にしがみつく。それに比べれば、日本の慣習は「美風」といえなくもない。
・しかし、トップの退任ですべてが終わるのでは、失敗の責任追及も敗因の究明も行えな
 いため、同じ失敗を繰り返す。トップの退任や司令官の戦死の陰で真の責任者は生き延
 び、組織の本質とそこだけで通用する「村の論理」が維持されるだけだ。
・事実、第二次大戦中の日本の陸海軍には、そんな例がいくつもある。例えば1939年
 のノモンハンの戦いで敗北した師団長は死亡したが、実質的な作戦指導を行った参謀は
 むしろ出世し、ガダルカナルでも他の作戦指導でも同じような銃剣突撃を指示して失敗
 を重ねた。  
 ミッドウェーの敗因も十分究明されなかったし、責任者の処罰も行われていない。いず
 れの場合も、軍の失敗を世間に知られたくない、という「村の論理」が働いたためだろ
 う。
・戦後五十年を経た日本には、勇気という徳目はなくなった。この国の大組織では、勇気
 は乱暴であり、決断は独裁と受け取られる。臆病は慎重と言い換えられ、無責任は衆知
 の尊重と見なされる。トップはもちろん、それを補佐する人々も、温厚で慎重なほうが
 よいのである。
 
・官僚が所管業界の企業や団体から会食やゴルフの接待を受けていたのは、銀行局や証券
 局に限ったことでも、大蔵省に特有のことでもない。程度の差こそあれ、どこの官庁で
 も古くからやっていることだ。
・もちろん、官僚だけでなく、民間企業や各種団体でも、飲食やゴルフの接待はある。全
 国各地の高級料亭やゴルフ場の支払いは、大半が法人の経費で賄われている。税務統計
 によれば、98年度中に費やされた民間企業交際費総額は5兆4千億円、株式配当総額
 よりもずっと多い。 
・企業などの交際費で会食やゴルフを楽しむのは、所得格差を縮めて個人を総じて貧しく
 した戦後日本が考え出した社会的慣習ともいえるだろう。
・私は、こんな慣習が好きでもなければ正しいとも思わない。それを生み出した税制や給
 与体系もよいとは考えていない。
  
・日本を誤った方向に導いた「A級戦犯」はだれなのか。実はそれほどの大物ではないの
 である。
 事実は明白だ。日本が近代工業社会として繁栄したのは80年代、経済は成長し、輸出
 は伸び、国際収支は黒字続きで対外的にも金持ちになった。これに値を上げた欧米諸国
 が円高誘導を求め、日本は合意した。いわゆる「プラザ合意」である。
・国際競争力の強い国の通貨が値上がりするのは当たり前、だれが偉かったわけでもだれ
 が悪かったわけでもない。だが、急激な円高で輸出産業は窮地に立ち、日本は不況にな
 った。そこで政府は財政資金を出し惜しみして、金融緩和で景気対策を試みた。
・経済学に「紐の理論」というのがある。紐を引いて袋の口を閉めることはできても、紐
 を押して袋の口を開くことはできない。金融は紐で、景気の引き締めには有効だが、拡
 大には効果が薄い。政府はあえて、この効果の薄い金融に頼ったから、金融は超緩慢化
 し、過剰資金がよからぬ方向に走った。株価と地価の急騰である。失敗は金融を財政の
 補助のように扱ったことだ。 
・この失策はなお続く。90年代に入ってバブル景気は過熱した。当然、財政を大幅に引
 き締めるべきであった。特に公共用地の買収などは半減、いや全減すべきだった。だが
 このときも政府は、財政引き締めを避けて、金融に責任を負わせた。総量規制をはじめ
 とする不動産融資の規制である。
・引き締めには金融政策はよく効く。このときも効きすぎた。このため地価は大暴落、金
 融はボロボロに傷ついた。金融機関は七十兆円もの不良債権を抱え、預金者にまともに
 金利が払えなくなってしまった。いくつもの金融機関が破綻し、証券業界の従業員は四
 割も減ったのである。 
・それでも政府は金融を使いまくる。景気振興のために金利を限りなくゼロに近づけたば
 かりか、予算(財政)の不足分を財政投融資なる金融によって補うことまでしている。
 それでいて、財政だけは均衡を保とうとして、97年4月に約9兆円の増収を図った。
 これが今日の不況の一因となっているのは、大方が合意するところだ。
・日本の「A級戦犯」は、国民のチェックも経済の常識も無視して、金融を財政の下僕の
 ごとく扱ってきた行政の仕組みである。
・長い間、日本の美意識と倫理は逆だった。
 徳川時代の政治の要諦は「由らしむべし、知らしむべからず」で、不言実行を美徳とし、
 言い訳などしないで黙って責任を取るのが良しとされていた。
 「お上は何も仰らない。だが、必ず民のことを考えてくださる」と、みんなに期待させ
 ておく。これからやる政策や事業を事前に仰々しく言いふらすのは期待感を分散させて
 効果半減、異論と失望を招くだけだ、という発想である。
・また、事故の原因や失敗の理由をくどくど説明するのは未練がましく見苦しい。原因は
 究明すれば責任が他にも及び、仲間の恥をさらすことにもなる。失敗の理由を説明する
 のは責任逃れに通じる。「アカウンタビリティー」を、「説明責任」とするなら、こち
 らは「沈黙責任」、「仲間をかばい事件を波及させないために共同体的相互保護だ。
・こんな美意識と倫理が生まれたのは、日本でも徳川時代の武士社会からだ。人口の2%
 から3%の武士が、組織的な軍事機構も卓抜した重火器もなしに民衆を統治するために
 は、「お上は間違えることがない」という建前を保たなければならない。それには、
 民に善政を期待させる一方、間違いを犯した者には黙って全責任を取らせる。功は組織
 に与え、責は特定個人に背負わす、そうすれば「お上はいつも正しい」ということにな
 る。

・個人的な倫理の腐敗では、国民経済が破綻したり国家が危うくなったりするほどではな
 い。腐敗は、組織ぐるみの収奪にならない限り、「怪しからぬ」ことではあっても、
 「恐ろしい」ことではない。本当に恐ろしいのは、官僚たちが世論にも国会審議にも耳
 を貸さず、官僚組織だけの独善と利益を正義と信じて張り切りすぎることである。
・1936年、日本は似たような危機に直面した。巨大な権限を持つ官僚組織の陸軍が
 「二・二六事件」なる大失態をやらかした。およそ近代国家の軍隊で、下級将校が勝手
 に部隊を動かして要人を暗殺する「叛乱」が起こることほど恥ずかしいことはない。
 軍上層部には部下を統率する能力と権限がなく、下級将校には上司の命令に服するガバ
 ナビリティー(被統治能力)が欠けているのだ。
・それだけではない。当時の陸軍は、世界情勢を読み違えていた。専門のはずの兵器開発
 や部隊編成でさえ近代化を理解せず、日露戦争当時の戦法しかしらなかった。特に兵站
 に関しては、あきれるほど無知だった。
・要するに、当時の陸軍(海軍も)の職業軍人たちは、あらゆる点で無能の極みだった。
 個人的には文章のうまい人も外国語の達者な者も威勢のよい奴もいたが、組織としては
 最低だった。そのことを露呈した一つが「二・二六事件」である。
・したがって、この処分としては、陸軍という無能な組織の権限を削り、あまり張り切ら
 ないようにすべきだった。人間を無能化する陸軍という組織に優秀な人材を入れるので
 はなく、陸軍を監視する国会や内閣の権限を強め、陸軍とは関わりのないジャーナリス
 トや民間企業に優秀な人材が入るようにすべきであった。
・ところが「二・二六事件」の処分として行われた「粛軍」の内容は、叛乱将校の厳罰と、
 これを支持した将軍の退役だけで、陸軍そのものの権限は著しく拡大された。
 「陸・海軍大臣は現役の大将か中将でなければならない」という軍務大臣現役制度を復
 活させたのだ。軍人の士気を保つためには、それが必要だという主張に屈したわけであ
 る。 
・この結果、何が起こったか。陸軍という無能な組織が内閣の生殺与奪の権を握り、翌年
 には日中戦争を、5年後には太平洋戦争をおっぱじめる。
 自己の組織の拡大が正義と信じる倫理の頽廃に陥った官僚組織に、より大きな権限を与
 えたからだ。
・今日の大蔵省の無能さは「二・二六事件」当時の陸軍に匹敵する。個人的には文章のう
 まい人も英語のできる人もいるが、組織としては無能で、何が正しいかが分からない倫
 理の頽廃に陥っている。
 この国を救うためには、無能な組織から金融に関する権限をなくさねばならない。
 
日本を見つめて
・東京圏の未来もバラ色ではない。東京都の人口激減と周辺各県の急増は、都心を取り巻
 く「少子・高齢化社会の輪」の発生を予想させる。
 すでに、東京の都心部では猛烈な高齢化が進んでいるし、多摩ニュータウンなど60年
 代が開発された郊外住宅でも少子・高齢化が目立ちだした。開発された時期に入居した
 人びとがそのまま住み続けているため、中高年の二人世帯が多い。
・一部には、マルチメディアの発達で東京集中に歯止めがかかるのではという期待もあっ
 たが、実際には衛星放送の発信もインターネットの利用も9割以上が東京に集中、これ
 まで以上に東京一極集中を促進する結果になっている。
・東京都心部は、極端な少子・高齢化社会の分厚い輪に取り囲まれた「孤島」となり、そ
 こに通勤する人々は、この輪を突く抜けるために、ますます多くの時間と費用を費やさ
 ざるを得なくなっているのだ。  
 これは単に、日本社会の不経済・非効率というだけではない。家族の絆を失わせ、地域
 への関心をなくさせる危険も大きい現象である。

・政府(農水省)は計画外流通米の自由取引を認めながら、計画流通米の価格維持を図っ
 て、減反強化や減反農家の所得補償制度を考えているが、そんなことをうまくやるのは
 至難の技である。 
・農水省がこんな難しいことを考えたのは、大規模専業農家を育成するためだ。会社勤め
 の片手間に米作りをする小規模兼業農家なら、米価が値下がりしてもやっていけるけし、
 生産量も少ないから親類知人にでも売れてしまう。
 だが、これから日本の農業を担う大規模専業農家は、それ相応の機械や施設を必要だし、
 農業所得も確保しなければならない。したがって米価が一定以上でなければ成り立たな
 い。つまり完全自由化をすれば兼業農家が残って専業農家が潰れるから困るというわけ
 である。
・これが事実だとすれば、日本では大規模専業農家よりも小規模兼業農家の方が競争力が
 ある、ということだ。そうだとすれば、何故に競争力のない専業農家を育てようとする
 のか。大規模化だけが農業の生きる道というのは間違いで、兼業農家の健全な育成こそ
 日本の農地と農業を守る道、ということにならないだろうか。
・大規模専業化を進めることのもう一つの問題は、日本の農村が破壊されることだ。大規
 模専業農家ばかりになると、日本の農業人口は十分の一に減り、大半の農村は超過疎化
 してしまう。 
・一方、農村に住むサラリーマンや自営業者にとっては、先祖伝来の農地を耕し、米や野
 菜を収穫できるのが大きな魅力になっている。農地が大規模専業農家にまとめられ、兼
 業農業ができなくなれば、農村に住む魅力は失われ、みな便利に賑やかな都会に移住し
 てしまだろう。
・そうなれば、農村の購買力や担税力は激減、商店も医療も学校も郵便局も維持できなく
 なるにちがいない。農村を故郷とする日本人は減り、自然保護に手を貸す技能の持ち主
 もいなくなってしまう。当然、農山村の環境保護にも関心が薄れることだろう。
 
・行政改革は、財政改革の一部ではない。行革の目的は、行政の仕方を改善して人件費や
 事業費を削ることではない。もちろん、省庁の数を減らすのが目的でもない。
 行革の目的は、この国の官僚主導体制を突き崩して経済の自由競争と消費者の選択を広
 げることだ。  
・そうすれば、より効率的な技術や制度が導入され、消費者の好みを満たす商品やサービ
 スが開発普及されると考えられるからだ。つまり、日本社会全体を「良いものが栄え、
 悪しきものが消える仕組み」に改めることになるのである。
・そのためには、まず第一に、自由競争のない官営官業を減らし、民間の競争原理に広げ
 ることが望ましい。
 第二には、新規参入や適者成長が円滑に行われるように、すべての事業主体が同じ条件
 で競争し得る環境を整えるべきだ。
 そして第三には、どうしても官営官業としての残る分野についても、普段の合理化努力
 が行われるような透明で公正な消費者(国民)の監視体制を整えることである。
  
・東京地区で大災害が生じると、日本国の経済と情報の中枢が停止し、日本政府自体も被
 災と欠勤で能力が半減する。東京都庁でも、職員の大半は長距離通勤者、不可欠要員は
 近くの公務員宿舎などに居住させているといっても、すべてがうまくいくとは思えない。
 自らも被災者となり、帰宅・出勤困難者となる人々が、大規模な救援・復旧活動を行う
 のは、非常に難しい。
 そのことを思えば、せめて日本の首都機能の主要部分でも、東京圏外に移すことが、都
 民を救う道だろう。 
・日本政府も、東京都も、企業本社や金融機関も、マスコミの中枢も、東京一極に集中し
 ている現状は、やっぱり恐ろしい。
 
世界を見つめて
・周知のように日本とドイツは、第二次大戦の敗戦後、共に「奇跡の復興」を成し遂げ、
 ドイツは1960年代初期に、日本も同後半には経済大国になった。
 ところが、70年代の石油危機を乗り切り、80年代の経済好調を超えると、両国とも 
 に新たな局面に直面した。
・ドイツの場合は冷戦構造の終焉によって東西ドイツの統合という悲願を達したのだが、
 それに続く旧ソ連やバルカン諸国での内紛内乱による移民の流入、これらに伴う巨額の
 財政負担や失業問題が発生した。夢の達成は問題のはじまりである。
・90年代に入って経済危機に見舞われる点では、日本も同じである。ただし、こちらは
 冷戦の終焉をまともにかぶったわけではなく、ひとりよがりの地価株価バブルの結果で
 ある。  
・危機の態様は、日独それぞれ違う。それに直面している社会や政治の組織も違う。だが、
 現実の病状は似ている。依然として規格大量生産型の製造業への依存度が大きく、新規
 投資が少ないためソフト産業が育たないのだ。
・両国の共通性を求めるとすれば、両国ともに製造業で大成功したこと、つまり規格大量
 生産にいちばん適した社会の仕組みをつくりあげたことだろう。
・「失敗は成功の母」という諺がある。その逆をいえば、「成功は失敗の父」である。
 「父」だから、今ある失敗の親がどの成功か、必ずしも特定できない。それゆえ、失敗
 を産んだ原因を突き止めて改革するのは容易ではない。
・かつては大きな成功を産みだした組織や制度や倫理観の中に、今日の低迷を生み出した
 原因が潜んでいる。日本の場合、その第一の容疑者は官僚主導だろう。だが、それを改
 めようとすれば必ず「問題はそれだけではない。ほかにも重要問題がある」といわれる。
・アメリカやイギリスの経済が活性化したのは規制緩和とボーダーレス化、つまり自由競
 争の拡大である。この結果、両国とも財政事情は好転し、失業率は低下し、金融や映像
 作りのソフト産業は盛んである。
・その半面、企業売買が盛んになり、リストラによる従業員整理は著しい。好景気で失業
 率は低いから、再就職の機会は多いというものの新しい職場には低賃金労働が多く、貧
 富の差は猛烈に拡大している。ドイツの経済学者はこれを「カジノ的経済」と呼び、
 「必ずしも好ましい状況とはいえない」と主張した。

・日本人は将来を心配するあまり、出産には神経質、消費には慎重、起業にはひどく臆病
 になっている。この国には、未来に対する夢と自分に賭ける勇気が失われてしまったの
 だろうか。  
・アメリカの動きは逆だ。出生数こそさほど伸びていないが、移民の流入がそれを補って
 余りある。
 アメリカ人はいまを楽しむのに熱中し、未来に賭けて大胆に業を起こす。このため需要
 は多くて景気はよいが、貯蓄不足で貿易赤字だ。今日のアメリカは、自信過剰の楽しみ
 すぎなのかもしれない。

過去を見つめて
・プロセン軍を強化しドイツ帝国の創建に尽くしたヘルムート・フォン・モルトケ元帥は、
 その職を退くにあたって後世のために参謀人事に関する要諦を残したという。
 それは人事評価を「意欲」と「能力」の両面から見て、最も要職に就けるべきなのは
 「能力があって意欲の乏しい者」とされていた。第二は「能力も意欲もない者」、第三
 は「能力も意欲もある者」、そして絶対に要職に就けてはならないのは「能力がなくて
 意欲だけがある者」というのだ。
・これまで日本の官庁や企業では、従業員の「やる気」、つまり意欲と忠誠心を重視して
 きた。「やる気」のあるなしこそは、人材評価の最も重要な要素だったし、それを軸に
 人事をやっても誤ることもあまりなかった。戦後この方、日本経済が、「右肩上げり」
 の成長期だったからだ。
・行政改革でも企業のリストラでも、組織の削減や権限の縮小をするとなると、必ず「そ
 れでは従業員がやる気をなくす」「社員の士気が低下する」という反対が出てくる。
 しかし、「右肩上げり」の成長気質から「うつむき加減」の成熟気質に変わる時期には、
 組織と費用を削るために、ある部分の士気を低下させることが必要な場合さえ出てくる。
   
・1973年に世界を襲った石油危機は、無限成長を前提とした未来学に痛撃を加えた。
 そのうえ、彼らが推奨した原子力発電や超音速機などの巨大技術も、安全性と経済性か
 ら疑問視されるようになった。大都市を緑の森林に浮かぶ超高層ビル群にするなどと
 いうのは、非人間的でコストばかりかかることもわかった。
 
・われわれ日本の中高年は、今なお、長かった高度成長の時代を忘れられないでいる。い
 わば60年代型未来学に取りつかれた世代だ。円高とバブル景気のおかげで、ベトナム
 戦争後のアメリカやユーロペシミズム時代のヨーロッパほど厳しい反省をしなかったか
 らかもしれない。
 そのせいか、日本の中高年には、今なお成長と拡大を信じる気持がある。だがそれが、
 明るい未来ではなく、今日の貯金を焦る苛立ちを生んでしまう。未来は今より費用のか
 かる時代だと思い込んでいる人が今なお多い。
・現実の低成長と確実な少子社会を豊かにする進歩と英知を生み出す「新未来学」を始め
 るべき時期が来たのではないだろうか。
  
未来を見つけて
・後世の目で見れば、豊臣秀吉ほどの人物が何故に朝鮮出兵という愚かなことをしでかし
 たのか。不思議に思う。だが、先行投資を続けてきた成長組織が成長のないゼロサム社
 会に当面し、過剰雇用が深刻な問題になったとき、なんとか成長を続けようとしてとん
 でもない誤りをやらかしてしまうものなのだ。
・そのことは、1980年代末期に、私たちの世代も十分に経験した。戦後四十年、高度
 成長を続けてきた日本の企業は、終身雇用と先行投資という成長体質に浸かりきり、成
 長が止まったあとも企業規模の拡大と人事ポストの増加を求めて、先行投資を継続した。
  
・世界の歴史の中には、高齢になってから新規事業を起こして成功した人々の例は少なく
 ない。高齢になったからといって人生を閉鎖的に考える必要はない。ベンチャービジネ
 スは、若い人々だけの市場ではない。
・人間の知的能力の中でいちばん衰えの早いのは記憶力だが、衰えのないのは創造力だと
 もいう。記憶を補うコンピューターが普及することは、高齢者には有利な条件なのだ。
・科学技術の進歩は、社会を豊かにし、若者たちの日々を賑やかにすると同時に、不老長
 寿の願望も叶えてきた。これから高齢者が増え、不老を演出する技術や器具の市場が広
 まれば、この方面での技術進歩と器具改良が進み、ビッグビジネスになるだろう。
・国内市場があること、経験者が多いことは、技術の産業を成長させる優れた条件だ。
 急速に高齢化する日本は、不老長寿産業を発達させるのに、有利な環境を備えているわ
 けである。  
  
・人間は、自分が同時代人として見聞きしたことは「体験」として記憶するが、生まれる
 前の出来事は、教えられた「歴史」としてしか認識できない。したがって、その出来事
 が何年前かよりも、自分が生まれる前か後かのほうがずっと重要である。
・人間が記憶に留めることには、楽しいことも嬉しいこともあるが、つらいことや苦しい
 ことのほうが多い。 
 そうだとすれば、記憶に残らない日々が多くて、月日の経つのが早く感じるというのは、
 一種の幸せ中毒なのかもしれない。
・経験を積み、記憶に残らぬ平凡な日々を送っていれば、月日が早く経つのは国家や企業
 でも同様だろうか。
・一つの体制ができあがって世の中が安定すると、政治も行政も、団体運営や企業経営も、
 そのシステムに慣れて惰性で仕事を繰り返し、型にはまった人事交代だけを行う。
 それで万事が支障なく進めばあえて大改革をすることもなく、小さな手直しだけで日々
 を過ごすことができる。
 官庁も企業も機械的なルーティングワークだけで時が流れ、記憶に残らない歳月の繰り
 返しになってしまう。  
・こんなときは、えてして問題が生じていても、積極的に解決しようとせず、弥縫策で先
 送りする。幸いなことに月日の流れが早いから、それでもすぐに三年五年が経ち、大臣
 も内閣も、社長も担当者も、「大過なく役職を務められ」といった送別の辞を贈られて
 交代してしまう。
・しかし、この早い時の流れの中に思いもせぬ重大な問題が蓄積し、やがてその体制や組
 織を全崩壊させることもあり得るのだ。
・今日の日本のような成熟した体制の中で、改革の先送りで「記憶に残らぬ日々」を過ご
 しているのは危ないことではないだろうか。
  
・「歩いて暮らせる街」とは、どんなものか。簡単に言えば、駅前商店街を高層マンショ
 ンにして、便利な都心部に居住者を呼び戻すとともに、映画館が二十ほど集まったシネ
 マコンプレックスや音楽会場や体育館、展示場なども混在させようということだ。
 街灯をうんと明るくする。どこにでもある街区公園(旧児童公園)の照明を増やして音
 響施設を付設し、自動販売機も並んでいれば映像スクリーンもあるコミュニティー広場
 にする。開業した商店を集約して、駐車場や駐輪場を完備することも大事だろう。
・「歩いて暮らせる街」は、けっして自動車を拒むものではないが、自動車や電車に頼ら
 なくても、買物も飲食も、文化も娯楽も楽しめるようにする。歩いて行ける範囲内に医
 院も託児所も、法律相談のできる弁護士事務所も、留守中に届いた宅配便を預かってく
 れる店もある。それなら夫婦の共稼ぎもやりやすいし、高齢者も暮らしやすい。
・若年労働者が減少する二十一世紀の日本では、歩いて行ける地域の中に、家事や育児を
 アウトソーシングできるサービス業が完備していることが重要だ。その意味で、一見古
 臭く見える職住機能混在の街こそ、高齢化社会を先取りした未来型の街づくりだろう。
・二十世紀の都市計画は、工場や商店事務所などの職場と、人間の暮らす住宅地域とを区
 分するのを良しとした。地図の上に線を引き、ここは住居専用地域、ここは商業地域、
 こちらは工業専用地域といった具合に色分けした。
・そうなったのは、工場の多くが煤煙や汚水を出す騒々しい施設だったこともあるが、そ
 れ以上に大きな理由は、社会主義の理論的発想が都市計画に浸透していたことだ。
・社会主義の理論は、近代社会では労働と生産手段は分離する、と断定する。生産手段は
 巨大化し、少数の資本家か法人の所有となり、労働者は労働力だけを持つ「自由なる労
 働者」になる、というわけだ。
 このため、都市においても、労働を再生産する場である住居地域と、生産手段である工
 場や商店の集中する工場地域、商業地域とは分離するのが近代的と考えたのだ。
・これに近代の規格大量主義が加わり、工場はもちろん、商品も事務所も病院も娯楽施設
 も、巨大化し集中化するのが効率的と信じられていたからである。
・幸か不幸か、日本の都市計画学は、1930年代から60年代にかけて、欧米で社会主
 義的思想の最も強かった時期に、主として建設技術者の手で導入された。このため、技
 術主導、図面先行の都市計画となり、その基盤にある思想や人間観は議論もされなかっ
 た。このため、知らず知らずのうちに、社会主義的発想の都市を、この国につくってい
 たわけである。
 しかし、今や社会主義は政治勢力としてだけではなく、思想としても人間観としても崩
 壊してしまった。そのうえ、規格大量主義も揺るぎだした。情報技術の進歩で多品種生
 産も安価になり、生活水準の高度化で人々のニーズも多様化した。
・それを反映して、世界の先進国では、自営業が増加している。特にアメリカでは、自分
 の会社をつくる人々の急増で毎年八十万件近くの起業がある。
  
・イギリスの住宅は、コンクリートや煉瓦造りが多くて耐用年数が長いが、アメリカは木
 造が多く、物理的な耐用年数は日本と大差がない。
 一戸当たりの広さの点でも、「持ち家」はい本も平均141平方メートル、アメリカに
 は劣るが、イギリス、フランスよりずっと広い。
 借家のほうは平均53平方メートルと狭いが、日本特有のワンルームマンションが多い
 ことを考慮する必要がある。
 外国の場合、この種の需要は学生寮か大型住宅に付随した「女中部屋」とみなされ、戸
 としては計算されない。こうした条件を考慮すれば、借家でも日本の住宅は必ずしも狭
 くない。むしろ造作の丁寧さや設備の充実ぶりでは欧米を上回っている。
・要するに日本は、立派な住宅を、諸外国の二倍も三倍も建ててきた。人口の増加と都市
 集中、核家族化の進展で、住宅需要が多かったからだ。
・しかし、今やそうではなくなった。親の数よりも子の数のほうが少ない時代がはじまっ
 た。当然、親の世代よりも子供の世代のほうが、必要とする住宅の数も少ない。
 「親の家をもらえば十分。新たに住宅ローンを組んで新築する必要もない」わけだ。
 老朽化した住宅の建て替え需要はあるとしても、新しく住宅用地を造成するほどのこと
 はない。現在は都心部でさえ利用度が低いのだから、高層化が進めば、住宅の広さが相
 当増えたとしても土地は十分になる。
   
・日本の社会資本は、この二十年間に驚くほど充実した。高速道路は全国に五千キロもで
 きたし、四国には三本も橋が架かった。大都市の交通渋滞は続いているという指摘もあ
 るが、世界中豊かな年ならどこでも見られる現象だ。
・これまで日本では、社会資本の充実が叫ばれ、年に四十兆円前後の公共事業費が投入さ
 れてきた。だが、少子高齢化が進むと、やがて住宅用地がこれ以上要らないとなれば、
 道路も鉄道も上下水道も、これ以上拡張する必要がない。二十年後の世代は、公共事業
 費負担の重圧からも逃れられるはずである。
・住宅だけではない。工業用地も農地もあり余っている。全国で空き地が目立っている。
・これからは工業用地を造成したり、水面を埋め立てて農地を増やしたりするのはもう要
 らない。
 われわれが気をつけなければならないのは、あり余った工業用地や農地の処分、そして
 子孫に重い維持費のかかる余計な施設を残さないことだ。
    
・「少子高齢社会は、年金と医療費ばかりが増える貧しい時代だ」
 これは大蔵省と厚生省の役人たちが創り出した神話である。今日の不況も、この神話か
 ら受ける不安のせいでみんなが貯蓄に励んでお金を使わず、将来を心配して今を楽しも
 うとしないために起こっている、といってよい。
 しかし、少子高齢社会は、住宅ローンの返済のない豊かな家計と、公共事業費が少なく
 て済む楽な財政の時代でもある。
・1997年度末には、日本には国と地方を合わせて529兆円の「借金」がある。
 「子供たちに世代に、これ以上の借金を背負わせては可哀想だ」という訴えには、説得
 力がある。 
・しかし、その一方で、今の世代は個人金融資産だけで1200兆円、住宅や社会資本を
 含めると、おそらくその二倍もの試算を築きあげた。いわゆる「世代間の負担」でいえ
 ば、次の世代は絶対に有利、巨額の正の資産を引き継ぐはずである。「世代間の負担」
 でいえば、次の世代は絶対に有利、巨額の正の資産を引き継ぐはずである。
・今の世代がすべきことは、貯金を殖やすことでも借金を減らすことでもない。楽しい高
 齢社会を実現できる商品やサービス、多様な施設や個性的な遊びを創り出すことだ。今
 の若者も、いずれは高齢者になるのだから。
  
暮らしを見つけて
・「座右の銘」とか「好きな言葉」とかを訊ねられることはしばしばある。しかし、その
 逆の「嫌いな言葉」というのは、訊ねられたこともないし、それを集めた本や辞典も見
 たことがない。人間誰しも「好き」があれば「嫌い」があるはずだが、あえて「嫌いな
 言葉」を語ろうとしない。
・私にも「嫌いな言葉」がある。その一つが「まあ呑めよ」だ。日本人の社会、特に世馴
 れした大人の世界では、これがありふれた慣用句になっていて、宴席や会食の機会をつ
 くってこの言葉を連発すれば、意見の対立や責任の追及が曖昧なまま収まると信じられ
 ている。 
・だから、これをいう人は、それほど重大な発言とは思わないが、実際にはこの言葉の持
 つ意味と効果は実に大きい。そこには、単に飲酒を勧めるだけではない意味合いがあり、
 むきになって反論できない雰囲気がある。
・人間のつき合いの中では、互いの気性や気質を知ることは大事だし、そのことから醸し
 出される情緒を味わうことも大切だ。その意味でなら、酒を呑みながら互いの趣味や娯
 楽のことを語り合うつき合いも重要だろう。
・だが、最初から社交と親睦を主な目的にした会合なら、「まあ呑めよ」などとわざわざ
 いう必要もない。この言葉が出るのは、大抵の場合、議論が核心に入りかけた時期に設
 けられた宴席とは、責任の追及が行われそうな時点で開かれた会食、あるいは企てた計
 画が挫折したあとの残念会などである。
 要するに、「まあ呑めよ」という言葉の本当の意味は、今の話題を打ち切ろうという提
 案である。  
・私はこの言葉を、どこで誰がいつごろから使いだしたのか、知らない。
 これが似合うのは昭和十年代の軍人や官僚の社会だ。例えば、現在の上層部に不満な青
 年将校や革新官僚が料亭に集まり、先輩上司に苦情を述べだすと、世馴れした老将軍や
 官僚出身の政治家が「まあ呑めよ」と酒を勧めて黙らせるのは、いかにもありそうなこ
 とだ。
 要するに、「まあ呑めよ」という言葉には、成熟社会の閉塞感と、そんな中で出世した
 「大人」の無責任が滲んているのだ。
 
・日本語は表現が曖昧で解釈の余地が大きいといわれる。逆に、これを利用して玉虫色の
 決着にするとか、双方が期待を持って結論を先送りするとか、便利なところもある。
 そのようになったのは、日本語の構造や語彙の問題ではなく、言葉の意味を厳格に追求
 してこなかった日本人の生活習慣に由来するところが大きい。
・最近やたらと「させていただいている」人たちが多い。本人は自己を卑下して丁重な言
 い回しをしているつもりだろうが、「させたのは俺じゃないぞ」と叫びたくなる。
 本人は、「させていただく」のも皆様のお陰、敬語をつけるのも社会一般に対する尊敬
 のつもり、と言うのだろう。そうだとすれば、「させた」者もはっきりしない。なんと
 も無責任な表現になる。そこには「自分からしているのではない、させられているのだ」
 という責任逃れの感じが滲んている。
・こんな無責任な表現が広まったのはいつからだろうか。私の記憶では1980年代のは
 じめからのような気がする。
 経済成長は一段落し、日本国じゅうが幸せで満足になった。学生運動は消え、世の中は
 安定した。これに安心して日本全体が豊かさに酔い、効率は発展に立ち向かうよりもみ
 んな仲良く規格基準を守っていこうという規制と談合の世の中になった。
・現状を維持継続するだけなら、「させていただく」人々でも十分かもしれない。だが、
 何らかの変革を行うとなれば、自ら信念を持って「やる」人が必要である。
 
・わずかな数でも目立った事件事故が起きると、マスコミが大きく報道、それにつられて
 世の「識者」がもっともらしい「論」を組み立てる。これで政治や行政を動かすことは
 できても、社会経済の長期的な流れを変えることはできない。
 社会経済の趨勢は、「論」ではなく「証拠」、つまり統計に表れる多数例や平均値で動
 く。
・これを実現しているのが「市場」だ。
 実は、この「市場」といわれるものこそ、社会の全員がそれぞれの好みと判断して参加
 している経済行動を加重平均する仕組みなのだ。
 ここでは、日本やアメリカの政府でも、ジョージ・ソロス氏のような巨額の投資家でも、
 長期的な趨勢を変えるほどの影響力を持ち得ない。
・90年代は珍しく物価の安定した時代だ。70年代に急騰した石油価格も、80年代中
 頃から値下がり気味、今は二十五年前に戻ってしまった。
・石油は食糧が値上がりする一方、日本の製造業の国際競争力が低下するとすれば、日本
 の貿易収支は赤字となり、円の対米ドルレートは大暴落する。1ドルが240円ないし
 280円になっている。