良日本主義の政治家 :佐高信
              (いま、なぜ石橋湛山か)

この本は、いまから30年前の1994年に刊行されたものだ。
内容は、戦後の日本において「小日本主義」を主張した石橋湛山という政治家を紹介した
ものだ。
この本の著者は石橋湛山のことを「孤高を恐れず、徒党を組まず、大衆に媚びず、大衆を
無視しない。『ペンだこ』のある政治家」と評している。

石橋湛山は、今の自由民主党に属した政治家で、鳩山政権の後に総裁の座を岸信介と争っ
て、わずか7票差で岸信介に競り勝って総裁に当選し内閣総理大臣になった人だ。
しかし、遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎をおこし、医師から2ヵ月の絶対安静が必
要と診断されたため、潔く退陣を決意した。わずか63日の短命の政権だった。
「風邪をこじらして肺炎を起こし」と発表していたが、実際は軽い脳梗塞を起こしていた
らしいようだ。

石橋湛山は総理大臣になったとき、全国遊説の演説のなかで「ご機嫌取りはしない」と次
のように主張したという。
 「民主政治というものは非常にむずかしいものであります。民主政治は往々にしてみな
 さんのごきげんを取る政治になる。国の将来のためにこういうことをやらなければなら
 ぬと思っても、多くの人からあまり歓迎せられないことであると、ついこれを実行する
 ことを躊躇する。あるいはしてはならないことをするようになる。こういうことが今日
 民主政治が陥りつつある弊害である。
 私はみなさんのごきげんを伺うことはしない。ずいぶん皆さんにいやがられることをす
 るかもしれないから、そのつもりでいてもらいたい。
 私でもが四方八方のごきげん取りばかりしておったなら、これはほんとうに国のために
 はなりませんし、ほんとうに国民の将来のためになりません。あるいはわれわれはその
 場合に誤るかもしれない。誤ったらどうか批判をしていただきだい」
   
まさにいまの自民党の政治は「ご機嫌取りの政治」だと言えるだろう。政権の支持率を上
げようと「景気の底上げ」と称してただカネをばらまくだけ。そんな無策の政治を続けて
きた結果、日本は先進国で唯一、経済が30年以上も停滞したままの国となってしまった。
いま日本に求められる政治家は、この石橋湛山のような政治家ではないかと思った。

ところで、この本に「統一教会」に関することが出てきたのには、ちょっとびっくりした。
それは、自民党など保守の政治家の中で「国権派」と「民権派」に分ける指標があるが、
それは、とくに選挙の際に統一教会の支援を受けるかどうかで、選挙の際に統一教会の支
援を受ける人に「国権派」の人が多いということのようだ。
つまり、この本が刊行されたのが30年前だから、30年前からすでに選挙の際に統一教
会の支援を受るということが保守の政治家に定着していたということになる。
統一教会が政治家に与えた影響には、とても根深いものがあることを改めて感じた。


貴下を除名す
・1960年10月東京は日比谷の公会堂で演説をしていた社会党委員長の「浅沼稲次郎
 が、17歳の少年「山口二矢」に左胸を刺され、まもなく亡くなった。
・元愛国党員の山口は、そのとき6人をテロの対象に考えていたと言われるが、それは浅
 沼のほかに、日教組委員長の小林武、共産党議長の「野坂参三」、部落解放運動のリー
 ダーで社会党左派の「松本治一郎」、そして自民党「容共派」の「石橋湛山」と「河野
 一郎
」だった。
・当時の自民党の総裁は「池田勇人」だが、池田ではなく、石橋と河野がリストアップさ
 れたのである。
 すでに総裁の座を退いている湛山がなぜ狙われたのか。
・それは、右翼や独裁者から見て湛山が”危険な政治家”だったからだろう。
 湛山を恐れた者たちは「問答無用」として言論を排する点で共通している。 
 右翼や独裁者はまぎれもなく「北風派」であり、湛山はその方法をとらない「太陽派」
 だった。
・湛山が首相となった時の官房長官が「石田博英」で、「田中秀征」はかつて、博英の政
 策秘書をしていた。その意味でも田中は湛山の孫弟子となる。
・政治家に最も必要なものは洞察力だという湛山の孫弟子は、次のように宣言してもいる。
 「政治家のとって最大の資格は、抽象的なものに対して情熱を燃やし得るということで
 ある。酒だとか、女だとか、金などの卑近で具体的なものに対する野心と情熱だけでな
 く、歴史、世界、正義、秩序、道徳など、自らの利害と直接的に結びつかない抽象的な
 ものに対して、心からの怒りと喜び、そして創造的情熱を注ぎ込んでやまないような人
 格的資質が、何にもまして政治家に要求される」
・早大時代に幾度の留置経験をもち、筋金入りの自由主義者だった石田博英は、
 「戦争があったらおしまいだ。戦争を防止する一方で、戦争原因を、この地球上から根
 こそぎ除去しなければならん」
 と強調するのが常だった。
・石田博英はニューライトの旗手と言われた。田中ニューライトとは五つの特色もつ。
 ・第一:経済成長を国力の増大という観点からではなく、国民福祉の増大、国民生活の
     向上という視点から見る。
     物価の急激な上昇や公害の頻発などによって国民生活が侵害されても、なお成
     長優先の政策をとることはしない。
     経済は何よりも国民の豊かで快適な生活のためのものという認識に立っている。
 ・第二:マイホーム主義を積極的に評価する。
 ・第三:安易に物理的な力、すなわち警察力や防衛力に頼らない。
 ・第四:反共主義を排し、反共異イデオロギー外交に反対する。
 ・第五:全体主義的な発想を毛嫌いする。
・政治家は、常に国民の最後の一人をも投げ出さずに導いていくという姿勢がなければな
 らない。
 このような政治は当然、不格好で、がまんならないほど遅々として進まないものである。
 しかし、不幸と犠牲が最も少ないという何よりの成果をもたらすのだ。
・湛山を「大内兵衛」はこう評している。 
 「日本すべての政治家を通じていえば、ファシストが大部分で、リベラルは少数である。
 それだから日本の政治では軍事主義が勝って平和主義が負けているのだが、その少数の
 リベラルのうちで一応筋を通したのはたとえば犬養毅、たとえば原敬であるが、戦後に
 はそういうのが一人もいない。石橋さんが病気に倒れずに、この人本来の面目をほどこ
 すのに成功していたら、日本の政治にももう少し光沢があったろうに」

・石橋湛山が晩年、82歳の時に書いた「政治家にのぞむ」という一文がある。
・いまの政治家諸君をみていちばん痛感するのは、「自分」が欠けているという点である。
 「自分」とはみずからの信念だ。
 自分の信ずるところに従って行動するという大事な点を忘れ、まるで他人の道具に成り
 下がてつぃ待っている人が多い。
 政治の堕落といわれるものの大部分は、これに起因すると思う。  
・政治家にはいろいろなタイプの人がいるが、最もつまらないタイプは、自分の考えを持
 たない政治家だ。
 金を集めることが上手で、また大ぜいの子分を抱えているというだけで、有力な政治家
 となっている人が多いが、これは本当の政治家とはいえない。
・政治家が自己の信念を持たなくなった理由はいろいろあろうが、要するに、選挙に勝つ
 ためとか、よい地位を得るとか、あまりに目先のことばかりに気をとられ過ぎるからで
 はないだろうか。
 派閥のためにのみ働き、自分の親分のいうことには盲従するというように、いまの人た
 ちはあまりに弱すぎる。
・たとえば、選挙民に対する態度にしてもそうである。
 選挙区の面倒をみたり、陳情を受け継ぐために走り回る。
 政治家としてのエネルギーの大半を、このようなところに注いでいる人が多すぎる。
・国会議員の任務は、都府県市町村会議員などと違い、国政に取り込むことにある。
 私とても、現役のとき、陳情にやってきた選挙区の人たちを、政府の関係当事者に紹介
 してやったことはある。  
 せいぜいそのくらいで、陳情を受けついで走り回ることはなかった。
・選挙に当選するために選挙民を買収したり、あるいはその資金を作るために利権あさり
 をするという悪質政治家に比べれば、地元のために働く政治家はまだ許されるともいえ
 よう。 
 しかし国民議会の責務はそんなところにはないはずである。
 こうした政治家が多くなったのは、むろん、そのような政治家を要求する選挙民にも責
 任がある。
 また、言論機関も反省する必要がある。
 総選挙ともなると、新聞は候補者に質問状をよこしたり、座談会を開くが、その場合、
 選挙区の利害に関するものが圧倒的である。
・政治家に大事なことは、まず自分に忠実であること、自分をいつわらないことである。
 また、いやしくも、政治家になったからには、自分の利益とか、選挙区の世話よりも、
 まず、国家・国民の利益を念頭において考え、行動してほしい。
 国民も、言論機関も、このような政治家を育て上げることに、もっと強い関心をよせて
 ほしい。
・残念ながら、湛山のこの指摘はいまも有効性を失っていない。
 

・「吉田茂」の側近の「広川弘禅」について、吉田茂の娘、「麻生和子」のこんな証言が
 ある。
・どんな社会でもありがちなことだとは思いますが、政界というところはいやな世界で、
 今日の友は明日の敵といったことがしばしば起こります。
・それというのも、男の人にとっては、やはり権力というものがよっぽど魅力なのでしょ
 う。 
 自分の思ったとおりにできる権力を得るために、常に得なほうへと身を処していく。
 常に得なほうへ付くというのが、ためらいもなくできてしまう場合があるようです。
・もちろん、それで悪いかといえば、どなたもそれなりの理由があってのことでしょうか
 ら、何もいうことはありません。
・それでも広川弘禅さんのときのことは、いま思えば笑い話みたいなものですが、その当
 時は私も若かったのでしょう、ほんとうに心の底から腹が立ったものです。
 
・「安岡正篤」とい人がいた。
 「歴代首相の指南番」とか、「右翼的陽明学者」とか言われた政財界の黒幕的人物であ
 る。
・安岡は「教えること」が趣味だと言い、
 「革命は新しいエリートが政治権力を奪取し、掌握するための闘争である」
 と”エリート学”を高唱した。
 これが吉田茂にはぴったりだったのか、20歳も年下の安岡を、吉田は「老師」と呼ん
 だのである。
・石橋湛山をはじめ、「三木武夫」、そして「田中角栄」の党人派首相が安岡からは遠か
 ったというのが興味深い
 良かれ悪しかれ、この三人は安岡に「決断」を仰がなかったのである。自ら決断した。
・「三島由紀夫」が割腹自殺した時、安岡は、「手紙を貰っていたが、早い時期に東洋の
 学問など、じっくりと語り合いたかった。惜しいことをした」と述懐したという。
・「左翼学者」とレッテルを貼られた「丸山真男」のほうが石橋湛山には近かった。
 まして三島由紀夫のエリートイズムには、湛山は嫌悪感に近いものを感じただろう。

吉田茂に抗して
・1929年春に「カネのかからぬ選挙」と「政情の安定」を理由に、小選挙区制が提案
 される。時代は大正から昭和に移っていた。
・この提案に対し、「憲政の神様」と言われた「尾崎行雄」は痛烈に批判した。
 選挙区は小さいほどカネがかかるのであり、小党を出られなくして議席に多数が大政党
 に集中すれば、政情は一見安定するように見えるが、多数が無理を通すことになる。
 選挙費用の節約と政情の安定を理由とする小選挙区の提案は、そのあまりのバカバカし
 さに「抱腹絶倒の外はない」と。
・尾崎が舌鋒鋭く反対したこの小選挙区制が、「政治改革」の名の下に、それから65年
 後の1994年1月にまとめられた。
 一度は参議院で否定されたのに、奇妙な形でよみがえったのである。
・熟慮に熟慮を重ねて反対にまわった社会党の参議院議員17人に非難が集中し、前書記
 長の「赤松広隆」など、ヒステリックに「即刻除名せよ」と叫んだ。
 多分、赤松は「憲政の神様」が小選挙区制に反対したことなどまったく知らないのだろ
 う。   
・東大名誉教授の「石田雄」や作家の「田中康夫」は、小選挙区制はカネまみれの政治を
 さらに進行させ、平成翼賛的体制をもたらずと強く警告した。

・1952年、石橋湛山は河野一郎と共に、吉田茂から自由党を除名された。
 1954年、湛山は岸信介とともに再度吉田茂から除名されている。
・評論家の「鶴見俊輔」は、石橋湛山に徹底的に批判され打倒されそうになって、吉田茂
 は全身硬直反応を起こし、湛山を除名したということである。
・吉田茂は外務大臣になった時、終戦時の首相、鈴木貫太郎を訪ね、敗戦国の外相の心得
 を教えてくれと求めた。それに対して鈴木は、
 「戦争は勝ちっぷりがよくなくてはならないが、負けっぷりもよくないといけない。鯉
 は俎の上にのせられてからは、包丁をあてられてもびくともしない。あの調子で負けっ
 ぷりをよくやってもらいたい」 
 と言ったという。
 そして吉田は独自の外交を展開し、日本を復興させた。
・問題なのは、吉田が国民に呼びかけ、世論の力を集めて、彼の外交を支える力にするこ
 とを怠っただけでなく、それを嫌い、かつ軽蔑したことである。
 彼がこの時期に世論に呼びかけなかったことは理解の余地はある。
 しかし、彼はこの時期に、世論の形成者に対する私的な働きかけを始めるべきだった。
 政治、経済、そして世論が国家を支える三本の柱なのである。
 しかし、吉田はこの第三の柱を持っていなかった。
 それは彼の固い信念に内在する欠点なのであった。
・吉田茂に欠けている「世論」への傾聴が石橋湛山にはあった。
 1951年7月の講演で石橋湛山は、講和条約について批准前に総選挙をやれと主張し、
 その後をこう続けている。
 「社会党方面からは、いわゆる全面講和とかいう議論が出ておる。軍事基地の提供や再
 軍備の反対の声も一部にはある。そういう異論もあるのに、ここで改めて国民の総意を
 聞くことなく(講和条約を)締結してしまうことは、やはり将来に禍根をのこすもので
 はないかと思うのであります。もし総選挙をして、この条約が国民の意にそわないとい
 うような結論が出るものであったら、そんな条約は作ってはならないのです。したがっ
 て、総選挙をすることが、講和条約の成立に市場を起さしめるということは毛頭考えら
 れません。実際問題としては、必ずや大多数の国民の投票を得て、この講和条約の支持
 者が国会に多数選出されてくるということを確信いたします。とすれば、この際、多少
 の手数はしのんでも、総選挙に訴えるのが当然であろうと、私は考えます」
・石橋湛山は1954年に「民主政治」について次のように説いている。
 「申すまでもなく民主政治は、政府及びその与党の外に、健全ななる野党があって、常
 に国民の求めるところに従い、円滑に政局の転換が行われるところに意義がある。だか
 ら英国では、政府が『陛下の政府』であると共に、野党もまた『陛下の反対党』と称せ
 られ、その首領には国庫から2000ポンドの年俸を出している」
 
・石橋湛山にとって、その前半は吉田茂、後半は岸信介が主要なる政敵であったと私は思
 う。
・吉田茂は敗戦の年の1945年春、早期和平工作に関わったとして憲兵隊に逮捕されて
 いる。
 この投獄体験が、いわばアリバイとなって追放を免れる。
 これが鳩山一郎や石橋湛山との大きな「差」となって吉田に幸いするのである。
 しかし、湛山はもちろん、鳩山と比べても、吉田の戦争への抵抗はそれほど「差」のあ
 るものだったのか?
・1936年に鳩山一郎は「自由主義者の手帳」で、
 「官僚でも軍人でも、いやしくも政治をやろうとするほどの者は、よろしく選挙の洗礼
 を受けて苦難を味わい、民衆と結びついた、精神的資格をまず獲得すべきである。そう
 することによって、高い所から『お上』が取り締まりの捕縛を掴んで、したを見下ろす
 ような悪風も消えようし、公僕が殿様であるごとき、はなはだ思いあがった錯覚も除去
 できよう」 
 と明快に言い切っている。
 
・近衛文麿を中心とする翼賛体制に協力的であったかどうか、あるいは近衛に幻想を抱い
 ていたかどうかという点で、吉田と鳩山に大きな差はない。
 石橋湛山はそこが違っていた。
 戦後になってからだが、湛山は二度、近衛文麿への直言を公にしている。
 連合国が戦犯と見るかどうかが問題なのではない。
 自分自身で国民に「至大の責任」を感じないか、と湛山は近衛に問いかけている。
・「大東亜戦争がどうして始められたかを検討する者は、少なくとも昭和12年まで遡っ
 て、この発端を支那事変の勃発に求めざるを得ず、さらに下って昭和15年の日独伊三
 国同盟締結こそ、大東亜戦争必至の運命を定めたものとならざるを得ないであろう」
 この三つの重要な転機の事件は、いずれも近衛文麿が首相の時に起こった。
・「遠因はたとい満州事変にあったとするも、事態をさらに重大化し、窮極において大東
 亜戦争を避け難き勢に導く口火をつけたものは、実は当時の閣下の対支政策であったと
 言うべきではあるまいか」 
 時機を区切って認めるべきは認めつつも湛山は、見逃すことのできない近衛の戦争責任
 を追及する。
・「昭和15年の三国同盟に至ってはほとんど狂気の沙汰と称すべく、平沼、阿部及び米
 内の三内閣はこれが締結を躊躇して倒れた。いかに陸軍方面からの強力な圧迫があるも、
 これに屈して三国同盟を結ぶことは、いやしくも国家を念とする者の到底忍び得ないと
 ころであったからである。当時一般の国論もまたこの同盟に反対した。しかるに閣下は
 米内内閣の後を受けて、あえてこの同盟を締結した。閣下がいかなるつもりでこれを締
 結したかはとにかくとして、結果は明らかに対米英開戦論者の主張を容れたものであり、
 しかして事実この戦争は起こった」
・平沼、阿部、米内の三内閣が、「一般の国論」が反対していたこともあってためらって
 いた日独伊三国同盟の締結に近衛はあえて踏み切った。
 その近衛を終戦間際の和平工作によって免罪することはできない。
 「始めた罪」を「終わらせようとした罪」によって消すことはできないのである。 
・1944年夏の時点で、海軍兵学校長として「敵性言語」の英語教育をやめさせなかっ
 た「井上成美」は、無謀な戦争を始めることを最後まで反対し、米内光政や山本五十六
 とともに、右翼から、
 「国賊!腰抜け!イヌ!」
 などと罵られ、暗殺さえ噂された稀有な軍人だった。
 井上は戦後も銅像や顕彰碑の話には耳をかさず、ひっそりと暮らしていたが、1968
 年に海上自衛隊の練習船が遠洋航海で南米に向けて出発する時、壮行会に招かれた元海
 軍大将の「嶋田繁太郎」が乾杯の音頭を取ったと聞いて、
 「恥知らずにもほどがある、公の席に出せる顔か」
 と激怒したという。
 この井上の怒りと、湛山の近衛への指弾は通うものがあるだろう。
・「記者は重ねて近衛公の自決を求める」
 という湛山の求めの通り、近衛は自裁することになるわけだが、自らの責任ということ
 にはまったく鈍感で、「決意」をクルクル変えるとは近衛と孫の「細川護熙」はピタリ
 と重なる。
 
・石橋湛山の「公職追放」は、まさに最もその責任から遠い人間に降りかかった災難とも
 いうべきものだった。もちろん、それは天災ではなく、人災である。
 追放の噂が出てきた時も湛山は「僕が追放されるならば、日本のジャーナリズムで一人
 として助かる者はないはずだ。やれるならやってみろ」と意気軒昴だった。
 しかし、追放となった。
 GHQに対しても吉田茂に対しても、言うべきことは言った湛山の姿勢が煙たがられた
 のだろう。
・追放の理由は、湛山がかつて東洋経済新報社の社長兼編集人であり、同誌が「この編集
 方針としてアジアにおける軍事的かつ経済的帝国主義を支持し、枢軸国との提携を主唱
 し、西洋諸国との線推す必至論を助長し、労働組合の抑圧を正当化し、かつ日本民族に
 対する全体主義的統制を勧奨したこといつき責任を有する」というものだった。
・中央公職適否審査委員会は、湛山は追放に該当せずとの決定を下したのに、GHQが直
 接、日本政府に「石橋追放」覚書を出したのである。
・湛山の追放を「狂気の沙汰」として、その撤回を訴える連名の書簡がマッカーサーに提
 出された。  
 名を連ねたのは、芦田均、西尾末広、三木武夫、末弘厳太郎、小汀利得、一万田尚登、
 大内兵衛、長谷川如是閑、松岡駒吉、池田勇人らである。
・また、自由学園長の「羽仁もと子」は、単独でマッカーサーに手紙を送り、「軍国主義・
 超国家主義と戦ってきた」湛山には「所説」を異にする人々さえも彼の苦心と清節に多
 くの同情を持った」ので、「石橋氏の追放になることは、考えてみればみるほど忍び得
 ない」と訴えた。 
・当時、GHQの内部には、民政局のホイットニーやケーディス、経済科学局のマーカッ
 ト、そして参謀二部、つまり、諜報・治安担当のウィロビーらの間で、激しい勢力争い
 があった。
 最終的には徹底した反共主義者のウィロビーが民政局や経済科学局の進歩分子を一掃し
 て、自らの天下とする。もちろん、マッカーサーの権力下においてだったが。
・マッカーサーの部下たちの中で吉田茂が最も頼りにしていたのがウィロビーであり、湛
 山がつきあっていたのがマーカットだった。
  
・「もし朝鮮・台湾を日本が棄つるとすれば、日本に代わって、これらの国を、朝鮮人か
 ら、もしくは台湾人から奪い得る国は、決してない。日本に武力があったればこそ、支
 那は列強の分割を免れ、極東は平和を維持したのであると人はいう。過去においては、
 あるいはさような関係もあったかも知れぬ。しかし今はかえってこれに反する。日本に
 武力があり、極東を我が物顔に振舞い、支那に対して野心を包蔵するらしく見ゆるので、
 列強も負けてはいられずと、しきりに支那ないし極東を窺うのである」
・大日本主義が経済的にも軍事的にも価値のないことを丹念に検証した後で、湛山は「吾
 輩が我が国に、大日本主義を棄てよと勧むるは決して小日本の国土に跼蹐せよとの意味
 ではない。これに反して我が国民が、世界を我が国土として活躍するためには、すなわ
 ち大日本主義を棄てねばならぬということである。それは決して国土を小にするの主張
 ではなくして、かえってこれを世界大に拡ぐるの策である」と続けている。
・湛山は「資本は牡丹餅で、土地は重箱」としながら、日本の進むべきを次のように指し
 示す。 
 「入れる牡丹餅がなくて、重箱だけを集むるは愚かであろう。牡丹餅さえ沢山できれば、
 重箱は、隣家から、喜んで貸してくれよう。しかしてその資本を豊富にするの道は、た
 だ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。兵営の
 代わりに学校を建て、軍艦の代わりに工場を設くるにある。陸海軍の経費約八億円、仮
 にその半分を年々平和的事業に投ずるとせよ。日本の産業は、幾年ならずして、まった
 くその面目を一変するであろう」 

湛山思想の原点
・新生党代表幹事の「小沢一郎」は「大国の責任」を説き、国債貢献の美名の下にPKO
 法案の採決を強行した。自民党幹事長時代のことだ。
・こうした大国主義に対し、新党さきがけ代表の「武村正義」は、その著「小さくともキ
 ラリと光る国」で、
 「日本の憲法は戦争を放棄し、戦力と交戦権を認めないことを定めている。この平和憲
 法のもとで、戦後の日本が繁栄を続けてきたのは紛れもない事実である。ところが最近
 になって、世界の平和を維持するために、日本もその国力に見合った軍事的貢献をはた
 すべきではないかという議論が起こっている。結論から言うと、私はこの考え方はとら
 ない」 
 と明言し、
 「私は無理をして(国連安保里の常任理事国に)なろうとしている印象は与えないほう
 がよいと思う。請われれば堂々とその役を引き受ければいい。そして、アジアの一員と
 して、世界の貧しい百数カ国の声を代弁するユニークな常任理事国として大いに活躍す
 ればよいと思う」
 と宣言している。
・ここには明らかに湛山流の小日本主義の影響が見られる。
 「大きいことはいいことだ」的大ざっぱな大日本主義に対して、その質を問う小日本主
 義は、むしろ、「良日本主義」という呼称がふさわしい。
  
・1993年夏、宮沢政権の末期に外務省は国連に「日本は安保理においてなしうる限り
 の責任を果たす用意がある」と意見書を提出し、事実上、常任理事国への立候補宣言を
 した。
・しかし、自民党政権から細川護熙を首相とする連立政権に変わって、首相特別補佐とな
 った田中秀征は、細川の国連での演説を前に、外務省に対して、自分からなりたいと言
 ってはいろいろな責任を負わされて大変なことになると抵抗し、激しいやりとりの末に、
 細川演説は「改革された国連において、なしうる限りの責任を果たす用意がある」とい
 う表現になった。
・いろいろな責任の中には、もちろん、軍事面での責任がある。
 小沢一郎やそれに連なる大蔵省や外務省の官僚は、まず、常任理事国入りありきで、そ
 のためにはPKOをやらなければダメだと考えていたと思われる。
・湛山流の小日本主義に立って、そうした大日本主義に頑強に抵抗した田中について、外
 務省の幹部の一人は、「あの人の主張は国連を知らない者の言うことだ。国際社会では
 通用しない」と嫌悪感を隠さなかったという。
・また、やはり、常任理事国入りに慎重だった「宮澤喜一」に対しても、
 「戦前の体験をいつまでも引きずり、日本が小国だった時代の感覚にとらわれている」
 と批判したというが、宮沢の、
 「結局、外務省は軍事力をバックに外交のできる国になりたいんだと思う。それで、危
 ないと言っている。(第一次、第二次世界大戦の)ドイツのように二度間違えるなよと」
 という反論を待つまでもなく、外務省はみちんと戦前の大日本主義の反省をし、それを
 踏まえて、いま、己のやるべきことをいあっているのか。

・「手嶋龍一」が湾岸戦争時の日本の外交を検証した「1991年日本の敗北」のなかに、
 フセインの人質になった東京海上火災クウェート事務所長「長尾健」がイラク駐箚日本
 大使宛てた痛切な手紙がある。
 それは、次のように鋭く日本の外交不在を衝く。
 「アメリカをはじめとする我が国を含む西側諸国の経済制裁はイラク国民を困窮に陥れ
 ることはできても、イラク政府を屈服させることはできず、かえって硬化させていくだ
 けのように思われます。イラク国民は西側諸国の想像以上に誇り高く、かつ粘り強くま
 た一枚岩であり、現状では両陣営が千日手を指しつつ時間と金を浪費しているように思
 えてなりません。
 日本は幸い軍隊を持たない唯一無二の平和憲法国家であり、かつその世界に対する経済
 の影響力は絶大なものがあるのですから、独自の立場でこの紛争の平和的解決のために
 貢献すべきであり、ひたすらアメリカの覇権維持のための世界戦略に盲従するの体は、
 日本をアメリカの属国と錯覚しているのではないかと懸念をもたざるをえません。
 我々は、日本政府が確固たる独自の外交政策を打つ出し、毅然とそれを実行するなら、
 我々の解放が諸外国の人質に比し最後になろうと、何年になろうと、あるいは命さえ奪
 われても、義のために死すことを潔しとできると確信をし、また我々の家族もそれに感
 得することもできましょう。しかしながら、現在のような日和見的なご都合主義外交は
 インディペンダントな国の外交とはいえず、このような外交策の犠牲に身を晒すのは最
 も忌み嫌わんとするところであります。この紛争に際して、日本は当事者ではないが、
 対岸の火事と拱手して傍観する者であっては断じてならないと思います。この紛争は、
 今後の日本の外交スタンスを決めていくうえで重要な分岐点に来ているといえます」
・極限状態にあって、こうした”遺書”をしたためる日本人がいることを、われわれは誇っ
 ていいだろう。 
 この手紙はしかし、日本政府および外務省の外交無策を憤って生まれたことを忘れては
 ならない。 
・バスラの空港に人質として抑留されていた別の日本人の次の声を外務官僚はどう聞くの
 か?  
 「われわれはもはや日本という国に命を救ってもらおうなどという期待は抱いていませ
 でした。官僚たちは自らは安全地帯に居て、デスクワークで人質救出をやっていたに過
 ぎなかったのです。クウェートでもバグダッドでも、われわれ民間人の家族は、役人た
 ちの家族に比べて遥かに辛い環境に置かれていました。私が得た教訓は、たったひとつ。
 生き残るには自分自身を頼る以外にない、ということでした」
・現状の延長線上でしか、ものを考えられない外務官僚は、国連での細川演説を、「安保
 理においてなし得る限りの責任を果たす用意がある」という外務省案から「改革された
 国連において、なし得る限りの責任を果たす用意がある」と書き換えたことに、「後退
 だ」とか、「外交の継続性が失われる」とかいって頑なに抵抗したという。
・それについて田中は、
 「私は日本が常任理事国になってはいけないと言うつもりはない。ただ、なりたいと思
 わない方が良いと言っているのだ。また、できることなら、ならない方が良いと思って
 いる。
 かねてから私は、日本が常任理事国になるかどうかということより、なりたいと思うか
 どうかということに重大な関心を抱いてきた。
 なぜなら、このことほど、日本の外交姿勢や日本の素顔、生き方を内外にさらけ出すも
 のはないと思うからだ。おそらく、常任理事国を志願するかしないかという意見の相違
 が、これからの日本の政治潮流を大きく二分していくに違いない」
 と書いている。
・「なりたがる」思想は、なることが軍事面での貢献を迫られる軍事大国になることだと
 いうことを隠している。
 「大国の責任」とかいう美名でそれを覆おうとするのだが、それは田中が言うように、
 「国際的出世主義」であり、品性を欠いている。
  
・自民党を含む保守の政治家の中で「国権派」と「民権派」を分けるひとつの指標があ
 る。 
 それは、とくに選挙の際に「統一協会」の支援を受けるかどうかである。
 「渡辺美智雄」は、かつて、青風会の闘士だったが、いわゆるタカ派と呼ばれる人たち
 は、すんなりと統一協会の推薦を受ける。「新井将敬」などもそうである。
・それに対して、現在、さきがけに結集している人たちや、自民党のハト派は、思想統制
 を前面に押し出す統一協会を嫌う。
 民権派リベラルの流れはこちらにあるのだが、国権派の方も反共ということだけでリベ
 ラルを名乗ったりするから、ややこしくなる。
 逆説的な言い方をすれば、統一協会を寄せつかず、社会党から誘われるような人間が民
 権派リベラルだということである。
・昭和31年12月、石橋湛山が内閣を組織して閣僚名簿を天皇のところへ持って行った
 時、天皇は外務大臣の岸信介の欄を指さし、
 「これは大丈夫か」
 と言ったという。

・現在もまた、性急な政治家によって性急な思想が喧伝されている。
 25歳の湛山は、「盲目的挙国一致」を激しく指弾している。
 「挙国一致ということは、その言葉だけを以って言えば、大層善い事のようである。
 何となれば挙国一致とはすなわち国民の勢力の集中ということであるからである。
 しかし如何に国民の勢力の集中でも、その集中が間違ったところへ行っておったならば、
 集中せられておるだけに、かえってその害その弊やおそるべきものがある。
 ゆえにその勢力を集中するまでには十分意見を戦わして間違いのない方針を定めねばな
 らぬ。しかるに我が国のいわゆる挙国一致はこの準備を欠いておるのみか、たまたま残
 った考えを抱いておる者があると、それを圧迫するに挙国一致の名をもってし、口を開
 かせない」
・イギリスの国民は断固としてヒットラーと戦い、イギリスを救ったチャーチルを、戦後
 すぐの総選挙では首相にしなかった。ムードで保守党に議席を与えず、冷静に労働党を
 勝利させたのである。
 未熟の国民は強力な指導者を求める。
 成熟した国民は、むしろ強引に引っ張られることを嫌うのである。
 よく、リーダーシップうんぬんということが言われるが、あくまでも国民が主人公であ
 り、その国民を引きずり回すような強権的政治家をリーダーとする未熟な国民であって
 はならないと思う。

政治の渦の中で
・吉田茂は「我が世の春」で1954の新春を迎えた。
 鳩山や湛山を含め、27名の分派自由党が頭を下げて戻って来たし、憎っくき三木や河
 野は、わずか8名の少数派となって、生活費稼ぎにドサまわりの演説会をやっている。
 吉田内閣は当分安泰だと思うのも無理はなかった。
・ところが、その足元を造船疑獄が襲うのである。
 戦争によって壊滅的な打撃を受けた造船業を立て直すために財政投融資をすることに絡
 んで、まさに政財癒着の一大構造汚職が浮かび上がった。
・介在した金融ブローカーの「森脇将光」が、癒着についての”森脇メモ”を提出し、吉
 田側近の幹事長、「佐藤栄作」が船主協会などから2000万円を、同じく政調会長の
 「池田勇人」が200万円を受け取っていたことが明らかになって、吉田は窮地に陥っ
 た。
・時の検事総長「佐藤藤佐」は佐藤栄作の逮捕を法相の「犬養健」に求める。
 しかし、犬養は吉田の意向を受けて、それを許さなかった。指揮権発動である。
 犬養はそれによって辞任せざるを得なくなり、吉田に対する世論の非難も一挙に強くな
 った。
 得意の絶頂から吉田は瞬時にして失意の淵に落とされることになる。
・造船疑獄と、それを糊塗しようとした指揮権発動によって世論の批判は高まり、反吉田
 の民主党が結成されても、吉田は屈することなく、ワンマンぶりを発揮して中央突破を
 図ろうとした。 
 追い詰められて内閣総辞職を進言されても解散に打って出ようとしたのである。
・当時、自由党の総務会長だった「大野伴睦」らは、解散して選挙をしたら社会党が大勝
 するのだから、解散は絶対に阻止して総辞職へもっていこうとしていた。
 しかし、吉田はあくまでも解散を主張している。
 大野たちは次々と閣僚を呼び出し、解散の証書に署名したら、直ちに党を除名すると告
 げることにした。 
 これによって吉田内閣は6年あまりにわたる長期政権の幕を閉じたのである。
 大野によれば、この賭けに勝った大野は、派閥の人間を集めて派手に飲んだらしい。
 
・作家の「伊藤整」は、岸信介について、自民党幹事長時代の岸を見た印象から、その人
 間を次のように観察している。
 「その人物のものごしは、私が保守系の政治家にしばしば見ていた人間とは異質のもの
 であった。また社会運動や演説や入獄などの体験などで鍛えられた左派の政治家とも違
 うものがあった。つまりその男には、私たち文士とか学者とか、一般に知識人階級人と
 言われている人間に近い者があった。
 私は自分たちの仲間と言うか、自分自身のかげのようなものをその人間に感じて、極め
 てかすかであったが、はっとしたと言うか、ぎょっとしたと言うに近いショックを受け
 た。
 人格、信念、思想、理想、宗教などというもののどれをもあてにしない人間、実証的精
 神だけを頼りとして、それを正確に人間関係にあてはめ、論証によって他人を引きずる
 人物。
 そういうふうに書くと、それが岸信介という人物になり、同時に私自身を含めて知識階
 級人のいやらしいタイプの一つになる」
・つまりは、要領のよい秀才官僚以外の何者でもないのであり、伊藤はさらに、
 「そういう人物は実践家、政治家として常に二流か三流になるはずである。実証主義者
 たちの集まりであるヨーロッパの政治家ならば、ざらにある人物である。しかしヨーロ
 ッパでも、その資格の上にそれ以上の何物か、宗教的、政治的信念とか、理想とか、他
 人の心理を把握する力という特別なものがなければ、やはり、一流人物になれないだろ
 う」 
 と断定している。
・伊藤整の分析に従えば、松村謙三や湛山は岸と違って「人格、信念、思想、宗教などと
 いうもの」に重きを置く人間だった。
  
・石橋湛山は1924年「行政改革の根本主義」を説いた。
 「元来、我が行政組織は、維新改革の勝利者が、いわゆる官僚政治の形において、新社
 会制度の下において、国民の指導誘えきする建て前の上に発達し来ったものである。
 であるから、役人畑に育て上げられた官僚が、国民の支配者として、国民の指導者とし
 て、国運進展の一切の責任を荷うという制度に、自然ならざるを得なかった。これ、
 我が政治が国民の政治ではなくて官僚の政治であり、我が役人が国民の公僕でなくて国
 民に支配者である所以であり、我が行政制度が世界に稀なる中央集権主義であり、画一
 主義である根因である」
 「元来官僚が国民を指導するというがごときは、革命時代の一時的変態に過ぎない。
 国民一般が一人前に発達した後においては、政治は必然的に国民によって行われるべき
 であり、役人は国民の公僕に帰るできである。しかして、政治が国民自らの手に帰する
 とは、一つはかくして最もよくその要求を達成し得る政治を行い、一つはかくして最も
 よくその政治を監督し得る意味にほかならない。
 このためには、政治はできるだけ地方分権でなくてはならぬ。できるだけその地方地方
 の要求に応じ得るものでなくてはならぬ。現に活社会に敏腕を振いつつある最も優秀な
 人才を自由に行政の中心に立たしめ得る制度でなくてはならぬ。ここに勢い、これまで
 の官僚政治につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義というがごとき行政制度は、
 根本的改革の必要に迫られざるを得ない。今日の我が国民が真に要求する行政整理はす
 なわちかくのごときものでなければならぬ」
・小日本主義の湛山は、すなわち、「小さな政府」主義でもあるのである。
 中央政府が巨大になって画一的に地方を統制するのではなく、分権によって、それぞれ
 の地方が「活社会」を形成するそれこそが官僚政治を打破する道だと湛山は考えた。
  
石橋内閣の光芒
・石橋湛山は、5年ですむ中学を7年かかって卒業している。
 それも病気とか何とかいう、やむをえぬ故障のためではなく、ただ、ぼんやりと、なま
 けていて、試験に落第したのであった。
・しかし、おかげて、二人の忘れがたい校長に出会う。
 幣原喜重郎の兄「幣原坦」と札幌農学校でウィリアム・クラークに学んだ「大島正健
 である。
 クラークの感化を深く受けた大島の教えは、湛山のその後の一生を支配する思想の基礎
 となった。
・岸信介と石橋湛山の、自民党総裁の椅子をめぐる争いは、つまりは、秀才と落第坊主の
 戦いでもあった。
・1956年末の、総裁公選に立候補したのは、岸信介、石橋湛山、そして「石井光次郎
 の三人であった。
 このとき石橋湛山は72歳、岸信介はひとまわり下の60歳で、石井光次郎は67歳だ
 った。
・1957年札幌の市民会館での全国遊説第二弾で石橋湛山は、
 「国民諸君、私は諸君を楽にすることはできない。もう一汗かいてもらわねばならない。
 湛山の政治に安楽を期待してもらっては困る:」
 と演説した。
 驚いた聴衆は一瞬静まり返り、その後、会場割れんばかりの拍手でこれに応えたという。
・ケネディが大統領就任式で、
 「合衆国国民諸君、諸君は国が諸君に何をしてくれるか、それを思いたもうな。逆に、
 諸君が国に何をしてやれるか、それを思いたまえ」
 と言って喝采を浴びたのは、これから4年後のことである。
・石橋湛山は「ご機嫌取りはしない」と主張した。
 「民主政治というものは非常にむずかしいものであります。民主政治は往々にしてみな
 さんのごきげんを取る政治になる。国の将来のためにこういうことをやらなければなら
 ぬと思っても、多くの人からあまり歓迎せられないことであると、ついこれを実行する
 ことを躊躇する。あるいはしてはならないことをするようになる。こういうことが今日
 民主政治が陥りつつある弊害である。
 私はみなさんのごきげんを伺うことはしない。ずいぶん皆さんにいやがられることをす
 るかもしれないから、そのつもりでいてもらいたい。
 私でもが四方八方のごきげん取りばかりしておったなら、これはほんとうに国のために
 はなりませんし、ほんとうに国民の将来のためになりません。あるいはわれわれはその
 場合に誤るかもしれない。誤ったらどうか批判をしていただきだい」

・石橋内閣の政策の二大柱は積極経済政策と自主外交の推進である。後者は、とりわけ湛
 山の持論の中国との国交回復だった。
・1957年1月23日、母校早稲田で開かれた首相就任祝賀会に臨んだ湛山は、1時間
 半もの間、オーバーなしで厳しい寒気にさらされ、風邪を引いてしまう。
 湛山はそのまま起き上がれない。
 1月31日に「肺炎を起こしているので3週間の静養を要す」という医師の診断書を提
 出した。
 そして岸信介を首相臨時代理に指名し、2月4日に岸信介が施政方針演説を行ったので
 ある。
・2月23日に石橋内閣は総辞職し、総裁公選の日から71日、総理就任の日から数える
 と63日の石橋湛山政権は終わったのだ。
・その湛山は総辞職の日、自宅で英語の経済書を読んでいた。話すのには不自由がともな
 ったが、それほどには回復していたのである。
 
・「久野収」と「石田博英」の対談の中で次のように述べている。
 「日本の場合に一番危険なのは、日本の保守主義者が、どこで自分が反動と違うのか、
 をはっきり自覚していないことです。つまり戦争中のああいうきつい全体主義とどこで
 自分が一線を画するのか・・・」
 「もう一つの保守主義者の要素は、やはり人間性の尊重ということだと思うのです。
 意思の自由、行動の自由、つまり自由というものをわれわれの生活信条の基本に置く、
 そこが社会主義者あるいは共産主義者と違うのであって、もちろんわれわれは全体主義
 に行くことはない。
 ご承知のように、わが党にはかつての全体主義者、かつての統制主義者のなだれ込みが
 が相当ある。それは否定しません。したがって油断すれば、口で自由を唱えながら、
 実際上自由を拘束して行くという危険性はあるでしょう」
・かつての全体主義者、かつての統制主義者に岸信介が入ることは明らかだろう。