日本人の戦争 :ドナルド・キーン

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ドナルド・キーン氏と言えば、あの東日本大震災・福島原発事故で多くで外国人が日本を
去る中で、日本国籍を取得し日本に永久することを決意し、東北を訪れ被災者を激励して、
多くの日本人に深い感銘と勇気を与えた人だ。
氏は、大学生の時にたまたま安価といだけの理由だけで購入した『源氏物語』に感動した
のをきっかけに、日本に興味を持ち日本語を学び始めたという。
この本は、戦時中の日本の作家の日記に記された内容を通じて、日本の太平洋戦争の突入
から敗戦までの状況が、どうであったのかを調べた内容になっている。
この内容をを読んで感じるのは、当時の日本社会はまるで、思考停止状態とも言える状態
にあったという印象を強く感じた。それは、軍部による言論統制のためとの理由だけでは
片付けられない、日本社会の未熟さから来ているのではないのかとの印象を持った。マッ
カーサーが、「日本人は12才程度の子供だ」と言ったと言われているが、あながち間違
いではなかったのではないかと思えた。そしてそれは、現代の日本人にも当てはまるので
はないかと。

戦時の日記
・支那事変によって、日本政府は国民の繊維を昂揚しない(永井荷風のような)作品の出
 版を思い止まらせるか、全面的に阻止する指令を出した。戦時中の荷風は警察の眼には
 害のない年寄りの奇人と映っていた。警察は荷風を尋問することがなかったし、荷風の
 日記を読もうともしなかった。荷風は幸運だった。警察は政府批判を容赦しなかったが、
 荷風の日記にはほとんど各ページにわたって軍部に対する反感が語られていた。荷風が
 軍部の愚かさを嘲笑し、また苛立ちを覚えたのは、軍部が始めた戦争が荷風の好物であ
 る英国の紅茶を荷風から奪ったからだった。
・人気作家の高見順は、軍の徴用で中国と満州に派遣された。中国で多くのことに関心を
 示しているが、中でも中国人に対する日本軍部の残忍な行為を目撃したことに高見は鮮
 烈な印象を受けた。 
・伊藤整の日記に、わたしはかなりショックを受けた。特に戦争勃発直後の日記に出てく
 る人物は、私が知っていた柔和でユーモアに富む親切な人物とは似ても似つかなかった。
 昭和16年の戦争勃発は、たしかに数多くの平凡で好戦的でない日本人の中にも熱い愛
 国心を呼び起こした。しかし「アングロサクソン」の列強を破ることが、日本人が世界
 で最も素晴らしい人種であることを示す好機である、と伊藤のように戦争に狂喜した日
 本人はごくわずかしかいない。
・山田風太郎の日記を読んでわかったことは、それまで人は読んだ本によって自分の性格
 や信念を形成すると思っていた私の考えが間違いであるということだった。山田と私は
 ほとんど同じ時期に同じ本を読んでいたにもかかわらず、二人の世界観は根本的に違っ
 ていた。山田は日本の勝利を心から望んでいたし、勝利以外の終戦は想像することさえ
 拒否していた。東京空襲を目撃した後もなお、日本は降伏すべきでないという山田の確
 信が揺らぐことはなかった。戦争が長引けば無数の死者が出て国が完全に滅びるかもし
 れないことを、山田は知っていた。しかし、最後の一人まで戦うように呼びかけている。
 敗戦後、山田は復讐に訴えたが、それは多くの日本人が新しい自由を歓呼の声で迎えた
 中で孤立した声だった。
・米軍が占拠する直前のサイパン最期の日について書かれたタイム誌の記事が日本語に翻
 訳され、主要な日本の新聞に掲載された。記事は凄愴極まりないもので、女性や小さな
 子供たちがアメリカ人の捕虜になるよりはと断崖から飛び降り自殺したことを報じてい
 る。清沢が唖然としたのは、自殺した女性やその子供たちに対して新聞が惜しみなく与
 えている称賛の言葉だった。読売報知の記事は「日本婦人の誇りよ、昭和の大葉子」と
 死んだ母親を称え、東京帝大の某教授は「百、千倍の勇気湧く、光芒燦たり、史上に絶
 無」と発言している。
・清沢の結論は、「日本が、どうぞして健全に進歩するように、それが心から願望される。
 この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのよう
 に、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うもの
 であることをこの国民が覚るように。「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるよう
 ではこの国に見込みはない。

開戦の日
・英米との戦争が勃発したことを知って、これまで日記などつけたことのない者まで含め
 て、数多くの日本人が日記を書き始めた。作家、ないしは後に作家になった人々の日記
 は、中でも一番興味深いものだった。それまでの政治的立場に関係なく、作家の多くは
 憑かれたように戦争に熱中した。かつて思想犯として獄中にあった左翼文芸評論の中心
 的人物青野季吉は、英米との開戦を知って、いよいよ自分にとって来るべきものが来た、
 天皇閣下の臣下として一死報国の時が来たのだ、と書いた。
・多くの人々、とりわけ軍の中枢を嫌っていた人々は、英米のような強敵と事を構えるこ
 とが妥当かどうか、かねてから疑問に思っていた。しかしそうした疑問は、高まる愛国
 心の中で一掃された。開戦の年に日本の陸海軍が目覚しい勝利を収めるごとに、人々の
 愛国心は強まっていった。相次ぐ勝利に国中が沸いた異常が興奮の中で、ごく少数の日
 記の筆者だけが冷静だった。
・戦時を通じて荷風は、日々眼にする愛国主義の示威に侮蔑感を表明し続けた。荷風の日
 記は軍部について極めて厳しい調子で書いているが、戦局が進むにつれてその語調は強
 まっていく。荷風が特に苛立ったのは、愛国者たちの悪趣味と幼稚なスローガンだった。
 アメリカやフランスで暮らした経験があり、フランス文学に特別な愛着を持っていたこ
 とから、荷風が多くの日本の知識人に比べて愛国的プロパガンダの影響を受けにくかっ
 たということはあるかもしれない。しかし事実は、作家たちの海外滞在経験と戦争賛否
 の態度との間には、まったくと言っていいほど関係がなかった。戦争の熱烈な支持者の
 一人だった高村光太郎は、かつてアメリカとフランスで彫刻を学んだことがあった。し
 かし真珠湾攻撃を賛美する高村の詞の語調には、荷風の不遜とも見える無関心の態度は
 まったくない。いわゆるアングロサクソンに対する敵意は、ニューヨーク留学中に受け
 た人種差別に由来するものとされている。「ジャップ」と呼ばれ、自分の国を「にっぽ
 ん」の代わりに「ジャパン」と呼ばれるのを耳にして、高村が抱いた憎しみの理由とは
 なるかもしれない。 
・どちらが先に攻撃を仕掛けたかということに関係なく、詩人たちは戦争が起きた責任を
 「富の陥穽に落ち」た英米のような自堕落な物質主義の国々に負わせた。  
・これは、政治の延長としての、または政治と表裏になった戦争ではない大和民族が、地
 球の上では、もっともすぐれた民族であることを、自ら心底から確信するためには、い
 つか戦わなければならない戦いであった。私たちは彼らのいわゆる「黄色人種」である。
 この区別された民族の優秀性を決定するために戦うのだ。
・信頼すべき情報の欠如が、この戦争の特徴だった。スウェーデンやポルトガルその他の
 中立国に駐在する日本人特派員は、枢軸国側にとって不利な情報も日本の読者に伝えた。
 しかし日本国内や日本軍が占領した地域で受けた被害については、日本の新聞は報道し
 ないか、報道しても最小限に留めた。アメリカ艦隊、および太平洋の島に上陸していた
 アメリカ部隊に対する架空の勝利を伝える新聞報道は、日本人に安心感と喜びをもたら
 した。知識人の中でもごくわずかな人々だけが、新聞で壊滅的な敗北が報道されている
 にもかかわらず、アメリカ軍は依然として戦闘を続行しる力を持っているのではないか
 と危惧していた。  
・新聞記事は、日本の対空防備が世界一であることを日本人に保証した。かりのその自
 慢の防備にもかかわらず敵の爆弾が日本の都市に落ちたとしても、新聞によれば敵の爆
 撃で破壊される建物は常に学校と病院だった。こうした公式発表に対する信頼が失墜し
 たのは、アメリカ軍が日本の本土上空の制空権を掌握した時だった。フィリピンのレイ
 テ島が陥落し、東京大空襲が開始された後、昭和19年末までに日本人の3分の1が
 日本の勝利の可能性を疑い始めていたと言われている。
・言論統制が敷かれていたため、風説が情報の代わりを務めた。風説がはびこったこと自
 体、当局の公式発表や軍部に対する一種の抵抗の表れと解釈されている。根も葉もない
 無数の風説が流れたのは、なにも戦争の進捗状況や、アメリカ軍の上陸地点となりそう
 な沿岸地域の場所の特定についてだけではなかった。食料の配給制度についてもそうで、
 こうした風説が人々を疎開に駆り立て、昭和20年に日本人を襲った心配と恐怖の種に
 なったのだった。
・一般に、風説を言い出した者が誰なのかを突き止めることは不可能だった。おそらく風
 説を流した一番の動機は、隣組の間で自分が注目されたいという願望であったろう。周
 りの人間が知らない情報を自分だけが入手できるという振りをすることで、周囲の尊敬
 を得ることができるのだった。
・最初の大規模な東京空襲は、昭和19年11月24日だった。占領したばかりのサイパ
 ンやティニヤンの島々の基地から飛び立ったアメリカの爆撃機は、日本の戦闘機に迎え
 られた。しかし、日本の戦闘機は到着が遅すぎて侵略者を撃ち落とすことができなかっ
 たし、日本の対空砲火は一発も命中しなかった。
・アメリカの空襲が頻繁になり、アメリカ軍が昭和20年3月に硫黄島を占領後、空爆は
 さらに激化した。日本の本土に近い基地を手に入れたことで、アメリカの爆撃機は日本
 列島に爆弾を落とした後、燃料を補給することなく基地に帰還できるようになった。事
 実上向かうところ敵なしのアメリカの爆撃機は、全国の大都市を広域にわたって破壊し
 た。しかし多くの日本人は、この期に及んでなお最終的には日本の勝利を信じていた。
 富強に頼るアメリカ、広大な領土に頼る中国、不敗の伝統に頼る英国と違って、日本人
 を支えていたのは日本魂に対する信仰だけだった。 
・配給制度や食料不足にもかかわらず、日本人は昭和19年まではまがりなりにも伝統的
 な正月の祝い事を続けていたし、少女たちは色鮮やかな振袖を着て、羽根を突いていた。
 しかし昭和20年、街頭は閑散として、聞こえる音と言えば国旗がぱたぱたとひるがえ
 る音だけだった。
・日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」
 だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。戦争は、そんなに遊山に行くよ
 うなものなのか。それを今、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼らが、ほんと
 うに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼らは
 第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼らは戦争の英雄的であることに酔
 う。第三に彼らに国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
・戦争が敗戦に終わった時、大半の日本人は泣いた。誰もが、これを紛れもない大惨事と
 見た。長い歴史の中で、日本は初めて敗北を喫したのだった。 

「大東亜」の誕生
・真珠湾攻撃および米英に対する宣戦布告を知って、大多数の日本人は快哉を叫んだ。そ
 れは教育のない者も、知識人も同じだった。お祭り気分は、開戦以来1年を通じて続い
 た。日本軍は驚くべき速さでフィリピン、香港、インドシナ、ビルマ、マレーシア、ま
 た南太平洋、西太平洋の島々を占領した。
・日本軍はフィリピンのバターン半島で抵抗に遭ったが、その進撃を阻止するものは何も
 なかった。部下が虐殺を免れるのであれば進んで降伏する用意があった敵の指揮官を、
 日本軍は馬鹿にし切っていた。アメリカ軍が大量の犠牲者を出したがらいのは、日本人
 の眼から見れば利用すべき敵の弱点だった。
・日本人がこのたびの開戦を正当とした理由は、いわゆるABCD包囲陣の米英、中国、
 オランダが、日本に必要な資源の調達を断つことによって日本を窒息させようとしたこ
 とにあった。天皇の詔勅にある開戦時の戦争目的は、あくまで「自存自衛」だった。の
 ちに戦争の至高の目的として唱われることになる植民地化されたアジア諸国の解放につ
 いては、戦争の初期段階では一切触れられていない。
・いったん戦争が始まると、大衆の熱狂は一切の反対意見というものを封じる結果となっ
 た。日本人の中には後年になって、日本が合衆国に勝てないことは最初からわかってい
 たし、だからいつも自分は戦争に反対していた、と主張する人々がいた。しかし戦争の
 結末について、親しい友人にさえ悲観的な意見を述べた者はいなかったし、またそれを
 日記に書きつけた者はごくわずかだった。不幸な結末を予告する声が聞かれるようにな
 ったのは、特にサイパンで惨憺たる敗北を喫してからで、その時になっても怖い憲兵に
 聞かれることをはばかって誰もが声をひそめた。
・ガダルカナルの戦闘は、日本軍が占領した領土をアメリカ軍が奪還にかかった第一歩だ
 った。戦闘は熾烈を極めた。多くの日本兵がアメリカ軍の銃弾のためだけでなく、飢餓
 によって死んだ。そのため、日本兵たちは自分の日記にガダルカナルのことを「餓島」
 と記したものだった。
・ガダルカナルの戦闘の結果は、はっきり白黒がつけられるものではなかった。日本海軍
 は緒戦で勝利を収め、果敢に戦ったが犠牲も大きかった。そのためガダルカナルはこの
 戦争の大きな分岐点だったかもしれない。
・ガダルカナル戦は日本の知識人たちの日記では、主としてアメリカの軍艦を撃沈させた
 ニュースに狂喜するという形で話題となった。遠方の島で命を落とした日本兵に対して、
 深い悲しみを表明した日記は驚くほどわずかだった。代わりに日記の筆者たちは、死ん
 で神になった兵士たちを称揚した。
・ガダルカナルでの敗退にもかかわらず、戦争に勝てる見込みがある限り日本の大本営は
 死傷者の数を隠蔽したり、戦闘の結果を偽る必要を感じなかった。しかし、ほどなく大
 本営発表は当てにならなくなった。敵の損害を誇張するどころか捏造するようになり、
 逆に日本の損害は最小限に抑えて発表するようになった。
・傷病者の自決した後に突撃全滅したというアッツ島の兵士たち、何という一筋の美しい
 戦いをしたことであろう。これは物語でなく、行為であり、肉体をもって示された事実
 なのだ。これが今後の日本軍の戦闘法の典型になるだろう、と伊藤の日記には記されて
 いる。
・アメリカ人は、日本兵の突撃を「バンザイ突撃」と呼んだ。日本人が死へ向かって突進
 する祭、「バンザイ」と叫んでからである。文字どおり「玉が砕ける」と書く「玉砕」
 という言葉が示しているのは、価値のない瓦として身を全うするよりは、美しい玉とし
 て砕け散る方がましであるということだった。兵士たちは虜囚の辱めを受けるよりは死
 を選ぶことこそ日本古来の伝統である、と教え込まれてきた。
・アッツ島のアメリカ軍陣地への向こう見ずな突撃は、まさに自殺行為だった。このこと
 を予期していなかったアメリカ軍は、危うく海に追い落とされるところだった。結局、
 アメリカ軍は優位に立ち、荒涼としたアッツ島のツンドラ地帯には日本軍兵士の死体が
 散乱した。その多くは、自分の胸に手榴弾を叩きつけて自殺していた。
・日本人が東南アジアに作った政府は、よく「傀儡政権」と呼ばれた。これは各政府が無
 能な人物によって率いられ、その主な仕事は日本からの命令を実行に移すことにある
 という意味だった。しかし、当の「傀儡」たちの名前を一瞥すれば、この命名がいかに
 見当違いなものであるかがわかる。日本が支配したビルマ、フィリピン、インドネシア
 各政府の首脳は、いずれも傑出した人物で、日本の敗戦後も各国で高い地位を維持し続
 けた。これらの主導者たちは、いかなる困難があろうとも、日本都の協力によって自分
 たちの国の植民地支配を終わらせることができると考えていた。
・植民地支配からの解放は、独立を望む国々たちにとっては大東亜の構想以上に魅力的だ
 った。だから日本で開催された大会にも出席したし、誇張された言い回しで天皇に深い
 敬意を表すことも厭わなかった。日本が朝鮮、満州、台湾の国民に民族自決の自由も与
 えなかったことを、この指導者たちが知らないわけではなかった。しかし彼らが日本を
 支持したのは、大東亜共栄圏に属する国々に独立を与えるという約束を日本が本気で果
 たすと信じたからだった。
・10月12日から16日の間に台湾沖と沖縄沖で行われた海戦で損傷を受けたのは、
 アメリカの巡洋艦二隻だけだった。アメリカの軍艦が一隻も沈まなかったのに対し、ア
 メリカ艦隊を攻撃して帰還しなかった日本の戦闘機312機の壊滅は日本から永遠に制
 空権を奪った。アメリカが大敗北を喫したと思われた後、現場に飛んだ日本の偵察機は、
 驚いたことにアメリカ艦隊がほとんど無傷であることを発見した。
・我方は自ら敵艦に突入する目的をもって出発する神風特別攻撃が出、帰還しない目的の
 飛行機を作っているということは、一月ほど前から度々耳にしていた。遂にここに姿を
 現した。日本民族の至高の精神力の象徴である。これで日本が勝てぬようならば、人間
 の精神力をというものの存在の拒否となり、人類は物質生産力による暗黒支配の中に入
 るとし考えられない。否日本人は、この精神力によって戦い通すにちがいない。(伊藤
 の日記)

暗い新年
・戦争の最終段階において、米軍機は空襲のあと決まって宣伝ビラを撒いた。マニラで発
 行された「落下傘ニュース」は、週刊新聞の形をとっていた。二百万もの部数が印刷さ
 れ、日本上空や戦闘中の東南アジア一帯に撒かれた。宣伝ビラを拾った者は、直ちに憲
 兵に差し出すように命じられていた。しかし、ビラを読んだ日本人の3分の1はビラの
 内容を信じたと推定されている。
・沖縄を占領したアメリカ軍の次の行動は本土侵攻しかないはずだった。すでに日本の大
 都市の多くは破壊さて、東京や大阪に新しい標的がないとわかったB29は、攻撃目標
 を中都市へと向けた。もし爆撃が続けば、日本の都市の大半は滅びたと思われる。
 
「玉音」
・8月14日夜、一般市民は知らなかったが、日本の最高決定機関で一波乱あった。午前
 中に召集された御前会議で天皇は、戦争をこれ以上長引かせることによってさらに多く
 の日本人が虐殺されることには耐えられないとして、ポツダム宣言受諾の決意を示した。
 阿南陸相が戦争続行支持であることを承知の上で、天皇は直に阿南に同意を求めた。阿
 南は躊躇したが、最終的に天皇の意を斥けることはできなかった。その夜、天皇はポツ
 ダム宣言が日本に課した条件を受け入れる旨の詔勅を録音した。天皇の録音は、8月
 15日正午に放送されることになった。阿南は、自決の覚悟を固めた。まさに天皇が詔
 勅の録音をしているさなか、陸軍史観の一団が近衛師団の士官にクーデターへの参加を
 説いていた。反乱軍は宮城を占領し、もう少しのところで詔勅の玉音盤を奪い、天皇の
 放送の代わりにラジオで国民に徹底抗戦を呼びかけるところだった。
・天皇の詔勅を伝えるラジオの受信状態は悪く、言葉自体が難解でわかりにくかった。し
 かし、放送を理解した人々でも、最初は日本が戦争に負けたという事実がほとんどわか
 らなかった人もいた。この放送を、私はグアム島で聴いた。東京からの重大な放送があ
 るという報せが入り、通訳を命じられたのだった。放送が理解できないかもしれないこ
 とを恐れて、私は知的な捕虜三人を同行させた。これが、幸いした。私は天皇の言って
 いることがほとんど理解できなかったが、放送が終わった時、同行した捕虜が泣いてい
 る姿を見て、それが何を意味するかわかったのだった。
 
その後の日々
・どれだけ天皇の大義に身を捧げたにせよ、有名な民間人で自殺した人間はごくわずかだ
 った。これと対照的に、ポツダム会議でドイツ処理案が発表された最初の四日間にベル
 リンで千二百人、ライプチッヒで六百人、ハンブルグで四百五十人、ケルンで三百人の
 ドイツ人が自殺した。
・戦後最もよく知られた自殺は、失敗に終わった。米軍から逮捕状が出たと聞いた後、東
 条英機大将はピストル自殺を図ったが死に至らなかった。なぜ東条大将は、阿南陸相の
 ごとく潔くあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用
 いなかったか。逮捕状の出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外
 国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦笑いを浮かべずに
 はいられない。
・「愛国者」たちは、降伏を告げる掲示を壁から剥がした。別の愛国者は、東京の鉄道の
 駅に降伏反対のビラを貼り、そこにはビラを剥がしたものは銃殺すると書いてあった。
 あくまで降伏反対の横須賀鎮守府、藤沢航空隊等では、「親が降参しても子は降参しな
 い」と書いたビラを撒いた。 
・過去何年にもわたってその栄光を称えられた挙句、軍部に対する幻滅は恐ろしい速さで
 始まった。新聞は相変わらず日本の敗北の理由を明らかにしようとしていたが、(日本
 が何故負けたかということに関係なく)戦争に対する増悪の気持ちが表われ始めた。
・多くの日本人が驚くほど短時間のうちに、まったく正反対の態度をとるようになるに違
 いない、という山田の予言は正しかった。戦争が終わってまだに二週間足らずのうちに、
 憤激の声が起こった。罹災者たちがほとんど裸で冬を迎えようとしている時、かつての
 英雄たちが軍の物資を盛んに盗んでいたという事実が発覚したからだった。「戦争中の
 日本は、偏していたかもしれないが、少なくともまじめであった。敗戦後の日本はこの
 最後の徳さえ失ったしまった」 
・連合軍司令部の最初の部隊が上陸する前から、すでに日本には新しい空気がみなぎって
 いた。新聞の検閲をやめるという政府からの指示はなかったが、作家たちは直感的に敗
 戦のおかげで憎むべき検閲の制約から自由になったとわかった。
・まだアメリカ人の先遣部隊が到着したばかりで、日本の内政に直ちに影響を与えていな
 かったにもかかわらず、日本人は基本的自由がすでに自分たちの手の届く範囲にあるこ
 とを感じていた。やがて皮肉好きな日本人は、アメリカが日本に自由を配給したと指摘
 することになるが、彼らはこうした自然発生的な展開を無視しがちである。私は、日本
 の「民主化」の進展はアメリカ人の助けなしでも起こったのではないか、と言いたい誘
 惑に駆られる。
・東京の街にはアメリカ兵が氾濫している。どこへ行っても見かける。そして、アメリカ
 兵が日本人を殴っているというような、もしくは日本人に対して優越的な威嚇的な態度
 を取っているというような場面は、どこへ行っても見かけなかった。支那では、どこへ
 行っても必ず、日本人が支那人に威張っている場面を見かけたものだ。日本人が支那人
 を殴っている場面は、どこかに必ずあったものだ。アメリカ兵は日本人を人間として尊
 重している。彼らがすなわち人間として尊重されているからであろう。日本人が多民族
 を苛めたのは、日本人自身が日本人によって苛められていたからである。人間としての
 権利、自由をまったく認められていなかったからである。人間の尊重ということが、日
 本においてはなかったからである。
・天皇とマッカーサーが並んで立っている有名な写真が新聞に掲載された。古今未曾有の
 ことだった。将来は何でもない普通のことになるかもしれないが、今までの日本人の
 「常識」からすると大変なことなのだ。翌日、日本の内務省がこの新聞を発禁にした。
 マッカーサー司令部は、発禁の解除命令を出し、新聞ならびに言論の自由に対する新措
 置を指令した。
・自国の政府によって当然国民に与えられるべきであった自由が与えられずに、自国を占
 領した他国の軍隊にとって初めて自由が与えられるとは、顧みて羞恥の感なきを得ない。
 日本を愛する者として、日本のために恥ずかしい。戦いに負け占領軍が入ってきたので、
 自由が束縛されたというならわかるが、逆に自由を保障されたのである。なんという恥
 ずかしいことだろう。

文学の復活
・日本人だって残虐だ。だって、というより日本人こそといった方が正しいくらい、支那
 の戦線で日本の兵隊は残虐行為をほしいままにした。権力を持つと日本人は残虐になる
 のだ。権力を持たせられないと、小羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ。
 しかしそれでも日本においては、人民の手からあらゆる権力が剥奪されていたからだ。
 だから権力を持たせられると、それを振るいたくなる。酷薄になる。残虐になる。逸脱
 するのだ。それは人民の手に権力が与えられていなかったための一種のヒステリー現象
 だ。可哀そうな日本人。

戦争の拒絶
・敗戦後の数ヶ月間、兵役や弾薬工場の仕事から解放された人々は、自分も含めて家族を
 養うために仕事を探さなければならなかった。将来の見通しは暗く、餓死する者さえい
 た。失業者の数が減り、インフレが収まるまでには何年もかかった。そのため終戦直後
 の思い出は、だいたいにおいて気が滅入るほど暗い。しかしそれにも拘らずこの時期、
 日本文化はほとんどすべての分野で力強く息を吹き返した。
・作家たちは新しい時代の到来を歓迎し、危惧することなく自己表現ができる自由を喜ん
 だ。敗北に対する絶望や、日本がやがて復讐するという希望を口にする者はほとんどい
 なかった。それどころか、恐怖のあまり死んだほうがましだと思われていた敗戦を、日
 本人の多くは無事に切り抜けたのだった。彼らの頭は、将来に向けられた。海外の領土
 が失われたことに恨みを表明するどころか、新憲法によって日本が陸海軍を持つことを
 放棄した最初の国家になったことを誇りにした。 
・腹ただしい気持ちになった理由の一つに、日本の女が喜んでアメリカ兵と付き合ってい
 るということがあった。これはもちろん、作家だけでなく日本の男の多くにとって腹た
 だしいことであり、また屈辱でもあった。こうした女たちの中には娼婦もいて、金にな
 りそうな客を掴まえては商売に精を出した。娼婦以外の女たちは、ただ食事に連れて行
 ってもらったり、ジープに乗せてもらっただけだった。敗戦で日本の男に興味をなくし、
 勝ったアメリカ兵の方が女に親切だからということもあったようである。
 
占領下で
・世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいち早
 く婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が。支那ではなかった。南方でもなかっ
 た。懐柔策が巧みとされている支那人も、自らの支那の女性を駆り立て、淫売婦にし、
 占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥ず
 かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。日本軍は
 前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いといって、朝鮮の淫売婦が多
 かった。ほとんどは騙して連れ出したようである。日本の女も騙して南方へ連れて行っ
 た。