日本の公的医療保険とモラル・ハザード :寺井公子 |
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この本は、いまから5年前の2020年に刊行されたものだ。 発行所が「公益財団法人 三菱経済研究所」で、ページ数にして付録や参考文献を含めて もたかだか47ページの薄っぺらな研究論文本なのだが、定価が千円もする。 内容は、日本の医療保険料を低廉化するためには、どうすればよいかについて自説を論じ ている。 研究論文のためか、もったいぶった表現が多用されており、凡人の私にはなかなか理解で きないところが多いが、高齢者の医療費を削減するための方策を論じているようだ。 この本を読んで、私がまず最初に気になったのが「モラル・ハザード」という言葉だ。 この本の中に、この「モラル・ハザード」の定義がないので何とも言えないが「保険によ って受診が過剰になる」リスクという意味なのだろうと推察する。 しかし、専門家たちの間では、普通に使われる言葉なのだろうが、一般人からすれば、 なんだか「道徳的に悪いことをしている」という印象をどうしても持ってしまう。 この本の文脈から、もっとはっきり言えば「医療費を使いすぎて道徳的に悪い高齢者たち」 と上から目線で言われているような印象を私は持ってしまった。 そんなことはともかくとして、私がこの本でとくに気になったのは、この本の「結語」の 章で述べられている「高額療養費制度」関して述べられている部分だ。 それは、高額療養費制度において、高所得高齢者よりも低所得高齢者のほうが、自己負担 割合や限度額が低いことからモラル・ハザードを助長しやすい、というようなことを述べ ていることだ。 やはり、「所得の少ない高齢者」=「道徳のない人たち」ということらしい。 そうなると、この私もその「道徳のない人たち」の一人ということになる。 そんなわが身について考えてみると、現役時代、40年以上ずっと医療保険料を払い続け てきたが、その間、ほとんど病気らしい病気はしなかった。つまり、ほとんど医療保険の お世話になることはなかった。 医療保険のお世話になりはじめたのは、定年退職して国民健康保険に切り替わってからだ。 おそらく多くの人はそうではないかと思われる。 そう考えると、高齢者がむやみに病院にかかりすぎるから国民健康保険組合が財政難になる のだというよりも、これは医療保険制度の問題ではないのかと思える。 すなわち、現役時代の人びとが加入する健康保険と退職後に入る国民健康保険の一本化して 現役時代に払い続けた保険料を高齢者になったときの医療費に回すという制度改革が必要な のでないのかと私は思うのだがどうだろうか。 現在の制度のままで、この論文のようにいくら難しい数式を駆使して、ちまちまと調整を論 じたところで、何の解決にもならないと思うのだがどうだろか。 政府は「高額療養費制度」の見直しをおこない、2025年8月から負担上限額の引き上 げることを発表し、がん患者団体などからの反発を受け、一時引き上げを見送ることとな った。 この本の著者は、国の多くの委員や専門家会議のメンバーを勤めているようだが、この著 者の研究と「高額療養費制度」の見直しには、なにか関係するところがあるのだろうか。 私はとても気になった。 ところで、私がこの本を読むきっかけとなったのは、先日のNHKの日曜討論にこの著者 が出演していたのだが、そのときの著者の発言が、某SNS上で炎上を引き起こしていた からだ。その発言では、 『消費税っていうのは一度下げると次元に戻すのに相当なエネルギーがかかるというのは もう私たち経験しているところ』 と、なんとも政府の代弁者みたいなことを発言していたからだ。 (それに、私たちは一度でも消費税の引き下げを経験したことがあるのだろうか?) すなわち、この著者(慶応義塾大学経済学部教授)は、「曲学阿世の徒」、「御用学者」 と某SNS上で断罪されているのだ。 もっとも、このNHK日曜討論自体が政府の「御用番組」のようなのだが・・・。 結論を言えば、現代社会は旧メディアも専門家と称する人も、「御用番組」「御用学者」 「御用記者」「御用ジャーナリスト」が多すぎるということだ。 |
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序文 ・本研究では、保険者である政府が、医療サービスの提供を医師に委任せざるを得ず、 また、病気の被保険者の負担を、出来高払いで支払われる医療費の一部負担という形式 で徴収せざるを得ないとき、どのような自己負担のあり方が次善の策となるのかについ て考察する。 ・その際に、医療サービスを受けるときに支払う価格の実質的低下に反応して発生する、 被保険者の医療サービス需要の増大ーモラル・ハザードーに着目する。 ・所得が高くなく、通院や入院の機会費用が小さい高齢者に、窓口負担割合の設定だけで なく、高額医療制度によっても所得水準別の配慮を行うことは、低所得の高齢者が直面 する医療サービス価格のいっそうの定価を通じて、医療サービス利用の増大を招く可能 性がある。 ・低所得の高齢者への配慮は、医療保険料の設定においても可能であり、医療保険料支払 い時と医療費支払い時の、望ましい負担の組み合わせを探る必要があることを指摘する。 はじめに ・人口高齢化だけが医療費増大の原因とは言えないが、今後総人口に占める65歳以上人 口の割合が増大し、現役世代の各人が負う財政負担が重くなることを考えると、わが国 の医療制度のどのような点が、医療サービス消費の増大に深く関わっているのかを分析 することは、意義があると思われる。 ・社会保障制度の中でも特に医療保険制度に着目し、保険とモラル・ハザードに関する基 本的な理論モデルに最適な課税理論を応用しながら、保険者、医療サービス提供者、 被保険者間の情報の非対称性が、被保険者の医療サービス需要に関するモラル・ハザー ドを誘発することを示す。 ・医療財政の悪化をもたらす要因として、被保険者による過剰な需要ーモラル・ハザード −のほかに、石のよる誘発需要の可能性もしてされてきた。 ・本研究では、政府による患者の窓口負担割合の調整のほかに、フリー・アクセス制度化 の医師間の競争を理論モデルに組み込むことによって、医師による過剰投資と医療サー ビスの過剰利用が併存する結果を示している点が新しい。 モラル・ハザード、逆選択、医師誘発需要 ・医療サービス価格への反応の度合が個人間で異なるとき、医療保険制度改革が、医療費 抑制という点で、望ましい効果を生まない可能性があることを指摘している。 たとえば、政府が保険料は安いけれども、自己負担割合が高い医療保険プランと、保険 料は高いが自己負担割合が低いプランという複数の選択肢を接待した場合、前者を選択 するのは、価格に対しる反応度がもともと低い個人であり、そのような個人は、自己負 担割合を上昇させても、医療サービスの消費を大きく減らさないので、医療費はさほど 抑制されないことになる。 ・また、同じ個人であっても、病気の種類によって、価格に対する反応は異なるだろう。 救急医療を必要とするような重篤な状態であれば、自己負担割合が高くても、利用を抑 制したりはしないだろう。 ・一方、個人の側のモラル・ハザードよりむしろ、医療サービス提供者の側のモラル・ハ ザードのほうが、より重大だと指摘する。 医療サービス提供者が患者をどれだけ健康にしたかでなく、どれだけの医療サービスを 施したかを基づいて、医療保険から報酬を得るとき、医師が医療サービス需要を誘導す るようになる。 医療サービス提供者の側のモラル・ハザードを解消することが、増大する医療費のコン トロールにつながる。 セカンド・ベストの医療保険 ・わが国の医療保険制度では、70歳以上75歳未満の被保険者について、現役並み所得 の被保険者の一部負担割合は3割であるものの、その他の被保険者の一部負担割合は2 割と、70歳未満の被保険者よりも低く設定されている。 75歳以上の被保険者については、現役並みの所得の被保険者を除いて、一部負担割合 は1割と、一層低くなる。 現役時代に比べて経済力、健康状態ともに劣る退職世代への配慮だと思われるが、もし 高齢者の医療サービス需要の、価格に対する反応度が高いならば、医療サービス利用を 過度に助長している可能性があることに留意すべきである。 窓口負担の軽減よりむしろ、医療保険料の軽減という方法に、より高いウエイトを置く ほうがよいだろう。 政策への含意 ・アメリカやドイツ、イギリスなどが導入しているゲートキーパー制のもとでは、一般家 庭医であるゲートキーパー医が特定地域における、登録された住民に対して独占的に初 期診療を行い、専門医の受診や入院などが必要かどうかを判断する。 したがって、ゲートキーパー医の間での競争は、評判の良いゲートキーパー医の診察を 受けるために住民が移動しなければ、ほとんどないと言える。 ・一方、患者が自由に医師や病院、医療技術を選択することができるフリー・アクセス制 が、日本の医療制度の特徴の一つとしてあげられる。 フリー・アクセス制のもとでは医師間の競争が存在し、医師の投資が医療費の増大に結 びつく可能性がある。 ・我が国では、1人当たり病床数が多い地域で、1人当たり医療費も大きい傾向があるの は、よく指摘される事実である。 結語 ・我が国の医療制度について、財政面で政府の関与が大きい。 たとえば、組合健保、協会けんぽと比べて高齢者の加入割合が高い国民健康保険では、 財源に占める保険料収入は1/2で国庫負担が41/100都道府県負担が9/100 である。 ・75歳以上の高齢者が加入する後期高齢者医療制度も保険料収入が占める割合は1/2 で、1/3を国、1/12を都道府県、1/12を市町村が負担している。 ・高齢者が多く加入する医療保険に対して、国や地方から大きな財政移転が行われている のは、経済面・健康面で平均的な弱い立場にある高齢者への配慮が反映されていると思 われる。 ・一方で、医療サービスの提供については、他国と比較しても、政府の関与は大きくなく、 医師の裁量に大きく委ねられておる。 我が国の医療制度はフリー・アクセス制に分類されており、患者は自分の望む医療機 関、医療技術に自由にアクセスすることができる。 医師の視点から見れば、医師が患者から選ばれることになる。 ・患者は医師の保有する資本を比較し、もっとも好ましい医師を選択することができる。 医師間の競争の帰結として、また、保険者である政府が、公平性への配慮のために、 医療機関窓口での自己負担割合を低く設定する時、利用される医療サービスは、ファー スト・ベストの水準と比べて過剰になるだろう。 ・ファースト・ベストの医療保険は、被保険者の所有の多寡と健康状態に応じて、異なる 医療保険料を課し、被保険者の医療サービス利用に応じた負担は課さない。 一方、保険者が被保険者の健康状態を直接しることができない状況で設定するセカンド ・ベストの医療保険では、健康状態が悪い被保険者の割合が高い所得グループに軽い医 療保険料を課す。 ・現役世代を高所得グループ、退職世代を低所得グループと見なすと、健康状態の悪い被 保険者の割合が高い退職世代に、現役世代に比べて低い医療保険料を課すことを意味す る。 ・現実の医療保険制度では、低所得の高齢者への配慮は、医療保険料だけでなく、自己負 担割合の設定にも反映されている。 70〜74歳の被保険者の自己負担割合は原則2割で、現役並み所得者は3割である。 75歳以上の被保険者は原則1割負担で、現役並み所得者の3割に比べて、さらに差は 大きい。 また、所得によって、高額医療費制度の自己負担限度額も異なっている。 ・このように実際には、医療保険料と医療費自己負担の両面において、高齢者への配慮が なされているが、財政上は、これら2つは代替的な手段である。 前者と後者の違いは、後者は高齢者の医療サービス需要に影響を及ぼし得る、という点 である。 労働所得が高い高齢者にとっては受診・入院の機会費用が高いので、医療サービス需要 の価格弾力性は低いと考えられる。 低所得の高齢者のほうが、医療サービス需要の価格弾力性は高いだろう。 所得階層によって、価格への感応度がどのようにことなるかにについての実証分析をも とに、適切な医療保険料と医療自己負担を、併せて設計することが望ましい。 ・高額療養費制度では、低所得高齢者のほうが、高所得高齢者に比べて、小学の医療サー ビス利用によって早く限度額に達する。 自己負担割合や限度額が低いことの直接的効果に加えて、事後的モラル・ハザードを助 長するこのような効果についても考慮すべきであろう。 |