猛烈社員を排す :城山三郎

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この本は、いまから51年前の1970年の出版されたものだ。
当時は、1964年に開催された東京オリンピックによる景気を皮きりにして、日本経済
が飛躍的な成長を遂げた高度経済成長の最盛期であった。
そのためか、当時は「猛烈社員」という言葉や「エコノミック・アニマル」という言葉が
流行したようである。猛スピードで走る車が巻き起こした風で小川ローザのミニスカート
がまくれあがり、「Oh! モーレツ」と叫ぶテレビCMが流れたのはこの時代であったよ
うだ。とにかく、日本中が猛烈に突き進んでいて、そんな日本人を海外からは「エコノミ
ック・アニマル」と蔑まされたようだ。
しかし、猛烈なのは民間だけで、政治はどうかというと、アメリカの鼻息をうかがうだけ
で、まったくなよりにならない。外交といえば、アメリカ追従外交だけで、「日本大使は
ゴルフとマージャン、若い大使館員は女とバカ話ばかり」で「脳天をたたき割ってやりた
くなったという商社員もいたという。そういう点に関しては、51年後の現在においても、
さして変わらないのではないかと思える。
いや、自分たちに都合の悪い公文書を改ざんしたり破棄したり、一般国民には身を切らせ
ておきながら、自分たちの既得権益はしがみついて離さない、という現在の政治家や官僚
たちを目にすると、当時よりもさらに劣化が進んでいるのではないかと思えてしまうのは、
私だけだろうか。


エコノミック・アニマル考
・アメリカ滞在中、わたしは、いかにユダヤ人が経済に明るく、また経済を食いものにし
 て生きているかという話を、数多く耳にした。「エコノミック・アニマル」と聞くと、
 わたしは、ユダヤ人の姿をまず連想する。
・もっとも、わたしはユダヤ人を「エコノミック・アニマル」と呼ぶ勇気はない。アニマ
 ルは文字通りアニマルであって、人間以下という軽蔑の感じがつきまとう。日本人をエ
 コノミック・アニマルと呼んだ人は、心中ひそかに日本人を人間以下の存在と見なして
 いたにちがいない。それは白色人種として見た黄色人種への優越感でもある。つい最近
 まで後進国であったくせにという思いもあろう。それに彼らにしてみれば政治らしい政
 治、外交らしい雷光も持たぬ国家は、やはり民度においても劣ると考えたのかも知れぬ。
 「人間以下のくせに、経済力ばかり人なみ以上につけやがって」といった反感があらわ
 である。
・フランス人がわれわれをエコノミック・アニマルと呼ぶなら、われわれは彼らをラブ・
 アニマルと呼ぼう。男は女を見れば口説きにかかり、公衆の面前であられもなく抱擁し、
 昼休みにも愛の営みのために駆けつけるような生活は、ラブ・アニマル以外の何物でも
 ない。
・そうして生活に比べれば、口説きたい心を抑えてOLにはOLの仕事をつとめさせ、絶
 えず人目を意識し、夜になっても、のみ屋やバーで職場の話などをして一向に家に帰ろ
 うとしない日本人の男性たちの方が、はるかに動物より遠く、進化した存在である。人
 間社会にふさわしい存在である。
・フランス人は自己中心主義、自己の生活を主体にして考える。生活を主体としての市民
 意識の裏づけがある。だから、人目も意識しないし、職場のことで綿々とすることもな
 い。権利は権利として堂々と主張し、イエス・ノーを明らかにして生きる。そうした意
 味での市民性や市民意識が欠落しているということで、われわれをアニマルと呼ぶなら、
 ことらも考えねばならぬ点はある。
・この国では、人間が、暑い国でよく見かけるように木陰でなすこともなく寝そべってい
 るというのではなく、誰もが前のめりになって、走り回り動き回っている。なかには遊
 びに行く人もあるだろうが、職場へ急ぐときと同じように忙しそうな面構えである。な
 ぜ、これほどの多くの人間があわただしく動き回っているのか。誰かが命令したわけで
 はない。国家的使命や要請があってではない。どこかから頼まれたのでもなく、異変が
 あったせいでもない。経済が彼らを動かしている。最終的には、金銭によって動いてい
 る。その意味から言えば、日本人はエコノミック・アニマルである。「黄色いユダヤ人」
 と呼ばせるものがある。
・だが、本物のユダヤ人に比べ、この黄色いユダヤ人の活躍ぶりは、いたましく、いじら
 しい。ユダヤ人が金銭を酷使している観があるのに対し、黄色いユダヤ人は金銭に使わ
 れている。金銭を楽しむどころか、金銭におびえ、金銭に追われ動いている。
・ユダヤ人がゆとりの上にさらに大きなゆとりを狙っているのに対し、黄色いユダヤ人は、
 たとえ所得水準が上昇したとはいえ、貧乏の脅迫感に背を小突かれて、駆け回っている。
 積極的に金銭を求めてというより、金銭が無いことへの不安感に衝き動かされている。
 その意味では、金銭は直接の動機としては意識されない。経済そのものに目を光らせる
 という生活態度にまで高まらない。
・見えるのは人、人、人である。過密した人口の圧力、人との争い合いという形になる。
 人みなが我より偉く見え、その人が多すぎる。人におくれをとるまい、バスにのりおく
 れまいと、けんめいになる。
・自分の所得水準が低いくせに高所得の人の消費形態をまねようとする。デモンストレー
 ション・エフェクトにかかりやすい。背のびをするから、また、それ相応に働かねばな
 らぬ。心も体も休まるひまがない。
・天は人の上に人をつくらなかったが、日本人は人の上に絶えず人をつくっている。隣は
 何をする人ぞが気になり、隣は何を買う人ぞも気になる。心安らかに眠っているひまな
 ど、永久にないのである。
・個人生活というものが、確立されていない。狭いところで膨大な人口がお互いに張り合
 って生活しているのだから、異様な熱気としか言いようのない活気が生まれる。
・日本にはあるべき資源も資本もなく、なくてもよい人口が多すぎる。あるべきものがな
 いのだから勤勉にならざるを得ないし、人間が多すぎるのだから、やはり、勤勉になら
 ざるを得ない。個人本位の生活意識がないのだから、競争はさらに苛烈になる。人も企
 業も競争につぐ競争を重ねて、今日ここに至ったという恰好である。
・アメリカに遠慮して禁輸し、あるいはアメリカの鼻息をうかがって自主規制をすすめる。
 そうしたアンチ・エコノミックそのものなのが、日本の外交である。追従外交だけあっ
 て、経済外交など影も形もない。
・東南アジアのある国では、ドイツ大使が炎熱の地を隅から隅まで年中回り歩いて、ドイ
 ツ製品のPRを進めているに、日本大使はゴルフとマージャン、若い大使館員は女とバ
 カ話ばかり。「脳天をたたき割ってやりたくなりますよ」と憤慨する商社員がいた。
・政治が頼りにならぬ。ときにはブレーキにさえなるとあれば、たよりになるのは経済力
 だけである。国内でお苛烈な競争に加えて、対外競争力をさらにみがかねばならぬ。そ
 して、政治家でも外交官でもなく、セールスマンが日本の先頭に立たねばならぬ。外人
 には喜劇と映るかも知れぬが、日本人には悲劇でもある。
・個人本位の生活意識が強くない日本人は、こうした悲劇の図式にも順応しやすい。むし
 ろ欣然と順応する。そこに生甲斐を感じもする。
・動き出してしまうと、国をあげて職人根性になってしまうところがある。そして、個人
 本位の生活というものは、いつも置いてけぼりになる。
・個人生活の幸福があらゆるものの原点にあるという考え方が、十分に確立していない。
 政府も国家も個人生活の幸福というものの線上において考えるべきなのに、すぐ「愛国
 心」などというものが持ち出されたりする。逆に社会保障などは一向に確立しない。
・そうした意味ではアニマル、それも女王蜂に忠誠を尽くす働き蜂的なアニマルになりや
 すい。のんびりと生活を楽しむアニマルはいくらでもおり、人類中にはラブ・アニマル
 もいる。そうした生活形態に比べ合わせての反省としてのエコノミック・アニマルとい
 う言葉なら、われわれにも、われわれの政治にも考えさせられるところがある。
・生産本位から生活本位へと日本人が移行するとき、日本経済の成長がどうなるかという
 不安があるかもしれぬ。だが、そうした不安を持つこと自体、その人がエコノミック・
 アニマルである証拠ともいえよう。

新入社員
・わたしは十七のときに海軍にはいり、軍人精神注入棒というやつで追い回された。おか
 げで動物的な敏しょうさは身についた。海軍精神も少しは身についたと思ったが、一朝
 にして、それが剥げ落ちた。イモの葉っぱばかりで少年兵たちがふらふらしているのに、
 士官室には白いパンがカビのはえたまま捨てられてあったからである。志願して行った
 だけにいっぱしの愛国少年であったつもりだが、それ以後はもういけなかった。精神教
 育がきびしければきびしいほど、何が海軍精神だと思った。
・上級者が尊敬するに足る生活さえ送っていたら、こん棒ひとつ振るわず黙っていても、
 わたしたち少年兵は海軍精神のなかにおぼれこんでいたはずだ。考えてみれば、わたし
 が海軍にたいしていちばん熱烈であったのは、入隊する瞬間であり、教育課程が進むに
 つれ幻滅を重ねていった。
・その論理からいえば、新入社員を迎えるたびに、しゃんとしなければならないのは、古
 参社員の方である。新入社員の初心を前に粛然と姿勢を正すべきである。新入社員教育
 は、新入社員の入社ごとに、古参社員が受けるべきである。
・新入社員に粗食を食わせ、終日板の間にすわらせておいて、社長が高級車できて一席ぶ
 って、ついでに近くのゴルフ場へ回るなどということをやっていたのでは、完全な逆効
 果である。
・「猛烈社員」「猛烈経営者」「猛烈人間」・・・。それらの文字を見るごとに、わたし
 はなんとも言えぬ空しさ、味気なさを感じる。その実体といえば、かつての月月火水木
 金金、むやみに忙しく、馬車馬のように働き、ときには迷惑、ときにはヒステリックで、
 そのくせ何にも残らない。無内容なだけということではないのか。
・もちろん、「猛烈」でなければ生きがいを感じない類の人間もある。だが、それは個人
 の好みであり、価値に関係ないのに、それを何かすばらしいことのように錯覚し、「猛
 烈」を強制して竹刀をふるうなどという経営者まで現れるようになると、異常事態とし
 か言いようがない。
・経営者の本当の仕事は、一人一人の質において程度において異なる戦力を、いかに活用
 し、いかにそれぞれに即して高め、そして、いかに結合して行くかにある。それは、た
 いへんな根気と努力を要し、しかも、その仕事を同じように根気と努力で分け持ってく
 れるスタッフが必要になる。そのスタッフからつくり育てねばならぬ。あくまで主観を
 排してクールに、そして忍耐強く苦役に耐えて。
・千差万別の社員を率い、その能力を個別に開花させながら、長い目で一大戦力にまとめ
 上げて行く。経営者とは、そうした壮大にして地道な苦役の遂行者でなくてはならぬ。
 それに耐えない経営者が、禅寺や自衛隊に社員を放り込むとか、竹刀でなぐるなどとい
 う一見即効的で自己満足の持てる道に走る。安直な手段による自己陶酔、そして、自己
 破壊、「猛烈」教育は経営者のシンナー遊びである。
・ほんとうに猛烈な力となるのは、静かに言あげせず、しかも持続する知的な努力だと思
 う。 ヒステリックではなく、秩序であり、じわじわにじみ出てくるようなものである。
・トップとしては、一律に猛烈をあおりたてるのではなく、個人個人の資質や能力に応じ、
 一人一人について、その能力より少し高めの目標を設定し、持続して努力できるように
 してやるべきなのだ。
・異常事態に際しては、ある程度の猛烈さもやむを得ないという考え方がある。だが、こ
 れもまちがいである。異常事態中の異常事態である戦争中についても、そのことがいえ
 る。日本海軍は、学徒出陣で集めた学生をまず海兵団に放り込み、牛馬同様に棍棒でた
 たき直すことからはじめた。人間不信から出発し、いわゆる海軍精神を注入し猛烈人間
 をつくることがなにより肝要と考えたのだ。
・これに対してアメリカでは、学生兵をそのまま完成した人格として認め、すぐにパイロ
 ットならパイロットとしての技術教育を受けさせた。効率的にパイロットとしてすぐれ
 た要員に仕立てた。その間、日本では愚直なほどの猛烈訓練だけをくり返したのである。
 彼我航空戦力の差は、こうしたところからも出てきたはずである。
・私は、高校、大学の六年間を通して、ほとんど学校に出ず、寮の部屋で本ばかり読んで
 暮らした。読みたい本、考えたいことがいっぱいあって、学校できまった時間にきまっ
 たことだけ教わっていたのでは間に合わない、という感じであった。アルバイトなどは
 もってのほか食うものを減らしても、本と、本を読む時間がほしかった。
・わたしはともかく経済界では名の通った大学を出た。ひっぱりだこであった。各会社か
 らの奪い合いに学生課では「受けるだけでいいから受けてみてくれんか」と、学生にた
 のむ始末。だが、わたしは毛頭、就職する気はなかった。大学時代になじんだ読書生活
 を際限もなく続けたい、ただそれだけであった。
・そのためにわたしは、ひとり地方の大学へ就職した。安い給料、学界からも見放された
 いなかの教師生活。それでも、わたしには少しも悔いはなかった。
・わたしは学芸大学につとめていた関係で、教育実習に立ち会ったことがある。あるクラ
 スで実習生が一人の生徒を立たせた。そのことの是非について、授業後、実習生と現場
 教師との研究会で実に三十分近い議論があった。これも昔なら「できなけりゃ立て!」
 でおしまい。子供が、より悪くなろうが、他の子供のマイナスになろうが、考えもしな
 い。わたし自身、教師の誤解のままに一発なぐられた屈辱をいまだに忘れない。それで
 発奮などできるものではない。いつまでも心をいじけさせるばかりである。
・わたしは、いまの教育こそほんとうの教育、人間ひとりひとりが苦労して、人間ひとり
 ひとりを育てる教育だと思う。 
・それでも、号令派はいうかもしれない。「そういう教育だから、いまの子供はだらしが
 ない」と。果たしてそうだろうか。
伊勢湾台風のとき、学芸大学の学生たちは自発的に被災地に散り、ドロにまみれ、黒い
 水にひたり、流木とたたかった。大学生だけではない。高校生たちも、だれに号令をか
 けられたわけでもないのに。
・裏庭に数百の死体の並んだ区役所では、女子高校生たちがけんめいに事務をとりつづけ
 ていた。たえられないような死臭の中で。
・自衛隊などのはなばなしい活躍ぶりとちがって、彼らは無言で登場し、そして、声もな
 く退場していったのだ。人間を大事にすることを学んできた彼らは。
・非行少年が生まれるのは、決して規律がないからではない。「規律」「規律」で育て上
 げられたはずの大人が、選挙違反でさわがれても大臣になれるという現代の世相。ここ
 で大人たちが号令をかければ、声を持たない青少年たちは、いっそう大人たちから遠く
 なり、飛行の遠因をさらにつけ加えることになりはしないだろうか。貧寒たる子供を生
 む貧寒たる大人にだけはなりたくないものである。

トップについて
ドラッカーは「先進国での経営の第一の仕事は知識の生産である」「経営は文化の一部
 である」「経営は経済開発の重要なものである」などという、いかにも経営者好みの明
 大を六つばかり並べ立てた。その説明の間に「経営は個性的であり、コピーできない」
 「経営はただの科学ではなく、価値観であり、伝統である」「先進国の最重要な資源は
 経営である」などといった殺し文句をちりばめる。「経営に関して最も重要なことは、
 先生がいないことである」という、教祖を慕う聴衆には皮肉にも聞こえるセルフもあっ
 た。
・ドラッカーは、理論家というより、定義づけや整理の得意な人というのが、著作を通じ
 てのわたしの印象であったが、実際に聞いてみると、彼はむしろ現代の説教者であり、
 煽動者であった。経営者を聖化しオールマイティ化する。理屈はともかく、自信を持た
 せ、使命感を抱かせる。
・ドラッカーの読まれる秘密はそこにあり、日本では、この手の経営者や経営学者が歓迎
 される。つまり、科学的経営とはいっても、まずは心情または信条の問題なのだ。
・コンピュータ理論の権威でアメリカのサイモン・カーネギーメロン大学教授は論じた。
 コンピュータは「巨大な頭脳」や「従順なロボット」ではない。かつて走る馬車程度だ
 った自動車が今日の自動車に成長し、一つの新しい文明をつくり出したように、コンピ
 ュータの潜在能力が開発されることにより、産業革命に匹敵する変革が起こる。経営者
 は、読書や対話、現場視察などインフォーマルな上昇を吸収し、コンピュータではでき
 ない意思決定ができると考えているが、やがてコンピュータは、読書し、会話し、人間
 の心の働きを模倣し、感覚的あるいは非数量的思考へ進むことも予測でいると。
ヨーロッパの中世のヨロイ・カブトは、それころ頭の先から足の先まで金属板で包まれ、
 寸分の隙もない。穴があいているのは、眼だけであり、口も、そして局部も、用を足す
 とき以外は、すっぱり金属板で覆われる。「あれでは、とても死にっこない」というこ
 とになった。
・しかし、実際には殺し合いをやり、勝敗を決めたわけであるが、それは、ああしたヨロ
 イ・カブトを身につけない雑兵どもの生死によって決まったのではないだろうか。あれ
 だけの装具を身につけるのは、やはりかなりの身分の少数者に限られていたはずである。
 その他大勢の兵士どもは、この「絶対安全騎士」の采配のまま、右に左に馳せちがい、
 潮の如く寄せ、虫のように死に、そして潮の如くおどりこむなり引き揚げるなりしたの
 であろう。
・騎士道物語などに華々しく登場するのは、こういう「絶対安全騎士」ばかりだが、ほん
 とうの戦闘は、声もなく姿もろくに見せずに斃れた無数の兵士だけが知っていたはずで
 ある。
・これに比べれば、日本の武将の鎧には隙が多い。要所要所こそ鉄片をつけているが、そ
 れもひらひらとまといつけているだけ。やはり、日本は大将御自らという国柄なのか。
・いや、そうではない。日本の大将だって、「絶対安全」なことにかけては、西洋のヨロ
 イに劣るまいという。額に鉄の帯の鉢巻をし、その上に兜をかぶるところからはじまり、
 顔も全体を鉄の面で覆う。鎧の表面には竹や布が使ってあるが、裏面には隙間なく鉄片
 がはりめぐらされ、全身、鉄の筒の中に入ったようだという。
・たいへんな重量なので、それを着けては十分に歩くこともできない。せいぜい床几に坐
 っているか、馬にまたがっているくらいのところで、軍刀をふるっての戦闘など、とて
 も考えられない。矢や弾丸が当っても、その衝撃で物理的に転げ落ちるぐらい。そこで、
 よくよく運が悪ければ、雑兵どもに組み敷かれ、鎧をずらせて刺されるということにな
 る。大将が「絶対安全」であることは、洋の東西を問わないようである。
・大将には重要な仕事があるし、代わりが無い。だから、「絶対安全」にしておくのだと
 いう反論がある。兵士は、いくらでも代わりがある。戦争中によく使われた表現、そし
 て、わたしも海軍時代いやになるほど上官から聞かされた言葉を使うなら、兵士は「一
 銭五厘(郵便代)でいくらでも代わりが来る」ということになる。
・なるほど、と、一応は思う。だが、大将が大将らしくないことが、いかに多いことか。
 大将の職分に徹せず、その能力もなく、失格したまま、大将の椅子にふんぞり返ってい
 る。「絶対安全」だけしか無い大将がある。
・さらに、「絶対安全」であるから、兵より先に危険なところへも進める筈なのに、「絶
 対安全」なる身で、さらに二重三重に、「絶対安全」なところへ逃げこんでいる。
・また、大将には、大将としての、兵には無い覚悟を要求される。不始末があれば、その
 責任をとって、戦局不利なときには、家臣の安全と引き替えに、自分の腹をかき切った
 ものである。それが大将というものであろう。その意味では、兵士以上に死に近いとこ
 ろに居るのが、大将なのだ。
・将軍には将軍の使命があり、参謀には参謀の仕事があり、そして兵には兵の・・・。
 しかし、真の将軍というものは、兵士以上に兵士のことを知り、まず兵士のために憂え
 る人でなくてはならぬ。兵士に先んじて憂え、その楽しみは平氏より後にすべきである。
 古来、名将と言われる多くが、そうであった。そして、最低の将軍が「絶対安全」だけ
 に閉じこもり、高見の見物に終始する。兵士より先んじて楽しみ、危うしと見れば、兵
 士より早く遁走する。
ビルマ戦線で無数の兵士を置き去りにして飛行機で逃亡した将軍や参謀をはじめ、帝国
 陸海軍も残念ながら、そうした将星に事欠かなかった。また銃後でも、ある有名な私立
 大学総長は、学徒出陣の学生たちを前に、「諸君たちは、焼けたトタン屋根の上の猫だ」
 と、叱咤した。兵士の憂いなぞは何処吹く風といった高みの見物であった。
・高みの見物をきめこむ将軍ほど、不愉快なものはない。ベトナム戦争について釈然とし
 ないのも、この点にある。民族主義の泥と血に塗れた戦の上に、そして隣接する主権国
 家のうえに、容赦なく爆弾の雨を降りそそぐ。「絶対安全」な空の高みから、爆弾をふ
 りまく。
・国際法上の正義とか何とか臆面もなく投げ出してしまった所業であるが、思い切った行
 動のように見えて、終始、卑劣な感じがつきまとう。将軍つまり大国のやるべきことで
 はない。
・わたしは何も、空爆をやめて、地上戦闘に移行せよと言うのではない。アメリカのアジ
 ア人に対する姿勢の底に、一貫して、この「絶対安全」「高みの見物」がつきまとって
 いる。
・たとえば、在日米軍基地における避難訓練がそれである。警報発令後、数分後には米人
 全家族が大型輸送機に飛び乗って南の空へ逃げのびてしまう。日本民族の上に、どんな
 にミサイルが落ちて来ようと、後は野となれ山となれ式の遁走方式である。それが安全
 保障の実態なのである。
ジョンソン大統領は、そのベトナム政策において、「鞭と人参」という比喩を使った。
 民族を馬にたとえるところなどは、まことに大国の大統領にあるまじき失敬な外交感覚。
 つまりは、「将軍」はアジア人を自分たちと同じ程度には人間と見ていない。一歩譲っ
 ても、雑兵としか見ていない。
・それは、いまにはじまったことではない。広島、長崎への原爆投下もそうである。ドイ
 ツ相手には落とすのをためらうようなものも、日本人相手なら落とせる。そういう感覚
 が彼らにはあるようだ。
・戦後のアメリカのアジア外交がことごとく失敗し、ようやく軍事力だけで面目を保って
 いるのも、その誤った「将軍」ぶりにある。アメリカの友人なら、この思い上がった
 「醜い将軍」ぶりに忠告すべきである。
・だが、権力の座にある政治家をはじめとして外務官僚に至るまでが、アメリカに対して、
 なべて雑兵でしかない、弱腰というより、腰が抜けている。保守派の政治家や官僚に気
 概ありとは思えない。 
・このごろ釈然としないことの一つに、将軍にあるべき人が、兵士というより私兵の如く
 振舞うことである。衆議院議長、副議長然り。議長は何ものにも従属せぬ権威であるは
 ずなのに、与党の私兵となって玉砕している。