「空気」と「世間」 :鴻上尚史

コミュニケイションのレッスン (だいわ文庫) [ 鴻上尚史 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

幸福のレッスン [ 鴻上尚史 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

深呼吸する惑星 [ 鴻上尚史 ]
価格:2420円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

名セリフ! (ちくま文庫) [ 鴻上尚史 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

幸福のヒント (だいわ文庫) [ 鴻上尚史 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

ベター・ハーフ [ 鴻上尚史 ]
価格:2200円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

青空に飛ぶ (講談社文庫) [ 鴻上 尚史 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

表現力のレッスン [ 鴻上 尚史 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

朝日のような夕日をつれて21世紀版 [ 鴻上尚史 ]
価格:2200円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

八月の犬は二度吠える (講談社文庫) [ 鴻上 尚史 ]
価格:913円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

演技と演出のレッスン 魅力的な俳優になるために [ 鴻上尚史 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

イントレランスの祭 [ 鴻上尚史 ]
価格:2750円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書) [ 鴻上 尚史 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫) [ 鴻上尚史 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

ロンドン・デイズ (小学館文庫) [ 鴻上尚史 ]
価格:759円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

コミュニケイションのレッスン 聞く・話す・交渉する [ 鴻上尚史 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

鴻上尚史の俳優入門 (講談社文庫) [ 鴻上 尚史 ]
価格:616円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

【バーゲン本】ラブアンドセックス [ 鴻上 尚史 ]
価格:770円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

キフシャム国の冒険 [ 鴻上尚史 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

ドン・キホーテ走る (ドン・キホーテのピアス 18) [ 鴻上尚史 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

モダン・ホラー [ 鴻上尚史 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

ジュリエットのいない夜 [ 鴻上 尚史 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

リンダリンダ [ 鴻上尚史 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

エゴ・サーチ [ 鴻上尚史 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

プロパガンダ・デイドリ-ム [ 鴻上尚史 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

アンダー・ザ・ロウズ [ 鴻上尚史 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

「世間」という観念の呪縛 同調を促すシステム [ 篠崎勝 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

社会学 わたしと世間 (中公新書) [ 加藤 秀俊 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

「世間」とは何か (講談社現代新書) [ 阿部謹也 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ [ 辛酸なめ子 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

バーカウンターから世間を見れば [ 鷺岡一博 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー) [ 佐藤直樹 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

なぜ日本人は「世間」を気にするのか [ 三浦朱門 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

なぜ日本人は世間と寝たがるのか 空気を読む家族 [ 佐藤直樹 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

ネットは社会を分断しない (角川新書) [ 田中 辰雄 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

空気は読むものではない。吐いて吸うもの [ 藤原東演 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

「関係の空気」「場の空気」 (講談社現代新書) [ 冷泉 彰彦 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

空気を読んではいけない (幻冬舎文庫) [ 青木真也 ]
価格:594円(税込、送料無料) (2019/12/12時点)

この本は、世の中でよく使われる「世間」や「空気」について論じたものである。そして
その「世間」や「空気」の束縛から逃れて生きるのはどうしたらいいのかを論じている。
よく「空気を読め」とか「空気が読めない奴」と、「空気」を読めないことが否定的に使
われる。しかし、「空気を読む」ということは迎合することである。その場の雰囲気に流
されることとも言える。果たして、それはいいことなのだろうか。
筆者の考えでは、「空気」とは「世間」が流動化したもの、「世間」がカジュアル化して
簡単に出現するようになったのが「空気」なのだという。つまり、「空気を読め」という
のは、「世間」の動向に従え、という意味なのだろう。そして、その「世間」と言われる
ものは、大抵は、その場を支配している権力者の意向ということになるようだ。
今の安倍政権で例えるならば、「森友・加計」問題も「桜を見る会」問題においても、安
倍首相をとりまく閣僚や官僚たちは、みな安倍首相が作り出している「空気」を読んで行
動している、ということになる。みんな「空気」を読むのが得意な人たちばかりというこ
とになる。
一方、「社会」と「世間」との違いはなにかといと、筆者の論では、次のようになるよう
だ。
 「社会」=「建前」:文字と数式によるヨーロッパ式の思考法
 「世間」=「本音」:義理人情が中心となっている人間関係の世界
 「空気」=「世間」が流動化し不安手になっているもの。しかしその力は圧倒的 
日本では、「個人」とか「社会」という言葉が出来たのは、明治以降だという。つまり、
それ以前の時代には、日本には「個人」という意識はなかったということだ。それでは、
「個人」がなくて何があったのかというと、それは「集団」だ。日本人の意識の根底には、
「個人」よりも「集団」が焼きついているという。そしてその「集団」が、いまは「世間」
と認識されている。日本人の価値基準は、この「世間」によって決まられているのだとい
う。
このような意識に対して、若い世代からの拒否が始まっている。しかし、まだそれは一部
に限られている。今の時代は、「世間」を受け入れている人たちと、それを拒否する人た
ちの、闘いの時代なのだという。学校や職場で起こる「いじめ」なども、その闘いのあら
われなのだと感じる。まだまだ「世間」を受け入れている人たちのほうが優勢のようだ。
「世間」は差別的体系でもある。自分たちが形成した「世間」の内側にいる人たちに対し
ては、いろいろ親切にしたり優遇したりするが、「世間」の外側にいる人たちに対しては、
差別的な態度をとり、ときには攻撃をする。それが「いじめ」なのだ。

最近騒がれている「桜を見る会」問題も、その根底にはこの昔からの「集団意識」がある
のだろう。つまりは、「桜を見る会」は、安倍首相を中心とした「世間」を形成している
のだ。安倍首相が形成した「世間」の内側にいる人たちには、国の税金を使ってまで優遇
する。その「世間」の外側にいる人たちは、みんな「こんなひとたち」と敵対視する。き
わめて古い日本的な集団なのだ。安倍首相が言うところの「日本を取り戻す」という日本
は、こういう日本を取り戻すということなのではないか。自分にとって都合のいい「世間」
のある古い日本に戻りたいのだろう。

「神」というものについて、日本人と欧米人とでは、その捉え方がまったく違っているら
しい。西洋人がいう「神」とは、絶対的な善悪の「価値基準」や「判断基準」となるもの
のようだが、日本人にはそんなものは存在しない。日本人の「神」は「お祈り」して安全
や幸福を「お願い」をする存在であると言えるだろう。日本人の「価値基準」や「判断基
準」となるのは、「世間」であるという。欧米人のような「神」ではないのだ。このこと
は、我々多くの日本人は、なんとなくは理解できるが、欧米人のような宗教観を持たない
日本人は、真の理解することは不可能のような気がする。よく欧米人が日本人に「信仰す
神はなんですか?」と聞かれて、「信仰する神はありません」というと、西洋人は驚くとい
うが、それは欧米人にとっては、「私は善悪の価値基準や判断基準となるもは、持っていま
せん」と言うに等しいことなのだろう。それは、「私は野蛮人です」と言っているに等しく、
驚いて当然である。どちらがいいのかどうかは別として、日本人と欧米人とには、住んで
いる世界が決定的な違いがあるように思う。

日本人は、「世間」や「空気」に支配され続けて生きてきたし、近年はその「世間」が壊
れてきたとはいえ、まだまだ「世間」に束縛され続けている人は多いのではないかと思う。
「世間」はセイフティー・ネットという側面も多かったと思うが、その反面、「支配され
るもの」とか「束縛されるもの」という側面もあった。社会が豊かになり、あまり「世間」
の支えがなくても生きていける時代となった現代においては、マイナス面の「支配」や
「束縛」のほうがより強く感じられるようになったとも言えるのだろう。そのため、「世
間」を嫌う人が多くなり、「世間」が壊れてきたのであろうが、日本では「世間」に代わ
るセーフティー・ネットが存在しないために、きっぱりと「世間」と決別するのは難しい
というのも事実であろう。そこに現代人の苦悩の原因があるのではないと思える。
この息苦しい「世間」から逃れるためには、ひとつの「世間」を持つのではなく複数の
「世間」を持つようにすればいいというのが筆者の主張のようだ。それでも息苦しく感じ
なら「世間」ではなく複数の「社会」とゆるくつながるとう方法もあるという。そうだろ
うと頭では思えるのだが、しかし、実際にそれを実践するとなると、日本の「世間」の中
でしか人生経験がない我々一般の人にとっては、なかなか難しいような気もするがどいう
だろうか。

はじめに
・「空気」もまた、その正体を知らないまま、「読み方」だけを習得しようつぃても意味
 はないと思うのです。「誰が空気を作っているのだろう」「その空気の正体は難だろう」
 「どうしてここ数年、この言い方が増えてきたのだろう」と考えてきました。「空気を
 読む」ことは、とても難しいことです。だって、「空気」は目に見えないし、そもそも
 私たちは「空気」の中にいるのです。
・やっかいなことに、「空気を読め」と発言する人は、「空気」の正体を説明してくれま
 せん。「そんなこと、言わなくても分かれよ」と突き放すか、「言葉で、いちいち説明
 できないものなんだよ」と不可能を強調するのです。そんな不安定なものが、時として、
 圧倒的な力を持つのです。それはとても不思議なことです。
・ここ数年、「空気」はやたら乱発されるようになり、「世間」は逆襲を始めていると僕
 は感じています。それは、世界的不況とも無関係ではないのです。簡単に言えば、僕は、
 「空気」とは「世間」が流動化したものと考えています。 

「空気を読め!」はなぜ無敵か?
・あなたは「空気を読め!」と言われたことがありますか。または、「空気を読め!」と
 言われないように、気を配り、神経を使いながら話したことはありますか。
・「空気を読め!」と突っ込まれないように、慎重に慎重に、周りを見ながら発言した記
 憶は、日本人のかなりの人が持っていると思います。その時、その場には、大物司会者
 はいたでしょうか?ひょっとしたら、大物司会者はいないのに、一生懸命、その場の
 「空気」を読もうと思っていたのじゃないですか?
・大切なことは、有能な司会者がいない場にできた「空気」に、過剰に怯える必要はない、
 ということです。 
・あなたは自分自身がどういうことに悩み、傷つき、苦しんでいるかを知っています。人
 間関係に自信がないのか、ユーモアがないと思っているのか、気の利いたセリフが言え
 ないと悩んでいるのか、誰からも好かれていないと思っているのか。あなたが深く悩ん
 でいることは、じつは、あなた自身しか知りません。
・誰にも言っていないけれど、人間関係が苦手だと思っていた人は、「空気を読め」と言
 われて、「ああ、やっぱり私は人間関係がダメだ」とこっそり解釈して、深く傷つくの
 です。いつも気の利いたセリフが言えず、浮いていると思っている人は、「空気を読め」
 と言われて、ああ、やっぱり私は面白いことが言えない。つまらない人間なんだ」と思
 って、落ち込むのです。これが、あなたの想像力があなた自身を苦しめるという意味で
 す。あなたを苦しめている言葉は、あなたが一番知っているのです。他人が、あなたの
 悩みを的確に射抜くことは、それに比べるとはるかに少ないのです。
・僕は、「空気」とは、「世間」が流動化したものと考えていると書きました。「世間」
 とは、あの「世間体が悪い」とか「世間を騒がせた」とかの「世間」です。その「世間」
 が、カジュアル化し、簡単に出現するようになったのが、「空気」だと思っているので
 す。

世間とは何か
・自分に関係のある世界のことを、「世間」と呼びのだと思います。そして、自分に関係
 ない世界のことを、「社会」と呼ぶのです。
・「世間」と「社会」という視点で見ていけば、この国のかたちは、ずいぶん分かりやす
 くなるんじゃないかということです。そして、「空気」の正体も、明確になると思って
 いるのです。
・明治十年頃に「社会」という言葉がつくられた。それ以前には我が国には「社会」とい
 う言葉も「個人」という言葉もなかったのである。ということは、我が国にはそれ以前
 には、現在のような意味での社会という概念も個人という概念もなかったことを意味し
 ている。
・では、どうして今までなかった「社会」や「個人」という単語を”発明”しなければな
 らなかったかというと、富国強兵政策の名のもと、我が国を強引に西洋化する過程で、
 国会や裁判所などの政府機構、税制、教育、軍制などの概念を国民に説明するためには、
 「社会」「個人」という単語が必要だったからです。
・欧米の社会という言葉は本来個人がつくる社会を意味しており、個人が前提であった。
 しかし、我が国では個人という概念は訳語としてできたものの、その内容は欧米の個人
 とは似ても似つかないものであった。欧米の意味での個人が生まれていないのに、社会
 という言葉が通用するようになったから、あたかも欧米中の社会があるかのような幻想
 が生まれたのである。しかし、学者や新聞人を別にすれば、一般の人々はそれほど鈍感
 ではなかった。人々は社会という言葉をあまり使わず、日常会話の世界では相変わらず
 世間という言葉を使い続けたのである。
・「社会」という言葉が定着しなかった結果、「そんなことをしたら世間が許さない」
 「世間体が悪い」という言い方は残っても、「社会が許さない」とか「社会体が悪い」
 という言い方は生まれなかった。そして、建前としての「社会」と本音としての「世間」
 が日本に生まれた。
・日本人の「個人」は、「世間」に中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本
 には存在しないのです。そして、もちろん、独立した「個人」が構成する「社会」なん
 てものも、日本にはないんだと言うのです。日本人は、「社会」と「世間」を使い分け
 ながら、いわば、ダブルスタンダードの世界で生きてきたのです。
・「社会」とは、文字と数式によるヨーロッパ式の思考法です。「近代化システム」と呼
 べるものです。僕たちは、「建前」と言ったりします。
・「世間」は、言葉や動作、振る舞い、宴会、あるいは義理人情が中心となっている人間
 関係の世界です。「歴史的・伝統的システム」と呼べるものです。「本音」ですね。 
・「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与
 とされている点である。社会は改革が可能であり、変革しうるものとされているが、
 「世間」を変えるという発想はない。
・近代的システムのもとでは社会改革の思想が語られるが、他方で「なにも変わりはしな
 い」という諦念が人々を支配しているのは、歴史的・伝統的システムのもとで変えられ
 ないものとしての「世間」が支配しているためである。
・教師は理想を語ります。それは、独立した「個人」が生活する「社会」における生き方
 です。教師は、決して、「長いものには巻かれろ」というような「世間」の知恵は語り
 ません。一番大切なのは「長いものには巻かれろ」ということだ。上司とか強い奴ギャ
 グにはとりあえず大声で笑っとけ。今週の標語は、「寄らば大樹の陰」だ、なんていう
 生きる知恵を語る教師はいないでしょう。結果、子供たちが生きていく世界の真実を伝
 えようと思う教師は沈黙するしかなくなります。
・教室でだけ、教師の理想を聞いていた生徒は、やがて「世間」との付き合い方を知るよ
 うになりますが、教師の子供は、家庭でも教師である親から理想を聞くので、「世間」
 の存在自体を受け入れ難くなる。
・海外で長く暮らした人は、たいてい二つのタイプに分かれます。「日本を大嫌いになる」
 か「外国を大嫌いになる」かです。日本のいいところと、自分が住んだ外国のいいとこ
 ろを、冷静に分析して取捨選択しようとする人は、本当に少数派です。西洋的な「社会」
 に憧れるか、日本の「世間」を熱烈に受け入れるか、の極端な結果になるのです。
・今、急速に進む不況と日本人の意識の変化によって、「世間はかなりのレベルまで壊れ
 ている」と思っています。
・同じ「世間」を生きる人は、お互い、同じ時間を生きていると思っている。「先日は有
 難うございました」は共通の過去を生きたという確認であり、「今度ともよりしくお願
 いします」は、同じ未来を生きるという宣言です。日本の会社に電話すると必ず言われ
 る「お世話になっております」も、共通の時間を生きているという確認です。たとえ、
 初めての取引先であっても、電話を取った人は機械的に「お世話になっております」と
 答えます。
・日本社会の特徴である親子心中は、親が、子供も共通の時間に生きていると思うから起
 こるのです。親と子供は別々の時間を生きている、とは日本人は考えません。「世間」
 で一番身近な単位である家族は、みんな、同じ時間を生きていると考えるのです。結果
 として、子供はいくつになっても親と同居して、子供扱いされていても、別に疑問を持
 たないのです。
・世界的な不況で親と同居する子供は欧米でも増えてはいるのですが、それでも、欧米人
 の意識は、別々の時間を生きているはずの親と子が、30歳を過ぎても同じ家に住んで、
 普通に親子関係を続けていることを、とても奇妙で不自然に感じるのです。
・練習や仕事が終わった後、集団で居酒屋に入り、集団で酔っぱらい、集団で解散するの
 は、同じ「世間」に所属するメンバーは共通の時間を生きている、と思えるからです。
・日本の会社員は働き過ぎだと言われます。といって、長時間、集中したままバリバリと
 働き続けている人は少数派だと、あなたも知っていると思いますが、その実態は、長時
 間の会議、長時間のダラダラ残業、長時間の打ち合わせの結果です。つまり、会社に長
 くいることが、働き過ぎだと言われる主な原因です。それは、じつはお互いが同じ「世
 間」を生きていることを確認するために、同じ時間を過ごすことが目的となっている状
 態なのです。  
・根回しがすみ、あらかじめ結論が出ている会議に出ることは、同じ時間を生きていると
 いうことを確認するために、とても大切なことなのです。それは、会社やグループ、サ
 ークルなどで飲みに行く時、一人、「私、帰ります」と言って違う時間を過ごしてしま
 う人が、「世間」から排除される構図なのです。「世間」の一員として受け入れてもら
 うためには、仕事があろうがなかろうが、同じ時間を過ごすことです。効率とか余暇と
 か、そんなことを考えていては、「世間」には受け入れてくれないということになりま
 す。
・つまりは、個人の時間はないんだとあなたは気づいたでしょうか。「共通に時間意識」
 とは、つまり個人ではなく、集団として生きていく、ということです。
・我が国の「世間」は人が作り上げてゆくものというよりは、運命的に存在しているもの、
 所与として受けとめられていったのである。「世間」という共同体は、自分が選んだも
 のではなく、知らないうちに巻き込まれ、そこにすでにあるものだということです。
・集団の一員として常に同じ時間を過ごすことに、若者から拒否が始まっています。部下
 を酒に誘って断られる、という高度成長期には考えられないようなことが、普通に起こ
 る時代になりました。大切なことは、どれぐらい長い時間一緒にいるかということでは
 なく、どれぐらい効率よく仕事をするか、ではないかと多くの日本人が考えるようにな
 ってきたのです。
・私たちは日々の日常生活の中で「世間」からははみ出さないように細心の注意を払って 
 暮らしている。「世間」が差別的体系であることをよく知っているからである。毎日こ
 のような差罰的体系の中で暮らしている私たちは、その外に被差別民を設定し、そこに
 差別の視線を向けることによって自分たち自身が差別者であると同時に差別されている
 という事実を隠そうとしている。
・「いじめ」は、じつは日本の特徴なのですが、もうひとつ、日本的で欧米にないいじめ
 があります。それは、クラス全体が一人の人間を対して、「何もしないいじめ」です。
 日本人であるあなたはすぐにこのいじめの内容を理解するでしょう。クラスメイト全員
 が、徹底して、特定の一人の人間を無視するいじめです。面と向かって悪口を言うわけ
 でも、殴るわけでも、教科書に落書きをするわけでもなく、ただ、口を利かない。どん
 なに話しかけられても誰も返事をしない。じつに陰湿ないじめです。
・ヨーロッパでもアメリカでも、「いじめ」はありますが、クラス全体が一致して、「何
 もしない」という ことはありません。欧米では、一部の人が無視するいじめを続けて
 も、他の人間が話しかけます。クラス全体が一致して、一人の人間を無視する行為は、
 欧米人にどう説明しても理解されないのです。
・「世間」に生きる人たちは、「迷信」や「おまじない」や「ジンクス」や「しきたり」
 などを信じていて、そして、それを守ることを求められる、ということです。 
・「神秘性」は、例えば、伊奈家に行けば行くほど、つまり伝統的な「世間」が強力にな
 ればなるほど、守らなければならない手順、踏み込んではいけない場所、などが増えて
 いく、というようなことです。それがどんな非生産的で不合理だと思っても、「昔から
 そういうやり方をしている」という一言で、その「しきたり」や「伝統」や「迷信」は
 守られるのです。
・論理的な根拠はないけれど、それが大切なことだと思えば「伝統」と呼ばれます。けれ
 ど、その「世間」からはみ出している人からすれば、まったく根拠を発見できませんか
 ら、それは「迷信」と呼ばれるのです。
・日本では、犯罪を犯した子供の親が自殺したり兄弟姉妹の結婚話がは破断になることが
 珍しくありません。それを「しようがない」と思う日本人はいても、欧米人に、堂々と、
 「子供が罪を犯したら、親は自殺するのが当然である」と説明できる日本人はいないと
 思います。
・「世間」が責めるから生きていけない、という言い方はできても、どうして「世間」が
 責めるのか、あなたは説明できるでしょうか。
・罪を犯した子供の親を犯罪者と同じような目で見て責めたり、容疑者という言葉が犯罪
 者と同じ意味だと思い込んでしまう「世間」は、合理的なルールでは動いていないと言
 えます。
・犯罪を犯したから有罪なのではなく、有罪と思われたから有罪というのは、言ってみれ
 ば、現代人の思考方法ではなく、もっと昔の魔法や呪術が力を持っていた時代の思考方
 法と言えます。
・「神秘性」は「儀式性」としても現れます。「しきたり」や「迷信」「伝統」を守るた
 めには、儀式は欠かせないものだからです。ですから、「世間」には、部外者から見た
 ら無意味としか思えないような「儀式」がたくさんあります。
・それは、その儀式に出席することが、「世間」の一員であるという相互確認だからです。
 そういう意味では、結論がじつは出ている、長時間のダラダラとした、ただいるだけの
 会議や残業は、儀式だとも言えます。
・「世間」の基本ルールは、
 ・贈与・互酬の関係
 ・長幼の序
 ・共通の時間意識
 ・差別的で排他的
 ・神秘性
・欧米に留学したり、住んだりした結果、外国かぶれした人が必ず言うことがあります。
 それは、「日本人は自分の食べたいものを自分で決められない」ということです。外国
 かぶれした人は、「だから、日本人はダメなんだよ。個人がしっかりしてないんだ」と
 言うのです。
・欧米人は、神との関係が問題なのです。そして、日本人は「世間」との関係が問題なの
 です。一般的な日本人は、個人的に問いかける神は持っていません。私たちは、神の代
 わりに「世間」を持っているのです。  

「世間」と「空気」
・「空気」とは、「世間」が流動化した状態である、ということです。つまり、「世間」
 を構成する五つのルールのうち、いくつかだけが機能している状態が「空気」だと考え
 ているのです。逆に言えば、「空気」とは、「世間」を構成するルールのいくつかが欠
 けたものだと思っているのです。
・ちなみに、日本に来た欧米人が、いつも嘆くのは、日本におけるパーティー文化の貧弱
 さ、というか不可能性です。欧米では、パーティーで知り合った人間同士が簡単に友だ
 ちになります。知らないパーティーに行って、そこで知らない人間と友だちになる、と
 いうことも普通です。
・アメリカやヨーロッパでは、パーティーに招かれて、行ってみれば大人数のパーティー
 で、招いた人間は最初だけ話して、あとは放りっぱなしです。それが、普通のルールで
 す。欧米人は、そこで、誰かれとなく話して、友だちになります。が、たいていの日本
 人は、そこで立ち往生してしまうのです。それは、知り合う人が、自分と、そして、パ
 ーティーの主催者とどういう関係で、どういう立場であるか明確にならないと、なんと
 話しかけていいか分からないからです。
・日本人は「世間」の保証がないまま、知らない相手とコミュニケーションを取る、とい
 うことがひどく不得手なのです。それは、日本人の未成熟さでも社交下手でもありませ
 ん。そういう構造の世界に、つまり「世間」に生きてきたということです。 
・どの国にも「空気」にあたる言葉はあるのだといわれる。ただし、「空気」の存在しな
 い国はないのであって、問題は、その「空気」の支配を許すか許さないか、許さないと
 すればそれにどう対処するか、にあるだけである。 
・「空気」の方は、その瞬間の圧力は圧倒的でも、それが将来にわたって持続するかどう
 かの保証あない、という感じがします。「世間の判断」は、正しいか間違っているかは
 別にして、永続して変わらない。一方「全般の空気」は、その瞬間には不動のものなの
 だが、将来的には変わるかもしれないという可能性を感じている、という印象です。
・つまり、この場合の「空気」は、「世間」のルールのひとつ、「共通の時間意識」が揺
 らいでいるのではないかと感じるのです。「世間」の判断を、将来にわたって共有し、
 持続し、同じ時間を生きるという保証が危ういと感じる時、人は、「世間」ではなく、
 「空気」という言葉を選ぶのではないかと思うのです。「世間の判断」という言葉を、
 持続する保証のない言葉、「世間の思い」に変えると、もっと、「空気」に近づきます。
・別の言い方をすれば、「世間」が判断した「差別的で排他的」な決定が、時間がたつう
 ちに変化するのではないかと予感する場合に、私たちは、「空気」という単語を無意識
 に使っているのではないか、ということです。 
・逆に、意地悪に取れば、言い訳のために使っているとも考えられます。おそらくこの決
 定は、「世間」として変わらないのだけれど、それを「世間」と言ってしまうと、身も
 蓋もなくなるので、その直接性をぼやかすために、「空気」と言っておこう、という場
 合です。「空気」と言えば、「いつかは変わるのかな」と期待する人も出てきて、反発
 が抑えられるという処世術です。 
・「世間」の何かが 欠けてたり、共通の時間意識」が不安定になっているものが「空気」
 なのです。
・「空気」は決して弱いものではありません。その瞬間の力は圧倒的です。構成の面から
 見て不完全・不安定と呼んでも、その持っている力は、「世間」と変わらない場合があ
 ります。
・結婚式や誕生パーティー欠席するより、葬式に出ないことの方が何万倍も「世間」では
 失礼なことになる、という現象が、葬式をいかに重要なことだと捉えているのかの証拠
 です。「世間」の儀式性の頂点には、葬式があるのです。一度も会ったことのない社長
 の親の葬式に駆けつける社員は普通にいますし、一度も会ったことのない偉い人の家族
 の死に弔電を送ることも「世間」では、珍しくありません。
・日本人の自我を支えているのは、自分が所属している「世間」だからです。「世間」が、
 価値を決めるのです。何が大切で、何を守るべきで、どういう人生が称賛されるかを決
 めるのは、「世間」なのです。
・キリスト教は、誰とも分からない人骨を神秘的と捉える呪術的な考え方を1000年近
 く前に否定したのです。人骨にこだわるのは、悪魔の思想だとしたのです。日本人は戦
 争中の遺骨を南の島のジャングルの奥深くまで探しに行きますが、真珠湾では戦艦アリ
 ゾナの1000人を超える乗組員の遺体は、いまだに海底に沈んだままです。そして、
 アメリカ人は、そのことと死者を深く弔うことは、まったく別のことと考えているので
 す。
・「世間」に生きている日本人は、自分の「世間」以外の人、つまり「社会」に生きる人
 に話しかける言葉をなかなか持っていないのです。ですから、自分の「世間」ではなく
 「社会」に属している倒れている人に、簡単には声をかけられないのです。
・欧米に行って感動するのは、後から来る人のために、必ず、ドアを手で押さえて通り過
 ぎることです。後ろから来る人が、ドアに手をかけるのを確認してから、みんな、離れ
 ます。デパートの入口も、オフィスでも、アパートの玄関も、誰かれとなく、普通にや
 ります。日本では、後から来る人のために、ドアを押さえている人はまれです。みんな、
 自分が通った後、後ろの人のことをまったく気にしないまま、通過します。大きく動い
 て戻ってきたドアにぶつかりそうになることも珍しくありません。  
 
「空気」に対抗する方法
・「小選挙区制」が日本で充分に機能しないのは、選挙区が小さくなったことから、一人
 一人の有権者が、「中選挙区」よりはるかに候補者や政党と密接につながることが原因
 です。そうすると、義理や人情や利益誘導というさまざまなしがらみが濃密になってき
 ます。そこでは、自分の意志を越えた「世間」が個人を強烈に縛り始めるのです。そう
 すると、「空気」や「世間」を相対化するための選挙、つまり多数決原理が、まっさく
 有効に働かなくなるのです。
・不況の中、無理なノルマや膨大な残業を課せられる社員が増えています。「気合だ!」
 とか「ガッツだ!」「愛社精神だ!」「死に物狂いでがんばれ!」という、日本人が大
 好きな絶対化した命題によって、圧倒的な「空気」支配の中で、過労死やうつから自殺
 を選ぶサラリーマンが増えています。
・「水を差す」という方法は、うまく使えば有効かもしれません。会社を批判しているわ
 けでもなく、仕事が嫌でもない。いや、それどころか、仕事をしたいと思っている、と
 いう身振りを演じるのです。そして、悔しいけれど、このままでは、このノルマは達成
 できない、なぜならと「水を差す」のです。その指摘が有効に働けば、残業150時間
 は当たり前、ノリ間が達成できなければ自腹で買う、という圧倒的な「空気」の支配を
 揺さぶることができるかもしれません。問題は、臨機応変に、なんと「水を差す」あ、
 ということです。 
・「裸の王様」において、王様自身が、透明な服のことを疑い、不安そうな顔をして、そ
 して、取り巻きの人たちもどこか困惑した雰囲気がある時は、大人の「大様は裸だ!」
 の一言が、不安定な「空気」に「水を差す」ことができるでしょう。けれど、王様の作
 り出す「世間」が強力で、そして、裸の王様の顔も自信に満ち、強力が「空気」が漂っ
 ている時は、「王様は裸だ!」と叫んだ大人は侮辱罪か反逆罪で死刑になるかもしれま
 せん。「空気」はまったく揺るがないからです。 
 
「世間」が壊れ「空気」が流行る時代
・「みんな言ってるよ」と言われて、あなたは頭で考えたら、そんなことはありえないと
 思います。けれど、ちくりとします。確実に傷つきます。頭ではありえないと思いなが
 ら、「みんな」という言葉に傷つくのです。
・この「みんな」とは、つまり、あなたの所属している世界、つまり、「世間」だと思い
 ます。「世間」がちゃんと機能していた時代は、「みんな言ってるよ」という言い方が
 成立したのです。「世間」が悪口を言う、ということは、本当に「みんな」が言うこと
 と同じだったからです。それは「村八分」という嫌な言葉として残っています。
・現代では、「みんな言っているよ」という言葉を聞いても、それはみんなではないと分
 かります。7割か8割かもしれませんが、冷害のない全員では絶対にないはずです。つ
 まり、論理的には破綻しています。  
・「世間」という言葉は、自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々
 の全体の総称なのである。具体的な例をあげれば政党の派閥、大学などの同窓会、花や
 お茶、スポーツなどの趣味の会などであり、大学の学部や会社内部の人脈なども含まれ
 る。近所付き合いなどを含めれば「世間は」極めて多様な範囲にわたっているが、基本
 的には同質な人間からなり、外国人を含まず、排他的で差別的な性格をもっている。 
・商店街の集まりは、強力な「世間」になる可能性があります。特に、近くに大型スーパ
 ーなどができて、客の流れが変わりつつある、などという時は、緊急の利害関係に基づ
 く動機が生まれます。切迫すれば切迫するほど、その「世間」は強くなり、「差別的で
 排他的」な傾向も強まるでしょう。「社宅」と呼ばれる、会社のスティタスがそのまま
 持ち込まれた地域も「世間」が生まれやすくなります。が、こういう地域共同体として
 の「世間」は、今や例外です。ほとんどの地域共同体は、「世間」としての機能を失い
 つつあります。その傾向は都会から始まったのですが、各地へとゆっくりと、しかし
 確実に広がっています。 
・地域共同体は、完全に崩壊するのでしょうか。町内会も地区会も自治会も、それでは、
 街が荒れてしまう、人情が廃れてしまう、危険な場所になる、と嘆きます。地域共同体
 という「世間」をもう一度、作ろうとするから無理なんだと僕は思っています。「社会」
 として、つまり地域共同体ではなく、地域社会として蘇生させればいいのじゃないかと
 思っています。 
・会社と地域共同体は、日本の「世間」を代表する二大要素です。日本を支えてきたのは、
 地域共同体の安定と会社の安定だったということです。この二つのセイフティー・ネッ
 トの存在が、一神教に頼らなくても、安定的で混乱の少ない国と国民を作ったのです。
・「終身雇用」と「年功序列」とは、「世間」の特徴を会社用語で言い換えたものです。
 日本人は、「共通の時間意識」と「贈与・互酬の関係」を、「終身雇用」に、「長幼の
 序」を「年功序列」という単語に翻訳しました。農村という村落共同体から会社という
 働く場に移行する時、日本人は同じルールを言葉を替えただけで、そのまま移しかえた
 のです。 
・「実力主義」「成果主義」という試行錯誤もまた、「長幼の序」という「世間」の重要
 なルールを破壊した行為でした。日本の企業は、「年功序列」を拝することで未来の成
 長を期待したのです。 
・経営不振の企業が、外国人という「世間」に属していない社長を招き、大量リストラと
 いう「終身雇用」と正反対の行為で、会社を立て直す経緯も、日本人は見ました。マス
 コミは、その手腕を絶賛しました。 
・先輩社員が仕事の後に飲みに誘って、それを断る若手社員は普通になりました。先輩社
 員とただ一緒にいる、という時間の使い方を拒否する後輩社員も普通に出てきました。
 飲み屋で先輩社員が一生懸命仕事の話を伝えようとするのに、関係ない話しを楽しそう
 にする新人社員も増えてきました。  
・飲み会を断る若手社員は、やる気のないダメ社員かと言えば、そんなことは決してあり
 ません。ただ、「無意味な飲み会」を拒否し始めた、ということだと僕は思っています。
・新自由主義という名前の、激烈な競争社会の出現と世界的な不況によって、日本の雇用
 形態は完全に変化し始めました。非正規雇用が増大し、「終身雇用」「年功序列」とい
 う言葉は、彼らにとっては、なんの関係もない言葉になりました。非正規雇用の人たち
 にとっては、「会社」は、経済的にも精神的にも、セイフティー・ネットではなくなっ
 たのです。 
・正規雇用でも、いつ、大量のリストラにあうか、まったく安心できなくなりました。雇
 用が続いたとしても、経済的に不安な毎日の結果、「会社」が精神的にはセイフティー・
 ネットではなくなったということです。会社という「世間」=「共同体」が不安定にな
 ったことで、家庭という共同体も地続きで不安定になります。雇用が安定しているから
 こそ、人は家庭を作り、守ることができるのです。「世間」は不安と共に、急速に壊れ
 始めたのです。
・じつは、アメリカの格差社会は、日本とは比べものにならないぐらい激しいものです。
 アメリカの企業経営者と一般労働者の賃金格差は、180倍以上だそうです。ちなみに、
 日本の格差は、社員と役員との格差が3.9倍でした。
・アメリカにもヨーロッパにも、自分の好みを「普通」と答える言い方はありません。
 「普通」という平均がないからです。あるのは、格差だけなので、「普通」と答えられ
 る真ん中の平均がないのです。中流や平均で物事を考える、という発想がないのです。
 格差社会とはそういう社会なのです。
・アメリカ人は、神によって自分を支え、こんな激しい格差社会を生き延びているのです。
 キリスト教のプロテスタントに、福音派という人たちがいます。聖書の言葉をその通り
 厳密に受け止め、聖書に書かれていることは、すべて真実だと信じる人たちです。 
・プロテスタントは、福音派とリベラル派に基本的には分かれます。そして、リベラル派
 は、聖書に書かれたものは、そのままの真実と取るのではなく、社会的・文化的文脈で
 キリストや、弟子たちの伝えたかったことを受け取ろうとします。福音派の人よりは、
 理性的な立場です。
・一神教の神は絶対です。神は、自らの神に祈る限り、無条件にその人を愛します。そこ
 には、格差はありません。あなたがどんなに貧しくても、どんなに世間から無視されて
 いても、どんなに負けていても、どんなにちっぽけでも、神はあなたを深く真剣に愛し
 てくれるのです。それが、一神教の神なのです。結果的に、現実に貧しい地域であれば
 あるほど、人びとは熱烈に神に祈り、福音派が増えます。福音派の過激な牧師は、「聖
 書だけを読んでいればいい」とまで言います。聖書が真実なのだから、それ以外に本を
 読む必要はないと。
・僕は、この宗教的情熱を責めているのではありません。激烈な競争社会で、格差が固定
 して、貧困が貧困を生むようになった社会で、宗教がなければ、人は人であり続けられ
 ないだろうと思うのです。医療保険に入れず、ケガや病気をしたら何万、何十万という
 治療費を支払わなければならず、でもそんなお金はないから治療をあきらめなければい
 けない、そんな現実を宗教を信じることなく、生き延びるのはつらいだろうと同情します。 
・アメリカの、特に西海岸の都会のインテリたちは、福音派の影響が強い、南部のバイブ
 ル・ベルトと呼ばれる地帯に住む住民たちを、田舎者とか教養のない人々と、内心バカ
 にしています。けれど、福音派が一致団結して大統領に押し上げたのが、イラク戦争を
 起こしたブッシュなのです。アメリカの3割近くの信者ですから、強大な力を持つので
 す。インテリたちは、慌てました。無視していた人たちの強力な力を見せつけられたか
 らです。といって、現実が苦しいからこそ、信仰に没頭するのです。宗教的情熱は、貧
 しさと正比例します。
・これから、日本もアメリカ並の格差社会になるのだとしたら、傷つき、絶望し、苦悩す
 る人を、いったい何が救うのだろうか?ということなのです。アメリカでは、宗教が間
 違いなくセイフティー・ネットです。精神的にも経済的にも非常に強力なセイフティー・
 ネットです。
・ちなみに、福音派は、「古き良きアメリカ」をもう一度取り戻そうと政治的に活動しま
 す。それが、彼らが理想とする社会なのです。中絶が禁止さえていて、同性婚が禁止さ
 れていて、ホモセクシュアルが恥ずべきことで、結婚まで純潔が守られる古き良きアメ
 リカです。
・日本では、個人を支えたのは「世間」でした。けれど、都市化と経済的・精神的はグロ
 ーバル化と格差社会によって「世間」はかなりのレベルまで壊れています。その結果、
 日本人はより不安定になり、自分を支えてくれる「なにか」を、「世間」が安定してい
 た時代よりもはるかに強く求めています。けれど、多くの日本人にとって、それは、宗
 教の「神」ではありません。
・日本でアメリカ式の新自由主義を導入しようとする経済学者に対して、僕は、「キリス
 ト教が支えてくれないのに、どうしてそんなことができるんだ?」と呆れました。同時
 に、「自己責任」という言葉を言い出した政治家と、その言葉に乗ったマスコミにも呆
 れました。「自己責任」なんて言葉を、何も支えるものがない日本で、政治的意図だけ
 で簡単に言い出す政治家や、それに乗ったマスコミに対して、本気なんだろうかと僕は
 思ってしまいました。
・私は孤独じゃない。私たちはバラバラじゃない。なぜなら、同じものを見て、一緒に笑
 える人たちがいる。同じものを見て、腹から笑える人たちの中に私がいる。それは「共
 同体の匂い」です。そして、「共同体の匂い」を呼吸することは、人を安心させるので
 す。逆に言えば、不安な人ほど、「共同体の匂い」を求めるということです。
・ネット右翼と呼ばれる、極めて保守的な人たちがウェブ上で主張する理想=古き良き日
 本は、まさに、この伝統的な「世間」だと僕は思っています。それは、「日本」「民族」
 「家族」「正義」「愛国」というような言葉で象徴されるものです。彼らが守ろうとし
 ているのは、「古き良き日本」です。「社会」などという西洋から来た概念に侵食され
 ない、五つのルールが強力に働く、伝統的な日本の「世間」です。
・僕はネット上で反日だと激しく誰かを攻撃し、時にはブログを炎上させている彼らは、
 「ネット右翼・右翼主義者」ではなく「保守主義者」、もっと厳密に定義すれば、「世
 間原理主義者」だと思っています。「世間」の原理に帰ろうとする人たちです。
・日本の「世間原理主義者」たちは、一見、右翼的に見える時もありますが、彼らは、
 「天皇中心の日本」を創り上げようとしているのではなく、「伝統的で温かい日本」
 「ひとつの家族だった日本」に戻ろうとしているのです。 
・人は不安になった時、原理原則に戻るのです。不安になればなるほどです。自分の住ん
 でいる世界がどこに向かっているのか分からなくなった時に、人は、自分が安心できる、
 理解しやすい、懐かしい世界を求めます。

あなたを支えるもの
・「世間」の復活を後押ししたのは、マスコミとインターネットという存在でした。かつ
 て「世間」は、所属する人たちの口から口へと伝えられました。しかし、今の「世間」
 の多くは、マスコミとインターネットによって、伝えられるのです。インターネットが
 伝える言葉は、かつての伝統的な「世間」の人たちのひそひそ話より、はるかに強力な
 力を持ちます。うかうかしていると、インターネットが作り上げる「世間」は、あなた
 をがんじがらめに縛ります。かつての「世間」以上の、あなたの意識を縛ることが可能
 なのです。
・不況は、「世間」を強烈に意識させます。村落共同体社会においても、会社という「世
 間」においても、経済的に潤っている時、利益が多い時は、「世間」の掟は厳しくは人
 を締まりません。バブル時代は、「会社」や「家庭」から自立する強い「個人」に注目
 が集まりました。けれど、収穫が減り、赤字になることで、「世間」は、一人一人の働
 きを問題にするようになります。そして、不況の時代には、今まで考えられていた「世
 間」が、人を救う力などないんだという現実まであらわになるのです。けれど、人は、
 支えてくれるものを求めます。苦しくなればなるほど、支えてくれるものを求めます。
・現実に、いきなり伝統的な「世間」を作ろうと思う人もいるでしょう。濃密な集団、例
 えば、暴走族だったり、少人数の会社だったり、宗教団体だったり、特殊な趣味のグル
 ープだったり、少人数で強力な関係性を作り上げ、それを「世間」として、自分を支え
 ようとする人たちです。ですが、「個人」の快適さと「世間」の抑圧を知ってしまった
 現代人を構成員として、強固な人間関係の「差別的で排他的」な集団を維持し続けるの
 はとても難しいと思います。 
・アメリカ的な「自己責任」を要求する政治家やマスコミは、「なんの支えも必要としな
 い強い個人になれ」というメッセージを送っているのかもしれません。「自己責任」を
 語る政治家が派閥という「世間」から自立し、マスコミ人が記者クラブという「世間」
 から独立しているのなら、その人は、とても強い「個人」なのでしょう。
・「共同体」や「共同体の匂い」に安易に乗りかかることを拒否して、強い「個人」であ
 り続ける、という選択肢は、もちろんあります。日本人が「共同体」と「共同体の匂い」
 に怯えず、ほんの少し強い「個人」になることは、じつは、楽に生きる手助けになるだ
 ろうと僕は思っています。

「社会」と出会う方法
・「世間」に向かって書くとは、自分の思ったことを思ったように書くだけのことです。
 共通のバックボーンを持った人に向けた文章でくだくだと説明するのは、かえって他人
 行儀と思われてしまいます。
・「社会」に向かって書くとは、自分と違う世界に住んでいる人にも事情を理解してもら
 えるように書く、ということなのです。
・インターネットの一番の肯定面は、自分で「共同体」を選ぶきっかけを見つかられると
 いうことです。「世間」の特徴は、「所与性」だと書きました。自分では選ぶのではな
 く、与えられるものです。けれど、インターネットは、自分の所属する共同体を選び取
 る可能性を、私たちに与えたのです。
・日本人は、なかなか、断れません。「NOと言えない日本人」と誰かが言いましたが、
 日本人が「NO」と言う時は、かなり思い詰めた時です。「NO」と言う日本人は、た
 いてい、思い詰めた顔をしています。もしくは、「すみませんねぇ」と何度も恐縮しな
 がら、本当にすまなそうに言います。それは、今までずっと「世間」に生きていたと思
 っているからです。「世間」は、ななたを救うセフティー・ネットでしたから、基本的
 にあなたの不利になるような提案はしません。それがわずらわしいものでも、巡り巡れ
 ばあなたの利益にもなるものでした。ですから、そこで「NO」と言うのは、よほど特
 殊な事情、決意が必要だったのです。そして、「NO」と言うことで、「世間」からな
 んらかのしっぺ返しがあるだろうと身構えました。
・欧米人と仕事をして驚くのは、彼らが、微笑みながら、もしくは笑って「NO」と言う
 ことです。それは、「NO」と言うことに、日本人ほど深刻さも精神的重圧もない、と
 いうことを意味しています。それは、ずっと「社会」に生きているからです。「社会」
 は、今まで、不利になる提案をすることもあれば有利な提案をすることもありました。
 ですから、断るのは、当たり前のことなのです。
・それを、欧米人は自立している、などと言ってはいけません。日本人は、かつては神で
 あった「世間」の記憶が染み込んでいるのです。ですから、まったく知らない他人や会
 社以外の提案には、どこか神の匂いを感じてしまうのです。知り合いを通じての依頼な
 ら、まさに、「世間」の記憶が顔を出します。 
・それを断るのは、日本人には本当に勇気のいることなのです。だから、なにかを断る時、
 日本人は思い詰めて、深刻な顔になるのです。もしくは、ガマンにガマンを重ねて、ど
 うしても堪えきれなくなった時に、「これだけガマンしたんだからもういいだろう」と
 爆発しながら断るのです。
・私たちが、「家族」からのお願い、会社からの人事異動の打診、地域からの依頼を断る
 時、本当に気が重くなるのは、完全には壊れ切っていない「世間」の意識があるからで
 す。格差社会で「世間」が強くなれば、その気の重さもどんどん強くなります。
・「自分の子供にはどんなふうに育ってほしいですか?」と聞かれて、「他人に迷惑をか
 けない人間に育ってほしい」と語る母親がいます。ぜいたくは言わない。勉強もそこそ
 こでいい。ただ、「他人に迷惑をかけない人間になってほしい」。いきなり、僕の直感
 で断定しますが、この言葉を使う母親は、働いた経験がない人か年数が少ない人が多い
 と思います。つまり、保育園より幼稚園でこの言葉は多発されていると思っているので
 す。 この時の「他人」というのは、「世間」の人たちです。それも、この言葉を使う
 人は、伝統的な「世間」をイメージしていると思います。
・「世間」であれば、共同体の共通の目的があります。その共同体が何を求めているのか、
 はっきりとしています。だから、何が迷惑となるか、よく分かりのです。共同体の目的
 にために、自己の欲望を抑える、ということが大切なんだと分かるのです。けれど、
 「世間」が崩壊し始めると、同じ目的の「共同体」というものをイメージしにくくなり
 ます。
・競争社会になればなるほど、利潤を追求する企業は、自らの欲望に忠実になります。そ
 れはまさに「社会」です。そして、ビジネスとは、お互いの対立する利害を調整しなが
 ら、相互に利益を生もうとする活動です。どちらか一方だけが、バランスを欠いた利潤
 を出し続けていては、現代の経済活動は成立しません。
・つまりは、まずは、自分の欲望に忠実になることが、大切なのです。なぜなら、「社会」
 に生きる者同士、それが、「迷惑」になるかどうかは、お互いの欲望をぶつけてみない
 と分からないからです。何が「迷惑」なのか分かっているのは、「世間」です。けれど、
 グローバル化が進めば、自分の活動や欲望が、相手の「迷惑」になるかどうかは、実際
 にぶつかってみないと分からないのです。そして、「迷惑」だと相手が考えていると分
 かったら調整すればいいだけのことです。けれど、やる前には分からないのです。相手
 を傷つけるとか、人のものを盗むとかの話ではないですよ。そんな人間として根本的な
 ことを言っているのではありません。
・日本では、「他人の迷惑にならない人間」と言う時、自分のやることが「迷惑」になる
 かどうか、常に考え続けることが求められます。伝統的な「世間」がまだ機能していた
 時は、なんとかなったでしょう。構成員が何を求めているか、何を嫌がってるのか分か
 っていたのですから。けれど、今は違います。ビジネスの例のように、自分のやりたい
 ことをやる時、他人のぶつからない人はいないのです。
・子供の頃から「他人に迷惑をかけない人間になれ」と言われ続けた人は、他人との接触
 を避けるようになります。何が「迷惑」か分からず、常に考え続けなければならず、自
 分が明確な欲望を持ってしまうと他人と対立することになり、それが「迷惑」と考えて
 しまうからです。他人に頼ることを避け、自分がはっきりとした欲望を持つことに戸惑
 い、人間関係から逃げ続けるのです。けれど、他人と交わらないで生きていける人なん
 かいないのです。問題は、相手がそれを「迷惑」と感じるかどうかなのです。求められ
 るのは、「相手を思いやる能力」ではなく、「相手とちゃんと交渉できる能力」なので
 す。
・嫌な会社を辞められない、うんざりする故郷を捨てられない、真綿で首をしめられるよ
 うな家庭を飛び出せない、大嫌いな学校を替われない。それらは、すべて、経済的な理
 由です。ならば、最小のエネルギーで嫌な「世間」の攻撃をかわしながら、残したエネ
 ルギーでお金を稼ぐか、それが不可能なら、精神的に密かに脱出するのです。インター
 ネットやさまざまな情報から、あなたが本当に楽しめて、わくわくするような「共同体」
 を見つけ出しましょう。
・不安ゆえに、ひとつの共同体にしがみつけば、それは「世間」となります。しがみつこ
 うとする自分を叱るのではなく、不安ゆえに、たったひとつの共同体=「世間」を必死
 で信じようと不毛な努力をするのでもなく、不安だからこそ、複数の共同体に所属して、
 自分の不安を軽くするのです。それは、相対化された「世間」と呼んでもいいし、「社
 会」とつながっている「世間」とも言えるのです。
・複数の共同体なら、自然とゆるやかな所属になるだろうと思います。たったひとつしか
 ないからこそ、気がつくと「差別的で排他的」な関係が生まれるのです。複数であれば、
 その共同体は、「所与性」のものでもなくなります。自分を支えるために、ゆるやかに
 所属する複数の共同体を選ぶのです。それが崩壊し、逆に力を増している「世間」の中
 で、窒息せず生き延びるコツだと僕は思うのです。
・もっとはっきり言えば、複数の「社会」でもいいとさえ思っています。もし、複数の共
 同体を見つけられなければ、たくさんの「社会」の人たちと会話するだけでも、ずいぶ
 ん人間は救われると思っているのです。
・何度挨拶しても、共同体のような関係が始まらなくても、そこに人間がいて、言葉を交
 わしている、ということだけで、人間は安心します。ゆるやかな共同体=「世間」より
 も、さらに薄い関係の「社会」の人の一言でも、孤独は薄らぐのです。そうやって「社
 会」とちゃんと会話を続けていくうちに、相対化された「世間」に変っていくかもしれ
 ません。ただし、それが、どんなに素敵な「共同体」に見ても、頼り切らないように。
・あなたが「孤独と不安」に揺れた時、支えてくれる人を二人持つことが大切なのです。
 たった一人しかいないと、相手が忙しかったり、落ち込んだ時に、自分の不安をぶつけ
 ていては関係は壊れてしまいます。けれど、もう一人いたら、二人との関係は長続きし
 ます。どちらにも過剰な負担をかけることを避けられるのです。
・「共同体」に対する接し方は、この人間関係と同じです。たった一つの「共同体」に対
 して頼っているだけだったり、支えを求めているだけだったら、いくらゆるやかに支え
 てもらおうと思っても、「共同体」の方からあなたを放り出すでしょう。複数の「共同
 体」とゆるやかな関係を作りながら、あなたもまた、その「共同体」の人たちを支える
 という気持ちを持つのです。  
・日本人の不幸は、アメリカのリベラル派の不幸よりもさらに先を進んでいます。福音派
 のように神を無条件に信じられないだけでなく、リベラル派のように理性的に神とは付
 き合えず、形而上学な救いそのものを疑うようになったのです。けれど、それは、やが
 て、リベラル派が通る道だと僕は思っています。実際、福音派が増える一方、欧米では
 日曜日に教会に行かない若者も増えてきました。神が支えになりきれないという自覚を
 持つ若者が増えてきているのです。