絢爛たる醜聞 岸信介伝  :工藤美代子

この本は、いから12年前2012年に刊行されたものだ。
内容は、「岸信介」の伝記であるが、題名の「絢爛たる醜聞」に興味を持ち読んでみた。
「醜聞」はいわば「スキャンダル」であるが、それに「絢爛たる」がついた場合、どうい
うことを意味するのか。
「昭和の妖怪」などと呼ばれる人物に、どんな「醜聞」が隠されているのか。
期待が高まるばかりであったが、読み終わってみると、いったい何が醜聞なのか、さっぱ
りわからなかった。
確かに、赤坂の芸妓と深い中にあったようだが、当時はそのようなことは普通にあった時
代であり、それが特に「醜聞」だとまでは言えないだろう。
また、満州で好き勝手なことをやっていたなどと言うようなことも言われるが、この本を
読む限りでは、官僚として持論の計画経済政策を押し進めただけで、特に悪事を働ていた
というようなこともなかったようだ。
さらには、戦時中に閣僚であったのに、上手く起訴されるのを逃れたとの批判もあるよう
だが、岸信介が起訴されずにすんだのは、「大本営政府連絡会議に出ていないでていなか
った」からだけだったようだ。
A級戦犯として起訴された人たちは、太平洋戦争開戦を決めたときの「大本営政府連絡会
」に出席していた人たちであったのだ。
なぜ、検察局は「大本営政府連絡会議」の後に開催された「御前会議」の出席を重要視し
なかったのか。その理由は、「御前会議の出席していた者」とした場合、そこには天皇も
含まれてしまうから都合が悪かったのであろうと推察される。

私がこの本を読んで不思議に思ったのは、なぜあの60年安保で、人々はあれだけ激しい
反対運動を繰り広げたのだろうということだ。
今から見ると、岸信介が成立させた新安保条約は、あれほど反対するような内容ではない
と思えるからだ。
あの新安保条約に比べたら、安倍晋三政権時の「集団的自衛権の行使容認」や岸田文雄
権時の「防衛費倍増」や「敵基地攻撃能力保有」のほうが、よほど強力に反対すべきこと
だったと言えるのではないのか。
そう考えると、岸信介が「昭和の妖怪」などと批判されるような人物ではなかったのでは
ないかと思えるのだ。


南平台の家(「60年安保」の渦中で)
・岸信介が、山口県吉敷郡山口町(現山口市)八軒家で誕生するのは明治29(1896)
 年11月のことである。
 山口で生まれたが、まもなく田布施という瀬戸内海寄りの移り、育つ。日清戦争に勝利
 した翌年のことである。
・昭和30(1955)年11月、民主党と自由党の統一が図られ、新たに自由民主党が
 誕生し、初代幹事長に岸が就任する。 
・翌31年暮れ、岸は「石橋湛山」内閣の外相に就任。その直後、石橋が病に倒れ、昭和
 32年2月には内閣総理大臣に就任する。
・岸が南平台に土地を求め、豪壮や屋敷を構えたのは昭和26年2月であった。
 土地は日本開発銀行初代総裁だった「小林中」から買い受けたといわれている。
 小林は東急の「五島昇」と懇意にしていて、渋谷一帯の東急の土地をかなり押さえてい
 た。 
・岸が育ったのは15歳までは佐藤家である。
 佐藤家の次男として生まれていたが、父・秀助の生家である岸本家の当主信政伯父の急
 死に伴って岸家の養子に入ることとなった。
 良子はその家のひとり娘だった。つまり従兄妹同士の結婚である。
・昭和35(1960)年5月後半から6月にかけて総評、社会党、共産党系のデモ隊が、
 連日のように南平台の岸邸にデモをかけていた。
 総評系よりはるかに過激な全学連のデモは、岸邸の門の中まで入り込む勢いだ。
 南平台一帯は押し寄せるデモ隊に完全に占拠された。
 当時5歳だった下の孫は、46年後の平成18(2006)年に、総理大臣に就任する
 「安倍晋三」である。
 その兄・寛信(現三菱商事執行役員)が7歳だった。
・ふたりの孫が表通りで響き渡るシュプレヒコールに合わせて「アンポ、ハンターイ」と
 はしゃぎながら座敷を駆け巡った、という逸話がこれまでもしばしば紹介されてきた。 
・「このデモ隊の人々のうちで、いったい何人が古い安保条約を読んだうえで反対してい
 るのかね」  
 と岸は嘆息まじりで呟いていたともいう。
・岸は首相を退いたあと、南平台からいったん渋谷区富ヶ谷に転居した。
 ほどなく終の棲家として御殿場に豪邸を構えたのは、昭和45(2970)年のことだ
 った。 
 気に入って建てた南平台の家を手放す気になったのは、隣にマンションが建つ計画が建
 ったからだという。
 その燐家とは、往年の歌う大女優「高峰三枝子」である。
・岸は高峰からそっくり屋敷を借り、長い間客間や事務所、つまり公邸として使っていた。
 高峰三枝子がここに大邸宅を建てたのも、岸と同じ昭和26年であった。
・人は岸を称して「妖怪」とも「巨魁」とも言う。
 さらには、ときに曖昧さも術数としたことから「両岸」とも言われ、「国粋主義者」と
 のレッテルも貼られた。
  
長州の血族(繁茂する佐藤家と岸家)
・首相になって安保条約を果たしたことの岸は、冷血な政治家のような言われ方をした。
 また機をみるに敏であり、カミソリのような秀才ではあるが権力主義者で、出世第一主
 義だけの男のようにマスコミからも見られていた。
・だが人間には裏と表があるように、岸にも両面がある。
 やり過ぎかと思われるいじめもしたが、それを取り返すような熱い情も持ち合わせてい
 た。 
・日清戦争勝利の翌年に生まれ、日露戦争勝利時には小学低学年だった、というめぐり合
 わせは岸を知る上で見逃せない。
 幼い自分から教師や両親、また親戚に人々から満州における逸話の数々を耳にする日々
 は、少なからぬ影響を将来に残した。
・旅順攻撃の乃木希典大将、参謀長として満州の野に策をめぐらした児玉源太郎、寺内正
 毅陸相の活躍などいずれも同郷の先達であってみれば感慨も一入であっただろう。 
・思えば日本の満鉄経営はこのときに始まり、昭和7年の満州建国へとつながる。
 信介が商工省の工務局長に昇進するのが昭和10(1935)年である。
 それ以降、彼は満州の経営に直接辣腕を振るうようになる。
・「陸軍の長州、海軍の薩摩」といわれて久しい土地柄から陸軍志望だったのだが、
 岸信介は海軍に興味を示したこともある。
 その信介が軍人志望を諦めるのは、体がやや虚弱だったことによる。
・信介が岸家に養子に出ることになったのは、15歳のときである。
 明治44年12月末、父・秀助の実兄である信政が肺炎のため61歳で亡くなった。
 そこで、岸本家の嗣子として信介が指名されたのだ。
・もとより父の実家には跡継ぎの男子がおらず、ひとり娘の良子にしかるべき婿養子を迎
 える算段はされていたはずである。  
 つまり、次男の信介が岸家に入る下話は両家の間では早くからの合意事項だったのだろ
 う。
 佐藤家の次男が岸家を継ぐのに、親戚の中にさしたる違和感がなかったのはわかる。
 だが、信介は年頃の中学三年生だった。
 両家の間でそうとは決まっていても、思春期の少年にとってみれば納得いかないのは当
 然だろう。
 要するに、いやいやの養子縁組だったといえる。
・これも、血族維持のための「政略」であり、「あてがい」だったことが信介にも次第に、
 おぼろげながらわかるようになる。
・岸家を継ぐ、という意味がやがてはその家のひとり娘の良子と結婚することなのだ、
 とは、当初は理解できない。 
・養子に入るのは嫌だったとしても、良子との縁組まで嫌だったのだろうか。
 親戚に人たちは、
 「信介さんは運のいい男じゃのう。だいたい小さい自分から良子さんのことを好いてお
 られたのが、ちょうどいい具合になったもんじゃからのう」
 と噂していたそうだ。
 改姓への抵抗感はあっただろうが、良子と将来を契ること自体はまんざらでもなかった
 のではあるまいか。
・岸家の住人は、千代から下働きをしてきた老人を除けば、70歳を過ぎた祖母と養母に
 あたるチヨと10歳になったばかりの良子という女所帯である。
 その中に少年がひとりという家族構成が誕生した。
 家は何百年も経った茅葺きの古めかしい大きな構えで、仏壇や神棚がきちんとしつらえ
 られた部屋の欄間に永い槍が何本か掛けてあったという。
・昔気質で生一本の見本のような良子が心不全で亡くなったのは昭和55(1980)年
 6月、79歳だった。
 したがって、心臓が「アンポ、ハンターイ」と言って南平台の家の中を走り回っていた
 自分にはまだ59歳である。
・戸籍上だけの嗣子となっていた信介が、一高生となって落ち着いた、あるいは男としてオ
 トナの仲間にいつの間にか入っていた。
 さらに言えば、こと性に関しては信介はやや早熟で、俗な言い方になるが良子は”幼な
 妻”であった。
 大正4(1915)9月の話だから、まだ信介18歳、良子14歳という若さである。
 信介と良子はそれぞれに学生生活を満喫しながら、夜はひとつの屋根の下で寝泊まりす
 るという奇妙な許婚生活が開始された。
 要するに、第一高等学校二年生にして良子との事実婚が始まった、と理解していい。
・信介たち二人が正式に結婚式を挙げたのは四年後、大正8年11月である。
 新郎は23歳、新婦18歳で、信介は東京帝国大学法科三年生在学中(旧帝大は三年制)、 
 良子は実践女子学校を卒業した年だった。
 
満州の天涯(縦横無尽、私服の「経済将校」)
・岸が官僚の道を選んだのはひとえに体があまり丈夫ではなかったからだと、本人が髄所
 で語っている。
 子供のときから身体堅牢だったら土地柄から間違いなく軍人の道を選んだだろう、とも。
・もうひとつの言い分からは「権力」の掌握にいくばくかの違和感を抱いていたようなニ
 ュアンスが目を引く。
 「産業経済の実態に関心を持っていたことは事実です。内務省というと、権力中心の警
 察行政ということになるのだが、そう言う権力だけの機構ではないというのが農商務省
 の特徴でした。
 それから農商務省は、大蔵省のようにただ税金をとって予算をつくるというものでもな
 い」
・要するに権力行使と税金徴収中心の官庁はどうも気が進まないので、労働問題への感心
 の方が心を動かした、と言っている。
 ごく若いころ権力の掌握に嫌悪感を持つのは理解できなくはないが、権力なしに政治が
 動くなどという感傷的な考えを岸が持っていたとも思えない。
・岸の本性のなかにはナマな権力を掌握したいという願望、あるいは臭いは、元来なかっ
 たのではないだろうか 
 あえて言えば、ナマなものよりは、知恵のある合理的な手段で政治を掌握しようと考え
 ていたのではないだろうか。
 後世の評者はとかく岸を、「タカ派的権力」を駆使した裏金操作の名人、というような
 ステレオタイプの尺度で測ろうとするが、どうもそう単純ではなかったようだ。
 むしろ、ひと筋縄ではいかないしたたかな”裏技”を持っていたと考えた方が理解しやす
 い。
・農商務省(大小14年、分割されて商工省と農林省に)から出た総理は歴史上、岸ひと
 りである。
 弟の「佐藤栄作」もまた鉄道省(にちの運輸省→国土交通省)に入省し、国鉄マンとし
 て現場を体験したのち首相に座に就く。
 鉄道、運輸からの総理も彼だけだ。佐藤も異色だった。
・どうも岸は自分の成績が優秀だったからこそ「二流官庁」を選んで、その頂点にいち早
 く駆け上がろうという戦略を立てたのではないだろうか。 
 大蔵省や内務省では同レベルの者が横並びになって覇を競い、時間がかかる。
 だが、農商務省なら競争に負けるとは思えなかった。
・一見すれば非権力の役所にみえる農商務行政だったが、皮肉なもので戦時経済を迎える
 とにわかに権力の中枢に接近するのである。
 入省間もない岸は逸材として評価され、ひときわ目立った存在として頭角を現わす。
 時代は大正後半、内外情勢は極めて不安定なときを迎えていた。
・岸は大正11年には山林局勤務を経て、大臣官房文書課勤務、大正12年には鉱山局、
 大正13年には水産局勤務と、省内の重要ポストを次々に経験する。
 そして昭和14年に商工次官に就任した。
 最後の3年間、すなわち昭和11年から時間就任の直前までは満州国実業部(まもなく
 産業部に改編)で過ごす。
・不思議なことだが佐藤、岸の家系図を見ると、なぜか長男は政治家になっていない。
 岸信介の長男も実業界に入り、次女・・洋子が嫁いだ「安倍晋太郎」が政界入りした。
 佐藤栄作の長男・龍太郎も実業家となり、次男・信二が政界へ進んだ。
 さらに、安倍晋太郎の長男・寛信も実業界へ進み、次男の晋三が政界入りし総理になる。
・キャリア組の中でも出世コースといわれる大臣官房文書課勤務の辞令を受けたのは、
 異例の速さといっていい。 
 その時の文書課長「吉野信次」である。
 岸はその吉野から信頼され、役人としての遊泳術など多くを吉野から学んだという。
 実は吉野は、民主主義を唱えて高名だった「吉野作造」の実弟だった。
・商工省に配属され、文書課でひときわ目立っていた岸が最初に出くわした大仕事は、
 昭和15(1926)年4月に出発したアメリカとヨーロッパへの視察旅行だった。
 初めての海外出張、しかも先進資本主義大国アメリカである。
 驚愕のほどは推して知るべしだった。
 彼がこのときに受けた彼我の差に対する認識はカルチャー・ショックにとどまらず、
 コンプレックスすら覚える強烈な衝撃だったようだ。
 もっともアメリカに対して愛憎相半ばする感情を抱くのは岸に限らず、多くの日本人に
 共通したものだったかもしれない 
 そして、そのショックを岸は、「一種の反感すら持った」と正直に漏らしている。
・アメリカで日米の経済格差に愕然とした岸は、これでは経済復興の参考にもならないと
 頭を抱えたままイギリス、ドイツなど欧州へ渡る。
 経済政策はまるで参考にならなかったが、アメリカでゴルフを覚え、道具も一式揃えた
 ことが唯一の収穫といえた。
・その後の岸のゴルフ歴は知る人ぞ知る腕前だが、政治家となってますます人間関係にゴ
 ルフが役立ったことを思えば訪米も大きな意味があったといえそうだ。
・ロンドンを経由してドイツを訪ねた岸は、そこで初めて日本と同じ悩みを持ちながらも
 経済発展に挑む姿を発見し膝を叩く。
 「ああ、日本の行く道はこれだ」
 と彼が感じ入ったドイツの経済政策は、日本と同じように資源がないのに発達した技術
 と経営理念によって経済復興を図ろうとするものだった。
 アメリカ式ではとても参考にはならないが、ドイツ式なら大いに役立つ、と岸が感心し
 たのは、ドイツのカルテル主導による産業合理化運動であった。
・ドイツの産業合理化運動というのは、国家が積極的に経済を介入する国家統制経済のこ
 とで、煎じ詰めて言えば市場経済を操作し、重要産業を国策の下に管理するやり方であ
 る。
・当然、自由経済をよしとする企業サイドからは強い反対運動も起きる。
 要は所管の役人がどれだけ強く指導力を発揮できるかにかかっていた。
 官僚主導に自信を持っていた岸は大臣に報告書を上げ、運動の理を説いた。
 ときの首相は「田中儀一」、商工大臣は「中橋徳五郎」だ。
・昭和6年4月には、「重要産業統制法」を立法化し、官吏の俸給を減俸する運動を推進、
 各種改革の先頭に立つ。吉野はこのとき次官に昇進している。
 一連の岸の活動は吉野とともに統制経済の道を拓き、整備拡充するものとなったが、世
 間はこうした官僚を「革新官僚」とか「新官僚」と呼ぶようになっていた。
・「革新」といえば戦後は左翼を意味しますが、当時の「革新」にイデオロギー色はない。
 敢えて言えば国家主義的な色彩が強かった。
・革新官僚が推す政策にいち早く期待し、歓迎したのは、意外かもしれないが軍部であっ
 た。
 それは満州事変を抜きには考えられない。
 満州事変直後の重大案件だった計画経済による満州経営という課題の中心に、岸信介そ
 のものが立たされる、という事態が待ち受けていた。
 事件自体と岸本人にはなんの関わりもないが、ここに端を発した満州国設立の舞台に立
 つ主役のひとりは、間違いなく岸信介その人だった。
・満州事変の騒ぎを横目で追いながら、ことあるごとに統制経済の重要性と市場経済の行
 き過ぎを批判していたのは岸だった。
 たとえば、
 「放漫なる自由主義経済というのはね、弱肉強食、つまり力で勝手にやれというシステ
 ムなんですよ。だから、そういうものではなく、経済に一種の計画性とか、おのずと越
 えてはならない制約というものを設けるという考え方が重要なんです。
 新国家の建設というのは、そうでなければできない」
 そして、
 「もしもドイツに行かずに何も知らないまま、日本経済を立て直すことになっていたら
 と思うと、ゾッとする。経済は怖いものだ」
 と語った。
・経済を自由な市場の流れに任せるのではなく、国家が介入して管理するのを統制経済と
 いう。 
 岸信介が唱えるこの統制経済には、見逃すことのできない極めて重要なポイントが、
 実はもうひとつあった。
 東京帝大での「森戸事件」の根っこに触れながら、次のような驚くべき持論を展開して
 いる点に注目しよう。
 「私には、私有財産を維持しようという考えはなかった。それだから、例の森戸辰男の
 論文に対しても、私は国体とか天皇制の維持は考えるけれども、私有財産制を現在のま
 ま認めなければならないとは思っていなかった。
 私有財産の問題と国泰維持の問題を分けて考えるというのは、その当時のわれわれの問
 題の基盤をなしていたんです。
 したがって、私有財産制の維持というものに対しては非常に強い疑問を持っていました」
・岸は戦後日本の政治史の中では、右翼的でタカ派の代表格のように言われてきた。
 だが、そういうレッテルには何の意味もない。
 そもそも統制経済は右翼にも左翼にもなるのだ。
 要は国家国民のためになるか否かが、岸の実利的な政治基準だった。
・破竹の勢いで重要ポストを登り詰めていた岸が次に座ったのは、最も華やかなポスト、
 工務局長の椅子だったが、ここである軋轢が岸を待っていた。
 「二・二六事件」が社会全体に衝撃を与えた直後である。
 襲撃された「岡田啓介」首相に代わって登場した「広田弘毅」内閣の商工大臣に、当初
 「川崎卓吉」が就任したものの、直後に病死。
 そこで急遽同じ民政党から「小川郷太郎」が引き継いだ。
 小川は着任前から支持者の意見もあって、商工省を抑えるには「吉野・岸ライン」を崩
 さなければ本当の政策は実施できない、との決意を固めて就任してきた。
・吉野はすでに次官在職5年だったので、国策会社の「東北振興社」社長という地味だが
 新しいポストの提示に抵抗はしなかった。
 残るは勢いのある岸である。
 小川は強い決意をもって膝詰め談判、岸に迫った。
 「軍部の強い要望もあるので、満州に行ってはくれまいか」
・岸にしてみれば順調な出世を歩んでいた役所を辞めて、関東軍が支配する満州へ行くの
 は、「都落ち」に思えたかもしれない。
 岸は小川に、
 「ご命令とあればお引き受けしましょう。お国のために行くのであれば朽ち果てても悔
 いはありません」  
 そう言って辞表を書き、工務局を後にした。
・岸自身が二・二六事件に関して所感を述べた形跡はないが、岸と陸軍の各派参謀たちの
 つき合いはことのほか密接だったことがわかっている。 
・岸の経済論に熱い視線を向けていたのは皇道派であろうと統制派であろうと変わりはな
 かったのだ。
 すでに満州で建国後の試行錯誤を繰り返していた関東軍はもとより、岸の国体と統制経
 済に関する知識は官・軍双方から注目を浴びていた。
・感情の奥で岸は、青年将校らの革新思想に共鳴していたフシがなかったとは言い切れな
 い。 
 だが、官僚の中央に昇った今は、逆賊となって銃殺刑に処せられた「北一輝」を尊敬し
 ているとは口が裂けても言えない。
・北一輝銃殺処刑の報せを岸はどのように聞いたか。
 言葉は残っていないが心中は複雑だったであろう。
 随所で「歴史的事実としてはその通りです。しかし私の国粋主義的な考え方は暴力と結
 びつくものではないんです」と繰り返しており、自分の中で理性的に処したことをうか
 がわせている。 
・岸はあくまでも冷徹な官僚で、なによりも合理的な行動を重んじる性格だった。
 だが、万が一青年将校たちの叛乱が成功していたら、岸の唱える統制経済論は彼らにと
 ってこそ必要欠くべからざる政策となったであろう。
 ところが、皇道派が一掃された陸軍中央からも、岸を必要とする声は高く上がった。
 要するに、統制経済は党派を越えてこの時代の寵児となっていたのである。
 中でも満州経営を任せられる官僚としてもっとも岸に注目をしていたのが、陸軍省軍務
 局軍務課にいた「片倉衷」だった。
・実は、片倉は青年将校たちが蹶起の朝、陸相官邸で読み上げた要望事項の中で「軍権を
 私した」と名指して「尊皇討奸」とされた当人でもかった。
 軍事課満州班長(少佐)だった片倉は、事件当日朝、雪が積もった陸相官邸の前庭で青
 年将校たちに向かって怒鳴った。
 「兵を動かすのは天皇陛下のご命令によってやらなければいかんぞ」
 その瞬間、いきなり磯部浅一に拳銃で撃たれ、重傷を負う。
・決断は昭和11(1936)年10月、満州国実業部総務司長という新たな椅子が用意
 された。  
 ときに岸、39歳である。
 これまで内地から遠隔操作で満州国誕生に携わってきたが、こうなったら直接乗り込ん
 で自分の手で満州を経営してやろうじゃないか。
 岸に新たな覚悟が生まれていた。
・良子は夫の単身赴任を嫌ったが、とはいっても子供を老母だけに預けて留守にするわけ
 にもいかない。
 表面的には単身赴任、ということで、良子は年に3,4回ほど新京(現長春)を訪ねよ
 うと決めた。 
・大連埠頭の大時計は、腕時計と同じ時刻を示している。
 満州建国以来、内地との統一標準時が使用されていたのだ。
 ここが満州国の入り口にあたる。
 大連は入り口ではあるが満州国ではなく、旅順と同じ中国からの租借地だった。
 大連の満鉄本社では、前年秋、満鉄総裁に就いていた「松岡洋右」が、甥の信介と久し
 ぶりに会えるのを待ってチア。   
・昭和8(1933)年9月、文書課の席に岸は後輩の「椎名悦三郎」を呼んだ。
 椎名はなにしろ初代満鉄総裁「後藤新平」の姉の婚家に養子入りしており、後藤新平と
 は義理の叔父・甥の関係にあった。
 岸が真っ先に目を付けただけの血縁を持った人物である。
 その椎名悦三郎は、生涯を岸の片腕として通した。
・発足間もない満州国の建設にもっとも影響力を行使していたのは関東軍である。
 関東軍について簡略に説明しておけば、関東軍はそもそも日露戦争後、租借した関東州
 (遼東半島)の守備と満鉄の付属地の警備を担当する陸軍守備隊が、大正8年に独立し
 て軍となったものである。
 当初、司令部は旅順に置かれていたが、満州国成立後は新京に設置され、次第に兵力は
 拡充された。 
・満州建国当時、昭和7年の司令官は「武藤信義」大将、参謀長は「小磯国昭」中将、
 その参謀恪として「岡村寧次」や、「石原莞爾」が赴任していた。
・岸は約三年の満州駐在の間に懸案の産業開発五カ年計画を軌道に乗せ、満州での重工業
 発展の道筋を作った。
 講演会などでの発言は、誇大ではなく実現されていったのである。
 岸にとって幸運だったのは、昭和12年7月に勃発した盧溝橋事件と、その後の戦線拡
 大によって重工業が特需に見舞われ、予想外に拡大戦費が膨大に膨らんだことだ。
・アヘンのカネが岸から東条に流れ、東条が豪邸を建てた、といったような噂は幾度も流
 されたが、どうも根拠が薄い。
 東条という人は、他人のカネ遣いにも神経質だったが、自らも質素堅実を旨としていた。
 岸もナマのカネを動かす男ではない。
・権力と「濾過されたカネ」を手中に収めていた岸は、血気盛んな少壮将校を連れて夜の
 宴席にも繰り出し、周到な気配りを見せた。
 岩見隆夫(元毎日新聞記者)は当時の「報知新聞」新京支局長で戦後も岸と近かった
 小坂正則の言葉として、次のような証言を紹介している。
 「酒と女は凄かったな。満州時代の岸さんは自分の家でメシを食ったことがなかったの
 ではないかと思う。毎夜毎夜、芸者をあげて飲んでいた。軍人たちともよく飲むことが
 あったが、岸さんはおめず臆せずやるんだな。飲み方も非常にうまくて、関東軍との関
 係は、こうした軍人との酒の交わりでも、随分自信をつけたのではないかと思う」
・アヘンのカネが里見を介して関東軍へ流れていたと証言した「古海忠之」が、今度は
 岸と女の流れについて裏話を語る。
 「岸さんは満鉄時代から酒を飲むのは好きな人だった。心境で彼がよく出入りしていた
 は『八千代』という店だった。『桃園』とか『曙』という店もあったが、ほとんど『八
 千代』だった。女遊びもよくやっていたが、新京でやるのはまずいということで、私を
 連れて列車に乗ってはるばる大連に出かけていった。日帰りは無理だから、日曜日とか
 祭日によく行ったな」
・五カ年計画はまぎれもなくソ連の第一次、第二次に及ぶ五カ年計画に強い影響を受けた
 ものだ。  
 当時の陸軍が仮想敵国をまだソ連に据えていた時期で、その経済計画がそっくり社会主
 義敵であったことは、昭和の歴史を考える上で機分けて重要なポイントといえそうだ。
 時代の仮想敵はソ連から、やがて英米に向かうのだが、岸が主唱した計画経済が国家の
 基本理念でなければアジア・太平洋戦争は戦えなかった。
・満州での業績をひっさげて、岸が東京へ戻るのは、昭和14年10月である。
 帰国の途に就いた岸はもはや満州に着任した時の岸ではなかった。
 赴任時は商工省随一の逸材ではあったが、一介の官僚だった。
 しかし、帰国する岸は、一商工省を離れた日本を代表する気鋭の政治家に変貌していた。
 再業界だけでなく、満州に来たために広く各方面の人材と交誼を結んだが、とりわけ見
 逃せないのは異分子との交流だった。
 ときに危険視されるアヘン密売者とのつき合いや満州浪人風情との飲食も気にしない剛
 胆なところが岸には備わっていた。
 彼らにもタフに接し、しかも証拠を残さない。
 政治家としての条件が満州で完成していたともいえるし、言い換えれば、すでに官僚の
 領域を外れていた。 

東条英機との相剋(悪運は強いほどいい)
・岸は傍目にも極めて政治的な官僚であったが、満州での人間関係から見れば、事務的な
 官僚といっても過言ではない。
 万事、経済と軍事を目の両端に置きながら仕事を進めてきたからだ。
 逆に、東条などは官僚的軍印として能吏だった、といえようか。
 几帳面さでは人後に落ちない。
・その岸に目を付けたのが「矢次一夫」だった。
 軍部と岸の接着剤がこれで一層強力になった。
・昨年秋に三国同盟が締結されたあと、叔父の松岡外相はモスクワに寄ってスターリンと
 肩を抱き合って意気投合してきたと、自慢げに話していたものだ。
 その結果、日ソ中立条約が調印されたのはついこの4月のことだ。
 「うまくすれば、三国同盟は四国同盟になって、アメリカが参戦することはありえなく
 なるさ」  
・だが、叔父が帰国したときに、日米交渉はすでに困難を極めていた。
 野村吉三郎海軍大将が大使として赴任、ハル国務長官と昨年来の懸案だった「日米諒解
 案」を検討していたが、一進一退、目新しい進捗は見られない。
 松岡外相は交渉内容自体に強硬な反対意見を吐いていた。
・そんな折から、一度は独ソ不可侵条約を結び手を握ったはずのドイツとソ連の間で戦争
 が始まってしまった。 
 ヒトラーによる奇襲攻撃である。
・加えて7月には南部仏印(現ベトナム)への進駐が決定され、米国は鉄くずの禁輸に加
 え、石油の全面禁輸に踏み切った。
 松岡外相の当初の見込みとはまったく反対の方向に事態は動いていた。
・だが、松岡は動じなかった。
 「おい、信介な、オレは大本営政府連絡会議で言ったのだが、今こそ南方にいる兵を反
 転させて、断乎ソ連を攻撃すべきだとな。お前はどう思うか知らないが、ことここに至
 って南進論は国を滅ぼす、北進してソ連をドイツと挟撃すればいいのだ」
・ちょっと前に中立条約を結んできて、胸を張っていた叔父が、いきなりソ連を討てと言
 い出したのだからさぞかし閣僚たちも驚いたことだろうと岸は思ってみた。
 南進論を譲るはずのない東条陸相などは、松岡の頭が狂ったのではないかと言ったと、
 岸の耳にまで入っていた。  
・だが、叔父は最後になって、素晴らしい発案をしたのかもしれない、と岸も気にはなっ
 ていた。
 もしあのときに、松岡の言うように反転ソ連を討てば日独でソ連を倒せた可能性は高か
 った。
 少なくとも表向きには反共を掲げているアメリカは戦争目的を失ったのではなかったか、
 と。
・もう遅いが、アメリカの条件だった「太平洋の平和の保証」と「仏印進駐の撤退」を呑
 んで満州国境へすべての軍を移せばよかったのだ。
 「支那大陸からの撤兵」だって、ソ連と戦争となれば南支那なんかにはいられないから、
 問題は解決する」
・東条の面子も十分立てたうえで、こんな名案はなかったように思えるが、「歴史には、
 もしもはないからな。
 松岡の叔父の提案は国難を救ったかもしれないがあの性格だからなあ、長州人の地だ」
 とつぶやくように言って額の汗を拭いた。
・甥の岸から見れば、松岡にも、一分の理はあったと言いたかった。
 「あの性格」、実際、妥協のない松岡のソ連挟殺案は周囲からは奇矯扱いされた。
 独ソ開戦直後、松岡は天皇にいきなり単独拝謁し、「いまこそ日本はドイツと協力して
 ソ連を討つべしです」と奏上したのである。
・天皇は大いに驚き、「松岡のやり方では果たして統帥部と政府と一致するかどうか。
 国力から考えて果たして妥当であるかどうか」と憂慮した。
・松岡の弱点は、あくまでもドイツの一方的勝利を前提にし過ぎていたことと、人の意見
 を聞かないで喋りまくるというややエキセントリックな性癖にあった。
 近衛やもとより、東条すらも松岡には頭を悩ませ、最後には松岡を切るために総辞職を
 敢行する。
・近衛が退陣したあとをどうすればいいのか。
 なかには東久邇稔彦王などの皇族内閣をいただかなければ国難打開は無理ではないか、
 との声まで上がった。
 御前会議の内容を熟知していて、なおかつ陸軍からの反発を抑えられる人物。
 木戸はその条件にかなうのは東条ひとりしかいないという腹づもりでいた。
・重臣会議が開かれ、岡田啓介と若槻礼次郎だけが東条に反対し、進行役の木戸内府の東
 条推挙を軸に、もめるまでもなく決まった。木戸の役割は小さくはなかった。
 東条本人はだいぶ驚いた様子だったというが、陸軍省は意気盛んだった。
 そこでいよいよ組閣開始となった。
・自宅にいた岸のところに東条から電話がかかってきた。
 「岸君に商工大臣になってもらいたい」
 「日米関係が困難になっているし、商工省は軍需産業に関係しているので、できるだけ
 戦争を回避するとか、そのご方針を聞かないとお引き受けできない」
 「君の心配については最後まで戦争をしないつもりで日米関係を調整するつもりだ」
 官邸の組閣本部との電話のやりとりはそんな具合だったと、岸は語っている。
・東条が内閣総理大臣と陸軍大臣、内務大臣を兼任するという権力集中型の内閣となった。
 岸は初入閣で、しかも最年少の閣僚だった。
 岸が大臣になってまず手始めにやったことは、省内人事の若返りだった。
 なにしろ岸はまだ45歳、たいがいの局長よりは若い。
 そこで局長以上を集めて、開口一番、岸は言い放った。
 「今は非常時である。自分は死を決して大臣を引き受けた。私の先輩もあるいは同僚の
 人も私のそういう面を助けてやろうという気持ちはあるだろうけれど、私の方から言え
 ば、どうしても先輩や同僚には遠慮が出てしまう。だから、そういう人には全部やめて
 もらって、後輩だけで遠慮なく命令できる体制を作りたい」
・後日、岸が語った真の理由とは、先輩を排除するのは二の次の目的で、何としても実現
 したかったのは子飼いの椎名悦三郎を次官に抜擢したかったからだという。
 椎名を次官にして、思う存分仕事をやらせるには大胆な入れ替えしかなかったのだ。
 椎名以外には、主要ポストを岸人脈で押さえてしまう。
 世にいう「革新官僚」の勢揃いだった。
 こういう時の岸の決断と実行力は、あたかも悍馬をみるような気性だった。
・後年、弟の佐藤栄作が「人事の佐藤」と呼ばれるようになるが、それは人心の掌握術に
 長け、政権の求心力を維持し続ける術を評されたもので、兄とは違う。
 それから見ると、岸の人事はときに牛刀で鶏を切るように非情かつ遠慮会釈もないよう
 に見える。冷淡といってもいい。
・岸がやらねばならないことは、産業経済のあらゆる分野で総力戦態勢の確立と強化であ
 った。 
 たとえば「重要物資管理営団法」によって物資の貯蔵、配給、管理の統制が行われた。
 さらに「重要産業団体令」という法案の成立し、各種の統制会を組織化する国民運動が
 発揚されていた。
 これらを統括するのは岸の責任であり、軍部による軍事作戦と並行した戦略として位置
 づけられていた。
・こうした一連の統制経済は、大東亜共栄圏内での自給自足を促し、圏内相互の経済的な
 結合体を組織して持久戦に備える態勢作りでもあった。
 岸が構築した経済産業の統制化運動は、いわば、岸自身が軍服を着ないまま軍事物資の
 補給、動員などの軍事分野に手を突っ込んだようなものだった。 
・このころから東条と「武藤章」との間にすきま風が吹き始めた。
 武藤が三国同盟に消極的だった件や、日米開戦にも東条ほどの主戦論者ではなかったこ
 となどはふたりの関係を悪化させたであろう。
 かつては東条陸相の最大の理解者で補佐役だった武藤軍務局長が、東条内閣成立以降、
 微妙に感情のズレが表面化するようになったままスタートした、というのが実情だった。
 
・連合艦隊司令部が置かれていたトラック島陥落を聞いた東条は、これまでの首相、陸相、
 軍需相に加えて、ついに参謀総長の兼任を決意する。
 つまり、統帥権を一元化するというのである。
・東条の上奏を聞いた天皇は「それでは憲法に触れはしまいか」と驚愕、「統帥権の確立
 に影響はないか」とのご下問があったものの、「思し召しは十分考慮し、軍政と軍令、
 すなわち統帥は区別して取り扱うので弊害はありません」と奉答して退下した。
 要するに、東条というひとりの人格が、ときに陸相として、ときに参謀総長として執務
 を区別するから安心して欲しい、というわけである。
・一極集中が極まった状況に、宮中、重臣、現役政治家の中にも不安が広がったが、不安
 の炎に油をそそいだのは、軍需産業の生産力不足だった。
 軍需省でいくら計画を立てても生産は思いどおりにはかどらない。
 参謀総長まで兼務した東条はますます岸と顔を合わせる機会が減り、逆に思いどおりに
 上がらない生産力に苛立ちを見せるようになった。
・石炭が思うように採掘されない、製鉄の量が不足して造船に支障をきたす、といった事
 態が起きるのは必然的なものと思われたが、あせる東条はむやみに人事を操り、軍需省
 内を混乱させてしまう。
・岸は東条が勝手に動かす軍需省人事に辟易とし始め、こんなやりとりまでが東条・岸間
 で交わされたと、まず岸は言う。
 「ひとつの役所に大臣の資格者が二人も三人もおたんじゃ、とてもやってゆけない。
 私は辞めさせていただきますよ」
 すると、東条はイライラして言い返す。
 「あなたは開戦の際に陛下の前で、将来の軍需生産に対しては全力を挙げてご奉公する
 と申し上げたじゃないか。それを途中で逃げ出すとはけしからん」
・東条は岸の挑戦的な言辞をはねのけ、辞職を認めなかった。
 だが、それから何ヵ月も経たないうちに、東条の方から岸に辞職を迫る、という矛盾し
 た事態が出来する。 
 東条と岸の意見衝突は、ついに東条内閣の崩壊にまで突き進むのだが、その重大なポイ
 ントはサイパン島の攻防にかかっていた。
・その
・サイパン戦については、簡単に敬意を述べておかなければならない。
 6月15日、米軍が総力を結集したサイパン上陸作戦が開始された。
 まず、早朝から8千人の海兵隊が上陸用装軌道車で上陸を敢行、日没までには2万人以
 上の上陸が完了し橋頭堡を築いた。
・その一方で19、20日にはマリアナ沖に米海軍の対部分が結集し、日本海軍は生き残
 りを賭けて決死の開戦を挑んでいた。
 このマリアナ沖海戦は、日本海軍が総力を挙げて米軍の攻撃を迎撃する最後の試みだっ
 たが、日本海軍機動部隊は解決的な敗北を喫したのである。
 これにより、西部太平洋における絶対国防圏の制海権と制空権は完全に米軍の手に落ち
 て孤立無援の戦いを強いられ、玉砕の選択以外なかったのである。 
・そもそも防備は、米軍のマリアナ進攻が差し迫ったとわかった昭和19年初頭になって
 ようやくサイパンの防衛強化が図られた。
・すべては戦後になってわかることだが、それだけ海老軍夫マリアナ、サイパン攻撃は日
 本側の予測をはるかに上回った戦略的奇襲攻撃だった。 
・開戦当初から、米軍の主力部隊はサイパンの西海岸に兵員の損傷を最小限に抑えたまま
 上陸を完了させた。 
 海岸線でこれを阻止しようと水際作戦を展開した日本軍は、著しく消耗を強いられた。
 見晴らしの良い海岸線での白兵戦は容赦ない空と海からの砲撃にさらされた。
・やや予断を加えれば、この教訓は硫黄島の守備隊長となった「栗林忠道」中将によって
 生かされることになる。 
 栗林は水際陣地の構築には強硬に反対し、堅牢な地下壕陣地の構築を急がせた。
 その結果、持久戦とゲリラ戦の展開によって長期抵抗作戦が成功、結果として長期にわ
 たって米軍を釘付けにすることができた。
・サイパンが早くから持久戦に備えた硫黄島方式をとっていれば、戦局自体も膠着した可
 能性が後に指摘されている。 
 援軍を送ることが不可能と予測できなかった以上、早くから堅牢な珊瑚礁を利用した地
 下壕を掘れば、艦砲射撃にも堪えられ、結果、米軍の北上を遅らせられたのではないか、
 というものだ。
・岸は東条に早くからそうしたプランを進言したが、「統帥のことは文官にはわからない」
 と拒絶されていた。
・ただ、東条側にも多少の理由がないわけではない。
 当時のわが国の戦力、補給力から考えて、もはやサイパンへそれだけの工兵や資材輸送
 などは考えられず、また、仮に持久戦を仕掛けても米軍得意の飛び石作戦をされて、
 さっと引き上げられたのでは無意味である。
 一連のマリアナ沖海戦とサイパン戦の指揮権は、組織上は海軍の連合艦隊司令部にあっ
 たとはいうものの、大本営の責任者、東条陸相兼参謀総長は結局、持久戦を選ばなかっ
 た。
・6月24日には、マリアナ沖海戦の敗北もあり、大本営はサイパンの放棄を決定する。
 軍部中枢にはサイパン救援、奪回を求める意見もあったが、サイパンまでの行動能力を
 要する航空機も艦船ももはや皆無に近かったため、救援派遣は不能とされた。
・それでもの持った日本兵は徹底抗戦を続け、米軍側の損傷は多大なものとなった。
 最後に追い詰められた日本人居住民は、内地の最も近い島の最北端の岬(バンザイクリ
 フ)から絶海への投身、あるいはスーサイドクリフでの自決という壮絶な最期を迎えた
 のである。
・7月6日、陸海の司令官「斎藤義次」中将、「南雲忠一」中将、「高木武雄」中将が相
 次いで自決。
 翌7日、残った3千名残存部隊は米軍に総攻撃を敢行、陸海軍によるバンザイ突撃をも
 って日本軍は壊滅した。実に3万人に及ぶ将兵の玉砕であった。
・伸びた芝を刈りながら、岸は怒っていた。
 ハサミを動かしながら、しかし、心はこの三年間の思い出に引きずられている。
 戦争開始はまあ、やむにやまれぬものだった。
 東条さんだって、いくら陸軍とはいえ好き好んで対米戦争をがむしゃらにやるほど馬鹿
 じゃない。 
 あのままでは、石油も鉄屑もやられてジリ貧になってしまうから、もはや自衛の戦争だ
 った。それはいい。
 だけど、インパールまで攻めていく必要なんかなかったんだ。
 シンガポール陥落あたりで、ナンなだあ、停戦の働きがなぜできなかったのかな。
 国務大臣だから開戦の詔書に副書はしているから、責任はある。
 これでもし日本が負けるようなことになれば、国民への敗戦の責任は自分にも当然ある。
 だが、開戦自体は日本人が生き残るためにやむを得むものだった。
 本当に戦争に勝つ、というのなら真珠湾あたりで止めるんじゃなくて、アメリカ西海岸
 に上陸し、それからワシントンのホワイトハウスに日の丸を翩翻と翻さなえれば勝った
 とは言えまい。
 いったい、内閣と軍部のうちで誰が本気でそんなことを考えていたというんだ。
・岸が本当に怒っていたのは、サイパン陥落そのことではなかった。
 サイパンがいよいよ打つ手なしとなってから、東条首相が最後の手段として内閣改造で
 立ち直りを図ろうとした動きに、岸は怒りを露わにした。
・サイパン戦の結末が見えたとき、東条は内閣改造をもってこの危機を収拾しようと図っ
 た。  
 高松宮や近衛文麿、吉田茂といった従来から活発に動いていた反東条グループは言うに
 及ばず、木戸内大臣自身も、ここに至って退陣を進言したが、納得させられなかった。
 天皇の心情を間接的に伝えたかった木戸の意見を、東条自身はそれが自分への不信任と
 はとらず、ひたすら「ご奉公する」改造案で逃げ切ろうと図った。
・ここに至って、ついに登場は岸に辞職を迫ったのである。
 岸辞任の使者に立ったのは、内閣書記官長「星野直樹」だった。
 岸は星野の辞任要求を突っぱね、東条との「抱き合い心中」を秘かに図っていた。
 ここが岸の持ち前である「上にはめっぽう強い」本領の発揮だった。
・当時の内閣制では、首相に閣僚を罷免する権限はなく、辞表が出されなければ内閣府一
 致で総辞職ということになる。 
 「閣内不一致」、その一本で東条の首を取った岸には、やはり軍師「竹中半兵衛」の智
 謀と読経があったと見るべきだろう。
・だが、18日朝、参内する東条はまだ一縷の望みを託していた。
 天皇に辞意を奏上しよう、そうすれば御上は慰留の御言葉を下されるやもしれないと。
 いつものように直立不動の姿勢で拝謁した東条は、総辞職を奏上したが、天皇はこれに
 は特に言葉を挟まず、「そうか」と短く答えるにとどまったという。
 東条の望みは絶たれ、ここに内閣総辞職が決まった。
・案じていたとおり、日本本土はサイパン、テニヤンから飛来するB29の無差別爆撃に
 昼夜さらされる羽目になった。
 岸がもっとも恐れていた事態が出来した。
・3月の空襲で危険を感じた洋子、祖母・チヨ、母・良子の三人がまず山口県の田布施に
 疎開することになった。
 浪人になった岸自身は二週間ほど遅れて田布施に引き揚げたが、重なった疲労からか、
 重い座骨神経痛に悩まされるようになり、神経痛の湯治場として知られる俵山温泉(現
 山口県長門市)に滞在した。
・代議士を辞職して浪人中の岸は、新しく結成された「護国同志会」に参加し実質的な指
 導者として動くなど、積極的な政治活動を開始した。
 岸本人は護国同志会の表には出ないもののいわば黒幕で、次代の岸新党を皆で支える組
 織だったが、後年、本当に岸内閣ができたときには、彼ら全員が何らかの形で参加して
 いる。 
・そこへ加えて、山口では「防長尊攘同志会」という団体が結成されていた。
 この組織に加わり、積極的に活動していたのが「安倍寛」だった。
  安倍はすでに衆議院議員として国政でも活躍していた。
・安倍寛の長男が晋太郎で、のちに岸は長女・洋子を嫁がせ岸家−安倍家の血族が生まれ
 る。
・岸は故郷田布施で、半ば野心を抱き、半ば蟄居の構えのまま床にふせって玉音放送を聞
 いていた。 
 元来病弱だった岸は、座骨神経痛がよくなったと思ったら、8月には猩紅熱に罹ったま
 まラジオに耳を傾けた。
 
巣鴨拘置所での覚悟(「踊る宗教」北村サヨの予言)
・鈴木貫太郎内閣の陸相だった阿南惟幾(陸軍大将)が15日未明に自決。
 特攻生みの親ともいわれた大西滝次郎(海軍中将)が16日、自決。
 そうした報せは岸のもとにすぐに届き、知るところとなった。
 しばらく悶々としたものの、自分は生き残って、必ず行われるだろう軍事裁判に出廷し、
 戦争に踏み切らざるを得なかった理由を明白にしなければならない、と決意を固めてい
 た。
・岸は自分の逮捕状発令を12日の昼のラジオで知った、という。
 そうか、それじゃ行くか、と起き上がったとたん、ラジオは続けて東条英機が自決した
 という。
 もちろん、東条の生死はこの段階では誰にも不明なわけだが、岸の衝撃は小さくなかっ
 た。
・その後、「小泉親彦」厚生大臣、「橋田邦彦」文部大臣の自決も伝わっている。
 いずれも開戦時の東条内閣の閣僚ではあったが、直接大きな責任があるとは思えない厚
 生、文部両大臣の自決には岸もさすがに神経に答え、弱った。
 弱ったがアメリカ側が聞くか聞かないかは別として、どうしても開戦の事情だけははっ
 きりさせておかねばならん、という初期の決意に変わりはない。
・開戦に日本側の責任はない。あるとすれば、敗戦したための国民への責任だけだ、とい
 う一点だけが痛恨事として、岸の胸に突き刺さっていた。
 日本の正当防衛をあくまで立証したいというのが、岸の覚悟だった。
・13日、山口県の特高警察が、出頭するようにと自宅へ来た。
 東条が自決に失敗して、大森の旧陸軍捕虜収容所に入れられたことも知った。
・岸はそれでも気を取り直して、「それではがんばっていってまいります」と言って水盃
 を交わそうとした、その瞬間の出来事だった。  
 黒い上着にもんぺ姿の百姓身なりの女が生け垣をくぐり抜けて縁先まで入って来た。
 そして女は、いきなり杖の先で盃を突き飛ばすと、こう大声で呼ばわったのである。
 「お前ら、何をしおれているのか。岸は三年ぐらいしたら必ず帰ってくる。日本を再建
 するのに絶対必要な男だから、神様は殺しはしない」
・無我の境地に達したような口調でそう唱える女の脇には、数陣の女性信者が手足を重い
 思いのままに動かして踊っていた。 
・神のお告げだと口承する女は、名を「北村サヨ」という。 
 同じ田布施の、それも岸の家からほど近いところに住む百姓の女房である。
 サヨをじっと見入っていた岸は、その一団を追い払うわけでもなく、落ち着いて聞き終
 わると、一礼して憲兵とともに田布施駅に向かった。
・岸が驚かなかったのにはそれなりのわけがあった。
 玉音放送のおよそ1ヵ月ほど前のことである。
 猩紅熱で寝込んでいた岸の玄関先に北村サヨの代理だという信者がやって来て、こう告
 げた。  
 「岸先生、大神様がおっしゃることをお伝えします。
 『お前らウジ虫どもよ、ラジオをよく直しておけ。8月15日にはお前ら虫けらどこが
 聞いたこともないような放送がありからな』とのことです」
 サヨの予言はぴたりと当たり、近隣の噂は噂を呼んでいた。
・「ウジ虫」呼ばわりをされはしたが、サヨが言うとおり岸の巣鴨収監は3年で終わった
 うえ「日本を再建するのに絶対必要な男」となったことも間違いなかった。
・北村サヨという女は、いったいどういう素性で、その後どのような予言布教活動をした
 のか、興味は尽きない。
 一般的に北村サヨは「踊る宗教」と戦後呼ばれるようになったが、正式には「天照皇大
 神宮教」教祖北村サヨという。
・岸が巣鴨へ入っている間、サヨは岸の実家のよく野菜などを届けていたという。
 洋子は、「岸は将来、日本の役に立つ大切な人だから、絶対にアメリカなんぞに渡して
 はならん。オレが隠してやると言って父の留守中は無事を祈ってくれたり、野菜を届け
 てくれたり、いろいろ尽くしてもらったようです」と語っている。
 サヨの側近だった崎山了知を取材した「上之郷利昭」によれば、岸が総理大臣になっと
 き、真っ先に首相官邸に乗り込んでいったサヨは岸を大いに励ました、という。
・岸も、選挙区での票まとめが胸中にはいではないから、信者にはならなかったものの、
 サヨには常に一目置いていた。 
 総理をつかまえて「オイ、岸! どうじゃ」で通していたサヨには頭が上がらなかった
 だけではなく、何か感じるところがあったんではないだろうか。
・サヨは昭和43年12月、すべての体力を使い果たしたかのように68年の生涯を閉じ、
 いよいよ神のもとに帰った。
 岸は葬儀にも出席し、ねんごろに弔っている。
・収容された政治家・軍人で最高齢は「平沼騏一郎」の78歳、最年少は軍人では「佐藤
 賢了
」が50歳、政治家では岸が49歳であった。
 またそのほかでは「児玉誉士夫」が最年少で34歳、「笹川良一」も次に若く46歳だ
 った。  
・年が明けてから次々とA級戦犯容疑者への尋問が開始された。
 とりわけ「木戸幸一」は、天皇をめぐるさまざまな問題、御前会議の内容、東条を推し
 た理由など、検察側にとっては極めて魅力的な話題の提供者となっていた。
 満州事変の勃発についても、木戸は「事変の拡大を画策したのは、関東軍の参謀将校た
 ちでした」と答え、具体的には「石原という名の参謀が非常に強硬な態度でした」と裏
 付けのない指摘をしたり、「大川周明」の名を挙げ、政府の不拡大方針に反対した民間
 右翼人であると答えている。
・木戸の証言はほかの被告、とりわけ旧軍人たちのはらわたを煮え返らせるに十分だった。
 加えて、検察側証人として証人席に立った「田中隆吉」は、威風堂々と現れ、昔の仲間
 を死刑台に送るような証言を次々と繰り返し、東条以下、被告たちを唖然呆然とさせた。
・少なくとも木戸は田中とは違い、地震の生命がかかった被告である。
 当然、自分の命をどう守るかを熟慮したうえで、かつ、天皇をどう守り抜くかという立
 場で責任の矛先を決めたフシがある。 
 軍人以外の文官の役割として、松岡の責任を必要以上に大きく説明したのもそのひとつ
 と言えよう。
・だが、岸に関してはその逆だった。
 木戸は「岸は非常に優秀な官僚のひとりだ」とし、サケット検事の「岸は保守的なグル
 ープに分類可能か」という誘導的な質問にも、「彼は政府の役人としては大変進歩的で
 あった。岸と東条は古い友人ではなく、満州で役人をしていたので、東条と知り合うよ
 うになった」と説明している。
 サケット検事の「岸は膨張主義者ではないか」との問いにも、木戸は「南方資源の獲得
 に関して、岸は武力によらずに目的を達するべきだという立場だった」と岸を擁護して
 いる。
 こうした調査で、岸はきど尋問などを通じて多少とも有利な立場に置かれていたと見て
 いいだろう。 
・さらに、サイパン陥落後の東条内閣打倒工作では、東条を追い込んだ岸と、生みの親な
 がらついに見放した木戸の立場は一致し、側面から「終戦を早めた」同志として検察の
 前で振る舞うことができたのである。
 それもこれも、内大臣への忠誠を貫いていた岸を木戸が評価したためと思わる。
・岸が検事に呼ばれたのは、ようやく3月7日になってからだった。
 岸は昭和21(1946)年3月7日、14日、20日になって急に呼ばれてはいるが、
 内容的にはさして重要なものはない。
 呼ばれたのが3年間でこの3回だけというのも、考えてみればおかしなことである。
・満州事変の軍事的プロデューサー「石原莞爾」は起訴もされず、「なんで俺を起訴しな
 いんだ?」とアメリカ側検事を嘲ったという。
 岸は満州の経済建設の大立役者。岸を起訴するなら、石原が起訴されて当然だった。
 だが、このふたりは立場こそ違え、ともに東条に反旗を翻している。
 検察が意図するように東条との共同謀議を成立させるには、無理が多すぎたのかもしれ
 ない。 
・同じ東条内閣のうち、文官の賀屋、重光、そして新任官ではない星野までが起訴され、
 岸田だけはぜ外れたのか。
・そのころ、松岡洋右は終戦前から患っていた肺結核が悪化し、衰弱が激しくなった。
 丸刈りにした頭から顔は青黒くむくんで見え、両眼はくぼみ、竹の杖で辛うじて身を支
 えて法廷に立つのがやっとだった。 
 その後、東大病院にいったん収容されたが、6月27日、66歳で死去した。
・恒例の戦犯容疑者の多くは体力が弱り、若くても精神的に参っていたものが多い中で、
 ひときわ気力充実して気を吐いていたのは「笹川長一」だった。
 笹川の観察眼はなかなか興味深く鋭い。さまざまな人物のごくちゅう生活を活写してい
 る。 
・笹川の観察では、概して軍人のほうが弱かったと述べているが、確かに悲壮感が漂って
 いるのは軍人たちだった
 かつてはサーベルをガチャつかせ、肩の星の数を誇っていた彼らとて、今では責任感の
 重圧と周囲からの冷たい視線に耐えなければならなかった。
・起訴する際のひとつのポイントとして、開戦直前に開かれた大本営政府連絡会議に出席
 していたかどうかがあったのだと、岸は矢次に語っている。
 実際、昭和16年11月29日のいわば再保の連絡会議に、岸はたまたま出席していな
 かった。 
 商工、農林、逓信など各省については鈴木貞一企画院総裁が一手に資料をもって出席し
 たので、岸商工相、井野農林相、寺島逓信相などは出席していなかった、というのだ。
 それで起訴をまぬがれたのではないか、と。
・逆に、星野書記官長や東郷外相などは出席確認がなだれたので起訴となった、というわ
 けである。 
 だが、その直後に開かれた御前会議で、花押を推した件に関して、国際検察局はなぜ関
 心を示さなかったのだろうか。
・11月29日に大本営政府連絡会議は、12月1日に予定されている戦争決定の御前会
 議の最終連絡会議だが、岸は出席の必要はなかった。
・12月1日、第八回御前会議が宮中で開かれ、全閣僚が出席した。
 御前会議の冒頭、「対米英蘭開戦の件」が発議され、これを受けて東条首相が原案に異
 議なしと認めると発言した。
 そこで天皇が入御され、総理がいま決定した議案を奏請、次いで、全閣僚が書類に花押
 してすべての手続きが完了したのだった。
 12月1日の御前会議を「開戦決定」とするならば、そのひと月前の11月5日には
 「開戦決意」を決めた御前会議が開かれ、岸はそこにも出席していた。
 岸が起訴されずにすんだ理由は、はたして岸が考える「大本営政府連絡会議にでていな
 かった」からだけだったのか。
 なぜ、検察局は御前会議の出席を重要視しなかったのか。
 この謎は、まだ簡単には解けていない。
・判決の行方も腹を落ち着かせない。
 加えてこれまでの獄内の扱いから、気分は再び反米一色といった感があった。
 年端もいかないアメリカ兵の看守にこづき回され、裸にされ、罵声を浴びせかけられる
 日々がそうさせていたのだ。
 傍若無人の粗暴な待遇に、何が人権だ、何がアメリカ民主主義だ、ただの野蛮人ではな
 いかと、岸は怒っていた。 
・11月12日午後ウェッブ裁判長から起訴されたA級戦犯容疑者25名全員に判決が言
 い渡された。
 判決文の内容は、検察側の起訴状を丸写ししたのではないかと思われるほど、検察寄り
 のものだった。
 絞首刑に決まった7人は宣告が終わると控え室にいったん移された。
 武藤章によれば、控え室の隅に東条が寄って来て、「君を巻き添えに会わして気の毒ん
 だ。まさか君を死刑にするとは思わなかった」と言ったという。
・岸は矢次を交えて武藤とは肝胆相照らした仲だった。
 統制経済を軍服側から支援した実力者だった。
 確かに開戦時の軍務局長ではあったが、死刑組ただひとりの中将である。
 戦時中の大半を軍務局長として過ごした「佐藤賢了」が終身刑だったことに比べても、
 岸は思わず悄然として天を仰いだ。
 もちろん、逆に自分だけは無罪で、「星野直樹」や、「賀屋興宣」が終身刑になったこ
 とも理解しにくいところだった。 
・ひとつ重大な事実が明るみに出た。
 東京裁判の総指揮を執った連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が、実は米議会で、
 「日本の戦争は大部分が自衛のための必要に迫られてのことだった」
 と証言した文書が公開されたのだ。
・「自衛のための戦争だった」はずの戦犯容疑者たちは、こともあろうに無謀な事後法に
 よって死に追いやった最高責任者はマッカーサーだった。
・それにしても、岸の無罪釈放は各方面から揣摩憶測を呼んだ。
 A級戦犯容疑者が起訴、不起訴になった分岐点の重大な条件のひとつは大本営政府連絡
 会義や開戦決定を下した昭和16年12月1日の御前会議に出席したかどうかであり、
 国際検察局の重大の関心事であった、ということが今日では判明している。

CIA秘密工作と保守合同(冷戦を武器に接したダレス)
・敗戦は世代間に大混乱を引き起こした。
 結果としては、「幣原喜重郎」や「芦田均」のような古いタイプの外交官が終戦ととも
 に復活し、さらに親米派の筆頭で貴族趣味の吉田がそのあとを継いで、したたかな政治
 手腕を見せていた。
・もっとも、戦時中は閑居していて無傷のはずだった鳩山一郎が突然パージさえた、とい
 う裏事情がもうひとつある。 
・運よく命拾いした岸は、今度は「吉田老元帥」の首を取らなければならない現実を目の
 当たりにする。
 かつて、革新官僚のリーダーと言われた岸である。
 もっとも古い官僚、吉田の政治体質を認めるわけにはいかない。
・ところで、東条も吉田もよく怒る。佐藤までよく怒った。メディアに対してみな愛想が
 悪い。 
 岸はまず怒らない。記者を相手に怒ったという話は聞いたことがない。家族にも友人に
 も怒らない。
 とらえどころのないのが岸の得意技だと言われるが、まんざら嘘でもない。
 にこにこ笑いながら返す刀で上長を斬り捨てる。そこが「強権」と評されるゆえんなの
 だ。
・岸に戦前からじっと目を付けていたひとりのアメリカ人外交官がいた。
 かつて駐日大使だったジョセフ・C・グルーである。
 彼がアメリカ国務省内で仕掛けたある工作はGHQ指導部をゆさぶり、対日政策の転換
 を迫る新たな運動の誕生を促すことになる。
・アメリカ国務省で占領政策の一本化を図っていたひとりに、1944(昭和19)年か
 ら終戦直後まで国務次官を務めていた前駐日大使ジョセフ・グルーがいた。
・グルーは戦前の10年間(昭和7年〜16年)、駐日大使として東京にいたが、開戦と
 同時に大使館内に半年間近く幽閉された。
・グルーはそもそもジョン・ピアポンド・モルガンの従兄弟にあたり、外交官としてもア
 メリカの財閥、保守派を代表しつつ国務省の実力第一人者として君臨した。
 妻のアリスは黒船で名を轟かせたペリー提督の一族につながり、米海軍の英雄のひ孫で
 あり、夫婦はアメリカ東部の超エリートだった。
 したがって、グルー夫婦の日本国内における付き合いも、牧野伸顕、吉田茂、西園寺公
 望、近衛文麿といった特殊な階層に限られがちだった。
・彼の基本方針は、ルーズベルト政権が日本の中国大陸進出に神経を異常に尖らせていた
 のに対し、
 「西側諸国との総力戦になるのを防ぐためには、日本の軍国主義指導者の敵意を煽るこ
 とはさけるべきだ」 
 との宥和策を唱え、戦争回避に努力する点にあった。
 グルーにしてみれば、彼の出自、支持層からして当然の外交方針といえた。
・開戦後、大使の軟禁状態が4カ月も続いている昭和17年3月末のことである。
 デンマーク大使夫人から妻・アリス宛に一通の手紙が届いた。
 書面には「岸がわれわれのために大使館外でゴルフをする手配をとうとう決め、彼自身
 グルー大使と一緒にゴルフをしたい強い希望を持っている」と書かれていた。
 東条内閣の商工相が直接アメリカ大使館と連絡をとるわけにはいかないため、岸は知恵
 を絞り第三国と通して、グルー夫妻とゴルフを隠密裏にやれるよう手配をしたというの
 だ。 
・戦争回避の努力をしていたグルーに対する、岸のせめてもの心遣いであった。
 これまで岸とグルーはゴルフを通じて親交を深めていた。
・特権階級を主とするグルーの交際名簿に、岸信介の名前が加わっていたのは、特筆すべ
 き驚きと言っていい。  
 軟禁されていたグルーにとっては、またとないチャンスだったが、結果的にグルーは熟
 慮の末、プレーの誘いを鄭重に断っている。
 敵国の情報当局にあとで「思いやりをもって優遇した」と利用される懸念があるのと、
 その場合、岸への迷惑を考慮しての判断だった。
・アメリカをめぐる安全保障の環境は岸が巣鴨にいる間に大きな変貌を遂げ始めていた。
 行き過ぎた財閥解体や公職追放の弊害が、対共産主義への盾としての日本の役割を大き
 く損ね、それが極東の安全保障のネックだと考える一派は、一刻も早く日本国内に同志
 の連携を作らねばならないと、論文を発表し、メディアで訴えた。
・グルーが日記に書き残した、「私は将来いつか、もっと幸福な環境で岸に会い、前と同
 じように友情を継続することを希望しています」という言葉が、ついに現実となったと
 見るのが妥当ではないか。  
 岸が釈放されいち早く活動を再開できた裏には、いかに本人の類まれなる才覚があった
 にせよ、グルーとの巡り合わせがあったことを見逃すわけにはいかない。
 彼らは岸を緊急に必要としていたのだ。
・不思議なことだが、日本国内におけるマッカーサー元帥の人気は非常に高いものがあっ
 た。 
 戦争に駆り立てた軍国主義者を逮捕し、処刑し、次々と民主化しアメリカナイズする強
 引な手法が、新たな英雄に見えたのだろう。
 事実、北海道を分割占領しようとしたスターリンの要求を断固としてはねのけたり、
 子供への食料援助を急いだり、なかなか人気取りもうまかった。
 「青い目のタイクーン(実力者)」にヒツジのように大多数の日本人が従ったのは間違
 いない。
 天皇以外にもうひとり神が現われたような現象を苦々しく思う者もいたはずだが、ほと
 んどの日本人は従順だった。
 いや、天皇自身が占領軍によって、「自分はもう神ではない」と宣言させられたのだか
 ら、唯一のゴッドはマッカーサーだったのかもしれない。
・ところが、本国アメリカではマッカーサーの緩い冷戦認識はすでに過去の遺物だとする
 グループが日本の占領政策を非難し始めていた。
・彼らは揃って「ニューヨーク・タイムズ」「タイム」などのメディアを活用して日本占
 領政策の誤りを指摘し始めたが、中でも、最も大きな影響力を発揮したのは「ニューズ
 ウィーク」だった。 
 その「ニューズウィーク」が、1946年6月、東京支局長としてイギリス人ジャーナ
 リストのコンプトン・パケナムという人物を送り込んできた。
・パケナムが東京に派遣されたのは、彼の父親が日本の駐在武官だったときに彼が生まれ、
 幼くして日本に親しみ、知己も多く日本通という事業があったからだ。
 岸より三歳年長で、終戦直後に派遣されたときにはすでに53歳である。
・東京に赴任したパケナムは、「ニューズウィーク」の本社外信部長でACJ立ち上げの
 中心となったハリー・カーンにGHQへの批判記事を書かせる案をさっそく考えた。
・カーンは特に「民政局がアメリカ資本主義の原則を損なう」とまで非難している。
 カーンが帰国して最初に書いた「ニューズウィーク」の日本特集記事は、GHQ,とり
 わけ民政局に対する激しい攻撃となっており、マッカーサーの怒りを燃え上がらせるの
 に十分だった。  
 ・日本の経済機構は大混乱に陥りかけている。「未曽有の経済危機」と先週、片山哲首
  相は言ったが誇張ではない。
  超インフレ、産業用の資材の完全消滅、食料不足、失業などが主な原因である。
  真の抜本的政策が行われない限り、日本の機器は今後二、三カ月以内にドイツ同様、
  突然大ニュースになるだろう。
  世界を再構築し、共産主義を封じ込めるというアメリカの政策の一環として、日本を
  極東における拠点とする目論見は消え失せよう。
 ・占領当局が犯した誤りが、わが身に跳ね返ろうとしている。
  「素晴らしい仕事をしている」という元帥への画一的な評価はフェアではない。
  彼は極めて特異な立場に置かれた、特異な評価を得る、特異な人物である。
  しかし、その支配下にある職員の大勢は、ほんの一部では成果を挙げているが、可も
  なし、不可もない、程度の仕事もすれば、惨憺たる失敗も犯している。
  仮に占領が、明日終了したら、業績は失敗のまま裏側に隠れてしまい、この占領はお
  そらく失敗の歴史として歴史に残るだろう。
 ・ここに深刻で根本的な問題が浮上している。
  アメリカが今秋までに講和条約を締結しようとすれば、単独講和の道を選択するしか
  ない。ソ連だけでなく、オーストラリア、中国、フィリピン、その他極東委員会の六
  カ国も除外されることになろう。
  ヨーロッパなどの各国での問題解決は今以上に面倒になり、時期はさらに延びるであ
  ろう。
 ・そこで提案だ。会議を招集し、期限を設定して他国が同意しようがしまいが講和条約
  を結ぶべきである。
  さらには戦略上の理由として、非武装国を侵略者から防衛するために、米軍の日本駐
  留を規定されなければならない。
  マッカーサーはこの提案をすでに天皇裕仁との会見で持ち出した。
  だが、その話し合いがあった事実は公式には否定されている。
・実は、カーンが滞日中の5月6日、天皇は四回目のマッカーサー会見を行っている。
 そこでの極秘会見内容が、翌日のAP電で流され、通訳を担当した外務省の「奥村勝蔵
・AP通信によればマッカーサーは、「天皇裕仁に対し、米国は日本の防衛を引き受ける
 であろうことを保証した」と報じられた、
・ACJの支持母体は、ジャパン・ロビーの逆でアメリカン・ロビーと通称されていたが、
 その中枢と呼んでもいい格好の男が現れた。名を川部美智雄という。
 そもそも川部美智雄は本土決戦に備えて房総半島に近い成東の部隊に配属され、上陸し
 てくる戦車への攻撃特訓に明け暮れていた。
 終戦を迎えたところ、英語ができたために進駐してきた米軍の連絡将校に雇われたのが
 始まりだった。
 それが縁で、GHQ経済科学局第二代局長マーカット少将の部署でしばらく通訳をやっ
 ていた。
 マーカットはいわゆるM資金の設立者と目され、のちに話題となった人物である。
・岸にとっては川部の英語力は最大の武器となった。
 吉田茂が白洲次郎を重用したように、岸も川部の近い道をすでに描いていた。
 吉田は自信が外交官上がりだが、それでも英語力は白洲の方が上だった。
 ましてや、岸は英語をかたことしか喋れない。
 今後の政治侵略を考えれば、川部との出会いは大きかった。
 それでも川部の肩書はあくまでも岸のアドバイザーであって、秘書ではなかった。
 彼が正式に名刺を持つのは、岸が総理になってからのことである。
・ダレスはトルーマン大統領、ハチソン国務長官から「対日講和」「再軍備」「警察予備
 隊の創設」等に関して最大の権限を与えられて吉田と秘密会談をしたのだが、吉田はの
 らりくらりとダレスの要求、特に基地に貸与する件に関しては曖昧模糊たる態度に終始
 し、ついにダレスが怒り出した、と言われている。
 吉田はダレスに向かって、国内に米軍基地を作るより、経済復興の方が優先する、とい
 うばかりで、危地貸与の言質を与えなかった。
・川部の説明を聞き終わった岸が「ダレスに何か約束でもしたのかね」とつぶやくと、
 「実は先生、パケナムからその後日談を聞いたボクは耳を疑ったほどでした。
 松平氏がさっそく陛下に直接会われて、陛下からの直々の伝言をいただき、パケナムか
 らダレスにペーパーが渡った、というのです。
 どうやら見てはいけないけれど伝言は文書化されているらしい」
・「松平康昌」はこのとき式部官長の要職にあり、天皇に最も近い側近中の側近である。
 パケナムのもとに松平康昌が訪れた。
 「このペーパーをダレス氏にお渡しください」
 松平から渡されたペーパーは「天皇からの伝言」だと説明された。
 こうして「天皇のメッセージ」はパケナムからカーンへ、そしてダレスの手に渡された
 のである。  
・カーンからダレスに宛てられた1950年8月の書簡によれば、パケナムが松平に
 「天皇のメッセージを書面で貰えないか」と相談したところ松平は葉山の御用邸でパケ
 ナム邸での会談の内容を天王に報告した。
 ちょうど、夏のご静養の折に重なっていた。
 葉山に一週間ほど滞在し、天皇から口頭でメッセージを託された松平が文書化したペー
 パーだとカーンは説明している。
・天皇がそこまで踏み込んだ背景には、参議院における野党側からの質問に答えて吉田が、
 「私は軍事基地は貸したくないと考えております」と発言したことが響いていると考え
 られた。 
 天皇はここまできて吉田ひとりに講和問題を任せてはいられない、との判断を下したの
 ではないだろうか、と推量される。
・つまり、うがった見方に過ぎるかも知れないが、これまで吉田が全権を握って白洲次郎
 を通じてGHQと交渉してきた作業に、天皇が不安の念を緩やかながら抱きはじめてい
 た印象が表れている。

・昭和26年正月明けの岸家は南平台の新居落成祝いと、洋子の結婚話がまとまったのと、
 二重の喜びに賑わっていた。
 「安倍寛」は、岸が東条内閣を倒したあと、郷里に帰って防長尊攘同志会に加わってい
 たときの同志で実質上の事務局長役だった。
・新郎「安倍晋太郎」の父は終戦直後の昭和21年1月末、まだ働き盛りで病死しており、
 結婚式に安倍の良心は出席していない。
 実は、安倍晋太郎の朗々たる性格の陰には複雑な幼年期の記憶が眠っている。
・安倍晋太郎は安倍寛と妻・静子の長男として大将13年に生まれるが、正誤三カ月足ら
 ずで実家同士の確執から両親が離婚してしまった。
 母・静子の父・本堂恒次郎は陸奥盛岡の出身で軍医として日清戦争に出征、その後は陸
 軍医学校校長を経て近衛師団軍医部長まで務めている。  
 祖父は長州出身の陸軍大将「大島義昌」でその次女が本堂軍医に嫁いでいた。
・晋太郎には母・静子の記憶がまったくない。
 生後八カ月の晋太郎は何か事情があったのだろう、大伯母にあたる親戚の家に引き取ら
 れて乳母の乳で育てられる。
 終戦から半年足らずで父が心臓麻痺で他界する。
 昭和24年、毎日新聞社に入社するが、今度は母親代わりに面倒を見てくれた大伯母ヨ
 シも亡くなって、いよいよ天涯孤独といっていい身の上のブンヤだった。
・新婚夫婦は完成したての南平台の広い屋敷に何年か同居するが、安倍の心境からすると
 どうも落ち着かない。
 そうでなくても「岸の娘ムコ」と周囲から言われ、今で言う「逆タマ」のような見られ
 方をするのは腹がたって我慢ならなかった。
・静子は横浜正金銀行に勤務する西村謙三と再婚し息子が生まれ幸せな家庭を築いていた
 が謙三は31歳で夭折したという。
・晋太郎の異父弟にあたる九歳年下の「西村正雄」は、後年、日本興業銀行の頭取にまで
 昇った人物である。  
・「人に甘えてはならない」という抑制心が幼い時から身に付いていた晋太郎は、いつま
 でも岸家の間借り人でいる生活から早く脱出したかった。
 寛信、晋三とふたり生まれたあと世田谷区代沢に一軒家を求め、南平台から一家は独立
 した。
・初選挙戦は熾烈なものだった。
 洋子はまだ名前を知られていない「安倍晋太郎をお願いします」では誰も振り向かない
 とわかって、自分が「岸信介の娘でございます。夫の晋太郎をよろしく」と頭を下げて
 回った。
 良子まで一緒に居残って頭を下げ、「岸信介の家内でございます。晋太郎をよろしく」
 とやったから、人の山ができるほど集まった。
 つまりは、おんな手で当選したようなものだった。

・安倍・岸家の結婚式が行われた直後、サンフランシスコにおいて連合国との間で講和条
 約が調印された。 
 共産党、社会党などはソ連や中国の参加を見ないアメリカ中心の講和会議には反対との
 立場だったが、大多数の国民は歓迎一色だった。
 調印には吉田茂以下全権メンバーがあたった。
 さらに吉田は単身で日米安保条約調印にも署名した。
 当時の日本国民は「講和条約」と独立万歳でわきかえっており、安全条約の内容そのも
 のに関心を持った者は反対する左翼といえでも皆無に近かった。
・運動体の行き詰まりの気晴らしに、岸は昭和28年2月、復興著しいといわれる西ドイ
 ツを訪れる旅に出た。
 ドイツ経済の実態を見て回る旅に同行したのは川部美智雄である。
・世にいう「バカヤロウ解散」が起きたのは昭和28年3月のことである。
 ヤブから棒の総選挙で、慌てたのは党幹事長の佐藤である。
 兄貴が留守でも構わぬ、手続きはしておけ、というわけでボンに佐藤栄作、三好英之連
 名の電報が届いた。 
 帰国してみると、佐藤の手で吉田自由党への入党手続きは済んでおり、選挙に出るしか
 なかった。
 おそらく、吉田と鳩山の権力闘争の綱引きが行われていた中で、佐藤としては、ここは
 兄を当選させ、対鳩山へのテコ入れにしようと考えた末の戦術と思われた。
・追放解除組の「鳩山一郎」や「重光葵」たちがおのおのの旗を掲げて吉田とは距離を置
 いている現状では、吉田自由党といえども安定政局は望めなかった。 
 それは吉田政治の確実な衰退と言えた。吉田時代の終わりの始まり、であった。
・岸がぜひやらねばならなかったのは復帰後、分派を作っていた鳩山一郎一派を取り込む
 作戦だった。 
 公職追放にあった鳩山がGHQ左派の政治的な動きに翻弄された不運は、思いががけず
 吉田の老練な手腕を際立たせた、というのが戦後の八年間である。
 終戦直後、本来は鳩山のものだった自由党を一時借りたのは吉田の方だったが、吉田は
 のらりくらりと党を返さない。
 もちろん、吉田の巧みなマッカーサー対策や外交手腕は評価されていい。
 だが、日本の安全保障への取り組みはアメリカに任せ過ぎた。
・昭和29年9月、音羽の鳩山邸において新党結成会議が合意に達し、新党生命が発表さ
 れるところまできた。 
 その日のメンバーは、鳩山、三木、岸、石橋、松村らであった。
 11月、日本民主党が結成され、総裁に鳩山、幹事長に岸が指名された。
 岸はようやく58歳になったところで、一番若い。
・民主党幹事長になった岸にとっては、もはや吉田の首の半分は取ったようなものだった
 から、これはむしろ勲章だった。
 あとは老残と言っていい状態が近づいていた吉田を最後に追い詰めておいて、民主党と
 自由党の保守合同を実現させるだけだった。
・「非常に礼儀正しい」吉田には、それ以上の礼儀と尊敬をもって挨拶に行くのが岸だっ
 た。その岸に向かって吉田はこう言った。
 「この憲法なんていうのは改正しなきゃいかん憲法だよ。自分は実はこの憲法を仕方な
 しにあのとき受諾せざるを得ない立場にあった。しかし海棲は容易ならんことだ。
 そこで占領下のうちに会見をやろうと思って、朝鮮戦争の起こった当時、マッカーサー
 に相談した。マッカーサーも、自分がこれを日本にナニしたのは間違いだった、改正す
 べきと言っていた」  
・そうこうしているうちに、マッカーサーはトルーマンに首を切られ、後任リッジウェイ
 が来たが、リッジウェイではマッカーサーほどの力はなく、占領下での会見はできなか
 ったのだ、と吉田は弁明したという。
・岸はかねてからそういう吉田政治を「ポツダム体制派」とあからさまに批判していた。
 日本の独立の完成のためには、本来サンフランシスコ講和条約成立直後に憲法を改正す
 るべきだった、というのが岸のいつわざる心境だった。
 吉田はそれを逃がした、と岸は言う。  
・岸は日本民主党の幹事長になったときすでに、「いずれ片務性だらけの安保条約の改定
 は是非やらねばならない」と明言している。
 日本民主党の政策綱領を見ると、現行安保条約を「双務的に改定する」とすでに謳って
 いる。
 日本の安全保障の一切をアメリカ依存のままという現行法ではなく、日本の独自性を持
 たなければいけない、という考え方をはじめから岸は持っていた。
・国民の大多数は講和条約締結と独立に歓喜するばかりで、安保など無関心だった。
 改定しなければ日本の片務性だけが永久に残りかねないのに、誰ひとり関心を持たなか
 ったといっていいだろう。 
 岸が日本民主党幹事長に就任して、初めて活字になった程度である。
 それから60年安保改定まで9年かかる。
 しかも読めば誰でも改定を理解できるはずのものなのに、多数の国民の反対運動が巻き
 起こり、大量の血が流された。
・パケナムとカーンの背後にはCIAの工作員が東京だけでも4人いた、と言われている。
 アイゼンハワー政権は、日本の政権が吉田から鳩山に替わったことに異常に神経を尖ら
 せていた。 
・当時、極東におけるアメリカの中ソ封じ込め工作を主導していたのはダレス兄弟である。
 外交を兄が、情報工作は弟が担当し、外交の舞台裏を綿密に操作していた。
 岸の訪米そのものへの期待感を込めた工作に指導的な役割を担ったのはアレン・ダレス 
 の親友ハリー・カーンだった。
・昭和29年5月のこと、岸はカーンの紹介で親しくなったアメリカ大使館の情報宣伝担
 当官ビル・ハッチスンを歌舞伎座に招待している。
 これまでにも岸はハッチスンが借りている家を度々訪ねており、彼を通じてアメリカ政
 府からの支援を求めていたことは明らかだった。 
・岸が総理になる昭和32年になると、マッカーサー二世大使が着任し、大使と岸は直接
 信頼関係が築けるようになる。
 大使はそれに応えて、本国政府が「裏金」を使えるよう国務省と大統領を説得する。
・マッカーサー大使の回想によれば、岸は「もし日本が共産化すると、他のアジアの国々
 が追随しないとは考えにくい」と言って、日本の共産化を防衛するために資金を長期に
 わたって援助してくれるよう頼んだ、というのである。
・具体的には、大統領の承認の下で、自民党の選挙資金として大量のカネをCIAに用意
 させ、それを長期にわたって自民党を強化するのに役立てた、というものだ。
・佐藤栄作蔵相は秘密裏にアメリカ大使館一等書記官のカーペンターを都内の小さな目立
 たないホテルに呼び出し、秘密献金を要請したのである。
 佐藤氏は、日本共産党は
 @日本国内に反米感情を醸成すること
 A政府転覆のために革新諸勢力を糾合、強化する
 というふたつの目的をもっているのだと語った。
・岸がCIA資金の援助を受けた」とか「岸はCIAのスパイだった」といった類の非難
 は、これまでにもメディアなどから頻繁に言われてきた。
 だが、岸にとってみれば「国際共産主義との戦い」のための援助資金であり、この国を
 守るためには何ら恥ずべきことではない、と考えていたに違いない。
・四代行のうち最も有力視されていた「緒方竹虎」1956年1月、心臓麻痺のため自宅
 で急逝してしまった。
 その結果、ライバル緒方を欠いたため、初代鳩山総裁の誕生が極めて濃厚となった。
 一部の周囲の者がはしゃいだのはともかくとして、緒方竹虎の急死の波紋は大きかった。
 もし緒方が健康だったら、半身不随状態の鳩山は4月で終わりだ。
 そうすれば、緒方が3、4年はやるだろう、というのが大方の予想だった。
・緒方の急死を知ったアレン・ダレスは驚愕の色を隠せなかった。
 これでは鳩山がソ連と一定の取引をすることになるだろう、当然北方領土はソ連の最前
 基地のまま残るに違いない、とアレンは警戒心を強めたとパケナムはあとで岸に説明し
 ている。   
 CIAでは緒方の急死になんらかの疑念があるのではないか、と一瞬疑ったとさえ言わ
 れている。 
・緒方の死が岸の政界トップの座に大きく近づけたことは間違いなかった。
 CIAからすれば、吉田ラインから繋がってきた緒方の情報活動はまだほんの端緒に就
 いたばかりであり、消耗度は低かった。
 緒方がいなければ岸がいる、と判断したのは当然だった。
・昭和31(1956)年4月、自民党大会が予定どおり開かれた。
 代行委員会の決定にしたがって、総裁は鳩山、幹事長に岸が選出され、ここにようやく
 鳩山一郎が保守合同初の自民党総裁となったのである。
 岸が59歳、鳩山は73歳になっていた。
 この先、鳩山は文字どおり政治生命を賭けて日ソ交渉に当たることとなる。
 鳩山の晩節は屈折と悲哀に満ちていた。
 日ソ交渉に腐心するあまり、寿命を縮めたことは間違いない。

不退転の決意、安保改定の夜(情けあるなら今宵来い)
・当時の駐日アメリカ大使はジョン・ムーア・アリソンといって、戦前からの日本通では
 あったが小粒の感はまぬがれなかった。
 だが翌昭和32年1月から赴任してきたダグラス・マッカーサー二世は日本をアメリカ
 のパートナーとして認めさせるべくさまざまな努力を惜しまない大使だった。
 大使はかつて君臨したマッカーサー元帥の甥だったが、叔父とは認識が大いに違ってい
 た。
 岸も頻繁にマッカーサー大使に会うようになり、岸の言う「不平等性な日米安保条約」
 の改定を大使は本国政府に進言すること度々であった。
・昭和31年後半の鳩山は、最後の気力を振り絞ってソ連との交渉にあたっていた。
 よーやく日ソ共同宣言により国交正常化を果たしたところで、鳩山は引退を決意する。
 終戦時には最大で軍民合わせて107万人がソ連各地に抑留されており、いまだに51
 万人近くが極寒のラーゲリ(強制収容所)に残され強制労働をさせられていたが順次帰
 還が約束された。
 死亡者の総数には諸説あり確定できていないが、最低でも10万人を下回ることはなく、
 近年のアメリカ人研究者によれば34万人ともいわれている。
・鳩山の引退に伴い、自民党総裁公選の党大会が開かれた。
 事前の票読みでは岸の一位は動かないが、過半数を取れるかどうかが微妙だった。
 公選には三人が立候補した。
 まず最初に名乗りを上げたのが党幹事長で、アメリカとの関係を第一に主張する岸信介。
 次いで旧自由党を代表する形で中間色の強い「石井光次郎」が諸方派を取りまとめて立
 った。
 最後に少し遅れて「石橋湛山」が加わり、三つどもえとなった。 
・当初は岸優位説で推移し、一回目の投票では岸が一位となったが過半数に達せず、決選
 投票となった。
 そこで石破氏は参謀の「石田博英」が三木、松村らを担ぎ出し、二、三位連合を組む作
 戦に出た。
 結果、7票差で石破氏が結果を制し逆転、石橋総裁となったのである。
・乱戦模様の総裁選となったため、組閣はポストをめぐって難航を重ね、すべての閣僚を
 いったん石橋が兼任するという異常事態のまま発足した。
・けれどもアメリカからこの総裁選を見ていたアイゼンハワーは、岸が敗れたうえに容共
 の石橋が総理となったのでかなり狼狽したという話が、年明けに着任したマッカーサー
 大使から伝わってきた。
・そんな折から、突然石橋首相が倒れたという極秘の知らせが飛び込んできた。
 築地の料亭から帰宅してすぎに脳梗塞の発作に襲われ、意識不明の状態となってしまっ
 た。
 石橋は東大医学部の医師四人によって四時間に及ぶ精密検査を受けたが、その診断から
 「さらに向後二ヵ月の静養加療を要する」と聞かされ、辞任の決意を一挙に固めた。
・石橋の身の引き際の潔さは、当時、多くの国民の賛辞と共感を呼んだものだった。
・衆議院本会議での首班指名は、岸信介276票、鈴木茂三郎129票で、岸は第56代
 首相に就任した。
・岸は福田赳夫と随行して首相兼外相として最初の訪米の旅に出た。
 アイゼンハワー大統領との公式会談に臨み、安保改定問題を討議する重大な会談が用意
 されていたが、その前に大統領とのゴルフが準備されていた。
 パートナーは大統領と組んだのが同行した衆議院議員の「松本瀧蔵」、岸のパートナー
 はなんとブッシュ大統領(父)の先代、すなわちプレスコット・ブッシュ上院議員だっ
 た。パパ・ブッシュのパパで、ジョージ・W・ブッシュの祖父である。
・問題は「共同声明」の内容である。
 二年前の夏、重光・ダレス会談の席で、ダレスは重光の安保条約改定提案を歯牙にもか
 けず、
 「日米対等の条約を作ろうなんて、日本にそんな力はないではないか。もし、グアムが
 攻撃されたら、日本は助けに来てくれるのかね」
 と一蹴した。
 重光の隣に座っていた岸は忘れもしない。
・マッカーサー大使に特に訴えておいたのは、日本自身の防衛力の強化、可能な限りの米
 軍の撤退と安保条約の大幅改定、加えて、十年後を目途とした沖縄・小笠原諸島の返還
 だった。 
・二年前とは対照的な表情で、ダレスは岸に苦笑いをしながら次のように述べた。
 「確かに安保条約改定に取り組まなければならない。ただ、この問題は政治家が政治的
 に話し合っただけで決めるわけにはいかない。国防省の専門家の意見もきかなかればな
 らないので、ついでは米国側から太平洋及びハワイの軍司令官、駐日大使、日本側から
 外務大臣、防衛庁長官を委員とする安保委員会を設置し、今の安保条約を変えずに日本
 側の要望を入れられるか、また改正しなければならないかを検討しよう」
 ダレスのこの発言がきっかけとなって、「安全保障委員会」が設置されることになった。
・共同声明文の要点は次のとおり。
 「日米両国の安全保障に関する現行の諸取極について討議が行われた。
 合衆国によるその軍隊の日本における配備および使用について実行可能なときはいつで
 も協議することを含めて、安全保障条約に関して生ずる問題を検討するために政府間の
 委員会を設置することに意見が一致した。
 合衆国は日本の防衛力整備計画を歓迎し、よって、安全保障条約の文言及び精神に従っ
 て、明年中に日本国内の合衆国軍隊の兵力を、すべての合衆国陸上戦闘部隊のすみやか
 な撤退を含み、大幅削減する。
 総理大臣は、琉球及び小笠原諸島に対する施政権の日本への返還についての日本国民の
 強い希望を強調した。
 大統領は、日本がこれらの諸島に対する潜在的主権を有するという合衆国の立場を再認
 識した。
 大統領は、合衆国が、これらの諸島の住民の福祉を増進し、かつ、その経済的及び文化
 的向上を促進する政策を継続する旨を述べた」
・岸がこの先もっとも苦労するのは野党対策につきる。
 ところが訪米直前までの国会審議は、今日では信じられないかもしれないが、驚くべき
 ことに社会党の発言を読み直すと「安保改定賛成」だったのである。
 積極的に米国と折衝せよ、と攻め立ててきたのはむしろ社会党の方だった。
 それが、秋になるや「安保反対」に大転換してしまうのだ。
・日本の安全保障のあり方について根本的な衝撃を与え、野党に180度の転換を迫った
 のは、ソ連が人工衛星スプートニクの打ち上げを成功させた瞬間からだった。
 モスクワからの指令と、それを実行するための大量の資金の流入が社共を一挙に反安保
 改定路線に転向させた。
・社会党、共産党は人工衛星成功の一事をもって、「安保条約の不合理是正のために米国
 と折衝せよ」と言ってきた方針をかなぐり捨て、「日米二国間の安全保障条約のような
 軍事ブロックは無意味になった。我が国はいずれの軍事ブロックにも入らず、自主独立
 の外交をつらぬくべし」と言い出した。
・ソ連の人工衛星打ち上げ成功は、すなわち、大陸間弾道弾(ICBM)がアメリカのど
 の都市へでも打ち込める、という事実を冷厳に示したものであった。
・安保改定の必要性について、もっと国民にPRすべきだった、岸は晩年語ったが、その
 ときは騎虎の勢いだけで突き進んでおり、確かに宣伝PRは反対派にくらべ脆弱だった。
・大規模なデモが渦巻く中で、新安保条約は衆参両本会議、予算委員会、特別委員会など
 あるゆる機関で審議されていた。 
 議論の要点を絞れば三点につきる。
 ・相互防衛義務
 ・事前協議における日本側の拒否権
 ・極東の範囲
・事前協議のうち、日本への米軍配備の重要変更、あるいは米軍装備の重要変更(核の持
 ち込み)等に関して日本側に「拒否権」を認めるかどうか、日米間の議論を詰めきって
 いなかったので、岸はマッカーサー大使を通じて強い要求を出した。
 これまで日本側の拒否権を「いかなる場合においても認めない」としてきた米側が、大
 使の説得もあって譲歩し、「事前協議」の「拒否権」を見射止めたことの意義は大きい。
 マッカーサー大使の尽力なしに、安保改定は成し得なかったのではないかと思えるほど
 である。  
・「核積載艦船の寄港、通過」は果たして「持ち込み」になるのかどうかという議論は果
 てしなく続きそうな気配だった。
 のちに佐藤首相が苦肉の策として国会答弁したのが、内閣の引継ぎ事項となった
 「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」
 といういわゆる「非核三原則」問題に継承される。
・昭和34年当時の日米間でこの件に関してなんの合意もなかったにもかかわらず、赤城
 防衛長官が独自の解釈に基づいて「第七艦隊の核装備は事前協議の対象となる」という
 趣旨の国会答弁(昭和35年4月)をしたため、米側を大いに慌てさせる事態となった。 
・ライシャワーは明確に核装備した艦艇の日本寄港を証言している。
 ライシャワーによる「核持ち込み」発言は、日本国内に新たな衝撃を与え、その余波は
 今日まで尾を引いている。
 当時の政府はこの問題を明確にしたがらず、というより触らずに通過しようと必死だっ
 た。
・新条約の審議は5月16日をもってすべて終了し、いつでも質疑打ち切り、あとは採決
 だけという状態になっていた。
 そのころ、アメリカ側から大統領の訪日スケジュールが伝えられ、6月19日の到着が
 決定された。
・当初、アイゼンハワーはモスクワでフルシチョフ首相から訪ソ招請を受けており、モス
 クワで数日過ごしてからシベリアを越えて東京へ入り予定だった。
 だが、米ソ関係が米軍偵察機問題その他で突然悪化し、急遽訪ソが中止となった。
 「雪どけムード」とまで言われた米ソ関係は一挙に凍結状態になっていた。
・まだに冷戦真っただ中での外交、安全保障が語られねばならない時期といえた。
 そこで大統領の旅程は、まずフィリピンにより、次いで東京、ソウル、台北と極東の自
 由世界のトリデを一周する計画に変更され、東京滞在はそのスケジュールの中でフィッ
 クスされた。 
 これによって、6月19日という約束は岸にとってはご印の裏表のような特別の意味を
 持つようになってしまった。
・上首尾に新安保条約の改定が済んで大統領を歓迎できれば岸の立場は大いに強化され、
 国民の祝福も受けるだろう。
 だが、万一にも安保改定に支障をきたせば大統領訪日に傷がつく。
・最悪の場合を考慮するならば、6月19日までに参議院の自然承認に欠かせない「30
 日」を差し引いた5月19日に衆議院を通過させることが必要十分条件だった。
 アイゼンハワー訪日は岸の足かせにもなってしまった。
・そこで自民党執行部が決めた案は、単独強行採決に踏み切る案だった。
 本会議強行採決案は自民党議員にさえ事前には知らされなかった。
 秘密主義、と党内から批判の声が上がったが総指揮者の川島幹事長の手にすべては委ね
 られた。  
・6月10日、アイゼンハワーの新聞掛秘書ハチガーが事前打ち合わせのために羽田に着
 いたが、全学連の包囲網に乗っていた自動車を破壊されそうになり、同乗していたマッ
 カーサー大使とともに米軍のヘリコプターによって脱出するという騒動となった。
・アメリカ大使館にヘリコプターで緊急着陸したハチガー秘書の異常事態を知ったアメリ
 カ世論の中には「そんな非礼な国に大統領が行く必要があるのか」との声も出始めた、
 と外電が報じた。
・官邸で岸は巨人・中日戦のナイターを見ていた。
 後楽園球場は満員である。
 「なあ、椎名クン。新聞は国民すべてが反対しているようなことを書くが、野球場は満
 員じゃないか。反対しているのは共産主義者に扇動されたほんの一部だと思うんだがね」
 椎名は返答に詰まった。
・実際に野党議員を含めて男万人ともいう反対派のデモ隊の中で、安保条約に目を通した
 者などはほとんどいないと言ってもよかったのがこの頃の実情だった。
 ただ「平和」というキャッチフレーズだけが大衆を扇動していた。
・反対運動の先頭に立っている文化人、学者、学生たちは「反米」「反安保」だと言い、
 中ソ共産圏に与せよと叫んでいる。
 学者、文化人の多くは対英米戦争開始のころは、親英米派だったのではなかったか。
・マッカーサー大使もハガチー秘書も「大統領の訪日予定に変更はない」と公表している
 以上、自民党内の反主流派といえども、アイゼンハワー訪日までは一応岸退陣への行動
 は控えぜるを得なくなった。 
 同じく社会党にしてもアメリカの大統領に非礼を働くわけにもいかず、自民党反主流派
 と提携して、倒閣運動はいったん中止された。
 これで政局はアイゼンハワー訪日後まで、ひと休みかと誰もが考えていた。
・ところが6月15日に、遺体が急変した。
 当日全学連主流派を中心としたデモ隊は国会の南通用門から国会内への突入を図り、
 激しく警官隊と衝突を繰り返していた。
 その激しいもみ合いの中で、東京大学の女学生、「樺美智子」が死亡するという事故が
 発生した。 
 彼女の死因は検屍によれば、転倒が原因で起きた胸部圧迫と頭部内出血となっている。
 学生側は機動隊の暴力によるものだと主張したが、詳しい判定ができる状態ではなかっ
 た。
 ただ、女学生が死亡したというニュースは国民にも衝撃を与え、警察は結果として批判
 を受ける立場となった。
・女子学生の死亡事故発生の報せは、総理官邸にいた岸を予想以上に動揺させた。
 滅多なことでは表情を変えない岸だが、安保改定以来、初めて見せた困惑の色だった。
・傍にいた総理秘書官の「中村長芳」は、
 「樺美智子が死んだという報せが岸さんの耳に入った時、岸さんは非常に沈痛な面持ち
 となった。大変なショックを受けている様子でしたね」
 と語っている。
・南平台の私邸に深夜戻った岸は、赤城防衛庁長官を呼びつけた。
 岸の考えたところでは、もはや自衛隊出動以外に名案はなかった。
 武器を持たせた自衛隊で大統領訪日の護衛にあたる、赤城にその可能性を資したのだっ
 た。 
 「知れは無理です。自衛隊に武器を持たせれば力にはなりますが、同胞同士の殺し合い
 になる可能性があり、私としては命令はできません」
 赤城ははっきりとそう答えた。
 岸はさらに、
 「では、武器を持たせずに出動させればいいじゃないか」
 と迫ったが、赤城はなお首をひねったままこう答えた。
 「これは内乱でも革命でもありません。自衛隊は十を持たせれば警察より強力ですが、
 銃なしで警備ということになれば警官の方が専門家だから、力になりません。ここで自
 衛隊を出動させれば、自衛隊の権威を失墜させるだけです」
 あとは最高責任者、岸さんの判断だけだと言って赤城は南平台を出た。
・実は、自衛隊出動論はハガチー事件以来党内にくすぶっていた。
 石原国家公安委員長、柏村警察庁長官、小倉警視総監らはこぞって「もう警察では警備
 の責任は持てない」と言い始め、佐藤蔵相、池田産相あたりからも「自衛隊出動はどう
 か」と声がかかっていたが、そのたびに赤城は首を横に振って断っていた。
・樺美智子事件の前日にもこんなことがあった。
 首相官邸に詰めていた川島正次郎が、デモ隊を避けるために、戦時中に掘られた非常用
 の地下道を通って国会から外へ出て防衛庁へ駆け込み、赤城に直談判した。
 「デモ隊を静めるために、自衛隊を出してはもらえんか」
 赤城は幹事長に即答した。
 「自衛隊を出して、仮に何か事故が起きたら共産勢力の思うつぼだ。これまでの苦労が
 水の泡になる。若い隊員がもしかっとなって悲惨な状況にならないとは限らない。ここ
 は何があっても出動はできない」  
・岸が内閣総辞職を決意したのは、アイゼンハワー訪日を中止と決めた瞬間だった。
 中止要請は公式には日本政府から出されたことになっているが、それが事実かどうかは
 必ずしも明確ではない。
 なぜなら、CIAのアレン・ダレスの動きに注目すれば、ダレスはCIAの東京の機関
 にいち早く訪日の危険性をマニラへ向かう大統領機に通報していた可能性が考えられる
 からだ。
・アレン・ダレスがそうしなければ、第二次世界大戦の勇者は「戦車に乗ってでも羽田か
 らアメリカ大使館へ向かう」といいかねないとダレスは心配していた。
 ただ、アメリカ側から断ったのでは岸の顔が断たない。
 そこで、岸の方から辞退させることで最終的にまとまった、という可能性が一番高い。
 その手筈はマッカーサーに任されたのであろう。
 
絢爛たる晩節(憲法改正の執念、消えず)
・昭和35年7月、池田、石井、藤山三者による総裁選は決戦陶業までいったが、池田が
 石井を圧勝して新総裁の座に就いた。
 その直後、まだ選挙の興奮でさめやらぬ午後2時20分ごろのことだった。
 首相官邸では新総裁就任の祝賀レセプションが始まっていた。
 その席上で岸にひとりの暴漢が走り寄り、左太腿を後ろから何ヵ所もナイフで刺すとい
 う事件が発生し、現場の会場には大量の流血の跡が残ったほどだった。
 右翼結社の所属する荒巻退助と名乗る男は、その場で逮捕されたが、動機も不明のまま
 だった。
・この60年安保の年は、6月に社会党の「河上丈太郎」が衆議院の面会所で刺された事
 件があり、岸殺傷事件に続いて、10月には日比谷公会堂で社会党の「浅沼委員長」が
 刺殺されるなど、凶悪なテロ事件が発生し世間を震撼させた。
・岸に対するあらゆる誹謗中傷がマスコミ溢れ、国会での追及、さらには東京地検まで動
 いたといわれる疑惑事件は起きたが、岸の身辺に迫る証拠は一件も現れず、いつの間に
 か消滅している。
 疑惑、とされた事件の概要を列挙すれば、おおむね以下のとおりであろう。
・昭和33年の千葉銀行事件というのがあるが、これなどは千葉銀行の頭取が知り合いの
 女性社長(レストラン「レインボー」経営)に総額6億円に達する不正融資をしたとい
 う事件だったが、「水田三喜男」、岸信介の名が挙がり背後関係を疑われたものの、
 一切の関係がないことが東京地裁ですぐに判明している。
・さらに巷間大きな騒ぎに発展した事件として、インドネシアに関する賠償問題があった。
 国会でもめたが、刑事事件としては立証されなかった。
 日本とインドネシアの賠償協定は昭和33(1958)年1月に調印され、日本は生産
 材料や消費財の供与をする予定だった。
・ところがインドネシア側が、船舶の供与を強く要求してきたために政府もこれに応じて
 細目交渉に入った。
 ところが、供与する船舶十隻のうち九隻までが、船舶事業に実績もない木下商店と事前
 に契約がされていた、という事実が判明して騒ぎとなった。
・確かに木下と岸は戦前からの知り合いであった。
 岸が商工次官だった時代に鉄鋼統制会の理事を木下が務めており、個人的な交際もあっ
 たということが明るみに出た。  
・昭和33年2月、岸首相は赤坂の料亭「長谷川」にスカルノ大統領を招待している。
 そこに木下茂も同席しさらにスカルノが滞在した三週間もの間の費用をすべて木下に持
 たせたというのである。 
・この木下商店事件も岸自身は一銭の金も受け取っていない、ということで地検は動けな
 かった。 
・このとき、赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」へスカルノが遊びに行った際に、ホステ
 ス「根本七保子」が大統領に紹介された。
 彼女は翌昭和34年、第三夫人(デヴィ・スカルノ)としてインドネシアへ渡ったとさ
 れる。 
・インドネシア同様に、韓国との癒着問題も持ち上がった。
 戦後賠償の代わりに復興支援という名のもとに韓国の李承晩大統領と密接な関係を築き、
 リベートを受け取ったのではないか、という疑惑である。
・だが、岸と韓国の深い関係を言うのであれば、世界基督教統一協会の教祖「文鮮明」と
 の親交をもって「深い関係」と言うべきかもしれない。 
・同教団は昭和43(1968)年に、日本にも政治組織、国際勝共連合の日本支部を立
 ち上げ、その普及に乗り出した。
 その際、日本支部設立に尽力したのが岸であり、ほかに「笹川良一」や「児玉誉士夫
 の名前が挙がっている。
・そもそも日韓関係正常化は、フィリピンや台湾と同じくアメリカの強い要望によって始
 まったものだ。  
 冷戦時代の反共シフトを引く最前線としての戦略からだ。
・しかし、李承晩政権は反日政策を強固に掲げ、交渉は進展しなかった。
 そのとき、幹事長から総理に進んだ岸は「怪物」矢次一夫を個人特使として韓国へ派遣、
 李承晩とのパイプを初めて作ったのだ。
・それから長い年月を経て、岸は総理引退後は矢次、椎名、田中竜夫、財界からは上村甲
 午郎、瀬島龍三らを加えた陣容で「日韓経済協力会」や「日韓協力委員会」といった組
 織を立ち上げて韓国の経済復興に協力をしてきた。
 その結果、韓国産のノリの輸入、製鉄工場建設、ソウルの地下鉄工事などが実現する。
・最後に飛び出してきたのが「ダグラス・グラマン事件」である。  
 発端はグラマン社が自社の早期警戒機(E−2C)売込みのために日本の政府高官のう
 ち岸信介、福田赳夫、中曾根康弘、松野頼三らに日商岩井を通じて不正な資金を渡した、
 と告発したことによる。
・事件は大平内閣を揺さぶるものとなった。
 操作は日商岩井の海部八郎副社長などへの取り調べを中心に進み、政界では松野頼三が
 「政治献金」を受け取ったことを認めたが、時効成立で終息した。
 岸の身辺からは、何ひとつ出るものはなかった。
 
・岸がもっとも落胆したのは福田赳夫と田中角栄の間でいわゆる「角福戦争」が起こった
 挙げ句に福田が田中に敗れたときであろう。
 官僚優等生と、「今太閤」とまで言われ、草履取りから這い上がった大将同士の戦争が
 何年間か続くのだが、その間、岸は田中をどう見ていたのか。
 そもそも若き田中を抜擢して、最初に入閣させたのは岸である。
・「なぜ田中さんではいけないのか」と洋子はそのとき父に訊ねている。
 「総理というのは、ほかの大臣になるのとは違って、だれでもなれるというものでもな
 い。田中は優秀だが、人には向き不向きがある。彼が総理になるようじゃ、日本の国は
 大変なことになるよ。  
 田中は、湯気のでるようなカネに手を突っ込む。そういうのが総理になると、危険な状
 況をつくりだしかねない」
・昭和50年5月には、すこぶる元気だった佐藤栄作が築地の料亭で財界人と懇談している
 最中に脳溢血で倒れるという事態が起きた。
 佐藤はそのまま昏睡状態が続き、6月3日死去。
・弟をなくして5年経った昭和55(1980)年6月、今度は長い人生を連れ添ってき
 た妻の良子に心不全で先立たれた。
 「65年の共に過ごした時間が一挙に空白になったような気がした」と岸は語っている。
 良子がいない岸家というのを、岸は果たして想像したことがあっただろうか。
・佐藤の家から岸家へ養子が決まったのは信介15歳の折であり、その後実際に同居を始
 めて「数年起居をともにした」ふたりは、かなり若くして結婚生活に入った。
 その間、良子の母・チヨを引き取って共に暮らしながら岸家を再興し、天下を取った。
 それも考えてみれば、一族繁栄の期待を背負ってのことであった。
 養子先の家運を傾けてはならない、佐藤家に引けを取ってはいけない、と負けず嫌いだ
 った彼が思わないはずがない。  
・人生のこれまでの中で「養子」でなかった時間というのは、記憶も薄い幼児のころだけ
 といっても差し支えないほどなのだ。
 どこかに良子に対する心理的な遠慮が岸にはやはりあったのではないだろうか。
・強権だの巨魁だのと言われた面とは裏腹に、両岸とも八方美人とも言われ、掴みどころ
 のない性格が岸の特質と言われた。
 ごく若いときからの養子生活によって育まれた精神の柔構造が、彼の強靭さをひときわ
 絢爛たるものに仕上げた可能性は否定できない。
・洋子が見てきた父親の日常の一端には、いつも旅行に出るという前の晩に、身の回りの
 細々した物を自分で鞄に詰める姿が目に焼き付いている、と語っている。  
 実母の茂世が厳しい躾をしたからとも考えられるが、結婚して、総理になっても妻に身
 の回りのことで世話にならない、あるいは、なりたくない日常、というのはやはり養子
 ゆえに身についた慣性としか言いようがない。
 座敷の畳の上で洗面道具を広げ、下着を畳んで鞄に入れる岸の背中にこそ真の強さが潜
 んでいたのだ。
・良子が逝って2,3年経った昭和57、8年ごろの話である。
 通い詰めていた仲だった赤坂の元芸者「お玉さん」こと末広かねがなくなった。
 岸が彼女のために置屋「玉村」を赤坂に出させたので、陰で「お玉さん」とよばれるよ
 うになった女性である。
 巣鴨の下獄する岸をいつまでも待つと心に決め「もう、私には岸さんしかいないんです。
 どんなことがあってもついていきます」と健気な決意を秘めてきた芸妓の通夜の席に、
 岸が現われた。
 通夜死期が執り行われる間、87、9歳になる岸は、お玉さんの遺影の額を両手に抱え
 たまま長いことじっと立っていた。
・遺影を抱いて葬儀に参列したことは、安倍晋三も安倍洋子も今は隠さない。
 それを含めてすべてが岸信介だということを、皆が承知しているからだろう。
・御殿場では杖を使ってよく散歩する姿が見られたというが、出かけるときは車椅子を使
 うことが多くなっていた。  
・御殿場の屋敷では、必ず傍に岡嶋慶子が付き添って足下に気を配っていた。
 岡嶋慶子は岸と同じ山口生まれで、高校を出るとすぐにそのまま岸家のお手伝いに入っ
 たという。
 いまは安倍洋子の傍で働いているが、双子の姉妹の妹だという岡嶋慶子がいないと、
 岸、安倍の両家にまつわる長い戦後の細部はわからない。
 その岡嶋慶子から急ぎの連絡が入った。
 岸が風邪をこじらせ、自宅では危ないからと緊急入院の手続きが取られたのは昭和61
 年(1986)年10月だった。
・岸が病床にあった昭和61年の5月から6月にかけて、安倍家では長男・寛信と次男・
 晋三の乾坤式があいついでにぎにぎしく執り行われた。
 寛信の新婦はウシオ電機会長牛尾次朗の長女・幸子、晋三の新婦は森永製菓社長松崎昭
 雄の長女・昭惠である。
・岸の闘病生活は約九ヵ月あまりで、苦しむようなこともあまりなく、むしろ平静な最期
 だった。  
 昭和62年8月、岸は肺炎を併発し、容体が急変する。心不全のため静かにみまった。
 
あとがき
・東条内閣の閣僚でA級戦犯容疑者となった岸は、戦後は一転、敵国アメリカと深い親交
 を結び、新安保条約を締結した。
 そこに共産主義への強い警戒心があったのは周知の事実だ。
・岸の難しいところは、それでは単純に親米で米国追従派かというとそうでもないところ
 だ。むしろ片務性の強い安
 保条約を改正させる、対米是々非々論者だった。
 元来、岸の根っこには国粋主義や愛国主義があったし、天皇を中心とした伝統的な日本
 主義が揺るぎない軸をなしていた。