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われわれ国民の多くは、中国などとは違い、日本は「法の支配」に基づく民主主義の国だ
と思っている。しかし、果たしてそうなのだろうか。安倍政権による集団的自衛権行使容
認の解釈変更時のように、時の内閣が勝手に、既に確立されている憲法の解釈を変更して
しまうようなことが起こったいま、内閣は憲法に縛られていないということが、はからず
も露呈してしまった。これでは時の内閣が、憲法よりも上位に位置することになる。まさ
に日本は、「人の支配」の国であると言ってもいいのではないだろうか。日本という国は、
根本的に民主主義というものが、根付かない社会なんだと、つくづく感じてしまう。

まえがき
・憲法とは、国民が国家(政府)に対して課している命令のようなものであり、個人の国
 家の関係を規律する法律の一つです。しかし、憲法は、そのような法律であることを通
 じて、他ならぬ私たち(日本人)が何者であるのか、私たちがどこから来てどこへ向か
 おうとしているのか、つまり私たちに固有に属する物語を表現した文書でもあるのです。
 それだけではありません。憲法は、最高の外交文書でもあります。つまり、憲法は、世
 界に向けて私たちがどのように行動するつもりなのか、世界の秩序と幸福に対して私た
 ちがどのような使命を果たすつもりなのかを宣言する文書です。
・憲法は、このように二重性があります。一方では、それは私たちに属する、私たちのた
 めの物語です。他方では、それは、外へと、世界の他者たちへと自分を開く宣言でもあ
 ります。
・どんなに権力がある人でも法に従わなくてはならないというのが、法の支配です。憲法
 がきちんと機能するためには、法の支配が確立していなくてはなりません。しかし、歴
 史を振り返ってみると、法の支配というものは、そう簡単には確立されないことがわか
 ります。実は、日本も、「法の支配」が苦手な社会のひとつです。
・集団的自衛権についての政治家のやり取りを見て、議会制が機能していない、と感じた
 人も多いでしょう。どうして日本では、議会での議論がうまくいかないのか。 
・日本人にとっての憲法の最大の問題点は、それがいつまでも疎遠なもの、よそよそしい
 ものに感じられているということです。最も重要な法であり、繰り返し論じられてきた
 のに、憲法を、本当には「自分のもの」には思えない。

「法の支配」と「空気の支配」
・一つの国がまともな国であるためには、法の支配が絶対必要な条件だと思うんです。
 「法の支配」の対立語は「人の支配」です。「人の支配」とは、権力を持つ人間の意思
 次第で、社会をいかようにも変えることができることをいいます。それに対して「法の
 支配」とは、その社会の支配構造の中で最も有利なポジションにいる人、例えば権力が
 あったり、財力があったりする人、でさえも、法には従わなければいけない、というこ
 とです。 
・法の支配を理想的に実現していると言える社会は、世界史的・文明史的に見ても、意外
 と少ししかない。例えば中国は、「次の覇権国か」と言われるほどの勢いで、グローバ
 ルな存在感を増していますが、現在でも、法の支配の原則をもっているとは言えません。
 すべての法よりも、共産党(人)が上位にあるからです。
・多くに日本人は「日本は法の支配ぐらい、ちゃんとしている」と思い込んでいるふしが
 ありますが、果たしてそうか。すでに確立されている解釈がある憲法の条文に対して、
 時の首相あるいは内閣が自由に解釈を変えることができて、それがそのまま事実上の憲
 法になるということは、結局、その首相もしくは内閣は憲法に縛られていないことにな
 る。だから、典型的な人の支配の例になってしまうんです。
・最近のメディアでは、「立憲主義」という言葉が流行っていてよく出てくるのですが、
 法の支配のほうがより普遍的な概念です。立憲主義というのは、人権尊重や権力分立を
 備えた法によって国家の権力濫用から国民を守ろうという思想です。これに対して、
 法の支配というのは、立憲主義の前提問題です。「人の支配」ではなく、「法の支配」
 でなえればいけないという規範が成立しなければ、立憲主義の議論をしても無意味です
 から。日本では立憲主義以前に、法の支配すら危うい。
・法が法として機能するためには、その法が二つの条件を満たさなければならない。と法
 学では考えられています。まず第一の条件は、固有名を使ってはいけないということで
 す。すべての人に対して、状況によってはその法の適用を受けるという可能性が開かれ
 ていなければならない。ここが、法にとって非常に重要な第一の点です。
・法の第二の条件は、法は、形式的な手続きによって成立するということです。道徳的に
 いかがなものかと思われる条文でも、立法のために必要とされている手続きを経れば法
 になる。憲法も法の一種ですから、憲法の改正手続きに従えば、限界はあれ、それまで
 とはかなり内容の異なる憲法に改正することができます。 
・共同体の具体的な道徳にこだわったり、特定の人間の実質的な影響力が強かったりする
 社会、すなわち人間関係主義が支配しているような社会では、なかなか法の支配を実現
 することはできない。 
・法の支配が通らない場面、つまり、ルールがわからないままに、なあなあで進められる
 場面といったら、町内会とPTAなどの地縁組織が思い浮かびます。ああいうところで
 は、みんな仲良くしないとね、みんな同じものが好きだよね、ということが強調される。
 そうなると、顔役の人がこうと言ったら議論することすら許されないし、誰もが何の意
 味があるのかわならないと思っているようなイベントが、義務的に延々と承継されてし
 まったりする。  
・いったんつくられた法に対しては、人間は絶対に従わなければいけない。つまり、一方
 では、人間が法をつくり得る以上は、人間が法に対して超越しているわけですが、他方
 では、法の支配は、法が人間に対して超越的であることを意味している。「法」と「人」
 との間で、どちらが優位にあるのか。実定法には、二律背反的ともいえる。 
・権力のある人間が勝手に法をつくっているような社会もある。法を超える独裁者がいる
 ようなケースです。この場合には、端的に法の支配が成り立っていない。そのような社
 会で歴史上最も目立っているのが中国です。伝統的に中国では、法よりも皇帝のほうが
 上位にあった。今日では、中国共産党のほうが憲法よりも強い。今日の共産党は皇帝の
 機能的な等価物です。 
・「法の支配」と簡単に言うけれども、実は極めて独特の条件が課されているんです。一
 方で、人は法をつくることができる。他方で、統治者といえども法に従わなければいけ
 ない。この両立を近代社会は目指そうとしたわけですが、考えてみると、結構難しいハ
 ードルになっていると思います。 
・日本社会の場合、人が法をつくっているんですが、その「人の支配」が、状況に合わせ
 て、「空気を読む」というかたちで実現する。つまり、あまりにも抽象的な法は、生活
 に関わらないので、実感がわいてこない。そこで多くの場合は具体的な状況に即した
 「空気」のほうが、事実上の法に近いかたちの規範性をもっている。空気は、たしかに
 「人」なのですが、どの特定の個人も制御できないことに特徴があります。つまり中国
 のような意味での「人の支配」ではなく、非人称的な、しかし状況に密着した「空気の
 支配」みたいなものが日本社会の伝統的な社交の技術としてあって、それが法の支配を
 蹂躙している。 
・日本の法令は西洋法モデルに合わせなければいけないという、きわめて強い思い込みの
 もとでつくられてきました。この事実を考えると、日本は欧米のフォーマットから大き
 く外れる法はつくれないわけです。つまり、自前で法をつくったとはいえない。しかも、
 欧米の法はいわば外から来る「崇高なもの」で、まさに神の法のように受け取られてき
 た。 
・日本社会にとっては、法は「外から来る」ものなんです。歴史的に見ても、律令時代か
 ら日本人自身がつくった法というのはほとんどない。
・「法の支配」と「法解釈の支配」は違う。法の支配の理想的な状況というのは、あらゆ
 る事柄について明確に完全に書かれたルールがあって、それを見れば、全部答えが出て
 いるようなものです。いわばマニュアルの世界ですね。とはいえ、マニュアルには、ど
 うしても限界があります。つまり、マニュアルで答えが出ない問題に対しては、解釈を
 して答えを出す作業が法の支配のために必須になっていくわけです。しかしそれは、厳
 密には法の支配とはいえないんですね。解釈が必要な場合とは、人によって考え方が違
 う場合ですから、解釈は人によって分かれてしまいます。そうなると、複数の解釈のう
 ちのどれかを選ばなければならないわけです。どうしても個人の判断が顔を出してしま
 う。つまり、法ならざる「人の支配」の側面を払拭できないんです。だから、法の支配
 を前提とするなら、法を解釈する作業には、必ず緊張が伴うわけです。
・現在の集団的自衛権の議論では、この解釈の審級が問われている。つまり「誰が法を解
 釈するのか」が問われているという状況になっています。憲法には、少なくとも「集団
 的自衛権」という言葉は出てきません。だからこそ、「人の支配」に陥ってしまわない
 よう、責任と緊張感をもって解釈をする必要があります。 戦後の日本では、内閣法制
 局がそれをやってきました。彼らは、外部の声に耳を傾けずに、孤立して憲法の条文と
 向き合い、憲法解釈を営んできたという歴史的経緯があります。
・法制局は一貫して、武力行使は原則として違憲だけれど、国家の存立を全うするための
 必要最小限の武力行使は例外的に合憲との解釈を維持してきました。そしていま、集団
 的自衛権は憲法解釈上不可欠だとして、政府をぎりぎりのところでとどまらせています。
・現在この地球上でいちばん権力がある人物は誰かと考えると、それはたぶんアメリカの
 大統領ではないでしょうか。でも、そのアメリカ大統領だって、法には支配されている。
 自分で恣意的に合衆国憲法を変えようとする大統領はいない。憲法に規定されないよう
 な仕方で、権力の座に居座ることは、アメリカ大統領といえども、絶対できないはずで
 す。しかし、この地球上にはアメリカ大統領に比べれば小さな権力しかもっていなくて
 も、法を蹂躙できてしまう権力者はいっぱいいます。
・権力が弱いからといって法の支配が利きやすいともいえない。逆にいくら強大な権力に
 対しても、法の支配が貫徹することもある。だから「法の支配」という現象は、独特の
 条件の中で出てきたものだと、つくづく思ってしまいます。
 
幻想の「国体」と日本国憲法
・戦後の秩序の中で、靖国神社というのは一介の神社に過ぎないいんですよね。仮に戦争
 に負けたときに、靖国神社を取り壊して廃止してしまえば、当然のことながら靖国問題
 が生じる余地はなかった。実際、そのような選択肢もあったわけです。ところが靖国神
 社を一介の宗教法人として、それこそ政治とは無関係の、その辺のお稲荷さんと同じよ
 うなものとして延命させたところ、歴史的経緯があったために、特別な存在になってし
 まった。「歴史歴経緯」というのはもちろん、戦前における靖国神社の特別な意味、つ
 まり日本政府や日本の軍隊の管轄下で日本の軍人を祀る神社だったということです。
・現在の靖国神社は、法的な身分としては、政府や日本国民とは特別関係がない。他の神
 社と同格の神社に過ぎないのに、戦後になっても、戦前の特別の意味をインフォーマル
 に引き継いてしまった。 
・靖国がA級戦犯を合祀すること自体は、お好きにどうぞ、ということ。誰を拝もうが、
 そんなことは信仰の自由です。ですから、合祀すること自体には問題がない。ただ、そ
 こに日本の指導者が特別な意味を求めて参拝することが問題なのです。あるいは、靖国
 が、一宗教法人であるにもかかわらず、国家との特別な関係を保つことを望んでいるこ
 とが問題なのです。
・先の戦争に対して、どちらが全面的に善くて、どちらが全面的に悪いのかということは、
 原理的に考えれば決められない部分がある。しかし、われわれは今後の国際秩序を維持
 し、それに参加し、その繁栄に貢献していきたいと思っている。そうだとすると、あれ
 だけの戦争が起きたことに対して、究極的には誰も責任を負わない、誰も悪くなかった
 などということは到底許されない。
・ドイツの戦争やユダヤ人虐殺であれば、ナチスがいけない、とはっきり特定できる。そ
 して、そのリーダーが誰だったのかもはっきりしていた。しかし、日本の戦争の場合は、
 誰に責任があるかという部分がかなり曖昧だった。そのために、一種に政治的妥協みた
 いなことをしたと思います。その妥協の産物として生まれた政治的な責任主体、それが
 A級戦犯です。
・極東軍事裁判というのはある意味では、かなり寛容な裁定なのですよ。つまり、普通の
 日本人にはそれほど重い罪はないという判断だと思います。でも、みんなに罪がなくて
 戦争は不慮の事故のように起きたというわけにはいきません。やはりどこかに責任を担
 い手がいなくではならない。その責任をかなり絞り込んで、A級戦犯に担わせた。そう
 いうかたちで納得しましょうというのが、いってみれば、戦後の政治的な合意です。
 だから、A級戦犯に責任があるという政治的合意によって、多くの日本人は免罪されて
 いるのです。ところが、それすらも自らを否定されたような感じがして、自尊心を維持
 できないと感じる日本が一部にいる。それが、一般の日本人ならばそれぞれの考えだと
 いうことになりますが、ときに政府の要人、つまり大臣や首相だったりする。彼らはA
 級戦犯を参拝して、できるだけ戦後の前提になるような政治的合意を否認しようとして
 いる。そのため、中国が怒ったりするわけです。
・おそらく、日本が戦争に負けたとき、連合国側としては天皇制を維持する気はなかった
 はずです。ただ、アメリカにとっては日本を効率的に支配することのほうが重要だった
 のでしょう。だから、原理的な判断よりも、自分たちのプラグマティックな都合を優先
 させて天皇制を残したのでしょう。 それによって、日本側としてはうまくいった、
 「国体」を守れたということになったのです。しかし、逆にそれが戦後に大きな禍根を
 残す結果になってしまったわけです。天皇が免罪されている以上、A級戦犯が悪いとは
 言い切れなくなってしまったのですから。
・戦争責任問題に関して、天皇の責任というものが霧消していったと同時に、日本の民衆
 に加害者意識が残らなかったこともポイントになるような気がします。「草の根ファシ
 ズム」という言葉があるように、日本の民衆も軍部に相当な喝采を送っていた面がある
 と言われていますし、事実そうだったと思うんです。そうでなければ、あれほど大規模
 な軍事行動はできないはずです。徴兵された人たちが、軍部にゲリラ的に抵抗したわけ
 ではないわけですから、たとえそれが無意識的なものであったにせよ、戦争を支持して
 いた側面は強くあった。そのことが忘却されて、あの戦争は、自分たちが、他者を加害
 する主体だったという意識が抜けてしまったため、戦争の責任をA級戦犯に凝結するこ
 とにすら抵抗を感じてしまうということではないでしょうか。
・客観的な事実としては、日本は戦争に負けた。しかも半端じゃない負け方なので、負け
 たというトラウマ的事実をどのように引き受けるか、というか、「受け取る」こととど
 う回避するかということは、戦後の日本人にとって大きな問題だったと思うんですね。
 では、どうしたかというと、一種の敗戦の否認ということをしているんです。この否認
 は、具体的には、二つの操作のセットだと思っています。つまり、敗戦ということを考
 えるときに、対アジア関係の敗戦と対米関係の敗戦と別立ていして、処理しているんで
 すよ。まず、対アジア関係に関していうと、日本人は端的に「負けていない」と考えて
 きたと思います。事実は、中国にも負けた。中国は、戦勝国の一つです。でも日本人は、
 「そんなはずはない。中国だけが相手だったら勝っていたはずだ」といったかたちで、
 中国に負けたという事実を否認してきたわけです。敗北を否認し過ぎて、中国と戦争を
 したことすら忘れかけています。だから中国が戦勝国として振る舞うと、日本人は、急
 に腹が立つわけですよ。中国に負けたことをもうすっかり忘れている状態になってしま
 っている。一方、対米関係はどうかというと、同じ敗戦の否認でも、こちらのほうがや
 や心理的な操作が複雑です。というのも、アメリカに対しては、さすがに負けたという
 事実を端的に否認することはできません。とすると、アメリカに対しては、まぎれもな
 く負けているのに、なおそれを否認するにはどうしたらよいか。ちょっと面倒な問題が
 ある。結論を言うと、アメリカはわれわれ日本人を救ってくれた解放軍だと考えること
 で、敗北を否認したのですよ。アメリカは救世主としてやってきた、というわけです。
 それならば、アメリカはたしかに勝ったのですが、日本の民衆は負けたことにならずに
 済むのですね。ともかく、そうすると、日本人の観点からは、あの戦争では負けたこと
 にならないのです。あれは一種の津波みたいなものじゃないか、と。われわれ日本人は
 結局、被害者だということになった。その窮地から日本人を助けてれくれたのがアメリ
 カだという構図ですね。
・日本人はアメリカが敵国だったことをすっかり忘れているんです。こてんぱんにやっつ
 けられた敵国に、自分たちを守ってもらっている。「思いやり予算」なんていうものま
 でやって、ですよ。それは、実に恥ずかしいことだ。
・日本国憲法の物語には、敗戦がある。それは、敗戦から始まる物語にならざるを得ない。
 ところが、敗戦を否定しているために、物語にならないのです。すると、憲法は、自分
 たちが否認し、そこから逃れようとしている亡霊を繰り返し呼び寄せようとするものに
 感じられるので、悪魔お経典になってしまう。 
・敗戦をどうやって否認せずに、まさにそのものとして直視し、受け取るかということと、
 憲法に命を宿させるということとは、まったく同じことにつながると思う。敗戦の否認
 というのは、要は「嘘」ということ、自己欺瞞ということですからね。原点に欺瞞があ
 れば、結局、語るに値することで語り得ることが何一つなくなってしまう。
・今回の集団的自衛権をめぐる解釈についても、憲法が蹂躙されているわけですよ。でも、
 安倍晋三内閣の支持率があまり下がらないのは、日本人の大半がそれにあまり痛みを感
 じていないからでしょう。どうしてか。憲法が空虚なものとして受け取られているから
 です。
・敗戦を認めて、日本国憲法から始めるということは、ある意味で、死者を裏切ることで
 す。だから、死者たちには、本当に申し訳ないことなのです。しかし、その申し訳なさ
 を抱えて、裏切ることの痛みを引き受けていかなければならない。しかし、それができ
 ない人がいて、靖国神社に参拝したりするわけです。
・国体がいった何を意味しているかは、本当はよくわからない。昔、「国体明徴運動」と
 いうものがありました。明徴、すなわち明らかに証明することなど誰にもできないし、
 実際にしていないのに、なぜ明徴運動なのか、滑稽です。つまり国体というのは一種の
 マジックワードだったんです。戦前は国体という言葉のほうが先にあって、その表現と
 しての憲法というかたちで、一つの物語が成立していたわけです。この国体という概念
 が、戦前では一応、物語の心臓部分だったように思います。戦争が終わったときも、国
 体だけは守るといって、その物語をなんとか維持しようとした。何を守るのかよくわか
 らないが、天皇制が守られれば、国体が守られたことになるという考え方だったと思う
 んです。だから、アメリカに占領されても国体は守られたことになった。
・地球は世界大戦以降、もう戦争ができない状況になっている。つまり戦争をするんだっ
 たら、自滅するつもりでやるしかないんだから、戦争なんてできないんだ、と。もちろ
 ん現在でも戦争は起こりますが、確かに第二次世界大戦以降、大国同士が戦争をしたこ
 とはありません。そんなことをしたら自滅してしまう。とはいえ、戦争をするだけの武
 器は多くの国が持っているという、非常に危うい状況ではありますが、しかし大国がそ
 れを実際に使用することは、自殺するときでしょう。だから、尖閣諸島ぐらいのことで、
 中国とアメリカは絶対に戦争をしないだろう。結局、どの国も、使わない限りで武器を
 持っている。自滅しないためには、つまり人類が生き延びるためには、使わないものは
 いつか処分しなければいけない。長い目で見れば、それを処分するという方向性で行く
 しかない。世界中がいずれ憲法九条を持つことになる。そうすると、日本人は世界のど
 の国よりも進んでいる状況なのに、遅れた国に追いつきたいと言っているようなおかし
 な状況になっている。  
・平和憲法を持つ日本人は、未来の他者がやるべきこと、彼らが生き延びようとするなら
 ばやるはずのことを、現在の他の人たちに先駆けてやろうとしていることになる。未来
 の他者たちは、平和に生き延びようとすれば、あるいは実際に生き延びられるとしたら、
 憲法九条的なものを持つことになるはずです。そのとき、彼らは過去を振り返り、日本
 がすでに同じような原則を持っていたことを知るでしょう。彼ら未来の他者たちは、過
 去においてすでに日本人が勇敢にも憲法九条を率先して持っていたことに勇気付けられ
 て、自分たちも、それと同じ精神の原則を持つことができるようになるはずです。未来
 の他者たちは、過去において日本人が困難な状況の中にあっても憲法九条を維持してく
 れたことに、感謝するかもしれません。
 

ヘイトスピーチ化する日本
・沖縄の米軍基地の内側、つまり基地の中の裕福さは、驚異的です。そこだけ見たら、日
 本だとは思えない。アメリカのかなり裕福な郊外のコミュニティそのものなんです。
 ものすごく広い道路があって、大きな一戸建ての家に芝生がある。日本のどこに言って
 もないような、超大型のスーパーマーケットや超大型映画館があり、クラブがあり・・。
 こんな環境が維持できるのは、明らかに日本政府が相当な額のお金を出しているからで
 す。
・米軍基地のフェンスの内側と外側で、人びとがほとんど正反対の認識を持っている。ア
 メリカ軍から見ると、自分たちはすごく歓迎されているような気がする。米軍基地に反
 対する人がいたとしても、それは非常に例外的な集団だと思っているわけです。ところ
 が、外側の沖縄の人たちから見れば、当然、基本的には反対です。そこから利益を得て
 いる沖縄の人だってもちろんいるわけですが、そういう人だって、諸手を挙げて賛成と
 いうわけではない。この認識のギャップがどうして出てくるかというと、原因はもっぱ
 ら日本側にある。つまり、日本側の態度がアンビバレントなんですよ。一方ではものす
 ごくアメリカを歓迎して、とてつもないプレゼントをしている。思いやり予算なんかを
 出して、実に豪勢な生活ができるようにしてあげている。でも他方では、本当は、日本
 人自身が、アメリカにここまで依存することに、自分で納得のいかないものを感じてい
 るのです。だから、歓迎すると同時に、拒絶するみたいなことになってしまっているわ
 けです。
・今回の集団的自衛権の問題もそうですね。集団的自衛権を行使して何をやりたいんだろ
 うと話を聞くと、基本的には米軍への協力、要するにアメリカへのプレゼントの話ばか
 りです。それなにに他方で、日本は普通の国になるとか、自分のことは自分で守れる国
 になるというようなことを平気で言っています。
・沖縄の基地に反対している人は、たくさんいますよね。しかし、日本人は、沖縄の人を
 含む日本人は、反対運動のやり方を間違っている、と思います。どういう理由で反対な
 のか、ということを、アメリカに対して、そして自分自身に対して、うまく示せていな
 い。例えば、沖縄の基地の反対運動は、騒音がひどいとか、オスプレイが墜落するかも
 しれないので困る、とかということを理由に挙げます。しかし、よく考えると、自分の
 家の隣に警察署や消防署ができたときに、騒音が嫌だとか、救急車が制限速度を超えて
 走るのが危険だ、とかといった理由で、警察署や消防署に反対はしないでしょう。しか
 し、基地の騒音が云々ということだと、パトカーがうるさいから警察署に反対といって
 いるのと同じように聞こえてしまいます。ならば、基地反対の運動は、自分たちを守っ
 てくれる警察に反対するようなわがままということなのか。
・沖縄の基地が嫌なのは、それが、アメリカの基地だからです。アメリカが嫌いというわ
 けではない。嫌いか好きかと言えば、好きなほうが大きい。しかし、いずれにせよ、他
 者にこれだけ依存しているということに、そのことに自分自身が納得できていない。日
 本人自身の中に矛盾がある。だから、本当は、アメリカに文句を言っても仕方がないの
 です。日本人自身が、この矛盾をどう解消するかを考えなくてはならない。
 
偽りの「集団的自衛権」
・集団的自衛権の行使は、明らかに憲法違反です。安倍首相についていえば、彼は、憲法 
 の解釈を変更して集団的自衛権を行使することに関して、法の支配を破壊しているとは
 まったく考えていないように見受けられる。実際、安倍政権の誰もが、集団的自衛権は
 憲法に適合しているんだと、ずっと言い続けているわけです。一方、世論調査を見ても、
 非常に不思議な結果が出ています。政府が近く集団的自衛権の行使を容認する方針とな
 ったことについて賛否を聞いたところ、「反対」が58パーセントだったそうです。興
 味深いのは、政府が集団的自衛権の行使の範囲を「限定的だ」と主張していることにつ
 いて考え方を尋ねたところ、集団的自衛権行使に反対の人のうち24パーセントの人が
 「限定した内容にとどめるべきだ」と答えていることです。つまり、そもそも集団的自
 衛権の行使には反対しているのに、必要最小限なら賛成という、すごいおかしな結論に
 なっている。要するに、世論は、アルコールは飲みたくないんだけど、ノンアルコー
 ルビールなら飲んでもいいと考えていたわけです。
・私は、そういう人、つまり必要最小限度なら集団的自衛権を認めるという答え方をする
 人が、すごく危険だと思っています。全面的に行使すべきだという意見と、そもそも
 行使すべきではないという意見は、賛否はともかく理解はできます。集団的自衛権を行
 使する場合のリスクと、行使しない場合のリスクを、その人なりに評価しての結論とし
 て理解できるからです。しかし、ノンアルコールビールを飲みたいというのは、要する
 に自分自身をごまかしているわけで、いずれのリスクをも見て見ぬふりをしているから
 危険なのです。そして実は、他ならぬ安倍政権や集団的自衛権を容認する論者たちも、
 集団的自衛権の行使をノンアルコールビールのように考えているわけです。
・ノンアルコールビールだからいいという態度は、法の支配ではありません。というのも、
 法の支配とは、たとえ自らお政治的信条に合致していなくても、それが法だからという
 理由だけで法を尊重しようということです。自分の政治的信条との葛藤を自覚しながら、
 それでもなお法に従うのです。しかし、ノンアルコールビール派はそういう厳しさを欠
 き、「この程度だったらいいか」と自分自身をごまかしています。このごまかしに市民
 の側も引きずられてしまっていることに対して、私は強い危機感を持っています。 
・要は、安倍政権は、必要最小限の集団的自衛権は「これはアルコール度数ゼロのアルコ
 ールです(事実上は個別的自衛権と等しい集団的自衛権です)」と言っている。でも、
 実際にはアルコールが含まれている。ここにごまかしがあるということです。
・集団的自衛権を理解するためには、現行の国際法を理解しておく必要があります。現在
 の国際法では武力行使一般が違法とされています。国家による武力行使を一切禁ずるの
 が、国際法の大原則とされているわけです。でも、侵略国が現れた場合、どうするんだ
 という問題はもちろんあります。そこで侵略国に対応する制度として、「集団安全保障」
 というものが用意されています。「集団安全保障」とは、侵略国が現れたら、国連加盟
 国全体で反撃して平和を維持しようということです。
・ただ、国連が措置をとるためには、安保理決議が必要です。協議が必要となれば、当然
 それなりの時間がかかりますし、場合によっては、五大国の拒否権によって安保理決議
 が機能しないこともあり得ます。そこで、安保理決議までの「つなぎ措置」として、個
 別的自衛権と集団的自衛権を認めています。 
・個別的自衛権は、攻撃を受けた国が、攻撃してきた国に対して反撃する権限のことです。
 他方、集団的自衛権は、直接攻撃を受けていない国が、攻撃を受けた国の自衛に協力す
 る権限のことをいいます。このいずれであっても、自衛権を行使するには「武力攻撃が
 発生」していることが必要です。
・アメリカ、フランス、ロシアといった大国は、自前で守れるから個別的自衛権だけで十
 分です。しかし、たとえば中南米諸国の中小国だと一国で守りきるのは難しい。そこで、
 一国が攻められたときに、グループで安全保障の措置を取れるようにするために、集団
 的自衛権を入れたのです。ただ、第三国が恣意的に紛争に介入すると、ろくな結果にな
 らないのは目に見えている。そのため、集団的自衛権の行使を限定するために、「武力
 攻撃が発生した場合」という強い制限をかけました。つまり、単なる「武力行使」では
 なく、組織的・計画的な正規軍による大規模な攻撃を受けた場合に、はじめて第三国の
 介入が許されるというニュアンスで、「武力攻撃」という語が選ばれているわけです。
・ゲリアに武器を支援した程度では、第三国は集団的自衛権を行使できない。邦人を乗
 せた米国船をどこかの国が攻撃してきたというような、単発的な攻撃があっただけでは、
 集団的自衛権の行使は国際法上許されません。国際法を遵守するなら、集団的自衛権と
 いうのは、すでに戦争状態になっている場所に介入をしていく権利なので、これはもう
 相当、度数の高いアルコールなんです。  
・国際法的には、集団的自衛権と行使する場合というのは、大規模な組織攻撃がなされて
 いる状況、完全な戦争状態になっていることが前提されているわけですから、集団的自
 衛権は、実はかなりアルコール度数の強い酒なんです。
・そうすると、集団的自衛権は、全面的に行使するかしないかのどちらかしかない。だか
 らこそ緊張感をもって議論をしなければいけないところを、安倍政権はどんどん緊張感
 のない方向に誘導している感じがします。 
・日本国憲法は、九条一項で戦争と武力行使を放棄し、二項で戦力の不保持を定めていま
 す。細かい解釈論の違いはありますが、結論として一切の武力行使を禁止しているとい
 うところでは、憲法解釈学説はほぼ一致しています。もっとも、国連憲章が武力不行使
 の原則を採用しつつ、国連の安全保障措置と自衛権を例外として許容していたように、
 日本国憲法の場合も、九条の武力行使禁止を原則としつつ、例外を定める規定があるな
 らば、武力行使が許容される可能性はあるわけです。
・従来の政府は、わが国の存立をまっとうするための必要最小限度の武力行使は、例外的
 に許容されると理解してきました。日本政府には国民の生命等を守る義務があるという
 ことですから、日本が武力攻撃を受けた場合には、国民を守るためにどうしても必要は
 反撃は許される、と理解してきたわけです。この権利は、国際法の文脈で言うと、「個
 別的自衛権」と呼ばれる権限とちょうど重なるので、「わが国の存立を全うするための
 必要最小限度の武力行使」の権利のことを、個別的自衛権と呼んできたんです。集団的
 自衛権についてはどうかと憲法の条文をいくら探しても、他国の自衛に協力する権利が
 あるとは、どこにも書いてありません。さらに、集団的自衛権を違憲とする決定的な条
 文があります。憲法七三条です。これは、内閣の権限として、具体的に何ができるかを
 示した条文ですが、注目していただきたいのは、「一般行政事務」も他に、「外交」
 「条約締結」などの権限は明示されているけれども、「軍事」の規定はないという点で
 す。「一般行政事務」は、国内で権力をふるう作用ですから、対外軍事活動は含みませ
 ん。個別的自衛権は、消防行政や警察行政の延長として、国内行政の一環としてぎりぎ
 り理解できますが、集団的自衛権のような対外軍事活動を一般行政と理解することは不
 可能です。また、「外交」は、相手国の主権を尊重したうえで、対等な立場で行う活動
 ですから、やはり、軍事活動は含まれません。そうなると、九条をどう理解しようと、
 対外的な武力行使は憲法の権限として列挙されていないのですから、そもそも国家権力
 にカウントされていないわけです。集団的自衛権を行使するとしたら、憲法を改正して
 軍事権をつくるという選択肢しかありません。でも、この論点を政権側はまったく知ら
 ないので、解釈改憲にすごく自信をもってしまっています。
・政府与党は、日本の安全のために、国益のために集団的自衛権が必要だということを強
 調しています。しかし、集団的自衛権というのは、本来は一国ではなく、複数の国が一
 丸となって防衛しなければならない、防衛すべきことがあるという考えです。だとする
 と、わが国の防衛のためにのみ必要だという発想は、むしろ集団的自衛の本質とは相容
 れないような気がするわけです。  
・実は集団的自衛権・個別的自衛権以外に武力行使を正当化する資格があることを、みん
 なが知らないんです。安倍首相がよく挙げる在外法人の救出については、実は「在外自
 国民保護」という別の資格があるんです。それがどのような場合に認められるかは、国
 連憲章に明文化された規定がないので、国際法の解釈に委ねられています。たとえば外
 国にいる日本人を、武力行使してでも助けに行くことは、個別的自衛権の延長だという
 説明もあるし、あるいは個別的自衛権でも集団的自衛権でもなくて、一定の要件を満た
 していれば武力行使は可能だという解釈もある。
・また。日本船舶が享ところに機雷がある場合、それを破壊して通行可能にすることは、
 個別的自衛権で正当化できる場合も多いでしょうし、「緊急避難」と言って、個別的自
 衛権とも集団的自衛権とも違う国際慣行法上の正当化事由を主張することもできるでし
 ょう。つまり、自国民の保護は、集団的自衛権とは分けて考えたほうがいいんです。
・安倍首相の説明から見えてくるのは、何がなんでもアメリカに見放されてはいけないと
 いう発想です。アメリカがどこと戦争をしているかにかかわらず、一緒に戦わなければ
 いけない、そうでなければ日本の安全を確保できないと考えている。安倍首相は、日本
 をまさにアメリカの51番目の州だと考えているようにも思えます。 
・在外邦人を助けるのに、なぜ集団的自衛権の行使なんて大げさなことをしなければいけ
 ないのか。「在外邦人を助けなくてもいいのか?」と、国民の感情に訴えかけながら、
 集団的自衛権がいかにノンアルコールビールであるかを説明する。こうして安物の文学
 的状況がつくられようとしている。
・ある外国が武力攻撃を受けることで、日本の主権侵害が生じるような事態というのは、
 具体的な状況がきわめて考えにくい。法学的にむりやり解釈するなら、両国が同時に攻
 たとえば、在日米軍基地への攻撃がなされた場合
 には、「米軍基地」への攻撃であるから、「ある外国」への攻撃であり、それと同時に、
 「在日」の基地への攻撃であるから、日本への攻撃でもあります。法的に言えば、個別
 的自衛権の行使として説明してもいいんですが、集団的自衛権の行使として説明しても、
 間違いではありません。ですから、その範囲で集団的自衛権の行使を認めるというのは、
 要するに個別的自衛権の行使として説明できる場合は、集団的自衛権の行使としてもよ
 いですよ、ということになる。閣議決定の文言を法的に丁寧に読めば、そういう内容に
 なっているんですね。
・この閣議決定は公明党と内閣法制局が下書きをしたと言われていますが、彼らは、現行
 憲法のもとでは集団的自衛権の行使は不可能だ、従来の政府解釈を超えるような憲法解
 釈を不可能だという立場です。従来の枠内で集団的自衛権をやろうとするなら、個別的
 自衛権の行使として説明できる場合には集団的自衛権の行使を認める、そういうふうに
 やるしかないわけですね。  
・ところが、安倍首相の発現などは、石油が日本に入ってこないことも日本の存立を脅か
 す事態だと言っていて、いわば、その「あてはめ(適用)がすれているというか、間違
 っているんです。ですから、「基準」のレベルでは、完全に公明党と内閣法制局の手の
 ひらで踊っている安倍政権なのですが、安倍首相自体はこれで何でもできると思ってい
 るという、非常に不思議な事態が生じているということです。
・端的に言えば、公明党と内閣法制局の二区区の策です。安倍首相は、いろんなことをや
 りたいと思っている。しかし、従来の枠の外に踏み出させるわけにはいかない。そこで、
 公明党と法制局は、首相の無知に乗じて、ごまかしたという状況だと思います。安倍首
 相がもっている欲望は、もうちょっと別なところにある。ただ、その欲望は現行憲法上、
 実現不可能なので、憲法の枠の中に集団的自衛権を納めるかたちで妥協したということ
 になります。
・「日本の存立を脅かす事態」では集団的自衛権を行使してもよいということは、個別的
 自衛権の範囲内で集団的自衛権を行使する、という、きわめてトリッキーな意味をもつ
 わけです。安倍政権やその支持者は、憲法をできるだけ拡大解釈して、集団的自衛権を
 行使できるような状況をつくりたい。しかし、普通に拡大解釈していたのでは、どうし
 てもそれは不可能である。このとく、個別的自衛権の最も集団的自衛権に近いところだ
 け、ラベルを変えて、「集団的自衛権」と書いておく。実は、中身はほとんど変わって
 いないのだけれど、外側のラベルが、少しだけ変えてある。それで、安倍首相の溜飲を
 下げたような状況です。  
・ほとんど個別的自衛権の場合と変わらないような内容でも、かなり労力を使って、形式
 的には集団的自衛権の行使を認めるようにした。ということは、それは安倍首相の個人
 的な思いを叶えるだけでなく、おそらくそれに乗ってもいいと思っている行政エリート
 たちがいることになります。一般的な政治解釈としては、今回、外務省がすごくやりた
 がったと言われています。彼らは軍事オプションが制限されることが、日本の外交力を
 低下させていると考えています。そこで、「アメリカが日本を助けてくれなくなるかも
 しれない」という安倍首相の不安をうまく利用して、今回の解釈改憲を実現したのでは
 ないでしょうか。外交の専門家は、日本が集団的自衛権を行使できるという雰囲気にし
 ておいたほうが有利だと考えている。つまり、そうすれば、外交において象徴的な力を
 もつことができる。だから、内実としては個別的自衛権と同じだとしても、集団的自衛
 権というシンボルを手に入れたかったということでしょうか。
・集団的自衛権を発動するのは、日本自身が武力攻撃を受けたときに限定されているので
 すから、閣議決定には、ほとんど内容的に意味はないはずです。だから、象徴的な力を
 身につけたというのが本音でしょう。ではどうして、象徴的な力がほしいかといえば、
 湾岸戦争のトラウマだと言われています。一兆円も出したのに、ちっとも感謝されず肩
 身が狭かったとか。さらに言えば、なんとか安保理の常任理事国になりたいというこ
 とを考えているかもしれません。
・「わが国の存立を脅かされたときにのみ、集団的自衛権を行使する」というのは、たい
 へん勝手なことを言っている気がします。「集団的に自衛しよう。一緒に自分たちを守
 ろう。ただし私が一緒に戦うのは、私が死活的に危ないときだけですよ」と言っている
 わけですから。個別的自衛権だけをもつ、というのであれば、それはそれで一貫性があ
 ります。しかし、わざわざ「集団的自衛権」を持ち出しながら、「ただ自分自身が極度
 に危ないときにだけ、一緒に戦う」と言っている。
・憲法は、もちろん第一義的には、個人の権利や義務を定める私法ではなく、公法、つま
 り個人と国家の関係を規定している法律ですが、それだけだと、とても内向きのものに
 感じられます。しかし、憲法にはほかに二つの側面がある。その一つが日本人が共有す
 る歴史物語としての性質、そして残りの一つが、諸外国に向けた外交宣言としての性質
 です。憲法は、日本が、国際秩序の中でどう行動するつもりなのか、国際秩序にどう貢
 献するつもりなのかということを示す宣言です。しかし、現在の日本政府の言い分から
 は、このような外交的な姿勢がまったく見えてきません。
・どうしてこの政権は自国の利益ではなく、どうすれば世界がよくなるかという見方、つ
 まり国際的な公共価値という視点がもてないのだろうと残念に思います。安全保障は国
 際的な視野がなければ実現しませんから、単純に日本の利益だけを追求していてはいけ
 ないはずです。国際社会が安定すれば、結果として日本にもメリットになる。
・何をやったら世界の平和に貢献できるのかは、いろいろな考え方があると思います。集
 団的自衛権の行使が世界平和をもたらすのか、それとも、非軍事的な協力として、井戸
 の設置や医師の派遣、農業技術の協力などをしたほうがいいのか。日本ならではの国際
 協力の道を探すのが国際社会にとっても、日本にとってもよいのではないかと感じてい
 ます。軍事的な協力はひどい遺恨が生じるので、長い目で見れば紛争解決にならないの
 ではないかと思うからです。  
・本来であれば、集団的自衛権の議論は、国際公共価値を出発点にすべきです。それなの
 に、安倍首相は「外国に住んでいる日本人の赤ちゃんが」という話を持ち出してきてし
 まう。自分の国を守るために集団的自衛権を行使するというのは、すごく利己的で、倫
 理的価値を貶めることにしかならないんです。
・憲法九条の弱点は、理念としてはよく見えるけど、現代の国際社会のなかで考えると、
 一国平和主義みたいに見えてしまうところにあると思っています。本来だったら、憲法
 九条のねらっているところは、グローバルな平和に貢献することなのに、たとえ戦争が
 起きても自分たちは何もできませんということになり、自分勝手に見えてしまう。そこ
 が、憲法九条を擁護する側のアキレス腱になっているわけです。憲法九条を利己的な態
 度の正当化に使うのではなく、逆に、日本なりの国際貢献のための最大の切り札として
 使えるし、また使うべきだと思っています。
・あえて百歩譲って、憲法九条が一国平和主義だという言い分に前提にしてしましょう。
 だとすると、この一国平和主義に反対したい人は、国際公共価値を前面に出すべきです。
 こういう国際公共価値があり、そのためには集団的自衛権が必要だ、という議論を立て
 るべきです。ところが、実際に自民党が提案しているのは、国際公共価値の代わりに国
 益を置くこと。結果として、憲法九条よりも、もっとはるかにあからさまに自己中心的
 なやり方です。つまり、自分がすごく危ない時には友だちと一緒に戦い、自分がさして
 危なくないときは友だちを助けずに、自分は引いているということを、言い募っている。
 これは根本的に転倒しています。
・アメリカは自分の国の存立が脅かされていないのに、日本が攻撃されたときはわざわざ
 助けてくれるというお約束をしているわけです。そして、そのお約束を果たしやすいよ
 うにということで、日本の領土の中にアメリカの軍隊も置いている。ただ、もともとの
 話は、日本が基地を提供する負担を負うことと引き換えに、ということです。しかもそ
 れは生半可ではない負担でしょう。だから当初は「とんとん」というところでした。
 ところが今回の議論を見ていると、アメリカに申し訳ないので集団的自衛権を行使する
 という話にしかなっていない。あれだけの規模で代替不能な貢献をしているということ
 を、完全に忘却して議論しているところがあるように感じます。
・アメリカは、少なくとも主観的な理解としては、自分たちは東アジアお安定という国際
 公共価値のために集団的自衛権を行使すると決めているわけです。もちろん、日本にあ
 る米軍に関しては、そんなきれいごとではなく、アメリカは自分の利益のために東アジ
 アの軍事活動の可能性も考えているんだ、という議論もあるでしょう。しかし、アメリ
 カは、自国の死活的に危ないというようなところまでいかなくても、場合によっては、
 東アジアや日本の周辺で軍事的に行動する可能性があるわけです。少なくとも、日本側
 としてはそういう期待をもっているからこそ、アメリカの軍隊を常駐させている。
・ということは、国際公共価値が何であり、そのために何をやるかは、アメリカが考える
 ことになっているのです。アメリカが軍事的な行動に出るか出ないかの基準は、自国が
 危ないかどうかではない。自分たちが行動しないと国際公共価値が激しく損なわれるか
 どうかにある。となると、アメリカとしては、自分たちの行動を正当化するためにも、
 国際公共価値について考えないわけにはいかない。
・いちばん重要な国際公共価値についての判断は、全部、アメリカに丸投げしています。
 守るべき国際公共価値は何であれ、それがいま、どのくらい危機的なのかということは、
 アメリカに考えてもらう。結局、日本は、いちばん肝心な問題だけは自分では考えずに、
 どちらでもいいことだけをいろいろ議論することになります。
・賛成派は、アメリカに見捨てられたら日本はやっていけないから、アメリカの51番目
 の州として認めてもらうために、集団的自衛権を持とうという。それに対して反対派は、
 集団的自衛権を認めたら戦争に巻き込まれるからだめだという。激しく対立しているよ
 うでいて、いずれの議論も利己的である点は同じです。どちらも国際公共価値には目を
 向けていないわけです。   
・諸外国の憲法には、行政や外交と並んで軍事についての規定があり、軍事権を行使する
 場合には議会の承認をとりなさいなどといった、行使のための手続きも書いてる。これ
 に対して日本国憲法は、軍事に関する規定がカテゴリカルに排除されているのだから、
 「軍事権の範疇である集団的自衛権は、現行憲法の下では行使できない」というのは、
 至極真っ当な解釈です。もし集団的自衛権を行使できるようにしたいのであれば、日本
 が海外で軍事権を行使しようと考えたときに、どういう手続きでその是非を判断するか
 を憲法に書かないといけない。 
・もともと多くの日本人にとって、憲法九条の核になっていたのは、新しい世界の理念を
 つくるということです。戦争に負けたことを教訓にして、われわれは憲法九条をあえて
 選ぶ。だからこそ、九条を守ることに意味があるわけです。
・日本はアメリカに戦争で負けたわけですが、しかし、「国体」を守ったということにな
 っている。国体は護持されたというのが、敗戦後の公式の見解です。それなのに、いま
 や、「国体」などという人はいません。靖国に参拝するような人でさえも、「国体」と
 いう語は使わない。われわれは「それ」をいちばんの宝物として守ったのだから、いま
 でもあるはずではないか。しかし、いまや「国体」は死語になっている。国体は多分、
 蒸発してしまったのです。
・もともと、国体は、何となく天皇制と結びついているということ以外は、ほとんど定義
 できない空虚な表象だったわけですから、それは何とでも解釈できるような余地をもっ
 ていた。かつての国体の「天皇」の位置に「アメリカ」を代入したのが戦後護持した国
 体だったのです。しかし、アメリカは他国ですから、それはもはやどう見たって国体で
 はない。国体の自己否定です。守ったはずの国体が、あっという間に萎んでしまい、壊
 死してしまったのは、このためだと思います。  
・アメリカについていけば日本は安全だという想定が日本側にあったと話しましたが、そ
 んな想定に現実味があったのは冷戦があったからです。冷戦が終わり、そして中国が台
 頭してきただけで、日米関係は大きく変質しようとしている。今後も、いままでのよう
 な日米関係が永続するという想定こそ非現実的です。アメリカとの関係をも固定したう
 えで、憲法を改釈したり、改正したりするなんて、愚の骨頂です。
・最初はアメリカに負けたのだから、アメリカのいうことを聞いて、死んだふりをするし
 かなかった。ところがそんなことを続けているうちに、本当に死んでしまったような状
 態になっている。 

議論なき議会と「空気」の支配
・集団的自衛権をめぐる一連の議論を見ていて、議会が機能していないと感じた人も多か
 ったのではないでしょうか。まず政権の側が、自分とは違う立場の人を完全に無視して
 いるように見えたという側面があったと思います。たとえば安保法制懇は、集団的自衛
 権行使に反対する人々を排除していたので、公正な議論の場としてはほとんど意味のな
 いものになってしまいました。あるいは、内閣法制局長官やNHK経営委員会の人事で
 も、自分と同じ意見の人ばかりをあからさまに登用しているのではないかと。また、い
 わゆる「安倍問答」と揶揄されるような、何を聞かれても定型句で長々と答えるような
 首相答弁に、議会制の危機を見た人も多かったはずです。
 ユダヤ人は、全員一致というものを極度に疑う。本来、神以外の者が正しい判断にいた
 るはずがないので、全員一致になっているということは、集団的狂騒状態における判断
 ではないかと疑われるのでしょう。つまり人間的な状況の中で、全員一致などというこ
 とがほとんど成り立つはずがない。だがら、原則的には、全員一致というのは、非常に
 強い疑惑の目で見られるのだ。
・でも、日本社会というのは、意思決定は原則的には全員一致なんです。全員一致原則と
 いうのは、全員が拒否権を持っているのと同じです。ですから、うっかり反対意見を言
 うと、議論がすべて白紙に戻る可能性がある。ですからよほどの覚悟がない限り、自分
 は内心違うと思っても、そうは言わないのが基本です。
・日本では、みんなが参加している活動を否定したり、批判的な政治的意見を口にした
 りすると、それが相手への人格非難として受け取られてしまうのではないかと恐れてい
 るのです。だから、「その活動に意味がないのではいか」と問えない。ここには拒否権
 の発動が、非常に重たいこととして受け止められているという感覚があるように思いま
 す。
・日本人的な空気の共同体では、受け入れるということが、その人の存在を認めることに
 なっているんですね。だから反対するんだったら、その共同体の外に出るしかなくなっ
 てしまう。しかし、それは民主主義のあり方として、とてもおかしい。人はみなまった
 く違う個性・価値観を持っているのだから、個性を大事にしようとすれば、意見が合わ
 ないも当然です。それでもなお、互を排除せず、社会として包摂するために議論をし
 ていかなければならないはずです。 
・代表制がうまく機能するためには、それこそ公共的な価値に目を向けなければいけませ
 ん。それがないから、議論対立がそのまま相互への人格非難だと感じでしまうのではな
 いかと思います。自分の好き・嫌いはひとまず距離を置いて、どういう制度であればよ
 り公共的な価値が実現できるかを考えていくという前提がなければ、議論は個人的な価
 値観のぶつかり合いになってしまう。そのような状態では、議論すればするほど対立が
 激化し、集合的な意思決定などできなくなります。公共的な価値を前提にしないまま、
 強引に意思決定をしようとすれば、対立のない世界をつくり、議論したぐりをするしか
 ないでしょう。これでは、議会と国民の実感との間にギャップが生じるものも当然です。
・日本人は、北朝鮮をそれこそ類型化しつつ、バカにしているところがある。まったくひ
 どい体制だ、と。中国に関しては、北朝鮮ほどでなないが、しかし、やはり「こんな困
 った中国人」ふうに類型化して、差別している。しかし、そこに、自分自身の、つまり
 日本人自身の姿を見るべきです。  
・20世紀の末期に東ヨーロッパ諸国が民主かできたのは、特に東ドイツが民主化できた
 のは、西側諸国が、特に西ドイツがそれを支援したからです。そうした支援なしに、何
 十年も続いた社会主義体制が短期には崩壊しない。私たち日本人は、自分の周囲の十分
 に民主化されていない国を類型化し、どこか蔑視していますが、むしろ、蔑視されるべ
 きは、その国の民主化を誘発できない自分自身だということに気付かないといけない。
・たしかに、北朝鮮は変な国かもしれない。しかし、そんな変な国がかくも長続きする原
 因の一つは、日本を含む周辺国の対応の仕方にある。とすれば、北朝鮮が変だ、という
 私たちの見方は、私たち自身に跳ね返ってくる
  
憲法を私たちのものにするために
・日本人のうちかなりの人が、少なくともある時期まで、憲法九条を美しい理念だと思っ
 ていた。それが最近では、一国平和主義の象徴みたいに言われているわけです。なぜ
 九条が美しい理念に見えたかというと、その目指すところがカントの永遠平和のように
 感じられたからです。全世界が憲法九条を持っていれば、永遠平和は実現する。しかし、
 自分だけしか持っていない状態は危ないと思うから、憲法九条を持ちながら、同時に日
 米同盟を結んだ。しかし、これは、明らかに妥協の産物であって、本来憲法が目指して
 いたものとは異なるわけですから、暫定的な移行措置だということを忘れてはならない。
 日米の友好関係は今後もずっと必要でしょうが、軍事同盟的な関係は永続すると考えて
 はならない。
・世界中の主権国家が憲法九条に相当するものを持つしかないのです。もしその段階まで
 人類が生存し、繁栄しているのならば、それは、憲法九条が世界化したときに限られる。
 何しろ、われわれはすでに、もし使ったらほとんどの人類破滅にまでいたるような武器
 を持っているのですから、生存を至上の目標とするならば、そもそもの武器は使用でき
 ない。つまり、もう人類は、本格的な戦争はできない世界に突入している。
・憲法九条は、アナクロニズムだと批判する人がいます。しかし、それが、アナクロニズ
 ム、時代錯誤だとすれば、時代遅れという意味でアナクロニズムなのではなく、逆に、 
 時代を先取りしているという意味でアナクロニズムなのだと思う。九条を含む憲法を持
 ち、大切にしてきたときに、そもそも私たちはどんな世界を目指していたのか。その理
 念を手放すべきではないと思う。
・憲法は、もちろん、日本の法律ですから、日本政府や日本人についての法です。この点
 では、他の法律と変わらない。しかし、同時に、憲法というものは、普遍的な妥当性を
 目指さなくてはならない。日本人にとってこれが都合がよいから、という理由だけでは
 だめで、人類にとって、現在の人類だけではなく未来の人類も含む人類にとって、これ
 が正しいというスタンスで、憲法は提起されなくてはならないわけです。
・日本人は、憲法を自分のもの、自分の憲法とは思えていないような気がします。憲法は、
 自分たちとは疎遠なところで誰かが決め、誰かに与えられるもののように感じている。
 日本人は、まず、憲法を自分のものにする必要がある。そのためには国民投票が最も有
 効です。